ながい介護のあいだに、それは多くのことを姑(はは)は話して
くれました。嫁に話しているとも意識しない言葉が混じらなかった
とは言えません。その意味では母が末期の独り言ともいえましょうか。
聞き取ったいろんな断片を継ぎ接ぎしてみました。
建日子(たけひこ)の生まれたところで、きりをつけました。
容易ならぬもっと他の多くがあった筈ですが、母の触れなかった
ところは触れたくなかったところかと、付け加えたりはしていません。
建日子満一歳 昭和四十四年正月 保谷社宅で
湖(うみ)の本 42 『丹波・蛇』1999.11所収 参考作品
い
ややわ、みな、学校へ行かはるやんか、入学式の日ぃも、お母はんも一緒に、ざわざわと通らはるし、お家(いえ)にいたかてすぐに分かったわ。女学校(京都
府一)はすぐそこやし、私(あて)は見たいこともないのに、誰が行かはるのかどうでも見えてしまう。ついこの間迄おんなじ教室にいたんや、わたしは優等
生、で、あの人ら大(たい)してできたわけやあらへん。そやのに女学校へ行かはる。見るのもいややのに、つい見てしまう、そんなとこ見られたらよけいいや
や、隠れな、奥へ、誰にも見られてへん、と思ううちにも涙があふれて、なんで涙ばっかり毎日毎日出るんや、あぁ、あても行きたい。あてかて、親が行かすて
言うてくれはったらすんなりと上に行けたんや。泣いて頼んだのに。何遍も頼んだのに。先生(せんせ)かて「おうちへ尋(たん)ねて行ってお願いしてあげま
しょうか」て、言うてくれはったけど、わたしは断った。どうせあかんわ。そう思た。
離れのお婆はん(祖母)ら、いつもは、なぁんもせんといて、出てきはると偉そうに一番に口をきかはる。
お父はんは大人しいもんや、主人やおへんか、しゃんしゃん言わはったらええのに。大体お婆はんに息子(こぉ)の無かったんがいかんのや。お父はん田舎から
の婿養子やし、おとなしい一方で、お酒が入らな、何(なン)にもよう言わはらへん。
「お兄ちゃんの瀧さん(瀧之助)かて中学は諦めて働きに出てますやないか、ましておタカは、あんたは、
女(おなご)やないか。それに、ひ弱いよってなぁ」
いややわ、私(あて)は細いだけや、学校へ行くのにどうていう事あらへん。
お母ちゃんは十人も産んで、くしゃくしゃにならはって、見られへん。そないなるまで産まんでもええん
や、あてはその末っ子でひょろりとしてて、それだけやないか。けど、瀧兄さんを引き合いに出されるとなんにも言えへんし。瀧さんも中学校行きたかったんや
ろか。行きたい、あきまへん、行きたい、辛抱しなはれ、そんな事あったんやろか、瀧兄さんの奉公先にまでそんなこと聞きに行けへんしなぁ。
兄ちゃんは、あてがついて歩いても嫌な顔しはらへんかったし、二人でよう御所(京都御所)まで遊びに
行ったなあ。生垣の隙間をくぐって御所へ、草摘みによう行きましたわ。楓、山椒、椿なんかは実生(みしょう)のかわいらしい芽ぇがいっぱい、そこここに顔
出してて、抜いても取っても誰がおこらはるいうこともなし、自分のもんにできた。そんなお遊びはいつもお兄ちゃんと一緒やったなあ。どこに親木があるて分
からへんのに、小さい小さい八つ手や棕梠のはえてることもあって、「鳥が種を撒く」てお兄ちゃんが言わはった。「うんこと一緒に落とすからこやしになんね
ん」て。おかしいわぁ、うんこやて、うんこ、笑(わろ)た笑た、おかしかったなぁ。
学校も私(あて)は好きやった。読むのんが大好き、新聞でも雑誌でも手当たり次第、どんどん字ぃを覚え
るのも自慢やったし、絵はかなんかったけど、お習字はよう褒められて、わたしだけ先生に呼ばれてどこそこの展覧会に「出しましょう、書いていらっしゃい」
て言われた、かなんわぁ、いつも私(あて)だけやし。それで私(あて)は優等生、お式に私(あて)より前に名ぁ呼ばれるのはいつも一人だけ。男の子やし、
ま、しゃあないわね。そやし先生は私(あて)が府一に行くもんやと思てはったらしいの。親はなんも言うていかへんし、先生の方から尋(たん)ねはった。そ
して「先生(わたし)が頼んであげましょうか」て。先生が家(うち)まで来てくれてはったら、ひょっとして? そんなこと。あてにも無理とわかってまし
た。昔は御所にもお出入りを許された道具屋で、おっとりと商いも成ってたらしいけれど、天皇さんら東京へお移りやすししてからは、それまでのようには行か
んようになったらしい。分家は寺町(てらまち)にお店を出して、「どなたはんでもどうぞ」式のお商売に変えはって、成功した言うのんかいな、お使いに行か
されても、活気があって明るい。何でもあてに気楽に尋(たん)ねたりしはって、それが、かなん。私(あて)は分家へ行くのいややし、用だけすませたらいっ
つも走って帰って来(く)んね。
だんだん零落して、この育った家もいずれ他人手(ひとで)に渡るらしいし、十人の姉弟やいうて、すず姉
さんより上の姉さんら私(あて)はよう知らん。この間もちょっとほたえていたら、怖い顔した女の人が無遠慮にずかずかあがってきやはって、「静かにしなは
れ」て叱られた。一番上の姉さんやて。何や知らん商い先へ用向きで出て、ついでにちょっと里に寄らはったんやとか、あてのこと「末っ子やいうてあまやかし
なはんな」やて、どっちが親かいうような威張った口親にきかはって、「いつまで遊ばしとかはるんです」て。私(あて)はさっさと奥へかくれて、あっかん
べぇしてやった。五つになるまでお母ちゃんのお乳さぐっていたて、よう言われたわ、覚えているような気もするし、案外あまえたやろか、やっぱり。結局、ど
こぞへ行儀見習いにいうこともなく、お針のお稽古に通うことにきまった、けど、だれぞと顔をあわすことにならへんやろか、いややわ。「府一ぃ行かはったと
思うてましたんよ」みたいなこと言うひとはおらへんやろか、かなんな。ふてくされていたら、すず姉さんが映画につれてくれはった。なにも連れて行ってて無
理言うたんとちがうえ。すず姉さんが「行こう行こう」て無理無理連れてくれはったんや、それからまた、すず姉さんが「お父はんの里へ行こう」て言い出さ
はった。どんな所(とこ)や行って見よう、て。けど田舎の人はうるさいていうし、つまりなんやかや遠慮のう聞いてきはる、と言うことやし、じろじろ見られ
るのも、私(あて)はそんなんかなんし、て言うて、とうとう行かへなんだ。そうこうするうち、すず姉さんはあっけのう死んでしまわはった。胸が弱かったん
やて。おとなしい姉さんで誰といさかうわけやなく、雑誌を見せてくれはったり、リボンや端裂れをくれはったり、おじゃみも一緒につくった、あれはお母ちゃ
んやのうて、すず姉さんやった、優しかったんはすず姉さん。そやのに二十歳(はたち)にも成るや成らずで。そして、あては、親元に一人だけ残ったん。
裁縫は上手の評判がたつほどになった。どうていうことはあらへん、慣れやわ。一つ
ことを何年もしてたら、そら上手にもなりまッしょう。いくら嫁入り前の娘でもそうそうわが物ばっかりも縫うておれず、他人様(ひとさん)のもんも頼まれれ
ば手伝いましたけど、どういうつて(二字に傍点)やろか、舞子はんのもんまで頼まれました、着た具合がええて言わはって。私(わたし)もそない褒めてもう
たらまんざらでなし、親も自慢にしはるし、お父ちゃんは相変わらず無口で、お酒を飲んだ時だけ乱暴な口をきかはっても、ぐちでしかないし、みんな慣れこ
で、穏やかに日が移っていたのに、また例のいちばん上の姉さんや、「おタカをいつまで遊ばしとかはんの、瀧さんの縁談にさわるやないの。瀧さんもう三十ち
がいますか、昔の格やったら小姑の一人二人平気かもしれまへんけど、もううちかて働き人(ど)やて覚悟せな。瀧さんに縁談があったかて、来てもらいやすい
ようにしてやらな、まとまるもんも纏まらん事になるのんとちがいますか、わたしも心掛けてますし、お母はんもその気ぃになってもらわんと」と、言いたいだ
け言うて姉さんは帰らはったけど、お母ちゃん私(あて)はいやどすぇ、いやや、いつまでもうちに置いてぇな、お母ちゃん! そやけど「瀧さんのためや、瀧
さんのためや」て、皆で責めはる、お母ちゃんなんとか言うて。私(あて)はいやや言うてるのえ…。
見合いの日ぃは、神社の参道の脇の床几に男はん二人して腰掛けてはって、羽織り袴、きちっと胸そらし
て、どっちかいうたらお舅さんの方が格好良かった、という気がしたような、あてはその前を、ただそろそろと歩いただけで、見るていうほど見られるもんでな
し、ほんのちょっと、ちら、と。それだけや。
けっこうどす、と話はすすんで、私は嫌(いや)やったのに、瀧さんのためや言われて我(が)ぁがとおせ
ますか。それにお母ちゃんや。あてが可愛いのやったら家(うち)においてくれはったらええやないか、なんの味方もしてくれんとからに、あぁいややわ、あん
なくしゃくしゃになるまで子を産んどいて、最後の子ぉくらいもっと可愛がってえな。恨みますえ。私(あて)がきらいなんやね、あの人は。
一通りと、こさえてくれはった道具も、昔風で、ずず黒うて好かん。もちっと今今のが欲しかったえ。女と
して、嫁いでやっと一人前なら、これでも仕方(しょう)ないかと思うもんの、いやもぅ、嫁(い)った先のお家(いえ)の、ま、狭いこと汚いこと。お姑はん
が死んでおいやさへんで気苦労がなかろう、て言う人もいたけんど、お母(か)はんが無(の)うて手がまわらんのを、どだい越えてましたわ。
お餅をついてお煎餅(せんべ)にして芝居小屋に卸してはる、それが為に一階は土間で、流し。竃に、大き
な臼、醤油の甕、もろぶたなんぞで、もう、いっぱい。あとで聞いた事やけど、先代とやらが天理教(てんりんサン)に夢中にならはって、裸同様で水口(みな
くち=滋賀県)から出て来はったんやそうな、その貧乏のなかからお舅さんがここまで二人のお子もそだてはったいう事で、それにしても狭いこと狭いこと。さ
すがに此処では無理いうことなんやろか、知恩院(ちおいん)の新門前(しんもんぜん)に借家を借りといてくれはった、ほっとしましたな。二度とかなんと思
たわ、あの最初の縄手のお家(いえ)は。
そいで(その借家へ)行ってみたら、どういうことなん。小姑が一緒やて。もう住んではるんですて。
ヘッ。それもそやけど、そのつる(鶴=夫長治郎の妹)さんと二人して、待てど暮らせど肝心のその人はどこへ行かはったことやら、ぷいと出たまんま。今日祝
言を挙げたばっかりというのに、どういう人なんやろうか、何を考えてはるのやろ、どんな事情があるんやろか。黙って、押し黙ってはったつるさんが突然「や
すみますわ」て言うなり二階へあがって行かはった。男はんの遊びや、浮気は甲斐性やくらいのことは、なんぼ私(あて)かて知ってます、けど今日は祝言をあ
げたその日やないか、なんぼなんでも。わたしはどうしたらええの? お布団はひいとくもんやろな、どっちむいて? うろうろしてても一向に眠(ねむ)なら
へん、ただ何(なん)でや知らん恥ずかしい、そして悔しい、私は何の為にここにいるんやろか、これも瀧さんのためか? お母ちゃん答えてほしいわ。こんな
恥かかされて、お母ちゃんのせいやな、無理無理しとうもない結婚ささはって、そやけどもう後戻りの仕様がない。逃げ帰るてなみっともない事も出来ひんし。
朝になってつるさんは兄さんを連れて帰ってきはった。二人とも何も言わはらへん、まるで何もなかったみ
たいに、こうして嫁ぎ先での暮らしが始まったん。それからずっと、わたしには賄いのお金を、始末に(きちきちいっぱいに)使うても一週間か十日ですっかり
無(の)うなる程だけ預けはって、あとは何(なーん)も言わず、相談せず、断らず、何をしはるのやら、何処へ行かはるのやら、尋ねてもうるさそうにしはる
だけで、重ねて聞くと横からおつるさんが「よろしいやないの」と間に入ってきはる。つるさんはもう今にも嫁がはるいうことやったのに、どんな話が進んでい
るいう様子もないまま、縄手(の親の家)まで時分どきになるとお父さんの為の食事を運んではったのも初めのうちだけで、そのうちそのお舅さんもてっきり
こっちへ移ってきやはった。
つるさんは私(あて)のすることなすこと見てはって、お豆腐(とふ)はナ、掌(てぇ)の上で手早うに切
るもんや、て言わはる。あとはのみこんではるけど、そんなことも知らんのか、と、耳のうちに聞こえるがな。「おつう、おつう」て、あてにされ便利にされ
て、ハテいつ嫁がはんのやろか。私は背(せい)も高うてきりっと細身やし、上の姉さんかて「タカちゃん様子がよろし」くらいなお世辞は言うてくれはったも
んやけど、おつるさんいうたら、ぽちゃっとした、色は白いいうても「おたやん」みたいな「おへちゃ」は隠せへんわな、どうしようもない。
それでもぽつり、ぽつりと縁談はあって、歯医者はんとの折りはええ話や思て私(あて)がちょっと先に聞
きに出たら、「出しゃばった」言うてえらい皆しておこらはって、惜しいと思たけどなぁ結局は流れてしもた。それにおつるさんは、いよいよというとどうでも
手ぇがおいど(お尻=後ろ=気後れ)へまわって、用心深いんか、気が小さいんか、先に嫁がはったお連れ(お友達)と比べはるんか、それも「ええし」(いい
家の友達)と比べてたらどだい無理やわ。兄思いは徹底してはって一から十迄かばわはるし、しっかりしといやすさけ、「お鶴(つ)こが男やったらな」とお父
さんも頼りにしてはる風で、嫁にやりたいいう気がそもそも強うない。行かず後家ではかわいそやいう心配も無いみたいやし。
里では瀧さんが程なく祝言をあげはって、兄嫁さんは二重瞼(ふたえまぶた)の大きい目をしたおとなしい
ひとで、早速息子(こお)ができて、まあその可愛いこというたら、抱かしてもろたらもうそのまま連れて帰りたいほどや、可愛い可愛いいうてたら写真をくれ
はった。綿入れのちゃんちゃんこもお揃いで着せてある。その子ぉが、可哀そうにあんよするかせんかで亡くなってしもて、わたしはというと、瀧さんより先に
結婚してんのに、まだ子がない。そのうち一向に子のできる気配の無いのが気掛かりで、私(あて)としては一大決心でお医者に診てもろうたら、後屈ですて。
「出来にくいけど出来ないのとは違うから」言うてくれはったけど、さてどれ程のあてになるんやろう、ところがお医者に行ってたんを見てはった人がいて、お
つるさんに言わはったんやね、お蔭でわたしはまた皆に叱られた、「なんでよけいなことするんや」て。だれ一人わたしのことを案じる一言も無うて、銭かねの
ことだけ、「無駄遣いすな」て、そればっかり。「出来たら出来た時のこと、出来へんかてしゃあないやないか、なってみな分からんわい、そんなこと」言う
て、そーら叱られた。おつるさんが早速告げ口しゃはったんやわね。
おつるさんはお茶やお花のお稽古を、はなから、それで身ぃたてる気ぃで気張らはって、この新門前の借家
かて弟子をとるのに必要で借らはったんが、嫁のあてに入り込まれた、くらいの気で、いはる。
うちの人は錺職(かざりしょく)の手ぇも上がった言うて、まぁ兵隊にも行ってたんで齢(とし)もそこそ
こやし、弟子奉公の年期も踏み倒さんばかり、無理無理店を出したもんの世間は段々に不景気で、事変やらなんやらと、きな臭うもなってきたりで、もうこれは
珊瑚や翡翠の時代や無いと、珍しいこといきらはって、ラヂオの勉強を始めはった。これは熱心で、理科や数学の教科書、帳面を揃えて熱中して、とうとう京都
では一番最初の認定証を貰わはって「ハタラヂオ」の看板をあげはった。あてには、商売モンの結構な翡翠をはじめ真珠やオパールの指輪や珊瑚の帯留なんかが
残りましてん、お蔭さんで。意外やったのはおつるさん。小さな小さなルビーの入った指輪一つで、ほかにも欲しいと言うてはるようでもないのやわ、お茶のお
稽古に指輪とか装身具はいかんのやったんやろな、きっと。お稽古にを気を入れてはる本気が感じられましたわ。
ラヂオの仕事は、店でラヂオを売るだけでのうて電熱器や電球、ソケットなんぞも扱うたり、修理修繕もす
る一方、拡声器の取り付け、マイクロホンの設置、配線など、出入り先もこれ迄の花街(いろまち=祇園町)から警察、学校とまるで様変わりして。仕事が性に
合(お)おたんか、よう働かはって、外面(そとづら)も如才無うて信用がついたんやわね、で、養子はどうえいうお話が降って沸いたん。有済校の教頭さんか
ら。
お子は府ぅの視学さんのお孫さんやて。どんな訳があるんやろか。で、こればかりは私(あて)にも先ず
「貰い子はどうや」と尋(たん)ねてきはった。生まれて間もなく親から離されてる子ぉやて。養子先を探すもんの、あんまり小さいし、手がかかると引き取り
てが見付からんで、お祖父さんお祖母さんが育ててきはって、もう四つとか五つとか、男の子やし、家柄なんぞは結構といえばそれは結構なことで、是非にとい
う程の決心もつきかねたまま、なにはともあれその子を見に行くこっちゃねと結論が出ましたんや。うちのお舅(とう)さんも一緒に、子ぉには木で出来た飛行
機を手土産にして南山城の当尾(とうの)まで出むいたんどすのや。
山里の、見るからに大庄屋の構えを持った家で、その子は茶色の犬と元気そうに遊んでました、「お父ちゃ
ん、お母ちゃんやで」と紹介されて、用意の飛行機をぶーんぶーんとふりまわして見せて、今日はこの辺で、という時に、お婆はんかいな、ほん気楽な声して、
「お母ちゃんと京都へ行てみはるか」て水向けはりましてん、そしたら何や機嫌ようころころと犬ころみたいについてきてからに、そんな気ぃはこっちには無
かったんやけど成り行きで、バスに乗るいうて喜び、電車に乗るいうて喜び、電車に乗りあわせた女学生らが可愛い可愛いいうて、ほなこの子も臆せんとうけ答
えして、まあ気散じなやりよい子ぉやな、と思いましたな。家へ帰ったら帰ったで、小さな池に金魚がいるいうてはしゃいで。
その明くる日やわ、風呂敷包みにこの子の当座の着替えを入れて、お婆はんちゅうのが訪(たん)ねて来
はった。「よろしゅう」て。えらいことや。そやけどこの子はついて帰(い)ぬとも言わへんし、「お婆ちゃんが帰らはるよ」とみなが言うても泣きもせえへ
ん。渡りに船と捨てていかはったようで、泣いて追わんのも妙に哀れで、なんやいな、ほんまの親やと思てるんやろか。時々わたしに、「奈良へいたまんもん買
いに行きましょ」と言いにくるのん。あの山里では奈良まで買い出しにいかはるんやろか、話では生んだ母親がこの子の行方を探しているとか、しばらくは替え
名をつこうたほうがええ、宏一(ひろかず)ときめて、おつるさんも可愛がること、お花のお弟子さんらとの遠足やら親睦会にも連れ歩いて。それにしても探す
ほどならなんで手放すかなあ、母親は、折角の息子(こお)を。お正月、箸紙に宏一と書いて、「坊(ぼん)の名ぁやで」と前へ置いてやったら、なんやらしげ
しげと、読めるわけでもないやろに、分別顔がおかしいような可愛い様子で、こうして知恵がついていくんやろか、「坊(ぼん)、おめでとうさん、坊はいくつ
になったんえ、ほな早いこと幼稚園行かななぁ」て、おつるさんの遠慮のない嬉しそうな声、いややわぁ、この人自分が貰ろたような気ぃでいはるやないか。話
は幼稚園はどこがええやろかというほうへ移っていって、「幼稚園てなもん行かんでええんや、贅沢な」という男の声かていつにのう和気藹々や。私(あて)の
生んだ息子やったらなぁ。ええのになあ。
幼稚園(本願寺系の京都幼稚園、馬町)は帽子と白い大きなエプロン、その胸に名前を書いたハンカチを安
全ピンでとめるのが決まりで、入園式には小さなお数珠(じゅず)が渡されてこれは毎日忘れんように、て。誰もが行くわけでない幼稚園へ一年間とはいえ、
やっぱりこの子の里への見栄かぃなと思わんでもなかったけれど、私(あて)よりずっと若いおおかたのお母はん方にまじって、入園式や遠足やと気ぃの張るこ
と、それに気ぃのよう晴れますことは。そやのに肝心の坊(ぼん)は、毎朝のように、「いややいやや」と電信柱にしがみつくやら泣くやら、男の子やないか、
しがんだゃ言われまっせ、て、叱ったり励ましたり声を荒げたりしながらも、私(あて)のそばで一日おるのがええんかいな、甘えてるんやな、と満更悪い気ぃ
もせえへんし。
そんな時分やったかいな、そんなとこへ、えらいことが起こった。突然お巡りさんが家へ来ゃはって、おじ
いさんを預かってる、これこれいう名ぁやが、「おうちのお父さんですな」て言わはる。たまたまおつるさんが家にいて、早速引取りに、着替えも要るいうので
警察へ駆けて行かはる、一方私(あて)にはおじいさんのお茶碗を出して見せぇて言わはる、なんのこっちゃね。手にとって、「ふん。ほな皆さんのんも出し
て。家族は何人」やて、けったいなこと尋(たん)ねはんのえ。お茶碗並べさしといて言わはる事に、「おじいさんは疏水(そすい)へ飛び込まはったんや」
て。なんでぇな、と思いますやンか。そいで家族が、嫁のわたしがえ、年寄りをいじめてぇへんか、御飯、ろくに食べささへんのとちがうかて疑わはったんや
わ。あの時節は段々に食料もナンやしな。たしのうなってたしな。男二人の大きな茶碗並べて見はって、「こんならええわ。ほなよう気ぃつけるように」て、お
巡りさん帰って行かはった。びっくりしたわぁ、もう。おじいさんがなんでそんな事おしやしたんか、警察で何をお言やしたんか、なぁんも知れへん、気色わる
い事(こッ)ちゃった。そやけど私(あて)のせいやない、あてはなんも知りまへんえ。足を滑らさはっただけと違うんかいな、大袈裟な。
戦争は、配給や灯火管制や警戒警報、空襲警報や言うて、そのつどウチの人は警察へ
走って手伝いをせんならん。なんたら書いてある腕章をして拡声器なんぞ担いで、そうこうするうち、いよいようちでも何処ぞへ疎開ということになった。どだ
い田舎に縁は無いんやけど、小学生は、アちごた国民学校いいましたな、その生徒は強制してでも集団疎開さすちゅうことやし、うちは、おじいさんもこの戦時
に足手纏いかと、ご近所の細いツテを頼りに丹波の奥へ行こかとなった。あげくトラックが珍しいて集まってくる子供らに道を尋(たん)ね尋ね、何年も人の住
んだ気配のないぼろ家(や)に辿り着いたん。
おつるさんは結局なんのかんのと理屈つけて丹波へは来はらへん。内の人も一晩かそこらで京都へ帰ってい
かはると、なんやすうすうするような頼りないような、しかし気楽な、ほんで不便な田舎ぐらしですわ、とにもかくにも村役場ひとつへ行くにも山を越えんなら
んほど遠かった。国民学校へ上がる時には、さすがに通称ではいけません言われて、坊(ぼん)も恒平と本名に戻しましたけれど、ま、どうと言うことも無う過
ぎて、ましてこんな田舎に隠れてしまえば生みの母親にもみつかりゃせんやろ、安心かいな、と。
私(あて)は土いじりは小さいから好きやし、木も草もさてどんな花が咲くのやしらん、と楽しみでこそあ
れ、うっとしい筈がない。新門前の家(うち)のちっちゃな坪庭では、陽が欲しいんやろな、ひょろっと背伸びしてしか育たん草木とちごて、ここらの草はむん
むんと色も匂いも濃い。男手が徴兵されてるせいか、田んぼかて貸してくれはるというので、夫婦して見様見真似で田植えをしたけど、さ、どう植える、どう苗
を並べるでウチの人と意見があわず怒鳴りあいや。はたの人はあきれてはったやろけど、うちらにしたら気晴らしみたいなもんやわ、他愛ない事に大声出すのは
な。
この疎開中はウチの人、京都の家から自転車で手に入った食べ物などまめに運んでくれはった。山道ではパ
ンクもするし、よう頑張らはったわねぇ。ところがお舅(とう)さんはとうとう退屈に負けて、京都へいなはった。それとも虫が知らせたんやろか間もなく倒れ
はって、敗戦の年があけてえらい時節に死なはった。おつるさんがずっと見てはって、恒平と一緒に呼ばれて戻った時はもうあかなんだ。お葬式だしたあとまた
山へ戻って、いよいよ丹波を引き払(はろ)たんは恒平が腎臓の病気になった時で、これは様子がただごとやないと感じて無理無理引き摺るように京都まで連れ
て帰って、そのまま入院というか、松原(まつわら=通り)に行きつけの樋口さんいうお医者さんが、目玉も動かしたらあかん、絶対安静やとお二階の一と部屋
に寝かしてくれはりました。よぉう連れて帰ってきたてお医者に判断のよさを褒めてもらいました。けど、この子、よう病気しましたなぁ。扁桃腺やアデノイド
や、盲腸の手術もえらいこじれるし、骨折はするわ怪我もようしました。
さ、中学に進むについて、籍を、養子縁組をせないかん、いままでみたいにうちの姓を勝手に名乗らせる事
はできんいうことでな。ところがこれがやっかい。もう、あの当尾(とうの)の山里のえらい御当主かて勝手がききませんわ、新憲法で。憲法やないわ民法か。
実の両親の許しが要りますのやて。
思えば恒平もかぁいそうな、父の名ぁも母の名ぁも知れていて、そやのにどちらの戸籍にも「入(い)るを
得ず」、たった一人で戸籍立ててますのやが。そんな事が出来ましたんやなぁ。そうやって無理無理生みの母親から名ぁまで変えて隠してきたもんを、ここへき
て嫌がるその生みの母親から貰い受けようというんやから、まずそのお人を探さんならん。現れた人がまた変わった人で、あてらに一緒にお銭湯(ふろ)へ連れ
てほしいて、そいでお風呂から上がると着物を着るのん手伝うて欲しいて。知らんわ。私より年も上で、いかに「ええし」のお育ちやかて、着物着せろとは、と
思いながらも何やしらん気圧されるていうのか、言われるまま着せたげました、こんな事で臍曲げられてもなぁ。そーら変わってはりました。着付けも派手とい
うか、こう、だらっとしてはるし、恒平に逢いたさにおいでやすの分かってまっしゃん。けど恒平は顔も見んと逃げ出すし、はぁもう屋根づたいにでも姿をかく
して、まるで私(わたし)が会わせまいと裏で言い含めてるみたいやないか、けったいな子ぉや。母親も、あれもこれもと、おみやげ置いていかはっても、恒平
がそんな態度ではこの家ではらちあかんと思わはったんかして、学校(がっこの外で待ち伏せてはったこともあったらしい。お父さんという人も来ゃはって、こ
の時は恒平も顔を出して、帰(い)なはるおり、「あんたも連れてお貰い」と言うてやったん。なんでそんなこと言うたか、この人が本当のお父ちゃんやでと言
う替わりやったんかな。なんやぐちっぽいお人やったけど。養子を納得してもらうには案の定やっぱりお母はんがなかなかしんどかった、内の人がけったいな
奴っちゃでと困り果てて、そんなこんなも恒平にはみな内緒でせなならんし、ここまで育ててきたもんを、機会を逃して中途半端はかなんしなあ。
恒平は怖がりで、泣き虫で、歯医者であれ耳鼻科であれ泣きわめいて椅子からずり落ちる、呆れられるやら
恥ずかしいやら、そんな子ぉがそれでも十歳(とお)も過ぎるとしっかりして来てな、放っておいても勉強は大好き、学校は大好き、学芸会も大張りきり、そい
でおつるさんの茶室が好き社中さんが好き、中学に女の子ばっかりの茶道部を始めるし、お茶といえば小さいからおつるさんの稽古日には裏(はなれ)へ行きっ
ぱなし。赤い花緒の下駄はかしてもろて喜んだり、じょろ(あぐら)組んだままお手前の真似ごとして黄色い声でほめてもろたり、稽古も段々に熱心で、おつる
さんは嬉しいかして、許状(きょじょう=免状)を次々とってやるわ、お茶名は勿論、もうこれ以上はお家元へ直々のお稽古に出なあかんいうとこまで、気張ら
はった。お茶会の手伝い、代稽古と重宝もすればお小遣いもやらはるようで、さては社中さんと娶(めあわ)せる気ぃかいな、自分の跡取りにする気ぃかいな、
そうはさせるもんかいな。
戦後に疎開先から帰ってしばらくは、稽古場がうちの奥の四畳半やったこともあって、私(あて)も手伝う
いうか習ういうかしたことも一時(いっとき)あったけど、うまい具合にこの借家を、離屋(はなれ)ともども買い取る事ができて、おつるさんが離れに移ら
はってからは、もう知りまへん、やめさして貰(もろ)た。私(あて)が手伝うと分かればおつるさんの偉(えッら)そうに人使いの荒いこと荒いこと、かなん
かなん。家での稽古はお茶とお花が週に一日ずつ、ほかの日ぃは出稽古と生け込みに出はるわけで、勢いあれこれの集金です配達ですと留守中はみんな私(あ
て)が面倒見んならん。そこらはおつるさんも分かっといやして、盆暮れの挨拶は欠かさはらんの。そやけどな、例えば下駄や。普段履きといい、出掛ける時と
いい、私は下駄が好っきゃ、草履よりよほど粋やし、下駄を貰(もろ)うて嫌やとは言いませんで。それがいな、おつるさん自身のよりいッつもソラ地味なもん
なん、嫂(あによめ)やいうたかて歳は私のほうがひとつ下どすえ、そいでですが、それを履きましょうぃな。「なんや、もうおろさはったん」と、こうや。
「もったいない」と、こうや。なんじゃいな。一事が万事そぅら始末なお人で、私(あて)かて紐一本、端布(はぎれ)一枚よう捨てんとなおしとく(仕舞って
おく)方や、けど、なんぼ始末なわたしでも、おつるさんのあそこまではようしませんえ。雑巾をゆすがはったら水の中へ糸が溶けて出てくるんやから。その水
を流しますやろ、石だたみにぼろがぞわぞわ残って、汚いこと。それでもその雑巾を捨てはらん。冥加や言うて、そこまで、せんなんやろか。
恒平は当然のように高校や、大学やて、なんもそんなに勉強できひんでもええんや、
家(うち)の商売を黙って継いでくれたらそれで良かったのに、なまじ勉強が出来てみれば、この子の大叔父さんはどこどこの大学の教授や、叔父さんか従兄弟
かは日赤のお医者やと分かっているだけに、大学やめえ、商売せえともうちら言い出せへん。そのうち同じ大学の女の子を連れて来るようになって、お父ちゃん
がアンテナ屋根へ上げるの手伝え言わはったら、保富(ほとみ)さん来て待ってはるのにぃて鼻鳴らしよる、嫌いやわぁ、揚句のはてに恒平のシャツを着よった
り、プレゼントゃいうて女々しい色のセーター着て嬉しがってからに、あぁ気色悪ぃ、かないまへんな、いらいらしますな。
女の子ぉまで大学ぃやらはるんやから、どないな家かしらんと思ぅたら、もう両親はいませんねて。親もい
んのになぁ、大学かいな。くやしいやないか。勉強は出来るのか知らんけど鈍臭い娘(こ)ぉで。このあいだも恒平とさんざ口争い、恒平はぱぁっと出て行く
し、ええいむしゃくしゃする、と髪を洗うているところへその女大学が尋ねてきたもんで、あんたが家(うち)へ来るようになってからは、この家では喧嘩が絶
えまへんね、と、洗い髪を拭きふき表まで出て大声で言うてやったのに、ぼうと立っとるだけやがな、恒平が戻ってきてそそくさとどっかへ連れていてしもたけ
ど、私は嫌(いや)やで反対やで、お嫁さんは中卒でよろしいの、おとなしいて、はいはい手伝うてくれる嫁さんがええんやて、さんざん言い合うたけど結局そ
の保富さんの卒業と同時(いっしょ)に二人して東京へ行てしもうた、大学院にまで通わせてやったんやないか、それ放ぅり投げてからに。あした汽車に乗るて
いうし、恒平が好きなまぜ寿司をつくって持たしてやったけど、どうせ二人で食べましたんやろ。女の方に親が居んいうことは、うちへ正式の話に来るお人も居
(い)んいうことで、私は真っ向反対やし、結婚の、式の、披露のと誰の口にも出んうちに、さっさと、なあんにも無しで東京に行ってしもうた。掛りもいらず
面倒もなし、勝手にせい。
結婚しました、てな葉書が東京から届きましたわ、えらい簡単なこっとすな、養子にするについてはそら気
苦労も手間ひまも掛かったのに。この家(うち)ぃ来たときと出ていく時はあっさりしたもんじゃ。それでも恒平はどこそかに六畳一間借りましたの、庭の柿若
葉が美しいですの、給料いくら貰いましたの、せっせと筆まめで。筍を送ってやったらな、この時は嫁から礼状。料理の仕方はなんぞと甘えたようなこと書いて
寄越したから、知るかと無視してやった。秋、おつるさんの社中が東京へ嫁ぐ、ついては東京での披露宴にと言われ、恒平の結婚式にと用意してたとかの老松の
裾模様の黒紋付きをおろすんやと見せてくれはりますわ。「あんたが反対するもんやし、着る折りがなかったやないか」いう皮肉かいな、勝手にしてえな。恒平
のとこで泊めてもらうし、なんか序でないかて、おつるさん。おつるさんの見上げたところは何か用をすんのに手ぶらでと言うことが無い、なんぞ序で序でに足
す用がないか、無駄には席ひとつ立たはらへんのですわ。そいでこの時は、寒うなることやし電気炬燵を、若い夫婦二人やし、いっと小さいサイズでええで、と
いうても風呂敷に括り上げてみたら大した嵩や、そンでも東京まで担いでおいきやした。炬燵布団くらいはどないかしますやろ。
そうこうするうち、どうも子ぉができるらしいと便りがきた。ええっほんまかいな。近頃の若い者(もん)
のことや、当分は二人だけでとかなんとか、孫なんて先の先の話やと思ぅてましたのに、早いやないか、こればかりは意外やなぁ、しかし結構なこっちゃ。
お正月、船岡の瀧さんが、毎年のことやけど年始に来はって、恒平の居らん正月のわけを、ま、ぽつぽつ聞
いてもろて。瀧さんは最初の坊(ぼん)
を亡くさはって、続くようにその子のお母はんも亡くなったあと、再婚して、今は娘が三人。この姪が入れ代
わり立ち代わり間遠ではあっても私(あて)を尋(たん)ねてくれますんや。優しい育ったな、と、つい思うことは他人の子はあかん、やっぱり血ぃやというこ
と、血ぃは水より濃い、恒平はアテにはならん、ましてあんな嫁なんぞ頼りになるかいな。いよいよ言うときはあの三人の姪の誰ぞに面倒みてもらお、か……。
七月やったわな、恒平から迪子が入院したし手伝いに来てくれへんか、やて。予定日の一週間も前から入院
てなこと聞いたこと無いわ、なんぞあったんやろか。厚かましいな、勝手に出て行ったんやないか、意地は張りたし、でも、ややさんやと思うとこれがどうにも
抵抗出来ませんわ、他所(よそ)さんの子ぉでもつい声掛けて気ぃ引ぃたりからかいとなる、お向かいの子を膝にのせて店番したり、子供はええなぁ、生まれる
のは坊(ぼん)やろか。
で、なんもなかった顔で恒平と二人の六畳一間暮らし。それにしても東京の六畳はせまいなぁ、京都の四畳
半より使いでがおへんな。
ようよう生まれたややさんを見に、一度だけ病院へ。残念ながら女の子や、しょうがない、こればかりは口
に出さんとこ、また生みますやろ。ま、尋常や、色も白うふっくりして、皺くちゃの赤い猿という風でもない。夏のこととてどの病室も開けっ放し、ゆるゆる廊
下を行きながら見ましたけど、頭の長いのやら、引っ掻き傷だらけのやら、小さい小さいお人形さんみたいなややさんもいますな、あんな小そうて育つんやろ
か。母子とも健康で退院して、それからが大変や。狭い一間に四人。たちまち母子して汗もだらけ、それをどうとかするいうて、あられもない格好(かっこ)し
よるし、いたたまれへん、ややさんをもっと抱いてたかったけど、誰ぞがヒステリイ起こしよる前に帰(い)にまっさ。嫁姑は一つ屋根の内にいるんでも大変な
んや、この狭さではどうしょうもない。
ややが出来てから、写真が届く、短い休みにややをつれて顔をだすようにもなった。ガコウソウゃいうてや
やこの口、薬塗って紫色やったり、誕生過ぎても歩かんいうて日赤の医者に相談に行ったり、東京にも医者はいるやろに。
自分の実の親のこと里のこと、どれほど知ってるんやろ恒平は。それと改まるもなんも、こっちから話した
事はないし、尋(たん)ねられたことも一度も無いやないか。里と付き合うとか兄さんと行き来したいんなら、そうおしやしたらよろし、反対しまへんえ、お好
きにおしやす。兄さんが病気や、入院やと知らされたときも見舞いにつれて行(き)ましたやないか。けど、あの時恒平は誰の見舞いやと思てたんやろな。父親
も母親も同じ、やはり養子に出された兄さんやと、まさか知らんやろし私(あて)も言わへんし、わざわざ愁嘆場しとないし、うちの子も尋(たん)ねて来えへ
んし……。
そのうち、幼稚園にもまだあがらん小さい女の子ぉが、こけて肘が折れたんですと。手紙ですがな。ギプス
をしたままお正月やて、洋服の袖が通らんのでデパートへ走って赤いウールの着物を着せましたんやと。私(あて)もデパート覗いてみたら、被布(ひふ)とお
対(つい)になったんが目に付いて早速送ってやったん、そしたらお正月にそれ着て来ましたわ。三角巾で腕吊して後ろ襟を親が掴んではる、ギプス重うて前に
倒れそうになるらしい。着物は可愛い、よう似合うて。咄嗟のことに既製品を買うたけど、七五三や、十三参りにはきっとええべべ縫うたげましょ。女の子ぉも
楽しみはあるわなぁ。
ところがどっこい、この小さい子ぉが達者に口を利く、おばあちゃん違うよママはこうするの、おばあちゃ
んそれ駄目ママはね、ママ、ママ、何が何でもママや。ママが絶対なんやね。ママは友達と会ういうて出歩いとるのにおばあちゃんの言うことが一向にきけまへ
んのや、伏見のお稲荷さんへでも連れてやろと家を出たもんの、嫌、嫌言うばッかり、とうとう何たらいうレストランまで連れていきましたわ。ママに返しまっ
せ、ああしんどやの。そのママ、相変わらず鈍臭いというか押し強いというか、戸棚にキャラメルやらチョコレートなんぞちょいと仕舞(しも)といたんを見付
けて、いゃぁ美味しそうて、あっけらかんと言うもんやから、誰があんたの為にとっときますかいなて言うてやったら、どないやね、もっともやと思うたんかし
らん、にゃぁと笑いよる。言いかえすいう事はないけど姑に気ぃつこうてるとも思えへん。服かてまぁえげつない色のだんだらになったんを着てるしするんで、
言うてやったわ、どの色もどの色も私の嫌いな色ばっかりやな、て。それでも、にゃぁ。みんな恒平さんが買うてきゃはりますのん。ヘッ。裏の離れへ行ておつ
るさんとは何を話しこんどるのやら、しばらぁくして帰ってきても何の話してきたとも一言も無いし、恒平の好きな色御飯を炊くいうのにこの嫁さん人参きざん
だはる、わざわざ恒平の嫌いな人参入れることないやないかて、ねきへ寄ってはっきり言うてやったのに、はぁ、だけや。反抗的とも言えへん。暮れの買いだし
に古川町へ行ったおりは、ふんとかはあとか頷きながら何買うのかどう選ぶのか、荷物持ちしながらぴったり付いて来て素直なもんや。自分の里ではこうやっ
た、てなことは一言もない。そう言えば里の話をせん嫁やわ。そもそも駆け落ちみたいなもんで、釣り書き(親族書)見せてもうたわけでなし、なんぞ遠慮か引
け目でもあるんやろか。お父さんは石油会社の専務とかなんやとか聞いた気もしますけど、あっちから言わへんのは隠しときたいんやろか、と思うと尋(たん)
ねよがおへんわなぁ。たらたら自慢されても気色わるいけど、ま、触らんとくか。
子供の成長は早いもんやな、もう入学やて、私もすぐ六十七になるとこやった。十人
も生んだお母はんの末っ子でひ弱いひ弱い言われながら育って、太ったことも無いけど、いつの間にゃこの歳や、さてあとどれぐらい生きるもんやら今のうちや
なと思て、孫娘の小学校の入学式に私も出席しました、来(き)えへんか来えへんかて煩(うるさ)いし。式の後、皆して何やいな西武線とかいう電車で、埼玉
の飯能の、何(なん)たらいう山の鄙びた料理旅館で一泊しました。松ぼっくりの落ちている坂を上ったり沼みたいな池を怖々覗いたりして、寛ぎましたわ、そ
の時撮った写真をまさかわたしの葬式に使いよるとはね、よほど機嫌良う写ってましたんかいな、そやな。
さてさて、また、ややさんが出来るらしい。今度は正月の三が日の内にでも、やて。それが七草すんでの明
くる日やったかな、今度こそ坊(ぼん)が生まれたて言うてきて、また手伝いに来てくれや。しゃぁない、行きましょ、坊に会いに。坊はお姉ちゃんとちごて、
おでこ皺くちゃ、まるで猿や。そいでまあ立派なモンつけて。思わず大きいなぁ、へぇ、て口に出してしもた。けどお目出度いこっちゃ、男の子がでけて、何よ
りやわなぁ。
(一九九六・十一・十八
- 九八・一二・二日 脱稿)
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