「e-文藝館=湖(umi)」小説
はた こうへい 1935.12.21
京都市に生まれる。 小説『清経入水』で第五回太宰治賞。 元・東工大工学部教授、日本ペンクラブ理事に十数年、京都美術文化賞選者を財団創立以来二十数
年、勤めている。「e-文藝館=湖(umi)」責任編輯者。 掲載作は、孫の死と、告別以後の紛糾を同時進行で書き記した日記文藝。この作はマゴの両親に
より名誉毀損等で訴えられ、千数百万円という賠償を求められている。作者で祖父で父でも舅でもあるわたしは、そのような害意の作でなど日記という性格から
もありえないと法廷で争っている。ここに掲載するものは「湖の本」のシリーズで出版されたそのままである。日記の性格上、記事にフィクションは百パーセン
ト無い。ただ生前の孫・やす香の病苦に呻いていた悲痛な「mixi」日記、ひろく公開されていた日記を必要上引用点綴して
いることを付記する。
『かくのごとき、死』 秦 恒平
秦 恒平・湖の本エッセイ 39 かくのごとき、死かくのごとき、死 闇に言い置くホームページ「作家・秦恒平の文学と生活」書下し 二〇〇六年六月二十
二日―九月十三日
永く生きていると、つらいことにも、奇妙なことにも出あう。平成十一年(一九九九)、七年前の真夏七月に江藤淳の自死にあい、晩秋十一月、実兄北沢恒彦
の自死にあった。『死から死へ』と題し、「湖の本エッセイ」第二十巻を編んだ痛い記憶は、まだ私の身内にあたらしい。
今年、平成十八年(二〇〇六)七月、また一つの「死」に向き合った。九月に二十歳になるはずの孫娘押村やす香を、「死なせて」しまった。手の施しような
い「肉腫」であった。だが自覚症状は遅くも一月早くに本人の手で記録され、以降、扇を拡げたように急激な苦痛・苦悶がソシアルネット「mixi」の日記に
克明に記され続け、しかも、北里大学病院に入院した六月二十日前後まで、只一度の有効な医療や介護を受けた形跡が見えなかった。責任の一半は、私にもあっ
た。私はやす香との盟約で、互いの「mixi」日記を読んでいた。繰り返し、「親と相談し適切な医療を受けよ」と癇癪も起こし、だが、両親に対し直接警告
してやれなかったのである。娘朝日子の婚家押村家と私たち秦家とは、十数年一切の交通を断たれていた。
だが、二年半前から、両親に秘し、孫やす香ははるばる玉川学園から保谷の祖父母を訪れつづけ、驚喜させてくれた。やす香は、生まれ落ちた時から、私たち
祖父母にはそういう愛おしい初孫であった。
驚くべきは、やす香が永逝して一週間せぬまに、私は押村両親により「告訴」「訴訟」を以て威嚇されはじめた。『死なれて死なせて』の著者私に向かい、や
す香を「死なせた」とは、両親家族を「殺人者」と呼ぶ名誉毀損だと謂うのであった。奇妙な事件はなお「調停」半ばにあるが、私は、孫やす香の「かくのごと
き、死」を、ためらいなく、斯様「闇に言い置い」て、重ねて、やす香の前に悔いて詫びたい。 二〇〇六・九・二七
* 平成十八年(二〇〇六)六月二十二日 木
* 孫・押村やす香(十九歳)が「mixi」日記に、自身で、「白血病」発症と、告知。(「mixi」は日本で最大規模といわれるソシアルネット)
2006年6月22日05:04 みんなへ
長いこと更新しなかったことで
心配してくれた人ありがとう。
人生が逆転したかのような
この一週間。
ここに書き記すことをずっと迷っていたけれど、
やはり自分の記録として
今まで日記を残してきたこのmixiに
書き残そうと決意しました。
「白血病」
これが私の病名です。
今日以降の日記は
微力ながら
私の闘病記録になります。
必ずしも読んでいて
気分のよいものではないと思うので
読む読まないは皆様の判断にお任せします。
コメント等
返信遅くなってしまうかもしれませんが
力の限り努力するのでよろしくお願いします。 2006〓6〓22
宛 先:思香 「mixi」メッセージ 祖父・湖
日 付:2006年6月22日 10時19分
件 名:いま読みました。
いま読みました。じいやんは泣いています。診断は確かなのだろうかと、ウソであって欲しいと。
しかし泣いてばかりは居られない。出来る限りをお互いに努めなくては。
同じ病気と闘っている人を知っています。日々、とてもとても慎重に、しかし今は大学を卒業してドクターです。親子してそれはそれは慎重に一日一日を大切
にしていました。この闘病は、細心の注意と摂生と聞いています。最良のドクターを親に探して貰いなさい。いい主治医。この病気では、日々の指導にも気配り
のいい主治医が大事な大事な鍵と聞いています。
疲労の蓄積。これが、最もよくない亢進へのひきがねになる。余分なムリはゼッタイにだめ。慎重ななかで日々安心して静かな心で元気にくらしてゆくことが
肝要です。<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt><
/ruby>をはらないで、我にも人にも素直に柔らかい気持で。
百まで生きなさい。しっかり生きなさい。愛している。おじいやん
* 信じがたい、信じたくないことが起きていた。挫けているわけに行かない。この成行きに堪えるには、わたしたちがみな懸命に元気でいる以外にない。細心
に慎重に。それだけだ。
* なにも、考えられない。
* 雨が激しくなってきました。お変わりなくいらっしゃいますか。
亀岡へのバスツアーは、関から鈴鹿越えに土山、<ruby><rb>水口</rb><rt>みな
<rk/>くち</rt></ruby>、石部、<ruby><rb>栗東<
/rb><rt>りつ<rk/>とう</rt></ruby>と国道一号線を行き高速道に入っ
て、音羽山を左に見て逢坂と〓丸のトンネルをくぐり、山科四ノ宮で再び一号線に合流。<ruby><rb>花山<
/rb><rt>はな<rk/>やま</rt></ruby>トンネルを抜け清閑寺を右に、五
条、桂と走り、<ruby><rb>沓掛</rb><rt>くつ<rk/>かけ<
/rt></ruby>から亀岡へは高速道を使いました。
帰りに花山寺(元慶寺)と遍照のお墓にお参りして、同じ道を引き返し、名張駅前からきっちり12時間で往復しました。
かヽる世に生れあふ身のあな憂やと 思はで頼め十声一声
菩提山穴太寺の三方それぞれ借景が異なるお庭に歓声をあげながらも、ついつい室内の額や床の間に目を配って。
中国風の門をもつ花山天皇落飾道場元慶寺は、狭い境内ながら濃まやかな苔と新緑に満ち、桜花と紅葉の季節はさぞかしと思われました。
翌日、女友達を長谷寺に案内し、花山寺との縁に驚きましたわ。
本尊の十一面観音像は徳道上人が近江国高島から琵琶湖に流出した楠の巨木で、二体造り、神亀四年(七二七年)長谷寺で開眼。一体は衆生救済のため海へ投
じられ、七三六年に横須賀に流れついて、鎌倉の長谷寺本尊になりました。徳道上人廟は長谷寺参道の途中、法起院にあります。西国三十三所番外だそうで、お
香の煙も金鼓の音も絶えません。
閻魔大王から三十三の宝印を授かって蘇生した徳道上人は観音霊場を拡めようと努めるのですが、誰も従うものがなく、落胆して摂津の中山寺に宝印を埋めて
しまいます。それを掘り出したのが花山院。
花山天皇が西国三十三所観音巡礼のはじまりでしたのね。そういえば花山寺に西国三十三所番外とありましたわ。あの賑わいはご朱印をいただく人の列でした
の。
いくたびも参る心ははつせでら 山もちかひも深き谷川 雀
* かヽる世に生れあふ身のあな憂やと 思はで頼め十声一声(とこえ・ひとこえ)
* どうか、病に落ちた孫娘のために、祈ってやって。
* 秦先生、ご本お送りくださいまして、ありがとうございます。
『風の奏で』息もつかず読んでいます。
大学時代を京都(桂、下鴨)で過ごし、なにかと理由をつけては年に何回も京都を訪ねている私には、徳子さんや市子さん、T博士たちの京言葉が、下宿のお
ばさんの言葉に重なり、なんともいえないいい気分に包まれています。
また、「つろく」は、こちら香川にもれっきとした通用する言葉として、残っています。
ずっと、「新古今」や「平家」、西行、後白河院、後鳥羽上皇などのことを知りたいと思っていましたので、飛びつく思いで読んでいます。
ストーリーや、人物関係にも何とかついて行けているように思っていますが、さて、どこまで正確に理解しているか自信はありません。実はすでに、「讃岐典
侍」辺りからあやしくなっています。
古典を、民俗学的見地から読む姿勢は、大学で教わった万葉集の講義をおぼろげに思い出しもして、なつかしく、また目から鱗の気持ちがいたしております。
今年は春から、亀岡、岡崎、花見小路など歩きましたので、『清経入水』や、このご本との浅からぬ縁を、失礼ながら勝手に感じさせていただいたりしていま
す。
これからも、「湖の本」シリーズ読ませていただきたく、よろしくお願い申し上げます。
時節柄、お体お大切になさってくださいますよう。 讃岐
* 有り難いことです。
* 六月二十三日 金
* 2006年6月23日 mixi日記 湖の、おじいやん 14:17
mixiに頼りなく初ログインしたのは、今年の二月十四日でした。十日ほどして、二月二十五日に、孫娘ふたりが訪れてくれ、わたしは妻に、大学一年と中
学二年の二人に「雛祭り」をさせるように奨めました。二人は大喜びで妻の雛人形を飾りました、嬉々と声をあげながら。
もともと姉妹の母親、われわれの娘が、嫁ぎ先へもっていっててもよく、上の孫娘の生まれたときにもって帰っててもいい雛人形でした。しかし、不幸な事件
から、かえって娘達とわたしたちとの交通は遮断されてしまったのでした。娘や孫娘達やわたし達の誰にも不本意な不幸なことでした。
以来、両家の往来は拒まれてきました。むろん我が家の門は、いつも娘や孫達のために明けてありましたが。
吾々夫婦は、十数年、二人の孫の育って行くのを見ることは出来ませんでした。娘の顔も見られませんでした。娘もあえて顔を見せませんでしたが、つい二年
ほど前、高校二年生の上の孫が、やす香が、母親の弟、叔父を介して、わたしたちに連絡をくれ、その後、祖父母に顔を見せに来てくれるようになり、いつしか
に妹、みゆ希も連れだって遊びに来るようになりましたが、親たちにはナイショにしていたのです。(入院後のいま、母親は黙認しています。)
雛かざりをみなで楽しんだ日、「おじいやん」(幼い頃、そう呼んでいました。祖母は「まみい」と。)が「mixi」に入ったばかりと聞くと、姉孫は「あ
たしも入っている」と、その場ですぐお互いに「マイミクシイ」になったのでした。姉の方はもう大学に入っていて、やがて二年生になるのでした。
それからの「mixi」日記で垣間見る孫娘の日々は、しかし、「おじいやん」を心配させました。聞きしにまさる極早朝からの接客アルバイト、夜分の接客
アルバイト。気の小さい祖父は、癇癪が起きそうなほど孫の心身を案じました。苦言も呈しましたし、こんな心配をするぐらいなら、mixiもやめたいと、何
度も思いました。「おじいやん」はさぞうるさい「おじいやん」であったろうなと、いま、泣いています。
このアリサマでは、からだを必ず毀すと恐れていた、その孫が、まさかそうまではと考えもしなかった病魔につかまってしまいました。信じたくない。が、当
人が、(ついに入院のためでしたが、)暫く休んでいた「mixi」日記で、みなさんに病名「白血病」も告げてしまいました。母親は、弟を通じ、わたしたち
には伝わらないようにはからっていたのですが。朝日子は、娘は、自分の娘達が祖父母の方へ行っていることも今では知っていて、今さらとやかく言う気は自分
には無いとも弟に伝えたそうです。
「おじいやん」も「まみい」も、泣きながら堪えています。あたりまえなことですが、代われるなら代わって病気を引き受けてやりたいです。人に、いつも
「笑っていて欲しい、笑っていて欲しい」と求め、自分もいつもいつもよく笑う孫娘ですが、なんと泣かせる孫ではありませんか。ああ…
しかし、泣いて済むことではなく、今からは、孫に、精一杯希望をもち気力を尽くして生き抜いてもらいたいし、そのために、わたしや、わたしたちのどんな
「力」が、「精神の力」がつかえるか。センチメンタルになるのでなく、悲しみへ遁れ沈んでしまうのでなく、いまこそ心を静かにして、「今・此処」の自然な
一歩一歩を歩んで行きたい。私たちの息が切れたのでは、孫のための力にはなれないでしょう。
やす香。みんなして、生きて行こうよ。
おじいやんは、だから、いますぐ飛んでいってベッドにいるやす香を見舞おうとは思いません。しっかり治療を受け、軽快し、退院し、社会復帰出来た日に、
元気な顔で逢える日に、がっちり将来を祝福の握手がしたい、おまえと。
生きて行こうよ、やす香。 おじいやん
* お見舞い下さっているみなさん、ありがとう。
* 建日子が夜遅くに来た。話して帰った。
やす香は、来週早々から化学療法が始まり、始まってしまうと、当分見舞客は謝絶される。診断が出たのは、やっと「三日前」だったと建日子の話で、二十三
日の早朝辺がやす香にも朝日子にもさまざまに心乱れて辛い頃合いであったろう。
医者の見通しでは、「九月十二日の二十歳の誕生日頃に一時帰宅、正月に退院」と。これは、想像以上の病勢で、聞いてわたしは愕然とした。しかしまたそう
いう慎重な見通しは、着実な治療効果への期待も持たせるし、そうあって欲しい。
やす香が体調不良で、「mixi」日記で痛みや疲労を訴え家でぐたぐだしつづけ、悲鳴をあげていたのは、もう少なくも三ヶ月も前から、もっと前からのこ
とで、様子の〓めないわたしは、かなり案じもし、イライラしていた。大人と「相談」し早くきちんとした手を打てとやす香にメッセージしていたが、やす香自
身はまだ何も分からず、ただおじいやんに叱られたもののように不機嫌な返辞を寄越していた。なにしろ、あれこれ医者通いもすべて頼りなく、そしてその間
に、残念極まるが、或る意味の重大な逸機もあったろうか。とうどう入院して、決定的診断が、わずかに「三日前」と聞けば、悔しさに歯〓みせずにおれない。
* 以下「私語」の随処に、孫やす香の今年一月以来の「病悩」日記を摘録・引用して行く。(絵文字は「おじいやん」には把握しかねる。)やす香は遅くも昨
年九月以来「mixi」に「思香=スーシャ」というニックネームを用いて「日記」その他を国内外に公開いた。友人達の「コメント=対話の書き込み」も含め
て厖大な量になっているが、のこらず保管しておいた。
そのなかで病状・病悩にふれた個所が、日を追い月を追い目を覆うほど増えて行く。全部をあげるのは量的にとても不可能なので、ごくごく一部を「そのま
ま」必要に随い抄出する。友人とのコメントの応酬にも重大な指摘や述懐が含まれているが、割愛。傷ましさに泣かされる。
2006年1月11日11:18 痛。
そろそろまずい↓
何もしてなくても痛む腰。
ろくに上も向けない首。
筋が変にきしむ肩。
血の巡り悪すぎ。
手足の先が凍る。
頭が動かない。
原因不明のびみょーな腹痛。
言うコトきかない身体に
もううんざり。
時間がほしい。
負けたくない。
誰にも負けたくない。
何も生み出さない
意地とプライド。
ただただ過ぎ去った19年もの歳月。
怖い。
恐ろしい。
自分に負けるのが一番嫌。
2006年2月20日05:39 早朝から深夜まで
今日は
急遽夜もバイトということで、
もちろん
早朝バイトは今日もあるわけで、
つまるところ、
本日のワタクシの活動時間は
起床する朝(?)3時半から
帰宅する夜0時半
ということになります。
驚異的(* 〓*)
がんばりま〜す★
2006年3月13日02:45 胸の痛み
恋の病…
ではないんです( ^‐ ^;
ホントに痛いんです↓
クシャミとか、
寝返りとかすると
一たまりもありません(* 〓*)
アイタタタ…
ってなります。
鎖骨、
首の下あたり一帯が ゚( ゚ `丈 ´* ゚) ゚〓
妹に敷布団とられて、
かたーい布団で寝たから?
あぁ眠れない(: 〓;)
* 一人の優れた素質をもてあましたような、聡明でもあり、また愚かしく日々を孤心に生きた、優しかったやす香よ。
どうして、この数ヶ月の間にこそ、おまえは、親たちにもっと甘えられなかったのか。なんとこの異様に烈しい危険な容態の毎日に、やす香、お前の身のそば
に、日記の記述のなかに、親の注意深い視線や、優しい声や、差しだす手のぬくみの、希薄というよりも、ゼロに近いのは、どうしたことか。
* 病室からのメールで、明後日の日曜には「まみいたち」に病院に来て欲しいと書いてきている。和梨が食べたいなどと言っている。
* 2006/6/23 件名 やす香です。
もし可能なら、やす香はまみいたちに日曜日に会いたいです。
* 件名 re:やす香です。
持ってきて欲しいもの 何か ある? まみい
* 件名 re:re:やす香です。
季節はずれだけど…和梨が食べたい…
* 件名 re:re:re:やす香です。
エエーッ!!!
梨は まだみのらんでしょう
でも <ruby><rb>早生</rb><rt>はや<rk/>なり<
/rt></ruby>があるか きいてまわろうね まみい
* 朝日子が盲腸手術の失敗で腸閉塞を起こして長く入院したとき、わたしは自転車で毎日毎日毎日見舞ってやった。鼻から管など通されていたりした。わたし
の手を握って泣いていたのを思い出すが、やす香を襲った病魔はとてもそんなものではない。なんたることか…
* 朝日子に 泣いて心配している。朝日子のことも心配している。やす香のためにも、われわれが元気でいてやりたい。朝日子も元気でいてやりなさい。そ
して万全を。建日子でもいい、母さんでもいい、お前の気持ちさえゆるすなら、虚心に何でも告げ語らい、おまえの重荷を軽くして長期の苦しみに耐え抜いて行
かなくてはならない。
この数ヶ月、私の見ている限り、あんまりにもやす香はムリを重ねていた。わたしはヒステリーの起きそうなほど心配でした。思いあまってやす香にもモノ申
したが。
ああ、なんとかもっと早くに、なんとかしてやりたかった……
朝日子がいま共倒れしたらたいへんです。大事にしてください。 父
* 六月二十四日 土
* 移る一刻一刻が限りなく重い。重い。
* お見舞いをたくさん戴いているが、返礼はご勘弁願っている。
* お孫さまのご病気、よくなられることを心からお祈りしています。
このかわいいやす香ちゃん(と親しくお呼びすることをお許しください)のお顔を、見ずに過ごされておられたことを思うと、胸がつぶれる思いです。
大きくなられてのご再会、どんなに喜ばれたことかと、こちらもうれしくなるご成長ぶりでございますね。
長年の、音信さえ不通の時を経て、美しく成長したお孫さん二人と会えたことの感激は、他人の私にも十分伝わってきました。じいちゃん、ばあちゃんにとっ
て、孫ほど愛しい存在はなく、会えない悲しみは、人生でのどんな苦痛よりも大きいものと思います。
やす香ちゃんのお写真(「mixi」に掲載)を拝見し、先生の「私語」のお言葉の意味が胸にしみるようにわかりました。
ご病気のご回復と、楽しいご再会を心からお祈りしています。 読者
* 作品を通じてしか存じ上げないごく遠方の方であるが。恐れ入ります。
二つの写真のあいだに横たわる「奪われた歳月」は、親としても祖父母としても筆舌に尽くせぬモノであった。やす香にもそうであった。このモノを、いかよ
うの語彙にも翻訳可能であるが、いまのわたしは単に失語症である。
だが、やす香は親の意に反してでも、祖父母の方へ動いた。動いてくれた。どんなに嬉しかったか、嬉しさを露わに書くことすら憚らねばならなかったけれ
ど。
* 歯医者へ。「リヨン」で昼食して帰る。
* やす香が、ベッドから電話を寄越した。ひどい出血があったようで声が潰れていたが、話している内に少し戻ったと感じた。とてもとても、普通には私も話
せなくて。妻に電話を戻してから、泣いた。
やす香。おじいやんは何をしてあげられるのか…。
2006年3月15日10:41 あんね〜
やっぱり痛ぃ(〓〓〈)
筋肉痛ではなぃみたぃ。
首から下がってきて
ちょっと左あたり?
花粉症だから
くしゃみとかするたびにひびく(* 〓*)
肋骨?!
いゃ、まさかねぇ( ^‐ ^;
どんだけ骨もろいんだょ
ってぃぅ(o `艸 ´o)
2006年4月5日00:41 悪化の一途をたどる。。。
痛いっちゅーーーーーーーーの(+丈) www
咳とかしゃっくりとか、くしゃみとか、
するたびに泣きそうになるわァ。。。
目に涙浮かべてたら察してやってくださいwww
別に悲しいわけじゃありません ^ ^;
レントゲンにも写ってくれないなんて
いったい何が起こってるのかしら???
いやまァいたって元気ですけどね ^ ^v
* 六月二十五日 日
* やす香は病苦に堪えて闘っている。わたしや私たちにもそれが出来なくて何としよう。
* 梅雨の晴れ間。少しも晴れやかにと、願う。
* 秋篠寺 蛍袋が咲き、栗の花が盛りです。
今日は秋篠寺のパンフから知ったことを<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず<
/rt></ruby>らせてください。
一一三五年、鳥羽上皇院政の御代に兵火に罹り、現在、伎芸天などがある講堂ほか数棟を残して、焼失。
日本各地で信仰されていたにもかかわらず伎芸天の像というのは、ほかに遺っていないそうですね。首から下は鎌倉時代、頭部のみ天平時代の像で、ほかに梵
天、<ruby><rb>帝釈天</rb><rt>たい<rk/>しやく<
rk/>てん</rt></ruby>、<ruby><rb>救脱</rb>
<rt>く<rk/>だつ</rt></ruby>菩薩と四体あり、梵天と救脱菩薩は奈良国博に展示さ
れています。
飛鳥大仏をはじめ、興福寺や法華寺で仏頭を見たことがあります。へたに付け加えるなら頭だけでいいと秋篠寺の四体にあらためて思いました。
本尊の薬師如来は鎌倉後期かなり後世のもので、十二神将は鎌倉末期。これに焼け残った日光月光両菩薩が入り、平安中期の地蔵菩薩立像が入っているので、
ちぐはぐな印象を抱かせるのです。
さて、バスもタクシーも、秋篠寺前というと同じ門の前で降ろされます。
門をくぐると道はすぐ左に曲がり不自然な感覚を覚えるのですが、これは東門だったから。南門からの道を歩いてくると景色も道も自然です。
東門の左側にいつも固く扉が閉まっている建物があり、これが<ruby><rb>閼伽井</rb><
rt>あ<rk/>か<rk/>い</rt></ruby>、香水閣。
宇治上神社のほど大きくはありませんが、幕がはりめぐらされた建物の中には石組みもがっしりと、澄んだ水を満たした井戸がありました。若狭とつながって
いるとか。
汲みたてのご香水をいただいて、いつもは扉を閉ざしている大元帥明王のお堂へと歩を進めます。
現在の像は当初のものではなく、鎌倉時代の彫刻だそうですが、大元帥法は勅許なしに造像も<ruby><rb>修法<
/rb><rt>し<rk/>ほう</rt></ruby>も禁止でしたから、我が国唯一の像で
す。体のあちこちにまとわりつく蛇がころんと可愛らしく、文章や写真で想っていたより落ち着いて<ruby><rb>大様
</rb><rt>おお<rk/>よう</rt></ruby>で、静かに立つ<
ruby><rb>忿怒</rb><rt>ふん<rk/>ぬ</rt><
/ruby>像でした。
秋篠寺は平安初期の十一面観音を東博に、同時代の地蔵菩薩を京博に預けています。
若狭に通じる井戸、献水、十一面観音…。白洲正子さんは「かつては平城京の東西に祀られた由緒の深い水神ではなかったか。」と書いてらっしゃいました
が、玄〓と良弁は同じ義淵に学び、年令もほぼ同じ。東大寺三月堂にある忿怒像、執金剛神を思い出しました。
忿怒といえば、京の<ruby><rb>御霊</rb><rt>ごりよう</rt>
</ruby>神社の八柱と秋篠寺<ruby><rb>地主</rb><rt>じ<
rk/>しゆ</rt></ruby>の御霊神社、奈良の御霊神社には違いがありますのね。奈良の二社には伊予親王と藤原
広嗣が入っていまして、秋篠は井上内親王と<ruby><rb>他戸</rb><rt>おさ<
rk/>べ</rt></ruby>親王がなく、奈良は吉備大神、大雷神がありません。
入った門へ戻らずに秋篠の御霊神社に向かうと、道の左手、少し高くなったところに礎石があることに気づきました。見に行って戻ってくると、杖をついて歌
碑を眺めてらしたおじいさんが、東塔の礎石と教えてくださいました。西塔がここ、と歌碑の奥を杖で指し、これが南門、向こうが東門、南門からまっすぐ下る
道があるやろ、昔はその先に大きな南大門があった、有名な苔の庭はもと金堂が建っとってな―ここの伎芸天さんほど「逢いにいく」謂われる仏さんはいてはら
へんなぁ―いま本堂いぅとるけど、あれは講堂や。
お寺の変遷や仏像のこと、御霊神社がもともとここの地主神、などなどたくさんのお話をうかがい、いま目にしている情報を消して昔を思い描いてみる感覚を
ひとついただきました。
あしび咲く金堂の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt><
/ruby>にわが触れぬ (秋桜子)
受付に覆いかぶさるように花をつけた<ruby><rb>馬酔木</rb><rt>あ<
rk/>し<rk/>び</rt></ruby>の大木は、金堂跡から伸びていました。 囀雀
* いま、この「囀り」に聴きいるわたしは、しんそこから励まされ慰められている。いつか、孫達も連れて行ってやりたい。
* 十時半ごろ、保谷駅を出て、相模大野まで。そして病院へ。清潔な新病棟の個室。「十五分間だけよ」といきなり母親に釘を刺される。そんなに容態がわる
いかと、ギョッとする。母親の朝日子とは、あとで指折り数えれば、「十三年半」ぶりに再会したのだ。そのことについては、とても此処で書き表すことができ
ない。
やす香は白い顔で額を冷やされながら、かすかな笑顔で、床にいた。妹のみゆ希がいた。
やす香が、好物の梨が食べたいといっていたので、池袋東武の「高野」で五つ買っていった。
やす香は九月十二日に、二十歳になる。伝え聞くところ、その日には一時帰宅も可能にと医師は予定しているらしく、母朝日子の成人したおりに京都の母がつ
くってくれた、はんなりした<ruby><rb>総匹田</rb><rt>そう<rk/>
ひつ<rk/>た</rt></ruby>の着物を持参した。このまえ姉妹で年始にきたとき、やす香は大喜びして保
谷の家で羽織っていた。あの頃は、だが、まだ、(我が家へは親に内緒で来ていたので)持って帰らせるワケに行かなかったが。
どうか、少しも早く回復し、元気になって、着て、喜んで欲しい。みなを喜ばせ安心させて欲しい。
気を奮い立たせ闘ってもらわねばならない、と、付き添っている朝日子にベッドサイドでせめて読んでやって欲しいと、『ゲド戦記』の初巻『影との戦い』を
持っていった。「おじいやんの大事な本だよ、早く良くなり、自分の脚で歩いて保谷の家へ返しに来るんだよ」と励まし、約束させた。
午の食事に手を付けてないやす香は、まみい(祖母)にむいてもらって梨を、嬉しそうに、一つの四分の三も、おいしいと食べた。右腕の腹に、目をおおいた
いほど広い大きな紫斑が出て、内出血していた。やす香の小さい頃に保谷で撮っていた写真も何枚も手軽に見やすいようにして持っていった。絵はいいと思う
が、何としても画集は重すぎる。疲れさせたくない。
それでも三十分ちかくいたかも知れない。入室の際には手指消毒とマスクをした。手先に手先をふれると、やす香は〓むようにわたたしの手を求めた。むかし
入院中の朝日子がそうだった、やす香よりずっと泣き虫だった。それを思い出した。
短い時間になにをどれだけ話せたか、言うてやれたか覚束ないが、視線をあわせてきた深い感じと、白い顔色は忘れられない。
付きそう朝日子私用のためにと用意した<ruby><rb>紙幣</rb><rt>モノ<
/rt></ruby>を封筒で手渡し、帰ってきた。妻は病室まえの廊下で娘を抱きしめて、いたが〓〓。
* ロマンスカーだと新宿へ二駅。池袋で晩の食事用を買って帰った。六時間半で往復していた。父親をはじめ、親戚や友達などとさしあうかしらんと予期して
いたが、われわれの他の見舞客とは誰ひとり出会わなかった。
* 六月二十六日 月
* 血糖値が高い。
* ゆうべ遅く、独りの病室から「力をかして」と呼びかけるやす香の声を、「mixi」に聴いた。すぐ返信したが、先だって友達の何人もがコメントを送っ
てくれていた。
ひきついで「やす香母」と名乗った朝日子が、やす香の「mixi」にもぐりこみメッセージしていた。
* 子供の、親きょうだい家族にたいする、また親のわが子、ひとの子らに対する攻撃的ないたましい犯行が話題になる。
わたしのような凡庸な父は、自身の願望にも素直に、しかも子へのいつわりない愛情をもって接する以外に、「方法」をもてなかった。
わたしは我が子だからといって「容赦」したことは無い。よその子ヘよりも、はるかにムチャクチャ厳しくて、「ばかか、お前!」は、わたしのいつも端的な
批評だった。秦建日子の『推理小説』で、カッコいい女刑事が後輩男刑事に二言目に同じそれを言い放っているのに、わたしは笑ってしまった。
とはいえ、わたしはまたムチャクチャ子供達に甘い父親だった。いつも彼等の味方だった。姉も弟も、まさか本心で「お父さんは愛してくれなかった」などと
思ってはいないだろう。
にもかかわらず、子への「批評」は、いつも遠慮会釈なく厳しかった。このごろ少しは励ますモノだから、息子は、「親爺の点が甘くなった」と、かえって心
配していると、母親を通じて漏れ聞いている。むろんよければ大いに褒めるし励ますし、しかしテキトーに批評するわけには行かない。我が子なればこそ余計
に、過剰なほど厳しい批評や罵声をわたしは遠慮なしに投げ付けてきた。「他の人は褒めてくれてるよ」などと聞いても、一蹴した。
子供の主張するジコチューで都合のいい「常識」をわたしは信用しなかった。だが、性格とそれに相応した能力や才能はいつも信頼していた。
建日子は、学校でもご近所でも札付きの「アホー」扱いであったが、わたしはそうは見ていなかった。担任教師をはじめ、親以外は誰も信じてくれない早稲田
中学へも、息子は自力でホイと合格した。笊に水ほどざーざーとやくざに遊びまくっていた中・高五年のあと高三の一年間で彼は大集中し、またもホイと早大法
科へ成績推薦されて入学した。その早稲田では、まるまる四年間ともやくざな日々を極めていたが、そのやくざなゴロツキぶりを、つか・こうへい氏との出逢い
一つで、あざやかに変身し活用した。会社をやめて劇作やテレビでやってくよと言いだしたとき、わたしは内心の心配は心配としても、息子の決心に即賛成し、
ひと言の不承も口にしなかった。応援した。
姉の朝日子は、弟より遙かに優等生であった。しかし優等生とは危ういもので、性格はアイマイに脆弱くなる。弱い分をむりに頑張ると、へんに頑なになる。
あれにもこれにも手は出すが、路線の変更自在が利かなくなり、どれもホンモノとしては手に付かない。そのくせ生き方に勝手な旗印を押し立ててしまい、それ
を下ろすにも替えるにも、思い切りがつかなくなる。結果、隠し持った才能の開花を、むしろ自身の手で阻むようになる。遠い遠い遠回りをして、それにもリク
ツをつけて、自己肯定の勘定をつけてしまう。(つまり、これは、わたしがわたし自身のことを言うているに等しいのである。わたしは優等生であった、ただ、
娘よりは本質的にゴロツキであった。ゴロツキ文士というのは、意外に拡散しないで集中が利くのである。)
わたしは、父であるわたしは、まだまだ朝日子の未来に、娘やす香の闘病と併走して闘う「戦士としての自覚」がつよく生まれて、新しい自身の誕生日を、娘
と共に、自分たちの手で創り出すだろうと、内心で励ましている。
ながいながい子供達との付き合いの中で、いろんな思い出が蘇る。
腕力にうったえる腕力はお互いにないので、つかいはしなかったが、わたしは、父の「激昂」を演戯で示す工夫ぐらい、いつも持っていた。子供に暴力へ走ら
せるより、暴走させるより、意識して父から先ず、過剰に振舞ってやる。その方が、よほどいい。建日子を追いかけて包丁で勉強机をえぐってみせたのも、度肝
を抜いてしまうべく先ず卓で襖をぶち抜いたのも、子供たちではない、父親のわたしがした。してみせた。今もそんな痕跡を家のアチコチで見るつど、あれでよ
かったなあと思っている。姉にも、弟にも、あれはまずかったなあと悔いるようなことは、ほとんど思い出せない。親にとっても子にとっても、わたしは「逆ら
ひてこそ、父」と信じてやってきたし、今もそうしている。
親子の間に「時効」なんてモノは存在しない。在りたいは「愛」である。朝日子は、それを今はやす香に注いでいる気だろう。建日子にもそうするに足る
「子」を持ってほしいが。
* みゆ希です。 昨日は、梨、ありがとうございました!!新しいメアドです。
* みゆ希 新しいメアド 受け取りました。
お姉ちゃんをよく励ましてあげて下さい。これから一月ほどが、ほんとうにやす香にもみんなにも厳しいときです。そばのみんなが平静に明るく元気でいてあ
げるのが励ましです。
さびしく辛くなったら、保谷へおいでなさい。あるいは、街で逢いましょう。
堅くつっぱって頑張っていると、糸でもきれやすく、棒でも折れやすくなる。ママの気持をやわらかにさせるよう、みゆ希はさりげなく気をつけてあげてくだ
さい。
みんなで、しっかり堪えながら乗り切り、やす香の元気な回復を助けましょう。 おじいやん
* お孫さまのお見舞いの「私語」拝見しました。
「おじいやん」がどんなにどきどきされ、どんなにご病気の早い快癒を願われたか、伝わってまいりました。
あの(『私語』の写真の)やす香さんが絞りの振り袖を着られた姿を想像し、うれしくなっています。
私も孫娘用に、山吹色に花の模様の友禅の着尺を用意しています。(二反も!)来年は高校生になるので、仕立ててやるのを楽しみにしているところです。孫
の成長ぶりを喜びながら、自分の年勘定を忘れている、ばあちゃんの私です。
「雀」さまの秋篠寺の記事の「井上内親王」「伊予親王」に、どこかで見た名前だと思いましたら、最近読んだ永井路子の『雲と風と』に出てくる名前でした。
また、先週金曜日以来、私も「重い。」「重い。」事実と向き合っています。
全く個人的なことですのに、いつも何かしらはっとするいくつかのことどもの一致を発見し、『私語』からはなれられない毎日となっています。
先生のHPにアクセスできた幸運に感謝しています。 元教員
* やす香の骨髄穿刺がはじまったらしい。治療が軌道に乗り安定してくるまで、しばらくは毎日がつらい極みだ、しかも孤独で。泣くことをさえ、力にしてく
れ。
* 六月二十六日 つづき
* 「ペン電子文芸館」の「読者の庭」に、吉田優子さんの評論『私小説という小説』が掲載された。委員会の審査は好評で、すんなり掲載が決まった。
* 或る委員は、純文学が死んでも私小説は永遠ではないかと極言していた。その理由、委員会ででも聞けるかな。
ドナルド・キーン氏が志賀直哉の短篇を、「作文」なみで、とうてい世界的に<ruby><rb>小説</rb>
<rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>としては認められないと言いきり、漱石もまた海外では
面白く読まれないと書いていたのに、むかし、出会っている。理解できなくはない。が、志賀さんや漱石先生の日本語の優れていること、探求の深くて魅力溢れ
ることは、否定できない。外国人に日本語が読めないだけで文学の<ruby><rb>質</rb><
rt>〓</rt></ruby>を決めつけてしまうことは出来ない。
泉鏡花の日本語の魅力を、誰が外国語に翻訳できるだろう。世界文学性と、世界で読まれうることとは、べつものである。簡単に外国語に翻訳が可能な日本語
の持つ平板な雑駁さということも考慮に入れねばならない。大江健三郎の作品はむしろ英語などに換えた方が読めるタチのものだと、わたしは前に書いた覚えが
ある。三島文学は大江さんの日本語よりは遙かに美しく堅固であるが、だが、やはり大江文学と同じである。
* 私小説にもいろいろある。私小説らしくない私小説もふくめると、日本文学の多くは私小説に近いが、それをいえば、海外文学にもある。そんな中で吉田優
子さんの「私小説という小説」への体験的な「不審」表明は、何度も耳にしてきたような指摘でありながら、事新たにまた面白く印象に残った。私小説を書き、
「電子文芸館」でまた志賀直哉を難しく論じた榛原(六郎)さんにも読んで貰おう。また甲子老(中川甲子雄さん)にも。
こういう<ruby><rb>論攷</rb><rt>ろん<rk/>こう<
/rt></ruby>なら、わたしの読者にはちがうテーマで書ける人がたくさんいるはず。ペンの会員でこそなくても会員なみか、それ
よりずっと力ある人は、世間にいっぱいいる。<ruby><rb>湖</rb><rt>うみ<
/rt></ruby>の本を二十年やってきたのである、よく分かっている。「ペン電子文芸館」の委員の大半は、現委員長もふくめて
「湖の本」の読者から推薦して会員になってもらった人達である。匹敵する力量の人達はまだまだ山ほどいるといって過言でない。
* 『最上徳内北の時代』の「mixi」連載は、半ばを過ぎた。もう四十日あまりになる。語り手の私は<ruby><rb>尾岱
沼</rb><rt>お<rk/>だい<rk/>とう</rt><
/ruby>の「牧場の宿」で愛らしい「楊子さん」と相宿を経て、<ruby><rb>標津</rb>
<rt>しべ<rk/>つ</rt></ruby>から<ruby><rb>
国後</rb><rt>くな<rk/>しり</rt></ruby>島を眺めている。その
視線に押されるようにいましも最上徳内は大石逸平とともに初の国後渡島を敢行している。徳内が大をなしてゆく活躍の実質第一歩。懐かしい旅であった。
* 『青春短歌大学 上巻』の読み直しを目的の「mixi」連載も、二十日を過ぎた。佳い歌を選んでいるし、解説・鑑賞にも遺憾はない。気の乗った仕事で
あった。ただの連載ではつまらないので、末尾に新たな「出題」もしているが、解答者は少ない。学生達と違い、センスを試みられるのは好まないのであろう。
* もう日付変わって一時半。やすもう。やす香の苦痛すくない安眠を切に願う。おやすみ。
* 六月二十七日 火
* So,youdon´thavetoworry,worry.
守ってあげたい
あなたを苦しめる全てのことから
´CauseIloveyou,´CauseIloveyou.
ん〜〜〜これって古い?
あ、私はやす香ではなくて、「やす香母」です。やす香パスで侵入しています(・ 〓・ヾ
私が、ちょうどやす香ぐらいのときにはやった曲かしらん?
たくさんのお見舞い、ありがとうございました〈( 〓 〓)〉
時間制限、人数制限を掛けざるを得ず、おいでいただけなかった方もあり、ほんとに、ほんとにごめんなさい〈( 〓 〓)〉〈(
〓 〓)〉
正直、こんな大勢の激励を受けられるとは思ってもみませんでした。
大学に入って急に親の手を離れてしまって、どんな生活をしているのかも、よくわかりませんでした。
でも、こんなふうにすてきな人たちから大事に思ってもらえる娘に育っていたのだなと思うと、ほんとうに嬉しい気持ちでいっぱいです。
20年前、私のお腹にいた娘は、ほんと悩みの種でした。
つわりがひどくて、私は毎日、毎日、泣いてばかりいました。普通3カ月といわれるつわりが6カ月も続きました。
入院して、点滴も受けました。
今、二十歳の誕生日を目の前にして苦しんでいるやす香を見ると、あの日々を思い出します。
二十歳、一人の大人になる新しい誕生日。
やす香は今、生まれ変わる準備をしているんだろうなと思っています。
この試練を乗り越えて二十歳を迎えたら、もう、ママ、ママといって泣いている小さなカータンではなくて、たくさんの友達に囲まれて輝いている、すてきな
女性になるのでしょう。
やす香を「守る」役目もきっと、たくさんの友達と、そしてとってもすてきな「だれか」にバトンタッチする日が来るのですね。それまでママは命がけで、や
す香を守ります。
だから、やす香も一人の夜を、強く、静かに乗り越えてください。
* ほんとに、ほんとに ほんとうに ほんと と、娘朝日子の口癖が出て、ほとんど肉声のママにこれを「mixiやす香」の「日記」欄で読んだ。朝
日子こそ、いまこそ、名の通りに晴れやかに元気でいてやって欲しい、やす香のために。さぞ、つらかろう、かなしかろう。
* 蒸し暑いですね。
わたしは皮膚が敏感になっているので、今年の夏は、汗に気をつけようと思っています。
「私小説という小説」の原稿を送りましたとき、実は、戻されると思っていました。評論なんて、書いたのはじめてでしたし、どんな風に受け取られるか、想像
できませんでしたから。
私小説について考えると、私小説でないものについても考えます。
そして、日本の近代小説の起こりまで遡り、明治以来の文学者のこと、彼らの社会との関わり方・距離の取り方について考えます。
維新から現代につづく文学の状況を追うことは、文学者が、深く関わったり、あえて背を向けてきた、政治や社会状況を追うことでもありますね。
「私小説」ひとつに深く目を向けると、現代が見えてくる気がします。
それから、芸術・創作は、「時代の気分」を表現するだけでなく、時代に物申していくべきではないかと思います。こんなことを申し上げるのは、最近、「時
代の気分」を表すに留まっているものが多いなあと感じたので。
「現代」は、そんなに肯定できる時代ではありません。
夕方になると、少し涼しくなりますね。お元気でいらして下さい。
* やす香の「mixi」に沢山な仲間や友達の励ましが寄せられている。
* 言論表現委員会の篠田博之氏の、電話。明日は委員会。
* 六月二十八日 水
* やす香の生まれたときの「やす香母」の詩を呼び起こす。
:::::::::: 子守唄
障子に揺れる 母の影が唄っている
あきらめなさい
あきらめなさい
ばば抱きだから
おっぱいはないの
おまえのままはおねんね
だからおまえもおねんね
あきらめて
ねんねしなさい
眠りに揺れる 私の心は叫んでいる
あきらめるな
あきらめるな
新しい<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt><
/ruby>よ
人生の最初に学ぶものがあきらめだなんて
そんな馬鹿なことはない
泣け 泣け
力をふりしぼって
おまえの母の目覚めるまで
そうして 泣いている ・ ・ ・ おかまいなしに
* 泣け 泣け ちからをふりしぼって。あきらめるな あきらめるな。
* 言論表現委員会に出掛ける。
* 活溌な意見や情報の交換はあり、時間もかなりオーバーしたけれど、猪瀬委員長の大好きな例の「シンポジウム」は、『売れなければ作家でないか』『売れ
れば作家であるか』そんなことを話し合って何か新しい刺戟や生産に繋がるか。要するに不毛な無駄話に近い。もっともっと日本ペンならではの社会・政治・国
際問題への注視を怠っていては、お話にならないではないか。
* 六月二十九日 木
* 夜前、おそくまでかけて、半ば読み進んでいた朝松健氏の『暁けの蛍』を、満足感、敬意もともども、読み上げた。この一作しか知らない作者であるが、こ
の一作、堅実な才能の開華を想わせる。「mixi」で知り合った若い作家。デッサンの確かな、構想力のある人。予期していたより遙かに真面目な追究の所産
であり、幸い世阿弥にも一休にもこの時代にも、わたしの思いは浅くない。ほぼ嘗め尽くすように作意のすみずみまで賞味させてもらえた。
* 脚の痙攣なしに目覚められればよかったが。
* やす香の目覚めのさわやかでありますように。朝日子も疲れを溜めませんように。
* 永い時間電車に乗ると、校正がはかどる。有楽町へ出て、十一時「小洞天」に入り、定食ランチを頼んでおいて、どんどん校正。すごいほど分量の多いラン
チで、丼に山盛りの白飯は遠慮した。かに玉が小山のように出、これには満足満足。シュウマイも二つ付いていたが一つしか食べず、スープとざーさい。安くは
なかったが正味が多く、中ジョッキの生ビールで、昼食は十二分。但し予想以上に昼過ぎには客が行列し、とても長居出来ずに一時間半で退散し、場所を移動。
おしまいは甘党の「つる瀬」で、白玉善哉。両脚が痙攣、痛みつづけていた。
それでも池袋で甘い飴をからませた芋菓子を買って帰る。
* 休息に、サンドラ・ブロックとヒュー・グラントの娯楽映画をみた。吹き替えでないと、映画を見続けてなくてはならず、仕事出来ない。ま、いいか。そろ
そろ、はやめに今夜はやすもう。「個室」に戻って、やす香は安眠しているだろうか。
* 六月三十日 金
* ともすると気をはりつめ、息をこらしがちになり、五体、綿のように疲れる。実際は綿どころでなく、石のようにかたくなり、そのため筋肉の攣縮に悩まさ
れる。ハタからみていると大事そうなことは何一つしていないと見えるかも知れないが、精神は異様なほど活躍している。興奮している。わたしがそう意図し意
思し希望してそう働いているのではない、いわば勝手に精神が暴れている。そこが危険で、よろしくない。高揚しているのではない、むしろ烈しく落胆している
のである、心身ともに。意馬心猿。そういうことか。わたしを静かに落ち着かせる、いま、なにも、うまく見当たらない。
けさ、七時半頃、血糖値をはかってから、三十分以上も椅子に掛けたなり、仮睡していたようだ。
二階の機械の前へ来て、「最上徳内」を読み進めた。尾岱沼 (オダイトウ)の牧場の宿で一泊した明くる朝、若い「楊子さん」と深々と森の奥へまぎれこみ
ながら、わたしは素晴らしく幸せであった。それが小説であるために、幸せは純粋で深く、清潔であり、こういう世界を持ってしまっては、もう容易に現世では
静かに落ち着けないのかも知れぬなどと、愚かに心弱い想いに沈んでしまう。それほど、小説世界の中は完璧なのである。裏返せば、いま現実のわが精神はいた
く衰弱していることになる。
* ひとに読ませたくて小説を書いてきたのではないことが、わたしの場合、歴然としている。いつでも、一散にかけこめる自分の「部屋」のように、「他界」
のように、「アジール」のように「用意」しておいた世界。町子も、<ruby><rb>慈子</rb><
rt>あつ<rk/>こ</rt></ruby>も、冬子達も、キム・ヤンジァも、雪子も、京子も、みな、い
つでも、わたしを「そこ」で待っている。まったき無垢と清潔とで待っている。そこへ入りさえすれば確実にわたしは静かに落ち着ける、が、それでは、わたし
は現実に「生きて」いないのと同じである。
「この作者、半ば〈他界〉に身を沈めて出入りしている」と、誰かが、むかしわたしを批評していたのは、あまりに正確であったが、そういうわたしを、さまざ
まに暗示し示唆していたのは、いくつもの「掌説」であろうか。
* 歯医者へは暑かった。いつまでかかるだろう、この通院。妻の方はお金も相当(想像以上に)かかるらしい。それほどこっちの自己管理が悪かったわけで、
お医者さんのセイではないが。
* 妻の治療の関係で、麻酔後三十分は食事できないというので、保谷までもどり、ひさびさにとんかつの頗る上等な「かつ金」へ、暑い中を少し脚を伸ばし
て、行ってみた。
なんと久しぶりだろう、それほど足場がわるいのだが、今日はぜひ行ってみたかった。お義理にもきれいな店ではない、店構えも内装も<
ruby><rb>下</rb><rt>げ</rt></ruby>の部類だが、こ
このロースカツもキスフライもクリームコロッケも、そしてエピスビールも、都内でもめったにお目に掛からない、美味。肉が厚いし揚がりも軽い。昔の大将が
いなくて息子に代替わりしていたが、幸い味も揚げも変わってなくて、大満足して久しぶりにトンカツらしいトンカツを満喫した。クリームコロッケも美味かっ
た。満腹で動きたくなくなったほど。幸せ。
駅からタクシーで帰った。
そして心身の疲労を静めるために、おそい昼寝を。六時に一度速達に起こされたが、もう一度寝て、自然に目覚めるまで、午後八時頃まで、夢からはのがれら
れなかったが熟睡。指先まで軽い。
* 『シャンプー台のむこうに』というイギリス映画の秀作を、とても面白く堪能した。イギリス映画は、アメリカものが何でもありのオール読み物や活劇とす
れば、夏目漱石の後期の作品世界に近い、きっぱりとした小世界の中で堅実に人間と人間関係を把握し表現した秀作を見せてくれる。フランス映画は、もう少し
味付けがつよく、やはりモーパッサンの国らしいロマンにもドラマにも、刺戟味が濃い。
今日の映画には好感をもった。昨日の『ツーウィークス・ノーティス』の読み物風薄さ軽さとはちがい、組み立てから巧緻で、それを技術よりは人間の劇とし
て見せていた。感心した。
* 用事で銀座に出てへとへとでした。湿度の高い夏は好きになれません。歩き疲れて、松屋の地下のお茶屋さんで冷煎茶を飲みましたら、これがほどよい冷
たさで、お茶の香りが立ち、とてもおいしかった。干菓子がついてきて、量もたっぷり。苦みと甘味のお茶を一対一であわせてゆっくり水出ししたものだそうで
す。汗がひいてすっきり。お茶は心身にやさしい飲み物ですね。生き返るようでした。
ふと思いつきました。一つの提案なので、そのおつもりがなければ読み流してください。もし、お差し支えなければ、九百枚もの電子化していない原稿を一部
でも機械で打ち直すお手伝いをいたします。幸い目も丈夫で、キーボードを打つのも早いほうです。
これは愛読者として一枚でも多くの作品を世の中にという思いと、何か一つでもお役に立ちたいということ、そしてお書きになったものを書き写すのは幸せだ
ろうと思ったから。九百枚も死蔵されているなんて、大損失です。
性分として、完成品でないものはたとえご家族の目にさらすのも好まれないでしょうが、ただキーボードで打って、フロッピーか添付ファイルでお送りするだ
けのことですので、あるいはお役にたてるかと思いました。お気にさわったら許してください。静かな夜……もう、夏。 蛍
* この「私語」を、よほど前々から読み継ぐか読み返して貰っているらしい。この申し<ruby><rb>出<
/rb><rt>い</rt></ruby>では、じつに有り難い。原稿用紙に妻が清書してくれていらい、そ
れこそ天井裏に抛り込んである、今もそうである。
出来不出来の問題ではない、説明しきれない葛藤のあげくである。むしろそれはわたしの伝記資料に近いかも知れないのである。しかし作品としてでも資料と
してでも、いずれにしても諦めたのではなく、しかし十二分な推敲の為にはもう原稿用紙では手の出しようのないのが分かっているからで、わたしにはそれをタ
イピングしてゆく、インプットして行く根気がない。それで誰かにアルバイトで頼もうかとも思っていたが、「ペン電子文芸館」をやつてみてその手のアルバイ
トは、人によりピンからキリあり、キリに当たると惨憺たるものであるのが分かり、永く二の足を踏み続けていた。
だが、こう申し出てもらつて、ハイ渡りに舟とも、安直には決心できない。原稿を一時的にも手放さねばならないし、そもそもそんなことを人にさせる権利は
ないのだし、おそらくその価値もないのではないかと思ってしまう。しかし有り難いと思う。感謝する。
* やす香が呻いている。
2006年4月5日13:02 凹む。。。
なんでこーゆー時に限って
咳が止まらないんだろ↓↓
咳を流し込むための
水が手放せません。
それでも不意にでてくる咳に涙…。
痛み止めなんて効きやしない。
かがめないし
振り返れないし、
左手に力入れられないし、
走れないし。。。
何が一番嫌かって、
おもいっきり笑えない
〓 ゚( ゚ `丈 ´* ゚) ゚〓
今まで日常生活に支障なかったのに…↓
今じゃ呼吸にも気を使う。。。
* 生涯に たつた一つの よき事を わがせしと思ふ 子を生みしこと 沼波美代子
やす香母の朝日子はそう思っているよ、きっと。ママの手を夢にもにぎり、ママの声を耳の奥にいつも聞き、そのママといっしょに、やす香闘いなさい、姿な
き「影」と。戦士ゲドのように。
やす香、お前には大勢の味方がいる。心の眼をみひらき、なるべく平静に自分を客観視してごらん。闘うべきこわい「影」の正体がみえてくる。それで、勝て
る。 おじいやん
* 平成十八年(二〇〇六)七月一日 土
* 今年も半ばを過ぎた。蒸し蒸しするのも梅雨なかばでは仕方ない。この時期をわたしは「慈雨の<ruby><rb>季<
/rb><rt>とき</rt></ruby>」と呼んできた。その様に思って梅雨を過ごすのである。
* 七月になってしまいました。朝からずっと雨、時折強く降ります。湿度があまり高くないからでしょう、気温が上がらない分、わたしは過ごしやすいと感
じます。梅雨が大嫌いといわれる方も多いのですが・・。そして雨ともなれば浮かれ心のままに外出することも諦められます。
予定していた庭仕事も延期。庭に出たらすぐに蚊に悩まされるので庭仕事は嫌いになりつつありますが、窓の外いっぱいに木の枝が伸びてきていますし、花の
手入れも、雑草も、ちょっと目を離すとすぐ仕事がふえます。
一昨日のメール、届きましたでしょうか。器械がやっと回復したものの、まだ何となくこれでいいかと不安になります。
歯の治療のことを書かれていますが、わたしも最近は医者に通っています。一大決心をしないと思い切って歯を治療できません。昔になりますが出産の後、や
はり歯を悪くしてしまい、土台は自分の歯ですが、そこに義歯をかぶせました。そこを改めて治療してもらっています。もちろん大きな出費になるでしょうが、
これも投資?、自分のために大切な投資と思っています。
一昨日からやや不眠・・歯の治療で注射の後、口の周辺の違和感があとあとまで残り、リンパ腺が腫れたりしました。そのお蔭で??眠れないものですから、
昨晩はサッカーの準々決勝の試合を見て・・ドイツのPK戦や贔屓のイタリアの試合を見て・・明け方眠りました。
およそわたしらしくない夜中の観戦でしたが、もちろん楽しみましたよ。 鳶
* パソコンの不調でながいあいだ、手短かなケイタイメールが届いていたが、復旧したらしい。
* わたしも眠りにくいままに、主催国ドイツにアルゼンチンが一点リードしている途中から見はじめて、ドイツが同点に追いつき、二度の延長もなお引き分け
て、PK戦になってしまうまで観戦した。追いつ追われつ<ruby><rb>角逐</rb><rt>か
く<rk/>ちく</rt></ruby>あいひとしく、どっちに応援ということなく堪能した。
* やす香が「mixi」の日記にみずから「おはよー」と書いていて、ああ、なんといい言葉だろうと嬉しかった。やす香の襲われている「白血病」は、二次
的な感染や疲労がまこと怖ろしい禁忌であり、せめて、よくてもよくなくても当分は診断と治療の対策が定まるまで、安静に、心境と体調とを保つことに心強く
専念して欲しい。沈みきってはいけないが、わるく浮かれてはもっといけない。あらゆる危険に、きりっとした覚悟で向き合い落ち着いていること。
* 七月二日 日
* 「一期一会」という言葉が好きと表白する人は大勢いる。だが、まだ、その真意にふれて理会し会得している例は少ない。
小説『慈子(あつこ)』にすでに、井伊<ruby><rb>直弼</rb><rt>なお<
rk/>すけ</rt></ruby>著『茶湯一会集』により一期一会のことは書いた。のちに裏千家の雑誌「淡交」にも
「異論・一期一会」を書いている。井上靖さんが「本覚坊」を書かれた前後に、「秦さんの説が正解ですねえ」と、わざわざそれの載った本を求められたことも
あった。
いま思い出したが、井上先生のあの小説が出たり映画になったりした頃か。利休はどんなふうに座ってお茶をたてるのですと突然質問したことがあった。当然
のように「正座」と答えられたが、わたしは、あの時代に誰がいつ、どんなときに正座していたか、罪人以外に正座などする日本人がいたでしょうかねと問い直
し、井上先生、絶句された。ま、それは今は余分なはなしである。
「一期一会」は、無際限に繰返している日常の挙措振舞の一度一度を、<ruby><rb>恰</rb><
rt>あたか</rt></ruby>も「一生に一度かのように」繰り返せという「覚悟」の<ruby>
<rb>謂</rb><rt>いい</rt></ruby>である。それは直弼の表現に明
瞭だし、溯れば、利休の師武野紹〓や弟子山上宗二らの「一期一碗」という四字が、より具体的に示している。さらにいえば禅の「一<ruby>
<rb>会</rb><rt>え</rt></ruby>一切<ruby>
<rb>会</rb><rt>え</rt></ruby>」も、つよく示唆している。
* 夕方自転車で出て、一時間ばかり走ってきたが、走りながら、左右の脚に攣縮が来て、二三度も危なかったが、ついに右脚の<ruby>
<rb>攣</rb><rt>つ</rt></ruby>れと痛みに堪えきれず、歩道車走
から右の車道へ転落転倒、あわや自動車の急停車に救われた。よく無事であった。大小の擦り傷や打撲であちこち痛いが、骨に異常なく、そのまままた自転車を
走らせ、ゆっくり帰宅、晩飯を食った。イタリアのワイン、美味。
ま、なかなか安楽には「一瞬の好機」に出会えない。
* 千葉の勝田さんや四国の大成さんや名張の雀さんからもメールを戴いているが、拝見するに留めておく。
2006年4月6日13:03 DoIhavetogo?!
しょーがないから逓信病院にでも行ってきます。。。(=大学のそばにある。初の受診か)
お金たくさんかかるかなァ。。。
こんだけ痛くてなんでもないって言われるのもシャクだけど、
なんかあるって言われるのもイヤ。
2006年4月6日23:25 まぢ
意味わかんない。
CT撮っても原因不明って何?
痛み止め効かなきゃ
大学病院行けだって…。
次から次へと回し者だよ。
ダメだ…。
もう凹みっぱなしだ。。。
怖いとかそういんじゃなくて、
ありとあらゆる行動が
途中で止まるから
精神的に辛い。。。
もういっぱいいっぱいだよ…
2006年4月9日16:58 変な一日。
痛いながらも、
毎日外出している<ruby><rb>思香</rb><rt>スーシヤ</rt>
</ruby>です。
電車の中で涙目になることもしばしば。
哀れみの目を向けられることもしばしばwww
* 心嬉しいメールを受け取った。mixiで知り合った人が、自身の体験も踏まえ、やす香の病気に親切な適切な具体的な声をかけて下さった。朝日子へぜひ
参考にするようすぐ転送した。
* お孫さんが入院されていたことを、今日、知りました。ご心痛、お察しいたします。
全く違う私の体験や経過なんかを書き連ねても、何のお役にも立ちませんが、当時の心境などを思い出しつつ少し、書き送らせて頂きます。
入院当初は検査が忙しく辛かったこと、毎日がだるく重く、考えもまとまらず、何もやる気がしなかったことが思い出されます。特に薬物の大量投与時は体全
体が熱っぽく、自分が湯たんぽか何かになったようで、本当に何も手につきませんでした。只、寝ているしかありませんでした。副作用の一つにある「憂鬱〜」
な精神状態が続き、不機嫌な自分に嫌気がさしたりもしました。と同時に心は体の働きの一つなんだと初めて認識した、貴重な体験でもありました。「気をしっ
かり持つ」ためのエネルギーは検査や治療で使い果たしてしまい、病室に戻ったときにはもうぐったり、といった状態でした。
そして、入院中はいつも、どこかしら気が張った状態で、心から寛ぐことが出来ないのでした。家族が来て、そばにいるときだけは何とかほっと安心すること
が出来ました。友人などの他人でなく、話すことが何もなくても、少しの時間でも肉親や家族がそばにいてくれることが、何よりの安心でした。
このことは、私自身が入院するまで、ここまでとは思いも寄らないことでしたので、気づいた今は、家族が入院した際などは特に注意して、条件の許す限り出
来るだけ見舞いに行き、顔を見せるよう心がけています。
それから、特に思い出されることがあります。
ある程度病状が落ちつくまでは、病気そのもので自分自身が振り回されてしまっていました。この時に思ったのが「どうも、病気とは、『闘う』というのとは
違うのかもしれない」ということでした。
入院した際、***大の院内で、創始者の、「病を診ずして、病人を診よ」という言葉に出会いました。これは「病める人を全人的に診る医療」を表したもの
だそうですが、私の勝手なイメージでは、罹患中の時、患者の存在そのものに病気が存在していて、病気と患者は分かちがたいもの・・・という印象でした。自
分と病気は別のものとして、まるで病気に見舞われたかのように思い病気と対峙するのは、実はすこし、考え方がずれていて、実際は自分の中に病気が発生し、
今、伴に存在している・・・と考える方が自然に思えました。ですから「病気と闘う」のではなく、「病気とともに、平癒に向けて協力し合う」のかもしれない
と感じたのでした。
そしてもう一つ、ストレスとの付き合い方によって病状がリアルに左右される、というところです。ここで重要なのが、所謂「心労」だけがストレスではな
く、「張り切ること、頑張ること、元気に飛び跳ねること」もストレスになるのでした。もし、悪いことを−、良いことを+と考えたら、心労や心痛等は−、頑
張る・張り切る・元気に行動する等は+。でも、どちらもストレスとして、体に負担をかけるのです。
ですから、悲観しないのも勿論のこと、前向きに頑張ることも控えて、一番良いのはノンビリ気楽に・・心静かにリラックスして、に努めることでした(この
場合「努める」もストレスのうちになってしまうのですが・・)。
この、緩やかな、穏やかな気持ちを維持するために、本当にいろいろな工夫をしました。
少しでも心地よいことを探しては、身の回りのものを可愛いモノにかえてみたり、インターネットで基礎化粧品を買ってナースセンター宛に届けて貰ったり、
写真や絵を眺めたり・・。でも、ここでも、一番有効だったのは、家族の顔を見ることでした。それから同病の友人と仲良くなれたのも良い思い出です。自分で
は分からないことを友人達が知っていて、医師や看護婦の方々より役に立つことも多く、同病でないと分からない辛さや決意を分かち合うことが出来、お互いを
支える力になりました。
☆長々と書き連ねてしまい、すみません。最も大切なことの一つは、家族の入院で、周囲の生活が疲弊しないことだと、今はなき人がよく語っていました。
先生がお孫さんのことでお辛い気持ちを抱えつつ、きちんと毎日をお過ごしなことに安心し、尊敬申し上げます。どうかお孫さんのためにも毎日をお元気に、
ご無理をなさらず、お過ごしくださいませ。百合・
* このメールには、日頃バグワンに聴いているわたしには、相通うて示唆に富んだところが何カ所もあり、感心した。若い人のようであるが、観念的でなく言
葉が適切に響いてくる。感謝します。
* 上尾敬彦君が英国から一年ぶりに帰ってきた。まずは体調を調えてもらい、特許庁での新部署にも馴染んだ頃に、夫人もともども帰朝祝いをしたいもの。
* さて来週には京都で「梅の井」主人との対談を控えている。この対談はラクではないが楽しいモノにしたい。そして同じ来週には、岩下志麻と篠原涼子がぶ
つかり合う、秦建日子脚本の連続ドラマが、また始まる。熱など出していないで、作者クン、しっかりおやり。
* 右肱の外側が、見るも無惨に真っ赤っかに大きくすりむけ、ヒリヒリする。傷は膝外だのあちこちにあるが、痛むのは肱近くだけ、骨はどこも傷んでいない
ようだ。今日は、落合川を溯り、また降ってきてから、東久留米市内をウロウロ走って、二三度両脚が<ruby><rb>攣
</rb><rt>つ</rt></ruby>った。あやうく降りてふんばって直したりしていたが、歩
道を走っていて車道へ転倒したのは、もう保谷の地元近くに戻ってからであった。つまり疲労していたようだ。迫ってきた自動車が家族連れのワゴンふうであっ
たから停まってくれたと思われる。商用の急ぎ車であったら転倒したままとばされかねなかった。わたしの責任である。
じつのところ地元で自転車での転倒は、数度経験している。段差のある車道脇の歩道を走るのがいちばん危ない。今日はマンがわるく上り道をだいぶ頑張った
あとで、転んだ。いい気分ではないが、変な感覚である、ゆっくりと倒れ落ちて行くのは。
* 七月三日 月
* 「世界の歴史」の『西域とイスラム』を読み終えて、『宋と元』へ。中央アジアの歴史は繁雑に紛糾し、一度読みではとても頭で「絵」にならない。責任筆
者の歴史叙述にも少し工夫がなかった。
それに較べると、アンドレ・モロワの『英国史』は示唆豊かに要点をおさえ、また厳しく批評していて、筆致も展開もすこぶる滋味と興趣に富む。イギリスと
いう難しい面白い国の個性を、こんなに暴き得ている他にどんな著述があるのか知ってみたい。
日本書紀は「天武紀」の下巻を進んでいる。壬辰の乱も平定され、都は近江からまた飛鳥に転じている。いま吉野へ行幸、天皇・皇后が六人の異腹の男子を懐
に抱いて行く末の協調を誓わせているが、そういうことを心配してかからねばならないのが心配の種であり、この誓い、いずれ無残に破綻して行く。つづく持統
天皇紀で『日本書紀』三十余巻のすべて「音読」が終わる。もう少し。
* 京都への往復にどの本を持って行こうか思案している。通算の米寿をかぞえる「湖の本」の本文は責了にして行こうと思っている。
三好閏三氏(祇園梅の井主人)との対談は異色のものになろう。
* 対談 心づもり
「美術京都」という準専門誌で、配布先は、先ず美術家・愛好者、それに「京都」に関心深い人です。それを念頭に置きたいですね。
三好さんは「京都」「祇園」の人、美術やその雰囲気を「創る」側でなく、「享受して活かし楽しみ喜ぶ」側にある人です。わたしと、その辺は、殆ど全く同
じ立場にあります。期待したのはその度合いが、わたしよりずっと具体的で生活的だという点です。
ただし一時間半ちかい対談時間を、具体的な、しかし個人的・私的な体験や日常の話題だけでうずめると、読者はそこから或る纏まった何かを把握しにくく、
読み捨てになるか、ひとごと・よそごとで終わってしまう。何らか「理解」や「納得」のための「筋」、手がかりを提示しなくてはなりません。
それを、聞き出し手のわたしは、わたしの著書である、女文化論、京言葉論、伝統芸能論また文化論としての「趣向と自然」という考え方、茶の湯論等から迫
りたいと思っています。
「遊び」の達人三好閏三氏を支えているであろう「考え・思い」を絞りだしてみたい。もとより美・美術に力点を置きながらです。
およそ、美術の話になると創る人の「どう創るか」の話ばかりですが、あきらかに偏りすぎています。
美術や美は、創り出す側だけのモノでなく、それを享受し享楽する側の問題でもあるのですから。そっちの方が人数は圧倒的に多い。
わたしたちは、もっぱら、その方面からおしゃべりしようと思います。
享受・享楽とは、言いようを変えれば、「美しい」モノやヒトやコトに触れて、佳い意味で「遊ぶ」ということでもありますし、そうなれば、わたしたちに
は、手に触れ、目に触れ、耳に聞き、口にして、遊び喜べる美しいものは山ほど有りますから、話題には困らないはずです。
ただ、あまりとりとめなくならならないよう、「筋」を〓んで、「舵」をとらねばならず、その役をわたしがおよそ引き受けますので、対話を楽しみに来て下
さるように。
いろんなことを聞きます。答えられることは答えやすいように気楽に答えて下さい、そこから問題が整理できてゆきますでしょうから。せいぜい七、八十分。
それに、あとで幾らも手入れして添えたり削ったり順序を替えたり出来ます。固有名詞の表現だけは最終的に間違えないようにしましょう。
対談の場を、ひとつの架空の「茶席」のように想定し、三好さんお好みの趣向と自然で、「七月某日」という祇園会の時季にふさわしい、道具組その他を、脳
裏にご用意ください。
その一つ一つを、私に、美しく堪能させて下さい。むろん道具だけでなく、一応「茶事」の体で、衣・食・席・庭や雰囲気づくりのお好み・趣向を、「自然」
にご説明下さるよう。
むろん、架空の客も念頭に、おのずからな、少し逸れて行くほどの話題を楽しみましょう。音曲や歌舞伎や、京の「女」文化へも「ことば」へも話をひろげま
しょう。
最初に、今朝の「梅の井」さんのお店、またはお宅に心用意された、季節のお花、また書、画、装飾の工芸品などを簡単にうかがい、そして、気楽に本題へ
入って行きますが、どんな美や美術や遊芸にしても、それへ向かわれる「三好さんのお気持ち」が、趣向もあり、自然なものとして「生活術」としてうかがえれ
ば、何よりなのです。堅苦しくする気はありません。
* さ、そんなにうまく話が運ぶかどうか、ま、堅く成らずに話し合ってこよう。彼に恥をかかせずに済むように。
2006年4月10日00:46 〜
笑えない。
眠れない
医者なんてあてにならない。
辛い。
寂しい。
2006年4月11日16:11 なんだか、
最近愚痴っぽぃゎァ。
ぅらむょ。
こないだちゃんと診断下してくれなった医者。
可能性すらも示唆してくれなかった医者。
そもそも内科に行けって行った看護師。
ぁぁ、
ゃっぱ宛てになりませんね。。。
2006年4月16日22:34 気持ち新たに
諦めました!
そのうち治るょね☆
病院行っても凹むだけだし!!
だからもーいぃです。
明日からちゃんと学校行きます。
* 秦恒平さま お孫様の身になんということが〓〓
ただただ、治療が順調に進みますようにとお祈りしています。
年が明けてから同年の友人が急死したり手術したり気の滅入ることばかり、気分直しにとカナディアンロッキーへの格安ツアーに突然に申し込みました。
去る22日から28日息子と二人で心洗われる一週間の旅をして帰国、留守中に溜まっていたメールなど読み、秦さまのHPを読んでたった一週間の(私たち
親子が氷河や森や花を見て幸せだった同じ)間にご一家をこのようなご心痛が襲っていたなんて!!
障害を持った息子が生まれたとき私はもう一生外国旅行など出来ないのかなあと悲しいでした。
でも今彼は旅の一番楽しい道連れです。
山や川や氷河に素直におどろき、若い女性添乗員さんと記念撮影し、レストランのウエイトレスを「ベリーグッド!」といって喜ばせ、むつかしい顔の税関の
オジサンをにっこりさせ、ツアー参加者と自然に接してこれぞノーマライゼーション こんな幸せな旅が出きる日が来るなんて、人生わからぬものです。
ただただお祈りしています。 2006/7/3 藤
* わたしの心も晴れる。自転車で黒目川に沿って自然な小川のせせらぎや草のしげりをみて走っているとき、かつてこの辺で、この母と子とのどんな時間が
あったろうと想うことがある。歳月というものの豊かな懐の深さを信じたい。
* サッカーW杯が佳境に入ってきました。
実力のある国が順当に勝ちあがってきているので、戦力が拮抗し、あまり動きのない試合展開になっています。
アルゼンチンの敗退は残念でした。あの、小さい人たちの国を、応援していました。
フランスの勝利は、嬉しかったです。ジダンのために、喜んでいます。
それから、先日「第二章」という、とてもいいアメリカ映画を見ました。ニール・サイモンの脚本で、マーシャ・メイスンとジェームズ・カーン主演です。共
に再婚同士の、女優と脚本家で、女は未来を見、男は過去にとらわれている。
最後に、うじうじしているジェームズ・カーンに、マーシャ・メイスンがぶつける、「妥協した人生なんて厭。わたしがほしいなら、戦い取って」という長台
詞、暗記しておきたいほど感動しました。
風は、明日から京都でしょうか。
お気をつけて、行ってらっしゃいませ。 花
* 郵便局へ走り、いろんな用事を一度に片づけてきた。雷が鳴っている。湖の本、跋をのぞいて責了に。
* 先程「mixi」にアクセスし、やす香さんの日記を読みました。命の重さを真剣に想う姿勢に胸を打たれます。お友達も凄いです。「mixi」の何た
るかがやっと分かりました。
このSNSというシステムは、祖国と離れて海外で暮らすエンジニアが、なかなか会えない家族や友人と手軽に交流するために作ったのが始まりと聞いたこと
があります。
明日は京都ですね。行ってらっしゃいませ〜。 from 百合
* 祇園会に入っている京都。明日は、午後から半日、ゆっくり出来る。明後日の午後、対談して、その脚で帰ってくる。七夕に、糖尿の診察。今度はこれまで
以上に惨憺たる成績で、怒られるだけで済むかどうか。京都で気儘に飲み食いしてくればデータは正直に暴露するだろうなあ、やれやれ。
* 自転車で転んですりむかれたとのこと、大丈夫でしょうか?心配です。どうぞお気をつけくださいますよう。やす香さま、朝日子さまを支える大切な方で
す。 波
* 七月四日 火
* 時折さぁっと音がして、ひとしきり雨が山も野も洗い、ダム放水のサイレンが何度も響いていた一日が暮れ、くっきりと月が照っています。
水無瀬川をちの通ひ路水満ちて船渡りする五月雨の頃 (西行)
このあと数日は晴れて真夏日になるそうです。お大切になさってお出ましください。
一目なりとお目もじがゆるされるなら京へ押しかけたい、心を羽にして飛んでゆきたいけれど、お仕事前とのことですし、祇園祭、そして谷崎さんの月ですも
の。
わがままはいたしません。
市内の書店に見つからなくて、思いのほか遅くなりました。『吉野葛・蘆刈』(岩波文庫)を入手しまして、ようやっと二度読み終えたところです。五〇〇円
でお釣りがもらえ、北野恒富の挿絵に何葉もの吉野の写真は思わぬ付加価値(おまけ)。
秦さんが大事に書いてらっしゃる、京都市内のあちらこちらや、亀岡など、ずかずか訪ねて覗くことを差し控える思いがずっとありました。谷崎さんについて
はなおのこと。力量のまったく足りない雀が拝読して何らかの感想や印象を抱くなンて厚かましい、僭越と、おゆるしを待つ心中で永らく過ごしてまいりまし
た。
この春、小倉遊亀さんの原画から『少将滋幹の母』を、白洲正子さんに背を押され押されして『吉野葛』を、水無瀬神宮の宮司さんのご著書から『蘆刈』を読
み、あぁそぅか、そうだったのと、色とりどりの風船が膨らむような気持ちでいます。
これからはお作の読みも違ってまいりますでしょうし、なにより谷崎作品の読み方をこの20年で教わったことへの感謝と感慨にひたっています。 雀
* 例の探訪・探索のメールを何度ももらっていながら、やす香ののことに思いひしがれて、なかなか落ち着いて読めなかった。が、雀行脚の向きはひろがり報
告が細かになっている。
この人ほど私の作品や言葉をすみずみまでよく囓って味わっててくださる読者は、少ない。どこでどういう勉強をした人かも知らないでいる。
* 京都。それで興奮したのではないが五時前に床を離れた。出掛ける前に、用事をすこし。新幹線で寝ればよい。
* 洋食のほうがお好きなようですが、当地のうどんも召し上がってみてください。
いちばんおいしいのは「打ち立て、ゆでたて」(これはもう「うどんの刺身」なんだそうです)に<ruby><rb>及<
/rb><rt>し</rt></ruby>くはなく、ぜひ召し上がっていただきたいのですが、まずは「生う
どん」でお試しください。
こちらにおいでになったそのときには、「うどん八十八か所巡り」にお誘いいたしたく存じます。田舎の素朴(というより、粗野)な食べ物ですが、それなり
にたくましい食べ物です。
つるつると食べると、元気がわいてくるかもしれません。
やす香さまの順調なご回復をお祈りしています。 讃岐
* ヒロインにいろんな名前をつけたけれど、『畜生塚』の讃岐町子はごく初期の。この名、ことに讃岐という音に惹かれ、あれで作品は出来た気さえする。
* 乗車時間を十時過ぎという早い時間にムリに決めて、眠れずにべらぼうに早起きまでしていたのが、万事につまづいた。新幹線では、茫然と眠っていた。
目ざめた時はマーガレット・ケネディの『永遠の処女』を読んでいた。この角川文庫本は昔から手元にあるのに何度読み始めても読み進められなかった。旅に
持ち出すには不味いかなあと案じていたが、意外や、すらすらと今回は興に乗って面白く読み進んだ。旅の連れにして成功した。
こういう経験はやはり角川文庫の『嵐が丘』で昔味わった。何度読みだしても入れなかったが、数度目にすうっと入って行き、そしてわが愛読ベストテンの上
位にランク出来る名作になった。『永遠の処女』は二十世紀に熱狂的に読まれた一作で、作者がまだ若かりし頃の二作目か三作目ではなかったか。まだ半分に行
かないが、これを読みたいばかりに旅中退屈するということがなかった。
* 昼過ぎにホテルに入って、すぐ昼食に四条へ出たが、いかに祇園会とはいえ、梅雨明けしていないはずがギラギラの日照りと猛暑にたちまち参ってしまっ
た。両脚とも痛く<ruby><rb>攣</rb><rt>つ</rt><
/ruby>って攣って歩くのも面倒、と言うより堪らなくて、転げ込むように「田ごと」の本店に入って、幸いうまい昼懐石にありついた。ただし葛を
使った煮物碗のでっかい賀茂茄子には閉口、うまい葛汁だけすくって食べ、茄子には箸をつけず勿体なかった。鮎がうまかった。酒もよかった。涼しい店にいた
間はご機嫌であったが、また日照りの四条に出るとたちまちに全身疲労が発熱したように昂じ、息まで喘ぎだして、喫茶店へ逃げこみ珈琲を飲んでも、やはり珈
琲で〓が燃えだし、外へ出るともうどうしようもなかった。ゆるゆる痛む脚を引きずって歩いたが、しゃがみたくなり、仕方なく近距離をタクシーに逃げこんで
ホテルに戻った。
そして熟睡から目覚めるともう七時だった。
あまりうまくないホテルの晩飯をしながら対談の心用意のメモを沢山書き、部屋に戻ったものの、ただもう眠くて。テレビでやす香の病気に触れ女性のドク
ターの話しているのだけ聴いて妻にも報せてから、何もしないで寝入った。
夜中二度覚めたが、結局、明くる朝の十時過ぎまでひたすら寝入っていた。
こういう京都、前例がない。
* 七月五日 水
* 十時過ぎ、外はどんより雨雲の雨もよい。どこかへ出ようと思っていたのも断念し、朝飯の時間にも遅れていたので、午後の対談の用意にメモを書き直した
り、北朝鮮のミサイル発射のニュースを見聞きして、ホテルのランチを食べた。窓の向かいに産経新聞の京都支社のあるのは前から知っていた。対談の前に、ふ
らりと立ち寄り、デスクと少しお喋りしてから、対談に出掛けた。
* 幸い対談は三好閏三氏の積極的な協力もあって、予定し期待していたとおり、おもしろい対話が<ruby><rb>堪<
/rb><rt>たん</rt></ruby>能できた。弥栄中学以来の同期同窓であり、心やすさもあり趣味
も好みも考え方も近く、話題は多岐に亘っても混乱しなかった。その上三好氏は、茶道具の秘蔵品をいくつも持参して見せてくれた。
白隠さんと伝える鰻の絵賛一軸といい、瀬戸の肩衝茶入れといい、さらに東山三十六峯の三十六あるという茶杓のうち「円山」と銘のある大文字山の松で削っ
た茶杓といい、目の法楽にあずかった。対談の中に、今日にちなんだ趣向の茶席<ruby><rb>一会</rb>
<rt>いち<rk/>え</rt></ruby>の会記も、また茶事のための献立表も載せられるだろ
う。
美も美術も創る人だけの物でなく、むしろ享楽し堪能し愛好する人達のものである。楽しまれ用いられ活かされて美しい物が生きてくる。その典型的な実例
を、この京の町衆のひとりからまちがいなく語って貰うことが出来、おお満足して、その脚で京都駅へ直行、予定より数十分早いのぞみで帰ってきた。よく寝た
し、また『永遠の処女』も心<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt>
</ruby>に嬉しく読み進んだ。
* ま、よくよく〓が疲労しきっていたとみえ、時間の余裕はたっぷりみて出掛けた京都で、殆どの時間を寝て過ごしてきたのだから、ヘンな京都行きであっ
た。明後日は糖尿の診察。これの気が重い。配剤されている薬の副作用らしいが、脚はむくみ、体重は減るどころか増え気味になっている。あんなに自転車で運
動していてもである。
2006年4月18日00:10 固。
胸筋〜肩筋が
固まってしまったんじゃない?
ってくらい動かなぃょ?
両腕あがりましぇん。
グワングワン
ヒリヒリ
ジンジン
ってかんじ?
どうなってるの、
mybody(? 〓?)
2006年5月8日15:46 ヘタレ
まずいです。
何もする気が起きません。
5月病でしょうか。
いや待てよ、
3月からずっとこんなんです…OTL
何がいけないって、
寝ても覚めても疲れがとれないんです。
最近は腰痛がひどくて熟睡できません。
熟睡どころか寝っころがれません。
布団の上でウダウダするのが至福の時でしたが
今や布団の上は痛みとの格闘の場です。
胸の痛みは大分ひいてきたものの、
今さらながらに
「健康診断の結果がふんちゃら」
と大学の診療所から呼び出しくらいました。
結果やいかに…。
* やす香の病気「白血病」は、以前に比べて新しい治療の進歩で、軽快への希望が見られるというテレビ番組に、力強い頼みを覚えている。どうか、そういう
医学的な幸運に恵まれて欲しい。
* 帰宅してみると、作家の近藤富枝さんや読者の岡部洋子さんたちにご馳走を頂戴していた。郷土出版社からは『京都の文学』の一セットが寄贈されてきてい
たし、読売新聞大阪から原稿依頼も来ていた。
あす一日は休養する。疲れというのは溜まるモノのようである。
* お久しぶりです 今年は梅雨闇が長いように感じられてなりません。
自転車で20分ほどなので、湧水地にはときどきでかけ森を散歩しています。水音もますます豊か、水遊びのこどもたちの姿を多く見かけるようになってきま
した。以前はカモのつがいなどもよく来ていたのですが、ここのところ子ども達のげんきな声に飛来を敬遠している様子。
退職して2ヶ月、これからの人生をどう創っていこうかと思い、いろいろ考えてはどうも寡黙になりがちです。手始めに日々の雑記帳から書き始めてみようか
なと思っています。
旧約聖書と千一夜物語は変わらず、少しずつ読みすすめています。
千一夜物語の巻6、353〜「肉屋ワルダーンと大臣の娘の話」のくだりは、王の気持ちがだいぶ和らいできた兆しがみえ、なかなか興味深いところでした。
肉屋の若者が、少女の頃黒人に最初に犯されたために淫乱(?)になってしまった美しい姫を助けるお話。老婆に頼んで薬を調合してもらい、<
ruby><rb>燻</rb><rt>いぶ</rt></ruby>しだすと黒い
ウナギと黄色いウナギが出て姫は穏やかな気性を取り戻すわけで、シャハラザードからそれを聴いた王が「昨年、その薬があったならば・・・」と述懐するシー
ンは印象的でした。
また、最近読んだ『わたしを離さないで』は衝撃的な作品で、2〜3週間人間とはなんだろうと考えこんでしまいました。医療のため、臓器移植用の人間コ
ピーを製造し育てる・・・話です。
先日ひばりヶ丘に行きましたので、「テイファニー」に寄り、おすすめの「ハンバーグ」試してみました。なるほど、素朴で美味しかった!じゃがいもの冷製
スープとても素敵でした。 ゆめ
* お帰りなさいませ〜♪ 百合
ご無事のお帰り、何よりです。
日記、拝読いたしました。お疲れだったんですね。どうぞ明日はゆっくりとお休みください。
足のむくみと体重ですが、体内の水分が上手に排出されていないから、足がむくんで体重も見かけ上は増えて見えるのかもしれませんね。もしそうだったら、
強い利尿作用のある食べ物=西瓜、メロン、小豆、珈琲なんかが効くのではないかと・・・。あとは、少し安静になさって、腎臓そのものを休ませると、よろし
いのではないかなぁと思いました。
* インシュリンを利かせるために「アクトス」という薬を併用し始めてから脚にきついむくみが出て、体重まで増え始めた気がしている。これをやめたいと、
明後日ドクターに頼んでみる。わたしは、これまでの七十年に、盲腸の手術で入院した以外は、小学校五年生の秋に腎臓病で死にかけた入院が一度きりで、他に
入院したことがない。アクトスにはたしかに排尿阻害の傾向も感じられる。腎臓をいためるのは困る。今一つは、むかしにくらべて皮膚が傷つきやすくなってい
る。糖尿病の関連らしいと濃厚に推測できるのだが。
* 光文社智恵の森文庫の『古美術読本』二「書蹟」の巻の編著が出来てきた。井上靖在世の頃、先生の推薦で随分いろいろ私は仕事をさせてもらった。枕草子
や泉鏡花も編纂したし、淡交社の『古寺巡礼』にも書いた。そういえば、『建仁寺』の一文も智恵の森文庫に入っている。『書蹟』には、岡倉天心、幸田露伴、
青木正児、小林太市郎、三条西公正、小松茂美、安田靫彦、武者小路実篤、高村光太郎、村上華岳、会津八一、北大路魯山人、亀井勝一郎、吉川英治、宮川寅
雄、山本健吉、井上靖、大岡信という豪華な顔ぶれで編んだ。わたしは本のお添え物の「序」を書いただけであるが。なつかしい。
* 七月六日 木
* 同じ夢にしつこく悩まされながら、熟睡。熟睡していても、十一時前、血糖値は上がっていた。
* 昨日は半ば呆然と暮らしました。折りしも北朝鮮のミサイルが日本海に・・一日中テレビをつけて・・それでもミサイル云々と比べようもないのですが、
健康のこと…断然重要なのです。お元気でありますように。
午後、BSで『草原の輝き』という映画を見ました。エリア・カザンの原作で一九六〇年頃の映画で、わたしは高校生の時に見ています。「草原の輝き、花の
華やかさは失われるが・・今日を強く生きること」というメッセージ。作中のまだ十分に若いナタリー・ウッドやウォーレン・ヴィーティから遥かに遠い
<ruby><rb>年齢</rb><rt>と<rk/>し</rt>
</ruby>になっても伝わる言葉を自分に向けていくしかありません。 鳶
* 京都は暑かったでしょう。
ここ二日は準決勝を観よう、とワインの力を借りて早寝早起きをしています。
ご贔屓イタリアが勝ち。
今、終盤のロスタイム、前半、ジダンのペナルティキックで一点先取のフランス、好きなラ・マルセイエーズが一際大きく響いています。ポルトガルも応援し
ていたので、複雑。フランスが決勝戦へ、生放送していま〜す。 泉
* 胸の底に、とぽんと黒い深い穴が覗ける。よく分からないが、寝起きに目に入った北大路欽哉の『子づれ狼』のせいかもしれない。この時代劇には、わたし
のもっとも嗤う通俗の極みその代表例である『大岡越前』『水戸黄門』『暴れん坊将軍』とは抜きんでて異なる美質と強い訴求力があり、しかし哀しくも心楽し
ませないつらさもあり、画面に触れるだけで私の胸は塞ぐのである。そうさせる力があり、運命とか宿命とかの愚かなほどの苛酷さを横溢させている。
* 九月歌舞伎座、初代吉右衛門生誕百二十年の「秀山祭」は、待ってました。すぐ幸四郎夫人に注文。八月の納涼歌舞伎には扇雀、染五郎二人ともしっかり出
勤するのだが、演目にやや心行かぬ物があり、休むことにした。もし妻の体力がゆるすようなら少し涼しいところへ一二泊の小旅行を楽しみたいが、こればかり
はその時次第。
*『最上徳内』と『青春短歌大学』の「mixi」連載をつづけている。のこっていた後書きも入念に良く読んで「湖の本」新刊を責了し、これでいつ本が届く
やら、困ったことに発送の用意が本の搬入までに間に合いそうにない。発送の仕事も、今度は一冊が二百頁という<ruby><
rb>一入</rb><rt>ひと<rk/>しお</rt></ruby>の大冊、
その重さからも容易でない。ハラを決めて、ゆっくり時間をかける。
* 讃岐うどんのおいしいのを昼にいただき、そのあと、一時間余自転車で走ってきた。田無の電波塔の北方に自然なままの大きな森林が残っているのにはじめ
て気づいた。鬱蒼という二字がふさわしい、少しコワイほどの樹林の中をぐるりと往復してきた。
今日は危なげなく、帰りにはひそかにお目当てにしてきた「保谷のかりんとう」を箱で買って帰った。
* ミシェル・ファイファーのしっかりした映画をみたあと、息子の新しい連続テレビドラマ『花嫁は厄年!?』の始まるのを、見た。
よくもまあ、というほど。落胆。
場面と台詞をさわがしく繰り出すわりに、動的なテンポの練り上げもなく、リアリティーもなく、人間の造型もなく、むろん演劇的なクオリティーもなく、要
するにドタバタの作り物で、演出も写真も演技も、お話にならない。
一回目だけで全体を推測はしないけれども、一回を見た限り、篠原涼子も、まえの「雪平女刑事」の颯爽とした造型からくらべれば、陳腐でウソくさい芝居ぶ
りだし、筋書きの設定も、カードの撒き方も、真実感が少しもない。佳い女優が可哀想みたい。騒々しさを面白さと勘違いした低俗ドラマの低俗演出、いただけ
ない軽薄さ。このぶんでは、岩下志麻のミスマッチも予想され、がっくりくる。
そもそも京都のワコーめく会社に、何年勤めたからといって、福島育ちの青年に、あんな完璧な関西弁を柄悪く駆使されては、そもそも「ことばや方言、訛
り」というものへの理解がどうなっているのだろうと想う。福島の桃つくり農家の母親岩下志麻は、どうやらかなり端正な標準語をしゃべり出しそうなアンバイ
だが、この脚本家は、「ことば」「方言」「訛り」「風俗」を、小道具として、今後巧みにドラマの筋書きに組み入れる算段なのか。それなら少し期待してもい
いが、「ことば」はバカにならない生き物、またこの予定された筋書きから見れば、そんなことをすればするほど、不自然負けするのではないか。
* がっかり……。
* こんばんは。京都の旅のお疲れは取れましたか。ご心労に暑さが重なってどっとお疲れがでたのでしょう。
晴れるとすぐに30度を越える暑さで、今からうんざりしてしまいます。
今年の祇園祭は、宵々山が土曜日、宵山、巡行が連休になり大変な人出になりそうです。
父がお祭り好きでよく連れてもらいました。一度だけ通りの二階に上げてもらったことがあって、お囃し方の顔が目の前をいくのが、なんだか恥ずかしかった
記憶があります。あのころは<ruby><rb>粽</rb><rt>ちまき</rt>
</ruby>も鉾の上から盛んに投げられていましたね。
もうあの熱気の中に出ていく勇気もないです。
ご無理されませんようお大事にしてください。
やす香さんのご回復を心からお祈りしています。 のばら 従妹
* 従妹のたよりはいつも具体的で、メッセージとして包み込む容量が大きい。懐かしさが共有できる。
この母方の伯父はまことにふぅっくらと柔らかい人柄・身柄で、絵に描いたような美しい京ことばをはなした。わたしが京ことばを意図して用いるときは、よ
くこの伯父の肉声に乗せるようにして正確さを計ってきた。
* 京都ご出張おつかれさまでした。
ご対談の、茶会記、献立表を拝見するのが楽しみです。
「三十六峰」のお茶杓は三十六本なんですね。一本一本の銘が山の名とは、なんと趣深い。 讃岐
* 京都からお帰りなさいませ。
脚のほうはいかがですか。肘のお怪我も。心配しています。痛むのではありませんか。今は周囲にも体調が悪いという人ばかり。鬱陶しい季節のせいもありま
すでしょう。どうぞやさしくやり過ごして、お大切になさってください。
地唄舞の先生から歌舞伎のタダ券をくださるというお話がありました。二階席というので、それほどいい席ではないでしょうが、チケット二十枚ほど手に入れ
て満席にしたいお知り合いがいるそうです。夜の部のほうです。一度は観てみたいと願っていた玉三郎の泉鏡花なので、とても楽しみに。少しお近くに行けるよ
うでドキドキします。
明日の診察が良い結果でありますように。 夏
* 七月七日 金 七夕
* 黒いマゴ(黒猫)に足さきを軽く〓んで起こされた。早起きすると、用事ははかどる。
* 予約は一時だが、検査を早く済ませておくと診察が少しでも早く済むので、十時前に出掛ける。聖路加へは保谷で有楽町線に乗車して、一時間あれば受付へ
着く。一時過ぎに気分良く昼食出来るかどうか、今日は雲行きが良くない。
* 出がけに、やす香の「告知」と題した「mixi」日記が出た。癌センターに、転院、と。Ah…。
朝日子に様子を聞かせて欲しいと連絡したが、あいかわらず朝日子からは、見舞いの日以前も以後も、わたしへも妻へも、何一つ報知も連絡もない。
2006年5月12日14:33 へこたれ
ぶっちゃけ
私へこたれてます。
動きたいのに動かないのょ
私の身体〜(*〓 *)
病気でも
怪我でもなけりゃ
なんなのさぁ?
たまに言われるんだよね。
「ストレスじゃない?」
って。
まぁ思い当たる節はあるものの、
除外しようのないもんでして…(‐ ‐;)
OTL (=ガックリの文字絵らしい)
2006年5月19日04:41 うぎゃぁ(*´舎´*)ノ
世の中の流れって残酷ね。
多=正
な世の中は永久に続くのかしら?
2006年5月19日16:50 WHERERUFROM?
この例えようもない気持ち悪さはいったいどこからくるんだろう??
うげげiI――Ii(ツω- ´。)iI――Ii―
* 聖路加の食堂で、ビーフシチューのランチとアイスクリーム・珈琲で、早めの昼食。「ビールは、ない…よね」「ありませーん。ノンアルコール…ノンシガ
レットでーす。前にも聞かれましたねえ」「ハハハ」「ビール、呑みたくなったなあ」と、ウェイトレス嬢。気散じで、よろしい。
* 先に早く検査を済ませておいた御蔭もあろうか、一時の予約だが、十二時半には名を呼ばれて一時には会計も終えていた。検査結果は、なんと、格別の改善
ぶり。アクトスのせいもあり体重は少し増え気味でもむしろ当然、前回「8.6」といたく叱られた値(ヘモグロビン?)が、「7.0」ちょうどにめざましく
下降改善されていて、ドクターはご満悦であった。アクトスでむくんでも腎臓への影響は心配しなくてもいいと。それでもアクトスは一応おやめとなる。体重の
増え気味に嫌気がさしていたが、この季節とこの薬剤投与からすれば自然増で問題はないと。よしよし。自転車運動は卓効を奏したようであるが、運動過多で疲
労したり、その結果事故死したりしないでくれと、命の心配をしてもらい、恐縮した。わたしとしては、あれぐらい野放図に飲み食いしていたのに状態改善とい
うのは、バカされたような気分だが、儲けもの。
* 銀座ニュートーキョーで生春巻で乾杯。ケネディーの『永遠の処女』がおもしろく、寸刻の退屈もなし。池袋さくらやで「ランケーブル」を買い、ついでに
豪華版ロースカツ弁当を二つ買って、帰宅。
* 運動(ヨガ)に行ってきました。少しずつ、体が慣れてきたのか、はじめの頃ほどしんどくなくなってきましたよ。運動してかく汗は、サウナや岩盤浴な
どの、じっとしていてかく汗とは別の汗腺から出るんですって。やはり、何事も、ラクしてはいけませんね。
ですから、風がからだを動かして汗をかくのは、とてもいいことなんです。
さてさて、風の診断結果はいかがでしたでしょうか。一緒においしいものが食べられるといいな。
一時から、以前風がごらんになったとおっしゃった『女の』」がNHKでありますので、見ます。
富士山をみあげながらいつも風を感じています。 富士浅間の、花
* 率直に励ましてもらっている気がして、有り難い。
私も帰宅して『女の園』のラストを観た。こういう映画の創れた時代、創った映画が時代をほんとうに刺戟し得たあの時代を、わたしは、胸が痛むほど懐かし
む。おそらく今の若い人達にはこのような映画は「ダサイ」のではなかろうか。
たとえば「**をするのがいけない」のではない、「校則で禁じている<ruby><rb>のに</rb><
rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>するのがいけない」のだと学校の先生が言われるのは理の当然の
ようである、が、それはその一方で「校則を適切に変えて行く自由と権利」の抑圧になっていては「いけない」だろう。この抑圧に闘ってきた時代があり、多く
の大事な権利を人は手にしてきたのに、いまや、着々と奪い返されつつあり、わるいことに、もう『女の園』『日本の悲劇』『笛吹川』『野菊の墓』のような
ハートのある映画がまっとうに創られない、創ろうともしないし、創ってもひとが見ない時代になりきっている、それが実に辛いし、切ない。消耗娯楽映画はあ
たっても、時代を厳しく批評しつつよりよい時代を創り出そうとする映画は、たいがい頭でっかちの空疎な大作というだけで終わっている。なさけない。
2006年5月22日05:30 遅寝。早起き。
まだ朝の5時ゃん\(* ´∧ `)/
3時間に1回目が覚めるんだけど、
不眠症なのかしら?
整体行って
腰はなんとかなったんです。
仰向けで寝られるなんて
久々の感動だったわけなんですが、
それでも熟睡できない理由があるのかえ?
まだ節々が痛いんですが、
まぁ要するに疲れなわけです。
整体師さんいわく
全身肩凝りみたいな状態らしい。
胸が痛いのも
恐らく、
本当は呼吸とかの度に動く骨が
周りの筋肉が固まってて
動けないかららしいんです。
だから熟睡したい。
時間はあるんです。
睡眠の時間ちゃんととってるんです。
なのに眠れなきゃ
疲れとれないじゃないですか 〓 ゚( ゚ `丈 ´* ゚) ゚ 〓
もぅ自分の中のわだかまりとか、
周りのイザコザとか、
全部忘れたい!
これ、
要はストレスなのでしょうか…?
* 七月七日 つづき
* マーガレット・ケネディの『永遠の処女』は、小説を読むという嬉しさをたっぷり感じさせてくれるしファシネーションに溢れている。まだ年おさない娘の
作品としては才知に溢れて、生き生きとした会話を書いている。彼女の戯曲的な才のなせるところと解説されている。
ルイス・ドッドとフローレンス・チャーチルの対話の中で、天才的な作曲家のルイスは二十歳前にサーカスの楽隊でコルネットを吹いたりサーカスのための曲
も作っていた経歴を、令嬢フローレンスに打ち明け、「僕の様式はいまだにその名残を止めている」と言うと、フローレンスは即座に、「ジャーナリズムと同じ
ようなもの」ですねと応じ、「どんなにその人が文学的でも、ジャーナリスト上りの作品にはそれがでてますわ」とルイスをたじたじとさせる。なかなかの批評
家。
新聞記者や記事を書いていた雑誌記者あがりの作者は少なくないが、このフローレンスの言うようなところを、わたしも感じてきた。それがわるい、よいの問
題ではないが、筆致にそれが出てくる。読みやすいが味は浅いのである。
* 昨日京都の星野画廊が送ってきた図録、「忘れられた画家シリーズ30」『没後78年増原宗一遺作展』「夭折したまぼろしの大正美人画家」は、正真正銘
のすばらしい発掘で、眼を吸い取るほどの画境。岡本神草や<ruby><rb>甲斐荘</rb><
rt>かいのしよう</rt></ruby><ruby><rb>楠音</rb>
<rt>ただ<rk/>おと</rt></ruby>らを凌ぐ凄みを描いて、なまなかの美人画とはとて
も謂い得ない天才を輝かせている。秦テルオともどこかで魂の色を通わせているが、恥ずかしながら是ほどの画家の名前も作品もまったく知らなかった。鏑木清
方門の、師も一目置いたであろう画人で、ひと言で言えば、最も佳い意味で「凄い」し人によれば「怕い」であろう。「春宵」「舞妓」「藤娘」「手鏡」「五月
雨」「七夕」「夏の宵」「夕涼」「浴後」「両国のほとり」「落葉」「鷺娘」などとならぶと、尋常な美人画の題目であるが、一作一作は最も凄みのある、鏡花
や潤一郎の大正の作に通底する悪魔性も隠している。
「夏の宵」という二曲の屏風が怕い。この一冊しかない『宗一画集』のなかに黒白の図録として遺された「舞」「三の糸」「悪夢」ことに蛇をからませて立つ
「伊賀の方」の二図や「誇」はその美しい凄さに肌に粟立つ心地でいながら、深い官能美は、やはり鏡花にも潤一郎にも共鳴する。こんな画家に出会うとは、た
だもう、驚嘆。
こういう貴重な掘り出しの仕事を、夫妻でつぎつぎにやって行く星野画廊の業績は、文化勲章ものである。これを京都で見てこなかったとは、痛嘆。
* この天才画家増原宗一の発掘に較べれば、偶々手に入れた「オール読物」五月号の「発掘!藤沢周平幻の短篇」なんてものは、『無用の隠密』も『残照十五
里ヶ原』もただの通俗読み物を半歩もでていない。手慣れた措辞に渋滞のないところは、他にも満載されているくだらない通俗小説のヘタなのに較べれば、三段
も五段も優れているのだけれど、こと文芸としてみれば講釈の達者という以外のなにものでもない。これでも比較的藤沢周平は何作か見る機会があった方だが、
おはなしの上手以上の感銘は得られなかった。藤沢にしてしかり、「力作短編小説特集」など、どこが力作なのやら、まことにくだらない。「オール読物」に
載っている作品は「つまらない」と言うのですかと、このまえ、自称エンターテイメントの、大家らしき人に顔色を変えて迫られたが、この号で見る限り、優れ
た作は優れた作ですよとすらも、ただ一作として言いがたかりしは、如何に。
*『初恋』から読み始めました。
先生、素敵なご本をありがとうございました。
谷中いせ辰の和紙(水色の鹿の子)でカバーを付けて読んでます。
清冽な文章!本当にもう、凄いです♪ 引き込まれます。気づけば、両の眼を大きく見開いて読んでいて、目がぱりぱりに乾いてしまいました。
電車で読んでたら危うく乗り過ごしそうになり、買い物でも、直しに出していた洋服を忘れるところでした。日常生活の全てを道端にバラバラと落として歩
く・・・。本を開いたとたん、人生を小説に持って行かれちゃう・・・。そんな感じです。 百合
* こういう思いをわたしも潤一郎作でひしひし味わった。こういうレターを書きはしなかったが、谷崎潤一郎論を思う存分に書きたいばかりに小説家に先に成
りたいと本気で考えた。『吉野葛』『蘆刈』『春琴抄』『少将滋幹の母』『武州公秘話』『細雪』『猫と庄造と二人のをんな』などだけでなく、初期の短篇や、
大正時代のあれこれでさえも、わたしは活字に<ruby><rb>唇</rb><rt>くち<
/rt></ruby>を添えてうまい味をのみほしたかった。そういう思いをさせてくれない軽薄な読み物など、どうでもいいのである、
わたしは。時間つぶしに過ぎない。熱狂して読んだ作品を列挙したらたいへんな量になるが、むろん読み物もたくさん読んできた末に断言できるのは、そういう
感銘作の中に読み物は滅多に入ってこない。それらから何か魂の糧をえられたという覚えが殆どない、ということ。
* 2006年07月07日 07:58 告知 やす香
私の病気は
白血病
じゃないそうです。
肉腫
これが最終診断。
れっきとした
癌
だそうです。
近々(院内の)癌センターなるところに転院します。
やす香の未来はどこにいっちゃったんだろう…
* 愕然!白血病ならばまだ何とか…と希望を持っていた。最悪の事態。言いしれぬ憤りのようなモノに苦しむ。
* 2006年07月07日 14:31 会いたい やす香
親友に会いたい
友達に会いたい
先輩に会いたい
後輩に会いたい
先生に会いたい
みんなに会いたい
最後の土日に
みんなに会いたい
* おお、やす香は恐怖している!行くよ、やす香。行くとも。
* 七月八日 土
* 今日は、歯科。暑い。転んで傷つけた右肱裏がひりひり痛む。
* 糖尿の診察 よかったですねー。気持ちが晴れ晴れとなさいましたでしょ。
『女の園』は、力強い映画でした。感動しました。現代にも通用する作品です。アイルランドの女子更正施設の映画(題名忘れました)を思い出しました。
新刊の発送という大仕事を控えておられる風、重い本を運ぶ際は、くれぐれもご注意を。ほんとうに、これがいちばん心配。
心配しつつ、元気な、花。
2006年5月27日16:34 なんでぇ 〓 ゚( ゚ `丈 ´* ゚) ゚ 〓
身体が動くことを拒絶してます( `・c 〓・ ´)
家の階段の往復するだけでだるくて気持ち悪くなるiI――Ii(〓ω‐ ´ 〓)iI――Ii
息あがるしOTL
さっきは足に激痛がはしりました(* 〓*)
いったいどうなってるんだぁこの身体。
2006年5月27日22:57 どわぁぁぁぁ
どうにか整体行ってきた。
帰り、坂の途中で
倒れるかと思ったOTL
ここ半年の疲れが
また一気にでてきた感じ。
どわぁぁぁぁって。
だるすぎて
ベットに張り付け状態。
* まるまる一ヶ月、テレビもラジオもない無銭旅行のような、あるいは読書さえもままならぬ苦役のごとき身辺整理の日々をすごして寝つかれぬ深夜、ひさ
しぶりにパソコンを開いて、愕然と「私語」を遡りつつ、涙しております。
わたしの『石火のごとく』にふれて妹が米国から送ってくれたメールに、
「いつも思い出すのは、わたしが離婚の泥沼にいるとき、他にはなにも言わず、「がんばれ。がんばれ」と、ただそれだけをなんどもなんども電話の向こうで繰
り返してくれた、あのときのお父さんの声です。」とあるのを読んで、あらためて父の妹への深い愛情を感じ、また心配されることの幸せに思いいたったのです
が、先生のご心配は必ずや届いています。
そしてまた、「がっかり・・・」の手厳しい叱咤が愛情表現の変形であることを、建日子さんは先刻ご存知のはず。こころの芯より心配し叱咤してくれる人の
あることの幸せ。それがどれほど得がたいものであることか。
やす香さんの治癒を遠くからお祈りいたしております。 六 四国
* 感謝。
* 歯医者のあと、「リヨン」でうまい昼食。ワインは赤。
ケネディの小説を読むのが嬉しくて仕方ない。こんな不思議な気持になるのは久しぶりだ。二十世紀といえどもわたしの生まれるより前だろう。イギリスにま
だ「イスラエル」の自覚と理想の揺曳していたのが分かる。
小説とは無関係であるが、英国はあれで、ローマ公教会、イングランド国教会、清教会などが組んずほぐれつの闘争を繰り返した国で、トーリ党、ウイッグ党
の軋轢も甚だしかったが、理想の清き「イスラエル」を本気でイングランドに建設しようという熱烈な信仰が、政治的にも渦巻いた時期がある。おもしろい国で
ある。
なにしろ王様が純然のイングランド人ではない時代が永い永い。王様の信仰と国民の信仰とが真っ向ぶつかりあうこともしばしばで、しかもイギリス国民の
「議会」主義は根強い。王様に強力な常備軍のあったことが少なく、君臨すれども、議会を招集し解散する権力はあれども、議会の決議無くして好き勝手に王は
金も使えなかった。フランス国王から小遣いを貰っていた王もいたのである。
そういう国の貴族社会も、根を辿れば複雑な出自である。騎士も領主も農民出も商人出も、僧侶もいるから難しい。
オースティンの『高慢と偏見』も優秀な芸術であるが、この国のゼントルマンやレディたちのうごめく小説を通して見て取れる「英国像」はいかにも懐が、深
いと謂うよりも、ややこしい。だから面白い。
* 映画二作を「聞き」ながら、新刊発送のための作業をよほど進めることが出来た。それでもまだいろいろ遅れている。追いつけるかどうか、はらはら。
明日は休めるけれど、明後日の月曜から木曜まで、四日連続して、委員会二つや歯医者など、休める日がない。
* 七月九日 日
* 夢見わるく、目覚めは気色わるかった。「夢」「夢」「夢がある」「夢をもとう」などと言う人がいると奇妙な気がする。まともな人間を惑わせる諸悪の根
源のひとつであるに相違ないのが、夢。そもそも今生きていると思っている、それ自体が夢にほかならないのは明らかで、真に生きるとは、そんなたわけた夢か
ら覚めること、ああみんな根のない夢なんだと気づいて覚めること、そこで始まるものであろうと、わたしは、信じている。
こんな風に書いている、考えている、手まさぐりしている、このすべてが夢であることを、わたしは「感じて」いる。感じているからそれを「眺めて」いる。
与えられた<ruby><rb>役</rb><rt>〓</rt><
/ruby>のように意識して演じている。あえていえばそういう舞台に置かれていると知りながら、演じている。楽しんでさえいるのである。
「夢だよ」「これは夢だよ」「夢なんだよ」と囁く。人生は、「闇」に言い置く夢である。闇が真っ暗だと思うのは、夢から覚めていないからである。闇の絵空
事はかがやいている。創り出した小説が示している。闇は光っているのである、ほんとうは。
* 『初恋』、読み終えました・・・
本当に凄い作品、只只感動するばかりです。読んでいると、いろいろな想念やら情動やら、もはや虚実がはっきりしない過去の記憶の断片やらイメージやら
が、諸々押し寄せてきて、その大きな塊をどう扱えば良いか途方に暮れるような状態です。
読み始めた瞬間、乱暴に持ち上げられた子ネコのようにひょいと〓まれ、無造作に{あの場所}へ放り込まれた感覚でした。
読み終えても、主人公と木地(雪子)さんが居る、あそこから出られません。あまりに現実と地続きで出口を見つけられずにいるのです。そして、まだ帰らず
にもう一度たどり直して深く理解したい、と、帰ることを拒む私も居ます。困りました・・・。
物語は、何本もの絹糸が寄り合わさって一本の美しい紐になったような造りで、読んでしまったことで、それ以前の自分には戻れないと思うほどです。
私の人生では、ごくたまに、こんな風に、天から翼を持った鯉が降ってきたような、そんな歴史的な出会いを賜ることがあります。私は特定の宗教を信じてい
ませんが、こういうときは、確かに神様に祝福されているなぁと実感します。湖先生に会わせてもらえたことを、本気で神様に感謝しました。
そういえば、私の一番好きな女神がアメノウズメノ命で、作品中に彼女の名が出てきたこと、愛八さんたちが嗣いできた芸能の消息とともに、深く心に刻まれ
ました。
とりとめがありませんが・・・。それではこれにて・・・。 from 百合
* 原題は『雲居寺跡(うんごじあと)』現在では京都の東山、大きな露座の観音さまのおわす高台寺になっている。名作能『<ruby>
<rb>自然居士</rb><rt>じ<rk/>ねん<rk/>こ<rk/>
じ</rt></ruby>』の舞台であり、わたしの小説では、平家物語そのものを主人公にした現代小説『風の奏で』でも重要な
舞台になっている。『初恋』も『風の奏で』もれっきとした現代小説であるが、梁塵秘抄や平家物語の時代へずぶと半身をさしこんで幻想的であり歴史的である
ように創作されている。そしてともに「芸能」を担ってきた人達への愛と理解と痛恨を書いている。
そうそう易しい小説ではないが、読み巧者、達者には愛されてきた。
『風の奏で』ではこんな人もいた、はじめて文芸春秋本を手にしたとき、読みにくいと腹が立ち、壁に投げ付けました、と。それが、アヘンを呑んだようにもう
手から放せない、何度も何度も何度も読んでいます、と。
文学とは、優れた力ある読者にこのように迎えられるものでありたい。百合さんに感謝、作が幸せ。
* 十日ほどか、「ひだる神もどき」のようなものにとり憑かれ、ぐずぐずしていましたが、「いつまでこんなふうにしていてよいものか」と思ったきっかけ
は、ミクシイのわが日記にあった先生の足あとでございました。ありがとうございました。
連載の『青春短歌大学』で、岩上とわ子さんの「海みゆる窓べを吾にゆづりつつ旅の日も言葉すくなし夫は」を取り上げていらっしゃいました。
岩上さんは、うたの大先輩、いろいろご指導をいただいたおひとです。おやさしくて、「<ruby><rb>臈長<
/rb><rt>ろう<rk/>た</rt></ruby>けた」ということばがぴったりのおひ
とでした。生き形見とおっしゃって、<ruby><rb>紬</rb><rt>つむぎ<
/rt></ruby>の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ<
/rt></ruby>と帯をくださいました。お背が高くていらしたので、<ruby><rb>裄<
/rb><rt>ゆき</rt></ruby>がわたくしには少し長いのですが、仕立て直すのが惜しくて、そ
のまま、着せていただいています。
近頃はめったにそのお名を見ることがなかったものですから、なつかしくうれしく、つまらぬおしゃべりをしてしまいました。おゆるしくださいませ。
香
* アイヌ語と江戸時代の言葉とを対訳するように蝦夷地事情を報告している最上徳内の文書が在る。「mixi」にこれも連載中の長編でそれを読んだ人が、
すばやく反応してくれていて、にんまりした。
* こういう話ばかりだといいが、今はそうは行かぬ。猛雨の災害も厳しいし、北朝鮮をめぐる日本の外交のもたつきも、なんだか<ruby>
<rb>後手</rb><rt>ご<rk/>て</rt></ruby>にさ
え回りかねた総理の無策にもいらだつが、やはりそれどころでないのは、孫やす香の病状。
2006年5月28日06:20 くぅ(〓〓〓;)
いったいいつになったら治るんだ!
〓 ゚( ゚ `丈 ´* ゚) ゚ 〓
家の階段すら億劫だょ↓
起き上がるだけで一苦労だし↓
人に会えないのが一番辛い…。
風邪でもないのに
1日中ベットの上なんて
寂しくて死んでしまいそーデス(;c 〓; ゚)
2006年6月2日22:43 久々のケータイ
ベット上の生活もかれこれ1週間。 (自宅)
トイレに行く以外食事もベットの上。
極度の貧血らしいです。
起き上がると
頭に血を送れないらしいです。
ひどい時は
ケータイすらさわる気になりません。
* 「白血病」として一度下りた診断がぐずついてますると、やす香自身が前に「mixi」で報せていたが、もっともっと怖い「肉腫=癌」と決定し、今日九
日をかぎりに今の個室を出て「がんセンター」に転院すると「告知」していた。病態の表現としては肉腫とだけでは素人には少し分かりにくい点もあるが、とも
あれやす香自身、まだ、わずかなりとケイタイを通じてメッセージを送り続けてくるし、友人達の激励もまた涙ぐましいまでしきりであるけれど、いかなる吾々
の問い合わせにも、押村家からは、ただ一度の返信も返辞もこない。
転院先の「がんセンター」が、相模大野の北里大学内にある施設をいうのか、たとえば東京築地の「国立がんセンター」などをさしているのか、それも分から
ない。「会いたい」「会いに来て」とやす香のメールは叫んで呼びかけているが。
押村という母親も父親も、この<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt>
</ruby>になにを考えているのか。
* メッセージを頂いて、その続きで「生活と意見 闇に言い置く」など興味を持って、読みました。読みっ放しでスミマセン。
今、居らっしゃるところ、偽りのない生活の中から聞こえるものには、素直に読める静かな迫力があります。また時間をみて読ませていただきますね。
「mixi」に参加しながら、言うのも変ですが、PCのネットワークというのが、どうも以前より違和感があり…慣れないのです、が、自分なりの活用や愉し
み方を模索してみます。よろしくお願いします。
ありがとうございます。
◇年齢とは…気が付けば、〇〇才。この事実を何としよう。明かす必要があれば、隠すこともないので「〇〇才です」。それで、一括り。収まりがつくよう
な。が、しかし私自身は「私」が数字で収まる筈もないので倦む。
大人になったか。
親になったか。
〇〇才になったか。
老いたか。
昔と違って、今の大人とされている人は 自分の役目や老いを「ちゃんと」節目で自覚するような術も曖昧で、長く生きることになっているが(寿命)、今こ
の自分はどうだ?
何とも収まり悪く、漠然とした不安も多い。
その昔、子供の頃、大人には「ちゃんと」という、子供には分からない 当然で、自然で、明確なものが備わり、それが大人として映るものだとばかり思って
いた。
新しいものに惹かれ、自由な感覚、ミーイズムを謳歌してきたその質はお粗末で、途方に暮れさせるものだった。
昔の大人、老人も「ちゃんと」という備わりは、ひとりひとりのことで何を以って据えたように見えたのかは分からないが。
ここのところ、そんなようなことを考えています。親友(62才)と呑みながら話題にしたり、本読んだり…。 福
* この人の、「mixi」の自己紹介の「味」に気を惹かれ、思わず立ち止まった。表向きわたしより一世代余り若い人になっているが。
若かった昔に耳にしたような、或る「物言い雰囲気」が蘇ってくる。
* 七月九日 つづき
* サイトでお孫さんのご様子を拝見しております。ご心配になるお気持ちが文面を通してこちらによく伝わってきます。治療の成果があがり快方に向かわれ
ることを心よりお祈りしています。
最近の一連の動きをめぐるご家族のご様子や、特にお嬢様へ言い及んでいるものを拝見していると、自らを振り返りつつ親子のことをあれこれ考えさせられま
す。
水上勉氏の御令息である窪島誠一郎氏が、「人生60半ばになると、結んだひもがこぶたん玉になっているところがある。ところが僕は、こぶたん玉を隠そう
と、ひもを両端からぎゅーと締めてごまかそうとしてきた。だけど、ひもに手をやると、やっぱり、コブがあることはわかるんですよ。あのとき、なぜコブをほ
どかなかったか、そういうチャンスは何度もあったのに・・・。」という発言をされたことがあります。
これは窪島氏を育ててくれた養い親のお母様とのことをおっしゃっているようですが、それに限らず肉親との関係で未熟であった自分の対応に気付き、それを
悔やむということは誰にでもあるでしょう。
ただそれに気が付くには時間がかかります。<ruby><rb>月次</rb><rt>つき<
rk/>なみ</rt></ruby>な表現になりますが、孝行をしたい時には親はなしということになりましょうか。
では親は、祖父母はどうすべきなのか。
昨日81歳になる母と長いこと話をしたときにも、そのことに及びました。
人は、自分の肉親であったとしても上の世代のことを考えるのは難しい、そこに思い至るまでには長い時間がかかる、それが当たり前なのである、上の世代と
しては思っているという気持を伝え続けるだけであるというのが、私の母の締め括りでした。若い世代がそのことに早くに気付いてくれれば、それは僥倖です。
繰り返しとなりますが、お孫さんの治療の経過が良いことを願い、お嬢様(それにお孫さんのお父様を含め)、そして秦様御一統が心安らかとなることをお祈
りします。 正 在・英国
* 物心着いたときから、わたしは「親」をいつも観察していた。身の傍にいた親は、わたしを「もらひ子」した育ての親たちであった。実の親たちのことは知
らなかったが、もののほつれからこぼれる糸屑のように、ぽつぽつと年数に応じて何かしら知れてはきた、ただ、確かめる<ruby><
rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>は、ほとんどなかったし、なによりわた
しに確かめたい気持がなかった。「自分」以外は自分でないのだから、一律「他人」と思い、親だから、きょうだいだから他人ではない、などと思わなかったの
である。
大事なのは、自分のほんとうの「身内」を自分でみつけ、一人でしか立てないはずの「島」に一緒に立とうと願っていた。「妻」とはそういう身内でありた
かった。恵まれた子供達や孫達も、子や孫という関係によって身内であるのでなく、「身内」で在りうる子や孫であればいいなと願っていた。
事実上なかなか容易でないことを、わたしは知っているのである。
わたしが子や孫達に愛情を失ったことのないのは、誰もが信じてくれるだろう、が、それゆえに彼等がわたしの謂う「身内」であるという「保証」は何もな
い。無条件にそんなことをわたしは彼等に強いも、求めもしていない。それは親たちに対しても、終始そうであった。
* 娘が波瀾のあげく結婚した相手は、通俗な「親類縁者」観の持ち主で、婚姻により結ばれた家庭と家庭や、家族と家族とは、当然に「身内」であるという常
識から半歩も出られない、大学で哲学を教えている先生である。
学者であるそういう婿を持ったからは、妻の実家たるもの、婿にたいし、家屋や生活費の経済支援をするのは当然の義務であり、そんな<
ruby><rb>常識</rb><rt>〓<rk/>〓</rt><
/ruby>も<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt><
/ruby>えないバカな親なら、「姻戚関係」をこっちから断つと離縁の手紙を寄こし、それきり一切の交通を断ってしまった、そういう「哲学」の持
ち主であった。
その当時、わたしたち夫婦は、自分を育てあげてくれた、三人とも九十歳台になる・なろうという義理ある父や母や叔母を、一手に抱えていたのである。
わたしは、妻は夫との暮らしに拠るのがいいという考えだったから、娘が離婚して戻ってくるなど、全く望まなかった。
「他人」であったら愛情はもたないとか、捨てるとかいうような考えでは微塵なく、娘や孫達が幸せならそれでよいと考えて、孫のやす香からの嬉しい働きかけ
があるまで、何一つよけいな手は出さなかった。それでよいと考えてきた。
そして孫達は、「親に内緒」という窮屈さもむしろ楽しむかのように、姉も妹も、二人とも、祖父母の家を何度も訪れ、街でもデートしたり芝居も観たりして
きたのだが、その心優しいやす香(大学二年生)の方が、いま、あまりに酷い難病に蝕まれている。
どう遠目に「mixi日記」を介して眺めていても、大学生やす香の毎日は、適度を遙かに遙かに超えた、過剰も過剰なアルバイトや遊びの毎日らしいのが、
前から見えて、分かっていたし、今年になって体調をどんどん崩しているのもはっきり分かっていた。
わたしはヒステリーを起こしそうなほど心配し、せめて「親に相談しなさい」と孫をうるさがらせていたけれど、後に母親朝日子の述懐を漏れ読むかぎり、一
緒に<ruby><rb>家居</rb><rt>か<rk/>きよ</rt>
</ruby>していながら、「大学生になって以降のやす香の日常について、何も知らなかった、分からなかった」という。そういうものかなあ
と、憮然とした。
そんな不幸な事態になって、いわば非常時、一つの大事な命の危機にさしかかって、押村家は、孫の病院への見舞いを「一度は黙認する」という「はからい」
であった、それも、やす香が「つよく求めた」からである。
病院を訪れたときも、母親は真っ先に、「十五分だけにして」と言い置いて病室を出て行き、吾々と孫二人と四人だけにした。
「三十分」ほどして母親は戻ってきて、そのままわれわれは退去した。父親は顔を見せなかった。
「おまえがいま倒れてはどうにもならないよ。だいじにしなさい。やす香を頼むよ」とわたしは娘朝日子に廊下で言い、やす香が「九月の誕生日」「来春成人の
日」のための晴れ着一式や、付き添う日々の朝日子用にと相当の金包みも手渡してきたが、朝日子はほとんどわたしたちに口を利かなかった。わたしが、この
「私語」に、あの日娘との久しい再会に関し、ほぼ一語も書かなかったのは、「書きよう」がなかった、「書く気持ち」になれなかったからである。
「上の世代としては思っているという気持を伝え続けるだけ」「若い世代がそのことに早くに気付いてくれれば、それは僥倖」とある、上のメールの人の言葉
は、ああ、まったくその通りだ…と思っている。それで仕方がない。
ただやす香という孫の命は、そんなこととは別の次元ではなかろうか。この孫は、祖父母にむかい、自身の意思と行動とで、優しい手を伸べてきてくれた。今
度の病気でそれが親に知れたとき、母親は、「この際黙認」するとだけ言ったそうであるが。
* 七月十日 月
* 体調ととのわず、今日午後の「電子文芸館」委員会、急遽欠席。
* 市役所に証明書を貰いに、薬局にインシュリンを受け取りに、行く。
* 建日子も忙しそうだ。自身を鼓舞し鼓舞して、たぶん懸命に日々を過ごしているだろう。そんな中でも、ときどき、いや毎日かも知れないのだが、わたしの
「私語」にも耳を寄せているらしい。此処で、親たちの日々がいくらか察しられて、安心も不安もあることだろう、電話で話し合うのは二人ともあまり上手でも
なく、好きでもない方だ。
いま「mixi」にわたしは二種類の連載をしている。
わたしにすれば「旧作」を読み直して校正するのが目的の大きな一つなのだが、『青春短歌大学』の方は、三十八に成る息子へそう言っては気の毒だけれど、
父親からのそれとない「授業」の気持も無いではない。同時にほんの憩いの時でもあってくれればと願っている。わたしの肉声はこういう仕事に、より良く通っ
ているつもりでいる。ときには、一服の気持で読んでくれるといい。
* 今日は短歌でも俳句でもなく、一編の詩を出題した。転載しておく。漢字一字分あけておいた「虫食い」に字を補ってみて、ふと「生きる」思いを味わって
欲しい。やす香は必死で「生きたい」と今日も叫んでいた。
* 「病む父」 伊藤 整
雪が軒まで積り
日本海を渡つて来る吹雪が夜毎その上を狂ひまはる。
そこに埋れた家の暗い座敷で
父は衰へた鶏のやうに 切なく咳をする。
父よりも大きくなつた私と弟は
真赤なストオヴを囲んで
奥の父に耳を澄ましてゐる。
妹はそこに居て 父の足を揉んでゐるのだ。
寒い冬がいけないと 日向の春がいいと
私も弟も思つてゐる。
山歩きが好きで
小さな私と弟をつれて歩いた父
よく酔つて帰つては玄関で寝込んだ父
叱られたとき母のかげから見た父
父は何でも知り
何でも我意をとほす筈だつたではないか。
身体ばかりは伸びても 心の幼い兄弟が
人の中に出てする仕事を立派だと安心してゐたり
私たちの言ふ薬は
なぜすぐ飲んで見たりするやうになつたのだらう。
弟よ父には黙つてゐるのだ。
心細かつたり 寂しかつたりしたら
みんな私に言へ。
これからは手さぐりで進まねばならないのだ。
水岸に佇む( )のやうに
二人の心は まだ幼くて頼りないのだと
弟よ 病んでゐる父に知られてはいけない。
* 疲れて、夕食のあと十時前まで寝入っていた。予定していた用事だけをそのあと済ませて、機械の前へ来た。明日は「言論表現委員会」だ。(原作の一字は
「葦」)
2006年6月4日06:38 タイトルなし
考えてみたら、
3月以降
私の中の時が進んでない。
ずっと体調不良で、
なんだかんだ
どれも宙ぶらりん。
自分の許容量以上のものを引き受け、
というか、
自分の許容量というものを
全くわかっていなかった。
ただNOと言うことから
逃げていたんだと思う。
後に残った膨大なプレッシャー、
そして20歳を目の前に、
精神的にも体力的にも
あっという間にどん底。
動きたいのに動けない。
食べたいのに食べられない。
笑いたいのに笑えない。
この1週間、
起きては吐いて、
食べては吐いて、
自分で飲み物すらとりに行けない状態の中、
ふと映った真っ青な顔の自分を見て
なぁにしてんだろーって思った。
こうなったのは他人の責任じゃなくて、
自分の責任なんだってわかってるから
どーしようもない悔しさばっか溢れてきた。
自分の思い通りに
自分で動けることが
どんなに幸せなことなのかが身に染みた。
今は辛いけど、
なんで…?って思ったりもするけれど、
ハタチになる前に
こんなことに気付けて
よかったんだって思うことにする。
治ったら、
自分なりに時間を動かしていこう。
NOって言うことから逃げないで、
自分の思う道を進む。
道は一つじゃないんだから、
どの道を歩もうと、
速足で歩もうと、ゆっくり歩もうと
たどり着く先に
確かな夢さえ見えていれば大丈夫だよね。
“ガキ”っていいですよ。
「イヤイヤ」とか「ウン」が平気で出てきます。
私達って、けっこう怖がって、
簡単なことも、余計に難しく
考えがちです。
怖いかもしれないけど
「イヤイヤ」を言えるといいですね。
* 七月十一日 火
* マーガレット・ケネディの『永遠の処女』を夜ふけて読了した。ひとかどの力作であった。若い女性の才気の作らしいある堅さや鋭さがきららかに光ってい
て、手づよいモティーフが十字架のように交錯している。サンガーの世界とチャーチルの世界との真剣勝負とも読める。そこから、簡単に割り切ってもなるまい
重いテーマが露頭する。ベースに優れた「音楽=芸術」がズシリと岩盤をなして横たわる。好く書けている。
長い作品が優れた音楽効果をあげ、四章に分かれたシンフォニイになっている。さらにさらに大きく深く盛り上げ描ききるもう少しの力が作者には、さぞ欲し
かったであろうが、好く書けている。すくなくもわたしは、とても楽しんで読んだ。こころ惹かれて読んだ。
大勢の人物を描きながら類型の描写に堕していない。読み進むにつれて人物の一人一人への共感が深く目覚めて行くのは、優れた作の特質というものであろ
う。
ひさしぶりにやすらかにかつ興奮して嬉しい読書が楽しめた。批評ということを忘れさせてくれる読書。長い永い旅に心身をひたしてきた喜び。
* 『最上徳内北の時代』の「湖」版中巻を、「mixi」に書き込み終えた。ついでにその跋文も書き入れた。東工大教授を、当時六十歳定年で退官したあの
年の三月に、跋を書いている。優れた文学について述懐していて、この際の話題にふさわしく、此処へも転写しておく。
* 作品(「最上徳内」中巻) の後に
小説ほど「旅」に似た創作はない。読むのもそうだが、書くのもそうである。実際に旅したことを書いたり読んだりが似ているというのでは、ない。書くとい
う行為、読むという行為が、さながら「旅」に似ていると思う。説明の必要があるだろうか。
けだし「旅」にも、いろんな旅があろう。かりそめの旅、行きずりの訪れ、また周到な用意と時日とをかけた旅行。読書にもそれがある。小説を書いて創るの
にも、それがあると思う。旅には再訪・歴訪があり、長逗留もあれば暫く住み着いて暮らすほどの例もある。そういったことを長編や短編小説の創作にあてがっ
て想うことは、そう突飛な比喩ではあるまいし、読書にからめていえば、やはり繰り返し訪れ読むような・読ませるような作品に出会いたいと思うことだろう。
私にもその癖があって、ある種の魚の周游するに似て、馴染んで忘れ得ない作品を周期的に繰り返し読んできた。『源氏物語』もそうなら、『ゲド戦記』もそう
だし、トルストイや唐詩選も、漱石や鏡花も、そうなのである。
この数年、私は、気晴らしに翻訳のスパイものやミステリーの類を少なくとも二百冊ぐらい読んできたが、どんなに気晴らしにはなっても深い喜びを得たとは
言えない。読むとたちどころに忘れてしまう。だが、たまたま古本屋で手にした例えばヘッセの『車輪の下』などを懐かしく読み返しはじめると、もう何ともい
えず優れた文学にまた逢えた嬉しさに(ファシネーションの魅力に)胸の底まで満たされ励まされる。オースティンの『高慢と偏見』でも〓外の『阿部一族』で
もそうだった。みな何度めかの読書であるのに、しみじみとする。そういう作品は、もう、一行から次ぎの一行へが、すばらしい「旅」そのもののように私を魅
する。そして、そういう小説が書きたいなと思う。願う。文体と文章そのもののうねりに乗って、乗せられて、それが嬉しい楽しい面白いという作品に出会って
みたいし、書きたい。
東工大の教室で、
遺品あり岩波文庫『阿部一族』
という鈴木六林男氏のいわば世界最短の戦争文学をとりあげ、無理を承知で、最初の「遺」の文字を虫食いに隠し、漢字一字を埋めよと試みたことがある。戦争
を知らぬ世代に「遺品」の入る望みは薄かった、が、それでも若い戦死者の境涯を推察しえた正解者は、何人かいた。そういう学生は『阿部一族』を読むか、中
身を知っていた。だが案の定読んでいない、『阿部一族』を全く知らない学生が大方であった。そんな彼らがどう答えるか、実は、それを私は知りたかった。い
ちばん多かった、圧倒的に多かったのが「気品あり」であった。〓外原作だからとアテて読んだ者もいたが、たいがいは「岩波文庫だから」と理由づけをしてい
た。岩波文庫の装丁や選書の姿勢に、東工大の学生のかくも大勢が「気品」を見てとり、または感じとろうとしていたのが、印象深かった。首肯けるものがあっ
た。そして「品」とはいったい何なのであろうかと、古くして深い問題へ、その後何時間もかけて学生諸君といっしょに踏み込んでみた。文学の問題でもあり、
人間の問題でもあったからだ。
「<ruby><rb>気稟</rb><rt>き<rk/>ひん</rt>
</ruby>の清質最も尊ぶべし」と芭蕉は有名な旅の文に書き付けている。及ばずながら座右の銘とし、わが価値観を<
ruby><rb>統</rb><rt>す</rt></ruby>べしめている。
「気稟の清質」を欠いた文学も芸術も、また人も、私は好まない。「気稟の清質」がもしあるなら、どんなに無頼で、どんなに世の掟に背いていようが、荒くれ
ていようが、逆よりも、私は「最も尊むべ」く<ruby><rb>惟</rb><rt>おも<
/rt></ruby>うのである。
この『北の時代=最上徳内』は、こういう歴史の世界にうとい、興味のない人には、とっつきにくいかも知れない。歴史ものは好きだといいつつ読み物=時代
小説に馴れている人には、かなり骨っぽいだろう。そういう人ほど、先を急がないで、よく干した堅い干魚を焼いて〓むような気で、ゆっくりと一行から次ぎの
一行へと長い「旅」を味わう気で読んでみて欲しい。むかし、今は亡い安田武という読み巧者が、「秦さんの文体はアヘンなんだよ、いちど嵌まってしまうと、
抜けられないんだ。ただそこへ行くまではシンドカッタ」とよく慰め励ましてくれたが、文体だけでなく、作品の発想や展開にも読者にシンドイめをさせる「病
気」が抜けない。お付き合い下さる方々には頭を下げるよりない。
それにしても思うのだが、この「最上徳内」氏が身をもってした「歴史」は、けっして遠い過去完了の抜け殻なんかではなく、現在なお血をにじませ、我々
に、我々の今からの二十一世紀に重い大事な「問題」を突きつけている。その意味では徳内サンは優に一人の現代人なのである。急がず焦らずその人の味わいに
触れていただきたいと願っている。
さて、四年半になる東京工業大学「工学部(文学)教授」の日々は無事終わった。この巻をお届けの頃は、最期の成績も提出し、教授室の掃除をしながら弥生
<ruby><rb>尽</rb><rt>じん</rt></ruby>の定
年退官を清々しく心待ちにしているだろう。
念々死去、すなわち、念々新生。わが旅は、ゆっくり続いて行くだろう。 1996年3月
* 少しずつ少しずつ<ruby><rb>退蔵</rb><rt>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>を、と。世間への「窓」を、少しずつちいさく狭く絞って行く。自分からメールを送ることを抑制し、メールは返信
にとどめるように心掛けている。「mixi」に新しい小世界がみえてくるなら、それはしばらくフォロウしてみたい。
* 言論表現委員会、例によって委員会らしき行儀ととのわず、委員長<ruby><rb>意思</rb><
rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>だけの乱暴な強要。
二つの大きな議題が用意されていながら、定刻の五時まで一つの議事で費やした。費やすに足る議論ならいいが、話題の焦点がなかなかさだまってこず、推
測・推定による定まりかねる状況への漠然とした意見交換ばかりが、「事情聴取室」の聴取なみにゲストに「取材」されるばかり。的を絞って肝腎の要件へなか
なか近づかない。
暴力団に関わる記事を精力的に書いてきたライターの、無関係なご子息が刺された事件で、実行犯はつかまり、その一つ上ヘも警察の手が延びているらしい
が、詳細が確定するような事件ではない。
問題は、日本ペンクラブとしてどんな声明が出せるのか、当事者で今日のゲストであるライター氏(ペン会員)は何をペンに対し要望されるか、その二つから
話題を絞らねば話が纏まらない。事実、なかなか纏まる筋道も出てこぬまま、これに関し自身「原稿を書く」気の猪瀬委員長の「取材聴取」がえんえん先行し
た。癇癪が起きた。
結局、五時定刻。もう一つの、シンポジウムについての討議時間は切れてしまい、わたしは失礼した。およそ今回のシンポジウムは、意義不明、何のために言
論表現委員会が主催しなければならないか、とてもそんな主題とは思われない。思えば思うほど愚・劣なもので、会議の始まる前、講談社の元木委員とも、ゲス
トのライター氏とも、首を傾げあった。
『売れなければ作家じゃないのか?』と題したシンポジウム。売れるの売れないの、それが、どうしたというのか。それが、今日の「言論表現の問題」か。「気
の低い」発想である。副題の案が「現代における作家とは何か」と。
「現代における文学とは何か」ならまだしも切実な問題だが、「作家」など人数分の差違があるのだ、現代意義をどう問うか、シンポジウムに馴染む問題じゃな
い。そんな中へ某大出版の取締役が顔を出し、「作家」の「売れる売れない」を拝聴して何になるのか。バカにするなと言いたい。
約束の時間は過ぎたのだから、疲れている私は、さっさと失礼してきた。
* わたしは、言論表現委員会に、すでに一九八九年には副委員長で加わっている。井出孫六さんが委員長であった。その後佐野洋さんが委員長になり、わたし
はもう一期副委員長を務めたかも知れない。以来ずうっとわたしは生き残ってきた。なにしろわたしはこの大事な委員会に、ほとんど一度も欠席しなかった。西
堀正元さんとか、本多さんとか、厳しい論客が多かった。佐野さんのあと、「清貧」の中野さんが委員長になり、途中で投げ出され、また佐野さん、そして猪瀬
氏が委員として登場した。佐高信氏と猪瀬直樹氏とがいがみあう委員会から、佐高氏が抜けられて、猪瀬委員長時代が来た。もう長い。
ペンも委員会も血が澱んで、むずかしい転回期を迎えている。
* 七月十一日 つづき
* やす香の状態が、よくない。「mixi」に、やす香が、やす香<ruby><rb>らしからぬ</rb>
<rt>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt>
</ruby>筆致・文体で永々と書いて告げている。一日も早いうちに逢いたいと「みなさん」に訴えている。
北里大学病院は治療を放棄したのか。親たちから、事情はわたしたちに何一つ伝わってこない。何も来ない。妻がやっと電話口に朝日子を〓まえたが、電話な
んかしてこないでと泣き叫んだという。
2006年6月6日13:19 ◎筋肉◎
って使わないと衰える!!
パパもママもおうちにいなくって、
明日先生のお通夜に
這ってでも行くために
リハビリだ!!!
って凄んで
家の一階に
オレンジジュースとりに行ったの。
大丈夫だから、
大丈夫だから…
ちゃんと頭に血を送れぇ
って自己暗示と共に(笑)
ばぁちゃんみたいに腰曲げて
見るも無惨なかっこで
10日ぶりくらいに食卓に降り立ち、
オレンジジュース入れて
よし、上り頑張れ自分!
って2、3歩のぼってあらびっくり(◎o◯;)
足に力入りませんΣ( ´・ω・屮)屮
手摺りないとフラフラしちゃう。
こりゃホントにリハビリせねば
って思ったね( ^‐ ^;
んで、
手摺りにしがみつきつつ部屋に戻ってきて、
ジュースおいて、
ベットに安らぎを求めようと
ヘナヘナ座り込んだ瞬間、
ガタン…。
えっ(i―! ゚覆 ゚i―!)
恐る恐る振り返りました。
そーですとも。
汗と涙の努力の結晶を
ものの見事にひっくり返しました。
滴り落ちるジュース…。
まさかそのままにしておくわけにもいかず、
雑巾とりに下に降りる体力もないので、
木の神様にごめんなさいと謝りつつ
大量のティッシュで後始末。
あぁ意外と動けるじゃん自分…〓―〓―●
と思いつつ↑の退勢で床を拭いてたわけです。
よし、
この大量のティッシュを一度ゴミ箱へ…
と思い起き上がろうとした瞬間、
うっiI――Ii( `◎ω◎ ´;)iI――Ii
こっ腰が……〓―〓―●))
なんとまぁ
全然伸びないじゃないですか。
真っ直ぐ立てないんですよ。
腰が曲がってしまった
おばあちゃんの気持ちが
よぉぉぉぉぉぉくわかりました。
みんなちゃんと運動しようね(o `艸 ´o)
* 7月11日19:04 みんなへ やす香
母が私の「肉腫」という癌について、専門の場所の専門の先生と面会をしました。残念ながら私の癌は「骨」と「肉」の癌で治ることは絶対に有り得ないそう
です。
厳しい治療で得られるほんのわずかな時。あるいは治療はせず、痛みや苦しみを緩和しながら暮らす日々。そのどちらかが私に残されたわずかな選択肢だそう
です。
余命は誰にもわかりません。
みんなにお願いがあります。病院に来て下さい。mixiを知らない私の友達にも伝えてほしい。みんなに会いたいと。
20才の誕生日を迎えられるかわからない。もしかしたらしばらく生きてられるかもしれない。全然わからない。だからみんなに会いたい。さよならを言うわ
けでもなく、哀れんでほしいわけじゃない。ただこの遠い辺鄙なところにある私の病室がみんなの笑いの場所になってほしい。その中で生きることが一番私らし
い生き方だと思うから。本当に遠いだろうけど、みんなに会いたいです。
すごくすごく重い話だけど、これは嘘でも冗談でもないんです。
ただ生きたいとわめいていても、事実はかわらないんだと…みんなにもわかってほしい。
今日を、明日を生きる。 やす香
* 五臓六腑が動転する。
同時に、いま、やす香に、これだけの長文をこう書かせている若い悲しみを想う。これに較べ、「白血病」「肉腫」を「告知」した取り澄まして簡潔な行割り
の文は、母親朝日子の筆致にはるかに近いのを、朝日子の文章を多く読んできたわたしは「感じる」。
* 折から堀上謙さんの電話。お宅へのお誘いは受けなかったが、話は聴いてもらった。
「あきらめて投げ出してはいけない、最期の最後まであきらめないで、わらの一すべでも〓まなくては」と。もはや「緩和ケア」に入るというのは、あまりに諦
めが早くはないか、と。
わたしもそう願い、建日子を通して伝えたが。母親は完黙して答えない。
* 建日子に。(建日子宛の朝日子のメールが母親に転送されてきたのは、)母さんから、内容を聞きます。
今が大変な非常事態であることは、初めから十分分かっていたし、容易ならざる事態とわたしは分かっていました。診断が遅れていることで、その不安は増大
していました。
やす香の「命を守る」ということは、言葉は平凡でも「万全を尽くす」「手を尽くす」ということであり、北里大学病院に拘泥せず、一級の専門医を懇請して
懇切に往診を頼むなり、国立ガンセンターなどの緊急の再診を、いわゆるセカンド・オピニヨン、サード・オピニヨンを、せめて「データ的」にも求めるべきで
はないですか。
そういうことに一家を挙げ奔命・奔走しなくてはならぬ時に、それをしているのか。万一していないなら、「今すぐしなさい」と朝日子に伝えて下さい、これ
以上の手遅れにならぬうちに。
病院の言いなりに流される必要はない、むしゃぶりついてでも最善を計って貰えと奨めます。
いまは、父親も母親も、押村家の親族も、挙げて、やす香の救命のために最善をつくす時、それが、真っ先です。
医学書院時代の昔のわたしなら、医学的なツテが求められたかも知れないのにと、残念です。 父
* 七月十二日 水
* バルセロナの京から
恒平さん 二十年振りでしょうか、七夕の飾りを作りました。
〜ささの葉 さらさら〜
いや、これはどう見ても、かさかさ、だなあと思いながら、道端で折ってきた茶けた笹に、輪飾りを、切り紙を、そして短冊を掛けると、華やかな、ちょっと
郷愁誘われる祭りの気分になりました。
七夕が出産予定日だった親友を見舞うと、笹の葉の飾りにひととき言葉を失っています。
二人で今日が晴れだったことを、誰のためにともなく喜んで、生まれたばかりの赤ちゃんの寝顔をほっと見つめました。
友人は子を望まれる境遇にいなかったため、つくる決心をしたものの、健康で生まれてくるかどうかが、最後まで肩に重く<ruby><
rb>圧</rb><rt>の</rt></ruby>し掛かっていました。
私は知らない(日本の)藤江もと子さんのことを何度となく想い出し、これを機に、また『ふつうのくらし』を読み返してみました。
病院に毎日足を運びながら、やす香さんのことも想っています。 京
* ありがとう、京。祈るということを、意識して暮らしのワキに置こうとしてきましたが、やす香のためにわたしは思わず祈っています、今も。
2006年6月12日11:10 みんなが恋しいょぉ 〓 ゚( ゚ `丈 ´* ゚ )
世捨て人(?)になってから
かれこれもう
3週目に突入しております(* 〓*)
お医者さんに行ったら (=どこの医者か。)
「大丈夫です、
夏休み頃には元通りですょ( ^‐ ^)」
って…
おぃ\(* ´∧ `)//
そんなに待たすんかぃ。。
6月12日12:23 湖
おじいやん(湖)です。
とてもとても心配しながら、六月十日のわたしの「日記」で、
やす香(思香)宛てにメッセージを送ったが、見ていないようだ。
からだの具合がそんなに悪いのかと、心配が加わり、
まみい(おばあちゃん)とも眉を顰め合っています。
ただ甘ったれてダラケているなら論外だけれど、
ぐあいが本当に悪くて大学へも行けないなら、
やはりきちんと医学的な対策をしないといけないね。
元気でいて欲しい、とてもとても大切な、二十歳まえだもの。
6月12日06:22 思香
〉おじいやん
甘ったれやだらけで、大好きな大学にもバイトにもいかず友達とも会わず、「家に引きこもってる」理 由などあるでしょうか。医者に何度かかかった結果が
これです。
二十歳の誕生日前には治ると先生は言っていましたが…。
ただただ信じて布団から垣間見える青空に動けぬじれったさを感じる毎日です。
* やす香が初めて「痛」みを「mixi」で訴えたのは、「一月十一日」だったと思う。あの正月には、初めて妹のみゆ希も一緒につれて来て、保谷の祖父母
を驚喜・狂喜させてくれたし、「一月九日」の日記には、わたしが話したことを、やす香の表現と理解とで、丁寧に「日記」に書き記していた。それを読んだわ
たしの気持は、どう月並みであろうと、張り裂けそうであった。
あの「痛み」に、あの頃から適切に対応できていたら、と、くやしい。わたしはまだ「mixi」に入っていなかった、やす香のそういう表白を知るに知れな
かった。
「二月十四日」からわたしは「mixi」に日記(=いわゆる日記ではない、書き下ろしの『静かな心のために』)を連載し始め、「二月二十四日」には、今度
は、みゆ希があたかも姉やす香を連れてくる<ruby><rb>体</rb><rt>てい<
/rt></ruby>で、二人で保谷にやってきた。みゆ希の誕生祝いもかね、姉妹は嬉々として「雛飾り」をしたのである。そして池袋
パルコへ出てにぎやかに鮨をいっぱい食べた。姉妹は夢中で、しかもせいいっぱいはしゃぎ、美味しい美味しいと沢山食べ、若い板さんに愛想をふりまいてもら
い、嬉しそうだった。
この日、誕生祝いを引き立たせるために、妹にお祝いをやりながら、姉にはとくに何もしてやらなかったのが、今更に可哀想で寂しい。
しかし、やす香には二十歳成人の日のための振り袖の晴れ着を披露し、ざっと服の上から羽織って見せた。帯こそ締められなかったが、その姿が今となって眼
にやきつく。(=妻の日記で確認したが、この晴れ着を羽織ったという記憶は、正月二日のことであった。)
やす香二十歳の誕生日は、この九月十二日。ほぼ二十年前、生まれくるやす香のために今の家のキッチンを、急遽兼用居間に造りかえた。やす香誕生のあの年
の九月だった。われわれはそこを、「やす香堂」と呼んできた。
* 歯医者に行く。
* 診療のあと、別室で、以前お世話になっていた「親」先生を見舞う。彫りの深い眼光、ただしく深い表情にわたしたちは感嘆した。間断無い痛みと朦朧感が
あると言いながら、言語は明晰で、もう残り無い日々、あっちまで持って行く<ruby><rb>ことば</rb>
<rt>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>が欲しいと望まれた。
あっちへ行けば言葉は要らない、その瞬間までは、念々死去 即 念々新生、あるがままに自然にと申し上げた。そうありたいわたしの願いのままに。
* お元気ですか、風 雨になりました。これで少し涼しくなるかも。
じゃがいもと玉ねぎをたくさんいただいたので、インターネットでレシピを検索していました。
わたしはおいものパサパサ感が苦手で、煮っ転がしや、肉じゃがなど、あまり好きではありません。
じゃがいもを使った、なおかつ食べたくなるお料理を探しましたが、あまりありませんでした。僅かに、ポテトグラタンならイケます。(大好きなチーズを使
うから。)あとは、ヴィシソワーズ(じゃがいもの冷製スープ)も好きです。牛乳を使って作ります。要するにわたしは乳製品が好きなんです。
今年の夏は、ヴィシソワーズできまり!です。
いつも風を想っています。 花
* このさりげない励ましが、いま、なにより嬉しい。いまは気持を劇的にもちたくない。いまこそ静かにいたい。
* 昨日の「あいにきて」というやす香の呼びかけには、六十人ちかくの若い友達がどうっと滝のように反応してくれていた。
今朝、母親朝日子が、十六日に、大学病院内のどことやらで「音楽会」をひらくので参加して欲しい、最初に朝日子が歌います、参加者は何を歌ってくれる
か、前もって報せて欲しいと「mixi」にメッセージしてきた。音楽会はやす香の希望であるのだろう、病院もそれを許しているのは、すでに「緩和ケアの一
環」としてであろう。
やす香の気持ちは分かる。しかし、この呼びかけに反応した友人が一気に数人以下になっているのは、もちろん事の異様さに、一旦は、フリーズしたのではな
いか。
まるで「お別れ会」ではないか、それもただの別れではない。そんなところで、どんなふうにどんな顔をして歌えるだろうと、一旦は、ギョッとした人が多そ
うに思われる。
今は、貴重極まる時間であり、惜しみて余りあるやす香の体力。金無垢のように時間と体力を惜しんで、ただただ疲れないで「成人」の九月誕生日を目指して
生きて欲しい。それがわたしの願いだ。
「すべきことは、すべてした」などと言っていい、今ではない。今この瞬間からしなくてはならない「救命」の努力なのである。やす香には医療の万全を信じ、
しかも体力をうしなわず、苦痛に勝って欲しい。周囲も諦めて「手」を離してしまってはならない。正念場へ来たということだけが、間違いない。
朝日子よ、不肖の娘時代に百も千も父はおまえに口を酢くした。<ruby><rb>謙虚に聡く</rb><
rt>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt><
/ruby>在るべきは今だよ。おまえも不安だろうが、母さんや父さんは離れているだけ、もっと不安で様子が知れないのだ。母さんが様子を知りた
がったら、心優しくせめて<ruby><rb>答えて</rb><rt>〓<rk/>〓
<rk/>〓</rt></ruby>あげなさい。やす香は、まみいに優しいよ、こまめにメールをくれて、逆にまみ
いを慰め励ましているではないか。
* こうしてメール差し上げるのはずいぶんと間が空いてしまいました。mixiや先生のホームページを拝見しつつ、お目にかかっている気持ちになってお
りましたもので。
唐突ですが、宮部みゆきの『たった一人』という短編をご存知でしょうか。『とり残されて』という文庫本に収録されています。解説を書いている北上次郎氏
が、他の収録編については触れもせずひたすらに絶賛している短編です。
初めて読んだとき、私はこの小説がそれほどのものだと思わなかった。
けれど、やす香さんのご病状を読ませて頂いてこの話を思い出しました。話の内容をここで記してしまうのは気が引けますが、人が「自分が離れたくない人=
たった一人」を助けるために奇跡を起こせるかどうか、が、隠しテーマであったことが最後の最後でわかります。
主人公は、一度奇跡を起こして大事な人を助けるのですが、失ってしまう。そして最後に、もう一度同じ奇跡を起こしに出かけて行くのです。一度できたの
だ。もう一度できる、と。
こう書くと安っぽくなってしまうのですが、これは私の表現が至らないためで、白磁の壺のようにやわらかく丁寧に描かれた佳品です。
先生が奥様のご病気を治されるためにご尽力されたご様子を「湖の本」の中で書かれていたのを思い出しつつ、今日もう一度読み返しました。
やす香さんに、もう一度軽やかに歩ける日が来ますよう。あれほどたくさんの方たちから注がれている愛情をその養分として惜しみなく用いてくだされば。
ご報告が大変遅くなりましたが、息子はお陰様で健康にすくすく育っています。抱きしめても女の子のようなやわらかさがないのは残念ですが。母親として子
どもを手塩にかけられる一年を一時も無駄にしないよう、娘の方にもにわかに口うるさくしております。母親が今までそばにいなくても、それなりに育ってくれ
た娘は私にとって「授かりもの」でしたが、親族で初めての男の子の方は「預かりもの」のように感じています。託されたのだからきちんと育てて世の中に還そ
う、と。小さくてもいい、人のために何かできるようなヤツになれよ、と思っています。
子どもが増えて、人をつくることに関わる深さをさらに感じている今、やす香さんのことが心を離れません。毎日毎日、祈っています。
先生も、ご体調が優れないご様子、どうぞ大事になさって下さいませ。『たった一人』では、主人公は奇跡が起きるその時まで「死ぬことさえないかもしれな
い」と、結ばれます。もう一度奇跡を起こすその日まで、先生どうぞごどうぞお健やかに。 典
* ありがとう。
2006/7/12 まみいから
件名 お見舞いにいきます まみい
歌がうたえるほど元気なのですか
十四日午後 また 梨を持ってお見舞いしましょう
ミクシー でないと 見ないかしら。
*2006/7/12 やす香から
件名 re:
まみぃ心配しないで(〉 〓〈) 携帯メールちゃんと全部よんでるから。返信はmixiも携帯も友達にもなかなかしてないの。
でも言葉は全部届いています。ありがとう。
2006/7/12 まみいから
件名 re:re:お見舞いにいきます
やす香ちゃんの優しさには ァーァ 涙ぐんでしまいます。返信させちゃって ごめんね。疲れたでしょ。
もう 返信なくても心配しないからね。 まみい
* 七月十三日 木
* 重い鉄の<ruby><rb>丸</rb><rt>たま</rt><
/ruby>を嚥んだままのような歌舞伎座観劇であった。鏡花の輝く四篇、『夜叉が池』『海神別荘』そして『山吹』『天守物語』だから、どうやら昼
夜とも観て来れたけれど、そしてむろんとても面白かったけれど、胸の底には一枚のガチンと<ruby><rb>退<
/rb><rt>の</rt></ruby>かない不安と動揺とがあり、それに逆らうことも同調することもで
きない苦痛。
やす香はもちろん、朝日子も建日子も、妻も、みな同じである。そしてみなが、やす香のために少しでも少しでも良かれ、髪の毛一筋の希望でももたせたいと
願っている。そう信じる。ただ人間のこと、まわりの者達の思いは、少しずつ、願いも、苛立ちも、悲しみようも、異なるのである。
* 朝いちばんに岡崎の国立研究機構に在籍する岩崎広英君から、親切な助言と協力の申し出があった。すぐ朝日子にメールで伝え、建日子にも朝日子に勧めて
欲しいと願い同報した。
やす香のケアへの、祖父母等の口出しや提案を、朝日子ないし押村家は無言で拒絶し、口を出すなら「見舞いもさせない」と娘は、母親へのメールにも、母親
からの電話にも、答えている。いま、大人達が手を合わせなくてどうするのだろうと、蚊帳の外へ押し出されている祖父母の、あてどない不安は限りなく、鉄の
<ruby><rb>丸</rb><rt>たま</rt></ruby>を嚥
むような苦痛は倍加している。明日見舞いに行っても、はたして孫やす香に逢わせてくれるのかも、正直不安心なまま出向くのである。
やす香は、「わたしは、気持ち、わかっているからね。よくわかっていますよ」と苦しい息の下から、われわれへ、まみいのメルアドへ、メールを寄越してい
る。
やす香の、ケイタイで辛うじて打てている今日の「mixi日記」は、「今日はね 大変だったの…。体力消耗〜」とだけ。
ところが今日「from:やす香」の名で叔父建日子にメールが行っていた。<ruby><rb>体力消耗<
/rb><rt>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt><
/ruby>はもう覆いがたいやす香のこの筆致は、本人のものとは全く「感じ取り」にくいのだが、なぜこんな表白が代筆?されねばならないのか。
「from: やすか 2006/07/13 7:21 AM たけちゃん、ありがとう。
ちなみに私は大学2年生です ^ ^
まァそれはさておき、皆さん温かいコメントありがとうございました。
私、自分のHappyEndは決して病気を無理矢理にでも克服することだとは思ってないんです。
不思議に思われるかもしれないけど、私笑うことがすごく、すごーーーく好きだから、そして人は必ず誰もが死ぬものだから、最後まで友達と他愛もなく生き
ていることを自分で選びました。
自分の命が見えた分だけ、自分が本当に何が好きなのか、どうしたいのかを見つけることができたんです。
こんなこというのもおかしいけど、やっぱり今緩和ケアを受けながら笑いの中で生きていられること、幸せに思ってます。今まで辛い検査を受けてきた分だ
け。
そしてしたいようにさせてくれている、両親にこころから感謝しています。
こんな考え方もあるんだってわかってほしいかな、みなさんに^^
ちょっとかわりものの19歳やす香でした☆」
* この「肉腫」という病気治療が、どんなに苦痛で体力を消耗するかは、常識。やす香の五体の骨はほとんどボロボロになっているはずだ。ケイタイのメー
ルでこれだけ書き込む、それは言語に絶する奮励でなければならず、それにしては筆致はあまりに平静で、巧んだユーモアをさえ<ruby>
<rb>造作</rb><rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>して
いる。書き手としてのわたしは、容易には是をそのままやす香の作文とは受け取れない。
とにもかくにもやす香はそういう苦痛と体力消耗を、何とかしてすりぬけすりぬけ、一日一日延命を図らねばならないときに、やす香本人の希望もあるではあ
ろうが、大勢とのひっきりなしの面会や、音楽会・歌唱会を院内で開いて、患者自らも歌を歌おうなどというのは、「消耗」の極限を越えてしまわないかと、わ
たしは真剣に、そして不安にたえられず、心から憂慮する。
そしてわたしは空しくも願うのである、親たちや病院の、それが、もはや「断念」のサインでなど無いことを。ましてやす香に「断念」を強いたり作為したり
して欲しくない。それはあんまり酷い。
正直の所、わたしたちに、あれこれ確言できる何の自信も確信もない。情報もなく満足な説明の一片も受けられないでいるのだから。だからまたあてどなく不
安なのであり、常識的に判断するかぎり、十六日午後に予定されている「歌唱音楽会」の、楽しいメリットと消耗一途のデメリットとの落差に、深刻に惑うので
ある。命を縮める暴挙には、切に切に、して欲しくない。それが、朝日子の「命がけでやす香の命は守って見せます」ことになるのだろうか。
* 湖さま 14年前 北里病院の庭の周りにはくちなしが香っていました。
北里病院の七夕 夏祭り ・・・ 19歳の娘と過ごしました。
静かに 穏やかに ときが 長く 長く 長く 過ぎていきますように。 波
* 七月十四日 金
* 窪田<ruby><rb>空穂</rb><rt>うつ<rk/>ぼ<
/rt></ruby>の歌に
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ<ruby><rb>父母</rb><rt>ちち<rk/>
はは</rt></ruby>がわれにしまししその片おもひ
* この「片思ひ」の歌に寄せて思うことがある。いま、「mixi」に、東工大の教室で試みていた『青春短歌大学』(平凡社刊 秦恒平「湖の本」版上下
巻)を、「校正」かたがた連載しているが、じつは、あれより前に、講談社から、数人の責任編者制で、数巻の詩歌鑑賞の本を出したことがあり、わたしは『愛
と友情の歌』の一冊を担当した。それが、大学での授業に大いに役立ってくれたのである。
いま「mixi」での「連載」に、新たに毎回出題している作品の多くも、その本から採っている。
『愛と友情の歌』は昭和六十年九月十日に刊行され、「あとがき」は同年六月八日に書いている。「娘(朝日子)が華燭の日に」と日付に添えてある。その「あ
とがき」の末行は、こう書きおさめている。
「愛」の、あまねく恵みよ!しかし「愛」の、<ruby><rb>難</rb><rt>かた<
/rt></ruby>さよ!努めるしか、ない。
* 娘朝日子へ父私からの「はなむけ」であった。ひとりの女として生きて行く娘への、またひとりの男として生きて行く息子への、贈り物として編んでいた。
幸か不幸か、二人とも読んではいない。
いま、その娘は、わが子の、想像をはるかに超えた急劇で重篤な病のかたわらに、母として、在る。
* 教室で出題した日の「後始末」を『青春短歌大学』上巻から此処に再記して、わたしの気持を静めておく。
* ☆ 痛み
たふとむもあはれむも皆人として( )思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ<ruby><rb>父母</rb><rt>ちち<rk/>はは
</rt></ruby>がわれにしまししその( )おもひ 窪田 空穂
虫くいには、同じ一つの漢字を補うように出題した。さて作者は……。いやいや作者の説明などはじめると、とたんに学生は退屈する。東工大の学生は概して
人名、ことに文系の大物の名前に無関心であり、また、知らない。太宰治は通用しても小林秀雄は通じない。ときめく梅原猛などでもテンで通じない。まして突
然の短歌の作者を、有名であれ無名であれ、それらしく納得したりさせたりするにはずいぶんな言葉数と時間とを要する。それは困るから、歌人についての解説
は原則として省く。窪田空穂ぐらいな人でも、近代の短歌の歴史でベストテンに入る立派な人としか言わなかった。学生は当面問われている作品にしか意識がな
い。短歌史の時間ではないのだから、それでもいいとしている。
四七四人中で、「片」思ひ、と入れた学生、一二七人。四人に一人は超えた。好成績であるが、こう答を知ってみれば、こんな簡単で通常の物言いが、なんで
もっと多くないのかと呆れる人もあるだろう。
一年生は五分の一しか正解していない。二年生になると、三分の一近くが正しく答えている。一九歳と二〇歳とのたった一年の差だが、ここに一つの意義があ
る。そんな気がいつもする。
解答を羅列してみよう。「物」思い、「親」思いが多い。前者は手ぬるいなりに当たっていなくもない。ただ把握が弱い。表現も、だから弱い。後者だと後の
歌には適当しない。意外に多く、「恩」という字を拾っている。なんとなく歌の意へ近づこうとはしているのだ。詩歌の表現にはなっていない。「心」「子」
「我」「恋」「愛」「人」「罪」「内」「昔」「熱」「温」「夢」「情」「苦」「深」「相」「今」「憂」「長」や「先」「女」「常」など、ほかにまだ二、三
〇字も登場している。
「片思ひ」では、なんだかあたりまえすぎてという弁明が、次の週に出ていた。「片思ひ」といえば恋愛用語であり、この歌に恋の気配は感じられなかったので
採らなかったという言い訳は、もっと多かった。空穂のこの短歌は、いわば二十歳の青春のそんな思い込みへ、食い入る鋭さ・深さをもっている。
人の世を人は生きている。世渡りとは人付き合いなのである、好むと好まざるとにかかわらず。無数の人間関係がこみあい、理性でだけの交通整理が利きにく
い。人の心情や感情はとかくもつれあう。言葉というものが重要に介在すればするほど、必ずしも言葉が問題を整理ばかりはしてくれずに、むしろ足る・足らぬ
ともに過度に言葉は働いて、不満や憤懣を積み残していくことになる。<ruby><rb>こと</rb><
rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>繁きそれが人の世である。
「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍れむ」も、このさいは人間関係に生じてくる一切の感情や言葉を代表して言うかのように、読んでよい。むろん親と子との
それかと、第二首に重ねて察するもよく、もっと広げた人間関係にも言えることと読んでも、少しもかまわないだろう。要するにどんな心情・感情も、どこかで
足りすぎたり足らなさすぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生じてくる。それもこれも「皆、人として」避け難い人情の難所なので
あり、だからこそ自分が他人に「片思ひ」する悲しさ・辛さ以上に、知らず知らずにも他人に自分がさせてしまっている「片思ひ」に、はやく気がつかねばなら
ない……と、この歌人は、痛切に歌っている。
残念なことに、自分のした「片思ひ」ばかりに気がいって、自分が人にさせてきた「片思ひ」にはけろりとしているのが「人、皆」の常であり、自分も例外で
はなかった。そう窪田空穂は歌っているのである。しかも例外でなかったなかでも最大の悔い・嘆きとして、亡き「父・母」が、子たる私に対してなさっていた
「しましし片思ひ」を挙げている。「今にして知りて悲しむ」と指さし示して歌人は我が身を恨むのである。父も母ももうこの世にない。この世におられた頃に
は、いつもいつも自分は、父母へ「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれないか、なんで好きにさせてくれない
か。しかも同じその時に、「父母がわれに(向って)しましし」物思いや嘆息や不安の深さにはまるで気づかないでいた……。
「片思ひ」も、このように読めば、恋愛用語とは限らない。それどころか人間関係を成り立たせるまことに不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であ
ることに気がつく。ここへ気がついた時、初めて<ruby><rb>他人</rb><rt>ひ<
rk/>と</rt></ruby>のしている痛みに気がつく。愛は、自分が他人にさせているかも知れぬ「片思ひ」に気づ
くところから生まれる。差別という人の業も、これに気がつかずに助長されているのではないだろうか……。
二年生が、一年生よりもうんと数多く「片思ひ」を正解してくれていたことに、「成長」の跡を見ていいと、わたしは、つよく思う。
そんなふうにわたしの理解を語った当日の学生のメッセージのなかに、「秦さんに教わっている多くのことは、いつかは忘れてしまうでしょう。でも、今日の
『片思ひ』という一語だけは、忘れません。ありがとうございました」と書いたのが、あった。
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ
巧みであるとかそうでないとか、そんなことだけで「うた」の値打ちを決めてはいけない。どれだけ自身の「うったえ」たいものを「うたえ」ているか、金無
垢の真情が詩を<ruby><rb>育</rb><rt>はぐ</rt><
/ruby>む。巧緻のみを誇るものに、恥あれ。ただし概念的にのみ翻訳されて愬えている詩歌も困る。窪田空穂のこの歌などは、真情のより優ったか
つは微妙な境涯にある歌だと言うべきか。
* 妻と連れ立ち、相模大野の大学病院にやす香の顔を一目見て声一つかけてきたいと、いましも出掛けるところである。
われわれは「やす香の祖父母」である。「片思ひ」は無い。
2006/7/14 やす香から
件名 re:re:お見舞いにいきます
今日はいい天気★彡梨と桃もたべたいなぁ(〉 〓〈)気をつけてきて下さい!
2006/7/14 まみいから
件名 re:お見舞いにいきます
本当にいいお天気。まぶしいお日様ですよ。まみい
2006/7/14 やす香から
件名 re:re:お見舞いにいきます
何時にきますか?!
* 七月十四日 つづき
* 熱暑。湯の中をあえいで泳ぐ心地であったが、シャツにネクタイし、ジャケットも着て相模大野の、北里大学病院に出掛けた。
* やす香は眠っていたので、暫時待機してから病室に入った。
やす香の希望で、今回も池袋東武の高野で「梨」と「桃」とを用意していったところ、もう新宿につくという車内へ、やす香から妻に電話が入り、ぜひ「お蜜
柑」もと。で、新宿「高野」で冬蜜柑を買い足し、ロマンス特急を町田で乗り換えて、相模大野まで。
* 病室には朝日子とやす香とが二人きり。四人で、あれで一時間ばかり、まさに「水入らず」の静かな時をすごした。やす香は、梨も蜜柑も、京都の佳い軽い
せんべいも、少しずつ食べ、べつに昼食も美味しいと食し、妻はずうっとやす香の脚をさすっていた。
ほとんど、目だけでものを言い合う静かな時間であったが、窓の外は遠くに薄い濃い山並みが重畳していて、時に垂直に強い稲妻と驟雨が来たりしていたが、
病個室はあかるく穏やかで、やす香は母にも祖母にもあまえ、私にも気を使っていた。わたしは、ただもうやす香の顔を見ていた。言葉は無力に感じられた。食
事中もほとんど水平に寝て食べにくいが、背中が痛くてたてになれない由。
食べるとそれだけまた睡眠へひきこまれて行くやす香は、わたしたちにも気遣うか、寝入りかけてはうすく目をひらきひらき、顔を見ようとしていた。恐い夢
を夜々に見ると言う。無惨な…。手を握りあい、ただかすかな握力と視線とだけでうなずきあい、うなずきあい、「がんばるんだよ」と声をかけて病室を去って
きた。目は閉じていても「耳は聞こえているよ」ともやす香は言い、あわれで、老いの二人は泣いた。
* 雨は晴れていた。わたしも妻も新宿まで、池袋まで、ほとんど黙していた。特急の中で、瞑目しているわたしのとなりで、妻は幾度も幾度も涙をすすり上げ
ていた。
池袋で、互いにいたわり合うようにバルコを上へ上がり、遅い昼食に、「船橋屋」の天麩羅を食べた。わたしは甲州「笹一」をのみ、妻は抹茶のアイスクリー
ムを。
黒いマゴまでも、ひっそりとわれわれの様子を気遣っている。
* 少し厚めのものも洗濯でき、気持ちがすっきりしました。部屋の掃除、ガラス窓も拭き、サッとシャワーで汗も流して、サッパリ。
お変わり有りませんか、風。
きのうは、フードプロセッサを買ってきて、ヴィシソワーズを作りました。第一作は・・・改良の余地あり、でしたが、朝、コーヒーカップに一杯ほど飲みま
すと、冷たくて、よいです。
明日あたりからまた雨みたいですが、今日の天気は、いよいよ夏、という感じです。団扇の出番です。 花
* 七月十五日 土
* 一瞬一瞬、気を起こして堪えるのはきついけれど、最も苛酷な体験であるけれど、堪えています。誘う水にひかれ闇に<ruby><
rb>沈透</rb><rt>し<rk/>ず</rt></ruby>いてこんこん
と眠りたい。
二十一日からの本の発送が、かつてなく重圧です。用意も満足に出来ていない。
鏡花劇だから心惹かれて観ていましたが、行きも帰りも<ruby><rb>幕間</rb><rt>ま
く<rk/>あい</rt></ruby>も気がふさがり、「吉兆」の二字に頼む思いで食事するなど、笑止に心弱い
ばかりです。
熱暑、お大事に。
異色の『山吹』をしっかり見てください。現世的整合性からの賢い批評でなく。花道でのたった一句の痛烈な声をお聴きなさい。 湖
* htakさん 札幌も日中は気温が上がり、今日は真夏日になりました。
こちらの夏は短くて、七月に入ると、今週から週末ごとに花火大会が催されます。今週、来週、再来週と、金曜日の夜に、まだ明るみを残した夜空を背景に光
の華が咲きます。
豊平川の川岸は大変な人手だそうですが、私は例年こっそりと、丘の上に立つお風呂屋さんの三階から、この花火を見ることにしています。涼しい風にあた
り、時おり上まで聞こえてくる車のクラクションや階下の湯桶の音を聞きながら、少し遠くの花火を見る楽しみ。
花火の週末が終わるとお盆が来て、そしてその後は、もう秋が来ます。
皆々平穏に、来年も再来年も、この同じ風景がみられますことを、夜空に願いました。 maokat
* ありがとう、maokat。
* 【秦先生の書いたもの】 正直に言って、読み通すのは…始めにしんどそうと思ってしまうので、それがシンドイですが、読むと文中に必ずイイものを
見つけます。で、わたしは読み進めます。
【読書】
私は、こういう文章が、好きだ。
私は、こういうのが、好きだ。
こういうのは、この私だ。
この私が、そう思う。
読んでいて、そういう文章が見つかった時、とても嬉しい。
見つかったのが、先ず何とも嬉しい。 福
* 「ふわふわのポン」と謂うていた。生米をすこし持って行くと、道ばたに店だししたおじさんは、米を鉄の釜に入れて密封し、ハンドルをゆるゆる廻し続け
て、時間が来るとどんな仕掛けか「ポン」と大きく鳴らして釜の蓋をあける、と、ふわふわに膨れた米菓子がどっさりできる。甘い蜜をかけ、かきまぜて、呉れ
る。おやつになった。
菓子としては美味かったが、文章への譬喩として「ふわふわのポン」とわたしのいうとき、ネガティヴな意味である。そんな文章で綴られた読み物など、ひま
つぶしに読むときも無いではないが、自分では書きたくない。書かないのでなく、書けないのだろうと言われれば、否定しない。わたしの本が沢山は売れないの
は、「読み通すのは…始めにしんどそうと思」わせてしまうからで、つまり芸が無いだけの自業自得である。それでも「読み進め」てくれた人は、たいがいもう
手放してこなかった気がする。
* 湖先生、おはようございます( ^ ^)
〉 湖の本で、手も入れ、一編のエッセイを加えて『花鳥風月・好き嫌い百人一首』として復刊したばかりでした。
あわわ!そうだったのですか。ホームページで既刊リストをチェックしたつもりだったのに、私、ちゃんと見ていなかったんですね。今後は湖の本の方で入手
させていただきます。
☆ やす香さんのところに行かれたんですね。親・娘・孫水入らずのお時間が作れて、本当に良かったです。やす香さんにとって一番安心できるひとときだっ
たと思います。
そういえば、入院中は、熟睡できない夜よりも、午前中の方が体も楽で、休養できたのを思い出しました。 百合
* ああ、そうであって欲しいとしんから思います。
* これはわたしひとりのヘキかも知れないが、人と会うと、どんなに楽しい時間であろうと、それなりの疲労があり、人の多い街へ出るだけでも人のもつエネ
ルギーの波動に揺すられ、疲れて帰る。
気の乗らない会議などとくにそうだし、タダのお付き合いでもそうである。
最高に嬉しい出逢いからはとても佳いエネルギーをきっともらうけれども、それとて快い疲れと裏表であることも免れない。いやな疲れの無い、ないしふつう
の疲れの極めて少ないのが、やはり妻との家庭である。
* やす香は、基本的に今、疲れて疲れすぎてはいけない。しかし、友達や家族や知人と全く会わない会えないのでは、不安な孤独さ寂しさという消耗と動揺と
焦慮が湧くであろう。
今何よりも願わしいのは、人と会う、大勢と会う「嬉しいプラスの値」が、それから身に受ける「消耗や疲労のマイナスの値」よりも、一ミリでも二ミリで
も、一グラムでも二グラムでも多く、そうして得た体力や気力を、薄紙を貼り合わせて行くように蓄積しつつ、どうかどうか「快方へ転じて行って」欲しいこ
と。これが、わたしや妻の身を刻むほどの切望である。
あした、病院の食堂で、大学、中高校、地元、ヒッポの仲間達が来て演奏会をしてくれるそうだ。一時間ほどと。
やす香のために、何という嬉しいことか。
だが、予定されていたやす香自身も歌うことは、避けられた。ほっとしている。疲れがみえれば、残念でも打ち切られることだろう。
やす香よ、元気だけをたくさん身に浴び、疲労しすぎないで、よくおやすみ。朝日子も。
* ご夫妻へ お見舞い
じっとしていても耐え難いこの暑さの中を相模大野へ向かわれたお二人のお姿を想像するだけで、私は胸が一杯になります。
箱根(や江ノ島)へ行く特急の中で、お孫さんの病床へ向かわれるお二人の姿が、切なく目に浮かびます。(娘の住まいが<ruby><
rb>鵠沼</rb><rt>くげ<rk/>ぬま</rt></ruby>なので私
はよく相模大野を通ります)
子どもを授かることは(孫を授かることは)沢山の楽しい想い出と喜びに恵まれることなのだけれど、悲しみの種も増えるのだと以前(長男が交通事故で死に
かけたとき〓〓幸い生き返りましたが)思ったことがありました。
医師に長男の生死の確率は五分五分と告げられた日は次男の養護学校の学芸会当日でした。
私は学芸会に行きました。そして知恵遅れの子たちがお腹の前に茶色のクッションをくくりつけて踊る<ruby><rb>猩々寺
</rb><rt>しよ<rk/>じよ<rk/>じ</rt></ruby>
の狸囃子に笑い転げました。
どうか暑さとご心労にお二人が体調を崩されませんようにと祈っています。
京都は祇園まつりですね。 藤
* お見舞い、有り難う存じます。
* わたしはもう涙を流して泣くのをやめている。泣いてどうなろう。水を打ったように静かにしている。玉三郎達の鏡花に見入っている最中は、少なくも心を
うちこみ楽しんでいた。いましも喘いでいるやす香のためにも、わたしは、せめても楽しむときは楽しみたいと思う。わたしの肩に孫がきて乗っていると、一緒
にそれをし、あれをしていると想う。
* 雷ごろごろ、雨も降ってきました
梅雨も終盤らしく、だいぶ暑くなってきました。お変わりなくお過ごしでしょうか? 今日・明日全日、市の公民館主催のパソコン講座「エクセル講習
会」。今まで自分の仕事のみで、全く応用不可だったので。これで写真入りカレンダーなども作れるようになるはず(?)。
盛夏の花、むくげが木にいっぱい咲きはじめましたね。 ゆめ
* いま、「お変わりなくお過ごしでしょうか?」と聞かれると、さすがに、ひどく遠い世間の夢を、紗のすかしを透かして眺めるといったアンバイ。
* 七月十六日 日
* おそらく朝日子が自身一存にちかい、懸命の思いで今しも守っているのは、やす香の命の尊厳(激越な苦痛に動乱させないこと)と、成ろう限りの安静であ
ろうと、わたしは推量し理解している。
それほどに無残に重篤で差し迫っていることは、北里大学と朝日子とのあいだで、よほど深く確認されているのだろう、ジタバタしないという、なるべく静穏
で平和な最期の時間を創り出そうとしているのだと、わたしは分かっている。それをしも母の深い思いやり、慈愛、とうけとらねばならない痛切な悔い口惜しさ
は、いかんともしがたいけれど、少なくもわたしは、おそらく妻も<ruby><rb>建日子</rb><
rt>たけ<rk/>ひ<rk/>こ</rt></ruby>も、朝日子に代わって、朝日子のほ
んとうは言いたいであろう言える限りの繰り言を、言い紡いでやらねばならない。そして<ruby><rb>哭<
/rb><rt>な</rt></ruby>いてやらねばならない。
* やす香の笑みこぼれて幸せでありますよう。朝日子、どうか、よろしく頼む。 父
* やす香 やす香 やす香
今晩には、やす香のための「音楽会」がある。やす香が、こころから「みんな」との静穏で平和な楽しみを味わい、やす香の大好きな「笑い」が顔いっぱいに
匂い出ますように。 おじいやん
やす香 わたしたちは、みな、やす香を、自分の命そのもののように愛し、尊重し、そしておまえの呉れたこの上もないわたしたちへの「贈りもの」に、深く
深く深く感謝していますよ。
おじいやん・まみい・たけひこ
*「mixi」での出題に、東工大の卒業生から答が来ていた。
* 「前回の出題」 どっと笑いしがわれには病める(母)ありけり 栗林一石路
父でも母でも子でも友でも師でもいいであろうが、苦しい人生の一断面として厳しい吐露である。けっして、病を諦めようとはしていない祈りの深さ。
「今回の出題」 切子ガラスのごとき青年が( )反射たのしむ会話目をつむり聞く 富小路 禎子
コメント 2006年07月16日 08:19 典
今回のは「乱」でしょうか。
昨日の方のは、「娘」と入れていましたが「母」だったのですね。「妹」も思い浮かべていました。なぜか年下の女性のような気がしていたのですが、「母」
なのですね。姉や姪に死なれて以来、これ以上、父母より先に死んではいけない、と、これだけを自分に課しています。(もちろん運命なのでわかりません
が。)
なので、「母」と埋めると、この作の持つひやりとするものが生きないなと思っていたのですが。順送りって、ある意味めでたいことだと思ってしまうので。
2006年07月16日 09:26 湖
人間関係はいろいろに多彩ですね、「ことば」のように。
教室でみんなに聞いたことがありました。大学以前の「先生」に聴いた、身に<ruby><rb>彫</rb>
<rt>きざ</rt></ruby>まれた一言を、と。たくさんたくさんありました中に、「がんばれ」が多かっ
た。この一語は、近来口にするのも、されるのも、嫌い嫌われる気味がありますし、またいかにも平凡なようですが、人間関係、個と個との、ぬきさしならない
その「事態」で輝きを持つ言葉なら、単語としての尋常さは論外のことでした。
この栗林一石路の句は、大切な間柄の人、ときにはペットの名前すら入れられると想います。わたしなら、さしづめ「孫」としか想いようがない。「はっと一
瞬涙を誘われた。それ以上を言う必要などあるまい」と、四半世紀まえの本で、わたしは、言葉多い鑑賞を避けていました。
病む人も元気な人も、寂しいものです。
今回のは、「乱」反射ですね。孫やす香の「mixi」日記と友人達との対話会話を読み返し読み返し、富小路さんの歌に向き合っていました。
* たまたま昨日の連載本文にとりあげていた『青春短歌大学』では珍しい道歌を、紹介しておく。
☆ 境涯
ある( )らず無きまた( )らずなまなかにすこしあるのがことことと( )る 道歌
西山松之助さんの絵入りの美しい本で見つけた。「瓢〓の絵」に「狂歌」とあり、だれの作ともよく知れず、西山先生自作と拝見しておくことにした。作者は
この際そう問題ではない。やさしい出題ではなかった。三箇所ぜんぶ同じ一字で埋めるように強調してあったのに、別の漢字を押し込んできたのが数人いる。
「問題をよく読め」と受験技術としていやほど強いられた反動か、のんきに気ままにしたいのだろう。
瓢〓から駒といっても、もう通用しない。まして瓢〓に酒など入ったさまを想像できる学生は少ない。いないかも知れない。だから、振れば「ことこと」でも
「ちゃぷちゃぷ」でも「鳴る」さまに想い至るのは難儀である。
まして一種の道歌とも読める諷喩の歌、意味を取って読まねばならない。狂歌を面白く正しく読むのは、そうやさしい作業ではない。
瓢〓のなかに酒が、実でもいいが、いっぱい詰まっていたなら、振っても鳴らない。まるで詰まっていなかったら鳴りようがない。「なまなかに少し有る」の
が鳴るのだ。「ことことと」を、気ぜわしく小うるさい感じに読めば、そこに人柄も見えてくる。中途半端にしたり顔のやつほど、なにかにつけ小うるさい、
と、まことに耳に痛い狂歌である。
自嘲と自戒の意味で学生諸君にあたまをさげておく気分もある。
東工大にも合格、とかく自信満々の高校生あがりに、ちょっと先手に出て冷や水をかけてやり、わが田に引き入れようとの作戦でもあった。
「ある有らず無きまた有らずなまなかにすこしあるのがことことと有る」と入れてきた学生がいちばん多かった。禅問答めいて面白いが、「ことこと」で落ち着
かないのが惜しい。
* ホスピスから生還した知人がいます。好きなものを飲んで食べて毎日楽しく、大いに笑っているうちに、症状が改善されて、ホスピスを出されたのです。
笑うことには不思議な力があるそうです。
医療の現場はじつに厳しいものですが、それと同時に奇跡は決して珍しいことではありませんし、希望はいつもいつも出番を待っています。
どうか、他人の無責任な気休めとお受け取りにならないでください。奇跡はすぐそこに。やす香さんに笑顔があふれること、そのことがすでに素晴らしい奇跡
でなくてなんでしょう。信じています。 夏
* 音楽を絶えず聴き、ワインに気持ちを静め、息を詰めて……苦しい。すべて、予感し覚悟し呻いてきたことだけれど。
* バク yurikoさん(〉 〓〈)突然のプレゼント
本当にありがとうございました。
大切にかかえて夜をすごしています。悪夢が減り増すように(〃 〓〃)
音楽会 うまくいくといいなぁ。
まずは私の体調が… やす香
* 獏のぬいぐるみをいただいたらしい。こわい夢を獏よ、食べてしまっておくれ。「減り増す」に気が付いていないようだが、これも、やす香ママ代筆の感じ
をわたしはもつ。
* 〉言葉もなく、深く深く感謝しています。 湖
いいえ、やはり余計なことを書いてしまったのだと思います。朝日子さんのお気持ちはとっくにご存知だったのですね。私の書いたことは、他人からの単なる
だめ押しでした。
〉日記を読めば読むほど、「ああ手遅れ」したという悔いは、口惜しさは募ります。
先生のお気持ちには、本当にもう、何も申し上げられる言葉がありません。やす香さんの日記を、体の不調と痛みを訴えていらっしゃる所を中心に、読んでみ
ました。
確かに日に日に状態が悪くなっているのが分かりました。
でも、一番驚いたのは、四月の始めに病院で検査をしているのに、そこでは何も見つけられず、只「うちでは分からないから、大学病院にでも行きなさい」と
言うだけの対応をしているところです。
ここですぐに付き合いのある大学病院を紹介する等の措置があればと、怒りも覚えますし、これが地域医療の限界なのかとも、愕然としました。
今頃はお祭りが宴たけなわでしょうか。やす香さんが楽しんでいらっしゃることを願っております。
入院生活で一番の敵は、一日のメリハリが無くなることでした。行動が著しく制限されていて、することが何もないと、具体的な、生活のはりあいが失われて
しまうのでした。特に、長期入院になると、これが一番困りました。そんな生活の中、面会のお客さんは、外の世界を運んでくれ、「会って話す」というはりあ
いを持ってきてくれるので、只会いに来てくれるだけで、華のある生活になるというか、そういう部分はありました。確かに疲れるので、体調によって制限な
さった方が良いとは思うのですが・・・。
日記を読みますと、やす香さんは今年の春頃から、肩から胸の辺りが痛くて安眠できない日々が続いていたんですね。
今は安眠できているでしょうか。夜に眠りが浅くなるなら、ご家族がそばにいらっしゃる昼間、のんびり眠るのも良いことだと思います。勿論薬の副作用もあ
りますが、お母様の前でうとうと眠ってばかりのやす香さんは、きっと、安心していらっしゃるのだろうとも思いました。
先生も、どうかお体を<ruby><rb>苛</rb><rt>さいな</rt>
</ruby>まれませんよう。
とても難しいことだと思いますが、どうかお元気でお過ごしください。 百合
* ありがとう。ありがとう。
* 「mixi」での意思疎通には、「日記」への「コメント」があり、これは一首のチャットで、誰でも参加でき誰にでも読まれうる。もう一つ「メッセー
ジ」があり、これは相手へ個と個との通信として直通し、誰にも読まれない。
「コメント」では埒が明かないとみて、私は「四月十二日」に、やす香にメッセージしている。これは、もはや言語に絶した苦痛でありながら、まだやす香はひ
とり堪え、わけわからずに狂った昆虫の一匹のように、日々過ごしていた時点である。
* 宛 先:やす香 日 付:2006年04月12日 20:38
件 名:mixiに加わってから、
やす香の日記を欠かさず読んできました。もうまる二ヶ月ちかくなります。一言で言えば「心配」の連続でした。
人から耳の痛い何かを言われるのを、頑固に拒絶しているらしいのは知っていたので、直接、何も話し掛けませんでした。
書かれてある日々の生活、それを話している書き方・話し方。そして会話。それは、ま、本人の勝手であるから好きにしていいことですが、最近の日記には、
「心身の違和」が猛烈に語られはじめ、こと健康、こと診療となると、心配は、もう極限へ来ています。
ことに今日の日記など、これが「ピーターと狼」の例であるならべつですが、本当に本当にこんな有様なら、やがて神経や精神に響いてきます。両親とも、本
気で何の相談もしていないように見受けるし。
やす香日記をみてくれている「大人」の知人・読者には、日記じたいが心幼い一つのパフォーマンスであり、自我の幼稚な主張であり、或いは遊戯に近いかと
解釈する人すらあるのですが、わたしは、おじいやんは、そうは思っていません。かなり危ないと、ほんとうに心配しています。
相談したい事があるなら、素直に柔らかい気持ちで、遠慮無く言うてきてくれますように。とても「笑って」られる状態・状況とは思われない。
まさかやす香は他人からの「愚弄愛」に飢えているわけではないでしょう。だれからも、正常で正当な「敬愛」を受けたいのではないか。それにしては、あま
りに言うこと為すこと「幼い」のではありませんか。
やす香は、こういうことを身近な誰それから直言されるのを、極端に嫌っている気はしますけれど、心の健康すら心配される今、手遅れにならぬうちに、「話
しにお出で」と声をかけることに、おじいやん一人で決心しました。 祖父
* 「親に話しなさい、父親に話しなさい、母親に話しなさい」と、もっともっともっとハッキリ指示すべきであった。この、四月半ばにも至らぬ時点で、すで
に「手遅れ」に近いほど、やす香の訴える苦痛は深刻を極めていた。おお、しかも、やす香が今の病院に入院し、精密検査され、「白血病」と告げられたのは、
なお「五十日も遅れた六月二十日前後」であった。
その間にもやす香は、ひとりカイロプラクティックの治療を受けに行っている。弱り切ったやす香の骨に、きついカイロの治療は無用な苛酷ではなかったか、
骨の肉腫は、骨が溶けるように砕かれ弱ってゆく病気なのである。
* こんにちは。先生のホームページを久しぶりに拝見し、驚き、なんと申し上げてよいのかわからぬままにメールしております。
やす香さんのご病気の回復を信じてお祈り申し上げます。秦先生もご家族の皆様もどうかお体をこわされませんように。
早稲田大学の在学中、私は欠席がちな学生でしたが、一九八六年に受講した先生の授業で、先生が「今年、こどもが二人生まれます。」とおっしゃったのを憶
えております。
その記憶のせいか、私はなぜだかやす香さんは「湖の本」と同じ六月生まれだと思っておりましたが、お誕生日は九月なのですね。
きっとその日を迎えられると、非力ながら私も強く念じております。
蒸し暑い毎日ですが、どうぞ皆様お大事になさってください。 浜
* ありがとう。ありがとう。
* 今日、看護・介護の仕事に携わっている友人に尋ねたところ、リラックスして自然治癒力・免疫力を高めるという方法もある、そのために無理な治療をす
るより緩和ケアを選ぶこともあるよ、との答えでした。
それを聞き、音楽会が少しでも、やす香さんの力を引き出せますように、と祈っておりました。
毎日、祈っています。
どうぞ秦さんも御大切にお願いいたします。 清
* 下関の方が、ごく身近な温かみでこうして親切にしてくださる。嬉しい。
建日子が電話で朝日子に聞いたところでは、音楽会には百人もあつまって成功し、やす香に疲労での急変もなく、無事と。ありがたい。ありがたい。静穏であ
りつづけますように。
* 七月十七日 月
* 祇園会。ひたすら京都が懐かしい。永遠に帰ってしまいたいとも思うが、それはタワコトに過ぎない。そんな京都は、もうわたしの念裡にしか実在しない。
* 祇園祭、降り続く雨中の巡行になりました。テレビで観ていますが何もかもずぶ濡れのお祭り。
この雨と共に災厄も一掃され流されますように。
やす香さんのご回復を信じてお祈りしています。
どうぞ、皆様も少しでも心安らかにお過ごしになれますよう、お祈りしています。 のばら 従妹
* ただただ 祈る 甲子
私語にて、やす香さんの入院を知り、六月二十三日、若い頃に起こりがちな病の一種、それにしても祖父母のご心労いかばかりか、と、何はさておきお見舞い
のメールさしあげました。が、翌日の「私語」文中、
* お見舞いをたくさん戴いているが、この返礼はご勘弁願っている。
とのお言葉、さもありなん、忙中の雑音、痛苦の源、と、以後の発言は控えておりました。
ところが、その病根の深さ言外のことと聞くに及び、見舞いの言葉など空疎にひとしいものと知りました。
しかし、昨・日曜、建日子さんの電話で音楽会には百人もあつまって成功し、やす香さんに疲労の急変もなく無事。とのこと、それそれ、医・智・に限りは
あっても、気・には計り知れない力がある、と信じます。
どうぞ、周囲から、特に先生の「持ち観念」であられる「身内」の方々、有声無声の励ましによって、やす香さんの内なる気力を高め、現前させ、快癒の方向
へ向かわしめるよう、祈ってやみません。
何の知識もなく、お役に立てる提言のひとつだに申し上げること適いませんが、ご心労のほどは深くお察しいたします。そのあまり、日々のこと、体調などに
齟齬の来たらすことなきよう。お過ごし下さいますように…。 060717 甲子
* 恐れ入ります。
秦と押村という、錯雑した多年の確執のなかで、ただ愛おしい孫娘に思いを凝らすしかない、ややこしさにもわたしたちは翻弄されています。一期一会。繰り
返しの一度一度にその思いをひそめ、先日の見舞いにも、めったにしないネクタイをしめ、せめて孫の眼に、祖父のきちんとした姿をみてもらっておこう、もう
二度と来れないかも知れぬと覚悟して参りました。そういう<ruby><rb>宿世</rb><rt>
すぐ<rk/>せ</rt></ruby>なのでしょう。
* 発送用意の作業に追いつこうと頑張っている。もう、明日から三日間しかない。うち一日は、相模大野へ見舞いに行く予定。二十一日に出来本が搬入され
る。今度は二百頁、作業の重量負担が大きい。本はときに石のように重い。
* 夕方から、またインターネットが利かない。ルーターがピキ、ピキと鳴っている。いま、いちばん頼りにしているメールと「mixi」とがともに使えな
い。ホームページの更新も出来ない。外向きの表示がすべて使えない。なにか、工夫をしようと思っても、悲しいかな今は、頭がてんで働かない。こんぐらがっ
てる夥しい配線をみるだけで気が萎えてしまう。
この間にも、役に立っていない光通信もウイルコムも料金を支払い続けている。社会保険庁みたいだ。
* やす香の妹、中学生のみゆ希が声もなく「mixi」のわたしの処に「足あと」をつけている。みゆ希もさびしいことであろう。
* みゆ希 久しぶりに逢って、まさに再会して、おじいちゃんはみゆ希に、碁でみごと一敗したんだなあ。夢のように懐かしく思い出されます。
やす香もまみいも一緒に、四人で保谷駅まで、みなで手を繋いで唄って歩いたのは、あの日だった。やす香は元気だったね。
お正月には、タケちゃんもいっしょだった。玉川学園まで彼の自動車で走ったのも、夢のようです。みゆ希の誕生日前祝いをした二月には、お雛さんを姉妹で
声をあげて飾っていたね。そして池袋のお寿司屋さんで、四人で、板前のお兄さんに煽られながら、にぎやかに沢山食べました。
どうかして、また、また、みゆ希もやす香もみないっしょに、手を繋いで歌うたって歩きたいなあ。みんなで食べて話したいなあ。
一月の十日過ぎに、やす香は、はじめて日記に「痛」という字を書いて異状を自覚していました。
二月のあの日のやす香は、みたところ元気そうだったけれど、なんだか上半身に異様な違和と苦痛をもうもっていたらしいと、今でこそ、その姿態が目に浮か
ぶように思い出されます。あのときが仮にまだ早くても、なんとか三月中に、あのやす香の苦痛に、異様な全身状態に直観が働いていたらなあ、気が付いていた
らなあ、「ママ、これ、なんだか普通じゃないよ」って訴えていてくれたらなあ、身近なだれか大人が一人でも異状に驚いて、最初から大学病院へすぐ駆け込ん
でくれていたらなあと、おじいちゃんたちは、及ばぬ繰り言を話し合って、毎日泣いています。 おじいちゃん
* 今日はさすがに昨日の疲れがあるのか、やす香自身は「mixi」で語っていない。建日子が見舞いに行ったときも寝ていて、しばらくは外で待っていたら
しい。今夜も、雨降って地堅まり、バクに護られて平安でありますように。
* 七月十八日 火
* 西向きに、新幹線に飛び乗ってみたい気持でいた。今日も雨がつよい、と聞いている。
* 音楽会は盛況で、やす香のために、やす香を愛してくれている大勢のために、佳いひとときであったろう。その一つの山を越え、やす香がまた新たな目標を
持ってくれるといいと心から願う。
さすがに昨日は疲労したか、見舞った建日子への反応もぼんやりしていたとか。疲れの溜まるのをどうかして避け、新たなちからの蓄えられる看護を、介護を
と願う。
せめて「mixi」に反応できるちからを、と、心からねがう。何が食べられるだろう、飲めるだろう。
笑うのの大好きな孫のために、つみのない志ん生や小さんのテープを持っていってやろうかなと思っていたが…。
* 気温が下がり この二日、いくらか人心地がつけます。
昨日の祇園祭山鉾巡行は、例年に違わず雨降りでしたが、幸い関西地方も、あの汗の吹き出るような蒸し暑さはなかった、とメールがありました。
京都では折々の季節の移り変わりを、そんなイヴェントで確認していたと懐かしく、寸時のテレビニュースを追っています。
友人の旦那様たちが京の三大祭の管理をする立場の長老だと聴き及んで、自分の歳をつくづくと。
いよいよ梅雨明け間近です。
雨降りでは運動出来ませんね。
やす香ちゃんの事、心から離れないでしょうが、ご自分も病人であることを忘れずに、お気をつけて。今はあなたの健康に声を掛ける人はいないでしょうか
ら。
何をさておいても、お見舞い(ただ顔を見せるだけでも)を頻繁になさるのが一番かと思います。泉
* アンドレ・モロワの『英国史』は、大陸の絶対王政とはみごとに相貌を異にし、王の権威と権力をも議会が左右できる政治体制へ、それが「国民の権利」と
して堅まった時期を、敬意と羨望とを痛いほど覚えつつ、読み進めている。
「世界の歴史」は、ちょうど宋の太祖が、中国史上最後の禅譲・革命で天子・皇帝におされ、めざましい王権の拡充を智恵を絞って実現している辺りを読み進め
ている。唐末から宋初をつないだ五代十国の歴史など、過去にはつい目をそむけてきたが、今度はつぶさに読んでみて、そこにも歴史の必然の働いていた面白さ
厳しさを納得した。
芹沢光治良の『人間の運命』は第一巻の半ばを過ぎ、主人公「森次郎」少年と生家や環境との、ことに父の、また協力した母の、天理教信心と実践によって、
一家一族が大きな波瀾と没落にあう運命を、読み進んでいる。
小沢昭一氏にもらった新しいエッセイ集も、ほぼ読み終えて、高橋茅香子さんの翻訳の大作、久間十義氏のルポふうの小説も面白く併読している。
『アラビアンナイト』は、短章がつづくと少し意欲が落ちてくる。荒唐無稽なほどの長篇がおもしろい。
鏡花全集は、本の重いこともあり、寝床では読みにくいけれど、じりじりと。
旧約聖書は、文語での翻訳に句読点がずいぶん節約してあって、読み取ってゆくのに苦労しつつ、これまたじりじりと頁を進んでいる。何といっても、今日の
イスラエルの、ほとんど暴虐としかいいようない攻撃的な聖戦思想との関連で、ズーンと重い気分になりながら読む。「聖書」と受け容れるのは、少なくも、現
在進行中のあたりでは、とても難しい。
日本書紀は、天武天皇によるまさしく「現代史=現代政治」そのものを音読している。いまは「八色の姓」の整えられた辺を読んでいる。
バグワンは、最初に戻って『存在の詩』を音読し続けている。やす香 やすかれ、心静かに在れという思いをこめて読んでいる。やす香の耳に届いていると信
じたさに。
* 国際政治や国内政治やいろんな事件への目配りも欠かしていないが、さすがに、ウンザリもしている。ながい電車に乗って遠くへ走りたい気の<
ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>すのも、じっ
としているとそのまま全身が石のようにかたまりそうに感じるから。
いまこそ、静かな心でいたいし、そうしているつもり。つもりは、つもり。
* 七月十八日 つづき
* 秦建日子のブログから転載する。篠原涼子さん、ありがとう。建日子、ありがとう。建日子の御陰で、やす香母娘も、われわれ老人も、みんながどんなに負
われ助けられ力づけられていることか。
* 篠原涼子さんの手紙とビデオ。 秦建日子
昨日から今日にかけて、こんなことがありました。
姪は、明日をも知れぬ重病の床の中、それでも「花嫁は厄年ッ!」だけは頑張って観てくれています。
と、それを知った主演の篠原涼子さんが、昨日、彼女宛の激励メッセージを私に託してくれました。
ドラマのポスターへのサイン。
色紙へのサイン。
別の色紙には、手書きのお手紙。
その上、ハンディ・ビデオで撮影した姪への激励メッセージ〓〓―
連ドラの主演女優といったら、それはもうびっくりするくらいのハード・スケジュールで、体力も神経もすごく磨り減るハード・ワークなわけで、なのに、僅
かなオフの時間を使って、サインに手紙にビデオ。。。
ビデオが出来た時、、そしてそれを渡して貰う時、篠原さんが「あ。ラベル貼るの忘れた」って言って、ぼくが「あ、いいですよ。ラベルなんかなくてもその
ままで」って言って、でも篠原さんが「ううん。ラベルは絶対あった方がいいよ。私、今すぐ書くから」って、ペンを取りにだだだだって走っていって〓〓―そ
の時、ぼくは不覚にも、スタジオのメイク・ルームの前で、篠原さんの優しさに泣きました。
ぼくは、その「篠原涼子メッセージ」の山を大事に大事に抱えて家に帰り、今日、7話の撮影で緑山スタジオに入る前に、姪の〓〓―やす香の病室に届けまし
た。
やす香はちょっと疲労していて、一日の大半は笑顔っていう子だったのに、じっと無表情で、見舞いに来たぼくを見るのもしんどそうだったけれど、でも、篠
原さんからの手紙を差し出すと、それをしっかりと手に持ち、にっこりと微笑みました。
それからビデオをじっと何度も観ました。
看護婦さんが、とても興奮して、「すごい。うらやましい」と何度も言ってくれました。
ぼくの姉が、いそいそと、色紙とポスターをやす香のベッドの真正面にドーンと貼りました。
病室のカレンダーを見たら、ちゃんと7話のオンエアの日も、最終回のオンエアの日も書き込まれていて、「篠原さんがね、最終回の感想、絶対、聞かせて
ねって言ってるよ」と言うと、強くうなづきました。
そしてぼくに、篠原さんに、
「ありがとう。私、頑張るからって(篠原さんに)伝えて」
と、しっかりと言いました。
ぼくは、「また来るね」と彼女の手を握り、それからスタジオに向かいました。
やす香の手はとても暖かくて、きちんと命がそこにありました。
* 佳い息づかいで、建日子の優しさがよくあらわれている。
* 百合の花が咲きました。 いい香りで、家に帰ってくると、うれしくなります。
やす香さん、音楽会楽しまれてよかったですね。
それから今「私語」を拝見すると、ビッグスターからの励ましも・・。
大いに楽しみ、いっぱい笑って、病気を吹き飛ばしてください。
今日、田舎の、産直市場に、ハウスもののニューピオーネがありましたので、一つだけお送りしました。『一房の葡萄』です。
召し上がってくださるとうれしいです。
『こころ言葉』と『光悦・宗達』を並行読みしています。からまっていた糸がするすると解けていく快感を味わっています。
先生は、ほんとに京都がお好きなのですね。
なつかしき
故郷にかへる思ひあり、
久し振りにて汽車にのりしに。 讃岐
* ひとことでいい、やす香のメッセージが「mixi」に流れてくれるかしらんと、願っている。音楽会の反動、よほど強かったのではないか。次の目標をな
にとか工夫できないだろうか。
* やす香母の「きょうのやす香」の容態が「mixi」に報告されている。とろとろと寝ているとも、うとうとと覚めているとも。見舞いの友達の手を手でま
さぐりにぎる、と。
やすかれ、やす香。
* やす香はときに「詩」を書いた。書くことばがそのまま詩になることもあった。はっとするほど、失礼ながら見た目のやす香を裏切るほど、ピッカリ光った
詩句を紡ぎ出していた。
大学へ入学時の「自己推薦文」は、提出前にわたしに先ず見せて「意見」を問うてくれた。
今年の正月の目標はフランス語の検定試験だった。
正月早々、フランス語で、覚悟の程を書いていたりした。
* 秦恒平様
「わたしは、ただもうやす香の顔を見ていた。言葉は無力に感じられた。」
おじいやんの、この痛切な記述を前に、何もいうべき言葉が無い。最近の「秦ブログ」を読むのが、辛くて仕方がない。メールもそうそう気楽に送れるもので
はない。だが、おじいやん、やす香さんに逢えてよかった。
気のきなかい読者は、ただただ、声にならない言葉を、言葉にならない声を、密かに心で念じ入るのみ。それでも、秦さんのいわれる「世間」は、何事も知ら
ぬげな顔して動き、通り過ぎていく。それが人の世の習いかもしれないし、所詮私も「身内」にはなれない一読者に過ぎないのであろうが・・・。ひとえに秦さ
ん自身の「消耗」を心配しつつ・・・。
※ クロネコのクール便にて「製造元」より、ささやかな暑気払いをお届けします。一両日中に届くはず。七夕はとっくに過ぎましたが、越後名物の「右門の
笹だんご」です。年に一度、七夕の時期に知人が送ってくれる私のひそやかな楽しみを、人生で一番かもしれない苦しみにあえぐ秦さんにも、お届けしたいと思
いました。冷蔵庫で冷やして二日は味わえます。固くなれば電子レンジで数十秒温めて下さい。くれぐれも、余り温め過ぎないように。
残りは必ず「冷凍」して下さい。新鮮なヨモギと、熊笹の葉の薬効が、適度な甘さの小豆餡に共鳴して秦さんの心を癒してくれるようにと願いながら。 円
四国E‐OLD
* 恐れ入ります。
* 孫を奪われていた十余年が惜しまれる。痛切に惜しまれる。
* 七月十九日 水
* 雨。散髪のひまもなく、やす香の顔を見に行くつもり。頭の芯まで、やす香になっている。生きていると謂うこと。
* 雨中、相模大野まで。病棟に入って、ロビーで待機。
廊下へ出て来た朝日子に、「命のあるやす香とは、今日が最期と思って欲しい。病室には五分間だけ。厳守して」と。朝いちばんに、四国からはるばるいただ
いた「笹餅」も「葡萄一房」も、また「タカノ」の梨も、やす香の口には入らなかった。
妻はそうまで差し迫っているのかと動揺していたが、わたしは、堪えた。
もう、朝日子達の押村家は、やす香の命からは手を放していて、そのまま、なに一つもする気はないのだった。やす香に苦痛を味わわせることなく見送ると、
朝日子達はきめていて、やす香にも引導を渡すようにそれを分からせてあるのだろうか。やす香の言葉(としてあるもの)にもそれが出ていた。
やす香自身の希望であったのかも知れないが、あの音楽会は、文字通りのつまり「お別れ会」であった。人事は尽くされたか。我が子朝日子の為になら、けっ
してあのまま諦めたりはしなかったろう。
* やす香はうとうとと眠っているようであったが、「やす香」「おじいやんだよ」「まみいよ」と小声で呼べば、手先で少し反応した。少し肯き、何か言いた
そうに、くちびるを動かしたが、言葉としては聞こえなかった。
手を握ると、かすかに握りかえし、また手を動かして、わたしや妻の手を探し求めた。ほうっと、うっすら目をあけ、マスクをはずしたわたしたちを認め、肯
いた。「わかっていますよ、まみい、おじいやん」と言うようであった。
わたしは、何度も「ありがとう」と言った。「ありがとう、やす香」と繰り返して言った。
わたしちに、かけがえのない喜びを届けてくれたのは、やす香であった。奪われ失っていた孫の、希望に満ちた元気な声と笑いとを、決然、保谷の我が家に届
けてくれたのは、やす香一人の愛であった。妹のみゆ希までも連れてきてくれた、両親の意向に頓着せず、何一つの説明も言いわけもなしに。
わたしは「ありがとうよ、やす香」という思いのほかを、口にするどんな言葉も知らない、「ありがとう、やす香」と。
* 病室には、朝日子のほかに、父親の押村高が椅子に腰掛けていた。黙っていた。わたしたちは、彼に言うどんな言葉も持たなかった、
* やす香は、かすかに左手を、また右手を、あげて、わたしたちに手を振った。妻は「おやすみ、やす香」と言い、わたしは「ありがとう、やす香」と声を掛
けた。薄目をあけてやす香はうなずき、ゆらっと、ゆらっと手を振った。わたしは、白い細いとても綺麗なやす香の少女らしい手を握り、ふっくらと微熱を帯び
た柔らかい頬に唇を添えた。堪らなかった。
やす香は、目を開けるようなとじるようなまま、かすかに肯いて手をゆらゆらと動かした。
* 一度、ロビーにまで出たが、妻とわたしは、そこで動けなかった。妻は、ナースステーションで、ほんとうにそんなに差し迫っているのでしょうかと訊いて
きた。
「わかりません」「お母さんがよくご存じです」という返辞であった。ただ、やす香が平穏・平安にいられるようにだけ最善は尽くしているが、「延命のための
措置は何もしていない」と言うのである。親も、病院も、苦痛のないやす香の最期をねがって、すべて手を放しているのだ。そうとしか、道がないのだろう、だ
が、まあ、なんと口惜しいことだろう。なんと口惜しい、口惜しいことだろう。
* 「白血病」ですと、やす香自身が「mixi」に公表したのが、六月二十二日、あの時は朝日子も「治る病気なんだから」と、私たちの愁嘆を禁じた。あれ
から一月たたないのだ、まだ。
ほんとうに最善が尽くせたと言えるのか。残念だ。
まして、やす香の日記をつぶさに読み返す限り、三月、四月、少し大人が注意していれば、こんなむちゃな事態には絶対にならずに医療の威力が十分期待でき
た。疲労と病勢とは相乗加速し、やす香の肉体をぼろぼろに蝕んだ。三月四月に治療体勢に入っていたら、確実に緩和し延命策が奏功または奏功の見込みを持っ
たろう。
やす香は、友人達がしきりに言っていたように、命にかかわる「異様な病変」を、「孤独に、ひとりで抱え込んだ」のである、友達はそんなことをしていると
「SHI〓死」だよと威して、繰り返し警告していた。わたしも心配しメッセージを書いた。メールもした。「親に告げよ」と。
だが、やす香は自分からは、母親にも父親にも訴えていないようだし、両親は六月半ばまでなお気づけなかったようで。くやしいことだ。「やす香、親に相談
しなさい」とメールで伝えても詮無い成行だった。そしてわれわれには、やす香の親たちに直にものを言いまた伝える「道」が、酷いように十数年断たれていた
のである。むりやり伝えても押村家は聞く耳も無かったのだ。くやしい。くやしい。
* 帰りの小田急線でも妻は泣いた、わたしも泣いた。池袋で、おそいおそい昼飯に西武の「たん熊北店」に入ったが、食べながら妻は泣き、呑みながらわたし
は泣いた。あきらめきれずに、食べて飲んだ。美味ければ美味くて泣いた。やす香と三人でこの店で食べたことを思い出して泣いた。
* 建日子は、そんなに差し迫っているとは思わなかったがなと、電話で母親に言う。祖母も言う。
わたしは、あの音楽会が盛況で、やす香が顔を輝かせて笑いかつ楽しみ喜んだ反動は、深刻なものになると予期し、覚悟していた。すぐ次の目標になる生き甲
斐をすかさず設定してやらない限り、音楽会の反動は、心身の衰弱をひたすら招くだろう、と。
予想通り、翌日には、もう、とろとろと半醒半覚の状態にやす香は沈み込んでいた。あの催しは、なんら「医療」ではなく、さながらやす香を小舟にひとり乗
せて、底知れぬ夕闇の沖へ、みなで「さよなら」と押し出したようなものである。それがいいと、病院も親も、半ば自身の安堵ゆえにきめたのであろうか、もう
それ以上の何もしない方がいいのだと。もう何ひとつも医療は試みないで。すべて、あきらめて。
望まれているのは、やす香の安静と平穏な、終焉だけなのか。
おお、それは大きな大きな愛情のようでもある。だが、病院と親との、自己慰安の申し合わせではなかったかとも<ruby><
rb>猜</rb><rt>さい</rt></ruby>される。善意にさしのべられた医療支援
の手は、一顧もされず謝絶された、じつは返辞もなく、すべて。一か八の祈願も、試みも賭けも、すべて、なかったらしいのである。藁など〓む気に、親も病院
もならなかった。それほど容態が悪すぎるというのだ。
苦しい選択であったろうと、思うことは思う。だが、残念だ、念は残る。
* 朝日子の母心はどんなに悲しかろう、わがこととして、私も妻もしんそこ察している。朝日子の分も私たちは血を吐くように悲しんでいる。代わってやりた
いという気持にウソは全くない。朝日子達をどう、いま、責めてみても詮無い……が。
どうか奇跡が起きて、やす香が、ママの誕生日のこの二十七日までもちこたえ、八月までもちこたえ、……。ああ、九月十二日やす香二十歳の誕生日までが、
何十万年ものように、ながく、遠く、嘆かれる。
がんばるのだよ、やす香。お前はまだ、そんなにも無垢に瑞々しく若いのだ。
* 歌舞伎座から帰宅しました。お見舞いのことが気にかかり、なぜか胸騒ぎがして、すぐに「私語」を拝見しました。涙があふれて文字がかすみ、どうにか
読み終えた今、言葉がありません。
メールを書きながら時間ばかりが経って、何をどう書いていいのかわからなくなってきました。やす香さんを愛している多くの方々と共に祈り続けます。希望
を持ちます。 夏はよる
* やすかれ やす香 生きよ けふも
やすかれといまはのまごのてのぬくみほおにあてつついきどほろしも
このいのちやるまいぞもどせもどせとぞよべばやす香はゆびをうごかす
* 七月二十日 木
* 雨あがり、今朝も涼しい。やすかれ やす香 生きよ けふも。
* 昨日、本屋に『メリー・スチュアート』を注文しました。新潮文庫は絶版久しく、インターネットで調べても文庫本は現在ありません。古本屋を時間をか
けて折りにふれ丹念に探すことにしましょう。お手持ちの本の訳者が誰か分かりませんので、もし訳者が異なっていたらと懸念はありますが、入手可能なツヴァ
イク・コレクションというシリーズに『メリー・スチュアート』がありますので、それを頼みました。来週以降お手元に届くでしょう。ちょうど発送作業が一段
落する頃でしょうか。くれぐれもお体大切に発送を済ませられますよう。転んだ後の腕の傷が思いやられます。
雨が降り続き、祇園祭は例年の半分ほどの人出だったとか。今年はいろいろ用事があって出掛けられませんでした。
八月にヨーロッパに半月余り行くことになりました。ずっとわたしには珍しく躊躇していたのですが、断れなくて。行く以上はそれなりに目的も多々あり、少
し「勉強」も準備もしたい。それまでに仕上げなければと思う絵もあります。
気持ちばかり忙しくなりそうですが、わたしの気分はそこからかなり遠い状態です。 鳶
* かろうじて明日からの新刊「湖の本」発送の用意がほぼ調った。いつもいつもストレスの多い駆け込みであるが、このようにして満二十年、八十八回もわた
したちは「湖の本」を送り出し続けた。
趣味でも道楽でもない、わたしの、文学史にも例のない孤独だが長寿の出版活動であり、読者と理解者とに支援され期待されながら、一度の停頓もなく続けて
きた。出し続けた。次々と期待して頂ける作品の質・量が豊富であればこそ、成り立ってきた。
問題はわたしの気力でなく、今は、体力である。本は重いとつくづく思う。腰の<ruby><rb>蝶番</rb>
<rt>ちようつがい</rt></ruby>はもうボロボロになってきている、ハハハ。
今度送り出すのは小説の第五十巻で、A5版二百頁という大きな増頁、三百円臨時に値上げはしたが、それでも厳しい。しかしこの仕事でわたしは営利を求め
て来なかった。維持し続けられれば目的は十分達している。
* 先生が、フルーツの「高野」で求められた果物を病床に持参された由拝見して、健康な初物のフルーツをと、失礼ながら送らせていただきました。
ご丁寧なお便りいただきまして、恐縮に存じます。
それにしても、なんという病勢の激しさでしょうか。
めまぐるしく変化するご病状に、どきどきしながらHPを拝見しています。お見舞いのご様子、泣きながら読みました。
まして、やす香さんはまだ花のつぼみの19歳、そして、おじいやんとの長い途絶の時間の後のうれしい再会をしたばっかりというのに。
あの(ホームページ「私語の刻」の)お写真のかわいいやす香ちゃんが病魔にあわや連れ去られようとしている。どんなにつらく悔しい思いをなさっている
か、言葉で言い尽くせません。「ふしまろびて嘆き悲しむ」と言った、昔の人の表現こそ言いえてくれているような気がします。
代わってやりたいと、私も思うでしょう。
奇蹟を信じます。
近くに、聖武天皇時代の国分寺があり、霊験あらたかな観音さんがいらっしゃいます。
毎日祈っています。どうぞどうぞよくなりますように。 讃岐
* おたよりのあらましを摘記しながら、感謝している。バグワンは「思考」はモノであり力であると説いている。このような思いの数々が癒しの力となり、や
す香の病症をきっととりつつんで力を発揮してくれるのだと想っている。
* 妻は定期の診察をうけに聖路加へ出掛けた。心臓の主治医の話では、「肉腫」は若い人を突如襲って病勢はげしく、症例は多くなくて、診療基盤を成す情報
にいまなお不足している強烈な病気だと。
やす香の母親朝日子が、幼稚園にもまだかという幼い頃、滑り台から転落骨折し、東大整形外科に入院したとき、同じ病室に、いまのやす香ほどの少女が「肉
腫」で治療を受けていた。今のやす香とはくらべようもないほどさわやかに元気そうに見えていたけれど、途方もなく難しい病気と漏れ聞いて心から案じなが
ら、朝日子は先に退院した。
その記憶があったので、「白血病」という初診が「肉腫」に転じたとき、わたしたちは、ハンマーで殴り倒されたような恐怖を覚えた。朝日子達もそうであっ
たろう。
* 全身状態に未だ少しでも力のあるうちに、発症を食い止めねばいけなかった。一月、二月、三月、そこで決定的に逸機した以上は、緩和ケアか、一縷の望み
に縋ってあらゆる医療の手を尽くすか、選択肢は二つしかないと分かっていた。
どんなに若いぴちぴちした肉体も、過剰な疲労の蓄積と病状放置とは、病魔をここぞと立ち上がらせる。だれもだれも、適切に用心して欲しい。親子・家族が
お互いにいたわりあい用心して欲しい。こんな悲惨なことを繰り返してはいけない。わたしたちは、恥ずかしい。
それにしても、妻の主治医いわく、「あっさり告知したものだなあ……」と。
おそらく母親は、やす香の平安を、命の尊厳をまもりぬく平安をと、娘の叡智とも真向むきあって申し合わせた「つもり」であろうか、厳粛な申し合わせをあ
えてした「つもり」であろうか。やす香のため…?ああ……。祈るしか、ない。祈るしか、ない。
* やす香のケイタイに。
やす香 ありがとう おじいやん
ありがとう ありがとう まみいと二人で やす香に ありがとう!ありがとう ありがとう ありがとう。
今夜の篠原涼子(建日子脚本ドラマ『花嫁は厄年!』)に、やす香、逢えたかな。
がんばれ やすか。おじいやんの、だいじな、やす香。
* インターネット不調で送れない ああ。
* いま、送れた。日付がもう変わる。やす香、明日も生きよ。
* 七月二十一日 金
* 午前、折良く雨のなかやすみに、新刊の「湖の本」創作第五十巻が出来てきた。早速発送作業に入って、夕食前に第一便を送り出した。<
ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>の高い分、作
業量は多い。用意はほぼ万全にしてあり、注意深く運んでいれば作業自体はむしろ単純なのだが。そばで、ジョルジュ・クルーゾー監督、ベラ・クルーゾーとシ
モーヌ・シニョレが主演の「悪魔のような女」を観ていても仕事は進む。
* 昨夜見なかった、息子が脚本の、題のまるで覚えられないドラマ、えーと、『花嫁は厄年!』篠原涼子と岩下志麻の連続ドラマ三回目も観た。
一般の視聴者にはまったく分かるまいが、息子の、ドラマを介しての「私小説風発信」がおもしろい。岩下志麻の母親役を此の「わたし」に、息子役を娘の
「朝日子」に置き換えると、およそは、きれいに当てはまってドラマが作られている。取材と脚色はなかなかうがっていて、佳い意味でしたり顔に如才なく巧み
に出来ている。
おお、やっておる、やっておると、わたしも妻も、特別の「桟敷」鑑賞で、笑ったり手を拍ったり話し合ったりできる。楽しめる。「メーッセージ」が如何様
に優しくまたシンラツに展開するのかも、期待しよう。
* もう日付が変わる、それほどまで今日は、米寿を迎えた「湖の本」新刊の発送に没頭していた、と、ま、それに違いなくても大層な言いようだ。宮崎駿の
『ハウルの城』なる童画を妻が観るというので、そばで付き合いながら作業していた。能率をあげた。
童画は、いつもながら、こんなものかと思った。原作というか構想というか、やわいし甘い。善意のお伽噺ではあり、絵は美しいが、『ゲド戦記』などの本質
的な思想性からみると、月とすっぽんのように少女漫画めいて、すぐれた児童文学の原作、たとえば『魔神の海』などと較べても、魂を揺さぶられる刺戟がな
い。静かに考えさせられる佳い意味の負荷も軽い。
* それよりも、我が息子秦建日子のブログの、今日のコメントに、少し、たちどまってみよう。全文は必要ない、前の半文で足りている。題以下に、こうあ
る。
* 2006.07.21 Friday ウンコ投げ競争はガマン!
以前、スティーブン・キングの「ウンコ投げ競争の優勝者は、手が一番汚れていない人間だ」という言葉をこのブログで紹介したことがありました。
「どれだけ他人にウンコを投げて命中させるかが大事なのではなく、そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ。それよりは自分がやるべきこと
をちゃんとやろうよ」(村上春樹さんの解説)
無性にウンコを投げ返したくなると、ぼくはこの言葉を思い出しては踏み止まることにしています。他人にウンコを投げつけたいウンコ野郎は、静かに無視す
ればいいのです。あるいは、静かに軽蔑すればいいのです。あるいは、哀れに思えばいいのです。だって、他人にウンコを投げるしか自己実現の方法を知らな
かったりストレス解消法を知らなかったりするわけでしょう?そんなウンコな生き方、哀れですよ。
それよりも!(以下は、此処では略しておく。わたしの批評とは関わらないからである。 秦)
とまあ、ちょっとここ数日、立て続けにウンコな気分になったので、自分自身に言い聞かせてみました。
ウンコ投げ競争はガマン!〓〓―「ウンコ」「ウンコ」書き過ぎですかね(笑)
* 引用されている村上春樹の「解説」が、一部引用でしかないかも知れず、問題を一般化し、ここでの言及は氏とは一応「無関係」としておく。その限りにお
いて上に引用された一文は、わたしには、タワイないものに思われる。秦建日子はこれに賛同しているようだから、わたしの「物言い」は、以下、彼の理解や共
感に対してだけ及ぶとしておく。
* 先日、歌舞伎座で、泉鏡花作の『山吹』という芝居を観てきた。これだけが幻想性を<ruby><rb>庶幾<
/rb><rt>しよ<rk/>き</rt></ruby>しない一応現代劇で、ほかに『夜叉が
池』『海神別荘』『天守物語』があった。
わたしと妻は、昼夜に、この四つともみてきたが、四つに共通して言えるのは、異界・魔界と俗(人間)世間との火花の出る対決であり、作者の思想は、眼を
みはり思わず呻くほど烈しく、後者、つまり俗な人間・世間への侮蔑と憎念を示している。
鏡花世界の構造は複雑で、こんな簡単に割り切って尽くせるモノではないが、鏡花の「根の哀しみと不平」との思いには、「そんな無意味なことで手を汚さな
いのが人間の品格なんだ」という式の、「世間」の行儀・判断に対する「不信」が重々しく沈んでいる。それが無意味であったり意味ありげであったりする、そ
んな判断を、誰が、どんな目盛りの物差しで決めつけているかの批評抜きに、どうして人間の「品格」にまで言い及べるのであろう、と。
わたしもまた、したり顔のそういう軽さや浅さや薄さに、おいおいおい、と目を剥いてしまう。
* で、『山吹』の話にもどるけれど、この戯曲は、三島由紀夫がやけに執着し称賛したほどは纏まりいいモノではない。ないけれど、なみの世間の判断や価値
観からすれば、極めて過激に非常識な価値転換の凄みを主題にしているとは、はっきり、いえる。
芝居の粗筋をくどくど書き立てる根気はないのだけれど、或る資産豊かな料亭の美しい娘が、本意なく華族家に嫁いで、暴慢・強欲な夫に虐待され、もう死ん
でもいい、死にたいと、家出している。
その家出の旅先で、たまたま、娘時代にひそかに思いを焦がした新帰朝の有名某画家と出会い、女はかつての思いを男に告げて、死にたいとも、あなたに一夜
でも添いたいとも、嘆くのである。
画家先生は、死んではいけないよと諭し、しかし自分には妻子もあり現世の名声も備わっていて、女の情をたとえ一夜なりと受け容れるわけにゆかないと、
<ruby><rb>窘</rb><rt>たしな</rt></ruby>め
る。それとても男画家はもう動揺しており、女の気持ちに添いたい欲求も隠しきれないのだが、終始腕組みし、拒んで、起っている。「そんな無意味なことで手
を汚さないのが人間の品格なんだ」と、絵に描いたような「紳士」なのである。
そのもう一方に、これが「主役」ともいえる、落魄流浪の乞食くぐつ師がいて、これも先の美しい人妻と舞台の上でさきに出会っている。
この地を這うような乞食男は、ものに襲われ傷つき腐った池の鯉を、「土にほうむってやろう」とうわべ言いつつ食用の腰袋に拾い上げていた。我が身とも思
いなぞらえたいそんな腐れ鯉を、女はもの哀れに見つめていた。
そしておいおいに、女は、乞食男の秘め持っていた「過去」を知ってゆく。
男は過去に、理想の貴婦人と出会い、しかも心なく傷つけ、死なせていて、その悔い一つを焼け石のように抱き込んで、呻きながら<ruby>
<rb>人外境</rb><rt>にん<rk/>がい<rk/>きよう<
/rt></ruby>を流浪しているのだった。
乞食男は出会った女に、美しく品のある家出妻についに懇願し、ただひたすら女の手で打ち<ruby><rb>打擲<
/rb><rt>ちようちやく</rt></ruby>されたい、骨も砕けるまで「憎い、畜生」と打擲してく
だされと、人目離れた山なかで、女に向かい切望する。その責め苦を受けるより外に、かつて犯した美しい或る<ruby><rb>
貴女</rb><rt>き<rk/>じよ</rt></ruby>への罪苦は、増しに増す
ばかりだと泣くのである。
女は、ついに、婚家への憎しみを想い描きながら、狂ったように「くぐつの男」をとめどなく木の棒を〓んで打擲するが、それを制止したのが、ひとり山なか
を散策していた、先ほどの画家紳士であった。
制止の言葉も態度も、世間の常識にいかにもかなっていた。家に帰れとすすめる言葉を、だが、女はことわり、あなたが自分の宿へ連れて帰ってくださるなら
従うが、それが叶わない上は、死か、流浪か、と絶望する。ついに画家は、わたしには家も仕事もあるが、当分の時間の余裕を呉れるなら、あなたと添うことす
ら考慮していいとまで、オトコくさい譲歩もするのだった。
女は、即座に拒む。それならば、自分は目の前の人形つかいの乞食男と「人外の境」に進んで落ちて行きます、この男と暮らして、男の望むまま、朝に昼に晩
に五体を折檻しながらでも、ともに生きて行きますと言い切る。そして人形遣いに、何処へでも何処までも連れて行ってくれるかと頼む。
乞食男は随喜の涙をこぼして、女に礼を言う。そうと聴くと女はいきなり「ここで祝言」したいと、男がさっき腰袋に入れた無残に腐った鯉をとりださせ、や
にわに女は口ずからその生の肝を吸い、男も躊躇わずそれにならう。「<ruby><rb>悪食</rb><
rt>あく<rk/>じき</rt></ruby>の共食」が、すなわち二世を誓う「祝言」になった。
画家紳士は、茫然とし顔を背け、しかもなお女をいさめるが、自分を受け容れる気があるのかと女に迫られると、「仕事があります」と思わず逃げ腰になり、
観客席に失笑の渦が湧く。
そしてそして、鏡花ゼリフの、最も痛烈な一句が、男と抱き合うように立ち去る女の花道から、本舞台の画家紳士に向かって、投げつけられるのである、
「世間へ、よろしく」
と。花道は魔界に入る至福の道であり、本舞台は「品格」を守って「そんな無意味なことで手を汚さない」紳士達のいかにも堅固そうな「世間」そのものを示現
していた。
* 何が「うんこ」で何が「うんこでない」か、また「うんこ」はきたないだけのものであるのかどうか、俗な「世間」の掟に従えば明白・明瞭かもしれない
が、人間の「誠」からみれば、そんなに甘い判断ではない。
鏡花は、それを言い、実は夏目漱石も繰り返し繰り返しそれを書いてきた。漱石と鏡花とには、よほど意気の通じ合うもののあったことは、実証可能。
* 「うんこ」どころではない、泉鏡花の凄い短篇の代表作に、『蛇くひ』というおそろしい幻想の作があり、その先に『貧民倶楽部』という現代小説の秀作が
あり、まさしく「そんな無意味なことで手を汚」してでも、人間としての尊厳や自由を闘いとらねばならない世界が描かれている。その世界は、しかし、なみの
「世間さま」からみれば、堪えがたい汚辱に塗りつぶされた、「品格」とは絶対に無縁な世界に映る。そう侮蔑的に眺めてトクトクと生きている安く思い上がっ
た人間紳士どもへの不快感、憎悪感を痛切に吐き出しつつ、鏡花の傑作戯曲は、四編、すべて光り輝いている。この不思議を、その輝く価値を知った・理解した
者の胸には、「うんこ」も「うんこでない」も、それを「投げる」も「投げない」も、とうてい本質の問題にならない。
自身の「誠」を、そこに<ruby><rb>一途</rb><rt>いち<rk/>ず
</rt></ruby>に賭けねばならないなら、たとえ「うんこ」で「手を汚し」ても、「蛇」をそのまま喰いちぎって俗世の驕
慢に酬いても、それらを躊躇いなく〓んで投げ付けられる「全的自由への気迫」こそ、本当に必要なのではないか。
「うんこ野郎」より「品格の紳士づら」の方がはるかに薄汚い例が、あまりに多ければこそ、批評をはらんだ「創作」行為が、大切に機能するのではないので
しょうかね、秦建日子氏よ。
* あす、読み直してみるけれど、言いたい趣意は変わらないと思う。
たかが「うんこ」ででも、「いやみな世間」へ凛然と反逆できない創作者なんか、あれどなきがごとき、不用なモンです。そもそも人は、人それぞれの「うん
こ」を持っているし、それを敢然と投げ付けてでも是非守りたい乗り切りたい譲れない何かがある。それなのに、「うんこ」をただ握りつぶして如才ないごアイ
サツだけを大事がり守るような「品格」って、いったい何なのよ。
「手を汚さない」意識と、みせかけの「品格」とが、気色悪く「世間」へむけて「われ賢こ」に演技している光景、たとえば、選挙演説のマイクを握った、真っ
白い手袋。
投票という「うんこ」もよう投げ付けないで、「品格」という名の怠惰や遊惰に嬌声をあげている日本の「世間」へなんぞ、うち背きたい方の気持に、むしろ
ホンモノがあるんじゃないですかねえ。
* 七月二十二日 土
* やすかれ やす香 けふも 生きよ。「白血病」と告げてきたあの日から、まる一ヶ月が経った。
* 日中文化交流協会の<ruby><rb>白土</rb><rt>しら<rk/>と
</rt></ruby>吾夫代表が亡くなった。
井上靖夫妻を団長に、巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信氏らとともに、作家代表団の一員に加えて、わたしを初めて中国へ連れて行ってくれた
人であり、それ以降も、「<ruby><rb>湖</rb><rt>うみ</rt>
</ruby>の本」を最新刊に至るまで欠かさず購入・支援してくれた大きな大きな知己であった。
中国の旅での白土さんのああも言われこうも話されていた豪快で深切なとりなしのみごとさを、忘れることは出来ない。わたしの歌集『少年』に、だれよりも
早く目をとめて「天才の風貌」と褒めてくれたのも、白土吾夫さんであった。療養されているとは前から漏れ聞いていて、たまに会合でお見受けするときの姿に
も、往年の生気溌剌の様こそ無かったけれど、いつ挨拶しても、ものやわらかな<ruby><rb>大人</rb>
<rt>たい<rk/>じん</rt></ruby>の風格はそれはみごとな方であった。死なれた喪失
感は深い。大きい。残念だ。心よりご冥福を祈る。
* 京都美術文化賞で二十年、同僚の理事として、また選者同士として親しくしてきた彫刻・陶芸家の清水九兵衛さんもまた亡くなられた。国際的な芸術家であ
り、インタビューのテレビ番組を撮ったこともあり、選者仲間では石本正氏、三浦景生氏とともに最も仲良く親しみ続けてきた、尊敬し信愛する大きな大きな知
己であったのに。「湖の本」をおくるつど、こんなに几帳面にお手紙を下さる人は少なく、それも型通りではないのだった。
『親指のマリア』が好き、あのシチリアは良く書けていますねえと何度も繰り返し褒められた。清水さんにはお茶碗を、湯呑みを、ぐいのみを、幾つも頂戴して
いる。六兵衛を隠居してまた九兵衛に戻られてからも、先日の京都蹴上の授賞式場でも嵐山吉兆での理事会の宴席でも、また「茶碗」を焼いています、ちかぢか
に差し上げますよと言われ、秦さんの酷評はコワイがなあと呵々されていた。「酷評は創作家の栄養じゃないですか」と笑うと、即座に真面目に「そりゃそう
だ」と断言された表情も、口調も、口元も、ありありと懐かしい。まさか、こうも早くとは、驚愕、残念至極。
中村真一郎さんにも、こんなふうに、お達者そうにお目に掛かり、あっというまに死なれてしまったが、清水九兵衛さんまたあまりに名残多く、にわかに死な
れてしまった。三井海上火災の庭の巨大な代表作『朱龍』に乗って、懐かしい九兵衛さんは西天へ去って行かれた、嗚呼…寂しい。
* ・・・続ける、ということ。
私語の刻を読んでいます。
そのひとときは、静かに考えさせられる佳い意味の負荷(秦さんの言葉)を感じながら。
常々、取り立てることでもないけれど、取り去ることもない(できない)から、横たわっているようなこと。秦さんの書くものは、よくその部分に触れるの
で、「静かに考えたい思っている」そのような自分を又、あらためて当然に感じています。
「人間」や「品格」について、さも…顔で言い放つ、その軽さ、薄さ…に目を剥く秦さん。さもしいものが見え隠れするようなことは、私もゴメンです。
今、居るそこは何処で、何を見て(見据えて)、そのようなことは、その人に言われている(ことば)か。
たかが、ひとりの人間に言い切れるものは、そうそうないと思うので、考え続けること、静かに考えたいと思うことを持ち続けること。せめて、そのようなこ
とぐらいは、私の生活から取り払わないようにしよう。
■凛然と反逆する・・・創作について(7/21 建日子のブログに立ち止まる、より)
テレビの仕事などは、スポンサー、視聴率など厄介なものにひれ伏して、又、個人ではなく大勢の人と規制の中にあって創作↓制作されるものと思いますか
ら、そのような環境で培われる(好まれる)のは、余計なものはふるいにかけて、直球で、ストレートなもの。
個人として持つべきものは、自分の本意が宛がうところを、まき散らさず、的を射る、見極める作業を続けることだと思います。 樹
* 鴉 がんばって。
やす香さんの時間を、その貴重さを、思います。
発送の仕事、捗っていますか?腕、足腰、大丈夫ですか?大切に、大切に。
鏡花小説の人物の凄さなど。忘れかけているもの、忘れようとしているものの重さを痛切に問われています。 鳶
* 御本のお礼
秦様、早速に新しいご本をお送りいただき有難うございます。カミさんから秦先生から本が届いたよ、とメールが入りました。彼女も「湖の本」を時々拾い読
みしておりますが、帰るまで開封するなよと威張って言いました。今日は夜まで家に戻れないので、待ち遠しいなあ。お代は月曜日にお送りします。まずは御礼
まで。どうぞお大事に、お心やすまりますよう。 秀
* 京都 のばら です。早速に新しいご本届きました。いつもありがとうございます。創刊満二十年をお迎えになり、通算第八十八巻の出版、心よりお祝い
申しあげます。これからも益々ご活躍されますよう応援しています。
今度の小説は遠い時空を行き来して頭がこんがらがる事もなさそうだし、楽しみに読ませていただきます。
ご心痛の絶え間ないご日常、発送などのお疲れがでませんようにお大切にしてください。
やす香さんに皆さんの祈りが届きますよう切に願っています。
* 湖の本届きました。ありがとうございます。
哀しい大きな苦しみの中でも、粛然とお仕事をなさる姿勢に敬服いたします。それと共に尚一層のおじいやんとまみいの苦しみを思います。聡明な朝日子さん
もどんなにかお辛いだろうと身を案じています。
お心の傷が体に障らぬはずがありません。くれぐれもお体おいといください。
夕飯の後片付けもそこそこにずーと頁を繰るのももどかしく読みふけっています。それがやす香さんの生を祈ることにもなるように思えて。
ご本が届く前の昼には「細川ガラシャ」の書かれた本を読んでいたのですが、毎日何か祈りに通じるものへ身を置きたい気持ちでいます。
重ね重ねお二人のお体をお大切に。 晴
* 明日は建日子と一緒に、三人で病院へ出掛けてみる。逢えるかどうか、分からないが。
* 七月二十三日 日
* 朝いちばんに朝日子のメッセージが「mixi」に公開された。
* 05:53 ほんとのこと(やす香ママ)
ここ数日大勢の面会をお断りしてきました ほんとのことを言えないまま でも さっさ先生にはお話しました そしてやす香を愛してくださったたくさんの
方々の代表として夕べ遅くおいでいただきました
やす香の命は終わりの時を迎えています もう皆さんとこの病室でお目にかかることはないでしょう
やす香は今 苦しい呼吸を繰り返しながら ゴールを目指しています やす香の新しい朝はやわらかな靄に包まれています― 願わくばやす香に残された歩
みと ゴールと そしてその先の世界のやすからんことをお祈りください
* これは、何?「死」の時点を設定するということか。
* 十時半に建日子と出会い、彼の車で相模大野へ向かった。朝日子のメッセージがあるなしに関わらず、今日われわれは出向く用意をしていたし、朝日子にも
伝えておいた。
* やす香は、われわれを認めて首肯くようであった。息は喘ぎ、胸元は上下し、がくっと首を落としてはまた懸命にもたげ、薄目をあけて、われわれの顔を見
るような見えないようなアンバイであった。
「聞こえるだけ、耳だけ」とかすかに呟いたようであり、涙が溢れた。
手をにぎると熱は高く、持参の大好物の梨を掌に添えてやると、しばらく梨の冷たさを感じているようであったが、冷たいか、手の温度が抜けてしまいそう
で、手放させた。
指の長いまっ白い、それは綺麗な無垢な手であった。
顔付きはそれほど変わっていないが、可哀想なほどいろんな施薬や介護の管に繋がれていた。
疲れさせてはいけないので、一度退室し、上の階のきれいな食堂で昼食し、しばらくして、また病室へ戻ってみた。病室には、カリタス高校の先生だろうか
(=上の朝日子の発語にみえている、「さっさ先生」と後に分かった。)、やすかの側で、極くこごえで、どうやら聖歌を歌っておられた。その側に立ったまま
やす香の顔を見ていた。ときどき薄目をあけ、われわれを認めて肯いていたが、何かを言いたそうにした。
父親が口を覆ってあるものをはずすと、「どうして…、勢揃いしているの」と。これには、皆で笑い声もあげて、いろいろに話しかけた。建日子は、やす香と
共著で本を出そうよ、約束だよ、と言うと肯く。妻は、安心しておやすみ、やす香のいい顔を見に来たのよとはんなり話しかけ、わたしは「やす香、大好きだ
よ。やす香、ありがとうよ、優しくしてくれて」と感謝した。やす香はときどき、大きく目をみひらくようにし、首を動かして、まくらもとに飾ったあれこれへ
視線を配るようにしていたが、「つかれた」とつぶやく。
ああそうだろうよ、安心して、よくおやすみ…と、そこで、別れてきた。
* 連続ドラマの撮影と打ち合わせに緑山のスタジオへ向かう建日子の車で、相模大野駅まで送ってもらった。
妻は疲労困憊し、駅の階段に腰をおろしてしまい、うとうとさえした。通りかかる人が心配の声を掛けたほど疲れていたが、幸いロマンス特急でやすめた。新
宿から大江戸線で練馬へ、そして保谷からタクシーをつかった。
* 朝の朝日子ママの「mixi」メッセージには、信じられないほど大勢のやす香をはげますコメントが集中していた。わたしは、お礼を申さずにおれなかっ
た。
* みなさん ありがとう。祖父の湖です。
いましがた、やす香を、相模大野に見舞って、また西東京の家に帰ってきました。
さっさ先生もふくめて、わたしたち祖父母と叔父の秦建日子とで、ベッドサイドでやす香を見守り、声を掛け、手を握っていますうち、やす香はせわしい息の
下から小声で、「どうしたの、勢揃いして」と、逆に、私たちをはげますほど明晰な意思を持っていました。私たちは思わず笑い声さえあげました。
息子はやす香と「共著」でぜひ本を出そうよ、約束だよと声を掛け、やす香はウンと肯いていました。
わたしは、寂しかった祖父母のもとへ、敢然として会いに来てくれた優しかった孫に、こころから「ありがとう、やす香」と感謝を告げずにおれなかった。
「つかれた」と、やす香は、ひとに取り巻かれた今日の時間に、かすかに手をふって、これまで、とサインを送りました。そんなにもやす香は心身をはたらかせ
ながら、全身の苦痛に堪えていました。
ああ、俊足のあのイチローのように、**のモーションをあざやかに盗んで、盗塁し、また盗塁して、やす香が日一日をまだまだ生き延びてついに生還してく
れるものと、祖父母は、逆転勝ちに望みを持っています。
どうか、みなさんも、切なる思いを、力ある思いを、やす香の上に集めてやって下さいますように。ありがとう。 湖
* 心身を臼に投じてさんざんに餅に搗かれるように、疲れる。妻はあきらめずにまた出掛けると言うが、妻を倒れさせてはならない。
* 私の目・私の手 理
ごぶさたしています。梅雨とばかりによく雨が降っています。内陸の山間で土砂崩れがかなり起きていて、中国山地の険しさを思い知る心地です。
たいへんおつらい日々をすごされているところ、このたびの湖の本、いつにもましてありがたく受け取りました。・・・楽しみに、読みます。
(払い込みですが、平日郵便局に行く時間がないので、前回のように直接お届けするか、また払い込むにしても少し日にちがあくと思います。お待たせしてす
みません。)
会社はなかなかたいへんです。楽しくやっているとは言いませんが、日々何かしら失敗し、そこから学び、充実しています。
配属されて、いきなり職場に自分の机とパソコンをもらい、担当の上司と先輩について回っています。来年いっぱいまではこの体制で、´08 年1月から独
り立ちせよ(担当の部品を全て自分の判断で買いつける)、とのことです。
私は変速機のチームに入り、手動変速機用のギア部品を受け持っています。ギアすなわち歯車です、私の机には歯車のサンプルが置いてあり、さわりすぎて錆
だらけになってしまいました。
自動車は大半が鋼でできており、歯車も同様です。(近年、プラスチック、アルミ、マグネシウムなど、素材の多様化が進んでいます。ただ、日本の自動車
メーカーは鉄鋼会社への依存度が強いです。それだけ日本の鉄鋼は優秀なのですが、フェアな取引ができているかという問題はあります。)
鋼を刀鍛冶の要領で叩いて(鍛造といいます)円盤状にします。これを加工して歯車にするのですが、鍛造された鋼は組織の密度がつまって硬いため、加工し
にくい。
そこに焼きを入れて組織の質を変えてやります。すると強度を保ちつつ組織に柔軟性が生まれ、加工しやすくなります。
加工には刃物が必要です。円盤の中をくりぬき、外周に歯を削りこみ、表面には磨きを入れます。それぞれに異なるカッター、磨きには砥石を使います。歯車
ひとつのできるまで、加工用の設備は四、五台用意されます。
加工のすんだあと、もう一度焼きを入れます。はじめの焼入れとは違って、歯車全体をとことん硬くするために行います。その上にマンガンや亜鉛などを吹き
つける表面処理をほどこすことで、中身は硬く、表は滑りのよい、立派な歯車になります。
鍛造、加工×5、焼入れ×2、表面処理。それぞれに人件費、設備投資、償却、製造時間によるばらつき、といったコストが発生します。そこに洗浄、検査、
梱包、物流が加わります。すべて合わせてこの歯車ひとつ三〇〇円です、こいつは高い精度を出しているので五〇〇円です、といった見積もりが出ます。
歯車は地元の下請けに造ってもらっています。下請けは親と一蓮托生ですから、価格交渉というより、一緒に努力して製造コストを下げていこう、といった協
働作業がほとんどです。そのぶん下請けは見積もりの細かい明細を出してくれ、工場も隅々までよく見せてくれます。
大手の独立系や、他社系列の有力企業(系列外とも取引があります、それだけ優秀ということです)、また異業種(電子部品、商社など)は、こうはいきませ
ん。見積もりをとっても総額しか載っていないし、工場に行っても「見学」しかさせてくれません。こういう相手とはまさしく交渉で、対抗するしかない・・・
のだそうです。
たまたま私は地元中心の部署に配属されました。教育の一環で近隣の取引先工場を見て回りました。大手メーカーのきれいで自動化された大きな工場を見て、
いやあすばらしいと感心はしますが、見学を終えても何をどう造っていたか、よくわからないままです。いいところも悪いところも全て見せてもらって、いわば
むきだしの「ものづくり」は、何よりの勉強になります。
少しずつ、自分の目、自分の手で何かつかめている、という実感があります。まだまだ目は方向違いだし、手は先輩の足を引っ張っているのですが。
私はいままで大きな病気にかからず、健康に恵まれています。だから毎日仕事に行き、休みの日は遊びに行ける。つらいこと、いやなこと、苦しいこと、ある
にはあります。しかし、それは健康だから降りかかるものであり、健康であれば乗り越えられるものです。健康に生まれたことの幸せ、よろこび・・・。
秦さん、迪子さん。どうか、おからだお大事になさってください。やす香さんの若い、たくましい、強い生を、私も祈ります。
* この若き友は、彼らしい話し方で、懸命にわたしたちを慰め励ましてくれているのだ。なんという生き生きとしたことばと暮らしぶりであることか。頼もし
い。嬉しい。
* いつも「湖の本」お送りくださいましてありがとうございます。
最近職場で大きな変化があり、毎日とても疲れてしまってパソコン開けるのもお手紙出すのも難儀で、失礼しておりました。
勤務先は今年度から「指定管理制度」が導入され、「**区地域振興公社」から抜けて「株式会社***メソッド」が、区から直接委託されてホールを運営す
るようになりました。
大幅な人員削減(私はかろうじて居残り)と新しいシステムが始まったため、勤務日数が増えて大変なことになりました。(お金は増えないんですけど)企画
や事業も提出しなければなりませんし。
先生、人生ってこんなに疲れるのでしょうか。
創作もやりたくてやりたくて、何かたくさんの「やりたいこと」が頭を渦巻くばかりです。
母はなんとか元気にしてくれています。
ただ10歳の飼い犬が、なんと糖尿病になってしまいました!治療はしてやれないので(ほんとに動物医療は高額です)食事療法で持ちこたえています。彼女
(メスのヨークシャーテリアでジャスミンと言います)がわたしの今一番の生きがいです。
先生の「自分の幸せと健康だけを考えて」とのお言葉、胸に染みる日々です。
先生、奥様、どうぞお元気でお過ごし下さい。 弓
* 持ちこたえて下さい。
* 秦先生 ごぶさたしております。 道 神戸
生活と意見は拝見しておりますが、なかなかメールのタイミングが〓めませんでした。
やす香さんが病気で大変な折のご発送ありがとうございます。
晩婚だったので、長男が今大学2年で、やす香さんと同じ年です。息子は先月誕生日を迎えましたが、やす香さんが二十歳の誕生日を迎えられますことをお祈
りしております。
* ありがとうございます。
* ご不調と伺っていますが、その後いかがでしょうか。御高著『湖の本』50号をお送りいただき、ありがとうございました。
大変おもしろく、考えさせられながら拝読しましたが、巻末の「未了」には悔しい思いをいたしました。
早く続きが読みたいです。代金は明日振込みいたします。 ペン会員
* 秦 先生 ご本、いただきました。
たいへんななかをお送りくださいましたこと、また、ただならぬ時を、「濯鱗清流」の寿詞を賜りましたこと、どう、申しあげたらよろしいのか。
どうぞ、おたいせつになされますよう。
メロスのごとイチローのごと走りませ**のモーション盗みて
相模大野に病む乙女子に届きますように。 香
* このところ、なにげなく困憊したわたしを慰めてくれるものに、身のそばの、山種美術館のカレンダー七・八月分の絵写真、竹内栖鳳描く「緑池」といって
も分からない、つまり水中からわずかにあたまだけだし、まさに蛙泳ぎしている「蛙の絵」である。
池らしいリアルな写生ではない、ただ濃淡の緑から黄色へのむらむら描きの水面下に、蛙はからだを沈めたまま、左脚は鋭く曲げ、右はながく伸ばして水の上
へとがった横顔を覗かせている。画家の視線はほぼ右後ろにあり、蛙も池も静かで、絵はまことに美しい。栖鳳の落款も朱印も、にくらしいほど適所をしめて、
それもまたとびきり美しい。
こういう絵の美しさに触れていると、華麗にして複雑な、賑やかな大作に近寄りたくなくなるからこわい。古池に蛙のとびこんだ水の音も吸い取られて、しな
やかな蛙泳ぎの音もしない。静寂、また清寂。
* 七月二十三日 つづき
* 霊的な世界観では、「想念のプレゼント」というものがあるそうです。自分にとって天国と思える情景を相手に届けることで、喜ばせることができるとい
うのです。生きている人でも死んでいる人でも誰にでも願った人に想念は届くと。
病床のやす香さんとご一緒に歌舞伎を観ていらしたように、わたくしも好きな人とずっと一緒でした。
初めての歌舞伎でしたが、抱いていた歌舞伎のイメージではなく、二作とも新派みたいな舞台と感じました。
『山吹』は鏡花らしいすさまじい話だと思いながら、舞台には今ひとつ乗れずに観ました。縫子が玉三郎だったら全然違っていたでしょう。折檻したり死んだ鯉
の肝を吸う笑三郎が美しくも凄艶にも見えないし、歌六の辺栗藤次も難しい役とは思いますが、もうちょっとどうにかならないかと。一本調子のただの年寄りに
見えました。落魄の身にも品格は表現されていてほしい。島津正役は誰がやっても最低の役。客席の失笑を買うばかり、こんなお行儀のいいだけの紳士は願い下
げです。つまらん男。
最後の「世間によろしく。さようなら」という縫子の痛烈な一言は、島津のような男を理想とした自分への愛想尽かしであったのかもしれません。縫子と藤次
の人間の「誠」は、脚本として伝わっても、舞台では世間を捨てて守り抜く人間の矜恃よりも、グロテスクな印象が勝っていたようで。
『天守物語』はとてもとても楽しみました。佳い夢が見られました。何しろ生の玉三郎は初めて。登場しただけで舞台の色が変わるくらい圧倒的です。海老蔵も
初めて。二人とも噂にたがわぬ美しさで堪能しました。この二人なら、一目で恋に落ちるでしょう。
歌舞伎は役者の華で見せるものかしら?若い頃の玉三郎と仁左衛門の「蝶の夢?」の舞を観た友人がこの世のものとは思えなかったと言います。海老蔵はテレ
ビで観ると好きになれませんが、舞台ではきれいで、声の佳さが際立っていました。ダイヤの原石なので、よくよく磨いてほんものの珠になってほしいです。
記憶が正しければ、舞台は「舞」であるという意味のことを以前書いていらしたような。玉三郎と海老蔵は型が出来ていて、バレエのパ・ドゥ・ドウを観てい
るようでした。
歌舞伎座の休憩時間は長いのですね。時間をもてあまして、蟹のお寿司をいただきました。鯖のお寿司はこの時期怖くて。お味は悪くなかったです。
一階後ろのほうの席でしたから(それでも一万一千円のチケット)、オペラグラスを持っていて正解でした。また、観に行きたいものですが、今度はもう少し
観やすい場所でと思います。その時も「想念のプレゼント」を送ります。逢いたい人にいつでも想いを届けます。
おやすみなさい。
おつらい一日の眠りが猫のお昼寝のように無心でありますように。 祈り続ける お夏
* 『山吹』『天守物語』の批評、その通りである。
『山吹』の舞台は、肝腎の役者達が不適切で、いうまでもなく美しい家出妻が玉三郎で、梅玉が島津画伯を演じ、人形師には段四郎をと願っていた。
戯曲自体もわたしは三島が言うほどとは踏まないけれど、「世間へよろしく」の一句に燃え立つ批評は、鏡花世界に身も心もよせてやまないわたしには、有り
がたい金無垢の刺戟であった。
あの舞台は、そう再々は実現しないだろうと思うだけに、他の三作は繰り返し上演されるだろうだけに、稀有の出会いで有りがたかった。
お夏さんには『海神別荘』を見せたかった。玉三郎と海老蔵のコンビは、さらにさらに魅力に溢れて烈しい。
鏡花劇は、新派で多くを演じてきたけれど、また歌舞伎劇としては書かれていないけれど、『山吹』以外は、歌舞伎座の演目として十分熟している。かぶくと
いう意味の非常識な過激さは、だが現代劇である『山吹』によけい出ていて、「グロテスク」に感じさせたのであろう。
* 「湖の本」届きました。ありがとうございます。
どのようにも、
抗うことができない(恐怖の)緊張感が覆っているとき、
何かに取り憑かれたように、
何かに取り憑かれないように、
普段どうりの、
やるべきことをしました。
自分が生きてて、
できることは、それが精一杯でした。
そういうことが、私の祈りでした。
(数年前、今の先生と同じような時間を持ったとき。) 樹
* やすかれ やす香 生きよ けふも。
もう日付は動いている。母朝日子の誕生日は来週。朝日子をその日病院で祝ってやれればいいが。朝日子の祝われるのを、やす香が見て、聴いて、喜んでくれ
るといいが。
* 七月二十四日 月
* 祇園会後祭、むかしは鉾ではない<ruby><rb>山車</rb><rt>や<
rk/>ま</rt></ruby>の群れが、<ruby><rb>殿</rb>
<rt>しんがり</rt></ruby>の船鉾ともども、都を巡幸したものだ。
* 昨日の朝日子の「ほんとうのこと」というやす香の容態を告げたメッセージに、夥しい「祈願」のコメントが届いている。「mixi」の一角で、真実の
「生死」の「劇」がまぎれもなく進んでいる。若い大勢、若くはない大勢にも、やす香は身を以て「何か」を伝えている。この真実は重いものとして多くの胸に
永く伝えられる。
* やすかれ やす香 生きよ けふも。
* 秦建日子のブログから。
* 2006.07.24 Monday まだ、声が出た〓―〓
皆さん、姪・やす香へのたくさんの激励、ありがとうございます。
今日は、父と母と三人で見舞ってきました。
病状は、とても深刻な状態に進んでいましたが、でも、とにかく私たちは彼女に会えました。
☆(父・恒平の日記より転載)☆
やす香は、われわれを認めてうなずくようであった。息は喘ぎ、胸元は上下し、がくっと首を落としてはまた懸命にもたげ、薄目をあけて、われわれの顔を見
るような見えないようなアンバイであった。「聞こえるだけ、耳だけ」とかすかに呟いたようであり、涙が溢れた。手をにぎると熱は高く、持参の大好物の梨を
掌に添えてやると、しばらく梨の冷たさを感じているようであったが、冷たいか、手の温度が抜けてしまいそうで、手放させた。指の長いまっ白い、それは綺麗
な無垢な手であった。顔付きはそれほど変わっていないが可哀想なほどいろんな施薬や介護の管に繋がれていた。
疲れさせてはいけないので、一度退室し、上の階のきれいな食堂で昼食し、また病室へ戻ってみた。病室には、カリタス高校の先生だろうか、やすかの側で、
極くこごえで、どうやら聖歌を歌っておられた。その側に立ったままやす香の顔を見ていた。ときどき薄目をあけ、われわれを認めて肯いていたが、何かを言い
たそうにした。父親が口を覆ってあるものをはずすと、「どうして…、勢揃いしているの」と。これには、皆で笑い声もあげて、いろいろに話しかけた。建日子
は、やす香と共著で本を出そうよ、約束だよ、と言うと肯く。妻は、安心しておやすみ、やす香のいい顔を見に来たのよとはんなり話しかけ、わたしは「やす
香、大好きだよ。やす香、ありがとうよ、優しくしてくれて」と感謝した。やす香はときどき、大きく目をみひらくようにし、首を動かして、まくらもとに飾っ
たあれこれへ視線を配るようにしていたが、「つかれた」とつぶやく。ああそうだろうよ、安心して、よくおやすみ…と、そこで、別れてきた。
☆ それからぼくは撮影所に向かいました。
「花嫁は厄年ッ!」の9話を決定稿にし、7話を2シーン撮り、それから秋ドラの会議に出ました。
何を話していても、頭の片隅に、ベッドの上で最後の命を削って懸命の呼吸を続ける姪の姿が消えませんでした。
まさか、会話が出来るとは思わなかった。。。本人も、もう声は出ないと思っていたようだった。。。でも、出た。きちんと、意思の疎通が出来た。
これはもう、奇跡と呼んでいいほどの出来事だったと思う。
「花嫁」のセットには、玄関脇に両目の入った<ruby><rb>達磨</rb><rt>ダルマ
</rt></ruby>が飾られていて、なんとなくすがりたくなり、ぼくはそれを写真に撮った。
☆ 夜十時。緑山スタジオを出て、東京に帰りました。
なんとなく、無人の仕事場にまっすぐ帰るのが<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや<
/rt></ruby>で、ワークショップTAKE1の連中の、稽古後の飲み会に合流しました。とにかく、大声で笑いたかったのですよ
ね。
飲み会では、かーなーり頭に来た不愉快な出来事も実はあったのですが、それを吹き飛ばすほど、四期の青木さんと西野くんと加藤さんと武田くんがぼくを笑
わせてくれました。四人に感謝。
☆ 家に帰ってきて、姪のmixiのページを読みました。
激励のコメント、63件。たったの一日で。
いい友達がたくさんいるんだね、やす香。
いい友達がたくさんいる人生は、何よりも豊かな人生だと思う。何よりも。
* やす香、おまえは誰からも誰からも愛されているよ。ときどき、ひとりでブツブツと沈んでいたけれど。凹んでいたけれど。それでもすぐ笑い飛ばしていた
んだ…おまえは。
ああ、あんなに五体の苦しかった日々、三月、四月、五月のはやい時期に、おじいやんがヒステリーのように怒り癇癪を起こし、ナニをやってるんだとおまえ
に「mixi」で〓みついていたあの頃<ruby><rb>まで</rb><rt>〓<
rk/>〓</rt></ruby>に、どうして、だれも、それに気づいてやれなかったのだろう。お友達の多くが、声をか
らすようにし、お前の体調に「mixi」その他で警告しつづけていたのに、おまえは、なんで親に訴えなかった…、なんでそばの大人達はやす香のあれほどの
大異状に気が付けなかった… か。
繰り言だけれど口惜しい。それが口惜しい。肉腫の病状は、若人のガンは、扇形に、急激に、拡大する。それでもああも手遅れになるまえの早い時期に手を打
てていれば…と、やっぱりそれが口惜しい。
二月の雛祭りのあと、せめてもう一度逢えていたら、わたしたちに何かがしてやれたか知れなかった…と口惜しい。「ひとりで(魔物を)かかえこんで」……
* 歯医者に行く。発送は、あとは、もうゆっくり、出来たところで、でいいのである。
* 「リヨン」で昼食して帰ってきた。やす香への思いと口惜しさであふれるものを、妻は飲めないワインの酔いにのがれようとしていた、可哀想に。
家に帰ると、「mixi」にやす香母のメッセージが出ていた。
* 2006年07月24日 やす香mama 10:05 黄金率
意識を保ちたい、コミュニケイトしたい
その思いがずっと、
やす香の苦痛を取り除く邪魔をしていた
だけど、もうそんなことは言っていられない
眠っては悪夢におびえ
目覚めては痛みに苦しむだけなら
何の命だろう
モルヒネの継続投与
「終わりの時」の始まり・・・
たとえ夢の中であれ
安らかな時の流れんことを
だけど
皆さんの温かなメッセ―ジは奇跡を起こす
鎮痛と平静の間の、ほんのわずかなバランスの瞬間に
やす香はたくさんの人と出会った
ずっと会いたかった「ムッシュ」
「さっさ」と親友たち
夏祭りで会えなかったプールの仲間たち
祖父母や「たけちゃん」
連絡が取れなかった黄寿源も
「ケータイ止められて」と大急ぎのメールをくれた
たくさんのメッセージを受け取ることもできた
承認待ちのマイミクを一人ひとり確認した
だけど
時は止まってくれない
やす香の苦痛は更なる薬を要し
やす香の意識は今
夢と現実のあわいを漂っている
だけど
「現実」の方が大事だと誰に言えるだろう
苦しむ肉体を離れて
たくさんの友達を訪ねていっていないと
誰に言えるだろう
やす香の胸には小さなモニターが取りつけられ
ナースステーションに脈拍160の細かな折れ線を刻む
天恵の黄金率を過ぎ
眠っているやす香の窓の外は
きょうも深い靄
* 少しマッスグ読み取りにくい字句もないではないが、疲労困憊した母朝日子の静かな叫びと聴いてやりたい。
ああ、だが、大方の大勢の、真の願いも祈りも、やす香「現実」の「命」にあるだろう、「生きよ けふも」と、奇蹟の生還を待ちたい気持にあるだろう。
「おわり」へと、吾々から先に手を放していいだろうか。
やす香はひと言、振り絞るように「生きたい!」と「mixi」の日記に叫んでいた、わたしたちは、あれを忘れない。大勢の友達を、あんなに大事にした友
達たちを、苦しい息の下で一人一人確認しあいさつを送っているやす香は、さぞ苦痛であろう、それでも間違いなくやす香は生きて、生きようとしているのだ、
やす香の「命の尊厳」はそこに実在し、輝いている。
ああけっして、わたしから、「やす香、さようなら」とは手を振らないぞ。真実苦しいだろうが、やす香よ許せ、別れのあいさつなど、おじいやんはしないか
らな。
* 歯医者から帰ってあれこれするうちに、建日子から、相模大野へもう一度一緒に行こうと言ってきた。大急ぎで用意して、五時四十分に町田駅につき、建日
子の車をみつけて病院へ。
* やす香はうとうと、しかし息をあえがせて、眠っていた。眠っているのかどうかも判じかねたが、ベッドのわきから熱発したほそい長い手をとり、じいっと
見守り続けた。
朝日子が部屋を出ている間にやす香は、発語してはっきりこう言った。
「生きているよ」「死んでない」と二回ずつ。
妻と建日子とわたしとの、その「理解」は三人三様に異なっていたけれど、「生きたい」「生きていたい」という望みには相違なく三人とも聴き取った。
「そうだとも、やす香は生きているよ、死んでなんかいないよ」と三人は思わず声を掛けた。
わたしは、「やす香は生きているよ」「死んではいないよ」とやす香が言うたと聴いたのである。
建日子は「まだ生きているのに」「死んでいないのに」と聞こえた、そしてその二語の前に、「にげてばかりいて…」と聞こえたと言い、だれかに叱られ責め
られているように聞こえた、と理解していた。
妻は、また少しニュアンスを<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt>
</ruby>にしていた。「やす香は生きているの」「死んでないよね」と。だがそれも、生きたいとやす香は言葉にしたのだと言う。死ぬのは
コワイと訴えているのではないか…と、妻は言葉を詰まらせた。
* やす香の言語能力は三人共にまだハッキリ感じ取れて、脳の混濁は認められない点でも一致していた。まだ生きられる、どうにかなるのではないかと、三人
とも希望をもった。希望を繋ぎたかった。つよい希望を胸に抱いて、病院を辞してきた。
* 保谷まで建日子は送ってくれて。鮨の「和可菜」でおそい晩飯を食い、家に帰った。
帰るか帰らぬかに建日子のケイタイに押村高が電話してきた。<ruby><rb>初めて</rb><
rt>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>のことだった。
朝日子自身はわれわれに伝えたくなかったそうだけれど、「じつは、医師との<ruby><rb>話し合い<
/rb><rt>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt><
/ruby>でやす香の寿命は明日、明後日のウチとのこと、何なら病院の近くのホテルを予約されては」とのこと。
愕然とした。「医師との話し合いで…」って。
医療のことは分からない、何一つ説明されていない、が、今晩逢ってきたやす香に、明日・明後日だけの寿命しか残って無いなんて、実感できなかった。母朝
日子誕生日の二十七日にはまた行って、やす香を少しでも喜ばせてやりたいし、それも<ruby><rb>可能<
/rb><rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>と三人とも感じていたのである。
* と、今度は、朝日子から、なんとわたしに電話が来た。興奮していた。声が小さく、よく聴き取れなかった、「もう二度と来ないでほしい」と言うらしく、
「うん、わかった」と、わたしは受話器を息子に渡した。息子が話し、妻が話し、また息子が話して、朝日子の興奮はやや静まったらしい。
話の内容は、察し得た。
緩和ケアに託すると決断した日から、朝日子は、押村の家族四人だけで過ごしたかったが、そうは行かずに外向きの顔付きで過ごさねばならなかった。もう最
期と医師の託宣(或いは合議)を受けてしまったのだから、水入らずに過ごしたいと切望していた、ところが夫は建日子に電話してしまい、病院近くに宿泊して
はと伝えてきた。自分(朝日子)の本意は、もうもうお見舞いはなくていい、と。
朝日子の願いは察し得たし、もっともだった。わたしは「うん、わかった」と答え、うちの家族二人も承諾した。
わたしは「一期一会」と覚悟していつも見舞っていたので、仕方がないと自然に感じ、また心を決した。今日出かけ、今日やす香に会えてやす香の「生きた
い」と願う言葉も耳の奥に聴きとどけて、わたしは、もう覚悟は出来た。妻にも建日子にも、そう告げ、やす香と朝日子との「のこされた時間」に祈ろうと告げ
た。
* いましがた建日子は都心へ車で戻っていった。建日子に怪我などけっして起きませんように。
* やすかれ やす香 生きよ けふも。
* 七月二十五日 火
* 不如意な夢に悩みながら、はっと目覚めたとたんの、痛いような喪失感に悲しんだ。やす香は確実にまだ生きて闘っている。だが、逢うことはない、も
う…。今生の別れをすでに呑み込んでしまった、なんという、運命。
朝日子たちがやす香を胸に腕に親子三人で抱き囲って最期の時を迎えたいという気持、わかる。
だから「うん、わかった」と即座にわたしは返辞したし、妻も建日子も断念した。断念とは、つまり断念なのである。アキラメである。寂しくないワケがあろ
うか。
十余年奪われてきたやす香を、やす香自身の決意で、われわれはふたたび抱きしめることが出来た。ここにあげる二枚の写真は、正確に吾々の「隔てられた時
間」の長さを示している。
やす香はそれを一気に回復してくれた。どんな嬉しさ、どんな歓声で、この初めての孫の成長した笑顔を、保谷に迎えたか。その前に、どんなに胸を高鳴らせ
て、やす香の初のメールを読み、やす香の「まみい、おじいやん」と呼ぶ、久しぶりの電話の声に息をのんだことか。
ありがとうよ、やす香!
まだ、ちっちゃかった保谷の姉孫やす香(写真)
再会した、大学合格通知の保谷のやす香(写真)
「生きているよ」「死んでないよ」と苦しい息の下からやす香は、昨日の見舞いで、正確に気持をわたしたちに伝えてくれた。
たまたま病室でやす香を見守っていたのは、叔父建日子とわたしたち祖父母の三人だけであった。
「そうとも、やす香、生きているんだよ、死んでなんかいないよ」と、期せずして三人の声はやす香に注がれ、やす香は息を喘ぎながら静かに眼をつむってい
た。
「耳はきこえているよ」と、昨日もやす香はかすかに示唆していた。おお…やす香よ。
* 余儀ないあはれではあるけれど、今朝目覚めて、もう、やす香の熱に火照った真っ白い指のきれいにのびている手を、掌で、包んでやることが出来なくなっ
たと、文字そのまま、<ruby><rb>痛</rb><rt>〓</rt><
/ruby>感した。
今日からは、奇蹟を願いながらむなしく、あてどない時間を堪えて過ごすしかないのだということが、苦い霧のように真っ向わたしをとらえた。妻を手伝い、
回収される故紙をよそへ運びながら、わたしは、路上に正座して私たちの作業をじっと見ている「黒いマゴ」の名を、ただ呼ぶだけであった、「まご…、ま
ご…、まご…」と。
この我が家に紛れ込んだ、掌にも満たなかった黒い仔猫を拾い育てて、ためらいなく「マゴ」と名付けたとき、わたしたち祖父母は、未だ、やす香を、押村家
に奪われたままであった。「黒いマゴ」はやす香の明らかに身がわりであった。
* やすかれ やす香 生きよ けふも。 めめしい繰り言はよそう。建日子がきのうのことを「最期の見舞い」とブログに書いている。同感である。情理
を尽くして、われわれの息子は、姉の弟は、優しい。
* 2006.07.25 Tuesday 最後のお見舞い。 秦建日子
本日(昨日)は、撮影は日中のみ。夜は、「花嫁」のキャスト・スタッフで、中打ち上げ。私も、当初は参加しようと思っておりました。
が、午後、姪のやす香の容態が更に悪化。モルヒネの常時投与を行うので、もう今後は、普通のコミュニケーションは無理になりますとの連絡が。
なので私は、失礼ながら中打ち上げは欠席し、両親とともにまたやす香の病院を訪れました。
病室でのやす香は、昨日とは違って呼吸は小さく、脈拍は弱く、その代わり、苦痛もだいぶ軽減されているようで、その両方が、モルヒネの効果なのだろうと
思いました。
昨日聞いた声が、ぼくの聞くやす香の最期の声なのかもしれないなと思いました。
眠っているのを起こしてしまわないよう、父と母と三人で、夕景が、とっぷりと暗い夜に変わるまで、無言でやす香の手を代わる代わる握っていました。
30分くらい、そうしていたかな。
と、突然、やす香が目を覚まし、はっきりとした声で言いました。
「逃げてばかりいるのに?」
それから
「まだ生きてるのに?」
そして最期に、
「もう死んでるの?」
彼女の脳内に、どのような意識があったのかはぼくにはわかりません。
推測は出来ますが、正解かどうかはわかりません。
ぼくらはただ、「死んでないよ」「生きてるよ」と大きな声で答えました。
何度も、繰り返し。
「死んでないよ」「生きてるよ」
〓―〓たぶん、やす香には聞こえたと思います。
再び彼女は眠りました。
静かな白い病室に、父、母、姉、ぼく、そして孫のやす香、そしてもうひとりの孫のみゆ希。
血のつながった家族が、こうして同じ場所にいるのは、実は10年以上ぶりなのだとぼくは気付きました。
その後、西東京の実家まで、両親を車で送りました。
と、姉夫婦から、一本の電話が来ました。
曰く、「医師はもう、あと一日か二日の命だと言っている。最期の数日だけは、誰も呼ばず、夫婦と娘ふたりの家族四人で水入らずで過ごしたい」
「そうだね。気持ち、よくわかるよ」
とぼくは答えました。
母親として当然の願いだと思ったし、何よりも最優先されてしかるべき願いだと思いました。
というわけで、結果的に、今日が生きているやす香とのお別れの日になりました。いや、なりましたという書き方はおかしいか。多分、なるのでしょう。淋し
いけれど、もう、お見舞いには行けない。実感はまだ全然わかないけれど。
姉は頑張ったと思う。たくさんのお見舞いのお客さん相手を、精一杯の明るさでもてなし続けた。オフィシャルな母親を演じ続けた。
せめて最期は、家族にしか、実の娘にしか見せない素顔で、やす香へ愛を注いで欲しいと思います。
* やす香母の朝日子も今朝の「mixi」に書いている。
* 2006年07月25日 08:14 生きる やす香母
あれはいつだったろう 、やす香がいった
奇跡が起きて そのさきにあるのが「命」なら 今生きてる私は 意味ないってことになるよ
治ることだけが目標なら 今生きてる私は意味ないってことになるよ
奇跡がなくっても 私は今生きてるし 私の人生はすてきだと思うよ
新しい朝がきて
やす香はきょうを生きる
* あの音楽会で、やす香自身もう「お別れ」などとあきらめていたろうか。「生きたい」とやす香は日記に書いた。やす香真実の本音を聴いてやりたい。
「生きてるよ 死んでないよ」と、殆ど叫んだ昨晩のやす香の声が、<ruby><rb>一箭</rb><
rt>いつ<rk/>せん</rt></ruby>の西天をすぎると感じるほど、鮮烈に蘇る。
やす香、生きよ。奇蹟を切望するのもまた懸命に「生きている」ことだよ。大勢の大勢の友達が、人が、わたしたちも、そう願っているよ、おまえと一緒に。
* 私語の刻を読みました。
「生きている、死んでいない」と発っせられた言葉が胸に、涙がとまりません。今日を、明日に繋がる今を、生きて欲しいと祈ります。 花籠
* いやです、しんじたくない。24日の「私語」拝見しました。
奇蹟を信じます。 讃岐
* 孫娘のやす香さんのこと、なんとも言えません。
「肉腫」といえども、適切な治療が、早ければ、ほかに転移せず、手術と化学療法で、3人に2人は、再発しないまま、5年経過(5年再発しなければ、治った
というそうですね)する確率が高いということを知りました。
それだけに、悔しい秦さんの思いが、私の胸にも、高波のように、どっと押し寄せて来て、なんとも言えなくなってしまいます。お許し下さい。
「湖の本」(50)安着しました。エッセイも(38)まで揃っていますから、88の米寿達成ですね。次は、とりあえず、白寿が目標。
きのう、受け取り、きょうまでに、一気に読んでしまいました。批評、感想などは、いずれ、直接お会いしたときに述べるとして。
御自身の体も御自愛下さい。 英
* 湖の本 50 私でも理解できそうな感触を得ています。送金も近いうちにさせていただきます。 有難うございました。
さて このところのHPで毎日毎日胸のふさがる衝撃を受けております。どんなに深いご心痛の日日かと。奇跡よ起こって!心からのお見舞いを申し上げま
す。
私はこのところすこしさぼりながら、それでも一水会展本展に向けての制作をしています。2点 どちらもパッとしない作品になりそうで私も胸がふさがりそ
うです。時折気分転換にモデルを描いたり、展覧会をのぞいたり・・・と、このごろのお天気のように、晴れない日日でもあります。もううんざりでしょうが、
そのうちまた絵を<ruby><rb>添付</rb><rt>はりつけ</rt><
/ruby>させていただくかもしれません。 郁
* 本(ツヴァイク「メリー・スチュアート」)が、たとえ僅かでも苦しみを紛らせてくれたら・・。
怖くてHPをあけられない。やす香さんのこと、祈るばかりです。 鳶
* 布谷君が来てくれて、妻のコンピュータを整え、わたしの方のも診察して行ってくれた。「ケケデプレ」で歓談、少し妻の哀しみを散じ得たか。コンピュー
タは、しかし難しい。あわや惨事かと思ったが、持ち直して知らぬ顔して働いている。気むずかしい機械とも気まぐれな機械とも。疲れた。布谷君はもっと疲れ
たろう。
* やす香の様子が間断なく気になるが、手が届かない。平安でありますように。
やす香の「mixi」日記に何度も何度も「OTL」とあるのが分からなかった。建日子の解説によると「ガックリ」の姿勢を示した絵文字の類ではないか
と。わたしも妻も、いまは、「ガッカリ…」萎れている。
七月も八月も、もう、なーんにも無くなってしまった。よし、仕事をしよう。
* 七月二十五日 つづき
* 「金八先生」作者の小山内美江子さんに、根岸海老屋の藍染め、みごとにみっちり織り染めた卓布を頂戴した。「創刊満二十年、心から敬意を捧げ、また励
ましていただいた思いでいっぱいです。すばらしいタイトルですね。米寿のお祝に」と、お手紙も戴く。
院展の長老松尾敏男さんからも、「精力的なお仕事ぶりに感嘆しております、創作の大変さは吾々も同じ立場で良く分かりますが、絶え間のない御努力を重ね
次々とご著作をつみ重ねて行かれることに敬服しております」とお手紙を戴く。
元新潮編集長の坂本忠雄さんからは、『岡井隆さんの短歌に題を借りられたことにも含蓄があります。「作品の後に」を先ず拝読致しましたが、(ペンクラブ
が)政府に金を出してもらうこと、御令息の文運隆盛、「私小説」の重要性等々、共感致したり、色々と啓示を受けたり致しました。「気儘に消光すること」は
同世代者として羨ましく、大いに後に続かねばとの想いを強うしました』などと、いつもながら有りがたく。
* そして丸山宏司君から、第二子<ruby><rb>結</rb><rt>ゆい<
/rt></ruby>ちゃん誕生の朗報。葵ちゃんと顔を見合わせた写真の可愛いこと、むかしの朝日子・建日子を思い出す。おめでと
う。ポーランドからも、やがて朗報がくるだろう。
若い友人達の大勢がゾクゾクおやじ、おふくろになってきた。世に秀でたきみたちこそ、日本のためにも優れた子供達をしっかり何人も育ててください。
わたしたちにまだ子が一人と聞いて、穏和な、国立公衆衛生院の林路彰先生が、思わず叱咤された昔を懐かしく思い出す。日本の国は人口減にかならず困惑す
るのです、分かりましたかと教えられたあの頃は日本列島に人間が溢れに溢れていた、が、わたしたちは建日子の出生を求めたのだ、林先生は彼の此の世への後
援者であった。その彼が、子供を一人も作れないでいるとは、いやはや。
* 歌舞伎の感想で一つ言い忘れていました。泉鏡花が笑わせる意図で書いたセリフではないと思うところで、客席から笑いが何度か起きました。これは舞台
の作りに問題があったのか、役者のせいなのか、どうなのでしょう。こちらの感性が変なのかもしれませんが、ここは笑うところなのだろうかと首をひねってい
ました。 夏
* 客とは一般に見巧者でも理解者でもなく、自分に似せて舞台を喰いちぎって食べる人種であり、役者のせいにするのは気の毒です。読者に「いい読者」はす
くなく、観客にも「いい観客」は劇場内に数えるほどもいないのが普通なのではと思いますが、それはそれで成り立つ関係であり、だから劇場には独特の陽気も
滑稽さもあるのでしょう。
* hatakさん 湖の本が届きました。
しおりに強く書かれていた「ありがとう」という言葉の大きさ重さを思いました。
HPを通して、私も大きな波を感じています。耐えて堪えて、踏みとどまってと念じつつ、日々の仕事を進めています。
先週は職場がある羊ヶ丘の丘の上から、遠い花火を見ました。少し風の冷たい日でしたが、空気が澄んで、音のない、きれいな花火でした。今週末は、豊平川
の川岸から、今年最後の花火を見ます。
平安を祈っています。 maokat
* 七月二十六日 水
* 2006.07.26 Wednesday 奇跡はなくても、今日を生きる。 秦建日子のブログ
あれはいつだったろう やす香がいった
奇跡が起きて そのさきにあるのが命なら 今生きてる私は 意味ないってことになるよ。
治ることだけが目標なら 今生きてる私は意味ないってことになるよ。
奇跡がなくっても 私は今生きてるし 私の人生はすてきだと思うよ。
新しい朝がきて
やす香はきょうを生きる。
☆ (これは正確には=)やす香・母の文章です。
電話が鳴るたびに、嫌な予感に胸がドキリとしました。
無関係の相手に、八つ当たりもしました。
でも、何の連絡もなく、また日付は新たになりました。
世の中には醜いニュースが溢れているけれど、それでもでも、この世の中に踏み止まっていられる幸運に感謝して、今日をもっと前向きに生きたいと思いま
す。
* 2006年07月26日 08:08 爪 やす香母
深い夜の底で苦しみもがくやす香は
美しく整えた爪を
私の腕に突き立てる
自由を失った体で
唯一残された左腕に渾身の力を込めて
爪を立てる
こんな病床でさえ
笑顔と心やさしさを大切にしてきたやす香の
奥底に秘められた
恐怖が 絶望が
怒りが
そして悲しみが
鋭い痛みとともに
私に流れ込む
非力な母親だけど
その爪はしっかりと受け止めるよ
疲れ果てて眠りに落ちたやす香の窓に
新しい朝が来た
* やすかれ やす香 生きよ けふも
おまえの生まれたとき 生まれ落ちてすぐさま、母は、こう歌ってお前に教えた。
やす香、もう一度 お聴き。夢中でお聴き。優しかった 強かった おまえの母の声を 耳を澄ましてお聴き。 おじいやん
:::::::::: 子守唄
障子に揺れる 母(=祖母)の影が唄っている
あきらめなさい
あきらめなさい
ばば抱きだから
おっぱいはないの
おまえのままはおねんね
だからおまえもおねんね
あきらめて
ねんねしなさい
眠りに揺れる 私の心は叫んでいる
あきらめるな
あきらめるな
新しい生命(いのち)よ
人生の最初に学ぶものがあきらめだなんて
そんな馬鹿なことはない
泣け 泣け
力をふりしぼって
おまえの母の目覚めるまで
そうして 泣いている ・ ・ ・ おかまいなしに
やす香 生きよ けふも
神よ やす香に 生きる強い歓喜を 恵みたまへ おじいやん まみい 建日子
* メールがこないので、体調が優れないかと 心配の中で心配し寂しく感じていました。
六月二十二日に「白血病」と報せてきた孫娘は、その後に最悪の「肉腫」と診断が変わり、今をも知れない危篤の床にあります。なにもしてやれなくて…
発送も九割余終えていますし、もう急がなくていいのですが。ぽっかり時間もからだも空いてしまい、放心しています。悲しい報せが永遠に無いといい。せめ
て明日の母親の誕生日に意識有って笑顔を贈ってやってくれると、と願っています。
息子も、「切り抜けて呉れる気がしてならないんだ」と呟きます。わたしもそう想って願って堪えています。
* 「湖の本」が届いて〜 樹
読みかけの本が、いつも数冊(電車の中用、就寝前用、ゆっくりした時用、探求分、等々…)適当に手許にあるのですが、「湖の本」は初頁をめくってか
ら、何用もなく「今、一番」で読みあげました。
素直にとりつき、読み進んだこと。
これはどういうことだろう。
真っ直ぐに向かっていった「私のこと」を考えました。
その時、考える私は、
「湖の本」を開く前でなく、読み終え閉じてからの私だ。
何かが、きりっと動いたな。
そのような自覚がハッキリ。
ひとりひとり、人の加減で、その人の折りしも、や、間合いがある。
私は、「秦 恒平(先生)が一心に生きる」事実を知った。
きりっと動かす力を持っているのが、
秦 恒平の文学。
秦 恒平の存在。
だと、思った。
* 「mixi」により、ありがたい読者に、一人また一人出会っている。感謝。
* 21:15 やす香母の朝日子に
やす香のようすを「mixi」のみんなに報せてくれて、ありがとう。さぞ君も疲れ切っているだろうが、此のかけがえのない一刻一刻をやす香とともに静か
に豊かにすごしてください。
もう三時間で、君の四十六歳の誕生日だ。
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子の育ちゆく日ぞ
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
(一九六〇年七月二十七日朝日子誕生)
そのそこに光添ふるや朝日子のはしくも白き菊咲けるかも
安保デモで国会の揺れた初夏から、君の生まれた真夏から秋へかけての、わたしの歌だった。
あした、可能なら、やす香の病室で、ママとわたしとでえらんだ、持参した、目に明るい真っ赤のストローハットに、大きな白い花をつけたのを君にかぶら
せ、目に立ちやすい大きな七宝のブローチを、胸元にかざらせ、やす香に、
「そーら、ままの誕生日だよ」と声かけて、一目でも目をあけ、思わずやす香に、吹き出し笑いをさせてやりたかった。やす香に、一と声、「まま、おめでと
う」と言わせてやりたかったよ。
いまの君に「おめでとう」は、なかなか言いづらいけれど、やす香を授かってくれて、「ありがとう」と心から、いま言っておく。
どうかして明日を乗り越え、七月から八月を乗り越え、こんどは九月十二日「やす香の二十歳」を迎えたい。やす香はつらいだろうが、迎えたい。やす香はせ
つないだろうが、迎えたい。やす香の「生きの命のかがやき」のために、迎えたい。みんなで、心一つに迎えたい。
朝日子 やす香をお願いする。 父
* 意識だけがはたらき、五体は、<ruby><rb>冬瓜</rb><rt>とう<
rk/>がん</rt></ruby>をとろっと煮ふくめて、うす青う透けているかのように感じている。時間というものに
溶けてしまっているようだ。
* 新刊 受け取りました。お送りくださり、ありがとうございました。
今日は、ひさしぶりに、朝から晴れています。
とはいえ、部屋の中は高湿。先日買った除湿機を動かしています。お孫さんのことは、わたしにとりましても深い悲しみです。
どうしてそんなことが起こったのか。風がやっとお逢いになれたお孫さんなのにと、胸痛めています。
風がお気を確かにお持ちになり、どうか挫けないようにと祈る毎日です。
八月は、月曜午前の英語サークルが夏休みです。たとえ今世間の常識とちがっても、お逢いして、風をちからづけて差し上げたいです。 花
* いま、バグワンを読んでいて、妻に、なんでバグワンを声に出して読むのと訊かれた。空念仏とでも思ったかな。
読み始めて十余年になる、ほとんど一日も欠かしていない。が、わたしは、バグワン・シュリ・ラジニーシを、気休めの薬用や、ただの日課・習慣で読んでき
たのではない。勉強でもなく、受け売りしたいのでもなく、まさに「一語」一切<ruby><rb>会</rb>
<rt>え</rt></ruby>、無心に耳に深く聴いて音読している。語句を記憶しようとか言葉を知解しようと
か、全く思わない。いわば感嘆・嘆美そして尊敬の思いで、こころから頷いて読んで聴いて、こころから嬉しく読んで聴いている。だから十年もその余も読みや
めようなど、夢にも思わないでいられる。
いっこうにバグワンを読んでいる効果が上がっていないじゃないのと妻は言いたいのであるらしいが、遠く及ばない高い峯は、振り仰いでいるだけでも、心嬉
しいということを、べつに分かってくれよとも、わたしは願わない。
バグワンに出逢っていなかったら、あるいはわたしはとうの昔に死んでいたかも知れぬのである。いつか闇の底から光りが生まれ出て、わたしは気づき目覚め
るだろうが、「気づきたい」「目覚めたい」と努力など少しもしない。するなとバグワンが言うのだから、わたしは何もしない。
待っている。<ruby><rb>間に合え</rb><rt>〓<rk/>〓<
rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>ば嬉しいがと、そう思っている。わたしは知解者でも信徒でも
ない。世界史に一人か二人ほどの人のようだと感じているだけで、それが正確だとも的確だとも主張もしない。
* 七月二十七日 木 晴れ
* やす香 とわに生きよ やすらかに。
* 2006年07月27日 09:40 押村やす香 2006/07/27午前8時57分 永眠
やす香母四十六歳(誕生日)
たくさんの応援、ありがとうございました。
やす香は今私のかたわらで最後のおしゃれをしています。
やつれもせず、色白のままで、髪はメッシュのままで
長い爪は美しく整えられて
夏祭りに着た、あの浴衣に白い帯を締めて
家に帰りましょう。
*******
通夜・告別式につきましては、
引き続きこの場でご連絡申し上げます。
ミクシを見ていない方々にもお知らせいただければ幸いです。
まことに勝手ながら、自宅への弔問はご勘弁ください。
明日の昼までは、家族だけで過ごしたいと思います。
よろしくお願いします。
コメントを書く
2006年07月27日 09:52 秦建日子
やす香、お疲れさま。
最期まで、ちゃんと話ができて嬉しかった。
約束、きちんと守るから待っていてね。
やす香ママ、お疲れさま。
不出来な弟はあなたに何もしてあげられないけれど、
このコメントは、あなたを抱きしめるつもりで書いています。
やす香が、最期まであなたに甘えられてよかったです。
2006年07月27日 10:14 秦恒平
やす香 ありがとう ママのお誕生日に、ママに看取られて やすらかであったことと、おじいやんとまみいは、粛然とお前の深い愛にこたえています。
朝一番に まだそれを知らず 朝日子のために例年のように赤いご飯で祝い、メロンを食べながら、やす香が今朝を迎えていたことを、とてもとても嬉しく、
喜んでいました。
どんなに残念で口惜しいかはうまく言えませんが、今は、やす香の残していった「愛と元気と誇り」とを、静かに静かに想って、声に出さず、泣いています。
やす香 愛しい孫よ。やすかれ 生きよ 永遠に。 おまえの おじいやん まみい
朝日子 ことばを失いながら お前のことを想っています。 父
* 七月二十七日 朝 メール拝見、深く感謝申し上げます。お心入れ、ありがとう存じます。
たった今、「mixi」に報じられたようです、今朝ほどに、やす香はわたくしどものもとを離れて行きました、いま息子を介して知らされました。母の誕生
日まで、よく頑張ってくれました。いい子です。
* 7・27 HPを読みました。旦夕に迫る悲しいことを思うと言葉を失います。口惜しいです。今朝出品する絵を運んでくれる人に託し、送り出したとこ
ろです。ガンジスの岸辺にしゃがみこんでいる女を描いた絵、テーマを思うと複雑な気持ちで描き続けてきました。
数日前のHPに(清水)九兵衛さんのことが書かれていましたが、あの方に京都で会ったのが今月初めで、あまりに急な知らせだったと。本当に人は、この世
は・・悟れないわたしは嘆きます。生きているというのは死なれることだとも嘆きます。
それでも、それでも、鴉、どうぞ。「ただ一心に生きて行こうぞ。」と書かれた言葉が響きます。鳶
* やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじとわれは泣き伏す生きのいのちを 祖父
つまもわれもおのもおのもに<ruby><rb>魂</rb><rt>たま</rt>
</ruby>の緒のやす香抱きしめ生きねばならぬ
* もう、泣くまい。
凝視す永訣の空
静思す自然の数
心無きにあらねど
怨まず生死の趨 宗遠
* 七月二十七日 つづき
* やす香に、生きよ けふも と祈り続けた間は口が裂けてもこの憤懣は言うまいと決めていた。
* 「やす香は、残念ですが、亡くなりました」という通知も、「通夜・告別」の通知も、メール一つも、保谷の両親は受け取らぬまま、すべての事が果てる。
「mixi」でのみ知れる有り難さか。
* 数多い哀悼の「コメント」が、「永眠」の告知に続いて、「mixi」を続々と埋めている。哀別の情誼に溢れている。
だが、「なんで、こんなことになったの」という不審や残念を、あえて口にした人は、まったく、いない。それが世間常識の作法・行儀なのであり、当然だろ
う。有っても、せいぜい、「悔しい」と漏らした数人がいたか、どうか、だ。
* 通夜と告別式とを、「故人の遺志」にしたがい「お祭り」風に賑やかにしたいと、すでに「mixi」に告示されている。「お祭り」だと!?
* だが、あの元気だったやす香が、まだ一日一日家族と共に一つ家に生活しながら、日々何ヶ月の日記が示している、ああも言語道断な苦痛に呻き呻き続け、
援助の手と適切な医療とを求めに求め、喘ぎに喘いでいた時に、その時に、まさにその時に「生きていたやす香」に対し、家族の、つまり父親や母親の優しい細
やかな注意や支援が、何で無かったのか。その欠落していた(事実上の)事実は、つぶさに「思香=スーシャ=やす香日記」に読む限り、可哀想に、覆いがたい
のではないか。
* 一月には(日記によれば)症状がもう始まっていた。
三月には「急」を告げていた。日々の「やす香日記」は、痛いほどそれを明示し明記している。
四月ともなれば、病状は烈しさに烈しさを加え、五月は、もはや眼を覆わせるひどさになって、やす香はほとんど連日泣いていたではないか。そして孤独に、
見当違いの病院や、カイロプラクティクスなんぞに一人で出掛けては、でたらめな診断に、微塵の改善も無さに、荒れに荒れたグチと罵倒を、絶望感を、繰り返
し書いていたのである。
* 結局、相模大野の北里大学に入院したのは、「六月」二十二日の「白血病」告知(「mixi」)の、わずか数日前であったらしい。
そして白血病も診断違いで、結果は「肉腫」の、それもあんまりな「手遅れ」と認識され、いきなり「緩和ケア=ホスピス=死へ向かう患者をそのように扱う
介護」を、やす香は、医師からか親からか、両方からか、<ruby><rb>真面</rb><rt>ま
<rk/>おも</rt></ruby>に「告知」されていた。
この本人への告知にも驚愕した。
他で意見を聴いてみた医師もおどろいていた。言葉はキツイが、「引導」を渡されたようなものであった、十九のやす香は。
そして、「やすか祭り」と呼ばれたような、早や「お別れ・音楽会」が催された。やす香は、だが、大いに楽しんでくれたと聞いた、何よりであった。よかっ
た。
だがあれで、がっくりとやす香の余力は<ruby><rb>減殺</rb><rt>げん<
rk/>さい</rt></ruby>された。ただ、それより以外にやす香を慰める手がないと医師と親とは判断し、音楽会
を楽しく盛り上げたらしい。ああ、それは、せめてもの良いことであった。
だが、親切な、真剣な、幾つもの「医療援護」の申し出は、みな、すげないほどあっさり見捨てられてしまった。つまり、それほどに、ことは全く「手遅れ」
であった。
* 「なんでこんなことになったの…」と、そのことに、若いお友達の大勢が学んで欲しい。わたしはそう願う。
過剰に過剰な疲労(朝の四時起きのアルバイト、そして終電車に遅れそうになることもあった夜のアルバイト、そして大学の授業や、お遊び)の蓄積が、こわ
い病魔に、「待ってました」と、つけ入らせてしまった。
一刻一刻が、文字通り倍々ゲームのように病勢を烈しく燃え上がらせる、肉腫、若年の癌。
だからこそ半日一日も早く、適切に気が付いて、医療の手を求めなければならなかった。それを、うかうかと欠けば、やす香が抱えたと同じ不幸な「病例」
が、またも、あちこちで「再発」するのである、そのオソレがあるのである。若い人の白血病やがんのおそろしい多発!
この貴重な「生死の劇」から、のこされた吾々は学ばねばならない。「生きる」難しさと有り難さとを心底学ばねばならない。
* 「手遅れ」にしてしまった、それが悔しい、それこそ悔しいと、その口惜しさの結末の、あまりに悲惨だった事実から、「死なれ・死なせ」て今しも生きて
いるわれわれが、深刻に反省し真剣に学ばなければ、やす香の死は、可哀想に、「不毛」の苦痛だけに終わってしまうではないか。「お疲れさん」「ご冥福を」
で、さも賑やかげに偲ぶ「お祭り」葬儀だけでは、それこそ絵に描いたような「あとの祭り」で済んでしまうではないか。
* 何故二月三月に、せめて四月早くに、やす香の苦悶に、苦痛に、衰弱に気づいてやれなかったのか、と、それが悔しい。やす香の「mixi」日記も、大勢
のマイミクからの注意や忠告や助言も、会員でない良心には読めなかっただろう、が、日々一つ家に起居していたではないか。あげく「手遅れ」をただ「確認」
するために、おくればせにやす香の「mixi」を利して、つまり「広報」に用いただけではなかったか。
* やす香存命のあいだ、わたしは、こう露わには書かなかった。しかし、やり場無く怒っていた。怒りながら、わたしは、それ以上の何もしてやれず、やす香
宛てメールやメッセージで、たぶん不興を買いながらも、「一刻も早く親に相談しなさい」としか言ってやれなかった。親に対し、吾々は直に何一つ伝えられな
かった。そういう大人同士の理不尽を招いていたのは、ただに両親と祖父母との「愚」であり、やす香は無縁であった。だからやす香は、親たちにナイショで、
嬉々として保谷の祖父母との時間を、二年にわたり、楽しみに来れたのであった。わたしたちも天に昇るほど嬉しかった。
そのやす香が、もう、いない。「かぐやひめ」は月へ帰って行った。……悔しい。
* 七月二十八日 金
* 2006年07月28日 08:21 お祭り、お祭り やす香母
お祭りが大好きだったやす香、
まあ、今度ばかりは「賑やかに」というわけにいかないけれど、
あなたの人生最大の晴れ舞台をプロデュースするよ。
とはいえ
ほんといえば、あの「夏祭り」以上に
どうなるかわからない、見切り発車です。
だってあなたは私に、準備の時間をくれないのだから。
でもね、
私は信じています。
多分私が何をするよりもずっと
あなたの友達たちが、
二つの式をすばらしいものにしてくれると。
皆さん、よろしくお願いします。
* せめて「プロデュース」の成功を、翁と姥とは祈るが、十九のやす香の通夜と葬儀とが、何故に「あなた(やす香)の人生最大の晴れ舞台」と謂えるのか、
怪訝、といわざるをえない。
「やす香、国連に勤めて、国際舞台で語学の力をいつか発揮するの」と、わたしたちに向けて<ruby><rb>面<
/rb><rt>かお</rt></ruby>を輝かせたやす香を思い起こせば、悲しみのあまりとはいえ、こ
ういう親の公言は、意味不明、聞き苦しい。
* 秦 恒平様
運転しながら腕が震えていたらしく、「危ないから、止めて」と妻に制せられました。路肩に停車し、「秦さんのお孫さんのこと?」と聞かれたとたん、どう
と涙があふれて、数分間、妻とふたりで遠くより、やす香さんのご冥福をお祈りいたしました。
それにしても悔しい。かわいい姪っ子を亡くしたような心地です。
先生には気を落とされませんように。そしてどうぞ、いつものごとくわたくしどもを叱咤してくださいますように。
私事ながら、「秦恒平論」少しずつ書き進めております。 六
* 秦さん とうとう、けさを迎えてしまったのですね。
お孫さんのご逝去、心から哀悼の気持ちをお伝えします。
私も、先週、7・19の夜、連れ合いの母を亡くしました。92歳でした。
いまも、遺骨と遺影が、私の傍にあります。
親しい人に亡くなられると、心に穴が空いたような空漠感に襲われます。
空があり、地があるということの不思議さ。世界が存続しているのに、あの人はもういないということが、不思議な気がします。
まして、若くて、未来のある人に先立たれると大きな空漠感で、心が潰れる思いだと思います。御心痛をお察しいたします。
奥様ともども、御身御大切に。切に、切に、祈ります。 雄
* 娘に死なれて 11年が経ちました。
娘はまだ 23歳のまま 心の中に 生きつづけております。 波
* わたしは、今日は放浪する、せめて美しいものを見て、見つけて。
* 秦先生 あまりのことに、あまりの事の早さに、先生のホームページを読んだ時に、手足がさっとしびれて凍りつきました。いくら若い方とは言え、こ
んなにも早いものとはとても予想できず、涙が止まらず・・・。
身内の若い方を見送るのは、どんなにお辛いかと、先生の悔やみきれない思いを遠くから感じております。
私にもやす香さんと同じ年の姪がおります。亡くなった姪ではなく、一浪して今年大学生になった姪です。その姪と比べても、やす香さんのお心の優しさ、お
健やかさはすぐれて高いものと思っておりましたので、本当に惜しい方を失ってしまった、と一度もお目にかかった事のない私ですら喪失感にさいなまれていま
す。
ただ、先生に一つだけ、お伝えしたくてメールしております。
娘を育てている今、毎日が試行錯誤の連続ですが、その中で、子どもがいくつになっても「目を離してはいけない」ということを、私はやす香さんに教えて頂
きました。
娘はいま五歳。得意なものと不得意なものが少しずつあらわれています。世の中の風潮は、「個性を大切に」ということで得意なものを伸ばすことに重点がお
かれていますが、親としては「それだけではいけないのだ」と最近の娘を見つつ反省しているところでした。
もちろん、最終的には個性を伸ばしていくことでこそ、人は生きるすべを手に入れるのですが、その土台として、しっかりとした人間としてのいしずえを築く
過程では、不得意な部分こそ、親が必死で見つけ出ししらみつぶしに穴埋めし、頑強な基礎をつくらなければならないのだと、最近の娘には実に口うるさい母親
になっています。手まめ口まめに子どもの欠点を見つけ出し、そこを訂正していくのは、褒めて育てることよりも、はるかに心身のエネルギーを消耗します。こ
の口うるささ、いったいいつまで続ければいいのか、と、こちらのほうが気の遠くなっていた毎日でした。高校生になったら、いやその前までで、などと考えて
いましたが、たとえ成人を目前にしても、口は出さずとも「目は離してはいけない」のだと、やす香さんのことに泣きながら、肝に銘じています。
自らを振り返っても、大学生にもなると親などに口は出されたくありませんでしたし、自分で何でもできるように思っていました。確かに、そのくらいの年に
なると、普通の大人よりはるかに優秀な方もいらっしゃいます。けれど、若者が逆立ちしてもかなわない部分、「それは経験値の部分」です。スケジューリング
の仕方、健康管理、世間付き合い、そんな部分では、やはり親が口を出し続けなければならないのだ、と。
思えば、口うるさい心配性な我が母親は、先生と同年同月の生まれです。戦争の経験のある世代の方達は、小さなサインへの敏感な対応に長けていらっしゃる
のかもしれません。私たち姉妹三人は、母のその口うるささに実に辟易していましたが、今思うと、親としてのあり方の「一つの正解」であったのかもしれませ
ん。ただ、あまりにも口うるさすぎた母に抵抗して家を飛び出した姉は、結局幸せを上手に〓みきれずに終わりました。あれから三回目の夏になります。
口うるさく、けれど子どもの幸福をつぶさず、そのあたりの加減の仕方がこれからの私の親としての課題だと思っています。
こういう形で、いのちについて、人育てについて「考える機会」を与えて下さったやす香さん、そしてそれを包み隠さずに報告して下さっていたご家族の皆
様、特にお母様に心から感謝しています。やす香さんから教えて頂いたたくさんのこと、決してわすれません。もちろん、やす香さんご自身についても。一度も
お目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決してわすれません。よいお嬢さんに育て上げられたお
母様にも深く敬意を覚えます。
なぜか不思議なほど「奇跡が起きる」と信じていました・・・。言っても詮のないことですが。
お書きした内容に、大変失礼もあると思いますが、お許し下さい。ただただ、やす香さんに教えて頂いたことを忘れません、決して、ということだけをお伝え
したかったのですが、上手に表現できず、お気にさわる書き方になっていましたら申し訳ありません。 典 卒業生
* <ruby><rb>約</rb><rt>つづ</rt></ruby>
まるところ、これが「親」の位置だと、わたしも信じてきた。「逆らひてこそ、父」「逆らひてこそ、母」を、愛情と責任をもって生きるしか、未成年の子の親
に、適切な道は、なかなか、ない。それでも失敗することがある。
まして命に関わる重大な徴候から「目を離し、口を噤んで」いて、子の健康や幸福が、どう守れようか。「生きたい!」と叫んだ十九歳のやす香無念の死は、
このことを痛切に教えている。
死なれた「あとの祭り」を「晴れ舞台」めいて盛り上げるより、その前に、我が子から<ruby><rb>目を離して<
/rb><rt>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>いて「死なせて」しまいました、残念でなりません、やす香にも、応援してくれた皆さんにも申し訳なかった、とい
う親の、大人の「真摯な挨拶」がなければ、通夜は「お祭りだ、お祭りだ」、葬式は「人生最大の晴れ舞台」だなんて、しらじらしい。参会して下さる皆さんの
ピュアな情愛や親愛は微塵も疑わないが、それとこれとは、断然別事である。
* わたしは死なせてしまった愛孫のと限らず、もう死んでしまった人の葬儀には、加わらない。大事な人であればあるほど、わたしは、いつもその人を自分の
胸の内に迎えて、静かに話し合うだけである。そのための「部屋」を常に持っていることは「mixi」に連載中である長編小説『最上徳内 北の時代』の冒頭
にくわしく書いている。
* ずっとマタイ受難曲を聴いています。武満徹さんが病床で最後に聴いていた曲です。ほんとうに悲しい時にはこの曲しかないのです。
底力を見せてごらんと、文学の神様が待っているのです。よく体調をコントロールなさって、無理な自転車運動はなさらないで、お元気にお過ごしください。
春
* 七月二十九日 土
* hatakさん
ご無理はしていませんか?
豊平川の河辺に建つホテルから、目の前に上がる花火を観ました。今日の札幌は日中は暑かったものの、夕方から涼しい風が吹いて、今年最後の花火をみるに
は少し肌寒い夕べでした。
プールサイドのテラスで、静かに、はじまりからおわりまで、一部始終を観ました。
川岸には大勢の人が出て、ときおりざわめきが遠く聞こえてきました。
茶友が昨日師を失い、このHPも読んでいて、「心がきしん」で泪をこぼし、メールを送ってきました。
その茶友が贈ってくれた時代物の<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら<
/rt></ruby>に、細い帯を締めました。
秋のような柔らかな夕日が去ると、空は清らに澄んで、張りのある大きな音が響きます。最後の一瞬は、色のない、白い光りの束が、大空に、縦横無尽に広
がって、無垢で清らかで美しい世界をみせてくれました。
『みごもりの<ruby><rb>湖</rb><rt>うみ</rt><
/ruby>』冒頭の送り火や、『チェケラッチョ』で、渚が透のために、本部のホテルで上げる花火。
夜を焦がす火の色には、送りや励ましの願いが籠もります。
帷子で野辺の送りぞ白花火
お体をおいといください。 maokat
* 身にしみ、思わず瞑目する。
昨日浅草の望月太左衛さんの弔電が来た。河出書房の小野寺優さんからも戴いた。
今夜は浅草の花火だ。お誘いもいま届いた。
* 秦先生、おはようございます。大変な時に、と思いましたが、隅田川花火、もしよろしければいらしてください。私も今年は浅草におります。 太左
衛
* 妻は精神的にも疲労困憊していて、安静が必要。
今日は、遙かに遠い斎場で、やす香告別の「お祭りお祭り」だという。行かない。花火にわが「送り火」の思いをこめて、はかなく、くやしく、浅草にひとり
行って、やっぱり泣いてきたい。
* 昨日、「mixi」の「足あと」をさぐっていて、とある若い人達の会話にまぎれこんだ。事情の正確なことは分からないが、やす香の死に触れ合って、や
す香は「使命」を果たした、遂げたのだということが話されていた。
おどろいた。
おどろいたことに、「使命」とは「命を使いはたす」意味であり、やす香は命を使いきって「ラク」になれた、だから「お疲れさん」「やすらかに」「よかっ
たね」と自分達もほっとして見送れたとあった。「命を使う」とはウマイ謂い方だねえと感心しあっているのだった。
それは、その若いやす香の友達たちのオリジナルな解釈では、どうやら、なく、通夜の「お祭りお祭り」で披露されたやす香を「送別の意味」づけの一つで
あったらしい。わからない。
わたしは仰天し、思わずコメントを添えた、押村やす香の祖父だとことわって。
* 押村やす香の祖父です。みなさん、ありがとうございました。
「使命」ということが語られていたので、ちょっと割り込ませて貰います。
「使命」とは、命(めい)つまり神の命令、天命、天職を、使(し)つまり「全う」するという意味です。もし命(いのち)を使う、使い切るという意味に取る
としても、それは、生まれ来て、そう生きたいと願った「天命・天職を、満たす」というのが、本当の意味です。
病に倒れた私たちの孫押村やす香の場合は、例えば、生前に面を輝かして話してくれました、「いつか国連に勤め、語学の力を思いきり活かして、国際的に活
躍したいの」という「願い」が満たされたときに本当に「使命が全うされた」のであり、その意味では、半途に若く落命したやす香の残念・無念をこそ心から惜
しんでやりたいと思うのです。
やす香が、自ら「死んで行った」と思われますか。「生きたい」「生きたかった」と苦しい息づかいで叫んでいました、きっと自分の落ちこんだ事態が、悔し
くて悔しくて仕方なかったはずです。「ラクに死ねてよかったね、お疲れさん」とは、言ってやりたくないのです、可哀想に。
「いったい、どうしてこんな事になっちゃったんだろう、何かが間違っているよ、こんなのイヤだよ」という、痛切に残念な、悔しい思いを忘れてしまい、文字
通り「あとの祭り」に流してしまえば、やす香の無念の死、満たされなかった命は、そのまま、本当のムダになりかねません。
若いお友達には、やす香の真に願っていた「使命」って、ほんとは何だったんだろう、と考えてやって欲しいのです。
その無念・残念を、お友達の一人一人が「自身の使命」を考えることで、どうかやす香を慰めてやって下さい。
「命を使ってらくに苦しまずに死んだ」なんて、それでは安い洒落になってしまうのが、悔しいのです、祖父であるわたしは。
わたしは愛していた孫のやす香に、「死なれた」のだ、とは思えないのです。「死なせた」のです。あんな手ひどい「手遅れ」の大苦痛に追い込んでしまった
だけでも、ほんとうにやす香にも、みなさんにも、申し訳ないことをしたと、心からお詫びしたい。
身のそばの大人が、子供から目を放さず、せめて三月四月のうちに適切な医療の手を打っていれば、「らくに死なせてやる」どころか、命を救い得た可能性も
高かった、有った、と思います。残念です。
* そのあとにつづけて、何かコメントがあるかと待ったが、一夜を経て、<ruby><rb>寂</rb><
rt>せき</rt></ruby>として声がきこえない。
* われわれは往々愛する者に「死なれた」と受け身の涙を流すけれど、「死なせた」という自責からは、つとめて目を反らせてしまう。「死なせてしまいまし
た、やす香にもやす香を愛してくれた皆さんにも申し訳なかった」と、わたしも妻も悲しい。なにが「お祭り、お祭り」であろう、なんで通夜や葬儀がやす香十
九歳の「人生最大の晴れ舞台」なのか。
人は、人として現世に「存在する」かぎり、夥しく人を「死なせて」いるのである、自ら下手人にならないだけだ。誰しもの背負う戦争責任を想え。
時には自分自身が愚かなために、自身をついに死なしめることも屡々実例があり、孫のやす香も、まちがいなくその実例の一人であった事実から、目を背けて
いては、その無残な落命から何一つも、此の世に残されたわれわれは、ことに若いお友達たちは、学び取れないだろう。
どうか、やす香の二〇〇五年九月以降およそ十ヶ月の「mixi」日記を、一字も曲げず、「会話」のすみずみまで読み返して欲しい、やす香が自分の「命の
使い方」に本当に聡明であったとは言えないのである。死者に鞭打つのではない、「なぜこんなことになったんだろう」「間違っていたよ」「こんなのイヤだ
よ」と、心底から思い直したい、のである。
わたしは「生きよ けふも」と呼びかけつづけた。やす香に命あるかぎり、やす香に「死」という文字とことばとで触れることは、絶対に避け続けた。
<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>忌み
した。
だが、ついに、死なせてしまった。わたしたち祖父母は、「生きよ けふも」と願い続けながらも、やす香が間違えたことに目を背けてなどいなかった。やす
香もやす香の親たちも、或る意味で賢い者達であったにしても、聡明ではなかった。まもるべき最大の命に真っ正直に直面しないで「目を逸らし・目を離し」続
けていた、最期まで。
そして「あとの祭り」で、やす香は「使命」を遂げて、つまり「命を使い」果たして安楽な天国に行ったのだと、「もし意味づけたり」するのなら、それは真
実から、いまなお目を背けたいやらしい「ごまかし」である。やす香は命の限り、生きたいよ!と叫んでいた。死の恐怖から逃げ出したいと怯えていた。この苦
しみを、「死」の方へでなく、「生」の方へ救い出して欲しいと願っていた。
だれが観念して死んで往きたがるものか、あの若さで。
* 死にたいほど苦しかった日々を、二月、三月、四月、五月、六月の日記でやす香は偽りなく、喘いでいた。しかもやす香は、生の本能をうしなった可哀想な
命として、爪を研ぐ死神の恐怖におびえたまま、入院までの日々をあまりに孤独に過ごしていた。いや、孤独ではなかったのだ、少なくもやす香の友人の何人も
何人もが、はっきり「気づいて」「見るに見かねて」「思いあまって」忠告し勧告し、いともはっきり「SHI!〓死」という文字まで用いて、適切な診療を一
刻も早く受けよと、半ば威嚇さえしていた。だがやす香は「こわくて」「おびえて」「にげて」右往左往し、しかもそんな一人の理性や判断力を喪っていた十九
歳から、大人たちは、わたしも、「目を離し・口を噤ん」で、言語道断な「手遅れ」を、むざむざ招いた。
「白血病」と見誤り、「肉腫」と診断を変更した即座に、もう治療不可能な「緩和ケア」を、つまり「死」を前提にした状態を、まるで神の思し召しかのような
言い訳を添えて受け容れ、死後の「お祭りお祭り」へ、一直線にやす香をやすやすと見送ったのである。そのうえにもし、やす香は「使命」を果たしてラクに
なった、「おつかれさん」「やすらかに」と本気で誰もが言うのなら、可哀想に、やす香はまさに「見殺し」に遭ったようなものだ。
* やす香のそばにわたしがいつもいてやれなかったのは、わたしにも責任の一半がある。わたしはやす香に死なれたから泣き嘆くのではない、「死なせた」と
思い、申し訳ないと自身を責める。わたしはやす香の日々を現実に目に見ていてやれなかったが、「mixi」日記からは目を離さなかった。危ないと見てい
た、だから「親に相談せよ」と喧嘩腰にすらなったのだが、それもメッセージやメールで言うよりなかった。逢うことが出来なかった。親にも伝えられなかっ
た、聴く耳もなかったろう。わたしたちもその点、やす香の大勢の友人達の域を出られなかった、いや友人の大勢は「生きている」やす香を、見て、会って話せ
ていたのである。
* 寂しい花火になる。
* 秦 恒平さま 四国の****です。
メールしにくく、我慢しつつも、堪え難く、ついにメールしました。
残念です。
毎日のブログを開くのが怖くもあり、気にもなり、目を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つむ
</rt></ruby>りながらの訪問でした。
その間、湖の本・米寿のインパクトを交え、ネット環境にない読者には味わえない(創造者・表現者の)極限に触れる戦慄を味わい、体験し、なおかつ、若き
「生命力」への信仰のごとき僥倖への渇望を託しながらの日々でした。
しかし、母・朝日子さんの誕生日をこのような形で迎えるとは。
「老少不定」とはいえ、余りにも早すぎる「逆縁」の訪れです。
しかも、<ruby><rb>予告</rb><rt>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>されたかのような、母娘の絆。長くつづくのは、「苦しむ」のは、死者以上に、残されし者の現世の営みであり、そ
れゆえにこそ秦さんが忌避される、形骸化された死者への「祭典」であり、儀式なのでしょう。「レクイエム」は、本来、苦しみを共有した、限られた者だけ
が、しめやかに内心で唱える「鎮魂」のメロディであるはずです。
しかし、少女は苦しさに堪え、友の手向け(音楽会)を素直に受け入れ、あたかも「逆修」のごとく現世でそれを実現させた。
やす香さんの優しさは、「おじいやん」の想いの深さを超える天使のような境地だったのかも知れませんね。これもある種の「因縁」と割り切らねば、私のよ
うな凡夫でも、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひ<rk/>と<
/rt></ruby>ごととは思えない身を切られるような「痛み」の原因が納得できません。
人と人が信じあい支え合って生きてゆく「生物」としての、あるべき姿、ありたい理想。内外の理不尽な「死」が永遠のごとく絶えない世界への、成人前の
「やす香」さんからのメッセージを、苦痛とのセットで重く受け止め、抱きしめていたいです。心をこめて合掌。 円
* 有り難さに涙が噴き零れる。この知己の言われる如くである。
「おじいやん」の思いは、いま、ただただ堪えがたく奔騰していて、わたしはそれを意識し、認知している。平静に激し、平静に言を<ruby>
<rb>切</rb><rt>せつ</rt></ruby>し、この不条理な劇をわたしは
かなり平静に観察していると謂って間違いない。
やす香の厳然たる不幸な最期の前で、それをしも「あたかも平安な必然の死であった」と謂うがごとき、ごまかしは受け容れない。それは生者の自己慰安であ
り自己弁護に過ぎない。
わたしは、堪えかねてこの間にただ一度だけ「神」を呼んだけれど、わたしは、いわゆる「神」なるものには頼まない。神をむなしい「抱き柱」にはしていな
い。やす香の気持ちに、あたう限り近いところで、このかけがえなかった孫娘の魂と共生したいと願うのみである。
わたしは神を憎みも賛美もしない。神はいない。神に願う者に、神はけっして訪れないことを、わたしは感じている。やす香も、いまはそれを知っている。
* 七月二十九日 つづき
* この花火 やす香は天でみているか 遠
* 浅草へ、例年のように花火に招かれ、出向いた。
ひとり、いつもの場所に椅子をもらい、花火を、間近に眺めた。送り火をたく気持ちであったが、あはれ美しさ・はかなさに、何度も胸つまり、宵闇と花火の
響(とよ)みに隠れて、<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>お<rk/>えつ
</rt></ruby>をこらえた。
* 花火で、悲しみを散じることは、とても出来なかった。ほとほと身も心も、ますます萎え疲れた。やす香は帰らない。
<ruby><rb>言問</rb><rt>こと<rk/>とい</rt>
</ruby>大通りを、花火から流れて帰る人波と共に、とにかくJR鶯谷駅まで歩く以外に、車もとても拾えないのは、例年のこと。
だが、もう歩く元気がなかった。いつも目に付いていた「高勢」という佳い寿司屋の暖簾をはねた。もう三十分ほどで店をしまうがいいですかと主人に念をお
された、それでよかった。
肴を次々に切らせて、銚子は一本。気持ちは深く<ruby><rb>沈透</rb><rt>し
<rk/>ず</rt></ruby>いていたが、美味さに思い和み、それでもともすると気は遠く、引き沈んでいっ
た。両脚が、しきりに痛く<ruby><rb>攣</rb><rt>つ</rt><
/ruby>った。
心地和らいで、「高勢」をやがて出、信号のあるところで、向かい道へ渡り、人波にまじって歩いたが、そのうち、わたしは、歩きながら、わが肩に来ている
やす香を感じ、はじめてやす香に詫びて、路上、おいおい泣いた。
* 親に隠れてやす香が我が家へ来るようになり、以来二年半、どれだけ、やす香はわれわれに向かい、こう言いたかったか知れなかったのを、少なくも、わた
しは<ruby><rb>感じ</rb><rt>〓<rk/>〓</rt>
</ruby>ていた。
「どうか、父や母の犯した、おじいやんやまみいへの無礼や我慢を、ゆるしてやってください」と。
やす香は、それがどんなに言いたかったか。なによりそれを言おうと、親に告げず思いきって祖父母の家までやってきたに違いない。そう、感じていた。
だが、わたしたちは、やす香にそれを口にさせなかった。わたしも妻も、母朝日子の幼かりし若かりし昔の佳い一方の話を次から次へして聴かせたけれど、父
押村高に関してはたったひと言も触れようとしなかったのである。
だが、やす香の、「父や母をゆるして」という声なき声は、いつも少なくも私の耳には届いていた。
わたしも妻も、やす香にそれを言わせたくなかったし、それを言うなら、婿であり、青山学院の大学教員である、教育者である押村高本人が、朝日子の夫とし
て、やす香らの父として、礼にかなった大人の態度と挨拶とを、きちんと義父母の前に示すべきだと思ってきた。「礼にあらざれば聴(ゆる)さず」と。
そしてやす香も、いつか諦めていたかも知れない。
* わたしは夜の言問通りを歩きながら、頑なに過ごしたおじいやんの「無言」を、今更やす香に詫び、絞るほど声を放って泣き、とぼとぼとぼとぼと、気落ち
した、重い痛い疲労困憊したからだをずるずるひきずって、JR鶯谷駅まで、やっと辿り着いた。保谷の家が、まだ千里もあるかと絶望するぐらい、疲れた。
* それでも、わたしは、帰ってきた。そして、知った。
押村家は、「mixi」での「やす香=思香」と「おじいやん」との「マイミク」関係を、一方的に拒絶解消し、もはや「やす香=思香」の「日記」をどうク
リックしても、「このユーザーの記事にはアクセス出来ません」と通告されてくる始末。
まさか亡くなったやす香が、自分からこんな「無道」な措置を「おじいやん」相手にするワケがない。そんなことをしてみても、他のルートを通れば今日の押
村家の葬儀の「御礼」は、ちゃんと読みとれる。
* わたしたち「やす香の祖父母」は、ついに一度もやす香が何日何時何分に亡くなりましたという通知も、通夜・告別の通知も、押村家から受け取れなかっ
た。「白血病」告知以来の見舞いの経緯すべてからみて、なぜ「やす香の祖父母」であるわれわれは、そんな仕打ちをやす香の親たちに受けねばならないか、理
解に苦しむ。初孫に死なれた親へ、子のとるべき最低の礼儀ではないのか。
「だいじな孫を死なせてしまいました、ごめんなさい」と、それが、大人として真っ先にする当然の礼であり挨拶ではないか。
* もっとも、十数年来心臓を病んできた老妻は、いま疲弊の極にあり、遠方の「お祭り」になど出て行く体力も気も無かったし、わたしは、「生きているやす
香」にこそ「生きよけふも」と願い続けたが、やす香の死に顔は見に行かぬと決めていた。わたしはつねづね葬儀という儀式に重きを置く思想は持たない。告別
には私なりの作法を持っている、花火をやす香と一緒に観るとか。
だからといって押村家が、やす香の祖父母へ何一つ通知もしないでいい「理」も、「礼」も、無いであろう。
* やす香は、こういう、ややこしさに板挟みにされていた、可哀想であった。
それでもわたしたちの処へ、親に構わず、自発的に進んで来てくれた。ありがとう。
* 2006年07月29日 23:02 御礼
やす香は、たくさんの皆さんに送られて、
………延べ600人!!!………
みんなの歌う「栄光の架橋」に送られて
棺に入りきらないほどの花とメッセージに包まれて、
そして、
さまざまな事情でおいでいただけなかった方々も含めて
たくさんの友情と祈りに包まれて
「終わらない旅」へと旅立つことができました。
ありがとうございました。 押村高・朝日子・みゆ希
* 「やす香を、なんで、むざむざ、こういうことにしてしまったか」。死なれた受け身だけを「人生最大の晴れ舞台」と飾り立てて、「死なせた自責」は、つ
いにひと言も、この家族、両親は、口にしない。たくさんの友情と祈りに対し、それが正しい「礼」であろうか。
この「御礼」のさばさばしたこと、だいじな子に死なれ死なせた哀惜が、感じ取れるだろうか。わたしには、感じ取れない。
* 浅草へは、やす香と一つ年下になるか、望月太左衛さんのお嬢ちゃんでこの春芸大に入学した真結(まゆ)ちゃんのお祝いに、小池邦夫から昔に買い、ず
うっと身近に掛けてきた好きな絵を持参。やす香にかわって、元気に、天賦の音楽の才能を伸ばして欲しいと、祈念して。
太左衛さんと一門の人達に優しく迎えられ、ビルの屋上で、(見物のお客はいつもより大勢だったが、)ひとり、いつもの場所に椅子をもらい、花火を眺め
た。
* 太左衛さんは、同じ浅草の雷門近くに新しい稽古場を開いたという。
わたしの事情をホームページでつぶさに知っている太左衛さんは、あえて花火に誘ってくれた。花火のあと、わたしを見送って、しばらく、言問通りまで一緒
に歩いてもくれた。ゆかりのお地蔵様に二人で、元気な真結ちゃんのためにも、他界したやす香のためにも参拝し、ひさご通りで別れてきた。
* 「高勢」はいい寿司屋だった、肴の吟味がすこぶる上等、備前などのいい<ruby><rb>食器</rb>
<rt>も<rk/>の</rt></ruby>を出してくれ、心地よかった。鮨飯は<
ruby><rb>海胆</rb><rt>う<rk/>に</rt><
/ruby>にだけ添えてもらい、銚子の数は控えた。花火を観ながら酒もビールもお握りなども振る舞われていた。
* 七月三十日 日
* 虚脱。あれをしこれをしていても、ボーゼンとしているだけ。ひきこまれるように瞼ふさがって睡眠へ落ちこんで行く。
* このカリタス高制服姿のやす香の写真は、2004〓12〓17日、保谷へ遊びにきて祖父母を大喜びさせた日の、一枚。たくさんたくさん話し合ったあ
と、見送りかたがた西武線にのって夕食に出掛けた、その空いた車内で向かいの席から「おじいやん」が撮った。やす香がこころもち右に<
ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>いでいるの
は、となりの「まみい」へ寄り添うていたのである。(こんなに大きく載せるのはひとえにわたし一人の思いであって、人様にみせるためではない。遠慮無く
カットしてくださるように。)
在りし日の 愛しき孫 やす香 十九歳にして遠逝。 写真
* この日の歓談で印象深く記録されているのは、母朝日子について、「謎です。ワッカリマシェーン」と笑ったひと言。
* 悲しみは、人から人へ、波紋のように拡がり、人の悲しみを想像すれば、自分もその悲しみに染まるものです。
事実、風のHPからは、大勢の人の涙しているようすがうかがえました。
一緒に泣くこと。それも一つの、風への励ましかもしれません。はじめ、わたしも、風の悲しみ、無念を想い、自らも沈んでしまいました。
けれど、これではいけない、と思い直しました。
風がふと視線を投げかけたとき、そこに咲く花のように、わたしは、自身の日常を溌剌と生きるべきで、それが、風への励まし、支えになってほしいと思いま
した。
お孫さんの亡くなったことについて触れるのは、風の悲しみに拍車をかけるみたいな気がするので、今後、わたしからはしない、できないと思います。
でも、風が、話したい、吐き出したいと思われたら、もちろん話してください。花はいつでも両手を広げ、風を受け止める姿勢でいます。
上に書いたこと、黙っていても伝わるかなあ、とも思いましたが、メールのやりとりだけの間柄なので、念のため記しました。
今日は、遅く起き、遅くにとんかつを食したので、夜になってもおなかが空きません。
風も、おいしいものを召し上がって、元気にしていてくださいね。 花
* ありがとう。花の思いは分かっています。
* 七月三十一日 月
* みずから「プロデュース」と称し、肉腫にあえなく落命した亡き娘やす香十九歳の、「人生最大の晴れ舞台」として「お祭りお祭り」と、司会に女優さんを
緊急に雇い、通夜・葬儀の演出に奔走した母朝日子にとって、それは、「死なれた」悲しみを、涙ではなく笑いで乗り切るのが「やす香を見送る最良の方法」と
思い決めたことであったろう。
それはそれ、である。
参会した六百人の誰しもが、「やす香」の人徳のまえで、じつに美しくピュアに悲しみと親愛とを表現してくれたという。すばらしいやす香の生命力である。
わたしはそれを微塵も疑わないし、わたしもまたやす香の徳を心から称賛してやれる。
六百の参会者に満ちあふれた、「死なれた」受け身の思いは、あまりに自然で当然。感謝します。
* だが、むろんわたしたちもふくめ、やす香の家族に、やす香をむざむざ「死なせた」という悔いと自責とを欠いていては、おはなしにならない。
それほどの「やす香」へ、まるまる半年、家族の愛ある<ruby><rb>目</rb><rt>〓
</rt></ruby>の、<ruby><rb>手</rb><rt>〓
</rt></ruby>の、<ruby><rb>口</rb><rt>〓
</rt></ruby>のまるで及ばなかったため、「むなしく死なせてしまいました、やす香にも皆さんにも申し訳なかった、ご
めんなさいね」という表白が、やっと葬儀のその日に朝日子の口から少し漏れ出ていたらしい、「父さんが書いていたのを読んだと思われる」と、建日子は、わ
たしたちに告げてくれている。
何であれ、それでこそ、やっと本当の親の心情が流露したものと、やす香のために、また朝日子たち自身の心の平和のために、頷いてやりたい。
* 「死なせてしまった」という家族の痛恨を欠いた、ただ葬儀の「プロデュース」など、いかに「死なれた」大勢の世間様を感銘させ得ても、肝心かなめの家
族の振る舞いとしては、本末を転倒した、偽善的なごまかしに堕する。まっさきに、自分自身の不注意と愛の薄さからやす香を「死なせてしまいました、ほんと
うにごめんなさい」という痛惜・痛恨が吐露され自覚されないかぎり、そしてそのうえでやす香のため、精いっぱいみなに参加して貰える晴れやかな儀式を仕組
むのでないかぎり、真の愛からも情からも、薄く逸れてしまう。文字通り「情けない」ことになる、わたしはそう思ってきた。
* わたしは、この「私語」に、いままさに朝日子達の、<ruby><rb>頭</rb><rt>こう
べ</rt></ruby>をまことに垂れて言うべき言葉までを「書いて伝え」ねば成らなかった。
建日子によれば、「やっと父さんの思いが届いたようだよ」、と。少なくも、そうと漏れ聞いて朝日子達の悲しみに、わたしも涙を添えることが出来る。よ
かったと思う。
* 妻と歯医者に通う。妻は疲弊している。わたしも元気ではないが、元気に生きてゆかねばならない、二人とも。
* 大急ぎで特筆・感謝したい、香川県下の(固有名詞を避けるが、)或る、准看護師資格を志して勉強している生徒さん達が、主に「mixi」の記事をみ
て、やす香の祖父である私のために、全員が優しい所感と私信とを届けて下さっていた。
書かれていたのは、やす香生前で、大きな郵便物が届いたのは二十七日、亡くなった当日であった。
とりまぎれて御礼も申し上げられず、なかなか読み始めもならなかったが、告別の日の二十九日、わたしは浅草の花火へそれを鞄に入れて持ち出し、電車の中
から百人百枚にちかいであろうみな鉛筆自筆の手紙を、一枚一枚、一人一人ぶん、丁寧に読んでいった。そして今日、歯医者の待合ですべてをありがたく切なく
全部読み終えた。
みなさん、ありがとうございました。こういうふうに生徒さん達にし向けて戴いた先生にも心より御礼申し上げる。
胸にしみ通る言葉が多かった。看護師さんになろう、なりたいという人達であることも、記述にしっくり来るところ多く、教えられもし頷いて涙をぬぐって読
んだ。
わたしが数十年前、妻と上京して医学書院に就職、いきなり担当したのが「看護教室」という今で謂う准看護師ないし志望者対象の雑誌であったなあと、懐か
しく思い出した。あの頃、雑誌編集委員は、東京女子医大総婦長の関光さんと、もうお一人が高野貴伊さんであった、お二方とも大先生だった。いろいろお世話
になった。
看護師の卵さん達、ありがとうございました。やす香は残念ながら七月二十七日朝、母親の誕生日にしっかり手を掛けてから、永逝しました。
* 長いことパソコンから離れていましたが、しばらく振りに今日ホームページを拝見し、初めてお孫さんのことを知り本当にびっくりいたしました。そして
お写真を見てはっと息が詰まりました。自分もいろいろな想いを経験したつもりでいましたが、こんなことがあり得るのか、あっていいのかと、胸ふさがる想い
です。
言葉にしようのない気持ちのまま、心からお悔やみを申し上げます。 竹
* ありがとう。
* 二十三日にやす香を見舞った日、やす香の床のわきで、静かに静かに聖歌を歌って下さっていた方から、やす香生前の思い出などをメールでたくさん教えて
頂けた。ご親切にも頭がさがるばかりであるが、告別式のあと、あまりに卒然とやす香を運び去られるに堪えかね、朝日子が声を放ってついに泣き崩れ、あとを
追って駈けたというのを読み、朝日子が可哀想で可哀想でわたしはとても堪えられなかった、さぞ悲しく悔しく辛いことだったろう。
発病以来、長い間泣くのをこらえて笑おう笑おうとしていた、賢いようでバカなバカな娘よ。やす香は重い「十字架」になった、われわれは生涯背負って行き
ますと、この母は漏らしていたそうだ、「死なれて・死なせた」われわれの、それは到底遁れようのない負担である。
朝日子がつらいのは、この先の日々だ、だがよく堪えて、妹みゆ希から節度ある愛情深い眼をどうか離さないで、幸せ一杯にみごと育てて欲しい、心優しいや
す香はそれをかならず喜んでくれる。
* 心身ともに先月下旬から不調の淵に沈んでおりました。
いただいたメールのありがたかったこと!まったきカンフル剤でしたのよ。お目にかかれるかどうかはどうでもよく、同じ空気を吸いたくて、一等気に入りの
きものを着て、同じ京の空の下にいたい…今、思い出しても狂気かというエネルギーが湧き起こってまいりましたの。
伊賀に、餡炊きも上手い菓子職人がいると知った嬉しさに、ご都合もうかがわず、なまものをお送りいたしましたことお詫び申しあげます。
まるで水底に着いてしばらくしているうち、やっとまた、ゆらゆらと浮き始めてまいりました。秋成忌と河童忌をそのままじっと冷たい水底で過ごし、ご本の
発行日である7月27日“お父さんの日”が、暮れて、明けた28日から、もとより点火も動きも悪い左脳はすっかと放り、少ォし復活してきた体力と、右脳
を、一気にフルスロットルにいたしました。
滝倉と、河内長野の古寺と、南朝行宮寺院。山科四ノ宮から藤尾。山崎の関から水無瀬。
東大寺大仏殿の茅の輪くぐりと二月堂、そして奈良国博と京国博のはしご。斎院跡の<ruby><rb>櫟<
/rb><rt>いちい</rt></ruby>ノ七野神社〜寺之内〜出雲路(上善寺、阿弥陀寺)〜“萩の
寺”長徳寺〜「夕顔」「<ruby><rb>鉄輪</rb><rt>かな<rk/>わ
</rt></ruby>」の地…。
動けるうちは動いておこうと彷徨の数日を送り、最後は、昨日。
7月30日。法然院の(谷崎先生)お墓に、「幼稚な読みですが、おもしろくたのしく読み始めました。こんな調子でこれから読み進んでいきますが、どうぞ
おゆるしください」等々、うったえること沢山にお参りしてまいりました。
外出先で一番最初に “薬師” の扁額を見たとき、思わず掌を合わせ、お孫さまのご恢復をお祈りいたしました。
今回、奥様のお加減が案じられて胸騒ぎがおさまらなかったところに、ご本が届いたのです。
からだ言葉を露払いに、静かな心を太刀持ちに、米寿祝いは『新・罪はわが前に』とは。うれしかったです! 囀雀
* しばらく囀りが聞こえず、心配していました。回復されてよかった。
七月二十七日は、娘朝日子の四十六歳の誕生日であり、孫やす香十九歳での遠逝当日ともなりました。
やす香は、六月二十二日にみずから「白血病」発症を告げてきましたが、やがてそれが診断違いで、最悪の「肉腫」であると決定した日から即緩和ケアに入
り、母の誕生日にようやく手を掛けただけで落命しました。
この花火 やす香は天でみているか
浅草の太左衛さんの招きで、二十九日、ひとり花火をながめ、「送り火」の寂しさと悔しさに宵闇に隠れて泣き崩れました。
雀 雀 だいじに長生きして百まで囀れよ。
此の件はもう忘れて下さい、なにも言わなくて宜しいです。
* 平成十八年七月尽 つづき
* 「やす香月」が尽きた。母の誕生日を自身の命日に書き換えた、やす香。おまえは、何を思っていたろうね。
* この四月十二日にまさしく「思いあまって」やす香にメッセージを送ったのが、「mixi」に記録されている。これを同文で母親の朝日子に送る手だてが
もし有ったなら、と、残念だ。わたしは、かなりこのときやす香に対してもカンカンに怒っていたのである。
* 宛先:思香(=押村やす香) 日 付:2006年04月12日 20時38分
件名:mixiに加わってから、思香日記を
欠かさず読んできました。もうまる二ヶ月ちかくなります。一言で言えば「心配」の連続でした。
親に耳の痛い何かを言われるのも、頑固に拒絶しているらしいのは聞き知っていたので、直接、何も話し掛けませんでした。
書かれてある日々の生活、それを話している書き方・話し方。そして会話。それは、ま、本人の勝手であるから好きにしていいことですが、最近の日記には、
「心身の違和」が猛烈に語られはじめ、こと健康、こと診療となると、心配はもう極限へ来ています。
ことに今日の日記など、これが「ピーターと狼」の例であるならべつですが、本当に本当にこんな有様なら、やがて神経や精神に響いてきます。親とも、本気
で何の相談もしていないように見受けるし。
思香日記をみてくれている「大人」の知人・読者には、日記じたいが心幼い一つのパフォーマンスであり、自我の幼稚な主張であり、或いは遊戯に近いかと解
釈する人すらあるのですが、わたしは、おじいやんは、そうは思っていません。かなり「危ない」と、ほんとうに心配しています。
相談したい事があるなら、素直に柔らかい気持ちで、遠慮無く言うてきてくれますように。とても「笑って」られる状態・状況とは思われない。
まさか思香は他人からの「愚弄愛」に飢えているわけではないでしょう。だれからも、正常で正当な「敬愛」を受けたいのではないか。それにしては、あまり
に言うこと為すこと「幼い」のではありませんか。
思香は、こういうことを身近な誰それから直言されるのを、極端に嫌っている気はしますけれど、心の健康すら心配される今、手遅れにならぬうちに、「話し
にお出で」と声をかけることに、おじいやん一人で決心しました。 湖
* この翌日にも、親もともども東大とか慶応とか医科歯科とか、検査能力の高い病院へ駆け込んでいてくれたらと、「此の後二ヶ月半ものほぼ空白」の苦痛ば
かりが傷ましく、悔やみきれない。これを七月<ruby><rb>尽</rb><rt>じん<
/rt></ruby>のわが呻きとして言い置く。
* 平成十八年(二〇〇六)八月一日 火
* 博物館で見た知恩院の、「早来迎」を想っています。 雀
* なによりのお心入れです、感謝。 湖
* おとといに、朝日子が「mixi」に出したアイサツを引いておく。冷淡なほど冷静に書いている。だが言っておく、これは「死なれ・死なせ」たものの痛
苦を希釈し、
「ごめんね、やす香」
「やす香をむざむざ死なせて、お友達のみんな、ごめんなさいね」
の、ただ一と言も先立てない、それどころか堂々と若い人達の人生を「教訓」している一文である。装われたひとつの「文芸」「文才」ではあろうけれど、ほと
ばしる「誠」は、はなはだ薄い。
「バカかお前。おまえはセリフだけはリッパそうに言うが」と、娘の昔によく<ruby><rb>窘</rb>
<rt>たしな</rt></ruby>めたのを、またしても思い出す。「闘病記」という言葉はあるが、やす香は六
月十九日ごろに入院し、二十二日に自ら?「白血病」と「mixi」で打ち明けるまで、「闘病」の二字もおぞましいほど孤り病苦の進行にのたうっていたが、
その後七月二十七日の遠逝までは、親と病院との敷いたレールの上を (参考までに「病院は延命のための何もしていません」「すべてお母様がご存じです」
と、やす香祖母は北里大病院の看護師からて聴いて確かめている。) 運ばれたに、ほぼ同じい。
音楽まつりも、再三の<ruby><rb>死決定</rb><rt>〓<rk/>〓
<rk/>〓</rt></ruby>を予測・予定したような発語、それに伴うモルヒネ増量、輸血停止の最期まで、
また通夜・葬儀まで、また「mixi」日記の死後運営にまで、それは何らかの意味で「プロデュース」(母朝日子の言葉)またはディレクト(演出)された、
人為的に進められた経過であったと謂えないだろうか。治癒改善への医療に伴う「闘病」は、少なくも「肉腫」と決定後には無かった、直ちに終末期の緩和ケア
を実施したことは明らかだ。
ここに書かれたやす香の言葉と謂うのも、死後の「あと出し」で、しかも、是までにも観じられたが、やす香の文体とは甚だ異なった「作文」臭を<
ruby><rb>感じ</rb><rt>〓<rk/>〓</rt><
/ruby>ざるを得ない。やす香の日記やメールをつぶさに読んできた多年「作家」であるわたしには、また朝日子の文体も読み込んできたわたしに
は、やす香のまちがいない文章と、代筆ないしやす香に仮託された文章・文体との差には、比較的容易に気づける。
また、連続して「川の流れ」のように記述されたやす香日記の「前後」をよく見渡してみると、母親が関与したやす香文にあらわれるニュアンスとの間に、著
しい<ruby><rb>落差</rb><rt>〓<rk/>〓</rt>
</ruby>が認められる。秦建日子ブログに記されたとあるやす香文は、それがそんなに大事なら、当然「mixi」に当日出されてもいいも
のだが、「mixi」当日のやす香による記載は、
2006年07月13日
19:23 今日はね 大変だったの…。体力消耗〜
に尽きている。建日子のブログに送られたものは、朝日子が掲示したものよりさらに長い。「お別れ会」で紹介するほどだいじなやす香のメッセージなら、やす
香の気持ちとしてこの書かれた当日に「mixi」に告知されて良かったが、無いのである、「体力消耗」の嘆声または<ruby><
rb>悲鳴</rb><rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>以外には。
建日子ブログに送られている時刻は早朝。夜の夢に悩み眠れなくて悩んでいたやす香の朝は、うとうとの心落ちたまどろみの時刻であろうに、こんな堅苦しい
やす香の文体でない文章を長々と書けたろうか、果たして。まみいに、「<ruby><rb>書けない</rb>
<rt>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>け
れど、読んでいるよ。分かっているよ」と、やす香は書いていた、かろうじて。わたしには、不審が残る。
* 2006年07月30日 09:07 そして、明日を、生きる。
皆さんに支えていただいたこの短い闘病記を終えるにあたって、母・朝日子から、皆さんにお伝えしたいことがあります。
言わずもがなかな、とも思うのですが、
でも、やす香が命をかけたメッセージです。間違いなく、届けたい。
長くなりますが、読んでください。
*****
不思議に思われるかもしれないけど、私(=やす香)笑うことがすごく、すごーーーーーく好きだから、そして人は必ず誰もが死ぬものだから、最後まで友達
と他愛もなく生きていることを自分で選びました。自分の命が見えた分だけ、自分が本当に何が好きなのか、どうしたいのかを見つけることができたんです。
*****
お別れ会でご紹介したこの文章は、やす香の叔父・秦建日子のブログに、お見舞いへのお礼として記されました。軽く流したようでいて、考えに考えて書いた
文章です。
だけど、
やす香の人生において「本当に好き」なのが、「他愛もなく生きる」ことだったわけではないと、どうか忘れないでください。やす香は「未来を生き、夢を実
現する」という、もっとも大切な道を奪われました。その断崖に立ったとき、残された日々を、悲嘆や、悔恨や、憎悪や、絶望で過ごすか、あるいは、「他愛も
なく」「笑って」過ごすか、やす香は後者を選びました。究極の選択であったことを、忘れないでください。
それは、やす香がみずからに課した最後の規範でした。お見舞いの賑わいが去った病室に一人残され、恐怖と絶望がにじみよる夜の闇の底で、やす香は何度も
泣きました。失われた未来を思って、泣きました。あるいは、苦痛を早く終わらせたいと、泣きました。けれど朝が来ると、やす香は自らの規範に立ち戻りまし
た。そうやって残された日々を、大事に、大事に生きました。
友達は大事です。偉大です。やす香の最後の日々を支えたのは、医療でも、親でもなくて、まぎれもなく「友達」でした。そのことを私は何度も、何度も感じ
ました。
でも、言わせてください。
いえ、やす香のこの言葉を聞いてください。
*****
NOと言うことから逃げないで、
自分の思う道を進む。
道は一つじゃないんだから、
どの道を歩もうと、
早足で歩もうと、ゆっくりと歩もうと、
たどり着く先に
確かな夢さえ見えていれば大丈夫だよね。
*****
「友情」にがんじがらめにならないでください。
あなたたちに有る「明日を生きる」道程で、もし「友情」が、あるいは「愛や善意」の名においてなされる「干渉や束縛」が、あなたを損なうと気づいたら、
自分を守る勇気を、どうか、忘れないでください。
もう少しだけ、つきあってくださいますか?
「何もできなかった、後悔でいっぱいです」
夕べ、そんな電話をいただきました。
いえいえ、あなたはやす香の命を支えました。
「できなかった」という悔恨は、私たち両親だけが、しっかりと胸に抱えて生きていきます。それで十分です。それは私たちに科された十字架でもあります。
だけど、やす香はけして、私たち二人にも、「悔恨だけの日々」を望まないでしょう。だから私たちも、やす香のように、明るくこうべを上げて歩む未来を選
択したいと思います。
「この痛みを一生忘れたくない」
そんなメッセージもいただきました。
いえいえ、忘れていいんです。
私たちは皆、これから、未来を生きます。
やす香の望みは皆を引き止めることではなく、生きて進んでいく背中を押すことだったはずです。勉強に、バイトに、恋に、日々流れていく時間の中で、私た
ちは皆、やす香を忘れている自分にふと気づくでしょう。そのときに、後ろめたく思わないでください。むしろ「やす香のことを、ふっと思い出した」、そのこ
とを喜んでくだされば十分です。
「やす香のように生きよう」とか、「やす香の夢を引き継ごう」と思っていただく必要もありません。
人がそれぞれに違うということを、やす香はよく知っていました。「異」を受け入れる世界を、望んでいました。だから、皆がそれぞれに、自分らしく、違う
未来を歩んでくれることを望んでいると思います。もしそれがやす香に似た歩みになったとしても、それは「あなた自身の歩み」であると、胸を張って宣言して
ください。
私はこの一月に、知らなかったやす香をたくさん教えてもらいました。特にカリタスの方からは、たくさん、たくさん伺いました。でも、大学のお友達とは、
なかなか話す機会がありませんでした。いつか、たくさん、聞かせてもらえたらと思っています。
でも、振り返るのは、少し先にしましょう。
それまで、しばしのお別れです。
今日を、明日を、生きるために・・・・・またね♪
* 美しいほどの文<ruby><rb>芸</rb><rt>〓</rt><
/ruby>である。だが「究極の選択」をしたのは、病院と家族であり、あの苦しみの中でやす香にそれが出来たと考えるのは、可哀想だが、錯覚か作
為であろう。
病床のやす香自身は、まだ強い意志と意識のあるうちに、ともあれ、こう書いていた。胸をうってやまない言葉を書いていたという「演出」された綺麗ごとで
はないのかという不審が、どうしても残る。割り切れない。分からない。
* 2006年06月28日 02:54 夢 やす香
自分のやりたいことが、自分の思うように自分でできないって、こんなに悲しくて悔しいことなんだ。今まで、自分がどんなに、たいした病気もけがもせず、
恵まれて生きてきたのか、思い知らされた。
こうやって、みんなに励まされながら思うことは、みんな、想像以上に多くの人が、今までけがや病気と闘ったことがあるんだなっていうこと。
「私だけ」なんかじゃないんだな。
頑張らなきゃいけないんだなって。
今までずっと、同じ夢見続けてきたから、今、こんな体になって、それが叶えられるような体に戻れるか、すごく不安でしかたがない。自分の特技や経験を全
部集めて叶えようとしてた夢だから。
だけど、こうやってベットの上で病気と闘うことにも、何か意味があるのだと信じて、きっとこの経験も何かに生かせる日が来るんだと信じて、闘っていかな
きゃいけないんだと思う。
今、多くの人に助けられて生活している。私は丸裸の心一つでベットの上に寝ている状態。気持ちだけが自分のもの。その中で、見たこと、思ったこと、精一
杯みんなに伝えていこうと思う。
これからもよろしくね。
* これが、いかにもやす香の文章である。
* 2006年07月03日 18:05 命の重さ やす香
私が
ただ普通に生きたいと思うことが、
こんなにも多くの人を
巻き添えにしなくちゃいけないことだなんて
思ってなかった。
家族、友達、医者…
ただ普通に生きたいだけなのに。
感謝の言葉すら言い切れなくて、
悔しさばっかりたまっていく。
一つの命が
自分の力で生きていけなくなったとき
そのたった一つの命に
一生懸命になってくれるみんなの重さが
命の重さなんだと思う
命は決して自分だけのものじゃないんだよ
* やす香の言葉だ。
* 2006年07月07日 07:58 告知 やす香
私の病気は
白血病
じゃないそうです。
肉腫
これが最終診断。
れっきとした
癌
だそうです。
近々(院内の)癌センターなるところに転院します。
やす香の未来はどこにいっちゃったんだろう…
* 何のゴアイサツでもない、ぎりぎりの実感(ハート)を、苦悶の下から白い蓮の花のように、柔らかに開いている。この直後から、やす香は「肉腫」患者と
して、待ったなしの即時「緩和ケア」対象にされていた。文字通りの「治療断念」である、「どう死を迎えさせるか」だけが、病院と親との対応だった。幾つも
あった診療援助の提案や斡旋も顧みられない、つまりあまりに手ひどい「手遅れ」だった。六月二十二日の「白血病」から、この七夕の「肉腫」までの半ケ月余
は、いったい、やす香のために「何」であったのか。
だがここへ来て初めて、やす香は、「平安な最期を」という選択をむごく「説得」されたようである。やす香は絶望し、健気に受け容れたかも知れない、やす
香は心優しく周囲を<ruby><rb>慮</rb><rt>おもんぱか</rt>
</ruby>るタチだ。
だが、やす香は実際はこう叫んでいた。
* 2006年07月07日 14:31 会いたい やす香
親友に会いたい
友達に会いたい
先輩に会いたい
後輩に会いたい
先生に会いたい
みんなに会いたい
最後の土日に
みんなに会いたい
* 2006年07月08日 19:20 嫉妬 やす香
私の命は私だけのものじゃないけれど、
痛みや苦しみと闘うのは私しかいない。
矛盾。
うらやましい。
動けることが。
生活できることが。
私の下半身は
しびれて思うように動かない。
私の胃も腸もまともに動いてくれない。
管が増える。
もうここにいるやす香は
みんなの知ってるやす香じゃない。
嫉妬でいまにもおかしくなりそうな
一人醜い身体でしかない。
* 2006年07月10日 01:32 夜 やす香
夜が嫌い
必ずおいていかれる夢をみる
歩いても走って
絶対に追い付かない
夢でも管に繋がれ、
食べたいものも食べられない
そんな夢を見る夜が大嫌い
* 2006年07月10日 08:09 タイトルなし やす香
生きたい
* やす香から命の火の消えたのは、このあと十七日め、だんだんやす香自身は「mixi」に書けなくなって行き、多く、「やす香母」が代筆していた。
口授の代筆と仮託の作文とは、ちがう!。
* この、「生きたい」の、やす香ただ一語は、千万言の装った、繕った、演出した綺麗事よりも、地球よりも、重い。
* 七月二十三日、建日子も一緒に三人で北里大学病院に見舞った日、やす香は、カリタスの先生もいっしょにいる吾々を目を開いて認め、
「どうして勢揃いしているの」とはっきり問いかけた。わたしたちはその明晰な物言いと状況とに、驚喜も狼狽もして、笑い声をさえあげて、やす香に言葉をか
けることが出来た。
そして翌二十四日、もう一度建日子も一緒に見舞ったとき、たまたま朝日子が病室を出て、やす香と吾々親子との四人だけになったとき、やす香はうとうとと
寝入っていた中から、突として発語し、まず、「まみい」に「手をにぎって」と言い、妻は寄り添い、もうそこにしかやす香の命も感覚もない左手を、しっかり
にぎってやった。やす香はきゅっと握り返したのである。
やす香は、それから、語幹だけを謂うなら、「生きている」「死んでない」と明瞭に発語した。
そうだよ、「やす香は生きているよ」 「死んでなんかいないよ」 「生きなさい」 「生きていっしょに本を書こう」などと三方から声をかけあった。やす
香は頷くようにし、しばらくして、「ツカレタ」と呟いた。
それが、やす香とわたしたちとの「お別れ」になった。そして朝日子に、「明日からはもう来ないでほしい」と言い渡された。
「mixi」上にはっきり伝えられている、なお見舞客の間近な確実な見聞として、翌二十五か六日に、病院と親とは、やす香の「輸血を停止」した。
七月二十七日の母の誕生日をやす香も祝い、そして七月を乗り切り、八月を<ruby><rb>堪</rb>
<rt>こら</rt></ruby>え、九月十二日の「成人」の日をと、わたしたちは、みな「生きよ けふも」と
願っていたが、朝日子はあの「生きよ けふも」の祈りが、やす香をいちばん<ruby><rb>苦しめる</rb>
<rt>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>と
分からないのかと激昂し、わたしたちに電話で怒鳴り込んできた。<ruby><rb>嗚呼</rb><
rt>あ<rk/>あ</rt></ruby>。
輸血を停止されて、どう肉腫のやす香が生きられよう。はっきりと、やす香は医療から、「これまで」とそこで見放された。病院はやす香を人為的に「死な
せ」る決断をし、親たちは承知したのだ。或いは、逆か。
余儀ない措置と、たぶん手遅れ「肉腫」の常識は教えているだろうが、やす香はどんなに「生きたかった」ろう。「くやしかった」ろう。どんなに、「死」の
手に鷲づかみにされながら「生」の側にいる者達に「嫉妬」していただろう…と、想う、可哀想に。
* われわれに漏らした最期の言葉を、わたしと妻と建日子とは、それぞれに聴き取った、すこしずつニュアンスを変えて。
朦朧とした眠りの渕から浮き上がったやす香の言葉を、或る者は、「やす香は生きているよ。死んでなんかいないよ」と聴いた。また「やす香は生きていた
い、死にたくない」と聴いた。また「やす香は、まだ生きているの、もう死んでいるの」という悲しい不安な声と聴いた。
いずれにしても、それは母朝日子がやす香の「本意」と伝えているゴアイサツとは、甚だかけ離れている。説得された出来合いの覚悟と、まだ十九歳の生命の
根から噴き出た「生・死」を問う熱い執着と不安の言葉と。うら若きやす香の本音は、あまりにハッキリしていて、朝日子の「陳述」は装ったうわべをすべって
いる。
やす香は「まだもっと生きてくれるよ」と、祖父も祖母も叔父も信じて、あの日二十四日月曜、保谷の家へ帰りついた。
だが、あの翌日から見舞いは断られ、そして「輸血停止の決定」があった。たまたまそれをまぢかに聴いていた、またそれを伝え聞いた、最期を伝え聞いたや
す香の知人・友人は、思わず「号泣」したと「mixi」に書いている。
* 人は、久しい文明の歴史を<ruby><rb>閲</rb><rt>けみ</rt>
</ruby>して、「死」を、幾らでも空疎に飾り立てる<ruby><rb>術</rb><
rt>すべ</rt></ruby>を覚えてきた。それを「手」として使った政治家達も、いやほどいた。偽善と欺瞞とのア
イサツを「みなさん」へ向けて達者に書き綴ることなど、すこし賢いものには容易に出来る。なんと気色の悪いことか。
「死なれた」という受け身の感傷だけでは、「死ぬ」という死の凄さとは、なかなか正しくつき合えない。関わりの深かったものほど、「死なせた」という痛悔
に根ざした「棘ある自責」をもつものだ。そのきつい棘を免れたいために、ワキへ置いておいて出来る、そんな白々しいアイサツが、世にあっていいのだろう
か。
我が娘ながら、わたしは、最期に、コンナモノを読まされたかと、気色が悪い。
妻は言う、朝日子と同じ気持ちでやす香の死を悲しめないのが悲しい、と。同感だ。
* それよりも、或る方の伝えてくださった、こういう朝日子の姿に、わたしも妻も、ああさぞやと、声を放ち泣いた。
* お葬儀のあとのことをお話しします。マイクロバスに乗るほどもない距離を走り、あっというまの野辺の送りとなりました。到着後はすぐに手はずも整っ
てしまい、神父やお坊さんでもいればそこで一緒にお経を唱えたりもするのでしょうが、係の人にうながされてただ黙〓。あれよあれよという間に、柩が乗った
ストレッチャーは運ばれていきました。
それまで決して人前では声を出して泣くことのなかった朝日子さんが、泣き崩れて、鉄の扉が閉まるのを止めようとするのを係の人にやんわりとかわされて、
また柱にもたれて泣いていらっしゃるのがつらかったです。一番つらい場面でした。 (やす香の知己)
* こういう悲しい場面を、わたしは実父を<ruby><rb>荼毘</rb><rt>だ<
rk/>び</rt></ruby>に付した日の異母妹たちにみて、忘れがたい。
どうか賢しらなパフォーマンスで、悲しみをうつろに<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろ
</rt></ruby>わないで。
喜怒哀楽をあるがままに解き放ちながら、それに囚われないように、わたしはしているよ。朝日子、お前が家に残していった、あのバグワンに、十年十余年、
一日も欠かさず教えられて。
* 差し迫った仕事に手がつかないのは、わたしの気が弱い。これはいけない。で、三日締め切りの分を書いた。読み返して電送する。二十五日締め切りの分
が、内容的に、気が張る。しかもわたしの他には決して書けない内容になる。
* お体の具合はいかがでしょうか。よそながら案じ申し上げております。
実は、私は、13年前に夫を癌でなくしました。
なくなった後ずっと、心に鍵をかけたような感じで、ほんとうにしみじみ偲ぶということを自ら避けて(避けざるを得ないような気持ちになって)きた気がし
ます。
先生の「死なれた」「死なせた」のお言葉で、また自分の心を掘り起こしています。
まさに「死なせた」思いが、心に鍵をかけさせているのだと改めて知りました。
仕事を辞めればよかった、もっと心のうちを聞いてあげたらよかった、もっと手厚く看護してあげられたのに・・。
まだまだ、今ここで言えないくやしい、わびなければいけない、微妙に入り組んだ気持ちがいっぱいあります。それを、明らかにすることの怖さ、情けなさ
が、心に蓋をしているのです。
これはだれに言うのでもなく、夫に、そして、この私への叱責であるのです。かなしいです。
友人の中には、しのぶ思いを、あふれるままに俳句や、短歌に表し、表現によって、悲しみや感謝、愛を昇華している人がいます。でも、私にはとうていでき
ません。
こんなことを<ruby><rb>他人様</rb><rt>ひ<rk/>と<
rk/>さま</rt></ruby>に向かっていうのも初めてです。
失礼をお許しくださいませ。
先生のお言葉で、散らかったまま蓋をしている心の中の片づけが、すこしできたようです。
でもこれは、このまま、私という入れ物に入れたまま、持って行くものだと思っています。
いろいろ気づかせてくださってありがとうございました。
どうぞ、お体おたいせつに。 一読者
* 八月二日 水
* 吉村昭さんが亡くなった、想いもよらなかった、驚いた。
太宰賞の第二回、事実上最初の受賞者であり、親切な方だった。作風などはあまりに違うが、わたしが最上徳内を岩波の「世界」に連載し始めると、こういう
良い参考書があるよと電話してくださる、そんな先輩であった。
まだわたしが第五回受賞後まもないころ、あれは桜桃忌の帰りであったか、こんなことを教えられた。
少し仕事に間があいたかなと思うと、足もとをみるように変に安いキワモノの仕事を頼んでくるところがありますが、そんなときこそ踏ん張って、大きな仕事
に打ち込んだ方がいいですよと。
これはだいじな助言だった。ありがたかった。
古風な美学の持ち主で、パソコンなどには全く見向きもしない人であった。
井の頭のお宅にも<ruby><rb>招</rb><rt>よ</rt><
/ruby>ばれたし、吉祥寺で鮨をご馳走になったこともある。
またかけがえない過去の一角を、死の手に切り取られてしまった。
鶴見和子さんも、亡くなった。惜しい人を。
* やす香の写真を大きくプリントして、家の何ケ所にも、飾る。わたしも妻も声を掛ける。
お見舞いには何がいいかなあ。
「梨ッ」
「お蜜柑!」
「桃もッ」と、元気な声で電話をよこした、やす香。
いいとも、梨も桃もあげよう。あの日は、もう<ruby><rb>最後</rb><rt>おしまい
</rt></ruby>ですねえと「タカノ」の店員が探し出してくれたが…もう、さすがに探し回らないと、蜜柑はないなあ。
落語に、夏に、冬の蜜柑をさがしまわるハナシ、あったなあ。
あんな、まだまだはんなりはじけたやす香の声を聴いた六月二十五日、日曜日。やす香はまだ「白血病」患者のはずだった。
「治る病気だから」と、あの日朝日子は母に向かいぶっきらぼうに呟いていた。
重大な誤診(=診断ちがい)と決したのは十日も「あとの祭り」だった。
* 散髪してきた。七十一のところを「六十九歳ぐらいに若く」刈りましたそうな。
* いま、戴いた本が文字通り山と積まれている。
文学は、鏡花全集と芹沢さんの『人間の運命』と『千夜一夜物語』を、読み物は久間十義氏の『聖ジェームズ病院』を、芯にしている。エッセイはモロワの
『英国史』、そして叢書世界史の『宋と元』、日本書紀の『持統紀』と旧約聖書の『サムエル前記』。バグワンだけは、繰り返し繰り返し籤取らずの別格。その
他に、この三倍も「出」を待っている。
読むだけでなく、書いている。からだは、めっきり衰えて今日も気息<ruby><rb>奄々</rb><
rt>えん<rk/>えん</rt></ruby>に近いけれど、頭は働いている。
* そのむかし、わたしと一緒に、紀伊国屋ホールで加藤剛演じる俳優座公演『心―わが愛』を観たすぐ後で、わたしの「身内」の説を、小学生のように誤解し
たいい大人が、人も驚くヒステリーを起こしたことがある。<ruby><rb>あんた</rb><
rt>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>の娘の亭主である俺が、なんで
<ruby><rb>あんた</rb><rt>〓<rk/>〓<rk/>〓
</rt></ruby>の「身内」じゃないんだ、バカにするなと言うわけだ。お笑いであった。
が、今度は、同じ男が、孫やす香の父親で青山学院大学の教授である男が、私の著書『死なれて・死なせて』の、その「死なせて」という意味が理解できず、
わたしたち老夫妻を「名誉毀損」で「告訴」しまた「訴訟」すると、大見得切ってメールと手紙で「警告」してきた。
我が子やす香に自分らは「死なれた」のに、それを「死なせた」ともいうのは、「殺した=殺人者」と言うのか、「謝罪文を書け」と言うてきたのである。
べつに講義をしてやる気はないが、わたしは、わたし自身孫やす香を「死なせた」悲しみのまま、いち早くすでに悲哀の仕事=mourning
workとして、「mixi」に、『死なれて・死なせて』を連載し、ほとほと心やりにしている。弘文堂から死の文化叢書の一冊として出版し、よく売れた本
である。
逆上する前に静かに読めば、哲学<ruby><rb>学</rb><rt>〓</rt>
</ruby>の押村高教授たるもの、「死なれて」「死なせて」の意味や意義の取れぬわけ、あるまいに。
人が、人を、「死なせ」るのは、いわば人間としての「存在」自体がなせる、避けがたい<ruby><rb>業<
/rb><rt>〓</rt></ruby>であり、下手人のように「殺す」わけではない。いわば一種の「世
界苦(Welt
Schmerz)」に類する不条理そのものである。大は戦争責任をはじめとし、ぬきさしならない身近な「愛の対象」に「死なれる」ときは、大なり小なり
「死なせた」という痛い悔いの湧くのが、状況からも、心理的にも、あたりまえなのであり、むしろそういう思いや苦悩を避けて持たないとしたら、その方がよ
ほど人間として鈍で、血の冷たい非人間的なことなのである。
本来はまずそこへ気づき、落ちこみ、苦しみ、藻〓いて、そこからやっと身や心を次へ働かせて行く。それがmourning
work=悲哀の仕事といわれ、精神医学の学術語でもある。むずかしいことだが、そこに生き残った者の「生ける誠意」があらわれる。にじみ出る。
だれも、しかし、そういうキツイ「自覚」には至りたくない。身も心も神経もそこから逸らして、そういう痛苦には「蓋をして」しまい、辛うじて息をつく。
無理からぬ事ではあるが、「死なれた」という受け身の被害感にのみ逃げこんで、「死なせた」根源苦に思い至らないようでは、「人間」は、その先を、より自
覚的に深く深くはとても「生きて」行けないのである。ちがうのですか?押村先生。
人とは、死なれ死なせて、その先へ真に「生きて」ゆく存在だ。ティーンの少女でも、分かるものには分かる。なんというお粗末な。
今後わたしの発信がながく停止されたときは、そういう娘夫婦の手で「牢屋」に入れられていると想って頂き、老夫婦とも命のある間は、紙・筆記具やおもし
ろい本の差し入れをよろしくお願いしておきましょう。
* 八月三日 木
* 今日は街へ出る。
* 『死なれて・死なせて』は、わたしのエッセイでは、今も広く読まれ、贈答にも用いられて、識語を求められたり、この本を契機に、いらい久しい知己の縁
にも多く恵まれたりする著書であるが、「死なせて」「死なせた」という意義の読み取れない大人、それが大学の哲学系の先生であったり国立大で哲学を専攻し
た卒業生主席であったりするから、迷惑する。
いましも、「mixi」の日記欄に公開再連載しているので、読んで下さっている人には、万々誤解など生じようもないのだが、オイオイ、哲学者たち、落ち
着いて読んでみたらどうかねと言っておく。本を読んでも理解できない個所は、(嗤われて平気なら、ご希望通り「日本ペンンクラブや日本文芸家協会へ公開質
問状」をだすのもご勝手だが、率直にわたしに会って尋ねたらどうですかとも言っておく。
* 秦恒平著『死なれて 死なせて』の跋(私語の刻)
こう書けば、一切足りていたのである。
「死なれるのは悲しい、死なせるのは、もっと辛い。しかし、だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。それに
してもこの悲しさや辛さは何なのか。すこしも悲しくない・辛くない死もあるというのに。愛があるゆえに、悲しく辛い、この別れ。愛とは、いったい何なの
か。」
これだけの事は、これだけでも、理解する人は十分にする。そのような別れを体験したり今まさに体験しつつある人ならば、まして痛いほど分っている。
だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。そのきっかけに、もし、この本が役にたつならどんなに嬉しいかと
思って書いた。
この本は、<ruby><rb>他人様</rb><rt>ひ<rk/>と<
rk/>さま</rt></ruby>の体験を伝聞し推量して、その断片を切り<ruby><
rb>接</rb><rt>は</rt></ruby>ぎして書いてみても、真実感に欠けてしま
う。それほどに個人的・私的な抜き差しならない体験なのである。「自分」の体験を根こそぎ大きく掘り起こすくらいにしないと、そんな自分の実感や体験をさ
え人に伝えるのは難しい。
「生まれて、死なれ・死なせて、」やっと人はほんとうに、「生きる・生きはじめる」のだと私は思ってきた。その意味でこの本は、知識を授けて済むといった
本では在りえない。自分の「人生」を、率直に顧みる以外の方法をもたなかった。言わでものこと、秘めておきたいことも、だから書いた。書くしかなかった。
ただ「私」の表現に加えて、いくつかの、誰にも比較的知られた「文学作品」との出会いを交ぜてみた。作品はその気になれば誰とでも共有できる。まるまる
他人の体験に、当て推量に首をつっこむことにはならないので、叙述を単調にしない工夫としても、やや重点をさだめ、そう数多くない古典や現代の作品につい
て深く関わってみた。文学を「私」が「読む」という、その行為もまた、私の場合「人生」であったのだから、たんにこの本のための方便ではなかった。
この初稿を脱稿した日、一九九一年、平成三年の師走二十一日に私は、五十六歳の誕生日をむかえた。まだまだ、この先、一心に生きて行かねばならない。
*
弘文堂本に、右の「あとがき」を書いたとき、わたしは、その十月一日付け東京工業大学のいわば「作家」教授に新任の辞令を受けたばかりで、ありがたいこ
とに授業は翌春四月の新学期からと言われていた。まる半年を用意にあてる余裕があった。
前から頼まれていたこの書下ろし原稿をきっちり一ヶ月で書いてしまい、そして四月の授業を開始のちょうどその頃、朝日新聞の読書欄に、この新刊は「著者
訪問」の大きな写真入りで紹介されていた。学生諸君に自己紹介のまえに、新聞や、テレビまでが、わたしを、この本とともに紹介してくれていた。ラッキー
だった。本もよく売れて版を重ねた。
人は、一度死ぬ。めったなことで二度は死なぬ。だが人に「死なれ・死なせ」ることは、なかなか一度二度では済まない。従来の「死」を扱った著作のおおか
たは「己(おの)が死」であった。いかに己れが死ぬるかを考えたものが多かった。わたしを訪問した朝日の記者は、他者の死を己れの体験として人生を考慮し
ていることに、「意表をつかれた」と話してくれた。「死なれる」「死なせる」は、「身内」観とともに、わたしに創作活動をつよく促した根本の主題であっ
た。
笑止なことに、親子とて、夫婦とて、親類・姻戚だからとて、容易には「身内」たり得ないと説くわたしの真意を、粗忽に聞き囓り、疎い親族や知人、遠くの
人たちから、お前は「非常識」に、親子、夫婦、同胞、親戚を「他人」扱いするのか、そんなヤツとは「こっちから関係を絶つ」と、手紙ひとつで一方的に通告
され罵倒されたりする。「倶に島に」「倶会一処」の誠意を頒ち持とうとは、端(はな)から思いもみないこういう努力の薄さから、どうして「死んでからも一
緒に暮らしたい」ほどの愛情が、真情が生まれよう。真の「身内」は、血や法律で、型の如く得られるものではあるまいに。
「身内」はラクな仲では有り得ないと、「生まれ」ながらにわたしは識って来た。
誤解を招きかねない、場合によって破壊的な猛毒も帯びた我が「身内」の説であるとは、さように現に承知しているが、また顧みて、どんなに世の「いわゆる
身内」が脆いものかは、夥しい実例が哀しいまで証言しつづけている。その一方、あまりに世の多くが、とくに若い人が「孤独」の毒に病み、不可能な愛を可能
にしたいと「真の身内」を渇望している。
よく見るがいい、人を深く感動させてきた小説や演劇・映画のすべては、わたしの謂う「身内」を達成したか、渇望したものだ。根源の主題は、愛や死のまだ
その「奥」にひそんだ、孤独からの脱却、真の「身内」への渇望だ。あなたは「そういう『身内』が欲しくありませんか。」わたしは「生まれ」てこのかたそん
な「身内」が欲しくて生きて来た、「死なれ・死なせ」ながらも。子猫のノコには平成七年夏に十九歳で死なれた。九十六歳の母は平成八年秋に死なせてしまっ
た。
この本の出たあと、読者から哀切な手紙をたくさん受け取った。ひとつひとつに心をこめて返事を書いた。いかに「悲哀の仕事=mourning
work」でこの世が満たされていることか。愛する伴侶に死なれ、痛苦に耐え兼ねて巷にさまよい、日々行きずりに男に身をまかせてきたという衝撃と涙の告
白もあった。この本の題がいかにも直截でギョッとしながら、大きな慰めや励ましを得たという便りが多くてほっとした。たくさんな方が、悲しみのさなかにあ
る知人や友人のため、この本を買って贈られていたことも知っている。
そういうふうにして、この湖(うみ)の本版『死なれて・死なせて』も読まれてゆくなら、恥ずかしい思いに堪えて書下ろした甲斐がある。どう悲しかろうと
何としても乗り越えて行ってもらうしかないのだから。
「湖の本」創刊十二年、桜桃忌にちょうど間に合ってお届けできる。折しも太宰治賞も復活されるようなことを報道で耳にした。いくらか幽霊に逢う気分でもあ
るが、いい作家、いい作品があらわれて欲しい。
さて四月半ば(一九九八)過ぎてから始めたホームページヘ、現在、新しい長編小説を、日々推敲を繰り返しつつ草稿の初稿そのものを、書き次いでいる、仮
の題を『寂しくても』とつけて。
脱稿できるかどうか保証のない新作を粗削りの段階、下書きの段階から公表するのは無謀なようだが、日ごろ無謀に生きているといえば言えるので、もうそん
な斟酌はなにもしない。流れるように流れて生きている。無責任にではない、「退蔵」の日を待って「心して」「一心に」流れに身をまかせている。(=この
『寂しくても』は、題をあらためて『お父さん、絵を描いてください』上下巻に完成している。)
この昨今、日本ペンクラブに「電子メディア対応研究会」設置を理事提案し承認された私の動機も、毎日新聞等に書き伝えた。(=二〇〇六年現在、この研究
会は、正式に「電子メディア委員会」及び「ペン電子文芸館」に発展している。) (1998.6.) 秦 恒平
* 思い出す。この単行本が本になって、いよいよ東工大で初授業の頃に、すでにわたしたち娘の両親、初孫やす香の祖父母は、婿殿から「離縁」され、以来十
余年、孫を奪われていたのだった。
* 同じその婿殿が、わたしが、自分の「私語」や「mixi日記」に、「死なせた」という言葉遣いを繰り返しているのは、やす香の親である押村高・朝日子
夫妻を「殺人者」だと侮辱したものであり、刑事と民事と双方で「訴え」ると言ってきたのだから、また呆れてしまっている。
それどころか日本ペンクラブやその他関係諸団体に「秦恒平誹謗の文書を配布する」とその文案まで送りつけてきた。
どうなってるの。
やす香の血を分けた祖父でも祖母でもあるわたしや妻も、何度も何度も、今日も、只今も、あのだいじな「やす香を手が届かないまま可哀想に死な<
ruby><rb>せた</rb><rt>〓<rk/>〓</rt><
/ruby>、死な<ruby><rb>せて</rb><rt>〓<rk/>〓
</rt></ruby>しまった、自分達にも何か出来ることが有ったはずなのに」と、悔しくも、泣いて、嘆いているというの
に。
* なさけない世の中である。片棒を担いではいないとも強弁できないところが、また、なさけない。
* 八月四日 金
* 平成十八年(二〇〇六)八月四日付け 娘押村朝日子が夫押村高(青山学院大学教員)と連名で、「e‐文庫・湖(umi)」の或る作品の掲載削除を求
め、削除しない場合、「刑事・民事の裁判」をもって父〓義父を告発すると、実印つきの手紙を寄越した。
掲載の趣意と真意は当初から欄外に明記していた。作品への或る程度の評価と共感や過褒ともいえる好意がなければ掲載し保存をはかるわけがなく、むろん本
人が掲載して欲しくないと言ってくれば外せばよいと考えていた。
いきなり「告発」とは、すさまじい。凄い時代になった。
なおこの作品を読んだ際の、先輩作家としての、父親としての驚喜と激励のことばは、秦の当時の「闇に言い置く 私語の刻」にくわしく、また大勢の読者も
それを知っている。突如「告発」されるに相当するものか、読んでくださればお分かりになる。
欄外の紹介を掲げておく。
「コスモのハイニ氏」 この小説は習作のまま作者押村朝日子が無署名で2004.9.21‐2005.7.27ブログに連載していたもの。インター
ネット上での無署名作品の盗難等難儀な事態をぜひ防ぐべく、当座、編集者(秦恒平・父・小説家)一存で此処に保管する。編輯者だけが知らないともいえる
が、これは類のない題材で、一種の創世神話かのように物語られている。「こすも」(原題)なるモノが、不思議の多くを担っていて、かなり壮大に推移し変異
してゆく。ほぼ十ケ月、一日の休むこともなくブログに細切れに毎日連載した、わずか二作目、事実上は一作目といえる処女長編の習作としては、行文にも大き
な破綻なく纏まり、身贔屓ぬきに言う、相当独自な長編小説一編に仕上げてある。作者は一九六〇生まれ。現在名は押村朝日子だが、従前の筆名のままに。編輯
者の長女である。2006.2.9 仮掲載
「ニコルが来るというので僕は」 この小説は習作のまま作者押村朝日子が無署名で 2005.8.18‐2006.1.8 ブログに連載していたも
の。インターネット上の作品盗難等の難儀を防ぐべく、当座、編輯者(秦恒平・父・小説家)の判断で此処に保管する。たわいなげなきれいごとのようでありな
がら、不思議な批評を底ぐらくはらんで終末部へ盛り上げてゆく。ブログに細切れに毎日連載した、わずか三作目の習作としては、行文に破綻なく纏めて独自の
小説一編に仕上げてある。作者(現在の本名は押村朝日子)は、編輯者の長女、仮に筆名としておく。 2006.2.9 仮掲載
「天元の桜」 この小説は、習作のまま作者(押村朝日子)が無署名で 2004.3.3‐2004.3.29 ブログに連載していたもの。作品の盗難等
の難儀を事前に防ぐべく、当座、此処に編輯者(秦恒平・父・小説家)一存で保管する。この作品はまだ小説の体裁を堅固に備えていず、小手調べの習作めいて
いるが、物語は囲碁の勝負ただ一局を芯に据え、巧んで運んであり、なかなか面白い。ブログに細切れに毎日連載した、作者最初の習作としては、一風ある準小
説の一編に仕上げてある。ないし仕上がる可能性がある。原題は「桜」である。これも編輯者の一存で仮題にしてある。 2006.2.9 仮掲載
* 朝日子本人の希望であるので、三作とも、「e‐文庫・湖(umi)」の読者へ割愛の事情を添えて作品は削除した。
* 押村家は加えて、この『生活と意見』(闇に言い置く私語の刻)の<ruby><rb>全部</rb><
rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>を削除せよと言ってきている。どういう根拠と権利があるのだろ
う。質と量(何万枚に及ぶだろう。)の両面から、厖大なわたしのそれこそ「著作」「創作」「日記文学」なのであるが。
* わたしたち夫婦は、この広い世間では「極めつきの少数派」であると自任している。広い世間の「常識」と称する多くとわたしたちは、いや私だけは、と妻
のために限定しておくが、かなり背馳している。多数決で勝ったことなどなかなか無い、総選挙もしかり、である。ハハハ。
わたしは、世間の常識に勝とうなどと、ちっとも願わない。気の低い常識とやらが、わたしからモノを奪い取りたいのなら、寄ってたかって、どうぞとも言わ
ないが、「勝手におしやす」と思っているし、自分は行けるところまで自分の思うままに行く。
その「思うまま」なるわたしのあらゆる思想が、この「ホームページ」に集中している。それを全く読まないで、見ないで、不当にあっさり型どおり全面断罪
したいというなら、「大いに不当」だと鳴らすけれども、また、きれいに人生一巻をしめくくれば済むことと思っている。
ホームページなんて、何であろう。
なるべく広い場所に出て議論出来るなら、わたしは手元に蓄えた豊富で正確な資料を駆使し、書けるだけ書き、話せる限り話して見たいのである、なるべく大
勢の視・聴者の前で。わたしに喪うモノといえば、経費と健康ないし命だけである。特別惜しいモノではない。
名誉なんて、問題でない。識る人は識ってくれている。十分だ。
* 本の、あとがきから先ず読むのはいけないことなのでしょうが、いつもご本が届くと、雀は、まず後ろをめくります。ごめんなさい。
日本ペンクラブが、国からお金をもらって活動しようかなどという動きには、驚きました。日本の骨がなくなってしまう。ショックです。主人に話したら絶句
して、「あの会長でも…か」と考え込んでしまいました。
昨日は日本将棋連盟が、名人戦の主催者を替えると報じられていましたでしょう。雀が「牛を馬に乗りかえてってわけネ」と言うと、「義理も道理も身共は知
らぬ。いずくも『ダイヤモンドに目が眩み』なのかァ」と。
先月、ぼんやりテレビを見ていたなかで、NHKが大岡昇平さんの生前のインタビューフィルムを15分ほどに編集して流していたのが印象に残っています
が、まさかペンクラブのそんな動きを知っての放送ではないでしょうね。だとしたら、えらい皮肉です。
以下のような内容でした。
会社勤めをしている人が反戦を叫んで仕事をクビになり、収入がなくなって生活できなくなるのはいけない。わたし(大岡氏)はそういう心配はない。だから
「ノー」と言える。文筆家は「ノー」と言える立場なんだから言わなくてはいけない。
戦争のことなど忘れて楽しく毎日を送るのが悪いなんて言わないよ、そうしたいんだから、僕だって。
だけど今だって“不沈空母”などとあの時代に戻るようなおそれがあるんだから。それがなくなったときは戦争のことを忘れて楽しく毎日を過ごすさ。
「ノー」と言えるンだから、われわれ文筆家は。
断乎、言っていかなくちゃ、言い続けていかなくちゃ。 囀雀
* 湖の本を送りだして以来、予想以上に大勢の読者が、日本ペンクラブに、文化庁(政府)の経費負担を見越して大きなイベントを企画している話題に強い反
応を示されていた。
ところが企画の関係者が大きな目玉にしてきた、台湾人監督の映画作品が、「台湾ノー」という理由で文化庁によりとりさげを要求されてしまい、六月理事会
では、誰ひとりの発言もないまま、致し方ないと容認されたのである。
わたしは、その場で、「政府資金によるペン活動」は、そもそもおかしい、まして、こういう、まさに目玉を刳りぬかれても黙って金主の政府に従うというの
は、他のペン活動、たとえば悪法成立への抗議や反対声明などの国民の信頼にも、わるく響くと憂慮を述べた。
七月理事会にわたしは余儀なく欠席したので、どうなったやら知らないでいるが、委員会で事務局長に聞いたかぎりでは、その後になにも変化はないとのこと
であった。
* 亡き大岡昇平さんのお話は、これこそが文学者の、文筆家の「通念」で「矜持」であったと、懐かしい。
大岡さんとは、ただならぬ仲のようにおもしろづく噂されていた亡き井上靖会長が、国際ペン大会を担当され「核と平和」問題をテーマに取り上げられたと
き、大岡さんはすぐさま井上さんに電話され、「自分は大賛成です、大会の成功を祈ります」と言ってこられ、井上さん頬を紅潮され喜んで居られた事実を、電
話のそばにいた三好徹さんが、何度も書いたり話されたりしている。わたしの編輯している「e‐文庫・湖(umi)」にも載せてもらっている。
文筆家には、気稟の清質最も尊ぶべきものを、清貧と表裏して堅持していた人達が多かった。
余儀ないこととはいえ、ペンの理事会でも予算と収支と、資金援助を自治体や企業に依存し依頼しようとする話題が、どうしても何割かを占めてくる。組織が
国際的にも国内的にも大きくなっているのだから維持のためには仕方がないとはいえ、ときどきウンザリする。まして、「政府のひも付きの金を頼む」のだけ
は、ぜひ、やめたい。
* 秦先生 夏らしい暑い日が続くようになりました。いかがお過ごしですか?
湖の本、ありがとうございました。自分の家庭環境や家族のことを思い出しながら、読みました。時に引き込まれ、時に読むのをためらいながら、自分が社会
に出るまで家族と過ごしていた時のことを思い出していました。
私の家族は父母、二人の妹、祖母、祖父の姉と最大七人もいて、にぎやかでした。息子の目から見て、母が一番苦労していたと思います。
父は自分のペースで物事をすすめる方でしたが、息子に対してはしっかりしたところを見せたかったのだと思います。
大学の頃の授業の中で、こんな短歌が出題されたのを良く覚えています。
『父として幼きものは見上げ居り ねがはくは<ruby><rb>金色</rb><rt>こん
<rk/>じき</rt></ruby>の(獅)子とうつれよ』 佐佐木幸綱
この短歌は自分から見た父のようだと、その日の挨拶に書きました。
大学へ上がるまで、父には山に連れて行ってもらったり、数学を教えてもらったりしました。
父は自分にとって負けたくない存在で、、私自身は、父の数学とは似ているけど違う道、化学を専攻しました。
父にも胸をはれる存在になったつもりではありましたが、父は父で、定年後も新しい道を進んでいるのには驚きです。今では1/3以上家を空け、国内海外を
仲間と一緒に飛び回っています。いつまでも元気なのはうれしいですが、自分の退職後も、父のような満足の行く生活が自分にできるかどうか疑問です。そのと
きには父の姿を思い浮かべながら、何か違う充実した生活ができるように努力したいと思っています。
本を読んでいて、妹二人のことも思い出しました。やはり難しい時期や、不安定な時期があり父は苦労していろいろと手を尽くしていました。息子とはちがう
甘やかしぶりに苦言を呈したこともありますが、育て方が両親の中で違っていたのだと今では思っています。
久々に、自分の半生を思い出してしまいました。また次回作品もお送りいただけることを楽しみにしております。
まだまだこれから暑い日々が続きますが、どうかお元気でいらしてください。 山男
* 久間十義さんの『聖ジェームズ病院』を読了、力作で面白かった。
人間の把握や造型は、またほのかな色模様など読み物風にやや型どおりであるが、ストーリーの組み立てや彫り込みはリアルを損じることなく、なによりも大
柄に堂々と書き込まれていて、いわば作品の姿勢や根性に対する信頼のもてるところがとても良かった。信頼し安心して物語の展開に踏み込んでつきあうことが
出来た。
医学書院の大冊『治療指針』『薬物指針』など、わたしにも大いに懐かしい出版物が参考文献の頭に挙げてあり、ああいう記載のこなし方としては、おみごと
と手を拍つ心地。「病院」「医師」「ナース」「関連企業」「癒着」「接待」等々、みーんな編集者時代に大なり小なり深くも浅くも見聞してきた。その忘れる
事なき体験も大いに手伝ったから、わたしだけの深読みの楽しみも加わっていたと言えば言える。
力の大きな書き手で、わたしは、なぜかこの人の本は「読みたい」と思い、何冊もねだるようにして貰ってきた。姿勢がおやすくないのと、最初に読んだ文学
作品の印象がよかったのである。
犯罪がらみのルポルタージュふう読み物であるけれど、とにかく堂々と、しかも細部の手が抜けずに佳い意味で説明的にも確かなため、これほどの大作でも筋
が混乱しない。そしてこの作家は、根に珍重すべき「優しさ」をいつも謙遜に蔵していると見え、好もしい。浮かれ調子に堕さない。
* 八月四日 つづき
* 返信に対し、以下のメールが届いたことを、日録に記録しておく。
* 秦恒平様
改悛の情なきことがはっきりと確認できました。
事務所からの指示により、これにてメール連絡は途絶とさせていただきます。 押村 高・朝日子
* こういう調子で「姻戚関係を絶ちます」と手紙でぶつけられた昔が、妙になつかしいくらいだ。
このメールと対比のために、押村からの提示に対し述べた、「改悛の情」なしとされるわたしの所感を、改めて此処に転記しておく。「改悛の情」などという
言葉、わたしたち老夫妻に対し娘の夫が此処へ使えるものだろうか。
「闇」の彼方にも、さぞ、声なき声のたくさんな感想があろう。
* 今日届いた押村高(娘の夫なので敬称は略している)のメールは、告発という意図で書かれたものゆえ、わたしも大切にこの日記に記録しておく権利が有ろ
う。
* 押村高 訴訟にさいして系争点となる、秦恒平氏による違法行為疑いの一覧を作成しました。
「生活と意見」 →プラィバシー侵害、侮辱、信用毀損、名誉毀損
「聖家族」 →私文書偽造、プラィバシー侵害、侮辱、信用毀損、名誉毀損
「コスモのハイニ氏」→著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)
「ニコルが来るというので僕は」→著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)
「天元の桜」 →著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)
なお、押村高と押村朝日子は違法行為者秦恒平氏の告訴に対する全権限を保留することを申し添えておきます。 押村高
* わたしの回答も記録する。
* 押村夫妻殿 はなはだ厳密と適切を欠いたアバウトな申し出です。
「生活と意見」は、多年にわたり数万枚にも及ぶ、著作者・創作者秦恒平の著作・創作物です。この申し出の一々の主体・主語が誰であるのか明記せず、この
申し出が、一々その全容中の、何年何月何日のどういう個所をさして言うのかすら指摘していないのは、甚だ<ruby><rb>杜
撰</rb><rt>ず<rk/>さん</rt></ruby>な申し出です。具体的な指
摘も、具体的な理由も付けずに、著作・創作物の全削除を、著作・創作者に請求するのは非礼・非常識です。
「聖家族」は、創作者秦恒平による「創作物」です。創作を紙や電子で出版するのは創作者の基本的に自由な権利です。
押村朝日子氏の三作品を掲載した編集者の善意の意図は、当初から掲載位置に大きく明示しています。今回朝日子氏の申し出を受けたので、「e‐文庫・湖
(umi)」読者へ、折角割愛に至った理由を書きのこして、すでに削除済みです。作家であり父でもある編集者の、作品に対する好意と善意の配慮は、むしろ
感謝されて自然です。 以上 06.08.04
* 秦さん。こんばんは。
孫娘のやす香さんの死の痛手から、到底癒えていないという時期であるのに、娘の朝日子さん夫妻から、こういう時期に、とんだ、「いちゃもん」で、さら
に、御心労が募るばかりと心配しています。
ご家族のなかでのことですから、他人は、口出ししない方が良いと思っておりますが、朝日子さんの作品掲載の削除は、別として、大兄の「生活と意見」
<ruby><rb>全</rb><rt>〓</rt></ruby>削除と
は、なんと非常識な申し出と吃驚しています。「凄い時代」というより、これは、かなり特殊で、凄い夫妻(あるいは、両親)ということでしょう。
押村高さんは、直接は存じ上げないけれど、藤原保信ゼミナールでは、私の何年もの後輩に当たるし、先年の藤原保信著作集刊行パーティでは、同じ会場に居
たかも知れません。すでに、数冊刊行された著作集の最新刊の「5巻」は、ことしの5月に刊行されていて、押村教授(青山学院大学)ら2人が、責任編集者で
したから、やす香さんの病状が不明なまま進行している時期、教授はご多忙だったのではないでしょうか。
藤原さんが、生きておられたら、教授夫妻の、このような言動は、到底肯定などしないと思います。
ことは、表現の自由の有り<ruby><rb>様</rb><rt>よう</rt>
</ruby>に関わりますから、私も看過できないという気持ちになりました。
それで、老婆心ながら、余計なことかも知れませんが、念のため、私の意志をお伝えしておこうと思った次第です。
秦文学については、私は、いかのように考えています。
複雑な出生の事情、貰い子に出された幼少年期の体験などから独特の「身内」観を形成し、その身内観を基底にしながら、「幻想的私小説」ともいうべき、独
自の文学空間を構築し、それが「死なれて、死なせて」という人生観に結晶して来た秦文学だけに、朝日子さん夫婦の言い分は、作家の「身内観、死生観」を理
解しないまま、名誉毀損などと、いちゃもんをつけているとしか言い様がないと思います。
秦恒平という作家生命からみても、提訴されれば、受けて立つしかないでしょう。
いざと言うときは、私の知り合いの、信頼できる弁護士さんを紹介しても良いと思っております。
そういうことには、ならないよう祈念しますが、一応、頭の隅に留めておいてください。 ペン会員
* 心強く感謝に堪えません。
憮然としていますが、こういうとき、たじたじしているのは嫌いです。踏み込んで向き合うつもりでいます。
私には 孫の非在がいまも悔しくて、悲しいのです。死なせて一週間もたたぬうちのこの騒ぎよう。ま、そんな子の親ですから、大きな事は言えませんなあ。
呵々
またお目に掛かります。
またお力添えをお願いすると思います、どうぞよろしく。 秦生
* 八月五日 土
* わたしは、自分が冷静な批評家だと思ったことはない、熱い批評家だと、鋭い批評家だと言われれば黙して低頭するけれど。
わたしは称賛するために批評を書きはじめた、最初の『谷崎潤一郎論』がそうであった。小説『清経入水』で選者満票を得て第五回太宰治賞をえたときも、あ
れはそもそも私にすれば一方的な「ご招待」受賞であっただけに、それはそれは嬉しかったけれども、筑摩書房から最初の評論集のメインに、書き下ろしの「谷
崎論」が入ったときも、匹敵するほど嬉しかった。
新聞小説の『少将滋幹の母』をはじめて貪り読んだ中学生いらいの、ほぼ同時に与謝野晶子の源氏物語に夢中で抱きついていらいの、いわば「本望」をそのと
き、一つ遂げたのであった。
失礼ながら平凡作といえども、本の活字に<ruby><rb>唇</rb><rt>くち<
/rt></ruby>をそえて蜜を吸うようにわたしは谷崎文学に親しみ、源氏物語などの古典も読んできた。それらへの思いを「批評」
として書かせてもらいたい為にも、先に「小説家」として世の評価をえられればいいなと願望していた。
わたしは幸運な書き手のひとりとして、文壇に、向こうから手を取って引っ張り上げられたのである。
しかし、わたしは冷静な批評家ではない、論旨は綿密に紡ぐけれども、熱くて烈しくて、ときに人を困惑させるのであるが、動揺したり惑乱したりしながらも
のを書くことはけっしてしない。その意味で、わたしはいつも批評家であるより、観察者なのである。
* この際、自分自身への観察や批評は棚上げさせてもらうが、わたしが自分の二人の子、姉朝日子、弟建日子を深く愛してきたことを疑う人は、ないと思う。
この「私語」をながく読んでいてくださるみなさんは、ことに、けっして疑われないであろう。もし疑う者のあるとすれば、それは厳しい観察の対象ともされて
きた、当の二人の子たち、であろうか。
朝日子にも建日子にも、わたしは、褒められないことを褒めたりしなかった、端的に、「バカか、お前」ともきめつけた。この口癖が建日子の処女作『推理小
説』の雪平夏見女刑事の後輩男刑事に対する口癖であったことは、読者はおぼえておられるだろう。
建日子はああいうふうに父親から「門出」していった。このごろ親爺の点が甘いよと心配しているそうだ。
朝日子は、親に、「どうせ捨てられたの」と人に漏らしていたそうだ。そのように思うであろう経緯もわたしはつぶさに「観察」してきた。朝日子のいいとこ
ろを懸命に観察して、のびるものなら延びて欲しいし、手伝えるものなら本当に手伝ってやりたかった。頼まれもしないのに朝日子の小説の習作を、時間と手間
を掛けて貧弱なブログの日記から、手元で一日分一日分再現し、「e‐文庫・湖(umi)」に仮におさめて作品の盗難を防いでおいたのも、編集者の目に触れ
てくれないかなあと願ったのも、それであった。滑稽なほどわたしは娘の習作を、この「私語」でも褒めてやり、「驚喜」したとも最近ものに書いている。
だが、そのわたしへの朝日子の反応は「告訴」「訴訟」であった。「著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)」だそうだ。
わたしの読者の中には、やす香をうしなった朝日子の「かなしみを想ってあげてください」と言ってくる人があり、むろん朝日子の悲しみに両親は涙を溢れさ
せてきた。そしてどうかトチ狂わないで、なんでやす香を吾々は「死なせてしまった」かの反省ももたなくてはと、此処にも書いてきた。
それに対しても、「死なせたとは何事か、殺人者と言うのか」と「告訴」「訴訟」に至るのである。ことばを深く心して読み込めなくては、とうていまともに
「ものを書いて」世に立てはしない。朝日子の口にすることばは、日頃から横柄で、なげやりなのが最大の欠点、人間的な欠点であった。
久しぶり、十四年ぶりに再会したわが娘に関して、わたしがこれまで少しも具体的な印象を語ろうとしなかったのは、娘が大学のころから、日々眉をひそめさ
せられた印象と、ほとんど違わないのに内心仰天したからだ。
娘やす香の死の初七日に満たず、親を法廷に訴えよう、と。
そんな事例が世にあるのかどうか、わたしは聞いたことがない。わたしの観察が不幸にしてピントを外れていなかったのが、いま、いちばん悲しい。
* 申し訳ありませんでした。まったく見当はずれなメールをお送りしたことを恥じています。
というより、想像を絶した 常識からは考えられない 子を死なせたばかりの親とは思えない事態が起きていることに 驚き 憤りを感じております。
世論が湖を支持することでしょう。有能な弁護士が法的に解決してくれることを祈っております。波
* こんなメールを戴いた。失礼ながら、これから本格に法廷で向き合うことになるのなら、「力」になって戴けるどんなことばにも励まされたい。
* 秦恒平 様 突然、そして初めてのメールにて失礼いたします。
不仕付けで大変申し訳ありません。不穏当なメールでしたら、削除下さい。
私は、*****と申します。
ご子息様の
『ラストプレゼント 〓〓娘と生きる最後の夏〓〓』に、涙した者でございます。
最後に「明日香さん」が亡くなる場面を描かなかった、そして、このドラマは登場人物が皆気持ちいい人だった。
私は、テレビドラマを見る習慣がなく、そんな私にとってラストプレゼントが始めて最初から最終話まで見たドラマでした。
そして、秦建日子様の世界観に魅せられたのです。
そんなだけの私が何してるのか。。。ご家族のことに、他人の私が口出すことでないと承知で申し上げます。
私は、秦恒平様の文字からは、「愛」そして信念を感じます。
随分と昔の文章も読ませて頂きましたが、厳しさと優しさ、そして、「思う気持ち」「思う姿勢」きちんと伝わってきました。
やす香さんとの再会。
やす香さんの誕生日。
その時の心弾んでらっしゃるご様子。
自分の子供への厳しい発言に隠されてるもの。
甘い言葉だけじゃなく、本心でぶつかっていくお姿。
そして、やす香さんを愛されていた。
なのに。
今は、投げられた「うんこ」をどう処理するのかでなく、
そのうんこを投げ返すのか?
手の汚れていない人が正しいわけでない。
うんこを握ったら、手を洗ってもなかなか臭い(うんこを握ってしまったという気持ちのコントロール)は消えないものです。
ただ、自分に信念がある限り、うんこを投げることも必要な時があると思うのですが、
申し訳ありません。私が熱くなってしまいました。
私は、貴方様が名誉毀損したとか、 おかしい!!
と、強く思っておりますことをお伝えしたいと思いメールしました。 紀
* ありがとうございます。
* いま、日本ペンクラブの事務局一同で「お花」が送られてきた。わたしのこの「私語」を、日ごとつぶさに読まれていて、この事態に、「ことばもありませ
ん」とメッセージが。
単簡にして適切なのに、微笑。
ありがとう、みなさん。 朱夏 お大切に。
われわれに「改悛の情」がないと決めつけてきた押村高教授にも、「事務所」とやらの人にも、落ち着いてわたしの書いてきたものを、「読んで」もらいた
い。
* 八月六日 日
* 娘夫婦婦押村高・朝日子の名儀で、実父・舅であるわたし(秦)を、民事・刑事の両方で告発するだけでなく、「日本ペンクラブ理事会、同人権委員会全
員、ペンクラブ会員で住所の判明した三十人、人権擁護局、DV・ハラスメント相談室ほか」への配布文書をつくった、配布されるのがいやなら「要求する総
て」を容れ、「謝罪せよ」という文書が届いた。
* 上の申し出は、ところが、本人である私へ届いたのではない。宛先は、私の妻と息子秦建日子への連名になっている。両人に、わたしの「英断」を説得・誘
導して欲しいというのである。
押村は、ここ数日の「秦氏の生活と意見」(=この「私語」)における記述は、「徹底して親から子への説得という形であり、1人の人格として扱われない朝
日子(=押村妻・秦の長女)の態度を硬化させるばかり」と書いている。
そういう受け取り方を、わたしは理解しないではない。が、朝日子は四十六歳の誕生日を迎えた「人格=大人」であり、わたしはいつも朝日子や押村高の「年
齢相応」ということに、期待をかけている。
* ところで、夫押村は、問題をいつ知れず、「朝日子と恒平」との、「娘と父」との「対決」模様に転じよう・すり替えて行こうとしている。ところが、わた
したちは、「娘朝日子との対決」など、十四年間の完全な没交渉を経てなお、一度として考えたことがない。十四年前、朝日子との間に何ら問題があって訣別し
たわけでなく、朝日子に心の門戸を閉ざしていたことは全くない。私たちには、無い。
わたしたちが、「孫やす香との再会」という嬉しさを〓みしめながらも、なおかつ許さなかったのは、十四年前にわれわれに加えた押村高の「言語道断な非
礼」だけである。
* 簡単に言えばこうである。
押村高が、学者である婿(自身)に対しては、「妻の実家が住居や生活費の経済援助をするのは常識」だと言い張った。地味な一作家のわれわれ家庭には、当
時九十前後の老父母・叔母三人の生活と介護をかかえ、そんな過大な余力はない。若い健康な夫婦が力をあわせて生活してほしいと断った。
押村は激昂し、そんな「非常識な妻の実家とは、姻戚関係を断つ」「頭をまるめ、膝をついてあやまれば、ゆるしてやる」と手紙を叩きつけてきた。むろん手
紙は他のさまざまな罵詈雑言の紙礫とともに保管して在る。
われわれは「非礼は聴(ゆる)さない」と、離縁された押村家とは関係を絶った。妻は離婚を望んだが、やす香という子供もいたし、夫婦は夫婦で生きよとわ
たしは朝日子の離婚を望まなかった。夫の方へと、娘の手を放したのである。正しい判断であったと思う。
この「非礼」が一切の原点。押村高はそこへ<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ
</rt></ruby>く立ち戻るべきだろう。
* 今日、押村高は、できることなら、妻である朝日子に、「実親を訴えるという手段を採らせたくはありません」と言ってきている。当たり前である。そんな
愚挙で恥をかくのが誰かはハッキリしている。
わたし自身はどうか。娘に無道に告訴されたら恥かしいと思うか。否である。恥ずかしいのは本人である。ただ、親としてそういう無残な真似はさせてやりた
くないと、父も、母も、心から願っている。それ以外に喪う何物もわれわれはもたない。
* そもそも朝日子は、父親や母親にもし不満があるのなら、自身望むように「一人の人格として」堂々単独ででも親に会い、言いたいことは向き合って正々と
言えばいい。
ところが、今回の「やす香の死」をめぐる経緯でも、両親へ、当然娘としてなすべき何一つの連絡・通知もせず、両親からの電話、メール等の問い合わせや、
朝日子への慰問・激励や見舞いにも只一度の返答もしてこないという、やす香危篤さなかにも終始幼稚な態度を一貫してきた。ついには、「もう見舞いに来ない
で」とも。
昔のわたしなら、そういう不行儀な娘には、「ばかか、お前」と一喝したが、朝日子はそれをしも「ハラスメント」「虐待」と言おうとしている。そしていき
なり「告訴」「訴訟」といい、誹謗文書を配布すると迫っている。国立の女子大で哲学を学び、「人格」を自負する四十六歳の母親たる所為かどうか、父や母へ
の礼として自然かどうか、朝日子は真っ先に胸に手をあて考えてみるとよい。
* 父であるわたしが「追いつめた」のだと、わたしに責めを迫る世間も、必ずあるであろう。その方があるいは多数であるやも知れない。
しかし一般論で律しがたいモノが、必ずこういう葛藤には<ruby><rb>蟠</rb><rt>わ
だかま</rt></ruby>っている。他人には分からない。そして創作者であるわたしには、創作者ゆえの道がある。たとえ牢
屋に入ろうと、創作者は、真実の動機や主題を殺して筆を折るなと、わたしは自身に律してきた。そう書いてきた。
* 妻もわたしも、娘朝日子を拒んで閉ざしている門口など、一つも持っていない。今度の入院中にも、娘の悲しみを想い胸を潰していたことは、気配りしたこ
とは、気遣ったことは、此の「闇に言い置く 私語」(この七月以前)のそれぞれの場所で、誰の眼にも容易に読み取れよう。
* 朝日子の、今回配布するという文書から、「朝日子の言葉」に少し聴いておく。当事者として親として当然の権利であり、朝日子には天地に恥じない内容な
のであろうから、わたしも率直に、この場の「闇に言い置き」ながら、読み直そうと思う。
* 私こと(押村高の妻=)朝日子は、幼児期より父秦恒平氏による様々な言葉の虐待やハラスメントを受けてまいりました。秦恒平氏主宰ホームページ
(http://www2s.biglobe.ne.jp/
〓hatak/)子ページ「生活と意見」(http://www2s.biglobe.ne.jp/〓7Ehatak/iken.htm)において、現在
でも言葉の暴力を受け続けております。
「我が娘ながら、コンナモノをよまされたかと、どうも気色が悪い」(手遅れで喪った子の通夜や葬儀を、「お祭りお祭り」と公言し、やす香の「人生最大の晴
れ舞台」だという異様な朝日子のブログでの公言には、仰天した。秦、)
「(朝日子の)こういう公言は意味不明、聞き苦しい」
「朝日子の陳述はうわべをすべっている」
しかも、私朝日子が某サイトに匿名で連載しておりました小説『こすも』『ニコルが来るというので僕は』『桜』を、高慢なコメントを付して無断で転載、改
編の上、作者を朝日子と開示して秦氏のホームページに掲載しました。これは明らかに著作権侵害に該当します。このような著作権感覚の秦氏が、日本ペンクラ
ブにおいて「言論表現委員会」に席を置いているのですから驚きです。
これらはほんの一例に過ぎませんが、秦恒平氏は親であることを笠に着て、私を籠のトリか何かのように扱い(表面上は「愛している」「抱きしめたい」を繰
り返します)、現在でも朝日子個人の独立した人格・人権を頑なに認めようとしません。著作権侵害を理由に同3編のホームページからの削除と謝罪を要求しま
したが、むしろ小説を護ってやったのだから「感謝されて自然」と述べており、いまだに私に対する謝罪の言葉を耳にすることはできません。
* 娘の生まれた頃からわたしは「書いて」きた。娘はいま四十半ばでやっと小説らしき習作を始めたばかり。そんなモノにも、父がどんなに好意的な批評や感
想を「私語」に書いてきたか、「娘さんがうらやましい」と言ってきた人もいた。それを「高慢」とは言ってくれたもので、言葉は心の苗、これは父としてかな
り恥ずかしい、娘のあらけた魂の透けたこんな言葉づかいが。
悪意で取り上げたどころか。ブログの無署名作品は盗難に遭いやすいという情報をわたしはプロからも早くに得ていた。娘のほぼ相当な作品を無事に保存でき
る一種の幸福感にも満たされ、こつこつとブログ日記から一日一日、一作一作に起こしていたことは、読者も見知っているし、妻もよく見知っている。妻も、初
めての娘の小説を喜んで読んでいた。
親ばかのわたしには、できることなら、作家秦<ruby><rb>建日子</rb><rt>たけ
<rk/>ひ<rk/>こ</rt></ruby>と、筆名秦<ruby><
rb>朝日子</rb><rt>あさ<rk/>ひ<rk/>こ</rt><
/ruby>とが、ともに行き方を異にした姉・弟創作者としてならんだら、どんなに心行くだろうという、夢は夢でしかないが、淡い夢があった。他の
場所でもその気持ちを「驚喜」という二字でわたしは書いている。朝日子への害意があると思う人がいたら、わたしは仰天する。
朝日子のブログ作品は弟建日子がわたしに教えてくれた。ごく自然にその時こう感じた、朝日子はわたしにも読んで欲しいのかなあと。どこが可笑しいだろ
う。異様だろう。高慢だろう。
さて、今日届いた朝日子たちの文書は、最後をこう結んでいる。
* 私共押村やす香の遺族は、なぜ愛娘を亡くした上に、このような悪質な「娘いびり、婿いびり」の仕打ちを受けなければならないのでしょうか。やす香の高
額医療費の負債が残った私共には、民事告訴を展開、貫徹するのに十分な余裕もございません。どうぞ、この場を借りて秦恒平氏の「文学表現に名を借りた言論
の自由の濫用」を告発する私共の自助防衛努力をお許し下さい。そして、どうぞ、皆様の温かいご支援、ご協力をお願いいたします。 押村朝日子・押村高
* わたしたちと朝日子とは、「十四年間も完全に没交渉・不通」であった。やす香が、親に秘して祖父母の家へ嬉々と顔を見せに来てくれるまで、その後も、
たぶんわたしの古稀自祝、歌集文庫「少年」を送った以外に、指一本押村家へ動かしていない。
正直なところ、わたしは朝日子との無用の接触を、「孫やす香との嬉しい再会」の半分も望んでこなかった。はっきり言って「謎(娘やす香の言)」の朝日子
とは、ま、用の無いかぎりは避けていたかった。言うまでもない、朝日子はかけがえない娘だし、いつも健康でいて欲しかったし、誕生日には欠かさず妻と二人
で赤飯を祝ってしんみり噂してきた。朝日子を愛していたか。むろん心から愛していたことは、何千何万遍と用いるわたしのパソコンパスワードが、娘の幼い昔
の愛らしい綽名にしてあるだけでも、分かる。何の「ハラスメント」か。
* 孫やす香を、「肉腫」という怖ろしい病気で急激にうしなうという悲嘆、それは六月二十二日のやす香の「mixi」告知で初めて知れた。
朝日子夫婦と十四年ぶりに接したのは、やす香が、病床から祖父母を呼んで、病院へ「逢いにきて」というメールや電話を寄越したからである。わたしと妻と
は、はるばる相模大野の北里大病院まででかけ、付随的に、十四年ぶりに朝日子と顔を合わせた。
こんなさなか、どうして「娘いびり・婿いびり」など出来たろう。押村とは一度の挨拶もなく、朝日子ともほとんど会話は無いまま、やす香は遠逝。
その最期すらも、吾々にはついに通知されず、通夜や告別の儀についても、何一つ押村夫妻は、やす香のまみいにすら告げてこなかった。妻は泣いていた。
そんなわたしたちも、「ああ、やす香を死な<ruby><rb>せて</rb><rt>〓<
rk/>〓</rt></ruby>しまった」と悔いて嘆いて責任を感じていたのに、その、「死な<
ruby><rb>せた</rb><rt>〓<rk/>〓</rt><
/ruby>」という言葉ひとつの意義を、はなから誤解し、両親がやす香を「<ruby><rb>殺した<
/rb><rt>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>と言うのか」
と大脱線し、それが「告訴」という逆上へ直結している。なんたる幼稚さ。父 秦恒平には、『死なれて死なせて』という、よく読まれた著書もあるのに。
「死なせた は 殺した か」と題し、「そんな単純なことじゃない」と、わたしは「mixi」日記に、「湖」署名で書いている。可能な人は参照されたい。
* 親子の行き違い、舅と婿との確執など、世間に掃いて捨てるほどあるが、およそ無意味に「子が親を告訴し侮辱しそれを世間に流布して回ろう」などという
例は、聞いたこともない。たいした夫でたいした妻だと、まさか褒めそやされないことは確実である。わたしの方は、四十六歳にもなる娘のこういう幼稚さを、
親として恥じる気もあるが、もうリッパに「一人格」扱いせよと言うぐらいであるからは、わたしが恥じいることはない。
わたしは、心行くまで書く、一人の物書きにすぎない。他は、わが妻の健康を心から気にかけるだけである。わたしの妻はやす香のことで格段にいま衰弱し疲
弊している。
* 今、わたしが敢えて、こういうふうに、恰も「うんこ」をつかんでいるのは、(此の場に「書く」のは)朝日子達がこの「私語」日録を「読んでいる」と分
かっているし、これより以外に、もう、「情理をわけて事態の愚かしさを伝える<ruby><rb>手段</rb>
<rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>」を、「冷静な再考を促す<ruby>
<rb>手段</rb><rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>」を
持たないからである。
* 八月<ruby><rb>十日</rb><rt>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>までに謝罪せよ、そうすればゆるすと娘夫婦の押村二人は、親・舅であるわたしに高飛車に言っている。その「英
断」を、妻と建日子の手で誘導して欲しいと、押村高は<ruby><rb>懇願</rb><rt>〓
<rk/>〓</rt></ruby>している。「英断」とは驚いた用語だ。
* 提案しておく。
あの原点の非礼へも立ち返り、両親、押村夫婦、弟建日子の五人で、落ち着いて話し合う「時機」だとわたしは考える。みな大人だ、介添えは要らない。
名誉毀損と誣告との長期間の相打ちが果てないことを、まさか希望していまい。それでもと言うなら、断乎踏み込んで受けて立つ。
メッセージが友人から届いている、「告訴」なんて不毛も不毛も、疲れ果て精根尽き果てて、それでも不毛と。しかも何も残らないと。
* わたしの妻から押村への返辞も返信した。
* 押村高様
1 この十四年来の私の思いは あのとき 他人を介さずに なぜ 私たちが「直接」話し合えなかったか ということです。
今こそ それが必要な時機と考えます。
その機会を持ちませんか。当然で最適の方法と信じます。これが 私の返辞の要点です。
2 「実の娘に実の親を訴えるなど させたくない」とのお考え 当然です。よくわかります。
夫であるあなたが、妻朝日子の「人格」のためにも、「実親を告訴」など とうてい 情理に叶うことでないと 心から説得・誘導なさるのが 当然のことと
考えます。
私は 夫である秦と よくよく話し合い、そして歩調を揃えます。娘が父を告訴するという非道を娘にさせたい母も、親も、この世界にはいないと信じていま
す。
3 お尋ねします。「告発」の原告は、あなたなのか 朝日子なのか 夫妻連名なのか。それによりわたしたちの考え方も岐れて来ざるを得ません。
4 提案します。余人をまじえず、「両親、夫妻、秦建日子」が同座し、落ち着いて「何が問題であるのか」を話し合う。
この際それが 理性ある大人同士の踏むべき順序だと思います。
建日子も「ぜひ参加したい」と言っています。 06.08.06 署名
* 「条件」の、やたらついた押村の返辞が届いたそうだ。わたしは見ていない。妻は重ねて、こう返辞しましたという。
* 押村高 様
1 先に送ったのは、私の返辞です。すでに夫と話し合った結果ではありません。
2 「話し合い」は、無条件に始めるのでなければ話し合いにならないと思います。
3 朝日子の、やす香入院以降のわれわれ両親への態度は、実に非礼でした。この際、朝日子の気持ちを、朝日子の言葉で聴いて置きたいのです。あの陳情書
のような文書に書いていた、あのような父を罵る言葉で、少女時代の両親との家庭生活全面を泥足で踏みつけ、父に対しても母に対しても、朝日子は恥ずかしく
ないのですか。
わたしは、烈しく怒っています。父に向かい、こと文学にかかわって「高慢」などと言えるどんな資格があるのか、魂の荒廃を感じます。
06.08.06‐2 迪子
* 八月六日 つづき
* とびこんで来た下記のメールは、「朝日子様」とあるように、わたしに宛てたものでなく、いきなり娘朝日子に宛てられていて、「ぜひ読んでほしい」とあ
る。むろん、わたしが頼んで書いて貰ったものではない。思いあまって書かれたモノのようである。
天才だの名作だのと少し仰々しくて閉口し照れるところが多いが、また不用意に少し語弊を生じるところもあり、その辺は斟酌してあるが、つよい「お気持
ち」であるから、思案の末、此処へ置く。朝日子に直送の手段はない、しかもこの「闇の私語」にはつねづね娘は注目しているようだから、「伝える」には恰好
であろう。
このメールには、以前に貰っている東工大の卒業生からのメールが一部引かれていて、その個所は、わたしにも感銘があった。
* 朝日子さま
初めて書き込みさせていただきます。私は朝日子さまより少し年上で、似た年頃の娘のいる母親です。
ネットで、やす香さまの発病からお亡くなりになるまでの経緯を毎日胸を痛めながら読ませていただいておりました。やす香さまのご逝去、衷心よりお悔やみ
申し上げます。
やす香さまのご葬儀の日、七月二十九日は隅田川の花火大会でした。私は花火大会に出かけるという娘に浴衣を着付けながら、旅立たれたやす香さまに昨年の
夏祭りの時の浴衣を着せたという朝日子さまの記述を思い出し、涙がとまらなくなりました。
昨年の夏には元気に浴衣を着ていたやす香さまの身体に、その同じ浴衣を着せる母親の心はどのようなものかという想いで、泣けて泣けてどうにもなりません
でした。生きている娘に浴衣を着せて花火大会に送り出すことのできる母親と、柩の中の娘に浴衣を着せる母親の運命は、あまりにちがいます。なぜやす香さま
が天に選ばれたのかと心から悲しみました。
一度もお会いしたことのない朝日子さまですのに、やす香さまのご病状に一喜一憂して夜も安らかには眠れぬほど心配していたのは、私がお父上の「湖の本」
の愛読者であるという以外の理由はないでしょう。
「朝日子」というお名前は秦恒平の作品の中に宝石のように散りばめられてきました。朝日子さまは作家秦恒平の掌中の珠でした。ですから、朝日子さまのこと
はどうしても近しい人に思えてならなかったのです。
本日お父様のホームページを拝見し、朝日子さまがそのお父上を「告訴」なさるおつもりということを知りました。ご家族の問題に部外者が立ち入るのは失礼
と承知で、私の考えを書くことをお許しください。
朝日子さまが告訴という強硬な手段にいたったお気持ちは想像できます。朝日子さま以上にやす香さまを愛していた人間は世界のどこにもいないのに、お父様
に「目が届いていなかった」と言葉にされ、ご自分のせいでやす香さまが手遅れになったと言われたとお感じになったのでしょう。世界の誰よりも「死なせた」
くなかった娘を、死なせたと言われて心底お怒りになったのだと推察します。朝日子さまの気も狂わんばかりのお悲しみと悔しさは、察するにあまりあり言葉も
ありません。
そのお父様の指摘について、私はこう考えています。
病気の診断が手遅れになったことは、どうしようもなかったこととはいえ、母親として手落ちの部分があったのは事実で、たしかにお父様の指摘は正しい。で
も、この時期に、やす香さまが亡くなってすぐに、朝日子さまに告げられたのはどんなにおつらかったでしょうと思います。
ふつうの父親であれば、もう少し時期をみて言うのでしょうが、朝日子さまのお父様は作家です。それも文学史に残るような大きなお仕事をなさる天才的な方
です。一本のマッチを見ただけで、すぐに山火事を予言してしまう。人よりずっと先を見て、書いてしまうそういう定めの方なのです。娘と孫の不幸から、人間
存在そのものの痛苦に目が開け、書かずにはいられない<ruby><rb>業</rb><rt>ごう
</rt></ruby>をお持ちなのです。
書かれた朝日子さまの無念のお気持ちは理解できますが、これは天才を父親にもった子どもの幸福でもあり不幸でもあるのだと、そう申し上げるしかありませ
ん。
朝日子さまがお父様に対して告訴するまで過激に反応なさる必要はないのです。なぜなら、お父様の書かれたものを読んだ読者は、朝日子さまが悪かったとは
決して読まず、我が身のこととして読むからです。自分のいたらなさ、どうしても愛する者を「死なせて」しまわずにいられない人間を想い、わがこととして、
身震いせずにはいられないのです。
朝日子さまは、次の「私語の刻」に掲載されたメールをお読みでしょうか。このメールは多くの読者の素直な感想を「代表」していると思います。お父様の
「私語の刻」の読者は、きちんと読むべきことを読んでいます。
*
秦先生 あまりのことに、あまりの事の早さに、先生のホームページを読んだ時に、手足がさっとしびれて凍りつきました。いくら若い方とは言え、こんな
にも早いものとはとても予想できず、涙が止まらず・・・。
身内の若い方を見送るのは、どんなにお辛いかと、先生の悔やみきれない思いを遠くから感じております。
私にもやす香さんと同じ年の姪がおります。亡くなった姪ではなく、一浪して今年大学生になった姪です。その姪と比べても、やす香さんのお心の優しさ、お
健やかさはすぐれて高いものと思っておりましたので、本当に惜しい方を失ってしまった、と一度もお目にかかった事のない私ですら喪失感にさいなまれていま
す。
ただ、先生に一つだけ、お伝えしたくてメールしております。
娘を育てている今、毎日が試行錯誤の連続ですが、その中で、子どもがいくつになっても「目を離してはいけない」ということを、私はやす香さんに教えて頂
きました。
娘はいま5歳。得意なものと不得意なものが少しずつあらわれています。世の中の風潮は、「個性を大切に」ということで得意なものを伸ばすことに重点がお
かれていますが、親としては「それだけではいけないのだ」と最近の娘を見つつ反省しているところでした。
もちろん、最終的には個性を伸ばしていくことでこそ、人は生きるすべを手に入れるのですが、その土台として、しっかりとした人間としてのいしずえを築く
過程では、不得意な部分こそ、親が必死で見つけ出ししらみつぶしに穴埋めし、頑強な基礎をつくらなければならないのだと、最近の娘には実に口うるさい母親
になっています。手まめ口まめに子どもの欠点を見つけ出し、そこを訂正していくのは、褒めて育てることよりも、はるかに心身のエネルギーを消耗します。こ
の口うるささ、いったいいつまで続ければいいのか、と、こちらのほうが気の遠くなっていた毎日でした。高校生になったら、いやその前までで、などと考えて
いましたが、たとえ成人を目前にしても、口は出さずとも「目は離してはいけない」のだと、やす香さんのことに泣きながら、肝に銘じています。
自らを振り返っても、大学生にもなると親などに口は出されたくありませんでしたし、自分で何でもできるように思っていました。確かに、そのくらいの年に
なると、普通の大人よりはるかに優秀な方もいらっしゃいます。けれど、若者が逆立ちしてもかなわない部分、「それは経験値の部分」です。スケジューリング
の仕方、健康管理、世間付き合い、そんな部分では、やはり親が口を出し続けなければならないのだ、と。
思えば、口うるさい心配性な我が母親は、先生と同年同月の生まれです。戦争の経験のある世代の方達は、小さなサインへの敏感な対応に長けていらっしゃる
のかもしれません。私たち姉妹三人は、母のその口うるささに実に辟易していましたが、今思うと、親としてのあり方の「一つの正解」であったのかもしれませ
ん。ただ、あまりにも口うるさすぎた母に抵抗して家を飛び出した姉は、結局幸せを上手に〓みきれずに終わりました。あれから三回目の夏になります。
口うるさく、けれど子どもの幸福をつぶさず、そのあたりの加減の仕方がこれからの私の親としての課題だと思っています。
こういう形で、いのちについて、人育てについて「考える機会」を与えて下さったやす香さん、そしてそれを包み隠さずに報告して下さっていたご家族の皆
様、特にお母様に心から感謝しています。やす香さんから教えて頂いたたくさんのこと、決してわすれません。もちろん、やす香さんご自身についても。一度も
お目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決してわすれません。よいお嬢さんに育て上げられたお
母様にも深く敬意を覚えます。
なぜか不思議なほど「奇跡が起きる」と信じていました・・・。言っても詮のないことですが。
お書きした内容に、大変失礼もあると思いますが、お許し下さい。ただただ、やす香さんに教えて頂いたことを忘れません、決して、ということだけをお伝え
したかったのですが、上手に表現できず、お気にさわる書き方になっていましたら申し訳ありません。 東工大 卒業生
*
私はとくに、この部分を強調します。
もちろん、やす香さんご自身についても。一度もお目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決し
てわすれません。よいお嬢さんに育て上げられたお母様にも深く敬意を覚えます。
これは私の同感することです。朝日子さまはよいお嬢様をお育てになったことを誇っていいのです。「私語」の読者は秦先生の「死なせた」という言葉の奥に
「朝日子は、ここまでよい娘を育てたのに」という嘆きをもきちんと読み取っているのです。一体どこの誰が、朝日子さまを殺人者で、いい加減な母親だったな
んて思うのでしょうか。そんなことは誰一人として思いません。
母親というのはどんなに愛が深く、注意深くしていても、ふっと子どもから目を離してしまうことはあるものです。私とて例外ではありません。恥をしのんで
申します。
娘がまだ幼稚園に入る前のことです。友人の車に娘と一緒に乗っていました。その時に、もう一人の友人が先に車を降り、半ドアになっていました。誰も気づ
かぬまま、車が発進しました。車が幹線道路に右折した瞬間、半ドアだった扉が大きく開き、娘が車から転げ落ちました。友人は慌てて急ブレーキを踏みました
が、一瞬のことで私は娘の服の一部を〓むのに精一杯。放り出された娘は道路に両手をつきました。私がそのまま服を引っ張って車に戻しました。心臓が破裂し
そうにパニックになりました。この時、他の車が通っていたら、娘は即死だったでしょう。大きな道路ですから、車が通らなかったのは奇跡です。当時はチャイ
ルドシートは義務化されていませんでしたし、友人の車であればついていないのは当然でした。この危険な事態への責任はすべて母親の私にあります。
子どもが無事に生きているというのは親の愛の深さに関係なく、運に左右されるものです。私はたまたま好運に恵まれたので子どもが生きているのです。紙一
重の差でした。断言してもよいですが、子どもが自分の落ち度で死んでいたかもしれない経験のない母親などいないと思います。
病気についても、運不運はあります。肉腫のようなごく稀な最悪の病気に、まさか自分の子どもがかかるなど予想できる親は少ないでしょう。お父様の「死な
せた」という意味は、すべての人間に対してのものと、そうとしか読まれないと思います。
人間は自分の手にしているものの価値をなかなか理解できず、信じられないものです。
朝日子さまは、これ以上ないほどの父親の愛を受けながら、ご自分がそれを手にしていないと思い込んでいらっしゃるようです。「親に、どうせ捨てられたの
だと人に漏らしていたそうだ」というご心境は、『聖家族』を読んである程度は想像していますが、私はこの作品を読んで、これほどの娘への愛を描いた作品は
ないだろうと感じていました。
秦先生の作品を読んで痛感することは、娘の朝日子さまをいかに深く愛されているかということです。その愛はときには手放しの、読んでいて気恥ずかしいほ
どの賛美にもなりますし、滅入るほど峻烈な批判にもなります。しかし、そのどちらも深い愛がなければ存在しないことはたしかです。
朝日子さまがブログに書いていらした『コスモのハイニ氏』などの小説を読まれた時のお父様のお喜びのごようすに、読者として羨望を感じずにはいられませ
んでした。文学への志はあっても才能に恵まれないために読者にしかなれない私のようなものにとって、秦恒平にここまで認められる才能はただものではありま
せん。「e文庫」に掲載されている朝日子さまの詩は素晴らしく、私は大好きです。朝日子さまは可能性に満ちた方です。
問題の『聖家族』ですが、一読して私がまず感じたのは、凄まじいまでの作品、名作であるということでした。モデルがどうのこうのとか事実かどうかなどと
いう興味でなく、人間の真実に到達する恐るべき身の毛もよだつ作品だと思いました。
この作品の中のご家族の姿が、そのまま秦家の姿とは思いません。当然これはフィクションとして読むものです。
このフィクションに描かれているのはある人格障害(現実にはたまにいるタイプ)の男を夫とした夏生という不運な娘と、その人格障害に真っ向からぶつかっ
てどうにもならない両親の姿です。
奥野家には家族愛溢れて、父親にはできないはずの母親の役までこなそうとするスーパーマン的父親と、理想の妻であるがために(そう思われて当然の美徳の
持ち主ですが)、夫と思考も行動も同化している母がいます。しかし、子どもの利益のために動こうとするしたたかな母親が決定的に欠けています。
婿の人格障害は治らない。治せない。父親は正義あるいは信念を生きるしかない生き物でこれも変えようがない。それを埋めるとしたら、母親の狡猾さしかな
いのに、その存在がない。妻の美徳など棄てた狡猾な母親なら、夫に過保護にされることなく修羅場をくぐってきた母親なら、父親に内緒で人格障害の婿に土下
座してでも、娘との縁を保とうとするでしょう。そうして父親の立場と娘の利益を守るのです。汚れ役です。
内心で婿に舌を出しながら、異常に言語道断な婿と折り合いをつけ、大切な娘の手を放さない。他に娘と切れない方法がないなら何でもする。そういう存在が
良くも悪くも母親です。母親が父親と同じ正義に生きたら、娘はどうしようもありません。この作品に描かれた娘は、私の目にはじつに気の毒な、それでも父親
に熱烈に愛された娘として、キャラクターが生きています。父親に抗いながら、不思議な魅力を湛えています。
どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されているというフランスの諺がありますが、『聖家族』はこの髑髏を見事に描き切った作品です。お父様の一代表作にもな
るでしょう。
この『聖家族』と『生活と意見』が、朝日子さまの告訴の対象となるようです。
この告訴は愚かしいの一言です。
まず、押村家は勝てないと思います。常識でも法律でも。
そして、万が一勝ったとしても、百年先には負けています。必ず負けます。この世からお父様の著作を抹殺することは不可能です。名誉を棄損した、された、
というのは当事者が生存している間でのことで、子孫に関係はありません。秦恒平が天才である以上、そして『聖家族』も『生活と意見』も疑うことのない名作
である以上、必ず後世には復権して作品として正しい評価を受けることになります。モデルがどうのなど問題になりません。
むしろ告訴の記録があることで、これは本当の話なのだと見られてしまうでしょう。汚名が後々まで残ることになります。
朝日子さまは、お父様をご自分の父親としてしかみていらっしゃらないようです。ご自分の私有の人間だと勘違いなさっています。秦恒平は娘一人の父ではな
く、多くの人の宝物です。娘の願うようには書いてくれなくて当然です。天才は周囲を泣かせますが、それ以上のものを世界に与えてもくれるのです。普通の家
庭でさえ、子どもは大なり小なり親に迷惑を受けるものですから、天才であればなおのこと。どうか、お父様が天才だということを覚悟してください。同じよう
に愛らしかったやす香さまも母親一人のものではありません。視野を狭く判断しては道を踏み違えます。目を覚ましてください。
そもそも、告訴することは逆効果になりませんか。押村家を傷つけませんか。
あれは小説だと流せばそれで済む話なのに、しかもコアなファンが読んでいるだけの作品ですのに、告訴に至れば急激に世間の注目を浴び、作品は益々広く人
に読まれ、そして面白ずくの噂になるだけです。たとえ勝利を手にしても、世間はあれは嘘の話だとは思わないでしょう。告訴は、自分がモデルだとかえって大
宣伝するようなものです。
告訴して勝利したとしても、朝日子さまに得るものがありますか。
お父様を社会的に抹殺したいというのが目的なのでしょうか。書くことにしか生きる場所のないお父様の場所を奪うことが目的ですか。そうすれば復讐がかな
うのですか。気が晴れますか。
あれほどの愛をもって育ててくれた父親を切り倒すのですから、同じだけの傷はご自身にも致命的に及ぶでしょう。お父様を葬ることはご自分を葬ることでも
あります。
復讐も憎しみも愛の変形です。どうぞご自由になさったらいいと思います。しかし、告訴などという方法は、ただただお金と時間の無駄でしかありません。膨
大な人生の浪費です。
朝日子さまは意味のない告訴で、ご自分の人生を投げやりな悲劇で終わらせるおつもりですか。親に棄てられ、娘に死なれたかわいそうな人間としてこれから
捨て鉢に生きるのですか。そんな甘えが許されますか。もっと生きたいと血を吐く思いで願っていらしたに違いないやす香さまは、そんな母親の行動を喜びます
か。
朝日子さまは、やす香さまがなぜ母親の誕生日にお亡くなりになったかわかりますか。この世に起きるすべてのことに偶然はありません。お母様の誕生日に逝
かれたのは必然だったと私は思います。
やす香さまは、母親であるあなたに最後の大きな大きなお誕生日プレゼントをしたのです。若くして逝くご自分の残りの寿命と果てしない可能性と才能を朝日
子さまに託されたのです。新しい命をお母様にプレゼントなさったのです。今こそ作家になってと。
書いて生きてください。作家になってください。才能はお父様の太鼓判です。作品もあります。デビューするに足るコネでさえ充分です。父親が秦恒平で弟が
秦建日子なのですから。
もし、お父様に復讐なさるのなら、どうぞご自身の作品で打ち倒してください。呪ってください。それが真実のものなら、必ず人の心を揺り動かします。お父
様を呻かせる作品を書いてください。あなたほどの才能なら書けるはずです。
今すぐなさるべきことはやす香さまの闘病について書くことでなくてなんでしょう。告訴などしている暇がありますか。やす香さまはおじいさまが訴えられる
ことをおよろこびになりません。やす香さまが祖父母に逢いたい、逢い続けたいと思った意味を想像してみてください。
朝日子さまと夫である押村さまは別の人格でありましょう。夫婦一緒の自暴自棄の怨みの告訴など、恐ろしく不毛です。愚行です。
朝日子さまらしく、ご自身を輝かせて、この素晴らしいお名前のように生きてください。あなたは素敵な人です。人生はこれからではありませんか。
天才の娘に生まれて、本当に大変だと思います。でも、これも必然のこと。死後も名前の残る存在として生きる幸せがある以上、並大抵でないご苦労も背負わ
なければならないのはしかたありません。
どうぞやす香さまのご不幸から、なんとしても幸福を〓み取ってください。幸せになってください。奮い立って書いてください。やす香さまのために。
朝日子さまの作品を読ませていただく日を楽しみに、凡人の娘で母親である私は生きてまいります。どうぞ朝日子さまご自身のために、告訴はおやめくださ
い。
とても長くなってしまいました。凡女ゆえに、たどたどしく要領悪く書いてしまい申し訳ありませんでした。どうぞ、お元気で。お元気で書いて、生きて、お
幸せにと祈ります。 秦文学の一読者
* 本日私語を読ませていただいて、心底驚きました。父と娘の間がここまで惨状を呈するとは想像もしていませんでした。
朝日子さんは悲しみのあまり正気を失っていらっしゃるのだと思います。
愛してやまないやす香さんを理不尽な病魔に奪われた憤りや悲しみや悔しさ、そして強い怨みを、まったく見当違いの方法で晴らそうとしているようです。
あってはならないことです。これほど<ruby><rb>杜撰</rb><rt>ず<
rk/>さん</rt></ruby>で無意味な告訴というのは信じがたい思いです。
看病の日々から告別式がすんだばかりです。極度の興奮と錯乱状態のまま、思慮もなくご主人様にひきずられて告訴などという、ものすごい事態になってし
まったとしか思えません。
だれの目にもばかげた、こんな父を娘が告訴などということにならないよう、必死にお祈りいたします。何より、このような事態はお亡くなりになったやす香
さんのお望みになることではないでしょう。
万が一、訴訟になられた時には、なるべく格上の弁護士をお頼みください。弁護士間のランクの上下が訴訟の行く末を左右するそうです。また知り合いが遺産
相続で揉めたときに、やくざ弁護士がからんでひどいことになりました。どうか、細心のご配慮を。
ミクシィのやす香さんの日記は保存されていますか。私などが言うまでもないことですが、意図的な改竄などありませんように処置をとられたほうがよいと思
います。
以上、とり急ぎ申し上げた上で、私にできることはないかと考えています。 青山
* 八月七日 月
* 妻が倒れた。娘朝日子たちへの、血の退くほど、身震いするほどの烈しい嫌悪感と拒否感で、心身違和と不眠へ突き落とされている。
* わたしは決意した。いま何が大事か。
一つ 妻の命。絶対に守らねばならぬ。
二つ やす香の死をわたしの手法で小説として書きのこすこと。
三つ 実の娘に 実の父を告訴するという非道をさせてはならぬこと。魂の荒廃以外の何でもなく、それを放置するのは、娘の、もはや無きに等しい人格を、
さらに死なせることになる。親として、しのびない。それぐらいなら、わたしが自身を否定したい。残した朝日子への最期の愛の一滴を、斯く、つかい果たして
おく。
わたしは、自分のホームページをすべて閉じようと思う。
* 裁判など本当に不毛です。
朝日子さんに宛てた「一読者」からの文章、ほぼすべて納得のいくものでした。
わたしも思い切り書いて伝えたいことがありますが、何よりも何よりも今は奥様とともどもの健康を第一に、この夏の暑さを乗り越えられますように。 鳶
* 八月七日 つづき
* こんにちは。私は中学3年生の者です。 山形県
秦恒平さん、お願いがあります。ホームページを閉じるのだけはやめてください。
私の父は10年以上も秦さんのホームページの愛読者です。
その父は涙をためながら、いつも私に秦さんの生き方やこの度永眠なされたやす香さんのことをたくさん話してくれました。
そして、毎回私に言うのです。
「秦恒平さんの日記を見るのが、お父さんの日課なんだよ。
お経をあげるのと同じで、1年365日いつも見ているんだ。」
そんな父はとても生き生きとしていています。
それなのに、ホームページを閉じられては、そんな父を見ることはできなくなってしまいます。
ですからお願いします。閉じないでください。
また、私としても秦さんの考え方は正しいことだと思っています。
何も分からない子どもが何を言うかと思うかもしれませんが、娘さんは、自分を責めることに恐怖を感じているのではないでしょうか。
だから実の父を告訴するなどという、考えを起こしたのかもしれないと、私は思います。
世間もしらない子供がこのような発言をしてしまいすみません。
でも、これが私の思っていることです。
「ホームページを閉じる」ということ、もう一度考え直していただけないでしょうか。お願いします。
* お父上は禅僧であられる。むろんお目にかかったことはない。ご子息のメールにも御礼を申します。
* 八月八日 火
* 奇妙にも押村高は、「告訴」「訴訟」の被告席に私を座らせる気でいながら、メールでの掛け合いには妻と建日子の名宛てで言い寄越し、二人から夫であり
父である私に「謝罪等」を説得誘導してほしいと懇願していた。妻は一蹴し、余人をまじえない無条件の「話し合い」を提議。押村夫妻は「謝罪等」を受け容れ
ない限り「話し合い」はしないと、「さようなら」という結論を書き送ってきた。妻宛ての「さようなら」というその返辞だけは、双方で最後の交信となるだけ
に、ここに記録しておく。
* 押村高発 お返辞届きました。そばに朝日子がいます。いま話し合った結果、「もはや秦家と話し合う余地はない」という結論に至りました。現局面
で「秦家が条件を付けられるはずがない」というのが根拠です。あとは文学でも親族関係でもなく「法」が決着してくれると思います。さようなら。
* 「秦家が条件を付けられるはずがない」という日本語の意味が、手前味噌に曖昧模糊としている。しかも高飛車ないし喧嘩腰。
* 話し合いに、押村の条件を事前に秦が容れるなら応じようと言ってきた押村の返辞には、「やす香の死」に関する<ruby><
rb>極めて重要</rb><rt>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓
<rk/>〓</rt></ruby>な文面=開示が含まれていた。
それは「二つの段落」に尽くされていて、前半は、「押村高の思い」であり、もし真実を真率に語っているのなら、わるくない話だと、わたしも、息子も読ん
だ。
後半は、「朝日子の態度」を示しており、しかも「うそいつわりない事実」だと押村高に断定して言われてみると、じつに重要な機微が、「やす香の安楽死」
が問題として浮上してくる。
文面はこうである。
* もとより私(押村高)は、やす香が白血病の告知を受けたとき、それを「秦家と押村家が仲良く暮らしなさい」という天降のメッセージだと捉え、やす香
にも朝日子にもそれを伝えました。それゆえ私は、秦夫妻が見舞いに来たさいにも抵抗なく受け入れ、「余命2〜3日」との宣告も、朝日子の反対を押し切って
建日子さんに伝えました。
* もし真実なら、それこそ吾々もまた、強く期待していたことだった。
そのためにも、われわれが病室の前まで来たときに、たとえ廊下の立ち話ででも、まず、「遠方をようこそ見舞ってやって下さいました」という父親らしい、
当主らしい挨拶から対話が始まるのだろうかと、期待した。
「十四年前は、若気の至りでほんとうにご無礼を働きました、申し上げたことなどもすべて撤回し、あらためておわびします」と、もし言われていたら、やす香
のためにも、われわれは喜んで直ちに和解に応じる気だった、既往はもう咎めまいと。
「やす香の見舞い」がなにより絶対の先決であるにしても、ひとつには、その「和解」の為にも、われわれはやす香が呼びかけるままに、はるばる病院へ出向い
ていた。父親でなく、やす香こそ、枕元での両家和解をどんなに切望していたか、それを信じる方が、高の先の弁より、遙かにリアリティがある。
だが、押村高に強い意志がほんとうに有ったのか、以降の経過から見て、首を傾げてしまうのは、どうだろう、間違いだろうか。事実は、こんな経緯を辿った
のである。
* 押村家の主人である彼は、ついに、わたしに視線をあわせることもなく、終始吾々とやす香との場面にただ同座していただけで、帰るときにも、ひと言の挨
拶もなかった。その気なら、直ぐ近くに静かな談話コーナーもゆったり用意されてあったのに。
われわれもそういう押村に、ましてそれより仏頂面な朝日子に、とりつく島もなく、むりやり口をきくきっかけも持てなかったし、そんな気にもなれなかっ
た。押村側から自発的に話しかけられて応ずる以外に、ありえない入院・病棟の状況であった。
この高の言を、やす香の死からもう長く経って、それも今回妻へのメールの中で初めて読まされても、後出しの証文に過ぎない。やす香のためにも、ああ惜し
い惜しい逸機であったと悔やまれるけれども、押村は、書いているふうには、望んでいる方向へは、何ら一ミリも動かなかったのが事実だ。
* 「もう二三日でやす香は死ぬ」から、病院近くのホテルに泊まり込んではどうだという、建日子への提案にしても、やす香の死ぬことなど考えたくもなかっ
た祖父母には、一種異様な寒さで聴いたことも付け加えておく。「もう二三日でやす香は死ぬ」とは、何かしら、語るに落ちた人為的な冷ややかさではないか。
その「二三日」に、何が、やす香の上に為されたのか。「輸血停止」!?
* さて、つづく文面は、妻「朝日子の様子」を、夫の高が太鼓判の「事実」として伝えている。
* けれども、そのときすでに、われわれ(押村)の方針、治療、看護の進め方に対する恒平氏のすさまじい介入や攻撃が始まっていました。しかも事情を余
り知らずに、またネットの上で。朝日子は、恒平氏が死を受け容れたやす香にあのように語り掛け、やす香をあのように描写したさいに、「殺してやる」と絶叫
しました。断じて誇張ではありません。
* 「そのとき」とは、何時のことか特定されていないので、これまた曖昧にアバウトなのであるが、それより何より、重大なことを、押村は意識してか、無意
識にか、看過している。
「われわれ(押村)の方針、治療、看護の進め方」を、誰が、いつ、われわれ(秦)に、話してくれたか。全く無かった。百パーセント何ひとつ秦家は伝えられ
ていない。
「事情を余り知らず」どころか、もしそれが、やす香の「病状」にしても、実は「病名」にしても、「危険な度合い」にしても、故意に朝日子は、「ただひと言
も」わたしたちには告げていない。それどころか、「入院」したことも、「白血病」ということも、「保谷の親には知らさないで」と朝日子は弟に口止めもして
いた。
やす香自身が「mixi」に「白血病」と、もし公表しなかったら、われわれは、「入院」も「発症」も、まるで知らずじまいであった。そのことに押村は、
都合良く、<ruby><rb>全く</rb><rt>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>、<ruby><rb>頬かむり</rb><rt>〓
<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>している。
* 「介入」とは、事態や状態を承知のうえで「異を唱え、割り込む」行為であろう。われわれは何一つ直接にも間接にも、やす香の容態に関する「状況説明や
医学的説明」を受けなかった。その有様で、どこに「介入」の道があろう、その方途や場面がどこに有りえようか。
一つ有ったといえば、こういう親切な申し出があると、医療のツテを「情報」としてメールで急報しただけ、しかしそれにも一片の受け取ったとすらも、まし
て謝意も、朝日子も、押村も、伝えてきていない。
あげく、「肉腫」。待ったなしの、「緩和ケア―終末期医療」。自然死では断じてない、おそらく「人為死への直行」。
これですら、やす香が、「mixi」で、みなに伝えてくれたから、わたしたちにも知れたのであり、押村の両親は、何一つ報せてこようともしなかった。
その非情で非礼と謂えるだろう「事実」を、改めて確認すると、さきに押村が書いてきた、『やす香の白血病は、「秦家と押村家が仲良く暮らしなさい」とい
う天降のメッセージだと捉え、やす香にも朝日子にもそれを伝えました。それゆえ私は、秦夫妻が見舞いに来たさいにも抵抗なく受け入れ、』という物言いが、
つまりは、ただの後出しの「作文」のように、そらぞらしいと、いやでも、思えてくる。
* 両家仲良くとの天の教えを、本気で言うのなら、たとえ朝日子は疲労し気も顛倒していたにしても、押村高自身が、診療の「方針」や「考え方」を、電話や
メールで、また院内で、紳士的に告げて祖父母に緊急説明し、必要なら協力を要請すればいいではないか。ところがその為には指一本も押村は動かさなかった。
全くこんなことだから、やす香の目に見えてきた衰弱と、「生きたい」という叫びを「mixi」で聴くにつけても、不安と悲嘆の余り、わたしたち老親の思
いが「攻撃」性をたとえ帯びてたとしても、血を分けた祖父と祖母の感情として、許されるのではないか。われわれはヒステリックに喚いたりしなかった。「私
語」にも「mixi」にも、秦恒平のすべての「言葉」は、そのまま人目にも触れている。読み返せる。
* 「生きたい」やす香に、祈りをこめて、「やすかれ やす香 生きよ けふも」と、わたしは心から願った。祖母も祈った。同じ願いの人達は、たくさん、
たくさん、いた。
* ところが朝日子は、その、「生きよ けふも」を憎悪して、<ruby><rb>父を</rb><
rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>「殺してやる」と絶叫していたのだ。「断じて誇張ではありませ
ん」と、夫はわざわざその事実を強調して認めている。いい年の、教育も受けてきた大人、「人格」を自負している大人が、かりにも父親にむかい発する言葉
か。父親の行動や言語の、どこにどんな<ruby><rb>邪</rb><rt>よこし<
/rt></ruby>まがあったか、「朝日子、言いなさい」と言いたい。
* いやいや、それよりも。なぜ、「殺してやる」になるのか。何故だ。<ruby><rb>問題</rb><
rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>は、<ruby><rb>これ
</rb><rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>だ。
* 「死を受け容れたやす香に」 「生きよ けふも」などと祈るな、という意味らしい、今日この頃の押村からの文面で、やっと、それが分かる。
そして、「死を受け容れたやす香」と聴けば、今も、わたしたちは、忽ち涙にむせぶ。骨に喰い入る「肉腫」の激痛に喘ぐわずか十九歳の娘が、未来に希望を
山のように描いていたやす香が、みずから「死を受け容れ<ruby><rb>たい</rb><rt>〓
<rk/>〓</rt></ruby>」わけがない。
つまり親をふくむ誰かが、説いて、説得して、とうとう「受け容れ<ruby><rb>させた</rb><
rt>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>」というのでなければ、全く理に合わ
ない。ついにやす香の真意など知れるモノでないが、それにしても、なんと酷いことであったか、医学的には所詮助からぬと分かっていても、やす香を愛する友
達や、知人や、われわれ祖父母には、「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈ることは許されていたと信じる。「殺してやる」と「絶叫」されて当然のこと
か、「朝日子、よく考えなさい。」
<ruby><rb>問題</rb><rt>〓<rk/>〓</rt>
</ruby>は、「何一つ説明も要請もしなかった、お前の頑なに自己中心な態度が招いていた事ではないのか。」
* 最後に逢った日にも、つよいモルヒネ効果の中で、あのやす香は、右手をとっていた祖父と、「握って」と孫に言われ涙ながら左手を握っていた祖母と、顔
を覗き込んでいた叔父建日子とに、驚くほど明瞭に、「やす香生きている」「死んでない」と目を開いて話しかけ、この言葉を、わたしや息子と心持ちニュアン
スを異にして、祖母は、わたしの妻は、「やす香はまだ生きているの」「死んでないね」と問いかけ「怯えていた」と、聴き取っていた。
ああ、それが可哀想で、祖母は、廊下へ出て泣いた。
* それでも、われわれの真率の願いは、やはり「生きよ けふも」であった。生きていて欲しかった。それは「mixi」でも、恰も「大合唱」のように流れ
ていた「祈り」であったと、感動的によく読み取れた。
わたしたちは、やす香の日記一切を、入院以前からよく読み、「やす香生彩」という題で正確に記録してきた。「mixi」に流れた関連の祈りや見舞いの声
も、なるべく、多く。
だが、朝日子は、なんとそれらの願い・祈りにむかい、「殺してやる」と。「絶叫」したと。
* これをわたしは、一応、こう思う。我が子やす香が、「遁れがたい死を前にして動揺するから」といういたわる気持ち、それが朝日子の心事を烈しく揺らし
たのであろう。わたしは、それはそれで、とても可哀想にと思う。思うけれども、ここへ来て、今日只今、山形県から届けられた「十三歳の中学生」の言ってき
た、「娘さん(朝日子)は、自分を責めることに恐怖を感じているのではないでしょうか。」が、思い出される。この指摘は痛烈だ。
* 「死なせた」という言葉を、「殺した」と読んでしまい激昂したのも、<ruby><rb>それ</rb>
<rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>であろう。やはり可哀想にとわたしは思うが、日数をか
さねてなお、親と対等の「人格」を自負する割には、あまりに頑迷に硬直しているのは、どんなものか。
そういう妻・朝日子の自暴自棄を、夫・押村高教授は、どうして自ら「説得・誘導」出来ないのか。
* 八月八日 つづき
* この「秦恒平 生活と意見」=「闇に言い置く私語の刻」は、総体が小説家であり批評家である、その実績も持っているわたしの、間違いない創作物であり
著作物であり、それを「闇」の奥で自発的に読まれる人は、国内にも国外にもびっくりするほど多くおられる。その大部分はわたしのいわゆる「いい読者」であ
り、情理をともに備えた読者にわたしは支えられている。
* 押村高と朝日子とは、父に対し、その「生活と意見」全部を削除せよと要求している。厖大な量で、おそらく原稿用紙なら何万枚という大量になっていて、
すでに六十ちかい「私語」のファイル一つ一つ、多いところでは一つで単行本の二冊三冊分を含んでいる。
押村夫妻に、その全部を消却せよなどと求める、どんな権利があるのか、理解に苦しむ。理由は押村高夫妻宛て直接問い合わせて欲しい。
秦建日子は、たとえ一歩譲っても、もう本当に理があるなら押村と朝日子の「求める個所だけで十分だよ」と言っている。あたりまえだ。わたしも、ファイル
1以降、厖大量のうち、どのファイル、どの個所の、どんな記事を削除してほしいと言うのか、具体的に列挙して来るのが、仮にも告訴をもちかける側の当然の
手続きだと思っている。そう伝えてある。
* 例えば、こと訴人の一人「朝日子」の名前を、手始めにファイルで「検索」してみても、いや検索などするまでもなく、親として、娘を大切に思い、健康を
遠くから願ったり、赤ちゃんから大学生にいたる娘の思い出を、妻と語り合ったり、そんなのばかりである。だいたい、孫やす香に向かっても、われわれは朝日
子の悪口など、たったひと言も吹き込んだりしなかった。
押村のことには、また、ひと言も触れなかった。
その「押村高」の名前も、「私語」には自然登場する。たまたま今、目に付いた、例えば平成十三年の「私語」では、こういう「押村高」が登場する。
* 平成十三年九月二十五日
* 徳田秋声の『或売笑婦の話』を読んだ。佳かった。淡々と出始めて、どきりと終わり、大げさでないのに劇的であり、純文学の優れた興趣をしっかり表
わし得ている。うまく「つくった」話なのだが、散文に妙味と落ち着きとがあり、作り話だけどと思いつつ、ふうんと唸らされる。佳い文学に触れた嬉しい気持
ちと、ほろ苦い生きる寂びしみとに胸打たれる。この胸打たれたのが響いたのだろうか。いまも、胸は安定しない。午後には美術館へなどと思っていたが、無理
か。晩には一つ日比谷で会合がある。朝日子の披露宴会場と同じ場所で、フクザツな気分。
* 九月二十五日 つづき
* 猪瀬直樹の出版記念会(励ます会)が帝国ホテルであるというので、行く気でいた。昼間から出て、上野辺をまわってと思案していたが、朝からの体不
調で昼間はとりやめ、晩には出てゆこうと思っていたが、心身大儀でとりやめた。帝国ホテルの光の間というのは、娘の結婚披露宴の会場だったところで、往時
に触れるのもイヤではあった。
(主賓・来賓の=)谷崎(=潤一郎先生)夫人も藤平春男氏(=早大文学部長)も尾崎秀樹氏(=朝日子をわたしの代わりに中国の旅に連れて行って下さっ
た、日本ペンクラブ会長)も森田久男先生(=朝日子の、危険の予測された誕生時、実に親切に母産婦を医学的に保護して下さった東邦大学内科教授)も亡くな
られた。
離婚の経験のある谷崎夫人を新婦側主賓におくとは非常識なと、婿の押村高(〓現・青山学院大国際政経学部)に罵倒されたとき、正直のところわたしは虚を
つかれ、じつにイヤな気がした。およそそのようなことは、考えたこともなかった。谷崎文学とわたしと、谷崎夫人と我が家と、の縁は知る人ぞ知る、深いもの
があった。まして娘を孫のように愛して、自ら何度も身をはたらかせて朝日子を本人熱望のサントリー美術館学芸部に就職させてくださったのも谷崎夫人であっ
た。離婚も再婚もそれが何だというのか、松子夫人あって昭和の谷崎は名作の山をつみ、二人は添い遂げて、夫君没後も夫人が谷崎文学のために奔命されたこと
は、まさに知る人はよく知っている。
よそう。
* たまたま飛び出したこの記事など、名誉毀損もなにも、正確な事実そのもので、押村の罵倒の手紙も保管しているし、なぜ、これを自分の著作物から除かね
ばいけないのか、納得しにくい。
第一、この文を削除すれば記事の主体を成している前段の思いは不当に損なわれる。もともと後段の無念や不快へ流露して行く文脈は自然であり、端的にいえ
ば、わたしの「文芸」に属している。しかもわたしに恥じるところはなく、削って貰いたいほど恥ずかしいのは言うまでもなく、押村の「非礼」の方であろう。
* この調子で「押村高」の名前の出てくる個所を、彼が具体的に引き出して削除を望んできたとき、場合によって応じないではないが、法的な力に強制されて
するのではない。
しかもその前に、書かれてある内容について、いちいち押村高に、説明や自己弁護を求める権利が、わたしにもあるはずだ。
事実は消えはしない。事実を真実として表現し創作物に仕立てていく権利を、わたしが抛棄するわけはないから、際限なくいろんな場で、後世まで、押村は恥
をかき続けるだろう。
わたしは証拠もなく、こういう記事を書きはしない。法的に勝つの負けるのなど、人間的真実の前には、なにほどのコトでもない。
* 厖大な量の「私語」から、何処の何を外して欲しいか、一つ一つ指示して希望するのは、告訴側事前の手続きであろう。
だが押村はそれを、ようしないだろう、言えば言うほど、非礼は自身にあったことにまざまざと思い当たるであろうから。
それでいて、「八月十日」という期限を高飛車に切って「告訴に踏み切る」と言ってきている。押村高一人の告訴なら問題なく受けて立って簡単だが、朝日子
にも訴人の名義をかぶせているのが、朝日子のため、将来のみゆ希のために、我慢ならない。
だが、むろん受けて立ち、コトそこに至れば、わたしはそれらを裁判所が具体的に命じるまで、現状に保存し、またその内容や表現に従い、著作権をあらそう
申し立ても出来る。
* hatakさん
二十世紀の終わりごろから私は、「闇に言い置」かれた言葉を聞くことから一日を始め、眠る前に再読することを一日のとじめにしてきました。
「闇に言い置く」の膨大な文章の蓄積は、hatakさんの著作物であると同時に、私が石垣島や札幌に暮らし、エジンバラや中国やハワイの島から、想いを送
り続けた八年間のかけがえのない記録でもあります。
私と同じように、この蓄積の中には、高校生だった少年が、親元を離れて大学へ入り、卒業し、就職した成長の記録や、私が密かに「参拝上人」「参詣聖」と
呼んでいる、おびただしい数の社寺仏閣訪問記、卆寿を超えた「押し掛け弟子」の初々しい作品が世に出る記録もあるのです。
これらの貴重なアーカイブを、インターネット上から消し去ることができるのは、サイトオーナーであるhatakさんだけで、「闇」をどうのぞいて見て
も、誹謗中傷や名誉毀損を訴え得るような<ruby><rb>何人</rb><rt>なん<
rk/>ぴと</rt></ruby>も見出すことができません。
国公立機関に属する図書館が独立行政法人化され、交付金運営費を5%など数値を示し削減されるようになってから、学術論文の紙媒体による購入を取りや
め、コンテンツサービス会社などから、電子ジャーナルの供給を受ける契約をするところが増えてきました。経費や時間の節約になる反面、電子媒体は、例え
ば、配給会社が倒産したり、公権力が悪意を持って介入した場合には、あっけないほど簡単にこの世から消えてなくなります。紙媒体では、サーキュレーション
が薄く広いので、一旦発行されたものは簡単には回収できず、どこかで生き残る可能性があります。
わが身の一部のようなサイトが突然このような事態を迎え、インターネット上の記録媒体の利便性と脆弱性をあらためて感じました。
いずれにせよ、闇の彼方に、事の成り行きを見守っている多くの「目」があることを忘れないで下さい。 maokat@帯広市にて
* わたしも九八年ころからの「私語」を眺め初めて、maokatさんのいわれることが、有りがたく、よく分かる。
所詮押村高も朝日子も、このような「世界」とは異邦人であり、読んでいないのだ。この数万枚もの、秦恒平の思索と批評、まさしく「今・此処」で生きてい
るという生彩、その意味も価値も、テンデ押村には分かっていない。
おそらく、これが、量的にも質的にも個性的な「日記文芸」であることは、自分で言うからおかしいけれども、間違いなく読み返して行って、すぐ分かる。わ
たし自身、興に惹かれて読みやめられなくなってゆく。ナルシストだとわらわれるだろう、それはそれでいい。
上の、maokatさんのような読者が、ずいぶんな人数実在するらしいとは、わたしが言わなくても、広い範囲でいろんな人から、わたしが言われている。
「あれは、読まずにいられませんよ」と。
この厖大な「日録」の中で、およそ押村高の姿など、大海の一尾の鰯ていどにしか現れてはこない。その先生が、「生活と意見」全部を消去しないと「告訴す
る」と、卑怯にも自分の妻を訴人の連名に、自分より前に引っ張り出してくる。やり方が汚い。
わたしの「私語」の中で、わたしの舌鋒に娘が刺されているのは、この六月下旬、やす香の「白血病」入院から、酷いような痛恨の遠逝と、それ以降の不当極
まる告訴さわぎの時期に、はっきり限られている。
わたしは、娘の批評はしても、名誉を傷つけるようなことを、それ以前のこの「私語」で、一度として書いた記憶がない。有るというなら、「これ」と指さし
てわたしに示してみなさい。
* 八月九日 水
* いま、本当に胸痛め困惑すら覚えるのは、例のイスラエルと、ヒズボラとの、根の混雑した血戦の惨劇で、論評のちからも無い。
「靖国」問題など、この中東の死と恐怖の泥沼からみれば、理性と感性とだけで聡明にカタをつけてしまえる。つまりは政争と外交の具=愚にされているにすぎ
ない。前者には念々に命がかかり、後者では単に欲と思惑とだけが動いている。政治屋どもの場合、英霊はただダシにつかわれ、拝礼という信心信仰は空洞その
もの。
鳥居をくぐって拝殿の前に手を拍たねば遂げられない崇敬や感謝などというものは、無い。それは、こと死者に関わる場合、ただの「まつりごと=政・祭」で
あり、真実の思いでいうなら、心籠めた「遙拝」ないし「祈念」でも十二分に足りる。死者や(在るとして)霊魂が特定の場所に集中して蠢いて在るなどと想う
方が可笑しい。より的確には、人の一人一人の記憶と敬愛の中に在る。遙拝と祈念。そして思い出して倶に在ること。それで足る。
* 「遠逝」とわたしは孫やす香の死を書いているが、しかもやす香は、ふだんに、わたしの肩にきて耳に語りかける。わたしは自在に聴き、わたしも自由に語
りかける。対話できる。
いままで思いもしなかったが、そうそう、いずれやす香の墓が押村家では用意されよう。しかし祖父母はついにその場所すら知らされまいが、知っても知らな
くてもわたしは、たぶん妻も、行く気がない。その必要がない。
お寺さんにはわるいが、わたしは「墓」なる装置に、慣習としてはよく付き合っているけれども、そもそも死者の記憶を、重い重い石の下敷きにおしこめて、
もう出てこないでという陰険な意図には、共感しかねる。言葉はイヤだが、いつでも化けて出ていらっしゃいという気で待つし、こっちからも逢いに行く。『最
上徳内』に書いて働かせているあの「部屋」が、まさしくそれ。
生者は自在に死者とともに生きて在る。在り、得るのである。京都まで、恩ある秦の親の墓まいりにわたしはよく行く方だが、そこの墓石の下に親たちが縮こ
まって身動きならないなどと、そんな失礼なことは想わない。
たった今も、じつの親、育ての親たちも、姉も兄たちも、孫のやす香も、それどころか多くの先達友人たちも、みんないつでもわたしの此の身のそばに、在
る。そういう人達と倶にと、わたしは毎夜静かに選び抜いた本を音読して欠かさないのである。
* わたしが、いわゆる葬儀のたぐいの祭式に気が乗らないのは、大事な人の死ほど、<ruby><rb>他人<
/rb><rt>ひ<rk/>と</rt></ruby>と共用して済ませたくないからで。やす
香との一応の「わかれ・おくり」も、わたしは、ただ賑やかなパフォーマンスにしたくなかった。大勢寄れば、どうしても思いは雑駁に混雑する。だからわたし
は浅草の花火という「送り火」を、ごく静かな場処をいただいて、やす香と二人だけで眺めてきた。やす香はすでに自由自在に花火の空を飛翔し、笑っていた。
わたしはビルの屋上の一隅で、やはり泣いていた。
* ただ人は情あれ 花の上なる露の世に 閑吟集
* 八月九日 つづく
* ご決意読みました。こんなに早く、こういう不幸な形は想像もできませんでした。
この「私語」は私にとって、単なる毎日更新されるホームページではありませんでした。電子書物でもありません。この「私語」と一緒に生きていたのだと思
います。特別な存在でした。「私語」は人生の伴侶、魂の親友でした。今は万感胸に迫って、言葉がありません。実はずっと泣いていました。
私語は秦恒平らしい、秦恒平にしか書けない形の素晴らしい生彩ある文芸作品でした。この創作を心から愛していました。今までのものを保存して愛蔵し、文
学論やいくつかの本になりそうなテーマでエッセーの編纂めざして集めているところなのです。もう間に合いませんか?仕事の途中なのでほんとうに困ってしま
います。愛読者としての最後の切実なお願いです。 町田市
* 愛読者は斯くも嬉しい有り難い存在であるが、照れくさくもかなり熱い存在、とても、ピュアな存在でもある。だが、いかなる大金でも自由には買えない宝
である。娘朝日子の、おおむかしの迷!?セリフを借りれば「魂の色の似た人」とは、作者にすれば、「いい読者」こそ第一である。
* ただ、作者という化け物は、私は、創作行為や自分の創作物のためには、ひたすらな愛読者より、かなりしぶとく、油断ならない闘う存在でもある。だらし
なく、したり顔には退却しない。
* 「どうして」という眩暈に苛まれたまま、思念が膠着しております。
高橋新吉の「心」という詩に「心は虚空よりもやはらかい」の一節があります。
告白すれば、私は、ただそれだけのことを「わかる」のに三十年余かかりました。五十歳を過ぎていました。
詩のつづきにこうあります。
「何もないが心だから、心は通ぜぬところがない」
すでにそのような状況に無いことを知りつつ、あえて、私自身の父に対する悔悟の心から、お叱りを覚悟で申し上げます。
どうぞ、待ってあげてください。どうぞ、朝日子さんを待ってあげてください。
涙しつつ、お願いいたします。 六 香川県
* 有り難いことだ。いま、わたしは、こういう、「朝日子」を想っての呼びかけに包まれている。
ご安心を。わたしも妻も、忘れるどころか、少しも変わらず、じいっと朝日子誕生から十四年前までの娘のあれこれを見守り、思い出していて、娘が、自前の
理性と自覚とでしっかり立ち直るのを待っている。子は変わっても、親は変わりようがない。
一時の言葉などそれは灰のようなもの。言葉はついに言葉であり、真実は言葉にされた瞬間に真実から遠のくと、異なるモノになると、仏陀も、老子も、バグ
ワンも正確に語っている。その時その時にわたしは胸の奥からまっすぐ言葉をつかんでは来るが、それが言葉であるというはかなさを、文学者の覚悟として、い
つも持っている。同じ事は、失礼ながら「心」についても謂える。「虚空よりやはらかい」のは「無心」なのだ。
* 真実に近づける言葉は、わずかに、「詩」としてのメタファー(喩)があるのみ、だから文学・演劇の真の創作者は、「表現」という「文芸」に、命を削
る。「月=真実」をさししめす「指=(言葉」は、けっして「月」ではない。ただ優れて「喩」となりえた言葉だけが、月=真実に近づいて、人にもそれを感じ
させる。ただの「おしゃべり」ではどう賢しらを言ってみても、情けないが、届きはしない。情けなさを一番〓みしめているのは、いま、わたしである。
* わたしの「言葉」は上のことを痛いほど知っての言葉であるから、少なくも、囚われていただかないように。
ウソを言い散らしているという意味ではない。言葉より、思いを汲んで下されば有り難い。
* 「待ってあげてください」とは、なんと、私たち親子にとり嬉しい有り難い言葉であろう。また「待つ」しかないということでもあり、押村高についても言
える。空しいであろうが。
彼はいま、私の妻へのメールによれば、途方に暮れているようだ、そしてひたすら妻・朝日子が自身告訴の決意をかため、わたしのこういう「私語」からも、
聴く耳を塞いで、近づかない様子を伝えてきている。そういう娘の硬直ぶりは、娘を観たことのない方には、なかなか想像もされないだろう、朝日子のいささか
の文才だけを遠目に愛して下さる読者達にも。
* 押村は、やす香病床にいながら、わたしたちに「礼」を以て接する好機を、空しく逸したが、今更にあえて胸中を<ruby><
rb>忖度</rb><rt>そん<rk/>たく</rt></ruby>はしな
い。逸機はまた、吾々の<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt><
/ruby>でもあった。
* おそらく今回朝日子たちの不幸の最大なのは、やす香の医療継続と緩和ケアとのはざまで、親としてせざるを得なかった、痛恨の「死へ向かわせる決断」
を、祖父母にすら秘して漏らさなかったことにある。もし漏らされていたなら、間違いなく最終的にほぼ同じに決意していたと思う。
しかし、そこのところで、異様な、わたしには考えられないことが起きていた。それが、今にして、朝日子<ruby><rb>自
身の言葉</rb><rt>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<
rk/>〓</rt></ruby>により分かってきた。
思うだに酷いことであったのは、病名を、その行方までも、当のやす香に向かい告知し、いわば「ラクな死」を、やす香本人にむかい「母自ら説得してしまっ
た」こと。
わたしにはこの選択はとうてい信じがたい。と言うよりやすやすとは、とても受け取れない。だが朝日子は「自分でやす香に告知した」と言っているらしい、
弟には。
わたしの親しい優れた医師も、肉腫発見の遅さ、この病気の激越な進行から見て、ホスピス=緩和ケアの選択は、その時点で余儀ない、或る意味で正しい選択
だったろう、けれども、
「それをお子さんに告知するかなあ」
「僕ならぜったいしない」
と言われる。
わたしは、朝日子が秘めていた、そういう仕儀一切を<ruby><rb>全く</rb><rt>〓
<rk/>〓</rt></ruby>知るすべなく、しかも当のやす香が、病名も、死の免れがたいことをすら、公然
口にしているその事態には、愕然とした。「死を<ruby><rb>受け容れた</rb><rt>〓
<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>
やす香」と、朝日子は、昨日か一昨日の妻へのメールで言っている。言われている「言葉」の、ああ、なんという怖ろしい意味であることか。しかもわたしたち
は、死の「受け容れ」を説いた場面も言葉も、その事実じたい、も、むろん片鱗だに知らされてなかった。
あのとき、「死」を説得<ruby><rb>された</rb><rt>〓<rk/>〓
<rk/>〓</rt></ruby>やす香と知っていた人が、誰か、いたろうか。友人達がみなそうと知っていたわ
けがない。そんな時に「生きよ けふも」とひたすらやす香のために祈るのは、いずれ人為的に輸血の停止される前提または結末を予想していない、予想したく
もない、やす香を愛する全員、の自然当然必然の思い・願いであったろう。
わたしは、やす香が最初に自分から「白血病」と、ソシアルネットに公開したときにも、何故にと、すでに病名の本人に告知されている事実に、仰天した。そ
れでも朝日子も、母にむかい「治る病気よ」と呟き、またどの段階でであったか、「命がけでやす香の命は守って見せます」と「mixi」に公言していた。誤
診が、いや診断変更が、その後に有った、ということか。
肉腫。これは、もう、……。医学書院の編集者であったわたしは「肉腫」を、ともあれ識っていた。そしてまた驚愕したのは、「肉腫」「緩和ケア」という言
葉すら、やす香自身の「mixi」が、告げていたではないか。さきの医師の「信じられない」という愕きを、わたしはあの瞬間に愕き、色を喪った。
緩和ケアの方針が親と医師とで定まるのは、病状の進行しだいでは仕方がない。だが、やす香の精神的な安楽を守ってやるのに、酷い「告知」と「死の受け容
れ」の説得が、なぜ必要か。黙ったまま優しく静かに見送ることも、モルヒネを使用し輸血停止の決断も予定されていたぐらいなら、難なくできたろうし、朝日
子のより賢いプロデュースで、音楽会も、大勢の友達の見舞いも実現出来たろう。
やす香を、いとやすらかに死に至るまで、せめて「だまして」おいてやるのは、何かの正義の前に「罪」だとでもいうのか。
* これはもう「繰り言」である。わたし自身、早く繰り言をやめて、新しい創作にかかりたい。朝日子もそうしたら。
お父さんに「復讐」したいというなら、母としての名作に、やす香さんを「書いて」なさいませと、人の言われていたのは、核心を射ている。わたしの寿命の
ある間にわたしも読みたい、ぜひ。
* だが、なかなか。
朝日子は、「告訴の決意」が鈍らないようにと、わたしの「私語」からも、パソコンからも離れて、触れようとしない由、朝日子の夫・押村高は、わたしの妻
に伝えてきている。これでは、「待って上げてください」が、道をうしない宙にさまよう。「今こそ抱きしめてあげてください」も、途方に暮れる。そんななか
で、余儀なく、わたしは、一つまた一つ「私語」のファイルを消しているが、あまりに、ばかばかしい。
突きつけられた期限の明日十日に、消去作業の間に合わないことは明瞭だし、間に合わそうと慌てた操作で機械を傷つけたくない。当然である。
ホームページを開設したとき、これは、わたしの「原稿用紙、作品発表場所、電子書籍、作品展示室、作品保管庫、文学活動そのもの」と認識していた。これ
を全部「消去せよ」とは、だが凄いことを此の娘夫婦は言うなあ。平然と言うなあ。
* その朝日子にあてて、七月二十六日の夜の九時に「mixi」の日記で、「やす香の母・朝日子に」メッセージを送っている。
二日続きで、われわれは建日子ともどもやす香を見舞っていた。そして、「もう見舞いにはこないで」と言われていた。二十四日のやす香は、言語もはっきり
と祖父母と叔父とを認めて、話しかけた。脳は言語という難しい機能とともにしっかり生きていたのは間違いようがない。
このメッセージは、一つの山として待ちに待っていた母朝日子の誕生日の日付にかかる、ちょうど三時間前。なにも知らないわたしは、やす香の明日を迎え得
そうなことを喜びながら、四十六歳になる娘・朝日子の誕生日を祝ったのである。
* まさか朝日子がやす香に「死を受け容れ」させ、時刻は知れないが、このわたしの「日記」を書き込んだ時間より早く、すでに「輸血停止」を実行(「
」「mixi」証言が在る)してしまっていたとは。<ruby><rb>嗚呼</rb><rt>あ
<rk/>あ</rt></ruby>。
知らなかった。知らぬまま、わたしたちは、ひたすら「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈る以外の道を知らなかった。
わたしは、そんな前だか後だかにやす香の母に「殺してやる」と絶叫されていたと夫押村に確証されてみると、それも知る由なかった、ああ生きがたしと、こ
の不条理な人生にひしがれる心地がする。
* 八月十日 木
* 日本近代政治史家で「震災」「空襲」の研究家として著名な、横浜市大名誉教授の今井清一さんから、『大空襲5月29日 第二次大戦と横浜』そして「日
本の歴史23」『大正デモクラシー』新版を戴いた。嬉しいお手紙がついている。有り難く披露させていただきます。
* 暫くの酷暑が台風の余波で飛んで行き、ほっとしております。もう一年余り前になりますが、ご高著『日本を読む』上下と『わが無明抄』を頂戴し、あり
がとうございました。
ちょうど『横浜から見た関東大震災』の仕事に追われていて、ぽつりぽつりと拝見しましたが、個々に見ても、また連ねて見ても面白く、またそこから自分な
りの考え方を展開させたくなる点でも、読み甲斐がありました。
ただ、どうお礼を申し上げようかととまどい、今日にいたり、失礼いたしました。
先にご覧くださいました小著『大正デモクラシー』の、活字を大きくし解説を付した改版がちょうど出来ました。
私は震災と空襲を研究しており、毎年七月末に開かれる空襲戦災を記録する会全国連絡会議への出席を楽しみにしていて、今年は今治に行って来ました。
ご本のお礼を遅ればせに申し上げると共に、この改版と横浜大空襲に関する『大空襲五月二九日』をご覧に供します。
暑中ご自愛をお祈りします。 8月8日 今井 清一
* 『ペン電子文芸館』の「主権在民史料室」を新設したとき、幾つかの企画をもちみな実現した中に、大きな「柱」にわたしは、「憲法」論議と、日本の近代
史を、大づかみでいいから「通観」できる歴史記述を切望していた。それで、全巻を通読し感銘を受けていた、学んでいた、中公文庫版『日本の歴史』26巻
の、それぞれ責任執筆者の異なる<ruby><rb>末</rb><rt>まつ</rt>
</ruby>7巻から、各一章をひきぬいて、全七章分の略式『日本近代史の流れ』を、大切に史料室におさめ、インターネットで発信した。わ
たしの秘かな志であり、自讃のしごとになった。その時今井清一先生からは、もちろん『関東大震災』の章を頂戴したのだった。
* 中公版の『日本の歴史』が、版を新たにしたとは嬉しい。
わたしは若い人にほど、超古代からもいいけれど、この日本の「現代」がむごく歪められ、かち得た人権をまた次々奪われつつある今日、真っ先に『明治維
新』から『近代国家の出発』『大日本帝国の試練』『大正デモクラシー』『ファシズムへの道』『太平洋戦争』『よみがえる日本』の七冊をぜひ「読破」してお
いて欲しいと切望する。
このシリーズの執筆姿勢と魅力は、学究的であると同時に、権力機構への迎合がほぼ全く見られない、新鮮な視角と見識にある。字の大きくなった「新版」
で、もういちど通読し直したい。
* この略式『日本近代史』の思いつきを助けて頂いたのが、『近代国家の出発』を責任執筆されていた東京経済大学名誉教授の色川大吉さんであった。この巻
にもわたしは感動した。
「主権在民史料室」を『ペン電子文芸館』に建てようとすぐ思いついた。実現した。そこには、明治時代の憲法論議も数多く取り込んである。
色川先生からは『廃墟に立つ』と題した『昭和自分史』の一九四五ー四九年の大冊を戴いた。変な物言いであるが、ドッカーンと胸に響く歴史記述であった。
* 天野哲夫〓沼正三代理人さんに戴いた『禁じられた青春』上下も「はじめから」して身震いの来る興奮の第一波が感じられる。『家畜人ヤプー』の著者・代
理人さんたる人が、手紙に添えて「何故御高名な秦様が、私如き怪しき物書きに、かほどまでご興味をお持ちなのか解しかねます」などと言われては恐縮する。
わたしは最も早い時期のあの本に、著者もよろこばれた一風変わった角度からの「書評」を書いて、あの本のブームにかすかに一役買っていたし、「私如き怪し
き物書き」というみごとな自負に惹かれるのである。
およそ考えられる限りの世間の美徳と真っ逆さまの、現代の天才が沼正三だが、そのまま天野哲夫さんに通じていると、わたしは読んできた。この本も読み進
めるのが大なる楽しみ。
* 拝復 湖の本追加分頂戴しました。有難う存じます。
御不幸がおありでしたとの御事、
謹しんでお悔み申上げます。
初孫、それも女の子、といふのは例へやうもなく かはゆうございました。
それを花の盛りの、といふお年頃でふっとお亡くしになった お二方のお気持、如何ばかりとお察し申上げます。御気落がお体に障りませんやうにと 願つて
居ります。
更めて御冥福をお祈り申し上ます。 かしこ 福田先生夫人
* ホームページを閉じられることについて・・
秦さま あまりの物事の速い進みに深く悲しんでいます。
全く存じ上げない方の生と死について、こんなに深く考えることも初めてのことかも知れません。
今日のやす香さんの写真は大学に入られてからなのか、少しオトナっぽいお顔ですね。穏やかな笑顔です。
ホームページを閉じられる決意をされたことを、一昨日に読み、少なからずショックを受けています。
ただ、その決意は心して受け取らせていただきます。
私にとって「生活と意見」は、正直に言いますと毎日かかさず見るというものではありませんでした。
ただ、何かが起こったときに(戦争や、政局に関することが主なことでしたが、)秦さんはどんな意見を述べておられるだろうと開けてみて、心の中で会話を
するという場所でした。
もちろん、日々のご活動も読むのが楽しかったですし、同志社大学の寒梅館で食事をされたりしているのを読むとこんなにすぐ近くにいるのに!!と、妙に悔
しがったり・・・(私は**大学**学部の研究室事務室で働いています)
閉じられると聞き少し、いえ、かなり途方にくれています。。
今日は一日、再度読み直しておりました、朝までまだ少し・・・続けて読ませていただきます。
もちろんこのメッセージには返信は不要です。
建日子さんのページにもメッセージも残さず時折「足あと」だけを残す失礼な私をお許しください。(これはご本人にちゃんと言うべきですね、でも今は、
「文学と生活」のページに戻ります。
くれぐれも奥様も先生もともにお体ご自愛くださいませ。 京都市
* 昨日押村高から届いた妻へのメールで、朝日子は、父親の「私語」にあらわれる上記のような交信は、秦恒平の都合のいい「創作」だと言っている。マトモ
に向き合う柔らかい思いが働けば、よもやそんな心ない読み方はしないだろう。父親の作文能力を称賛してくれたものと思っておこう。
わたしは、もう早くにであるが、「私語」に紹介・転記されたくないメールには、@マークを付けるか、明記しておいて欲しいと「読者」「知友」には、おお
かたお願いしてある。同時に、どの方と人に名指しされるような特定の記事は省くか、記号化している。互いに綽名をわざと付けていたりするのも、幾つかの点
で有効だと互いに馴染んでいるから。
いかにわたしが多方面に発言しても、そこは、一人だけの世界。闇の彼方から覗き込み、聴こうとしてくださるエッセイや事件や見聞にも、単調さがにじみ出
てくるオソレは否めない。
一つには<ruby><rb>作者</rb><rt>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>と<ruby><rb>読者</rb><rt>〓<
rk/>〓</rt></ruby>はふしぎな「身内」感覚で近づきあえる。当たり前の話で、「ことば」は「心の苗」であ
り「精神の音楽」である。魂の色が似かようような嬉しさが互いにふと味わえれば味わえるほど、同じ一つの大きい世界を組み立て合っているとも言える。そし
て此の「闇」という場が、時に東京の人と北海道の最果ての人との場になったり、名張の人の様々な歴史紀行に、国内外、何人もの読者が出来ていたりする。そ
れは、そのままわたし<ruby><rb>自身</rb><rt>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>の「世界」の豊沃を示してもくれる。
わたしの「私語」の闇を、大勢がなんとなく交感・交歓の場にしてくれている。わたしは、それで、また大いにラク〓楽をさせてもらえるのである。
* 秦 恒平様 この夏も蓼科へ行ってきました。
車山のニッコウキスゲは昨年のような全山黄色というわけには行きませんでしたが、一株(写真)お目にかけます。
その後秦さまご夫妻はどのようにお過ごしかと、ただただ心痛み、帰宅して恐る恐るホームページを開きましたら、なんと思いもかけぬ展開になっていて〓〓
呆然といたしました。
やす香さまを喪われたご両親が平静なお心で居られるのはご無理としても、どうしてそこまでと思い、この悲しみがせめてもこれまでのご両家の確執のとける
契機になればとの私のはかない望みも、単に傍観者の楽観であったのかとうち砕かれました。しかしやす香さまの仲直りして欲しいとの願いがきっとよい方向へ
とみなさまを導いて下さるであろうと、まだ私は(ご事情もよくは知らず勝手に)希望を持ち続けています。
回復の見通しの立たぬ病の人にどう声をかけるか、とても難しいことです。
私の親友のおつれあいが致死的な難病のALSで身動きも発語もかなわず、蓼科の山荘で療養して居られるところへ私が息子と立ち寄った時のことです。
別れ際に息子は、「おばさん、おじさんはきっと治ります、大丈夫です」と懸命に励ましました。
私などは到底こんな言葉を心から発することは出来ませんでした。
知恵が邪魔をするのですね。
どんな状況でも、生きていてほしい、元気になってほしい、と祈ってどうしていけないのでしょう。
末期ガンで清瀬の救世軍ホスピスにいた友人を何度か見舞いました。
彼女には知的障害のある息子さん二人と病身のおつれあいがあり、しかしあまりの治療の苦しさに、死んでも死に切れぬ思いを絶って、自らホスピス入りを決
心されたのでした。
それでも投薬等で苦痛が治まると、自分はここでこんなにして<ruby><rb>楽</rb><
rt>らく</rt></ruby>していて、死んでしまって、良いのだろうか〓〓と悩み苦しむ、と私に告げられました。
このような心の葛藤を繰り返し、やっと最後は安らかな気持ちになられたと、お世話をした救世軍のシスターが葬儀の時話してくださいました。
そんなこんなを思い出しながら、HPを拝読しています。 2006/8/10 藤
* 昔、私が父に激怒した時に、母から「パパの言ったことではなく、今まであなたにしてくれたことを思い出しなさい。言葉で判断してはいけない」と諭さ
れました。
あれだけ父に苦労していた母の、ありがたい言葉でした。許すということのきっかけになりました。
「私語」で、やす香さんのミクシィの記述を読みました時、「治ることは絶対にあり得ない」という部分に実は驚愕しました。医師に対して湯気の出るほど憤っ
ていました。
朝日子さんがキューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』を読んでいらっしゃらなかったとしたら、残念でした。高校生の頃に恐怖に震えながら読んで、そしてとても
学ぶことが多かった。ご存じのように、これは死にゆく人々に取材したものです。
印象に残ったのは、よい死を迎えるためには、絶望させてはいけないということでした。たとえ不治の病であっても、その告知にはどこかにかならず<
ruby><rb>希望</rb><rt>〓<rk/>〓</rt><
/ruby>を持たせなければならないというのです。
余命の宣告は非常に慎重にと。
つまり<ruby><rb>嘘</rb><rt>〓</rt><
/ruby>をついてもいいのです。治らないとわかっていても、治る可能性も延命できる可能性もあると伝えることで、患者は救われる。
そういう意味のことが書いてあったとうろ覚えながら記憶しています。
私は自分の遺言ノートの中に、病名の告知はしてほしいけれど、余命の告知は不要と書いています。何しろ悟りなんか全然ない。弱虫で怖がりの臆病なんで、
死ぬのが恐ろしくてたまらないのです。
朝日子さんに告知について助言できる人が周囲にいなかったことは痛恨の極みです。 夏
* いま、わたしの知己たちは、大勢が、朝日子の心事に思い入れて娘の立ち直りを励ましてくださる。またはわたしを宥めたり<ruby>
<rb>窘</rb><rt>たしな</rt></ruby>めたりすることで、間接に朝
日子をなだめたり窘めたりしてくださる。
* 建日子の連続ドラマ「花嫁は厄年!」が、今夜で何度目かちょっと覚えないが、六度目ぐらいか。
最初は好まなかった。駄作だとこきおろした。
続けて観ていて、断然篠原涼子の溌剌のうまみが全編をリードし、岩下志麻が対極をガンとおさえて、このシーソーゲームは、支点の位置が甚だしくずれてい
るままの好バランスになっている。その他大勢はその他大勢の模様になり、みな楽しそうにバカをやっている。この、楽しそうというのが、甚だいいミソ味に
なっている。
今夜で、この連続ドラマははっきり水準を抜き、独特のハートを躍動させ始めたとわたしは看て取る。
気がつくと、これは珍しい農業ダネでもあり、農作業や農家やとりまく自然の豊かさによって、作品のストーリーを支える佳い実景になっている。わたしは、
それも評価する。
やはり、安土家の岩下母に、恒平。
家を出て十年帰らぬ長男一郎に朝日子。
両者のあいだで奮闘する明子に、作者は、自分自身を擬していると、こう私流に眺めていると、建日子「作意」の優しい情感が、ほんのり伝わってくる。
* だが、そんなのんびりしたことは言ってられない、押村の「告訴」攻勢は執拗で、気がぬけない。
* 八月十一日 金
* 妻はいわゆる「三年日記帳」の実践者で。『鍵』の老夫婦のようには、わたしは、決して覗き込まないが。妻が今年一月二日の日記を全文書き抜いて持って
きてくれた。
* 2006〓1〓2 月 晴
午后から やす香 と みゆ希が来た。叔父さん(=秦建日子)からもお年玉が出た。
朝日子のお振袖を出して やす香に着せかけて 楽しむ。
建日子が恒平さんの気持を察して 皆で 車にのり込んで 玉川学園(=姉妹の家がある。)まで送ることになった。
この日変に臭い我が家、帰宅後わかったのは Goo (=建日子が連れてきていた、巨大な灰色の愛猫)の下痢 !!
* まみいの、腕によりを掛けたお<ruby><rb>節</rb><rt>せち<
/rt></ruby>料理やその他のご馳走を、「やす香」「みゆ希」と書かれた祝箸を、翔ばす勢いで、大いに食べに食べ、ご機嫌で大
笑いしていた、やす香、みゆ希。まみいに振り袖を着せかけてもらって、照れに照れながら、喜色満面で少しポーズしてみせたやす香の笑顔が、今も目の真ん前
に浮かぶ、涙ににじんで。
あのとき、「今年九月にはやす香<ruby><rb>二十歳</rb><rt>は<
rk/>た<rk/>ち</rt></ruby>だけれど。成人式は、もうすぐ(此の一月)の成人の日にする
のかい」と聞くと、「それは来年のお正月ですよ」と答え、この着物を今夜貰って帰ることは(親たちにナイショで来ている今は=)まだ出来なくて残念無念だ
けれど、「来年までに…。この一年のうちにはね、きっと…この振り袖が着られますように」と、独り言のように呟き呟きうち頷いていたのを、「思い出しま
す」と妻は言う。明らかにやす香は<ruby><rb>期待</rb><rt>〓<
rk/>〓</rt></ruby>していた。<ruby><rb>希望</rb>
<rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>していたのだ。
用事で席をはずすこともある私と違い、わたしの知らない会話も、妻と孫娘とにはそれはそれは沢山あったであろう。まみいの方へ愛らしく顔をかしげた写真
を今も身のそばに大きく眺めている。
母の朝日子に家で着物を着せて貰ったことがあり、「保谷の家には、ママの着た佳いお振り袖があるんだけれど、貰いに行くわけにも行かないしねえ」と言っ
ていたとも、やす香はまみいに話している。
朝日子はいったい、なにに<ruby><rb>義理立て</rb><rt>〓<rk/>
〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>をしていたのだろう。とにかく十四年、保谷では朝
日子が尋ねてくる夢を見るか、帰ってきてもこの辺の変貌にきっと道に迷うぜ、キット迷うわねなどと話し合って、「待って」いたのだ。
* 理事・委員など務めている日本ペンクラブその他諸団体・諸組織に宛て、わたしへの「詰問書」を配布すると言ってきている。その殆ど全部は、やす香のこ
とをめぐるこの春以来の、わたしの「私語」「mixi日記」に関係している。押村高と妻朝日子とは、それらの全部を廃棄せよと「告訴」「訴訟」の名におい
て要求している。
なにより、それらはわたしの「著作」であり、日記文芸、またエッセイという「創作物」である。
またこの間両家に会話・対話が全然不可能だった以上、それら「日録」は、字句をつまみ食いした詰問内容のすべて不当なことを、経時的文脈において正確に
示している資料であり、読み返せば、すべて判明する。まして告訴を前提にした廃棄請求になど応じられるわけがない。
ものごとは、日かずを経つつ、いろんな側面をみせては<ruby><rb>変容</rb><rt>〓
<rk/>〓</rt></ruby>し、<ruby><rb>転移<
/rb><rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>してゆくものである。そのものごとの経
緯を<ruby><rb>記録</rb><rt>〓<rk/>〓</rt>
</ruby>するのは、創作者の日々の「用意」というもの。「歴史」に幼来熱心に学んできたわたしの「方法」は、そうした推移や変転のなか
から「人間」のいわば秘密をつかみだし「表現」することにある。だがかなしいことだ、客愁に生きる者の、はかない夢よ泡よと、識ってする、「創作」といえ
ども、やはり<ruby><rb>愚癡</rb><rt>ぐ<rk/>ち<
/rt></ruby>のわざに相違ないことは。
* 山形県から、ホームページを閉じるなんて、ぜったいやめてくださいと言ってきた「中学三年生」は、なんとなく同年である孫みゆ希との対照で、男子と勝
手に想像していたが、中三女子、女の子であったと知れた。失礼しましたね。ごめんなさい、ありがとう。
* 八月十二日 土
* 秦 先生 『死なれて・死なせて』を、ミクシイの電子版で拝読していましたが、やはり、活字のほうがと、「湖の本」版を取りだし、読みはじめま
した。
先生の掌中の玉、白珠乙女をお思い申しての、わたくしのモゥンニング・ワーク(=悲哀の仕事)でございます。
以前、拝読しましたときにもまして、作家の厳しい自己裁断に息を呑み、「死なせた」存在としての自分がつよく意識されました。
『源氏物語』の読みを変えてくれたのも、『死なれて・死なせて』でしたし、「死なれる・死なせる」というキイ・ワードで諸々の書を読むことも、この書から
学びました。
しかし、この度は、拝読していまして、先生のこのほどのお悲しみ、痛苦に思ひの及ぶことがしばしばでございました。あたかも、今のお悲しみが予見されて
いたかのような個所もあり、「言の葉もなし」、謡の一節でしたか、ひそかにつぶやくばかり……。
奥様がお倒れなされた由、これも心の痛むことでございます。どうぞ、おだいじに。大切な背の君のためにも早く、ご恢復なさいますよう。先生もご心労のあ
まり、お身体を損ねることのありませぬよう。白珠乙女が守ってくださいましょうが、わたくしにも祈らせてくださいませ。 香
* どうやら、押村の「告訴」するぞという<ruby><rb>威嚇前提</rb><rt>〓<
rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>の争点が、だいぶ<
ruby><rb>推移</rb><rt>〓<rk/>〓</rt><
/ruby>して来ている。現在までに、わたしの方で処置済みのことを、整理しておく。
一、朝日子名の著作<ruby><rb>全部</rb><rt>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>を、希望を容れ、「ホームページ」からすでに削除してある。
二、押村夫妻が「ホームページ」から外して欲しいと懇願し切望する「創作物〓『聖家族』」を、押村夫妻の言う理由からではなく、「作者の一存」で、すで
に外してある。
三、『生活と意見=闇に言い置く 私語の刻」の全部 (=現在58ファイル、原稿用紙換算すれば何万枚に相当)を「全削除」との要求に対しては、過剰で
不当な「著作権侵害」であると拒絶し、その一方、或る「決意」から、やむなく「准・全削除』作業にも慎重に取りかかっていた。
ところが、「<ruby><rb>全</rb><rt>〓</rt><
/ruby>削除は求めない、押村夫妻に関する個所のみでよい」と急に変更されたので、それならば、請求側の当然の手続きとして、押村・朝日子両
名、それぞれの「データ(=ファイル・ナンバー、何年何月何日の何段落め、どの文面等) 」の正確な提出を求めた。大海の中で鰯の一尾、一尾を探して釣る
ような作業であり、それは、わたしの負う仕事ではないからである。請求側からデータが提出されれば直ちに検討し、「もっともな希望であれば即時削除も
<ruby><rb>吝</rb><rt>やぶさ</rt></ruby>か
でない」と答えてある。
同時に、当然ながら、取り組んでいた「准・全削除」作業は<ruby><rb>停止</rb><
rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>し、<ruby><rb>復旧
</rb><rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>を考えている。
四、それでもなお、「告訴」「訴訟」をもし強行すれば、「二」は直ちに「復旧」し、「三」には、十四年前の「非礼」と不幸な「何の関わりもない孫と祖父
母との断絶」にも溯り、また別の、或る重要な「情報開示」も求めて、裁判所で、夫妻の反省を望むことになると伝えてある。
* これに対し、押村夫妻は、上の「三」の範囲を、今回「やす香」の、入院前から遠逝に至る辺りに限定し、『生活と意見』内の「関連個所削除」を求めて、
それが容れられれば「告訴」「訴訟」しないと告げてきた。
その趣意は、「記事がやす香の死の尊厳をそこなうから」だとあるが、実は、やす香の死に、家族も病院も咎められる何もないという<
ruby><rb>保証</rb><rt>〓<rk/>〓</rt><
/ruby>を得たいのが関心事のように推察される。
わたしにも妻にも、孫やす香を喪った痛恨・悲苦こそあれ、そしてそれはやす香の両親にも妹にもより深いと十二分に知ってこそおれ、押村家を法的に弾劾す
る気など毛頭あろうワケが無いのである。
しかも祖父母は、思いあまる「死なせた」くやしさを感じ続けている。
そもそも吾々の全員に、「死なせた」という人間としての痛悔がなくて、やす香はどう浮かぶ瀬があるかと、わたしは悲しむ。だから、やす香を喪って直ち
に、わたしは、著書『死なれて死なせて』の「mixi」連載を開始し、関係した大勢の人にも、「悲哀の仕事=MOURNING
WORK」の何たるかを伝え始めた。
最大の関係者である押村夫妻が、それを心静めて読みもしていないことに、そして父のわたしを「殺してやる」などと「絶叫」することに、わたしは実に驚愕
するのである。
* ともあれ、上の請求には、上の、「三」の第二段落、を以て答える。厖大な量の文章から、そのごく一部を探し出すことの大変な難しさを、わたしが負うて
することではなく、削除して欲しいと求めている側が、「データ」として具体的に提示すべきなのは、あまりに当然の手順だろう。(妻が少し試みても、とても
探し出せなかった。)
* 押村家は、もう、「告訴」「訴訟」「誹謗文書」配布という「威嚇」を先立てて、あれこれ老親に対し高飛車に「要求」するという悪手段を、まずきれいに
撤回し、むしろ「今回やす香のこと」で、終始一貫祖父母に対し、何一つ「報知」「説明」「相談」しなかった非礼をこそ、真っ先反省するのが道だと言ってお
く。
* それでもなお理由薄弱で無謀な「告訴」「訴訟」の強行となれば、「争点」は、押村家の予想外に (または懸念している方面へ)重大に展開してゆくだろ
う、確実に。
* 押村夫妻は、なにより真っ先に、こう言ってくるのが当たり前でないのだろうか。
「告訴」は撤回します。十四年前の「非礼」へも溯って反省し、当時の暴言はみな撤回してお詫びします。「やす香」の遺志を深く思って、総ての回復と前進
へ、両家で立ち向かいましょう、と。
* 妻が、気持ちをひきしめ、しっかり立てるようにと、八月は行かないはずでいた歌舞伎座に連れて行って欲しいと言う。<ruby><
rb>終日</rb><rt>とおし</rt></ruby>はとてもムリな体力だが、幸い八月
納涼歌舞伎は三部制なので、一部だけ、成駒屋に頼んで席を用意して貰った。少し気が晴れるだろう。
高麗屋からは十月の大歌舞伎の案内があった、九月の秀山祭もとうに頼んであるが、十月もぜひ楽しみたい。
幸四郎は昼の熊谷陣屋、夜の初役・髪結新三。仁左衛門が勘平腹切や「お祭り」など昼夜に活躍の予定。なにより市川団十郎の無事の舞台をぜひ観たい。忠臣
蔵では、海老蔵がはまり役に想える、例の中村仲蔵の伝説をしのぐ、秀逸の斧定九郎を観てみたい。美しい菊之助にも逢いたいし。
高麗屋は、十二月国立劇場という案内も来ている。真山青果の元禄忠臣蔵の通しである。
* 八月十二日 つづき
* 押村朝日子・高夫妻は、わたしを「告訴」「訴訟」と決したらしい。午后十時ごろにメールで伝えてきた。受けて立つしかない。メール差し出し署名は、
「押村朝日子・高」となっている。告訴・訴訟は主として朝日子がするものと読むしかない。
* 朝日子が「父告訴」「父訴訟」を強行するのでは、いかなるわたしの配慮ももう無意味になった。
ホームページから消去し、「たいへん感謝します」と言われていた創作『聖家族』も、元通り公開する。『生活と意見』を含むホームページを撤収する必要も
まったくなくなった。「准・全削除」しかけていたファイルも復旧する。
* 明日から、不快な日々がつづくが、わたしは、朝日子とちがい、「法」よりも、「人間の真実」を大事に思う。父は無価値な「信義」をせいぜい言いなさ
い、自分は、朝日子自身は、ひたすら「法」「法」で、父を打ち倒してみせると言ってきている。なにをか言わん。
* 八月十三日 日
* 押村やす香の母、わたしの実の娘朝日子が、やす香の祖父、自身の父であるわたしを、「告訴する」「訴訟する」と決めた由、昨夜、「朝日子・高」という
連名で伝えてきました。夫とは、やす香父である青山学院大学教授、教育哲学などを教えているであろう、押村高氏です。
訴状はまだ届きません。何を以て娘が父をと、異様さに、おののく思いです。
「死を受け容れたやす香」の死への静安を乱し、わたしが「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈り続けたのを、押村家の「方針」も知らないくせにと朝日
子が激昂し、わたしのことを「殺してやる」と「絶叫」したと、夫押村は、!!付き、でわたしに対し確認しています。
「方針」?よほど「隠された事情」があったのでしょうか。
推測を出ませんが「終末期医療」にかかわる「安楽死」へと、「肉腫」の診断が定まった決定的な手遅れの当初から、病院と家族とは「方針」として何かを
「協定」していたのでしょうか。病院職員に妻がいろいろ尋ねましたとき、「お母様がすべてご存じです」「病院として延命のためには何もしていません」と聞
かされています。
安楽死問題は、世界的にも、日本国内でも、まだまだ容易ならぬものです。これは自然死を本来とする「尊厳死」ではありません。「輸血停止」劇薬投与等に
よるいわば人為死・医療死に至る、法的に関係者で協定されたいわゆる「方針」と思われます。情報開示を求めていない以上は、やす香の場合推察に過ぎません
が。
じつに正確に母朝日子の誕生日<ruby><rb>迄</rb><rt>〓</rt>
</ruby>「<ruby><rb>生かされていた</rb><rt>〓<
rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>」とも、今になれば受け取れる感じがあります。感触ですが。
もしも安楽死なら「インフォームド・コンセント」「説得された患者本人の承諾」は、法的にも人道的にも正しくなされていたのでしょうか。そもそもやす香
は平静に「死を受け容れた」などと言い得るのでしょうか。あんなに「生きたい」と叫び「くやしい」と呻いていた十九歳の、烈しい病苦のなかの、やす香が。
見舞った、わりとまだ早い段階でした。母・朝日子から、「生きているやす香に逢うのは、もう今日だけよ」と釘をさされ、ギョッとしたことがあります。な
んでそんなことを言うのか?!
しかし、その後日にも重ね重ね見舞って、やす香に逢いました。死の三日前、七月二十四日には、祖父母と叔父とは、明らかにやす香と「対話」しています。
やす香の脳は、言語能をまだしっかり保っていました。喪っていませんでした。
ところがその一両日後、「永眠」の前日ぐらいに、なんと「輸血が停止され」た事実を知りました。自身で聴いた、見聞した?と、「mixi」ではっきり語
り、<ruby><rb>日時</rb><rt>〓<rk/>〓</rt>
</ruby>まで<ruby><rb>定められて</rb><rt>〓<
rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓</rt></ruby>いたかの
ようなやす香の最期を伝え聞いてその友人は号泣したとも記録されています。
やす香は何度も、目はつぶってても「耳は聞こえているよ」と言いました。やす香は何を聞いていたでしょう、「輸血停止」と聞いたかも知れない、その瞬
間!わたしは繰り返します。やすかれ やす香 とはに生きよ けふも。
* 押村夫妻に、わたしの「ホームページ」からぜひぜひ外して欲しいと懇願されていた創作『聖家族』(未完成・未推敲)は、わたしの一存で消去していた
が、「告訴」「訴訟」を決行するという以上、もとへ戻して、このまま<ruby><rb>広く</rb><
rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>読まれることに期待したい。
なぜそうも執拗に「外してくれ、外してくれ」と告訴・訴訟で威嚇してまで外して欲しかったのか、外せばたちまちに「深く感謝します」となぜ喜んできたの
か、<ruby><rb>語るに落ちた真相</rb><rt>〓<rk/>〓<
rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>も、読者は推知されるだろう。
わたしはこれを「奥野秀樹の作品ではない。遺書である」と作中人物の名をかりて冒頭に明記している。事実、<ruby><
rb>そうなる</rb><rt>〓<rk/>〓<rk/>〓<rk/>〓<
/rt></ruby>だろう。
* 朝日子に父を「告訴」させまいと願い「決意」した大きな「理由」を明記しておく。
「争点」の一つに、「安楽死」問題が不審・疑念として浮かび上がるのを、朝日子の為に避けたかった。
その危惧と推測とは、昨日より以前に押村家に伝え、「理解して頂いて感謝する」と言われていた。
そのあげく「告訴」「訴訟」になった。
法的なことは知らないから、言わない。「輸血停止」等の措置が行われて、<ruby><rb>計算</rb>
<rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>したようにやす香の「死」が為されたらしい措置が、す
くなくも不審や疑念とともに法廷で話題になるのを、わたしは避けたかった。他の誰にも秘めていただろう朝日子(例外的に只一人朝日子から知らされていた人
がいたらしいのを、朝日子自身が語っているが。)の十字架を、それ以上重くしたくなかった。久間十義氏の『聖ジェームズ病院』を読んでいて、あんなきたな
い取材や裁判の渦巻きに朝日子が巻かれかねないと思い、とてもイヤな気がしていた。
* なぜ此処にこういうことを「書く」のか。
相手を刺戟し、相手に手の内を明かし、「みんな父さんの損になるよ」と息子も妻も言うが、そんなことは百も承知している。
わたしは「物書き」以外の何者でもなく、それしか生きる道も処世の道ももたない。書いて人の胸にうったえる以外<ruby><
rb>手</rb><rt>〓</rt></ruby>はない。それが法にかなうかなわぬは、知
らない。わたしが、わたしに、「書いてうったえよ」と奨めることは<ruby><rb>書く</rb><
rt>〓<rk/>〓</rt></ruby>のである。
賢いことでないと言われても、賢いというのはそんなに尊いことかと思っている。最後にやす香に聴こう。
2006年3月07日16:36 backtothefuture?
未来を向いて生きることって
すごく難しい。
だって未来は見えないから。
でも私たちは
いつまであるかもわからない
そんな未来を向いて
生きなきゃいけない。
過去を振り返るのはすごく簡単。
だって過去には
明確なビジョンがあるから。
どんな過去だろうとそこには
実際に起こったこととしての
記憶がある。
だから後悔したり、
こうだったらよかったなぁって
記憶をもとに
夢を描くことも簡単なんだ。
でも私たちは
未来を向いて生きなきゃいけない。
夢は未来に描かなきゃいけない。
どんなに不安でも、
どんなに怖くても、
生きなきゃいけない。
私は生きる意味なんてないと思うんだ。
…というか
あるかないかは人それぞれ。
夢をかなえる為に生きる人、
人を愛する為に生きる人、
ただただ楽しむ為に生きる人…
生きる意味をみつけるために生きる人。
そんな目的もみいだせなくて悩む人。
意味なんてない。
ただ生きてる。
それだけ。
だけど私たちは
自分じゃない人=他人と
必ず関わって生きてる。
家族、友達…。
誰かに愛されて生きてる。
誰かに必要とされて生きてる。
生まれてきた時点で
誰かにお世話になって、
誰かの力になってるんだ。だから生きなきゃいけない。
例え今私が死んだって地球は回るよ。
そう思ったら、
自分の存在なんてものすごくちっぽけなもので、
虚しくて壊れてしまいそうになる。
だけど、
生きたくても生きられない人がいっぱいいる。
生きててほしい人に
死なれてしまう人がいっぱいいる。
そんな人たちを前に
自分の命を粗末に使うことは
私にはできない。
生きなきゃいけないって思うんだ。
それに、
私には大好きな人がいっぱいいる。
みんなにも大好きな人がいるでしょ?
その人が
自分が死んで悲しんでくれるかはわからないけど
少なくとも私はみんなとまだ別れたくない。
どうしても生きなきゃいけないなら、
たとえ未来がわからなくて、
どんなに不安で
どんなに怖くても
明日、今の楽しさが
虚無感にかわっても、
それでも今を楽しむ。
今を大切にする。
どんなコトしてたって
必ず明日に繋がるんだから。
寝てるだけでも
体力温存になるんだよ(笑)
* 八月十三日 つづき
* 今日一日、超多忙のあいまに建日子は、なんとか、押村家と会おうと折衝をつづけてくれたが、「法的システム」はもう動いている、来てもムダだよ、と。
わたしは建日子の奔走に感謝し、代理人にペン会員である牧野二郎氏を依頼した。躊躇わなかった。
* 日記は、いわば一回読み切りの連続ドラマに見えて、さにあらず、大川のように流れて行く連続ドラマであり、その文脈において眺めるとき、ときに長編小
説よりも興趣に富み躍動し、また悲劇にも喜劇にもなる。「日記文芸」とはそういうもので、日付こそなくても『蜻蛉日記』を始めとし、現代に至るまでの充実
した日記文学には、やはり独特の味わいがある。「創作」なのである。訴訟・告訴などというコトよりも、重いものである。
* 弟・建日子の説によれば、姉・朝日子は、父親に百パーセント「無償の愛」を求めているのではないかと言う。翻訳すれば、秦恒平にはいつも文学ないし
「書く」こと、また自分の信念や思想にしたがって生きることが先立ち、何が何でも子供が一番、ではない。たとえ子が何をしでかそうとも理屈抜きに子の味方
というところがない。めったに褒めない、遠慮無く批評する。あれが「大嫌い」というんゃないかと。
ハハーン?!