編集者でなく、作家の秦
恒平を語った長編の批評・論考であり、作家自身で読んで取捨すべきものと、少なくも現段階では思いにくいので、正直のところ編輯者としても読まずに、ただ
掲載している。得てきた書評、作品論、作家評等は数多く、目の通せるものは読ませてもらってきたが、長大な真っ向「秦
恒平論」となると、読者、批評家の批評に先ず待つのが至当と考えた。
筆者は香川県在住り作家で、多年秦 恒平の読者でもある。 2016.07.25 掲載
秦 恒平論
異界を歩く・・生きる手立てとしての小説
榛原六郎
【序】 私語の刻
ホームページ「作家秦恒平の文学と生活」に「闇に言い置く―私語の刻」という、ときに癇癪をおこしながら秦恒平が日々の生活と意見と思索過程を開陳する
きわめてヴィヴィッドな場がある。その「私語の刻」(以下、「私語」と記す)に、十年前の作品『北の時代=最上徳内』跋文からわざわざ引いて、現在に転記
した文章がある。
この数年、私は、気晴らしに翻訳のスパイものやミステリーの類を少なくとも二百
冊ぐらい読んできたが、どんなに気晴らしにはなっても深い喜びを得たとは言えない。
読むとたちどころに忘れてしまう。だが、たまたま古本屋で手にした例えばヘッセの
『車輪の下』などを懐かしく読み返しはじめると、もう何ともいえず優れた文学にま
た逢えた嬉しさに胸の底まで満たされ励まされる。オースティンの『高慢と偏見』で
も鴎外の『阿部一族』でもそうだった。みな何度めかの読書であるのに、しみじみと
する。そういう作品は、もう、一行から次ぎの一行へが、すばらしい「旅」そのもの
のように私を魅する。そして、そういう小説が書きたいなと思う。ねがう。文体と文
章そのもののうねりに乗って、乗せられて、それが嬉しい楽しい面白いという作品に
出会ってみたいし、書きたい。
いうまでもなく小説の本来(あるいは、本来の小説はというべきか)は、それをもうひとつの現実と見做しうるかは別問題であるにしても、いま、ここにある
現実とは異なるもうひとつの、あるいはその複数の錯綜する世界を現出させることにその主たる存在意義をもつ。そうして、「いま」を生きる私たちのこのがん
じがらめの、まるでその解釈のみが許されているかのような現実世界とは別種の、ある意味で自由な時空において、そこに幾人かの登場人物があらわれて、さま
ざまな人生の断面を垣間見せてくれるそのことが読者の楽しみとなり、糧となり、そして「いま」をも幻覚させる、その健全・健康が文学の力のもっとも端的な
現われであることに一厘の疑いももちえない。
もちろんそこには、どのような作品を「嬉しい楽しい面白い」と感じるかの差異があり、その差異を生み出す、たとえば闇に潜む木犀の花芯のような章句が、
文学の香気の源であるといえばいえるが、しかし別段そのような文学の深い香りを求めずとも、そのときの興味を満たしてくれれば、あるいは形はどうであれ、
その味がよければそれでいいと感じて、まるでケーキを食するように小説を読む人たちがいて、というよりも、そのほうが小説読者の圧倒的多数であろうし、そ
のような食欲旺盛な読者によって小説が支えられているそのことに異義を差し挟む要もなければ、そんな健康で食欲旺盛な読者を目線に作品を産み出す小説家に
いささかの忸怩のあるはずもないと言い切って、さしたる齟齬はないであろう。
たぶん、小説とは商品であるべきものなのだ。しかし、その商品であるべきものの価格を決めるのは生産者ではなく、もっぱら消費者である読者の恣意に委ね
られる。作者に定価設定の権限はなく、価格変更さえもままならない。そうして、売値を定めるのが読者の関心と支持であるゆえに、読者の望まぬものを供する
ことはいかにしても避けねばならぬと作者は厳に自戒しなければならない。少なくともいっぱしの小説家として立つ慾をもつのならば。
秦恒平は、この関渉から隔絶している。すくなくとも、小説のその宿命を知り得たそのときから氏は、わたしがここにその数多い著作・講演・発言・「私語」
のなかからいくつかの文章や言辞をとりだして偏視的に語ろうとする作家秦恒平は、さきの、多くの小説家がそれを暗黙裡に甘受している関渉から敢然と離脱し
ている。それをいいかえて、氏は、読者を目線に作品を生み出すことのその甘味料の効能をしりつつ、使用を自らに禁じているといってもよい。
もちろん、氏の作品が味の薄い精進料理であるはずはなく、ときに食材の多彩にたじろぎ、味の濃厚にいささかとまどいはしても、やがて、その多彩・濃厚の
なかにひそかな、そして妖しい魂の震えの隠されていることに気づくとき、氏の作品の奇妙な立ち位置が理解される。そうしてその理解は、氏の作品が、まず
もって氏自身の必要から生み出されたものであることを教えてくれる。
さきに記したごとく、冒頭の引用文は、氏自身による「私語」への再録であり、十年前に発表した小説の跋文から写したものであるのだが、それが過去からの
写しであるとの注記を不要とするごとく、書かれてあることの本意は秦恒平の現在に通底する。否、むしろその偏位の度をましているようにさえ観察されるので
ある。
その、あえて氏が「私語」に写した文章のつづきに、こんな一節がある。
この『北の時代=最上徳内』は、こういう歴史の世界にうとい、興味のない人には、
とっつきにくいかも知れない。歴史ものは好きだといいつつ読み物=時代物に馴れて
いる人には、かなり骨っぽいだろう。そういう人ほど、先を急がないで、よく干した
堅い干魚を焼いて噛むような気で、ゆっくりと一行から次の一行へと長い「旅」を味
わう気で読んでみて欲しい。むかし、今は亡い安田武という読み巧者が、「秦さんの
文体はアヘンなんだよ、いちど嵌まってしまうと、抜けられないんだ。ただそこへ行
くまではシンドカッタ」とよく慰め励ましてくれたが、文体だけでなく、作品の発想
や展開にも読者にシンドイめをさせる「病気」が抜けない。お付き合い下さる方々に
は頭を下げるよりない。
いうまでもなく、氏は読者に背を向けているのでもなく、差別化しているのでもない。ただ迎合しないだけである。
作品を創るとき、まず氏の思念は「それが嬉しい楽しい面白いという作品」になるかの一点に絞りこまれて、よし、と糸が集められ、さまざまな、あえていえ
ば数奇な運命をそこに折り込みつつ自在かつ絢爛たる作品が編み出されるのだが、そこに形を現しはじめたものを「嬉しい楽しい面白い」と感知するのは氏自身
であって、読者はそこに、その姿を現さない。もちろん、作者の念頭に読者の影のないわけはなく、やがて、作が進むにつれて読者の目が意識されるようになる
が、しかしそのときにおいても、筆頭読者は作者自身であって、ほかではない。
そして、その入れ籠のごとき創作の過程において作者は、読者と対話することよりもむしろ、作中に登場する、たとえば薄運の解語の花に問い、嘆き、慰撫されることによってひそかに血を沸き立たせつつ、独自の作品世界を開くのである。
それはいってみれば、一人の持者が霧中の漂いのすえ迷いこんだ曼陀羅界のようなものであって、その曼陀羅の渾然一体から、作品は機を繰るように紡ぎださ
れるのだが、その見事な機さばきによって妖しく紡ぎだされ、われわれを異次元に誘い込む作品のひとつに、『みごもりの湖』がある。
氏の文壇登場のきっかけとなった『清経入水』からつづく、主題、構成、手法のいわば集大成、「頂」として氏を語るに欠かせない作品であり、氏の代表作と
いってもよいその『みごもりの湖』を発表した直後の竹西寛子との対談において、秦恒平は自己の幼少年期にふれつつ、創作の内奥を、かく披瀝している。
友達を余り持たないでいたものですから、一人座敷に寝転んでよく空想にふけってい
たんです。畳の目一目の幅がちょうどこの地球の広さと同じ、というように観念的に
空間を拡げる遊び方、あるいは、同じ畳一目の広大な空間での一瞬の内にも無際限の
時間が動いている、という直感的な遊び方。しかもそんな巨大な小宇宙がいろんな具
体的な状況や事件を重なり重ねつつ、自分の身のまわりに無量不可思議に重複して実
在しているのだという確信を楽しんでいたのです。空想を極端に押し展げていくこと
によって、つまり非現実の莫大な量によって現実を相対化しえたときに、初めて現実
に生きていく上での条件が腹に入るだろう。できることならば空想でなくて、想像力
の領域でガッチリ受けとめたい。
そう語られるここには、あきらかに秦恒平がいる。だが、それにしてもなぜだろう。なぜ、空想の遊びのなかにあらわれる「いろんな具体的な状況や事件」
が、「自分の身のまわりに無量不可思議に重複して実在している」と「確信」できるのか。そしてまた、いかなる理において、そこにある「空想を極端に押し展
げていくことによって、つまり非現実の莫大な量によって現実を相対化しえたときに、初めて現実に生きていく上での条件が腹に入る」のか。そしてなにより、
なぜ、「非現実の莫大な量によって現実を相対化し」なければならないのだろう。そこに、さまざまな疑問が涌いてくる。
むろんいうまでもなく、これらの疑問点をこれからわたしは、わたし流に解読していくつもりなのだが、うちあければそれは本論の要旨となるものであって、
多方面からの、そして秦恒平の内奥からの考察を必要とする。よってここでは、そこに疑問符があることだけを述べて本論に入る。
案じなくとも大丈夫。用意はしてあるので、ゆっくりと。
第一章 少年
そう遠くない過去に、生島遼一という文学者がいた。鏡花作品の私的愛玩者だった。その彼が、泉鏡花について書いた多くの文章の嚆矢に、つぎの一節がある。
鏡花は雷がきらい、犬がきらいだったそうだ。こうした子供っぽい恐れ(二字傍点
)、これがこのひとの作品の基調となっている童心の詩と無縁でないような気がする。
芸者とか大学教授とか芸人とかおとな(三字傍点)を描いても、みんな子供っぽい感
受性から見て書いている。古風な義理人情の支配する世界を書いたように思うのは、
有名になった芝居からくる錯覚であって、鏡花の文学の本質はそういうものではない
と、私は考えている。もっと非常識な童心の詩である。
(岩波書店『鏡花全集』第十三巻月報・「鏡花のこと」)
むろんこのような解釈が正鵠を射ているとはいえないだろう。もっと深く読み解いて余りある自在、変幻を鏡花の作品群は蔵しているし、「童心」の語にふく
まれる、人生の錬磨によってやがていつのまにか見失われる覚醒の稚い核(さね)のその意味するところをあらかじめ解いておく必要もある。
が、そのような留保をのぞけば、さきの生島の解釈は、たしかに鏡花の内奥を明かしている。そしてそれは鏡花への親炙からもたらされた直感の堅さを示してもいる。
わたしが秦恒平を師として、おそまきながらその作品世界を覗くようになったとき、まず氏からとどいたメッセージは、歌集『少年』をぜひ読んでみてくださ
いというものであった。むろんその促しは、わたしの父が歌人であって、その父の薫陶というよりは断続的な影響下に、遺歌に誘れて『石火のごとく』という私
小説をわたしが書いたことを機縁としていて、そこには、「わたしも短歌の世界から出発しています」との言葉がそえられていた。が、わたしは、それらの言葉
を単なる挨拶と受けとり、さてと、まず繙いた秦恒平の作物は『みごもりの湖』であった。そして、そこに錯綜する世界にある種の異物感を覚えた。
読みにくいな。それが正直な感想であった。そこに籠められた虚実の錯綜にたじろいだというようなことだったかもしれない。迂闊であった。そのときのわた
しは、自己を尺度として、そこから秦恒平を測ろうとしていたのである。このような読みからは秦恒平の作品世界はいっかなその厚い扉を開こうとしない。よう
やくにして、いつもの読書とは異なる読みのあることに気づき、森を経巡るように氏の著作の多くを通読したいま、あらためてその感を深くするとともに、ふり
かえって、氏からいただいた、少年を読んでみてくださいとの言葉は、わたしへの暗示ではなかったかと感じている。あれは、氏の隠された自己紹介ではなかっ
たかとの思いを抱かざるをえないのである。それほどまでに歌集『少年』は、氏の出自を胎んでいる。
恒平少年は小学生のときから短歌に親しんでいたという。その初期の、昭和二十六・七年、作者十五・六歳のときに詠まれた「菊ある道」と題する一連の歌のなかに、つぎの二首がある。
窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
うつくしきまみづの池の辺(へ)にたちてうつらふ雲とひとりむかひぬ
とても十五・六歳の少年の作とはおもえぬひとつの様式美さえ具えたこれらの歌に見いだすのは、思春期の抜きんでた早熟というよりは、架空の、たとえてい
えば他者の目でみる自画像のごとき小宇宙への親近であり、感覚の繊細を観念の厚膜が蔽って、歌は薄味の餡をつつんで美しい干菓子のごときものとなってい
る。
だが、このことをさきの生島遼一の言葉に絡めていえば、そこに眠っている「童心」は、まるで自己の持ち物ではないかのごとく装われていると、わたしに映
る。その装いはそこに秘めているものを隠しているというよりは、むしろまだその面妖に、そしてそこから齎らされる痛苦に気づいていないと見たほうがよいだ
ろう。だがやがて、「うつらふ雲とひとりむかひ」あっていた少年は気づくのである。そこにいる「われ」が「私」と読み替え知覚して、収まりのつかぬもので
あることに。
うす雪を肩にはらはずくれがたの師走の街にすてばちに立つ
年を重ねてここに茫漠と、雪の降る「くれがたの師走の街にすてばちに立つ」十七歳の少年の欝屈は、われわれが自身の青春に重ねて想起するものに近しい。
が、しかし、少年は怒りに目を見開いているのでもなく、一心になにかを凝視しているのでもない。あえていえば、青年期にふみこんだ「われ」の変異にひるみ
つつ、瞑目している。そして耳を澄ませている。誰かの「われ」をよぶ声に。
この青春の哀歌の前に、きわめて興味深い一首がある。
山かひの路ほそみつつ木の暗(くれ)を化生(けしょう)はほほと名を呼びかはす
なんど聴いても印象の細らぬいい歌である。そして、この印象深い歌の前に詠まれたもうひとつの歌。
しかすがに寂びしきものを夕やけのそらに向かひて山下(お)りにけり
「うつらふ雲とひとりむかひ」あっていた少年の面影は、あきらかに消えている。だがそれは、少年が青年になって視界が変ったというようなことではなく、
青年となった「われ」が、「われ」の空白に親和しつつ、そこに秘匿しつづけている「童心の詩」世界を表現する言葉をようやくにして、見いだしたということ
ではなかったか。そしてそれは「渇き」の発見を経て、「不遜」の自覚へと「われ」を導く。
汚れたる何ものもなき山はらの切株を前に渇きてゐたり
羊歯しげる観音寺陵にまよひきて不遜のおもひつひに矯(た)めがたし
ここに目覚めた凝視の目は、身を刺す針となって、十七歳の「われ」を苛む。
なにに怯え街燈まれに夜のみちを走つてゐるぞわれは病めるに
アドバルンあなはるけかり吾がこころいつしかに泣かむ泣かむとするも
鉄(かね)のいろに街の灯かなし電車道のしづかさを我は耐へてゐにけり
「光かげ」と題する一連の歌に順列する、「われ」「吾」「我」の急激なる変異は、いったいなにを意味するのだろう。そのすこしあとに、こんな歌がある。
ほろびゆく日のひかりかもあかあかと人の子は街をゆきかひにけり
街をゆきかう「人の子」と「われ」は峻別されて「我」となる。その孤絶に、「我」は呻く。
うつつなきはなにの夢ぞも床のうへに日に透きて我の手は汚れをり
生々しき悔恨のこころ我にありてみじろぎもならぬ仰臥(ぎやうぐわ)の姿勢
散らかれる書物の幻影とくらき部屋のしひたげごころ我にかなしも
ここには、言い尽せぬ忿懣をもって、ようやくにしてそれを明かす言葉を得た「痛苦」を生きるもうひとりの「我」が写されている。だが、そこにむくと起き
上がった「俺は」、「灯の下にいつはり死ねる小蟲ほどもいきようとしたか」と「我」に問うのだ。そして、その「虚飾」の擬態を嘆きつつ、こう詠う。
まじまじとみつめられて気づきたり今わらひゐしもいつはりの表情
ここにあるものを青春のゆらぎに一般化することは可能であるが、そんな表面の理解を凌駕する孤絶、悲しみ、悔恨がそこに埋もれていて、「我」を縛る。そうしてその孤絶、悲しみ、悔恨は、青年となる日の儀式のごとく「我」の刺青ともなる。
だがしかし、青年になるということは一つの蘇生でもあって、「灯の下にいつはり死ねる小蟲ほどもいきようとしたか少なくも俺は」と、深い詠嘆のうちに
「我」を凝視したときから「生」は胎動して、「つもりつもるよからぬ想い宵よりの雨にまぎるることなくて更けぬ」ままに、「馬鹿ものと言はれたことはない
などと小やみなき雨の深夜に呆(はう)けてゐたり」する「我」の顔を、「きみ」に「まじまじとみつめられて」、ふと気づくのである。自分のまわりにも明る
い日の差す世界のあることに。
目に触るるなべてはあかしあかあかとこころのうちに揺れてうごくもの
「きみ」ゆえの青春は、過ぎ行くものである寂寥とともに再生をもたらし、「われ」に針のごとくそそがれていた目は、やがてその視野をひろげて「目に触るるなべてはあかし」世界へと飛翔する。そのことを暗喩する十八歳の歌二首。
ひらきたる掌(て)にまばゆくて春の光(ひ)の胸にとどくと知れば身を退(ひ)く
ひそめたるまばゆきものを人は識らずわが歩みゆく街に灯ともる
解説するまでもない。そして、「ひそめたるまばゆきもの」の正体を明かす必要もまたないとおもう。いずれにしろ、「わが歩みゆく街に灯」はともったので
ある。が、もちろんそこから作家秦恒平が歩みはじめたのではない。むしろ氏の出自は、「うつらふ雲とひとりむかひ」あう、「うつくしきまみづの池の辺に」
あるようにおもわれる。
そうして、そのような視点から、氏の文壇登場の機縁となった小説『清経入水』に目を転ずるとき、そこに歌集『少年』と連還する「もっと非常識な童心の詩」のあることに気づく。
夢であることを知っていた。それどころか、同じこの夢をつづけて何度も見ていた。
夢の中では一本筋の山道を上っていた。
『清経入水』の書出しである。ここに話者として登場する、夢の中で「一本筋の山道を上ってい」る「僕」は、「しかすがに寂しきものを夕やけのそらに向か
ひて山下りにけり」の歌に現われる「われ」の末裔であると、わたしに映る。そうして、「僕」に変じた「われ」が、「夢の数を重ねるにつれ」、姿の見えぬ
「女」「童子」「年寄り」たちの「いかにも物静かに何か話しているらしい声音」になじみつつ、そこに覗く隔絶に「虚しく佇ちすく」むさまは、まるで「木の
暗を化生はほほと名を呼びかはす」「山かひの路」に行き惑う、あの薄闇の再現であるなと、ひそかに感ずる。
むろん、これらは比喩であり、推量でしかない。だが、先の書出しのあとにあるつぎのような一節に触れるとき、そこにある「童心」のゆらぎが、『少年』の
「詩」世界と同質のかがやきを発光していることに気づかされて、ふむと、両者の符合をいうわたしの当てずっぽの準拠を得たような心地がする。その『清経入
水』序詞の一節。
笑いをまじえたたのしそうな声音はいつもすぐそこに聴こえた。あけてもあけても襖
の向うは人のいない部屋だった。光が溢れていた。哀しかった。耳の底にたちまよう
それは僕の存在も憧れも寂しみも何一つ関わることのならぬ、あけひろげな、談笑の
幻でしかなかった。
ここには、孤絶、悲しみ、悔恨を昇華したひとつの世界が窺える。それは、いわば、秘められた「童心」の小世界の隧道を通り抜けて薄闇に開けた意識の時空
であって、そのまじりけのなさが意識の純を証しているが、山巓から落ちた岩が、流れに揉まれ、削られて丸石となるそれではなく、日に晒すことを避けとおし
た肌が、赤子のそれのごとくやわらかであることに似て、そこに覗く意識の粒は、そのどれもが摩滅の痕跡をとどめない。
が、これはまことに奇妙なことといわざるをえない。人は、これほどまでに、いってみれば暗室で「われ」を純粋培養するがごとくに「童心」を保ちつづけられるのだろうか。このことにまず驚く。そして、その純粋培養された「童心」の開く世界のなんと豊穣で生々しいことか。
塀板の節穴から外の世界を覗いたことはないだろうか。あるいは山上の望遠鏡で遠くに暮らす人々の表情を追ったことは。あるいはふと、日常の陥穽に溺れる「私」を見つめ続けたことは。
それらの「見る」行為のどれもが、小説をつくる作業の疑似行為であることは容易に想像がつく。しかし、通常それらは、創作行為の前提あるいは前段階で
あって外ではないはずであるのに、秦恒平にあっては、それらの行為は疑似ではなく創作に直結する表現行為となって、独自の世界を現出させるのである。そこ
に想起される、日常がたちまちにして夢幻化する特異にわたしは驚く。そしてその変換の意味をかんがえる。これは異化ではなくて、融合なのではないのかと。
われわれが、自身を「個」として認識するために区画整理し、安心の要に迫られて順序立てている時空間は、その仕切りや配列を、まるでそんなものは創めから
なかったかのごとき無心さの内に喪失して、ひとつの豊穣で生々しい夢幻世界に遊離する。そしてその遊離は、むろん、秦恒平の作意のうちにある。が、その作
意を育んだものは、作者としての修練ではなく、自身にも制御できぬ、あえていえば「欲情」のごときものであって、その欲情を兆させた根っこにあるのは、氏
の生い立ちに眠る弧絶の湖であって、外ではない。すべてはそこに発しているとさえいえるだろう。
広く知られているごとく、氏の生い立ちには受け入れるに難い深淵がある。それは、一人の少年が身に背負うにはあまりに重く、むげちないものであった。「人生」を逆さに歩む心地さえしたのではなかったか。
だが、少年は、そのことを言い出せぬままに、生きねばならぬ。生きて、己れを立てねばならない。その痛苦のなかで、やがて少年はひとつの小宇宙を見いだす。
友達を余り持たないでいたものですから、一人座敷に寝転んでよく空想にふけってい
たんです。畳の目一目の幅がちょうどこの地球の広さと同じ、というように観念的に
空間を拡げる遊び方、あるいは、同じ畳一目の広大な空間での一瞬の内にも無際限の
時間が動いている、という直観的な遊び方。しかもそんな巨大な小宇宙がいろんな具
体的な状況や事件を重なり重ねつつ、自分の身のまわりに無量不可思議に重複して実
在しているのだという確信を楽しんでいたのです。
【序】に紹介して、そこに疑問を点じた『みごもりの湖』をめぐっての竹西寛子との対談(一九七四年)の中に述べられているこのささやかな小宇宙は、むろ
ん、片奇なものではない。つきつめればブッダの覚りにも通ずる深遠さえ有している。が、しかし、それはまた、かのブッダが生誕の折り天を指して、「天上天
下唯我独尊」と宣はしたと俗説の伝える「唯我論(独我論)」の世界への飛翔をも誘導する。歌集『少年』の冒頭一首を思い起してほしい。
窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
ここに、「書(ふみ)読む君」は、「われ」の世界に侵入している。だがしかし、それは、その「まなざしのふとわれに来てうるみがちなる」と想起されて映
像化される「君」であって、たとえば家族の誰かれと言い諍いつつ、手荒く夕食の膳につく少女ではないであろうし、また、「われわれ」として「われ」に併存
する「他我」でもない。「ふと」、「われ」の思念の域に立ち現われて、まなざしをうるませるだけである。
もちろん、それを詠むことになんの疑義のあるわけもなく、そこに感知される意識の鋭敏に、あるいはその純真に、思春期の甘美を写して清らかな余韻を残す
のだが、しかしそこにあるひとつの「形」を、上田三四二氏の頌するごとく、「相聞そのものではないが、それを背景とするこころの顫えと憧れをつたえるよう
な引用歌の、すでにこういう出来上った形を成しているのに注目する」(「初原に触れる『少年』十五首」)だけでは、秦恒平が、なぜ短歌を離れて、小説の世
界に進んだのかの機微を見失ってしまう。
『清経入水』の真ん中に、気になる文章がある。戦時の疎開先「丹波」でひそかに慕っていた年上の少女「紀子」が、年を経て唐突に女子大生として「僕」の
前に現われ、彼女と同じ大学への入学の決まった高校三年生の「僕」を誘って山中で、「僕」にとっては初めての性交を経験したあとの描写である。
紀子は山を出ると、自分一人はタクシーで七条通を西へ消えた。
しびれたからだを熱いぬらぬらした空気がゴムのように厚ぼったく囲んでいた。と
もすると僕はゴムのはずみに負けて真直ぐ立って居れないような、足の先から斜めに
宙へ浮きそうな手ひどい錯乱の波動をじんじん聴いた。十分にも足りない祇園までの
市電の中で腰をかけるのも妙に憚られ、空いた座席をよそに窓の鉄枠にしがみつきな
がら、外の家並が真赤に見えたり薄紫に見えたりすると思い思いしていた。
紀子を愛していただろうか、あのような再会の仕方は僕から愛などという心のふく
らみを奪った気がする。
それが初体験という私的事実のデフォルメされたものであるかどうかの詮索はいらない。平野謙ならばともかく、わたしにはその詮索は、まったく不要のこと
とおもわれる。だが、作者によってここに小説として描かれる初めての異性との性行為が、その虚実にかかわらず、俗にいう「処女を失う」の男性版として「童
貞を失う」、あるいは、「童貞を奪われた」とでもいうがごとき根深い喪失感覚に蔽われていること、そしてその虚脱のあとに、生々しい、もっといえば、おど
ろおどろしい異次元の風景が現われていること、これは何を意味するのであろうか。
一般的にいって、少年が「男」になったとき、面映ゆくはあるけれど、誇らしい、言葉にすれば、「どうだ」というような感覚が沸きでてくるのではないだろ
うか。すくなくともわたしはそうであった。もっとも、それは「どうだ」ではなくて、「うん」とひそかにこぶしを握りしめて、鼻をぴくぴくとうごめかせた程
度のことでしかなかったが。
遡って、『清経入水』をみてみると、ここに亀裂のごとく汚辱のごとく描かれて、皮膚のひきつれにも似た傷痕を感じさせる初めての性交渉は、その以前の、
年上のひそかに慕っている少女「紀子」との、「烈しい雨台風が丹波へ来た」日の雨宿りの岩穴での、甘美な「性」の疑似体験をその無垢なさなぎとしている。
「ほら、あんたも脱いで絞らな。風邪ひくえ」と、すでに服を脱いで、「上半身素裸になって」、艶やかな白い乳房をままに、横坐りの少女は、たじろぐ「僕
の濡れそぼった上着を手早く手伝ってぬがせ」て、それを「自分のぬいだものと一緒に、洞の奥のまだ乾いた岩肌にひっかけて仕舞うと」、やがて、言うのであ
る。
「寒いやろ。風邪ひいたらあかんえ」
僕はなるべく紀子の方を見ないように、谷底に突き立つ雨脚の太い白い翳を見つめ
ていたが、思わず肩をすくめたその肩を抱きよせて、紀子は「ほら、抱いたげる、ち
ょっとは温かいえ」と微笑った。僕は腕の中でからだをよじって正面から紀子を見、
そのまま持ちあげたようなまるい胸に顔を押し当てていった。
「いやあ、あまえたやな」
ここに描かれる甘美な情景の深奥に、それを導く事実の核があったかどうか、そんなことを詮索する必要はない。そしてこの甘美な「性」の疑似体験のなかで
語られる幻怪譚をこの小説の「芯」ととらえる必要もまたない。もちろんそれは重要なモチイフであり、欠くべからざる挿話であって、しかもそれらの幻怪譚を
含むこの場面の全体を蔽う幻想世界は、泉鏡花の世界に通ずる深い親和を示しているが、しかし、この場面のそこに語られているものは、あえていえば、「夢」
と「うつつ」の境界から聞こえる「われ」を呼ぶ「化生」の呼びかわしであって、ほかではない。そして、いえば、それは、歌集『少年』の冒頭に置かれたあの
一首の「君」の変化したものであるとさえいえる。
つまり、年上のひそかに慕っている少女、紀子との、「烈しい雨台風が丹波に来た」日の雨宿りの岩穴での、甘美な「性」の疑似体験は、その「まなざしのふ
とわれに来てうるみがちなる」「書(ふみ)読む君」と、そこに投影されるもとの光源は違っても、その影は、同じ唯我論的な世界にあるとさえいってよいだろ
う。
だが、その少女紀子が、自身の養父に絡むおぼろな疑惑の中、昂然と成熟した女性として現われ、「僕から愛などという心のふくらみを奪った」そのとき、
「われ」の世界は変質して、「外の家並が真赤に見えたり薄紫に見えたりする」のである。これはいったい何を意味するのだろうか。興味深いことが、その童貞
喪失の日のあとに語られている。
丹波の時代から再会の此の頃までに僕は例の歌詠みの先生、いやもっと沢山な人や
知識と触れた。清経との出逢いもこの七年間の内だった。古典を好んで読み、とりわ
け能舞台に感動し、若き清経の死に心惹かれた僕と、紀子に誘わせて高校生の内に童
貞を捨て、女の失踪を好都合に思う僕とが居た。それを嘲み、肯い、思い捨て、結局
忘れて行った僕がさらにもう一人居た。この事件にはまたしても父が、という想像も
したが、詮索する気がなかった。
ここに見いだしうる「僕」の分裂は、自己の客観化ではあっても、唯我論的世界からの脱出ではない。そのことは、小説の流れからいって「紀子に誘われて」
となるであろうところを「紀子に誘わせて」とした一節、およびその出会いの不思議を「この事件」と記した文面から想起できるのであるが、そんな枝葉を探る
よりも、端的に、「僕」の分裂そのものが、一度は壊れた唯我論的世界の修復を無意識裡に意図したものであることによって知れる。「うつくしきまみづの池の
辺(へ)にたちてうつらふ雲とひとりむかひぬ」「われ」では支えきれなくなった内面世界に、三人の「僕」を登場させることによって、そしてそれらの「僕」
を見詰める「私」が、そのことを叙述することによって、唯我論的な内面世界は保たれている、かろうじて。
だが、おそらくここでは、その修復の意味よりも、なぜ、堅く築かれた「われ」の唯我論的世界が、論理によってではなく、ただひとりの「女」の登場によっ
て、その女性との初体験によって、はげしく動揺し、あやうく崩壊するところまでいったのか、そこに暗喩される制御不能の意味、それをまず問わなければなら
ないだろう。
さきにも引いた『清経入水』の中に描かれる甘くかぐわしい記憶の繭の中の「さながら花の幻であった」年上の少女、紀子が、ある日ふっと、成熟した女とし
て、獲物を見定めた蜘蛛のごとく現われ「僕」を吸引する。そのおぼろで性急な「性」の坩堝の中につづられる、「スリリングな惑溺だけが紀子に逢いに行く僕
の足どりを肯定した」の一節が示すものとはいったいなんだったのだろうか。そこには、「紀子」をこえたものが暗喩されているのではないか。それを思慕とい
う語に集約しても不都合ではない、ある隠された思念の存在。そして、そこに眠る喪失の深い嘆き。それをわたしは感じてしまうのである。
「さながら花の幻であった」少女と、その「まなざしのふとわれに来てうるみがちなる」「君」は、いうまでもなく観念の世界に棲んでいる。虚影であると
いってもよい。その「さながら花の幻であった」少女が、ある日、成熟した女として、生身の女として、「性」の快楽を教え、「スリリングな惑溺」の海に
「僕」を連れ出したとき、なまなかな観念は倒壊したはずである。そうして、そこに繰り返される「性」の行いは、少女が女となり「母」ともなりうることの察
知により、「僕」に「われ」の唯我論的な内面世界の崩壊を予感させたはずである。だが、その唯我論的世界、観念によって強固に、身構えるごとくに組み立て
られた内面の世界を失うことは、「われ」を癒してくれる唯一の世界を失うことであり、「私」を見失うことでもあった。そのことの恐れが、「僕」の客観化に
繋がったのではないだろうか。しかし、それはいってみれば緊急の防衛措置であり、そこにあたらしく世界が開かれたのではない。
第二章 もらい子
なにげなく呟かれたそれを注意深く反芻すると意味の変化する言葉がある。秦恒平が、養家の姓を「姥島」に替え、自身を「秀樹」として幼少年期を語った
『もらい子』に、そんな言葉がある。養家「姥島の親の配慮には濃やかなものがあった」としつつ、自ら「姥島を、では、真実「我が家」と思っていたか。姥島
の大人を「肉親」と感じていたか」と問うて氏は、「思いも、感じも、していなかった」と語り、さらに、「銭湯へ父や母と行っても、交わされているよその大
人との大人同士の会話や、秀樹にかけられる言葉づかいにいつも演戯じみたウソを感じたし、そのうちに「おまえ、もらひ子ゃで」と囁く世間の声をくり返し聞
かねばすまなくなった」と述べ、そして言う。
痛手をうけたとは思わない、やっぱりかと頷いただけだ。泣きも笑いもせず、ただ、
知ってしまったのを親たちに気付かれてはならぬと覚悟した。
なんという覚悟かと歎きつつ、そうではあるまい、「痛手をうけた」はずだと云おうとするのではない。わたしが反芻してその意味が変化すると感じたのはそ
こではなくて、そのあとに記された述懐についてである。氏は語っている、「血縁のことに触れて育て親に口を利いたのは大学に入って以後で、それまでは指一
本も自分からは触らずに過ごした」と。
たぶん、それは実際であったろう。そのことを疑う必要はない。が、だとしても、というよりそれだからこそ、この言葉をそのままに見過ごすことはできない。
この表現をつかうことにはいささかの躊躇があるが、説明の簡便のためにそれを秦恒平の「二重世界」としたい、現実と夢想の錯綜する二重写しの世界におい
て、「私」は「われ」の小宇宙をもっている。【序】に紹介した、「畳の目一目の幅がちょうどこの地球の広さと同じ」、その「同じ畳一目の広大な空間での一
瞬の内にも無際限の時間が動いている」、「そんな巨大な小宇宙」のことである。
その、幼少年期に創られた「われ」の小宇宙が、いかに大切なものであったかはいうまでもないが、そこで重要なことは、「そんな巨大な小宇宙がいろんな具
体的な状況や事件を重なり重ねつつ、自分の身のまわりに無量不可思議に重複して実在しているのだという確信を」秦少年がもっていたということである。
小宇宙は、一つではなかった。「重複して実在しているのだ」。そして、その「確信」を「楽しんでいた」。つまり秦少年は、「いろんな具体的な状況や事件
を重なり重ねつつ」それをとりこんで、しかも、そこに「無際限の時間が動いている」、「そんな巨大な小宇宙」が「重複して実在しているのだと」信じ、楽し
みつつ、その一方で、それが「空想を極端に押し展げ」たものであることも承知していたのである。
空想を極端に押し展げていくことによって、つまり非現実の膨大な量によって現実を
相対化しえたときに、初めて現実に生きていく上での条件が腹に入るだろう。
なぜであろう。なぜ、「現実」は「相対化」されなければならないのか。ここにいう「現実」とはなんなのか、そこに糸口があるようにおもえる。
さてそこで、さきに「反芻してその意味が変化する」とした、『もらい子』の一節に戻ってみよう。そこではこんなことが語られていた。
血縁のことに触れて育て親に口を利いたのは大学に入って以後で、それまでは指一
本も自分からは触らずに過ごした。
「血縁のことに触れ」るのは、「現実に生きていく上での条件」をより明確にするためではなかったか。ここにあえて「より」とした意味は、生きているとは
「現実にいきていく上での条件」を甘受することと同義であるとかんがえるからである。なんの条件もなく生きている人などいない。
そして、「現実にいきていく上での条件」をより明確にするために、それまで触れることのなかった、あるいは触れられなかった「血縁のことに触れ」得たの
は、それをいつまでもウヤムヤのままにはしておけないというような事情からではなかったようにおもう。一時的にであるにせよ、「現実を相対化しえた」から
ではなかったか。それは、「現実」のなかに初めて「私」がいることを確信できたことを意味しているだろう。なぜなら、秦少年にとって「現実」は私物ではな
かった。自在にいじれるものでなかった。そこに、ほんまもんの「私」はいなかったのだから。
されば、なぜ、一時的であるにせよ、「現実を相対化しえた」のか。「現実」のなかに「私」のいることを確信できたのか、と考えるとき、ひとつの言説が浮かんでくる。
こと(二字傍点・以下同じ)はことば(三字傍点)で言い表されたその瞬間に、もの
(二字傍点・以下同じ)的な表象による汚染を蒙らざるをえない宿命にある。あるい
は、ことは言語化に伴う汚染を蒙ることなしには、こととして意識されえないのだと
言うべきなのかもしれない。この場合、言語はかならずしも音声言語として発音され
る必要も、まして文字言語として書き記される必要もない。われわれの意識それ自体
が、すでに徹頭徹尾言語的な構造をもっている。なにかを意識することは、それをこ
とばで表現することと権利上完全に等価である。(中略)
このようにして、ことは勝義における人間的意識の正当な相関者である。言語的構造
を与えられた人間的意識は、ことをものによって汚染することを通じてことを蘇生さ
せる。ことは、サルトル風に言うならば、それ自身ではないものにおいてそれ自身で
あり、それ自身であることにおいてそれ自身でないものであるという点において「対
自的」な構造を示す。そしてこの対自性は、ことがもともと人間的意識における自己
(二字傍点)のことにほかならないという素性を証している。
(木村敏著『時間と自己』)
高名な精神病理学者であり、敬愛する思索家である木村敏氏の、哲学に興味のない人には飲込みにくい言説のここにいう「こと」とは、たとえば、「私がここ
にいるということ(二字傍点)」「私の前に机や原稿用紙があるということ(二字傍点)」などの、「もの(二字傍点)のように客観的に固定することができな
い。色も形も大きさもないし、第一、場所を指定してやることができない」、そんな「客観的・対象的なもの(二字傍点)として現れるのではないような、それ
とは全く別種の世界の現れかた」のことであり、「このようなさまざまな場面で立ち現れてくること(二字傍点)は、すべてきわめて不安定な性格を帯びてい
る」と説明される。そしてつぎのようにも説かれている。
私たちの意識は、どうやらこの種の不安定さを好まないようである。それは、私た
ちが「自己」とか「自分」とか「私」とかの名で呼んでいるものが、実はもの(二字
傍点)ではなくて「自分であること」、「私であること」といったこと(二字傍点)で
あり、それ自身はっきりした形や所在をもたない不安定なものだという事情から来て
いるのかもしれない。元来不安定な自己は、世界の側に安定の場を見出そうとする。
ところがこと(二字傍点)の世界は自己の支えになるどころか、自己の不安定さをま
すますあばき出すことしかしない。だから私たちの自己は、こと(二字傍点)の現れ
に出会うやいなや、たちまちそこから距離をとり、それを見る(二字傍点)ことによ
ってもの(二字傍点)に変えてしまおうとする。
たぶん、ながながとつづく引用の意図を測りかねていることであろうが、要点はここにある。ここに、「こと(二字傍点)の現れに出会うやいなや、たちきち
そこから距離をとり、それを見る(二字傍点)ことによってもの(二字傍点)に変えてしまおうとする」地点に、「血縁のことに触れて育て親に口を利」くまで
の「もらい子」秦恒平が立っていたのかどうか、そこにわたしの関心は向けられている。
「変えてしまおうとする」とは厳密には未遂の謂であろうが、その、いってみれば未遂の中間点に、人はとどまることができない。その「不安定」に耐えられないからである。そこからの脱出、踏み出しが精神の健康に必須だからである。
が、歌集『少年』が清らかに示すごとく、秦少年は、その中間点に佇んでいた。あの印象的な一首を思い出していただきたい。
山かひの路ほそみつつ木の暗(くれ)を化生(けしょう)はほほと名を呼びかはす
ここにいる少年は、見ていない。聞いているのだ、化生の「ほほと名を呼びかはす」のを。それを「こと」を「聞いている」と謎めいたいい方に変えてもいい、「声」を聞いているのではないことをいうために。
ものを見るというはたらきが一定の距離をおいてはじめて成立するのに対して、聞
く(二字傍点)ということは――肉声を聞く場合でも心の声を聞く場合でも――私た
ち自身の間近で生起する。(中略)さきにわれわれは、もの(二字傍点)が客観の側に
あるのに対してこと(二字傍点)は主観の側に、あるいは客観と主観のあいだ(三字
傍点)にある、という言いかたをした。こと(二字傍点)がなんらかの声として聞か
れる(四字傍点)のであるからには、この「あいだ」はそれ自身、限りなく自己に近
いところに、自己それ自体と区別のつかぬような場所としてあるのに違いない。
(木村敏・同書)
またまた堅い引用で恐縮だが、勘所なのでお許しねがいたい。まさにここに説かれる「あいだ」、歌にしたがえば「木の暗」に、少年はいたのではなかろうか。
だが、その「自己それ自体と区別のつかぬ」「木の暗」は、まさに「あいだ」であって、そこに「現実」は実在していない。少年が自己の二重写しの世界にお
いて、その実在を確信していたのは、「いろんな具体的な状況や事件を重なり重ねつつ、自分の身のまわりに無量不可思議に重複して」いる「畳一目の広大な空
間での一瞬の内にも無際限の時間が動いている」「われ(二字傍点)」の小宇宙であり、その「空想を極端に押し展げていくことによって、つまり非現実の莫大
な量によって現実を相対化しえたときに、初めて現実に生きていく上での条件が腹に入る」のである。これは、いうまでもなく秦恒平の確たる方法論に違いな
い。氏ははっきりといっている。それを、「できることならば空想ではなくて、想像力の領域でガッチリ受けとめたい」のだと。
だが、ある日、青年となった「僕」は、たぶん唐突に、「現実」と向き合う、あるいは向き合わざるをえない状況に遭遇する。そして、その、いわば内面の危
機を、「現実を相対化」することによって脱する。それを難しく、他者の実在を肉体化しえたといいかえてもよいが、ここでの用語では、「こと」を「もの」と
して対象化・相対化したという表現に落ち着くだろう。
さて、問題はここからであって、それではなぜ、「現実」と向き合って遭遇した内面の危機を、「非現実の莫大な量によって」ではない別の機軸による「こ
と」の「もの」化によって脱しえたのか。そして、それは、いつ、どのような状況においてであったのか、そこが知りたいのだが、たぶん、それらは推測域にあ
る。状況証拠だけが残されているといってもよい。
しかし、「大学に入って」初めて、「血縁のことに触れて育て親に口を利いた」それ以前に、一時的にであるにせよ、秦恒平は、或る、それとは明示できぬに
しても朧ではない意識改革によって、「現実を相対化」し、そして、「われ」をはっきりと「私」のものにしたはずである。そのことを説明するためにながなが
と木村敏氏の『時間と自己』を引用したのであるが、いま、その作業をふりかえって、ここでの「現実」の「相対化」が、あとでふれることになるであろう秦恒
平の根っこともいえる「身内」観と深く関わっていることを感じる。
そして、あの『清経入水』の、「外の家並が真赤に見えたり薄紫に見えたりする」景色を幻視しながら、そこに具体は呈示できないにしても、ふいに「他者」
が立ち現れることによって、幼少期より育み、膨らませてきた「われ」の唯我論的世界を揺るがした崩壊の危機、その危機を乗りこえて、「現実を相対化しえ
た」からこそ、「初めて現実に生きていく上での条件が腹に入」り、それまで「触れる」ことのなかった「血縁のことに触れて育て親に口を利」くことができた
のだろうと、それらの筋道をいまさらのごとく反芻するとき、そこに、「他者の実在」と表裏する「われ」の私物化のあったことをあらためて確信する。が、そ
の私物化は永続しない、ある消しがたい【必然】によって。
ごく普通に、われわれの内面にくりかえし生起しては消える「われ」の私物化。それをサルトルの定義する「反省的意識」と捉えるまでもなく、それは、くり
かえし生起しては消える「日常」の内にはあるが、その頻度からいえば「まれごと」であり、その部分だけを強調すれば、それを「非日常」の行いとすることも
できるだろう。人は、ほとんど(四字傍点)「われ」を忘れている、あるいは喪失している。しかし、その喪失のうちにも意識はたえず働いている、誰のもので
もない、この「私」の意識として。だが、それが「私」のものであることを、人はほとんど意識しない。人がその意識に「私」をつよく意識するのは、その必要
のあるときだけである。そしていえば、ここにおける「必要」がなにに由来するか、それによって、「私」に映る「私」の姿は変容する。
この変容のなかに何を見るかが、人の、「個性」(あるいは「個別性」)形成の場であることはいうまでもないが、一歩すすんで、そこから何を産み出すか、
それは個々人の資質に委ねられているのだが、文学の領域において、「私」の変容をそのおおもとに立ち帰って、そこにある「必要」の意味から問い直すのが、
「私小説」と呼ばれて、その安直を揶揄されるところのものの成因であろう。興味深い発言がある。
そもそも小説というものを書きはじめたときから、小説のリアリティというようなこ
と、それから日本の私小説の伝統といったようなことが頭にあるはあったわけです。
私自身ははっきり、今もそうですが、いわゆる私小説に対してネガティブな感覚が、
ずっと強かった。しかし一方、いざはじめて小説を書こうというとき、自分の作品の
未熟さを、どう少しでもカヴァー出来るか。これは小説をやっと書き出した頃の人は
どなたでも一応は考えることだろうと思うのですが、やむをえずリアリティの保証を、
手近な私生活の枠組のようなものに求めることに走りがちだと思うのですね。私も処
女作はそうでなかったが、次の作品からはそういう枠組を意識して利用することを考
えた。
笠原伸夫氏と交わされた対話(『罪はわが前に』をめぐって)に記されているこの発言で、「処女作」とされているのは『清経入水』のことであり、「つぎの作品」とするのは、おそらく『秘色』のことであろう。
さて、この『秘色』に関して、面白い記述(「作品の後に」)がある。
「この作品は、雑誌『展望』に発表の前後に相反する二つの批評に直面した。一つは」「新潮社出版部の宮脇修氏により、「支離滅裂」と評されていたこと。
二つは、」「杉本秀太郎氏に」「喝采を得ていたこと」。「私は、杉本氏の共感の言葉も忘れないが、それ以上に有難く宮脇氏の批評により多くを考えさせられ
た」と述べたあとで、その時に考えたことを、秦恒平は、つぎのように記している。
私は、ラテン語やドイツ語ならば知らず、日本語が、宮脇氏のいうような物・事の関
係や輪郭を明確に正確に描き出せる体の言語であるとはとても信じられないでいた。
むしろ日本語とは、逆に、物・事の関係や輪郭をぼかし、まぎらかし、かすめとりな
がら真意や事情を伝え合う体の言語であると思っていた。私の京ことばに対する理解、
ひいては日本の伝統的な和歌や物語や俳句や、また日常会話における表現効果を思え
ば思うほど、そうであった。
ここにいみじくも記されている「物・事の関係や輪郭をぼかし、まぎらかし、かすめとりながら真意や事情を伝う合う」とは、まさに秦少年が強いられてきた
有り様だったのではあるまいか。それを「生きざま」ということは控えるが、そんな「ぼかし、まぎらかし、かすめとりながら真意や事情を伝え」なければなら
ぬ境遇を生きてきたのだ、そこにある【必然】を消すことのできないままに。
が、一方で、そこに生きる「私」を「ぼかし、まぎらかし、かすめとりながら」表現することはできないのである。それは、「私」を見失うことに他ならな
い。「物・事の関係や輪郭をぼかし、まぎらかし、かすめとりながら」世を渡ることはできても、「私」をそのように「ぼかし、まぎらかし、かすめと」ること
はできない。
それが、さきに引用した言葉、「私自身ははっきり、今もそうですが、いわゆる私小説に対してネガティブな感覚が、ずっと強かった」の、あるいは秦恒平自
身でさえ、それと意識していない真意なのではあるまいか。その「ネガティブな感覚」という言葉をひきだした笠原伸夫の問い掛けのなかに「己れの存在の根源
を追求するのは、文学の第一の命題でしょう」の語句がある。これをもっとも直接に行なえるのが、「いわゆる私小説」であり、その「直接」がしばしば「安
直」に置き替るところに揶揄や蔑視が生まれるのだが、秦恒平の「ネガティブな感覚」は、そのような蔑視ではなく、拒否だったのではないだろうか。それを、
私小説のその「直接」に対する肉体的忌避といいかえてもよい。
だが、忌避するとは意識することであり、【己れを暴く】といいかえても齟齬のない「己れの存在の根源を追求する」ことへの忌避・意識の、その、どうして
もそこから離れられない、しかし、どう表現してよいかわからない【闇】が、『清経入水』の隠された成因だったのではないだろうか。
そうして、このことを別の角度からいえば、「忌避」する、「意識」するとは、そこにある己れの存在の、その【空白】を間接照明によって浮き上がらせるこ
とであって、そこに【空白】があることの暗喩、そこに納まるものがあるはずだの予感が、そしてそこから洩れる切ない喘ぎが、『清経入水』に一種異様な緊張
感を漲らせているのである。
『清経入水』の太宰治文学賞への応募を影でうながしたとされる中村光夫が、『清経入水』に惹かれた理由の一端もここにあったのではなかろうか。その著
『志賀直哉論』のなかで、直哉の「代表的悪作」(小林秀雄の評)である「濁った頭」に格別の興味を示し、ここには「概念的であるゆゑに醜く、醜いがゆゑに
真実」な「自我」が描かれている、「作者は珍らしく環境と「闘う人間」としてでなく、これに敗北した人間を描くことによつて「自己を分析」してゐる」とす
る、その独自の視点から、『清経入水』もまた、その描き方はまったく異なるけれども「自己を分析」したもの、そしてそこに蟠る【空白】を暴いたものと受け
とったのではなかったか。朝日新聞文芸欄に、『清経入水』を、「自己表現の欲求を、たんなる写実や自伝をこえてここまで拡大、あるいは深化しようとする試
みは、現代小説の壁を破る企てとして意味がある」と評したのは、そのことの傍証であろう。
昭和四十四年に太宰賞を受ける前年の自筆年譜に気になる記述がある。氏は、昭和四十三年、「九月二日、「畜生塚」に手を入れて(新潮社へ)送った。同五
日、「鬼または清経入水」百七十八枚、成る。同十三日、百四十九枚に直して(新潮)へ送った。その後音沙汰なく、」「興奮から落胆へ、落差は大きかった。
「人生の危機」と感じた」。そして暮れの十二月十二日、秦恒平は、幼時に生き別れたままの「実兄北沢恒彦にハガキで会ってみたい」と申し入れ、「同月二十
三日、恒彦の電話を受けたが会わなかった」と記している。
ここにある【迷い】は、「人生の危機」の反映であるには違いなかろうが、そこに「私」の【空白】を埋めたいとの意識が働いていたのではと推測する。もっ
と直接にいえば、その顔さえ朧な生母の、そして実父の、なぜ兄を産み、自分を産み、そして捨てたのか。そこにある「なにゆえに」の真実を知りたかったので
はないだろうか。しかし、それが可能でないこともまた知っていたはずである。「会ってみたい」とハガキを出したのに「会わなかった」のは、そのことを教え
ていると感ずる。
そうして、これらの推測・推論がマトを得ているなら、秦恒平が、『罪はわが前に』をめぐって交わした対話のなかのあの言葉、「やむをえずリアリティの保
証を、手近な私生活の枠組のようなものに求め」たのが、単なる方法論の選択ではなくて、「私」の【空白】ゆえの苦渋の選択、もっといえばそうせざるをえな
い【必然】をも含んだ選択であったといえるだろう。
処女作『清経入水』において、はっきりと自覚したであろう「私」の【空白】。それは、さきの論のつづきでいえば、「こと」であり、「こと」は「ことば」
により表現できるにしても、その全容を明かすには足りない。木村敏氏の言に学べば、「この花が赤いということ(二字傍点)は、もちろんその全部が「この花
は赤い」ということば(三字傍点)によって表現されつくせるものではない」のだし、まして「こと」が、【空白】となれば、それは不可能に近い。が、「しか
しそれにしても、「この花は赤い」ということば(三字傍点)を用いなかったならば、この花が赤いということ(二字傍点)を表現したり伝達したりすることは
不可能である。」「こと(二字傍点)はことば(三字傍点)によって語り、それを聞くことによって理解する以外ないのである。」しかり。
ここにあるジレンマの只中で、氏は考えたのではないだろうか。どうすれば「私」ぬきで、この「私」の【空白】を表現できるのだろうか、と。それが、「や
むをえずリアリティの保証を、手近な私生活の枠組のようなものに求めること」の意味であり、「そういう枠組を意識して利用することを考えた」、「それがず
うっとそのまま一つの方法となって、私の仕事の下地に定着してしまった」のは、「それが本意であるかどうかということとは別に」、私的な【必然】にもとづ
く苦渋の選択だったと、わたしはかんがえる。
そして、それはまた、「こと」を「ことば」という「もの」に変えることによって、「こと」を、そしてその不安定な「こと」のそばに佇む「私」を、なんとか生き返らせようとする、秦恒平の【生きる手だて】ともなったはずである。
前章において、『清経入水』の一つの切れ目から、「現実」の危機を推理した。それはまた内面世界の崩壊を予感させるものであるとも述べた。そして、さき
には、【空白】という言葉を「こと」と「もの」の関係のなかに置いて、そこに【必然】を想定した。これらのわたしの推測は、つまるところ、「意識」という
難物に収斂する。まるで、それだけで生きているかのような、秦恒平の変容しつつ膨張する「意識」に。
いうまでもなく、「意識」は、「もの」ではない。サルトルの言葉に従うならば、「それはただ端的に、存在の第一条件であり、絶対的源泉なのだ」(『自我
の超越』竹内芳郎訳・末尾)。そして、このことはまた、「《自我》は意識の所有主ではなく、意識の対象なのだ。もちろん私たちの諸状態や諸行動は、《エ
ゴ》による生産物として自発的に構成されるが、でも、それらのものもまた、対象である」(同・七十八)とする立論に連なる。
いま、その適否をいわず、このことを一つの了解事項として、サルトルの用語法では重点のかけ方による言葉の使い分けにすぎない(そこに本質的差異のみと
められない)《エゴ》あるいは《自我》、そして、わたしが本論において「われ」と表記するものが、「意識のなかに住まう《住人》で」はなく、「外部つまり
世界のなかに(六字傍点)あり、他者の《エゴ》とおなじように世界の一存在者である」(同・序文)ことを理解・受理するとき、そこから引き出され、明確化
される「意識の自発性」は、なにものにも拘束、制限されえないのか。それは無際限に「自由」であるのかと問うとき、サルトルの答えは、まずは、「しかり」
であろう。そして、そこから発展して、人間は「自由」として実存しているという例の定理が導きだされるのだが、そこにある「自由」がフリーの意味でないこ
とはいうまでもなく、サルトルは、われわれは自由の刑に処せられているのだと述べている。あたりまえである。われわれが自由であるということはすなわち、
日々刻々、「こと」の只中において、人に、世界に、そして「私」に、「個」として真っ正面から向き合わねばならぬことを意味するのだから。
いま、そのことの意味は措いて、「意識」の問題にもどれば、意識が「自由」であるというもまた、われわれに深い「不安」を与えるのであって、それをいい
かえて、「自由」を前にした「不安」こそが、意識の根底であるとサルトルのいう、意識の自由にひそむ「不安」。その「不安」の概念が、なぜここに、こんな
にも回りくどく、小難しく摘出されなければならないのか。それは、どう秦恒平と関連するのか。そのことを述べたくてわたしはうずうずしているが、いま少
し、哲学的な考察をつづける。
文学に限らず、それを芸術の場に拡げても同じだが、そこにおける創造の源となる「想像力」のその意味を探るとき、意識の自由にひそむ「不安」の考察は欠かせない。
われわれの「意識」には、それを無限ともいっていいような、さまざまな思考、行為の「可能性」がある。それを「私の可能性」と感ずるとき(それが、内的
に「私」と結ばれるとき)、「めまい」が生ずる。自分が、とんでもない、いつもと違うことをしでかすのではないかというようなそんな「可能性のめまい」、
それは「不安」を呼び寄せる。
このことを、彼の「不安の概念」を例にとって、「キェルケゴールは罪のまえにおける不安を述べて、これを自由のまえにおける不安として特徴づけた」(『存在と無』松浪信三郎訳)としたあとで、サルトルはこんなことをいっている。
めまい(眩暈)が不安であるのは、私が断崖に落ちはしないかと恐れるかぎりにおい
てではなく、私がみずから断崖に身を投げはしないかと恐れるかぎりにおいてである。
ひとつの状況は、それが外から私の生命と私の存在を変えるおそれのあるときには恐
怖をひきおこすが、私がこの状況に対する私自身の反応をあやぶむときには不安をひ
きおこす。
これがサルトルの考える「意識の自由」における「不安」であり、これをいいかえて、「自由」をまえにした「不安」こそが、「意識」の根底であるともされ
るのだが、しかしどうだろう。われわれは、いつも「不安」とともにいるだろうか。もちろん、「意識」の根底に「不安」のあることは認めよう。しかし、それ
が意識されるのは「まれ」である。では、なぜ、「まれ」であるのか。それは、われわれが日常生活において「意識」として働かせているもののほとんどが「非
反省的意識」であるからだとサルトルはいい、そうではなく、「私」が内に現れて、「可能性のめまい」に気づくような意識が「反省的意識」であるとされるの
だが、これは、われわれの実感に遠いような気がする。そういう風にくっきりと区別されることに異和感を覚えるのである。しかしそのことを詮索するのは、別
の機会とする。ここでその詮索は不要であろう、本論は哲学論文ではないのだから。ここでの問題は、われわれの「意識」の根底にある「可能性のめまい」、
「不安」を、いかに対象化し、「もの」化して、「現実にいきていく」かにあるのであって、そこに「想像力」がどう働いているかを知ることにある。そしてこ
のことは、秦恒平においてどういう意味をもつのか、つまり、氏が竹西寛子との対談において述べたあの言葉、「できるならば空想でなくて、想像力の領域で」
「現実に生きていく上での条件」を「受けとめたい」の、その意味をわたしは知りたいのである。
ここに改めていうまでもなく、「めまい」から「不安」から、そして現実の縛めから、意識のまったきの(五字傍点)の自由を回復するためには「想像力」がいる。
かつての日、「カラス、おまえは、なぜ白い」と詠んだ詩人がいた。カラス、おまえは、なぜ白い。そこにカラスはいない。想像上の心像があるだけである。あ
るいはそれを「生の畏れ」といいかえてもいいのだが、ここで重要なことは、その「想像」が、「無」から産み出されたものではないということ。黒いカラスの
印象・記憶から、白いカラスの心像が導きだされているということ。そして、その対極で、白いカラスの心像に私的出自はあっても、認識としての根っこのない
ことを悟るとき、そこに「想像力」のもつ特異な位相があらわれる。
その著書『想像力の問題』(平井啓之訳)のなかでサルトルは、「もしも意識が決定ずみの心的事実の連続であるならば、その意識が現実界に属するもの以外
の他のものを生み出すことは絶対に不可能である」(「意識と想像力」)と述べたあと、「ある意識が想像力を発揮し得るためには、その意識がその本性そのも
のによつて世界をまぬかれねばならず、その意識が己れ自らの中から世界に対して一歩後退した姿勢を抽き出すことが出来なければならない。一言にしていえ
ば、意識は自由でなければならぬのだ」と記している。これを略せば、われわれが「想像力を発揮し得るためには、」「意識は自由でなければならぬ」の自明に
落ちるが、されば「意識」はいかにして「自由」でありうるのかと視点を移すとき、そこに深く不明のあることが知れる。この不明に対してサルトルは、これを
「想像力」の側からながめて、「想像力とは、意識の経験による、後から附加された能力の謂ではない。それは意識が己れの自由を実現する場合の意識の全幅で
ある」と、わかったようなわからないような定義付けをしたあとで、こう述べている。
この世界内ある意識の具体的で現実的な一切の状況(シチユアシオン)は、意識がつね
に現実界を超越するものとしてあらわれるかぎり、つねに想像的なものを孕んでいる。
このことは何も、一切の現実の知覚が想像的なものに逆転すべきだということにはな
らない。しかし、意識はつねに自由であるがゆえにそれはつねに《状況内》にあるも
のであるから、意識にとつては、非現実的なものを生み出す具体的な可能性が、いつ
も、あらゆる瞬間に存在する。意識が単に現実的なものになるか、それとも、想像力
を発揮するかを、各瞬間ごとに決定するものは、種々様々な動機づけである。非現実
的存在は、世界内にとどまる(八字傍点)意識によつて、この世界の外に生み出され、
人間が想像力を振うのは何故かといえば、それは人間が先験的に自由な存在であるか
らである。
ここにある論理の飛躍を埋めるためには、たとえば「知覚」と「想像力」の関係、あるいは、「世界内にとどまる」に含意される哲学的意味を明確化しなけれ
ばならないし、同時にここに語られていない「空無(ネアン)」の深意も解かねばならない。が、しかし、その煩をここにとる必要はないだろう。何度もいうよ
うに、これは哲学論文ではない。わたしがここに、そのことをいうために長々とサルトルの論説を引用するのは、「人間が」、「意識が己れの自由を実現する場
合の意識の全幅である」ところの「想像力を振うのは何故か」と問うて、「それは人間が先験的に自由な存在であるから」とする意図的な解答を、「しかり」と
しないためである。そして、その拒否のなかに秦恒平を見ているからである。
ごくごく簡単にいえば、「想像」は「認識」によって精査されるようなものではなくて、そこにある「自由」はすなわち、われわれがアプリオリに自由な存在
であることのあらわれであって、「想像力は人間の自由の印である」というようなことをサルトルはいうのだが、翻ってここにいう「自由」には「不安」が内蔵
されているのではなかったか。そしてこの「自由」に内臓されている「不安」は常には意識されない。それが「不安」として意識されるには、なんらかのきっか
けがいる。
たとえば、あの『清経入水』の一場面にあらわれる内面世界崩壊の予感。それは「私」が突然に遭遇した「可能性のめまい」ではなかったか。そしてそこから感知される「私がみずから断崖に身をなげはしないかと恐れる」「不安」。
そのような「可能性のめまい」、「生」の中に這い出てくる「不安」を意識し、かつ意識する「私」を意識することによって促される「現実」の「もの」化。
それは、少年から青年となり、己れもまた【罪】を犯しうることを自覚し、「われ」の唯我論的世界の崩壊を予感したであろう秦恒平にとって、そのとき(四字
傍点)、是非とも必要なものであった。そうでなければ、「不安」にとらわれて「現実に生きていく」ことができない、そして、ようやくその姿をあらわした
「私」を見失ってしまうのだ。畏れにおののいて、身動きできずにいたはずである。それゆえに「現実」は「もの」として整理されなければならなかった。
だが、氏にとって、やがて作家の道を歩む秦恒平にとって、そこにとどまることは、「現実」が「もの」として整理された世界に安心することは、もうひとつ
の危機を胎んでいた。「現実」の「もの」化にとどまるかぎり、そこからは、たとえば『迷走』は産まれても、『みごもりの湖』をみごもることはできない。こ
こに芸術における「想像力」の根本的な性格が浮かび上がる。さきのサルトル『想像力の問題』(平井啓之訳)の第四部、「想像的生命」の冒頭にこんな一節が
ある。
想像力の作用とは、すでに私たちが見て来たように、魔術的作用である。それは、
思念の対象物、欲する事物を、それを占有出来るような仕方で出現せしめる使命をも
つた呪禁(まじない)である。(中略)それは年端もゆかぬ小児が、臥床から命令ずくと
お祈りとで世界に向つて働きかけるのに似ている。対象物は意識のこのような命令に
したがう。すなわち、対象物は忽然と姿をあらわす。
しかり。「白いカラス」は、忽然と姿をあらわす。一人の詩人の想像力の「魔術的作用」によって。だが、その「忽然と姿をあらわす」「それらの対象物は大へん独特な存在の仕方を有して」いるのだと、サルトルは分析する。
その上、像(イマージュ)としての対象物は非現実である。たしかにそれは現存して
いるが、同時にそれは私たちの手の届かぬところにある。(中略)非現実の対象物には
たらきかけるためには、私自身が身を二つにして、自分の身を非現実化する(十一字
傍点)必要がある。それにこれらの対象物はいずれも、私に行動も処置も求めはしない。
それらは重味もかからず、性急でもなく、押つけがましくもない。それらは純粋に受
動性そのものであり、ただ待つている。
たとえば、『清経入水』冒頭に加えられたあの美しい章句の、「耳の底にたちまようそれは僕の存在も憧れも寂しみも何一つ関わることのならぬ、あけひろげ
な、談笑の幻」に潜む「優しい女」や「快活な童子」や「訳知りらしく落ちついた年寄り」たちは、「いずれも、私に行動も処置も求めはしない。それらは重み
もかからず、性急でもなく、押しつけがましくもない。それらは純粋に受動性そのものであり、ただ待つている」のであり、「たしかにそれは現存しているが、
同時にそれは私たちの手の届かぬところにある」といえるだろう。
が、それが「夢であることを知っていた」「夢の数を」さらに(三字傍点)「重ねるにつれ」、「いつからか醒めない「夢」を思うまま自在に私は見るようになった」(『北の時代』)とき、世界は変容する。
「部屋」へ入ると、談笑の彼方へただ名前を呼んだ。すると呼ばれた当人が襖をあけ
て思い思いの姿を現わし、その時朗らかなまどいの人声は、まるではや心づかいをし
たように遠くかき消えている。
どんな人とも、そうして逢った。やがて歴史上に実在の人とは限らなくなり、紫式
部とも逢うたが、同様に昵懇の、光君や紫上とも私はこの「部屋」で何度も何度も歓
談したことがある。
(『北の時代』二章「曙光、天明初年」)
ここにある想像力の「魔術的作用」を、氏は「マジック」として利用しているのではない。その「部屋」は「現存」するのである。氏の確かな「現実」として。
いま、このことを視点とするとき、「想像力」のその「魔術的作用」が、氏においては、単なる「呪禁(まじない)」としてではなく、より多くは「意識」にひ
そむ「不安」から「私」を放し、「いま」を生きる手立てとしての小説を産み出す「力」として最大限に活用されていることに、あらためて気づく。
秦恒平においては、「空想でなく、想像力の領域」を「極端に押し展げていくことによって、つまり非現実の莫大な量によって現実を相対化しえたときに、初
めて現実に生きていく上での条件が腹に入る」のであって、そこから、自由に、あえていえば【禁忌】を外れて、作品が産み出されるためには、意識にタガが
あってはならないのである。意識のその「自発性」こそが、氏の「力」の源なのであり、そしてそれを表現に変換するためには、自由かつ強靭な、そして時空を
自在に飛びこえる「想像力」がいる。このことに関して、またもや『時間と自己』から木村敏氏の言説を引くことを寛恕ねがいたい。
意識は個別性・特殊性を普遍性に移すはたらきをするものではなく、むしろ普遍性を
個別性に移す(十字傍点)はたらきをするのである。その上でさらに、この意識され
た個別性が高次の反省の作用によって知識の(三字傍点)普遍性にまで移されるかど
うかは、意識本来の仕事とは無関係な、副次的な理性的加工にかかわる問題にすぎな
い。
意識をこのようなものとして理解するなら、それはまた、近代個人主義社会における
日常性の基盤となっている合理的思考の成立の場でもあるということになる。われわ
れの日常性は、自他や生死の区別、個体の個別性と自己同一性などを確かな標識とす
る合理的思考によって徹底的に支配されている。いいかえると、もの(二字傍点)的
論理によってこと(二字傍点)的現実が完全に制禦されている。だから意識のこの統
制力が減弱するときには、日常性はその成立の基盤から危機に曝されることになり、
日常性の真只中に非合理性という形での非日常性が姿を現すことになる。
これが通常の意識の有り様であることに異論はない。ここで重要な点は、「意識のこの統制力が減弱するときに」、「日常性の真只中に」「非日常性が姿を現
す」そこに働いているのが、「意識」であるのか、「無意識」による隠された力であるのか、そのことであり、たぶん多くの人は、そこに「無意識」の影を想起
することであろう。だが、それは違う、そこに働いているものもまたやはり「意識」なのだと、サルトルは教えている。
むろん、ここには「意識」をどのように捉えるか、そしてそこにおける「無意識の領域」をどこまでとするのかの未解決が先行して、残る。だが、ここにその
未解決を検討する必要はない。なぜなら、ここでわたしが問うのは、さしたる制約もなく、そしてごく自然に、「日常性の真只中に非合理性という形での非日常
性が姿を現す」秦恒平の特異体質についてであり、「意識本来の仕事とは無関係な、副次的な理性的加工に」よることなく、まるで筋肉の随意運動のごとく「個
別性・特殊性を普遍性に移すはたらきをする」、そんな氏の旺盛な「意識」のその【魔術】についてわたしは語ろうとしている。
またまたサルトルかと顔を顰めないで、いま一度の引用につきあってもらいたい。サルトルの『自我の超越』にひきつづき『情動論素描』を翻訳した哲学者竹内芳郎は、そこに「三つの注目点」を呈示する文章のなかに、こう述べている。
サルトルによれば、意識はそれぞれ相異なる二つの仕方で《世界=内=存在》であり
得るという――一つは、世界が無限に連関してゆく道具の有機的複合体としてあらわ
れるような意識で、(中略)いわば《決定論》の世界。もう一つは、世界が非=道具
的な、つまり媒介なし(四字傍点)にまるごとゴッソリ変更できる全体としてあらわ
れるような意識で、このとき世界は、距りなしに意識に直接現前するし、意識の方も
また、道具なしに直接にまるごと世界を変更しようとめざす、但し、その意図を現実
に全うすることは不可能だから、むしろ意識自身の方を(七字傍点)まるごと変容さ
せてしまう。いわば《魔術的》な世界の出現であって、これこそが冷静な思慮・打算
と対立する《情動》なるもののもたらす世界だ、というわけだ。
(『情動論粗描』の三つの注目点)
サルトルの本文を読むより余程わかりいいこの要説につづけて竹内芳郎氏は、この、「《情動》という意識仕方をつうじて姿をあらわす」《魔術的》な世界
は、「存在的・経験的には健全な世界を前提としてその上に初めて浮かびあがる或る種の病的な世界でしかないかにみえながら、存在論的・実存的には他者との
人間関係の深みに根ざした根源的な存在機構としてとらえられていることに注目すべきだろう」と述べている。そして、かくのごとく結語する。
「人間は人間にたいしていつも(三字傍点)互いに魔法使いである」ということが本
当だとすれば、《魔術的世界》を現出させる《情動》なるものは、単なる一時的な病
理現象であるどころか、人間存在にとって、意外なほど根源的な意味をもつはずなの
である。
(同)
それを、「存在論的・実存的に」捉えたことはなくとも、「人間存在にとって、意外なほど根源的な意味をもつ」《情動》による《魔術的》な世界の、その深
い意味を秦恒平は知っていたはずである。そうして、創作というものが、「意識の自発性」に根ざす自己流出であることを熟知していたはずである。わたしはそ
う信じている。そうでなければ、自作『秘色』を、「一語一語がその場その場で明確にイメージを結ばず、あたかも石くれのようにバラ撒いて行かれ、ところ
が、作品の進行につれてそれらがいつかジワジワと遅ればせにいたるところで光りはじめる。意味を持ちはじめる。そして互いに乱反射しあうようになる。すく
なくともそれは近代文学の大勢とは相容れない性質の営みであり、はなはだ分りにくい方法である」とする、貶しているのか誉めているのか定かでない評言を再
構成して、そこにとどめをさす宮脇修の「支離滅裂」の評を、「よし」とし、「私はそれを聞きながら、漠然とした悲哀感とともに奇妙にホメられてでもいるよ
うな自覚をもったこと」の意味が不明となる。
氏は述べている。「作品「秘色」を書いた頃、井上靖氏の『額田姫王』もたしかに書かれていた。それを私は読んでいなかったが多少意識していたのも事実
で、あの時代と人を、私ならこう書く・・といった気負いがいくらか有った事は否定しない。文壇に挙げられて、まだ右も左も分からないときであったが、(中
略)書きたいように書いて、書き続けられれば幸いと思っていた」と。
この言葉にふくまれる意味は、かぎりなく深いようにおもう。なぜならそれは、初心ではなく、秦恒平がいまも持ちつづけている覚悟だからである。氏はいまもなお、【魔術】を妖しくつかっている。まったく、その力を失うことなく。
第三章 猿
秦恒平の初期作品に小説『猿』(『文芸展望』七三年十月第三号に掲載)がある。
昭和三十八年(一九六三年)、松竹のシナリオ研究所の第十二期生となって、前期・後期に分かれる講習の後期の課題作として書き下したシナリオ「続・懸想猿」をそれから丁度十年後に小説として書き改めたものである。
その小説『猿』のなかに、「正子」という年上の少女があらわれる。「続・懸想猿」においては「田村和子」として描かれている村の少女であり、『清経入水』における「紀子」ともつながる、秦恒平にとっては「少女の原型」のような存在であり、「姉の幻影」といってもいい。
「正子」にモデルとなった少女がいたかどうか、それはつまびらかにされていないが、秦恒平が昭和二十年に京都の家を離れて疎開したのは事実で、同年三
月、小説では丹波の山中とされている「京都府南桑田郡堅田村字杉生(現、大阪府高槻市)」へ疎開して、その地の「堅田国民学校四年生」となり、「八月十五
日の敗戦の日を杉生で迎えた」と、自筆年譜に記されている。
シナリオ研究所の講習を卒えた翌年、『猿』の前身であるシナリオ「続・懸想猿」と前期作品「懸想猿」は、私家版冊子にまとめて謄写、製本され、のち平成
十四年には、秦恒平『湖の本』に「通算七十巻記念・処女作シナリオ」として収められるのだが、その「懸想猿(正・続)」を載せた『湖の本』のあとがき「作
品の後に」のなかに、興味深い一節がある。
このシナリオは、謄写版で、菅原万佐という筆名で、百五十冊作った。読まされた
人の中からは、魘された、恐い話だったという声がちらほらと聞こえてきた。二段組
み八十頁、B5版の表紙には、妻が雲上菩薩像をきっぱりした線で描いてくれた。祈
るように書き、書きながらわたしの心はこの作品により一層荒廃しそうですらあった
のを覚えている。
文面を拾うかぎり、ここに「書き、書きながら」というのは謄写の鉄筆を握ってという意味のようであるが、そうであれば、なぜその筆写の途次で、「心」が
「より一層荒廃しそうですらあった」のか。その同じあとがきにおいて、前期シナリオ「懸想猿」には、松竹の「後に社長になった城戸四郎氏が「八十点」つけ
てくれ」、「続・懸想猿」にも「高名だった批評家岸松雄が、八十点つけて、読ませるシナリオだと書いてくれて」、両氏ともに小説を書くことを勧めてくれた
としているのに、なぜであろう。
そしてさらにいえば、ここに「わたしの心はこの作品により一層荒廃しそうですらあった」とするものを、なぜ、小説『猿』として仕立て直したのか。それらのことを、これから探ってみたいとおもう。
さて、一点、この小説『猿』に関して解せないことがある。なぜ氏は、シナリオ「続・懸想猿」については多く語っているのに、それを小説化した『猿』につ
いて、あまり、というよりほとんど言及しないのか。そこになにか、氏を圧しとどめるものがあるのか。それがわたしの密かな疑問であって、普通には、それが
シナリオからの写しであり、そのことの残滓がそこにあるからだと推測されたりするのであろうが、それは違うと、わたしは感じている。
「繰返し」。その意味その意義を誰よりも感得しているのは秦恒平であるし、また『猿』は、シナリオ「続・懸想猿」の単なる変換書き直しではなく、また野
外で描いたスケッチに、あとで色を付けたような作品でもない。むしろ、同じ山巓を同じ場所から描いてなお異なる感慨、更なる画境に達するに似ている。
たとえば、子を無くし、家族を失った末、寒村の縁者たちからさえも狂気の老婆として疎隔されている「お芳さん」――そんな彼女に接した「お猿」と渾名の
疎開児童「宏」には、その「もらい子」としての境遇が連環して「受苦」の感応が生じている――が、村の悪童たちに虐められ、せこめまわされているのをひと
り庇って、ひそかに心を通わせた宏が、彼をわが子と妄執して「わしのとこへ来とおくれえな」と迫るお芳さんの「愬えるような声」をふりきって夕まぐれ、血
のつながらぬ祖父と叔母の住む、「二十燭光のはだか電球が昏い水の底に宙に浮いたようにまるく陰気に光っている」山奥の家に帰って、食事を与えられず、
「堅くなって皮ごと食べにくい芋」に「ボクかてご飯ほしいわ」と恨むのを、あてつけに、「あの婆(ばば)のとこで食べさしておもらいやしたらよろしやろ」
といわれ、「せっかく御立派な、気のお確かなお母さん出来なはったんやよって、あてらも大安心であちらさんへお返し申しまひょ」と、常にいや増す叔母の執
拗ないじめに堪らず、「あほう!」と返し、「物も言わずに」火箸を投げつけた祖父「卓造」に、「きちがい」と叫んで逃げた宏が、あてどなくお芳さんの納屋
にたどりついて、小屋の「すぐ外に尻をつき頑にひざ膝小僧を抱いて動かない」場面を描いて胸にせまる、小説『猿』のそこに書き加えられた、つぎのような一
節。
――静かだ。茄子の葉も葱坊主も枝豆も月かげにきらきら唄っている気がする。どん
な時どんな所でかて綺麗なもんは綺麗やと宏は思いがけない感想さえ持ちながらお芳
さんの喋るのを呆やり聴いている。
この、あまりにむげちない場面で、こんな一節がでてくるとはと驚きつつ、氏は「どんな時どんな場所で」、「綺麗なもんは綺麗やと」感じたのかと、その重
さにわたしはたじろいでしまう、まるで端歩で王手を迫られるごとくに。そしてかんがえる。ここには、氏の生(なま)の声が吐き出されているのではないのか
と。そうして、ここにあるがごとき生身ゆえに、小説『猿』はシナリオ「懸想猿」の影におかれているのではないのかと。
おもいすごしかもしれない。しかし、それにしても重い。まるで「受苦」のさなかのうめきのように。
「懸想猿」についての奇妙な感懐が、昭和三十九年作成の私家版「まえがき」に記されている。
そこでは、「懸想猿(正・続)」は、シナリオ研究所の課題で書いたものであり、その「規定の作品として提出したもの」を、なぜ「私家版のこんな形で小冊
子にまとめたりして笑止千万の沙汰に及ぶ」のかと自嘲しつつ、それは、「この作品の内容が、十年来、頭の中に執拗に巣食って離れず、その苦痛が尋常なもの
でなかったこと、筆を執るまでは暗鬱を強いつづけ、書くにつけても陰惨な畏れを強いたこと、さほどまでに色濃く私の一面の「索引」として仕上ったことを知
り、せめては師友知己の眼に触れて私自身の在り方に一言半句の鞭撻叱正が得たかったからである」とされる。そして秦恒平はいう、「作品には何の資料もな
く、虚構である」と。
いわずもがな、ここにある矛盾。それをどう解すべきか、言葉に迷う。告白ともとれる苦しい言葉のなかに浮遊するそれを韜晦とはいえぬだろう。むしろ切迫
ゆえの弁明ととらえるほうが「実」に近いとおもわれるが、それにしても、なぜ、こんなにもあからさまな矛盾のもとに、作品は「虚構である」といわねばなら
なかったのか。そういう弁明を施してさえも晴らしたかった「苦痛」「暗鬱」「畏れ」とはなんなのか。
「私家版のまえがきを書いた頃には、分かっていなかった」ことがあると、さきにも引いた「作品の後に」に記されている。
四十年の創作や文筆生活を積み重ねてみて初めて分かることが沢山あった。記録とし
ての『客愁』第一部連作(「丹波」「もらい子」「早春」)を書かせずにいなかった原体
験が書かれていたし、ディテイルにおいて、このシナリオは他の多くの作品の動機や
細部に呼応する表現をすでに豊富にもっている。先行していた「或る折臂翁」では燃
焼しきれなかった所をわたしはこのシナリオ体験によほど期待していたらしい。
おそらく、「四十年の創作や文筆生活を積み重ねて」うんぬんは韜晦であろう。氏の知らぬはずはない、そこに「原体験」の埋まっていることを。ま、それは
さておき、ここには極めて重要な示唆がある。氏はなぜ、「このシナリオ体験に」、それに「先行していた「或る折臂翁」では燃焼しきれなかった所を」「期待
していた」のか、そこである。
むろん、そこに、ここにいう「原体験」が関与していることは推理されるが、しかし、「十年来、頭の中に執拗に巣食って離れず、その苦痛が尋常でなかっ
た」のが、氏の「原体験」の、それを書くことによってもたらされる「陰惨な畏れ」であるとはいいきれず、むしろ「原体験」から呼び覚まされる【書きたい衝
動】を、他のものにかえて、あえていえば薄めて書くことに対する忸怩が、氏の「燃焼」を妨げていたものの正体ではなかったか。そして、「原体験」をそのま
まに抉りだし、呈示することが、かならずしも文学の力と成り得ぬことも、すでに氏は熟知していたはずである。
が、しかし、やはり書きたい。書かずにはおれない。「苦痛」「暗鬱」が、氏を揺する。
これは独断にすぎぬが、ここにある「苦痛」「暗鬱」は、「原体験」そのものの重さではない。それを意識する知覚の鋭敏に比例しているのであって、これを
逆にいえば、知覚が鋭敏であるがゆえに、「原体験」は重くのしかかり、そこにわだかまる「こと」(先章に引いた木村敏氏の言説を参照)を相対化・対象化し
て、「もの」(同)と化さないかぎり、そして「蘇生」させないかぎり、「苦痛」は和らがず、「暗鬱」は晴れない。それを別の視点からいえば、徐々にふくら
んでそれだけですでにひとつの小宇宙を形成し、文学の萌芽を育んでいた「私」の唯我論的世界において、大きなテーマとなっていた「身内」の問題は、そこ
に、対象化して、いいかえれば「こと」を「もの」に変えて消化しなければならぬ未分化の「原体験」を抱え込んでいて、それが、「私」を蔽う殻となって、唯
我論的世界での意識の飛翔を阻害していたのではあるまいか。
たとえば「続・懸想猿」に登場する「信一」の祖父「桜井五兵衛」が、実際の秦恒平の祖父をモデルとしているとは到底いえないし、「信一」をいじめぬく叔
母「徳」が、恒平少年に「生け花」を教え「茶道」の道を開いた叔母であるはずもなく、そして「信一」がひそかに心を寄せる年上の村の少女「田村和子」が、
「夏休み前、転入して来たらしい一年上級の」「つよく心惹かれた」(自筆年譜)「梶川芳江」の幻影をもとに造形されているとするには無理があるのだが、し
かし、その一方で、そこになんの関連もないとはいい切れないとおもう。風が吹けば桶屋が儲かるという例えよりはあきらかに濃く、そこに関連があることをわ
たしは感ずるのである。
そのことを促す文章がある。シナリオ「続・懸想猿」においては「五兵衛」、小説『猿』では「卓造」として登場する「祖父」の負の原型ともいうべき、祖父「姥島龍吉」や養父母たちにふれて、後年(平成八年)、書き下ろされた『丹波』(『客愁』第一部)の中の一節である。
影のうすい人ではなかった。それどころか意識からのかない物騒な存在だった。触
らぬ神に祟りはないと無意識にも敬遠しつづけていた相手だ、それでもあの椎名村田
布施の田舎にいた間に、この祖父について二つのことをありあり覚えている。思い出
すつど、肌の冷える心地がする。
ここに「思い出すつど、肌の冷える心地がする」と記されている「二つのこと」の一つは、「戦時疎開してさほど経っていないある日の夕暮れどき、」「とあ
る山井戸のそばへ、在のあぶれもののような老婆と少年秀樹と鞭のように細い祖父とが、三方から鉢合わせした」時の記憶で、そこにあった、老婆が「日々の
用」につかう大事な井戸の、その「釣瓶縄」を祖父が、手にした鎌で「ざっくと切りつけた」のだという。
あの時、祖父は火に焚く枯れ木など拾い、束ねる縄か紐かを物色していたらしい、
手にした鎌で井戸の釣瓶縄を、あわや・・と、老婆は泣いて駆けより、秀樹も「おじ
いちゃん」と制止のひまあらばこそ、ざっくと切りつけた。日はかげり、山は響み、
凄かった。
そして、もうひとつの「思い出すつど、肌の冷える心地がする」記憶は、「堪らない・・。またの話にしよう――。」と秘されている。
さて、どうだろう。ここに描かれている祖父がその実像である祖父、秦鶴吉に近いことは疑えないが、しかし実像ではない。印象としての祖父であり、畏怖の
対象、さらにいえば人間の不可解の象徴として、「秀樹」の視た「祖父龍吉」でしかない。が、そこに描かれる「在のあぶれもののような老婆」が「日々の用
で」使う井戸の大事な釣瓶縄を、自分が拾ってきた枯れ木を束ねる縄として「祖父」が、老婆の涙や秀樹の制止を意に介さず、「ざくっと」【鎌】で切りつけた
ときの「日はかげり、山は響み、凄かった」その消しがたい記憶が、シナリオ「続・懸想猿」のひとつの発火点となり、小説『猿』へと転化したものの基底にあ
ることはまちがいない。そうして、そこに使われた【鎌】が、焼き直されて「お芳さん」を切る【血鎌】になったのだと推理することもできるだろう。
しかしむろん、ここに改めてことわるまでもなく、これらの推測は、小説『猿』に描かれている怨念のごとき過去への執着が、事実のデフォルメであるといおうとするものではない。
そもそも、事実が事実として純に存在するのではないし、そんな哲学的思索を呼び覚ますまでもなく、小説に事実の堆積あるいは痕跡を詮索することにさした
る意味のあるはずもなく、まして小説『猿』は、その成立の契機を映像化を念頭においた「シナリオ」としての「懸想猿」にもつのだから、私的な体験を下敷き
にしたデフォルメであると考えるよりも、たとえば往時に隆盛であった「劇画」の、その上質な部分にのみ存在した「お話」としての極端化をそこに想起するほ
うが、スジというものであろう。
だがしかし、小説『猿』に描かれているものが、まったくの「お話」でないこともまた自明のことといわねばならない。そうでなければ、さきに引用した
『猿』に書き加えられた一節の、そのことを知る者のみが吐き出しうる言葉の重みはその芯を失って、歯の浮くセリフと化してしまう。わたしは信じている。そ
こに、あの「どんな時どんな所でかて」の言葉の裏に、私的な深い想いの籠められていることを。そして、その言葉にたどりつくには、なにかしらの怨嗟・遺恨
の体験のあったことを。
氏の「華岳の牡丹」という文章の冒頭に興味深いことが記されている。
牡丹の花を最初に「認め」たのは、花札でであったと思う。その札には蝶が舞って
いたりした。(中略)咲いた牡丹を見て美しい豪華だと感じたのは、もっと年齢(と
し)を重ねてからのことである。順序が逆のようでいて、存外、これが「文化」の世
界で育つ生きるということかも知れぬ気がする。
お花きれいね・・・とは、大概は大人の思いを口うつしに幼な子に伝えたくて口に
している言葉のようである。子供は意外に、花など見ていない。強いるくらいに教え
ないかぎり、まして美しいなどと批評的には見ていない。花の美しさに本当に目が届
くのは、ある程度人の世にもまれて後のことではないか。
ここに観察されている「子供」は、あるいは秦恒平が親として眺めた「子供」であるやもしれぬが、氏は驚いている、「子供は意外に、花など見ていない」、
「まして美しいなどと批評的には見ていない」と。そして氏はいう、「花の美しさに本当に目が届くのは、ある程度人の世にもまれて後のことではないか」と。
むろん、ここでわたしが問うのは、事実として「人の世にもまれ」たかどうかの詮議ではなく、少年の日々の宙にさまようその内面世界において感得した、あ
まりに早熟な「どんな時どんな場所でかて」の一瞬の覚醒、シナリオ「続・懸想猿」を小説『猿』として再生するそのときに甦ったのであろうその苦い覚醒が、
そして、そこに覚醒を導くものとしてあったであろう「受苦」のなにかしらの体験が、いかなる経路、いかなる意識によって、小説を裏支えする私的な真実へと
変貌をとげたのか、そのことであるが、一方、このような推論をたどっていくうちにも、あらたな疑問がもちあがってくる。なぜ、そこに、まるでその前後の
「苦」の蔓延に処方する毒消しのごとく、その私的な深い想いの籠められた言葉が挿入されなければならなかったのか。そこにはなにか、いわくいいがたいもの
があるのでは、という疑念である。
先程来述べてきたように、見様によっては小説『猿』を、作者の私的体験の変形であるとはいえないまでも、そこに作の動機となる「原型としての私的体験」
を推測して、それを、たとえばパンづくりにおける酵母のようなものとかんがえることはできる。小説の記述のそこここに原型として「私」の苦い体験が埋めら
れているというような見方である。そのような見方を全的に否定することはできないであろう。それは、たとえば『清経入水』にあらわれる「紀子」が『猿』の
「正子」(「続・懸想猿」においては「田村和子」)と、深くつながる「少女の原型」あるいは「姉幻想」において描かれているそこに埋められている私的体験
を否定できないというような、そんなことでもあるのだが、しかしそのような見方で、たとえば、そこに描かれている「祖父」を、そして「叔母」を捉えること
はできない。そこには大いなる障害がある。
そのことはさきにも述べたが、実際の作者の叔母ツルは、杉生への疎開を拒みつづけたのだし、祖父鶴吉は、「なみでない水準の漢籍や古典類」を多く蔵して
(『もらい子』)、そこから秦少年の文学好みが触発されたようなことであったらしいのだから、『猿』に描かれる畜生のような二人であるはずもない。
だが、だからといって、『猿』にあらわれる「祖父」を、「叔母」を、そして「父」と「母」をまったくの妄想の産物といいきれないところに問題がある。そ
こには、なんらかの私的な真実が、事実とはまったく違うにしても「私」の想念に消しがたく染みついた「真実のかけら」があるのではと、つい想像してしまう
のである。そうして、もしかしたら作者はその「真実のかけら」の、「私」に融和しないまま内面に鬱積し、言葉に変換することを忌避しつづけてきた隠された
怨嗟・遺恨を、この小説の奥に埋めているのではとさえ想起されるのである。だが、むろんそれは私的真実の暴露というような形でそこに埋められているのでは
なく、また、隠喩として意図的に仕掛けられたものでもなく、あえていえば意識の地底に胎動する火種のごときものとして「続・懸想猿」を生み、『猿』に変貌
する、その発火点になったと推理すれば、どうだろう。
人は、「なぜ」と訝りつつ、おもわぬ、到底おもいもつかぬことを口にすることがある。そして小説を書く者は、ときに、まるで他人の手がそうさせるがごと
くに自身の思念の及びもつかぬことを書いている己れの筆に驚かされる。なぜ、そんな、口にするのも憚られることをと驚きつつ、ああ、そうなのかとその意識
の地底から立ち現われた「憚り」を容れるか、どうか。そこに小説家としての資質の違いが生ずるといっていい、その迷いの十字路における混迷からなにを掴む
か、そこに小説家としての力量が試されると見てもいい。
秦恒平が、「憚り」を容れたかどうか、そのことの真偽はおいても、『猿』に先立つシナリオ「懸想猿」の「正」「続」執筆の或る時点において、氏が、己れ
を解く、それを「砕く」と表現してもいい意思をもったことは推理できる。それがいつなのか特定できないにしても、己れを縛る縄に【鎌】を入れた、その、
いってみれば意識切断の時点で、氏はある結界を越えたのではないだろうか。それをしも、自らの意思で異界の迷路に踏み込んだといいかえてもいい。
シナリオから小説『猿』に改められて、その意味を変化(へんげ)させた文章のなかに、印象的な一節がある。
叔母が板の間へあがると祖父は長火鉢の横でむずとうしろから抱きすくめる。
「いややな、おじいちゃん」
叔母は甘え声になって、引きずられるように奥へ入って行く。ばん――音を立てて
宏は格子の仕切り戸をしめる。低く笑う声が聴こえ、絡みあう二匹の蛇が宏の眼に見
える。
ここに描かれる「祖父」と、その亡くなった妻の連れ子である「叔母」は、シナリオ「続・懸想猿」において、「五兵衛」と「徳」という名のもとにその爛れた関係を、かく記されている。
徳、上へあがる。
五兵衛、むずと徳のからだを後から抱き寄せる。
徳 「(甘え顔)いややな、お父(とう)はん」
絡まるように二人、奥へ入ってゆく――。
そっと戻っていた信一、そんな祖父と叔母をみている――。
もちろん、映像の具体に関するシナリオと小説の性格差を考えなくてはいけないのだが、それを考慮に入れてなお溢れるものが、「絡みあう二匹の蛇」の比喩
に滲んでいる。「蛇」が秦恒平にとって特別な意味をもつことは、氏自身の書き記すところであるが、ここにあらわれる「絡み合う二匹の蛇」の表現は、単なる
象徴ではないようにおもえる。愛憎ともいえる複雑な感情がそこに籠められていることを感ずるのである。そしてそれは、『清経入水』のあの「紀子」との性体
験のあとにおとずれた烈しい混迷に繋がるものをも想起させる。
切りとった文面を追うかぎり、小説『猿』に忽然とあらわれたかと見える「絡みあう二匹の蛇」の幻像だが、それをそのあとの、シナリオ「続・懸想猿」にお
いて「芳」と「信一」(「宏」)を結ぶ重要な場面であるシーン・十五「墓地」にあらわれる「蛇(くちな)」からの投影と見做すこともできる。つまり蛇を
「へび」ではなく「くちな」と表記するそこに寓意されるものが投影して、「絡みあう二匹の蛇」という表現になったというような見方。
氏は、講演「蛇―水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ」において、蛇を「わたしが戦時に疎開していた丹波では、「クチナ」と呼んでいましたが「くちなわ」の
訛ったものという人もある。口のある縄と謂うのかもしれません、が、私は、「ナ」の音こそ、原初のものと考えています」と述べ、「ナ」に「儺」を重ねて、
そこに「蛇への、古代の畏怖が忍び入って」いるのではと説いている。そしてさらに話を拡げて、「日本の神話では、大地母神を地底の闇に大岩で伏せておい
て、父神ひとりで「日」「月」「海」の神を生む、と、それらがまた不思議に、「母なる蛇神」の属性を分かちもつという「世界の構図」得ていたのですね。面
白い話ですね」とも述べて、「水」につらなる「蛇」の根深い意味に言及している。
その学術的探索の意味はおいて、一般に、蛇は忌避の対象であるし、またそこに性的な意味が付加されることもあって、小説『猿』にあらわれる「蛇」もま
た、そのようなものとして描かれてはいるのだが、そこに「くちな」という読みが付されるとき、そこに消しがたい、断ち切りがたい愛憎が憑依して、「蛇」は
単なる忌避の対象ではなく、【禁忌】を含意するものになっているとわたしに映る。そうして、そのような【禁忌】の領域からさかのぼって、「絡みあう二匹の
蛇」の幻像が導きだされたというような見方に立ってみると、その幻像のあとに、それを追い払うごとく打ちおろされる【鎌】が特別な意味を帯びてきて、ここ
に描かれたものの奥に潜む、消しがたい、断ち切りがたい愛憎の、それをいいかえれば、そこに己れの「生」に関する根深い畏れさえも含んだ【禁忌】のその仄
暗い領域を断ち切るものとして、【鎌】がそこに寓意されていると感じるのである。
「絡みあう二匹の蛇」の幻像を見たあと、「宏」は、「庭の五葉の松へ拝み打ちに鎌を打ちおと」し、「今度は裏へ走って行き、井戸端に三束、四束積みあげた柴に、向う見ずに切りつける」。
斬ったぞ――。
宏は発作的に井筒へかけ寄り、一瞬昂然と顔をあげ、やにわにつるべ縄に鎌の刃を
かける。きしんでゆれるつるべ縄に夕日が絡む。
だが、「つるべ縄」は完全に切り落とされたわけではなく、「ぎしぎし音を立てて」(シナリオでの表現)「きしんで揺れる」、その「つるべ縄に夕日が絡
む」のに、「ぷいと眼を背けて宏はいきなり鎌を高く崖の外へ抛げとばすと、背をまるめ足もとだけ見ながら、墓地の方へ歩いて行く」のである。
「つるべ縄」は完全には切り離されなかった。そのことの暗喩するもの。そこに作者の意識が働いていたかどうかは見定めがたいが、そのことの内に、先に引
いた『丹波』のあの一節、「この祖父について二つのことをありあり覚えている」「思い出すつど、肌の冷える心地がする」記憶の影、つまり、「祖父龍吉」が
「老婆の日々の用」である井戸の釣瓶縄を「ざっくと切りつけた」時の驚愕と嫌悪が蠢いていることは確かであり、そして、そこに、「もう一つ・・・は、堪ら
ない・・・。またの話にしよう」と秘されたままの苦い記憶の影が眠っているとも推理できる。
そうしてこれらを起点にかんがえれば、シナリオ「懸想猿(正・続)」執筆のある時点において、己れを解き砕く意識の蝉脱が行なわれたのではとするわたし
の推論に、いささかの信憑性が付加されるはずである。そしてさらに、そこから、ここに推理する意識の蝉脱が『清経入水』を産み出すひとつのきっかけとなっ
て、秦恒平は過去と現在に、そして未来から現在に通有する氏独自の時間軸を手に入れたのではと考えることもできる。
きよらかに歌集『少年』が顕わすごとく、すでに幼少の頃から異界は氏に近しい場所であった。そこに遊離することによって「少年」はうつしみの欝屈を和ら
げ、静めてきた。そうしてそんな異界への遊離が『清経入水』の水脈であること、それはいうまでもないことだが、いってみれば、『清経入水』は現世と異界と
の往来によって、その作品世界を成り立たせているのであって、その往来はまた、過去から現在、現在から過去、そして未来へも通ずる時間の共有を意味してい
て、そのことは、過去が怨嗟・遺恨の固着から放たれて対象化された(「こと」から「もの」へと移行した)ことを意味しているのではないだろうか。もちろん
怨嗟・遺恨が溶解したわけではない。その全部とはいわぬが、大方が、「私」から遠心分離したのである。その遠心分離のきっかけが、さきに推理した「己れを
解く意思をもった」ことにあるのではというのが、わたしの推理であり、このことをいいかえれば、怨嗟・遺恨を、見えないが消えない「殻」としていた「わ
れ」の唯我論の世界が、シナリオ「懸想猿」の「正」から「続」へと移るある時点の、ある機縁(それを明確に憶測し、指摘することはできないが)によって、
その見えないが消えない殻を破ったということではなかったか。むろん、それだけが「発火点」ではないだろうが、それが大きな力になったとはいえるだろう。
そのことを暗示させる文章が『丹波』のなかにある。
六十年もを顧みれば、だれしも幾つかの出発点や折り返し点をもっていよう、その、
いつの、どれに重きを置くかは、めいめいに微妙に秘密めいた実感が在るのかも知れ
ない。秀樹にはうまくまだ説明できないけれど、あの「戦時疎開」の頃を一等大事に
・・・、小説家「奥野秀樹」のために大事に懐かしむ気持ちがあった。それに比べれ
ば「貰いっ子」の境遇など、いっそ、無いがままに・・・して置きたい。
まことに微妙な言い回しではあるが、ここに作家秦恒平の心情が吐露されていることはうたがえない。が、それが、いつもの小説上(三字傍点)のペンネーム
「奥野秀樹」の言葉として吐露されていることに注意するならば、これを告白ととることにいささかの疑念が生ずる。まだ裏があるのではなかろうか、と、そん
なことを考えてしまうのだ。そうしてそんな疑念の循環をたどっていくうちに、自分が、まるで曼陀羅のごとき、ひとつの不思議な世界に入っていることに気づ
く。
底のない、だがわけもなく心地よい、ひとつの世界。むろん、そこからすべてが見渡せるわけではないが、そこにいることが、一種の喜悦でさえある不思議な
空間。そこに秦恒平は、わが師は、にっこりと佇んでいる。「よくもまあ、ぬけぬけと、かってなことをいうもんだ」とでもいいたげに。
第四章 龍潭譚
前章で、小説『猿』とその十年前のシナリオ作品を対比しつつ、「続・懸想猿」にひとつの起点があるのではと推論した。そこに、自己を解き放つ意識の溶解
のようなものを想定したのだった。そしてそこに、見えないが消えない「現実」の殻の「もの」化をも考察して、シナリオ「懸想猿」から『清経入水』へと飛躍
する、いってみれば【生まれ変わり】のなかに見え隠れする「われ」の唯我論的世界の割れ目について言及した。そこには、ひとつの、入れば堕する「私」の危
機があったのではというような見方を示したのである。
その当否はおいても、秦恒平の十代後半のある時点において、己れの小宇宙を揺るがす意識の蝉脱があったことだけは推論される。だが、そこにおいてより重
要なことは、意識の蝉脱により、あるいはその先鋭化によって、己れの小宇宙をとりまく、見えないが消えない「現実」の殻は破ったけれど、幼少期よりひそか
に育んできた「夢想」の内面世界は依然として壊れてはいないということである。否、むしろ、「現実」の見えないが消えない殻を砕いたことによって、ますま
す大きく膨らむのである。熱膨張するがごとくに、妖しく。
おもえば秦少年は、なんという二重写しの世界に生きてきたのだろう。氏の生い立ちを知り、氏の嘆息に接するたびに、そのことを思わずにはいられない氏の
秘められた二重世界。少年は、なんという断絶のなかに生き長らえてきたことか。「耳の底にたちまようそれは僕の存在も憧れも寂しみも何一つ関わることのな
らぬ、あけひろげな、談笑の幻でしかな」い、そんな断絶のなかで、少年はふと気づいたのではないだろうか。自分の妖しくゆらぎ、とりとめなく拡がる思念、
なつかしき幻像をもとめて虚空をさ迷う思慕の、その小さき世界が、全過去、全宇宙のあらゆる「ひと、もの、こと」を含みうることに。そしてそのひとりだけ
の、ただひとりだけの抗弁を生きる杖としていたのではなかったか。あたかも暗闇に山中をさ迷う人のごとくに。
だが、その暗闇に、ときとして、己れを導く光が、ほっと注す。たとえば漱石。そして鏡花、潤一郎により発せられる摩訶不思議な魅了の光。それが少年には、「救い」であるとさえ感じられたのではなかったか。
その序文に「此の小説は昭和二十四年十一月中旬から二十五年二月上旬にかけて毎日新聞に連載したものである」と記されている小説『少将滋幹の母』に、ひ
どく魅了されたことを秦恒平は何度か語っていて、どうも、それが谷崎潤一郎への親炙のきっかけであったらしい。それが「谷崎愛」の始まりということでも
あったろうか。昭和二十四年といえば、氏は十三歳の少年である。新聞の配達を待ちかねている様子が浮ぶ。
そして氏は、折りにふれ公言している。自分は、谷崎潤一郎について語りたいがために、それを聞いてもらうためにはと決意して、小説を書き始めたのだ、と。そしてその熱は、言葉どおりに実現して、氏の「谷崎愛」は広く認知されている。
むろん、氏の言葉に誇張はあっても、いつわりのあるはずはなく、谷崎潤一郎の氏に与えた影響を無視して秦恒平は語れない。そして夏目漱石についても触れ
ないわけにはいかぬ。ゆえに、その知音の要諦を解(ほど)いていきたいとはかんがえているのだが、そのまえにその前段として、さらに本論の前半に語ったこ
とのつづきとして、是非にも触れておきたいことがある。泉鏡花の『龍潭譚』に関する秦恒平の偏位についてである。
氏は、「私が、現代語訳する――その、どうやらうるさい議論のありそうな」「依頼をあえて承諾し」、「原作と原作者に対する私の誠実は、鏡花≠擬
(もど)く訳稿が、そのまま私自身の一作品たりえているかどうかで、表現したい」(「編と訳にあたって」)という意気込みのもと、『高野聖』と『歌行燈』
を「それぞれ大輪の名花であるに比すれば「龍潭 譚」はしっとりと清い莟といえよう」(同)と評価する鏡花『龍潭譚』を、学研版「明治の古典・4」におい
て、こまやかに「現代語訳」している。
そして、その「創作″s為」は、『源氏物語』の現代語訳が、「原文がどんなかと思いわずらう隙間もなしに、少年の心を魅了した」、そのうれしい体験への「感謝の思い」に順ずるものであるとも明かしている。
さすれば、鏡花『龍潭譚』のどこが、なにが、そこまで秦恒平を魅了するのか。そこに氏を読み解く鍵のあることは確かである。それを別の角度から浮び上らせる小さな照明があるので、そこからはじめよう。
広汎な分野にすぐれた業績を残して先年亡くなった評論家寺田透氏が、岩波書店刊行『鏡花小説・戯曲選』の解説として精細に書き継いだものに二篇の雑誌原
稿を加えて一冊の本にした筑摩書房発行『泉鏡花』(一九九一年)。その本のなかに、ここにとりあげる『龍潭 譚』の、「その第三段「かくれあそび」の劈頭
に、「さきにわれ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠(かれ)に認められしぞ幸なる。」とある、その「渠」は誰あるいは何を指すと思うか。「怪異篇」一の
発行後、僕にそう訊ねて来たひとがある」の記述がある。
「僕」とあるのは、いうまでもなく寺田透であり、「僕にそう訊ねて来たひと」とは秦恒平のことである。一九八一年夏、書簡によって質疑応答が行なわれたそのことを、のちに秦恒平自身も述べていて、それはこんな風に録されている。
で、その、『龍潭譚』を訳しました私の原稿で、少しく問題を生じましたことを、
思い出します。
一箇所で、問題が起きたんです。或る箇所で、「渠=かれ」という、いわば異風の
代名詞が使われていました。それは誰を、何を、指しているのか、わたしの理解に、
異存が提出されたんです。
(「蛇―水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ―講演」)
この講演録とさきの寺田透の文章から拾うと、岩波書店刊行『鏡花小説・戯曲選』を編纂中の寺田透に「子供向けにこの作品を現代語訳しているというそのひ
と」秦恒平から「質問状」がとどけられ、そこに綴られた「そのひとなりの解釈」に、寺田透が「異存を申し立てて」、「意見交換が続き」、「やがて終熄」す
るも、「問題は、残されたままに」、両者とも「自説を曲げ」ずそれぞれの説を開陳しているということらしい。
お互いの刺激にはなっても、遺恨の残る質疑応答でなかったことは両者の文面にあらわれているが、ここにいう「渠」の解釈に、よりこだわっていたのは秦恒
平であるようにおもわれる。氏はおそらく謙遜から「子供向けにこの作品を現代語訳している」と書き送ったのであろうが、その「訳稿が、そのまま私自身の一
作品たりえているかで、表現したい」という意気込みのもとに「訳」が成されたことは、さきに述べたとおりである。
さて、代名詞「渠」をめぐる、このややこしい秦恒平と寺田透とのやりとりの意味を解くまえに、あらかじめ触れておきたいことがある。それは寺田透が、この『龍潭譚』をどう位置づけしているのか、作者泉鏡花の意図をどのように理解しているのかということである。
さきの筑摩書房発行『泉鏡花』の冒頭で、寺田透は、村松定孝氏とともに選択編集した岩波『鏡花小説・戯曲選』の「編者の言葉として」、「鏡花はその世界
の狭隘を批判されるが、意外に多くの要素を擁していると、僕は書いた。要素ばかりでなく、制作態度や情感も擁していると書くことが出来ただろう」と述べた
あと、その例として、『婦系図』や『南地心中』の世界をえがいて、「その中にとりことなり、その中で気をゆるして楽しんだり、やにさがったり、歌ったりし
て、その外に出ようとせずにいる」鏡花と、怪異の世界で「個として孤独にそれらに対し、話の終ったとき、その世界から突き離されて――われわれの世界に戻
るとは言わないが、われわれのあいだに来て、われひとともにこの世界の中で荷わされた本来的孤独を気づかさせる存在――乃至非在と」なる鏡花がいることを
あげて、「鏡花における花柳界の比重の大いさを考えれば、この二つの対比だけでも、鏡花世界と一口に言ってすますことの出来ないその出来方の複合性が明ら
かな筈だ」としている。
そして、こんなことをいっている。
同じことは、怪異談とかりに名づける作品群における私小説性あるいは私性の極度
の乏しさからも説明できそうに思う。
素直に文面を追えば、ここに「同じこと」として「説明できそうに思う」ものとは、「その世界の狭隘を批判される」鏡花が、「意外に多くの要素を擁してい
る」、それは「要素ばかりでなく、制作態度や情感」についてもいえる「鏡花世界」の「その出来方の複合性」のことと推察されるのだが、それにしては飛躍し
すぎている。「同じこと」は、本当に、「怪異談とかりに名づける作品群における私小説性あるいは私性の極度の乏しさからも説明でき」るのだろうか。ここが
勘所なので、少し煩雑ではあるが、あとの文章を原文のまま引く。
それもまた当然のことで、なんらかの怪異の犠牲者、犠牲者でないまでも現認者、
ある程度近々とそれにかかわった関係者は、もはや通常社会の通常生活人ではありえ
ず、――他の見方を植えつけられた存在で、世の常のことを描き語る小説家でさえあ
りえない筈だからである。生涯のいつか、若い日に怪異に出会った人間はどれほどか
はともかく、どんな形かで世外のひとたらざるをえず、その躰験をひとに共有させよ
うと力めるひと、あるいは新たに自分が頭の中に描き出し、織り出し、組立てる世界
をことばでひとに伝えて楽しませるひとの役を買って出たらそれこそかえっておかし
かろう。
つまり、怪異の犠牲者・現認者・関係者となった者は、「他の見方を植えつけられた存在で、世の常のことを描き語る小説家」とは成り得ず、「その躰験をひ
とに共有させようと力めるひと」に、あるいは「新たに」それを「頭の中に描き出し、織り出し、組立て」て「ことばでひとに伝えて楽しませるひと」になると
したら、それはおかしい、ということなのだが、そのありえない、考えられない「複合性」を泉鏡花が具有していることをいうのに、なぜ、「怪異談とかりに名
づける作品群における私小説性あるいは私性の極度の乏しさ」が根拠となるのか、そこである。
たぶん、ここでの寺田透の文意は、怪異談を、ただ怪異談として、ということは、単なる聞き書き、あるいは「お話」として単純に描くのではなく、そこにあ
る、それを禁忌といっていいだろう制約、つまり、「生涯のいつか、若い日に怪異に出会った人間はどれほどかはともかく、どんな形かで世外のひとたらざるを
え」ないその制約を超えて、怪異談を自分の「ことばでひとに伝えて楽しませ」、かつ一方で、「世の常を描き語る小説家」でありえた鏡花の特異な「複合性」
をいうことにあったのだろう。そして、そのことの具体例があとに示されてもいるのだが、それにしても、変、だ。
その「変」は、どうも、「怪異談とかりに名づける作品群における私小説性あるいは私性の極度の乏しさ」の用途不明にふくまれているようだ。怪異談を事実
として、あるいはそれを「私」の真実として描くことの無稽は寺田透のいうとおりである。だから、怪異談に「私小説性あるいは私性」が極度に乏しいのは異質
なことでなく、「変」でもない。そんなあたりまえのことが、なぜ、泉鏡花の世評と異なる意外な「複合性」の説明となるのか、そこである。ここにあるのは、
むろん意味不明ではなく、飛躍である。寺田透はまだ言っていないのだ。泉鏡花の怪異談のそのすべてではないが多くに、ひそかに、だが根深く、「私」の棲ん
でいることを。
これを遡っていえば、先に引用した、怪異談の作者がその「怪異の世界では、当然のことながら、個として孤独にそれらに対し、話の終ったとき、その世界か
ら突き離されて」「われひとともにこの世界の中で荷わされた本来的孤独を気づかせる存在――乃至非在という具合になっている」ことの本当の意味が、ここに
まだ明かされていないのである。だから「変」なのである。
そしてこのことは、ことに『龍潭譚』において語られなければならない事柄であるらしい。寺田透はこうもいっている。
鏡花はここで「口碑的物語」を作ろうとしたのではなく、かれの感性の自己証明の
ための回想的寓話画を創造しようとしたのだと見るのが適当だろう。(中略)「人物
の心意行動口吻皆あまり精細にして今」めくのはかえってそうでなければならないこ
とだったということになる。
さらに、『龍潭譚』において泉鏡花が語りたかったのは、「かつての一つの異境の存在、今はないその実在だった」のだろうと述べて氏は、そこにひとつの視座を設定する。重要な、さきの「変」の種明かしともなるその一節に耳を傾けてみたい。
そう書くと最初に言った鏡花の怪異小説の非私小説性、非私性という主張と矛盾す
るようだが、もともと表現である以上全くの非私性、無私など望むべくもないことで、
ことは、現世に生きてある感覚的感情的経験的に捉えうる己にどれほどこだわり、そ
れを再現することにどれほど自分の行く道を限定するか、己をどのようなものと観念
し、それに基いて抽象するか、またそうしてもにじみ出ずにはいない、乃至反動的に
露呈してしまう己の存在、むしろ非非在を黙殺し、己の発言をいかに阻止抑制するか、
の三つのいずれかにわずかにかかわるだろう。
ここに「わずかに」としているところが、微妙なところで、そこにいいつくせぬものの存在を暗示させるが、それは文学論として、たとえば同じく『泉鏡花』
に収められた論考「鏡花から選ぶ」に述べられている象徴的な一節、「人工的であって自然、それが鏡花の作品のありようである」などを素材として、別の場で
論ずべきものであろう。ここでの問題は、さきの言葉をふまえた上で、さて寺田透はどのように泉鏡花を、そして『龍潭譚』をとらえているかにある。
鏡花はその中で、夢想的にみずからかかるものと信ずる感性的人間として己を観念
し、それによって己の躰験と夢想を抽象し影像化したまでのことで、(中略)この『
龍潭譚』は、年をへだてての自己記述以外のものではないということになるのだ。そ
の自己が観念された自己以外ではないにしても。
この結語に異存はない。「この『龍潭譚』は、年をへだてての自己記述以外のものではない」と、わたしもそうおもう。そしておそらく秦恒平も、うむと頷くはずである。
だが、どうだろう、ここに「熱」はあるだろうか。作者のなかに入りこんで同化してしまうがごとき「熱」は。むろん、それが必ずしも必要でないことを知っ
ている。否、往々にしてそれが作品理解をさまたげるものとなることを身に染みて知っている。だが、それにしても距離がありすぎる。
ただし、これを客観的とするのはあたらない。あえていえば、主知的な、全体をみまわして細部に到る、精細な論考というべきであろう。教えられるところも多い。
さて、それでは翻って秦恒平の『龍潭譚』理解はどうだろう。むろん、論の精度において劣るものではない。が、それを主知的とはいえないだろう。むしろ、
偏視的にといっていいほどの執着でもって、「熱」でもって、『龍潭譚』は解(ほど)かれている。それは、よくいう作家魂のなせるワザではないとおもう。あ
えていえば「私」の偏位、親近による。それを肉親の情に擬してもよい。ああ、とつりこまれていく、なつかしき身近な人の逸話のごときものを感じつつ氏は
『龍潭譚』に呼び寄せられたのではあるまいか、微熱を帯びたままに。その一例が、さきに示した「渠」の問題に露出している。
そこで参考のために、『龍潭譚』のその部分「かくれあそび」冒頭の、秦恒平「現代語訳」をここに引いてみる。
先刻(さつき)山なかで、泣いて助けてと姉を呼んだ時、瀧の音や「もういいよ」
に前途(ゆくて)を誘ってもらえて、ほんとに良かった。言いつけにそむいて一人で
家をぬけ出てきたうえに、へこたれて泣いたと知れては、それごらん――と笑われて
しまう。優しい姉さんはうんと好きだけれど、さて顔を合わせてへこまされるのも口
惜しくて。
いい文章である。だが、どうだろう、「瀧の音や「もういいよ」に前途を誘ってもらえて」で、果して意味は通ずるだろうか。その気掛かりがあったせいであろう、氏は、「姉を呼んだ時」に標をいれて、つぎのような注解を施している。
原文はこの前後「さきにわれ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠(かれ)に認めら
れしぞ幸(さいわい)なる」とつづく。この渠とは何か。慶大図書館蔵の鏡花原稿で
は「認められ」のあとに二字分の抹消があり、訳者は、「ざり」という打消語であっ
たろうと思う。そうなら「渠」は「姉」を意味して至極穏当だか、初出以来文章に異
動がない。興味尽きぬままに、諸先学のさまざまな助言もえつつ深読みの惑いは抱い
たまま訳稿を定めた。他日、論考の機会をえたい。
「深読み」であろうか。それを誤読とはいわないが、ここに「偏位」のあることを感じる。それは、ここに引いた注解の「この渠とは何か」に端的に現れている。
寺田透は、さきにもふれたごとく、この部分に関して(たぶん、それだけではなかったであろうが)、秦恒平から質問をうけたことを、「その「渠」は誰ある
いは何を指すと思うか。」「僕にそう訊ねて来たひとがある」と記している。そう、お気づきのとおり、「誰あるいは何」が、「何」に集約(二字傍点)されて
いる。まちがえてはいけない。これは省略ではなくて「集約」である。つまり、ここに「誰」と指名できる「人」を、秦恒平は「何」のなかに集約しているので
ある。ただし、これは意識的に行われたものでなく、無意識のうちに行われたものではあるまいか。意識的ならば、省略であるが、そうではないとおもう。のち
の講演においてそのことに触れたとき、「それは誰を、何を、指しているのか、わたしの理解に、異存が提出されたんです」と述べているが、それは、寺田透の
『泉鏡花』をふまえての発言であり、「現代語訳」注解における「集約」を溶いたものとおもわれる。いずれにしろ、ここには、ひとつの傾きがあり、それを、
「偏位」とわたしはとる。そしてわたしは、そこに氏の【必然】をも遠視している。
寺田透の解釈によれば、「では何、あるいは誰が、かれを「認め」、それがかれにとっての「幸」でありうるのか。認めるという以上、その主格は知覚や意識
を、假想の上にせよ持つものでなければなるまい。そうすれば、これはもうあの九ツ谺の女以外にはない筈である」。しかり。穏当な、そして正当な解釈だと同
意せざるを得ない。すくなくとも、これを論として論ずるのであれば、それが妥当なものであることを否めない。しかし、それは評論家の見方である。
秦恒平は述べている、その「現代語訳」が、「そのまま私自身の一作品」であることを願っての訳稿であると。いいかえると、ここで氏は作者に変じているのだ、異界に入り、現世にもどる「少年」を語る作者として。
それを本論第二章・もらい子に呈示した概念でいえば、氏は、この訳業において、「こと」の只中にいるのである。それをさ迷っているといいかえてもよい、あの「化生はほほと名を呼びかはす」世界に。
だが、ここでひとつ疑問が生ずる。それにしてもなぜ、なぜに秦少年は、『龍潭譚』の主人公「千里」が「泣いて助けてと姉を呼んだ時」に、その急場を救っ
たのが、「九ツ谺の女」ではなく、「瀧の音」や、主格のあいまいな「もういいよ」の呼び掛けと解したのであろうか。それについて氏は、「渠」は、その「か
くれあそび」以前には登場していないが後にあらわれる「九ツ谺の女」であるとする寺田説をふまえて、こんなことを話している。
(寺田さんは)、この「渠」とは、(中略)或る不思議の「女人」のことだと言われる。
なるほど、読者はまだそんな「女人」は見も知らない、けれど、作中の少年はこの
お話を、はるか後年に追懐している体裁ですから、その「女人」のことは語り手は承
知している。承知の上での「渠」であるから、読者の知る知らないは問題ではないと、
言われる。
しかし、叙述に即して本文を読めば、あくまで頑是無い少年の心理的な現在感覚に
貫かれつつ、コトは進んでいるのでして、(中略)少年の現在感覚、それと同調して
読み進んでいる読者の現在感覚に即して申しますと、登場もしていないモノを明確に
「渠」とは、この際指したくても指せないのが道理であり、小説や物語の、ないし叙
事・叙述の、力学というものです。
(「蛇――水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ――講演」)
ここにいう「力学」の一般性はおいて、ここに述べられている秦恒平の見解にわたしは賛意を表する。そしてここに、秦恒平の「偏位」があらわれていることを揚言する。その補足として、先の言葉のあとにのべられた一節を噛みしめたいとおもう。
少年も、むろん読者も、女人の姿も存在も予見もできず、ただ「瀧の音」を耳にしつ
つ「もういいよ」と、迷い子の窮地から放免されたのでした。宥され、助かり、安堵
しながら、その背後に、かすかな不思議への「誘い。いざない」を感じていた
ここにいる「少年」と「読者」と「秦恒平」は、まるで同一人物のごとき親近のうちに、同じ異界を遊歩している。影などという曖昧な言葉は使いたくない。秦恒平はそこに同化している。「背後に、かすかな不思議への「誘い。いざない」を感じ」つつ。
だが、ここにいる「少年」は、残念ながら「千里」少年ではない。泉鏡花が『龍潭譚』に、寺田透のいう「観念された自己」として描いた「千里」でもなく、
秦恒平がその注解で、「姉を母と慕う、母に死なれた少年」とする少年「千里」でもない。そして、このことを悟るとき、寺田透のいう、ここで作者・鏡花は作
術として、「読者を惑わす、曖昧な言い方をあえて選んだのだと思うべきだろう」の言葉が重みを増すのだが、やはりそれは解釈であって、それでは『龍潭譚』
の「莟」としての匂いがなくなる。そして、その「背後に、かすかな不思議への「誘い。いざない」を感じ」ることができなくなる。ここに、わたしが先程来、
秦恒平の「偏位」として暗示してきたものを解く鍵がある。
いまさらいうまでもないことだが、秦恒平には複雑な生い立ちがある。それは、まさに「不思議」というより外にない現れ方で、秦少年に意識されていたはず
である。触れられないコトでもあった。少年にとって「母」は「登場もしていないモノ」であり、「明確に「渠」とは、この際指したくても指せない」存在だっ
た。不在という仕方において、それは同じであったが、泉鏡花の幼年になくなった優しい美しい「母」とは違うのだ、秦少年の「母」は。そこに揺れ動く憧憬は
あっても、やはり「私」を捨てた「母」である。そして秦少年に、それを「母と慕う」、実在の(三字傍点)「姉」はいない。だから秦恒平にとって、「少年」
が「山なかで、泣いて助けてと姉を呼んだ時」、その幻影であるにせよ、「母」を想起させるものに「認められ」ることは、遠い(二字傍点)のである。それを
無意識の拒否としてもよい。納得できないのだ。だから秦恒平は、寺田透のいう「そのひとなりの解釈を持つことを」「告げて」、確かめたかったのではなかろ
うか。自分の「遠い」感覚の正当性を。
そして、このことを違う角度からいえば、ここにわたしのいう無意識の拒否とは、「母」を求める隠された願望の裏返しでもあって、それだからこそ、「母」
にかんする現実の境遇の差異を超えて、秦恒平は「千里」少年に同化できるのだ、想像力の吸引によって。そこに、秦恒平の文学者としての類いまれな資質をお
もう。「偏位」を文学に変えうる、その想像力のすさまじさに、わたしは打たれる。
そうしてこのことは、あとにふれる谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』に秦少年が魅了された、その吸引の意味を明かしもするのだが、そのことについてはあとで
語るのでここに省く。そして、『龍潭譚』に関しての考察もここまでにしておきたい。泉鏡花にふれて秦恒平論を展開していくと、いくらでも話したいことが出
てくるので、それは別の機会にということにして、次章では、さきに、知音の要諦を解いてと言い置いて、そのままになっている作業にあらためてとりかかり、
秦恒平の「谷崎愛」に多くふれてみたいとおもう。
第五章 夢の浮橋
ここに一つの、まるで透視図のごとき文章がある。大学入学の口頭試問で、「好きな文学作品を挙げよと求められ」て「すぐに志賀直哉の『暗夜行路』とトル
ストイの『復活』だと答え」たあと、それは「なぜか」の質問をぶつけられて、「それは、二つとも『男』を主人公にしているからです」と意想外の答えを出し
たことに対し、「と、こう思い出しながら、私は今でもまだ吃驚している」と述べて、秦恒平は、つぎのような自解の弁を『神と玩具との間』の冒頭に記してい
る。
返事にうそはなかった。そのことに対して吃驚するのである。おそらく高校入学の場
面でなら、全く同じ答え方でこれは夏目漱石の『こころ』を挙げていただろう。
(中略)「男」という答え方が的を得ていたなどと強弁する気はないが、くどい議論
を避けて自分の実感を表わすには何より端的で、この一字一語ほど「いかに生きるか」
の自覚や探求にふさわしい言葉は思い当たらなかった。つまりはかなり根の深い、私
の或る偏見が露われた答えだったのかもしれない。
わたしは、ここに引用した文章をレントゲン写真ではないかとおもっている。それをもとに作成した自己診断書とみなしてもいい。誤診しないでいただきた
い。「根の深い、私の或る偏見」とは、志賀直哉の『暗夜行路』やトルストイの『復活』や夏目漱石の『こころ』に秦恒平の人生指針があるということではな
い。「いかに生きるか」を「議論」するときに、これらの作家の名を挙げ作品名を列挙することが妥当だとひそかに確信はしていても――だから、大学の口頭試
問という、いわば公(おおやけ)の試しに間髪入れずそれらの作家の名を挙げ、作品名を並べることは、すでに意識の隅に用意されていたと推測できもするのだ
が――、秦恒平の「いかに生きるか」が、『暗夜行路』の時任謙作を主座に据えているとはおもえない。ここでもっとも重要なのは「男」の語であって、そこに
「実感」を感じていることこそに注意が寄せられなければならない。
「男」の「一字一語ほど「いかに生きるか」の自覚や探求にふさわしい言葉は思い当らなかった」の述懐に、むろんウソはない。だが、そこに匿されているも
のがある。「女」である。「女」を意識しているからこそ、「男」の一字一語が意味をもつのであって、このことを拡大すれば、むしろ「女」の方に「実感」が
あるといってもよいのかもしれないが、むろん、ここにわたしのいう「女」とは現実のだれかれではない。診断が当っているなら、秦恒平が「女」としてそのこ
とを想起しているのは、谷崎潤一郎であるに違いない。あるいはその隅に泉鏡花を置いてもいいが、氏に「女」を連想させる作家の第一が谷崎であることにくる
いはなく、その終着もまた谷崎であるようにおもう。
しかし、そこに、たとえば『痴人の愛』のナオミ、あるいは源氏物語の藤壷をもってきて、それらの「女」たちが、氏にとって「いかに生きるか」の指針であ
るとは、どのようにしてもいえない。べつに女性の生き方に学べないという意味ではないが(という意味合いは、氏の「偏見」の語にもこめられているのだろう
が)、秦恒平にとって「女」は思慕の対象であるだけでなく、そこに人生を見据える起点のあること言うまでもなく、ときに氏が、女性の視点で物事を見ている
と感じさせることさえもあるが、しかし、やはり、「いかに生きるか」と前を向くときに、『痴人の愛』や『源氏物語』の登場人物を当てることはできまいし、
「時任謙作」の名はなくとも、『こころ』の「先生」を思い浮べて、的外れとはいえないであろう。だが、それは「議論」として、である。
「女」が氏にとってどういう存在であるのか、そのことはのちに述べるが、氏にとって最大の命題は、やはり「私」なのである。それを命題ではなく【謎】と
いってもよい。その謎の深さを測るとき、尺度となるのが「男」であり、「女」で謎は測れない。「女」は「私」という意識の【謎】を超えているのだ。器から
あふれる粘液のごとくに。だから、「くどい議論を避けて自分の実感を表わすには」、「男」の一語が「何より端的」なのである。
そして、このことをさらにいうと、そこには根深い含羞と、それを言葉に出来ぬゆえのとまどいがあったはずである。たとえば、仮性包茎のような。想像して
みてもらいたい。大学入学の口頭試問の席で、「好きな文学作品を挙げよと求められて」、「谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』です」と答えることができるかどう
か。むろん、そこに人生の、生きることの深奥のあることは確かだが、それを「師の大納言」藤原国経を念頭に「男」の一語で表わすことは不可能に近い。試問
官にそれをうけとって余りある感性がないかぎり、「議論」として通じないのである。
そこで志賀直哉とトルストイの名を挙げ、「それはなぜか」の質問に、つまりもせず「男」の一語をもって対したのは、氏の柔らかなバランス感覚による一瞬
の判断であって、そこに、今日われわれが目にしてその目配り気配りの多彩かつ柔軟に驚く氏の評論家としての優れた資質を臭ぎとるのではあるが、しかし、そ
のバランス感覚のなかに、谷崎の描く「女」の乳房に、その甘い匂いに、どうしようもなく惹かれる「私」のそのものぐるいともいっていい偏質に対する羞恥を
見なくてはいけない。
そして、このことをさらにいえば、小説とは性体験に似て「私」を破る、壊す、つくりなおす行いがなければ成り立たぬ。「私」をさらけださないでは通れ
ぬ、試しの場でもある。隠蔽は、それが無意識のものであっても(わたしは無意識のそれはないとかんがえるが)、宥されない。皮かぶりを隠しつづけてはいら
れないのだ。そして或る場合には、その皮かぶりこそが、表現の力となることもある。ひたすら内に匿していた包皮が、堰の切れた性の耽溺によって、めくれて
太い男根があらわれるように、ある日突然、我が身に言葉の法力の具わることがある。わたしには、秦恒平の『清経入水』がそのようなものに見える。そしてそ
の奥に、谷崎潤一郎への親和、あえていえば惑溺を感ずるのである。
そうして、このような視点において秦恒平の小説家としての出発を点検するとき、氏の谷崎への親和、自身がみとめる「谷崎愛」はいかなる出自をもつのか、そのことを話す必要に迫られる。
前の章でわたしは、毎日新聞の連載小説『少将滋幹の母』が、秦恒平を谷崎潤一郎に近づけるきっかけになったと記した。では、その小説のどこが、氏を惹き
つけたのかと察するに、多くは「母」の一字に求められることであろう。たとえば、不在の「母」への秘められた思慕。氏の生い立ちをよく知る者ならば、とく
にそうであろう。だが、それを谷崎潤一郎の描く「滋幹の母」、そのことわりを知らず「平中」の横恋慕を伝え来たわが子の腕に返歌を書き送る母なる人「北の
方」、そして、最後に尼となって妖しくあらわれる世捨て人への思慕ゆえにと、そう簡単に割切って本当であろうか。
三ヵ月弱に渡って新聞に細切れ連載されたその小説の、真贋見極めがたい古典の幽玄に軽妙に遊ぶ出だしから、すでに少年は、なにかが起こることの予感にワ
クワクとしていたはずである。それを感知し、空想をふくらませるに充分な審美眼と想像力を少年はもっていた。そして予感どおりに起こる悲劇。少年は思わず
息を呑んだにちがいない。彼の想像をはるかにこえる闇の世界がそこに生々しく現れたのだから。その闇の世界に立ち惑う業苦。人の世の深奥を垣間見たとお
もったかもしれぬ。そして、成長し少将となった滋幹がなつかしき面影をもとめて、尼僧となった母をまさぐりあてるあの場面。まるで霧のなかの夢幻の甘美
に、少年はぞっとして酔い痴れたにちがいない。
だが、ふりかえれば、その夢幻の甘美を導いたのは、断ち切れぬ煩悩に苦しむ国経老人の苦悩の身震いであり、その後ろ姿であったのだから、あるいはヒトの
業苦を見たことが、それを妖しく蘇らせる文学の発見の方が、「母」恋しさよりもなお少年の心を捉えたかもしれない。そのときの秦少年には、それらのどれが
自分を魅了するのかを知り得なかったであろうし、知る必要もなかった。恋愛において、相手が見渡せぬことが熱を昂進させるように、ただわけもなく少年はか
らだを熱くさせていたのではなかったか。よくは、わからない。
興味深いことが、氏の『谷崎潤一郎―〈源氏物語〉体験―』に記されている。
活字に唇を寄せて美味をむさぼることが、私の場合、谷崎の名作傑作と限らず凡作駄
作にさえそう出来るのは、一人の文士としてでなく一人の読者としての私生来の素質
が、谷崎文学の原質と微妙に呼応し共鳴するからである。その深い理由はまだ私にも
十分言い尽せないけれど、極く適切に一例を挙げれば、谷崎文学によって私自身の源
氏物語体験が鮮やかに反照されるからであろうか。
読んで字のごとく、ここに示される自問自答によっても、まだ秦恒平の「生来の素質が、谷崎文学の原質と微妙に呼応し、共鳴する」、わたしの言葉でいえ
ば、ものぐるいともいっていい偏質の「その深い理由」が明かされるわけではない。ヒントが与えられただけである。されば、そのヒント。「谷崎文学によって
私自身の源氏物語体験が鮮やかに反照される」とは、いかなることをいうのか、そこに耳を傾けてみたい。
私が源氏物語に接したのは谷崎文学に対するよりもまだ一年二年早い、新制中学の
はじめ頃であった。谷崎の女性たちより早くに私は源氏物語の女性たちを知り、誰に
教えられもせず桐壷帝と光源氏と冷泉帝に、そして桐壷と藤壷と紫上とにとりわけて
関心と愛を感じ、その余の物語は私にはすべてがお添え物であった。そして、自分の
秘かな願望と同じ、いや遥かに徹底した藤壷と紫上とへの執愛とその文学的表現やパ
ロディ化が、谷崎文学に、谷崎その人の後半生全面に生かされていると知って行った
私の驚嘆は大変なものであった。
ここに進行形で語られている「驚嘆」が、畏敬ではなく「羨望」であったことに、「かかる告白的谷崎論を敢てする」ことの意味のおおよそは明かされている
のだが、それはすこし方角を変えて、「私の「谷崎愛」とは多分に彼自身も告白したと同様、光源氏よりは藤壷と紫上へ、つまりは松子夫人の方へと収斂される
体のものであった」と説明される。そこに、意味の質を変えつつ導かれるのは、その「文学世界と実世界との野放図な混同や重ね合せが、本質的に許されていて
むしろ有効な」谷崎潤一郎の唯我論的世界であり、それは同時に、そういう混同や重ね合せをすることで、むしろ「人の魅力も芸術の魅力もはっきり肥る」と思
い、信じて歩む秦恒平の方法論を裏に示している。そしてそれを示しているがゆえに、「羨望」の内実が見えにくくなっている。これは意識的になされた【ぼか
し】であろうか。それとも秦恒平自身がいうように「深い理由はまだ私にも十分言い尽せない」せいなのか、判断に迷う。
おそらく、いや確実に、氏自身も迷っていたのだとおもう、『夢の浮橋』に出会うまでは。自分が、なぜこれほどまでに谷崎文学に惹かれ、あまつさえ、その実生活にまでふみこんで同化しようとするのか、その「秘かな願望」の出所に。
前記『谷崎潤一郎―〈源氏物語体験〉―』のなかに秦恒平は、まず『吉野葛』が「少年以来私の「谷崎愛」が最もなつかしく結晶する核であった」としたあとで、こんなことを語っている。
『吉野葛』と『夢の浮橋』とはおよそ三十年を隔て、『少将滋幹の母』をはさんで遥
かに美しく照応する、谷崎文学の特に「母恋い」といわれる作品系列中の白眉である
ことは誰しも異論なく言い及ぶ所であるが、例の全集を揃え始めるまだ前の秋、めっ
たになく「谷崎の新作」に惹かれて雑誌というものを買って帰った晩の戦慄と陶酔は
まさしく『吉野葛』を読んだ少年の昔の惑溺と好一対をなして、さながら「谷崎愛」
に極めを打った感じだった。
「例の全集」とは、講談社版「日本現代文学全集」のことであり、「谷崎の新作」が載った「雑誌」とは「中央公論」昭和三十五年十月号のことである。そし
て昭和三十五年とは、秦恒平が『清経入水』において太宰治賞を受けた年より九年前の、氏が新妻とともに京都を離れ、「上京して、素寒貧の六畳一間に暮し」
はじめた次の年である。
ときに秦恒平二十四歳。医学書院という出版社に勤めてはいたが、まだ文壇とはまったく無縁の場にいた。そんな秦恒平が感じた「戦慄と陶酔」とは、いった
いどんなものであったのだろうか。そして、それが氏の「谷崎愛」に「極め」を打った真因はどこにあったのであろうか。氏はその『夢の浮橋』について語った
文のつづきに、種々の谷崎潤一郎論をとりあげて、かく述べている。
野口氏のように「主題は、継母と息子との『不倫な関係』、母子相姦(インセスト)の
体裁をとった密通にあるのだろうか」と逡巡するまでもなく、明白に(三字傍点)(
傍点秦恒平)、「作者の真正のモチーフは、継母との密通という仮装をまとった母子相
姦(インセスト)そのものを描くことにあった」と読める。問題はむしろ、それだけ
なのか、ということだ。なぜ「夢の浮橋」なのか、この言葉およびこの作品が谷崎文
学の魅惑と秘密をどれだけ秘蔵しかつ開陳しているか、ということだ。
簡単にいいおよんでいるが、ここに述べられていることをままに認めて、それを「戦慄と陶酔」の告白と結ぶとき、「母子相姦」こそが秦恒平の「秘められた願望」と見間違えられてしまうおそれがある。「母恋い」ではなく、禁忌を犯す「母子相姦」に。
「母恋い」と「母子相姦」では、大きな隔たりがある。否、隔たりというよりは、この世とあの世ほどの違いが。だが、その違いを認識するのはわれわれの生
活感覚であって、たとえば神話の世界でそのことが直に語られるごとく、はるかに現実を遊離した意識にとっては、「母恋い」と「母子相姦」はむしろ同義に近
いものとなる。そして、さらにいえば、そのような意識界においては、「母子相姦」の願望を秘めぬ「母恋い」に意味はないのだ。それは単なる感傷にすぎず、
改めて語るに値いしないものとなる。しかし、だからといって、なんの躊躇もなく「母子相姦」が「母恋い」にとってかわるわけはない。そこにはやはり禁忌が
ある。それが作られたものであるとしても、禁忌のおおかたがそうなのだから、作られたものであるという理由によって、破ることの許しが得られるわけではな
い。たとえそれが想像力の領域のことであっても。
果して、『夢の浮橋』の主人公「乙訓糺」はこの禁忌を破ったのであろうか、小説の真実として。谷崎潤一郎の隠れた願望として。
この問いを、「逡巡するまでもなく、明白に(三字傍点)」、「作者の真正のモチーフは、継母との密通という仮装をまとった母子相姦そのものを描くことに
あった」と断言する、そのまえに、いささか「逡巡」のあったことを秦恒平が洩らしていて、それは、「一度ならず莫迦げた邪推か、無理な深読みかと私も気が
咎めたけれども、それでもなおこの読み(二字傍点)は動かなかったのである」と記されている。
つまり、これは最初に直感が、母=亡くなった生みの母の身代わりとしてあらわれ、彼を子として慈しむ美しく温和で豊麗な継母「茅渟(ちぬ)」と、子=
「糺」は、秘かに禁を犯した、交わったのだとの直感が、『夢の浮橋』を読みすすむ秦恒平の脳裏に、あっという驚き、戦慄とともに湧いたことを示しているだ
ろう。それは陶酔でもあったろう。肌のぬくもり、甘い匂いさえもかぎわけられるほどの。疑似体験というにはあまりに真近な、歓喜のような。
だが、その甘い陶酔からさめて現実にもどるとき、直感が「莫迦げた邪推」におもえるのだ。読み返す。また陶酔に誘われる。いや、そんなことはなんでもと思い直すも、すでに直感は確信に変わっている。そんな想像をわたしはかきたてている。そうしてかんがえている。
なぜ、そのような、それを「読み」として済ませるには少し難い直感が蠢いたのだろうか。そこに氏の読解を助けるなにか、影の力が働いたのではないだろう
か。あえていえば直感を導く記憶の誘引のようなもの。それゆえに氏は、あえて谷崎の隠喩にふみこんだのではあるまいか。別言すれば、氏の育んできた「谷崎
愛」の、深くその世界を味わって余りある親和の力をより強く、透視のごとく働かせたものが、『夢の浮橋』に没入する陶酔の影にそれを導く誘引としてあった
のではと、わたしはかんがえているのである。
妄想を許してもらいたい。わたしは、その陶酔の影に秦恒平の生母と、彼女より十八歳年下の実父の関係を見てしまうのである。もちろんそれは憶測であり、わずかなひっかかりからの「邪推」であるとはおもうのだが、推理してしまうのである。
それを二人の関係でみれば、年の差を越えた熱情としてなんら不思議はないのだが、世間の目にはみだらなとしか映らない奇異な情況において結ばれた「母」
と「父」。しかも「父」は、「母」は、遠く闇の中に沈んで真の姿を現わさない。幼くして「もらい子」に出されたそのときから、避けて、拒否して生きてき
て、しかし思念の隅を離れない記憶の残滓。それを引き出すことを忌避しつつ、どうしても消し去れない不可思議な出自。そこになにがあったのか。『夢の浮
橋』に陶酔するそのときまでに、自らの「血縁」のそのあらかたを聞き知ってはいても、氏はそこにあるものを客観視していたわけではあるまい。異和感を抱い
たまま、重石のごとく意識の底に沈めていたのではなかったか。そんなことを推測しつつ、わたしはかんがえる。『夢の浮橋』は、そんな秦恒平の重石をふっ
と、まるで軽石のごとく空想の海に浮き上がらせたのではなかったかと。真夜中に「橋」を渡っているうちに、いつしか夢とうつつの境目がなくなるときのよう
に。
「母子相姦」が願望なのではない。『夢の浮橋』にある、それを世間の目からいえば異常な「母と子」「父と子」の、その禁忌を溶かして澄む夢想の世界に漂
うことの濃密に秦恒平は酔っているのだ、正気のままに。そしておそらくは、そこに自らの空白を強く意識していたことであろう、迷い子のように。
と、このようにかんがえつつ、ひとつの疑問におそわれる。ここにわたしの呈示する「濃密」と「空白」の対峙は、いったい如何なる世界を希求し渇望してい
るのか。むろん意識の領域のことではあるが、あえて禁忌を犯してまで辿り着こうとするその世界には、果して何があるのか、それともないのか。疑問がわたし
をとらえる。そうして、わたしは気づくのである。どうやらそのことの寓意が『夢の浮橋』にあるために、まるで我が事のように秦恒平はそこに没入しているの
だと。
もちろん、『夢の浮橋』のなかにあるのは寓意であって、すべてがそこに凝縮されているわけではなく、それは本意の先端であるやもしれず、またその奥にあ
る「母恋い」さえもが、或る意味では枝葉にすぎぬとさえいえるのだが、まずは、『夢の浮橋』に行きつく前の谷崎潤一郎の「母恋い」から解いて、秦恒平が谷
崎を通じて幻視する夢想の世界のそこに秘められた希求・渇望の意味をかんがえてみたい。
ひとつの述懐がある。谷崎潤一郎がみずからの生い立ちを語って興味つきない『幼少時代』の一節である。
母の顔だちのことについては今迄にもいろいろな折に書いたことがあるが、私はよく、
母が美人に見えるのは子の慾目ではないか知らん、誰でも自分の母の顔は綺麗に見え
るのではなかろうか、と、さう思ひ思ひした。顔ばかりでなく、大腿部の邊の肌が素
晴らしく白く肌理(きめ)が細かだつたので、一緒に風呂に這入つてゐて思はずハツ
として見直したこともたびたびであつた。
「思はずハツとして見直した」のが幼時の潤一郎であるかどうかの詮索はおいて、母「関」は、界隈で評判の、「一枚刷りの錦繪に」なるほどの「器量よし」
であり、潤一郎にとっては「女」の原型であったらしいのだが、「慾目」でなく美しいその母「関」について、彼はこんなことも記している。
母はさうして私が二十六七歳の年に達する頃迄、ずうつとその白さを保つてゐたが、
明治四十四年の夏、彼女が我が身に替へてもとその囘復を祈つてゐた長女の園に十六
歳で死なれた時、傷心のあまり一度に老けて白髪が殖え、顔に黄色味を帯びるやうに
なつた。その時代のことであるから彼女は身長は至つて低く、やうやう五尺そこそこ
で、髪は漆Kだつたけれども鬢の毛に癖があるのが缺點であつた。
ここに写されている谷崎の母「関」は大正六年、潤一郎三十一歳の初夏に亡くなる。そして二年後、大正八年に「母を恋うる記」を発表した後、谷崎は父「倉五郎」を失うのである。
その最愛の母「関」の死が、谷崎潤一郎を決定的に『源氏物語』の世界に入らせたのだと秦恒平はいう。そのことを述べた文章を引いてみる。
谷崎潤一郎が源氏物語に接したのはかなり若い頃に遡るが、(中略)そこへのめりこ
み、体験化肉体化しうるほどではなかった。源氏物語にそれを望む内的欲求はまだ稀
薄だった。だが母関の死を契機にはじまる母恋いを主題にした作品の出現は、谷崎が
必然源氏物語とやがて体験的(三字傍点)に出逢うであろうことを予告する。作品の
中で生母を美化することを覚えたとき、彼はいわば事実レベルの母(一字傍点)と理
想化された「母」とを区別しまた融合する足場を掴む。その時おそらく谷崎は、源氏
物語世界および光源氏の境涯に確実に一歩を踏み出していたのである。
(『谷崎潤一郎―<源氏物語>体験―』・「夢の浮橋」)
いうまでもなく、源氏物語を生動させているのは「女」であり、紫式部によって描かれる女御・女官たちの多彩な愛執が全編を妖しく埋めて濃い情感を醸すの
であるが、その発端にあるのは「母」と「子」であり、桐壷の横死の後にあらわれた藤壷と光源氏の「母子相姦」および、そのあとに描かれる光源氏と紫の上の
愛執が物語の精髄であること、諸賢ご承知のとおりである。そして、藤壷が永遠の女性として光源氏に恋慕されつづけたことは物語に詳しいが、この「母」であ
り「女」である藤壷を、たちまち谷崎にとっての母「関」に擬するにはいくつかの障りがある。
その死によって、美しい母「関」は、思慕の世界のなかに「理想化」された。だが、そこには「事実レベルの母(一字傍点)」もいる。「長女の園に十六歳で
死なれた時、傷心のあまり一度に老けて白髪が殖え、顔に黄色味を帯びるようになつた」、「鬢の毛に癖のあるのが缺點であつた」、母「関」である。
だが、「作品の中で生母を美化することを覚えたとき」、母(一字傍点)と「母」とを「区別しまた融合する足場」を掴んだのだと秦恒平は述べている。「区
別しまた融合する」とは創作の一つの源の謂いであろうから、そこに谷崎が、己れの創作の新たな座標軸を立てたことを示唆するものととってよいだろう。では
その「足場」、創作の新たな座標軸とはなにかとかんがえるとき、一通の手紙につきあたる。昭和七年秋に潤一郎が、やがて三人目の妻として半生を伴にするこ
とになる松子夫人を「御主人様」と尊称、己れを「侍女」に別称して書き送ったものである。その芝居っ気たっぷりな恋文の一節に、こうある。
はじめて御目にかゝりました日からぼんやりさう感じてをりましたが殊に此の四五年
来はあな(た)様の御蔭にて自分の芸術の行きつまりが開けて来たやうに思ひます、
私には崇拝する高貴の女性がなければ思ふやうに創作が出来ないのでございます
そして、さらに、「実は去年の「盲目物語」なども始終あなた様の事を念頭に置き自分は盲目の按摩のつもりで書きました、今後あなた様の御蔭にて私の芸術
の境地はきつと豊富になることゝ存じます」といいつのったあと、谷崎演ずる「侍女」はいう、「しかし誤解を遊ばしては困ります。私に取りましては芸術のた
めのあなた様ではなく、あなた様のための芸術でございます」と。
恋文の熱を除けば、「芸術のためのあなた様」の意味がはっきりとしてくるであろう。谷崎は「崇拝する高貴な女性がなければ思ふやうに創作が出来ない」の
である。いや、正しくは、出来なくなってきたのである。そして、そこに生母「関」の理想化が関与していることはいうまでもなく、それが「源氏物語世界およ
び光源氏の境涯に」自己を投影させて夢想する「母子相姦」願望につながると、秦恒平は見ているのである。
それを過剰ととるか否かはおいて、ここには、あきらかに二重の自己投影がある。もちろんここで解きたいのは、谷崎潤一郎のそれではなく、秦恒平の潤一郎
に対する投影であり、そこに視座となる「芸術のためのあなた様」を、秦恒平がいかに捉えていたかということである。そのことの理解を助ける文章が、『谷崎
潤一郎―〈源氏物語〉体験―』のなかにある。
谷崎潤一郎は、いわゆる私小説作家ではない。『饒舌録』に於ける芥川との論争を
持ち出すまでもなく、彼はその「構造的美観」に魅せられて源氏物語を高く評価した
作家であり、当時平板な「告白小説」の氾濫を排して「作家の一生に一度はさう云ふ
作品を書く、と云ふくらゐな程度が当り前である」とも言った作家である。だが、実
はまさにこの昭和二年以後の諸作品に於て谷崎は、「構造的美観」の輸奐に隠して、ま
ことに明らさまな実生活上のモチーフやフラグメントを、いやストーリーそのものを
表現しつづける。谷崎にあっては私小説と対極的に見える小説ほど濃厚に実生活を反
映してしかも出来栄え優秀というこの興味ある成果の意義は、作風上、いや谷崎文学
の秘密と魅力を秘めたものとしてもっと追求されてよいのではないか。
これは「芸術のためのあなた様」をいかに秦恒平が捉えているかの理解を助ける。さらに秦恒平は、同じ『谷崎潤一郎―〈源氏物語〉体験―』のなかに、こう
書き込んでもいる。「物語の「もの」とは、身をもがいて外へ露われようとする動き、人と物の動作を表情をことばを動かして露われて来る呼びかけ、暗く深く
隠されてある声のやむにやまれぬ噴出だと私は考える」、それは、「まさしく「デーモン」が語るのである」と。
だが、その「デーモン」のささやき、「やむにやまれぬ噴出」は、かならずしもそのまま著されるわけではなく、或る場合には「隠されたままに表現するといった、相矛盾する努力を文章の上で繰返し行うことで」語られる。たとえば、『夢の浮橋』のごとくに。
この、源氏物語に臭ぎとり谷崎潤一郎から学んだと自らが明かす方法論を、秦恒平がその小説づくりにおいて駆使したことは明らかだが、それをどのように応
用したかは、作品によって異なる。わたしの読みでは、それは氏の初期作品において、より強く意識されていたようにおもう。あるいは、それがより高度に洗練
されて自然なものになりえたので、徐々に方法論としての存在を読者に感じさせなくなったのかもしれないが、いずれにしろ、初期の作品たとえば『清経入水』
には、「デーモン」のささやき、「やむにやまれぬ噴出」を抑えきれぬまま、それを「隠されたままに表現」しようとする努力のあとが生々しい。
そうして、そのことをいうのならシナリオ「懸想猿」から変身した小説『猿』におけるそれを言わねばならないだろう。そしてそれを言うことは、わたしにひ
とつの妄想を語らせる。あの、小説『猿』に描かれた「叔母」は、まったく想像上の登場人物であっただろうか。もちろん現実の叔母ツルはそこに居なかった
し、叔母ツルが『猿』に描かれた「叔母」とまったく異なることは明白であるが、そこに「デーモン」のささやきが少しも無かったとは言い切れないのではない
だろうか。
小説『猿』に「丹波」として描かれている、その記憶をだぶらせて背景となった戦時中の疎開先、京都府南桑田郡堅田村字杉生の山中に、恒平少年とともに暮
らしていたのは育ての母タカであった。叔母ツルは京都にとどまっていた。しかし、そこに事実としていなかった人だから、その安心が、道を外した想像上の女
を産み出したのではないとおもう。そこにそういう事実がまったくなかった、その投げ出されて宙に浮いた「空白」が想像を駆り立てさせたのであり、だからこ
そ、より迫真的に想念の「祖父」との鬼畜の交わりが描けたのであり、現実の杉生の山中でともに寝起きしていたのが、育ての母タカであったことは、わたしに
微妙なとまどいを感じさせるが、小説『猿』が、せんにも述べたごとく意識の外皮を蹴破るがごとき一種の剥離を感じさせるのは、そこに「デーモン」のささや
き、「やむにやまれぬ噴出」が隠されているからであり、それはおそらく、というよりは確実に、谷崎潤一郎に触発された熱発であり、そこに秦恒平の秘かな願
望が反映・反照されているとわたしに見えてしまうのである。
言葉にするのに躊躇はあるが、秦少年のそばにいて独り身の、「はだかの、それはそれは豊満に乳房など凛々と張り切っていた」(「もらひ子」での表現)叔
母ツルに対する隠された思慕の念が、裏返してこめられているのではないかとの邪推をわたしは捨て切れない。義理の仲を越えて愛してもらいたい幼い願いの変
形が、そこに時を経て、作者を危うく自己流失させていると、わたしには感じられる。
しかし、これはいうまでもなく想像であり、さきに『夢の浮橋』の陶酔の影に、氏の生母と実父の残像を憶測したのと同様に、ここにおける想像もまたわたし
の妄想であるにちがいない。しかし、意識の内部におこる「劇」は多く本人の思念のおよばぬ闇より生まれる。だから、そこになにがあるかを言いあてることは
難しく、その至難の度は、本人他人の別をもたない。むしろ、本人の感知しえない内奥を他の者が見抜くことさえあるのだから、妄想にも一抹の意味はあるので
はないだろうか。それが真実であるとの保証が無くとも。
だが所詮、それらはわたしの妄想である。わたしは、なんの種明かしをしたわけでもない。たとえそこに種はなくとも、わたしは、谷崎潤一郎を通して秦恒平
の意識に生起した「劇」の梗概なりとも示さねばならぬ。そこにある道筋を明かさねばならぬ。小説家が創造の力によって小説を書く、そして読者が想像の翼を
ひろげてそれを読み解く。そこになにがあらわれようとも不思議はないが、そこにその不思議を招きよせたものだけは確実にあるはずである。夢が、なんらかの
意識の反映・反照であるがごとくに。たとえそれが複雑怪奇な、本人に納得しがたいものであっても、そこに到るなんらかの、思念、情動の道筋はあるはずだ。
その道筋をひとつなりとも示さないでは、すべてが闇に消えてしまう。
と、ここにきて、あやうく秦恒平の「谷崎愛」が行方不明になりかけていることに気づく。わたしは妄想に偏りすぎたようである。そこで再び氏の「谷崎愛」
にかえり、「愛」は、そもどこから、氏のどのような希求・渇望から導かれたものであろうかと、ことあらためて考えるとき、わたしに一冊の本が浮ぶ。河野多
恵子氏の評論『谷崎文学と肯定の欲望』である。その、それまでの論とはあきらかに一線を画す異色な谷崎潤一郎論の『春琴抄』にふれた一節に、こんな言葉が
記されている。
それにつけても、「春琴抄」で積み重ねられ、塗り重ねられていく無数の想定は、印
象上の想定であって事物に於ける想定ではないので、一つの想定が拙くても、一つの
事物の想定が失敗した場合のように、そのために全体が総崩れになるようなことは決
してない。従って、読者はその想定が妥当なものであるかどうかを、事物の想定の正
当さを検討するほどには、検討する必要を予め感じないのである。一体、「春琴抄」で
は、この作品のもたらす印象がある程度厚みを増してくると、今の私のような謂くの
ある読み方をするのでもなければ、全篇についても、細部についても、どこからどこ
までが作中人物の想像なのか、ロジック上の推理なのかなど考える手間が空しく、そ
んな面倒は心おきなく放棄したくなるのである。作者の差しだす印象に無条件に与り
たくなるのであって、その魔術こそ傑作「春琴抄」の力にほかならないのである。
(「恋愛欠落の文学」)
おそらく、河野多恵子の語るこの「力」を一番よく理解しているのは、秦恒平であろう。それを感得しているといってもよい。わたしが第二章にサルトルを援
用しつつ――「人間存在にとって、意外なほど根源的な意味をもつ」《情動》による《魔術的》な世界の、その深い意味を秦恒平は知っていたはずである。そう
して、創作というものが、「意識の自発性」に根ざす自己流出であることを熟知していたはずである――と述べたことの、それはたしかめでもあるのだが、氏は
谷崎潤一郎に触れることによって、ここにいう「魔術」の被験者として、正気を失うほどに「魔術」をかけられた者として、「作者の差しだす印象に無条件に与
りたくなる」その摩訶不思議な感応のさなかに、「魔術」を「術」としてではなく、まるで聖者の言葉のように、あるいは氏の名作『廬山』のなかにある「仏の
瞑想の一切の中身があたかも眼前に感じとれる」がごとくに感得したのではあるまいか。それゆえ、それは論理の介在をわずらわしく感じるほどの「愛」となり
えたのであろう。
そして、いわずもがなをいえば、そのものぐるいにも似た感得をひとつのたしかな手本として、秦恒平は独自の、氏でなければなしえぬ【魔術】をあみだすの
である。それが、竹西寛子との対談における「想像力の領域で」の意味であり、そのあとに述べられる「現代と古代の話を同時に書けば、双方ゆらゆら揺れなが
ら、一点、時間を超越して相似た人間の相が重なってくる」、そこに「現在生きていることを確認する」特異な方法論がうまれる。
だが、それにしても、ここにはまだ未解決がある。さればなぜ、なにゆえ、それほどまで直に秦恒平は谷崎潤一郎の《魔術的》な世界に入りこめたのか。そこ
に彼を吸引したものとはなにか。その疑問にぶつかるのである。そこで、さきの引用文にある河野多恵子の「今の私のような謂くのある読み方」の「いわく」を
とりだして、そこから、谷崎潤一郎の謎をまずじっくりとかんがえてみたい。
河野多恵子はいう、「例えば、谷崎文学の諸作にあらわれる、作者と同性の男性たちはマゾヒスト、あるいはマゾヒストの傾向をもつ人間であることが多いの
だが、」「そこに奇妙な特色が現れている」と。そうしてその「奇妙な特色」は何に由来するのだろうかと問うのである。つまり違和感である。「永い間ただ好
きで読んできた谷崎潤一郎」に対して、ふと兆した違和感。それを解明するために彼女は、『卍』という「搦手」の、その小説がなぜ「けったいな大阪言葉」に
翻訳して成されたのかを精査しつつ、つぎのような言説にたどりつく。
谷崎がかねて作中の男性によって描き続けてきたマゾヒズムは、主として肉体的マ
ゾヒズムであった。勿論、あらゆる人間の性愛は肉体と心理(感覚と意識)の双方の
参加によって成り立つものであり、特にマゾヒズムにおいては心理的マゾヒズムとの
緊密な結びつきぬきには肉体的マゾヒズムもあり得ない。その前提のうえでの意味だ
が、谷崎は肉体的マゾヒズムを男性において描くために、対象となる女性として玄人
っぽい女性を特に択び続けてきたのである。しかし、この種の女性の便利さが、彼の
創作には既に不便なものに転じはじめたのであって、そうなったのは肉体的マゾヒズ
ムの限界を感じたこと、つまり作家的に一段と深まりを増す時期に達したからである
が、彼の年齢的な変化とそのこととの繋がりもあるかもしれない。
「「卍(まんじ)」について」)
まことに河野氏らしい分析で、そこに彼女がマゾヒズムとサディズムを切り口に、存在としての人間の、その意識の深奥をも描きうる類い稀な才能をもつ小説
家であることを想起しつつ、なるほど、谷崎を裏からみればこう見えるのかと、わたしは感心しながら聴いている。フロイトの「夢判断」にふれるごとくに。い
ま少し、彼女の分析に耳を傾けてみよう。
自分のマゾヒズム文学の可能性は、心理的マゾヒズムを主座に据えるところにあり、
そのためには対象たる女性は、肉体的マゾヒズムでは何かと不便であったところのあ
くまでも素人である女性にしなければならない。このあらたな志向が、谷崎にやがて
「蘆刈」「春琴抄」等の傑作を創らせたあと、バリエーションに堕することなき豊穣
なバリエーションを可能にした。そして、晩年の谷崎は観念的マゾヒズムに到る。
(「同」)
略せば、肉体的マゾヒズムから、心理的マゾヒズム、そして観念的それにいたる輻輳・熟成に、谷崎文学の発動を見ているということであろうが、そのような
精神病理学的な解析をひとつの計器として違和感の距離を測りつつ翻って、谷崎がその得能を開いた大正期に、己れを縛るがごとき自然主義文学の痼疾に染まる
ことなく、大衆文学に安易することなく漂然と特異な位置を保ちつづけられたのは何故かと勘案して、「大正期の谷崎が〈あくまで現実に執着し、観念の世界に
逃避しな〉いで、大正期的作家の不幸を逃れることができたのは、彼がそうあるべく努めたからではなく、おのずからそれを可能にした彼の作家としての特性に
結局思い到るのである」。その谷崎の「作家としての特性」を河野多恵子は、つぎのごとく輪郭する。
すべての作家において、作家としての個性は人間としての個性から派生したもので
あるはずだが、谷崎潤一郎はこの世は(時には、前世と幽界をも含めて)自分の感覚
と意識にとって、至上の楽土であるべきはずだという信頼と自信が最大の特色だった
人であり、作家であったように思われる。
(「心理的マゾヒズムと関西」)
どうにもつながりの悪いこの谷崎潤一郎の像は、そのつながりの悪さゆえに、わたしを納得させる。「はずだが」は、河野氏の無意識の躊躇を顕しているよう
におもう。そしてここには驚きが込められているように見える。なんだ、この人はと驚きつつ彼女は、谷崎の面影をあらためて脳裏に浮べて、その人の「個性」
を考え、「派生したもの」の信じがたい面妖にあらためて嘆息したのではなかったか。うむと。
しかし、ま、すごい認識に辿り着いたものだ。感服する。うちあければ、わたしは【唯我論的世界】という概念でもって、秦恒平と谷崎潤一郎を結ぶ予定で
あった。その心積りで論を展開していて、「至上の楽土」にぶちあたれば、いまさら【唯我論的世界】などと生温い言葉はつかえない。インパクトが違う。そし
て意味もその方角を異にするが、視点はさして違わない。指差す方角のズレは、それをことあらためて検証しなくてはならないほどには大きくない。大意はほ
ぼ、「至上の楽土」において感得されるはずである、その言葉のインパクトにあずかって。
だが、これはもちろん結論でなく仮定である。それではなぜ、谷崎が「この世は(時には、前世と幽界をも含めて)自分の感覚と意識にとって、至上の楽土で
あるべきはずだという信頼と自信」を持ちえたのかの説得がなければ、河野多恵子の立論する「肯定の欲望」には達しえないのである。
もちろん彼女は、そのことを、「そのような信頼と自信は、何によって培われたものであろうか」と検証する。その文章を、重要点なので端折らずに引用する。
谷崎家の没落は、彼の幼年期のことだが、消え去ってゆく事前の富裕な商家の環境の
後姿は、漸く物心がつきはじめ、そして又それ以上の年齢には達していなかった当時
の彼に、格別の印象を残したにちがいない。年を経るに従って、その後姿の記憶は、
いよいよ華美で、甘美で、慕わしさ、なつかしさを掻き立てたことであろう。いわば、
そうした未練が、この世というものが、かつてのあの環境のようなものであるべきで
あり、あり得るはずだという信頼に転じたように思われるが、転じさせたところのも
のは、その数年まえまでは富裕であった一家が、美貌の後継娘であった母によって成
ったということだったと思われる。美貌の後継娘であった母親の身近な存在は、彼に
とってはかつての環境の唯一の名残りであり、その環境の消え去って往った後姿が決
して幻ではなかったことの確かな証拠だったのだ。彼が逆境を呪うのは、それがあり
得るはずではない状態に感じられてならないからで、〈王侯に等しい豪奢な生活を営
み得る身分になれたら、此の世は遥かに天国や夢幻の境より楽しく美しく感ぜられた
に違ひない。〉と肯定の欲望に堰かれる。谷崎においては、感覚と意識との楽土の象
徴が母親の美だったのである。
(「同」)
そんなことが、と疑念を抱く人のあることを想像する。たとえば、すくなくともそれで己れの文学を支えるほどの「肯定」ならば、悩みに悩み抜いた末の、思索と懐疑の上に築かれる人生の十字架を背負っているはずだという人もあるだろう。当然の疑念である。
しかし、ここでプレパラートにのせられているのは「欲望」である。性欲が後天的に環境・文化によって「個」に付加されるものであるとの説までは認めて
も、そのもとになるものまでを後から作り出すことはできないし、そこに動かしがたくある「欲望」こそが、「個」の核をつくることを疑えない。むしろここで
疑問とすべきは、その「欲望」に、なぜそれほどまでに拘るのか、身を任すのかということではないだろうか。たとえば、すでに三度の結婚を経て、なぜ「母恋
い」にそれほどまでに痼疾するのかというような。谷崎潤一郎の母「関」は、河野多恵子の指摘するごとく、「幼時に死別した母を終生一途に恋慕し続けた泉鏡
花にとっての母とも」、「人間認識の底知れない源泉となった丹羽文雄氏にとっての母とも、著しく異なるのである」のに、なぜに、というような疑問。そして
それを谷崎の「個性」として黙認するときにも、そのような思慕・追憶の感情だけで、あれほどまでに面妖で濃い谷崎文学を支えられるのか、そこにはべつの
「力」が働いているのではないかとの疑念。この当然に予測される空白を埋めるものが、谷崎潤一郎のマゾヒズムであり、谷崎において、作品を産み出す原動力
は、肉体的マゾヒズムから心理的なそれにかわりつつ、ついに観念のそれにゆきつく彼のマゾヒズムにこそある、というのが河野多恵子『谷崎文学と肯定の欲
望』の論旨であり、そのマゾヒズムの裏に、というよりは表に、谷崎の「肯定の欲望の〈起動力〉」があって、それが実は、谷崎文学の主動力エンジンであり、
そこに希有な文学的誠実が加わって、あの谷崎潤一郎の目も眩む世界は出来上がったのだと河野多恵子はいっていると観測し、わたしはうなづく、なるほどな
と。そして、つぎのような河野多恵子の指摘に注目する。
しかし、谷崎潤一郎は、高級なものであろうと、低俗なものであろうと、通俗小説は
書かない、書けない作家であった。彼にあるのは、高級なる芸術小説と低弱なる芸術
小説のみである。この低弱なる芸術小説というのは、芸術小説を指向し或いは芸術小
説めかしてありながら、実は通俗小説という意味ではない。芸術小説になり得るはず
だったのに、高さと強さをかち得なかった小説という意味であり、内的必然性のあま
りの強さゆえに、或いはもうひとつの内的必然性との矛盾ゆえにそうなるかしかなか
った事情が、谷崎のこの種の小説には屢々孕まれているのである。
(「恋愛欠落の文学」)
これは、まことに的を得た指摘であると同感しつつ、ここに繙いた河野多恵子のこれらの立論・指摘を視座に、あらためて秦恒平の『谷崎潤一郎―〈源氏物
語〉体験―』にもどるとき、そこに置かれた秦恒平の、「母と子」から「父と子」に行きついて深まる『夢の浮橋』読解の意味が、微妙に変質してくるのであ
る。
『夢の浮橋』一篇はただ単純に母子相姦の夢想成就だけでなく、それが、三代の「父
と子」が暗黙に相愛、相姦の一体化を遂げかつ遂げるであろうことと不可分の表裏(
二字傍点)を成している。むしろ「父と子」の、男の、愛欲の業念こそが夢にも美し
い妻恋いと母恋いの一体化を積極的に達成(二字傍点)させているのである。
秦恒平の一見唐突なこの読解は、『夢の浮橋』を「糺」の「父」を芯に拡大したもののようにとらえられるかもしれないが、その平面ではなく、それを包摂す
る立体図として『夢の浮橋』の構造を解いたものであり、それを拵えた作者の手の内、「語るべき「真実」が、語るにふさわしい時を別の時へとずらすことで、
隠され、かつ、顕わされる」谷崎潤一郎の作術の中にある「意図」を、独自の視点で氏が読み解いたものである。
以前この一節に接したとき、なるほどと頷きつつ、そこから何が説かれるのかと、わたしは先を急いだ。そしてその節の結語にふれたとき、「えっ」と思わず
声にだしていた。「えっ、そんな・・・そんなことが」と内心に驚いたのである。それは一種の異和感でもあった。ぐいと釣り上げた魚がナマコであったときの
ような。その文章をここに引く。
かくて谷崎潤一郎は、この物語の中でついに久しい「母」との一体化願望を創作主
題上みごとに果すとともに、幼来秘かに自覚して来たホモセクシュアルの傾向をも、
秘かに書き伏せたのである。事実この隠し絵、秘め事の方は、容易に人の眼に届かな
かったと言える。それをさえ作の意図に見入れながら、谷崎もまたここで或る「夢の
浮橋」を渡ったのである。その満足が深く大きかったのは当然のことであった。
奇妙な異和感を感じつつ、ああと、そのときは嘆息した。そこまで読みとらなくてはいけないんだという嘆息だった。そして、その嘆きをしまいこめないまま
論を遡っていくと、そこに、「父が糺を愛しんでの異様な「作意」と」、「武と引き裂かれた糺の或る辛い「断念」と、物語末尾の武を引き取った糺の一種むん
むんするような濃厚な「歓喜」とは、思わず手を拍ちたいほど豊かな川となって「夢の浮橋」の底を流れている」の一節があって、秦恒平が谷崎の作術の巧みを
誉めるその言葉、「思わず手を拍ちたいほど豊かな川となって」が、まるで、「思わず手を拍ちたいほど」の喜び、同好の士を見つけた喜びの表現であるかのよ
うにさえ思えてきて、むむと、あとずさりしたものである。もちろん、それがまったくの誤解であること、氏の名誉のために確言しておく。
いま、冷静に、そのひいてしまった文章を河野多恵子の立論を視座に読み返すと、そこに、ある一つのヒントが、秦恒平の意識の世界を明かす一つのヒントが
隠されていることに気づく。「その満足が深く大きかったのは当然のことであった」。ここにヒントが隠されているようにおもう。
さきに、河野多恵子の論に同感し引用したごとく、谷崎潤一郎にあるのは「高級なる芸術小説と低弱なる芸術小説のみ」であり、そこに「低弱なる芸術小説」
が産まれるのは、彼の「内的必然性のあまりの強さゆえに、或いはもうひとつの内的必然性との矛盾ゆえにそうなる」のであって、「そうなるかしかなかった事
情」が、そこに「孕まれているのである」。だから、「そうなるかしかなかった事情」を孕んだまま、「もうひとつの内的必然性との矛盾」を克服して、己れの
強い「内的必然性」を夢想成就させることができれば、「その満足が深く大きかったのは当然のこと」であり、そこにある作者の「満足」、表現者としての自足
を「当然のこと」と感じる秦恒平の同感、というより「愛情」に注意が向けられなければならない。
ここにはあきらかな【告白】がある。自分にも「内的必然性のあまりの強さゆえに、或いはもうひとつの内的必然性との矛盾ゆえにそうなるしかなかった事
情」があることの。しかし、そこに「そうなるしかなかった」というのは、いうまでもなく、「低弱なる芸術小説」を書くしかなかったという意味でなくて、そ
の反対、「高級なる芸術小説」を産みだす私的な所以をいっているのであって、その、内的な、ということは他人に解りがたい「矛盾」のなかに秦恒平が文学を
見定めていることを暗喩している。
秦恒平が谷崎を「頌する」ために、その深い内奥を説き明かすために、自らの作家活動を希望したとは、このことの謂いであろう。それは「私」を解く作業で
もあったのだ。自らの目指すものが、そこに大きな矛盾を孕んでいることの予感そして自覚があったればこそ、まず谷崎を説く必要があったのである。生きぬく
ためには。
と、ここまできて、また疑問が生ずる。さきの二重写しに示されるがごとく、似てはいるが異なるその私的事情をあえて無化してまで親和する、全的受け入れに等しい秦恒平の「谷崎愛」とは、一体いかなる【告白】であったのか、ということである。
それが単なる愛好、親炙の表明でないこと、あるいは自愛の変形でないことは断言できても、その性格を簡単に言い表わすことは難しい。いいかえれば、それ
が谷崎潤一郎への信仰告白であるのか、たとえば同性愛者の身を切るがごとき全的露出であるのか、その見分けがつきにくいのである。そのあまりの熱量によっ
て。
しかし、にもかかわらず、その【告白】の性格を明かさないでは、秦文学の真の理解に届かない。それでは、わたしのこれまでの論考が水泡に帰してしまうといえば大袈裟に過ぎるが、不十分な、「窓櫺ニ尾巴過グルコトヲ得ザル」(「無門関」)ものとなる。
私見をさきに云おう。わたしは、氏の【告白】は「信仰告白」であると見ている。ただし、それはたとえば志賀文学の信奉者が、直哉を絶対視するそれとはあ
きらかに違う。その理解こそが要諦であって、志賀直哉に親炙する者たちが、直哉に「小説の神様」は見つけえても、それが己れの救いとはなりえなかった(あ
えていえば、「父」とはなりえても「慈母」とはなりえなかった)のと、明らかに異なる「信仰」のかたちが、秦恒平の「谷崎愛」に見いだせるのである。そし
てこのことは、この章の冒頭に紹介した秦恒平の述懐が自己診断書であると、わたしの述べたことの説明にもなろう。
はっきりと云おう。谷崎文学は秦恒平にとって「救い」なのである。だが、むろん、それは谷崎潤一郎その人が「神」なのではなく、谷崎のつくりだした世界
が、秦恒平にとって、己れの空白(次章に述べる「根の哀しみ」の空白)を埋めてくれる、救ってくれる、不思議の世界になりえていることをいうのであって、
だから、そこに「神」はいないが、藤壷がいて、紫の上がいて、松子夫人がいて、そして迪子夫人が居るのである。美しき「母」として「妻」として、そして永
遠にその正体をつかみきれぬ「女」として。
それを、河野多恵子のいう「至上の楽土」おきかえてもいい。秦恒平は、そこにこそ遊んでいる。そして、そこにある「可能性」に身を任せようとするのだ
が、そこには限界がある。いみじくも氏自身の問う、「谷崎にあっては私小説と対極的に見える小説ほど濃厚に実生活を反映してしかも出来栄え優秀というこの
興味ある成果の意義は」、「谷崎文学の秘密と魅力」を映してあまりあるが、その「濃厚に実生活を反映して」いることによって、限界をもつのである。
河野多恵子のいう、「私小説作家に優るとも劣らぬほど深く自己に根ざしながら、しかも凄じく変奏された文学」は、その「変奏」に豊富なバリエーションはもちえても、原曲の有限によって、自ずと限界を内包するのである。
むろん、その限界は、谷崎文学の限界であるのだから、並のものとは違う。だが、並のものとはちがうその違いの根底にあるのは、どこまでも作品の完成に満
足を求める、いってみれば、こだわりにあるのだから、なにをどう書くか、その選択が無限にあるわけでなく、むしろ満足を求めれば求めるほど選択の幅は狭め
られる。一枚の神品陶器皿を残すために幾千の皿が割られ、みずから築いた窯さえもが大地に帰るごとくに。
小説はなにを書いてもいいのだという、あれもこれもの可能性は一見、文学の可能性であるように見えてそうでない。いわば野放図にただ身をまかせて、何が
産まれるだろう。可能性は限られてこそ可能性なのであって、その限界に殉ずることを躊躇していては、夢殿観音の前に立ち尽くすことしかできない。みずから
の可能性を残したままに。
谷崎潤一郎の死が報ぜられた日、私はたまたま職場の夏休みで京都へ帰っていた。
悲しさに顔を伏せたままだったが夕過ぎて耐え難くなり、生前用意されていた鹿ケ谷
法然院の墓所を重苦しい心地で訪ねて行った。(中略)どうなるのだろうと思った。
活字に唇を寄せるだけで美味の滴るような谷崎文学を文学のあたかも傍流の如くに多
くの人が遇したのはなぜかと思った。そして一年後、『吉野葛』の作者に捧げて私は
ひそかに『蝶の皿』という小説を書いていたのである。
(『谷崎潤一郎―〈源氏物語〉体験―』)
秦恒平のこの信仰告白に、なにもつけくわえる必要などないだろう。「活字に唇を寄せるだけで美味の滴るような」谷崎への「愛」を抱えて書き継がれる秦恒
平の文学作品のいくつもが、そのことを語っている。氏は、その方法論を進化させながら、敢然と「可能性」のなかに遊んでいる。異界を歩んでいるのだ、生き
る手立てとして。
第六章 根の哀しみ
さて、これは前章・夢の浮橋に述べたことの余談であるが、秦恒平の「谷崎愛」は谷崎の濃厚な小説群をだけつつむものではなく、潤一郎が折にふれて残した
随筆・芸談・寸言にまで及んでとどまるところがない。氏の『神と玩具との間』などは、水上勉氏の評するとおり、谷崎の内なるものへの「前人未到のもう一つ
の照射」であり、「愛」あればこその「労著」であるのだが、敬愛というにまどろこしいそんな全的「愛」のさまざまな披瀝のなかに何度かあらわれ、賞味され
ている言葉がある。花は「桜」、魚は「鯛」。その意味するところは氏の「谷崎潤一郎論」に詳しいので、ここに拙く略するのを控えるが、そこにおける「繰返
す」ことの意味について、少し考えてみたいとおもう。
秦恒平「谷崎潤一郎論」の「分母」となった評論「花と風」のなかに、古人からいまにつづく「我々の精神の伝統に一期一会という覚悟があり、これは謂わば一生一度とでもいうことだろうが、これを滅多にない機会と釈(と)ると大違いになる」の一節がある。
この「一期一会の考え方には、常住不断に「繰返す」ということが先立っている」と注をつけたあと、氏は『細雪』の花見のくだりに材をとって、われわれの認識に一本の楔を打ちこむ。
「繰返す」と言っても、だが言葉通りに行為を「繰返す」ことは実は不可能なのであ
り、この不可能を可能にしよう、或いは成就したと思ってみる気もちには「絵空事」
を構える強い創造と風狂の姿勢のあることはそう知られていない。いかに茶を飲みい
かに麸を投げようとそれは去年とは違っているはずなのだが、それを同じ繰返しと思
い、そう思い入れて楽しもうとする所に自己暗示、自己呪縛が働く。暗示や呪縛の度
が深いほどその繰返しは風雅風狂の色を帯び、「絵空事」独自の値が添うのである。
つまり、谷崎潤一郎の『細雪』に隠見する、それを「絵空事」と知りつつあえて「構える強い創造と風狂の姿勢」こそが、「繰返し」に「値」を添えるので
あって、そこに「不壊の値を添える」、「繰返しを殊さら営む心に巣食う物怪、鬼的なもの」が「語り出す」とき、「物語は内なる狂念が自然と響き合って物の
あわれを惹く」のだと述べるそこに、秦恒平の谷崎への親和があるこというまでもないが、これは親和であると同時に自覚ではなかったろうか。己れの立つ位置
の、そのあやうさを確かめるがごとき。
評論「花と風」とともに「谷崎潤一郎論」をも収めた評論集『花と風』の跋にある秦恒平の言葉、「道を照すべくちいさな火をとにかくもかかげた」とはこの
ことではとおもわせるほどに、ここに吐露される言葉の意味は深く、それは氏の創作の秘密を明かしているようにさえ感じられる。
だが、誤解してはいけない。なべて創作が或る種の物狂いから産まれるとしても、そこに物狂う「われ」を冷静に視つめる「私」がいなければ、それはただの
物狂いにしかすぎないのだ。とくとくと効果を測るのでもなく、いたずらに踏み外しを制するのでもなく、怜悧、冷静に「われ」を視つめる。それを対峙といっ
てもよいが、そこに物狂いの「われ」と向き合う「私」の有り様こそが、作品の質を決する。
そうしてこのことを翻っていえば、「繰返し」が意味を有するのは、それが、ものごとの「繰返し」ではなくて、「私」の「繰返し」、生まれ変わりを奥に秘めているからではなかろうか。評論「花と風」の一節に、古代の神話を解して秦恒平はこんなことを語っている。
記、紀いずれもが天孫の降臨直後に二人の乙女に逢われたことを伝えている。姉を
磐長姫、妹を木花開耶姫と呼んだ。天孫は顧て妹を選び、姉は怨み泣いて、かくはか
なく散るばかりの花を選んでとこしえに易らぬ礎の吾を退けられては、人の生命はこ
の後、いとはかないものとなるだろうと言い置いた。
この伝説を浅く読めば、或る面では人短命の所謂を語るものであり、或る面では天
孫の選択の片手落ちであるかのごとくである。だが、(中略)花は「花」のまま、繰
返しの象徴として、天孫が地上で為した最初の決意で選ばれたのであり、この時、人
の生命も、美しきものの生命も、繰返しの中の一度一度に新鮮に充実あるべきものと
決められたのである。決められたというのが誤解を招くなら、古人はこの伝説に拠っ
て生命の在り方を具体的に把握したのである。因果の輪廻とは全く違った断面で「繰
返し」の本質を把握したのである。
ここにいう「因果の輪廻とは全く違った断面」の、そこにこそ文学の命は宿ると言い変て錯誤はないだろう。われわれは「経験」を重ねているのではない。
「記憶」を重ねているだけである。経験は重ならないからこそ、経験なのであって、その重ならぬ「経験」を経験し直す、あるいは蘇らせるという「いとはかな
い」行ないが、文学に命を与える初原なのではないだろうか。「いとはかないもの」、そこに命を宿らせるためには、日々「私」を新たにする気構え、心構えが
なくてはならない。因果の輪廻に身をまかしての「繰返し」からはなにも生まれない、その自覚こそが「繰返し」に意味を添える。
ここにある「繰返し」の自覚と似た意味合いのことが、エッセイ集『茶も、ありげに』のなかにも語られていて、そこで「一期一会」の言葉のもつ意味に言及
する秦恒平は、それを「一生に一度きりの出会い・・、だから・・大切に、といった気味に読み」とるだけでは、「大事なところを見落として」しまうとして、
つぎのようなことをいっている。
「一期一会」とは、ちょうど正月を心して迎えるような意味合いを持っている。正月
は、一生に一度どころか一年=三百六十五日がめぐれば、イヤでもまた訪れる。いわ
ば際限のない繰返しの代名詞かのようにも、謂える。ところが先にも触れたように、
正月を、人はつとめて清新に清潔に、あたかも一期の一会「かのように」心用意して
迎える。(中略)(そんな)際限のない繰返しの一度一度を、あたかも一生に一度の機
会「かのように」心籠めて、迎えかつ送る、そういう心術として思想化されたのが、
この言葉である。もし文字どおり一生に一度「限(き)り」の事なら、物なら、人な
ら、これを根限り尊重して誠意を尽すのは、ある意味で案外に易(やさ)しい。しか
し今日、あす、あさってへ拒みようなく繰返される物・事・人との、時に煩わしいほ
どの出会い、その繰返し一度一度を、あたかも「一期一会」の覚悟も新たにそのつど
清新な気持ちで、ちょうど正月を大切に迎えるように、いつもいつも迎えられるかど
うか。そこが、「一期一会」の成ると、成らぬとの岐(わか)れなのである。
(「一期一碗」)
ここに「茶」に託して語られていることが氏のたしかな心構えであり、ものの見方の主旋律あることは、氏の著作の随所にその変形・変奏の窺えることによっ
ても知れるが、それはまた氏の文学論のゆるぎない中枢でもあって、そのことはさきにも触れたが、あらためて評論「花と風」にもどるとき、そこにこんな言葉
が言い置かれているのを見いだして、わたしは背筋を伸ばす。
単調と探玄とは「繰返す」という実に危い一線を挟んで決定的に岐れており、この
一線の上に日本人の心のすがたを捉える機微がある、と私は考える。良くも悪しくも
日本人の芸術を理解するには、一見単調な繰返しの一段底にある一生一度の気韻を手
強く汲み出す気構えが大事であろう、さもなければ一半の現われを見て真の特質にま
で見及ばないことになる。
(「花と谷崎潤一郎」)
いまこの一節に帰って、わたしはなるほどと考える。これは「心構え」でもなく、「人生観」としてくくられるものでもなく、「心術として思想化された」と
いう氏の言葉を借りていえば、「術」なのではないのか、モノ・コト・ヒトを見極める、そのときの。そしてこれをさらにいえば、それは生きる「すべ」ではな
く、たとえば忍術、算術というがごとき言葉に含まれる「じゅつ」としての「術」であり、プロが修練のすえに身につけた技能・技術をいうときのそれといいか
えてもよい。
へえっ、と哄笑しつつ、たぶん人は尋ねるであろう。「術だって。そんなテクニカルなものなのか、秦恒平がくりかえしいっていることは」と。しかり。だ
が、そのテクニカルのありようは、たとえば親鸞が「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもつて存知せざるなり」(「歎異抄」)と述べるそのときの集約と同位であるといってもいいのであって、そこにこめられた含意の深さが測れなければ、
「心術」の奥義を知ることはできない。
なら、と、人はこんなことをいうかもしれない。おまえの放言は一応みとめよう。そして秦恒平の語る言葉に深い意味のこめられていることも理解する。だが、それにしても、秦恒平はどんなことのプロだといいたいのだ、人生の達人とでもいうのかと。
それもよかろう。人生の達人なんて敬称でくくれば、なんとなくわかったような気にはなるだろう。だが、違う。氏は、人生の達人なんかではない。「受苦の
プロ」である。それをより正確にいえば、「苦」をその生い立ちのはるか原始より受け入れて、かつそこにある不明を倍加させつつ、生きる糧にできるプロで
あって、人生の達人なんかではない。
むろん、氏が初手からプロであったわけはない。「苦」を繰返し、蒸返し、心あらたに味わうことによって、氏は「受苦のプロ」となったのであり、「苦」の
なかから「美」をみつける「術」を己れを救う方策として身につけたのである。そして、その、いってみれば「苦」から「美」をとりだして、それを自己救済の
手立てとするお手本が谷崎潤一郎であったといってよいだろうが、しかし両者にはあきらかな差異がある。
前章に考察した「夢の浮橋」論を引き出すまでもなく、谷崎潤一郎が求めたものは、「母」に托して幻視される「楽土」であり、そこにいたる途次の苦難が快
楽ともなる、いってみれば「苦」の彷徨の昂揚に、その作品世界は創り上げられる。それを、「我といふ人の心はたゞひとりわれより外に知る人はなし」という
言葉を引き合いに、そんな独白が護符とさえなり得る唯我独尊の文学世界の「夢の浮橋」を渡りつつ、営々と、そして華麗に現実を遊離したのだ、谷崎潤一郎と
いう大作家は、としてもいいだろう。
そこに観察される芸術至上主義的な独尊、つまりわがままは、産まれる作品の輝きによって相殺されるのではなくて、むしろ、わがままこそが作品を光らせる
照明となって、それを操る「手」の鮮やかさゆえに、わがままがわがままとしてではなく作品の美質として感知されるのである。そしてより重要なことは、そこ
にある輝きが、無明の幽暗に点じてうたかたの「楽土」を幻視させる、いってみれば闇夜の白雲のごときものとなって、見えない人には永劫に見えないが、見え
る人には生の揺らぎに隠見する希望の光とも至福の美とも映ずることであって、秦恒平が、そのような谷崎文学の幽遠な芸術美に秘められた奥深い工程の、まっ
こと正統な継承者であることをわたしは疑わない。
過去の日本人は底知れぬ闇の深みを一方では畏れながら、むしろ光明の真昼の世界
を恋い想う以上に、より多くぬばたまの夜の暗にひそかに息づき眼を凝らし、その中
にきららかに、花やかに、かすかにうつろう「ものの映え」を愛したのである。この
闇と謂い夜と謂うのも、ただの昼につづく夜であるだけでなく、むろん現実に対する
非現実、眼に見える世界に対して眼に見えない世界、花咲くものの根の世界、即ち「
心の故郷」であったであろう。ここに谷崎潤一郎の、「古い日本」に対する秀れた洞
察があった。
「谷崎潤一郎論」に記されたこの一節に、氏の谷崎理解の要諦がみてとれるが、同時にわたしは、そこに秦恒平の世界が映されているのを感ずる。
「現実に対する非現実、眼に見える世界に対して眼に見えない世界、花咲くものの根の世界」の「ぬばたまの夜の暗にひそかに息づき眼を凝らし」て、非現実
の世界、「花咲くものの根の世界」を描くことが「物語の伝統」であり、そこに「心の故郷」のあることは認めても、そこに偏するのは寺田透の評言を借りるま
でもなく「幻視家」であろう。
むろんいうまでもなく、われわれが描きうるのは「現実」ではない。その意味では、われわれはつねに「眼に見えない世界」を描いているのだともいいうる
が、しかし、それは創作ということに随伴してそこから離れぬ影のようなものであって、光があれば影ができるその理のなかにわれわれがいることを確認しても
得るものはないし、影から光を映像することに文学の原理を見て、それをいうことにさしたる意味はない。文学の世界においてはむしろ、そこに描きだされる
「光」と「影」は別物である場合がほとんどであるのだから、「現実」と「非現実」の区別さえもが意味を薄くする。
問題は、「「眼前にないもの」を書くこと書けることが物語の伝統で」ある世界において、作者はどこに位置しているかに絞られる。「ぬばたまの夜の暗にひ
そかに息づき眼を凝らし」て、「現実に対する非現実、眼に見える世界に対して眼に見えない世界、花咲くものの根の世界」、「心の故郷」に、果して谷崎は棲
んでいたのか、そして秦恒平は、ということが、ここに問われるべき事柄であろう。
わたしの考えでは、両者ともに「花咲くものの根の世界」に囚われ、それをわがものとすることに秘かな悦びを感じ、そのためには他のものを無にすることさ
えも厭わないその志向において、度数の違いはあっても、同じ領域にある。が、しかし、それぞれが立っている位置は、大きく異なっているようにおもえる。
さきにも述べたごとく、谷崎潤一郎が求めたのは「楽土」であり、そこにいたる途次の苦難が快楽ともなる「苦」の彷徨の昂揚に、その作品世界は創り上げら
れるのであって、「心の故郷」に安住しているわけではない。が、そのような昂揚のうちに作品が産まれるということは、谷崎の視野に、「心の故郷」がつねに
意識されていたことを示しているのではないだろうか。それもごく身近に。近づいているからこそ昂揚するのであって、谷崎潤一郎が三度にわたって、最後は口
授までして『源氏物語』を現代語訳したことは、その傍証であると感ずる。それは、すさびではなく必然の行いであり、いってみれば、「心の故郷」への里帰り
を寓意しているようにさえおもえる。
これに対して、秦恒平はどうだろう。氏もまた深く、「心の故郷」を意識していることは間違いない。が、氏はその傍に立ってはいない。深い森に眠る「湖」
を求めて旅立つときにも、それは里帰りではなく、「客愁」のひとり旅であり、「心の故郷」は、秘かに、だが身を焦がすほどに目指される夢想の「楽土」であ
りつづける。
ここにある位相。二人の立つ位置には差異があるとしたことの意味はここにあって、その差異は、時代の隔たりや資質の異なりよりも、生い立ちの違い、就中、母の存在に多くその因が求められるのではないだろうか。ごく最近の「私語」のなかに、氏はこう吐露している。
人間とは、「自分」「他人」「世間」の三種類しかなく、親も兄弟も親類も自分ではない
以上「他人」=知っているだけの人の意味だと、子供の頃から思い決めていた。
「世間」とはつまり知らない人。しかし人はそれでは寂しすぎる。だから死んでから
も一緒に暮らしたいほどの「本当の身内」が堪らなく欲しくなる。その「本当の身内
」とは何だろう、というのが平たく謂ってわたしの文学の動機であり主題であった。
この身も蓋もない言葉の内に秘められた痛切は、「心の故郷」の憧憬へと変容し、独自の「身内」観となって結晶する。しかし、そこにおいてもなお、「心の
故郷」への帰着は果されない。空白だけが残される。本論の【序】に呈示した、「空想を極端に押し展げていくことによって、つまり非現実の莫大な量によって
現実を相対化しえたときに、初めて現実に生きていく上での条件が腹に入るだろう」とは、このことの自覚ではなかっただろうか。
それは、むなしいあがきのように見えて、そうでなく、そこに彷徨うことは氏にとって救いであり、快楽であり、そして確かな生きる手立てなのである。だか
ら、それは、「できることならば空想ではなくて、想像力の領域でガッチリ受けとめたい」とされるのであるが、種々論じてきたごとく、そこには多くの困難が
孕まれている。たとえば、作品の「真」をどこに置くのかというようなこと。
そこで、その答えが必要かどうかということをも含めて、ここに小説『誘惑』をとりあげ、秦恒平の方法論の一端を開示して、作品の「真」はどこにあるのか、そのことをかんがえてみたいとおもう。
ところで、なぜ『誘惑』なのかといえば、「ほら、ここだよ、ここを通り抜ければ」と氏自らの手によって、その作品を読み解く近道が、小説『誘惑』の随所
に道案内されているからであり、そのあまりの直接に、あれれと驚きつつ、きつねにつままれたまま、とりあえず案内に従ってみることとする。
小説『誘惑』のなかに、ひさかた京都に帰って、「建仁寺での取材最後の用を僧坊霊洞院ですませた幸田」が、近辺をぶらつきつつ、高校頃の友人「矢沢」と「清子」に苦い思いを馳せて独語する場面がある。
十年前「絵屋槙子」を順々に書きついで行った百数十枚は、筋道に矢沢と清子のこ
とが、そして早庄の秋子と矢沢のことが出てくる辺りから「支離滅裂」と言われ、眼
の前を真白にして出版社から家へ帰るなり原稿を抽出の底に埋めこんだ。とりわけて
事実を事実どおり書いた矢沢らの部分が、作中一等嘘らしく読まれたのは、馳けだし
の幸田がぜひ覚えこまねばならぬ、実話でなく小説というものの力学だった。難儀な
力学がそこに潜んでいたわけだ。たとえ読者はむやみに混同したがるとしても同じこ
とを作者がしてはならぬ、ならない、その、ならない一点で開き直って、読者の錯覚
を逆手に利用した小説が創れるかとはあれ以来作家幸田の執着であり、幾分は、なに
をどう書いても「本当の話ですか」と訊かれてしまう苛らだちでもあった。
むろん、この独語がそのまま「真」であるわけもなく、あきらかに「偽」である事柄がさも「真」であるかのごとく、ではなく、私的な(三字傍点)「真」と
して書き込まれている、それを作意ととるべきか、流れのままの蛇行と見るかに迷いはあるが、注目したいのは、ここに「支離滅裂」の語句によって摘出される
小説作法の要諦が、なぜここに挿入されねばならないのかという、そのことである。
限定本『四度の瀧』に付された詳細な自筆年譜によると、昭和四十四年、予期せぬ太宰治文学賞の受賞で秦恒平が文壇に登場するその前に、初期作品の採否を
巡って新潮社と幾許かのやりとりのあったことがわかる。そこに、同年「三月八日、三年をかけた「鱗の眼」(後年に「誘惑」へ大きく改稿)を脱稿。しかし
(新潮)の受入れる所とはならなかった。四月、「秘色」を書きはじめた。」「同月二十三日、新潮社へ呼ばれ、「とにかく新しい作品を仕上げるように。門は
いつでも開いている」と言われて帰った」の記載があって、前年の八月に「(新潮)小島喜久江より突然『斎王譜』を見た、「採否は未定だが別の作品を見せる
ように」との来書。『畜生塚・此の世』を送る。」と記されている時点から揺れながらつづく「興奮と落胆」の月日のなかで、「支離滅裂」の評を受けたことは
確かである。そうしてここに名のあがっている「秘色」初稿の成るのが太宰賞のあとであることからも、「後年に「誘惑」へ大きく改稿」する前の草稿「鱗の
眼」が、「支離滅裂」の標的であったと推測されるのではあるが、しかし、第二章・もらい子の中に秦恒平自身の言葉として引いたごとく、それがわたしの読み
違いでなければ、「支離滅裂」の作品評は小説「秘色」の「発表前に個人的に批評を求めに行った第一級の編集者である新潮社出版部の宮脇修氏」より、「秘
色」の批評としてもらった評言のはずである。
なのになぜと、とかんがえる必要はない。なぜなら氏の作品のほとんどは、どれがどうということなく、なべて「支離滅裂」なのだから、たとえば「この作品も
また支離滅裂だね」と宮脇修氏が「秘色」を評したと考えて無理はない。ただし、自作を「支離滅裂」と秦恒平のいうとき、それは、まぎれもなく自負なのだ。
だから、ここに「支離滅裂」と明言し、「作者がしてはならぬ、ならない、その、ならない一点で開き直って、読者の錯覚を逆手に利用した小説が創れるか」と
書くのは、弁明でもなければ、自解でもない、告白である。苦渋の最終選択をした上で小説が書き綴られていることの、それは告白なのである。
そしてこの告白は、さらに、つぎのような独白によって裏打ちされる。
自分が両親の実の子でないこと、実の親二人は夫婦で暮した人でないことを四つ五つ
から聞き知っていた。素知らぬ顔で観念し、そして事実を事実としてでなく創り変え
るすべに興味をもたずにはおれなかった。嘘が醜いのは嘘のつきかたが拙いからにす
ぎぬ、嘘は本来美しいものという奇怪な考えを(一字傍点)育てたのではなく、その
考えこそが(一字傍点)少年幸田を(一字傍点)今に育てた。
「支離滅裂」といい、「嘘は本来美しい」という、この逆説を作意の内に置くことはできないであろう、それは告白であり、本心であるのだから。作者自身が
「作品の後に」で述べているごとく、この『誘惑』は、「小説と作中小説とを両方「事実」と読むことはできない」、「いっそ両方とも「事実ではない絵空事」
とするのが簡単な」小説なのではあるが、「だから「事実ではない」とも」、「だから「事実です」とも」、秦恒平は言わない。なぜなら、「事実などというも
のは実の人間関係にあっても、まことに頼り無いものである」から、たとえば「結婚という表向きの社会的な約束事に浅く拘泥するのではなく、人間関係の根の
深みから疑問を起こして行く、そういう視線がなければ、「愛のむごさ」「愛の熱さ」は見えてこない」のであって、氏の本意は、「「事実」であれ「虚構」で
あれ、たいした意味がない」という言葉に集約される。
そうして虚実の判然としない、「両方からのハナシが互いに込み入っている」この「小説」と「作中小説」に描かれるいくつかの出来事、場面を人間関係の織
りなす綾に擬するならば、さきの告白は、糸の異なる反物、たとえば更紗と大島を切り合わせ縫い合わせて丹念にしつらえた『誘惑』と銘のある着物の、その裏
に縫いこまれた正絹の、それだけでも充分に美しい布地であると見えてくる。そして、そこにある木綿と絹の「支離滅裂」さえもが、必然の産物のごとく思えて
くるのである。
切り離してもそれだけで美しく、かつそこに欠くことのできない裏地の一枚。育ての親たちの棲む京都の家に戻って、「ぼくはここで、この家で、あなた方と
一刻も長く向きあってたくないんですよ。義理も大恩もある老いた両親にもしそう言うたらどうなるか」と苦く自問し、また、何度か電話口で耳にした、「生ま
れてこのかた一日と一緒に暮した記憶のない」実の父親、「死んだ母をついに妻と呼ばず巷につき捨てた」父親の、「捨てた子に赦されたい男の酒にうわずって
呼ぶ声」を、「あわれで」「やりきれない」と嘆いた「幸田」の呟く、底知れぬうめきの言葉をここに引く。
親よりも親、の帰玄院の伯母にもそれは言ったことがない。どう喋ってもはじまら
ない、生まれて生きて、幸田は自分の道を見つけあぐねて四十年を歩いてきた。妻が
いる。それに娘も息子も、いる。
いま自分の親という親が一度にみな消え失せてくれたら――と、幸田はもう何度真
夜中眠れぬまま考え、あまりのことに眼を吊りあげながらひとり階下(した)に下り
て大きな食卓に額をごつごつ打ちつけ涙にくれたか、しかしともすると幸田はそれ(
二字傍点)を考える自分を自分でゆるし、いとおしんだ。いやなのは、そこだ。
ここに三かさねに描きだされる「私」。その確かな造影に、わたしは打たれる。結局はどう言っても、「どう喋ってもはじまらない」、そのことに苦しみ嫌悪
しつつ、その「苦」の消滅を願う「自分を自分でゆるし」つつ、「いやなのは、そこだ」と告白するそこに顔をだす「私」。その「私」さえもが、いつか消え去
るのだ、時の流れのなかに。その、はかなさにこめられた一縷の真実、それが、なにより美しいとわたしは感ずる。
だが、この底深いはかなさに『誘惑』のすべてが染められているわけではなく、また、わたしと同じように他の人がさきの一節に「美」を感じるかは疑問であ
る。むしろそこに「美」を際立たせる「影」を見る人の方が多いのではないだろうか。そうして、そんなことをかんがえているうちにわたしは、この虚実見定め
がたく創られた小説を、どのような読者が、いかなる興味をもって読みつぐのかという問いに捉えられる。なんらかの機縁によりこの小説に触れた読者は、いっ
たいいかなる興味に促されて、『誘惑』の輻輳をのりこえるのであろうか。
むろん、その有り様が一律であるわけもないが、とくに、この小説の場合には、男女の別が、その読書の内実を異なるものにするのではと推測されるし、また、年来の秦文学の愛読者であるかどうかも、読書の質を変える大きな要素となるだろう。
正直な感想をいわせてもらえば、わたしは終止、この小説に同化することができなかった。小説の世界に入っていけなかったというのではない。ときにその場
面に居合わせたかのごとき感触に捉えられることもしばしばであった。が、そのようなときにも、わたしはこの小説に同化してなかった。あきらかに醒めてい
た。見知らぬ土地に来て、ふと見かけた人に確かな見覚えがあるのだが、その人は素知らぬ顔で行き過ぎる。そんな感懐を抱きつつ、この作者は、いったいどう
いう魂胆で、このような入れ籠を造るのだろうと、いつもの疑念がつきまとって離れなかったのである。
そうしてその疑念ゆえに、わたしは一気に『誘惑』を読み切った。それは、あるいは作者の目論みの一部であり、「わな」といっていい作意のしからしむるも
のであったやもしれないが、その「手」にやすやすと乗ることになんの躊躇も感じなかった。かすかにではあるが、わたしには声が聞こえていた。小説のなかに
潜む作者の肉声が。それは空耳であったかもしれないが、近づいては遠のくその囁きにみちびかれて、わたしは『誘惑』を読みすすんだ。それを訓解の定規とす
るのではない。他に探る手立てはあるにしても、作者の肉声に耳を傾けつつ、無心に作品に寄り添うことが、すくなくともこの小説の場合には、通らねばならぬ
「道」であると信じた。裏道の危険は承知の上で通り抜ける近道。そこを抜けなければ、秦恒平の豊穣に辿り着くことができないのである。
さきにも引いた自筆年譜によれば、『誘惑』が「すばる」第二十六号に発表された翌年の昭和五十二年七月六日、秦恒平は「母ふくの最期を知る田中牧師と番町
教会で会」い、同月十九日に帰洛して、「秦の両親と初めて恒平の「生立ち」につき話し合う」。そして、堰が切れたかのごとく生母ふくに繋がる兄や姉や妹た
ちと会い、同月二十九日、避けつづけていた「父吉岡恒」と「食事」の場をもつのである。「「阿部鏡」の「取材」という意識に固執」しつつ。
「阿部鏡」とは、生母「深田ふく」の歌人としての名であり、同年三月十六日、「生母ふくの遺品、歌集を初めて見る」と年譜に記されているその年、秦恒平は
四十一歳。同じ年譜に「生母ふく六十七歳で死去の報に接し、やがて遺品が届いたが敢えて共に看過した。」と簡素に記されている昭和三十六年、「秋から、具
体的に書きたい小説の案などを考え出していた」二十五歳の青年期から、多産の十六年を経ての、「深田ふく」への【回向】だった。つけくわえれば、生母ふく
死去の報およびその遺品を「敢えて共に看過した」その前年、昭和二十五年九月に谷崎潤一郎「夢の浮橋」が発表されていて、秦恒平は「小説を書きたい気持ち
を募らせていた」と、自筆年譜に書き込んでいる。
「支離滅裂」の小説『誘惑』にある奇妙な距離感。遠くが近く、近くが遠い、その不可思議な時空に氏の確かな方法論の秘められていることはいうまでもない
が、この方法論に、一種の【ゆらぎ】を感じ、かつ、遠くから我が家に帰るごとくに書き継がれたのが、『罪はわが前に』であるような気がする。
そのことを語った対話(『罪はわが前に』をめぐって)において、笠原伸夫の「秦さんの小説には、」「ひとつの観念なり理念なりが一本勁く通っています
ね。」「今度のは生まれたというのか、もちろん生と死ということが一元化しているのでしょうが、生まれたこと自体が罪咎だという、そういう認識につらぬか
れている」との指摘に対して、秦恒平はこんな告白をしている。
最初、私はまさしくこの作品を「生まれて」という題で考えていました。今おっし
ゃったように、生まれたということのもっている本質的、あるいは本来的な、一種の
原罪みたいなものを念頭において「生まれて」という題を考えていた。それからさら
に書き進むうちに、作品にも現われる言葉ですけれども「客愁」という題を考えてお
りました。(中略)(しかし)さらに書き進めている中から、生まれて、といった受身
の考え方、それから客愁といった傍観的ないし退避的な考え方が、いわば此の世で起
きることは、辛いこともいいことも、ともあれ仮の世のことである、夢まぼろしであ
る、といったそれ自身パッシヴな考え方であるのを、厭わしく思いだしたんです。
そして氏は自らに、「そんなことで、この作品を書き上げる意味があるだろうか」と問い、「そんなものではなくて、この作品では、はっきり我が生と生存を
罪と自覚した上で、此の世の中のあらゆる修羅場をなんとか生きぬいていかなければどうにもならない、と、そこへ思いが煮詰まっていった」のだと述べてい
る。
ここにある「煮詰まり」。そこに本論の読者はなにを感ずるのであろうか。氏の事情を知る人は、そこに家族親族間のさまざまな軋轢、苦渋の「現実」を想起
するかもしれない。さもありなんと納得させてあまりある重い「現実」に秦恒平は取り囲まれて身動きできなかったのだ。そのことはわたしも知っている。そし
て、そんな四面楚歌の苦悶は『罪はわが前に』に黒く澱んでもいるのだが、そのうえでなお、わたしはそこに、『清経入水』のあの場面、「外の家並が真赤に見
えたり薄紫に見えたりする」情景に暗喩される「われ」の唯我論的世界崩壊への畏怖を思い、小説『猿』に垣間見えている記憶のかけらのそのよみがえりを感じ
ている。まるでシジミ蝶のさなぎが、おのれを喰わんと構える蟻の群れの只中に羽化するときのような、その戦慄のよみがえりを。
その幻視の当否はおこう。ここでより重要なのは、そこに決意されている「生きぬいていかなければ」の意味であり、それを氏の本意に帰るなら、「現実に生きていく上での条件が」いまさらながらに「腹に入」ったことの告白ととれる言葉にこめられた内実とはなに
か。「生きぬいていかなければ」と決意するそこにある【闇】、それを「客愁といった傍観的ないし退避的な考え方」ではなく、「此の世での具体的で実感に満
ちた本物の動機」に基づいて表現したいと願う、そこにある秦恒平の【ゆらぎ】の意味こそが、ここに問われなければならないことではないだろうか。
おそらく、そこにある「生きぬいていかなければ」の決意は、「空想を極端に押し展げていくことによって、つまり非現実の莫大な量によって現実を相対化」
することによって行なわれたのではないであろう。そうではなく、「現実」を「現実」として、そこに潜む「われ」をままに(三字傍点)とりだすことによっ
て、そこに含まれる不安や悔悟と向き合わざるを得なくなったことによって促される、大袈裟にいえば意識改革によって、「客愁などというものの考え方は、実
に上わっつらな、いい気なものに」おもえて、「それをどうしてものりこえたかった」という境地に氏は、ほろ苦く辿り着いたのであろうが、しかし、このよう
な境地が秦恒平の終着点であるわけもなく、氏は、「今度の作品の場合にも、いちばん大事なことだった」のは、「小説本来の構造的な美観をどう設計し、どう
趣向するか」であり、「小説にとって事実が保証してくれるリアリティなんてものはたかが知れています。私はやはり想像力が源泉だと思う」と述べている。
その文学者としてのブレのなさに感服しつつ、しかし、そこに、いまさらのごとくに「想像力が源泉だと思う」と述べねばならなかったところに秘されている
【ゆらぎ】にふれて、それが、ひとつのひっかかりとなって、氏の『丹波』『もらい子』『早春』が書きつづられたのではないのか。そして『聖家族』へとつづ
く、いわば「私小説」への近接が導かれたのではあるまいかとの想像を、わたしはたくましくするのである。
むろん、それらは、いわゆる「私小説」とは趣を異にする。さきの対話(『罪はわが前に』をめぐって)のつづきに、興味深い一節がある。
氏は、その、「『罪はわが前に』という題そのものが、漱石の『三四郎』の中で、女主人公の美禰子が最後に三四郎につぶやく大事な言葉を受けているわけ
で」、「『三四郎』を念頭においているということは、あの作品の中に大事に含まれている偽善、露悪、それから露悪的な偽善という有名な漱石の、現代人ある
いは二十世紀人に対する洞察のようなもの、それをふまえています」と述べたあと、かく語っている。
私の、こういう作品を書くこと自体が非常に大きな露悪的な偽善であるかもしれない
という思いをすら作意にこめて、そういう屈折した割切れない自分への問いかけと一
つになって『罪はわが前に』という意識が結晶している。
この言葉にこそ、氏の本意がこめられているのではあるまいか。
そして、このことを換言すれば、さきの『誘惑』における「幸田」に仮託される「私」、あの「自分の親という親が一度にみな消え失せてくれたら」と考え
て、「あまりのことに」涙にくれる「自分を自分でゆるし、いとおしんだ」「私」ではなく、そしてそんな「自分」を、「いやなのは、そこだ」と裁く「私」で
もなく、そんな「私」の重なりを冷静に写す作者秦恒平が「主観」である意味において、『罪はわが前に』の作者秦恒平は「主観」であるのだが、そこには、
「こういう作品を書くこと自体が非常に大きな露悪的な偽善であるかもしれないという思いを」もって作家秦恒平をながめているもう一人の「私」が存在し、そ
してそこにおける「屈折した割切れない自分への問いかけ」が、作品『罪はわが前に』の「具体的で実感に満ちた本物の動機」となっていると考えることができ
る。
この、ここに推定される輻輳し変転する「動機」は、「私小説」の主要な「動機」として認められるものと酷似している。そして実際、『罪はわが前に』は、す
ぐれて私小説であるとわたしは感ずる。そこに登場する「当尾宏」の秦恒平に近いことをもってそれをいうのではなく、「当尾宏」を語るその語り口の自然にお
いて、それが美点であるかはおいて、そこに私小説の特質を感じるのである。ひとつの文章を引いてみたいとおもう。
当尾は、「どんなに緊張してペンをとっているかお分り下さいますか」と書き出した
手紙を想い出し、文面よりもあれを書いた時の気もちが胸に届かぬ訳はないと思った。
だが向うは人妻なのだ、どんな生活感情に馴れ、どんな習慣や価値をもっているか、
当尾は何一つ知らないのだ。当尾の方は、元来が非常識で世間なみの物指から外れた
感じ方をするタチだ。どこか押しづよく我を通さぬでもない、それで迷惑する人が沢
山いそうな当尾の思いきり世間の埒をはみ出た振舞の一つに、こうして安土道子を探
し細野芳江を探し当てたことも含まれねばならなかったのだ。
もちろん、このような、あえていえば常套の自己分析をとりだしてそこに私小説をいうのではない。そうではなくて、ここに語られている「それで迷惑する人
が沢山いそうな」「世間の埒をはみ出た振舞」をする、「そんな夫が妻の思いにどう見えているか、当尾は忘れたように眼を逸らしていた」の一節によって、さ
きの文章が苦く閉められるとき、そこにもうひとりの「私」があらわれて、「元来が非常識で世間なみの物指から外れた感じ方をする」私(一字傍点)をじっと
視つめているのを知って、この小説は私小説であると、わたしは断ずるのである。
そして、ここにあらわれるもうひとりの「私」は、金貸しまがいの愚行で老いさらばえてなおの妄執を曝す病身の養父の「気味わるさに顫え」、「流浪し窮死
したらしい」実母と年下の実父との「前後二年に及ぶ」「愛欲の業は、二人まで子を成した分、もはや父と母のどちらか一方が良い悪いで済まされない一種の犯
罪行為だと」慨嘆したあとで、こう独語するのである。
生まれねばそれでも良かった、が、生まれた以上はそうも言っていたくなくて生き
延びてきたが、この生みの親をもち、今またこの育ての親を抱えて当尾はどの父もど
の母もやっぱり他人ではありえない深く執拗な身のほだしとは観念していた。客愁、
がつと胸へ来た。何もみな人生仮の宿の出来事――とはああ何という俺の言い草だろ
う、自分一人をいい子にしたくて。えらそうなことの言える俺か、思っても身よ、姉
さんの家は俺ゆえに波立ち、迪子も泣かせた。どう言い訳をしても、やがては俺も父
と同じと言いくたされて仕方のない所まで踏み込んでいるではないか。それどころか
俺ゆえに生みの親たちはむごい別れを別れたのかもしれず、俺ゆえに育ての親たちも
切ない傷口を秘かに舐めつづけてきたかもしれぬ。当尾は頬の血の引くのを感じた。
この哀切にわたしは涙する。どうと涙がこぼれて止まらぬ。なんという空白を生きてきたのかと。なにをどう読んでもかまわぬ。それを過剰な感傷と笑われてもかまわない。わたしはこの独語に、ただ涙するのである。
だが、しかし、この哀切をもって私小説の美質をいうのではない。人間の人としての美質に打たれて、わたしはこの小説『罪はわが前に』を称揚するのである。そして、この小説のこの一節に触れることがなければ、わたしは本論を書かなかったかもしれないとさえおもうのである。
このことにふれて、思い出すひとつの述懐がある。亡くなった藤枝静男が師、志賀直哉の作品『和解』に関して、「私がこの小説をはじめて読んだのは多分中
学の終わりころのことである」と書き出して、「実を云うと私には今だに何故あんなに自分が夢中になり感動して読み終えたか、その理由がよくわからないので
ある」との韜晦を示したあとに述べた言葉である。
評論家の平野謙が小説の読み方に「身につまされる」というのと「われを忘れる」
というのとの二種類があるという名言をはいている。私はもちろん志賀氏のような大
金持ちの長男ではなかったし、また父との意見の行き違いなどなかったのだから、私
の場合は「われを忘れる」という方に当たるのだろうが、私は不思議にもこの小説を
「身につまされて」読んだのである。自分ながらわからないというのはそれだが、し
かし真正直で力強い人間がこれくらい生き生きと描かれていれば、読者は有無を云わ
さずに引きずり込まれて主人公に同化し、自然に主人公の経験を自分の経験と誤解し、
その結果「身につまされて」読み進むことになるのだとも云える。そういう小説こそ
が本当の名作だと私は考えているわけである。
(随筆「和解」・静岡新聞掲載後、『藤枝静男著作集』第一巻に収録)
この小文をもって自解とするのではない。そして私小説の「読み方」を「身につまされる」ことをもって特上とするのでもない。打ち明ければ、わたしは作品
『和解』に藤枝静男が「何度となく涙を流して読んだ」ほどのものを感得することはできない。それをいうのならば、藤枝静男の『家族団欒』こそが、「今だに
何故あんなに自分が夢中になり感動して読み終えたか、その理由がよくわからない」小説である。
翻って、わたしが秦恒平の『罪はわが前に』の一節に涙した意味をかんがえるとき、そこに「われを忘れる」よりも「身につまされる」ことの方が実際に近い
とはおもうのだが、「涙」の実質がまったくそこにあるとも言い切れない。しかし、だから「その理由がよくわからない」とはいわない。わかっている。わたし
は、そこで秦恒平に触れたのだ、氏の空白に。そして、その空白を裸に晒す告白の真実に打たれたのである。
そうして、このことをさらにかんがえていくと、そこに、私小説として括られるものが幾多の誹りに耐えて命を長らえているところの因を見出すのだが、あら
ためていうまでもなく、これは単に私小説の美質ではなく、文学、もっといえば芸術のもつ美質でもあって、しかもそれだけが小説の、文学の、そして芸術の美
質ではない。そのことは、たとえば氏の作品『みごもりの湖』を読むだけでわかる。あきらかに氏の諸作品は、ふつうにわれわれが「私小説」として括るものと
はその趣を異にして、しかも私小説のもつ美質も、文学の芸術美も兼ね備えている。とくに私小説的美質の溢れる『罪はわが前に』や、そして、家族親族の内面
を暴いて痛烈な『聖家族』など、いくつかの作品を除くならば、それは自明でさえあるといえるだろう。
ならば、たとえば『聖家族』を私小説と呼べるのかと問われれば、そうだとこたえるつもりではあるが、それは、いわゆる私小説の弱点を逆手にとった小説で
あって、その意味でそれをあいまいに私小説とよぶことはできないし、なによりわたしは、『聖家族』について語りたくない。そこに暴かれてあるものにわたし
はたじろいでいる。傷に、不要な塩をふりたくはないのだ。すくなくとも、いまは。傷のあまりにも根深いことを知っているがゆえに、いまはそっとしておきた
いのである。
さて、そろそろ論を閉じるべきかとおもう。たとえば夏目漱石の『こころ』に対する秦恒平の読みなど、まだ語っていないことの方が多いのだが、それらを語
り出せばいくら紙数があっても足りない。そこで、それらはまた別の機会にということにして、最後に一つだけ、本章の表題とした「根の哀しみ」にふれて、そ
ろりと論を締めたいとおもう。
その人の文章に触れるたび読みの深さに感服する文学者の一人に、竹西寛子氏がいる。作品に添いながら、ふとふりかえって、そこに鮮やかな色をさらりと読
者に気づかさせてくれる彼女の著述に接するたび、そのさりげなさに、ああと、つい嘆息してしまうのだが、そんな彼女が秦恒平について記した文に、わたしの
言いたいことが要理のごとく述べられている。それを紹介して、論を括ることにしたい。
この文章の書き手である秦恒平氏が、稀に見る博識の作家であり、精力的な活動の
中にも、ことに、日本古来の諸芸術、諸芸道についての造詣を生かしてユニークな作
家であるのはつとに知られる通り、今更言葉を添えるまでもないことだ。一読者とし
ての私は、氏の作品世界の多彩と奥行きの深さに幾度か感嘆を誘われている。
作品の多彩は言うまでもなく感受性の反映である。奥行きは、それに加えて、人間
及び世界解釈への、氏の貪欲な意志と無縁ではあるまい。その意志を、作品の奥行き
の深さとしては感じても、少なくとも、観念的には感じないのは、その意志の根にあ
るのが氏の哀しみとでもよぶべきものであって、氏が依然として解釈以上にその哀し
みを重用しているためであろうと思う。その証しの一つを、私はさきの、咎は手に帰
せられるものではなく、心が負うべきものの一節にみる。
(歌集『少年』付録「根の哀しみ」)
言葉の重なりのうちに要点が、それを理解する者をこくりと頷かさせる的確さで約されていることに驚く。その集約を解(ほど)くことに臆しつつ意訳すれば、ここでいわれているのは、秦恒平の「貪欲な意志」にひそむ【必然】であるにちがいない。
それを、「その証しの一つ」である「咎は手に帰せられるものではなく、心が負うべきものの一節」に即していうならば、秦恒平が作品を産み出すその方法論
ではなく、そこにいたる径庭の裏にある、それを偏向とも執念ともいっていい独自の烈しい動機のうちに「根の哀しみ」という私的な、逃れられぬ【必然】があ
るということ。これはまた、【序】において本論の端緒に構えたあの対談の言葉に、竹西寛子が時を経て新たな解釈を加えたものと位置付けてもよいだろう。
その対談の言葉をここに要録すれば、「一人座敷に寝転んでよく空想にふけっていたんです」の前置きのあと、そんな「空想を極端に押し展げていくことに
よって、つまり非現実の莫大な量によって現実を相対化しえたときに、はじめて現実に生きていく上での条件がハラに入るだろう」、それを「できることなら
ば、空想でなくて、想像力の領域でガッチリ受けとめたい」と、そこに語られているのだが、それでは、そのどこに「根の哀しみ」があるかといえば、「空想を
極端に押し展げて」までも「現実を相対化」しなければ「現実に生きていく上での条件がハラに入る」ことのない、いいかえれば「苦」から逃れられないまま宙
に浮いている「いま」、「此の世」にそれはあるわけで、それはまた「空白」という言葉におきかえられて、「それがエネルギーの根源だという気がする」と、
『みごもりの湖』を素材に竹西寛子は解している。そして彼女は、こんなことを、その発言のつづきに語っている。
たとえば、あの光源氏にとっての生みの母の不在は、あの主人公の行動力を支えて
いる大事な空白で、埋められないその空白を何とか埋めようとして、源氏はあれだけ
の行動力において様々な女を見、知った。けれども、結局空白はうめられない。
「結局空白はうめられない」。そこに「生みの母の不在」を見ることに異論はない。が、それはこれまでの論考に示したごとく、一歩すすんでいえば、影に過
ぎない。その影に過ぎないものを「現実に生きていく上での条件」と見なすそのことを砕いていえば、「母の不在」は「意識」に深く影を落とす「現実に生きて
いく上での」【負】の条件であり、その「空白」が、生きてなにかを産み出そうとするエネルギーの元だとしても、それは「根源」ではありえない。根源にある
のは、そんな「空白」の「根の哀しみ」を抱えた、抱え込まされた「私」の「意識」であって外ではない。「私」の、空白を「空白」と感ずる「意識」が、エネ
ルギーを産み行動力を支えているそのことを別の角度からいえば、ここには、「母」もいないが、「私」もいないのである。
その不在の「私」を「こんな私でした」と、ようやくにして語りはじめた『丹波』の跋文「作品の後に」のなかに、奇妙な感懐が吐露されている。
「丹波」への戦時疎開は、また、育ての親への自然な距離のある視線を育ててくれた
ようだ。わたしのような生まれ育ちのものには、実の親も育ての親も、想像以上に重
い存在になってのしかかる。わたしは、それらから自力でのがれようと務めつづけた
ので、多くの一般の方々からすれば、或いは信じがたいような親に対する乾いた視線
をもっている。よくテレビの番組などで実の親や別れた親を捜しに探し、求めに求め
て、涙ながらの対面といった場面をしばしば見ている、が、人も訝しむぐらい、わた
しは、比較的そういう感情に走らなかった、制御できた、と謂うよりそこから身を避
け続けた。育ての親に対する没義道なほどの批判の目も言葉もながく捨て去らずに創
作や文章のなかで駆使した。三人の父、母、叔母を死なせてしまって、やっと、わた
しのなかで何かしら安堵ににたバランスがうまれて、ああ、今までと違ったものが見
えてきた、書けるかも知れないと思えるようになったのである。
ここに深い沈静のうちに告白されている、「ああ、今までと違ったものが見えてきた、書けるかもしれないと思えるようになった」とは、「想像以上に思い存
在になってのしかかる」「こと」が「もの」化できるようになったということではないのだろうか。それを、「根の哀しみ」を「かなしみ」として「ことば」に
包むことができるようになったといいかえてもいいそれは、それまでの氏が、「こと」のなかに、その不安定のなかに居た、というより、立ち尽くしていたこと
を顕わしているのだとおもう。化生が「ほほと名を呼びかわす」「木の暗(くれ)」に。
そこは、たしかに豊穣で生々しい世界であった。そこからいかに多くの名作が生まれたかはいうまでもない。が、氏は、それとは違うもうひとつの世界をも手
に入れたのである。「われ」を「私」として、「僕」を「私」として、「現実」を「現実」として、相対化し、愛し、いとおしむことのできる世界を氏は手に入
れたのである。そこに氏を包む「身内」、就中奥様迪子さんの存在が与っていることはいうまでもない。迪子さんにとって秦恒平は夫である以上に恋人であり、
こどもである。氏にその自覚があるかどうかは別として。
最後に、竹西寛子が惹かれたという秦恒平の「この文章」を引いてみたい。
人は、努力してすこしでも遠くに手を伸ばし、すこしでも広く手をまわして、少し
でも多く大きく重く、自分の世界を『手中』におさめつづけながら生涯を終るのだ。
そういう努力を空しい卑しい恥ずかしいとする考え方があるのを私は知っている。し
かしその咎は、『手』に帰せられるものではなく、むしろ心が負うべきものであるこ
とも知っている。それどころかこの『手』の努力こそ人間の歴史がもっとも価値高い
一つとして追求しつづけてきた『自由』を創っていることに感謝しなければなるまい。
この言葉をかみしめて、秦恒平の「いま」に焦点を合わすと、どうやら氏は、その片手だけで人の倍の仕事をする右手だけでなく、いままであまり使わなかっ
た左手をも活用する気になっている。そしてどうやら、「こと」の世界も、その「もの」化した世界も同等に区別なく渾然と豊かに描いて、「それが嬉しい楽し
い面白いという作品」にする「自由」をも『手』に入れかけているらしい。「苦」を「楽」に異化することなく、「苦」を「苦」のままに苦しむこと、それがす
なわち「楽」であるような、そんな「至上の楽土」に氏は近づきつつあるのではと感じ、わたしはあらためて、そんな自在な『手』をあやつる『心』の「空白」
のもつ無限の力に気づく。
その「空白」にいま、なにがどのように芽生えているのかを正確に知ることはできないが、「今までと違ったものが見えてきた、書けるかもしれない」の言葉に
従うならば、やがて、「過去」をくりぬいて「未来」に達する作品が、「苦」の只中から産み出されてくることはまちがいないだろう。
いやはや、空恐ろしいことである。