招待席
ふくだ えいこ 思想家 1865.10.5 - 1927.5.2
岡山県に育つ。十八の歳に岸田俊子(中島湘烟)の演説に触発され、人間平等を説いて結党まもない自由党にちかづき、明治十八年(1885)朝鮮改革運動を
計画し爆発物運搬問うに協力し投獄された。掲載作は、明治三十七年(1904)に出版された著名な自伝より抜粋した。人生は波瀾に富んだが女性の人権と政
治参加への道を身を賭して生きた優れた先達である。烈々の気概はこの「獄中述懐」に白熱している。 (秦 恒平)
獄中述懐
「妾(せふ)の半生涯」より
福田 英子
三 書窓の警報 夫(それ)より数日を経て、板伯(はんはく=板
垣退助伯爵)よりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸ひ、御身(おんみ)と同伴の事を頼置(たのみお)きたり、直ぐに来(こ)よ紹介せんとの事に、取
敢(とりあ)へず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐藤貞幹(ていかん)氏にてありければ、妾(せふ)はいよいよ安心して、翌日神戸出帆の
船に同乗し、船の初旅も恙(つゝが)なく将(は)た横浜よりの汽車の初旅も障(さは)りなく東京に着(ちやく)して、兼ねて板伯より依頼なし置くとの事な
りし自由燈(じいうのともしび)新聞記者坂崎斌(さかん)氏の宅に至り、切対面の挨拶を述べて、將来の訓導を頼み聞え、やがて築地なる新榮(しんさかえ)
女学校に入学して十二三歳の少女と肩を並べつつ、只管(ひたすら)に英学を修め、傍(かたは)ら坂崎氏に就きて、心理学及びスペンサー氏社会哲学の講義を
聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かゝりし程に、一日(あるひ)朝鮮変乱に引き続きて、日清(につしん)の談判開始せられたりとの報、端(はし)なくも妾
(せふ)の書窓を驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにも係はらず、外(ほか)に対しては卑屈是れ事とし、国家の恥辱を賭して、偏
(ひとへ)に一時の栄華を衒(てら)ひ、百年の患(うれひ)を遺して、唯だ一身の苟安(こうあん)を冀(こひねが)ふに汲々たる有様を見ては、いとゞ感情
にのみ奔るの癖ある妾(せふ)は、憤慨の念燃ゆるばかり、遂に巾幗(きんこく)の身をも打忘れて、いかで吾れ奮ひ起(た)ち、優柔なる当局及び惰民(だみ
ん)の眠を覚し呉れでは已(や)むまじの心となりしこそ端(はし)たなき限りなりしか。
四 当時の所感 嗚呼(あゝ)斯(かく)の如くにして妾(せふ)
は断然書を擲(なげう)つの不幸を来せるなりけり。当時妾の感情を洩(もら)せる一片の文あり、素(もと)より狂者(きやうしや)の言に近けれども、当時
妾が国権主義に心酔し、忠君愛国てふ事に熱中したりし其有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、左(さ)に抜萃(ばつすゐ)することを許し給へ。
斯(こ)は大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾は茲(こゝ)に自白す、妾は今貴族豪商の驕傲(けうがう)を憂ふると共に、又昔時(せきじ)死生を
共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭(いと)へり。我等女子の身なりとも、国のためてふ念は死に抵(いた)るまでも已(や)まざるべく、此の一念は、やが
て妾を導きて、頻りに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸(やうや)く彼(か)の私欲私利に汲々たる帝国主義者の云為(うんゐ)を厭(いと)はしめぬ。
嗚呼(あゝ)学識なくして、徒(いたづ)らに感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されど其頃の妾は憂世愛国の女志士(ぢよしし)とし
て、人も容(ゆる)されき、妾も許しき。姑(しば)らく女志士として語らしめよ。
獄中述懐
(明治十八年十二月十九日大阪未決監獄に於て、時に十九歳=正しくは二十一歳)
元来儂(のう=われ)は我国民権の拡張せず、從(したがつ)て婦女が古來の陋習(ろうしふ)に慣れ、卑々屈々男子の奴隷たるを甘んじ、天賦自
由の権利あるを知らず己れがために如何なる弊制悪法あるも恬(てん)として意に介せず、一身の小楽に安んじ錦衣玉食するを以て、人生最大の幸福名誉となす
而已(のみ)、豈(あに)事体の何物たるを知らんや、況(いは)んや邦家(はうか)の休戚(きうせき)をや。未だ曾(かつ)て念頭に懸けざるは、滔々(た
うたう)たる日本婦女皆是にして、恰(あたか)も度外物の如く自(みづか)ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となし一(いつ)も顧慮するの意な
し。斯(か)く婦女の無気無力なるも、偏(ひと)へに女子教育の不完全、且つ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、儂(のう=われ)は
同情同感の民権拡張家と相(あひ)結托し、愈々(いよいよ)自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、是れ固(もと)より儂(のう)が希望目的にして、
女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆競ひて国政に参(さん)し、決して国の危急を余所(よそ)に見るなく、己れのために設けたる弊
制悪法を除去し、男子と共に文化を誘(いざな)ひ、能(よ)く事体に通ずる時は、愛国の情も、愈々切(せつ)なるに至らんと欲すればなり。然るに現今我国
の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を厭忌(えんき)し、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、或は演説に或は政府に請願して、日
々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を注告し、早く立憲の政体を立て、人民をして政(まつりごと)に参せしめざる時は、憂国の余情溢れて、如何
なる挙動なきにしも非ずと、種々当路者(とうろしや)に向つて忠告するも、馬耳東風たる而已(のみ)ならず憂国の志士仁人(じんじん)が、誤つて法網に触
れしを、無情にも長く獄窓に呻吟(しんぎん)せしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚挙に遑(いとま)あらず、就中(なかんづく)儂(の
う)の、最も感情を惹起(じやくき)せしは、新聞、集会、言論の条例を設け、天賦の三大自由権を剥奪し、剰(あまつ)さへ儂等(のうら)の生来(せいら
い)曾(かつ)て聞ざる諸税を課せし事なり。而して亦布告書等に奉勅云々の語を付し、畏(おそ)れ多くも天皇陛下に罪状を附せんとするは、抑(そ)も亦何
事ぞや。儂は是を思ふ毎に苦悶懊悩(あうなう)の余り、暫し数行(すかう)の血涙滾々(こんこん)たるを覚え、寒からざるに、肌(はだへ)に粟粒(ぞくり
ふ)を覚ゆる事数々(しばしば)なり。須臾(しゆゆ)にして、惟(おもへ)らく嗚呼(あゝ)此(かく)の如くなる時は、無智無識の人民諸税収歛(しゆうれ
ん)の酷なるを怨み、如何(いかん)の感を惹起(じやくき)せん、恐るべくも、積怨(せきゑん)の余情溢れて終に惨酷比類なき仏国革命の際の如く、或は露
国虚無党の謀図(ぼうと)する如き、惨憺(さんたん)悲愴(ひさう)の挙なきにしも非ずと。因(よつ)て儂等同感の志士は、是を未萌(みはう)に削除せざ
るを得ずと、即ち曩日(さき)に政府に向つて忠告したる所以(ゆゑん)なり。斯(か)く儂等同感の志士より、現政府に向つて忠告するは、固(もと)より現
当路者(げんたうろしや)の旧蹟あるを思へばなり。然るに今や採用するなく、却(かへつ)て儂等の真意に悖(もと)り、剰(あまつ)さへ日清談判の如く、
国辱を受くる等(とう)の事ある上は、最早や当路者を顧るの遑(いとま)なし、我国の危急を如何せんと、益々政府の改良に熱心したる所以(ゆゑん)なり。
儂熟々(つらつら)考ふるに、今や外交日に開け、表(おもて)に相親睦(あひしんぼく)するの状態なりと雖(いへど)も、腹中(ふくちゆう)各々(おのお
の)針を蓄(たくは)へ、優勝劣敗、弱肉強食、日々に鷙強(しきやう)の欲を逞(たくまし)ふし、頻(しき)り東洋を蚕食(さんしよく)するの兆(てう)
あり、而して、内(うち)我国外交の状態につき、近く儂の感ずる処を挙(あぐ)れば、曩日(さき)に朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、其談判は果し
て、儂等人民を満足せしむる結果を得しや。加之(しかのみならず)、此時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも明(あきら)けし。然るに其結果
たる不充分にして、外国人も私(ひそ)かに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂(のう)思うて爰(こゝ)に至れば、血涙淋漓(けつるゐりん
り)、鉄腸寸断(てつちやうすんだん)、石心分裂(せきしんぶんれつ)の思ひ、愛国の情、転(うた)た切なるを覚ゆ。嗚呼(あゝ)日本に義士なき乎
(か)、嗚呼此国辱を雪(そゝ)がんと欲するの烈士、三千七百万中一人(いちにん)も非(あらざ)る乎(か)、条約改正なき、亦宜(またむべ)なる哉と、
内を思ひ、外(ほか)を想(おも)うて、悲哀転輾(てんてん)、懊悩に堪へず。嗚呼如何して可ならん、仮令(たと)ひ女子たりと雖(いへど)も、固(も
と)より日本人民なり、此(この)国辱を雪(そゝ)がずんばあるべからずと、独(ひと)り愁然(しうぜん)、苦悶に沈みたりき。何(なん)となれば、他に
謀(はか)るの女子なく、且つ小林等は、此際何か計画する様子なるも、儂(のう)は出京中他に志望する所ありて、暫らく一心に英学に従事し居たりしを以
て、曾て小林とは互に主義上、相敬愛せるにも関はらず、儂は修業中なるを以て、小林の寓所を訪ふ事も甚だ稀なりしを以て、其計画する事件も、求めて其頃は
聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大(おほい)に感ずる所あり、奮然書を擲(なげう)ちたり。亦(また)小林は豫(かね)ての持論に、仮令(たと)
ひ如何に親密なる間柄たるも、決して、人の意を枉(ま)げしめて、己(おの)れの説に服従せしむるは、我の好まざる所、況(いは)んや吾々計画する処の事
は、皆身命に関する事なるに於てをや、吾は意気相投ずるを待て、初めて満腔の思想を、陳述する者なりと、何事に於ても、総て斯(かく)の如くなりし。然る
に、忽ち朝鮮一件より日清の関係となるや、儂は曩日(さき)に述(のべ)し如く、我国の安危(あんき)旦夕(たんせき)に迫れり、豈(あに)読書の時なら
んやと、奮然書を擲(なげう)ち、先づ小林の処に至り、此際如何(いかん)の計画あるやを問ふ。然れども答へず。因(よつ)て儂は、或は書にし、或は百方
言(ひやくはうげん)を尽して、数々(しばしば)其心事を陳述せしゆへ、稍(や)や感ずる所ありけん、漸く、今回事件の計画中、其端緒を聞くを得たり。其
端緒とは他に非ず、即ち今回日清(につしん)争端(さうたん)を開かば、此挙に乗じ、平常の素志(そし)を果さんの心意なり。而して、其計画は既に成りた
りと雖も、一金額の乏しきを憂ふる而已(のみ)との言に儂は大に感奮する所あり、如何にもして、幾分の金(きん)を調(とゝの)へ、彼等の意志を貫徹せし
めんと、即ち不恤緯(ふじゆつゐ)会社を設立するを名とし、相模(さがみ)地方に遊説(いうぜい)し、漸く少数の金(きん)を調へたり。然りと雖も、是を
以て今回計画中の費用に充(あ)つる能(あた)はず、只有志士の奔走費位に充(あ)つる程なりしゆゑ、儂は種々砕心粉骨すと雖も、悲しい哉(かな)、処女
の身、如何(いかん)ぞ大金を投ずる者あらんや。況(いは)んや此重要件は、少しも露発(ろはつ)を恐れ告(つげ)ざるをや、皆徒労に属せり。因て思ふ
に、到底儂の如きは、金員(きんゐん)を以て、男子の万分の一助たらんと欲するも難(かた)しと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々其
手段を謀(はか)れり。然る処、偶々(たまたま)日清も平和に談判調ひたりとの報あり。此報たる実に儂等の爲めに頗る凶報なるを以て、稍や失望すといへど
も、何ぞ中途にして廃せん、猶一層の困難を来(きた)すも、精神一到何事か成らざらん。且つ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、其勢力
実に盛んなりしに、一朝平和に其局を結びしを以て、其脳裏に徹底する所の感情は大に儂等の為めに奇貨(きくわ)なるなからん乎(か)、此期失ふべからず
と、即ち新(あら)たに策を立て、決死の壮士を択(えら)び、先づ朝鮮に至り事を挙げしむるに如(し)かずと、是に於て檄文(げきぶん)を造り、これを飛
して、国人中に同志を得、共に合力(がふりよく)して、弁髪奴(べんぱつど)を国外に放逐(はうちく)し、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸
外国の見る処も、曩日(さき)に政府は卑屈無気力にして、彼の弁髪奴(べんぱつど)のために辱(はづかしめ)を受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱を
そゝぎたりとて、大に外交政略に関する而巳(のみ)ならず、一(いつ)は以て内政府(うちせいふ)を改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、愈々(いよ
いよ)速かに此挙あらん事を渇望し、且つ種々心胆を砕くと雖も、同じく金額の乏しきを以て、其計画成ると雖も、未だ発する能(あた)はず。大井小林等は、
只管(ひたすら)金策にのみ、従事し居たりしが、当地に於ては最早や目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。暫らくして、大井は中途にして帰
京し、小林独り止まりしが、漸く其尽力により、金額成就せしを以て、愈々磯山等は渡行の事に決定し、其発足(ほつそく)前に当り、磯山儂に告ぐに、朝鮮に
同行せん事を以てす。因て儂は、其必用の在る処を問ふ。磯山告ぐるに、彼是間(ひしかん)の通信者に、最も必用なるを答ふ。儂熟慮是を諾(だく)す。最も
儂は、曩日(さき)に東京を出立(しゆつたつ)するの時、矢張り、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、其義務終り
なば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動を為さんと希図(きと)したりしが、当地(大阪)にて亦朝鮮へ通信の為め同行せんとの事に、小林も是
に同意したれば、即ち渡航に決心せり。然るに、磯山は、彌々(いよいよ)出立と云ふ其前日逃奔(たうほん)し、更に其潜所(せんしよ)を知る能はず。故
(ゆゑ)を以て已(や)むなく新井(あらい)代りて其任に当り、行く事に決せしかば、彼も亦同じく、儂に同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直
ちに之を諾し、大井小林と分袂(ぶんべい)し、新井と共に渡航の途(と)に就き、崎陽(きやう)に至り、仁川行(じんせんかう)の出帆を待ち合はせ居た
り。然る所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に紛紜(ふんぬん)を生じ、渡航を拒むの壮士もある様子ゆゑ、儂は憂慮に堪へず、彼等に向
ひ、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧(かへりみ)るの慮(おもんぱかり)なく、許容せざるを以て、儂は大に奮激する所あり、未だ同志の
人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。其際儂は新井に向ひ云ふ様(やう)、儂此地に到着するや否や壮士の心中を窺ふに、堂々たる男子にして、私
情を挟(さしはさ)み、公事を抛(なげう)たんとするの意あり、而して君の代任(だいにん)を忌むの風(ふう)あり、誠に邦家(はうか)のために歎(た
ん)ずべき次第なり。然れども、是等の壮士は、却て内地に止まる方(かた)好手段ならんと云ひしに、新井是に答へて、成程然る乎(か)、斯の如き人あら
ば、即ち帰らしむべし、何ぞ多人数を要せん。吾(わ)が諸君に対するの義務は、畢竟(ひつきやう)一身を抛擲(はうてき)して、内地に止まる人に好手段に
与ふるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧(かへりみ)ざる如きの人を要せんやと。儂此言(このげん)に感じ、嗚呼此人国のた
めに、一身の名誉を顧みず、内事(ないじ)は総(すべ)て大井小林の任ずる所なれば、敢(あへ)て関せず、我は啻(たゞ)其義務責任を尽すのみと、自(み
づか)ら奮(ふるつ)て犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、全(まつた)ふする者と、暫し讃嘆の念に打たれしが、儂(のう)もまた、此行(このか
う)決死せざれば、到底充分平常(へいぜい)希望する処の目的を達する能(あた)はず。且つ儂(のう=われ)今回の同行、偏(ひとへ)に通信員に止まると
雖(いへど)も、内事(ないじ)は大井小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。儂今仮令(たと)ひ異国の鬼となるも、事(こと)幸ひに成就せば、儂平常
の「素志(そし)も、彼等同志の拡張する処ならん。まづ是に就ての手段に尽力し、彼等に好都合を得せしむるに如(し)かずと。即ち新井を助けて、此手段の
好結果を得せしめん、且つ夫(それ)につきては、決死の覚悟なかるべからず、然れども、儂、女子の身腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発
物の有るあり。仮令(たと)ひ身体は軟弱なりと雖も、愛国の熱情を以て向ふときは、何ぞ壮士に譲(ゆづ)らんや。且つ惟(おも)へらく、儂は固(もと)よ
り無智無識なり、然るに今回の行(かう)は、実に大任にして、内は政府の改良を図(はか)るの手段に当り、外は以て外交政略に関し身命を抛擲(はうてき)
するの栄を受く、嗚呼何ぞ万死を惜(をし)まんやと、決意する所あり。即ち崎陽(きやう)に於て、小林に贈るの書中にも、仮令(たと)ひ国土を異(こと)
にするも、共に国のため、道のために尽し、輓近(ばんきん)東洋に、自由の新境域を勃興(ぼつこう)せんと、暗(あん)に永別(えいべつ)の書を贈りし所
以(ゆゑん)なり。嗚呼儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情親子(しんし)を棄てゝ、亦何かあらん。然れども是れ私事なり、儂一女子なりと雖も豈(あに)
公私を混同せんや。斯(か)く重んずべく貴ぶべき身命を抛擲(はうてき)して、敢(あへ)て犠牲たらんと欲(ほつ)せしや、他なし、啻(たゞ)愛国の一心
あるのみ。然れども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能(あた)はず。空しく獄裏(ごくり)に呻吟(しんぎん)するの不幸に遭遇し、国の
安危(あんき)を余所(よそ)に見る悲しさを、儂固(もと)より愛国の丹心(たんしん)万死を軽んず、永く牢獄にあるも、敢(あへ)て怨(うら)むの意な
しと雖も、啻(たゞ)国恩に報酬する能はずして、過ぐるに忍びざるをや。嗚呼是を思ひ、彼を想うて、転(うた)た潸然(さんぜん)たるのみ。嗚呼何(い
づ)れの日か儂が素志を達するを得ん、只儂是を怨むのみ、是を悲しむのみ、噫(あゝ)。
明治十八年十二月十九日大阪警察本署に於て
大阪府警部補 廣澤鐵郎印
斯く冗長なる述懐書を獄吏に呈して、廻らぬ筆に仕たり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に奔る青春の人々は、呉れ呉れも妾
(せふ)に観て、警(いまし)むる所あれかし、と願ふも亦(また)端たなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼なかりしは、飽まで浮世の浪に弄(あそ)ば
れて、深く深く不遇の淵底に沈み、果ては運命の測るべからざる恨みに泣きて、煩悶遂に死の安慰を得べく覚悟したりし、其後(そののち)の妾(せふ)に比し
て、人格の上の差異如何(いか)ばかりぞや、思ふて爰(こゝ)に至る毎に、そゞろに懐旧の涙の禁(とゞ)め難きを奈何(いかん)せん。斯く妙齢の身を以
て、一念自由のため、愛国のために、一命を擲(なげう)たんとしたりしは、一(いつ)は名誉の念に駆られたる結果とは云へ、亦心の底よりして、自由の大義
を国民に知らしめんと願ふてなりき。当時拙作あり、
愛国丹心万死軽 あいこくのたんしんばんしかろし
剣華弾雨亦何驚 けんくわだんうまたなんぞおどろかん
誰言巾幗不成事 たれかいふきんこくことをなさずと
曾記神功赫々名 かつてきすじんごうかくかくのな
五 不恤緯会社
是より先き妾(せふ)は坂崎氏の家にありて、一心勉学の傍(かたは)ら、何とかして同志の婦女を養成せんものと志ざし、不恤緯(ふじゆつゐ)会社なるもの
を起して、婦人に独立自営の道を教へ、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、此感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしか
ば、富井於菟(おと)女史と謀りて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集の途つきて、行く行くは一大団結を組織するの望みありき。然るに事は志しと齟齬し
て、富井女史は故郷に帰るの不幸に遇へり。
(以下割愛)