「e-文藝館=湖(umi)」 随筆室 寄稿

 あさい としろう   大正十二年(1923)九月十二日 中国・青島に生まれる。東京都小金井市在住。 東京大学卒業後、味の素株式会社を経て、新日本コンマース社長、JTイ ンターナショナル常務取締役、監査役等を歴任、平成九年(1997)退社。久しい「湖の本」の読者である。 掲載作十編は、平成二十一年(2009)三月刊の『菊を作る人 私 の文章修行』より自選された。「文章」修行とあるようにたいへん上手に作文されている。さて、「作文」から「文藝」への一歩とは何だろう か、「文 章」を貫通する作者のアイデンティティ=独自の眼と言葉と呼吸だろか。それが筆者無類の「文体」になって行く。その意味で「枕草子」以来、随筆、随感随想 もまた「創作」なのである。新しい「創作」をさらに期待する。 (秦 恒平)





    菊を作る人   浅 井 敏郎



 さるすべりと父


 狭い庭ではあるが、我が家の庭にも木が大小あわせて十四、五本植わっている。その中にさるすべりが一本ある。どうしたことか、近所のさるすべりに比べて 開花するのが例年遅い。しかし今年は植木屋の剪定がよかったのか、紅色の花を沢山つけてくれた。私はさるすべりの紅色の花を見ると、毎年思い出すことがあ る。
 昭和の一桁のころ、私は中国の青島に住んでいた。そのころ我が家の裏に、かねがね父が念願していた小庭園を父が造った。広さは五十坪程であった。父は松 が好きで松ばかり植えていたが、特に松籟の音が気に入っていたようである。その中に一本だけさるすべりがあった。毎年紅の花を咲かせて私たちの目を楽しま せてくれた。この紅の花の咲いている間は、青島も暑かった。
 昭和十二年の七月に日華事変が勃発した。戦火は瞬く間に北支に拡がり、山東省在留の日本人は全員日本に引揚げることになった。当時済南に住んでいた叔父 一家の引揚げを私たちは青島で待っていた。すでに青島でも日本海軍の軍人二人が殺されており、何時戦火が飛び火して青島が戦場になるかも知れなかった。 やっと叔父一家が青島に到着したのが、八月も半ばをすぎていた。その時、丈も高くなった一本のさるすべりが満開の花をつけていたことを記憶している。私た ちはこの花に送られて八月二十日に青島を去った。果して再び帰ってこられるのか、一抹の不安はあったが戻れることを皆が期待して乗船した。
 昭和十三年の一月に、日本軍が北支を平定したので、日本人は再び青島の土を踏むことが出来た。父は勿論いち早く青島の元の家に帰ったが、私たち兄弟は学 校の関係もあって、そのまま日本に残った。
 昭和二十年の敗戦は父には相当こたえた。すべての財産を中国に残したままにして日本に引揚げてきたことは、人には言えない悔しさと、諦めの感情が交々に 父に起きていたと私は思う。また丹精をこめて造った小庭園は父の憩いの場所であり、屡々友人と酒をくみ交す団欒の機会となっていた。
 父は昭和五十三年の秋に、脳梗塞で倒れた。病気が稍々回復してきたころに、「お父さん、どう青島に行ってみませんか。我が家が残っているかも知れません よ」と私が尋ねたことがある。しばらく間をおいたが「うん、帰ってみたいな」と言葉は返ってはきたが、力がなかった。脳の働きは八割方は元に戻ったが、病 勢は漸次身体をむしばみ、六年間床についたまま、とうとう立ち上がることは出来なかった。
 昭和六十一年に、戦後初めて私は青島を訪ねる機会をもった。仕事の合間を見つけて昔の我が家を訪ねた。我が家の骨格と煉瓦塀は五十年前と変らずに、その まま残されていた。しかし建屋の裏にあった庭園は跡形もなく潰されて、すでに住宅が建っていた。そこには松もさるすべりも切り倒されて、私に語りかける生 命のあるものは、無くなっていた。
 日本が日本人が敗れたのだから、今更個人の失ったものを惜しむことは、どうかしている。しかし住みなれた我が家の木が、一本も残されていなかったのは、 寂しいことであった。今のわが家のさるすべりが、青島にあった庭、そして父を思い出すよすがとなっていること、それだけで十分としなければならないと、こ のごろは思っている。
             (一九九八年九月記)  (郷土誌「加能人」一九九八年十一月号掲載)


 山本協一先生の英語


 私の学んだ金沢の中学校では、人間的に魅力のある、また学識ゆたかな先生がかなりおられた。なかでも英語を教えてくれた山本協一先生は、温かい心をもっ た優れた先生であった。私が先生から英語を習ったのは四年生の時である。この時すでに先生の頭の毛はかなり薄くなっており、恐らく五十代の後半であったか と思う。
 先生は英語の発音にきびしく、私たちが間違った発音をすると何回も言い直しをさせた。また発音を仮名で本に書くことを固く禁じて、書く場合には音標文字 を使うことを強要された。
 先生の授業で、今もって私に忘れられないのは先生の自由作文である。授業の最後の十五分ぐらいをとって、毎回先生は私たちに自分が愛唱している文章、短 歌、格言、歌詩等を思いつくままに言わせた。これを先生が直ちに英訳して黒板に次から次へと淀みなく書いてゆかれたことである。私たちの言葉を耳にされた 先生は、しばらく考えると、あとは水の流れる如く素晴しい英語の文章が出来上ってくるのに私は驚歎した。その幾つか今も記憶しているものの中で、牧水の
 「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」
と生徒が言うと、これがみごとな調べをもった英語に訳されていった。またある生徒は藤村の
 「小諸なる古城のほとり
  雲白く遊子悲しむ
  緑なすはこべは萌えず
  若草もしくによしなし
  しろがねの衾(ふすま)の岡辺
  日に溶けて淡雪流る」
と言えば、哀調をおびた調べの英訳が先生の口から洩れてくる。ある時、先生に論語の一節の英訳を求めたことがある。
 「学びて時に之を習う。又説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)、遠方よりきたる。又楽しからずや」と言えば、先生はしばらく考えていた。しかしほどな くこれが荘重な調べをもった英語に訳されてくる。先生は私たちの方に振り返り、「これでよいと思うが、訳文におかしいと思ったところがあれば、遠慮なく 言ってくれ」と言われたが、私どもは先生に注文をつける学識もなければ、能力もない。ただただ先生の英語の力に感歎するだけであった。
 ある日の英語の時間である。自由作文の時間になるとある生徒が立ち上って漱石の
 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」
と草枕の冒頭の文章を言った。先生は「いい言葉だね。僕も同感だ」と言われ、すらすらと英訳が出来てくる。私たちは黒板をよく見ながら一字一句を間違わな いように、ノートにとった。このようにして先生に一年間英語を教わったが、肝腎のノートを何処にしまったのか私の手元には今は残っていない。考えてみれば 六十四年前のノートである。残してあれば家宝ものである。
 先生は英語の他に、音楽の授業も受持たれた。勿論ピアノはうまかった。先生は私どもが全く知らない「アイーダ」の凱旋行進曲や、のちにドイツ国歌になっ た「ハイドン」の皇帝讃歌等を教えてくれた。ほかにもドイツ民謡やスコットランド民謡も教わったが、これらの曲が私たちの情操教育に如何に役立ったかは申 すまでもない。
 その先生が昭和十六年七月に、私たちの中学校を去ることになった。東京のある中学校に招かれたのである。生憎その時私は東京の病院に入院しており、先生 とお別れの挨拶をかわす機会がなかった。
 先生が金沢を去る日は、大勢の在校生と卒業生が金沢駅頭に集まった。先生の挨拶と生徒の送別の言葉が交されると、並みいる人たちの心を打ったと言われ た。たまたまこの光景を目にした一新聞記者が翌日の新聞に、次のような記事をのせた。
「教師の挨拶と学生の送別の辞とはいかにもきく者の胸にこたえた。純真であり、素朴であり、厳粛であった。所謂その教師の徳というか、それが百パーセント 現れていて、覚えず目がしらが熱くなり、頭がさがった。決して形式の送りではない、真情のこもった送りなのである」
 後日この記事を読んだ私は、これだけ生徒に慕われた先生は、如何に偉大な徳をもっておられたか、また金沢を去るに当って先生には万感の思いがあったと 思った。
 東京に移られた先生は長寿を保たれたが、昭和四十一年に亡くなられた。この時も私は日本におらなくて訃報に接することが出来なかった。残念なことであっ た。
          (二〇〇二年一月記) (郷土誌「加能人」 二〇〇二年十一月号掲載)


 敗戦前後


 昭和十九年の晩秋のころであった。ある日、登校時に教練教官の小白大尉と一緒になった。二人だけであったこともあって、私は「日本軍は全面的に敗勢に なっていますが、この戦争は勝てるのでしょうか」と率直に尋ねた。「今は日本軍の形勢は悪いが、最終的には勝つよ。心配するな」と言葉は返ってきたが、私 には半信半疑であった。
 ほどなくしてフィリピン戦線もレイテ島を失い、戦局はルソン島に拡がっていた。この時、日本軍がとった戦法は特別攻撃隊によって爆弾をかかえたまま敵艦 に体当りする攻撃であった。最初の神風特攻隊が出撃した時は、出発時の状況と戦果が大々的に映画館で上映された。これを見てきたT教授は早速我々に、「昨 日、神風特攻隊の出撃状況を日本ニュース映画館で見てきた。俺は泣けて泣けて涙がとまらなかった。このような青年がいる限り、日本は断じて米国に負けな い。君達そう思うだろう」と言われたが、合槌を打つ仲間はいなかった。
 そのころ既に我々の学校は、授業はなくなり学校側の要請で、校舎の一部は東芝の下請工場となって、電波探知機を作っていた。一方米軍はサイパンの飛行場 が完成したのか、B29が大編隊を組んで首都圏の上空に飛来してくるようになった。大規模な空襲が始まったのは昭和二十年からであったが、このころには日 本の飛行機は殆ど上空に姿を現わすことはなかった。米軍機は思うままに偵察し、また爆撃を繰返していった。ただ高射砲だけが発射されていたが、殆どが B29の下で炸裂する有様であった。
 かたや特攻隊の攻撃は、フィリピンから沖縄に戦線が移り、連日の如く強行されていた。大本営発表では、大戦果を納めていたことになっていたが、その割に 米軍の攻勢が一向に衰えないのが奇異であった。
 三月になると東京に大空襲があり、一夜にして十数万の人を失う大被害がおきた。その後は逐次日本の大都市、中都市がねらわれて、所かまわず徹底的に焼夷 弾攻撃をうけ、すべてが灰煙に帰してしまった。もう日本はとても米軍と闘える戦力もなかったが、軍は強硬に本土決戦を叫んでいた。しかし八月六日の原爆投 下がきっかけとなって、終戦を迎えたことは、生き残った日本人にとっては幸せであった。
 特に八月十二日には艦載機の攻撃をうけて、運よく死から逃れた私にとって、八月十五日の終戦の詔勅は嬉しかった。「これでやっと生き残れた。今夜から安 心して眠れる」と思ったことを思い出す。しかし考えてみると、これからの日本はどうなるのか、米軍の占領によって我々の生活はどう変るのか、学校は継続し て授業が続けられるのか、皆目見当がつかなかった。
 八月末になって米軍の先遣隊が到着したが、思った程の混乱はなかった。九月末には学校も再開されて、授業も始まった。教授も自由にものが言えるように なって、精気をとり戻して講義に熱を入れる方が多くなった。かたや米軍の軍政下におかれた政府は、何ごとも米軍総司令部の許可なしには執行出来なかった。 敗戦国となって占領下におかれれば、これは当然のことである。
 昭和二十二年に私は大学に進学した。このころになって中学校時代の同窓で戦死した人達の消息が分かってきた。終戦の時は二十二歳であったから殆どの同級 生は直接、間接に戦争に参加していた。なかでも数名の学友は特攻隊に志願して、命を捧げたものも居ることを知った。私は彼等が特攻機に乗って飛び立った時 の胸中を察して、悲しみとともに憤りを抑えることが出来なかった。
 丁度そのころ、東大戦没学生の手記として「はるかなる山河」が出版された。そこには南原総長が自ら祭主となって慰霊祭を行い、戦死者に対して読まれた告 文が載せられていた。総長は少数の軍閥、超国家主義者によって企てられた無謀と野望の今次大戦を慨嘆するとともに、黙々として国の命令に従わざるを得な かった学生達の心裡を、深い愛情をもって洞察されていた。それに続く戦没学生の手記や書簡を私は読みながら、幾度も涙を拭ったことを記憶している。過ぎ 去ったこととは言え、「お国のため」と言う美名に隠れて、あたら優れた青年を死地に追いこんだ軍閥、政治家の罪業は決して消えるものではない。特に生還す る望みの全くない特攻攻撃を考えた軍の一部の責任者には、やる瀬ない怒りを覚えた。
 これ等若くして戦死した学徒、学友たちも、父母、兄弟姉妹の生きている国土を守るために、敢えて犠牲になったのである。これを思うと、今日の日本はこれ でよいのかと疑問を持たざるを得ない。たしかに戦争は遠のいた感じはするが、一方世相をみると浮かれた風潮がみなぎっている。これでは日本の将来の行方が 案じられると思うのは、我々年寄の世代だけではないと思う。
                          (二〇〇〇年六月記)


 菊を作る人


 三月になるとKさんは毎朝庭の畑に出た。五時すぎには、縁側の雨戸を一枚静かにあけて庭に立つ。これを小母さんが朝食の時に、
「このごろは毎朝なのよ。雨戸を開けられるので、その音で目が覚めてしまっちゃう。かなわないわ」
 と冗談ぽく言うと
「雨戸を開けなければ、どこから庭に出ろというのだ。これでも気を遣ってなるべく音の出ないようにしているのだよ」
 と笑いながらKさんは答えていた。これは、私が昭和二十一年の年初からお世話になったK家のある日の朝の風景であった。
 もう六〇年の歳月がたっているが、私はその当時寝る場所がなくてほとほと困っていた時に、

「学校を卒業するまでの一年間だけなら、私のところで何とかお世話をしますよ。ただHさんと一緒の部屋だから、それは我慢して頂かなくてはね」
 との一言で私の下宿が決まった。私は喜んだ。部屋は四畳半である。ただ母屋の預かりものの大きな箪笥と大きな本箱が、既に置かれている。それに我々が共 同に使う机が一つ。二人が寝る空間は僅かである。しかし居候の身分で文句は言えない。これが当時の空襲で焼け出された東京都民の生活の実態であった。何よ りも我々にこたえたのは、空腹と停電である。空腹に耐えられなくなると、同室のHと三軒茶屋の闇市へ行って、薩摩芋をこねた一皿五円の芋あんを食べて腹ご しらえをした。ただ停電には全くお手上げでどうしようもなかった。時折二時間の停電があると、ローソクの明かりでは目が疲れて読書も出来なかった。こうし た物質的に貧しい状態の中で赤の他人を二人も置いて、朝、晩の食事まで面倒を見てくれたご好意に、今でも頭が下がるばかりである。
 Kさんは戦争中は区役所に勤めていて、兵事課長をしていた。終戦と同時に、自分の勤めは終ったと決め率先して身をひいて、浪人生活に入られたと言う。決 して家計は裕福ではなかったが、微塵もそういった気配も見せずに恬淡としていた所が立派であった。勿論Kさんは明治生れの人であったが、自分の境遇に動じ ない姿勢を私は尊敬していた。
 Kさんの住居は借地であったが、庭は結構に広くて三〇坪はあった。庭は家庭菜園として活用されていたが、その傍ら菊を育てていた。菊の鉢はみな大鉢で二 〇鉢はあったと思う。菊は苗が育ってくると次第に大きな鉢に植えかえをしなければならず、手入れに手間のかかる仕事であった。ましてやKさんは大輪の菊を 育てていたので、手の入れ方も一入念が入った。
「大輪は直径二〇センチぐらいにしないと、座りが悪いのです。それに三つの大輪の高さに少しずつ高低差をつけないと見ばえがしませんからね。こんなところ に気を遣います」
 と嬉しそうに説明をしてくれた。
 Kさんは菊作りのほかにも俳句の趣味ももっておられた。「元日や一系の天子 富士の山」の句で有名な内藤鳴雪を師と仰いだ、『南柯(なんか)』の俳句誌 の同人になっていた。Kさんのところには、毎月千人以上の愛好家から投句があり、これを一枚一枚丁寧に読みながら選んでいく。黒縁の太い眼鏡をかけて選句 しているKさんの姿には風格があった。この時、Kさんは五〇歳ぐらいであった。終生自分の句集を作らなかったことが惜しまれるが、私の手元の手帳には次の 句が残っている。ただ菊を詠んだ句がないのが残念である。
  椎若葉如来やさしき眉の位置
  寒林に春ある如き陽のながれ
  おくれ毛のひと筋風邪の煩はし
 九月になると、菊の大輪もそれぞれにその姿を整えて、Kさんの手によってみごとな形姿となった。色とりどりの大輪の菊が並べられると壮観であり、又一方 清楚な容姿をしたものがあると、愛すべき眺めとなった。
 Kさんの処での下宿は、当初は一年の約束であったが、
「大学を卒業するまでいても、いいわよ」
 と言う小母さんの温かい言葉で私は通算四年間お世話になった。
 私は社会人になってからも、折をみてK家を訪ねていた。ある日のこと、K家の第三女のMさんが、小母さんと一緒に私を訪ねてこられた。私の勤務している 会社に勤めたいということである。私はK家に対するご恩返しと思って、Mさんの入社に協力した。その結果、Mさんの入社が決った時の小母さんの喜びようは 大変なものであった。私はささやかながらご恩返しが出来たことを喜んだ。
 それから十年余りもたったであろうか。Mさんが私のところに来て今度会社の同僚のTさんと結婚することになりました。しかし当分共働きをしますから今後 とも宜しくお願いしますと挨拶をしていった。
 私は今まで陋屋に住んでいたので、Kさんご夫妻を我が家にお招きしたことがなかった。早速Kさんと三女のMさんを我が家にお招きしたが、大切な小母さん は数年前に他界されていた。私は今までにKさんご一家を我が家にお招きしなかったことを深くお詫びした。Kさんは私の言葉を聞いて、
「そんなことはいいんだよ。本当に今日は嬉しい。こうして一緒に酒を酌み交せることが出来て幸せですよ」
 とKさんは喜ばれて盃を重ねられた。その数日後のMさんの結婚式の当日も、Kさんは席に座ったまま笑みを絶やさずに挨拶を交されていた。私は我が娘のこ れからの幸せを見守るKさんの姿を、吉川英治の俳句「菊作り菊見る時は陰の人」そのものの人のように思えた。
 昭和五十四年の六月のことであった。ある朝Kさんの長女から電話がかかってきた。泣きながら「今朝、父が自動車事故で亡くなりました」と報せてきた。私 は動顛した。急いでK家に駆けつけたが、既にKさんは冷たい人になっていた。享年八十一であった。私は焼香のあとも涙がとめどもなく溢れ出て、茫然として 立ちつくしていた。翌日の葬儀の日には、ふと飯田陀笏の句を思い出していた。
 「たましひのしづかにうつる菊見かな」
       (二〇〇五年十一月記) (東京大学経友会「経友」二〇〇七年二月号掲載)


 シニョーラさん夫妻


 ブドイヤはヴェネツィアから北へ七十キロ離れた所にある小さな町である。シニョーラさんは牧師の兄さんと二人で十年余り前からこの町に住むようになった が、七、八年前に兄さんは亡くなられた。奥さんはすでに十二年前に亡くなっていたから、シニョーラさんの身寄りは一人もいなくなった。
 一九九三年に私は娘と二人で、彼の大きな家を訪ねて泊めてもらった。ひところの精悍な姿は彼から消え失せていたが、気が強くて頑固なところは昔のままで あった。翌日何処へ行くかで、シニョーラさんと私とで意見が分かれて、暫くもめた。それでも最後は私の希望を入れて、パドヴァのジョットの壁画を見ること になったが、遠来の私を遇してくれたことが嬉しかった。翌日私たちはパドヴァに向った。
 パドヴはヴェネツィアの近くにある古い都市で、ジョットの絵はスクロヴエーニ礼拝堂の 中にある。鉄門をくぐると礼拝堂まで五〇メートル位はあるが、そ こまで細かい砂が敷きつめてあった。訪ねる人もなく、私たち三人だけが静かに扉をあけて中に入った。
 先ず高い天井で広い空間をとり、濃い鮮やかなブルーの色でちりばめた星空に圧倒された。正面の祭壇を挟んでマリアが天使ガブリエルから受胎告知をうけて いる絵が目に入ったが、マリアの敬虔な顔が素晴しい。両サイドの壁にはぎっしりとジョットのフレスコ画が描かれて居り、聖書をよく読んでいない私には、分 かる絵が少なかった。それでも「マリアとキリストの逃避行」や「最期の晩餐」それに「最後の審判」等は一見して分かった。
 斎藤茂吉の随筆に「接吻」というエッセイがあるが、これがスクロヴューニにあるジョットの作品について書いたものである。茂吉の筆をかりると次のように なっている。
「キリスト一代の事蹟をあらわしたジョットの壁画を見ていた。そこで二つの接吻を見た。一つは、聖ヨアヒムに聖アンナが接吻している図である。石門がかい てあるのは、それは即ち黄金門である。門の口は穹(きゅう)をなしている。それが石橋に続き、石橋の終るあたりで、老いて髯の長い聖ヨアヒムと未だ若いア ンナとが接吻している。アンナの左手がヨアヒムの頤(おとがい)のへんをおさえ、右の手で後頭をおさえている。ヨアヒムは右手をアンナの左の肩にかけてい る。その容子がいかにも好い」
 茂吉の描写は適確であり、表現に愛情がこもっている。私は同じ絵を見たのであるが、その時はまだ茂吉の随筆を読んでいなかったので、清楚な女性が老人の 唇にふれている状景を漫然と見ていたに過ぎなかった。同じ絵を見ても茂吉と私の絵を見る視点がこうまで違うものかと思った。
 誰にも妨げられずに、ゆっくりと静かにジョットの絵を鑑賞出来た喜びを味わいながら、私たちは礼拝堂をあとにした。「どうだった。Sさん、ジョットの絵 は」「たしかにお前の言ったように、俺もパドヴァに来てよかった。ジョットの絵を見たのも久しぶりだった」と彼も満足そうであった。

 ふり返ってみると、私がシニョーラさんと知り合ったのは一九六八年のことであった。シニョーラさんは当時合弁会社の社長であり、私はその下で仕えた。当 時社長は六十歳位であり、文字通り働きざかりであった。決断は早く行動は迅速であった。重要な経営上の問題は、常に我々と協議して決めたが、組合と交渉す る時は、予め落し所を決めていた。従って常に自分の意図した所に結論を導くように巧妙に議事の運営を図っており、その手腕には私も感服していた。
 シニョーラさんの奥さんは美人であった。私と織り合った一年前に、幼馴じみのバルバラさんと結婚した。シニョーラさんは初婚であり、バルバラさんは再婚 であった。バルバラさんのご主人が亡くなったので、シニョーラさんはバルバラさんと結ばれたが、亡くならなければ一生独身を通したかも知れない。それほど バルバラさんを愛していたロマンチストであった。
 バルバラさんは鼻筋の通った彫りの深い顔をした品のある方であった。年齢もシニョーラさんと変らなかった。針子を雇って洋裁店を経営していただけあっ て、バルバラさんの着ているスーツもデザインも垢抜けしていて、色のセンスが素晴らしくよかった。
 私たちがローマからミラノに移ってきてからはシニョーラさん夫妻に会う機会が多くなった。時折夕食をともにすることもあったが、アルコールが回ってくる につれてシニョーラさんの饒舌が始まった。「もともとバルバラは俺にほれていたんだよ。幸せな人だ。俺が待っていてやらなければ、今ごろ一体どうしている かな」と言うと、「何を今ごろ阿呆なことを言っているのよ」とバルバラさんにたしなめられて、お互いに大笑いしたことがあった。シニョーラさんは素面の時 には、よくバルバラさんの意見を聞いて、その通りに行動することもあり、本当に睦まじい夫婦であった。
 私たちの五年間のイタリア駐在も終って、いよいよミラノ空港から帰国することになった。勿論シニョーラさん夫妻は私ども家族の一人一人と、しっかり抱き 合って別れを惜しんだ。
 日本に帰国後、私の出した礼状に対してシニョーラさんから早速返事がきた。
 お前たちが発ったあと、バルバラは大変落胆して俺に言った。
「浅井たちは、とうとうミラノを発ってしまった。これからは寂しくなるね」と。
「情けないことを言うのではない。大丈夫だ。またミラノに来るよ、と俺は言っておいたから、忘れずに来てくれ」
 としたためてあった。その後私はシニョーラさんとは会う機会もあったが、残念なことにバルバラさんにはお目にかかるチャンスはなかった。
 一九八一年の晩秋に、イタリアから一通のテレックスが私の所に届いた。バルバラさんの死を告げていた。私は遥かにバルバラさんの冥福を祈った。しかしシ ニョーラさんのことが気がかりであった。どうしているかな、近かったら飛んででも行くのに、自由に動けない今の自分が残念であった。
 翌八二年の春に私はミラノを訪ねた。シニョーラさんは私が来るのを待っていた。堰を切ったようにバルバラさんの臨終をつぶさに涙を流しながら話しはじめ た。丁度その時、西日がブラインドの隙間から射しこんで、光がかすかにシニョーラさんの顔に当っていた。シニョーラさんの目は何時までも涙で潤んでいた。
 この時の光景を思い出すと、今でもシニョーラさんはどうしているだろうかと、哀愁の念にかられていたことを思いだす。

〔追記〕
 ブドイアの家を訪ねた後も、私は時折電話をしてシニョーラさんと交信を続けていた。しかし三年前からいくら電話をかけても電話をとる人がいなくなった。 どうしたのかと案じていたが、ある日会社の友人から「シニョーラさんは亡くなりましたよ」と知らせがあった。二〇〇二年であったから九三歳になっていた。 天寿を全うされたが、身寄りのいない一人で寂しい旅立ちであっただろうと私は追想した。
                                                    (二○○二年十月記)


 竹山道雄先生


 竹山道雄先生にお目にかかったのは、今から四十年以上も前のことである。昭和三十年に、ラングーンで開かれたアジアペンクラブ大会に、先生は高見順さん と一緒に日本代表として出席された。日本への帰途、バンコックに立寄られたが、私は大学の先輩の招きでお二人と夕食をともにする機会をもった。
 かねてから私は竹山先生の作品に関心をもっていたので先生の著作集を読んでおり、先生を畏敬していた。今回初めて先生と直接お話をすると、先生の作品に 滲み出てくる人道的な人柄が、自然に現れてくるので、心の温まる思いをした。
 楽しい食事と酒も終ったので、私は少し堅い話になると思ったが、一度先生からお聞き出来ればと思っていたドイツ精神史について話をうかがった。
「第一次大戦後、ドイツは何故ヒトラーに加担してナチズムに走ったのでしょうか。物事の本質を理論的、客観的に又歴史的に見る目をもったドイツ人にして は、とても理解出来ないことです」
「第一次大戦でドイツが敗れた時に、ドイツを再建するためには、共産主義体制をとった方がよいか、それともファシズム体制を採用した方がよいか大変迷いま した。ワイマール憲法を制定して民主主義的体制は出来たものの、これが力の弱い政府で戦後の復興を遂行する力がなかったのです。やはり強力なリーダーシッ プを持った政府を作らねばならないと当時のドイツ人は考えました。その時の選択として、共産主義国家は唯一ソヴィエトに誕生したばかりであり、その将来性 は予測がつきませんでした。その結果、ファシズム体制に走るしかなかったということになります」
 先生の話は淡々としていたが、要点を分かりやすく話された。私は更にお聞きした。
「当時のドイツ人はヒトラーの裏面に隠された狡智な考え方、またその政略を見ぬくことは出来なかったのでしょうか」
「そうですね。ヒトラーは大衆の心理を掴むことに長けており、大量の失業者を救済するために産業を起しました。アウトバーンはその一つです。またある程度 国力がついてくると、ヴェルサイユ平和條約を破棄すると宣言しました。これがドイツ国民の喝采を博したのです」
「確かにヒトラーは大衆の心理を掴むことに長けていたでしょうが、それにしてもドイツの若ものたちが続々としてナチ党員になっていったのには納得出来ませ ん」
「いや、ヒトラーは純血なドイツ民族の子孫を残すということで、ナチ党員を色々な面で優遇しました。ドイツ人も強力なリーダーシップを求めていましたの で、ヒトラーの手法に魅力を感じていたのです」
 話題が余り堅苦しくなってはいけないと思って、話をヒトラーから先生の書かれた「ビルマの竪琴」に変えた。先生は太平洋戦争で亡くされた教え子また日本 軍人の鎮魂のために、此の作品を書かれたようである。その描写が生き生きとして真実に迫っているので、つい私は、
「先生は、この作品を書かれる前に、ビルマを訪ねられたのですか」と尋ねた。
「いや、ビルマは今回が初めてです。しかしあの作品を書いて間違っていたのは、たった一ヶ所でした。それが今回分かりました。ビルマの僧は楽器を持つこと を禁じられていたのです。でもラングーンはいい町でした。ラングーン大学から招聘をうけて、暫く住んでみないかと言われたのですが、残念ながら断りまし た。外に用事があったものですから」
 先生の話し方には飾り気が全くなく、また言葉の表現が明確であった。しかも現実を正しく自分の視点から見ておられたので、先生の座標軸がはっきりと分 かった。バンコックの夜は暑かったが、先生とともに過すことが出来たのは、幸せであった。
 それから程なくして、「ビルマの竪琴」が映画化された。ビルマの黄色の僧衣をまとった水島上等兵が一人、ビルマに残ってこれから戦友の遺骨を集めるため に、日本に帰る日本兵士を見送っていた。何時までも柵の外に立って去らない姿、これは竹山先生の姿であり、私はとめどなく涙を流しながら、先生の人間愛に 深く打たれていた。
           (一九九二年十二月記) (郷土誌「加能人」二○○八年十一月号掲載)


 私の好きな風景

 武蔵小金井駅の南口から、約一キロ離れた所に我が家がある。四十年前に私はここに移ってきた。我が家は武蔵野台地の高台にあるので、かつては眼下に広が る畠を一望のもとに納めることが出来た。春にさきがけて白梅が咲くころの景色は素晴しかったが、今ではその梅林もすっかり取り払われて住宅地になってし まった。
 我が家からは丹沢山系から関東山脈に連なる山なみも眺められ、その山なみの上に冬だけではあるが富士山を望むことが出来る。小金井に移ってきた当時は、 我が家から見える住宅地の屋根の色は、余り気にならなかった。それぞれ持主の好みによって、赤色、黒色、青色の屋根が葺かれて、雑然としてまとまりがな かったがそれが当たり前であると思った。
 昭和四十年代になって私はイタリア駐在になり、ローマに住むことになった。町の中に小高い七つの丘があり、その丘の上にはイタリアを象徴する記念的な建 造物が今尚残されている。またその周辺にはぎっしりと一般の住宅が櫛比している。しかし驚いたことには、すべての家屋の屋根はうすい赤色の瓦で葺かれてあ り、青色とか黒色の屋根は一軒として見あたらない。また建物の壁の色もうす茶色のオーカー色で一様に塗られている。一軒一軒見ると変哲もない家であるが、 これがまとまった街なみになると、簡素の中に素晴しい集合美を形成していることが分かった。これ等の建物は十六、七世紀に完成されたものだと聞いている が、瓦も壁の色も持主の好みに合わせて勝手に換えることは出来ない。所謂全体としての美しさを何時までも維持したいというイタリア人の美に対する意識の表 れである。七つの丘のどの丘からもローマの町を眺めると、落ちついた一色の屋根の色に旅人ならずとも心のなごむ思いをしたものである。
 パリーのシャンゼリーゼも道の両側に建ち並ぶ建物の高さは、すべて同じ高さに統一されている。これがあの街の美しさを保っている大きな要因である。
 第二次世界大戦で徹底的に空爆で破壊されたドイツの都市、ハンブルグやミュンヘンを訪ねると、昔のままの姿に完全に復旧されているのに驚く。教会は勿論 のこと、記念すべき建造物は昔と寸分たがわずに復元されている。これは旧いものを大切にするという復古趣味だけではなくて美的世界に対する意識が日本人と 質を異にしていると思う。ドイツの多くの都市の建物や町並を見て歩くと旧い文化の遺産が環境ととけあって今尚息づいていることが感じられる。
 ヨーロッパの都市と較べて、東京の都市はどうであろうか。東京の街は昭和三十九年の東京オリンピックから大きな変貌を来したと私は思っている。先ず市内 に建造された高速道路である。この道路の建設によって東京の町の様相は大きく変った。便宜さを最優先に考えた都市計画では、町の景観、歴史的遺産の存続は 建設当事者の価値観からみて、二の次、三の次におかれた。先ず赤坂見付の弁慶橋の橋上に作った高速、それに日本橋の里程標を横に片づけて走らせた高速道路 は、真に江戸文化をふみつけた建設であったと思う。何故もっと知恵を働かせてこれ等の文化遺産、景観を残して、計画が作れなかったものか、情ない極みであ る。
 古いものと言えば、東京にも沢山趣のある建物があった。その一つとして私は丸の内にあった赤い煉瓦作りの 「仲一号館」とか「仲二号館」と愛称されてき た建物の一つや二つを何故残さなかったのかと思う。ここには明治から大正、昭和にかけて海外貿易に大きく貢献してきた商館が立ち並び、経済の発展に寄与し た足跡があった。土地の効率的利用、便宜さからいとも簡単に旧いものを捨ててゆく日本人の価値観に私は常日ごろから疑問に思っている。
 こうした思いを胸に秘して、あらためて我が家から眼下に広がる住宅地を眺めた。醜悪とまではいわないが、余りにも雑然とした屋根瓦の色で美というものが 感じられない。これからは全体としての景観を考えた町作りが必要ではないか。
 年齢をとってくると四季折々の自然の変化をこよなく愛し、今まで見落していたものを新に発見した時の喜びを、人一倍感じるようになる。失われたものを愛 惜する気持も、こんなところに起因しているのかも知れない。人間は効率性、便宜さに重要性をおいて、文化を作りあげていくならば、何れは味気のない灰色の 世界に変っていく気がするのは、私一人ではあるまい。
                             (二〇〇三年三月記)


 私の理性のおごり


 入社してから三年たった。退社後の時間が自分で自由に調整出来るようになると、私はかねてから考えていたフランス語を習いにアテネフランセに通うことに した。週三回の授業で夕方の六時から授業は始まった。教室の中は殆どが大学生か高校生で私のようなサラリーマンは少なかった。会社の先輩は「まだ英語も碌 々話せないくせに、フランス語とはおこがましい」と私の行動を嘲笑した。
 テキストは「アラジンのランプ」で面白い筋書であったが、時折休む私にとっては、復習もままならないこともあって、みんなについてゆくのが大変であっ た。時折宿題も出たが、分からない時は、私の近くに何時も座っているOLのSさんから教えてもらった。
 そのうちに会社の同僚のOが英語のクラスに出席していることが分かった。一週間に一度ぐらいの頻度で授業が終ると彼と待合せをして、コーヒー店に入っ た。話題にはことかかなかった。当面の社会状勢から文学、音楽、絵画等、日によって話題をかえて話し合った。常時同席していたSさんも文学、美術の話にな ると自分の意見を臆せずに述べた。なかなか楽しい集りであった。ある日のこと、突然Oが宗教の話を持ち出した。
 「君は神について考えたことがあるか」
 「神の摂理と言われるように、人間の力ではどうしようもない大きなものが、この世に存在するとは思うが、今の自分の生活にとって、身近に神を感じること はないし、深く考えたこともない」と言うと、
 「俺は違うのだ。人間は常に罪を背負って生きている。また日々罪を犯している。この罪を神の前に懺悔して、神に赦しを求めると俺の気持は落ちついてく る。だから毎日俺は神の前にひれ伏して神に救いを求めている。君は一体何を規範にして毎日の生活を送っているのか」と彼は私を追求した。
 「俺は信仰がもてないせいか、毎日の自分の行為を神との対決によって批判し、神の赦しを求めるような生活を送ってもいないし、また考えたこともない」
 「それでは君の日常の行為は何によって規律されているのか」
 「それは俺の理性としか言いようがない。自分の行為が俺の理性に反すると思えば、その行為は思いとどまる。これが俺の信条だ」
 「君は何と言う傲慢な男か」と言ってOはあきれていた。しかし自分は傲慢だとは思わないし、普通の男性は私と同じ考えをもっているのではないかと思っ た。今まで黙って我々の話を聞いていたSさんは、「今日は大変よかったわ。宗教の話が聞けるなんて思いもしなかった。また続きを聞かせて」と言って喜んで いた。お茶の水駅で別れて帰路についた私は考えこんだ。理性を信じて生きるということが、普通の人とちがった生き方なのだろうか、また尊大なのだろうかと 反芻してみたが、結論は出なかった。
 アテネフランセには怠けものの生徒として一年通った。年度末に筆記試験があり「アラジンのランプについて梗概を記せ」という問題が出た。一生懸命にフラ ンス語で答案を書いた積りであったが結果は、「もう一年続けて下さい」と言う冷たい連絡であった。
 中途半端な勉強の結果は、この体たらくである。私にとって落第は鉄槌であったが、再挑戦する気はなかった。
 その後三十数年を経て、私は道元禅師の 『正法眼蔵』を手にした。本の題名からして難解な言葉であるが、私は先ず「現状公案」から読み始めた。一節ごと に解説はついているが、一回読んだぐらいでは分らない。何回も同じところを繰返して読んでいる中に、
 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」
 と言う教えに接した。これは私にとって一大警鐘であった。今まで理性を拠りどころにして生きてきた私は、これを全面的に捨てることを仏の道は要求してい る。長年の体験と知識それに道徳観が私の理性の根幹をなしていた。これをすべて捨て去って無の境地になった時に、私は初めて人間の道の入口に立つことが出 来ると禅師は教えている。これはかつてOが人間が侵してきた罪を神の前で懺悔して赦しを求める行為に通ずるものであることが、このごろになって分かった。
 八十年近くの齢を重ねて、今にしてやっと自分の傲慢な姿勢が分かるとは、余りにも遅きに失したが、それを認識しただけでもよしとしなければならないと、 このごろの自分を慰めている。
                           (二〇〇二年十一月記)


 孫の成長

 今年の十月のことであった。久しぶりに孫の啓介が娘と一緒に訪ねてきた。このごろは孫に会うと私は必ず進学塾の様子を聞いていた。孫は来年二月に受験す る私立中学の入試の勉強に追われて、ひごろの関心がそこに集中されていた。
 たまたまその時の話題が偏差値のことになった。偏差値の高い低いによって塾の先生が生徒の志望校の選定に、適切なアドバイスを与えてくれていた。偏差値 が低ければ、幾ら生徒が高望みをしても、「その学校は君には無理だよ」と言っていたそうである。受験生にとっては偏差値は絶対的なものであり、これを少し でも上げることに一生懸命になって勉強をしていた。この時に、啓介は私の偏差値に関心をもって
「爺(じいじ)が東大を受験した時は、爺の偏差値はどのくらいだったの」
「爺が東大を受けた時は、偏差値といった制度はなかったのだよ」
「それでは、どうやって東大を受験しようと決めたの」
「それは自分の実力を自分で考えて、このくらいの力なら東大は受かりそうだと、自分で判断するしかなかったね」
「うん、そうだったの」
 孫は私の説明に十分納得は出来なかったようであるが、それ以上の質問はなかった。ただ孫や娘の話を聞いていると、進学塾の勉強も、学校の勉強も、詰めこ み主義で些細なことと思われる断片的知識を出来るだけ多く教えて、これを記憶させているようであった。生徒に考えさせる訓練、また与えられた問題と四囲と の関係を学ぶ学習がなくなってもよいのだろうかと、疑問に思った。勿論塾は入試に合格出来る教育をしているのだから、学校の教育と指導要領が違うことは理 解出来る。そう思うと今は現状を認めざるを得ないのかも知れない。私には啓介が志望校の試験に合格出来ることを祈るだけであった。
 啓介が誕生したのは、平成八年の七月である。この年は子(ね)年で奇しくも娘も家内も同じ干支(えと)であることから、何か縁起のよいことが起きるので はないかと思った。この時家内は七十二歳で初孫が見れた喜びで気がしまり、孫の世話に一生懸命になってい
た。孫の元気な顔を見て家内が言い出した。「この児が小学に入るころまで、私たちは生きておれるでしょうが、卒業まではどうかしら。その時は八十を過ぎて いるから、無理でしょうね」
 私は「そんなことはないよ。年寄の平均寿命も逐年延びているから大丈夫だよ。余りそんなことは気にしないことだ」と答えたことを記憶している。
 娘は孫を連れてよく遊びに来た。近くに野川公園があり、川に沿ってかなり広い遊び場があった。ボール投げ、かけっこ、凧あげなどをする時は孫と娘に連れ だって私も出かけた。家内は専ら見物専門で、走ることは無理であった。そのころに家内が作った俳句のノートを手にした。そこには孫を詠んだ句が幾つかあ る。

  膝に跳ねる嬰(みどりご)の足(あ)うら梅日和
    抱き上げて乳歯の光る四温の日
    会うたびに言葉増える児水温む
    みどり児を包むタオルの菖蒲の香
    草萌えるおさな児一歩ふみ出せり

 啓介が小学校に上るようになってから、学校で描いたクレヨン画の作品を私どもの所へ持ってきた。家内は早速額に入れて、よく眺めて、「色のコントラスト が、うまいわね」と言って悦に入っていた。たしかに力強いタッチで大胆に構図をきめているのに、私も感心した。また家内は小さなアルバムに孫の写真をあつ めて、夜ねる時に始終眺めていたようである。どれだけ孫の存在が自分の生きる喜びを倍加してくれていたか、私にも分かっていた。
 残念なことに家内は今年の三月に先に旅立って行った。啓介が小学校の六年生にな
る年であった。娘も啓介 も仏壇に線香をあげに時折来てくれている。恐らく二人とも家 内の冥福を祈るとともに、入試に合格出来るように家内に頼んでいることと私は思っている。
                        (二〇〇八年十二月記)


 奈良の古いお寺
 

 つい二か月前の日経新聞の文化欄に、画家の堂本尚郎氏が奈良の戒壇院のことについて書いておられた。私はこれを読みながら、遥か六十年前のことを思い出 した。
 学友のS兄は戦後間もなく一人で奈良に出かけて、戒壇院を訪ねた。ここで四天王立像の広目天に出会い、その憂いと怒りを秘めた姿に接して、感激の余り立 ちつくし、しばらくはそこから離れることが出来なかったと言う。彼は早速この感激を文章にまとめた。私も彼の随筆を読んだが、文章は哲学的用語を多く使っ た感想文で、内容を理解することが難しかった。私は「このエッセイは難しくて俺にはよく分からない。恐らく民法のM先生は哲学の学識も深いから、これを見 せたら適切な批評もしてくれる筈だ。先生のお宅を訪ねて見ようではないか」と言ってある日、S兄を誘ってM先生を訪ねたことがあった。
 先生は東横線の大倉山に住んでおられた。快く我々を迎えて早速S兄のエッセイに目を通されたが、二、三枚読まれてから広目天についてのご自分の感想はの べずに、「しばらくこのエッセイは預っておく。近く旅に出るのでその時にゆっくり読ませてもらう」と言われた。その後先生からどのような批評があったの か、私はS兄からは聞いていない。この時に私も一度広目天を見てみたいと思った。
 今回たまたま堂本氏の文章に触発されて、私が広目天を訪ねた時の記憶をたどってみた。昭和二十三年の春のことである。外食をするのにも不自由な時に、一 人で奈良の旅に出た。目的は先ず広目天を見ることと、唐招提寺を訪ねることであった。東大寺の南大門をくぐって大仏殿を右手に見ながら、左手に折れて松林 を抜けてゆくと戒壇院に出た。朝の十時ごろであったと思うが、戒壇院の戸は固くしまっていた。係のご年輩のご婦人に戸を開けていただいてなかに入ると勿論 誰もいない。真四角の空間に四天王がそれぞれ四隅を占拠して立っている。うす暗い部屋ではあったが、白い壁を背景としていただけに、四天王は浮かび上って 私に迫ってくる。この威圧感に私は圧倒された。先ずは広目天の前に立った。S兄が描写した如く目を細めて前を凝視している。眉をよせた顔は憂いをふくんで おり、何かを決断しなければならない姿勢である。右手に筆を持ち左手に巻物を持ってこれから自分の考えをまとめるところであろうか。私一人でこの姿をしば らく眺めていた六〇年前の幸福感を今改めて想い出した。私はこの時會津八一の
 「毘楼博叉(びるばくしゃ)まゆね寄せたるまなざしを眼(まなこ)に見つつ秋の野を行く」
 の歌を思い出した。毘楼博
はサンスクリットの漢字音 写で広目天のことを言うのだが、會津八一も私以上の感激をもって広目天を見つめたに違いない。私も満たされた喜びを胸にひめつつ戒壇院を後にした。春の野 は若草も萌えており、ここを横切って築地のある道に出た。
 私は近鉄奈良駅から乗り継いで唐招提寺へ向った。西の京で降りて薬師寺を背にして北へ歩くと唐招提寺の南大門に出る。そこをくぐると大きな屋根の金堂が 目の前に立っている。八本の円い太い柱に支えられた均斉のとれた屋根は堂々として落ちついていた。一人としていない金堂の基台を歩きながら、この静寂の一 時を喜んだ。勿論會津八一の有名な歌を思い出して口ずさんでみた。
 「おほでらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ」
 會津八一がここを訪ねた時は、すでに夜になり月は皎々として輝き、大きな砂粒の上を歩いてこの歌を作ったと言われている。さすがに考える歌人の歌であ る。金堂の中には本尊の盧舎那仏のほか仏像が数体あったが、他の仏像についての印象は何も残っていない。
 今回是が非でも唐招提寺を訪ねたのは、鑑真和上の乾漆像を拝見したかったからである。金堂を出て北東の方角に歩くと御影堂に出る。ここに和上の坐像が安 置されていたが、この日は門が固く閉ざされて中に入ることが出来なかった。しばらくここに佇んで様子をうかがっていたが、今は諦めて帰るより外はなかっ た。来た道を戻りかかった所で、何と芭蕉の句碑が建ってあるのが目に入った。
 「若葉して御めの雫ぬぐはばや」
 一読して何とやさしく、心にしみる句であることに感激した。鑑真は仏教を伝導するために何回となく日本に渡ることを試みたが、尽(ことごと)く失敗し た。六回目にしてやっと訪日出来た時には、目を患ってめしいになっておられた。和上の心に決めた一念を通した実践力と、芭蕉の鑑真を切なく思った心情に心 を打たれながら私は唐招提寺を後にしたことを覚えている。
           (二〇〇七年四月記) (郷土誌「加能人」二〇〇七年十一月号掲載)