待席

あいづ やいち 1881.8.1-1956.11.21 歌人 書家 美術史家 新潟市生まれ。東京専門学校高等予科(早稲田大学の前身)で学び、坪内逍遥、ラ フカディオ・ハーンの講義を受ける。卒業後郷里に帰って教鞭をとっていたが、坪内逍遥の招きで、早稲田中学の英語教師となり、後に早稲田大学文学部講師、 教授となる。明治四十一年はじめて奈良旅行したことで仏教美術に関心を持ち、その後も研究のためしばしば奈良を訪れた。はじめ俳句を作っていたが、奈良旅 行をしたあたりから歌を多く詠み、大正十三年第一歌集『南京新唱』を出版する。なお書は独特の風格を持ち一家をなしている。 掲載作は昭和二十八年、新潮 社より刊行された最後の著作『自註鹿鳴集』に収載されたもので、「南京新唱」九十七首のうち四十九首までを抄録した。(『會津八一全集 第五巻』(中央公 論社 昭和五十七年五月)より。)歌もさることながら、作者自身が付した註はそれだけで学術的に裏づけされた文学的作品となっている。( )内カタカナ読 みは作者自身のもの、ひらがな読みは新潮文庫版、岩波文庫版を参照して、当「e-文藝館=湖(umi)」で適宜付した
ものである。 (秦 恒平)




   南京新唱  (抄)    會津 八一

    明治四十一年八月より大正十三年に至る

 

南京・なんきやう。ここにては奈良を指していへり。「南都」といふに等し。これに対して京都を「北京」といふこと行はれたり。鹿持雅澄(カ モチマサズミ)の『南京遺響』佐佐木信綱氏の『南京遺文』などいふ書あり。みな奈良を意味せり。ともに「ナンキン」とは読むべきにあらず。

 

   春日野にて

かすがの に おしてる つき の ほがらかに
あき の ゆふべ と なり に ける かも

春日野・かすがの。若草山の麓より西の方一帯の平地をいふ。古来国文学の上にて思出深き名にて、今も風趣豊かなる実景なり。
おしてる・照らすといふことを、さらに意味を強めていへり。この歌を作者の筆跡のまま石に刻(ほ)りたる碑は、春日野の一部にて古来「とぶひ野」といふあ たりに立ちてあり。『古今集』に「かすが野の飛火の野守(のもり)いでて見よ今いく日ありて若菜摘みてむ」といふ歌あり。そのあたりなり。これを見ん人 は、その位置を春日神社の社務所にて確めらるべし。



かすがの の みくさ をり しき ふす しか の
つの さへ さやに てる つくよ かも

みくさ・「み」は接頭語。草。
さやに・さやかに。分明に。
つくよ・つきよ。月夜。「よひづくよ」「ほしづくよ」「さくらづくよ」などあり。



うちふして もの もふ くさ の まくらべ を
あした の しか の むれ わたり つつ

うちふして・「うち」は接頭語。次に来る語を強む。
ものもふ・物を思ふ。物思ひす。



つの かる と しか おふ ひと は おほてら の 
むね ふき やぶる かぜ に かも にる

つのかると・「かる」は「刈る」。鹿は本来柔和の獣なれども、秋更(ふ)けて恋愛の時期に入れば、牡はやや粗暴となり、時にはその角を以て 人畜を害することあり。これを恐れて予(あらかじ)め之を一所に追ひ集めて、その角を伐るに春日神社の行事あり。この行事に漏れて、角ありて徘徊するもの を誘ひ集め、捕へてその角を伐ること行はる。ある日奈良公園にて散歩中に之に遭(あ)ひし作者は、その伐り方の甚(はなは)だ手荒なるを見て、やや鹿に同 情したる気分にて、かく詠めるなり。
むね・棟。



こがくれて あらそふ らしき さをしか の
つの の ひびき に よ は くだち つつ

あらそふ・牝を争ひて相闘ふなり。時としては、一頭乃至(ないし)数頭の牝鹿(めじか)を独占せんとて、牡鹿(をじか)の互(たがひ)に角 を以て搏(う) ち合ふなり。その音春日野の夜の闇を貫きて十四五メートルの彼方(かなた)にも聞ゆ。
さをしか・牡鹿。「さ」は接頭語。「小男鹿」または「棹鹿」など宛字(あてじ)するは穏かならず。
よはくだちつつ・「くだつ」とは「下る」「傾く」の意。夜のくだつとは、更け行くをいふ。「つつ」といふ助詞は、同じ動作の繰返して行はるるに用(もち) ゐる。現代語にて継続の意味に用ゐるとは同じからず。


 
うらみ わび たち あかしたる さをしか の
もゆる まなこ に あき の かぜ ふく

わぶ・思ひわづらふ。鹿の心を擬人法にていへるなり。
かすがの に ふれる しらゆき あす の ごと
けぬ べく われ は いにしへ おもほゆ
あすのごと・「ごと」は「如く」。明日にもならばといふこと。
けぬべく・消えなんばかりに。雪は明日にも消ゆべし。われも消え入らんばかりの心にて、上代のことを思ふといふなり。



もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の
ねむり しづけき はる の ゆき かな

ふぢ・藤。春日山のほとりには、杉の古木多く、それに纏(まと)へる藤にも老木多し。
よる・倚(よ)る。よりかかる。身を寄す。



をぐさ はむ しか の あぎと の をやみ なく 
ながるる つきひ とどめ かねつ も

をぐさ・「を」は接頭語。ただ「草」といふに同じ。
しか・鹿。上下の顎(あご)を左右にゆるく噛み合せて草を食ふ。その顎の暫くも止まざる如く、歳月は流れ去るといふに思ひ合せて詠めり。『万葉集』の歌人 は獣の同じ習性を「春の野に草食(ハ)む駒の口やまず吾(ア)を忍ぶらむ家の子ろはも」など云へり。
また『万葉集』の鹿は、ただ里遠く木隠れて鳴く本能の姿なりしに、藤原時代に入れば、忽(たちま)ち神格を帯びて記録に現はるるものあり。しかるに此の集 に見るところの鹿は、往々にして社頭の行人(かうじん)の心に似たるものを帯び来(きた)れるが如し。


 

   興福寺をおもふ

はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり
ほとけ の には に はな さく らし も

興福寺・法相宗(ほつさうしゆう)三大本山の一。藤原不比等(ふひと)が和銅三年(710)厩坂寺(ウマヤザカデラ)をここに移したるに始 まり、藤原氏の 氏寺として、歴代の官寺たる東大寺と対峙(たいぢ)して二大勢力の一となり、遂には堂塔の数も百宇を超ゆるに及べりといふ。中世以後には僧兵を蓄へて武威 を張り、或は春日の神輿(みこし)を擁して朝廷に強訴(がうそ)し、或は比叡山、多武峯(たふのみね)等と相攻伐(あひこうばつ)し、その間兵火に罹(か か)ることも屡(しばしば)なりしも、従つて近畿の最大勢力となり、嘉吉(かきつ)元年(1441)に記録せるこの寺の『官務牒疏(てふそ)』によれば、 山城、大和、近江、摂津、伊賀の五国にわたり、二百数十の社寺の上に統御の権を握りしが、享保(きやうほう)二年(1717)金堂(こんだう)、西金堂、 講堂、南円堂が罹災(りさい)して伽藍(がらん)の中枢を失ひ、明治に入りては諸制度の一変のために全く衰弱に陥れり。
その五重塔と東金堂とが、今も奈良市の景観の中心を成せるは、真に多とすべきも、その建立(こんりふ)は室町時代を遡(さかのぼ)るものにあらず。これよ り古きものには、北円堂と三重塔とがあれど、これ等もまた、鎌倉時代を上るものにあらざるのみならず、観光者にしてその存在に注意するものまた少し。ひと り観音霊場西国第二番の札所として、わづかに徳川初期に再興したる南円堂に賽(さい)するものあるのみ。
ただ境内に桜樹多く、ことに「いにしへの奈良の都の八重桜」と称する一株の老木は、この寺の地つづきなる学芸大学の庭上にあり。桜には千年の古木あるべく もあらねど、この名を聞きたるのみにても感想また多かるべし。『大和名所図会』には当時に於ける樹姿を描けり。
そもそも天平時代に於けるこの寺の諸堂内外の多彩なる盛況を知らんとするには、須(すべから)く先づ『続日本紀(しよくにほんぎ)』と『万葉集』とを読 み、併(あは)せて『興福寺流記(こうふくじるき)』または『諸寺縁起集』中のこの寺の条を読むべし。まことに咲く花の匂ふが如きものありしを知るべし。

 

   猿沢池にて

わぎもこ が きぬかけやなぎ み まく ほり
いけ を めぐりぬ かさ さし ながら

猿沢池・興福寺の南にあり。この池の岸に「釆女祠(うねめし)」といふものあり。そのほとりに「衣掛柳」(キヌカケヤナギ)といふものあ り。一たび平城京 のさる天皇の寵(ちよう)を得て、やがてまたこれを失ひしを悲みて、身をこの池に投じたる一人の釆女の伝説あり。その天皇の歌に「猿沢の池もつらしなわぎ もこが玉藻かづかば水ぞひなまし」、また柿本人麿の歌に「吾妹子(わぎもこ)が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき」など『枕草子』『大和物語』 『南都巡礼記』その他にも見ゆ。
しかるに、ひとり『七大寺巡礼私記』及び『諸寺縁起集』に収めたる『興福寺縁起』にては、これを桓武天皇の三皇子の皇位継承に伴ふ葛藤によりて生じたる悲 劇とし、水死したるものを平城天皇の皇后なりとせり。
また「猿沢」といふ名につきて『和州旧跡幽考』などには、仏典にいふところの天竺(てんぢく)の「み(けものヘンに彌)猴池」(ミゴウチ)といふものに摸 したる命名の如くにいへど、古来春日山には野猿多く、今日にても、群をなして公園に近き民家の裏庭の果樹を荒らすことさへ珍しからざれば、遠き印度(いん ど)にまで、その起源を求むる必要はなかるべきなり


 

   奈良博物館にて

くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の 
かげ うごかして かぜ わたる みゆ

奈良博物館・この地方に旅行する人々は、たとへ美術の専攻者にあらずとも、毎日必ずこの博物館にて、少くも一時間を送らるることを望む。上 代に於ける祖国 美術の理想を、かばかり鮮明に、また豊富に、我らのために提示する所は、再び他に見出しがたかるべければなり。
やうらく・瓔珞。本来は、珠玉など七宝を綴り合せて造れる頸飾(くびかざり)をいふ語なれども、ここにては、宝冠より垂下せる幾条かの紐形の装飾をいへる なり。
されどこの歌は、法輪寺講堂の本尊十一面観音を詠みたるものなるに、歌集刊行の際、草稿の整理を誤りて、ここに出せるなり。それにつきて『渾斎(こんさ い)随筆』に一文を草しおけり

 

くわんおん の せ に そふ あし の ひともと の
あさき みどり に はる たつ らし も

せにそふあし・背に副ふ蘆。所謂(いはゆる)「百済(くだら)観音」の光背の支柱を、蘆の茎の形に刻めるものをいへり。その支柱に微(か す)かに残れる白 緑(びやくろく)の彩色をよすがとして、そぞろに春色の蘇(よみがへ)り出で来らむことを、希望を込めて詠めるなり。

 
ほほゑみて うつつごころ に あり たたす
くだらぼとけ に しく ものぞ なき 

ほほゑみて・一種静かなる微笑を湛(たた)へたり。後に法隆寺夢殿にて詠める歌にても、この一語あり。参照されたし。
うつつごころ・うつつとも夢ともなき心地、有無の間に縹渺たる心境、かかる意に作者はこの語を用ゐたり。この歌、今にては多少世上に知られ、ほぼ作者のこ めたる意味にて解せられ居るが如きも、古人は「正心」、「正気」「本心」の意味にのみこの語を用ゐたるが如し。
くだらぼとけ・以上二首は、法隆寺よりその頃久しく出陳して、館のホールの中央なる大ケースの正面に陳列してありし俗称「百済観音」(クダラクワンオン) を詠めるなり。されど、この像の法隆寺に於ける存在は、文献の上にては、遠き上代には遡りがたし。恐らく中古に至りて、衰亡せる他の寺より––たとへば玉 虫厨子(たまむしのずし)などの如く––移入されしものなるべし。元禄、享保の頃、法隆寺の学僧良訓が手録せる『良訓補忘集』及び同じ人の『古今一陽集』 には、ともにただ異国よりの将来にして伝歴明かならざるよしを記せるのみにて、特に「百済より」といふことはあらず。依つて思ふに、「百済観音」の名が、 一般的に固定するに至りしは、恐らく明治時代の中期以後なるべく、作者のこの歌も、或は何程かこの固定に貢献し居るやも知るべからず。ことに亡友浜田青陵 君が、大正十五年(1926)に出したる美術随筆集を『百済観音』と名づけ、その赤き表紙に、作者の自筆なるこの歌を金文字にて刷り込みたることなど、こ の場合として思ひ出さるることなり。
また作者は、かつてこの像の台座の底面を見たることありしに、「虚空蔵」の三字が達筆に墨書されてありき。これは法輪寺にてこの像と殆ど同型、同持物の菩 薩像を、同名にて呼び来れると同じく、中古には、虚空蔵菩薩を中心とせる会式の本尊として、便宜上、法隆寺にても通用したることありしなるべし。されど倉 庫の中より、別に発見されたる、まさしくこの像の宝冠と見るべきものに、阿弥陀の化仏(ケブツ)が透彫(すかしぼ)りに刻まれてあるは、虚空蔵にあらずし て観音なることの一確証なり。(化仏トハ宝冠、宝髻(ほうけい)、マタハ光背ナドニ、小形の像ノ取リ附ケラレタルヲイフ。)

 

つと いれば あした の かべ に たち ならぶ
かの せうだい の だいぼさつ たち

つといれば・「つと」とは卒然としてといふに同じ。俳諧の季題に「つと入り」といふことあるも、ここは何等関係なし。
せうだい・招提。唐招提寺を指していへり。作者この歌を詠みしころは、博物館のホールに入りたるばかりの処に、雪白の堊壁(あへき)を背にして、唐招提寺 のみにあらず、薬師寺、大安寺などの等身大の木彫像林立して頗る偉観を呈したり。


はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
をゆび の うれ に ほの しらす らし

をゆび・「おゆび」といはば「お」は接頭語にて、ただ「ゆび」といふに同じきも、「をゆび」は小指なり。小指の末端は最も鋭敏なるものなれ ばかく詠めるな り。  
うれ・末端。
ほのしらすらし・ほのかに認識したまふなるべしといふなり。『万葉集』には「ほの聞く」といふ語あり。中古には「ほの見る」「ほの聞く」「ほの思ふ」など いへる例あれば「ほの知る」とつづけたるなり。「しらす」は「しる」の敬称。「らし」は推量。



こんでい の ほとけ うすれし こんりよう の
だいまんだら に あぶ の はね うつ

こんりよう・紺綾。紺色の綾地(あやぢ)に金銀泥にて描きたる縦広一丈にあまる大曼荼羅(だいまんだら)。金剛界、胎蔵界の二幅あり。空海 (774- 835)が唐土より齎(もたら)すところといふ。高市(たけち)郡高取町子島寺の出陳なりき。

 

   高畑にて

たびびと の め に いたき まで みどり なる
ついぢ の ひま の なばたけ の いろ

高畑・たかはたけ。奈良市の町名。東大寺より南方に当る。新薬師寺のある所。
ついぢ・「築き地」の転。また「ついひぢ」「ついがき」などといふ。土を築き上げ、その中に屋根瓦、石塊、木柱などを塗り込めて作れる塀。「ひま」とは崩 れたる間隙。『枕草子』には「人にあなづらるるもの、ついぢのくづれ」、『伊勢物語』には「ついひぢの崩れより通ひけり」、『古今著聞集(ここんちよもん じふ)』には「ついぢの上に瞿麦(ナデシコ)をおびただしく植ゑられたり」など諸書にいろいろの例ありて聯想(れんさう)豊なり。



かうやくし わが をろがむ と のき ひくき
ひる の ちまた を なづさひ ゆく も

のきひくき・この辺は、奈良にても、やや場末なれば、軒低き家多きなり。
なづさふ・なつかしむ。


 

   新薬師寺の金堂にて

たびびと に ひらく みだう の しとみ より
めきら が たち に あさひ さしたり

新薬師寺・高畑町にあり。古来東大寺の末寺たり。西の京に薬師寺あるを以て「新」の字を加へたるなり。これを混同する人多けれども全く別寺 なり。聖武天皇 の眼疾平癒のために、天平十九年(747)光明皇后の建つるところ。天平勝宝二年(750)寺領を定めて五百町を寄せ、住僧百余人に及べる一伽藍なりし が、宝亀(ほうき)十一年(780)雷火によりて、一日にしてその金堂(コンダウ)、講堂、西塔(サイタフ)を失へり。今この寺にて金堂と称するものは、 その位置、構造、規模などより考ふるに、決して最初の金堂にはあらずして、わづかに残存せる一棟、たとへば食堂(ジキダウ)などにてありしが如し。
また今の金堂にて、本尊薬師如来を囲繞せる十二神将は、本尊よりも古き様式を持つのみならず、廃滅せる岩淵寺(イハブチデラ)より移入せりといふ伝説あ り。しかるにこの寺の別堂に近頃まで安置せる「香薬師(かうやくし)」の立像(りふざう)は、その様式、これ等の神将群よりも更に古し。いづれも本末を顛 倒(てんたう)せるものの如し。またこの寺の最初の十二神将は、何の時か興福寺の衆徒のために奪ひ去られて、その寺の東金堂の壇上に陳列され居りしこと は、保延(ほうえん)六年(1140)の『七大寺巡礼私記』に記しあれども、これ等の神将像は、かの治承四年(1180)の罹災によりて堂とともに全滅し て、今また見るべからず。諸仏の運命も、その果敢(はか)なきこと、人間界に似たりといふべきなり。
しとみ・蔀。後世にいたりて造りつけたるものなるべし。平素は密閉して堂内は暗黒なれども、たまたま美術行脚(あんぎや)の人々など来りて乞はるる時にの み、寺僧は之を開きて暫く外光を入るるなり。
めきら・「迷企羅」の漢字を宛つれども、実はその漢字には意味なく、梵名(ぼんめい)の原音の宛て字なり。薬師如来に従属する十二の神将の一。ただしこの 寺の十二神将は、その製作、日本に現存する神将像中最も古く、したがひて、その形式は後世に固定せるいづれの儀軌(ぎき)にも吻合(ふんがふ)せざるが故 (ゆゑ)に、凡(おほよ)そかかる場合には一一の名称は、その寺にて従来称(とな)へ来りしところに従ふを穏当とす。しかるに作者がこの歌を詠じたる時に は、本尊の右側に立ちて、太刀を抜き持ち、口を開きて大喝せるさまにて、怒髪の逆立したるこの一体には、寺にては、久しくその脚下に「迷企羅大将」の名標 を添へおきたりしかば、作者はその意を尊重して、かくは詠じたるなり。然(しか)るにその後、現住職福岡師の勉強にて、この群像は最も『恵什鈔(けいじふ せう)』の儀軌に近きことを発見し、今は同鈔に従ひて、一一の名称を改め、堂内の配列をも変へ居るなり。
特に初心の読者のために述べんに、ここに「儀軌」といへるは、礼拝(らいはい)祈祷の対象として仏像の製作をなし、これを厳飾し、または仏具の配列など為 (な)さんとするに当り、それぞれ特殊の形式に従はしむるやうに規定せるものをいふ。されども、その儀軌にも種類ありて、必ずしも互に一致せざるのみにあ らず、いづれにするも、平安朝初期に密教が我が国に渡来せる後に、やうやく盛に行はれ来りしことなれば、それ以前の古像を、之を以て律することは、この歌 の作者の躊躇(ちうちよ)せんとするところなり。
なほこの書の中「軍荼利夜叉明王(ぐんだりやしやみやうわう)「百済観音」「九品(くほん)ノ弥陀(みだ)」「中宮寺本尊」の条に儀軌の一端に触れたり。 それらによりて、儀軌といふものをよく理解せらるべし。

 

   香薬師を拝して

みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の
やまとくにばら かすみて ある らし

かうやくし・香薬師。奈良時代前期と思(おぼ)しき形式を、その製作の細部に有する小像にて、傑作の名高かりしを、昭和十八年(1943) 第三回目の盗難 に罹りたるままにて、遂に再び世に出で来らず。惜しみても余りあり。
正倉院に伝来せる天平勝宝八歳(756)の『東大寺定界図』に「新薬師寺堂」の東北に当る丘陵地帯に「香山堂」の名あり。おもふに、わが「香薬師」は、本 来この堂に祀れるを、何故(なにゆゑ)かこの堂は早く荒廃して、この像は「新薬師寺」に移され、その後はその記念のために「香」の一字を仏名の上に留めた るなるべく、寺そのものも、この像あるがために、『延暦僧録』(エンリヤクソウロク)または『東大寺要録』その他に見ゆる如く「香薬寺」といふ別名を得る に至りしなるべし。『延暦僧録』に曰(いは)く「皇后マタ香薬寺九間ノ仏殿ヲ造ル。七仏浄土七躯(く)を造リ、請(しやう)ジテ殿中ニ在リ。塔二区ヲ造リ 東西ニ相対ス。鐘一口(いつく)ヲ鋳(い)ル。住僧百余」と。亦(ま)た以て今日の諸堂の衰微と甚だ相似ざるものなりしことを知るべし。
また「香山」の二字は、或は「カグヤマ」と和様に読むべきこともあれど、ここにては「カウゼン」を正しとす。ヒマラヤ山脈の中にて、今は「カイラーサ山」 と称するものを指して、仏典にては「香酔山」又は「香山」と書き、また、かの『梁塵秘抄(りやうぢんひせう)』の中にて「香山浄土」または「香山」と書け るは、共にこれなり。
うつらまなこ・何所(どこ)を見るともなく、何を思ふともなく、うつら、うつらとしたる目つき、これこの像の最も著しき特色なり。されど「うつらまなこ」 といふ語は、さきに出でし「うつつごころ」とともに、古人に用例あるを知らず。或はこの歌の作者の造語ならむ。


 
ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の
みそなはす とも あらぬ さびしさ

あふぎみれども・高さ二尺四寸の立像にて、決して高しとはいふべからざるも、薬師堂の正面の壇上に、やや高く台座を据ゑたれば、「仰ぎ見 る」とは詠めるな り。
この歌の作者自筆の碑は、今は空しくその堂の前に立てり。嶋中雄作君の建つるところ。

 

   高円山をのぞみて

あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に
ゆきて しめさむ いも も あら なく に

高円山・たかまどやま。春日山の南、新薬師寺の東にあたる小丘。聖武天皇の離宮ありしところ。後々まで萩の名所となれり。『万葉集』に「宮人の袖つけ衣 (ごろも)秋萩に匂ひよろしき高円の宮」「わが衣摺(す)れるにはあらず高円の野べ行きぬれば萩の摺れるぞ」などあり。なほ後世この山の萩の歌多し。
そでにはすらじ・奈良時代には植物の花葉をそのまま衣服に摺りつけて模様とすること行はれたり。これを「はなすりごろも」また「すりごろも」などいふ。


 

   滝坂にて

かき の み を になひて くだる むらびと に
いくたび あひし たきさか の みち

滝坂・『大和名所図会』には滝坂を紅葉の名所とし、里人数輩が、渓流の岸なる樹下に毛氈(もうせん)を敷きて、小宴を開くの図を出し、その 上に「千里ノ楓 林(ふうりん)ハ煙樹深ク、朝トナク暮トナク猿吟アリ」と題せり。文字の誇張はさることながら、この辺に野猿の多きは、これにても見るべし。
くだる・石切峠より下り来るなり。



まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
くひ もて ゆきし たきさか の みち

まめがき・字書によれば「葡萄柿」「ころ柿」など、みな「まめがき」といふ別名あるよし。されど、ここに詠みたるは、極めて小粒の柿といふ までのことな り。すなはち「豆本」「豆電球」の「豆」のごとし

 
かけ おちて いは の した なる くさむら の
つち と なり けむ ほとけ かなし も

つちとなりけむ・この歌はかかる仏もあるべしと想像して詠みしなるも俗に「寝仏」と名付けて、路傍に顛落(てんらく)して、そのまま横たは り居るものもあ るなり。

 
たきさか の きし の こずゑ に きぬ かけて
きよき かはせ に あそびて ゆかな

たきさかの・この歌偶然にも「カ行」の音多く、「カ」四、「キ」五、「コ」一あり。幾分音調を助け居るが如し。後に法隆寺金堂の扉の音を詠 みたる歌の音調 の説明を参照すべし。
ゆかな・「な」は希望の助辞。


 
ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の
あかき はさみ に あき の かぜ ふく

はにふ・埴(はに)のあるところ。
あかきはさみ・胴体小さく、鋏のみ赤き沢蟹は、川岸を駈けめぐること神速にして飛ぶが如し。


 

   地獄谷にて

いはむろ の いし の ほとけ に いりひ さし
まつ の はやし に めじろ なく なり

地獄谷・滝坂より進みて石切峠の急坂を攀(よ)ぢ、左側に石仏群を見る。久寿二年(1155)の刻銘、保元(ほうげん)二年(1157)の墨書あり。それ より東南に小径を進むこと三百メートルに地獄谷石窟あり。その壁上に六体の仏菩薩像を線刻し、もと彩色を施し、所々に金箔を押したる痕跡あり。藤原時代の 作と見らる。
『沙石集(しやせきしふ)』(1279)『春日御流記(かすがごりうき)』の二書には同文にて、解脱上人(ゲダツシヤウニン)の弟子なる璋円(しやうゑ ん)は死後魔道に堕(お)ちて、その霊が、或る女に憑(つ)きて、その口を藉(か)りて云はしめし言葉として、春日明神は、春日野の下に地獄を構へて、毎 朝亡者(まうじや)の口に清水を灑(そそ)ぎ入れて、正念(しやうねん)に就かしめ、大乗(だいじよう)の要文(えうもん)を唱へ聞かせて得脱(とくだ つ)せしめらるるよしを記せり。されど、これを以て「地獄谷」の名称の起源となすとも、今の石窟中の諸像の製作時代には関するところ無かるべし。


 

   東大寺にて

おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて
おほき ほとけ は あまたらしたり

東大寺・大仏殿は天平十七年(745)聖武天皇によりて奈良の地にて起工。治承四年(1180)平重衡によりて焼失。建久六年(1195) 源頼朝 (1147-1199)大檀越(だいだんをつ)となりて再建。永禄十年(1567)三好、松永の兵火にて焼かれ、宝永五年(1708)復興落成せり。
作者が初めてこの寺に詣でたるは、明治四十一年(1908)恰(あたか)も大修理の最中なりしかば、境内には木石の山を築き、鉋鋸(はうきよ)の響(ひび き)耳を聾(ろう)し、人夫車馬の来往織るが如く、危(あやふ)くその中を縫ひて進めば、大仏の正面にはいと高き足場を組み上げ、その上より参拝せしめら れたり。
あまたらし・盧舎那仏(るしやなぶつ)即ち大仏は、宇宙に遍満(へんまん)すとも、或は宇宙と大さを同(おなじ)うすともいふべし。これを「あまたらす」 といへり。「たらす」とは「充足す」「充実す」の意なり。今の大仏は従来幾度か火難に遇(あ)ひて、惜しむべし上半身は後世の補修なれども、下半身は原作 のままにしてことに座下の蓮弁には、一片ごとに天平のままなる三千世界図の流麗なる線刻あり。すなはち『梵網経(ぼんまうきやう)』に説ける宇宙の図にし て、大仏は実にかくの如き世界の、無数に集合せる上に、安坐することを、象徴的に示せるなり。仏教はもとより広汎(くわうはん)深遠なるものにて、その大 綱(たいかう)を知るさへ、決して容易にあらざれども、奈良地方を巡遊して、その美術的遺品を数をつくして心解せんとするほどの人々は、たとへ年少初学の 士なりとも、志を深くし、適当なる指導者を得て、予め相応なる知識的準備をなすを必要とす。その準備の深きに従ひて、収穫また従つて多かるべし。『梵網 経』に曰く「コノ時、盧舎那仏即チ大ニ歓喜シ(中略)、諸(もろもろ)ノ大衆ニ示スラク、是(こ)ノ諸ノ仏子ヨ諦聴シ、善思シテ、修行セヨ。我已(すで) ニ百阿僧祇却(ひやくあそうぎこふ)、心地(しんち)ヲ修行シ、之ヲ以テ因トナシ、初テ凡夫ヲ捨テ、等正覚(とうしやうがく)ヲ成シ、号して盧舎那トナ ス。蓮華台蔵世界海(れんげたいざうせかいかい)ニ住シ、その台周遍(あまね)ク千葉アリ、一葉ハ一世界ニシテ、千世界トナル。我化シテ千釈迦トナリ、千 世界ニ拠リ、後ニ一葉世界ニ就キテ、復(ま)タ百億ノ須弥山(しゆみせん)、百億ノ日月、百億ノ四天下(してんげ)、百億ノ南閻浮提(なんえんぶだい)ア リ。百億ノ菩薩釈迦、百億ノ菩提樹下ニ坐シ、オノオノ汝ガ問フ所ノ菩提薩た(土ヘンに垂)(ぼだいさつた)ノ心地ヲ説キ、ソノ余ノ九百九十九釈迦ハ、オノ オノ千百億ノ釈迦ヲ現ズルコト、マタマタ是(かく)ノ如シ。千華上ノ仏ハ、是レ吾ガ化身ナリ。千百億ノ釈迦ハ、是レ千釈迦ノ化身ニシテ、吾已ニ本原ニシ テ、オノオノ盧舎那仏トナル」とあり。またその下巻には「我今盧舎那、方(まさ)ニ蓮華台に坐シ、周匝(しうさふ)千華ノ上、マタ千ノ釈迦ヲ現ジ、一華百 億国、一国一釈迦ニシテ、オノオノ菩提樹下ニ坐シ、一時仏道ヲ成ズ」とあり。
また作者が自筆のままにこの歌を刻したる石碑は、大仏殿の中門の西に当る木立の中にあり。高さ一丈五尺。嶋中鵬二氏の建立するところ。

 
あまたたび この ひろまへ に めぐり きて 
たちたる われ ぞ しる や みほとけ

ひろまへ・神社仏閣の前庭。

 

   戒壇院をいでて

びるばくしや まゆね よせたる まなざし を
まなこ に みつつ あき の の を ゆく

戒壇院・聖武天皇(701-756)の招請により、天平勝宝六年(754)に我国に渡来せる唐僧鑑真(ガンジン)は、翌年大仏殿前に戒壇を 築きて、天皇、 皇后、以下百官、僧俗に戒律を授け、その後大仏殿の西方なる現在の地に之を移せり。しかるに、この院は、幾度か火災に遇ひ、現在の堂宇は、享保十年 (1725)の再建立なり。堂内の中央なる土壇の上に五重の小塔あり。その中に釈迦、多宝の二躯の坐像あり。共に満身に罹災の痕(あと)を示せり。然るに 東大寺の僧凝然の『三国仏法伝通縁起』(1311)は最初の戒壇を談(かた)りて「立ツル所ノ戒場ニ三重ノ壇アリ。大乗菩薩三聚浄戒(さんじゆじやうか い)を表スル故ニ、第三重ニ多宝塔ヲ安ンズ。塔中ニ釈迦多宝二仏像ヲ安ンズ、一乗深妙理智冥合(いちじようじんめうりちめいがふ)ノ相(さう)を表ハス」 といへり。ことに壇の四隅には、最初は天平勝宝七年(755)に成りし鋳銅の四天王像を安置したりといふ。また壇を築ける土は、天竺、唐土、日本のものを 和して用ゐたれば、之を嘗(な)むれば、その味、天竺の大那爛陀寺(ダイナランダジ)のものの如くなりしといふ。
びるばくしや・広目天(くわうもくてん)の梵名Virupaksa(uと六字目のaの上に「-」、sの下に「・」)。「毘楼博叉」又は「毘留羅叉」の漢字 を宛つ。
まゆねよせたる・両の眉を寄せて、遥かなる彼方を見入るが如き目つきをなせり。しかるに奈良に住める一部の人々の中には、この像の目つきは、甚だこの歌の 作者のそれに似たりと評する者あれど、果して如何(いかん)。これにつきて『渾斎随筆』に記せり。


 

   東大寺懐古

おほてら の ほとけ の かぎり ひともして
よる の みゆき を まつ ぞ ゆゆしき

懐古・『続日本紀』によれば「天平十八年(746)十月、天皇、太上(だいじやう)天皇、皇后、金鐘寺(こんしゆじ)ニ行幸シ、燈ヲ燃シテ 盧舎那仏ニ供養 シ、仏ノ前後ノ燈一万五千七百余坏(はい)ナリ。夜一更(いつかう)ニ至ルトキ、数千ノ僧ヲシテ、脂燭(しそく)ヲささ(敬の下に手)ゲテ賛歎供養シテ、 仏ヲ繞(めぐ)ルコト三匝(さんさふ)セシメ、三更ニ至リテ宮ニ還(かへ)ル」また天平勝宝六年(754)正月の条にも「東大寺ニ行幸ス。燈ヲ燃スコト二 万ナリ」とあり。ここに天皇とは聖武、太上天皇とは元正、皇后とは光明をさせり。また金鐘寺とは東大寺の前称なり。
ほとけのかぎり・寺中のいやしくもあらゆる諸仏、諸菩薩、諸天の像にも悉(ことごと)く献燈せりといふこと。


 
おほてら の には の はたほこ さよ ふけて
ぬひ の ほとけ に つゆ ぞ おき に ける 

 

   奈良坂にて

ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に
こさめ ながるる はる は き に けり

ならざか・昔は平城京大内裏(だいだいり)の北方を山城国へ抜ける道を「ならざか」と呼びしが、今はこれを「歌姫越」(ウタヒメゴエ)とい ひ、もとの般若 寺越(はんにやじごえ)の坂を「ならざか」といふこととなれり。
いしのほとけ・奈良坂の上り口の右側の路傍に俗に「夕日地蔵」と名づけて七八尺の石像あり。永正六年(1509)四月の銘あり。その表情笑ふが如く、また 泣くが如し。
またこの像を「夕日地蔵」といふは、東南に当れる滝坂に「朝日観音」といふものあるに遥かに相対するが如し。

    

   浄瑠璃寺にて

じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる
はる の やまべ を ひとり ゆく なり

浄瑠璃寺・一名九体寺(クタイジ)。山城国相楽郡(さうらくぐん)当尾(たうのを)村字西小(にしを)にあり。天元五年(982)多田満仲 (ただのみつな か)の創基、永承二年(1047)義明の再興と称す。寺名「九体」といふは阿弥陀を想はしめ、「浄瑠璃」の薬師を想はしむると一致せず。その間に寺史の変 遷を暗示せるなり。
じやうるり・仏典によれば、東方十恒河沙(じふごうがしや)の里程に薬師瑠璃光如来(やくしるりくわうによらい)の浄土あり。これを浄瑠璃世界といひ、こ れを以て西方阿弥陀如来の極楽世界に対す。「恒河」とは即ちガンジス河をいふ。その河底の砂粒の限りなきが如き大数を現さんとする表現なり。



かれ わたる いけ の おもて の あし の ま に
かげ うちひたし くるる たふ かな

たふ・塔。藤原時代の三重塔あり。檜皮葺(ひはだぶき)。治承二年(1178)一条大宮より移建せるもの。この塔内に薬師如来の坐像あり。
あしのま・蘆の間。


 
びしやもん の ふりし ころも の すそ の うら に
くれなゐ もゆる はうさうげ かな

はうさうげ・宝相華。図案化したる一種の華麗なる植物文様(もんやう)。ただしこの歌を詠みし後、数年を経て、作者はふたたびこの寺に至り て堂の床に匍 (は)ふやうにして窺(うかが)ひ見るに、この毘沙門像の裾の裏には、この歌にいへる如き鮮紅色の宝相華は見当らざりき。見たる如く思ひ違ひて、帰り来り て後にかくは詠みなししものと見ゆ。

 

   平城宮址の大極芝にて

はたなか の かれたる しば に たつ ひと の 
うごく とも なし もの もふ らし も

平城宮址・元明天皇の和銅三年(710)都を平城京に遷(うつ)し、皇居を平城宮といふ。
大黒芝・だいこくのしば。もとの大極殿の址(あと)。「大極」といふことばは里人には耳遠くなりて、いつしか「大黒」となれるなり。一面に芝草を植ゑた り。
ものもふ・物思ふの略。



はたなか に まひ てり たらす ひとむら の
かれたる くさ に たち なげく かな

まひてりたらす・「ま」は接頭語。充分に日光の照らせりといふこと。作者はこの後「平城宮址懐古」七首あり。かかげて作者の『全歌集』にあ り。参読してこ の史蹟(しせき)の余情を偲ぶべし。

 

   海竜王寺にて

しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の
はしら の まそほ かべ に ながれむ

海竜王寺・別名を「角寺」(スミデラ)「隅院」(スミノヰン)などといふ。天平三年(731)光明皇后の立願(りふぐわん)にて建立。玄ば う(日ヘンに 「方」)(げんばう)は僧正義淵(ぎえん)の門より出で、眉目秀麗音声清朗にして学才あり。霊亀(れいき)二年(716)唐に赴(おもむ)き、智周(ちし う)より法相(ほつさう)の蘊奥(うんあう)を受け、皇帝玄宗より紫色の袈裟(けさ)を贈られ、経論章疏(きやうろんしやうそ)五千余巻を齎して、天平六 年(734)得々として帰朝し、聖武天皇及び皇后の殊遇を受け、内道場に出入し、この海竜王寺に居れり。当時彼のために企てられしこの寺は、金堂、東西金 堂、五重小塔、講堂、経蔵(きやうざう)、鐘楼、三面僧房、食堂、浴室等を悉く備へたりと称せらるるも、今日にしては、その最初の西金堂と鎌倉時代再建の 経蔵とを遺(のこ)せるのみなるは、まことに甚しき凋落(てうらく)といふべし。今は真言律宗。
しぐれのあめ・後世にては、ただ「しぐれ」とのみいふを、『万葉集』だけにても、この語を含みたる歌は十数首に及べるが、作者は暢(の)びやかなるこの語 の音調を好めり。ことに天平十一年(739)十月、皇后主催の維摩会(ユヰマヱ)に、唐楽(たうがく)、高麗楽(こまがく)を供養したるのち、市原王(い ちはらのおほきみ)、忍坂王(オサカノオホギミ)が弾ける七絃琴に合せて、田口家守(たぐちのやかもり)、河辺東人(かはべのあづまひと)等数人が歌ひた る仏前の唱歌(しやうが)に「時雨のあめ間(マ)なくな降りそ紅に匂へる山の散らまく惜しも」といへるを、作者は愛唱すること久しかりしかば、図らずも、 その皇后に縁浅からざるこの寺に臨みて詠める歌は、おのづから、その余韻を帯び来りて、恰もこれに唱和せるが如きを覚ゆ。されど歌材は、あくまでも、眼前 の実情なり。また実朝の『金槐集(きんくわいしふ)』には「いたくなふりそ」の句二度まで見ゆるも、作者の態度は、著者とは互に同じからず。
まそほ・真赭。「ま」は接頭語。赭色の顔料。建築の塗料とす。『万葉集』には「仏(ホトケ)造るまそほ足らずば水たまる池田の朝臣(アソ)が鼻の上を掘 れ」などいひ、「まそほ」には「真朱」の二字を宛てたり



ふるてら の はしら に のこる たびびと の 
な を よみ ゆけど しる ひと も なし

はしらにのこる・作者往年微酔を帯びて東大寺の傍(かたはら)を過ぎ、その廻廊の白壁に鉛筆を以て文字一行を題して去りしが如し。還(か へ)つて自(みづ か)ら之を記憶せざりしに、十数年にして人ありて之を見たりと称す。信ぜずしてその文を質(ただ)せば、乃(すなは)ち曰く「秋艸道人(しうさうだうじ ん)酔ひてこの下を過ぐ」と。これを聞きて苦笑これを久しくしたるも、今は洗ひ去られてまたその痕跡なし。

 

   法華寺本尊十一面観音

ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に
あひみる ごとく あかき くちびる

法華寺本尊・この寺は、藤原不比等(659-720)の歿後、その次女なる光明皇后(701-760)が父の遺宅を移して寺となしたるに始 まり、天平十三 年(741)聖武天皇が東大寺を「総国分寺」とし、「四天王護国ノ寺」と名づけたるに対して、皇后は之を「総国分尼寺(にじ)」とし、「法華滅罪ノ寺」と 名づけたり。この上代に於ける一女人として、その意気の雄邁(ゆうまい)なるに感ぜざるを得ず。然るに、次第に寺運傾き、鎌倉時代に至りて嵯峨の二尊院の 湛空(たんくう)(1176-1253)の修理、西大寺の叡尊(えいそん)(1201-1296)の復興を経たるも、乾元(けんげん)二年(1303)の 記録には、すでに「棟破レテ甍(いらか)アラハナリ。壇崩レテ扉傾ク」とあり。しかして応永十五年(1408)には西塔炎上し、その後興亡二百年の末、堂 一宇、塔一基のみとなり果てたるに、今の本堂は、もとの金堂の余材を以て、豊臣秀頼が生母淀君の菩提のために、慶長六年(1601)片桐且元に命じて再興 せしめたるものなりとて、欄杆(らんかん)の擬宝珠(ぎぼし)にその刻文あり。創建当時の俤(おもかげ)とては、少数の国宝と、庭前に散在する一々の残礎 とによりて空しく之を偲ぶべきのみ。ただ本尊十一面観音ありて、今もこの寺の名をして高からしむ。依つて想ふに、ここに録したる四首の歌は、この像を天平 盛期の製作とし、ことにこの皇后の在世の日に来朝したる異国美術家の手に成りし写生像なりとして、専門史家の間にも信ぜられたる明治時代に、これらの甘美 なる伝説に陶酔して、若き日の作者が詠じたるものなり。されど、この寺の最初の本尊が、この観音像よりも一時代早き丈六(ぢやうろく)の如来像なりしこと は、『諸寺縁起集』『元亨釈書』(げんかうしやくしよ)などに明かなるのみならず、現に同寺に丈六型の如来像の頭一個と、脇侍(けふじ)のものと見ゆる天 部像の頭二個を有することを併せて考ふべきなり。
うつしみに・現身に。この像に対すれば、皇后を目(ま)のあたりに見るが如しといふなり。伝説によれば、北天竺の乾陀羅国(ケンダラコク)の王が、遥にこ の皇后の絶世の美貌を伝へ聞き、彫刻家にしてその名を文答師(モンダフシ)といふものを遣はして、皇后に請ひて写生して作らしめたる三躯の肖像のうち、一 躯は本国に持ち帰り、他の二躯はこの国に留め、この寺と施眼寺とに安置されたりといふこと『興福寺流記』(コウフクジルキ)『興福寺濫觴記』(ランシヤウ キ)などに見ゆ。
この施眼寺今すでに在らず、その像また行く所を知らざるも、『興福寺濫觴記』に引けるその寺の『流記』の一節によれば、像は一度賊のために施眼寺より盗み 去られしも、たまたま興福寺の僧寿広の獲(う)るところとなり、天長二年(825)これをその寺の西金堂に安置せりといひ、また皇后在世の日、我が歿する 後六十余年にして、この肖像の、この寺に帰すべきを予言せられたりといへり。その事甚だ妄なるが如きも、今もし此の像の様式を以て、天長二年の製作となさ ば、人多くこれを怪しまざるべし。この伝説の中には深く寓するところあるに似たり。


 

   法華寺温室懐古

ししむら は ほね も あらは に とろろぎて
ながるる うみ を すひ に けらし も


からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへ に
うみ に あきたる あかき くちびる

からふろ・光明皇后は仏に誓ひて大願を起し、一所の浴室を建て、千人に浴を施し、自らその垢を流して功徳を積まんとせしに、九百九十九人を 経て、千人に至 りしに、全身疥癩(かいらい)を以て被(おほ)はれ、臭気近づき難きものにて、あまつさへ、口を以てその濃汁(のうじふ)を吸ひ取らむことを乞ふ。皇后意 を決してこれをなし終りし時、その者忽ち全身に大光明を放ち、自ら阿しく(門がまえの中に人がしら、その下に「人」が二つ横並び)如来(アシクニヨライ) なるよしを告げて昇天し去りしよし、『南都巡礼記』『元亨釈書』その他にも見ゆ。
「からふろ」に往々「唐風呂」の字を充つれども、蒸風呂にて水無きを「から」といひしなるべければ、「空風呂」を正しとすべし。現にこの寺の庭上にありて 皇后を記念すと称する一宇の浴室は蒸風呂なり。また法隆寺の北方の民家にも、かかる浴場を営みて「からふろ」と称するものあり。
また『和州旧跡幽考』には「法華寺の鳥居のたつみ、わづかに隔りて、田の中に松の一木ありし所ぞ、阿しく(前出と同じ。以下も同じ)寺の跡なる。当代は鳥 居もなく、松も見えず」とあり。この阿しく寺こそは、この奇蹟を記念せんために、皇后が建てしめられしものと云ひ伝へ、なほこの所にこの寺の浴場の遺物と て、大石槽の破片ありしを、天正年中(1573-1591)郡山城の築造に石垣の材料にと運び去られしといふこと『法華尼寺縁起』その他に見ゆれば、特殊 なる浴室の存在せしことは考ふるに足るべきも、阿しく仏出現の奇蹟は今にして論議にも及ばざるべし。


からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を
ひと に すはせし ほとけ あやし も

ししむら・肉体。「しし」といへば、本来獣肉の意味なりしを、古き頃より「ししづき」など人体のことにも用ゐらる。
あやしも・霊異なり、怪奇なり、不可思議なりといふこと。「も」は接尾語。


 

   秋篠寺にて

たかむら に さし いる かげ も うらさびし
ほとけ いまさぬ あきしの の さと

秋篠寺・あきしのでら。生駒(いこま)郡平城村秋篠にあり。今は浄土宗。奈良電車平城駅より西一キロ。平城京の西北の角。光仁天皇の命にて 宝亀十一年 (780)善珠僧正(723-797)の開基。もとは七堂伽藍の備はれる大寺なりしも、保延元年(1135)の火災にて講堂以外悉く焼亡し、後再建せられ しも、また兵火に遇ひ、現在は講堂のみ本堂として遺り、寺地も甚だしく狭隘(けふあい)となれり。京都なる宮廷の御修法(みずほふ)に因縁深かりし鎌倉時 代製作の大元帥明王(だいげんみやうわう)像は、今も寺中に鎮座すれども、その堂は近年の造立(ざうりふ)に変れり。
作者が初めてこの寺を訪ねたる時は、住職と見ゆる一人の高齢の僧ありて、明治初年頃、このあたり諸寺窮乏のさまを詳(つまびら)かに語れる中に、仏像の多 きに人手無くして供養に遑(いとま)あらぬ寺々にては、夜陰に出でて仏菩薩の像をひそかに他寺の境内に棄て、あるひは他より棄てられしものを、更にまた他 に棄てに行きしなどし、甚しきは、それらの破片粗略にせんことも勿体(もつたい)なしとて、据風呂の薪となしたるもありと云々(うんぬん)。その僧の語れ るところは、世に「ほとけ風呂」といひ伝へたるものありしことの偽(いつはり)ならぬを示せり。
かげ・太陽の光をいふ。陰影にはあらず。
ほとけいまさぬ・この歌を詠みしころには、この寺の救脱菩薩(グダツボサツ)、伎芸天、梵天など、美術として世に聞えたる諸像は多くは博物館などに寄託し て、堂内は甚だ寂しかりしをいふ


 
まばら なる たけ の かなた の しろかべ に
しだれて あかき かき の み の かず

かきのみのかず・累々として赤き柿の梢は、秋篠より西京(ニシノキヤウ)のあたりにかけて、晩秋の特異なる一景観なり。


あきしの の みてら を いでて かへりみる
いこま が たけ に ひ は おちむ と す

いこまがたけ・生駒山。大和と摂津との境にあり。高き山にあらねど、姿よろし。『新古今集』に載せたる西行(1118-1190)の歌に 「秋篠や外山(ト ヤマ)の里やしぐるらん生駒の岳に雲のかかれる」といふは、よく実際の景致を捉(とら)へたり。

 

   西大寺の四王堂にて

まがつみ は いま の うつつ に あり こせど
ふみし ほとけ の ゆくへ しらず も

西大寺・さいだいじ。生駒郡伏見村字西大寺にあり。電車は西大寺駅。寺は称徳天皇が天平神護(じんご)元年(765)の創建にして、当時は 薬師、弥勒(み ろく)の両金堂以下、伽藍の内外を厳飾して華美を極めたることは、宝亀十一年(780)に記録せるこの寺の『資財流記帳』を精読すれば明かなり。しかる に、その後、承和(じようわ)十三年(846)以来数度の火災にかかりて、衰廃に就き、鎌倉時代には、叡尊(1201-1296)この寺に住みて法運の恢 興(くわいこう)に努めしも、寺は文亀二年(1502)罹災して再び頓挫(とんざ)し、今に存する諸堂は、悉く江戸時代の建立となり、天平の面目は地を払 ひて失はれたり。今は真言律宗。
四王堂・堂の名は奉安せる四天王像より来れり。創建の初め、それらの像の鋳造に幾度か失敗したるために、称徳天皇自ら寺に臨み、手づから熔銅(ようどう) を攪拌(かくはん)して工程に助力して、やうやく完成に至りしといふ。最初のものは七尺の銅像なりき。
まがつみ・邪鬼。邪神。最初の四天王は、おのおの、型の如く脚下に邪鬼を踏み鎮めて立ちしを、今は、その原作の四体は亡び去りて、後世の拙き補作がこれに 代り居るに、その脚下なる邪鬼どもは、多少の損傷は、ともかくも、いづれも原作のものが今日まで遺れること、まことに皮肉とも見ゆべし。ことにその後補の 四天王のうちの一躰は、短小貧弱なる木像となれるは、最も憐むべし。作者はこの現状に感じてかく歌へるなり。
いまのうつつに・今の現実に。現実なる今日に。
ありこす・今日までその存在を続け来たれりといふこと。「あり」は、さきに「ありたたす」あり、ここなる「ありこす」、また「ありがよふ」など、すべて同 じ語勢なり。ただ『万葉集』の「ありこす」には希願の意味を含めるも、作者のこの場合は、「勝ち越す」「借り越す」などの「こす」にて、意味は同じからざ るなり。我等が『万葉集』の歌に於て貴(たふと)ぶものは、その詠歌の態度と声調とにあり。千年を隔てて語義の変遷は免かるべきにあらず。またこれを避く べきにあらず。ことに又、造語は、時には作者の自由として許さるべきことにもあれば、ひたすら幽遠なる上古の用例にのみ拘泥(こうでい)して、死語廃格を 墨守すべきにあらず。新語新語法のうちに古味を失はず、古語、古法のうちにも新意を出し来るにあらずんば、言語として生命なく、従って文学としても価値な きに至るべし。


 

   菅原の喜光寺にて

ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に
きしや の ひびき の ゆき かへり つつ

喜光寺・一名菅原寺。法相宗。伏見村菅原にあり。養老六年(722)行基(ぎやうき)(670-749)の創基にして、天平七年その寂(じやく)するとこ ろといふ。今の金堂は応永年間に建てられしものなるも、創建の土壇と旧礎との上に、天平式の細部を以て造立されたれば、俗間にては「大仏殿試みの雛形」な りと誤伝さるるを、作者は俗間にてしばしば聞きしことあり。事実を反対にせるが面白しともいふべし。
かなしむ・作者が、この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。住僧はありとも見えず。境内には所狭きまでに刈稲の 束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり。すなはち修繕後の現状とは全くその趣を異にしたりき。