招待席

あえば こうそん 1855.8.15 - 1922.6.20 江戸下谷大音寺前の質屋に生まれる。二十二歳で神風連を扱った「暴動記」を讀賣新聞に連載、明治十九年(1886)坪内逍遙の眷顧を 得て逍遙作「當世書生氣質」に前後して同年三月より五月まで讀賣新聞に連載したのが、掲載作である。海外作の紹介・翻案また徳川期戯作の特色であった「う がち」による創作・脚色・随筆等手を染めぬ領分無く、晩年は独歩の演劇批評に名声を得た。近代文学の胎動期に頭角をみせた書き手の一人である。 (秦 恒平)





  當世商人氣質(たうせいあきうど かたぎ)

          饗庭 篁村



  當世商人氣質自叙

錦織(にしきおり)なす花の都に軒を並べての繁昌。いつも変らぬ其家かと見れば主人大半非なりといひし白楽天の憾(うらみ)にも似て四代五代と一つ暖簾 (のれん)を掛け続くは稀なり。町並を見ては何処も同じやうなる中にも心掛けのよいと悪いとは有りて隣りの家は日々に儲け出して弥(いや)が上に家質(か じち)を取れば其隣りは美服美食に奢りて身体は肥満すれど身代は日々に衰弱して商ひの薄き上に人知れぬ利の勤め。貧乏に鑢(やすり)をかけて内外(うちそ と)より耗(す)り減らし金気とては銕(てつ)の粉も身につけずして。己(おの)が物好(ものずき)して建たる家を人の重宝とはなしぬ。しかして其の産を 失ふ人を愚かと見ればかへりて身代仕出す人よりは利口才発なる者多し。畢竟貧福は智恵のみにはよるまじ。只其の業を楽しみてよく勤むると。己が業に飽いて 勤めを疎(おろそか)にするとの二(ふたつ)のみ。今(い)ま其の善悪両道の誡(いましめ)を集めて当世商人気質(たうせいあきうどかたぎ)と名づけぬ。 これを見ん人家業といふ大事の車に油の断(き)れぬやう心づけてよく繰り廻し玉へと云爾(しかいふ)   饗庭 篁邨


 

  當世商人氣質一の巻

 

  第一 我子に塩を踏み固めた身代の講釈

     無理は内義が畳たゝいての歎きも
     余所に吹く風身にしみる親の慈悲


商人に系図なし、金を以て氏筋目(うじすじめ)とす、抑(そもそ)も是は桓武天皇九代の後胤(こういん)平の知盛の末孫なりと名乗つて、白柄(しらゑ)の 長刀(なぎなた)水車の如くに廻しても、盆と暮との二季の戦場に槍くりといふ打物(うちもの)を敵に取られては、幽霊の縁をひいてドロンと消えるより詮方 なく、先祖は龍宮へ渡つた藤太秀郷(とうだひでさと)でござると肩肱(かたひぢ)をいからした処が、俵の底を叩いても米一粒(いちりう)なき仕合せでは、 三上山を七巻半も巻くほどな酒屋魚屋の書出しを見て、百足(むかで)に草鞋(わらじ)足早に駆落するより外に策なし。正一位(しやういちゐ)に陛(のぼ) つた家の落胤(おとしだね)と誇つても、埃に埋む四辻に稲荷寿しの店を出しては、身代(しんだい)の尾が見えて貴からず。たとへ昔しは街道にたゝずみし雲 介なりとも、儲け出(いだ)して富豪の身となれば、肩に残つた荷物瘤までが福相のうちに称さるゝものぞかし。左れば商人の目ざす的の黒星は金といふ字に止 めたり。稼ぎの上には何を仕やうと耻にあらずと、真黒になつて木挽町に団炭屋(たどんや)をして夫婦共稼ぎの山形屋萬助といふ者が、わずか二十年経つか経 (たゝ)ぬに八丁堀辺へ立派な質店を出し、角(かど)から折り廻して地面三ケ所、土蔵の地形(ぢぎやう)も千萬年を期して堅牢地神の頭まで届くほど深く石 を築(つ)き込み、動きなき身代と人にも称せられて、御蔭を蒙ぶらぬ者までが旦那々々と崇めるを、見やう見真似に横町の洋犬(かめ)までが尾を揺(ふ)つ て愛想するは偖(さて)も金の威徳の有難や。是につけても麁末にすべきに非ずと身代が太るほど活計(くらし)向きを細くさるゝは、節倹の垣根を超えて吝嗇 (りんしよく)の囲ひ内へ入りたりと人の蔭言(かげごと)、よくは云ひたがらぬ世の癖と聞ても知らぬ顔で通しけり。独り子の千太郎と云(いふ)は父にも母 にも似ぬ色白の優形(やさがた)にて生れつき情深く、乳母下女はじめ召仕ひに憫(あは)れみを加へければ、出入(ではい)る者も有難がり、栴檀(せんだ ん)は二葉お十一にして此のお心持、末は嘸(さぞ)と年の上にまでおの字を付けて尊敬すれば、親の心はいかばかり嬉しからん、片輪なるさへ褒めらるれば悪 (あし)き心はせぬものなればと萬助の気を推し量つて傍(はた)の者が云ふとは大きな違ひ、萬助は我子が年にませて慈悲深き行為(おこなひ)を見て密(ひ そ)かに眉をひそめ、折角是までに稼ぎ出した身上(しんしやう)も、彼(あ)の心入では能く持堪(もちこた)へはせまい、偖(さて)も苦々しい事ぞと呟や きしが、千太郎は或時乳母と共に店へ出て遊んで居るとき猿曳が来たりて、ヘイ御目出たうと店へ猿を下せば、可愛らしき子猿が躍(おど)りながら千太郎の傍 へ行くと、糊入(のりいれ)へ包みて手に持ちたる上等の干菓子を、これ遣らうぞと猿に投げ与へしを見て、店の者共は偖も大気(たいき)なお生れやと称賛す るに引かへ、萬助は顔色かへて奥へ立ちぬ。
 我子千太郎が猿に干菓子を投げ与へしを見て、萬助は急に奥の間へ来て、別家(べつけ)同様にして置く深川森下辺の伊勢屋仁助(にすけ)といふ小質屋の主 人(あるじ)を使して呼び寄せ、偖(さて)貴公に少し御頼みの筋が有ると申して別の事ではござらぬ、倅(せがれ)千太郎豊かなる中に育ちて銭儲(ぜにま う)けの苦しみを知らず、先程も店へ来た小猿にまだ我等などは口へ入(いれ)て味はふて見た事もない上菓子を投げ与へたる所、傍(はた)の者は大気(たい き)の鷹揚(おうやう)のと申せど、我等の目から見れば是ほど冥利に外(はづ)れたる事はなし、甘く育てゝは辛(から)き世渡りはならず、三子(みつご) の魂百までと申せば、彼がちと銭金の有難味を知るやうに貴公方(かた)で丁稚代(でツちがはり)に二三年使ふて下され、尤(もつと)も我等倅と思ひ用捨せ られては何の為にもならねば、随分厳しく追廻し使はるべし、貴公方も当時さし当り召使も入(い)らぬところ強(しひ)てお頼み申す訳なれば、月々食扶持 (くひぶち)として金二円、外に小遣(こづかひ)湯銭等に五十銭づゝ送るべし、何分よきに頼むと有るに、仁助も驚き、兎角(とかう)の返答もなし兼ねて頭 を掻くうち、萬助の女房お角(かく)は涙を押へかねて夫の方へ膝突掛け、何と思はれて左様(さう)急に無慈悲な事は仰有るぞ、少しばかりの菓子を猿にやれ ばとて、夫を奢りの冥利に外れるのと云ひたまふ事かは、殊に千太郎は脾弱(ひよわ)き質(たち)、丁稚(でツち)がはりに使はれては生命に障らうも知れま せぬ、悪い事が有らば幾重にも詫びませう、手許(てもと)を放す事はお免(ゆる)しあれと云へば、萬助は目に角(かど)立て、貴様も最(も)う今の身の上 に馴れて昔しの事を忘れてか、其心得ゆゑ倅をば彼(あ)の様に育て上げたので有らう、よく聞けよ、奢りといふに何処から何処までと区限(くぎり)はない、 用ひ所によりては椿一輪を十円で買(かは)うと、蜜柑十で百円出そうと、強(あなが)ちに奢りとは云はず、左れど我等が分際で華族方の若君が召上るほどな 干菓子(ひぐわし)、たとへ貰ひ物にもせよ、平生口になづみ目になれて居ればこそ惜気もなく猿に投げ与ふるなれ、夫(それ)も先がよい家(うち)の子供た ちなら別義はないが、人参(にんじん)の尻尾(しつぽ)を常食にする猿にやりしが奇怪なり、斯く奢りくせの付きし者、教訓を加へたりとて自ら苦しみて見ね ば直らぬものゆゑ、彼が行末の為を思ふて仁助殿に頼む事ぞ、また脾弱ゆゑ丁稚奉公させたなら生命が堪るまいとは以ての外の心得違ひ、商人が家業の道を覚ゆ る為めに死んだなら夫(それ)こそ武官の方々が戦場の討死と代らぬ誉れ、我家(わがうち)に召使ふ丁稚子者(こども)も、其の母の目から見れば御身が千太 郎をかばふと同じにて、いづれも手放して他人の中へ出しては、いかなる憂目を見るで有らうと歎くは当然、されど其処を忍ぶが修行といふものなり、木馬で習 はせたばかりにては口強(こは)き生た馬に乗れず、痛はし悲しと思ふて家に置いては為にならぬ、我も千太郎を可愛と思ふこといかで御身に劣るべきや、悪 (あし)くはせまじ黙ツて居よと窘(たしな)めける。
仁助はやをら座を進め、千太郎殿に世渡りの険しさを学ばせんの思(おぼ)し立ち、流石(さすが)は愛に溺れぬ御気質は感服仕(つかま)つります、去(さ り)ながら塩を踏ませるの、世間を見せるのと申すは、親の油汗で稼いだものを湯水と遣ひ散す放蕩者の上のこと、千太郎殿は行儀大人(おとな)しく常からの 御孝心、丁稚から塗り上げずと木地の堅い御生れ付き、天晴此家督を曲(ひづ)みなく御受継なされる事は私しが印形(いんぎやう)捺(お)して御受合甲しま す、母御様も仰有る通り天にも地にも掛替なき若旦那、ならはぬ下司業(げすわざ)に御病気でも出ては大変、畢竟(ひつきやう)貴君(あなた)が此の御身代 を斯やうに御丹誠になツたは御自分一代の事ではなく、御子孫の為めに御苦労もなされたのでござりませう、千太郎殿に凶事もあらば是までの御骨折は皆な無益 事(むだごと)と成りませうと理を尽して止(とゞ)むれど、萬助は頭を振ていツかな聞かず、貴公は其の心入れで渡世(とせい)さるゝか、イヤサ妻子に楽を させやうとの励みばかりで家業に精出さるゝか、左(さ)りとは商人(あきうど)の本意を取失ひたる口上(こうじやう)、近ごろ貴公に似合しからず、身代仕 出すは妻子々孫の為めなりと云はゞ、妻も子もなき独身者は一生自分だけ食て通れば夫で商人の一分を尽したもの、家蔵を持固めて跡へ残すは入らぬ土持(つち もち)でござらう歟(か)、抑(そ)も商人と身をなしては自分の栄耀子孫の為めばかりに利を争ふにあらず、息有る間は一銭も多く儲け溜め、一尺も拡(ひ ろ)く間口をせんと励むが商人の本分にして、一銭も無益(むだ)に棄てず一厘(いちりん)も入(い)らぬ所に費やさぬが冥利を知るといふものなり、貴公は 兼て聞知ツても坐(おは)さん、我等夫婦は遠国より元手もなくて此の地へ来たり、日傭稼(ひようかせ)ぎより少しづゝ儲けためて木挽町(こびきちやう)へ 炭団屋(たどんや)を出し、夫婦ゆツくりとは鼻息もせず、夜はまた粉(こな)によごるゝ饂飩(うどん)売り、昼夜黒白(ちうやこくびやく)に稼げども、鷺 を烏と無理非道はせず、正直を看板に勉めたる甲斐あつて、年々に儲け溜め、今は此の身になツたれど、まだ南の窓へ枕して長々と昼寝一度した事はござらぬ、 楽をしたいは人の情(ぢやう)なれど、それを堪へるは亦人の勤めなり、一人怠(おこ)たれば家内中の怠たり、奢りは尚ほうつるが早し、此まゝ千太郎の奢り くせを棄置けば、当人は勿論、後(のち)には我家に勤め居る者までの毒なれば、偖(さて)こそしばしの可愛さを棄て貴公にお頼み申すなれば、お角(かく) も末の涙を今溢(こ)ぼして倅の後来(こうらい)を祝へかしと、直(すぐ)に千太郎を呼んで木綿物の衣類に着替へさせ、仁助に連れ立せてやりたるは、偖も 気強き親御と謗(そし)るあれば、商人(あきうど)の心入れは誰(たれ)も斯くこそ有りたけれと褒むるも有るは人の心の取々(とりどり)なり。


  第二 人こそ知らぬ内證の繰廻に沖の石

     かはく間もなき肱笠のなみだ雨に
     水嵩まさりて防がれぬ流れの質物


質といふもの誰が置き初(そ)めて流れの末を止(とゞ)めあへぬ恨をば世に残しけん、其の品々は馬琴翁の質屋の庫に尽したれば、今さら利上げの小繕(こづ くろ)ひも未練に似たり。左れども此業には大ひなる高下(かうげ)ありて、高きは外国の鉱山を質に取りて政府へ金を貸す西洋の大質屋、亦は華族の商法に、 丈夫を取得の安利貸、百円以下は御断わり申し候といふ向(むき)もあれど、下りての下(しも)に至りては、五銭三銭付く付かぬを争ひて客と組打をするがの 通ひかめいは伊勢屋、これで苗字(みやうじ)が片岡なら、とんだ四天王の口上茶番、芝居の書割(かきわり)めいた云訳ばかりの板倉も、中は行き抜け、品物 は取ツたか見たかに小僧が背負(しよひ)出して親質(おやじち)へ送れば、ホンの遣繰(やりくり)の中宿に借直(かりね)の夢をみるのやうな衣服(きも の)、邯鄲か魂胆か一炊(いつすゐ)の代(しろ)に、肱(ひぢ)ならずして入用(いりよう)の道具を曲げる職人あれば、瑞歯(みづは)ぐむ老女(おうな) が片手は涙片手には鍋を携(さ)げて、今(い)ま孫めが驚風(きやうふう)で死にましたが、倅(せがれ)は旅へ稼ぎに出て帰らず、嫁は内職の鼻緒を精出し 過て指を脹(はら)し、左りの手は利かぬ悩み、さし当り線香も枕団子も買へぬ始末なれば、御無理ではござりませふが、御慈悲にこれで十二銭貸して下されと 手を合して拝(おがま)ぬばかり。主人(あるじ)は算盤の手も止(とゞ)めずして其の鍋は何時も六百より貸されぬ代物(しろもの)、お前の孫が死んだとて 五銭六銭貸し過(すご)しをして流されては此方(こつち)が助からぬ、どう蹈み直しても七銭よりは付きませんと、跡はいくら口説(くどく)も取合はねば、 婆は涕汁(はなしる)を啜りながら、我しめて居た木綿のクタクタ帯を解いて鍋に添へ、漸(やう)やく十二銭借りて帰る。左(さ)りとは憐れな有様、実 (げ)に気が弱くて出来ぬものは丑(うし)の刻(とき)参りと小質屋の主人(あるじ)なり。萬助の倅千太郎は親の云付に是非なくも仁助の家へ来ての小僧代 り、身の苦しさ辛さは厭(いと)はねど、毎日来る質置きたちの余り気の毒なのを見て涙たもち兼ね、仁助に向ひて、誠に御面倒ではござりませうが、乳母の所 までやる手紙を一通お書きなされて下されと言へば、仁助は顔を打守り、夫(それ)は定めて此家(こゝ)に居るが辛いゆゑ御家(おうち)へ帰りたいとの文言 (もんごん)でござらうが、爰(こゝ)をよく御合点なされませ、親旦那とて貴君(あなた)を憎んで私方へ遣(つかは)されたのではなく、全く修業の為めな れば、辛いと思ふを堪へ玉ふが御孝行、私方にてもお痛はしくは存ずれど、親旦那が深きお頼みゆゑ、わざと他人の小僧並(なみ)に使ひ立てるを悪しくは思召 (おぼしめ)さぬものと諭せば、千太郎はホロリと溢(こぼ)し、否々(いやいや)此家(こゝ)が辛いとの手紙にてはなし、先ほど参(まゐつ)た婆さんのよ うな質置(しちおき)達が余り不便(ふびん)でござりますゆゑ、乳母より金を貰ふて、彼(あ)の人たちに欲がるだけづゝ遣(やり)たうござります、としや くり上るぞいぢらしき。 (以下・割愛)