この第一頁を、亡き親たち、亡き姉兄義兄に捧げ、冥福を祈る。
ことに兄恒彦の一周忌を期し、
偲ぶ思いを「「e-文庫・湖(umi)」創刊に籠めた。
*目次*
『歌集=少年 ・ 秦恒平作 初原に触れる ・ 上田三四二 / 根の哀しみ ・ 竹西寛子 /
母と「少年」と
・ 秦恒平』 「秦恒平の一首 ・ 岡井隆」 「北澤恒彦のこと ・ 森嶋通夫」 「メルボルンの黒い髪 (抄) ・
北澤街子作」 「詩七編=繪本 ・ 黒澤あぐり作」 「姑 ・ 秦迪子作」 「荻
江細雪 松の段 ・ 秦恒平作詞」 「青井戸 ・ 秦恒平作」 「廬山 ・ 秦恒平作」
歌集・少年 秦 恒平
昭和三十九年 (1964) 九月二十三日 初編
菊ある道 (昭和廿六・七年 十五・六歳)
窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
国ふたつへだててゆきし人をおもひ西へながるる雲に眼をやる
まんまろき月みるごとに愛(は)しけやし去年(こぞ)の秋よりきみに逢はなくに
朧夜の月に祈るもきみ病むと人のつてにてききし窓べに
山頂はかぜすずやかに吹きにけり幼児と町の広きをかたる
さみどりはやはらかきもの路深く垂れし小枝をしばし愛(かな)しむ
うつくしきまみづの池の辺(へ)にたちてうつらふ雲とひとりむかひぬ
みづの面(も)をかすめてとべる蜻蛉(あきつ)あり雲をうかべし山かひの池
朝地震(あさなゐ)のかろき怖れに窓に咲く海棠の紅ほのかにゆらぐ
刈りすてし浅茅(あさぢ)の原に霜冷えて境内へ道はただひとすじに
樫の葉のしげみまばらにうすら日はひとすぢの道に吾がかげつくる
歩みこしこの道になにの惟(おも)ひあらむかりそめに人を恋ひゐたりけり
山なみのちかくみゆると朝寒き石段をわれは上(のぼ)りつめたり
歩みあゆみ惟ひしことも忘れゐて菊ある道にひとを送りぬ
山上墳墓 (昭和廿八年 十七歳)
遠天(をんてん)のもやひかなしも丘の上は雪ほろほろとふりつぎにけり
あかあかと霜枯草(しもかれぐさ)の山を揺りたふれし塚に雪のこりゐぬ
埴土(はにつち)をまろめしままの古塚のまんぢゆうはあはれ雪消えぬかも
勲功(いさをし)もいまははかなくさびしらに雪ちりかかるつはものの墓
炎口(えんく)のごと日はかくろひて山そはの灌木はたと鎮まれるとき
勲功(いさをし)のその墓碑銘のうすれうすれ遠嶺(とほね)はあかき雲かがよひぬ
日のくれの山ふところの二つ三つ塚をめぐりてゐし生命(いのち)はも
しかすがに寂びしきものを夕やけのそらに向かひて山下(お)りにけり
山かひの路ほそみつつ木の暗(くれ)を化性(けしゃう)はほほと名を呼びかはす
うす雪を肩にはらはずくれがたの師走の街にすてばちに立つ
三門にかたゐの男尺八を吹きゐたりけり年暮るる頃
東福寺 (昭和廿八年 十七歳)
笹原のゆるがふこゑのしづまりて木(こ)もれ日ひくく渓(たに)にとどけり
散りかかる雪八角の堂をめぐり愛染明王(あいぜんみやうわう)わが恋ひてをり
古池もありにけむもの蕉翁の句碑さむざむとゆき降りかかる
苔のいろに雪きえてゆくたまゆらのいのちさぶしゑ燃えつきむもの
雪のまじるつむじすべなみ普門院の庭に一葉が舞ふくるほしさ
日だまりの常楽庵に犬をよべばためらひてややに鳴くがうれしも
はりひくき通天橋(つうてんけう)の歩一歩(あゆみあゆみ)こころはややも人恋ひにけり
たづねこしこの静寂にみだらなるおもひの果てを涙ぐむわれは
日あたりの遠き校舎のかがやきを泣かまほしかり遁(のが)れ来つるに
冷えわたるわが脚もとの道はよごれ毘盧宝殿(ひるほうでん)のしづまり高し
内陣は日かげあかるしみほとけに心無?礙(しんむけいげ)の祈願かなしも
右ひだりに禅座ありけり此の日ごろ我にも一の公案はあり
青竹のもつるる音の耳をさらぬこの石みちをひたに歩める
瞬間(ときのま)のわがうつし身と覚えたり青空へちさき蟲しみてゆく
拝跪聖陵 (昭和廿八年 十七歳)
ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎ)らし丘の上にわれは思惟すてかねつ
朝まだき道はぬれつつあしもとの触感のままに歩むたまゆら
木のうれの日はうすれつつぬれぬれに楊貴妃観音の寂びしさ憶(おも)ふ
道ひくくかたむくときに遠き尾根をよぎらむとする鳶の群みゆ
ぬればみて砂利道は堂につづきたりわが前に松のかげのたしかさ
をりをりに木立さわげる泉山(せんざん)に菊の御紋の圧迫に耐へず
御手洗(みたらひ)はこほりのままにかたはらの松葉がややにふるふしづけさ
ひえびえと石みちは弥陀にかよひたりここに来て吾は生(しやう)をおもはず
笹はらに露散りはてず朝日子のななめにと.どく渓に来にけり
渓ぞひは麦あをみっつ鳥居橋の日だまりに春のせせらぎを聴く
水ふたつ寄りあふところあかあかと脳心をよぎる何ものもなし
新しき卒塔婆(そとうば)がありて陽のなかにつひの生命(いのち)を寂びしみにけり
汚れたる何ものもなき山はらの切株を前に渇きてゐたり
羊歯(しだ)しげる観音寺陵にまよひきて不遜のおもひつひに矯(た)めがたし
岩はだに蔦生(お)ふところ青竹の葉のちひささを愛(を)しみゐにけり
はるかなる起重機(クレーン)の動きのゆるやかさをしじまにありておだやかに見つ
目にしみる光うれしも歩みつかれ「拝跪聖陵」の碑によりにけり.
光かげ (昭和廿八年 十七歳)
なにに怯え街燈まれに夜のみちを走つてゐるぞわれは病めるに
ぬめりある赤土道(はにぢ)を来つつ山つぬに光(ひ)のまぶしさを恋ひやまずけり
アドバルンあなはるけかり吾がこころいつしかに泣かむ泣かむとするも
黄の色に陽はかたむきて電車道の果て山なみは瞑(く)れてゆくかも
つねになき懐(おも)ひなどあるにほろほろと斜陽は街に消えのこりたり
鉄(かね)のいろに街の灯かなし電車道のしづかさを我は耐えてゐにけり
別れこし人を愛(は)しきと遠山の夕やけ雲の目にしみにけり
舗装路はとほくひかりてタやみになべて生命(いのち)のかげうつくしき
ほろびゆく日のひかりかもあかあかと人の子は街をゆきかひにけり
山の際(ま)はひととき朱し人を恋ふる我のこころをいとほしみけり
そむきゆく背にかげ朱したまゆらのわが哀歓を追はむともせず
遁れ来て哀しみは我にきはまると埴丘(はにをか)に陽はしみとほりけり
夢あしき眼ざめのままに臥(こや)りゐて朝のひかりに身を退(の)きにけり
閉(た)てし部屋に朝寝(あさい)してをり針のごと日はするどくて枕にとどく
うつつなきはなにの夢ぞも床のうへに日に透きて我の手は汚れをり
生々しき悔恨のこころ我にありてみじろぎもならぬ仰臥(ぎやうぐわ)の姿勢
散らかれる書物の幻影とくらき部屋のしひたげごころ我にかなしも
誰まつと乱れごころに黄の蝶の陽なかに舞ふをみつめてゐたり
偽りて死にゐる蟲のつきつめた虚偽が螢光灯にしらじらしい
生きんとてかくて死にゐる蟲をみつつ殺さないから早くうごけと念じ
擬死ほども尊きてだて我はもたぬ昨日今日もそれゆゑの虚飾
灯の下にいつはり死ねる小蟲ほども生きやうとしたか少くも俺は
うすれゆくかげろふを目に追ふてをればうつつなきかも吾が傷心は
つもりつもるよからぬ想ひ宵よりの雨にまぎるることなくて更けぬ
馬鹿ものと言はれたことはないなどと小やみなき雨の深夜に呆(はう)けてゐたり
まじまじとみつめられて気づきたり今わらひゐしもいつはりの表情
夕雲 (昭和廿八年 十七歳)
朱(あか)らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人恋ひにけり
わぎもこが髪に綰(た)くるとうばたまの黒きリボンを手にまけるかも
なにに舞ふ蝶ともしらず立つ秋をめぐくや君がそでかへすらむ
ひそり葉の柿の下かげよのつねのこころもしぬに人恋へるかも
いしのうへを蟻の群れては吾がごとくもの思へかも友求(ま)ぎかねて
君の目はなにを寂ぶしゑ面(おも)なみに笑みてもあれば髪のみだるる
窓によればもの恋ほしきにむらさきの帛紗(ふくさ)のきみが茶を點(た)てにけり
りんどうを愛(は)しきときみが立てにける花は床のへに咲きにけらずや
わくら葉のかげひく路に面(おも)がくり去(い)ななといふに涙ぐましも
柿の葉の秀(ほ)の上(へ)にあけの夕雲の愛(うつく)しきかもきみとわかれては
またも逢はなとちぎりしままに一人病みてむらさきもどき花咲きにけり
目に触るるなべてはあかしあかあかとこころのうちに揺れてうごくもの
踏みしむる土のかたさの歩一歩(あゆみあゆみ)この遙けさがくるしかりけり
うす月の窓にうごかぬ黄の蝶の幾日(いくひ)か生きむいのちひそめて
草づたひ吾がゆくみちは真日(まひ)あかく蜻蛉(あきつ)のかげの消えてゆくところ
のぼり路(ぢ)は落葉にほそり蹴あてたる小石をふとも愛(を)しみゐにけり
秋の日は丈高うしてコスモスの咲きゐたるかな丘の上の校庭(には)に
ひむがしの窓を斜めの日射し朱く我に恋慕の心つのりく
しのびよる翳ともなしに日のいろや吾が眼に染みて暝れむとすらむ
言に出でていはねばけふも柿の木の下にもとほり恋ひやまぬかも
弥勒 (昭和廿八年 十七歳)
ひた道に暗(く)れてゆく夜を死にたまふ師のおもかげはしづかなりけり (釜井春夫先生追悼七首)
訃(ふ)にあひてほとほといそぐ道ゆえに夜の明滅をにくみゐにけり
みあかりのほろびの色のとろとろと死ににき人はものも言はさぬ
衣笠の山まゆくらく雨を吹きて水たまりに伽(とぎ)の灯がとどくなり
衣笠の山ぎはくらしひえびえと更けゆく秋に死にたまひけり
いますだく虫の音もなしくちなしにみあかり揺れぬ語らひてよと
ともしくもよき死をきみは死ねりとふ遠天(をんてん)になにのどよみゐるらむ
木(こ)もれ日は上葉(うはば)にすきてくれ秋のもみづる苑(には)に暝れむとすなり
枯れ色の木の葉にうづみ夕ぐるる苑にたてれば人の恋ほしき
かげり陽は軒に消ゆるかほろほろと樫の梢をとり鳴きたちぬ
死ぬるときを夢とわすれて黄金色(きんいろ)の蝶舞ひゐたり御陵(みはか)めぐりに
落葉はく音ききてよりしづかなるおもひとなりて甃(いし)ふみゆけり
絵筆とる児らにもの問へば甃のうへに松の葉落つる妙心寺みち
下しめり落葉のみちを仁和寺へ踏めばほろほろ山どりの鳴く
あをによきならびが丘に人なくに木の葉がくれにあけび多(さは)生(な)る
願自在の弥勒のおん瞳(め)のびやかに吾れにとどけば涙ぐましも
山茶花に染みし懐紙(くわいし)に椎の実をひろへぱ暮るる東福寺僧堂
かくもはかなく生きてよきことあらじ友は黙つて書(ふみ)よみやめず
木の間もる冬日のかげにくずれゆく霜のいのちに耐へてゐにけり
歩みきて耐へられなくに霜の朝の木がくれの実はぬれてゐにけり
吹きゆけば霜のこぼるる笹はらの道ひとすぢに惑ひゐにけり
木もれ日のとどかぬままにものに恋ふるわが影は道にこほりしならむ
松の葉の鋭きままに日の中に息衝(いきづ)きて我は佇ちゐたりけり
ポンカンの実の青々と冬空にとまりてゐたる寂びしさにをり
日ざかりに赤土道(はにぢ)はあれてただひとり来(こ)しとおもへば泣かまほしかり
ものいはぬ修道女とあへばえぞしらぬ苦しさにつと行き過ぎきたり
あらくさ (昭和廿九年 十八歳)
水かれし渓ぞひの笹は霜にあれて通天橋(つうてん)の朝のそこ冷えにをり
水あさき瀬の音ながら通天の梁をやもりのうごく佗びしさ
この橋のくらきになれて霜の朝をわれは妄らにもの恋ひてをり
手にとどく葉をちぎりては渓ふかくすててゐる我としればかなしも
たにかぜの吹きぬけてゆくたまゆらの雪のしづくのしとどに耐へず
南天をこぼして白き猫のなく川のほとりに師を訪へばよし
湯の音にもだしてをれぱ夕かげは花にまとへり紙屋川ぞひ
埋み火のをりをりはぜてたぎつ湯に師はふと席を立たれたりしか
木もれ日のうすきに耐へてこの道に鳩はしづかに羽ばたきにけり
胸まろき鳩の一羽におそれゐて道ひとすぢに暝(く)れそめにけり
山鳩のわれをおそれぬなげきにて小枝ふれあふ音なべて聴く
桐の芽のいくつか伸びて陽だまりにこのあらくさのいのちは愛(かな)し
ひらきたる掌(て)にまばゆくて春の光(ひ)の胸にとどくと知れぱ身を退(ひ)く
ひそめたるまばゆきものを人は識らずわが歩みゆく街に灯ともる
山ごしに散らふさくらをいしの上に踏めばさびしき常寂光寺
山吹の一重ひそかに二尊院は日照雨(そばへ)のままに春たけにけり
道の上の青葉かへるでさみどりに天(あま)そそぐ光(ひ)を恋ひやまずけり
青竹のもつれてふるき石塚のたまゆらに散る山ざくらかな
みづの音をふと聴きすぎてしまらくのしづけさのうちに祇王寺をとふ
わくら葉の朱(あけ)にこぼれて木もれ日にうつつともなし山の音きく
生き死にのおもひせつなく山かげの蝶を追ひつつ日なかに出でぬ
経筒に咲ける木槿(むくげ)の露ながら汲まばや夏の日は茶室(へや)におちて
石づたひぬれしままなる夏くさの露地にかげひくたまゆらに恋ひて
うすれゆく翳ならなくに夕づきのほのかに松をはなれけるかな
道の果てはほろびあかるき山なみのタベいのちのかげはしづめむ
なべていまはほろびの色に燃えもたてな夕雲にしも吾はなげかむ
すずかけのもみづるまでに秋くれて衣笠ちかき金閣寺みち
手にうけしわくら葉ながらお茶の井にかがまりをれば秋逝かむかな
おほけなき心おごりの秋やいかにわが追憶(おもひで)の丘は翳(かげ)ろふ
歌の中山 (昭和三十・三十一年 十九・二十歳)
生命ある朱(あけ)の実ひとつゆびさきをこぼれて尾根の道天に至る
たちざまにけふのさむさと床に咲く水仙にふと手をのべゐたり
咲きそろふさくらのころを若き日のかたみときみは言ひたまひける
さみだるる空におもひののこるぞとさだめかなしきひとの手をとる
よのつねのならはしごととまぐあひにきみは嫁(ゆ)くべき身をわらひたり
日ざかりの石だたみみち春さればわがかげあかし花ひらく道
手術後のおぞきひと夜も露ながら白あざみ咲く病室(へや)と知りをり
創癒ゆとひとり知らるる朝あけの樋(とひ)のしづくの光かなしく
ハイネなく百三も読まずなが病みにこころとらへしサザエさんの漫画
踏みすぎし落葉ばかりをあはれにて歌の中山タぐれにけり
ふみまがふ石原塚にみちはてて木もれ日に佇つ人もありけり
向(むか)つ峯(を)にからすとぶぞと指すからに夕まぐれより人を恋ひをり
夕月のかたぶきはててあかあかと遠やまなみに燃えしむるもの
菊畑に夕かげぬれてしかすがに清閑寺道をきみとのぼりぬ
山のべは夕ぐれすぎし時雨かとかへりみがちに人ぞ恋しき
手の窪にたまらぬほども木もれ日のぬくもりと知ればよろこびに似て
ぐわっぐわっと何の鳥啼くわれも哭くいさり火の果てに海の音する
迪子 (昭和三十二・三年 二十一・二歳)
.
そのそこに海ねこ群れてわがために鳴くかと思へば佇ちつくしゐて
磯の香になれて夜寒の出雲路に岩千鳥しもなきゐたらずや
砂山はそれかあらぬか朝かげにわがかりそめの足跡(あと)もきえゆく
ふるさととその名恋ひなば山茶花のみ墓べはれし冬日しぬばな (新島襄先生墓前にて)
あまぎらふ夕さみどりの木(こ)がくれに恋ふればめぐし迪子わがいのち
瀬の音もさみだれがちとなりぬれば恋ひつつせまる吾が想ひかも
遠山に日あたりさむき夕しぐれかへりみに迪子を抱かむとおもふ
さしかける傘ちひさくて時雨るるや前かがみなるきみにぞ寄らむ (迪子詠)
華燭 (昭和三十四・五年 二十三・四歳)
朝地震(あさなゐ)のしづまりはてて草芳ふくつぬぎ石に光とどけり
夕すぎて君を待つまの雨なりき灯をにじませて都電せまり来 (迪子詠)
もろむきに雪吹く峡(かひ)の峰は暝れて岩間にしぶく保津なりしかも
朝つゆにくづれもやらでうす紅のけしはゆらりと咲きにけらしな
あさつゆにさゆるぎいでしものなれぱあへかに淡しけしのくれなゐ
真昼間ははなの匂ひも眼に倦(う)みて白くちなしは咲きすぎにける
そのそこに花はかげりて夕雲のうつくしき日はかなしかりけり
にじみあふかげとかげとの路に暝れて夕月に咲くあじさゐの花
日あらたに地にいろづきて落ち柿の熟れつつにほふ雨のあしたは
ものみなのいのちかなしも夕まけて家路に匂ふ花に祈れば
黒き蝉のちさきがなきて杉落葉をしみじみ焚けばかなしからずや
父となり母とならむの朝はれて地(つち)にくまなき黄金(きん)のいちやう葉 (迪子妊娠す)
霜の味してそのリンゴ噛む迪子愛(は)しきかもうづ朝日子笑みもあたらし
良き日二人あしき日ふたり朱らひく遠朝雲の窓のしづかさ
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子が育ちゆく日ぞ
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ (七月二十七日朝日子誕生二首)
迪子迪子ただうれしさに迪子とよびて水ふふまする吾は夫(せ)なれば
そのそこに光添ふるや朝日子のはしくも白き菊咲けるかも
あはとみる雪消(ゆきげ)の朝のしらぎくの葉は立ち枯れて咲きしづまれり
保谷野 (昭和三十六〜八年 二十五〜七歳)
朝霧らふくぬぎが原にかぜ冴えて凍り氷(こごりひ)ぬらす冬日なりけり
あさぎらしくぬぎが原はこごり氷(ひ)の路さへそこにきはまりにけり
霜どけのこひぢの路のほそぼそと野に入りて白き鳥かけるなり
そこに来て仔犬はわれに鳴きゐたりまたも生きむのいのちせつなく
笹原はやがて斜めに路はてて陽だまり草の野にたてるかも
浅茅生(あさぢふ)の小野べのくぬぎ葉は枯れて冬木(こ)もれ日にたじろぐ吾は
歩みあゆみ葉枯れの杜(もり)に人を恋ふるわが足もとの土はぬれたり
訃はそこに野ずゑは風の吹きあれて母はいづくに魂(たま)まよふらむ (生母訃報二首)
風の音にあくがれゆかむ夜の更けの保谷野(ほやの)に母のわれを喚(よ)ぶかと
タぐれて麦田にさす日しづかなり古街道をゆく人もなし
あかあかと野ずゑの杜(もり)にしづみゆく遠き太陽が身にしむ夕べ
野ざらしに骨うづもれて魂(たま)きはる大空のなかに吾が身もゆかむ
迪子あはれ野のはて空のはてしらず萌えいづる春になりゐたらずや
あはれあはれ山べに野べにみづのうへに旅にふりゆく花の匂ひに
うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ
朝ぎりのまばゆく冴えて日ざしある野の道に憶(おも)ひひとり病めるかも
底ごもる何の惟(おも)ひに野の霜のかがやきにゐてもの恋ふるらむ
枯れ草のなかに仔猫の白々と寒くはなきかこゑためてなく
さわさわと林のおくに雪ふりてあはれや人のなににあらがふ
逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の桃のはなちる道きはまれり
雨のあとのすこしぬれたる枯芝にすずめらゐたり仔犬もよばむ
黄金色(きんいろ)の秋のひかりはあはれなり三四郎の池に波たつ夕べ
芋の葉に雨うつ音のしじにして佇ちゐてきけけば涙ぐましも
枝がちに天(そら)さす木(こ)ぬれ風冴えて光ながらに散らふわくら葉
葉さやぎはきくさへかなし散りながらむなしく待ちし人恋ひしさに
跋
十数年来の歌作から二百十首を選んだ。「少年」と題したのは過半が文字どおり少年時代に詠(うた)われているか
らだ。京都市立日吉ケ丘高校から同志社大学へ進んだのが昭和二十九年の春である。三十四年、東京へ出て新宿河田町のみすず荘に新居を営み、三十六年早春に
北多摩郡に移った。その間、どんな結社流派にも属したことなく、歌の上の師も仲間もなかった。七、八歳の私に歌を教えたのは叔母秦つる(茶名宗陽・華名・
玉月)である。小学校時代の中西利夫先生、中学時代の故釜井春夫先生、高校時代の上島史朗先生に作品をみてもらった。
小学校は三条大橋東畔に、中学校は祇園花街に、高校は泉涌寺、東福寺の傍(ほとり)にあった。いずれも私の少年時代を
強烈に色染めずにいなかった異色の環境である。歌ばかりでなく、私自身を開く鍵がここにある。歌と茶の湯とに終始した青春前期だった。
今の私はもう歌をはなれたと言っていい。それだけに、少年時代の感傷がのこし伝えた何か透明でいて寂びしいリズムには
心洗われることがある。それぞれに私を偽ることなかった歌を一つ一つ拾いながら、こういう少年であったのかと、ふと眼を閉じる。 (昭和三
十九年九月二十三日)
*
(前略)
突如小説を書きはじめたのが昭和三十七年七月三十日。紛れない、歌集「少年」はそれ以前へとわが文学経験を遡らせるささやかな証しである。よくもあしく
も、「少年」の思いを抱いたまま私は小説を書きつづけて来た、と言わねばならない。
昭和三十九年秋に私家版の一部として編集し、四十九年秋には湯川書房より限定二百五十部を刊行した二百二十首のこの歌集が、不識書院主人の手で今重ねて梓
に上されるのは、面映ゆくも、また嬉しくもある。
昭和五十二年 春分の日に 恒平
*
「湖の本版」と呼ぶことになるだろう、定本とはまだ言わないが、『少年』が、また元気に姿勢を正して立ってくれた
のが、嬉しい。歌の数を、組みの余白にも助けられ、数首ふやした。「不識書院版」の。パンフレットにいただいた故上田三四二氏と竹西寛子氏のあたたかい文
章も、ご好意に甘え、再度頂戴した。改めて不識書院の中静勇氏に心から感謝を捧げたい。氏の手で入念に装本された新書版函入りの『少年』は、まことに愛す
べき仕上がりであった。二百二十六首、よくもあしくも少年感傷の所産でしかないが、初心はここに在り、否むわけにいかない。中学の亡き給田みどり先生、釜
井春夫先生、またポトナムにご健在の高校の上島史朗先生に、さらには妻をはじめ、わが詩心を養ってくれた多くの愛する人たちにも、重ねて深い感謝と愛とを
こめて贈りたい。 (平成七年七月娘朝日子の誕生日に)
初原に触れる 『少年』十五首
上田三四二
このナイーヴで清潔な作品集にむかうのに、無駄口を惜しんで直ちに作品に就いて見たいと思う。私は十五首を選ん でみた。
朝地震(あさなゐ)のかろき怖れに窓に咲く海棠の紅ほのかにゆらぐ (菊ある道)
山なみのちかくみゆると朝寒き石段をわれは上りつめたり
十五、六歳の作にしてはおどろくほど巧みだが、巧みというだけでは説明のつかない微妙なものがある。初々しいの
である。
「菊ある道」の一連は、「窓によりて書(ふみ)よむ君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる」という一首をもっては
じまっている。恋の思いが歌のことばの初めであることほど、短歌にとって自然なことはない。秦氏の短歌が、少年初心の恋の歌からはじまっているのを私は大
変羨ましいと思い、相聞そのものではないが、それを背景とするこころの顫えと憧れをつたえるような引用歌の、すでにこういう出来上った形を成しているのに
注目する。
笹はらに露散りはてず朝日子のななめにとどく渓に来にけり (拝跪聖陵)
渓ぞひは麦あをみっつ鳥居橋の日だまりに春のせせらぎを聴く
この「拝跪聖陵」は秦氏の小説のもつ或る妖しい気分をいちはやく伝えている点で興味をひく。作品としてはむしろ、
「ひえびえと石みちは弥陀にかよひたりここに来て吾は生(しやう)をおもはず」「水ふたつ寄りあふところあかあかと脳心をよぎる何ものもなし」などの方が
作者をよく出していると言うべきであるが、好みによって写実的なものを採ってみた。
一連はこの世の外へさまよい出ようとする作者の憧れを歌にしている。写実的といっても、うたわれている場所はすでに日
常性を超えていて、その気分の反映はやはりこの二首にも感じられるのである。
黄の色に陽はかたむきて電車道の果て山なみは暝れてゆくかも (光かげ)
ほろびゆく日のひかりかもあかあかと人の子は街をゆきかひにけり
閉(た)てし部屋に朝寝(あさい)してをり針のごと日はするどくて枕にとどく
はかなさと亡びを言う声はこの歌集のなかから幾つも響いてくるが、一巻を読み終えて思うのは、これはいのちの歌 の集だということだ。十七歳の少年が一方では性に目覚め、一方では世の無常の自覚にみちびかれながら、動揺のうちに、生きるとは何かを問うようになってい る。そして生きようとしている。
わぎもこが髪に綰(た)くるとうばたまの黒きリボンを手にまけるかも (夕雲)
窓によればもの恋ほしきにむらさきの帛紗のきみが茶を點てにけり
柿の葉の秀(ほ)の上(へ)にあけの夕雲の愛(うつく)しきかもきみとわかれては
草づたひ吾がゆくみちは真日(まひ)あかく蜻蛉(あきつ)のかげの消えてゆくところ
この「夕雲」は秀歌ぞろいで、十七歳という年齢を考え合わせると驚ろかされる。いままでの歌も大体においてそう
であるが、この四首などはことに、まだ十代にある作者の年齢を考慮することなしに味わうことが出来る。
四首とも言葉が順直で、苦渋なく言葉をやって、口疾(くちど)にも浮華にもなっていない。語から語、句から句への移り
ゆきが次の発語をうながすように滑らかでありながら、一語一語がきれいに粒立っているのである。
作歌に際しての歌の功徳ともいうべきものは、万葉集でも斎藤茂吉でも、そのほか誰であってもいいが、これら先行者たち
の拓いた語法や語感を比較的容易に学ぶことが出来るという点にある。けれども、技法上の学びはそれにこころを与えることをしなければ、形骸に終ってしま
う。この年、昭和二十八年、作者の作歌への熱意は最高の亢まりを見せつつ、この「夕雲」のあたりに一つの頂点を形造っている感があり、「わぎもこ」と呼ぶ
ような女性を対象に、歌は押えようとしても押え切れない感情を充分な抑制をもって歌い、瑞々しさに格調を与え得ているのである。
三首目の「きみとわかれては」は夕べの別れであって別れてしまうのではもちろんない。「柿の葉」というのも親しみがあ
る。「ひそり葉の下記の下かげよのつねのこころもしぬに人恋へるかも」「目に触るるなべてはあかしあかあかとこころのうちに揺れてうごくもの」、この二首
もよい歌である。
落葉はく音さきてよりしづかなるおもひとなりて甃(いし)ふみゆけり (弥勒)
歩みきて耐へられなくに霜の朝の木がくれの実はぬれてゐにけり
心情と外景とが危うい均衡を保ちながら互いに浸透し合っている。この一連のはじめに挽歌が七首あって、それとの 関係は直接にはないようであるが、沈潜した気分の一首目も、悲哀と思われる強い感情を湛えた二首目も、どこかいのちを見つめているような咏嘆の語気が感じ られる。根本は主情的なのを、甃を踏むとか、木がくれの実の濡れている嘱目とか、そういった事物性によせて歌っている。短歌の咏嘆の典型的な方法といえよ う。これも十七歳のときの作である。
山ごしに散らふさくらをいしの上に踏めばさびしき常寂光寺 (あらくさ)
道の上の青葉かへるでさみどりに天(あま)そそぐ光(ひ)を恋ひやまずけり
前者は「常寂光寺」というさびしく美しい寺の名がぴたりと納まっている。実際の寺もここに詠まれているとおりの
雅趣のある寺である。後者は軽快にたたみ込んで、景も語の運びも爽快である。ともに明るさと浄福感が出ている。
以上で十五首であるが、この一連の中からもう一首、
すずかけのもみづるまでに秋くれて衣笠ちかき金閣寺みち
を挙げておきたい。しっとりとした、風格のある歌で、この一連が十八歳の少年の作であることはやはり驚ろくべき
ことだと言わねばならない。
二十歳以後の作にも注意したものが三首ばかりあるが、『少年』の主力の、いままで見て来た未青年時代のもののうちにあ
ることは動かない。
周知のとおり、秦氏はその後歌をはなれて小説の道に進んだ。私はそれを短歌のために惜しむ気持があるが、またこうも思
う。短歌は氏の創作の中でより広い表現の場を見出したのだ、と。秦氏の小説に見られる豊かな抒情性と親密な文体は、この『少年』における作歌歴と無関係で
はあり得ない。すくなくとも、年少にして短歌におもむいてこれだけの作品を成した心の向きと無関係ではあり得ない。『少年』をよむたのしみは、一つにはこ
の作家秦恒平の初原に触れるたのしみでもある。
(文勢評論家・歌人 昭和五十二年不識書院版『少年』パンフレット)
根の哀しみ
竹西寛子
こういう文章がある。
「すべての物には、手近な手もとで、手が届き、手で取れ、手に足り、手で使え、手で持てるものと、逆に、手が届かず、ま
た、手に余るものとの違いしかない」「人は、努力してすこしでも遠くに手を伸ばし、すこしでも広く手をまわして、少しでも多く大きく重く、自分の世界を
『手中』におさめつづけながら生涯を終るのだ。」
人間や世界についての解釈は、それこそ人さまざまであるが、私は、右のような解釈に惹かれる性質の人間である。このよ
うな解釈とは、この場合、このような微視と巨視の統合、または、具体と抽象についての認識と言い換えてもよい。
女学校に入って間もない頃、波多野精一の「西洋哲学史要」を知り、満足に読めたはずもないその本でいちばん感動したの
は、今の自分でいうと、哲学の歴史は世界解釈の歴史だということ、つまり、ある解釈がある解釈に超えられてゆく歴史だということであった。
今となってみれば、改まってこう書くのも気がひける、当り前のことなのに、手近なところで不動の解釈らしきものを大真
面目に求めて青くなっていた頃の私には、事件にもあたいすることだった。一つの解釈はつねに相対的なものでしかない。だからこそと新たな解釈を試みる叡智
の健気さに見出す意味の変化は、それ以後の私自身の変化でもある。
この世界解釈の素材については、文学は、たとえどのように些細な素材であろうと拒否してならないのはいうまでもない
が、同時に、特定の解釈を直接に訴えてはならないのも前提のうちだと私は思っている。
たまたまこうして文学に関わり乍ら生きるようになったが、そうなって解釈のほうと縁が切れたかというとそうではなく、
性急な解釈を恐れるようになって、いっそう解釈に惹かれる羽目になった。小説と評論の往還からのがれられないのも多分そのためであろう。読者としても、人
様のそうした仕事にいきおい関心をもつことになる。観念的な思考があって、しかもそれが厚くつつまれ、深く埋められている作品をいいと思う。
ところで、冒頭に引用した文章は、さらに次のようにつづいている。
「そういう努力を空しい卑しい恥ずかしいとする考え方があるのを私は知っている。しかしその咎は、『手』に帰せられるも
のではなく、むしろ心が負うべきものであることも知っている。それどころかこの『手』の努力こそ人間の歴史が最も価値高い一つとして追求しつづけてきた
『自由』を創っていることに感謝しなければなるまい。自分の『手』を思うままに使えることが『自由』の意味だということは、人の自由を奪う時、真先に
『手』から縛ることで納得が行く。」
さきほどからの引用文は、ここに及んでより強い喚起力を伴いながらその主旨を開いてゆく。はじめてこの文に接した時、
その咎は、手ではなく「むしろ心が負うべきもの」というくだりまできて、私はいい文章を知ったと思ったが、今もその覚えに変りはない。
この文章の書き手である秦恒平氏が、稀に見る博識の作家であり、精力的な活動の中にも、ことに、日本古来の諸藝術、諸
藝道についての造詣を生かしてユニークな作家であるのはつとに知られる通り、今更言葉を添えるまでもないことだ。一読者としての私は、氏の作品世界の多彩
と奥行きの深さに幾度か感嘆を誘われている。
作品の多彩は言うまでもなく感受性の反映である。奥行きは、それに加えて、人間及び世界解釈への、氏の貪欲な意志とも
無縁ではあるまい。その意志を、作品の奥行きの深さとしては感じても、少なくとも、観念的には感じないのは、その意志の根にあるのが氏の哀しみとでもよぶ
べきものであって、氏が依然として解釈以上にその哀しみを重用しているためであろうと思う。その証しの一つを、私はさきの、咎は手に帰せられるものではな
く、心が負うべきものの一節にみる。
日本人が、日本人の歴史とともに歩むというのは、ある意味では選択の余地のない事実のようにも思われる。さき頃、「閑
吟集」を読み返していた時にも、そんなことをあれこれ思った。
たとえば性についての室町庶民の表現は、王朝貴族のそれとは明らかに異る開放的なものだ。けれども、ひとたび王朝を通
り過ぎた時代の表現は、二度と万葉の解放にかえることができない。どうしても違う。となると、否応なしに歴史とともに歩まされている人間の現実を認めざる
を得ない。
しかし又、こうも考える。
否応なしにとは言いながら、やはり限られた目を持つ者だけに、耳を持つ者だけに生きる過去もあるのではないか。秦氏の
作品の中に生きている日本人は、よくそのことを考えさせてくれる。私などの、よう見なかった、あるいは、そこまではとても付き合えなかった故人の心を、聞
くことのできなかったそれを氏は過去のものとしてではなく、抽出し、蘇生させてくれる。
その生彩は、現代に望みを絶たれた目と耳ではなく、今の世に、いかに充実して生きるかに情熱的な目であり耳であるから
こそ可能なのだという事情をも、併せて納得させるものである。すすんで故旧を食べながら生産しつづけるのは決して易しくはないが、秦氏はそういう人のひと
りだとも私は思っている。
(作家 昭和五十二年不識書院版『少年』パンフレット)
母と『少年』と 秦恒平
なにがきっかけであったのか、中学一年時分から、私の通学鞄には余分に四冊のノートがいつも入っていた。詩と短
歌と俳句と散文を随時に書きこむためだ。概ね励行していた。しかし三年生時分には一冊に減って、短歌だけが残っていた。そういう少年であった。
昭和二十六年に高校に入り二十七年、新校舎に移った。近くに泉涌寺、東福寺があった。下京一帯が見渡せる高い丘の上に
校舎は建っていた。広い空がいつも明るかった。
短歌と茶の湯――高校の三年間はそれだった。寺々をよく訪ね歩いた。受験勉強はしなかった。かけがえのない三年間だと
いう、今想えばちょっと気味のわるい覚悟があの当時の私にはあって、むしろ教室の外で、自分ひとりの眼や耳や手や脚でおぼえられるものの方に熱心であっ
た。授業より「京都」を尊重していた。
茶の湯へは叔母が道案内をしてくれた。が、短歌はひとり歩きで、時おり国語の先生に見てもらうだけであった。幸い、歌
集『鈍雲』などの歌人である上島史朗先生(「ポトナム」同人)に現代国語を習い、また国文学者である岡見正雄先生(もと関西大学教授)に『枕草子』などを
習っていた。同好の先生がた数人で歌会をもたれていたのにも何度か誘っていただいた。が、結局はどの結社や集団とも没交渉で済んだし、短歌をつくる友だち
とも出逢わなかった。
ひとり歩きといえば、私の場合は、小説もそうであって、昭和三十七年夏から書きだしたが、それ以前にも以後にも、同人
誌とか同人仲間とかのつきあいは一度も経験がない。師といえる人に教えを乞うたということもない。小説もそうなら短歌もそうで、学んだのは古人から、先達
から、古典から、というしかない。
私の短歌は小学校四年と六年生の時分に各一首残っているのが古く、中学時代にも数は多いが、のちに歌集にした『少年』
(不識書院、一九七七)では高校へ入って以後の作品に限定し、その採った歌数も極度に寡くした。歌数を絞るというのは、歌集を自撰する人の当然の態度だと
私は思っている。月々に何冊も届く寄贈歌集のうち、よく撰んでいないために、あたら印象をぬるいものにしてしまっているのが多いのは、惜しいと、よく思
う。
むろん私の『少年』は、いくら撰んでも心稚い未熟なものに過ぎなかった、明らかに奇妙な、間違ってさえいる用語や語法
も含んでいる。が、それなりに昭和三十九年の私家版第一集『畜生塚・此の世』の中に小説四篇と併せ、巻頭に収録して以来、豪華限定本、普及本と、都合三度
も本になってかなり読まれるようになっているのは、まさに少年期の思い出のためにも、私の文学経歴の一つの証しのためにも、望外のよろこびとなっている。
歌集の小見出しは、高校時代に限っていうと「菊ある道」「山上墳墓」「東福寺」「拝跪聖陵」「光かげ」「夕雲」「弥
勒」「あらくさ」とつづいている。都合百四十首たらずとなっており、あと八十首たらずが、大学時代そして小説以前(二字に、傍点)の作として付け加わって
いる。私の歌が初々しいのか古めかしいのか、は分からないが、まちがいなくやはり私の小説の根になっている。竹西寛子さんに「根の哀しみ」と評された、ま
さしくそれ(二字に、傍点)が『少年』を一面に蔽っている。余儀ないことと、嘆息するのほかはない。
此の路やかのみちなりし草笛を吹きて仔犬とたはむれし路
これは私の作でなく、滋賀県能登川町の繖(きぬがさ)山麓に建っている阿部鏡(きょう)の歌碑である。昭和二十
八年ごろ、私の高校三年生時分、阿部鏡が漂泊の大和路から久々に郷里へ辿り着いたおりの歌を長女の千代が、遺された歌文集『わが旅
大和路のうた』から撰び、昭和三十七年に心こめて碑にした。
阿部鏡(深田ふく)が、生別し死別していた私の生母であったと、正確に知ったのは、わずか三年前(一九七六)のことだ。前川佐美雄氏に私淑した歌詠みなど
と、知る由もなかった。実業の名家阿部氏に生れ、寡婦になってのち不思議の恋に身を焼いて四十一歳で私を生み(昭和十年十二月二十一日)、愛人と離され子
も奪われて独居四十四歳、日本で初の保健婦養成学校に入学し、奈良県下や京都の施設で恵まれない老人や子供の健康を劬りつづけてのち、病苦けわしく三年間
臥して昭和三十六年に六十七歳で死んでいた。歌集は末期の頑張りで出版にこぎつけたもの、だがごく最近まで、私はそういう母の歩んだ道をすこしも知らな
かった。知ろうという気がなかった。
あの頃私はこんな歌を詠みつづけていた。
歩みこしこの道になにの惟ひあらむかりそめに人を恋ひみたりけり (十六歳)
山かひの路ほそみつつ木の暗(くれ)を化生はほほと名を呼びかはす (十七歳)
絵筆とる児らにもの問へば甃(いし)のうへに松の葉落つる妙心寺みち
かくもはかなく生きてよきことあらじ友は黙って書(ふみ)よみやめず
木もれ日のうすきに耐へてこの道に鳩はしづかに羽ばたきにけり (十八歳)
胸まろき鳩の一羽に畏れゐて道ひとすぢに暝れそめにけり
『昭和萬葉集』(講談社刊)にこんな歌を寄せていることを、母は泉下でなんと惟っているだろう。
その母なる阿部鏡の作歌を今すこし挙げさせていただく。
玩具店のかど足ばやに行きすぎぬ慈(いつく)しむもの我に無ければ
穂がけ路(ぢ)を提灯三つもつれ来ぬ明くるを待てぬ病人あるらし
吾子(あこ)に語るごとくもの言ふ此の頃のたぬしきわれは犬の飯盛る
生も死もさだめにありと悟りたる如くに説きしわれにしあるを
奥山は暮れて子鹿の啼くならむ大和の国へ雲流れゆく
十字架に流したまひし血しぶきの一滴をあびて生きたかりしに
(昭和五十四年十月『昭和萬葉集』巻十 月報8)
『昭和百人一首』抄 岡井 隆
たづねこしこの静寂にみだらなるおもひの果てを涙ぐむわれは 秦 恒平
今歌をつくろうとすると、手っとり早いところでは新聞の歌壇投稿であろう。新聞歌壇だけでひとり歌作を楽しむひ ともいるし、そこから進んで短歌結社に加わるひともあろう。後に小説を書くようになった秦恒平は、そのどちらでもなく、ひとりで歌を書いていたらしい。こ こに挙げた歌が示しているように、恒平の歌に一番近いのは、大正期の写実系の短歌だろう。たとえば島木赤彦、あるいはその弟子の土田耕平や高田浪吉など。 昭和二十八年、十七歳の時の作品だというが、京都の何処かのお寺か社を思わせる、その静かなたたずまいに、若い性欲が突然色彩を変える。そして少年の眼 に、うっすらと涙が溜まる。どうしようもない性的な悶え苦しみ、そして浄化への願い。「カラマーゾフの兄弟」で言えばアリョーシャ的なものへの憧憬。それ が実に素直に出ているではないか。「おもひの果てを」の「を」の使い方なども、見事なものである。こういう歌を読むと、歌に新しい古いなどはないのではな いか、と思いたくなる。だかやはり歌に新旧はあるのである。ただ作者にとって新旧などどうでもよい場合がある。かずかずの歌を読み慣れた眼にも、こうした 歌が慰めとして存在する場合がある。
わぎもこが髪に綰(た)くるとうばたまの黒きリボンを手にまけるかも
という歌を挙げてもよい。十七歳の時の相聞歌である。リボンという外来語を除けば、まるで万葉の歌の模写に近い。 それなのにどこか洒落ていて、初々しい。黒いリボンを手に巻いて、これから髪をこのリボンで縛るのよ、という、この仕種は、やはり近代の女のものなのだろ う。言葉は古く、風俗は新しい。秦はこのあと十年ほど、寡作ではあるが歌をつくり、のちに歌集『少年』を編んだ。二十六、七歳ごろの作品に、
逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の桃のはなちる道きはまれり
がある。女に逢わなければ無論辛いのだが、逢えば逢ったでなおのこと辛いのだという、人間男女の性愛の、千古をつ
らぬくまことの姿が、民謡調に乗せてうたいあげられている。桃の花の散る道は尽きようとし、それは若いふたりの道の行方でもある。思えば十七歳の時から十
年のあいだ、ほとんど歌の調べも歌風も変わっていない。それなのに十七歳の特の幼い性欲の嘆きと、この桃の花の道の愛の心とは、どこか違っている。
(歌人。)
北澤恒彦のこと 森嶋 通夫
私が北沢恒彦にはじめて会ったのは八九年の京大での連続講義の時だった。学生運動
の成果として京大の経済学部の学生は、彼らが選んだ先生の連続請義を開催する権利を獲得していた。講義はその年出版された私のRicardo's
Economics に則っていた。学生の出席率はよく、教室は満員だった。前から五列目くらいのところに年配の人が坐っていた。
「あなたはどなたですか」と私は聞いた。彼は「京都市役所の者ですが、傍聴禁止なら退場します」とはにか
みながら言った。こうして彼は講義に皆勤した。講義の回数が増えるとそのうちに親しくなり、親しくなると「一緒に肉でも食いに行きませんか。神戸にうまい
所があるのです」と誘われた。神戸まで行くのは大変だから私は断った。彼は「四条に安いところがあるから行きましょう」といって、私たち二人を京阪四条駅
を降りてすぐの、安そうだが、おいしそうには見えないレストランに招いてくれた。
その時に彼は、何か日本で味わってみたいことはありませんかと私に聞いた。私は別段何もないが、強いて
言えば畳の上で日本の布団に寝てみたいと一言った。彼は「僕が言えば必ず引き受けてくれますから頼んでみましょう」といって、四条富小路の徳正寺を紹介し
てくれた。私たちはその年の正月をその寺の庫裏で過ごした。
私が神戸大学で話をした時にも、彼はわざわざ神戸まで来た。龍谷大学で講義した時のセミナーには徳正寺
の住職と奥さんを連れて来た。私は徳正寺の宗派を知らないし、龍谷大学が仏教系の大学であることは知っていたが、何宗の何派なのかもよく知らないので、食
い合わせ症状のようなことが起こらないかと心配したが、セミナーは無事すんだ。しかしその日の私の出来は悪かった。
立命館大学で教えることになってからも、彼は私の講義に皆勤してくれた。ただしその後半の頃は彼は京郡
市役所を退職して精華女子大学の先生をしていたので、時間の都合上隔週にしか出席できなかった。彼が異常といえる程の興味を私に持っていることは、その頃
の私にはよくわかっていた。しかし彼は特別な質問を何もしなかった。精華女子大では文化論の先生をしていたので、彼は私が雑談としてするイギリス観やイギ
リスの目から見た日本論に興味を持っているのだと思っていた。
ある日、彼は乗って来た自転車を押しながら、「先生の『経済成長論』を読んでいる。ありゃ大変な本です
な。だけど、もう数回読み直せば克服出来る所までこぎつけた」と言ったので私は驚いた。その後彼は私のCapital and Credit
を読み始めたということを葉書に書いて来たから、彼が私の経済学に興味を持っていることがわかったが、私に会うまでは私の経済学の本は読んでいなかった管
だ。
私はその頃、彼が高校生の時代に、学生反戦活動に参加し火炎瓶を投げて逮捕されたりして、大学の卒業が
遅れたことを知っていた。その後も京都べ平連の中心人物の一人となった。彼は同志社大学法学部を出ており、マルクス経済学の知識はあっても、マルクスの解
釈は私とは全く違う上に、彼の年齢ゆえに、私のような考え方をもはや受け入れられないような頭になっていると私は思っていた。彼の弟の秦恒平(元東工大教
援)は彼のことを「心優しい兄」と書いている。それに全く同感だが「心優しさ」だけでは数理経済学の論理を克服出来ないとも私は考えていた。
驚いたことに、彼は私が九七年に天津の南開大学で講義をした時に、天津までやって来て私の講義を聞い
た。日本では、折角彼が来ているのだからと、彼用の話を講義のなかに挿入して彼にサービスしていたが、そういうことは中国ではしにくい。私が英語でサービ
スしても、それが彼にうまく通じるかどうかは不明だし、講義の後は中国人に取り巻かれて彼に直接話をする機会はほとんどなかった。
そのあとは大阪市立大学である。彼はその大学の大学院の学生であったそうだから、アット・ホームであっ
た。しかし一緒にご飯でも食べようと声をかける余裕は私にはなかった。最後に私の送別会があった時、そそくさと帰る彼を追い掛けて「少し話をしていきませ
んか」と言ったが、次節に書くように「ターンパイク定埋の所を読み上げました」と言って、振り切るように彼は去っていった。
私は彼のもう一つの面を全く知らなかった。彼自身数冊の本を書いていたし、彼の実
弟秦恒平は小説家でもあった。以下に書くことは、彼の死(自殺)後、二人の書物から私が知ったことである。北沢はそのことを敢えて私に隠したとは思わな
い。断片は聞いていたが、それらがまさか以下に書くような実態の断片だとは思わなかった。
以下は秦恒平の『死なれて、死なせて』(弘支堂)と北沢恒彦の『家の別れ』(思想の科学社)に基づく、
彼らの母親と彼ら自身についての悲しい物語である。母は阿部鏡子といい文才のある才気にあふれる人であった。彼女の父は彼女が一一歳の時、東洋紡績から退
陣することになり、そのあとを「後年財界の覇者として識られた当時の青年層F・A氏」が継いだ。退陣した父は韓国に行き、彼女も住み慣れた家から追い出さ
れた(阿部鏡子「わが旅・大和路のうた」による、未見)。
F・A氏が誰かはわからないが、阿部房次郎であるならば、当時の東洋紡社長の彼は「財界の覇者」とも一
言えるし、同じ阿部姓の彼女の父は阿部房次郎の前任者であるから、阿部一族の内紛の結果、鏡子の父は放り出されたのだとも見られる。古い話だが東洋紡の社
史でも読めば、この憶測の正否ははっきりするだろう。その後鏡子は結婚し、四人の子供を産んだが、夫が死んでから彼女は生計を立てるために彦板で下宿屋を
始めた。
そこへ北沢・秦の父が彦板高商の生徒として下宿し、彼女との間に彼らをもうけた。まず生まれたのが恒彦
(北沢)で一年後に生まれたのが恒平(秦)である。彼らの父は、阿部家に下宿をはじめた当時は一八歳であり、鏡子にはすでに同じ年の娘がいた。彦根で生ま
れた北沢は恒彦、平安京生まれの秦は恒平と名付けられた。父の家はかなりの名家(吉岡家)であったから、体面を重んじる吉岡家は子供をすぐに養子にやり、
鏡子も結婚していた先の家から放り出され、亡夫との間に出来た四人の子供も孤児になってしまった。成人しても恒彦と恒平は長い問兄弟付き合いはさせてもら
えず、想像し得るように父方(吉岡家)にも母方(阿部家)にも出入りできなかった。「子供たちが北沢ないし秦の子供と
して暮らしているのを乱したくない」という配慮で父と子供たちとの間の連絡もなかった。恒彦は自分の子供
たちとの関係はあっても他の家族から自分や子供を切り離していた。恒平も彼自身が「四○半ばをすぎる年まで、血縁にかかわるすべてを拒絶し統け」てきたそ
うだ。
しかし母は必死になって子供(特に恒平)に逢おうとした。「いとけなき私や私の兄の行方をさがし求め
て、(母は)ほとんど狂奔した。ただもう兄と私に執着し、その執着心にすがりつくようにして死ぬまで生き続けた」と恒平は書いている。鏡子は色紙に「恒平
さんヘ」と書いて
話したき夜は目をつむり呼ぴたまえ
羽音ゆるく肩によらなん
という歌を残して、死んだ。彼女は「不治の傷と病とをうけてほとんど自ら死をえらんで逝った」と恒平は書
いている。私は秦を知らないが、北沢同様心の優しい人だと思う。
私は恒彦と恒平とでは恒平の方が文才があると思うが、彼らが書き残した鏡子の和歌を見れば、彼女は二人
の息子よりも優れた文芸の才能を持っていたように思われる。そういう彼女の激情と非常識が生んだ悲劇だが、またそれだけに彼女は驚くべき立ち直りを見せ
た。彼女は四○歳代にさしかかった頃、大阪に新設された保健婦養成校に入学し、卒業後、奈長県で看護婦兼保健婦のような仕事を始めた。晩年には奈良県下の
未解放地区の診療所で働き、彼女に世話になった人たちは彼女の献身的な活動を絶賛した。世俗的な倫埋基準から見て、それまでの彼女が魔性の女であるとすれ
ば、後期の彼女はマリアのようだといえる。
シャイで、用心深く引っ込みがちの秦は長い間父をも母をも拒絶していたようだが、母の性質を受けて秦よ
りは前にでるタイプの北沢は、少年の頃から母とも「微妙に連絡を保っていた」ようである。私が彼と付き合うようになった頃には、母はずっと前に死んでいた
が、彼は実父にも養父にも非常に親切にしていたことを私は知っている。
親類付き合いというものを知らなかった子供達に伯父や叔父、従兄弟、従姉妹への親しみ方を教えるのに、
北沢は家族単位の付き合いでなく個人単位で付き合うことを秦に主張したそうだが、普通の家庭環境に生まれたものならば、自然に知っている親類付き合いの仕
方を、白分達で子供の為に見つけねばならない北沢、秦の人生はさぞかし大変であったろう。その結果得た北沢の「個人主義的解決」という知恵は、彼の友人の
選ぴ方にも及んでいると見なければならない。そうすると、彼は私の中に何か惹かれるものを見たから、私を追っかけ、私の書物を繰り返し読んだのである。な
ぜ彼は自殺したのか。なぜもう一度私に会おうとしなかったのか。イギリスと日本に別れていても、生きてさえおれば、会うことは不可能ではないのに。
森嶋通夫「論座」 2000.9月号 『終わりよければすべてよし』 (朝日新聞刊)より抜粋
(森嶋通夫教授の記事には、あたりまえだが、いくらか、事実と言い切れない点も含まれる。中にもあるように
氏はわたしのことをご存じないし、母や父のことも、書き遺したものも見ていられない。しかし九割九分以上も不自然なところは感じられなくて、しみじみとし
た。母のためにも兄のためにも、これ以上はない供養である。森嶋氏ほどもとても知り得なかった兄のことを、たくさん教えていただいた。感謝に堪えない。
氏は、数理経済学の世界的な泰斗として知られた人である。英国在住。)
メルボルンの黒い髪
(抄) 北澤街子
新宿書房刊 1992.1 より。
雑誌「思想の科学」89.3 = 92.1 連載「オーストラリア物語」改題
1 夢の海
目が覚めた時、すぐにそこがどこなのかわからないという経験は、友達の家に泊まり
にいった時、修学旅行に行った時、さかさまにベッドで寝た時など、誰にでもあることだと思う。だが、オーストラリアで目が覚めた時、わたしは、そこで目が
覚めるとわかっていた。荷物を片づけてベッドに入った時、"ここはどこ?〃という次の朝の自分を、すっかり期待していたからだろう。京都で通っていた画塾
の、先生と友達の夢を見て、虚しい朝を迎えたのを覚えている。夢の中の画塾は堤防の川べりにあって、みんながそのあたりで小学生のように遊んでいる。天気
がいい。そこにいたわたしは、なぜだかわからないけれど、悲しい夢だと思った。
完全に近く言葉を失った。"YES" "NO"
さえ口にできないくらい。これはわたしが、その時のわたしだったから起こったことで、誰にでも起こることではない。日本を出た時のわたしは、息をする塊
だった。母国語さえ失っていた。十八年間、わたしを囲んでいたその言語を、よいしょと引っぱり出すのが精一杯で、書くことさえ困難だった。どうしてかわか
らなかったけれど、その頃のわたしはとても不幸だった。何か特別起こったわけでもない。今、その頃のことを思い出そうとしている。
飛行機は香港経由のキャセイ航空。成田から香港までわたしの隣りの席に坐ったのは、香港の女の子だった。彼女は日本で勉強していて、冬休みを過ごしに国へ
二、三週間帰ると言っていた。日本語が上手で感心した。その上スチュワーデスが来た時、" Water,
please."と言ったので、また感心した。友達三人で東京に住んでいて、何を勉強しているのか忘れてしまったけど、一年半、よく異国の、違う言葉を話
す国で勉強なんかしているなと、またまた感心していたら、一人でオーストラリアに行くというわたしに、彼女も感心していた。"言葉"
に対するわたしの恐れに対して、「大丈夫、三ヵ月で話せるようになるから」とはげましてくれた。
恐れていたことといえば、あのカンフー映画でおなじみの香港での飛行機の乗りかえで、ただただあらゆる
被害妄想にとりつかれて、売りとばされるんじゃないかとか、麻薬事件にまき込まれるんじゃないかとか、マフィアに会ったらどうしょうとか、友達や両親から
も散々言い含められて、つくりあげられた香港のイメージにすっかり侵されてしまっていた。が、恐怖の香港経由も、その女の子の「こう行ってこう行って、こ
う行けばいい」という言葉であっけらかんとすんでしまった。彼女は、「また会いましょう」と、わたしと違うゲートに姿を消した。残されたわたしは、彼女の
名前すら聞くことのできなかった自分に腹を立てていた。
乗りかえたあとの隣りの人は、今思うと、典型的なオーストラリアの女性だったような気がする。太った大きな親切な人で、わたしの荷物を棚にのせてくれたの
はいいのだけれど、荷物が大きすぎたもので、ふたを閉めることができず、わたしは、"少し荷物をはすかいにすれば入るのにな"
と思ったものの言葉にならず、力ずくで押し込んでいる彼女を、荷物の中にある人形を心配しながら見ていた。
食欲がすっかりなくなってしまい、機内食は半分ずつだけ食べて寝た。
空港に着いた時、みんな、冬服を脱ぎ、半ソデ短パンになっていた。が、わたしはウールの帽子を深々とか
ぶり、ウールのすその長い上下を着て、少し気がひけていた。税関を通る時ドキドキした。何を言われるか、何を言われるかとヒヤヒヤ、だってまったくわから
ないんだもの。申請書は英語の方の用紙を使って書いたので、" Can you speak English ? "
と言われた。わたしは、赤い顔をして首を縦にふったのだろう。そのあと、〃ペラ、ペラ"
とやられて困っているわたしにあきれ、税関の職員は白人特有の肩をすくめるアクションで " 行け"
というそぶりを見せた。わたしは、そんなふうに扱われたことに傷ついた。そのあと荷物を取りに行ったが見つからず、あせった。周りの人たちがどんどん自分
たちの荷物を見つけて、取っては去っていくのに、またあせった。同じスーツケースがあるがベルトが違う。誰も自分のことなど見ていないだろうに、なぜか周
りの人間が、みんなわたしを笑っているような気がした。白人――。どうしてかわからないが白人が怖い。
荷物は見つかったが、今度は迎えに来るはずの人が見つからない。空港の中で待つべきか、外で待つべき
か、どんな人が来るのか、相手がどうやってわたしを見つけるのか、何もわからない。一人の男がうろうろ誰かを探している様子だ。暗い髪と不精髭、ジャン
パーをひっかけていかにも" 運ちゃん"
という感じ。声をかけるべきかと頭の中で英作文をしてみたが、近よる勇気がない。一人でドキドキしているあいだに、彼は探すのをあきらめた様子、スタスタ
とガレージの方に行ってしまった。うわっ。確かじゃないけど、あの人だったんじゃないかなと不安になる。万一の時はタクシーをつかまえて、学校へ行くしか
ない。などと考えていると、背の低い、帽子をかぶってサングラスをかけた男の人が、"MACHIKO
KITAZAWA"と書いたボール紙を胸のあたりに掲げて、すっとわたしの横を通り過ぎた。それはあまり格好のいい情景ではなかったが、とにかく声をかけ
ようと近づいた。" Hi ! "
と言葉を交わしたのを覚えているが、そのあと彼が何を言ったのかはわからない。ただ彼の行く方についていったら、そこに黄色い小さな車があって、彼が後ろ
のドアを開けると、ボン ! と赤ちゃんが飛び出した。ドアにもたれかかって遊んでいたのだろう。よく地べたに落ちなかったなと思う。
そのあと何の会話もなく、後ろの席に女の子と坐っていた。その女の子は一歳か二歳くらいだったと思う。が、わたしが笑いかけたら、フンといった態度で窓の
外を見た。" このお嬢さんに、あいさつしなさい、マイ・ベィビー "
と運転手が女の子に言った。けれど二人でじゃれているだけで、まるでわたしの存在はそこにないようなのだ。とにかくどこでもいいから早く降ろして欲しい。
高速道路を走って街に入った。そのあとグルッとまわってホステルに着いたので、そこが街から見て、どんなところに位置しているのかわからなかった。
そこには白い建物があって、門からドアまでのわずかな敷地に、緑の草が夏の太陽を受けてなびいていた。マーガレットが咲いていて、水やりの機械もぐるぐる
まわって水をきらきらとまいている。運転手がベルを押した。すると白いすその長い、涼しそうなドレスを着た女の人がドアを開けて、わたしたちを迎え入れ
た。この人がここの管理人らしい。彼女はわたしを彼女のオフィスに連れていって " Sit down "
と言った。彼女と、机をはさんで坐ったのはいいものの、何が何だかわからない。" これはこうで、これはこうで、こうだから$164いる"
と言われ、日本語のあまりはっきりしない説明書のようなものを見せられたが、ゆっくりと目を通す暇もなく、" OK ? "
と取りあげられて、シーツを借りるお金とかボンド(敷金)とか、よくわからないままサインをさせられ、日本から送ったはずの部屋代はどうなったのか、また
$100
払わせられた。これは結局、次の週の部屋代にまわしてもらえたけれど。わたしを送ってくれた運転手は、女の子と廊下で遊んでいたが、しばらくして帰って
いった。
彼女のオフィスは白い塗り壁で、マントルピースがある部屋だった。わたしはどこがわたしの部屋なのだろ
うとうきうきした。白い壁、マントルピース……映画の中で見る西洋の象徴のような……。彼女が言った。" KAZUYOがあなたのルームメイトよ
"。へ ?
一人部屋を頼んだはずなのに。おまけにオーストラリアへ来た早々、日本人とシェアだなんて、散々日本を出る前に「日本人と付き合うな」と言われてきたの
に。
彼女がホステルを見せてまわってくれた時、二人のアジア人がランドリーで洗濯機をまわしていた。細い体と無表情な目、微笑むこともなくわたしをじっと見
た。中庭でも、また二人のアジア人が洗濯物を干していた。彼らはちらっとこっちを見ただけで、また洗濯物を干しつづけた。その頃はまったく、アジア人を国
ごとに見わけることができなかったが、ただ日本人じゃないことだけはわかった。白人がいない――。今度はそれが怖かった。
彼女が中庭にいた二人を呼んで、何か言った。すると彼らがわたしの荷物を部屋まで運んでくれて、彼女が
"これがあなたの部屋よ"
と戸を開けてカギをくれた時、わたしはそこに『凱旋門』のベッドを見た。バーグマンが男を待っていたホテルの、病院にあるベッドのような。なんて殺風景
で、生活のにおいのしない部屋なんだ……。その時ルームメイトはそこにいなかったけれど、彼女の荷物が殺伐とあって、そこにあった本も靴も、物の置き方も
嫌いだった。本棚は一つ、小さなのが壁にそなえつけてあるだけで、わたしの机となるべきところにあるのだけれど、そこは彼女の物でいっぱいだった。洋服だ
んすの扉は、閉まらないで開いたまま。だから中に入っている彼女の衣類が見えている。わたしの方の洋服だんすの中には、時代遅れのどこの国のスターかわか
らないポスターがしいてあって、ベッドの枕元には、" I love Melbourne "
とシールが貼ってある。カーテンは大きななんでもない柄で緑色。ブラインドは破けていて役に立たない。壁の色など思い出せない。マントルピースのかわりに
鉄パイプがそこにあった。
荷物を運んでくれた一人はフィリピン人でトニ一といい、もう一人は中国人でリヤオといった。トニーが、" これ自分の本か "
と本棚を指してわたしにきいた。首を横にふったものの、荷物を運んでもらったばかりなのに、とんちんかんな質問だなと、あとで思っておかしかった。
一人になった。管理人から渡されたシーツはピンクのありふれた花柄で、毛布も同じくピンクの毛玉だらけのアクリル百パーセントで、ちゃんとコーディネート
されている。わたしのルームメイトが使っているのは、色違いで水色だった。彼女のやりようを参照して、シーツをベッドにかけ、毛布をその上にかけた。少し
部屋を見まわして、そこにあった引き出しを開けてみたり、冷蔵庫をのぞいてみたりした。そしてまた、引き出しの中にへんなポスターと、冷蔵庫の中にポロポ
ロしたくだものを見つけた。服を洋服だんすにかけた。ポスターを全部とり出してゴミ箱に入れた。半ソデに着がえ、日本に電話をしようと思い部屋を出た。け
れどどうやってダイヤルすればいいのかわからず、電話のそばにあった電話帳を見たりしてそのあたりでうろうろしていると、通りかかったリヤオがかわりに電
話帳を引いてくれて、番号を紙に書いてくれた。
天気がよくて、気持ちのいい日で、時間の二時間すすんだオーストラリアから、日本にいる母と電話で話を
している。わたしも今までいた、日本。足の裏から地面を感じながら、立っている気がした。電話の向こうの母の職場の様子を思いやり、そこに人がいるのを感
じた。涼しい夏の空気はわたしを囲んでいて、その細い電波の向こう側に、小さな四次元の日本があるような気がした。母もその時、同じような何かを感じただ
ろうと、今思う。わたしの声からわたしの姿を思い浮かべた時、わたしを囲んでいるオーストラリアの空気を見たに違いない。母はオーストラリアを一度も見た
ことがないにもかかわらず。
夜、ルームメイトが帰ってきた。彼女はとてもいい人だった。食事代を払ったのに食事が見つからなくて、
キッチンで料理をしていたトニーに
"買ってきて作らないとダメだ"って言われたという話をすると、彼女は、「今、クリスマスホリデーでみんな家に帰っちゃってるから、食事は休みなの」と
言って、わたしをセブン・イレブンに連れていってくれた。
次の日、日本人の女の子が三人彼女を手伝いに来て、彼女はYWCAに引っ越していった。それから約二週間、わたしは二人部屋を一人で使うことになった。
学校がある頃は、百五十人程の学生がいるというこのホステルも、年末年始に残った七、八人の学生だけで、とても静かだった。わたしはただ、ベッドの上に寝
ころんでカフカの短編集を読んでいた。ずっとずっと。日が昇ると同時に目を覚まし、日が沈むと同時に床についた。食事は一日三食、ベッドの上でマフィンを
一つずつと、ヨーグルトをパックからふた口み口食べながら、一リットルのジュースをラッパ飲みしていたので、二週間後にはすっかり痩せてしまった。毎日、
"今頃はみんな画塾に行ってるな" とか" お母さんが家にたどり着く頃だな"
とか考えて、一人異国にとりのこされたような気がして怖かった。誰も何も言わない。するべきことがない。考えることをやめてしまえば、わたしは一日何もし
ないで部屋にじっと坐っていられるわけだ。そこは、今までわたしのいた境遇とはまったく違っていた。まるで、真水に入れられた体細胞のように、わたしは破
裂しそうだった。漠然とした空気がそこにあるだけの二週間、学校が始まるまでの。
そんなある夜、海の夢を見た。こんなに青くて、こんなに緑、そこに白い波が音を立てていた。だから、朝、目が覚めたら海に行った。で、そこで見たのは、"
海" だった。夢の中の海の色と同じ色をしていた。
2 出窓に坐って
ここに来て、二週間と半分たった頃、男の子に会いました。見るからにおちつきのな
い、いたずら小僧、均等な肉づきで背が高く、可愛い顔だちをしていました。
キッチンの掃除当番がまわってきて、どうしていいかよくわからないでウロウロとキッチンを見まわしてい
たわたしに、"手伝うことはあるか? "
とやってきた。でも香港なまりのその英語は、わたしにはまったく聞きとれなかった。とんちんかんなわたしの顔を見てあわてて手箒を持ってきて、パッパッ
パッと床を三度ほどなでて、"終わり! " と言ってみせた。彼はわたしを笑わせた。それが最初だった。
年が明けて一月、二人三人、四人五人と、学生がホステルに戻ってきて、わたしの部屋にも物音が絶えず聞こえだした。隣りの部屋にはギタというマレーシアの
女の子が帰ってきて、彼女がどうもこのホステルでは顔のようなのだ。みんながその部屋にやってくる。故国に帰っていた学生、ちょっと旅行に行っていた学
生、みんな、みんな。
わたしの部屋にもルームメイトがやってきた。日本人の女の子、クリスマスホリデーをニュージーランドで過ごしてきたらしい。「二、三日したらシングルルー
ムにうつるから」と彼女は言った。大きな目で、高い声をした愛想のいい人だと思った。
わたしはビクビクしていた。みんな、わたしがここにいなかった時からの友達同士。小学校に入学した時、
周りのみんなが幼稚園からの友達同士で、母が働いていたから離れた保育園に通っていたわたしは、一人、間違ったところに入れられたような疎外感を感じてい
た。そんなことを思い出した。
男の子の名前はイアンと言った。三ヵ月、オーストラリアで英語を勉強して、クリスマスに香港に帰ってい
た。よくしゃべる、じょうだんのうまい人気者だった。
彼とわたしのルームメイトは仲がいいみたいで、"カードをしよう" とか、"写真を見よう"
とか言って、彼がよく部屋に誘いにきていた。そのついでに、イアンはいつもわたしに声をかけてくれていたが、わたしは完全に口をふさいでいたので、人と交
わるのが怖かった。話せないし、みんなが何を話しているのかもろくにわからない。ルームメイトの助けをあてにした。日本ではいつも年上の女の子にかわいが
られていたから、つい、そのことをあたたりまえに感じていた。ところがどっこい、彼女は絶対、わたしに声はかけてくれない。「ここでは自分で主張しなく
ちゃ」というのが彼女の言葉だった。そうか、ここはオーストラリアだもんな……とわたしも納得した。だからイアンが誘ってくれた時、今こそと彼についてギ
タの部屋の前まで行った。けれど、影のように静かなわたしに気づかなかったのだろう、イアンが後ろ手にポン! と戸を押して閉めようとした。すると、"
MACHIKO ! " とギタがわたしの名前を呼んで、イアンに" MACHIKOがドアの後ろにいるから開けて"
と言った。彼女とは話したこともなかったのに、わたしの名前を呼んでくれたのがとても嬉しかった。イアンも"ごめん、ごめん"
と喜んでわたしを入れてくれた。
わたしのルームメイトはギタとも仲がいいみたい。イアンとわたしを入れて四人がその場にいた。たくさん写真を並べて見ている。全部、前の年のホステルでの
パーティーの写真やバスルームでふざけて撮った写真や、部屋で遊んでいる時の写真。わたしは知らない、それがどうした、とその場に坐っていた。でも、わた
しのすぐそばに坐っていたわたしのルームメイトは、わたしに写真をまわしてくれず背中を向けている。ここでもやはり、"見せて! "
という主張が必要なのだろう。だけどそこまでのガッツがなかった。そこに坐っているということ自体に、それなりの満足感を感じていたから。
ボーッとしているわたしに気がついたイアンが、写真をわたしにまわしてくれた。それでいろいろ、"これ
はこの時のこれで、あれはあの時の……" と説明してくれた。
そのあとイアンが、みんなで彼の部屋に行こうと言いだして、四人でゾロゾロ、階段をのぼって彼の部屋に行った。それで彼の写真をいっぱい見せてくれた。親
戚の写真や、友達の写真……、香港でエアフォースに属していたようで、ヘリコプターの写真をたくさん持っていた。おまけに、このヘリコプターは自分のだと
見せてくれた。話を聞いていると、これは中国の家、これはカナダの家……とほうぼうに家がある。親戚の中で彼がただ一人の男の子なので、みんなにかわいが
られていたとか、いとこの女の子たちはみんなイアンとしか外出をゆるしてもらえないから、みんな彼のことが好きだったとか、今いとこはみんな外国に留学し
ていて、それを全部イアンのお父さんがサポートしているとか、平気な顔をして話している彼を見て怖くなった。金持ち……なのかな?
イアンがわたしに話をしてくれているあいだ、ルームメイトとギタは、ケラケラ、コソコソ二人で話している。唐突に「眠たかったら寝てもいいのよ」とルーム
メイトがわたしに言った。え?
せっかくイアンと話しているのに、彼女、わたしに部屋に戻って欲しいのかな。わたしは首を縦にふった。眠たかったら、寝てもいいというのはもっともだ、で
も戻ると言ったわけではない。「起きていたいの? 寝たいの? 」とまたきいた。え?
「自分のしたいようにすればいいのよ。ここ(オーストラリア)で気をつかってたら、疲れるだけだから。これから毎日、こんなことはあるし……」と言って
「はい? いいえ? 」と念を押したので、「起きてる」と言った。イアンがその会話を知りたそうに見ていて、あとで彼女に "何て? "
ときいて、わたしが起きてたいと言ったと知ると、"仲間が増えた"
と喜んでいた。これがみんながホステルに戻りだした一日目の夜。
オーストラリアの学生はまだ戻ってくる様子はなかったが、oversea
の学生は毎日のようにそれぞれの国からやってきた。彼らから見ると、わたしの方が長くこのホステルに住んでいるのだから、何でも知っているように見えるん
じゃないかな、わたしがトニーやリヤオを見た時そう思ったように。おまけにわたしは、彼らも英語がよくわからないんじゃないかと思った、わたしがそうであ
るように。十七、八の男の子ばかりがどんどんやってきた。マレーシア、香港、インドネシア、タイ……、わたしは少し頑張って"知ってるぞ"という顔をしよ
うと思ったのもつかの間、彼らが逆にわたしを小学生の女の子のように扱った。なぜなら、わたしはみんなより若く見えて、頼りなさそうで、ほんとに頼りない
からだった。ほとんどの子が英語を母国語と並行して使ってきた子たちだから、ひゅるひゅるとよくしゃべる。もちろん英語だけじゃない。五つくらいの言葉を
平気で使いこなす子もまれじゃない。"何ヵ国語話せるの? " というのが、その頃のありふれた会話だった。
まるでわたしは魔女に声を売り、足をもらって人間界に入っていった時の人魚姫のような気分だった。"口のきけない可愛い女の子"、みんながわたしをそんな
ふうに扱った。だからといって「悲しかったわ」というわけではさらさらない。日本で自分のことをボロボロだと感じていたわたしは、小さい頃からずっと失い
たくないと思ってきたものを失くしてしまい、それをとりもどせないと悲しむ気力もなくしていた。そんなわたしに起こったこの出来事は、タイムマシーンがわ
たしを、まだわたしがわたしを好きだった頃の時間に連れていってくれたようだった。"出なおせる" と思った。
毎日、"MACHIKO、MACHIKO"
と同い年の、一つ下の、二つ下の男の子たちがわたしをかまってくれていた。"ゆっくり話せ、MACHIKOがわからないじゃないか"
とお互いに言い合って、わたしに一生懸命話をしてくれた。"話せ、話さないと英語は上達しない"
とみんながわたしに言いつづけた。"間違っても気にするな、友達なんだから" と。
そんな中で、香港から来たイアンは、街育ちで遊びを知っていたと思う。みんなに "これをしよう"
"あれをしよう"
と誘いをかけ、みんな喜んでついていくように見えた。その時にはわたしも連れていってくれた。いつも特別に気をつかわれて、わたしもいい気分だったんだろ
う、ルームメイトとの関係はぎくしゃくするばかりだった。ビーチに、映画に、夜の散歩にと、いつもイアンがわたしだけを連れ出すようになったからおおさわ
ぎ。
わたしが寝る前にベッドで本を読んでいると、「電気消してもいい?
」と言い、わたしが机で勉強していると、「何してるの?
勉強なんてしなくてもいいのよ」とわたしのルームメイトは言った。
そんなある日、ビーチから帰ってきて、ネックレスを失くしてしまっているのに気がついた。米ドルで一ドルか二ドルだったと思うが、アメリカ・インディアン
が木の実とオレンジ色のビーズを交互に入れて作った手製のネックレスで、わたしのお気に入りだった。ビーチに探しに行こうと思いついた時は、すでに九時前
だった。早くしないと日が暮れてしまう。イアンについてきてもらいたいと思った。だからTRAM(トラム=路面電車)の番号を知らないふりをすることにし
て、イアンの部屋にききに行ったら、ギタとインドネシアの男の子とオーストラリアの男の子とがイアンの部屋に集まって、カメラをいじってさわいでいたの
で、ただ、"ネックレスをなくした" とギタに言った。イアンはわたしに"Hi ! "
と言っただけでカメラに夢中だったので、わたしは部屋を出て一人でビーチに行く決心をして、TRAMストップでTRAMを待っていた。
ふだんから数の少ない上に、九時をまわっているので、待てど暮せどTRAMは来ない。そんなあいだもま
だイアンが、ふと現れないかなという期待で想像をふくらませて、少し淋しい思いで、もうほとんど日が沈んでしまった道路に立っていた。すると、ゾロゾロ
と、さっきまでイアンの部屋にいたみんなとその他数人がホステルの方から出てきて、こっちにやってくる。みんなわたしに気づいたようだ。イアンもそこにい
た。みんなあわてて近よってきて、"MACHIKO、どこに行く気だ? " と言った。"ビーチ"
とわたしが言うと、みんなは大きな声でよってたかって、"こんな時間にビーチになんて行ったら危ない" "行きたいなら明日にしろ"
"こんなことは二度と考えるな" と言われ、"今すぐ部屋に戻れ、表に出るな" とつけ足された。イアンは "なんて奴だ" とたまげていた。
みんなは夜ごはんを食べに行ってしまった。一人、ホステルに向かいながら、みんなの顔を思い出し、ふっと笑ってしまった。
ホステルにたどり着いた時、インドネシアの男の子とタイの男の子が
"おまえのチェーンはお母さんからもらったのか?
" ときいてきたので、"うん" と言うと、それは大変だとホステル中探しまわってくれた。"金だ、エクスペンシブだ"
と言いながら、文字どおり草の根をかきわけている。"金じゃないって、高くもない"
と言ったわたしの声も聞こえない。困ったな、かんちがいしてる。いつのまにか、木の実のネックレスが金のチェーンだということになってしまっていた。
ルームメイトにネックレスをなくしたことを話した。彼女は、「そのうち道ばたで、ボロボロになっちゃったのが見つかるでしょう」と言った。わたしは色あせ
たオレンジの、木の実のネックレスが草のあいだに横たわっているのを想像し、それでも、わたしのネックレスがきれいだと思った。だから、おかしくて、ケラ
ケラと笑ってしまった。でもあとで考えて、なんだか少しひどいことを言われたのかなと思った。
次の日一人でTRAMに乗り、ネックレスを探しにビーチへ行った。もうその頃は学校が始まっていたの
で、ビーチへ行ったのは夕方。歩いたところを歩きなおした。砂を掘ったりもしてみた。でも、わたしのネックレスはそこにはなかった。
帰りに間違ったTRAMに乗って、知らないところに行ってしまった。途中で降りて街の駅の時計台をめざ
して歩いた。今は、そこがどこだか知っているので、わたしがTRAMから降りたところは街からたいして離れたところでもないし、わたしの歩いた距離はしれ
ているというべきだろう。けれど、わたしはその時、くたくたに疲れてしまって、その上とても淋しかった。やっとの思いでホステルにたどり着いた時は、玄関
の扉を開けるのがやっとで、よいしょと勢いをつけなければならなかった。ハーとため息をついて顔をあげた時、中庭に見覚えのある影を見た。まさか……。サ
ンディーがそこにいた。"MACHIKO! "
とわたしの名前を呼んで、わたしに腕をまわし頬にキスをした。そうだ。わたしは彼女に、手紙でここにいることを知らせておいたのだった。
サンディーはRMIT(Royal Melbourne Institute of
Technology)で絵の勉強をしている。彼女とは四ヵ月前、オーストラリアへ講義に招かれた知り合いの大学の先生にくっついてきた時、一度だけ会っ
た。先生が、講義先で "とても素敵な絵の学生がいたから"
と、電話番号をきいてきて下さったのだ。それから何度か、オーストラリアと日本の間で手紙のやりとりをしていたけれど、会ったのはその一度きりだった。
彼女は日本語が少し話せるウェインという友達を連れてきていた。二人はしばらくわたしの帰りを待ってい
たようで、そこにいたホステルのみんなとすっかり話し込んでいたようだった。ルームメイトもその時は、わたしにニコニコした。
サンディーが "バーイ" とみんなに言った。ウェインも "バイ、バイ"
とみんなに言った。イアンはわたしが二人のオーストラリア人と出ていくのを見て、心配そうにわたしを追いかけてきて、"どこに行くんだ? "
と言った。"コーヒーショップ〃とわたしは言った。
ウェインの車に乗った時、あじさいの花が三輪、新聞紙の上でしおれているのを見た。ウェインが「花が死んでいます」と日本語で言った。「かわいそう」とわ
たしが言ったのを聞いて、ウェインが笑った。まるで、水を欲しがっていたポットプラントのように、わたしはその画面をすいとって、いまだに忘れることがな
い。
イアンはわたしのルームメイトとギタとその他オーストラリアの男の子、フィリピンの男の子と家を借りて
引っ越していきました。わたしもそのあとしばらくして、サンディーの住んでいる家に部屋が一つあいたので、そこに引っ越しました。イアンは一度電話をかけ
てきて、わたしを好きだと言ったけれど、約束の場所には来ませんでした。それから一ヵ月、ずっと彼を待って出窓に坐り外をながめていました。わたしの誕生
日に彼が電話をかけてきて、ドライブに行くまで。――やっぱり戻れないんだな。彼はわたしを家まで送ってはくれなかった。それでわたしの恋は終わりまし
た。
27 明るい夜
学校最後の日。絵を描きはじめる前に、今日一日やることを紙に書き出した。その日
まだ絵を描いているのは、さすがにわたしだけだった。朝のうちはわたしの他にニコールがdrawingの整理をしているだけだったので、教室は静かだっ
た。
十時頃、ジェフが来た。" あとは顔だ。顔が少しフラットなのがわかるか? " と彼は言った。"
それから、靴は……"。彼はわたしの靴を見て笑った。穴だらけのボロボロの靴なのだ。" ひものところをちょっと描くんだな……あとはdrawing
の整理をして、他の絵を持ってこなくちゃ……あのもう一枚、おまえの立ってるやつ……いつまでに提出だ? " "月曜日です"
とわたしは答えた。"じゃあ、月曜の朝一番の仕事か……" と彼。わたしは許可を取っておいたので週末に来るかも知れないと言った。ジェフは
"そうか……じゃあ、また月曜の朝、どうなったか見に来るよ……" と言って帰っていった。
顔を描いた。くつのひもを描いた。それらはわたしが紙に書き出しておいたことの中に含まれていた。あとはバックの壁の充分に描かれていないところを描きな
おした。それから……。それから、影側の手とセーターのすそなど、細かいところを手直しするという感じだった。
午後になると、人の出入りが増えてきた。クレアやアリーは、連れ合いを助っ人にかり出してきて、絵が映
えるように壁を白くぬったり、絵を額にはめたりの作業を始めていた。アリーは大きなキャンバスを壁に直接貼って描いていたので、提出の為にストレッチャー
に貼りなおすのだった。絵はかなり大きくて、既製品のストレッチャーを買うと高くつくというので、材木を買ってきて、自分たちでサイズを測って作ってい
た。
その日、教室は、おがクズとペンキのにおいと、ドリルとハンマーの音でいっぱいだった。それらにつつま
れながら、教室のはじの窓際のスポットで、わたしの絵は完成しつつあった。わたしは何度も、筆を入れてはイーゼルから絵をおろし、廊下まで持っていって遠
くから見る作業をくり返した。通りがかりにわたしの絵を見て、クラスメイトたちは、"もう終わりなんじゃないの? "とか
"もうあんまり触らないでしょ? " と遠慮がちに声をかけてくる。"そうかなあ……"と頼りないわたし。
やろうと思っていたことは全てやってしまったのに、”終わった!”と叫ぶには、"終わった"という意味が、わたしにはいまだによくわかっていないのだっ
た。太陽は夕日になっていた。早く沈んでくれればあきらめもつくのに……。わたしには太陽が、いつもよりずっとまぶしく感じられた。
わたしは少しずつ絵を触りつづけた。けれどその行為は、わたしの神経をだらしなく煩わせた。ここまで勢
いよく描いてきて、今さらこわごわと、なんの進展も見せないような手直しをするのは、わたしの精神にとっても、この絵にとっても、なんの足しにもならない
ように思われた。この絵から学んだことをあらためて考えてみる――充分だと思った。
光の当たっている方のセータあそでと、セーターのすそのあいだに、デッサンをしなおした時の線が残って
いるのを知っていたけれど、わたしは筆をおいた。そして、少々のためらいと共に、十週間以上そこにあった鏡を動かした。絵をたてかけてあったイーゼルと、
絵具を置いてあったテーブルを教室の外へ出した。
日が暮れかけていた。その夜はエスプラネイドでパーティがあるので、みんな夕方までに作業を終わらせて
パーティーに向かったようで、いつのまにか教室には、アリーとマーク、そして私の三人しかいなくなっていた。アリーはエスプラネイドには行かないと言っ
た。ニコールとは、夕方に学校の近くのパブで一杯ひっかけてから、いっしよにエスプラネイドに行こうと話していたけれど、彼女はとっくに作品提出の準備を
終わらせると、うんざりした様子で一人で帰ってしまった。
わたしは床を掃いた。他にすることがなかった。どうせ週末に数枚、絵を運んでこなければいけないのだか
ら、その時にならないと絵の配置さえ決められない。わたしは壁をぬるつもりはなかったのだけれど、アリーがペンキをわけてくれたので、それでわたしのス
ポットの壁を白くぬった。
わたしがなんとなく時間をもてあましているあいだに、アリーのスポットはすっかり完成した。"上手く
いったね" とわたしが言うと、彼女は嬉しそうに "ありがとう"
と言った。アリーとマークは車でわたしを家まで送ってくれると言ったけれど、わたしは断って、一足先に、いつものようにTRAMに乗って帰った。暖かい夜
だった。
あくる土曜日の朝は、直樹さんに絵を運ぶのを手伝ってもらった。しばらく前から、帰省した友達の車を
預っているのだ。それを彼から聞いた時、わたしは "絵を運んでもらえる! "
と大喜びしたけれど、もう学校は終わりだった。それまでずっとTRAMで運んでいたわけだけれど、絵が乾いていなかったりするとけっこう大変だったのだ。
アランじいさんの絵と、もう一枚の自画像。土曜日は九時までに校舎の前にたどり着いてガードマンが入口
を開けてくれるのを待っていなければいけない。遅刻するとその日は入れてもらえなくなる。そして一度入ると四時まで外へ出られない。一度外へ出てしまう
と、外からは扉が開けられなくなっているのだ。もちろん外部の者は立入禁止。だからその日は、まずわたしがガードマンに扉を開けてもらって校舎に入ってお
いて、五分後にそっとやってきた直樹さんを、わたしが内側から扉を開けて入れた。
廊下がこんなに暗いなんて、ふだんは気にとめることがない。誰もいない教室は、体育館のように、窓から
の白い光につつまれてシンとしていた。流しのまわりに置き去りにされたコーヒーの瓶、コップ、塩、こしょう、カップスープの箱などが目につく。それほど教
室は片づいてしまっていた。ニコールのスポットが整然としているのは、なんとも不思議な感じであった。昨晩とは光の具合が違っていたので、アリーの、イー
ゼルにたてかけてある二枚の絵の裏側に、窓からの光があたって絵がよく見えなくなっていた。窓際のわたしのスポットにも光が強く当たるので、絵が光りすぎ
て見えにくくなる。二人で、紙を窓ガラスにびっしり貼って光を弱くした。アリーの絵もずっとよく見えるようになった。
しばらくして、わたしたちは朝ごはんを食べていなかったのを思い出し、急にお腹が空きはじめた。彼はマ
クドナルドを探しに行った。わたしはドアのあいだにレンガをはさんで、彼が外から戻ってこれるようにしておいた。そのあいだにわたしは絵の配置を考えた。
こういうアレンジは彼の方が得意だから手伝いに来てもらったのに、彼はマクドナルドを探しに行ったまま、なかなか戻ってこない。わたしはどの絵の隣りには
どの絵がいいか、どの絵はどの高さがいいか、ゆっくり考えてみた。幾通りかの配置を試みて、一、二枚絵を動かしたりしているうちに上手くでき上がった。わ
たしは釘を打つ前に彼の意見を聞こうと思い、しばらく待ってみたがなかなか戻ってくる様子がないので、全部釘を打ってしまい絵をかけてみた。……赤っぽい
パジャマのみなの隣りに、茶色の上着と帽子のアランじいさん、グレーのキッチンの絵、オレンジのセーターに黒い作業着を着た自画像。……グリーンのセー
ターとチェックのスカートを着たグレーっぽい自画像の隣りに、深みどりのバックにオレンジ色のセーターとジーパンを着て立っている自画像がきて、その上に
アプリコットと洋なしと赤かぶの静物画、そのとなりには白いシーツの上にねころんだ裸婦etc.……わたしは満足だった。
"途中でバッテリーが上がってな……"
と彼がやっと戻ってきた。彼もわたしのアレンジに文句はなかった。そしていっしょにハンバーガーを食べた。
それからわたしは drawing と版画を、提出できるように整理しなければいけなかった。
彼は寝不足で、疲れた疲れたと言って床に紙をしいて眠りはじめた。わたしは提出するdrawing
をよりわけて、白いきれにはさんだ。版画はパラフィン紙を一枚一枚のせてカードボードにはさんだ。
問題はアランじいさんの絵だった。この絵は見るからに未完成だった。バックの筆のあとが、いかにも
"時間切れでやめました"
というふうに見えるのだ。わたしは、バックもモデルがいるあいだに描くというぜいたく者だから、アランじいさんがつかまらなくなってからはその絵を触らな
かった。わたしが絵を前に考えこんでいると、目を覚ました彼が、パレットに残っている絵具でバックをすこし整えればいいんじゃないかと言った。わたしは気
がすすまなかった。モチーフを見ないで絵を手直ししたことなんて一度もなかった。しかし提出の為だけと割りきって筆をとり(それも一本だけ残っていたひど
い筆)、こんなものかなとパレットで色を混ぜてバックをちょっとぬってみた。腰をすえないで筆を動かすなんて不可能だということを体で感じた。……やっぱ
りできなかった。わたしが持って帰って描くことにすると言うと彼は不思議そうな顔をした。アランじいさんはいないけれど、バックはわたしの部屋のドアだか
ら、こんなところで、こんな風に色をぬるよりは、たとえ一時的な処置であれ、おちついて描きたかった。説明はいらなかった。彼は絵を運ぶのを手伝ってくれ
る。あきれているんだろうけど仕方がない。"人には、たいした意味もないのに守ってることってあったりするでしょ? "
とわたしは言った。彼は返事をしなかった。そのかわりしばらくして、わたしの口まねをしてからかった。
月曜の朝、描き直したアランじいさんの絵を持って学校にたどり着いた頃には、教室の向かいにあるクレイグ(新しい学部長)のオフィスに先生たちが勢ぞろい
しているようだった。わたしは急いで教室に入り、アランじいさんの絵を、あるべきところに戻した。先生たちの声が壁をつき抜けて聞こえてくる。教室を出る
時にもう一度、自分のスポットをふり返った。教室の天井が高いのに、その時初めて気がついた。
表へ出て、校舎のすぐ外にある長椅子に腰かけてジェフが来るのを待った。彼に会ったらキャンバスのクリップを渡そうと思って一組持っていた。むかし、わた
しの日本製のそのクリップを見て感心していたのを思い出したからだった。小一時間もすると、ドアのむこうの廊下を、先生たちがゾロゾ口歩いているのが見え
た。その中にジェフの姿もあった。なんだ……わたしは彼が審査に加わっているのを知らなかった。そこにはどうもFine
Art中の先生が集まっていたようだった。ジェフはわたしがいるのに気づいて、ガラス越しに手をふった。先生たちは次々と、わたしたちの教室から出て、隣
りの教室へ入っていった。ロバートも後ろから現れた。彼はわたしの一年の時の美術史の先生で、このあいだのジェフの個展の時にはパンフレットに批評を書い
た。彼もわたしに手をふった。いつものように喉元には、蝶ネクタイが揺れていた。彼はそっと群れからはずれると、ドアを開けてニコニコしながら、わたしの
そばへやってきた。首をななめに傾けながら小さな声で "It's gone well " と耳打ちした。そしてまたいそいそと教室へ戻っていった。
しばらくすると先生たちがみんな外へ出てきた。どうも版画と彫刻の校舎へ行くらしかった。アンドリュー
が私を見つけて、"成績が出るのを待ってるのかい? " と言った。わたしはこれといった返事はしなかった。続々と先生たちが出てくる。版画の先生が
"今朝、君はこの一年間のいつよりもここにいるな"
と言った。ジェフが出てきた。けれどここで彼に声をかけるのはまずいような感じがした。彼の方ではまったくわたしに気づく様子もなく、ロバートと話しなが
ら行ってしまった。果たしてかばんの中のクリップは、またわたしといっしょにうちへ帰ることになった。
学校が終わった。もはや朝七時にあわててベッドを飛び降りる必要はなくなっていた。わたしはあの、いつまでも寝ていたいという朝の淡い眠気を満足させるこ
とができた。考えてみると、学校で友達の写真を一枚も撮らなかった。理由などない。忘れていたのだ。そう思うと学校の終わったことがやっと実感になってく
る。へー、あの光景はもはや、わたしの記憶の中にしか見ることができないのか……。ちょっと損した気もする。でもその方がいいっていうのでも格好がつく。
わたしはしばらく書かないでいた手紙をほうぼうに書きはじめた。ラウンジで一日書いた。ハジャマのま
ま、コーヒーを次から次へと入れながら。ある日は街へ出た。喫茶店でお昼でも食べながら手紙を書こうと思った。二階がギャラリーになっているアンブレラと
いう喫茶店に入った。そしてまず二階へ上がった。新聞紙一枚ぐらいの大きさの白い紙に、黒いチョークで二、三本線を引いた drawing
が七枚程、壁に貼ってあった。もう一方の壁には、葉書きの大きさくらいの紙の切れっぱしにペンと色えんぴつで丸や三角を組み合わせて描いたエスキースのよ
うなものが、三十枚ほど貼ってあった。それらは各一枚二百ドルだった。大きい方のは千五百から二千ドルと書いてあった。わたしはあわてて下へ降りた。
窓際の一番小さなテーブルを確保した。そしてメニューを開けて適当な値段のものを探した。七ドルでイタリア語っぽい音のいいのがあったので、それとオレン
ジジュースを頼んだ。そしてかばんから便せんとペンを出してテーブルの上に置いた。オレンジジュースが来たので、それを飲みながら、わたしは手紙を書きだ
した。便せんに反射した光がまぶしかった。しばらくすると、でっかい日本の皿にのっかって、酒のつまみの盛り合わせのようなものが来た。十数種類の野菜や
肉がのっかっているのだけれど、どれもこれもつけものの味がした。パンがついていたけれど、しょっぱさはまぎれなかった。太陽が傾いてきて、店の中へ光が
横に長く射してくる。皿の上のバターはドロドロにとけてしまった。わたしはハンカチで額の汗をふきながら、酒のつまみの盛り合わせを食べた。時々、学校が
終わったのを思い出すと胸のあたりでへんな感じがした。でもそれは、手紙には書かなかった。
成績つけが終わった頃、学校へ掲示板を見に行った。ついでに教室へ入って自分のスポットの様子を見る
と、drawing
と版画は先生たちが目を通したまま、床の上にバラバラになっていた。その上に卒業制作展のオープニングの招待状が八枚置いてあった。先生たちが展覧会に出
すと決めた絵三枚に "Exhibition" と札がついていた。最後に描いた大きな自画像も含まれていた。
教室の前でロバートに会った。彼のオフィスはわたしの教室の横にあるのだ。彼はわたしを見て
"Hello,
how are you? "
といつもの調子で蝶ネクタイをヒラヒラさせながら声をかけてきた。ちょうどよかったので、ジェフのパンフレットを日本に送りたいのでもう一つ欲しいのだけ
れどどうすれば手に入るかきいてみた。するとロバートはジェフが何冊か持っているはずだから、午後にでも電話をして頼んでおいてくれると言った。そして
"君の電話番号と住所をここに書いてもらえますか? そうすればジェフに電話させるか、直接送らせるかしますから……"
と言った。わたしは面倒をかけるようで気がすすまなかったけれど、一応電話番号と住所を渡された紙の上に書いた。"なんだか申し訳ないような気がするんで
すけど……" とわたしが言うと、ロバートは "大丈夫、大丈夫" と言うので、そうなのかなと思った。
それから彼に少し進路のことについて相談をした。彼はわたしをはげましてくれた。そしてわたしが日本に帰ってしまったら、その後の制作活動が見れないので
残念だと嘆いた。わたしは日本に帰っても、まめに連絡すると約束した。
掲示板には、来週の木曜日の二時から四時のあいだに、卒論を取りに来るようにと貼り紙がしてあった。
その日、家に帰ってからは、ひょっとしたら今日中にジェフから電話があるかも知れないと思って気が気で
なかった。電話で先生と話すのなんてやだな、何て言えばいいんだろう……などと考えながら、電話のことなんてそんなに神経質に気にしていないでいいんだろ
うけど、ついつい家にできるだけいようとしてしまう。ラウンジで、サンディーとマージ(サンディーと一緒に三年前に通っていた絵の先生)とドクター・オ
コーナー(去年お世話になった精神科の先生)のところへ、オープニングの招待状にそえる手紙を書いていた。
結局その日は、三本電話があった。一本目、気合いを入れて "ハロー"
と電話をとった。わたしはジェフの声を待っているわけだ。男の声、それがわたしの頭の中の情報の一部と一致するものの、言葉が……その言葉が日本語だとい
うのが、一瞬わからなかった。兄からだったのだ。二本目は、なんとニコールからだった。めずらしい。ディナーの誘いである。三本目は日が暮れてから、これ
も男の声だったので、聞きなれた声にもかかわらず、とっさに誰なのか判断できなかった。なんでよりによって今晩 !
チャーリーからの電話なんて、何ヵ月ぶりだろう! これは神か仏のいたずら電話だ。
一週間後、卒論をとりに学校へ行った。場所は最上階の長い廊下のつきあたりにある、美術史の
tutorial
の教室だった。教室のドアが開いていて、中で細長いジム(美術史の先生)がいつものように鼻の先に小さな銀ぶちのめがねをひっかけて忙しく動いているのが
見えた。アリーとニコールが教室から出てきた。彼女たちは自分たちの卒論をすでに返してもらっていた。 "Hi ! "
とわたしたちはあいさつを交わした。アリーがいつの間にやら撮ったわたしの自画像とアランじいさんの絵の写真を見せてくれて、"これはわたしがとっておく
の……MACHIKOにはこれをあげる"
と言って、へんな角度から撮ってゆがんでいる失敗作をわたしに渡してケラケラ笑っている。わたしたちはディナーのことで少し、どのレストランがいいかなど
を相談した。そしてわたしは教室へ、彼女たちはエレベーターの方へ歩いていった。
卒論は想像していたよりずっと点が良くて、心臓がドキドキした。ジムがそばへ寄ってきて、ひとこと言わ
なければ気が済まないという感じで " 非常に印象深い作品でしたよ"
とわたしに言った。英語も簡潔でいいし、本人が論旨を理解しているのがよく伝わってくるし、特にいいのは文章が本からのコピーではなく、自分の言葉を使っ
ているところだ、副審のヘンク(わたしが二年の時の美術史の先生)もそう言っている、とのことだった。わたしは去年お世話になったヘンクに自分の進歩を見
てもらえたのかと思って嬉しくなった。"ご指導ありがとうございました"
とわたしはジムに言った。彼はお礼の言葉に弱いらしくて、浅黒い顔を赤黒くして、照れかくしにもっと、しゃべりだすのだった。"いや、わたしとしても、
まったく、やる気のある人といっしょに勉強するのは楽しい限りですよ……" とこんな具合だ。わたしたちは
"卒制展のオープニングでまたお会いしましよう"と言い合って、教室の前で別れた。
そのあとすぐ、ロッド(卒論をチェックしてもらった英語の先生)に会いに行った。点数が出たら教えてくれと言われていたのに、あれから三ヵ月以上もたつ。
やっと彼に、それもHigh
Distinctionをもらったことを言えると思うとワクワクした。受付の人にロッドがいるかとたずねた。すると彼女は、"ロッドはもういません"
と言った。へ
? "彼はティムがいないあいだ、代わりにここにいただけなんですよ" と彼女。でもティムなんかまだ帰ってきてないじゃないか !
ロッドは学生たちの試験が始まるとすぐに、去ってしまったんだそうだ。ローズマリー(Language
Learningのボス)が数日のうちにロッドに送るものがあるので、わたしがカードでも持ってくれば、それを同封してくれると言った。
その夜、電話があった。ジェフからではなかった。"ハロー、卒論どうだった? "
とニコールからである。"とっても良かった。High
Distinctionだよ! " とわたしは言った。"わあ、すごいじゃない! " 彼女は
Distinctionをもらったんだそうだ。ニコールによると、アリーは思ったよりよくなかったので不満だったらしい。けれど彼女のいいニュースは、計
画どおり drawing のコースに受かったってことだ。"それにあのこは、今年 paintingのが上手くいってたんだし、欲ばりってもんよ"
とニコール。彼女はレストランのテーブルを七時半に予約したと言った。そしてレストランの住所を教えてくれた。"じゃあ明日の夜、レストランでね。みんな
よくやったから、お祝いしましょう! " とニコールは言った。
卒制展のオープーングの当日、わたしはソワソワして、ニコールとアリーとマリーナに交互に電話をかけま
くったが、みんな留守だった。五時半頃やっとアリーがつかまった。彼女はマークが仕事から帰ってこないと言って焦っていた。"じゃあ来るんだね"
とわたしは念を押した。"もちろんよ、わたしの両親と姉さんと、甥っ子、姪っ子もいっしょに来るのよ" とアリー。会場は Caulfield
なので、わたしのうちからはすぐだけれどアリーの家からは車で三十分ほどかかる。"おくれるんじゃないの? "
とわたしはアリーに言った。オープニングは六時からなのだ。でも、直樹さんはギリギリまで本を読んでいて、出がけになって着るものがないなんて言いだすか
ら、結局、会場に着いたのはわたしたちより、アリーたちの方が先だった。
二コールもマリーナも来ていた。エリックがガールフレンドのアリアナといっしよに、ゴダーナとゼヴを連
れてきてくれた。にぎやかだった。アリーが姪つ子の小さなヂィヂィを連れてやってきて"MACHIKO の絵、目立ってるわよ、見に行ってごらん"
とわたしに言った。ヂィヂィがわたしの絵を気に入ったんだそうだ。
テーブルからワインを持ってきてくれた直樹さんと二人で奥の部屋へ行ってみると、壁の真ん中のけっこう
いい場所にわたしの大きい自画像がかかっていた。確かにかなり目立っているようだった。けれど自分の描いた絵だから余計に気になるんだろうと思った。ただ
不思議なことに子供たちが絵の下に集まって、異常に興味を示しているのだった。
先生たちがやってきてお祝いの言葉をくれた。見知らぬ人まで "すばらしい自画像ですね"
と声をかけてくれた。
ロバートと少し話をした。彼は約束どおりパンフレットのことについてジェフに話しておいたと言った。そ
して進路のことについても少しきいてみてくれたそうだ。ロバートに直樹さんを紹介した。彼はワイングラスを片手に顔を真赤にして、やっぱり、蝶ネクタイを
ヒラヒラさせていた。そしてニコニコしながら首を心もち傾けて "やっぱり君の絵はいいですね"
と言った。"美術史でもよくやったそうですね、ジムから聞いていますよ"。そして昔話になった。一年の時のわたしのエッセーはひどかったけれど、この学生
はいつも授業に出てるし、よく話を聞いているようだし、インテリジェントに違いないと信じて、本当なら落とすところ、単位をくれたということをユーモラス
に、それでいて少々たしなめるように、彼は話した。わたしは先生も覚えてるのかと思ってはずかしくなった。"けれど今、わたしの信頼がむくわれて、ほんと
に嬉しいです" とロバートは言った。
ジムがわり込んできて、お祝いの言葉と共に握手を求めてきた。"みんな君の絵を称賛していますよ、あの絵はどうするのかな?
日本へ持って帰るつもりですか? ……今晩中に買い手が見つかるかもしれませんよ"。
人と人とのあいだをすり抜けて、はじから絵を見ることにした。わたしはあまりおちついて絵を見れる精神状態ではなかった。けれどとにかく人と話をしなが
ら、絵を見ているふりをしていた。ワインが勢いよく体中をまわった。安上がりに酔うことができた。その時わたしは人ゴミの中に、探しつづけていた失くし物
を見つけたような気がしてはっとした。わたしは手をふった。
ジェフはこっちへやってくるようだった。わたしも少し彼の方に近づいた。髪がのびていた。金のクレヨン
色だった。彼はわたしのそばへ来て、"これからどうするんだ? " と言った。"日本へ帰ると思います"
とわたしは答えた。彼の顔が腑に落ちないという感じだったので、わたしはあわてて "まだはっきりわかりません"
と言いなおした。彼はパンフレットを何冊かくれると言った。ロバートからわたしの住所をもらったので、郵便で送るか車で持っていくかすると言ったようだっ
た。わたしの頭はぼやけていて、言葉のはしばしが聞きとれなかった。"研究生をやる気はないのか? "
とジェフがきいた。わたしはどっちつかずの頼りない返事をしていたが、苦しまぎれに "遅すぎませんか? "
ときき返した。彼はクレイグにきいてみればいいと言った。わたしは酔っていたのでへんに緊張していた。
"少し考えればいい、別にここでなくてもいいんだから……まあその時は援助するから……"
と言って、いつもの彼らしく、行ってしまった。わたしは彼に会いたかった理由を思い出せないままだった。
その夜は、友達の友達など、ひさしぶりに会えた人がいてよかった。直樹さんも、彼の学校の友達(ビジネスを勉強している人)とわたしの友達(Fine
Artの学生とその友達)の違いを発見しておもしろがっていた。"まっちゃんの友達の方がいっしょにいて楽だなあ"と彼は言った。
うちへたどり着いたのは九時頃だった。空はまだ薄明るかった。わたしたちは昨晩の残りのカレーを食べた。明日も朝から仕事の直樹さんは、ごはんを食べると
すぐに、"早く寝なさいよ"
と言い残して、部屋へ戻って寝てしまった。その夜はわたしにとって特別な夜だった。暑くもなく寒くもない夏の夜だった。それは満たされたわたしの心に似て
いた。こんな夜が再び戻ってくるのは、ずっと先のことだろうとわたしは思った。だからこの夜を長くする為に、少しだけ夜ふかしした。
〈おわり〉
あとがき
日本に帰ってきてしばらくした頃、わたしは激しいブレーン・ストームに襲われ、軽
い記憶喪失を経験したような気がする。入ってくる情報を次から次へと忘れていった。紹介された人の名前、教えてもらった道順、電話番号、待ち合わせ場
所……。わたしは不安になったけれど、それもようやく治まってきた、嵐は去ったようだ。そうして、ふと我に返ると、わたしはことごとく無責任に、今まで自
分のしたこと、言ったことを忘れてしまっていた。わたしは中学時代のボーイフレンドがくれた第二ボタンを引き出しの中に見つけてながめた。また、高校時代
のボーイフレンドがくれた彼の自画像を押し入れの中に見つけてほっと息をついた。当時の写真の束も、わたしを苦しめなかった。そしてわたしは気づきはじめ
た、自分が変わったことに。混沌をざるですくい上げたら、ただ、キラキラ光るものだけが手元に残った。
海を渡ろうとしていた時、わたしは十八歳の浪人生だった。そして頭痛と肩こりに悩む家出娘でもあった。
わたしは幸運にも、あたたかい知人たちに拾われ、いくらかの理解(とお金)ある両親にも助けられて、無事オーストラリアという島へ流れていったのだった。
それまでのわたしを回想して弟が言うには、わたしは一日中部屋に閉じ込もり、眠っていたらしいのだ。
わたしは今、生まれ育った街にいる。ここにいるとまるで、オーストラリアでの生活は長い夢だったような気がする。けれどあれから四年半という月日がたって
いることは、わたしの六畳の部屋に沈澱している思い出の上に積もった、ほこりが証明している。
わたしはわたしでしかなくて、わたしの焦りの中で生きてる。わたしはとても、一人で不安だったから、誰かわたしの他にも一人で不安な人が、これを読んでく
れることがあったらいいなと思う。そして、"こんな人間も生きてるんだ" と伝わればいいなと思う。だから嫌なことも書きました。
一九九二年 夏 京都にて
(にかしらとても明るい終え方のように見えるとすれば、この物語はいわばトン
ネルの中を書いていたのだ。入るところを二章と出たところを著者にことわって切り出した。いきいきと佳い文章はトンネルの中で光っている。それは単行本で
見て欲しい。亡き兄北澤恒彦の愛していた娘が二十歳前に雑誌に書き送り続けてきた記念作である。)
絵
本 ─詩人だった兄に─
黒澤 あぐり
寝台
家にひとつしかない
小さな木の寝台に
あなたは寝ていた
枕もとに山ほどの薬を置いて
あなたは髭をぼうぼうはやして
時々
縞の丹前を着て
うろうろして
ロッコツカリエスという言葉を
わたしはいつのまにかおぼえた
あなたがいつ髭をそったか
忘れてしまったけれど
そのあと
あなたは「世の中」というところへ
出ていってしまった
わたしが十五歳のとき
母が死んで
わたしはその寝台に眠るようになった
家でたったひとつの
憧れの寝台にすわって
父に写真を撮ってもらった
わたしが十五歳のとき
父も死んで
わたしはその寝台を離れて
「世の中」というところへ
出ていった
花園
あなたの住んだ家に
蔦がからみ
あなたの歩いた道に
蕁草がはびこり
思い出の花園は
扉を閉じてしまった
花園の下に掘られた防空壕のなかで
わたしたちは球根よりも深く
地中に埋まり
ローソクを点して
ささやかな平和を味わった
あれ以上の平和が
その後
わたしたちにあっただろうか
わたしはキャラコの白い服のまま
錆びた扉の外に立ち
ふたたび
庭が花園となり
みんなが戻ってくる日まで
じっと 待ち続けよう
銀の雨
雨の夜に
あなたは
わたしを訪れる
外套のかげに
眩しい幼年時代を
そっと隠して
三輪車には
アカシアの花房をのせて
わたしは食卓に
アカシアを灯し
あなたはポケットから
つぎつぎ
物語をとりだす
浮かんでは消え
また
浮かび
銀の雨のスクリインに
過去からの光が揺れている
日曜の朝
明るい日曜の朝には
あなたは
刺繍の半襟をスカーフにして
黒いチョッキを着て
吟遊詩人になった
アコーデオンの音色に
集まってくるのは
近所の鼻たれ小僧たちだけれど
風はゆらゆら
光をこぼし
雑木林は
モザイク模様に輝きだす
あなたの踊る指が
世界にちりばめられた鍵盤を押し
風がアコーデオンを吹き鳴らし
日曜の朝
地球のてっぺんの
この小さな雑木林から
賑やかな歌が
碧い空にのぼっていった
絵本
冬の夜空に
あなたの瞳が
青く輝き
ひいらぎの葉に
赤い実が飾られるころ
雪の野に
星が隕ちた
そのとき
わたしは
絵本に入って
さまようのだ
ほんとうに
あなたが
わたしのそばにいるかどうか
遺書
わたしは
清潔なあなたの書斎が好きだった
あなたのガールフレンドが作った
天使の刺繍がしてある
カーテンが好きだった
あなたの留守に
誰にも知られず
あなたの椅子にすわり
あなたの整頓された引き出しの中を
見るのが好きだった
上から三段目の引き出しには
新しい原稿用紙が沢山入っている
ある日
新しい原稿用紙の一番上に
ひらりと何気なく
裏返しに遺書がのっていた
それは一編の詩だったけれど
「僕が死んでも葬式はしないで」
と書いてあった
わたしはどきどきした
わたしの目の中を
めがねをはずして
眠っているように見えるあなたの顔が
横切っていく
わたしはくらくらした
でもこれは
「お兄ちゃんが書いた
〈詩〉なんだよ」
わたしは自分に言い聞かせた
何度も言い聞かせた
するとすっかり安心した
それからそっと
三段目の引き出しに
ひらりと何気なく
裏返しに遺書をもどした
もどしたつもりだったけれど
それは向こう側にすべり落ち
掃除の母に見つかった
その遺書が
本気で書かれたものだと知ったのは
わたしが大人になってからだけれど
おかげであなたは
生き延びた
死
それは青い青い
ガラスのエレベーター
わたしはそのエレベーターに乗って
あなたを追いかける
午前四時三十五分
永遠という白い鳥が
真っ直ぐに飛び立って
わたしだけが
青いガラスに閉じ込められる
悲しみの少年よ
せめて
青い海を一滴
あなたのくちびるに
るり色の小鳥
─兄からの伝言─
妹よ
おまえが僕の手のひらで餌をついばむ
るり色の小鳥だった日
僕たちに言葉はなかった
僕たちにあったのは<歌>だけだった
僕の口笛とおまえのさえずりと
いつ
おまえは羽根を失ったのだろう
やせっぼっちのからだに
おかっぱ頭
茶色の瞳には
すぐ涙を浮かべた
僕たちのテラスの薔薇が
びっしりと花の屋根になると
その花影でおまえは眠った
眠るといつも
どこかでるり色の小鳥が飛び立った
僕たちに用意された悲しいできごとは
おまえの涙が洗い流した
僕は僕の新しい人生に向かって歩きだし
おまえは花のないテラスに眠ったまま
何十年も過ぎ去った
なぜ人生は逆転する?
いま僕は鳥になっている
おまえを起こすために
夢にあらわれた大きな灰色の鳥だ
妹よ
僕たちに言葉はない
僕たちにあるのは<歌>だけだ
おまえのオカリナと僕のさえずりと
(作者は、家庭の主婦で、詩を書き、繪も巧みに描く。編輯者の妻の、妹。妻
と妹との兄保富庚午は、詩人であろうと出発し、広告マンから脱サラして放送作家の世界へ身を投じた。構成作者、歌詞・訳詞の作者として広域に活躍していた
が、或る深夜、仕事からあがってビールで休息中に、忽焉と急逝した。昭和五十九年九月十九日。享年五十五歳。「あぐり」は兄のつけてくれた筆名だという。
もう孫がいる。二十余編の詩稿を送ってくれた中から選ばせてもらった。)
ながい介護のあいだに、それは多くのことを姑(はは)は話してくれました。
嫁に話しているとも意識しない言葉が混じらなかったとは言えません。
その意味では母が末期の独り言ともいえましょうか。聞き取ったいろんな
断片を継ぎ接ぎしてみました。建日子(たけひこ)の生まれたところで、きり
をつけました。容易ならぬもっと他の多くがあった筈ですが、母の触れなか
ったところは触れたくなかったところかと、付け加えたりはしていません。
湖(うみ)の本 42 『丹波・蛇』1999.11所収 参考作品
い
ややわ、みな、学校へ行かはるやんか、入学式の日ぃも、お母はんも一緒に、ざわざわと通らはるし、お家(いえ)にいたかてすぐに分かったわ。女学校(京都
府一)はすぐそこやし、私(あて)は見たいこともないのに、誰が行かはるのかどうでも見えてしまう。ついこの間迄おんなじ教室にいたんや、わたしは優等
生、で、あの人ら大(たい)してできたわけやあらへん。そやのに女学校へ行かはる。見るのもいややのに、つい見てしまう、そんなとこ見られたらよけいいや
や、隠れな、奥へ、誰にも見られてへん、と思ううちにも涙があふれて、なんで涙ばっかり毎日毎日出るんや、あぁ、あても行きたい。あてかて、親が行かすて
言うてくれはったらすんなりと上に行けたんや。泣いて頼んだのに。何遍も頼んだのに。先生(せんせ)かて「おうちへ尋(たん)ねて行ってお願いしてあげま
しょうか」て、言うてくれはったけど、わたしは断った。どうせあかんわ。そう思た。
離れのお婆はん(祖母)ら、いつもは、なぁんもせんといて、出てきはると偉そうに一番に口をきかはる。
お父はんは大人しいもんや、主人やおへんか、しゃんしゃん言わはったらええのに。大体お婆はんに息子(こぉ)の無かったんがいかんのや。お父はん田舎から
の婿養子やし、おとなしい一方で、お酒が入らな、何(なン)にもよう言わはらへん。
「お兄ちゃんの瀧さん(瀧之助)かて中学は諦めて働きに出てますやないか、ましておタカは、あんたは、
女(おなご)やないか。それに、ひ弱いよってなぁ」
いややわ、私(あて)は細いだけや、学校へ行くのにどうていう事あらへん。
お母ちゃんは十人も産んで、くしゃくしゃにならはって、見られへん。そないなるまで産まんでもええん
や、あてはその末っ子でひょろりとしてて、それだけやないか。けど、瀧兄さんを引き合いに出されるとなんにも言えへんし。瀧さんも中学校行きたかったんや
ろか。行きたい、あきまへん、行きたい、辛抱しなはれ、そんな事あったんやろか、瀧兄さんの奉公先にまでそんなこと聞きに行けへんしなぁ。
兄ちゃんは、あてがついて歩いても嫌な顔しはらへんかったし、二人でよう御所(京都御所)まで遊びに
行ったなあ。生垣の隙間をくぐって御所へ、草摘みによう行きましたわ。楓、山椒、椿なんかは実生(みしょう)のかわいらしい芽ぇがいっぱい、そこここに顔
出してて、抜いても取っても誰がおこらはるいうこともなし、自分のもんにできた。そんなお遊びはいつもお兄ちゃんと一緒やったなあ。どこに親木があるて分
からへんのに、小さい小さい八つ手や棕梠のはえてることもあって、「鳥が種を撒く」てお兄ちゃんが言わはった。「うんこと一緒に落とすからこやしになんね
ん」て。おかしいわぁ、うんこやて、うんこ、笑(わろ)た笑た、おかしかったなぁ。
学校も私(あて)は好きやった。読むのんが大好き、新聞でも雑誌でも手当たり次第、どんどん字ぃを覚え
るのも自慢やったし、絵はかなんかったけど、お習字はよう褒められて、わたしだけ先生に呼ばれてどこそこの展覧会に「出しましょう、書いていらっしゃい」
て言われた、かなんわぁ、いつも私(あて)だけやし。それで私(あて)は優等生、お式に私(あて)より前に名ぁ呼ばれるのはいつも一人だけ。男の子やし、
ま、しゃあないわね。そやし先生は私(あて)が府一に行くもんやと思てはったらしいの。親はなんも言うていかへんし、先生の方から尋(たん)ねはった。そ
して「先生(わたし)が頼んであげましょうか」て。先生が家(うち)まで来てくれてはったら、ひょっとして? そんなこと。あてにも無理とわかってまし
た。昔は御所にもお出入りを許された道具屋で、おっとりと商いも成ってたらしいけれど、天皇さんら東京へお移りやすししてからは、それまでのようには行か
んようになったらしい。分家は寺町(てらまち)にお店を出して、「どなたはんでもどうぞ」式のお商売に変えはって、成功した言うのんかいな、お使いに行か
されても、活気があって明るい。何でもあてに気楽に尋(たん)ねたりしはって、それが、かなん。私(あて)は分家へ行くのいややし、用だけすませたらいっ
つも走って帰って来(く)んね。
だんだん零落して、この育った家もいずれ他人手(ひとで)に渡るらしいし、十人の姉弟やいうて、すず姉
さんより上の姉さんら私(あて)はよう知らん。この間もちょっとほたえていたら、怖い顔した女の人が無遠慮にずかずかあがってきやはって、「静かにしなは
れ」て叱られた。一番上の姉さんやて。何や知らん商い先へ用向きで出て、ついでにちょっと里に寄らはったんやとか、あてのこと「末っ子やいうてあまやかし
なはんな」やて、どっちが親かいうような威張った口親にきかはって、「いつまで遊ばしとかはるんです」て。私(あて)はさっさと奥へかくれて、あっかん
べぇしてやった。五つになるまでお母ちゃんのお乳さぐっていたて、よう言われたわ、覚えているような気もするし、案外あまえたやろか、やっぱり。結局、ど
こぞへ行儀見習いにいうこともなく、お針のお稽古に通うことにきまった、けど、だれぞと顔をあわすことにならへんやろか、いややわ。「府一ぃ行かはったと
思うてましたんよ」みたいなこと言うひとはおらへんやろか、かなんな。ふてくされていたら、すず姉さんが映画につれてくれはった。なにも連れて行ってて無
理言うたんとちがうえ。すず姉さんが「行こう行こう」て無理無理連れてくれはったんや、それからまた、すず姉さんが「お父はんの里へ行こう」て言い出さ
はった。どんな所(とこ)や行って見よう、て。けど田舎の人はうるさいていうし、つまりなんやかや遠慮のう聞いてきはる、と言うことやし、じろじろ見られ
るのも、私(あて)はそんなんかなんし、て言うて、とうとう行かへなんだ。そうこうするうち、すず姉さんはあっけのう死んでしまわはった。胸が弱かったん
やて。おとなしい姉さんで誰といさかうわけやなく、雑誌を見せてくれはったり、リボンや端裂れをくれはったり、おじゃみも一緒につくった、あれはお母ちゃ
んやのうて、すず姉さんやった、優しかったんはすず姉さん。そやのに二十歳(はたち)にも成るや成らずで。そして、あては、親元に一人だけ残ったん。
裁縫は上手の評判がたつほどになった。どうていうことはあらへん、慣れやわ。一つ
ことを何年もしてたら、そら上手にもなりまッしょう。いくら嫁入り前の娘でもそうそうわが物ばっかりも縫うておれず、他人様(ひとさん)のもんも頼まれれ
ば手伝いましたけど、どういうつて(二字に傍点)やろか、舞子はんのもんまで頼まれました、着た具合がええて言わはって。私(わたし)もそない褒めてもう
たらまんざらでなし、親も自慢にしはるし、お父ちゃんは相変わらず無口で、お酒を飲んだ時だけ乱暴な口をきかはっても、ぐちでしかないし、みんな慣れこ
で、穏やかに日が移っていたのに、また例のいちばん上の姉さんや、「おタカをいつまで遊ばしとかはんの、瀧さんの縁談にさわるやないの。瀧さんもう三十ち
がいますか、昔の格やったら小姑の一人二人平気かもしれまへんけど、もううちかて働き人(ど)やて覚悟せな。瀧さんに縁談があったかて、来てもらいやすい
ようにしてやらな、まとまるもんも纏まらん事になるのんとちがいますか、わたしも心掛けてますし、お母はんもその気ぃになってもらわんと」と、言いたいだ
け言うて姉さんは帰らはったけど、お母ちゃん私(あて)はいやどすぇ、いやや、いつまでもうちに置いてぇな、お母ちゃん! そやけど「瀧さんのためや、瀧
さんのためや」て、皆で責めはる、お母ちゃんなんとか言うて。私(あて)はいやや言うてるのえ…。
見合いの日ぃは、神社の参道の脇の床几に男はん二人して腰掛けてはって、羽織り袴、きちっと胸そらし
て、どっちかいうたらお舅さんの方が格好良かった、という気がしたような、あてはその前を、ただそろそろと歩いただけで、見るていうほど見られるもんでな
し、ほんのちょっと、ちら、と。それだけや。
けっこうどす、と話はすすんで、私は嫌(いや)やったのに、瀧さんのためや言われて我(が)ぁがとおせ
ますか。それにお母ちゃんや。あてが可愛いのやったら家(うち)においてくれはったらええやないか、なんの味方もしてくれんとからに、あぁいややわ、あん
なくしゃくしゃになるまで子を産んどいて、最後の子ぉくらいもっと可愛がってえな。恨みますえ。私(あて)がきらいなんやね、あの人は。
一通りと、こさえてくれはった道具も、昔風で、ずず黒うて好かん。もちっと今今のが欲しかったえ。女と
して、嫁いでやっと一人前なら、これでも仕方(しょう)ないかと思うもんの、いやもぅ、嫁(い)った先のお家(いえ)の、ま、狭いこと汚いこと。お姑はん
が死んでおいやさへんで気苦労がなかろう、て言う人もいたけんど、お母(か)はんが無(の)うて手がまわらんのを、どだい越えてましたわ。
お餅をついてお煎餅(せんべ)にして芝居小屋に卸してはる、それが為に一階は土間で、流し。竃に、大き
な臼、醤油の甕、もろぶたなんぞで、もう、いっぱい。あとで聞いた事やけど、先代とやらが天理教(てんりんサン)に夢中にならはって、裸同様で水口(みな
くち=滋賀県)から出て来はったんやそうな、その貧乏のなかからお舅さんがここまで二人のお子もそだてはったいう事で、それにしても狭いこと狭いこと。さ
すがに此処では無理いうことなんやろか、知恩院(ちおいん)の新門前(しんもんぜん)に借家を借りといてくれはった、ほっとしましたな。二度とかなんと思
たわ、あの最初の縄手のお家(いえ)は。
そいで(その借家へ)行ってみたら、どういうことなん。小姑が一緒やて。もう住んではるんですて。
ヘッ。それもそやけど、そのつる(鶴=夫長治郎の妹)さんと二人して、待てど暮らせど肝心のその人はどこへ行かはったことやら、ぷいと出たまんま。今日祝
言を挙げたばっかりというのに、どういう人なんやろうか、何を考えてはるのやろ、どんな事情があるんやろか。黙って、押し黙ってはったつるさんが突然「や
すみますわ」て言うなり二階へあがって行かはった。男はんの遊びや、浮気は甲斐性やくらいのことは、なんぼ私(あて)かて知ってます、けど今日は祝言をあ
げたその日やないか、なんぼなんでも。わたしはどうしたらええの? お布団はひいとくもんやろな、どっちむいて? うろうろしてても一向に眠(ねむ)なら
へん、ただ何(なん)でや知らん恥ずかしい、そして悔しい、私は何の為にここにいるんやろか、これも瀧さんのためか? お母ちゃん答えてほしいわ。こんな
恥かかされて、お母ちゃんのせいやな、無理無理しとうもない結婚ささはって、そやけどもう後戻りの仕様がない。逃げ帰るてなみっともない事も出来ひんし。
朝になってつるさんは兄さんを連れて帰ってきはった。二人とも何も言わはらへん、まるで何もなかったみ
たいに、こうして嫁ぎ先での暮らしが始まったん。それからずっと、わたしには賄いのお金を、始末に(きちきちいっぱいに)使うても一週間か十日ですっかり
無(の)うなる程だけ預けはって、あとは何(なーん)も言わず、相談せず、断らず、何をしはるのやら、何処へ行かはるのやら、尋ねてもうるさそうにしはる
だけで、重ねて聞くと横からおつるさんが「よろしいやないの」と間に入ってきはる。つるさんはもう今にも嫁がはるいうことやったのに、どんな話が進んでい
るいう様子もないまま、縄手(の親の家)まで時分どきになるとお父さんの為の食事を運んではったのも初めのうちだけで、そのうちそのお舅さんもてっきり
こっちへ移ってきやはった。
つるさんは私(あて)のすることなすこと見てはって、お豆腐(とふ)はナ、掌(てぇ)の上で手早うに切
るもんや、て言わはる。あとはのみこんではるけど、そんなことも知らんのか、と、耳のうちに聞こえるがな。「おつう、おつう」て、あてにされ便利にされ
て、ハテいつ嫁がはんのやろか。私は背(せい)も高うてきりっと細身やし、上の姉さんかて「タカちゃん様子がよろし」くらいなお世辞は言うてくれはったも
んやけど、おつるさんいうたら、ぽちゃっとした、色は白いいうても「おたやん」みたいな「おへちゃ」は隠せへんわな、どうしようもない。
それでもぽつり、ぽつりと縁談はあって、歯医者はんとの折りはええ話や思て私(あて)がちょっと先に聞
きに出たら、「出しゃばった」言うてえらい皆しておこらはって、惜しいと思たけどなぁ結局は流れてしもた。それにおつるさんは、いよいよというとどうでも
手ぇがおいど(お尻=後ろ=気後れ)へまわって、用心深いんか、気が小さいんか、先に嫁がはったお連れ(お友達)と比べはるんか、それも「ええし」(いい
家の友達)と比べてたらどだい無理やわ。兄思いは徹底してはって一から十迄かばわはるし、しっかりしといやすさけ、「お鶴(つ)こが男やったらな」とお父
さんも頼りにしてはる風で、嫁にやりたいいう気がそもそも強うない。行かず後家ではかわいそやいう心配も無いみたいやし。
里では瀧さんが程なく祝言をあげはって、兄嫁さんは二重瞼(ふたえまぶた)の大きい目をしたおとなしい
ひとで、早速息子(こお)ができて、まあその可愛いこというたら、抱かしてもろたらもうそのまま連れて帰りたいほどや、可愛い可愛いいうてたら写真をくれ
はった。綿入れのちゃんちゃんこもお揃いで着せてある。その子ぉが、可哀そうにあんよするかせんかで亡くなってしもて、わたしはというと、瀧さんより先に
結婚してんのに、まだ子がない。そのうち一向に子のできる気配の無いのが気掛かりで、私(あて)としては一大決心でお医者に診てもろうたら、後屈ですて。
「出来にくいけど出来ないのとは違うから」言うてくれはったけど、さてどれ程のあてになるんやろう、ところがお医者に行ってたんを見てはった人がいて、お
つるさんに言わはったんやね、お蔭でわたしはまた皆に叱られた、「なんでよけいなことするんや」て。だれ一人わたしのことを案じる一言も無うて、銭かねの
ことだけ、「無駄遣いすな」て、そればっかり。「出来たら出来た時のこと、出来へんかてしゃあないやないか、なってみな分からんわい、そんなこと」言う
て、そーら叱られた。おつるさんが早速告げ口しゃはったんやわね。
おつるさんはお茶やお花のお稽古を、はなから、それで身ぃたてる気ぃで気張らはって、この新門前の借家
かて弟子をとるのに必要で借らはったんが、嫁のあてに入り込まれた、くらいの気で、いはる。
うちの人は錺職(かざりしょく)の手ぇも上がった言うて、まぁ兵隊にも行ってたんで齢(とし)もそこそ
こやし、弟子奉公の年期も踏み倒さんばかり、無理無理店を出したもんの世間は段々に不景気で、事変やらなんやらと、きな臭うもなってきたりで、もうこれは
珊瑚や翡翠の時代や無いと、珍しいこといきらはって、ラヂオの勉強を始めはった。これは熱心で、理科や数学の教科書、帳面を揃えて熱中して、とうとう京都
では一番最初の認定証を貰わはって「ハタラヂオ」の看板をあげはった。あてには、商売モンの結構な翡翠をはじめ真珠やオパールの指輪や珊瑚の帯留なんかが
残りましてん、お蔭さんで。意外やったのはおつるさん。小さな小さなルビーの入った指輪一つで、ほかにも欲しいと言うてはるようでもないのやわ、お茶のお
稽古に指輪とか装身具はいかんのやったんやろな、きっと。お稽古にを気を入れてはる本気が感じられましたわ。
ラヂオの仕事は、店でラヂオを売るだけでのうて電熱器や電球、ソケットなんぞも扱うたり、修理修繕もす
る一方、拡声器の取り付け、マイクロホンの設置、配線など、出入り先もこれ迄の花街(いろまち=祇園町)から警察、学校とまるで様変わりして。仕事が性に
合(お)おたんか、よう働かはって、外面(そとづら)も如才無うて信用がついたんやわね、で、養子はどうえいうお話が降って沸いたん。有済校の教頭さんか
ら。
お子は府ぅの視学さんのお孫さんやて。どんな訳があるんやろか。で、こればかりは私(あて)にも先ず
「貰い子はどうや」と尋(たん)ねてきはった。生まれて間もなく親から離されてる子ぉやて。養子先を探すもんの、あんまり小さいし、手がかかると引き取り
てが見付からんで、お祖父さんお祖母さんが育ててきはって、もう四つとか五つとか、男の子やし、家柄なんぞは結構といえばそれは結構なことで、是非にとい
う程の決心もつきかねたまま、なにはともあれその子を見に行くこっちゃねと結論が出ましたんや。うちのお舅(とう)さんも一緒に、子ぉには木で出来た飛行
機を手土産にして南山城の当尾(とうの)まで出むいたんどすのや。
山里の、見るからに大庄屋の構えを持った家で、その子は茶色の犬と元気そうに遊んでました、「お父ちゃ
ん、お母ちゃんやで」と紹介されて、用意の飛行機をぶーんぶーんとふりまわして見せて、今日はこの辺で、という時に、お婆はんかいな、ほん気楽な声して、
「お母ちゃんと京都へ行てみはるか」て水向けはりましてん、そしたら何や機嫌ようころころと犬ころみたいについてきてからに、そんな気ぃはこっちには無
かったんやけど成り行きで、バスに乗るいうて喜び、電車に乗るいうて喜び、電車に乗りあわせた女学生らが可愛い可愛いいうて、ほなこの子も臆せんとうけ答
えして、まあ気散じなやりよい子ぉやな、と思いましたな。家へ帰ったら帰ったで、小さな池に金魚がいるいうてはしゃいで。
その明くる日やわ、風呂敷包みにこの子の当座の着替えを入れて、お婆はんちゅうのが訪(たん)ねて来
はった。「よろしゅう」て。えらいことや。そやけどこの子はついて帰(い)ぬとも言わへんし、「お婆ちゃんが帰らはるよ」とみなが言うても泣きもせえへ
ん。渡りに船と捨てていかはったようで、泣いて追わんのも妙に哀れで、なんやいな、ほんまの親やと思てるんやろか。時々わたしに、「奈良へいたまんもん買
いに行きましょ」と言いにくるのん。あの山里では奈良まで買い出しにいかはるんやろか、話では生んだ母親がこの子の行方を探しているとか、しばらくは替え
名をつこうたほうがええ、宏一(ひろかず)ときめて、おつるさんも可愛がること、お花のお弟子さんらとの遠足やら親睦会にも連れ歩いて。それにしても探す
ほどならなんで手放すかなあ、母親は、折角の息子(こお)を。お正月、箸紙に宏一と書いて、「坊(ぼん)の名ぁやで」と前へ置いてやったら、なんやらしげ
しげと、読めるわけでもないやろに、分別顔がおかしいような可愛い様子で、こうして知恵がついていくんやろか、「坊(ぼん)、おめでとうさん、坊はいくつ
になったんえ、ほな早いこと幼稚園行かななぁ」て、おつるさんの遠慮のない嬉しそうな声、いややわぁ、この人自分が貰ろたような気ぃでいはるやないか。話
は幼稚園はどこがええやろかというほうへ移っていって、「幼稚園てなもん行かんでええんや、贅沢な」という男の声かていつにのう和気藹々や。私(あて)の
生んだ息子やったらなぁ。ええのになあ。
幼稚園(本願寺系の京都幼稚園、馬町)は帽子と白い大きなエプロン、その胸に名前を書いたハンカチを安
全ピンでとめるのが決まりで、入園式には小さなお数珠(じゅず)が渡されてこれは毎日忘れんように、て。誰もが行くわけでない幼稚園へ一年間とはいえ、
やっぱりこの子の里への見栄かぃなと思わんでもなかったけれど、私(あて)よりずっと若いおおかたのお母はん方にまじって、入園式や遠足やと気ぃの張るこ
と、それに気ぃのよう晴れますことは。そやのに肝心の坊(ぼん)は、毎朝のように、「いややいやや」と電信柱にしがみつくやら泣くやら、男の子やないか、
しがんだゃ言われまっせ、て、叱ったり励ましたり声を荒げたりしながらも、私(あて)のそばで一日おるのがええんかいな、甘えてるんやな、と満更悪い気ぃ
もせえへんし。
そんな時分やったかいな、そんなとこへ、えらいことが起こった。突然お巡りさんが家へ来ゃはって、おじ
いさんを預かってる、これこれいう名ぁやが、「おうちのお父さんですな」て言わはる。たまたまおつるさんが家にいて、早速引取りに、着替えも要るいうので
警察へ駆けて行かはる、一方私(あて)にはおじいさんのお茶碗を出して見せぇて言わはる、なんのこっちゃね。手にとって、「ふん。ほな皆さんのんも出し
て。家族は何人」やて、けったいなこと尋(たん)ねはんのえ。お茶碗並べさしといて言わはる事に、「おじいさんは疏水(そすい)へ飛び込まはったんや」
て。なんでぇな、と思いますやンか。そいで家族が、嫁のわたしがえ、年寄りをいじめてぇへんか、御飯、ろくに食べささへんのとちがうかて疑わはったんや
わ。あの時節は段々に食料もナンやしな。たしのうなってたしな。男二人の大きな茶碗並べて見はって、「こんならええわ。ほなよう気ぃつけるように」て、お
巡りさん帰って行かはった。びっくりしたわぁ、もう。おじいさんがなんでそんな事おしやしたんか、警察で何をお言やしたんか、なぁんも知れへん、気色わる
い事(こッ)ちゃった。そやけど私(あて)のせいやない、あてはなんも知りまへんえ。足を滑らさはっただけと違うんかいな、大袈裟な。
戦争は、配給や灯火管制や警戒警報、空襲警報や言うて、そのつどウチの人は警察へ
走って手伝いをせんならん。なんたら書いてある腕章をして拡声器なんぞ担いで、そうこうするうち、いよいようちでも何処ぞへ疎開ということになった。どだ
い田舎に縁は無いんやけど、小学生は、アちごた国民学校いいましたな、その生徒は強制してでも集団疎開さすちゅうことやし、うちは、おじいさんもこの戦時
に足手纏いかと、ご近所の細いツテを頼りに丹波の奥へ行こかとなった。あげくトラックが珍しいて集まってくる子供らに道を尋(たん)ね尋ね、何年も人の住
んだ気配のないぼろ家(や)に辿り着いたん。
おつるさんは結局なんのかんのと理屈つけて丹波へは来はらへん。内の人も一晩かそこらで京都へ帰ってい
かはると、なんやすうすうするような頼りないような、しかし気楽な、ほんで不便な田舎ぐらしですわ、とにもかくにも村役場ひとつへ行くにも山を越えんなら
んほど遠かった。国民学校へ上がる時には、さすがに通称ではいけません言われて、坊(ぼん)も恒平と本名に戻しましたけれど、ま、どうと言うことも無う過
ぎて、ましてこんな田舎に隠れてしまえば生みの母親にもみつかりゃせんやろ、安心かいな、と。
私(あて)は土いじりは小さいから好きやし、木も草もさてどんな花が咲くのやしらん、と楽しみでこそあ
れ、うっとしい筈がない。新門前の家(うち)のちっちゃな坪庭では、陽が欲しいんやろな、ひょろっと背伸びしてしか育たん草木とちごて、ここらの草はむん
むんと色も匂いも濃い。男手が徴兵されてるせいか、田んぼかて貸してくれはるというので、夫婦して見様見真似で田植えをしたけど、さ、どう植える、どう苗
を並べるでウチの人と意見があわず怒鳴りあいや。はたの人はあきれてはったやろけど、うちらにしたら気晴らしみたいなもんやわ、他愛ない事に大声出すのは
な。
この疎開中はウチの人、京都の家から自転車で手に入った食べ物などまめに運んでくれはった。山道ではパ
ンクもするし、よう頑張らはったわねぇ。ところがお舅(とう)さんはとうとう退屈に負けて、京都へいなはった。それとも虫が知らせたんやろか間もなく倒れ
はって、敗戦の年があけてえらい時節に死なはった。おつるさんがずっと見てはって、恒平と一緒に呼ばれて戻った時はもうあかなんだ。お葬式だしたあとまた
山へ戻って、いよいよ丹波を引き払(はろ)たんは恒平が腎臓の病気になった時で、これは様子がただごとやないと感じて無理無理引き摺るように京都まで連れ
て帰って、そのまま入院というか、松原(まつわら=通り)に行きつけの樋口さんいうお医者さんが、目玉も動かしたらあかん、絶対安静やとお二階の一と部屋
に寝かしてくれはりました。よぉう連れて帰ってきたてお医者に判断のよさを褒めてもらいました。けど、この子、よう病気しましたなぁ。扁桃腺やアデノイド
や、盲腸の手術もえらいこじれるし、骨折はするわ怪我もようしました。
さ、中学に進むについて、籍を、養子縁組をせないかん、いままでみたいにうちの姓を勝手に名乗らせる事
はできんいうことでな。ところがこれがやっかい。もう、あの当尾(とうの)の山里のえらい御当主かて勝手がききませんわ、新憲法で。憲法やないわ民法か。
実の両親の許しが要りますのやて。
思えば恒平もかぁいそうな、父の名ぁも母の名ぁも知れていて、そやのにどちらの戸籍にも「入(い)るを
得ず」、たった一人で戸籍立ててますのやが。そんな事が出来ましたんやなぁ。そうやって無理無理生みの母親から名ぁまで変えて隠してきたもんを、ここへき
て嫌がるその生みの母親から貰い受けようというんやから、まずそのお人を探さんならん。現れた人がまた変わった人で、あてらに一緒にお銭湯(ふろ)へ連れ
てほしいて、そいでお風呂から上がると着物を着るのん手伝うて欲しいて。知らんわ。私より年も上で、いかに「ええし」のお育ちやかて、着物着せろとは、と
思いながらも何やしらん気圧されるていうのか、言われるまま着せたげました、こんな事で臍曲げられてもなぁ。そーら変わってはりました。着付けも派手とい
うか、こう、だらっとしてはるし、恒平に逢いたさにおいでやすの分かってまっしゃん。けど恒平は顔も見んと逃げ出すし、はぁもう屋根づたいにでも姿をかく
して、まるで私(わたし)が会わせまいと裏で言い含めてるみたいやないか、けったいな子ぉや。母親も、あれもこれもと、おみやげ置いていかはっても、恒平
がそんな態度ではこの家ではらちあかんと思わはったんかして、学校(がっこの外で待ち伏せてはったこともあったらしい。お父さんという人も来ゃはって、こ
の時は恒平も顔を出して、帰(い)なはるおり、「あんたも連れてお貰い」と言うてやったん。なんでそんなこと言うたか、この人が本当のお父ちゃんやでと言
う替わりやったんかな。なんやぐちっぽいお人やったけど。養子を納得してもらうには案の定やっぱりお母はんがなかなかしんどかった、内の人がけったいな
奴っちゃでと困り果てて、そんなこんなも恒平にはみな内緒でせなならんし、ここまで育ててきたもんを、機会を逃して中途半端はかなんしなあ。
恒平は怖がりで、泣き虫で、歯医者であれ耳鼻科であれ泣きわめいて椅子からずり落ちる、呆れられるやら
恥ずかしいやら、そんな子ぉがそれでも十歳(とお)も過ぎるとしっかりして来てな、放っておいても勉強は大好き、学校は大好き、学芸会も大張りきり、そい
でおつるさんの茶室が好き社中さんが好き、中学に女の子ばっかりの茶道部を始めるし、お茶といえば小さいからおつるさんの稽古日には裏(はなれ)へ行きっ
ぱなし。赤い花緒の下駄はかしてもろて喜んだり、じょろ(あぐら)組んだままお手前の真似ごとして黄色い声でほめてもろたり、稽古も段々に熱心で、おつる
さんは嬉しいかして、許状(きょじょう=免状)を次々とってやるわ、お茶名は勿論、もうこれ以上はお家元へ直々のお稽古に出なあかんいうとこまで、気張ら
はった。お茶会の手伝い、代稽古と重宝もすればお小遣いもやらはるようで、さては社中さんと娶(めあわ)せる気ぃかいな、自分の跡取りにする気ぃかいな、
そうはさせるもんかいな。
戦後に疎開先から帰ってしばらくは、稽古場がうちの奥の四畳半やったこともあって、私(あて)も手伝う
いうか習ういうかしたことも一時(いっとき)あったけど、うまい具合にこの借家を、離屋(はなれ)ともども買い取る事ができて、おつるさんが離れに移ら
はってからは、もう知りまへん、やめさして貰(もろ)た。私(あて)が手伝うと分かればおつるさんの偉(えッら)そうに人使いの荒いこと荒いこと、かなん
かなん。家での稽古はお茶とお花が週に一日ずつ、ほかの日ぃは出稽古と生け込みに出はるわけで、勢いあれこれの集金です配達ですと留守中はみんな私(あ
て)が面倒見んならん。そこらはおつるさんも分かっといやして、盆暮れの挨拶は欠かさはらんの。そやけどな、例えば下駄や。普段履きといい、出掛ける時と
いい、私は下駄が好っきゃ、草履よりよほど粋やし、下駄を貰(もろ)うて嫌やとは言いませんで。それがいな、おつるさん自身のよりいッつもソラ地味なもん
なん、嫂(あによめ)やいうたかて歳は私のほうがひとつ下どすえ、そいでですが、それを履きましょうぃな。「なんや、もうおろさはったん」と、こうや。
「もったいない」と、こうや。なんじゃいな。一事が万事そぅら始末なお人で、私(あて)かて紐一本、端布(はぎれ)一枚よう捨てんとなおしとく(仕舞って
おく)方や、けど、なんぼ始末なわたしでも、おつるさんのあそこまではようしませんえ。雑巾をゆすがはったら水の中へ糸が溶けて出てくるんやから。その水
を流しますやろ、石だたみにぼろがぞわぞわ残って、汚いこと。それでもその雑巾を捨てはらん。冥加や言うて、そこまで、せんなんやろか。
恒平は当然のように高校や、大学やて、なんもそんなに勉強できひんでもええんや、
家(うち)の商売を黙って継いでくれたらそれで良かったのに、なまじ勉強が出来てみれば、この子の大叔父さんはどこどこの大学の教授や、叔父さんか従兄弟
かは日赤のお医者やと分かっているだけに、大学やめえ、商売せえともうちら言い出せへん。そのうち同じ大学の女の子を連れて来るようになって、お父ちゃん
がアンテナ屋根へ上げるの手伝え言わはったら、保富(ほとみ)さん来て待ってはるのにぃて鼻鳴らしよる、嫌いやわぁ、揚句のはてに恒平のシャツを着よった
り、プレゼントゃいうて女々しい色のセーター着て嬉しがってからに、あぁ気色悪ぃ、かないまへんな、いらいらしますな。
女の子ぉまで大学ぃやらはるんやから、どないな家かしらんと思ぅたら、もう両親はいませんねて。親もい
んのになぁ、大学かいな。くやしいやないか。勉強は出来るのか知らんけど鈍臭い娘(こ)ぉで。このあいだも恒平とさんざ口争い、恒平はぱぁっと出て行く
し、ええいむしゃくしゃする、と髪を洗うているところへその女大学が尋ねてきたもんで、あんたが家(うち)へ来るようになってからは、この家では喧嘩が絶
えまへんね、と、洗い髪を拭きふき表まで出て大声で言うてやったのに、ぼうと立っとるだけやがな、恒平が戻ってきてそそくさとどっかへ連れていてしもたけ
ど、私は嫌(いや)やで反対やで、お嫁さんは中卒でよろしいの、おとなしいて、はいはい手伝うてくれる嫁さんがええんやて、さんざん言い合うたけど結局そ
の保富さんの卒業と同時(いっしょ)に二人して東京へ行てしもうた、大学院にまで通わせてやったんやないか、それ放ぅり投げてからに。あした汽車に乗るて
いうし、恒平が好きなまぜ寿司をつくって持たしてやったけど、どうせ二人で食べましたんやろ。女の方に親が居んいうことは、うちへ正式の話に来るお人も居
(い)んいうことで、私は真っ向反対やし、結婚の、式の、披露のと誰の口にも出んうちに、さっさと、なあんにも無しで東京に行ってしもうた。掛りもいらず
面倒もなし、勝手にせい。
結婚しました、てな葉書が東京から届きましたわ、えらい簡単なこっとすな、養子にするについてはそら気
苦労も手間ひまも掛かったのに。この家(うち)ぃ来たときと出ていく時はあっさりしたもんじゃ。それでも恒平はどこそかに六畳一間借りましたの、庭の柿若
葉が美しいですの、給料いくら貰いましたの、せっせと筆まめで。筍を送ってやったらな、この時は嫁から礼状。料理の仕方はなんぞと甘えたようなこと書いて
寄越したから、知るかと無視してやった。秋、おつるさんの社中が東京へ嫁ぐ、ついては東京での披露宴にと言われ、恒平の結婚式にと用意してたとかの老松の
裾模様の黒紋付きをおろすんやと見せてくれはりますわ。「あんたが反対するもんやし、着る折りがなかったやないか」いう皮肉かいな、勝手にしてえな。恒平
のとこで泊めてもらうし、なんか序でないかて、おつるさん。おつるさんの見上げたところは何か用をすんのに手ぶらでと言うことが無い、なんぞ序で序でに足
す用がないか、無駄には席ひとつ立たはらへんのですわ。そいでこの時は、寒うなることやし電気炬燵を、若い夫婦二人やし、いっと小さいサイズでええで、と
いうても風呂敷に括り上げてみたら大した嵩や、そンでも東京まで担いでおいきやした。炬燵布団くらいはどないかしますやろ。
そうこうするうち、どうも子ぉができるらしいと便りがきた。ええっほんまかいな。近頃の若い者(もん)
のことや、当分は二人だけでとかなんとか、孫なんて先の先の話やと思ぅてましたのに、早いやないか、こればかりは意外やなぁ、しかし結構なこっちゃ。
お正月、船岡の瀧さんが、毎年のことやけど年始に来はって、恒平の居らん正月のわけを、ま、ぽつぽつ聞
いてもろて。瀧さんは最初の坊(ぼん)
を亡くさはって、続くようにその子のお母はんも亡くなったあと、再婚して、今は娘が三人。この姪が入れ代
わり立ち代わり間遠ではあっても私(あて)を尋(たん)ねてくれますんや。優しい育ったな、と、つい思うことは他人の子はあかん、やっぱり血ぃやというこ
と、血ぃは水より濃い、恒平はアテにはならん、ましてあんな嫁なんぞ頼りになるかいな。いよいよ言うときはあの三人の姪の誰ぞに面倒みてもらお、か……。
七月やったわな、恒平から迪子が入院したし手伝いに来てくれへんか、やて。予定日の一週間も前から入院
てなこと聞いたこと無いわ、なんぞあったんやろか。厚かましいな、勝手に出て行ったんやないか、意地は張りたし、でも、ややさんやと思うとこれがどうにも
抵抗出来ませんわ、他所(よそ)さんの子ぉでもつい声掛けて気ぃ引ぃたりからかいとなる、お向かいの子を膝にのせて店番したり、子供はええなぁ、生まれる
のは坊(ぼん)やろか。
で、なんもなかった顔で恒平と二人の六畳一間暮らし。それにしても東京の六畳はせまいなぁ、京都の四畳
半より使いでがおへんな。
ようよう生まれたややさんを見に、一度だけ病院へ。残念ながら女の子や、しょうがない、こればかりは口
に出さんとこ、また生みますやろ。ま、尋常や、色も白うふっくりして、皺くちゃの赤い猿という風でもない。夏のこととてどの病室も開けっ放し、ゆるゆる廊
下を行きながら見ましたけど、頭の長いのやら、引っ掻き傷だらけのやら、小さい小さいお人形さんみたいなややさんもいますな、あんな小そうて育つんやろ
か。母子とも健康で退院して、それからが大変や。狭い一間に四人。たちまち母子して汗もだらけ、それをどうとかするいうて、あられもない格好(かっこ)し
よるし、いたたまれへん、ややさんをもっと抱いてたかったけど、誰ぞがヒステリイ起こしよる前に帰(い)にまっさ。嫁姑は一つ屋根の内にいるんでも大変な
んや、この狭さではどうしょうもない。
ややが出来てから、写真が届く、短い休みにややをつれて顔をだすようにもなった。ガコウソウゃいうてや
やこの口、薬塗って紫色やったり、誕生過ぎても歩かんいうて日赤の医者に相談に行ったり、東京にも医者はいるやろに。
自分の実の親のこと里のこと、どれほど知ってるんやろ恒平は。それと改まるもなんも、こっちから話した
事はないし、尋(たん)ねられたことも一度も無いやないか。里と付き合うとか兄さんと行き来したいんなら、そうおしやしたらよろし、反対しまへんえ、お好
きにおしやす。兄さんが病気や、入院やと知らされたときも見舞いにつれて行(き)ましたやないか。けど、あの時恒平は誰の見舞いやと思てたんやろな。父親
も母親も同じ、やはり養子に出された兄さんやと、まさか知らんやろし私(あて)も言わへんし、わざわざ愁嘆場しとないし、うちの子も尋(たん)ねて来えへ
んし……。
そのうち、幼稚園にもまだあがらん小さい女の子ぉが、こけて肘が折れたんですと。手紙ですがな。ギプス
をしたままお正月やて、洋服の袖が通らんのでデパートへ走って赤いウールの着物を着せましたんやと。私(あて)もデパート覗いてみたら、被布(ひふ)とお
対(つい)になったんが目に付いて早速送ってやったん、そしたらお正月にそれ着て来ましたわ。三角巾で腕吊して後ろ襟を親が掴んではる、ギプス重うて前に
倒れそうになるらしい。着物は可愛い、よう似合うて。咄嗟のことに既製品を買うたけど、七五三や、十三参りにはきっとええべべ縫うたげましょ。女の子ぉも
楽しみはあるわなぁ。
ところがどっこい、この小さい子ぉが達者に口を利く、おばあちゃん違うよママはこうするの、おばあちゃ
んそれ駄目ママはね、ママ、ママ、何が何でもママや。ママが絶対なんやね。ママは友達と会ういうて出歩いとるのにおばあちゃんの言うことが一向にきけまへ
んのや、伏見のお稲荷さんへでも連れてやろと家を出たもんの、嫌、嫌言うばッかり、とうとう何たらいうレストランまで連れていきましたわ。ママに返しまっ
せ、ああしんどやの。そのママ、相変わらず鈍臭いというか押し強いというか、戸棚にキャラメルやらチョコレートなんぞちょいと仕舞(しも)といたんを見付
けて、いゃぁ美味しそうて、あっけらかんと言うもんやから、誰があんたの為にとっときますかいなて言うてやったら、どないやね、もっともやと思うたんかし
らん、にゃぁと笑いよる。言いかえすいう事はないけど姑に気ぃつこうてるとも思えへん。服かてまぁえげつない色のだんだらになったんを着てるしするんで、
言うてやったわ、どの色もどの色も私の嫌いな色ばっかりやな、て。それでも、にゃぁ。みんな恒平さんが買うてきゃはりますのん。ヘッ。裏の離れへ行ておつ
るさんとは何を話しこんどるのやら、しばらぁくして帰ってきても何の話してきたとも一言も無いし、恒平の好きな色御飯を炊くいうのにこの嫁さん人参きざん
だはる、わざわざ恒平の嫌いな人参入れることないやないかて、ねきへ寄ってはっきり言うてやったのに、はぁ、だけや。反抗的とも言えへん。暮れの買いだし
に古川町へ行ったおりは、ふんとかはあとか頷きながら何買うのかどう選ぶのか、荷物持ちしながらぴったり付いて来て素直なもんや。自分の里ではこうやっ
た、てなことは一言もない。そう言えば里の話をせん嫁やわ。そもそも駆け落ちみたいなもんで、釣り書き(親族書)見せてもうたわけでなし、なんぞ遠慮か引
け目でもあるんやろか。お父さんは石油会社の専務とかなんやとか聞いた気もしますけど、あっちから言わへんのは隠しときたいんやろか、と思うと尋(たん)
ねよがおへんわなぁ。たらたら自慢されても気色わるいけど、ま、触らんとくか。
子供の成長は早いもんやな、もう入学やて、私もすぐ六十七になるとこやった。十人
も生んだお母はんの末っ子でひ弱いひ弱い言われながら育って、太ったことも無いけど、いつの間にゃこの歳や、さてあとどれぐらい生きるもんやら今のうちや
なと思て、孫娘の小学校の入学式に私も出席しました、来(き)えへんか来えへんかて煩(うるさ)いし。式の後、皆して何やいな西武線とかいう電車で、埼玉
の飯能の、何(なん)たらいう山の鄙びた料理旅館で一泊しました。松ぼっくりの落ちている坂を上ったり沼みたいな池を怖々覗いたりして、寛ぎましたわ、そ
の時撮った写真をまさかわたしの葬式に使いよるとはね、よほど機嫌良う写ってましたんかいな、そやな。
さてさて、また、ややさんが出来るらしい。今度は正月の三が日の内にでも、やて。それが七草すんでの明
くる日やったかな、今度こそ坊(ぼん)が生まれたて言うてきて、また手伝いに来てくれや。しゃぁない、行きましょ、坊に会いに。坊はお姉ちゃんとちごて、
おでこ皺くちゃ、まるで猿や。そいでまあ立派なモンつけて。思わず大きいなぁ、へぇ、て口に出してしもた。けどお目出度いこっちゃ、男の子がでけて、何よ
りやわなぁ。
(一九九六・十一・十八 - 九八・一二・二日 脱稿)
荻
江「細雪 松の段」 秦 恒平 詞
あはれ 春来とも 春来とも あやなく咲きそ 糸桜 あはれ 糸桜かや 夢の跡かや 見し世の人に めぐり逢ふまでは ただ立ちつくす 春の日の 雨か なみだか 紅に しをれて 菅の根のながき えにしの糸の 色ぞ 身にはしむ
さあれ 我こそは王城の 盛りの春に 咲き匂ふ 花とよ 人も いかばかり 愛でし 昔の 偲ばるれ
きみは いつしか 春たけて うつろふ 色の 紅枝垂 雪かとばかり 散りにしを 見ずや 糸ざくら ゆたにしだれて みやしろや いく春ごとに 咲きて 散る 人の想ひの かなしとも 優しとも 今は 面影に 恋ひまさりゆく ささめ ゆき ふりにし きみは 妹(いもと)にて 忍ぶは 姉の 嘆きなり
あはれ なげくまじ いつまでぞ 大極殿の 廻廊に 袖ふり映えて 幻の きみと 我との 花の宴 とはに絶えせぬ 細雪 いつか常盤(ときわ)に あひ逢ひの 重なる縁(えに)を 松 と言ひて しげれる宿の 幸(さち)多き 夢にも ひとの 顕(た)つやらむ ゆめにも人の まつぞうれしき
──昭和五十八年三月七日作 五十九年一月六日 藤間由子初演 国立小劇場──
(作詞中に「我」とは「松」子夫人、「きみ」とは妹「重」子さん、「人」とはおおか
た谷崎潤一郎に宛ててある。)
依田宗未(よだそうみ)は、死ぬ数日前、人に助けられて床の上で唯一字、自分の茶
名の"未"と書いた。筆をもつちからがなかったので、指を空(くう)に立てて、そのかわり立派に大きな文字を書いた。見えるはずのない字がくっきり眼に残
ると言って、珠子はおじいさんを見直した。
千利休の孫元伯宗旦に、"悟了同未悟"という書があり、依田は茶名にその"未"の一字を貰った。当時の
家元の命名で、家元は依田のことを、「お前はおとなしいから」と微笑(わら)われたそうだ。
依田は二十四になっていたが、家元の諧謔を解さなかった。生憎と彼は亥歳の生まれだった。
"ごりょうは、みごにおなじ"と、そう読まれていた宗旦のことばを依田は大事に覚えた。"悟り了るは未
だ悟らざると同じ"と読み直してもみて、よくは分らなかった。依田はもともと謎々のようなこういう文句を敬遠していた。痛いも寒いも面白いも、からだを動
かしてそうなってみないと納得しないと.いう所が彼にはあり、おとなしいどころか意固地なのだと同僚は思っていたらしい。
だが元伯の一軸を床に掛けて家元に教えられれば、依田は悦んでそのことばを覚えた。七十四まで五十年、
依田はひょっとしてときどき癖のように指を立て、空に"未"、"未"と書いて来たかもしれない。ひつじ(傍点)のようにと思っていたか、未だ悟らざると同
じと諦めていたか、珠子と一緒に最期の一度きりのそんな場面に出逢った私は、依田との初対面から半年と経っていないこと、その間僅か三度しか逢っていない
ことが、訝(いぶか)しくてならなかった。
珠子は祖父をあんなに遅くに見直したが、私の方はそんなにも早く依田宗未と別れねばならなかった。依田
は私を初対面から身内と思って呉れた。臨終の時、私は遠慮もなく声をあげて泣いた。
依田の妻は三年早くに先立った。アルバムの写真では、ただ珠子の祖母というだけだった。
珠子の母は依田夫婦の一人娘だった。麩屋町の直木康彦、珠子の父に嫁いで、一度流産し、二度めに珠子を
産むとまもなく死んだ。やはり写真で見ると、やがて母と同い年になる珠子によりも、病衰した依田の、白皙の容貌に肖ている。依田老人は、若い頃さぞ佳い眼
をしていただろうと想える、澄み切った、意志的な表情を最期までなくさなかったが、珠子を産んだ人の眼も、細おもての温和しい表情の中で涼しく光ってい
た。珠子は祖母に顔かたちは肖たらしく、美人だが、祖父や母ほどしんとした所がない。
依田らは一人娘を望まれて他家へやり、そして呆気なく死なれた。珠子の父は再婚し、下にもう一人女の子
が生まれた。そこで、というのも変だが、珠子は結婚の際に直木籍を離れて依田を嗣ぐ約束のようなことが両家で円満に話し合われた。依田が孤りになると、珠
子は必要上ほとんど祖父の傍で暮した。家元業躰(ぎょうてい)の首座を占める依田には弟子も多く、稽古日と限らず茶室の用意も、当人でなくて済む分は珠子
が代ってした。黙っていたが、老妻の死後依田がどれだけこの孫娘に慰められていたかしれない。いやがるのをむりにも茶室に引き据え、人の来ないまに珠子の
点前(てまえ)を見てやったというはなしも、依田の老いての甘えだったか、どうか。
私が依田を初めて梶井町の家に訪ねたのは、ただ挨拶にでなく、むしろ掛け合いのためだった。依田の姓を
引き受けるのはいい、しかし私に茶の家を嗣ぐ気はなかった。だがぜひ珠子と結婚したかった。講師とも呼ばれないまだ研究室暮しで、自然親のすねをかじって
いたが、幸い先の道がすこし明るんで来ていた。
珠子自身は屈托がなく、私の方では意外に母が乗気だった。依田宗未の一人きりの孫娘ということは、多少
斯の道を知った母に窮屈な思いをさせるのではないかと心配したが、珠子に逢えば分って呉れると思った。その通りになった。
珠子は英文科の四年生になる所だった。卒業したら国際電話の交換手になりたかったと言い、せっかく米人
の個人教授まで受けて堪能になった英語を、朝から晩まで使っていたいからと笑うのだ。会話の苦手な私は珠子の笑顔に、その他愛なく描かれた夢に、かるい嫉
妬を感じる。院政期荘園関係の古文書解読にうつつを抜かしている私に、英語を使う機会はめったになかった。
直木の両親には、逢って丁寧に自分の口で話した。いよいよ最後は依田宗未だった。
おじいさんはよく話す人か、と珠子に訊いた。口かずのことだ。珠子は首を横に振った。それは本来好もし
いことだけれど、この際は気がるに喋って呉れる相手だと有難かった。七十四という歳は自分は構わないが、意固地に黙りこまれた時に弱る、と思った。
その日、平日同様鞄をもち、とくべつ手土産もなく、大学を四時前に出た。
正門前の電車通を南側へ渡ると、御所の中は、わさわさと梢の枝を鳴らして二月の空に白い風が流れてい
た。樹々の根かたには前夜の雪がすこし残っている。砂の道をざくざく踏んで、築土塀の蔭を溝の水音に沿って歩いた。
泥のついたトレパンの膝を元気よくはたきはたきバットをひきずって、学生が一人小走りに帰って行った。
御所の中に大学で借りている運動場がある。私も前にはそこでソフトボールなどで体育の単位をとった。だが何で彼だけ一人抜けて帰って行くのかと思った。そ
れから唐突に、今日はうまく行きそうだと思った。わざと、むっと口を結んでみた。梅が匂っていた。
無邪気なくらいむきになっているソフトボールのゲームを横目に眺めて、東の、清和院御門の方へ通り抜け
て行った。珠子も四年生ならあれよりはおとなだと想い、汗くさい男子学生と較べてまでそんなふうに思おうとしている自分が、おかしかった。
珠子は玄関に手をついて私を迎えた。冗談かと思った。あわてて返礼したが、勝手がちがった。心配になっ
た。
「だいじょうぶよ」
珠子は小声で言い、私は鞄をどこへ置こうか迷った。
「また重いのね」と、寄って来て珠子は赤ちゃんを抱くように鞄を受けとり、冬日の洩れた畳廊下を先に
立った。青竹に青い葉をピンと立てたちいさな筧(かけひ)が、坪庭の白い石組に懸かり、つぶらな実を朱く垂れた万両の株は縁にちかい庇(ひさし)の蔭に葉
をひろげていた。
八畳の座敷は総栗のがしっとした造りで、翳の濃い、茶人の居間というより武家の書院の趣だった。柱も床
がまちも鴨居も、全部がざらりと手強い栗だった。"満城流水香"と筆太の一行を掛けて尊式の唐銅(からかね)に山茱萸(さんしゅう)と本阿弥椿が生けてあ
る。
座布団を使ったが座卓はなく、膝の前が広かった。
珠子が出て行くと、仕方なく私は腕を組んだり眼をつむったりした。炉に火が入っていた。華籠(けこ)に
似て、時代の艶も黄金色(きんいろ)に鈍んだまんまるい手焙(てあぶ)り。それにも火が入っていた。雪見になった障子の外は張り出した広い竹の縁で、藁を
巻いた松に半ば隠れて三尺ほどの古い石幢が見えた。
大きい家ではないが奥深そうだと思った。
依田は先に私に話させた。順序立ててはうまく喋れなかったが、依田が聴き上手なのか胸にたまったこと
は、みな外へ出した。それだけで気もちは佳かった。
「これの母おやのことは、ご存じですか」
珠子ひとりを産むため嫁に行き、そして死んだことを依田は言うらしく、だが私は縁起をかつぐ気はすこし
もなかった。頷くと、依田は、それを気にしないで下さるなら自分に異存はない、珠子が望むことを自分も望んでいますと静かに言い切った。あっけなくて私は
きょとんとしたらしい、依田は微笑って、その余のことはよく二人で相談して下さいと席を立った。珠子も立って、私を促して障子をあけた。竹の縁から、五葉
の松の下枝をかすめて曲尺(かね)なりに苔の庭を石が伝っていた。
あどけないほどの笑顔になって、珠子は沓(くつ)ぬぎに用意した庭下駄で奥の茶室へ入るようすすめた。
半蔀(はしとみ)の傍に背に余るみごとな南天があり、やがて破風(はふ)に松庵と額を打った軒のひくい
茶室があった。珠子は蹲踞(つくばい)で手に水をかけて呉れながら、あのにじりロへどうぞと教え、耳もとへ口を寄せて、あぐらかいていいのよと言う。珠子
は、飾らない白いブラウスの?上に藤色のふわふわ毛の立ったカーディガンを着ていた。ことさら和服を避けたそんなふだんの姿が新鮮で、自分も学校の帰りの
くせして、何かもう珠子たちに家族ぐるみ待たれていた気がした。
珠子は私のはきものを沓ぬぎのわきへ揃えると、自分は元へ戻って行った。
茶室も、茶室の中で茶を振舞われるのも初めての経験ではない、が、依田宗未ほどの人が私のために茶を点
(た)てて呉れるのは望外のことだった。
依田はすでに取り返しのつかぬほど健康を害していた。だから珠子も祖父にそうまでさせたくなかったが、
私が訪ねると決まった時から依田は自分で茶道具の取り合わせも考えているとは聴いていた。猫に小判だなあと苦笑いし、珠子はもう何も成行きですものと寂し
い顔を見せた。私は二着あるうちの新しい背広を着ただけで菓子折りももたなかった。母に言うと却って小うるさくなるので黙っていた。
一礼して茶室へ入って来た依田宗未は意外に長身だった。そしていかにも病んだ人という翳の浅さを肩さき
から両腕へかけ感じさせた。珠子の日ごろの話からおそらく死病と見当をつけていながら、だが依田の作法は、門外漢の眼にも、自然にとはこうかというよう
な、清い、こだわりのないものだった。とりわけ肉づきのやや落ちた二つの手は、しなやかに、よく鍛えられて、惚れ惚れするほど軽く、静かに、道具を運び道
具を使った。
私は茶の作法は皆目分らない。だが、何であんなふうに帛紗(ふくさ)を使うか茶盆を扱うか、とは、依田
は微塵も思わせなかった。
手も美しいが、依田の眼はもっと胸を打った。立派な手を生かして無礙(むげ)に使っているのは老人の優
しく和んだその眼だった。的確に、無心に、二つの手は依田の眼が湛えた或る愛情のようなものと気息を合わせて動くのだ。手が触れると、茶碗が、茶器や茶杓
が、水指(みずさし)や釜が、銀ねずの魚子地(ななこじ)の帛紗が、銘々に、此の世ならぬものを言った。
珠子は菓子を運び出したまま茶室の中に残っていたが、お菓子をどうぞと懐紙をさし出して呉れるまで、私
は依田という初対面の老人に心を奪われていた。
菓子は青磁の端反鉢(はそりばち)に入っていた。干菓子は透き漆のさわらの輪花盆(りんかぼん)に青と
白の吹き寄せだった。青いのが雪間草で、白いのはもう蝶だった。
「――さん、お酒は召しあがる」
依田は黄瀬戸の水指から黒い塗蓋をとりながら突然そう訊いた。好きです、と答え、依田は黙って木地の炉
縁(ろぶち)の柄杓に手を添えていた。肩をつむつむと丸く張った釜から盛んに湯気が立ち、あごを引いて湯を茶碗へはこぶ依田の一瞬の姿がひどく幸せそうに
見えた。幸せなのはだが私だった。そう思うと訳もなく私はあわてて珠子を見た。珠子はにっこりした。
元伯の雄健な一行の下で、ひき緊った備前の火襷(ひだすき)に谷桑と乙女椿がほころんでいた。座布団も
手焙りもない三畳間に湯音が鳴り、丸窓の障子の外はタやみに落ちこんでいた。颯と茶筅が入ると舞台がまわるように茶室が花やいだ。依田の点てた茶を珠子は
にじって出て私の前へ置いた。青い茶碗から湧いて出たように青い泡が盛り上がっていた。
美味かった。唇に触れてまったりと流れる口中(こうちゅう)のかすかな重み。両の掌(て)に包んだ茶碗
の手ざわりの確かさ。依田と珠子は今自分を見ているだろうか、いやいや二人とも銘々の思いを抱いて膝に手を重ねている――。
「美味しゅうございました」
「それは、どうも」
替(かえ)を使わず、依田は私の戻した茶碗で珠子にも一服点ててやった。
珠子が神妙に吸い切ると、依田はあぐらになるようすすめて呉れた。会釈してあぐらをかいた。珠子が立っ
て水屋へ入った。
炉のわきへ直った茶盆を取り込み、一度左の掌にあずけ依田はふと、とまった。そして湯を通しただけでそ
のま依田は客付(きゃくつき)へ膝から向き直り、私に真向って坐ると掌の茶碗を元の釜の蓋の傍へ戻した。
依田が何か話しはじめると気づいて私は坐り直そうとした。優しく、依田はその必要のないことを言い、点
前の途中で妙なはなしだが、明るい部屋ではわたしが気恥ずかしいから、と、はっはと笑った。
珠子が折敷(おしき)の膳を運んで来て前へ置いた。鶴丸の蒔絵の椀を左右にならべ、向附(むこうづけ)
に赤貝の色と防風の若芽が添えてあった。私と依田の前へそれぞれ運び終ると次に珠子は青竹の箸をのせた鼠志野ゅょ(ねずしの)ふうの八寸をもち出し、また
木盃と銚子を運んで来た。
依田はお前もと珠子に言いつけ、珠子は素直に自分の膳も取りに立った。
「はじめてお目にかかってこういう作法外のことをするのは無調法ですが、ま、老人に免じてゆるして下さ
い。食事はあちらで改めて用意させますが、ま、こうしてすこしわたしがおしゃべりをさせてもらいましょう」
依田は珠子を制して自分で銚子を取りあげ、私に朱い盃を一枚とらせた。
二枚めの盃で珠子が依田の酌を受けた。そして依田には珠子が出て酒を酌(つ)いだ。
酒が好きで、ずいぶんと失敗をしましたと依田は年寄りらしくない高い笑い声で初めて笑い、この頃は酒も
とめられていて、自分はこれだけで遠慮するがと、また私に銚子を向けて呉れた。珠子は二人のために八寸から、大徳寺納豆を包んだ鯛の薄造りと青いちしゃ軸
の味噌漬けを椀の蓋に分け盛って呉れた。椀は一文字の白い飯、それに四方焼豆腐に黒豆をのせた味噌汁だった。依田が何を思って酒を酌(く)んだのか、珠子
にも私にも、分った。杉の真新しい箸に赤貝をもたせて私は釜の鳴りを、一瞬、聴いていた――。
何もしてやれないが珠子に此の茶碗を持たせてやりたいと、依田は畳の上の青い茶碗を見て話しはじめた。
私も珠子も黙って聴こうとした。
それは井戸茶碗の一種で、とりわけ青井戸と呼ばれた。井戸の名には幾説もあり、朝鮮人の飯茶盆を見立て
て日本の茶人が茶に使いはじめたというが、この青井戸は小ぶりで、手にのせると高台の梅華皮(かいらぎ)が、物のもつたしかな感触を伝えた。青い釉(くす
り)、といっても淡い乳の色を含んで、緑の底にまぢかい夜明けの空のようなほのかな白の印象が漂うのだ。あらためて手に持つと、掌を吸うように無数の気泡
を秘めた茶碗の肌は、夜露に似て、甘い寂しい冷たさが感じられ、涙の痕と斯の道の人が呼ぶふしぎな色変りも点点と見えた。
粗相の美、と、そんな言葉も使って依田は宗匠らしく先ず一通りは青井戸のことを説明した。むかしから茶
人は、支那の正格の天目(てんもく)以上に井戸茶碗のことを"首掛け"と呼ぶくらい珍重した。"一井戸、二楽、三唐津"というのは私も知っているが、身に
も財宝にも代え難いとしたらしい首掛けの呼び名は初めて聴いた。
もっとも青井戸だけは一般の井戸茶碗の碗胎、釉調から一と手異っていて、枇杷釉でなく乳青色を帯びるの
が特色で、そのための、いわゆる井戸形(いどがた)といわれる開いた碗形や胴ろくろ、竹節高台、総釉、それに秀逸の梅華皮(かいらぎ)など、みな一通りの
約束を備えていてもよほど初対面の印象はつねの井戸より違うという。
依田はこの青井戸を、今から十数年前に或る有名な美術館の持主から突然贈られた。ちょうど美術館の持主
は先代が逝(なくな)り、あとつぎは四十代の、依田も何度か茶会で面識のある実業の方のやり手だった。
依田は先代とも道の上で交際があり、招かれれば茶事にも出向いたし、請われれば水屋方の手伝いも然るべ
き弟子をやって見させた。だが、依田が客の時にこの青井戸の出されたことは覚えている限り一度もなかった。その美術館の硝子越しに、依田は何度も何度もこ
の茶碗を眺め直し、言いがたい熱い心に襲われては、秘かにこれに、"青春"と我一人の平凡な銘を付けていた。また、"はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば
花に物思ふ春ぞ経にける"という式子内親王の春の御歌を依田はこの茶碗に寄せてなつかしむこともあった。
だから、突然若い当主の丁寧な添状も添えて、茶碗と、先代が生前に書き置いた手紙とが使いの手で齎(も
たら)された時、依田は年甲斐もなく胴震いがした。
Gというその故人の手紙は、簡潔だったが、依田には幾重もの好意が直ぐ分った。
G氏は、この青井戸を差上げるのは自分一人のはからいでなく、もう何十年も前、まだ自分もあなたも若
かった頃に当時の御家元から自分が頼まれていたことですと書いていた。その約束を長いあいだ反古(ほご)同然にしていたのは却って自分の方で申訳なく、そ
れというのも青井戸に寄せる深い執着のせいだった、恥ずかしいがどうかゆるして貰いたい。
「依田に茶盆の本当の値打ちが分るようになったら」と家元はG氏に頭を下げ、G氏はその当座、家元ほど
の人がそうも言われるならと、余計茶碗が手離せなくなった。一応は承知しましたと笑って答えておいたが、茶碗を買ったのさえまだ自分の眼鑑(めき)きから
でなく、出入りの道具屋が損はないと売りすすめたからだった。
だが、G氏は家元の重々しい負託を、青井戸の佳さに眼を開かれるにつれて意識するようになった。飾り気
のない姿、慎ましく落ちついた釉色、それでいて茫洋たる風格。G氏には分って来た、井戸茶碗は佗びた茶室で実際に使われてこそ激しいまでに美しさの汲める
茶碗だった。そして、何を考えて家元が愛弟子の茶の道に、あたかも光る関守石かのようにこの茶碗を置かれたかが分って来た。虫のいいはなしだとG氏は何度
か心中にF反撥した。だが家元はもう逝り、依田宗未の茶名は人柄の静かさ毅(つよ)さとともにG氏の耳にやがて届いて来た。
とうとう死に際まで我を張り、それでもG氏は最期に青井戸は必ず依田さんへと息子に命じた。息子の手紙
には、若いに似合わぬみごとな手蹟(て)で、茶碗の名誉ですと書いてあったのを依田は涙ぐんで有難いと思った。そしてこの茶室に終夜釜を懸け、存命だった
老妻とこの茶盆で茶を点て茶を喫み、往時を思ってはなしは尽きなかった。"四海皆茶人"と書かれた先々代、当時まだ先代家元の軸を床に掛けて、依田は初め
てこの青井戸を手にした昔を想い出さずに居れなかった。
依田の生まれは加賀金沢当来町だった。生家は代々糸屋だった。京都の大学に学んだ頃、人にすすめられて
初めて茶を習い、熱心の余り直かに家元の門を叩いて聴(ゆる)されたが、卒業して金沢に帰った。
茶の湯執心(しゅうしん)の依田は家業に就いてからもわざわざ年に一度二度京都へ出て、家元の薫育を受
けた。加賀は北陸道一流の茶どころだが、茶道の格の高さ厳しさは断然京都だった。当時茶道衰微の折とはいえ却って心ある僅かな人の修業に支えられて、京都
の一画には嚠喨と鳴るような風雅の松韻を楽しむ茶人が潜んでいた。
当時の家元は、篤実な人柄のままに厚味に富む機鋒鋭い茶風といわれていた。物の出し入れにもずかりと客
の気もちに割って入る気概があり、よほど強腕の正客を迎えても、ぴんと張りつめながら思わず寛いで破顔一笑させてしまう、そういう応対ができたという。
依田は家元に教えて貰うつど、加賀に帰るのがいやになった。実は姉の夫に家職を譲れば万事好都合な家の
事情もあり、それに幸いまだ独身だった。
とうとう依田はまたしても家元に決心の談判を試み、業躰(ぎょうてい)内弟子に加えて貰うことに成功し
た。明けて正月、祖堂へ通う手洗いの上の軒に、業躰依田武と書いて貼り出された――。
――依田老人は食べものに殆ど箸をつけず、時々珠子に声をかけて私の盃に酌をさせた。珠子も、自分の塗
り盃にまだ酒の色をあましながら、ほっとあかい顔をしていた。鯛の造りもなくなると、珠子は水屋へ立って、海老芋とうずら肉の叩き寄せを取り合わせた中へ
柚子(ゆず)の細切りをふつさりと盛った、これが祥瑞(しょんずい)かと想われる藍の深鉢をもち出して来た。
依田は修業時代の若々しい想い出は途中で言いさし、青井戸へ話を急いだ。その方が自然でらくなのか、依
田は茶室へ入って来た時からいささかも正坐を崩していない。湯がたぎって来るとかるく膝を送って水指(みずさし)の水を釜に足してはまた私の方を向き、と
くべつ横道に外(そ)れず、物静かに、むしろ先刻来何か独りごとめくほどのやや伏し目のままで、言葉をついだ。
前に言うように依田が若い業躰に加えられた頃は、今日と違って茶道界もひっそりしていたのだ。家元に寝
泊りし、朝夕に家元や老母堂の薫陶を受ける内弟子の数は意外にも二、三に過ぎなかった。流儀の許状(きょじょう)を受ける全国の入門者も近頃とは較べよう
がなく少なく、組織立った会のようなものは家元も秘かに心中用意されていたようだが、それも今日の――会ほど厖大で整然として、そのためにまるで客商売め
いて人に言われるようなものになろうとは、誰も予想しなかった。
家元を訪ねて来るのは大概大徳寺の法類とか、重だった地方の宗匠や業躰が時たま姿を見せる程度で、常時
に受付を置き、種々雑多な、中には観光気分の地方会員や外人客までまじる来客をひつ切りなしに応接するなどは、夢にも想えぬほど、家元の日ごろは清潔だっ
た。森閑としていた。
依田は朝暗いうちに床を出て、着物の尻を端折って黙々と広い家元の内を同僚と掃除した。順番を決め、家
の内の掃除と玄関から庭さきの掃除と、それに大小の茶室の飾りつけや道具の取り合わせを分担するのだが、掃除には掃除の、取り合わせには取り合わせの呼吸
があり、依田は凍える底冷えの朝立ちに雑巾を使い竹箒を使い、或は羽箒や灰匙を使いながら、世界中にただ一人自分がこうして手を動かしからだを働かせて一
心に胸の内につむいでいるふしぎに色彩(いろ)ゆたかな、暖かな、手触りたしかな織物を、大事に、今日も一反また今日も一反と心に積み重ねて倦(う)まな
かった。そういう想いようには糸屋の息子らしい聯想が働いていたにしても、依田はその心に積んだ織物をやがて吾がためにだけ裁ち縫いしようとは考えなかっ
た。誰かが思うまま自分の胸の奥から持ち出して、それで美しく身づくろいをして呉れそうな予感があった。
依田は茶の湯をただ禅坊主めかした修練とばかりは思わなかった。人と人との寄り添って建立する不可思議
の愛の如きものを、流石に学生生活をして来た依田は書生っぽく斯の道に期待していた。
二畳、三畳の茶室の中で、依田は五徳を合わせたり火種を入れたり釜を据えながら、雪の下に春待つ青草の
ちいささよりもっと静かな寂しさを感じた。指さきがかじけて割れて稽古帛紗にざりざりと引っかかる。そんな時家元はふと眼を向けて「依田――」と呼ばれ、
は、と依田も眼をあげると家元はうんうんと頷くだけで、さ、と次を促される。依田は次の所作に戻りながら、自分が一人いて、それからそこにお家元がおいで
になる、自分がここにいて、そこにお家元がおいでになる、とそればかりを呪文のように心中繰り返し繰り返し、他に何がこの世に必要なものかと思うのだっ
た。
家元と依田とはおよそ二十四、五も歳が違っていたが、一脈気質に似た所があった。
たとえば家元は、ことば一つでものを教えるということがなかったし、依田も、その場その場へからだを動
かして行って合点するという、依田自身の表現によれば"鈍い"所があった。だから、毎朝掃除や用意の終った頃家元がすっすっと足袋の音をさせて祖堂へお詣
りに入られる時、ちらと依田の掛けた床の間の軸に眼が行く、生けた花に眼が行く、その瞬間が、依田には落ちて来る天を支えるような重さだった。それで、も
うみな分るのだ。佳ければ佳い、わるければわるい、何も会話なしに分ってしまい、祖堂でお経をあげておられるのをじっと聴きながら、依田は、まるで新しい
ものを眺めるように自分が拭き掃除した廊下の長く伸びた柾目(まさめ)を見、また自分の取り合わせた軸と花や置物のさまを見直すのだった。
依田は大体最近の茶人がお喋りに過ぎると思っていた。それから、すぐ、わたくしどもお茶の世界では、と
いう言い方をするのを苦々しく思っていた。その辺から茶の湯の道が揺らいでいる、大事な道筋の節々に汚れ水のしみ出るように腐った臭いが漂っていると言っ
た。賑わう客商売にあまり自足していると、誠の薄い言葉ばかりが塵や芥になって斯の道を汚し、心の奥にしんと見据えるべき人一人の寂しさとか、それを僅か
に慰める主と客との嬉しい出逢いとか、その出逢いに一期の重みを懸けるほどの工夫はなくなる――。
依田はだがすぐ苦笑いして、また脇へそれたと私にあやまるのだった。
私は珠子の横顔をそっと窺った。依田の息づかいにかすかではあるが急なものが感じられた。珠子はじっと
身を固くして、膝に重ねた自分の白いちいさな手の甲を眺めていた。そう見えた。
依田はまた青井戸を掌にのせた。
指をさされて、見るとなるほど茶碗の口造りは、貝の口といってコムパスで描いたような円形とは違ってい
る。口あたりの部分にかなりの厚い薄いがある。依田はこういうベベラ(三字に、傍点)を御愛嬌と呼んで、ははと笑った。だがすぐ真面目な顔で、この愛嬌が
茶碗の魅力、いわば造型の眼目で、ほらここからこう、と指を当てて、いびつがいびつのままこれ以外どう考えようもなく定まっている、こういうのを自然な、
というのかもしれませんがと謙虚すぎるくらいに言い添えた。高台(こうだい)の内側は梅華皮釉(かいらぎぐすり)で埋まって深くなく、一滴二滴赤味もさし
て粗相な中に愛らしい景色も見える。眼を静かに口辺(こうへん)へ移して行くとかすかに鳶色の茶渋に染まっているのも、依田は茶碗が使われ慈しまれて来た
ものと言って、老眼らしく少し反り身になって眺め眺めした。
「珠子、一服差上げないか」
孫娘の方はそのような慳貪な言い方で慈しむらしく、珠子も笑って依田と場所を代った。朱の梅鉢の帛紗を
ちゃんと腰につけ、両掌に青井戸を包んでゆっくり膝がしらで湯をまわして見せる珠子の靨(えんぼ)に私は幾分照れた。こそっと炉の火が動き、香が匂った。
「どうぞ先生からー-」
. 依田は一礼も美しく珠子が点てた茶を喫んだ。
そのあとで私も、重ねて青井戸に唇(くち)を当てて思わず眼をとじた。その私の方へ依田は芦をかけた、
「そう、そんなふうにしてその茶碗で家元もわたしの点てたお茶を喫んで下さった。」自分はそのとじられた家元の瞳(め)の奥に拡がる闇の遠さを、どんなに
床(ゆか)しく想ったか知れない――と。依田は語を次いだ。
その朝は露路の石まで凍てていた。冷えた庭草履でその上を一つ踏み一つ踏みして、雪消えにぬれた敷松葉
を指でつくろい、荒れた苔を丁寧に指でいたわった。空さす銀杏の大樹――その木蔭で、雪を凍らせ燦(きらめ)く杉苔に井筒の根を囲まれた撥釣瓶(はねつる
べ)が、濃い寂しい翳になっていた。暁けの空は底鈍(に)ぴの青磁が淡い灰を被(き)たように薄曇り、聴松軒の萱屋根で鳩の羽(は)づくろいの音が聴こえ
た。 ――
依田は小手をかざして晴れて行く空を仰ぎ見た。
冷気が、うすく口をあけた咽喉の奥まで真直ぐ降りそそぐ。素足が痛いばかりかっかし、草履は濡れて足の
うらで夜寒の凍てを溶いていた。なぜ此処に居るか、自分はこの寝静まった庭の中で、空の下で、石を踏んで、何ものでありうるか――。故郷を出て来る時、何
人もの人が自分を嗤ったのを依田は覚えていた。
だが感傷は依田のものでなかった。今朝はお家元は何を教えて下さるだろうか、.今日は金沢や高橋は家元
の御用で大阪へ行き大津へ出かける、自分も午後にはお供をして府一の女学生たちの稽古に行く。
依田は自分一人家元のお供なのが単純に嬉しかった。一刻でも家元のそばに居れれば、それだけ多くきっ
と、何かにがんと頭をぶつけるように覚えられることがある。「依田、右だよ」と、.それだけでどんなに軸を床中央に真直ぐに掛けるのがむずかしいか、分っ
た。「依田、さかさま」と、それだけで棗(なつめ)と茶碗、或は茶杓と茶入の取り合わせ方を、季の感じ、色どり、大小、場所がら、ちょっとした味わい、な
どを間違えていたのが、合点できた。田舎育ちの依田は、家元の何気ない物言いから、言葉づかいの微妙なあやも習った。"語是心苗"と、家元は平常好んでそ
う書かれた――。
――l私はもう盃を膳に置いていた。なかなか青井戸のはなしにならないけれど、依田が、ただむだに話し
たかったことを述懐しているだけ、とは思わなかった。
依田は唐突に口をつぐみ、妙に気恥ずかしそうにもぐもぐ唇を動かした。すっと膝を進めて珠子が銚子を
取った。
「いや僕が、お酌ぎしたい」
私は物狂いの心地でそっと珠子を遮った。依田は冷酒を珠子の朱塗の木盃に受け、水を引くように呑み乾し
た。
――家元に起居して以来依田は、家元と老母堂との他に心を移す人を知らなかった。むろん較べようのない
相手だが、一人だけ、家元へ出入りの或る炉壇塗りの職人と妙にうまが合った。三十すぎてまだ独り身の小沢というその男は、依田のことを業躰(ぎょうてい)
さん業躰さんと呼び、訳もなく、いや多分彼も金沢近在の出身というだけのことで好感を寄せて呉れた。家元での例で、出入りの職人は大概柴田、樋口などと呼
び捨てだったが、依田はこの小沢と二人切り、たまに表の道で出逢ったりすると小沢さんと挨拶し、暑い寒い程度でも、若ものらしく元気に、真面目に応対し
た。
この小沢がその朝、突然稽古に入る直前に勝手元から依田を呼んだ。
ちょうど依田は、家元の言いつけで、奥庭へ小窓を開いた三畳の桐蔭席(とういんせき)に釜を懸けてい
た。へぎ目の炉縁(ろぶち)に乙御前(おとごぜ)と呼ばれた釜を合わせ、家元お好みの猿臂棚(えんぴだな)、それに極く最近若宗匠が工夫された猿尻棗を使
うつもりだった。花は竹の一重切(ひとえぎり)に蝋梅(ろうばい)と侘助(わびすけ)を、時間をかけ、苦心して挿した。小沢は何でこの大事な時に何を言っ
て来たか。依田は真正直に驚いていた。もう奥から家元が出て来られる――。
小沢はそわそわしていた。頼むから内緒で一枚茶碗を見て下さい、と言った。そして依田の返事も待たず、
そそくさと上がりがまちに腰かけて、古びて傷んだ箱の紐をときはじめた。
気は茶室へせいたが、茶碗といえば茶人の生命だし、そうでなくとも道の道具を眼の前に置かれて立ったま
ま応対はできない。依田は板敷に正坐して小沢の手から手へ一枚の青い茶碗を受け取ってしまった。
古い――それだけは分った。罅(ひび)が入っていそうだ。その余のことはよく分らなかった。井戸茶碗に
手は似ているが、依田はこんな異色の、青い肌を以前に見たことがなかった。つまり、どうも、感心しなかった。口造りに奇妙に焼けただれたような、小石か混
りもので引っかき瑕(きず)めいた痕(あと)がある。乱暴に造りっ放した雑器ではないのか、小ぶりで懐の深いのも却って貧相なのではないか。
依田は自分で未熟な眼鑑きをして小沢にいやな思いをさせたくなかった。お家元に見ていただこうかという
と、小沢は恐縮して、もともとそんな大それた茶碗やない、ちょっと急に金の要り用ができたまでだからと腰を浮かした。つねはしゃきっとした職人なのにと思
うと、よくよくの急場らしいのが気の毒だった。依田は、遠慮なら無用だからと持ったままの茶碗を下へも置かず、稽古に遅れた言い訳半分に、奥へ運んだ。
家元は青い茶碗を一目見て、誰が、と訊かれた。依田は隠さず事情を話した。
「依田。これは昔、家元から外へ出た物だよ。買っておおき」
家元は畳の上に茶碗をそっと戻し、すぐ、今朝は桐蔭(とういん)だったかなと呟くと自分から先に廊下へ
出られた。
依田は家元を待たせてしまう遠慮ばかりが先立ち、買っておけと言われた意味もよく呑みこめなかった。
小沢はほっとした顔で、幾らだってけっこうなんでと、僅かの金でもとにかく急ぐという顔だった。依田は
どうやりくりしても四円と五拾銭しか持ち合わせがない、それでは足りないかと言うととんでもないと、小沢は茶碗を箱に戻す手間も惜しんで掌の上で金を勘定
して、帰って行った。
依田はなぜか淋しくなった。四円五拾銭は当時依田が家元の供をして女学校一校お茶を教える一月分の手当
に近かった。だが、それが惜しいのではなかった。
撫然としている依田に家元は気がつかぬふりをされた。依田は蓋置に三ツ猿を使っていた。猿三種を取り合
わせたつもりだったが、「ちがうね」と直されて「庚申」と朱で直書(じきがき)の竹に替えた。宗入(そうにゅう)の赤い筒茶盆に家元自削(じさく)の「一
笑(いっしょう)」という茶杓を添えると、「ま、佳し」と言われた。「花。佳いよ」とも言われた。
薄茶を一服点(た)てた。わざわざお家元にお稽古を見ていただくのに薄茶、それも平点前(ひらでまえ)
じゃ、珠子など勿体ないと思うだろうが、依田は席を代ってからは炉の前に坐っている孫の方を、ちよっと覗いてみるような顔をした。
だがそうではなかった。家元の前では簡単な初歩の点前がどれより難しかった。無尽蔵は単純の裡に秘めら
れているといえば聴こえは面白いが、さてなかなかそれが理解できない。家元はどんな時も最初に薄茶の平点前を稽古させられ、あまり出来がよくないと、その
日は余の点前を習わせて下さらなかった。むかし或る能の達者が、師匠に素っ裸で羽衣を舞わされた話をしていたが、それに似た厳しいものが、端的で簡潔なこ
の点前には籠っている、じっと家元に見ていられるだけで骨と骨がはずれて自分の手も脚も胴もぎくぎく鳴る気がする。見た眼も大事、だが、「見た眼の佳さが
お前の気もちの佳さでなければね」と言われると、もう作法とか点前とかでなくて、種々雑多のお道具と格闘している戦士のような荒けた気分になったり、傷つ
いて孤独に血を流しながら砂漠の真中で夢から醒めたような、怖い思いがしてしまう。
こんなことがあった、依田は或る夕方、自分の部屋で休息していると突然家元母堂の声がして襖が明いた。
まさかと思って足音にも気をゆるしていたが、流石に慌てはしなかった。だが母堂は何も言わずまた襖をしめて行ってしまわれ、依田は怪訝(けげん)な心地
だった。そして次の朝、依田は稽古の前に家元に呼ばれた。
お前の部屋の花は枯れてはいないのか。は、と俯いて、竹籠の都忘れの一本が色変りしていたのを依田は思
い出した。花を生ける何とも言えない嬉しさはお前もよう覚えた。だがそれだけなら小学校の女の子にもできる。しおれた花に恥ずかしい死にめをさらさせては
いけないねと言われて依田は頭を低(た)れた。すぐ立って、花も水も改めて来た。のこった花はどうしたと訊かれ、お水屋のそばの竹筒にと答えると家元は頷
いて、さ、はじめようと稽古の席へ立たれた――。
――依田はあの朝、桐蔭席での稽古で、あとさき二度とも茶杓が拭けなかった。どうしても帛紗(ふくさ)で
本当にしごいてしまい、それではだが清めには見えないのだ。
家元は叱言は言われなかった。かえって、あとで先刻の青井戸で美味しい濃茶(こいちゃ)を練っておくれ
と言われ、あれだけの物をもてばお前も立派な茶人だ、と微笑まれた。青井戸という初めて知る茶碗の名や、あれは小堀遠州の蔵帳にも"曙"の銘で残っている
逸品だとも依田は点前の最中に聴いた。見どころは類のないみごとなベベラロだなどと、耳に縁遠いことも聴いた。どうして茶碗が家元に納まり、どうして家元
から身売りするはめになったか古い話も家元はされた。
家元の口調はつねと変わらなかった。窓に大明竹(だいみょうちく)の影が揺れて急に小雪が散るらしく、
寒いかなと咳きながら、珍しく席を立って障子を明けてみるほど家元の表情は和やかだった。明るかった。
水屋で、次は盆点(ぼんだて)をと四方盆(よほうぼん)など用意していると、庭木の世話をしながら外ま
わりの掃除や使い走りのため通って来る徳さんという爺さんが、依田を小声で呼んだ。それがまた小沢だった。依田は流石に迷惑に感じた。
小沢は小鼻をふくらませ斑らな赭い顔で肩で息していた。茶碗を買い戻したいというのだ。依田は一瞬ふき
出した。そういう噺を聴いた気がする。笑いやめずに依田は手を横に振った。慾はなく、だが、家元がすすめて下さるほどの茶碗が買えた嬉しさは、すこしずつ
実感になっていた。小沢は唇を噛んで渋面をつくり、くどくど青井戸を持ち込むまでの事情を釈明しながら、とうとう、倍額ではとまで、眼の色も変っていた。
依田は厭な気がした。
小沢は奥を気にしていた。上がりがまちを思わず両手で掴む恰好で、五拾円、と言った。米一升拾銭の時代
だった、依田は吃驚した。拭き込んで光った板敷に膝を揃えたまま手こそつかなかったが五拾円と聴き、一瞬かるくのけぞった。子どものように足音をさせて桐
蔭席にかけて戻った。
家元は一声、「売らずにおけ」と言われた。
依田が返辞に戻ると小沢はしんから恨めしそうな眼でちょっとの間依田を睨んだ。そして不貞くされたよう
に横坐りに腰を据え、両の拳をごりごり自分の太ももへ押しつけ、五百円、とそっぽへ吐き棄てるように言う。くるっと振り向き、ね業躰(ぎょうてい)さん五
百円や、五百円でわたしに売って下さいよと殆ど怒鳴るようだった。商人の家を宰領したこともある依田は、今さら五百円に驚かないが、先(さ)っき四円五拾
銭で押しつけられた茶碗が五百円という事実に魂消た。そうなる理由が、茶碗の佳さが、依田には皆目分らなかった。またも依田は家元のそばへ舞い戻った。
「五百円に驚いてはだめだよ、依田」
家元は待っていたように笑って居られ、依田は気味わるい物に触れる面持で、盆点に使おうと茶筅茶巾を仕
組んで置いた青井戸の曙を家元の膝もとへ運んだ。今にも茶碗が煙と化して消えて失せそうな気がした。どうにも判断がならなかった。
「依田。この井戸はお前が買った、もうお前の持ち物だ。だから手もとに抱いて秘蔵するもよし売ってしま
うもお前の勝手だ。ただ大事なことは、今のお前にはこの茶碗の美しさが薩張り分っていない。その点では四円五拾銭で売りに来た人もお前も同じめくらだ、茶
碗は可哀想だ。むろん五百円に驚いてはだめだよ、依田。だけれども、どうも今小沢のうしろには、五百円が千円でもそれ以上でもこの茶盆を買おう、欲しいと
思う人ができたらしい。それならいっそそういう人に当分預けてみるのも、茶碗の冥利だろうか、な」
「けれどお家元。当分と申しましても」と依田は訳が分らなくなった。
家元は頷き頷きして、道具というものは人手から人手へ伝わって行くうち、佳い物はいよいよ佳くなる、だ
めな物は消えてしまうと教え、たった一時間でも二時間でもこれほどの茶碗を所有した依田が、その冥利の重さに負けまいと稽古に励めば、また茶碗の方から自
然と帰って来る、と言われた。だが依田はますます混乱した。千円に値するという茶碗の美しさが、やっぱりよくは分らない。そのことだけが重苦しく確かだっ
た。依田は肩先の寒さを耐え青井戸を掴んで身動きならなかった。顫えていた。
「五千円」
家元は厳しく咳かれ、依田は小沢に五千円、と告げた。その時依田は家元を信じ切って、五千円はまさかと
微塵も思わなかった。何よりもその真正直の気もちを依田はのちのちまで、誇らしくよく覚えていた。四円五拾銭支払ったことなど、百年も昔のことみたいに綺
麗に忘れていた。美しい青い茶碗――青井戸。一枚のその茶碗を抱いた僅かな時の移りが、若い依田の内側で刻々と古いものを新しく脱ぎ替え、また脱ぎ替えす
るに似た変貌を進行させていたのだ。
「五千円――。――けっこうです」
小沢は生来の毅げな表情を気弱に笑み崩して、唇も歪め、ほっと肩を落としていた。小沢の詳しい裏話を依
田は自分から訊き重ねようとしなかった。家元も、小沢が何故にと一言も問われない。つねは腕達者な活気に富んだ職人が一人、眼の前で、一枚の茶碗の重さに
ひしがれて男の頭を何度も何度も年若な依田にさげた。それが依田の眼に、しっかり残った。
依田は小沢に、頼んだ。もう一時(いっとき)だけここで休息して待って呉れますか、あの茶碗でと、お家
元は先(さ)っきお茶を所望された。自分も生涯一度の思いでお家元にあの青井戸で濃茶を練って差上げたい――。
不安そうにしながら小沢は納得して、五千円の用意に一度帰って行った。
「お家元はこのお茶碗を、こうじいっと両掌に持たれてな、眼をつぶって暫くおいででした。それから、お
前もお上がりと、きちんと懐紙で口あたりを拭って、わたしに直かに手渡して下さったですよ」
依田は、しみじみとそれを私と珠子に言った。それから一年して宗未という茶名を依田は貰った。家元が逝
ると、形見分けに例の宗旦の"悟了同未悟"の一軸を若宗匠の手からいただいた。
私も珠子も、依田も、静かに床の間を見上げた。元伯とかすれた署名に勢いのある花押(かおう)があり、
気丈な一筆で最初の"悟"から末字の"悟"まで、鋭い掛声のようにぴしりと認(したた)めた半截(はんせつ)の一行は、藍地に金の菊唐草の上下を添えた、
武人の覚悟めいて張り詰めた佳い表具がしてあった。
依田は、悟ったとも悟れなかったとも言わなかった。青井戸を師とこもごも掌に抱いた一期(いちご)の一
会(いちえ)に就いても、もうそれ以上は話すようすでなかった。五千円という、当時相当な家の五、六軒は買えた大金のことも、有るまじいことかのように二
度と口にしなかった。もし依田が、家元のためというより、斯の道の人として確かな者に育ったと思って下さった時は、あの青井戸の曙を依田に譲ってやって下
さいませんかと、さる機会に家元が、当時の持主の若かりしG氏に真面目に頼まれたという、そのことを、もう死のうという依田宗未は老いの顔を晴れやかにほ
ころばせて、嬉しそうに、何度も、私に言った。
家元と二人で唇をつけて喫み分けた濃茶(こいちゃ)の味は依田の舌に頭に刻まれた。依田は、あの時茶碗
の底に覗き見た何かに就いて、解説も述懐もしはしなかった。だが、最期に珠子の方へ軽くあごを振って、これのばあさんもお家元のお世話で貰いましたよと、
これはさりげなくぷいと言ってのけ、そして、すこし涙ぐんでいた珠子に、中途になった点前を、あと、仕舞って呉れるように頼むと依田は私に会釈して茶室を
出て行った。一人の老人の顔に戻って通い戸を作法通りに外からしめている依田の方へ、私は坐り直して丁寧に頭を低(た)れた。 ― 完 ―
この作品については末尾に書き添えた。この「供養」の頁の底固めにもっともふさわし
く思い、ここに置く。
亡き兄北澤恒彦もこの作を、作者と同じ意図にそって受け取ってくれていた。まだ兄に逢っていなかった。
京都の寺々や博物館を観て歩くと、ときどき、「虎渓三笑図」と画題のついた繪に出
逢う。たいがい水墨で、図柄も殆ど違わず、一人の僧と二人の隠士が石橋の上で大いに笑っている。衣笠の妙心寺にも、狩野山楽が描いた立派な虎渓山笑があ
り、風が吹くとみえ、竹、或いは槇と見られるものが画面の左上で力づよくしなっている。橋は――、橋は腹に響く容赦のない一枚岩で、鏘々と渓流が鳴ってい
るが、水も、流れにひたる草木も見えない。虎渓は繪にむかう者の胸の底を流れるらしい。
画中の坊さんが東晋の末に名高かった恵遠(えおん)法師で、他の二人は陶淵明と陸修静。陶も陸も廬山の
近くに住み、よく恵遠の東林寺を訪れていた。恵遠もまた欣び迎えた。「虎渓三笑」とは、そのような恵遠法師或る日の粗忽を伝えたものである。
廬阜に居ること三十余年、恵遠は客を送って足跡嘗て虎渓を過ぎるということがなかった。
ところがその日に限って談笑殊に愉快で、思わず橋を踏み越えた。ああはっはっはと、先ず二三歩遅れて歩
いた陶潜が石橋の真中で笑い出した。気がついて恵遠も陸修静も渡り切った所で顔を見合わせた。陸の表情がおやおやという顔になって恵遠の方を面白そうに見
る。恵遠は巨躯を傾げ、坊主頭を思わず手でぽんと叩いてしまった。はっはっは、はあっはっは、あはあはと、暫くの間三人は、今まで話していたこともみな忘
れて笑い、やがて一揖して恵遠一人虎渓を奥へ還ったのである。妙心寺蔵の繪を見ているとごく自然に笑いの生じた瞬間が描けていて気もちが佳い。
ところで恵遠法師といっても今では知る人も限られ、墨絵にしか見られぬいかにも仙人なみの、よそびとの
ようだけれど、実はそうとも言い切れないのではないか。
恵遠の死んだのは東晋の義熈十二年。晋書に、義熈九年倭が方物を献じたとあり、当時安帝の頃の倭王は賛
であったというから、ほぼ仁徳ないし履中天皇の治世に当っている。享年は八十を過ぎ、その死後四年で東晋は滅び、六朝第三の宋が立っている。
また恵遠が生まれたのは魏志倭人伝というあの魏のあと西晋王朝が内乱に潰え、江南下流の建康に逃れて辛
うじて東晋が帝業を繋いだ時期に当っている。この後揚子江の北にはいわゆる五胡十六國の興亡相次ぎ、絶えず江南を脅かした。東晋の縉紳貴族らは乱世流離の
憂いを抱きながら、却って琴棋書画の美しい幻を追っていた。彼らは幻想を現実に生きたい焦燥にかられていたが、すぐれた諦めに遠かった。その息づかいは逃
避と遊惰に濁っていた。
恵遠法師の生涯はこのような時に洞庭湖北の郢というちいさな村ではじまったのである。
恵遠の父は、西晋時代名君といわれた武帝の子楚王の麾下の地味な武将であった。伯
麟といい、武帝没後の王朝を攪乱したいわゆる八王の乱に生き残り、晋室南遷ののちも仕えて鎮軍建武参軍と呼ばれた。武人としては平凡な、しかしむずかしい
時代に半生を生きた人といえる。人となりは敦厚、ごまかしのきかぬ気象であった。
麟は、崩折れるように西晋が潰えた最期の戦場に、十四になる太郎の亮と、倶に盛んに漢王の将軍石勒の兵
を追い馬を馳せた。伯麟の棒は百の剣より聴こえていた。
しかし亮が傷つくと麟は馬首をめぐらせ、使い馴れた棒を棄てて太郎を励ましながら南へ、一先ず郢へ、と
遁れたのである。
この時麟は我が子にこのように言った。
お前は長男ではありまた世に出て武将となるべき人間であるから意ってくが、自分は今日まで数知れぬほど
の戦に加わり殺傷を余儀なくされた。宿運で、どう免れるすべもないことであったが、中でも昔、楚王に随いて准河の西に虞淵という者を攻めた時、武勇にまか
せて自分は無辜の土民を沢山殺した。剣を握っている拳がとうに血で硬張っていたが、それでも鞘におさめなかった。
もう引揚げる頃に、自分は僚友の敦という男と轡を並べたがその時、逃げ遅れた一人の若い女が家の中から
走り出て木叢へ隠れるのを見つけた。慌てたうしろ姿は腹立たしいほど滑稽な感じだった。自分は敦の顔を見た。敦は索然とした面持で追う様子もない。すかさ
ず馬の腹を蹴った。蹴りながら、だが、余計なことだという気がした。難なく追い着くと自分は血塗れの剣を、しなうほど女の背に突き刺した。お前はきっと
分って呉れるだろうがその瞬間、実に愉快であった。愉快に遊んだというような気もちだった。しかし一方でやっぱり、余計なことという嘔きけのようないやな
気もちがぐっと来た。
馬を返して寄ってみると、女は袖で隠して乳呑児を抱いているのが分った。剣は真直ぐ幼い者の顔から頭の
鉢を刺し砕いていた。敦が来た。彼は顔を背け、吐きすてるように言った、要らぬことを――、と。
以来、自分は剣が握れなくなった。自分で自分に惑うようになった。しかし棒に持ち替えてみても余計なこ
とに大概変りはない。むろん敦に言われて参ったのではないし、そんな心惑いは女々しい感傷かもしれないのだが、だが、こと殺生と限った訳でなくこのまま死
ねば自分の一生は余計なことの朽ち腐れた堆高い山のようなものでしかない、というのが、自分の今のなさけない実感だ、覚えておくがいい。
父がそう息子に語り聴かせながら馬を急がせていた同じ頃、郢の家では伯麟の一人娘が父の全くあずかり知
らぬ孫を産み落としていたのである。
娘の名は玉蘭、そして麟夫婦には最初の孫であった。
麟は縋りつく妻を振り放つと、路上に追いつめて娘の相手の若者を斬った。若者は一言も喋らなかった。弁
疏もしなかった。地を這い、土塀に血を垂れながらやっと半身を起こすと、両掌を合わせ南無、阿弥陀仏と一声呼んでずずと頭から崩れ落ちた。麟は男の最期の
声を解さなかった。
太郎と顔を見合わせても、面伏せにしている妻や、産褥にやつれた娘の玉蘭を見ても麟はこの時余計なこと
をしたと思わなかった。声をたてて笑いさえもした。まだ眼をあけて母の顔を見ようともせぬ子を傍に寝かせ、僅かの隙に西壁に達筆で南無阿弥陀仏と墨書して
その前で玉蘭が自殺した時、はじめて麟は我に帰ったのである。麟も妻も、若者らの遺して行った奇妙の一句に心屈した。
麟は家族と郢を去った。劉と名づけられ、祖父の四郎とされた玉蘭の遺児はいつも老母の膝もとに眠ってい
て、時々勇ましく泣き声をあげた。
舟が洞庭湖を過ぎる夜、麟はひとり艫に出て星空を見上げていた。むかし弄玉と呼ばれた王女は、笛の上手
な賤しい男に想いを寄せ、男は鳳と化して弄玉を天涯に連れ去ったというが、娘を奪ったあの男は――。麟は漂う夜の暗に身を沈めながら拳を固めて、むなしく
舟ばたを低く物哀しく、いつまでも叩いていた。
舟は揚子江を東へ、ゆっくり下って行った。そして、洞庭と並ぶ番陽の大湖に近い潯陽に泊りした日も、麟
は思い屈して艫に出てみた。劉を抱いた妻を傍へ呼び、真南に、紫雲に捲かれて突兀と聳える廬山を見上げた。頂を染めた夕陽の色が麟将軍の眼に切なく眩し
かった。仏の教えを聴こうと思う、と老いて行く夫は静かな口調で妻に打ち明けた。
伯麟は再び仕えて鎮軍建武参軍となった。やがて致仕の表を白(たてまつ)ったが聴(ゆる)されなかっ
た。建康城内に居宅を構え、別に自分は郊外の江寧にちいさな家を持って、麟はそこから江寧寺の宝応和尚のもとへしばしば教えを乞いに出向いた。江寧寺はの
ち天台山とも拮抗した当時の大伽藍で教学と浄行と共に秀れた学匠を擁していたが、宝応はその中で法華経を護持しながらまた専ら無量寿経に拠って阿弥陀の本
願と浄土の観想に就き魅惑的な講説をつづけていた。しかし、廬山の東、星子という湖辺の寒村に、宝応も遙かに及ばぬ恵覚法師という高邁な僧侶のあることを
麟に教えたのも、この宝応であった。
宝応によって麟は後世ということを知った。麟はかつて過ぎこしを顧て無為を嘆くことはあっても、死後を
思い煩うことはなかったのである。今でも麟は死後よりも遙かに六十余年の現世に生きた意味を思っていた。意味はあるのかないのか。ないとすれば何のために
自分は生きてきたか。
しかし麟の心にえたいの知れぬ不安も芽ばえていた。日々に加わるこの心細さはただ老いゆえであるか
――。麟には、所詮不審を自力で解くことは出来ぬと思えた。それならば、我が子に学問をさせ、我が子にそれを聴こう。
麟は妻にそう告げ、妻も頷いた。恵覚法師のもとへ遣りたいと夫は言った。九江の南に聳えていた廬山のあ
の夕陽を覚えているかと麟は妻に尋ねた。朱い日翳を纏うて紫金に輝く山の姿が、潯陽一円のあの静かな泊りの夜、身にしみて思いを離れなかったとも麟は言っ
た。星子は舟を泊めた九江の港からみてちょうど廬山を東へ回った向う側であった。宝応和尚の言葉から推しても番陽の大湖を見わたす松風涼しい漁村ででもあ
ろうか、と恵覚法師が住む星子の名は麟と妻との互いの胸の奥に、不思議な悦びを湧き立たせたのである。
太郎の亮はすでに朝廷に志を寄せる武人であり、一児の父となっていた。沈着で人に信頼され、名族王家や
謝家の子弟とも親しかった。彼の、江上の舟となる莫れ、江上の月となる莫れ、舟載すれば人別離し、月照せば人離別すという四句は、蒼茫の哀韻ゆえに当時朝
廷に普く愛誦されていた。亮の出家はあるべくもなかった。
父と母は望みを次郎の綸に託した。綸は亡き姉に幼時もっとも愛されていた。父の言葉を聴き終ると綸は一
言、参りますと答え、遙かな恵覚法師の室に入ることを承知した。
いつからか麟はちいさな四郎、娘が遺した劉少年を眼で追っていた。呼んで抱いてやると劉は声をあげて悦
ぶ。しかし、ひとり音もさせず庭へ、家の外へ出て行くうしろ姿は何かを耐えていないか。"生まれたもの"の寂しさ、というようなことを麟は自身の心にも想
うようになった。死んだ玉蘭が想い出され、今また旅立って行った綸のことが想われた。綸が、いとおしかった。
およそ百日あまりして東林寺より建康の伯家へ思いがけぬ便が届いた。このほど当寺へ寄越された若者の身
の上に就き申し上げます。かの者、一向学問に心を入れず、とかく申しても改めませんので厳しく戒めおきましたところ、今暁俄かにはかなくなりました。致し
ようもなく、決してお嘆きにならぬよう、とだけで余のことは分らなかった。麟も妻もただ呆れた。十日たっても食がのどを通らなかったが、さすがに思い直し
て恵覚のもとへは粗忽ならぬ供物を多く届けさせた。あたら次郎を死なせた哀しみに加え、麟の胸に死後を煩う思いは急に重苦しく根を展げた。麟はついに妻を
語らい、今一度三郎の琅を星子へ遣ることにした。
琅は十六の少年であった。老父母は名残の涙にくれ、抱き寄せ、髪をかきなでて学問こころに入れよ、から
だいたわれよと訓え誡すと、次郎に懲りず、供一人つけて強いて笑おうとする少年を長江を遡り行く船頭に托したのである。
ところがまたも百日を経た頃、恵覚法師の使いが建康に着いた。此の度はさもなくてと望みを懸けていたの
ですが、法縁むなしく、所詮得度は叶いませぬばかりか山中で怪我をして死に失せました。これも果報とおあきらめ下さい、とあれば親はただごとと思えず、我
が身を打ち苛んで嘆きつづけた。成行きのと浅間しさに麟は家に籠り切って出なかった。
麟参軍は病床の妻の透けた白い頬を見た。この賢い妻は三郎の死にも、愚痴めいたことを言わなかった。た
だ夫が近づいて来る時、床の中から真直ぐ相手の眼を見つめて頭を動かすだけであった。病んで却って若い頃の面差しにかえっていると麟は思い、妻が死んだ玉
蘭の顔に見え、しかし何十年か前面白ずくに殺した乳呑児の若い母にも見えた。ゆるして呉れと、麟は妻の頬に手を添えて低声で言った。妻は夫の掌を涙で濡ら
したが、ゆるすともゆるさぬとも言わなかった。
年を越えて、春になった。漸く官を辞し、麟と妻は孫の劉ひとりを連れて江寧に移って行った。
江寧は背を安山というなだらかな山と、山裾をとり巻きながら南へ数里もつづく灌木林とに包まれ、前を犀
川が流れていた。北行して揚子江へ注ぐ清流であった。草萌えの長い堤に柳が揺れ、江寧の家々には花やいで桃が咲いた。
麟は床を離れた妻と、今年八つの劉と、劉の所へ遊びに来る秀蓮という少女を連れて、陽の暖かな犀川の堤
で安山を眺めて時を過ごした。懐の深い安山の中腹に一ところ色鮮かな竹林が見え、見え隠れに奥に江寧寺一山の堂塔がある。――麟はあれ以来、寺とも仏とも
口にしなかった。額に刻んだ皺から老いの影は深まり、麟は口にすれば自分でも何を言い出すか知れないと思うほど焦ら立っていた。
「あなた。ほら、ごらんなさいな」
麟は堤を下りて行く劉と秀蓮の方を妻に言われて振り返った。さっきから妻は安山に背を向けて二人を見て
いたらしい。幼い者は幼い足どりでしかし身軽に、川原の石を跳び跳び水際へ寄って行った。劉が先になり、また少女が追い着いて、先に立った方が手をさしの
べては笑い合っていた。麟老父は、孫とも呼ばずに育てて来た劉少年の頑是なく少女に呼びかける澄んだ高い声音を、和む日の下で黙って聴いていた。
劉と秀蓮は水際の大きな岩に腹這って川を覗いていた、それから言い合わせたように起った。少女の方が心
もち背が高い。それさえ微笑ましく、しかし幼い二つのうしろ姿は、黙然と岩上に寄り添ってなぜか動かなかった。
麟も妻も動かなかった。遠いうしろ姿をただ見つめていた。なびく柳は両堤に二筋に居流れ、水に溶け空に
溶けてただ春の光となった。向う堤も、その向うに展がる野も、桃の花も、花の色も、みな一つのまじり合うかげとなり、光って虚空に漂い、漂いながらも世界
はひたむきに音を立てて流れた。流れる世界の真中に、劉と秀蓮とはいつのまにか片手を片手と結んだちいさな影絵になって、動かなかった。と、麟は、麟だけ
でなく妻も、漂い流れる霞の向うから煌めく一団の影がみるみる赫奕たる火の玉となって子どもたちへ近寄ると見た。幻――、たしに一瞬の幻と見えたものの群
集は五彩の燃え熾る光を虚空に放って、沸騰する湯玉のように暫く躍動していたが、人とも物とも見分けつかずに消え入るようにやがて消えた。
劉と秀連は、川へ向いて跪いていた。二人とも両掌を合わせていた。麟も妻も声が出なかった。さっきから
堤の若草に足を伸ばしたまま身動ぎもしていない。今顔を見合わせ、麟は妻の頬に涙を見た。子どもたちの何事もなかったような朗かな声と笑顔が、ぴょんぴょ
んと石から石をはずんで近寄ってきた。
その夜、麟は妻を傍へ呼んだ。妻は呼ばれるのを待っていたように部屋へ入ってきた。手をひいて、妻はち
いさな劉と一緒であった。
「四郎は、まだ寝ないでいたのか」
少年を膝に抱きあげて麟は自分の声がすこし顫えたと思った。
「あなた。この子は――」と、妻はあとが言えなかった。劉はすでに麟の意向を承知していたのである。
祖父母が話す間ちいさな劉は麟の膝の上に膝を重ね、顔を麟の武張った肩に伏せていた。が、やがて祖母を
顧み、また祖父の眼を覗くようにまぢかに見つめた。抱きしめて、麟はそのまま子どものように、おいおいと泣いた。妻もうしろから背に顔を添えて四郎、四郎
と呼ぶだけで声を啜っていた――。
――次郎兄が廬山へ発ち、建康の家に残った誰もが淋しい思いをしていた頃、劉は或る日も老母の眼をかす
めてひとりですこし離れた西の丘まで行った。背に余る草に隠されて昔この辺に住んだ人の崩れならされた墓がある。劉は墓から墓を伝い歩きに丘の西側へ出
た。老いた大きな松が西向きに十も十五も幹を並べ、物言う人のように銘々に違った姿で立っていた。劉は草の上二尺とない所から太い幹を二つに分けた気の股
にはさまり、秋水一色の長江をながめた。
劉はこの途方もなく大きな河をながめながらいつも訳の分らない感動を覚えた。胸の中にちいさなこぶのよ
うな物が出来て、河をながめているとそれがぐりぐり動いて硬く膨れて行くのである。と、劉の眼の前へぽとっと毛虫が一つ落ちた。良い気味のものではないが
劉は黙って見ていた。毛虫はからだ半分を喰いちぎられて死んでいた。松から松へ、そして青空へ飛び立って行く小鳥の影が劉の眼をかすめた。
河をながめ虫をながめ、そのうち劉は焦ら立って来た。強いて謂えば怒りにちかい気もちが胸の硬い物を揺
するようにし、劉は叫びそうになった。召使いの楊と姜が台所の外で自分の若い父、母のことを囁き合っているのを聴いたあの時、あっと言ったまま真暗な眼の
前の闇へかけ込んでいきなり壁に叩きつけられたのを、何も知らない優しい祖母はわらって粗忽を咎めた――。劉は木の股から脱けて喰い欠かれた虫を土に埋め
た。ただそれだけのことを仕終わってから劉は風に鳴る松の緑を見上げた。今人に知られず泣くのは、毛虫のためだろうか、自分のためだろうか。劉は怒りに震
えたように立ちん棒のまま泣きじゃくった。
眼の前に人が立った。見たことのない男であった。男は泣いている劉の眼を覗くように腰をかがめて、さ
あ、と促した。男は劉より先に、今毛虫を埋めた場所にしゃがみこんだ。劉も向かい合ってしゃがむと、男を真似てちいさな掌を合わせた。劉は見たこともない
父と母とを想い描きながら祈った。男の姿はもう、なかった――。父母を弔うのは、誰でもない自分だ。
劉は、麟とその妻を等分に見くらべていたが、やがて、自分の手で先ず祖母の両手をとって合掌させ、また
麟にも同じようにさせた。
――劉はやがて江寧から舟に乗った。麟と妻とは建康まで同船して四郎の旅立ちを見送った。もう一人、麟
の妻は秀蓮を親のゆるしを貰って連れていた。舟の艫に老人が坐り、舳に八つの少年と九つの少女は竝んでいた。あざやかに水際をかすめて飛ぶ燕を見ると劉が
無邪気な声をあげる。思わず少女も劉に呼びかけ、ちらと艫の方を顧てそんな大声を出して恥ずかしいという顔になった。麟も妻も笑ってしまった。舟の胴には
厳めしい荷に造られた衣類や長旅の用意のものが、舟の上らしい竿や濡れた太い綱などと一緒に場を占めていた。
建康では亮の家族が幼い人の舟出を送ろうと待っていた。
劉は大きな兄に挨拶した。祖父に、祖母に、それから幼いいとこたちにも会釈し、最後に秀蓮を呼び寄せ
た。
「見送って呉れてありがとう。おじさんたちによろしく」
秀蓮は頷き、片手を伸ばしてそっと劉のあごに触った。劉ははにかみ、たったっとひとり舟へ戻って行っ
た。そして、もう誰が呼んでも舳に向うむきに坐ったまま顧なかった。岸に佇み伯麟は思わず掌を合わせた。小柄な妻が横で和した。秀蓮も、亮も、みなが静か
に仏の名を呼んだ。霧が晴れて、もう遙かな一点の影となった少年劉の舟は揚子江の涯しない波の色に溶け入るように遠ざかっていた。
この日から麟は落ち着かなかった。妻もことば少なに沈んで見えた。表むき四男の四郎でも、劉は二人の
孫であった。二人は孫の亡き親たちに重い負いめを感じていた。負いめはすこしも軽められたと思えなかった。二度の前例を追っていつまた凶報が届くかしれな
い。宵に、暁に、門打つ音を聴けば、それが他所の物音でもとうとう来たかと肝を消す日がつづいた。
麟は間遠になっていた江寧寺を訪れ安心の方策を問うた。宝応和尚はこれという説法もしなかった。却っ
て、二人の息子の死を麟が今どう思っているかと訊き返した。麟は、「こう申せば、次郎三郎に会わす顔もないのですが、あれたちを恵覚様のもとへやりました
のは、何とかあれらの行業専一の深い智慧に縋ってでも私は私の心の内にある大きな虚ろを埋める有難い押し絵が聴きたかったのです。現在の我が子から、もし
自分の生涯がそうも頼りないものでなかったぞと教えられれば、どんなに心強いかしれないとそればかりを願う気もちに執着して、綸の死にました時も琅が死ん
だと聴かされました時にも、泣き狂い哀しむ一方、一点腹に据えかねるような、こんなことでは自分は結局何一つこの六十年の証しを得られずにうろうろと死ん
で行かねばならぬという苦々しい焦ら立ちと怖さとで、頼り甲斐のない奴という思いが、失せませんでした」と告白した。宝応は絶句したまま暫く相手の顔を見
つめていたが、
「失礼だが麟さん。仰言る通りあなたの眼にも胸の内にも実に言い難い執着がある。その執着が二人の息子さ
んを死なせた。死なせねばすまぬようなはからいが、あったのでしょう。だが、あのちいさな末のお子さんを遣られたのも、同じお気もちでしたか」
「それは――」と言ったなり苦しそうに太い眉を顫わせて麟は瞑黙していたが、犀川の堤で見た不思議などを
詳しく話し終った。和尚はその話には特に何も答えなかった。そしてこんなことを麟に説いて聴かせたのである。
「仏は、言葉で真理を告げ語られることもある。だが言葉は所詮何もかもを言い尽せるものでない。まして耳
に聴き眼に読む我々凡夫は、言葉が難しければ分らぬことになり、易しく説かれて却って惑うこともある。仏の本当の説法とは、仏が言葉というものを喪い深い
瞑想に入られると、その瞑想の不可思議無量無際涯のかたちが燦然と人の眼に見え耳に聴こえる。仏の瞑想の一切の中身があたかも眼前に感じとれる。そのよう
にして過去現在未来の世界が、灼光が眼に跳び込むような具合に分るのである。かくいう自分も人を前に瞑想三昧に入り、仏国土の有難さ美しさを眼の前へ繪の
ようにお見せできればそれが何よりなので、そうできなくて実はまことにお恥ずかしい。あの恵覚奉仕はそれのできるお方だが、四郎殿もきっと秀れた菩薩にな
られよう――」
和尚は麟の顔を見てそう言い終るとあたかも仏を拝するように黙って掌を合わせた。
麟は、感動と、よく理解の届かぬ惑いのまますこしどぎまぎして和尚に倣った。
劉の小舟はおよそ百里の舟路を十九日かけてゆっくり揚子江を溯った。それは湖北か
ら蘇州へ以前に麟の一家が傷心の旅をした水路を、ちょうど逆に行くのであった。
彭沢まで来るとついに西の空に薄澄んで青い廬山が見え、次の日、潯陽に着いた。劉は、今、西日に秀を照
されて聳えた容赦なげな廬山を見上げていた。船頭二人は、明朝早く舟を暫く下流へ戻し、細い水脈から番陽湖へ入れば午過ぎに星子へ着くと話し合っていた。
その夜劉は眠らなかった。町の灯も消え船頭も寝入ってしまうと、天心に満月を浮かべた夜の青さが舟ばた
を鳴らす長江の水の色と照り合って、ちいさな劉を包んだ。涯ない波から波へ寄る淋しさは心細い息づかいとなって劉の肩さきを硬張らせた。遠く来た実感より
も、劉はいまこの舟の上に、すぐ傍に、自分の影と重なるように祖父の影を感じた。
あの祖父はいつも自分に物を言いたげであった。それは分っていた。しかし自分から抱かれに寄って行けなかった。祖父の悲しみと辛さを劉は感じていた。あの
祖父が父を斬った。母は父のあとを追った。そんなことは知らずにいたかった――。犀川の堤に祖父とならんで安山に鳴る竹の風を聴いた或る日、劉は自分が祖
父と同じ寂しさ、人と生まれまた人に死なれた寂しさに身をちぢめていることにはじめて気づいた。
――身動ぎして、劉は河に背をむけ廬山の大いさに眼を凝らした。江寧の安山とはまるで違う。天地に蟠る
真黒な巨大な闇の塊。だが山の端は月光に濡れ、樹々の一本一本が花やかな影絵に見えて青白い空に霞んでいた。自分は今あの空へ放たれる小鳥のようなものだ
ろうか。祖父の思いや願いがそのまま脱け出て来たような、弦をはなれた矢のような自分は、この先、祖父に代って何ほど空高く飛んで行けるであろうか。
劉は両腕を展げてみた。天に挙げてみた。細い双つの腕が山を抱き、夜空を抱くに足りた。しかし劉はすぐ
頭を低れた。
日が昇りはじめ、すこしの酒で早寝していた船頭はむっくり頭をあげて驚いた。舟で星子へ入るのをやめ、
山裾を伝い歩きにひとりで廬山の東へ出たいと、この少年は事もなげに言うのである。
劉と大人たちの間で暫く押し問答があった。難しい道とも思えなかったし、幾分ためらいがちに、結局船頭
も思いの外の金品を手にして劉ひとりを岸へ上げた。少年は微笑って手を振った。濛々と舞う朝霧の底から碧一傾の揚子江が展がり、水鳥の群はしぶきをあげて
蘆辺を飛び立って行った。一陣の黄金の炎となって、朝日が変える舟と行く劉とを朱く照した。
九江の町を、岸から真直ぐ山ふもとまで突き抜けて行くがよいと劉は教えられていた。
ゆるい坂の町を言われた通りに歩いて行くと汚なげな家から正体もなく着崩れた女がふらふらと現われ、劉
を呼びとめた。女は酔い、髪も梳ってはいなかった。いきなり劉の衿がみを掴み、若い男に言うように自分は夜通し眠れなかったのだと喚きながら、窓のある軒
の下までずるずる劉を引っ張った。
「どこへ行くのさ、お前」
辟易しながら劉は素直に答えた。
「へえ。坊やのくせしてもう坊さんになるのかい。そんならお前。手はじめに何でもいいからさ、一つお説教
してお行きよ。ね、何でもいいからさ」
懶げな顔のまま女は急に劉を抱き緊めて、「何てかわいい坊さんだろ」と力まかせに頬ずりした。劉はもが
いた。女は地面に坐りこみ、手首を捉えて放さなかった。
「さ、ちっちゃな坊さん。何とかお言い」
掴まれた手首が痛かった。仕方なく劉は女の膝の横に立ってこんなことを喋った。
「わたしの舟は蘇州の江寧という所からこの潯陽へ着くまで、ちょうど十九日かかって来ました」
「へえ。――おかしくもないお説教じゃいか」
「でも、わたしは、どうして十九日ちょうどで、十八日でも二十日ででもないのだろうと考えたんです。どう
して十九日か、って」
「ばかだねお前。そりゃ十九日でちょうどよかったからさ。そんなこと何も考えこむことはないし、考えたっ
てそれ以上のことは分りゃしないさ」
「そうですね」
「そうさ。舟が変り船頭が違や、今度は十八日で着くかもしれないし、二十日かかることもあるよ。そういう
もんさ何でも」「はい」
「あれ。どっちが説法しているのか分らないよこの子――」
「おばさん。もう、行かせて下さい」
劉の顔つきに気押されて女は慌てて手を離した。女を見て劉は微笑んだ。酒の香に浮かんでいた女の眼が瞠
かれ、忽ちに頬にのどもとに美しい血の色が湧き立った。劉は歩み去った。幼い顔は妙に恥ずかしそうであった。
廬山の西を流れて来た川が八つ手に分れて揚子江へ注ぐ町。橋から橋へ渡って劉は九江の坂を登って行っ
た。男も女も、用ありげな人はみな小走りに、魚の匂いのする町を舟付き場の方へ下りて行き劉ひとりが廬山を向いていた。だれも、あの寝そびれた女のように
劉に声をかけなかった。
山のふもとへ来て一体の石仏を見た。劉の背の三倍もあり、雨露にさらされ腋をつぼめていた。傍に、楝の
木が銀白の花房を柄だいっぱいに垂れ、仏はからだ半分を青い苔に絡まれていた。石像のうしろに梅林があり、林を抜けて奥野ちいさな崖を這い上がると東へ岨
道がつづいている。子どもの足でも半日頑張れば間違いなく大きな湖が見え、星子の家々も見える。そう船頭は言って、木沓の代りに、古びていたがやわらか
な、しかし劉には大きすぎる革沓を履かせて呉れた。
葉を繁らせた梅の林で劉は青い実を二つ拾い懐に入れた。懐には肌身に触れて、恵覚に宛て宝応和尚と伯麟
の手紙が藏われ、別にちいさな紙袋を手に持っていた。麻の素服に黒い帯を捲き、劉はすこし心細かった。
山に入ってしまうと山の大きさが見えなかった。樹木と草の匂いに塗れて水の底を泳ぐようなのが劉には物
足りなく、気味もわるかった。そのうち、山路にまかせ登っては下り、折れては曲りして行く一人きりの心地が気安く面白くなってきた。物珍らしかった。松林
の奥の日だまりに、真白に花を咲かせた大きな辛夷の木を見た。実をつけかけた緋木瓜の株にも遮られた。道は細まり広がり、うねる波になって、劉の足を誘っ
た。いつか跣足になっていたが、それさえ面白かった。
木隠れに、長江は春風を陽炎わせ悠々と天際を流れ去っていた。それもやがて見えなくなった。
劉は先を急いだ。
次に眼をあげると連翹の花やかな黄色に透けて、湖が見えた。銀の板に似た水面が、ぎらぎらと歩一歩展が
り展がり眼の内いっぱいに浮かび上がっていた。水のほかに何も見えないような所まで劉はやって来た。番陽湖――。世界中が海になりこの廬山だけが海の真中
に浮かんでいると劉は想像した。建康や江寧の祖父だの祖母だの秀蓮や大きな兄やその子らの顔が別世界のものに遙かに想い出せた。もうあの人たちと自分とを
繋ぐどんな陸地も橋もない所へ入りこんでしまった自分を、思わず辺りを見まわすようにして劉は納得した。湖の遠くに緑に静まり返ったまるい島が二つ見え
た。島に寄せる波が花の輪に見えた。何かなつかしい想い出につながって島も波も劉の瞼を熱くさせた。
湖に向かいずっと伸びて行った山道が、真直ぐな登り坂から空へなげ出されるように行きどまりになった。
雲を眺め湖を見下ろし、それから頭をめぐらして劉は廬山の全容を仰いだ。廬山は劉の足もとから向いの断崖へ唸るように彎曲し、あたかも勇者が天地を支える
巨大な柱を抱く如くそそり立っていた。劉は崖のはなに這い寄って谷底を覗き、また眼をあげて、南の、目くるめく太虚を抱えて突出した絶壁を窺った。土肌に
岩を噛んだ三四の松の根かたを黒い鳥がかすめて谷へ舞い下りて行った。
劉は疲れて、思わずため息をついた。
多目に貰ってきた粟の餅も一度に食べ切った。日は頭の上を通り過ぎていた。湖は凪ぎ、薄雲が漂う。貝が
蓋を閉じたように空と水が地平を限り、雲も鳥も舟も青い室の中をいたずらに彷徨う迷い子のようであった。劉は湖水の漫々を見るに飽いた。山に抱き竦められ
た眼に見えぬ太い柱の如きものを天から地へ、見上げ見下ろしながら、この奥ぐらい山の何処かに自分を待ち受ける師と法と仏との世界の秘蔵されてあること
を、劉は一瞬畏いと思った。
劉は勇者の胸をめがけてまた歩きはじめた。今度はわきめもふらずに歩いた。道はちいさな劉を誘って空の
明るい岨から山の奥の奥へとつづき、やがてそれも跡切れた。木の根を掴んできわどく崖っぷちをすり伸したに抜けたこともあった。岩にせかれ、右へまわり左
をうかがい統べる足を僅かな岩かどに踏み当ててやっと乗り越えたさきが、溺れそうな深い笹むらのこともあった。それでも劉の眼はまだ笹の下に草花を見つけ
た。
どこかで木蓮が満開だった。槇の林に鳴る流れの音もたしかに聴いた。汗にぬれて手紙は懐をはみ出てい
た。何よりも先刻見上げたあの谷の向い側の絶壁へ辿りつくものと劉は思って急いだのである。あそこから湖南を一望すれば、めざす星子か、或は東林寺のたた
ずまいさえ見えるかしれぬと想っていた。番陽湖は南北四十里、形は菊の花に似たとも、星が光るようだとも劉は聴かされていた。それもあの黒い牛が首をもた
げたような巨きな絶壁の上に立てば見える。劉はそう想って喘いでいた。
しかし、山は胸をあらけて劉を無慈悲に抱きこんでしまった。踏む土も冷たかった。太い根が道に蟠り、樹
々は枝から枝へ暗い風を漂わせていた。寒さが足もとでゆるく渦を巻き、やがて道は登る一方になって、梢を洩れる光が時々脅すように劉の眼を射た。
劉はまた革沓を履いたが、満足に足が出なかった。袋に藏っていた木沓に替えてもすぐ踏み割ってしまっ
た。餅を包んであった竹の皮と革沓と、それから割れた木沓も同じ袋に入れて、劉はこの袋が生きた道連れのように思えた。
もう休まなかった。じっとしていると暗い山に呑みこまれそうであった。ただ前を見て歩いた。道らしい道
もなかった。竹やぶがあると迂回した。蛇が走るのである。急な斜面に真直ぐ伸びた杉の林。劉はためらわず這って登った。強い下草の匂いが陽の光に泡立つよ
うであった。登っても登っても上があった。下れば嶮しい崖に行き当った。劉はさるすべりの紅い花の木にもたれて顔を伏せた。自分の息づかいだけが荒く、風
絶え、鳥も鳴かなかった。水が欲しい。足は血が垂れて脹れていた。ふくらはぎを裂かれているのも知っていた。汗が煮え、それも僅かな身動ぎで忽ち冷えた。
顫えながら劉の眼は涙をためて高い崖を見上げた。
劉は後悔していた。素直な舟の旅をしていたらとうに星子に着いていたであろう
――。しかし愚痴にはなじまなかった。山を畏れながら、まだまだ水の底に似たこの山の青さが憎み切れなかった。ちょうどよかったのさと言っていた九江の朝
の着崩れた女の言葉を劉は思い出した。
山は、まったく山は、さまざまな形から造りあげられていた。それに一面の木の葉、草の葉の不思議な色と
姿。揺れても静まっても、どの葉さきの細かさにも山の生命が息づき生きている。自分は死ぬまい、死ぬわけがない。劉はそう呟いた。途端に劉のからだは空を
舞った。
三、四尺の浅い穴に、吹き溜りの朽ち葉を埋めて山の水が底籠っていた。水は腐って、頭から落ちこんだ劉
の首も胸も腹の下へも青黝い雫になって伝った。が、が、がと鋭い声をあげ飛び去る鳥の羽音が二つ三つつづいて、山は急に暗くなった。
汚れてしまった手紙の皺を伸ばし、畳んで木の根に置いた。着物を乾かすすべもなく、絞って着こみ、帯も
しめた。手紙はまた胸に藏った。袖が裂れ、二の腕が痛んだ。掌でごしごし拭って劉は一つ残っていた梅の実を噛んだ。思い切り酸っぱく、なみだが呆れるほど
溢れた。
素手になって劉はまた歩きはじめ、十歩も行くと棒立ちになった。
――建康の西の丘で一緒に毛虫の墓に手を合わせたあの人は、慰めるように自分にこう言った。人間のちか
らではどうにもならんことがあるさ。だからと言って泣くことはない。吾れひとりのはからいで何が出来る、それよりは祈ることだ。その上で何とでも頑張って
やって行くさ。劉が我に返ると男はもういなかった。立って西の方を見た。流れ寄る長江の水の上を光るかげが黄金の糸を引くように消えて行った。あの河上に
次郎兄や三郎兄がめざした廬山がある。廬山のもっと向うには父と母がいた郢という村がある。こぶしを握りしめてちいさな劉は風の中にまだ暫く佇んでいた。
風にまじって唄でもうたうような遠い人の声が聴こえた、と想った。
あれと似た声を秀蓮と一緒に犀川の水辺でも聴いた――。
あの時の気もちを劉は忘れていなかった。しかし何ごとがあったとも殆ど想い出せなかった。秀蓮の掌が柔かく、温かであったことだけを覚えていた。劉は今自
分の空っぽの掌をまじまじとながめた。血で汚れた掌に梅の実の匂いが残っていた。眼を凝らし、かすかな光の流れ寄る所を仰ぎ見て劉は顫える声で阿弥陀仏の
名を何度も呼んだ。そして、やっと納得したように、またゆるゆると滑る苔に手をつきながら大きな松林を登って行った。
登っているつもりでも、嶮しさに負けて横へ横へ伝い歩いていることが多かった。綺麗な花をつけた小枝が
意地わるく肌に突き立った。流れる血の上を木蔦がはじき、袖に絡んで笹は眼を打った。うっとうずくまったまま、忽ち灰色に変る眼の前で風が渦を巻いた。劉
の吐く息はとうに泣声に近かった。大声で泣いている方が気もらくであり賑やかであった。眼をかばい、片手は青葉と枝とをかき分けながら劉は脆くも行きどま
りの岩肌に胸を突き返された。水が欲しかった。眼がまい、よろめきよろめき殆ど這うだけであった。岫へ帰る雲が夕日に映えて見え隠れしても、廬山の頂は全
然見えなかった。
そして、またしても急な崖を滑った。つぶてになって小石は谷へ飛んだ。辛うじて途中の松に抱き竦めら
れ、劉は失神した。山を鳴らす暗い通り雨に息吹きかえしたが、頬も、両の掌も真朱にそげ、胸の内がぎしぎし鳴った。指さきは血垢でがさがさしていた。雨を
飲み、唾で傷を洗い、劉は震えていた。
雨がやむと急に暗くなった。遠くで鳥が騒いだ。何としても崖をよじ登らねばならない。劉は寒さに負けて
松の根に顔を伏せ、僅かな胃の腑の残りものを吐いた。
劉は泣いていなかった。泣くと疲れた。脹れた脚は骨まで痺れた。同じ場所をぐるぐる這い回っていたこと
もあった。出口のない青黝い暗やみに迷いこみ、行きどまり行きどまりに茨のとげや足を刺す浅茅や岩や、吸いこまれそうな真黒な谷があった。どろっと粘っこ
く揺れる木の暗が四方からじりじり劉を蔽い籠めた。ぐっりし、また思い直して劉は手を振りまわしまわし暗の渦にもぐりこんで行った。そんな劉の、からだも
力も余りにちいさかった。突き倒し、頭の上から脚の下から山風が見えぬ拳で劉を打った。
殆ど両眼をとじて劉は必死に這えるだけ這った。四つ這いの掌も膝も痺れていたが、這って、這って、ぶつ
かり、はじかれ、時には力なえてただごろごろと山の中を転げ落ちていた。からだ中が血でぬるぬるし、耳は空ろな筒を吹くようにぼうぼうと鳴った。そしても
う諦め切ったように、二度三度宙を舞いながら劉のからだは血まみれで真暗な谷へ落ちこんで行った。何も見えず何も聴こえなかった。悲鳴もあげなかった。全
く劉は夢の中にいた。夢の中で、劉はちいさな枕に頬をのせて寝ていた。寝て、そして夢を見ていた。夢のまた夢で劉は、山に登っていた。山の頂にたどり着く
と、一人の少女が向うむきに料紙を伸べ、髪をなびかせて一心に繪を描いていた。
少女の描く繪はほかでもなかった。細く長く、どこまでも一筋にのびている白い道の繪であった。道のわき
は濛々と青く塗ってあった。黄の色もまじり、ところどころの黒い彩りも鮮かであった。だが、何としてもそれは一筋につづく真直ぐの遠い遠い、遙かな、ただ
道の繪であった。
劉は黙って見ていた。少女も黙って描きつづけた。道は幾千里となく白光をただよわせて延びて行った。劉
の眼に涙の玉がつむつむとふくれては、消えた。風が鳴った。
少女はやがて、どう、と言った。秀蓮であった。何だか寂しい、と劉は呟いた。
秀蓮は別の絵筆の先に眼もまばゆい紅色を染めて、道の遠い涯の所に芥子粒よりちいさな人の影を描いた。
すると、万里もの道のりをかすかに或る輝きが吹雪のように奔った。
秀蓮は劉を顧て、あれはわたくし、と言って微笑った。秀蓮の声は山はらを流れるこだまよりも美しかっ
た。だが、遙かな楽の音のようにも哀しかった。
わたしのことも描いてほしい、と劉は頼んだ。秀蓮は返事をしなかった。だが、別の筆先に濃い藍の色をひ
たして、この道のこなたの端に、ちいさくくっきりと劉のうしろ姿を描いてやった。と劉は、見知らぬ山なかの道に寒げに佇っていた。山中と見たのは道ばたが
青々と奥深ううるんでいたからであったが、山ではなかった。野でもなかった。秀蓮の繪に紛れ入ったことを、劉は知った。道が白銀のように光っていた。
劉は歩きはじめた。この道の向うの涯から美しい少女がやって来る――。だが、本当に秀蓮は来るのだろう
か、と劉はふと惑った。頬をまたしても涙が流れた。あの秀蓮はこの道をさらに歩み去って逝く人なのかもしれない――。
暫くのあいだ劉は両掌で顔を蔽っていた。それから、歩きはじめた。あの少女の美しくなつかしいことだけ
を考え、考え、歩いた。ただもう歩いて行った。
――劉は我に返った。月が影という影を青い銀色に濡らしていた。劉は秀蓮を眼で探した。しかし、繪を描
いていた秀蓮も夢なら、夢のまた夢も幻であった。劉は殆どはだかで、血だるまになって、何かしら広々とした風通しのいい場所を這いまわっていた。
起とうとして何度も転んだ。胸板を突き上げて腹の中から荒い息が口へ出た。吐きたかった。劉は仰むけに伸びてしまった。はあはあ口をあけた。月が大きかっ
た。まんまるに光っていた。朦朧とした頭でここは廬山の頂上なのだと分った。すると劉は何が何でも遠い所が見たくなった。そのためにこそここまで来た気が
した。脹れあがった脚を踏んばり腰でいざりながら、劉は家ほどある真黒な岩につかまり立ちしてよじ登って行った。血で乾いたからだへ捲きつけるように風が
来た。
劉は見た。満月に照され大地の底にきらめく菊の花、星の光と咲いたような湖をとうとう見た。
精いっぱい来たという訳の知れぬ満足があった。このまま死ぬであろう――、劉は気だるくやっと思い当っ
た。次郎兄も三郎兄も、同じ道に踏み迷うて死なれたのではないのか。
風が募り、また凪いだ。
劉は眼をとじ、とじた瞼のうらの淡い月光に心を洗われた。心の奥の世界は優しい明るさににじみ合って遙
かな深みにまで拡がり拡がって行った。劉は傷ついたものを洗い流され、自分がどことも知れぬ広大な宇宙の一点、一箇の大きな瞳の如きものと化して世界を眺
めていると想った。濛々と輝く雲が四方八方に湧き立ち湧き返り、もつれ、ちぎれ、飛んで輪を結び、一団となり、薄れ、霞み、しかも雲間を透けて涯もない紺
青の色が澄んでいた。劉は、宇宙の真中で息を凝らしてその宇宙というものを見つめていた。すると湧きあがる白雲の彼方にちいさな光が一点鋭く青空をかすめ
て動いた。光はゆっくり、悠々と、弧を描いて雲に隠れ、雲を出てはすこしずつ大きくなり近づいて来た。劉はそれが千仭の深みを舞い上がって来る一羽の鶴で
あることに気づいた。鶴は純白だった。頭と羽根のさきに立派な黒と赤の色を点じながら大きな鶴は白光に射られて黄金色に照り映え、右へめぐり左へ流れなが
ら、静かに雲の底から姿を見せた。
劉は呼んだ。大声で呼んだ。呼びながら劉はあらためて自分が手も脚もからだも喪ったたった一つの瞳の如
きもので、あの鶴と同じにこの広大無辺際の宇宙の真中に漂う存在だと気がついた。「連れて行って」と劉は叫んだ。鶴は旋回しながら劉に近づいて来た。劉は
烈しく瞬いた。瞬きながら劉は巨きな鶴の背に女の人がひとり乗っているのを見た。あ、ああ、ああ。言葉にならない声で劉は呼んだ。鶴はゆるやかに羽搏き劉
の上から下へ、右へ左へ幾度も幾度もめぐり、輝く円光を空中になびかせた。劉は鶴の背の女人が微笑っているのを見た。また、合掌しているのを見た。
「お母さま」劉ははっきりそう呼び、もう一度鶴が近寄って来た時「お父さま」と叫んだ。
「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」
世界中が、雲も空も光も、黄金を鳴らすような澄み切った称名唱和で覆われた。劉も一心に念仏した。鶴が
そのまま沈むように雲間に消え、見えては隠れてとうとう舞い去って行った。劉ははっと眼をあけた。廬山頂上の大巌頭に坐して劉はじっと合掌したままであっ
た。月は皓々と湖上に照り、静かな風が傷つき汚されたいたいけなからだを包んでいた。
劉はうるんだ眼で月を見上げた。月は大きかった。そして、まんまるなその月輪の奥の芥子の種のように消
えて行く黒い影を劉は鶴と化した父と、父に抱かれた母だと想った。月は、満月は――。そうだったのか阿弥陀如来はあの輝く月であられるのかと少年は合点し
た。口を衝いて劉は澄んだ清らかな声で仏の御名を十度二十度、五十度、百度と高らかに呼んだ。呼びつづけた。すると呼ぶ声の一声一声が虚空に化して十五羽
三十羽、百羽そして五百羽千羽の白い鶴となり、漫々たる湖上の月明を楽しげに、或は高く或は低く、流れるように揚るように悠々と光る翼を銀の色に、また黄
金の色に、また漆のように、波のように燦めかせた。羽搏く音も優しく、かそけく、そよ風のように、歌声のように舞い遊びながら夥しい鶴の群は、やがて天上
へ天上へ糸に惹かれる美しい鞠のように一団となって満月の青い光の彼方に消えて行った――。「お祖父さま」と劉は心の内で呼んでいた。「これでよいのです
ね。何もみな、ちょうどよかったのですね」
劉は死ななかった。死ぬよりも苦しい山中の難行はそれからまだ何時間もつづいた。
爪は一つ残らず剥げ、歩いても這っても血を滴らせた。少年の顔は泥と血と傷に黝ずみ膨れていた。眼だけがそれでも燃えて何ものかを待っていた。劉自身何を
自分が待っているのか知らなかった。失神と幻覚との繰り返しの中で草を噛み木の葉を噛み、絶えず渇きと嘔きけとに喘いでいた。しかし、劉は自分が死ぬのを
待つのでなく、もはや死なぬために、生き抜いて、ただ生き抜いてみるために何かを待って、いた。坐して待つのでなく、この深い底知れない、魔性の腸の中よ
うに暗くて青くさくてどろどろした起伏と容赦のない危険とで翻弄するような山の中を、精魂の尽きるまでよろめき這いずりまわりながら、待っていた。劉は
葉つきの枝折れをさながら降魔の剣の如くに、半ば盲いた眼を瞠き、ふりしぼる気力でただもうぐるぐると振
りまわしながら杉と苔としだの斜面をものの百丈も二百丈も転げ落ちて行った。
劉はうめいていた。うめく声が自分のものと納得出来なかった。声は頭上から降るようであった。薄眼をあ
けるとどうやらまだ星明りが厚い木の間を洩れていた。暗闇の中で、その時劉は枝が擦れ葉がさやぐのとは違う音、を聴いた。水の音、渓水がものに当って奔る
音、であった。
劉は夢中で水音の方へ肘と腹とを使って、それでも足りぬと分れば割れてささくれたはだかの膝を地面に引
きずって進んだ。木隠れにさわさわと明るんで月がまだ姿を見せていた。劉は息を呑んだ。渓川はあった。思いの外に近々と清らかな水の音は耳に届き眼に光っ
た。が、紛れもない真黒な精悍な姿で一匹の虎が流れに口をつけて水を飲んでいた。その息づく姿のたくましいかたちに劉は思わず顔を伏せ、からだを地に沈め
た。劉は満身に傷つき血を垂れたまま叩き伏せられて脅えている自分の姿を想った。みじめであった。劉は手近の巨きな柏の樹の根に慕い寄り、とにかくからだ
を起こして坐りこんだ。
虎は水を飲んでいた。何という美しい、大きなからだであろう。怖さや、死ぬ悲しさを忘れかけていた。美
しかったり、大きかったりするのは立派だと劉は満足した。もうあの虎に喰い裂かれても開くまい。心を決めて劉は眼を閉じた。僅かなそれまでの間、今死ぬる
ことより自分が生きていた間のことを考えようか。しかし瞬間に思い惑いは払いのけて、劉は父や母のいる國、仏の国のことを想った。想像した。ひたすら瞑想
した。瞑想しつづけた。聴こえていた水の音がやみ、しかしすぐまたものの音は聴こえてきた。蕩かすような励ますような愛撫するような、優しい音楽のような
劉の瞑想をいつまでも、静かに、静かに彩なすように。
この時、暁の闇に乏しい火をかりて廬山を登って来る二人の影があった。一人は劉少年がめざす東林寺の恵
覚法師で、もう一人は恵元と呼ばれる奇骨の青年僧であった。
恵覚は夜前より頻りに眼が冴えた。眼醒めてしまうと老人の常で睡りにくい。起って手水を使ったり低声で
経をくちずさんだりするその何度めかに恵覚は湖の方に耳馴れぬもの音を聴いたのである。もの音というような音ではなかった。人や鳥の声でも、物が触れ合っ
て鳴るのでも、また雨風が通るのでもなかった。敷いて謂えば恵覚その人の頭の中に、胸の内に、雪が降るとも花が匂うとも精妙な何ものかが通り抜けて行くと
形容してみるよりない或る動き、耀き、清らかな静かな賑わいのようなものが感じられたのである。恵覚は眼を凝らして遠くを覩ながら実に瞑黙の内に我と我が
心の深い湖を覗いていた。するとその暗く波うつ蒼い湖の上を無数に舞い遊びながら天心の月に一団と翔り去る鳥の群がありあり見えた。見えただけでなく、恍
惚と鳴る不思議な楽の音を、たなびく雲の紫の色に聴きとめたのである。
恵覚は阿弥陀経一巻を目読し、時々低声で誦していた。恵元が来て、彼も師僧と似た幻覚に驚いていた。二
人は寝静まった庭に出て白蓮花の睡る池のほとりから廬山の頂をながめた。睡れぬ夜には珍らしくない慣わしであったが、此の夜の山の色はどこか平常と違って
いた。二人は山に誘われているという気がした。山が、空が、雫する深夜の空気の一滴一滴が、恵覚恵元に呼びかけるという気がした。二人はその催しにふしぎ
な悦びを感じた。悦びには、安らかな、心を洗うような鼓舞するような大いさがあった。二人は新鮮な感動を抱いて山へ入って行った。
東林寺を出て南まわりに廬山の麓を行くと康という村がある。その村から恵覚に入門している者があり、そ
れが恵元であった。そちらへ向かう山道なら踏み馴れていた。しかし木の暗は深く、二人は手を引かれるように見知らぬ山中へ紛れ入ったまま恵元が、「お師匠
さま、様子が妙でございますから戻りましょうか」と言い出すところまで来てしまった。
乏しい火で辺りは却って真の闇であった。二人がこもごも手をあげてさながらかき分ける仕種をすると、微
塵の粉を撒いたほどのかすかな明るみが乱された水の輪のように頼りなく揺れ、巨きな人影に挑まれるように、突然ぬっと立木に眼の前を塞がれたりした。とこ
ろが恵元が様子が妙と言い出した頃から、まだ薄明の時刻でもないのに森々と鳴る山の音の奥から不思議に霧が斜面を流れ下りるような具合に明るみはじめ、足
もとから膝へ、腰から胸もとへと二人は美しい光に五体を包まれる心地がした。そればかりではない畏いほどの山の音がいつか静かは静かなまま心神を蕩かす和
んだ賑わいに聴こえ、身のまわりに、木むら草むらに、岩に枝葉に、木の間を分けたその蔭からも奥からも満ちて来る眼に見えぬ湖のように、やがて恵覚も恵元
も馥郁とした黄金の波立ちにひたひたと押し包まれていたのである。
恵覚は(きゅうそう)と鳴る音を聴いた。一瞬それは渓の水の潺々と聴こえ、しかし微妙に触れあう琳琅秘
玉の一つが二つに鳴り、四つ七つ十に響いて虚空を埋め尽すように想えた。恵覚は音のさなかに徐かに歩を進めながら習い覚えた夥しい経のことばを打ち忘れ
て、ひたすらただ一人の仏の御名をもう先ほどより声高に唱えつづけていた。恵元も師に倣っていた。樹木と見られていた影が、忽ち三十二の妙好相を備えた和
顔愛語の諸菩薩のすがたと現じて輝く笛や鼓、笙、琵琶や扇をもち笑みさんざめいていた。恵覚は思わず跪いて前方をうかがい覩た。二手を胸前に挙げ掌を外に
向け、大小の二指を相捻じて上品上生の印相に安坐しながら法輪を転ずる阿弥陀如来威神光々の御姿がさながら見えた。
仏の周囲は、行業の果報不可思議に、講堂、精舎、宮殿、楼観、池流、華樹に満ち溢れた百千殊妙、光赫焜
耀の極楽浄土と化し、実に恵覚恵元らの神を開き体を悦ばしめ心垢を蕩除して余すことがなかった。殊にも如来が坐し観音勢至以下の諸菩薩が首を稽べ礼を作し
て法音を聴いている傍には天を摩する一本の栴檀樹が立ち、幹は紫金で出来、茎は白銀で出来、枝は瑠璃、小枝は水晶で出来、珊瑚の葉をつけ瑪瑙の華を咲かせ
(しゃこ)の実を稔らせ、清風至れば七宝は自然の妙声を発し、その時四維十方上下の百千億無量無数の仏国土より飛来した仏菩薩たちは挙って如来の頭上を欣
喜し遊歩してその威徳を讃えたのである。
恵覚は随喜して歩を進め、眼に映じた一つの岩によじ登って如来を拝し、かかる奇瑞に逢いえた喜びのまま
声高に南無阿弥陀仏と念じて危うく岩上より身を投げようとした時であった、「お師匠さま」と恵元がうしろから腰にしがみついた。我に帰った恵覚は、眼の前
の、とある樹の根にやっと倚りかかって今にも絶え入りそうなかよわい少年の、しかしいかにも清らかな瞑黙の姿を見出したのである。
――劉は、人の声を聴いた。力づよい手で肩を抱かれていた。眼をあけると、虎の背に仏が立ち、劉を見つ
めていた。仏の背に、光が鮮かに紅く照っていた。あ、と叫ぶと劉は夢中で合掌した。すると仏も劉を拝し清い声で和しながら虎の背を走り下り、渓を渡ってか
け寄って来た。若い僧が、倒れそうな自分を抱きかかえて呉れているのに、はじめて劉は気づいた。
「東林寺の恵覚だよ」と、仏と見えた人が声をかけた。少年は血まみれの顔に笑みを浮かべてなつかしそうに
「お待ちして居りました」と言い、懐中の手紙を差し出し「さきの鎮軍建武参軍伯麟の四郎、劉です」と名告った。
「虎は」
劉はあどけない声に戻って師僧に訊いた。三人が見返った渓川に水を飲んで見える虎とは、一箇の、実に漆
黒の奇岩であった。ああはっはと真先に恵覚が笑った。
「佳い哉、廬山の龍虎――」
そう言って笑った。八歳の少年も笑い、恵元も老師の諧謔に声をあげてはっははと笑った。すでに朝日は山
はらをほのぼのと深く斜めに射込んで、木々の肌はぬれ、空は青みそめていた。
劉は恵覚法師の膝下に侍すること二年、十の歳に得度して恵遠(えおん)と呼ばれ
た。恵遠の瞑想の深妙にして清白顕明なことは、しばしば倶に浄土の行に勤める他の弟子衆の諸見を消滅し塵労を散じ欲塹を壊たせて、無量寿無量光、大慈悲西
方仏国土を覩見させえたのである。
廬山は恵遠の父母であり師であり友であった。その著す廬山略記に、――
其の山の大いなる嶺は、凡そ七重あり。円き基(ふもと)の周囲(めぐり)は、五百里に垂(ちか)し。風と雲の(もとお)る所、江(かわ)と湖の帯(めぐ)
る所なり。高き崖、反れる宇(みね)、峭しき壁は万尋にして、深き岫(たに)、窮まれる巌(やま)に、人も獣も両に絶えたり――と恵遠は書き、殊に満月に
帰り逝く鶴を幻に見た最も高き峰を後に香爐峯と呼んで、――遊(ただよ)える気、其の上を籠め、氤(いん)(うん)として香煙の若(ごと)し――と謂って
いる。かの虎渓の泉源を極めていた恵遠は廬山南西の山中に曠蕩の霊地を見出し、またそこから遠くない場所に、――流れを掛くること三百丈、(たに)に噴
(むせ)ぶこと数十里、(たちま)ち飛んで電の来(いた)る如く、隠(しづ)かに白き虹の起つに若(に)たり――、と李白が絶唱したような豊かな瀑布を控
えて、大湖を望み、ならびに全く西天を視野におさめた実に普等三昧を逮得するにふさわしい寂静の一奇台をも得ていた。
しかしながら廬山の清風をよそに、当時揚子江上流の一帯は東晋の閨族桓温、桓玄父子の睥睨にまかせてい
た。國都建康では漸く官爵も公然と売買された。顕官は門閥とともに風姿の美、機智の弁を競い、大臣王恭の如きは春月下の柳に似た物腰や、神仙のような装い
を人に羨まれて特異であった。民政は悉く廃れ、公卿は徒らに清談に耽った。ひとり桓温は兵馬の権を養い秘かに皇位の簒奪を策していたが、果さずに死に、子
の桓玄が父の野望をついだ。光孝武帝は夙に酒毒に屈し、ついに寵妾のためにその床の中で殺害されて帝業を唖で白癡の太子にゆだねた。
世は危く、國は乱れ、しかも書に絶世の王羲之あり画に冠絶の顧ト之がいた。文華は賑わい世道は爛れてい
た。念々に廬山と倶に日を送りながら恵遠は遙かに叔父伯亮の痛ましいような宮仕えの噂を聴くことがあった。彼もまた好爵に(つな)がれて寵辱の道に喘ぐ人
であった。恵遠は叔父の為にも秘かに祈った。
十八の秋に恵遠は恵覚法師の死に遭い、遺命に従って一時東林寺を離れ、漸く十年ぶりに江寧なる老父母の
もとへと旅立った。途中、潯陽九江に泊りした時一人の尼が舟に恵恩訪ねて来た。恵遠八歳の入山に際して最初の説法を強いた女であった。酒色に荒んでいた女
はあの時卒然と因縁の大事に思い至り、比丘尼と身をなし漂泊の生涯を風塵にさらしていたのであるが、たまたま恵遠の九江に来(いた)ると聴くと再度の結縁
を懇望したのである。
恵遠法師、即ちかつての劉少年はこの女を忘れていなかった。請われるままに法華経の薬王菩薩本事品を説
いて阿弥陀経が陰密法華に他ならぬことを証し、倶に往生浄土のことを約した。それから、女と恵遠は互いに沈黙した。廬山を照す秋月は、折しも紫雲に捲かれ
て二人の姿を優しい影に変えた。
江寧に帰ると恵遠は伯麟とその妻の縋るような瞳に逢った。死期を待つ老いた二人は恵遠と互いに拝し終る
と今生の意味を問いかけた。恵遠は涙して暫くさしうつむいたまま言葉もなかったが、漸く顔をあげるとその昔そうしたように祖父と祖母の傍へ寄り、自分の手
でしなびた黄色い年寄りの掌を一つに合わしてやり、自分も熱誠を顔に表わして合掌するや「南無阿弥陀仏」と十声し、息を調えて訓すようにただ一言、「此の
世のことはみな、夢まぼろしと思せよ」と告げたのである。
あ、と麟は絶句した。つぶさに嘗めた哀別離苦、今生の徒労感が沸つように今どっと心に甦った。そんな
――。だが一瞬の抗いも崩れる枝の雪が水に流されるように麟は恵遠の清い瞳にからだごと吸いとられて行った。思わず恵遠の若い手を手さぐりに引き寄せ、
「この十年が間、わしも……」と言ったなり麟は眼を泣き脹らした妻を顧て訳もなく頷き頷きした。妻はすっかりちいさく老いていた。手をとられたまま恵遠は
跪いて祖父の胸に顔を寄せ、麟と妻とは抱きあげるように恵遠を立たせた。暫く三人は一つに抱き合っていたが、やがて誰からと泣く来世を願う念仏の声を起こ
し、部屋に満ちていた人々もこの時もろともに心より西方往生の一念を生じたのであった。
恵遠はかの少女秀蓮がすでに数年前に病死していたことを知った。ひとり犀川の堤に出た恵遠は逝くものの
静かな歩みの音を聴いた。廬山をさまよい断崖を転げ落ちながら夢に夢見たあの遠い遠い白光の道を、今、秀蓮はどちらを向いて歩みつづけているのであろう
か。若き青年僧の両眼に涙は溢れ流れた。涙を払い恵遠は頭をめぐらして西天を仰ぎ見た。帰り来迎の寂しくも花やかな幻が一瞬恵遠の瞳をよぎって、うすれ
た。
恵遠はやがて一枚の画絹を麟老父とその妻の手に遺し、遙か広州常安寺の道安という学匠を尋ねて去って
行った。その繪は、紅葉に燃える廬山と漣波に燦めく大湖とを見下ろしていた。画中の落日は山を染め、紫金の乱雲は西天に漲り、一団の迅雲となって阿弥陀如
来と菩薩天人の大群集がまっしぐらに湖上を山壁へと急いでいた。
恵遠は、恵覚法師の臨終に描いた幻覚を、自らの手で倏忽の間に写していたのである。
――完――
* 昭和四十六年「展望」十二月号『廬山』は芥川賞候補作に挙げられ、選者瀧井孝作、永井龍男の好評と推薦を得ました。永井先生は単行本の
帯にも「美しい作品である。美しさに殉じた作品である」と、選評のことばを贈られました。代表作の一つとして文学全集や入門書にも繰り返し採られまた紹介
されています。
* 器械では使えない漢字がかなり使われていて、表記に極めて遺憾な箇所を残しています。お許し下さい。