東工大余話 5
 
 
 

  青 春 有 情 ー雑誌「教育技術」連載版ー

 

                                秦  恒 平

 
* 以下は「東工大余話 1 」の縮刷雑誌連載版で、前記に入らない題材を一、二含んでいる。序と跋にはそれぞれに別原稿を添えた。                
 
 
 

 やはらかに人わけゆくや ー序にかえてー

                        
 突如、見も知らない国立大学から「文学」教授就任の依頼があったとき、ただの作家に何を期待されているのか、分かりにくかった。二足のわらじを五年間はいていた。その以前はサラリーマン。えらいお医者さんが相手の編集者だった。免疫学や小児医学などの研究書をいっぱい本にした。そっちのわらじを脱いでからは、ずうっと小説を書き、批評を書き、医学とはほど遠い世界を浮遊していた。著書の数は多いが、ベストセラーは無い。教育者でも研究者でもなかった。
 東工大は味なコトやりますね、一種の名人事ですよ、やって下さい…などと、各大学にいる友人や大勢の読者に嬉しがられ、けしかけられた。
 辞令から授業までに、幸い半年間があった。大学の先生は、高校・中学とちがって「無免許運転なんですよ。お好きになさればいいんです」と、若い同僚教授に目からウロコを落としてもらって、好きにするかと肚を決めた。平成七年春から教壇という高いところに立った。学生と顔を合わせた。
 だが心掛けとしては、ただ学生と向き合って、こっち教授、そっち学生には、なるまいとした。学生の横に一緒にならんで、同じ視線でものに向かいながら、学生の見方と私の見方とを自然に突き合わせよう。そして双方で、教えあい学びあおうと思った。譬えれば、すばらしい美術作品を寄り添い見ながら、おのずと対話や意見交換が成るように、願った。だから、知識を授けようとは考えなかった。得ている知識をどう生かすか、そこに働く、感性や知性のことを専ら考えた。考える力が、あるかどうか。あっても、それを表現する力が、あるかどうか。
 表現の道はいろいろある。私の場合は工学部「文学」教授なのであるから、基本は言葉であり、文章である。背後の体験である。借り物でない自分の考えを、借り物でない自分の言葉で、どれだけ実感をもって表現できるか。それを引き出すことに、関心と興味と意義を私は覚えていた。問題はどう仕向け、どう参加させるか、だ。こっちの必要ではなく、学生の必要でなければ意味がない。逆にいえば、どんなに難儀な持って行き方であっても、興味がもて挑発されてみたいと学生が思ってくれるなら、何かが出来る。
 工学部も理学部も人間理工学部もひっくるめて私の教室へやって来た。一、二、三年生各主体の、三つの教室を私はあてがわれていた。メインの授業内容はみなちがうけれど、そこへ持って行く導入を私は工夫した。しかも、いちばん彼等が苦手で、これまではたぶん避けて来たことを、やりたい。それは、何だろう。一つは詩歌で、一つは文章を書いて自分を表現することだろう。術もなくて泥を吐かないのだ、若者は。
 優秀な理系の頭は、いつも文系のセンスをナメてかかっている。その頭を「文学的」に挑発し刺激してやるのが効果的だった。「古池や蛙とびこむ水の( )」とでも黒板に書き、漢字一字の虫食いを補わせれば、芭蕉の名句、学生は何も考えずに知識や記憶で「音」と答え、心には何ひとつも残すまい。しかし、「やはらかに人わけゆくや( )角力」と出題すれば、そして試みに「( )角力」にフリガナを打って答えよと言えば、いっぺんにヘコたれる。仰天する文字と訓みとが続出し、しかも一人一人、句意を案じてその一時は自身俳人たらざるを得ないのである。そして、そこから先は、こっちの力量もものを言うが、おそろしく莫大なものを学生の胸に送りこめるのである。詩の、句の、表現の、言葉の、想像力の、世界や人間の、底知れない魔力や魅力について。能力について。
 東工大の学生ですら、いま、「角力」が「すもう」と訓めない。「角界」「力士」というじゃないの。あッそうか。で、「勝角力」と出たのは百人に二人見当。他は、では、どうなるか。何人かが大角力、押角力と出て、腕、尻、独、紙など、合わせて二割に満たない。「四角力(こうさてん)」「風角力(かざぐるま)」「馬角力(ばかぢから)」「牛角力(かたつむり)」「人角力(じんりきしゃ)」「車角力(くるまひき)」「錯角力(テクニック)」「多角力(にんげんせい)」「鬼角力(かぶとむし)」「無角力(はるのかぜ)」「頭角力(リーダーシップ)」等々七十幾種が収集できた。それでも、そこそこ詩の世界に足を踏み入れかけているのもある。「やはらかに人わけゆくや」につけて、「かざぐるま」も「はるのかぜ」も「かたつむり」も、いやいや「くるまひき」でも面白くて、原作の高井几董も苦笑するだろう。まさに、そこに、文学に生きた、創作の、批評の、鑑賞の、不思議というものが露出してくるのである、面白くも、厳しく。
 授業はじめの十分で、十分。先週の結果を披露し、爆笑し感嘆し、今週の問題を出しておく。若い彼等の心根にびりりと響く主に現代の短歌や俳句を精いっぱい選び、いつしかに自分の現在や過去・将来に重ね、物を思い考えてもらう。考えずに済まない「難題」を更に与えておき、時間内に、授業を聴き聴き、必ず書いて提出させる。書かれた挨拶、四年で、三万五千枚。
 
 

 1 結婚は「建築学」である

 飽くをもて( )の終と思ひしに此のさびしさも( )のつづきぞ  与謝野晶子

 こういう虫食い短歌には、いまの大学生、らくに漢字を入れてくる。まして同じ一字をといえば、七割見当が、原作どおり「恋」と入れる。恋は青春のメインテーマ、東工大生ほど時間に追われてよく勉強する学生たちでも、マメに恋をしている。恋を求め恋に飢え、もう恋はあきらめている者もいる。入学式がコワかったと漏らす女子がいるくらい、今でも優に十倍以上の男子大学だから、内でも、また外でも出会いの機会が比較的少ない。
 だが、ほんとうに「恋」なのだろうかと、ふと訝しむときがあった。彼らの恋のボキャブラリィは「告白」「付き合う」「別れる」の三つで、恋というより「性的付き合い」に他ならないから、ボヤのように燃えついては消え、また飛び火もして行く。学生がいわば無常感を感じとる機会として「恋」は機能し、「はかないですよ」などと嘆いてくる。恋愛と結婚は、同じ地平に虹をかけていない。
 極端な例でいうと、ある女子学生は結婚を「経済学」に譬えて、男性のメリットをなるべく数字に置き換え優勢な総合値をもった男と「お見合い」でしか結婚しないが、恋は結婚までの性的な「オアシス」として満喫したいと、真面目に答えている。
「結婚を学問分野に強いて譬えるなら、あなたにとって、結婚は、**学か」と聞くと、たちどころに七十種以上もの「学問」が登場し、数百の学生の「結婚」観が提出されてくる。一、二を紹介する。いずれも現に授業を耳に聴きつつ、考えて、書いている。

*「建築学」 まず材料力学。相手、自分をよく知って、どれだけ強いのか、どういう性質を持っていてどう使えば最適なのか分析しないと、一緒になんか暮らせないでしょう。知らないほうが良いこともありますが。次いでそれをどう組むのか、構造力学です。どこまで大きく高くして行けるのか、結婚の成功もそれにかかっているでしょう。また建築設備学。家も家庭も快適でなければならず、環境設備学とも言います。夫婦の暮らしにも大切なことです。建築史も関わりますね。結婚ということの歴史的な理解もさりながら、互いのここに至る背後や基盤を知り合うことは大切な手順です。いよいよ建築計画が物を言い始めます。将来への覚悟を定め不安材料は解消すべきです。そして意匠・デザイン。味のある豊かな生活に、変化もなければ長続きしません、これが難しいです。他が必ずしも参考になるかどうか。こういう検討があって初めて、製図が始まります。他にも建築心理学、建築人間工学なども関わります。それらをみな頭に入れて製図します。綿密に図面上で計画します。状況・条件が調ったところで施工します。しかし結婚という建築はどの段階で完成するのでしょう。と、まあ計画大事と言いましても、実際は勢いや感情=勘定でやっちゃうんじゃないでしょうかね。   (男子)
*「有機化学」に限った事ではないが、「反応」は一つの物質だけでは殆ど起こらない。大部分「或るもの」と反応して新たな物質をつくり出す。反応する「或るもの」も様々で、生成物は「それ」によって大きく異なる。結婚も同じで、元々在る物質を自分とし「或るもの」を異性であるとすると、そのパートナーによって人生は大きく変わってしまう。人生、いろんな人と出会うことで自分が成長し変化して行くのも同じだ。また「或るもの」が同じであっても、触媒や温度、pH等によって反応が起こらなかったり、まるで違うものが出来たりもする。これは環境ー例えばセックスの相性等ーによって離婚に至ったり裕福に暮らせたりするのと似ている。   (男子)

 こういうのを、どっと何百人もが提出して行く。仕事も忘れて読んでしまう。「恋」にはへんにおどおどした学生諸君が、「結婚」となると、なんとハツラツと我が田に水を引くことだろう。しかも思わずかなり真剣な実感を交えていることも、疑うわけにいかない。自分の実感と言葉で、既成の学問への理解や批評もしぜん露出してくる。結婚という未知ではあるが近未来の重い現実にもかなり真面目に身構えている。故郷へ帰れば身近には、もう結婚し、子供まであって「稼いでいる」友人がいたりする。そういう現実に想像以上に学生は厳粛な視線を送っている。「親の金」に頼っている学生身分のアキレス腱が見える。
 とにかくも、恋よりは「結婚」観の方が、はるかに堅実に落ち着いている。東工大生は将来の「仕事」に希望も自負もよほど具体的にもっているので、後顧の憂いなき「家庭」に対する願望が、特徴的に、強いのだろう。
 ただそういう願望と、例えば学生のうちに好きな人との「同棲」を体験しておきたいといった「性」付きルームメイト志向とが、やすやすと共存もしている現実でも、ある。異性の「同居人」との生活を、ごく日常感覚でさらりさらりと話してくれる学生を、幾組も知っている。
 むろん「性」の結果があわや妊娠の心配と化し、青くなったり赤くなったりの学生が、一年生にもいる。子供をおろしてしまった、つらい、死にたいと打明けて来る女子もいる。それには実は驚かない。が、私のような道草教授とちがう十年二十年もの同僚教授たちが、「まさか…」と絶句のあげく、学生にカツガレているんじゃないですかと宣まうのに、驚いた。そういうセンセイほど、今の学生は何を考えているのやら、さっぱり分からないと匙を投げている。それどころか、現代の学生は何も考えていない、幼稚だ、バカですよと来ると、どう割引きしても、危険だと思う。
 四年間に、そんな学生に三万五千枚の「泥」を吐かせ、一心に読んで応えてきた私には分かるが、何を考えているのやらと嘆かれている学生たちの殆どが、内なる思いを発信したくて機会を、聞き手を、渇くように求めている。そういう青春に、「自分の言葉」を見つけさせ、「実感」をせめて書いて表現させ、噴出させてみたかった。個性的な研究や創造の発想も構想も、そこから得させたいではないか。遠回りのように見えて、もっとも健全な文学教授の「道」の一筋がそこに望めるのではなかろうかと思ってきた。
 
 

 2 恋は「大変」である

「恋は盲目」とは、恋をする以前から口碑のように聞いていた。さもあろう、それぐらい、
小学生でも朧ろに心得ている。覚えのある人、少なくないはずである。だから、「恋は**」の「**」を学生諸君に定義してもらうと、「盲目」という返事がやはり多く戻って来る。だが、思ったより少ないのも事実である。
 夏目漱石作『心』の「先生」は、彼を尊敬している大学生の「私」に、「恋は罪悪です」
「だが神聖なものですよ」と訓戒している。なかなかのモノである。
 で、この「**」を埋めてもらい、東工大生の「恋」託宣を聴こうと試みた。10項目ほどで纏まるだろうとタカをくくっていた。
 とんでもない。ほぼ五百二十人から、三百通り以上ものちがう表現で返事が出てきた。 見たところ「恋」の手習いはむしろへたくそな学生諸君だが、だからと言うべきだろう、実感と自分の言葉で、「恋」は思案の「内」に、しっかり主題化されていたのである。いちばん多い「盲目」で四十人。以下、頷いたり思わず笑ったりしたのを、「**」の箇所だけ、多い順にここに引いてみる。玉石混交などといってはならず、ほんとうは、笑ってもいけないのである。
「恋」は、告白・大変・病気・忍耐・生きもの・活力(源)・本能・魔法・人生・不思議・苦悩・戦闘(戦争)・罪悪・魔薬(麻薬)・ときめき・若さ・難しいもの・自然なもの・駆引・分からん・憧れ・迷路・一瞬・永遠・無限・悩み・水もの・必然・偶然・春風・大切・束縛・財産・孤独・切ないもの・青春・純粋・詐欺・冒険・いいもの・幻想・暗闇・悪魔・お天気・事故・混沌・鏡・狂気・残酷・運命・苦痛・やすらぎ・不可解・試練・命・最高・つらい・魔物・危険・奪うもの・賭・神聖・夢・創造・楽しい・真心・自分勝手・変・義務・秘密・栄養・パワー・無情・博打・快感であると、ここ迄が、ともあれ少複数者の託宣であり、これだけでも十分「恋」の現象や心理や本質に迫っている。一人に尋ねても意義をなさないものが、五百人を越すと、全体で実に多くを証言してくれる。大教室のメリットであり、こういう問いかけを内心で待っていたかのように、生き生きと答えてくる。所感も弾んで書かれる。
 一人きりの「託宣」が後へ二百何十と並ぶのは壮観だが、妙なのを、摘んでみる。
「恋」は、殺気・唐突・変換・空虚・電車・未経験・積木・come on・片思い・興奮・ガン・理屈じゃないン・気紛れ・欲求・想像・自慰・涙また涙・一喜一憂・はずみ・宿題・狡猾・花・片道・我慢・宇宙・雷・競争・犠牲・悩みの種・信号・たわこと・楽勝・白昼夢・勝負・思いやり・ベンゼンのスルホン化・余韻・気合い・簡単・訣別・一寸先は闇・成り行き・性欲・芸術・楽しそうなもの・はかない・錯覚・縁がないもの・粘りつく重い液体・心の酒・不毛・H OにMnO を入れO を発生する反応・胃炎・偽善・記念・泥棒・しない方がいいもの・三面鏡・動力・曖昧・侵略・炎・なすがまま・なるがまま・もやもや・道草・天国・遭難・放棄できない我慢・熱演・砂漠・無いものねだり・経験・付録・たるいもの・勘違い・支配者・早い者勝ち・時を早めるもの・波・本音・策謀・毛針・禁物・様々・愚か・風邪・いつのまにか・隷属・面倒・独占欲・誤解・嘘のつきあい・未練・山あり谷あり・盛り上がり・火傷・発作・台本のない芝居・重荷・挫折・幸福・極楽・地獄・すべて・オロナミンC・贅沢・ゆるすこと・お金・悩ませ喜ばせ悲しませるもの・心痛・疲れるもの・心の支え・迷惑・愛へのステップである、と。もう十分だろう。どれ一つも無意味ではない。それどころか一編ずつの私小説すら読みとれて来るではないか。
 こと「恋」に関して、学生諸君の胸のうちを十把一からげに推し量るなど、失礼というもので、一人一人がかくもべつの言葉で捕捉している。なまじな「恋愛論」で頭を痛くするより、端的なこれらを纏めて聴き届けるほうが「恋」は早分かりするとも言える。
 学生たちは、嬉しいにつけ悲しいいにつけ「恋」について、いつも語りたがっている。それも、その時その時の待ったなしの声や言葉で告げられる。とくに「告白」して思いの叶ったときは、手放しで「人生最高」の感激と歓喜をあらわに告げてくる。彼女にはかたく口止めされているので人に話せないのだが、言いたくて言いたくて堪らないと「秦さん」にだけ告げて来る感動の場面は、雄弁に詳細に描写される。例えば音楽あり、車の中であり、雨も降り、海岸である。筆に初々しい爆発感があり、読んでいてこっちまで上気してくる。つづくといいなと、祝福してしまう。
 学生の恋をわたしはだいたい肯定してきた。恋はたとえ成らずともものの本の何十冊にもあたる痛切な学習になる。性行為についても、もう押し止められる時代でなく、ただ子供はつくるなよと言っておく。それとワルい病気には絶対に注意しなければならないと。但し、それは男子学生に言うことで、女子には極力慎重に、言われるままに心弱くは許すなと言う。ちぐはぐな感じだが、それでいいと思い、余分な口をだすより、専ら聴いていた。
「友」を求める声は、切ないほど数多い。が、「友」にも、いまや「無性」「有性」の事実上の混在が出来上がっている。学生が異性と「付き合う」と言っている場合は、暗に「性関係」がほぼ願望されている。かなりの率で実践もされている。かつての少数派が確実に今は多数派と変わっている現実に応じて学生を理解していないと、滑稽な事態の誤認に陥り、亀裂が増すであろうことを、一般に、大学当局や教員は心得ていた方がいい。
 とはいえ学生の「付き合い」は、浮気に、はかなくもある。「夢」のように「永遠」の「幸福」に酔っていたはずのカップルが、半年もたたずに「別れました」と来る例、けっこう多い。むしろ続いている方が珍しいのではないか。恋する雅量をむしろ欠いていて、だから「付き合う」という言葉で「あとくされ」なくしようとしている。離れる予感に傷付かぬために「付き合っ」たり「付き合いをやめ」たりしている。「恋」は拘束、危険、負担だと、その辺で、斜に構えている
 そうかと思えば家庭も参加して、「結婚」を、もう口にしているカップルもいる。
 どっちにしても、慌てるなよ、急ぎ過ぎるなよと。心から言いたくなるのであります。
 
 

 3 今、真実、何を愛しているか

 Pity is Loveを訳して「可哀相だた惚れたってことよ」と喝破したのは、『三四郎』に登場の帝大生与次郎君だった。異性との好いた惚れたは、まこと「若い」「青春」につきもの、それも不気味に憑きものと書いてみたいほど、日常事になっている。しかも必ずしも「愛」がぜひ必要というのでない人間関係、「性的誘惑」の力に先導されたような浅くて軽い「付き合い」ようが、そんな「好き」や「惚れた」の内実を成している例が多い。そうも垣間見えてくる所が、三四郎や与次郎の学生時代と、よほど今はちがうのである。 愛ぬきの「有性関係」「有性付き合い」は、不健康ともいいかねるほど現代の大学風俗の一つの芯になっている。少なくもカッコつけとしてでも、常識化してきている。驚く気にもならないほどである。
 ただ「愛無き」ことへの、かなりの、まだためらいやうしろめたさの有ることも否定できない。その証拠のように、「今、真実、何を愛しているか」と問うてみると、たちまち学生はグッとつまる。「真実」という厳格な限定と「愛」の文字とが、化合して、目に見えない縄となり、金縛りに思考を渋滞させて、いささかの反省・内省を強いるらしい。
 あげく、「好きなもの」「気に入っているもの」「欲しいもの」「執着しているもの」は幾らもあるが、そしてそれに「愛」が無前提に参加していると思いこんでいたが、さて「今、真実愛しているか」となると、そんなものは無いようだし、これからも有るのだろうかと愕然とする。
 次ぎに、自分がなにもだれも「愛していない」らしいのに、自分はだれかに「愛されている」と思うのはムシがいいという現実に気づいてくる。やっと真剣に考え始めて「家族」「親友」から、行き着くところ、愛しているのは「自分、自身」だと煮詰める学生がうんと増える。でも、自分って、何なの。
「親友」と心安い気安い「知り合い」とを峻別する学生が多い。そして「親友」と「恋人」
も微妙に対立しているのだ。「愛」は親友により多く深く捧げられ求められて、恋人にはむしろ独占したい信頼感がつよく求められている。不安や不信は、友によりも恋人に対して動きやすく、恋ははかないという心配を抱きながら、あらぬ嫉妬にも悩みながら、日々に相互気象図を書き替え書き替え一喜一憂している。親友とは比較的長くつづき、恋人とは比較的短い。そこに、結婚に至るまでの不安をもつ特に理系男子の、出会い難き女性に対する期待と不安とが渦巻いている。

*今、真実愛しているものは、おそらく無いと思う。両親を、愛していないとはとても答えられるものではないが、真実かと問われると真実の前では首をたてには振りにくい。今愛しているものは無いが、強く求めているのは「安らぎ」と「女」である。現代、前者に頷かぬ人はいない。後者の「女(異性)」には、はっきりそう言うのはためらう人があると思うけれど、内心は、半分 の人が納得してくれると思う。「愛する」と言えるのは、人間として成長した者だけ だと思う。          (男子)

 ( )の最もむごき部分はたれもたれもこのうつし世に言ひ遺さざり  東淳子

 入る一字は「愛」だが、生、死、恋、命などと答えてきても、愛とは入れてこない。二十歳の学生に「愛」は、いろんな意味でまだ難しく、けわしいのである。恋は傷つくことなく享楽される道ももっているが、愛は傷そのものであるかも知れない。「愛する」と言えるのは、人間として成長した者だけだというこの男子学生の言葉は、本人が思っている以上に重いのである。

*好きなものは沢山ある。友ダチ、親など。でも愛と呼べるのかどうか。「愛」に偏見あるのかもしれない。愛とは一途なもの、とても重たいもの、そう私の中で定義されている。私はあまり自分の心をさらけ出さない。とても親しくなり深刻な話ができる仲になっても、自分を全部なんて出せない。その友ダチを信用していない、つまり愛が無いことになってしまうのだろうか。愛を知らずに愛を欲しているのかもしれない。
 私は親に冷たく当たる。その中で親の私に対する愛を捜しているような時もある。一方で私は親をとても重たいものに思うから、拒みたい時もある。結局私は今、何も愛してはいないようだ。淋しいことだ、が、そう思う。   (女子)
*私は、父が借金を残し蒸発してから、高校一、二年のあいだ、すべての人をうらみ、にくみました。その二年間は友人にさえ心を閉ざし、好きな部活もやめ、ただ生きているという生活でした。三年のときに、ある女性、高校受験に失敗し行きたくもない高校にいっている友人の女性に会ったとき、なぜか心がふるえ、人をうらんだ自分が消え去りました。その女性を愛するようになりました。今は信じあえる友人もでき、だれでもとはいかないが人嫌いでなくなりました。その女性を愛しつづけています。   (男子)
*秦さんの問題はいつもたいへん考えさせられます。愛のこともこの頃少し疑問に思っているのです。今私には恋人がいますが、本当に愛しているのでしょうか。人間(特に自分)は淋しがり屋であるので、心を支えてくれる人がいると、つい頼ってしまうのです。でもそれは愛かなぁ。絶対違いますよね。今言えるのは、自分は自分しか愛していないことです。自分勝手なようでもこれが事実です。かわいいのです、自分が。人を好きになるのも自分を好きになってほしいからです。自分が可愛いからこそ自分の向上もはかれます。私はまだ自分以外の対象を真実愛せるほど成長していません。最終的には「愛する」真実を知りたい、知れるなら本当に幸福だと思います。   (女子)

 だが、この「自分」が自分ではよく分かっている気で、尻尾も掴めない。自分で自分が見えない袋小路で、学生諸君はうろうろと悩みだす。
 
 

 4 なにが「大人の判断」か

 年度内に成人する、つまり二十歳になる学生の格別多いわたしの教室だった。
 二十歳になったから大人に成ったと言えるものでもないが、まだ子供ですと甘えていられては困る。居直られてはもっと困る。
 学生諸君にしても辛いところで、これまで、子供のくせにとやたら大人の判断とやらを強いられて来なかった段ではなく、二十歳ともなると、今度は大人としての判断を、まるで義務かのように、都合よく、要求される。
 で、「大人の判断」について述べよ、と。「大人」とは何かを問う意味もある。自分を大人と自覚してものを言うか、大人なるものを向こうに置いた感じでものを言うか、それを問う意味もある。「大人の判断」を価値あるものと肯定して自身もそこへ近寄って行くのか、批判的に論難するのか、微妙な移行期のこと、その辺も悩ましく岐れてくる。

*この冬は渋沢龍彦の世界にどっぷりつかっていたので、「大人の判断」と聞いたとたん、
パラケルススや、シュバリエ・デオンや、サドや、ジル・ド・レエ等、大人の判断が出来なかったため、みじめに死んでいった人々の事が頭をよぎった。大人の判断が出来ていればパラケルススが大言を吐くこともなかったろうし、デオンは女装しなかったろうし、サドもアナーキストを名乗らず、ジルも子供を犯さなかったろう。
「大人の判断」と芸術性とは相反するらしい。「判断」が理性の支配下にあるに対して
「アート」は狂気が司る。芸術家は理性という当局の目を盗んで狂気を走らせる、いわば自己崩壊的なアナーキストなのではないか。   (男子)
*判断にあたって、他人の気持や視線を過剰なくらい意識しているとき、それは「大人の判断」だと思う。「本当はこうしたいんだけど…」と自分の気持は決まっているのに、もう一人の理性的な「大人」の自分が「やめておけ」と言っている。世間体が気になりだしたらもう大人だと思う。そう考えると、最近の自分は大人だなぁとつくづく思う。そして周囲に「大人でない」判断をしている人を見ると、「大人気ない…」と思ってしまう。でもそれを自分で情けないとか、「大人になってしまった」と感傷的になることもない。忘れもしない去年の3月(東工大合格)に、「おかげさまで」という言葉の意味が心から分かった時から、子供のころイヤだと思っていたような大人ばかりではない、私は私の思っていたような大人にはなるまい、良い大人になりたいと思っているからです。私は今とても前向きな気持です。   (女子)

 明確に内心や事情の語りきれている文章ではないが、「青春有情」の感は漂っている。毎週書いてもらっていると、どちらかというとクライ感じだった学生がだんだんに明るい心境へすすんで来るのが、またその逆も、よく見える。読み上げて励ましたり共に喜んだりしやすいし、他の学生にもその気分はよく反射していたと思う。他の学生が何を感じ考え、それをどう表現してくるか、お互いにそれこそ興味津々というのが教室の空気だった。
*大人の判断とわざわざ言う場合は「理詰めの選択」をすることだと思う。その責任も重くのしかかる。理詰めの基準は「安全」であろう。積み上げた定石に頼った、安全。だが失敗の可能性から敢えて何か「大きなもの」を拾い上げたいのも人の常である。いわゆるサクセスストーリーとは、あえて「感情的な選択」をして、たまたまうまく行った数少ないケースであり、自分の才能と運を信じ、安定した安全を捨てる覚悟なしには選べない道だ。だからこそ今までに無い何かが産み出せる。大人として生きるのに「大人の判断」の大切は言うまでもない。ただ何か新しい大きいものが掴みたければ、敢えて賭けに出る気概が必要だ。そしてそんな機会は、「大人の判断」が出来ればこそ、見つけも作り出せもする。   (男子)
*「今」の状態で最善を尽くそうとするのが大人の判断である。くだらない見栄から医学部でなく東工大を受験したことを後悔しているといって、もう一度センター試験を受け直し医学部をめざすことは、あまりに危険な賭になる。賭けるのも若い力だが、心幼い甘い考えでもある。それほどの覚悟があるなら、東工大生の今のままで最善を尽くす方が大人の判断だろう。   (男子)
*大人の判断とは、「どれだけ許せるか」だと思います。中学時分は社会や学校の不正にいらいらし、先生や親のしめつけで自分が失われそうで、あげく自分に対しても怒ってばかりいました。純粋な子供のままでいたいと思っていました。今は違います。経験も増え、いろんな立場の見方を覚えました。自分の意見は意見として、他の人にも異なった考えがあるだろうと聴く姿勢も持てます。他に対し攻撃的な思考はしなくなりました。向上だけでなく維持することも大切です。そこから産まれる判断は「守り」ですが、そこで固まってしまわずに、守りでも攻めでも判断するにしても、それ以外を許容する懐の深さ、それが「大人」という気がしています。   (女子)

 数百人が一人として同じ表現をとらずに、「大人の判断」を複雑に、簡潔に書き示していた。その幾らかを吟味して欲しい。
「あえて賭けにでる必要も知った勇気」「正解の無い問題に挑み下しうる決断」「定石にしたがう」「優先順を見極める」「ベストよりベター」「就職・結婚など大きな事態に発揮されねばならぬ判断」「もう一人(以上)の自分を常に用意できていること」「常識にマッチする」「常識に流されない」「大事なことを先送り・やり過ごす」「折り合い上手」「自分を抑制して他者に配慮」「つまらぬ意地を張らない」「理論的で非感情的・社会的」「がまん」「自分を見失わない」「影響を考え責任が取れる」「計算ずくで利己的」「一歩引くことの出来る」「利己的なのに利他的に見せるラインを引ける」「欲に逆らい・いわゆる正義にも逆らい得る」「無難」「信号が赤でも(安全なら)渡ってしまう」そして「要するに自分勝手な」とも突き放してくる。
 
 

 5 孤・病・兵・貧の順に怖い

 ものごとに強いて順位をつけてみるという行為は、いやな一面もあるのは否めない。しかし、徹して自問自答を強いられ、ひいては批評の力を磨き鍛え、趣味能力の洗練へすすみ行く文化的な行為であるという一面もある。
 孤独、病気、貧乏そして兵役。二十歳の学生には兵役を除いて現実に直面しているみな難題であり恐怖であり、むろん兵役といえども、将来に亘っていえばとても余所事ではないと、膨大なメッセージをつぶさに読んでいるから、疑いもなく、そう言い切れる。
「孤・病・兵・貧の恐怖につき、強いて順位をつけ、その一項のみに所感を述べよ」と問うと、回答はたちまち山と積まれた。
 恐れる第一位は「孤」で、以下「病・兵・貧」となり、一・二位を合算すれば「病」が「孤」を逆転する。所感は「兵」に集まった。貧乏への怖れは格別に低く、貧乏をこうも恐れていない現実に怖さを覚えるほどだった。

*病・兵・貧・孤の順。四項とも精神を壊してしまいそうで怖いが、兵は特に。兵として死ぬ怖さより、兵として殺すことを正義の名で納得してしまうであろう怖さ。嘘を嘘と知りつつホントにしてしまう怖さ。自分がそうはならないと自信のもてない怖さ。徴兵制になれば逃げます。   (男子)
*兵・病・貧・孤の順。「民主主義を守るために徴兵制は当然」というのはサッチャー女史の言葉だった。しかし軍隊とは統一の考えのもとに統一の行動をとり、平和と正義の名のもとに人を殺す集団だ。戦争になれば互いが己の正義をいい、敵を憎んで平和のために人を殺す。絶対に正しいと大勢の心がコントロールされれば、人は視界を狭くし狂的になる、それが怖い。私は自分自身であり続けたい、その先にたとえ孤独・孤立が待っているとしても。   (男子)
*兵・病・貧・孤の順。恐れている死を他人に強制する兵の原則にはくみしない。まして愛する人を戦地に送る怖さももとより、彼が人を殺すことで生き延びねばならないことが堪え難い。病気での余儀ない死には諦めがついても、兵と戦争は違う。我々より強い「力」の人の手で、私も、兵も、兵に殺される兵や人も、みな傷付く。あぁいや、いや。「兵」なんていやだ。   (女子)

 国を愛する・守るという問題と兵隊・兵役という問題との関連は解き難い。もともと解ける問題ではない。愛する人に人を殺させたくないという意思と、目の前で愛する人を人に殺させるかという苦しい選択に、多くの民族が悩み苦しみぬいてきた。それでも兵役や軍隊を肯定是認する声はさすがに絶無であった。絶無はいい。しかし絶無を守るのなら、かえって常に常に戦争と平和の問題には腰を据えて関心深くなければならないだろう。平和ボケのまま腰を引いていて済む話ではない。政治がわるく絡めば、一朝にして徴兵・兵役復活へ拍車がかかる。拒みたい以上は、もっと真剣に「投票する誠意・熱意」が欲しいとわたしは二十歳の諸君に言いたいし、言った。

*孤・病・兵・貧の順。孤独は最も恐ろしい。話す相手がいないのは最も怖い。嬉しいことも辛いことも全て自分のうちに秘めていると、心が異常化してくる。心が傷むとあらゆる行動が自信のない迷い、恐怖心をもったものとなり、一日一日が暗くなる。内からの恐怖は、自信を蝕みつつ膨らんで行く。希望がもてなくて恐ろしい。   (男子)
*孤・病・兵・貧の順。人のいちばん脆いところが「孤独」だ。病気も看病してくれる人がいれば闘える。兵役も貧乏も、人とともに闘って克服しうる。孤独では何ごととも闘えない。自分は浪人時代から東京で独り暮らししている。その体験からもいちばん辛いのは、つける薬もなくどうしようもない苦しみの伴う「孤」だと思う。孤に耐えるよりも、孤でなくありたい。   (男子)
*孤・兵・病・貧の順。孤独の恐ろしいのは、世間が豊かだろうが平和だろうが、やって来ることです。一度孤独を感じた人を元に戻すのは容易でない。孤独に陥っている人は最悪の状態に在る。最悪の人はそれ以下にならないから、何をしでかすか分からない、希望のない人でもある。恐ろしい。体験的に断言する。   (男子)

「孤独」を語らせれば学生諸君はほとんどがエキスパートである。孤独こそ過去から未来永劫、人間の心の業病かもしれない。漱石の『こころ』を熱心に語りうる資格は皆がもっている。明治の精神の何のよりも、もっと切実に間近にとぐろを巻いている「K」や「先生」や「奥さん」の孤独の厳しさを、学生と限らず、多くの読者は我が身に引き寄せて読み続けて来たのである。想像以上に東工大生の中にも神・仏や信仰・宗教へのアンビバレントな関心は高い。「神は必要か」と問えば、学年が高くなるほど「必要」と大半、いやもっと多くが答えて来る。

*病・兵・孤・貧の順。下宿しています。病気しても誰も何もしてくれません。「病」には孤独が含まれています。「死」も含まれています。いつ病気になるか知れない無茶な生活をしています。やめたら貧しくなってしまう。病気すれば働けなくなり貧しくなる。治療費もかかる。「病」には貧乏も絡んでいます。病気が怖い。   (男子)
*孤・病・兵・貧の順。心臓病をもっています。悪性のものではないが死にも繋がり、診断されてショックでした。自分の意思に反する意味で死刑と同質です。あと何年などと宣告されていれば耐えられたかどうか。今いちばん怖いのは両親が病気することです。最近友達の父君が亡くなった事もあり、かなり現実的に怖いです。この授業で考える問題は、すべてが深く繋がりあっていて、頭がパンクしそうです。   (男子)

 同じ質問を同じ時期に息子にもしてみたら、社会人の三年生、言下に「病」と答えた。学生諸君の「病気」への不安は根深い。
 そのわりに貧乏は何とでもなるという。タカをくくっているのか、そこが東工大生の病気か、日本の経済的基盤に奇妙な自負心を隠そうとしない。誰かの診断を得たいものだ。
 
 

 6 神は、必要か

「必要」という言葉は、いわば工学のモチーフだと言える。必要とするのは、むろん人間であり、「自然」保護のためにという場合も、つきつめれば「人間」にとっての必要を動機にしている。そして必要がある以上、不必要もある。さしづめ文学など不必要ではないかと思っていた工学系の学者が、助教授級の世代にときどきいた。そういう研究一途、必要一途の不熟な世代では、「必要」の哲学がひからびたチーズのように強張っていて、いわば不必要の必要が見えていない。一枚の紙にも目に見える表と見えない裏があり、まるで裏は存在しないと錯覚しているようなものだ。だが、裏が無ければ表も在りえない。「理工」を支えているのは「文」だという人間の歴史が気に入らず、目前の必要にだけ頓着するところが、たしかに在る。在ったナと思う。
 学生にも、在ったか。それは、在った。
 そこで、「神は、必要か」と問うてみた。文系の学生にでは、ない。国立東工大の、大方は自身を「研究者」に間近いと自負している知能豊かな理工系の学生たちに聞いてみたのだ、わたしの教室の。
 きっちり七割が「必要です」と、縷々感想を書いている。
 二割が「必要でない」一割が「どちらとも言えない」とし、何百もの学生のただ二人だけが無回答であった。関心の高さが分かる。その場かぎりにいい加減に答えても自分の為には何の役にも立たないのを、皆、承知している。天に唾するのと同じだ、むしろ良い機会だと質問を受入れ真面目に書いている。
「神」を恐れずに乾いた「必要」にのみ傾斜して行く営為を、東工大の青春は、近い未来のおのれに予感している。予感を強いる実例を日々に学習し、体験さえしている。
 ワープロやパソコンが売りに売られ、だがいつかは廃棄されるが、夥しいいわば死骸の山を処理すれば、凄い毒害を発生する化学的事実を大方の学生が知っている。そして毒の回避や中和を迫られた研究がまた必要になる。そういう研究は、だれも、あまり、したがらない。見える利を追い、見えない害は無いものとして、見たくない。よくないとは分かっていて、先送りしておくのである。
 ここで「神」の解釈は避けておこう。ただ学生たちのメッセージから、こういう事は書いておきたい。科学と神と人間とがどこかで切れていると思う者は、科学を唯一神かの如く信奉して「合理的」に「あの神」を否認しているし、輪に繋がっていると思う者は、目に見えぬ不思議や不可知にふかく会釈し、あだかも「第一原因」を認めるに似たように、「あの神」の意義を肯定していたいと言う。また「神」を認めることで、科学の「必要」を検討し吟味し反省したいのだと言う。
「頭脳」と「心臓」のどちらかに「こころ」とフリガナせよと迫ると、予測とは正反対にきっちり七が心臓に、三が頭脳にルビをふってきた学生たちの願望や祈念のこもった心根と、この「神は(人間に)必要」と応えてきた心根とは、じつに鮮明に照応している。
 だが、「こころ」とフリガナしてもらう際に、同時に、自分以外の東工大の仲間たちが、
どんな比率でどっちを「こころ」と訓むかを推察させてみた結果は、これまた正反対に、七が頭脳、三が心臓であったという紛れもない事実を、忘れることは出来ない。
 この微妙な選択・判断の揺れ、比率の表裏するところに、「神」が「必要」との鋭い、険しい、切ない、まさに「批評」が、白刃のように光っている。そのことに、少なくもわたしは安堵もし、そしてますます、理や工のために「文」の必要を実感したのである。
 理工の基礎学である「数」ほど明確で厳密なものは「ありません」と、わたしの教室や教授室で胸をはる学生がいると、わたしは、こう即座に切り返すことにしていた。幸田露伴の名作『運命』の原題は、同じ意味の『数』だったんだよ、と。「数奇の運命」は明確で厳密なものだろうかと。「算数」という表記の意味を君たち、考えたことがあるのと。 正字の「數」の左は「ロウ」つまり女が髪を高く結い重ねた形、右は「ボク」つまり木で強く叩く意味。「數」とは、さんざんに髪の乱され、明確・厳密どころか「數々」として収拾もつかない状況を謂うんだよ。そんな体たらくを莫大な時間と観察と思索を重ねて、やっとそこに規則性や法則性を認め認め辛うじて体系化してきたのが「數学」じゃなかったのか、東洋でも西洋でも。だから露伴は、不可知や未知や不思議を秘めた運命を『數』と指さし、人間の歴史を書いたのさ、と。
 算数落第の工学部「文学」教授も、ときどきは逆襲しなければいけない。気のいい理系諸君は、こういう土俵に誘い込まれても不愉快がらずに、けっこう歓迎してくれる。
 ことわって置かねばならない、「神(ないし神的なもの)は、必要」とする今日の学生の大方が、宗教や宗団には露骨に歯をむいている。時節は「オーム」騒ぎのさなかであった。理系の優秀な才能が何人も関わっていたことに、東工大の多くの科学青年たちはかすかな怯えすらにじませていたし、可能なかぎり、いわば理神論ふうの「必要」に神を押し戻しておきたげなメッセージが多かった。
「人間は、よわいもの」だからと、突っ支え棒のように「神」を認めておきたい「必要」も、数多く可憐に表明されていた。
 科学に分からないことは「神」で説明しておいて、徐々に神の領分を侵して行くのが即「進歩」だと思っている者も少なからずおり、「神も仏もあるものか」と歯牙にもかけない勇士も烈女も、僅かながら、いた。
「不思議、受入れるか」と問えば、当然のように、「神は、必要」と応えたのとちょうど照応する比率で受け入れるとし、さもなければ科学に何の「未来」があろうと、語調も強くなる。まさに挨せば、拶し返してくる。
 こんな応酬もあった。「科学に、国宝があれば挙げよ」と問うと、科学に国境はありません、国宝でなく人類の宝ならあるが、大方は価値の古びてゆく宝です、と。そうは言いつつ科学への「日本的」な貢献の例を、発明・発見・改良・創始、じつにいろいろと挙げてくれた。東工大で開発した自慢の物質や技術もあり、またフロッピーディスクなども特筆されていた。おのずと、そこに「日本」への批評もシンラツに出てくるのが興味深く、打てば響く青春、打たぬ手はないと思えた。
 
 

 7 親に頼るか、子を頼むか

                     
 人を自然な態度や心情から頼り頼むことは、いっそ望ましいことである。それでこそ、また独り立って世に処しても行けよう。とはいえ、人に頼って当然という依存心まるだしの者も、しっかり、いる。いい大人にもいる。
 都内のA大学で、モンテスキューやルソーなど講じている政経の若い先生が、妻の実家で住居や生活費の面倒をみてくれない、「姻戚関係」を続けるうまみがないと、舅姑に絶縁を申し渡した実例を知っている。親は嫁がせた娘や孫とも逢えないという。こころない教育者だ。
 二十歳の学生たちに、聞いてみた。
 優に九割ちかくが大学院にすすむ大学である、東工大は。とは言え裕福な家庭の子女ばかりが通学しているわけでなく、親も子もたいへんだなと思わせられる事例もたくさん聞いていた。「親を頼るか」は、望む望まぬにかかわらずさし迫った目前の問題であり、「子を頼むか」はまだまだ漠然としていて、ほぼ一致して子には頼るまいと表明していた。ただし親に頼られない子というのも、それなりに「寂しかろうナ」との少数意見もあった。 ただ一人、こんな考え方が出て注目した。

*まだ若く実感がわかないせいかも知れないが、親にも子にも、物質的にも精神的にも頼りたくない。年老いて様々な面で弱くなった時は他人を頼まねばならないだろうが、想像するだけでも寂しいことだ。親に頼るか、子を頼むか。強いて言えば、親よりも、子に頼る方が自然で美しい。それも自分から頼まずとも子がすすんで助けてくれることが、あれば在るべき姿だと思うのだが…。親に頼ることはしたくない。勿論今までに充分に頼ってきているのだが、だからこそこれ以上物質的にも精神的にも頼りたくないのである。身近に、親や大人には頼らねば損のようにして生きている人物が存在するせいかも知れない。少な くとも自分はそうなりたくないと、いつも思 う。なさけない。   (男子)

「子を頼る方が(親に頼るのと比較すれば)自然で美しい」というのだ、はっとした。人間にだけ許された歴史を感じた。普通は逆のことを考える。皆が言う、親には余儀なくまた進んでも頼るけれど、我が子には頼りたくないと。だがこの男子学生のいう「自然」には、なにかしら数段練れた文化的で反語的な感触が、あった。「美しい」と言われると深く驚かされ、驚きに感銘もまじって来る。
 そこまで断言していいのだろうか。肯定したい気が動くのは、私が「子を頼む」気をやや持ち初めているからか。とにかく教室がざわめくほど印象深い「挨拶」だった。
 親に頼っていた頃は、いつもうしろめたい負担感があった。子を頼んでいると感じるような時、そこに、情けないというより嬉しい気分の在ることを自覚している。現実「頼っている」事情も実感もまだ無いから、嬉しさだけが味わえるということかも知れないが。 こんなことがあった。妻が体調を崩していて一緒に行けない京都への私用に、息子をつれて出掛けた時だ。用事は済ませて、めったになく二人で東山西山などをゆっくりと遊び歩いて午後もおそめに嵯峨の天龍寺に入った。夏だった。私はかなり草臥れていて、日陰涼しい堂の上の畳にいつか横たわって寝入ってしまった。さ、小一時間は寝ていただろう、目をさますと息子はそばの縁側にいて黙って庭を眺めていた。
 あぁこの子に労られている…と思った。そういう年齢に私もなり、この子も成っているんだなと思った。もう少し前であれば、「お父さん、起きてよ、行こうよ」と、退屈のあまり起こされていただろう。その日は一言も声をかけずに寝たいだけ「おやじ」を寝かせてくれていた。嬉しくもあり、こころもち寂しくもあった。

 父として幼き者は見上げ居りぬねがわくは 金色の( )子とうつれよ  佐佐木幸綱
 予想より大勢の正解、「獅」子が入った。
 さて次ぎの授業日、例の「自然で美しい」に、強烈な反論のあったのも、紹介しよう。
*子に頼るのは「自然」ですか。「反自然」でしょう。頼ることがいい悪い、人間社会でどうのこうのはともかく、自然・反自然にはうるさいですよ、私は。
 遺伝学上の主流は個体の生存ではなく遺伝子の残ることをメインテーマに生物は在る、としています。子をかばって親が死ぬのも、その方が遺伝子は残りやすい、からだと。老化や死だって遺伝子を残すため、古い個体がいつまでもあると環境的に不利だから、という説すらあるくらいです。弱い者は淘汰されていく方が「自然」です。子供だけは利己的な遺伝子がかばいます。他種族は弱い個体を狙います。子供だって狙います。弱者は死ぬのです。種の遺伝子を残すためでもあります。それが自然の厳しさで美しさだと思います。 少なくとも、人間の生活上の美に「自然だ」という装飾をくっつけるのは冒涜という気がしてなりません。なにも美を自然しなくてもいいじゃないですか。「反自然だけど美しい」と認める強さを、人間特有のすごさだとしましょうよ。   (女子)

 こういう学説がらみの挨拶が返ってくると、嬉しくなる。「反自然だけど美しい」と認める強さを人間のすごさと認識しよう…か、なるほど。この場合の「すごさ」は、字義通りの「凄い」よりも、有価値的にいわれているのだ。
 平家物語の勇将知盛が一の谷で源氏に敗れ追われ、愛息知章の身代わりに救われて一人沖の船へのがれた話が、ふと、思い出された。
 親が子を助けて死ぬのが自然であるのに、子に救われ子を死なせて、こう生きながらえて来た悲しさ恥ずかしさ、わらって欲しいと一同の前で泣き伏す知盛。まことに「討たれし平家の公達あはれ」であった。「自然で美しい」とも「不自然で美しい」とも心惑いつつ、感動したものだ。
 人間の話は、なかなか遺伝子の説ひとつでは割り切りにくい。
 
 

 8 死刑・脳死・自殺   

                    
「関心の重みに順位をつけ、肯定(Y)するか否定(N)するかを明示し、内の一項を挙げて所感を問う」とした。「すいません。もぐらせていただきました」と断って、或る医科大学の学生がこんな「所感」を提出していった。

*1脳死(N)2死刑(Y)3自殺(N)  「脳死」について。これを「=死」と定める事については否認する。何をもって人の死とするかは文化、国民性の問題。日本人は死者を、「霊」として存在するモノという概念をもっている。死者はただの「物」ではないのだ。まして脳死者の体はまだ温かく、家族にはなお多くを感じとることが出来よう。死の認定を軽々に逸まれば、死後を大事に感じてきた日本文化の根からの否認にもつながって行く。また死の範囲を脳死にまで軽々に拡げることは、臓器移植問題とからみ危険がある。死の認定が脳死からさらに安易に拡がる恐れは、大脳死だけでも死と認めようとの動きがすでにあることで分かる。強い立場の人々が弱い立場の人々に優先するという構図へ、死の認定ないし臓器問題が拡大することは、臓器売買目的の犯罪多発を防ぐためにも、ぜひ避けたい。死に向かう人の尊厳を軽んじてはならない。脳障害をもつ人や他の障害をもつ人達が、健康な人や、臓器移植すれば延命可能な人たちに自身を捧げることを「美徳」として強いられかねないハメになれば、さらなる人間差別へとつながり、恐ろしいことになる。他の命が救われるのと同時に、立場の弱い多くの人が社会的に殺され利用されて行く危険性に、気づかねばならない。死が、生者の世界にさらなる差別や矛盾を作り出す口実とされてはならない。   (男子)

 あのナチならば、そして医学の進んだ現代ならば、何を目的に弱い立場の人を殺戮するであろうかと思うと、この意見、耳を傾けたい痛烈な重みがある。「教室へもぐりこんでくれて、ありがとう」と思わず呟いた。
 嬉しいことに、時々、こういう飛び入りの他校生が混じってくれた。東工大の彼に誘われるらしく、常連のような彼女もいた。むろん虫食い短歌にも答え、提題にも答えて行く。 次のは東工大女子。異彩を放って雄弁である。「死」の問題は、想像以上に深く若い魂に食い入っている、それも自分の思索と言葉とを命綱にして。

*1自殺(Y)2脳死(Y)3死刑(N)  自分で死を選びとってはいけないという価値観が、生きることに対しても目をつぶってしまうことにつながると思います。死を暗部にもちこむことによって、生が無限に続くような錯覚を持つのです。いっそ自殺を肯定して、死をまっすぐ見て悔いなく生きて行きたい。「以下、死ぬことに対する私の考え方」です。死ぬことで私の身体は一時、世界になります。私というソフトウェアを持つ以前は、父、母というソフトの動かすハードの一部だったこの肉体は、私が死ねば物質になります。私が欲した他者の完全なる理解を、同化という唯一の手段で肉体は手に入れるのです。(他者とは私以外のものです。)そしてまた、何かのソフトの動かす体にとりこまれ、新たな世界を手に入れるのでしょう。羨ましいです、私の体が。私は、私をしか知ることができないのに、体は、私以外のものをこれまでにも知っているし、これからも知って行くのです。あぁうらやましい。脳死になったら早く解放してあげて欲しい。そのまま他人の理解(移植)に行くのも外界の理解に行くのもいいですが、いつまでも私にしばられているのはイヤでしょう。死とは、肉体の、精神からの解放だと思うのです。(フツーは逆にいうけど。宗教とかでは。)   (女子)

 精神と肉体。ソフトとハード。短命と永遠。こういうことは東工大だから「教われ」た。

*1死刑(N)2脳死(Y)3自殺(N)  「死刑」について。人の命は神に授けられたとも思わないが、少なくとも故意に人の手で奪われていいものではない。自身の手(自殺)ですらそうなのだから、殺人や死刑は絶対に許されない。子供の頃によく遊びの中で「死刑!」と叫んでいたのが恥ずかしく思われる。罪を犯せば罰は当然にせよ、人の命まで奪う=殺す役目はだれにも与えられていない。罪びとの「自由」と「時間」を奪えば、罰としては十分である。   (男子)

 重みとしてみれば「脳死」に圧倒的に人数が集まり、「死刑」「自殺」が続く。しかし所感では「自殺」への発言が「死刑」を越える。
「脳死」への関心の強さは東工大だからとも言え、いちばん冷静に大事に言及されていた。
 是認否認、肯定否定の側面からみると、「脳死」は、断然肯定が否定を圧倒している。「自殺」ではそれが拮抗し、ころもち是認派が多いが、「二十歳の青春」はこれを、ほぼ「死ぬ自由」という観点からみて、突き放し気味に許容している。死にたい者にはそう思わせておこう、当人の勝手さという態度で、否定と肯定が裏返しになっている。積極的な肯定は少ない。生は死よりも難しく、自ら死ぬ者を敗北者だと決めつける者も、思弁的に、「自殺」も敢えて「生き方の権利」の一つと数えて是認している者も、いた。「死」の、私性と社会性とがせめぎあっていて、頷きつつ、考えさせられた。
「死刑」では、是認の声のほうが否認のそれよりも、若干上まわったのを、どう読めばいいだろうか。理性と感情との、ここでも激しいせめぎあいが見えた。
 被害者の立場にたって実感すれば、死刑反対論はきれいごとに見えるという容認説は、俗説に似て、しかも容易に論破されそうにないナ、といったところが私自身の感想になる。なんといっても、やや気遠いこと、という感じがあり、やや一般論や情報論に流れていたようだ。
 三つとも大変重い大事な問題であり、これまでもしばしば考える機会があったし、考え続けているという学生が大勢いた。心強く感じた。
 
 

 9 なぜ、どんな時に、嫉妬するか

「嫉妬」は人間の業である。人間の描くドラマの主題は愛と死だとよく言われるが、なかなか嫉妬も負けていない。神代の昔から神様の世界ですら嫉妬が渦巻いた。
 東工大の学生たちはそれなりに受験戦争を勝ち上がって来ているのだが、幸か不幸か、人は嫉妬することに苦しんでも嫉妬されていることには以外に鈍いところがあり、やはり、猛烈に嫉妬に苦しんでいるのが一般である。
 嫉妬とは異性の人間関係につきもののようで、それにも相違ないが、嫉妬がその範囲に止まるならまだラクなものだと、大勢が考えている。基盤になる恋愛沙汰そのものに血の気がうすく、はなから嫉妬の猛烈な苦痛が避けたくて、付き合い方にてんで腰が引けていたりする。じつは現在の恋人の気持ちを信じていないんです、そんな自分が恥ずかしいなどと書いてくる。
 ところが、互いの才能・学力・魅力・人徳などにかかわる秀才同士の自尊心に発した嫉妬心の交換は、選ばれ勝ち上がってきた学生たちだけに、陰に陽に熾烈なものがある。一年生は、来年度からの学科所属をはげしく争う。学科にも定員があり、人気の学科には希望が集まり、容赦ない競争になる。あぶれた人数は第二第三の志望へまわされ、これが二年生の新学年の明暗をくっきり分けてくる。学科所属に敗れた苦痛や無念をうったえる学生は、信じられぬほど多い。せめて悔しさの程を「秦サン」ぐらいには愬えたいというわけか。心で泣いて、表向き堪えている。留年のかたちで再挑戦する学生もいるようである。どの中学高校でもピンの成績を誇ってこれた連中同士のいわばサバイバルであり、そこはダレた文科系の学生とは全く様子がちがうのだ。
 嫉妬とは、渇望という欠陥部がどうあっても満たされず、腐食の度を増してゆく業苦であるが、比較され競いあう(幻影や錯覚であっても)他者の存在なしには成り立たない。誤解や曲解もともなう羨み・ひがみが妬みの芽生える温床となって、加速度的かつ自虐的に胸のうちに繁茂して行く。辛さに耐えかね時おり正気にもどり、その正気がまた自身を責める。暴発する者もいる。むろん嫉妬をエネルギーに換え、奮発する者・飛躍した者もいる。結果として、意外とは思わないが、この奮発できた学生が、東工大の学生にはさすがに多かった。嫉妬しないで済むわけはもともと人間である以上無いのだし、破滅したくないなら、奮発して抜け出るしかないのである。それは、事実、大勢がよく心得ていた気がする。

*私は非常に自分が大事です。体面も大事であるし、自分が中心にいないととても残念で、
そうあろうとします。自分にその力がなく、もともと自分が中心にいられないと分かっている場合は、自分を上回る人を素直に認めます。そうでなく自分のほうが能力においても相応しいと身勝手に思ったときは、自分より恵まれ優遇された立場や地位にあるその人を嫉妬します。また自分の全く知らない有名人に対しても、その人柄や人生も知らないでいて、やはり嫉妬してしまいます。それから考えますと、私は私と他人とを比べ、しかも自己中心的に比較して、すこしでもその人が自分より劣っていると思ったとき、そしてその人が私より恵まれた何かを得ていたり注目を集めていたりするとき、私は嫉妬するのです。そうでないと自分の存在は意味無いものになってしまうからです。いつもその人たちよりなにかしら人間的にも才能においても「上」であるというプライド(つくられたものだが)が、崩れてしまうからです。自分のしがみついているものが崩れようとしているとき、人は多く、嫉妬するのでありましょう。   (男子)
*人それぞれに力の限界があるから人は嫉妬する。ただの羨ましさでなくて嫉妬になるのは、手に入れたいものが、自分の能力や努力を超えた対象だと痛烈に思い知らされるからです。単に手に入らない悔しさだけでなく、限界を知らされてしまったやり切れない気持ち。その気持ちが自分の中だけでは消化できなくて、他人に対する嫉妬という形で表面に出さざるを得なくなるのです。   (女子)
*私が嫉妬の気持ちをはっきり認識したのは、小学生の頃、友達が先生にほめられるのを見た時です。私は大体のことは人よりじょうずに出来る子だったけれど、それだけに自分の出来ない事を出来る人に対して嫉妬する気持ちも大きかった。大人になるにつれて自分の才能だとか、容姿だとか、長所短所を少しずつ冷静にみられるようになってきて、嫉妬することも少なくなってきた。私は嫉妬しないのを大人らしい態度だと思い、そう心掛けています。しかし本当は嫉妬することが努力する始まりのようにも思う。   (女子)
 学校は順番の社会として作られてある。上に上がいて、望まずして下位に突き落とされる学生も出来てしまう。「限界」の現実が表面的にではあれこう形成されてしまうと、かつてない自身喪失に悩んで落ち込んで行く。入学して来たときは威勢のよかった元気者が、二年生になって「挨拶」という名のメッセージのうえで再会してみると、心配なほどげっそり元気を失っている何人かを毎年識別できる。そしてその逆も歴然として実在する。それでも、そろそろ立ち直ってくれよと思っているうちに、めざましく元気回復、書いてくるものの内容がシャンとして来るのの多いのには、敬服してしまう。
 とは言え、こういうことも言えるから、怖い。大概の提題への反応は、学部学生が院生になりまた社会へ出て行くと、それなりに変わってゆくし、変わらないまでも磨かれてゆく。今でも大勢の学生と話し合っていて、そう思う。
 ところが、こと嫉妬のサマだけが、いっこう変わっていない。なるほど、二十歳でも六十になっても頑強に人の心を食い破るのが嫉妬か。
 嫉妬するななんて言えない。せめて上手に己が嫉妬心に付き合えよと、我が身にも照らしてそっと、いつも、呟いて来たものだ。
 
 

 10 何から、自由になれないか。

 なにの狂言であったか、太郎冠者であったか大名であったか覚えないが、「自由の振舞い面目ない」と頭をさげていたのだけ、よく覚えている。「政を専らにし志を得て、昇降自由なり」とは、もう千年以上も大昔の、我が儘な権勢者への批判であった。徒然草にも、「世を軽く思ひたる曲者にて、よろづ自由にして、大方人に従ふといふ事なし」と人を批評している。
 このように日本では、「自由」の二字が殆ど放埒や勝手次第を意味していた時代が長かった。今日に尊重される「自由」の理念とはかなり違っていた。
 たしかに今日「自由」の価値は大きいと思う。ことに歴史が闘い取ってきた人間的な、また精神的な、政治・社会的な自由。まだまだ不十分であるにせよ、それを十分な、より確固としたものにし得るかどうかは、もう、外へでなく、自分自身の内面に向かって問い掛ける時であろうと思われる。
 真の自由は与えられるものでなく、自身で確かめて勝ち取りまた守り切るもののように、
私には思われる。それにはそれなりの勇気ある戦略も責任も必要だろう。
 学生の身分は必ずしも「自由」でない。しかしまた面目ないであろうほど、「自由の振舞い」も謳歌している。していると見ている世間の目がある。学生自身の自己批判すらある。東工大では比較的その辺は端正だと私は見ているけれど、と言うのもあまりに学業のウエイトが重く、「自由」にしておれる時間も、また金も、無さそうに想われるのだが、それでも、したい放題といわれかねないものとまるまる無縁とは思われない。
 そこで尋ねてみた、「自由とは何か。何から自由になれずにいるか」と。

*「自由」の意味が把握できていません。「自分の好きなことが出来ること」と考えれば、
単に好き勝手・自分勝手で終わり、人にも迷惑をかけるでしょう。先日、親に、帰宅時間の制限について苦情を言いました。「制限の範囲内で自由にやれることが大切だ」と言われました。ある程度の制限内でしたいことをする・できるのが「自由」なのでしょうか。制限で、したいことが妨げられるのなら、やはり束縛と感じます。「何」から私は自由になれていないか、制限を設けてくる家庭であり学校であり社会だと言いたい、けれど、それらが無くなれば「自由」になれるか。そうは思いません。みな無くしたら、私は何もないところにポツンと一人になってしまう。「自由」とは何か。そもそも、そこからが問題です、私には。   (女子)

 およそこの女子学生の「問題」設定が他の学生の声も代弁している。この辺で立ち止まっている。次ぎの男子学生のような理解は、少数というより、ほとんど現れない。

*自由とはただ束縛に対する反義語なのか。満足や幸福といった言葉と同じに、自由の重みは自分を振り返ることでしか掴めない。いま自分は肉体的にたしかに自由だが、精神の自由も持っているか。法のもとに思想の自由は一応認められていても、その内実は薄いものである。英語に「リバティー」といわれる自由の思想がある。与えられた自由でなく「勝ち取った自由」を意味していると聞く。われわれがいま自由として感じ享受している自由はこういう自由でなくて、ただ気儘にできるという、束縛だけを嫌う自由だ。悪しき社会の常識に挑み闘う気持ちよりも、束縛を避けて否認しているだけの自由だ。感情的な自由である。消極的である。そんな生き方を続けたくない。(男子)

*僕は自由ではありません。生まれてからこの方、ずっと「親から」自由になれずにいます。僕が親のことを疎ましがっているように秦さんは思うかも知れません。その逆です。自由とは、僕の中である意味で「独り立ちする」という事です。ずっと僕を育ててくれて申し訳なく、とっても感謝しています。だから成るべく早く親には「僕から」自由になってほしいのです。それが僕の自由になるということであり、そして親の面倒を僕がちゃんと見るということにもなります。   (男子)

 ぜんたいに「自分」への関心が強く、偏愛といいたいほどなのが、東工大の学生気質だった。それが大事な間際の「逃げ口上」にすらなりがちに感じられた。「自由」への感想にしても、政治的な自由、人権の自由、法的な自由への言及、また自由の歴史への関心、ほとんど出てこない。不思議なくらい「学生自治」「大学の自由」「教育を受ける自由の権利」についても発言してこない。東工大にはいつの頃からか学生の自治会がなく、私がびっくりしても、そのことに学生諸君のほうでびっくりしてしまうていたらくである。とくに男子学生の「自由」の自覚の質的に低調なことは、寒々しい程であった。
 小さいといっては失礼だが、「自分」本位の穏やかに角立たない「自由」への姿勢と享受や不審がたっぷり提供され、私は、いささかならず心配でならない。時代を動かす力は、学生の「自由」への強烈な自覚と意欲であると信じたい私には、物足りない。

*電車に乗っていたりする時、例えば大学に着いたら誰にどんなふうに話そうと、独りで会話を組み立ててしまいます。そして筋書き通りに話してしまうことがよくある。もちろんそうで無い場合のほうが多いけれど、そんな具合に話を組み立てて用意する自分が嫌だと思います。大勢の前で話す時はそれでもいいが、友達とでさえ筋書きが出来てしまうとその通りにしか話せなくて、親しい人の前でも自分を「作って」しまう。嫌だと思う自分と組み立てている自分と、どちらが本物ということもないのでしょうが、その後者の自分から、何としても自由になりたい。   (女子)

 「自由」は、蛍の光ほどにまだまだ頼りない。
 
 

 11 政治へ。怠惰な不信

 
 政治ほど「きれいごと」の言える話題はない。左にも右にも真ん中にも自在になれる。ディベート・ゲームで、割り当てサイドの意見を口に泡で言い募る話術なら、「平成」の学生諸君はそう事欠かない。だが紛い物の言葉でしかない。政治的のセンス尖鋭な学生も少しはいる、が、大方、政治屋たちがホクソ笑んでいるとも知らぬ顔で、政治には冷たい。じつに冷たい。
 東工大には学生の自治機能は無いも同然であった。なんとなく二次的な組織はあるらしいが、いわゆる学生自治会は大学当局に否認され存在しないという。学内でも学外でも、要するに政治には「不参加」に慣れている。
「不足」は言う。教室が狭い、カリキュラムが良くない。それこそ学生と大学側との交渉事項じゃないのとポロリと言うと、学生に自治権は無いんですと声が上がった。無ければ持てばよかろう。学生の自治の自由がなくて、どうして大学の自治がその質を維持できるのか。すると、持たなくていいんですという意見が現れた。教室や小さな団体単位で意思の疏通がはかれれば十分、全学的組織はむしろ煩わしいと。
 この考えは「政治」へもほぼ及んでいる。

*私はあと数か月で選挙権を得る。今度の選挙には間に合わないが、間に合ったとしても投票はしないだろう。自分が政治を動かす一員だという自覚がない。あと数か月でそういう意識をもつ自信がない。   (男子)
*私は政治が嫌いです。政治だけする人がいるというのが変だと思います。政治家なんていなくても何とかなるのじゃないでしょうか。いざ何か決めるときは皆で多数決にしてしまえばいいのに。順番で政治家になってもいいなと思います。   (男子)
*僕が政治に関心を全く無くしてしまったのは高2の頃だった。問題はすべて政治家にある。彼らは金の為だけに政治家になったとしか思われない。最近有名人が立候補し当選しているが、あんな政治に知識のない者たちに票を入れる有権者の気が知れない。  (男子)

 政治への知性がすこしも感じられない。偏差値教育の中で愚民化政策がかくも顕著な効果をあげ、そしてこういう学生たちが近い将来に日本の中枢部に指導的な地位を得て行くかと思うと、その可能性、東工大という実力ある名門ゆえ十分あるだけに、寒くなる。柳田国男が、いい政治いい選挙の実現にいちばん大切なのは国語教育だ、いい判断力は立派に国語がつかえるかどうかで決まるのだと言っていた。東工大に最も不要なものに思われがちな「文」学こそ、広く科学や文化の真の「要」である重みを、大学当局はあまり分かっていなかった。
 しかし、こんな幼稚な発言ばかりでは、ない。

*昨今の革新の衰退は認めざるを得ないが、今の状態で保守へ保守へと雪崩を打つのは恐ろしい。保守も革新もレッテルであったが、革新のたかがレッテルと一緒に、レッテルの陰で主張されていた「よきもの」まで葬り去られていいわけがない。反戦も平和も護憲も、日本人が大事に考えるべき政治的価値であり国民の基本的な立場だと僕は思う。「革新の時代は終わった」の声とともに安易に葬っていいものではない。真実は殺してはならない。イデオロギー論争が本当に終わったと言うよりも、僕は、経済理論闘争が終わったのだと思う。市場経済には賛成する。しかし自由と平和への問いは、護憲の信念とともに大事にしたい。   (男子)
*政治は人類社会の悲劇の源でもあります。政治がなければ人類社会は発展できません。政治的に対立の両方は社会と時代の車輪を動いています。しかし政治の争いは残酷であるため、いつも血と涙を伴っています。それに今日の社会からみれば、政治には少数政治家、政客の掌のおもちゃであるのは事実であります。民衆は政治の実質と核心には触ろうにも触れません。これは全人類の悲劇。ですから私は政治に対して、好きとも言え、嫌とも言えます。この矛盾は宇宙とともに共存していて、我々の宿命であります。   (留学生男子)
*日本の伝統的な美徳に「隠す」という文化があるけれど、これほどの情報化社会では情報をもっと「ひも解く」という開放の意欲が必要だと思います。暗闇の中にある今の政治に公開の光を注ぐことが、国民の目を見開かせることに繋がると思うのですが…。 (女子)
*明治大正昭和に架けられた橋を調べていくと、個々の橋は、コンセプトも業者も発注者も年代も全く違っているのに、現在から振り返って見ると、水の都市東京の、東京湾からの入り口としての「門」を形成している。僕は土木工学というものを、未来を意識した環境整備の学問であり、歴史(土木史)をさほど重くは見てこなかった。それが違っていた。過去の建造物とは全く異なる物を作ろうと意識しても、未来から見てしまえば歴史という大きな流れでくくられてしまうのだ。それが分かった。もっと歴史を学ばねばと思った。以上を踏まえて僕は7月11日に選挙に行かなきゃならない(大変だ)!!  (男子)
*政治への視線は国家への客観視がなければ有効ではない。鉄のカーテンで固めていたソ連も、西欧の情報が入り始めて誤った自己の絶対視から脱し、自ら体制を崩壊させた。アメリカの自称正義も中身を見なければならない。パナマ侵攻ではノリエガを、湾岸ではフセインを一方的に悪者に染め上げての正義であったし、その実態は悪魔のようですらあったと言われている。アメリカの正義は概して利権で動く。パナマでは運河、湾岸では石油。ひどい話はその湾岸で日本は金まで出している。国は利益のためには偽りの正義を振り回すことを恥じない。こういう事実の客観視こそが政治への最初の参加を動機づける。目を背けないことが大切だ。   (男子)
*有権者国民の責任も免れない。「生活の保障があれば、面倒な政治になんぞ関わるものか」では、エサと引き替えに飼われた家畜と何の違いがあろう。政治へのいい参加は容易でないにしても、諦め投げ捨てては、歴史の濁流に飲み込まれてしまう。   (男子)
 がんばれ、少数派…と言いたい。
 
 

 12 後悔は「一種の発熱」か

 後悔にも「活かされた後悔」と「活かせていない後悔」とがある。痛い後悔は年を経てますます募るもので、若い人にさほど痛切な後悔があるとは思わないが、それでも「後悔」との向き合い方というものは、小さい頃から自然と身につけざるをえないもののように思われる。後悔が、人を死なしめることもある。漱石の『こころ』などは切実にそう訓えている。後悔のし過ぎも困るのである。

* 毎日後悔しないで眠る日はありません。多くは目先のことにとらわれ、深い考えなしに起こした行動によるものです。そしてほとんど活かされていません。良かったと今でこそ評価できる後悔は浪人したことでしょうか。一年半程前に大学を中退し、試験まで三か月強しか無かったのに、一年浪人するのが嫌で私立大学を受験しました。結果は無論全敗で、最後に発表のあった大学に落ちたとき、家に帰ってからずっと泣き通しでした。あのときの挫折感、浪人中の目標に向かっての一途な頑張り、自分の内なる弱さを克服してゆく勇気などは、わたしにとって一生の財産になりましょう。もし浪人せずにこの憧れの大学に受かっていたら、今ほどの充実感はなかったでしょう。大きな後悔には活かし甲斐というものもあると思い、活かして行こうと思っています。   (女子)
*「活かせていない後悔」体験を三つあげます。一つめは中学のときです。僕は野球部で秋の新人戦で投手として初登板しました。エースではなかったのですが、前の試合でたまたま調子がよかったので先発メンバーになったのです。結果は初回に四球と安打で5失点、5回降板で4ー8で負けました。二つめも中学のときです。最後の大会でした。味方が4ー1から4ー4に追いつかれ、ノーアウト1、3塁でリリーフに入りました。その時も味方のエラーやタイムリーヒット等の3失点、結果も5ー7で負けました。そうした後悔をひきずって高校生となり野球から離れハンドボール部に入りました。自宅とは遠く離れた学校で部の友達とのつきあいも自然悪く、皆と一線を隔てていました。そして迎えた新人戦、こっちは二年生、相手は三年生でしたが、ゴールキーパーの堅守で6ー7と1点のビハインド、もう残り5分のことでした。こっちの攻撃で、僕がゲームの組み立て役のポジションに入りました。パスを回して相手の様子を見ている時、味方の一人が相手の背後にスルスルッと回ってフリーになっているのが見えました。それを見ながら僕は別の人にパスを流してしまいました。その時フリーになっていた人から誰にでも聞こえる大きな声で「バカ」と言われました。結果はそのまま1点差が守られて7ー8で負けました。それ以降なにか友達によそよそしさを感じ、あの一瞬で残りの2年間を、それまでは親しかった友人まで失いました。あのセイだけじゃ無かったでしょうが、ソレらが頭にあって僕の方から態度を硬くしてしまっていたのです。以上です。でも、人には「活かされない後悔」があっていいと思います。その分だけ何か心に一種の温度が保たれるのでは、ないでしょうか。   (男子)
*私は小さい頃からわがままで自己中心的だった。そのせいで中学のときに一時的にではあるが友達から仲間外れにされたことがある。全く口をきいてもらえずに大変辛い想いをした。そこでそれまでの自分の言動を「後悔」し「反省」して、以来、周りの人の事も考えるようになった。「活かされた後悔」であるかと思うが、その「後悔」と「反省」とが行く過ぎて、今では周りの人の目を気にし過ぎて自分を主張できなくなってしまった。それをまた「後悔」している。二つの「後悔」の間で身動きの自由がとれていない。結論としても中学時代の「後悔」は活かせていない気がする。   (女子)
*中学一年生の時に友人としたあるけんかは、その後の私の一面を決定してしまいました。
今思えばつまらないことから始まったけんかであったけれど、あのときほどに一つの言葉の重みを感じたことはない。言葉が人を傷つける武器であることをお互い十分知りながら、お互いをぐさぐさに傷つけあって、ぼろぼろになった。人が感情的になるという愚かさをこのときに知った。数か月後に、見かねた友人の仲裁で仲直りし、彼女とは今では離れ難い親友である。私はあの時に自分という人間の弱さのどん底を知って以来、人とけんかをしたことがない。もう何年も私はあのときの経験でずいぶん成長できたのだと思ってきたけれど、裏から見れば、人と、自分をさらけ出してつき合うことを少し恐れるようになってしまっていた気がする。活かせているといえるのか分からないけれど、あのときの後悔は私にとっては忘れ難い精神のこやしになっている。   (女子)
*後悔が活かされるか活かされないかは、その後悔の度合いによるでしょう。だれでも後悔はします。新たな進歩も後悔から生まれ出ることは多いでしょう。ただ後悔を後々までひきずることは、かえってマイナスになります。   (男子)
*あまり後悔した記憶はありません。言ってしまったことへの小さな悔いはありましても、
一晩寝れば忘れてしまいます。後悔を活かす、活かせないという考え方は、後ろ向きもしくは立ち止まった生き方に思われ、あまり好きではありません。   (女子)

「後悔」は無数にするというのも過度であり、まるでしないことも無いはずで、日々に、擦り潰すようにして忘れているのが普通だろう。深海からの泡のように忘れたころに後悔が心の表によみがえって来て、思わず「ムー」とか「アッアッ」とか声に出して喘いで、どこかの暗闇へ捩じもどしている時がある。わたしには、ある。後悔は「一種の体温のような」ものという一学生の表現に、なにか慰められた。        
 
 

 わが青春前期 ー跋にかえてー

 京都の祇園石段下に、いまも市立弥栄中学があり、昔は祇園花街の子女のための小学校だった。昭和二十三年から新制中学にかわり、旧弥栄小の区域にくわえて、有済校、粟田校の区域の者が出来たての弥栄中学に進学した。わたしはその最初の一年生だった。
 一昨年、この中学の同期生七八人で、雑誌文芸春秋の「同級生交歓」というグラビアの写真頁を、見開きで飾ることができた。この欄に、新制中学の同期生だけで「出演」した例は,よっぽど珍しいと評判された。撮影の場所は、むろん祇園さん、八坂神社の拝殿前だった。日立や昭和石油などの大重役がいたり、歌舞伎俳優の片岡我當がいたりした。
 男女共学には慣れていた。たまたま疎開の時期をふくむ国民学校時代から敗戦後の小学校時代を通じて、じつは一年も欠かさず共学の教室で学んできた。女は女、男は男でかたまっているような風はあまりなく、まして新制中学では健康に入り交じって、勉強もスポーツも一緒に楽しんだ。先生方は、生徒会や学校行事の運営も、教室の授業でさえも、生徒の「自主性」「社会性」におおかた任して下さり、英語・数学・理科などはともかく、国語や社会科の時間はいつも生徒の一人が教壇にたち、「勉強」そのものをみなで合作した。長短あり功罪あったには相違ないが、創造的な楽しい時間だった。
 敗戦直後の時代はいろいろになお厳しく、例えば入学した年の記念写真前列の生徒の大半が、履物をはいていない。校内では、校舎の内も外も「はだし」と決めていた。履物も着物も乏しく、給食もなく、昼食は家に駆けて帰って食べてきた。体操の時間、男子は真冬でも上半身をはだかにされた。当時の先生に、後に、あれは寒かったとボヤクと、言われた、「あの頃の生徒の下着はあまりにヒドかった。だから全員はだかにしたんだよ」と。 委員会の議題に例の「はだし」問題が出て、祇園町の女の子から、足の裏が汚く硬くなり、お座敷にだしてもらえないと直訴されたこともある。二年、三年生になると女の子の何人もが祇園や先斗町の舞子に出て行き、学校に姿をみせなくなった。黙認されていた。学芸会では、一つの学級で歌舞伎の『修禅寺物語』がそっくり上演されたり、常盤津、長唄の三味線踊りもふんだんに見られた。楽屋には祇園の母親たちがあらわれ、化粧や着付けに協力し、勢い余って農村を舞台の劇の出演者にまで、どうしても白粉を塗りたがった。演出していたわたしはゲンナリしてしまった。ちいさな恋もあちこちに生まれていた。
 当時の先生の何人もが、いま思えば夜学の大学に通っていた位な、あまりに若い臨時教員ふうの人たちだったが、そんなことは生徒にはどうでもよく、いい先生は絶対的にいい先生で、身も心もたがいに打ち込むようにして生徒と先生は仲良しだった。やがて五十年になるが、いまでもお元気な先生方とわたしとは嬉しくも仲良しのままでいる。
 貧しかったし学力もおそらく最低水準の時代だったが、途方もなく心豊かな三年間だった。鍵言葉は「自主性」「社会性」の二語で、いまも仲間の顔が合えば懐かしくそれを口にする。
                                   ー了ー