秦 恒平・講演録 3
美術関連の講演録を此処に収めます。
*秦テルヲの魔界浄土 *絵の前で ー「みる」と「わかる」とー
秦テルヲの魔界浄土 2004.1.17 13:00 於・京都近代美術館
秦 恒平
* スライド映写で話しているので分かりにくいかも知れないが、なるべく言葉で分かるように話したつもり。数字の番号はこの展覧会で頒布されていた図録「秦テルヲの軌跡」の図版番号によっている。図版番号が転送できるか自信がない。化けるようならお知らせ願います。他の方法を考慮します。
話すのは苦手です、ご容赦下さいますように。用意したものを、見い見い、お話しする不細工も、お許し願わねばなりません。
苗字は、同じ漢字を書きますけれども、ハダ・テルヲの、私は親類筋でも、何でも有りません。ただ、関心は、親しみも敬意もですが、早くから持って参りました。
ところで、私は、ふつう、今も申しますように、「はた」サンと名乗っております。世間様も、普通にそれで通して下さる。ですが私の祖父の遺してくれました、かなりな数の昔の書籍、その例えばウシロの見返しなどに、祖父は、毛筆で、「秦蔵書」とか「秦鶴吉」とか書き付けておりまして、ものによっては、更にローマ字で、小さく「HADA」と、姓のところに、あだかも「フリガナ」を書いていました。
「おじいさんは、うちの苗字、「ハダ」と濁って読むのが正しいんやて、よう云うてはった」と、もう亡くなった父は、何度も私に話してくれて居りました。
関東ですと、この「ハタ」でなく、「ハダ」ということは、わりと伝え易いんです。神奈川県に、「秦野=ハダノ」市という市がありまして、歌人の前田夕暮などが出た所です。そこでも講演をしたことがありますが、その時、地元の関係者から、「ハタさんですか、ハダさんですか」と、確認のために尋ねられたのをよく覚えています。
私は、たいていは、「はい、ハタでございます」で通していますけれど、「秦」という漢字の訓読みに、「ハダ」というのが有った、むしろその方が歴史上本来であった事実は、しっかり記憶し、意識しております。
今日の話題の主人公も、「ハダ」という苗字の読みを、自身、確認していましたね。あの印象的な、1911年(明治四十四年)の「煙突」 でも、翌年の、あの、譬えようなく美しい「遊戯」でも、さらに翌大正二年(1913)の「若菜摘み」 でも、同じ大正二年八月の「女郎(花骨牌)」 でも、また、ずうっと後年、1937年、あれは昭和十二年で、私の生まれて二年後にあたりますが、秦テルヲを考える上で大変重要な位置を占めます『自序画譜』 のなかの、「乞食の母子」-6
一枚にも、はっきりと「ハダ テルヲ」と、署名・書き判をしておりますし、それより何より、大正八年(1919)頃と目されています「妊みの祭」 には、ローマ字で、「Hada Teruo」と筆太に、明記しています。私の祖父が蔵書に書いていたのと、全く同じ表記、同じ読み、です。テルヲの「原籍」そのものが、「ハダ」であったものと見られます。
もっともテルヲの場合も、私の祖父や父もそうでしたが、私もそうですが、人が、「ハタ」さんと、清(す)んで呼びましても、ま、それで通していたろうと思います。私など、ずうっと「ハタ」としか、頭の中に無いも同然で来ました。地縁も血縁もない、しかし同じ「秦」サンが話しますので、混同致しましょうけれど、ご容赦をお願いします。
いま、地縁も無いと申しましたのは、言い過ぎでした。私どもは、共に「京都」人でありました。そればかりでなく、秦テルヲは、その後半生のやや長い一時期を、南山城の「瓶原」で暮らして、いわば、そこを一つの浄土かのように観じた暮らしをしておりましたし、全く同じその南山城の、瓶原からまぢかい、今は加茂町の、当尾(とおの)という里が、私の、実の父方の在でありまして、代々大庄屋を務めていた吉岡という家です。私は、四つぐらいまで、その家で、祖父母の手で育てられまして、後に京都市東山区の「秦」家にもらわれて来て、育てられました。当尾というのは、浄瑠璃寺や岩船寺や、また多くの石仏や摩崖仏の遺されていることでご存じの方が多いでしょう。
そしてテルヲの方は、古都「恭仁京」跡にまぢかく、たいそう懐かしい感じの静かな風景が今なお残っています。私は、テルヲが、昭和五年頃に画きました、「早春」「雪景」「雪後」の三点、ことに前年の「瓶原風景」 や 「早春」 の一作を、愛してやみません。何故か。それを話しの糸口にして、いよいよ本題に、進んで参りたいと思うのです、もっとも此の弁士は、迂路迂路と脱線して甚だとりとめないことを身上(しんしょう)にしていますので、どうか、ご勘弁下さい。
十年近く前まで、私は、東京工業大学という、国立理系大学の「作家」教授をしておりました。学生達は優秀生揃いではありましたが、例えば美術館や博物館へ自発的に行ったことのあるのは、甚だ数少ない。
でも、私、ときどき彼等の数名ずつを連れましては、近くの五島美術館や、都内の出光・山種・サントリー美術館、はては上野まで遠出して博物館などへも、参りました。
そういう時、絵にしても焼物など工芸にしましても、どう見ればいいのか、難しい、判らない、手がかりが何も無い、と、若い人達は云う。若くなくても、よく人はいいますよ、絵を見ても何だか「判らない」と。「一体ナニが、判りたいの」と聞くと、ますます、判らない。
で、わたしは、よく学生に云いました。この美術館から出て帰るとき、一つだけ、気に入った、好きな作品を上げます、持ち帰ってイイですよと美術館が云ってくれる、と、ま、想像しなさい。ほんとに欲しいのはどれだろうと、探して捜し当てて御覧。「判る」「判ろう」よりも、「好きになる」「欲しくなる」事の方が、遙かに具体的な美術との接し方・触れあい方になるかもよと。
好きだなあ、欲しいなあは、本当の意味で、「よい」と必ずしもイコールではありません。初歩的な段階では、いかにも初歩的な「好き」が働き、しかし、それがだんだんに洗練され、グレードアップされてくるものです。初心の誰もが、結果そのように「観る」事を重ね重ねて、したたか個性的な、愛好者・鑑賞者に成ってゆくんじゃないでしょうかね。
いま一つ、と云いましたが、一つの展覧会で、三つ、五つ、七つと、「好きな」作品、「いいなあ」と思う作品に出逢いたいなと観て行きますのは、これは、見甲斐があります。出逢えれば幸せなことです。
私は、こういう講演などを引き受けますとき、自分の惚れ込んだ、心を打たれた、感銘を受けた作品を、みなさんに、正直に披瀝する事が、一つの義務のようなもの、と、考えてきました。手の内をさらけ出す、すると、眼のある人からは、ああそんな程度かともなりますでしょうし、また、自分のソレとは少し逸れているけれど、こやつの好みも分からないことはない、なるほどな、と思って下さる人もあるでしょう。
では、ちょっと係の人を煩わせまして、とり急ぎ、図録番号に従いざあッと絵を眺めておいて戴きましょう。
とはいえ、もしお前にとって最高の感銘作一点はと最初に聞かれたら、あえて、大正六年頃の「絶望」 という作品をあげます。(ただ申し上げたいのは絵は写真で見る者では絶対にない。可能な限り原作を眼でしかと観たい。写真はたんなる参考にしかなりません。)
さて、この絵「絶望」は、描かれた女性自身の絶望であり、描いた人間秦テルヲも、自身「絶望」に直面して描いている。他のいかなる画家にも描けない「存在」の哀しみが、画面を、青々と覆い、底知れぬくらやみに、みごとな深い美しさが浸透しています。だれが題をつけましても、「絶望」としか付けようがないほど、把握が強く、だから、表現もつよい。「名作」と云うに憚らない、テルヲの最高傑作の一つであり、そしてこの絵の真価は、写真では絶対的に分からない、とも申し上げましょう。ぜひ、絵の前に佇んで、画面に吸い取られるように、真向かって、共感してほしい。
秦テルヲは、おそらくはこの作品を描いたことで、自身に対し、恐怖感に似た「方向転換の願望」を、堅く胸に抱いたのでは有るまいか、と私は想像します。それは、たぶん、もう、のっぴきならない「共倒れ」の懼れ。彼の現実的な魔界体験の、これこそは、極・底・どんづまり、であったのではないでしょうか。
この一点が在ることで、図録番号「血の池」また「渕に佇めば」そして「母子」といった重い秀作が、じつにユニーク・生彩・光彩を放ちうる。「母と子」という発想が、画家秦テルヲから絞り出したように初めて現れる、これが必然のタイミングです。それは、テルヲ自身の「絶望」の深さが照り返して見せた、一つの根深い大転回の予期であり、願望であったのでしょう。ずばり続いてくるのが、此の世の「浄福」を予告したような、大正八年頃の「孕みの祭」です。
画家は、今や「我が子」を恵んでくれる菩薩のような地母神のような「女の実在」を、自らの「深い願望」のまま、此の世へ、もともと魔界のようでしかない此の世へ、ぐいと、呼び出したのです。
果然、子供を描かせて、人の嘆賞措きがたいもののあったテルヲは、他人の子ではない、自分自身の「我が子」である「真砂光の顔」 を描いています。大正十年(1921)の作画で、誕生は前年九年でした。八年の「孕み」九年の「生誕」、十年の「我が子」と、じつは、此処まではしかし秦テルヲは、まだリアルの世界で、リアルに「家庭」を迎え入れていたと思われます。彼は、成るように成るほどの意識で、夫になり、父になり、一家の主という、デカダン・テルヲからは、もの珍らかに爽やいだ眺望の現世へ転じて出た、ま、そういうワケでしたでしょう。
ここに、しかし、とてもとても大事な、質的な転機を迫るテルヲ体験が加わって来た、と私は考えております。それを推測させる大事な一群の作品も存在していると思います。
が、しかし、今はぐっと堪え、もう一度立ち止まり初期作品へ眼を向けておきましょうか。
初期作品で私を引き寄せて印象的な一対は、一つは、何と云っても、やはり明治四十四年(1911)の「煙突」 ですが、この作品の面白さには、工芸デザイン、色面分割、いわば職人芸のイラストレートの味わいが濃い。しかも、資本・経営のもつ煙突的なデッカさと、女子従業員の小ささとの、極端なコントラストに、すでにテルヲのいわば「批評」が現れています。しかしこの美しさ、かなりに図案的であるのは確かです、が、対照的に、同じ年の作品 「夜勤の帰り」 は、まことに優れて絵画的です。これはテルヲ一代の画蹟でも、代表的な佳い画面を見せています。外見こそどこかデカダンに、パセチックですらあったかも知れない秦テルヲの眼が、精神が、とても落ち着いて、深い構成力を持っていたことをこの作品は感じさせてくれます。これもまた時代をとらえて、たいへん批評的に優れた一点であり、藝術の味わいを示しています。そう眺めて、私は惚れています。
いいタイミングなので、東京での「秦テルヲ展」をみた、私の、昔の学生クンの感想の手紙を、ちょこっと、紹介してみます。彼は、三十歳、こう書いています。
「画題は覚えていませんが、初めの方に展示してあった、確か工場から出てくる女工達を描いた絵を見たとき、(「夜勤の帰り」ですね。)顔すら判然としない彼女たちの抑鬱、諦念が、じわっと伝わってくるようで、思わず引き込まれそうになりました。
そして、さらにその延長上にあるのであろう、「絶望」そのものを表現しているかのような、数点の絵。(女工ではありませんが、いましがた触れてきた何点もの作品ですね。)あれら程、人間の内面の葛藤、絶望、暗部などといったものを、赤裸々なまでに描いた絵画は、少なくとも私は、殆ど見たことがありません。
ミケランジェロのピエタなどと一脈通じるものもあるかに感じますが、テルオのものは、ドロドロとした愚かさ暗さを捨てきれない、それでいて、どこかに動的なエネルギーを内包している。そういった意味で、遥かにずっと「人間的」なのだと思います。
数々の、ほとんど宗教画とも感じられる、数多くの、仏のごとき、穏やかな顔の女性画や、聖母子画のような「母と子」の絵。テルオ自身の、「絶望」の時代を経た後の作品なのでしょう、彼の、到達したのであろう一つの安らぎの境地には、心底ホッとしました。
何より目を引いたのは、後半生の、何気ない風景や、人々を描いた絵でした。山並みや、田畑などへの視線が、なんとも深くて優しいこと。
葛藤の時代を経た後の境地に立って、きっと彼の目には、自然の営みや、一見当たり前の人々の生活が、かけがえなく、いとおしいものに感じられたのではないでしょうか。
こうメールしてきています。絵に関心も寄せてなかった青年が、社会人になり、こういう感想へ迄、今は歩み寄ってきて居るんですね。
次に、もう二つ、忘れがたい初期作品を見ておきましょう。
作品「黄昏」と題された風景画。 何でもないラフな構図のようでいて、簡明な明るい空と、夕暮れてゆく深い陰翳とで均衡させたこの絵は、後々にも 「木」や 「山並」などと呼応する、テルヲの心象風景として、或る根源的なものを感じさせます。見過ごしがたい仕事の一つです。
そして私を嬉しく嬉しくさせますのが、次の、子供達の「遊戯」ですね。前年、明治四十四年(1911)に、盟友でありました野長瀬晩花の「被布を着たる少女」が出来ていて、これはかなり造り上げた作品でしたが、テルヲのは、天衣無縫、構図に一分の揺るぎもなく、また一抹のうるささもない、清明清純な色づかいです。子供という存在が、この画家の中で、天成、喜びそのもののように捉え尽くされています。この深い喜びが、後の、我が子「真砂光の顔」や、など幾つもの「恵まれし」母子像へ繋がることは明らかです。全く、画家の魂の中で用意されていた「天の恵み」であったとしか、云いようが有りません。
で、この、あの「遊戯」の世界からテルヲは、もう、先刻に観ました一連の「絶望」や「血の池」時代へ突入しようとしていたわけですが、そのトバ口での、衝撃の画面にぶつかります。大正二年(1913)の、大作といって憚らない、「女郎(花骨牌)」です。よくも悪しくも画家秦テルヲへの感想を岐れさせてしまう道祖神かのような一点の繪です。これには繰り返し触れてお話ししなくちゃならないでしょう。
それにしても、一人の画家の回顧展で、その前半生だけで、好きな絵、欲しいと思う絵が、こう次々現れることは、体験的にも、めったにあるもんじゃない。ほんとに頭抜けた画家の場合でないととても無理なんでして、指折り数えて、そうそう何人も何人もそんなエライ画家はいません。ところが、秦テルヲの展覧会場は甚だ特異な会場でして、或る熱烈感で充満しています。好きな絵の絞り込みが、利かない。むやみに制限しますと、むしろ、強い不満が残るんです。
そんなに素晴らしい画家なんですかと、実は問い返す人もあるでしょう。で、一つ、相対化してみてはどうか。彼と同時代の、対照的な画家をあげれば、間違いなく、その一人は、土田麦僊じゃないでしょうか。麦僊、私の好きな、敬愛する画家の一人です。NHK日曜美術館の麦僊の回に出演すべく、私、新潟まで、はるばる出掛けたりしていますし、小説にも登場して貰っています。
ここで幸便に申し上げておくのが、あとの話題に便利なので云いますが、あの日曜美術館という番組がスタートした、第五回めぐらいが「村上華岳」でして、私が出演して話しております。直前に、華岳を主人公にした、「墨牡丹」という長編小説を発表していたんです。そして引き続いて「麦僊」も「入江波光」も、また「国画創作協会」についても、また同時代の「京都画壇」に関しても、あのNHK日曜美術館に私は出演して、何度となくテレビで話しております。
この国画創作協会の人達と、秦テルヲとは、魂の在りようとしても、交際上も、かなり親(ちか)しいものがありました。野長瀬晩花とは若い頃に盛んに共闘した友でしたし、榊原紫峰は、とても大事にこのデカダン・テルヲを迎え入れた、知己の一人でした。村上華岳や入江波光も、また彼等の優れた指導者でありました中井宗太郎らとともに、有力で、親密な、テルヲの精神的・経済的後援者であったことは、図録の資料にも、何度も名前が出ています。さらに華岳の、あの有名な仏や山の絵は、云わず語らず、テルヲの転機に感化していたと私は観ております。
そして此の会場には、土田麦僊の、また小野竹喬の、優れた絵が、懐かしく何点も展示されています。何とも云えず嬉しい心地がしました。
繰り返し申しますと、秦テルヲには、この国画創作協会の創立メンバーとの間に、シンパシイが、確実に働いているというより無いのですが、また、しかしながら、かなり「絵は違う」という感想ももたれていることでしょう。むろん似かよった画風の作品も数有り、これもこれもと挙げるのは、そう難しいことではないのです、が、何と云っても、つい今しがたその前に立ち止まりました、あの「女郎(花骨牌)」のような絵は、メンバーの誰もが描いていない。或る意味で、とても描けない。
華岳晩年の画境が、テルヲを刺激し感化し得た可能性については、先に申しましたが、実は紫峰の花鳥、また竹喬の風景、波光の写生、みな秦テルヲと、どこかで強く交感し、感応していると私は観ています。
しかしなお、敢えていえば、テルヲが、彼等に、佳い感化を受けていたそれ以上に、実は国画創作協会の優秀な彼等の方が、終始、この秦テルヲの「存在と制作」を無視できなかった、テルヲは、彼等の、実は「嚢中の針」のような存在であり得たろう、という推測を、私は持つのです。
そこで思い出されるのが、後々に話題騒然となった、例の、麦僊による「穢い絵」拒絶事件です。あれは、甲斐莊楠音の作品を、土田麦僊がガンとして陳列するのを拒否した事件でした、が、もし、あの国展に、秦テルヲが、例えばさっきのあの「女郎(花骨牌)」や、またムンクを想わせると云われる「母子」などを持ち込んでいたとして、あの創立メンバーたちの反応は、さ、どうであったでしょう――。
結局、首をタテにふらなかったろう一人は、やはり、わたしは、土田麦僊か、と思います。麦僊を誣いる意味でなくて、そう推察します。
もともと国画創作協会は、文展に対し、いわば反旗を翻した野党性の濃い芸術運動でした。そんなに簡単に言い切るには、内容はもっと深いけれど、一面を、ま、そのように云っておきましょう。
その意味では、秦テルヲも全く同じ。いいえ彼の野党性は、華岳や麦僊らのそれより、もっと凄まじいものを抱き込んでいました。国画創作協会のは、藝術表現における「個性の自由」を堅い基盤にした野党性ですが、秦テルヲのは、藝術をはみ出た世俗の深層から生え出て、いわば社会観・時世観がちがいます。階層・階級と云う以上に、人間の個々の運命に対する「深い同情と実感」から溢れ出た、生活体験型の野党性でした。その根っこには、千種帚雲といった、幼い昔からの、絵の先生で先輩であった人の感化も、深いものがありましょう。
一つ、昭和十二年(1937)の 「自叙画譜」を、御覧になるといい。何点もの作品中、六番目に、テルヲがはっきり「乞食の母子」-6 と題した一点、この絵は何を意味しているでしょうか。路傍で乞食をしていた母子らしきを、画家が、ただ見て通り過ぎた、そんなことが有った、という程度の画材だったでしょうか。違うと思います。それでは「自叙」伝としての画譜とは、名乗れないでしょう。間違いなく、父を喪った、貧窮体験の、切実な、少なくも内部体験に触れた作品です。こういう所を、自分は、凌いで通ってきたと、告白じゃない、宣言している絵です。
この母親の茣蓙に坐した姿勢は、えらく堂々としています。卑しくも惨めったらしくもない。母親の、熱いクリスチャンとしての信仰が、画面に、生きて伝わっている強さ、なのかも知れません。
同じ画譜の −5「梅雨晴之貧民窟」でも、そうです。事実、そういう所に、身を、置いた置かないではなく、それが体験的に内面化されるほどのモノを持って、テルヲは、大きな、強い画家になって行ったのだ、とは謂えるんじやないでしょうか。
じつは、村上華岳も、幼時、大阪天満あたりの夜店出しのかたわらで、籠のようなものに入れられていたと、回想を書いています。村上家に貰われて育つまでの、幼い武田震一時代には、華岳も、テルヲとかなり近い体験を持っていた、それを記憶から消していなかったということです。しかし華岳は、村上家の深い慈愛と資産とに救い出されたように、その後の画人生で、経済的な苦労からは手厚く庇護された、たいそう恵まれた安定の中で仕事をし続けます。養いの親の意志が、そのように強固な路線を、病弱な村上華岳のために恵みました。
秦テルヲは、そうは行かなかった。地を這う生活との闘いから、画家への道は延びて行ったんですね。その道のべの、眼を逸らすわけに到底行かない景色として、彼は、社会の底辺の、人と情景とを、「わがもの」としても見詰め続けずにおれなかった、済まなかった、のでしょう。
その際に、画家秦テルヲを律した、一前提、のような条件が指摘出来ます。彼がそもそも純然の画学生ではなく、京都の美校では工芸図案の勉強をした人であった、ということです。初期の暮らしも、染め織りの「千総」勤めで成り立っていました。今風にいうなら、イラストレーターとしての仕事に、根を、染められた画家であった、ということです。
テルヲを絵と社会とへ導いた先生、千種掃雲の絵をご記憶でしょうか。彼は、働く、下々の生活に、社会人として関心を持った画家です、その描く所の「ひけ時」も、「帰路につく」も、「浪花の春」も、みなそういう絵で、写実性のつよい、しかも「絵」以外の何物でもない絵を描いた。
ところが、ちょっと繰り返しになりますけれど、テルヲの「煙突」は、今一歩で「図案」かのように、どでかい煙突に象徴された資本の大きさ重さ、対比して、地を這うような女工達の歩みはいと小さく、妙に健気です。テルヲの「当世風俗二題(工事場・夜警)」も同じ「工事場」でも、ことに優れた画面の「夜勤の帰り」でもそうですが、人間が説明的には描かれずに、或る意味記号的に群像として活かされています。
かように、工芸図案ふうに歩み始めた「テルヲ画業」の一大特色は、ま、結果、「なんでも有り」だということです。これかと思えばあれ、あれからそれへ、これへ、と、牛若丸のように絵画世界を跳びまわって、おっそろしく、いろんなタイプの絵が描けているということです。あの森々とした「夜勤の帰り」から清純無垢な「遊戯」への、目の玉のひっくり返るような「画面転換」はどうでしょう。ところが、そんな、「遊戯」や「若菜摘み」のような、童画・俳画的な世界から、相次いで、バッカーンと「女郎(華骨牌)」 のような、凄みの視野へと、大化けします。秦テルヲは、化けに化けて行けた、自在に絵心を展開出来た。これは、或いは、画家として或る画境に徹底するより、飽くなく展開し変貌して行く意味で、短所とも、特色とも、謂えるものです。何年も何年も何年も同じような絵しか描けない大家先生は、実は、幾らもいるんですよね。
ところがテルヲは、変わりすぎるほど、殆ど同時期にすら違うタイプの絵が描けた。しかも渋々少しずつじゃない。どんなに魔窟でのたうって帰ってきても、毎日のように絵が描けた。その根底には、工芸的な職人藝の、誉れだか誇りだか、あるいは宿世のようなものが、絡みついていたと、これは、きっと謂えることであった。
で、今、かなり迷ってるのです、次の話題をどう選ぼうかと。つまり、とても気が急いていて、あれも言いたい、これも言いたい、と。
記憶の限り、秦テルヲに書いて触れたことが、私、二度、あります。二度とも、秦テルヲが主ではなかったんですが、読み返してみますと、わりと、大事なことを言ってます。一つは、『美の回廊』という著書の中で触れていますが、 今、話題にしていますと同時代に、岡本神草という、ご存知でしょう、たいへん佳い画家がいました。さっきも名前の出た、甲斐莊楠音などと並んで、いわば、国画創作協会の第二世代として、十分屋台を背負って立てる人たちであったと思います。ところが、不幸にして、どうも事情が、良くない方へ方へ流された。あげく国画創作協会の日本画部は解散してしまい、甲斐莊も、岡本神草も、辛い事になって行くんですね。
其処の、岐れ路のところに、土田麦僊なる存在が、大きく立ちはだかっていました。そのように観られるところが、麦僊にはあったという意味です。
岡本神草の『拳(けん)を打てる三人の舞妓の習作』(大正九年)という、なかなかの作品がありますが、これが、親分格の麦僊が同じ年に出品していた『三人の舞妓』 これも秀作ですが、それとの「構図上の酷似」を遠慮して、画面の両袖を背後へ折り畳み、両の掌を拡げた真中の舞妓一人だけの絵にして、展示したんですね。そういう事情、たしかに有ったろうと思います。この絵と、もし麦僊の絵とを、本気で比較するのであれば、麦僊のは、あくまで一点の「絵」なんですね。ところが、神草のそれは、「拳」遊びに巧みにこと寄せながら、ほぼ間違いなく、伝統の、三尊形式を意識した、(強いて言う必要もないことですが)宗教画にちかい。真中の舞妓は、さながら来迎印を結んで、衆生を迎え摂らん構えに見て取れるんですね。下目に、目を細めた独特の慈悲相など、なにらか仏像の感化をしのばせるものでした。色彩を渋く殺しながらの、全体に、中間表情といえそうな画面の匂いも、麦僊のそれと較べますと、著しく現実の空気を脱却し、かつ、乗り超えていました。
更にこの神草作品で指摘したいのは、線の、あえかに鋭い美しさでした。天才的な線的敏感は、此の同じ画家の『口紅』という作品にも、みごとに発揮されていました。
ところが、この大正九年を限りに、彼岡本神草は国展を自ら立ち去っています。それについては、麦僊絵画への、あるいは、自作変改を強いられた「遠慮の反動」が有ったやも知れず、更には、その心理のひだに、比類ない勉強家ではあるけれど、いかなる巧みも、思いも、それが只々「絵」を「美しかれ」とのみ費されているかのような、麦僊の行き方に対し、神草なりの強い批判や、侮蔑すらも隠されてのことであったか……と、私は推量しています。
同じような感想は、秦テルヲから、麦僊、いや国展日本画の創立メンバーたち全員に対しても、有った、十分有り得た、ことでしょう。世代的には一世代先行していたような秦テルヲかも知れませんが、もし土田麦僊を其処に置くならば、明らかにテルヲは、甲斐莊や岡本神草の側に立っていた、意識的にも絵画的にも立った画家といわねばなりません。
ちょいと飛んで、もう一つ別に、別の本で、秦テルヲに触れていますことを、先ずかいつまんでお話ししておきます。それは村上華岳の生涯と、国画創作協会の人達を、想うまま脚色して書いた長編小説『墨牡丹』の中で、でした、
その最後の章で、華岳と入江波光とが、ふと、秦テルヲのことを語り合っているんです。華岳は久しぶりに京都の波光宅を訪れて、その日は泊めて貰う気で、四方山の話しをしている。麦僊の弟で、志高く国画創作協会発会の弁を書いた哲学者、土田杏村が若くして惜しくも死に、兄麦僊は帝国芸術院会員に推されながら、第十五回帝展に寂々と静かな「燕子花」の絵を出していたような時機です。村上華岳は此の年、四十七。病みがちの最晩年へ静かに近づいています。二人の対座と対話とを、わたしはかなり気を入れて書いていきましたが、ま、私のその本でぜひお読み下さい。本屋さんでは手に入りませんが、私の手元には在庫がありますから、と、これは宣伝ですね。
作中の華岳も波光も、最近、別々に、秦テルヲとぱたっと出会いまして、二人とも、別れしな、テルヲからコツンと、きつい釘をさされていたんですね。
ちょうどその頃でしたが、あの志賀直哉が、しきりに村上華岳の山の絵を褒めていましたが、もう一人、当時京都に帰り住んでいた秦テルヲも、やはりそうでした。岡崎で、一と月ほどまえ、ぱたと会うたんやと、そういうことを、波光が言います。
「華岳はうなづいた。実は彼も神戸で、それより以前に一度、思わぬ呼び出しをかけられてテルヲと飯を食つた。人も見返るすごい髭でぎょろ目で、着物も異様にいたんでいたが、物言いはきちんとして食も実に質素だった。噂では東京浅草辺りの魔窟でのたうちまわる日々を送つて来たというが、病みながら昭和四年頃から京都へ帰って個展も一度二度開いていた。華岳には仏画への熱意をぽつぽつと語りかけ、「二河白道」ということを繰返し口にしていた。(「仏化開縁之図」)があります。
俺、仏を信じていると、テルヲはあの日華岳をまえに言い切り、大正期に異色の名作となつた『淵に佇めば』や『血の池』の時代の志を微塵も裏切らない他者への愛を、落着いた口調に気持ちよくにじませた――。
そんなふうに書いています。そして波光が、また、言うのです。
「テルヲは、シンチ(華岳の本名で親友だけが呼ぶ愛称です)が描いたここ一、二年の墨の牡丹がすばらし言うて、泣いてよった。それと緑色が冴えたあの『夏の山』や。華岳のアニミズムは本物やいうて、目尻の涙をこうや」と、波光は武骨に拳を丸くして仕方ばなしを聞かせた。
「そやけどテルヲは、別れしなにキツイことも言いよったで。あんたら、つまり国展の我々やが、罪も深いで、テ」と、波光。華岳も、
「言われた言われた。気ぃ入れて新聞も読んでもらわな困る。検挙、虐殺、制限、発禁、命令、解散、総辞職。そんな見出しばっかやないか。波光も華岳も、紫峰にしたかて同(おんな)しや。そういう傾いた時代に山や花鳥や描いて自分らは生きとるテ、自覚したはるのやろなと来た」
「それでもあんたらは、けっこ、やって行ける。やって行けんもンの苦しい気持ちも、しかし、分っててやテ言われたよ」
「性根は変らんな。ああいう男の、むざむざ頭を押えてしまう世の中なんや」
「いややな」
「いややで、済まん時代に、きっとなるな」と両方で声を呑み、二人は思いなし肩をほそうして、あぐらの膝をつかんでいた。波光のうしろの壁に、去年の作というのが渋い表具で軸になっていた。雨の中洲を蓑笠の背をまげて急ぐ男のうしろ姿がちいさかった。出たばかりの『紫峰花鳥画集』が軸の裾にずしんと置かれていた。いまも噂の志賀直哉が序文を書いていた。
その晩、華岳は壁の嵯峨面の息づかいを感じながら、ひとり床をのべてもらって波光の家で寝た。心づかいの大火鉢に火は十分あったが、それでも馴れぬ蒲団の肩さきはかなり冷えた。
しんしんと夜気が冴えた、 と、私はそう書き継いでいます。
村上華岳には「五条橋下*十年」という精神的・肉体的な彷徨や放蕩の自覚がありますから、秦テルヲの魔窟体験などに添い寄ることは、かなりに可能です。彼は神戸の遊郭花隈で暮らしてきた人です、京都で言えば、祇園町に当たりましょうか。
しかしながら、テルヲのそれは、とても華岳や波光や紫峰の世界とはレベルがちがいました。国画創作協会創立メンバーの美は、とっても佳い意味での観念世界の深さと静かさとを湛えていましたが、テルヲのそれは、貫く棒のように終始、「体験」と「参加」が裏打ちしていました。優れた工芸職人は、自分の仕事が、型にはまりやすいおそれを良く知っています。秦テルヲは殊にその意識があったでしょう、「動かなければ出逢えない」という身の働かせ方で、終生様々な画境を、探訪し、探索し、実践しました。いかに精神的に深かろうとも、彼は、観念の美は追わなかった。そして観念の美を深めない限り、最後まで残るのは、どうも「我」というもののようです。「我あり」のまま、秦テルヲは闘病五年「記念の自画像=阿修羅図」122を此の世に遺して、逝きました。昭和二十年(1945)敗戦の年の暮れ、師走二十六日の死でした。
テルヲのしたような、そういうことは、華岳にしても麦僊にしても紫峰にしても、しない、出来なかった。むしろ、そういう所から寂び寂びとして離れて行けるみごとな観念世界を彼等は創り、さらにそこからも無心に離れて行こうとしていました。
そういう、華岳や紫峰や波光らの美は、明らかに秦テルヲを感化し得ていましたが、それだから又、テルヲからの、きつい照り返しの批評も受けていた筈です。そのことを、波光紫峰も、華岳もよっく承知していた。だからこそ秦テルヲを支持し、陰に陽に、支援しつづけたのでしょう。秦テルヲが、彼等にすれば友好的かつ親密な、それでいてチクリと痛い「嚢中の針」的な「刺激の存在」であったろう、と、私の読み取っている理由は、それなんです。そこに在る。
で元へ戻りますが、 私は先の、岡本神草に触れました『美の回廊』という本の中で、神草に引き続き、秦テルヲのことも書いていました。大正十二年(1923)頃に描いていた、見事な『眠れる児』 に触れています。「これは稀代の絵である」と書いています。
よく御覧戴きたい。
「異国の画家の誰の彼のと、その影響を技術や表現の面で指摘する人も有ろうけれど、ヤクタイもない。そういう感化を言うなら、この母親の相好をこそ見るがいい。この、耳。この、顔。人の記憶に生きてきた、これはやはり一人の仏の顔である。奈良の大仏を思う人もあろう。鎌倉の大仏を感じる人もあろう。ことごとしく思い当てずとも構わない。ただとっさに感じる不思議なこの絵の大ぎさと静かさと、そして暖かなやすらぎとは、その辺りに根ざしていよう……と、私は有難い気がする。 『女郎(花骨牌)』(大正二年)を描き、『血の池』や『女たち』(ともに大正八年頃)を描きながら魔界にノタを打っていた画家の魂に、底知れない、無頼と求道とがせめぎ合っていた事を、これほどの名画で証明し尽した秦テルヲの晩年は、創作者としては逆にキツかったのではなかろうかナ、と、そんなことまで想像させる絵」だ、と書いています。
と同時に、大正末期の「時代の崩壊」をひそかにすでに用意していたこの時期、つまり関東大震災を翌年にひかえた日本の、つかのま安堵のまどろみに落ちていた、この「母と子」の姿にも、私は、深く息をのむと書いています。
「仏」といっていますが、「聖母子」でもある。大地母神が「愛し子」を抱いた、優れた宗教画とも見えます。この同時代の若い悩める魂は、みな宗教的な感性・聖なる感性を胸の芯に抱いていました。それが多くの魂と共鳴したし、今も、しています。
みなさんは、ははん、その辺からのテルヲ世界に「浄土」を、しかしそれ以前のいわゆるデカダン時代のテルヲの画境は、「魔界」と観ているんだな、この秦は、秦恒平は、と、なんだそんことかと、早分かりに想われるかも知れない。 それはそれでも構いませんが、ま、時間のことも気になりますので、もう一度大正二年(1913)の「女郎(花骨牌)」の前へ戻ってみましょう。(絵、お願いします)
凄い絵です。だいたい、「スッゴーイ」というのは、今日の少女も含めた若者達の普通の言いぐさで珍しくもないのですが、本来「凄い」とは、心の寒々と戦いで、とても受け容れがたい「負の状況」を謂う物言いです。或るエライ国文学者は、簡単に「凄い」などと言うな、鬼や蛇や幽鬼の表れそうな気配をこそ「凄い」と謂えと教えていますが、確かにこの「女郎(花骨牌)」の描かれました頃から、大正八年、九年頃まで、秦テルヲは、文字通り「凄い」名作を並べ立てて見せます。国画創作協会の華々しい時代、その最中でした。そしてリーダー格の土田麦僊が、やがて「穢い絵」という云い方で、甲斐莊楠音らの作品を、拒絶した。名画であると否とは問いません、が、「個性の自由」を高らかに謳った国画創作協会の、「内部破算」を示唆して余りある辛い事件でした。
麦僊ひとりを咎められません、創立メンバーの誰の仕事も、ま、野長瀬晩花ぐらいを除いては、華岳も紫峰も波光も竹喬も、たしかに甲斐莊や神草ら後輩達とは、対極の、或る「高踏」「脱俗」「遒美」の世界に舞いのぼって行きつつあった。甲斐莊ら後輩達の念頭には、寧ろ秦テルヲの、一見して実に闘争的で批評的な、社会に沈潜した痛烈な画境の方が、生き生きと目に見えていたかも知れない。無視しようにも、仕様のない存在感を、当時のテルヲは、独り昂然として示していたからです。
秦テルヲと土田麦僊とを「対照」の位置に意識し、一方を認める余り他方を貶めると謂うこと、これは、出来ない、してはならない相談です。
土田麦僊は、一世を覆うに足りた、優れた才能でした。あれだけ見事に代表作が時代を追って顕著に並べられる画家は少ない。しかもなお、もし強いて謂うなら、麦僊画業は、優れて絵画実験・絵画学習・「絵画表現の可能性を、絵画的に追究し表現」した、ものでした。いつも何かを学習していた、その「答案」のように代表作を並べて行きました。
その意味を強めて申しますなら、あのような早い時期に死なしめてはならない、実に惜しい限りの大才でした。麦僊純真の名作傑作は、あの朝鮮の妓生を画いた、寂しき極みの秀作の、なお先に、期待されてしかるべきでした。
秦テルヲの方は、すべき事の殆ど全部を、出し惜しみなく出して逝った画家です。彼の場合、終生が、「生体験の絵画的実現」でした。麦僊が佳い意味で「絵画」に殉じたと謂えるなら、テルヲは「人間の人生」に徹して、絵画という方法を、多彩に駆使した「批評家」と謂えるでしょう。彼は、伝統的な画技で、伝統的にも如何様にも巧みに描ける、じつにうまい画家であったことを、展覧会を、つぶさに御覧になった方は納得される筈です。どのようにも描けた、のが、どこかでは器用貧乏になりそうなものですが、テルヲは絵ごころの痩せかける間際で、すり抜けすり抜けて、次へ突っ込んで行くのが、本能のように達者な、鋭い人であった。だから凡百の画家のように、マナリズムに埒もなく陥ったりしないで、牛若丸のように飛越し、廻転し、跳躍するように「画業のオンパレード」を尽くしたのです。
それを可能にしたのは、一つには天性の職人的な腕前もありますが、一つには「貫く棒」の如きものを、生涯持ち得ていたから、どんな展開も、変転も、ブレて、崩れることなくて済んだから、です。
とは、どういうことか。
テルヲの世界をよく眺めると、その内部の構図は意外に簡明です。
先ず「男」が描かれていないのに注意して下さい。テルヲ世界の住人は、女、そして一部に、子供です。女と一体になったような子供、です。男は情景の点綴として以外には、ほとんど画かれていない。男を画いている絵は、初期の「夜警」-2や「曳舟」
ないしは晩年近い「大漁」「鰯舟」また「釈迦」ぐらいなもので、それも主題は「男」というより、やはり人生の一景ないし超越的なもの、でありました。
さて、こんな指摘も出来ます。人と人とが向き合い「対立・対決」するよりも、横に並んで、一つ方向を向いた、一種の「運命共同体的な構図」が、とてもテルヲの作品には多いことです。大正五年頃の「安来節の女たち」や「吉原」 の、じつに音楽的な階調美に溢れた構図は代表的ですが、「苦界の女達」でも「「淵に佇めば」でも「池畔の女たち」でも「女たち」でも「孕みの祭り」の女達でも、みなそうです。これは興味ある、秦テルヲ的統一の座標、です。
たとい、意図して、人と人とが向き合っているときも、決して闘争的な「対決の構図」でなく、高次元な、或る「誓いの儀式」のような一体感と同義の「向き合い」になっています。「恵まれた人々」や「瓶原―慈悲―」が顕著な例です。愛の「誓言」、象徴的な「結婚式」かのように、描かれています。ついでという以上の意味でつよく言及しておきますが、この会場でいまの「瓶原―慈悲―」を挟んで左右に四枚の「女人立像」-は素晴らしいものですね、大事な美しい作例として記憶したいものです。
さ、では、あの畏ろしげな「女郎(花骨牌)」 は、どうなんだと。
この構図は、骨牌の勝負で、いかにも「対決」していると見えます、ところが、周縁部の、背景の、一見地獄図的な状況とともによく画面を見ますと、意外や、六年後、大正八年(1919)の「孕みの祭り」の構図と、ちょうど表裏関係を想像させるほど、どこか通底する、テルヲの、高次元な「祭り」意識を感じさせます。これはたんなる対決ではなく、中央に、二人を仲介するふしぎに意思的な、怖いほど眼の光った女を、あたかも、なにか仲介者=仲立ち、かのように据えていまして、二人を関連づけ一体化させている構図だと分かります。
「骨牌」という謎めくカードに予定された「運命」の札を、互いに秘め持ちながら、むしろ対決より今後「連帯の誓い」のさまを見せていまして、真ん中の女は、その司祭的な紐帯役をしています。一種「変わり型三尊構図」をなし、それを群集が取り囲んでいるんですね。
「孕みの祭り」では、それが、そのまま、誕生を待つ「祝祭」へ変容しています。秦テルヲは、もう、「わが子」等の「母」たるべき女性と出逢い、我が子誕生が、予期され、期待され、大いに祝われています。おそらくは西欧の「孕み聖母マリア図」も意識されているでしょう。
秦テルヲと奥さんとの出逢いは、よく知りません。しかしこれは言える。彼にとって、人間の女として、目鼻立ちをもってシカと描かれた女は、「わが母」と、広い意味の「遊女・女郎」と、わが恵まれし者なる「妻」との、三者だけ。これはもう断定的に謂える事実です。その延長線上に、テルヲの場合、菩薩や如来や地母神・聖母型の超越者が描かれています。それも女ですよ、全部。彼には、仏や聖母になれるのは、この三者しかないかのような、有り体なんであります。
会期中の会場で、もっとも深い感銘を私が受けたテルヲの絵は、大正六年頃の「絶望」 だとお話ししました。あれは、絶望を知っていたから描けた絵と云うより、他者の絶望の「程」を、深く深く汲み取れた画家だから描けた絵である、と、思いました。誰も描き得なかった名画の一点だと思いました。繰り返して言います、この絵があるので、その前後の「血の池」も「淵に佇めば」も「女たち」も「母子」も、挙って生きてきます。深い感動をかきたててくる「もの凄い、しかし実に美しい真実感に溢れた絵」の一つです。
ちょうどこの時期の秦テルヲの「女」とは、まさしく「女郎・遊女」魔窟・魔界の女でした。しかし、あの、子供達がお手々をつないで遊ぶ「遊戯」を思い浮かべながら、こんな歌声を聴いてみて下さい。
遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ
遊ぶ子どもの声きけば 我が身さえこそゆるがるれ
平安時代末期の歌謡の集『梁塵秘抄』に知られた今様歌の一つですが、古来、この「遊び」を、「遊女」の境涯ととるか、たんに幼く稚い子供達ととるか、説の大きく別れるところです。
さ、秦テルヲが、この歌謡を知っていたかどうかの詮議よりも、彼は体験的・生得的に、「絶望」して苦界にのたうち、血の池の淵に佇んでいるような女達の運命のその底に、無垢の子供達の魂と同じ哀れを見届けたいという、愛、の持ち主であったことは、疑いようがありません。でなければあんな凄い名作は、描けるわけがない。
そういうテルヲにすれば、遊女と子供とが別々ではなくて、それが即一つのもの・一つのこと、で、在りうる「境涯」をこそ、探求していたんだと推測できるでしょう。「魔と仏」が、二つに遠く対峙し対決するのでなくて、「魔」と見えるモノ・コトの奧の「芯」のところに、決して喪われない「仏の国」の存在を見逃せなかった、そういう画家。魔界と浄土とが、別に、在るのではなく、ただ魔界でもなく、たんに浄土でもなく、魔界であるが故に浄土を孕み、浄土があるのは魔界のゆえに可能なのだという認識です。
少なからず、中途半端ではありますけれど、ま、きちきちと決めつけて言わんでも、めいめいに考えたり感じたり出来ることです。で、大した締めくくりにもなりませんけれど、京都で育ち京都大学の理系を卒業し、今は東京で私の読者で居てくれます、同年配の友人、私の友人の奥さんである人の、こういう感想のメールをお伝えしておきたいのです。
いつも思うことですが、今回の秦テルオも、昨年の奥田元宋も、ピカソも、レンブラントも、みんな子どもの時から、めちゃくちゃ絵が巧かったんやなあ……と感動します。
それから、絵が巧く描けることと、優れた作品を生み出すこととの違いを教えられるんです。こんな巧さをもったまま、画家として一生を送ることは、たいへんな有利さのようで、実はすごいほど大変なことやろなあと感じるのです。いつも今より上を上を、奧を奧を求め続ける人生は、シンドかったやろうなあ、と思い、命を絞るようにして生み出された作品を目にしたまま、ふつうに簡単に幸せになれる私達は、本当に”ええ目”さしてもろてるんやなあ、と感謝するのであります。
私の父よりも年長の秦テルオが、あの頃の京都の街で、かくも現代的であったことに驚き、その後の暗い時代を、こんなやさしい気持ちの人が生きて来ゃはったいうのは、本当に大変だっただろうと思いました。
晩年の仏様の絵には、”秦テルオ”のサインでなく”輝男謹写”とあるのが、印象的でした。自分が描いているのではない、誰かに描かせて貰っているという心境が良くわかり、感動しました。
感動する、感動できるという、この幸福。それを与えてくれるのは、やっぱり真実優れた「藝術」「藝術家」なんやと、また納得するところで、それを「浄土」の思いかのように「結び」をつけて置いて、あらためて秦テルヲの「魔界」が即「浄土」であらしめたものは、やはり類い希に優しい彼の「人間」だったんだと、長々しい話を終わらせて戴きます。有り難うございました。
絵の前で ー「みる」と「わかる」とー
於・旧山種美術館 「近代日本画の精華」展・特別講演
秦 恒 平
会場の個々の絵について、解説めくことは申し上げません。しかし、「絵」ないし「造型作品」と向かいあう「根本」のところを、遠慮がちに、少しお話ししてみたい。理論的にというよりも、いっそ私の感想を、率直に申し上げてみたいと思います。
どういう感想か。どういう問題なのか。
落語に『抜け雀』という、亡くなった志ん生師匠なんぞの旨かった咄があります。小田原の宿場で宿引きをしていた、気のいい小宿の主が、見るからにこきたない若い男を引き止めます。のっけから、内金に百両も預けようかなどと言う男です、が、発つとき払いで結構でございますと、宿の客にしてしまいます。朝に昼に晩に、酒を一升ずつ飲んではごろごろ寝ている客を、おかみの方が気にします。せめて五両でも内金をと亭主にもらいにやりますと、案の定この客、一文ももっていない。仕事をきいてみると絵師だと言う。大工ででもあるなら家の傷みを直させることも出来るけれど、「絵なんか、みたって、わからないし」と亭主は困ってしまいます。この亭主の言いぐさを、お耳にとめていただきましょう。
それでも自信に溢れた若い絵師は、これも宿賃の代わりに旅の経師屋に造らせてあったまっさらの衝立に目をとめまして、亭主のイヤがるのも構わず、手練の墨の筆を走らせます、と、そこに五羽の雀が生まれ出る。けれども亭主は申します、「何が描いてあんのか、わからない絵ですな」と。雀だと聞いてやっと頷き、「そういや雀だな、わかりましたよ」とも。で、この雀五羽を宿代のカタにおき、絵師は江戸へ向かうのですが、この雀たち、毎朝、朝日を浴びますと、チュンチュンと元気に鳴いて衝立から抜け出し飛んで遊ぶんですね。「抜け雀」の題のついている所以でありますが、じつに生き生きとしている。
ま、咄は、私の口から聴かれるんじゃつまりませんから、みんな端折りますけれども、ここで、宿の亭主が「絵をみてもわからない」と言い、また「何が描いてあるのか、わからない絵だ」と言う、そして「雀か、あぁわかった」とも言っている。ま、これくらい世間でもよく聞く言いぐさは無いんでして、絵を「みる」と「わかる」とが、たいてい対になりまして、途方もなく厄介な関所になっている。これは、ひとつ、ぜひ、考えてみなけぁならんと、そう久しく考えて参りました。いったい、どういうことなんだ、絵を「みる」と絵が「わかる」とは、と。どうにも気になって叶わんなと。
ま、こういう難儀にアブナイ話題には、専門家は、ふつうお触りになりません。かと言って、放っておいていい問題でもないことは、こんなに大勢お集まり下さったことからも察しがつきます。手に余るかも知れません、が、みなさんの方でもご経験で補い補い、お聴きください。ひとりの自由な小説家の言説を、半分は冷やかすぐらいにお楽しみいただくということで、私も、気楽に、でも真剣に、お話ししてみようと思っています。
で、早速ですが、私のワープロをつかって、「みる」という漢字を求めますと、たちどころに、19文字を教えてくれます。「見」「相」「看」「省」「眄」「胥」「視」「診」「督」「察」「監」「覩」「瞰」「覧」「瞿」「瞻」「観」「矚」「鑑」と、これで19字です。中国人の漢字によってものを「みる」こと、かくも精密なのに一驚しますが、日本人は、こういう見分けを、少なくも「ことば」と「文字」とのレベルでは持ちえなかった。ただ一言の「みる」で、ぜんぶを兼ねていた。兼ねられたというのも、ある意味でスゴイことではないかと思いますけれども。
次に「わかる」というのも、私の器械にきいてみますと、これは「分」「判」「解」の3字なんですね。この3文字ぐらいなら、ごく日常的に読んだり書いたりしています、意味のうえで使いわけていますかどうかは別にして。
で、字を挙げました限り、視覚的な「みる」と、知覚的な「わかる」とに、特に文字からする意味的な重なりは無さそうなんですね。むしろ英語でいえば、端的に「I see」で「みる」「わかる」の双方を兼ねています。しかし、それとても、19もある漢字の「みる」にも、ただ視覚的とは謂いきれない「心の目で見る」印象の「省」や「察」の文字も含まれている。つまりは、「みる」「わかる」という日本語(和語)は別々だけれど、遠回しに重なってくる意味合いも在るらしいぞと、その程度の見当はつけておいてよろしかろうかと思います。
字義の詮索などはしばらく措くと致しますが、絵を「見る」と「分る」と、ーーま、便宜に漢字は宛てましたが、人により漢字も感じも変わってくるでありましょうーーこれは、たいへんに難儀な問題でございます。私自身がぜひ聞きたい、教えてほしいぐらいです。小説を「読む」と「分る」と。音楽を「聴く」と「分る」と。こう並べてみますと、このての問題の難儀さにぶち当たって来なかった人は少ないでしょう。そして恰好の解説を聞いた覚えも、あまり、無い。ま、ご一緒に考えていくしかない、これは芸術の前に立つ者のひとしく抱え込んだ大昔からの難題なんだと申せましょう。
芸術の前に立つと申しました、が、それも理解が小さいのかも知れません。なぜなら、例えば人を「知る」と「分る」と、また己を「識る」と「分る」と、の場合にも似た難儀さが、実は、ついてまわります。これら二つの項目は、イコールつまり等記号(=)で結んでしまっていいのかどうか。いや、それは、ちょっと…という、なにか異なった大事な意味合いのものに、ま、思われる。だが、どう異なるのか。こんな自問自答が、いつも絵や小説や音楽や、また他人や、自分を、見よう・分ろうとする際には生じて来る。かなり苦々しく、じれったく生じて来ます。ごく一般に、こんな風になっています。
絵を「見て」きた。よく「分ら」なかった。
本を「読ん」だ。よく「分ら」なかった。
または、
あの(男の、女の)人なら、「知って」いる。けれど、よく「分ら」ない人だ、と。
人も、我も、しばしばこんな感想をもち、述懐し、なにか無力感や劣等感にとらわれるほど、嘆息している。
しかし、よく聞き、よく考えてみますと、同じ「わかる」「わからない」とは口にしながら、微妙に「分り」かた「分らな」さにも、層がある、差がある、ものなんですね。絵の場合でごく簡単に申しましても、およそ、こんな具合にちょっとずつ違うんですね。
絵を「みた」 だが、良い絵なのか、そうでないのか、価値の程が「わから」ない。
だが、何が描いてあるのかが「わから」ない。
だが、何が言いたいのか、作の動機や主題や意図が「わから」ない。
そしてこういう場合、とかく「わかる」という判断を、まるで「わかる」コツでもありげに、技術的な能力に帰してしまう傾向が出てまいります。分析的にも総合的にも、そこに「技、コツ、知識、見どころ」と謂いましょうか、絵の「よい・わるい」の判断など飛び越えまして、むしろ「何が」とか「技巧・巧拙」とかの方へ、自然と考えることが偏っていきます。そうでなければ、単に「好き・嫌い」ないし「ウマが合う・合わぬ」というレベルへ、急いで、スゥイッチしてしまいがちです。
言いかえれば、こうです。「わかる」という中身を、「頭」ないし知識・情報・学習・技巧の問題にするーー主知的ーーか、「ハート」ないし感情・感性・好悪の問題にするーー主情的ーーか。どっちにせよ、なんとか相手を早くねじ伏せて安心してしまおうという「わかり」方のようです。
しかし最終的に大事なことは、その絵なら絵が、「よい絵か」「さほどでない絵か」と「自分にわかる」ことでありましょう。さらには、「どうよいのか」「どうよくないのか」を「自分がわかる」ことでしょう。「自分」が、そこで、切り札になる。と謂うことは、「わかる」こと自体も甚だ確定しない、主観的な、実に頼りない到達、をしか意味しないんですね。百人が百人、同じ「わかり方」などという、そんな客観的なものは無い…、これは確かなことです。何故なら「自分にわかる」「自分がわかる」しはいえ、世の中で、なにが不確定要素かと謂って「自分」ほど不確実ないつも動いている存在も無いのですから。それでもなお、人は、ついついそんな「自分」を棚にあげてでも、何かしら「わかり」たがる存在なんですね。「わから」ないと不安でしょうが無いんですね。
「わかる」という言葉に引き摺られますと、絵の場合、なかなか純粋に鑑賞・批評・賞味の方向へ行けなくて、つい、題材や技巧や作者や時代の、理解とか、知解とか、解釈の方向へ走りやすくなる。その方がラクでもあるんです。つまり「眼」よりも、まず「頭」を頼るわけです。しかも、それが当然なようにも賢いようにも思い込みやすくなるんです。「わかる」というのは、よほどエライこと、大事なことのような気がするんですね。
では、「わかる」意味のさっき挙げました三つの漢字ーー分、解、判ーーを、とにかく、調べてみようじゃありませんか。
「分」は、分別する分断するという言葉がありますように、語源では「肉を分かつ」「骨を分かつ」「区分にしたがう」意味です。分割し、分化し、名分を立て、職分を分かち、身分を分け、本分や分限をまもる、また随分と分にも随う。「分る」とは、今日通用の、つまり理解する・承知するといった意味より以前に、むしろ「分れる」「分ける」のが本来の意味なんです。
唐物茶碗と国茶碗とに、例えば、分ける。分れる。国茶碗のなかに例えば楽茶碗がある。同じ楽茶碗だけれども、これは長次郎、これはノンコウ、これは慶入、これは当代というふうに「分れ」る。「分けて」みる。また楽焼から加賀の大樋焼が「分れ」る。ま、そんな按配です。国茶碗は、楽焼以外にも、もっと歴史の古い丹波、備前、伊賀、信楽とか、瀬戸、薩摩、萩などというふうに、いろいろに「分れ」ています。同じ楽の何代目でありましても、この作は若造りとか晩年だとかに「見分け」る。そういった「区分」が経験でおよそ「分る」ようになるわけであり、かくて「分る」が、知識として理解し承知する意味になってくる。どこの窯のもの、どこの土を用いたもの、酸化焔で焼いたか還元焔で焼いたかなども「分る」ようになってくる。それもこれも、みな、根本に「分ける」「分れる」ことの認定が働いている。まさに「分別」なんです。およそ頭の働きであります。
次に「解」は、刀をつかって牛角を解く。包丁が牛を解くように、獣屍を捌く。解釈とはもともとこんな意味です。転じて、理解し、分解し、見解も出てきます。解剖もする。「絵」という生き物を解剖し、分解し、解釈するなど、美術史学者たちのむしろ常套であります。線一本の比較、色の比較などから、様式・作風を分解的に解決して行きます。数を積んで、基準作品と参考作品とがていねいに分別されますと、それを参考にいつか作者決定も推定も可能になってきます。
それでもですね、その絵なら絵の、ほんとうの「よい・よくない」「どうよい・どうよくない」が「わかる」ことと、そんな「分」も「解」も、必ずしも直結してはいません。分別や解釈ではとても届かない不思議に微妙で神妙な魅力が、やはり芸術には在ると思っていた方が無難です。謙虚です。そのとおりなんです。
「判」も、判断と書くぐらいで、刀で牛を両断・二分するという、もともとの意味があります。「判こ」と謂いますね、あれも、二分しておいたのを合わせる原義です。そして契約や婚姻の証拠にする。合符、割印、印判などとも謂う。審判、判決、判例、そして判断もする、あれかこれかと、分けたり合わせたり、そのうちに何か「わかる」わけです。
ざっと以上のような按配でして、「分」も「解」も「判」も、バッサリ「わける」「わかれる」ところから「わかる」に至り着く文字であり、意義なわけでして、すると、その意味で「わかる」とは、あたかも「知る」の同義語か、とすら読めなくもない。知りたいことが知れたなら、それが「わかる」ということではないかと期待し、何が知りたいかを知るのが、「わかる」早道なんだと、つい考えがち、考えたくなりがちです。
それもいいでしょう。では、何が「知りたい」のか、それを考えてみましょう。
まず「知識」に属する面から申しますと、制作年代、制作年齢、時代背景や画壇事情、作者の出自・性格・私生活・家庭など、そうでしょう。題材や主題や動機もぜひ知りたい。また同時代の作者や作品、先行した作者や作品、また属した地域やグループや師弟関係なども、知れるなら知りたい。そればかりか、作者・作品の運・不運、受けた栄誉や批評や人気も知りたい。作者に独自の技法・工夫・傾向といったものも、有るならば知りたい。付随して生じた作者や作品に関する伝説・噂・評判にも興味がわきます。作品によっては、例えば儀軌のような規範如何も知ってみたいものです。
こういろんなことを「知っ」て初めて「わかる」のだとなりますと、「わかる」のもこれは容易ではない。調査や学習が、かなりの質と量とでついてまわります。だれにでも出来ることか、ちょっと心配です。
それはさて措き、次に「好き・嫌い」「感性」といった面で「分」「解」「判」が関わる相手をみておきましょうか。順不同に、ちょっとゴチャゴチャしますけれども…。
画面の選択ーー絹・紙・木・石・壁・襖・屏風・巻き物・陶磁器・柱・天井などーーがまず問題です。色彩や線による表現のスタイルも当然ながら問題にします。画面からうけるムードや題材からくる作風も気にします。デフォルメの適・不適をはじめ、抽象と具象、レアルとイデアル、画面の湿度と乾度、描かれた物・事・人に対する好悪も問題です。その環境、その形態・姿態、その大小・広狭も問題です。作品の大きさ、額縁の適・不適、表具・表装、なども無視できない要素になります。画中に混在した文字・識字などにも無関心ではおれません。いわゆる唐突感や違和感も、逆に実にしっくりした親和感も、大切な「わかる」「わかれ」になります。極端なことを言いますと、絵を見ているその人の機嫌のよしあしすら、バカにはならないものです。
そうはいえ、今、列挙したような事柄をたとえ全部「知った」からとて、必ずしも絵が「わかった」わけじゃ、ない。少なくも「よい絵」かどうかの決め手になんか、なり切れない、なって来ないンじゃ、ないでしょうか。妥協してその辺で「わかった」気になってみるだけか、不満が残って「どうも、まだ、わからない。わかった気がしない」と首を横に振るしかないのではないかナ、と思うのです。大事なところは先送りされた感じなんですね、ただの「知識」ただの「好き・嫌い」を問題にしていますだけでは。あれもこれも、みな大事ではありながら、しかも核心に触れた気がしない。妙につまらないことで足踏みしている感じが残る。いくらあれこれと「知って」はみても、「わかった」わけでないことが「わかる」わけです。「知る」と「わかる」とは、イコールでは結べない。
角度をすこし変えて、考えて参りましょう。
いったい、どう考えてみましても、例えば、同じ対象を同時に数人が描いた場合を考えても、客観的視覚とか客観的表現とかが在るはずもない。形も色も、いつも表現者の生理と気稟とに応じて、まちまちに把握されます。まさに「己が血汐」を以て独特に描くわけです。感覚と、とくに気稟とは、全体を比較しようが部分を比較しようが、関係なくいつも一貫しているものです、優れた表現者であればあるほど、そうなんです。
それにもかかわらず、個人は、より大きな群に属しています。個人のスタイルは、目に見え、また目に見えずに、より広いスタイルに包まれています。流派の、国の、民族のスタイルが在って、しかも相互に浸透しあっています。異なる時代は異なるスタイルを生み、その時代の特性とて、民族の特性にさらに大きく包まれています。美術史家の研究は、こういう差別点と共通点とからなるべく具体的に出発しています。
では出発して、どこへ到達するのか。差別点をより詳しく「わかる」ことへか。共通点をより質的に「わかる」ことへか。そこが問題なんです。
如拙と永徳と光琳と応挙と鉄斎と松園とが出て、彼等の天才が、どの点で個々にどう異なっているかを示すのも大事なことです。しかし今、この際の問題として、私たちがより大事に知りたい・わかりたいのは、彼等が、まるで異なった道をとり異なった時代に生きながらも、如何にして同じ一つの成果、即ち、人の胸をうつ偉大な優秀な作品を生み出すに至ったのか、その創造の秘密に近づきたいということでありましょう。
そこで、やや話頭を転じまして、いったい我々は、どんなふうに、どんな気持ちで、例えば絵画の名作・傑作、ないしは好きで堪らない作品の前で感動してきたのか、これを体験的に思い出してみようではありませんか。これまた思い出すまま、出逢いの実感を羅列してみますので、みなさんも、補ってご想像いただきたい。
あたかも、強烈な瞬間風速に薙ぎ倒されたような感じをもったことがあります。知恩院所蔵の『早来迎』をみたときが、そうでした。息づまる、背筋がそよぐ、ぞくっとする、顫える、痺れる、肌寒くなる、などもしばしば感じます。私は、いい書に出逢いますと顫えます、膝の下から。顫えるのが先で、あぁいいんだこれは…と、後から納得することもある程です。巧さに驚く、色の美しさ、線のみごとさ、画面から湧き出すような輝きに、立ちすくむこともあります。脱力する、目から鱗が落ちた気がする、棒立ちになる、固まってしまう、声・言葉を失う、時のたつのを忘れる、他のものが消え失せたように見えも聞こえもしなくなる、我を忘れる、夢心地になる…、こういったことも何度も体験しています。そうかと思うと、思わず声を放っていることがあります。大声で人をその絵の前へ呼びたくなったりもします。笑ってしまうこともある。花が咲くように微笑を禁じがたいこともあれば、こわくなって、逃げ出したくなるという経験もあります。やたらそわそわと、わけ分らないことをブツブツ呟いていたりもします。足踏みしたり、ぽかんと口をあいていることもある。かと思うと、何かしらを身内から奪われた感じの時もあり、逆に、何かしらを身内深く与えられ付け加えられたと感じ、熱くなっている時もあります。
こういう嬉しい思いや畏ろしいほどの思いをさせてくれました作品の、絵画だけ、ほんの何例かを挙げておくのも、みなさんのご納得に資するやも知れません。これまた順不同に思い出すまま挙げますが、さようーー源氏物語絵巻、地獄草子、智積院の桜楓図屏風、法隆寺の阿弥陀浄土変、当麻曼荼羅、正倉院の麻布菩薩、薬師寺の吉祥天、黄不動、青不動、法華寺や高野山の来迎図、仏涅槃図、慈恩大師図、切手になりました普賢菩薩図、信貴山縁起絵巻、伴大納言絵詞、平家納経、扇面法華経、伝毛松猿図、多くの蒔絵・衣裳、源頼朝像、明恵上人樹上座禅図、信海の不動明王図、幾つもの山越阿弥陀図、早来迎図、北野天神縁起絵巻、平治物語絵詞、駿牛図、白描の絵巻、一遍聖絵、随身庭騎絵、可翁の竹雀図、如拙の瓢鮎図、蛇足の山水図、雪舟の天橋立図・四季山水図・秋冬山水図、聚光院の永徳花鳥襖絵、等伯の松林図、柳橋図、狩野秀頼の遊楽図、山楽の白丁喧嘩図、光悦宗達の書画巻、宗達の風神雷神図・蓮池水禽図・松図襖絵、宮本二天の枯木鳴鵙図、久隅守景の納涼図、光琳の紅白梅図・燕子花図、応挙の雪松図・藤図、渡辺崋山の鷹見泉石像、蕪村の雪万家図、写楽・歌麿・北斎・広重などの趣向豊かな浮世絵などを挙げておきましょうか。出逢いは、むろん、もっともっとありました。幸せなことであり、そしてそのつど、先に申しましたような感動にふるえたり、しびれたりして来たわけです。
時代も作者も作風も題材もちがう。しかも感動という一点では、みな深く感動させてもらっている。
絵に感動するとは、何ごとなのでしょう。そのとき私は何かが「わかって」感動したというのでしょうか。大きにそうであったのかも知れません。が、そうは言いながら、今も申しましたような感動の体験・経験に、さっきから通ってきましたあんなさまざまな「分別」「判断」「解釈」「知識」「情報」「予見」といったものは、実は、そうは、あんまり関与していなかった、関わってはいなかった、という気もしているのです。そんな手順や手続きを踏んでの感動なんかじゃ、むしろ、なかった。突如として、矢のように、光のように、快い温度のように、瞬時に浸透してきたという実感があるのです。強烈無比の受け身のこころよさ、宗教でいう法悦にちかい、恩寵にちかい、啓示を受けたのにちかい実感があるのですね。
またまた余談じみますが、私が絵をみますとき、こんな区別を、思わず知らずに立てていることがあります。
先ず、「絵に成っていない絵」 これはもう拙劣なんで、よほどの例外も実は在るには在るのですけれども、ま、ふつう問題にならない。
次に、「絵につくり上げた絵」 意図や技巧の先行した絵ですね。無理やりにやっつけています。眼や手よりも、頭が先に立っていたり…。これが、しかし、圧倒的に多い。
更に、「絵に成っている絵」です。ま、どこかへ確かに到達している絵ですね。これは数少ない。では、それでもう良いのか。満足なのか。私はまだ満足しないんです。
「絵に成っていて、且つ、プラス・アルファの何か在る絵」を、いつも絵の前に立って私は求めているんです。想像もつかぬ瞬間風速のガーンと吹いて来る絵です。この「プラス・アルファの何か」としか言えない、言いえない価値高さによって、一瞬に、または徐々にでも、薙ぎ倒され、征服され、自分が深いところまで見露わされて行く感動を私は得てきたと思う、これからもぜひ得たいと思う、わけです。そう在ることが嬉しくて幸せなんです。
絵を「みている」自分が、実は逆に絵に「みられてしまう」といった、逆転の体験があります。感動・感銘という体験は、そのように、巧くは言葉に仕切れない性質の精神の激しい揺れなのであり、また和みなのであり、さらに深まりなのですね。しかもなお、どんな感動も、やっぱり、「みる」という一点を通過して来ない限り、けっして実現しない。「みる」とは何ごとであるのかまだ「わから」ないけれども、それでもともかく「みる」から、感動する。同様に「聴く」から、感動する。「読む」から、感動する。時には単に「みえた」だけ、「聞こえた」だけでも感動します。
しかし「みず」「聴かず」「読まず」に、美術や音楽や文学に感動する・感動できるということは、ありません。何も「知らず」「わからず」予断もなく先入見もなくても人は感動できますけれど、しかし絵なら絵の場合、「みる」こと抜きでは、どう感動したくてもできない、これは真実だと思われます。思われますから、なおさら、「みる」なら「みる」ことを、根源の体験としてよく考え直してみる必要が、ある。話の筋道は自然とそういうことになります。
絵を「みる」と、簡単に言います。しかし、こう筋道を辿ってくれば来るほど、「みる」がそもそも簡単なことでは、ない。不動の絶対などといえた働きでも、ない。「みる」体験じたい、根から揺れていて、変わって行き、成長もし退化もし、凡化もし非凡化もし、知性化もし感性化もして行くもののようであります。
絵を、純粋に「みる」無垢に「みる」、何らの先入主も予備知識も身構えもなしに絵を「みる」ということが、そもそも、必ずしも前提として約束されているわけでは、ない。事実問題として、そんなことは、ほぼ不可能なんですね。
東京にも京都にも限りません、一般に都市・大都市では、絵を「みる」機会にかなり広範囲に恵まれています。またそれだけに事前の情報、例えば報道・宣伝やポスター・絵葉書などで、前もって、何らか絵について「知らされ」てしまうことも多くなります。
なにしろ図版と複製との時代です、現代は。世界中の秀作、傑作、名品、神品、逸品の多数が図版化され、いっそ「回避しがたい」予備知識として現代市民は「強いられ」ています。大公募展や小画廊個展や知名度のまだ低い現代・現在の画家・作品は別としましても、故人でかつ有名な画家や古典的な名画の場合ですと、今や洋の東西をとわず美術全集やポスターや図録で見知っている例が多い。関連の伝記や文献、芸術家小説なども多い。あまりに多い。そして結果として、複製図版や本などで先に「知った」画家や作品の本物を、美術館や美術展へ、画廊へあたかも「確認」しに行く、外国へまでも「確認」しに出かけて行く、といった一種の逆立ち現象が起きてしまっています。「みる」感動の前に、先に、知識や情報として「用意された関心」が、何となし先行しがちです。
それでなくても、想像以上に我々は、絵を「観念的」にみようと身構えています。絵なる実作品を「みる」より前に、イメージという名の先入見で「不定な可能性」をさまざまに、暗々に、想像したり妄想したり要求したりしています。「みる」前からその絵やその画家への己が「立場」や「態度」を定めようとすら、気が動いています。むろん不正確で不安定で不定形な身構えなんですが、しかし情報や知識でウズウズしていがちです。
そして、いよいよ、絵を実際に「みる」んですね。「み」て、そして特定し、限定しつつ、現実に絵を自分の前へ対象化します。充実化もします。大なり小なり、また深くも浅くも、先行していた不正確なイメージ=予断に対し、修正を加えて行きます。修正じたい一種創作的な行為となり、つまりは鑑賞行為となって精練され吟味される。言い換えれば、繰り返し「みる」という、内容の濃い体験を絵の前で重ねるわけです。絵が良いも良くないも、鑑賞を深めるには、鋭く深く丁寧に繰り返しよく画面を「みる」以外に道はない。その結果、つまり深く良く丁寧に繰り返し「みた」結果、あいまいだった予断より、遥かに良くて優れて忘れ難い作品が、霧が霽れるように確認されることもあり、逆に、飽きられ見忘れ見捨てられてしまう駄作も確認されて行きます。
先にも挙げましたが私は、崋山作の『鷹見泉石像』が高校の頃から好きでした。しかし本物をみたわけでなく教科書の図版かなにかで見知っていただけでした、図版はただの墨版でしたが、とても凛としていて心惹く作品でした。そして東京へ出て来て、上野の博物館で初めて本物に出逢ったのです。ぎょっとしました。なんと、人物の衣裳は浅い空色をしていました。全体に淡くはあるが彩色の絵だったのです。不意打ちに遭った気分でしばらく棒立ちでした。ながい時間をかけて、じっと向き合っていました。予断をまず静かに洗い流してしまいたかった。それから作品じたいに自分の「眼」をむけて「みなおし」たかったのです。納得できました。これで良かった、あぁよかったと思いました。嬉しかった。霧が霽れたのです。絵が、本来の姿で私の前に在り私をみてくれていました。
絵は、作品は、それぞれに「所伝」とでも言える「着物」を着込んでいます。そうした着物のような衣裳のような「外被」に依拠しながら、作品を、絵を「みて」いるということが、たいへん多い。時には所伝を鵜のみするあまり、「みる」前からもう感嘆していたり、感嘆しなくちゃと身構えてしまってるなんてことすら、あります。感嘆の声を上げよう、上げたいばっかりに「み」に行くんです。前評判の高い美術展などだと、つい、そうなる。『モナリザ』や『ミロのヴィーナス』の来た時などもそうでした。つまり眼で「みよう」としないというか、じぶんの眼で「みて」いないというか、むしろ先入主にひきずられ、「みる」前から「観念して」しまっているんです。名画なら名画の前で、久しい間に培われてきた解釈や批評を介して、それらをただ頼って、つまり他人の眼で「みて」いるということは、けっして珍しくないどころか、むしろそうでもなければ、絵は「みて」も「わかりっこない」ものだと、観念してしまっているんです。
真に「みる」純粋無垢に自分自身の眼をもって「みる」なんてことは、当然のようで、実に実に難しくめったにない体験なんです。絵の上に、作品の上に、錆がふいたように他人の言葉がこびりついている。「みる」とは、そんな錆を、よく拭い取って「みる」ことなんでしょうが、実にこれが難しい。「みる」なんてことは、まったく単純な只の感覚の行使のようですが、それすら、観念・概念・先入主、つまり他人の賞賛や批判や解釈で錆びがちに出来ているんですね。
しかしまた、錆びるも錆びないも、もともと、そんな先入主がまったく無しに「みる」単に純粋に感覚的に「みる」裸で「みる」などということが、実地に、実際に、出来るものなのかどうか、これまた容易には信じられないのが本来なんじゃないか。もうすこし、そこのところを、粘りづよく考えてみましょう。
第一、美術作品を「みる」眼というのが、ほんとうに感覚的なんでしょうか。「みる」行為は、なるほど感覚的な単に行為であるでしょう、が、その「みる」を実現する「眼」が果たして単なる感覚器官かというと、そうであると同時に、それ以上に、人間的・人格的な意欲そのもの、とも言わねばなりません。大事なのは、そういう意味で「みる」を支えている「眼」「自分の眼」なのではないか。単に純粋な感覚なんて、現実には、在るようで無い、在りえない、こととも言える。そう思います。
もしも絵画を、「単なる感覚的視覚の表現行為」に徹したものとみるならば、究極、ただ「線と色と」だけのいわゆる「純粋絵画」に極まってしまう。絵の歴史は、そこへ極まり着く歴史かのようにも、現に、見えないでもない。しかし必ずしもそうとも言い切れません。絵画から受ける感動についての反省が進んで来ています。抽象とかシュール・リアリズムの面白さの確認と同時に、久しい美術史の再検討を経つつ、絵画表現が体してきた具象的意味についての再認識も進んで来ているのです。
さらに翻って思えば、近代・現代のいわゆる「純粋絵画」も、けっして単なる純粋視覚だけの産物なんかではない。それどころか歴史的・論理的に導かれた極めて「知的な構成物」なんですね、ピカソも、ブラックも、モンドリアンも、カンディンスキーにしましても。
言葉で、純粋な感性の感覚のと簡単に謂えましても、そう言った瞬間からその感性にも感覚にも「知的斡旋」が生じています。思想や思索や観念が介入して来ています。それを拒絶はできませんし、できない以上は、その介入してきた思弁性・思想性・観念性を、感性が、感覚が、優位に活用し導入する構築や表現の効果へ、造型優位にうまく確かに引き入れるということが、何としても大切な「課題」となってまいります。これに負ければ、ただ、頭でっかちになってしまいます。
で、ここで、存外にというより、非常にとハッキリ申しますが「盲点」になっているかも知れない、大事なことを一つ、指摘しておきたい。
持論でもあるのです、が、私は、「読書」とふつう謂えるのは再読以降、二度め以降を謂うのだと。時間を隔ててであれ、少なくも二度以上「読む」のが「読書」なのであって、一度の「読み」で事の足るような、済むような作品はただの通過駅であり、それでは、ま、ヒマ潰しでしかないと。ヒマ潰しもけっこう、そういう簡単な読み物の在るのをけっして否認するものではありません。が、二度も三度も読み返さずにおれない、読み返させずにいない作品にわたしは出逢いたいし、作者として書きたい、と願っています。
この感覚は、未知の土地への旅に譬えられます。一度訪れて、それだけで深い感動がないとはけっして言いませんが、二度行き三度訪ねてますます魅力の増す、感銘も深まる旅がある。旅先がある。再訪、歴訪して深まる感激は、ちょうど『源氏物語』や『カラマゾフの兄弟』や『嵐が丘』などを繰り返し読んで覚える嬉しさに似ています。けっして単なる機械的な反復繰り返しではない、まさに、一期一会の繰り返しです。一度しか読まずに済ました本や作品しか知らない人は、ある意味で、たいへんな浪費を知らない間に重ねてきた、お気の毒な方だとすら思います、「感動」とても、育てるもの、深められるものなんですから。
ま、同じことを言いたいわけですが、「絵をみる」のも、そうなんですね。「絵をみる」なんて一度きりの行為で十分と、つい思ってしまう。しかし錯覚ですね、それは。そう思いますよ。一度みて、二度みて、繰り返しみて、そして「みる」自分と一緒に育って行くものなんです、絵も。逆から言いますと、繰り返し絵を「みて」いるうちに育って行く自分や、感動というものが、あります。あり得ると人は昔から考えてきた。だから、すぐれた良い絵で身辺を飾り、その感化を得たいと考えて来た。書や画には、そういう働きがかなり期待されていたことは、実例に溢れています。
さて、こうなるとですね、ちょっとこれまでの話をひっくり返すように聞こえるかも知れませんが、ーーとにかく言ってしまいますがーー、いわゆる絵画鑑賞の「純粋さ」ということを縦し謂うと致しましても、必ずしも、美術史的批評や解釈の予備知識なしに、つまり知的先入主なしに、そんなものは一切無しに、ただもう自分の「眼」だけ「視覚」だけを頼んでひたすら「みる」のが「真実の鑑賞」だとは、限らない、ということになります。「無知識」で「みる」のが「純粋」で「良い」「みかた」などとは、必ずしも言えない。それどころか、「適切な知識」なしには、実際にはしばしば不十分にしか「みる」ことができないという点で、「読書」や「旅」と、「絵画鑑賞」とは実はよく似ているんですね。
読書に辞書は必要です、旅に地図があった方がいいように。絵の鑑賞にもそういった類の準備というか蓄えは、あって自然なんでありまして、無くてもいいのだとは、どこか不自然な頑固さになりましょう。
ただここで大事なことは、「知識」が「感性」を引き摺って連れて歩くのではなく、育て深めた「感性」の豊かさに、「知識」があとからついて来る、貢献する、裏打ちをするということです。逆ではないのです。その意味でもやはり「みる」「自分の眼で、よくみる」「繰返し、みる」ことが、先、ことの初め、であるべきなのです。
さて寄り道になりますやら、道順になるか、分かりませんけれども、ここで、「みる」行為を示すたくさんな漢字のなかでも、とくに代表的に多用されているものの意味を、まさぐってだけおきましょうか。
何といっても「見る」でしょうね。この漢字には、跪いて「みる」意味、がある。「まみえる」と謂いますね、謁見や降伏の儀礼に臨む際の、その双方を、同時に想いうかべたいような語感がこの漢字には預けられています。「見る・見られる」の相対関係。相手にむかって霊的な、ときには肉的な交渉をもつ意味合いが、「見る」には含まれていると言われます。「あひ見てののちの心にくらぶれば」という百人一首のあの「あひ見て」など、まさに霊でも逢い、肉でも逢って、そして確かめ合った「愛の視覚」の表現です。「ながらへばまたこの頃やしのばれん憂しと見し世ぞいまは恋ひしき」の「見し世」も、もともと「世」は、世間や社会を意味する以前に「男女の深い仲」をいう意味でしたから、この「見し」にも、やはり霊的・肉的な交渉に結ばれ合っていた意味が添います。女を「見る」そして男に「見られる」のは、「見あらわす」つまり露見する、つまり残りなき関わりになることです。「見る」ことで「霊(本質)」が「見われ」る、そして征服と服従との関係のような、少なくも深く切り離せないほどの関係が、そこに現出する。「現に見て在る」「見在」が、即ち「現在」の関わりとなるわけです。「見る」という漢字には、そういう心的な構造関係が秘められていたんですね。
次に「相る」をみてみましょう、「あひ見ての」の「あひ」は愛でも逢ひでもありつつ、
またこの「相ひ」でもありました。こういう含蓄の深さというか、他方では語彙の少なさによる「意味の相乗り」こそは日本語の大きな特徴なんですが、この「相」という漢字にはもともと「魂振り」ふうに、その生命の本質に迫って祝い頌める意義が預けられてきました。相互に「みあう」ことで、交霊が可能になる。内在する本質の外にあらわれ出る、それが「みえ」て来る。そういう、やはり心的な相互性のつよい働きを示す文字です。そこから「相談」も可能になる、「宰相」といった政治の力も動きだす。「人相」「手相」「墓相」を「相る」といったことにも意味が生じてくる。それもこれも、根本は「相見える」わけです。
では「視る」はどうか。「示す」扁はいわば「祭りの卓」を意味しています。「視る」には、神の降臨に立ち会うといった原意が預けられていました。心的という以上に神的な場面に生きた「みる」働きです。「幻視」「透視」などという。人間の「みる」感覚にことさら「視覚」という字をあててきた語感にも、なかなか遠い由来を感じてしまいますね。 鑑賞の「鑑る」は、水盤の水に顔をうつして「みる」意味にはじまっています。「鏡鑑」という熟語が端的にそれを示しています。
もう一つ、よく用いますが「観る」は、どうでしょうか。これには鳥の高くとびながら「みる」意義が古いのですね。鳥占いによる農耕儀礼に根差した「みる」なのでしょうが、分りよく謂えば、高くから「観望」する。転じて高楼や山頂から「観る」んです、「観望」しえた範囲を、対象を、呪的に支配するんです。それが「国見」でしょう。「高き屋にのぼりてみれば」の太古の天皇の歌にもその意義が含まれていましたし、「観察」にも「観光」にすらもこの原意は浸透していたはずです。
さ、こう「みて」参りますと、どうも日本のと限ることなく漢字感覚の「みる」には、霊魂に根ざし神呪に添い寄った「人間と対象との力関係」が意味深くこめられて在る感じが掴めてきます。
いま問題の「絵」を「みる」にしても、こうなると、「絵」と「魂」とが「相い見る」「相い見える」つまり肝胆照らしあう関わりかと、察しをつけるしかなくなる。およそ人間の精神が、感性の豊饒を介して創造・創作した「作品」「造型」と相い見える時の、また神自身の作品とも謂いうる「人」と「人」とが相い見える時の、一つの根源的な「在りよう」、本質的な結ばれ・出逢いの「かたち」を示唆してやまないわけであります。「みる」とは、そういう創造的な大きな行為であるわけです。
「分る」も「解る」も「判る」も、どちらかというと「肉=形=量」の問題のようですが、
「見る」も「観る」も「視る」も「相る」も、どちらかというと「心=魂=質」の在りようを示しています。そしてそこに心的・霊的な「眼」が働いてくる。
同じく「心」と謂いましても、むろんのこと、言葉である程度明晰に言い表せる心もあり、とうてい言い表せない心もあります。つまり言葉を拒む心、言葉では現れてこない、表し難い心があるものです。しかも、それぞれの心の表現にそれぞれの論理があり、論理の帰結としての表現も、時代により民族により個人の才能により、大いに異なって表れもし、また紛れもなく似通って表れてもきます。その種々相を、的確に、適切にとらえて、例えば「読む」例えば「みる」ということが言われるのでなければならない。
ましてこの日本の社会でありますと、例えば小説の場合にも、必ずしも全部なにもかも書き表したりしない、絵画の場合でも、必ずしもなにもかも描き表したりはしないという風儀が出来ています。小説や詩歌ならば書かずに表す=言う、絵画なら描かずに表す=みせる、という創作の態度や志向がある。よく知られています。余情、余白、余韻ないし含蓄ちか暗示とかいった言葉で解説されています。「秘したる花」などとも謂います。
もう一遍、さっきに告白しましたあんなような、作品・名作に感動しました際の在りようを思い返してみて下さいませんか。
瞬時瞬発的にせよ漸々徐々にせよ、要するに「みる」私と作品との、二つの異なる魂と魂とが、「眼」というレンズを介して、相寄り、色と輪郭とを、ちょうどピントを重ね同じていくように一体化していく、そういう「感動」であったと思い起こすことができます。魂の色と色とが相寄り、似ていき、一つに成る。そういう感じなんですね。そして当然だろうと思いますが、これは人間関係とも根本において似ています。ウマが合う、ソリが合う。どこかで錯覚にも似ていますけれども、たいへん貴重な錯覚、愛そのもの、でもある。その貴重な錯覚を愛の名において分かち合える間柄を、譬えば「身内」と呼びましょうか、作品に、絵に、感動するというのは、「みる」人と作品とが「身内の間柄」に成った・成れた、ということなんじゃありませんか、譬えて謂うならば。
ですから、或いは、しかしと謂うべきか、必ずしも客観性は、無い。成長しながら普遍化し共有化していけるタチの体験、つまりそれこそ好みを同じくし趣味を倶にするということでしょう。趣味体験とは、主観的には普遍性を主張しうる「不思議色をしたよろこび」なのですから。そして、この「人と作と」が一つに生きあい、また「人と人と」が同じよろこびを共有し倶にしていく過程で、知識や判断や批評の力がまこと猛烈に発揮されてくる。発揮されなければならない。それが関所かのように立ち塞がるとは申しません、しかし、体験に付き添うようにして、ややうしろから、深切に伴走して来るのだとは申し上げておきましょう。
結論になりますかどうか、要するに「わかる」にとらわれ過ぎず、徹して「みる」を繰返して深切に「みる」ところからしか、いい体験は成らない、大事なのは自分の眼をしっかり作品に向けて「みて」からモノは、コトも、はじまるのだとということです。「みて」「わかれ」ば結構、「みて」必ずしも「わからなく」ても、実はいいのです。「わからなく」ても感動することがあり、感動を重ねていると、不思議と「わかって」くる。それが優れた芸術の生命力というものです。そのためにも一度や二度で「わからない」からと投げ出さず、「繰り返し」絵の前に立ってみる、文学や音楽の前にも身をおいてみる辛抱を、育てたいものです。 ご静聴を、ありがとうございました。 ──完──
ー 単行本『猿の遠景』紅書房 所収 ー