秦恒平・講演録 2

*此処には 文化・文明論ないし電子メディアに触れた講演を収録します。


現在収録
   *ペン電子文藝館のことども  *ネット時代の文藝活動と著作権  *お静かに─日本人の美意識  


  


 
「ペン電子文藝館」のことども ――メディア新時代と文学――


  
        芸術至上主義文芸学会 平成十四年秋季大会講演



 この会で、こうしてオハナシするのは、十六年前の、やはり十一月、二十九日でした。題して「マスコミと文学」 これを、今年(二○○二年)九月、私の「湖(うみ)の本エッセイ」第25巻め、創作シリーズと通算して第72巻めに、他の講演四本と一緒に、収めました。
 当然、何度も校正しまして、記憶も実感も新たになりましたが、あの一九八六年(昭和六十一年)当時、みなさんも、私も、まだ全然、皆目、コンピュータというものに触れていませんでした。私版の全集に相当します冊子版つまり紙の本の「湖(うみ)の本」を、あの年の六月桜桃忌に創刊しておりました私は、また同じあの年、早稲田で、文芸科のゼミを臨時に手伝っていました。東京工業大学に、江藤淳の後任として、突然、教授として呼び出されましたのは、それよりもう五年もあとのことでした。

 つまり、こういうことです。
 東工大に行ったから、初めて、パソコンという機械を、研究費で手に入れることができたのでして、まさに「時代」が、紙の本時代から、電子の本の世紀へ変わり始めていたのです。
 さて手には入れたものの、ワープロとは大違いで、ま、にっちもさっちも機械が働いてくれないのでした。ただ、プロなみの学生達が、教授室に始終出入りしていましたから、ま、四年半して、六十歳定年、退官のときには、ゲームよりは、ま、少しマシに使えていましたし、メールも使い始めておりました。文章も書けていました。

 そんな次第で、以前にこの場で語りました「マスコミと文学」は、徹して、いわゆる、出版主導の「紙の本」時代の、それも末期(まつご)の喘ぎを始めていた頃の、パソコンを全く知らない私なりの「批評」でした。滴ほども、ディジタルな所へは一言一句言い及んでいない…、そのことが逆にあの時代を、鮮明に照射・証言し得ていたのではないかと、今度講演録を読み返して、思い起こしました。
 今も申しましたように、私は、あの頃、すでに思いあまって「湖の本」刊行に踏み切り、三冊ほどはもう出版していました。この学会の会員にも、その後たくさんお力を戴きました。その刊行は、以来十六年後の只今も続いて、創作は四十七冊、エッセイは実はまさしく本日の朝のうちに第二十六冊目が出来、家に届いたところです。まだ湯気がたっている通算第七十三冊目が、これです。

 出版への反乱だとか、謀叛だとか、作家による産地直送だとか、いろいろ云われながら、全国規模で、これだけの年数、これだけの巻数、「続いた・続けた」というところで、ある種「批評行為」としての「湖の本」は、文学史的にも、出版史的にも評価して戴けるのではないか、と、願っています。趣味や道楽で続けたワケではないのです。
 ま、それだけに、今なお「湖の本」の存在自体を許さないという空気はつよい。その一つの証拠は、太宰賞このかた母なる港と思っている筑摩書房ですら、例えば私の文庫本を一冊として提案してきたことは無いのです。それでも単行本は、この間にエッセイ・評論だけでも十何冊出していますし、湖の本での新刊は随分の数になっています。

  しかし、今日は、それは当面の話題に致しません。
 主として「電子化時代の文藝活動」にふれた話に、絞って参ります。いきおい、それは、また新時代の「文学とマスコミ」という話題になりますが、もはや「紙の本」だけで済まない、「電子の本」という視点に重きを置くことになります。
 そういう話をしようというのですから、おまえさんに、そんなことの話せる資格があるのか、無いとなると、まるで話に信用がなくなります。で、もう少し、前置きを致します。
 私は只今、日本ペンクラブで、一理事として「電子メディア委員会」の委員長を引き受けています。同時に「ペン電子文藝館」の主幹=責任者でもあります。この二つとも、私の提案により新設されまた発足しまして、現に日々、そうまさに日々に、活動を「拡大」しています。ペンクラブに初めて「ホームページ」を造ったのも、私です。このホームページは、現在、「ペン電子文藝館」と「広報」とを両翼に開いて、厖大な内容を発信しつづけています。
 やがて六年に及ぶこれら一連の仕事は、わたくしにとって、一つの創作行為でありました。
  しかし、一朝にしてそんなことの可能なわけはなく、いわば前段階に「東工大」体験があり、加えて、私自身の「ディジタルな文学活動」が先立って進行していました。
 東工大を退官するとまもなく、親切な学生クンの手引きで、私は、「作家・秦恒平の文学と生活」という、今在るホームページを開きました。おそらく現在、文学者個人のものとしては、最大量のコンテンツを擁して、しかもほぼ一日も欠かさず更新されつづけている、稀有な存在になっています。
 一つ、端的に「量」の話を致しますと、MB=メガバイトという単位があります。1MBは、半角文字つまり英字ですと、百万字に相当します。かなや漢字は全角表示になるので、1MBで五十万字、四百字用紙に換算して一二五○枚分に当たります。私のホームページは現在その三十倍ちかく、かなり内輪に見て三万枚を越えるコンテンツを発信しています。オブジェクトの数は、三百を超え、ものによれば一つのオブジェクトが原稿数百枚の内容を抱えています。
 その中には、略称ですが、「e-文庫・湖umi」という、「秦恒平責任編輯」の「文学広場」が大きく独立していまして、投稿を吟味しながら、他方、プロの作家や詩人歌人エッセイストらを招待し頂戴した作品を、ジャンルを分けて、大量に収載し発信しています。この度お声を掛けて下さった馬渡憲三郎さん(詩人・相模女子大教授)からもすばらしい詩を戴いていますし、びっくりするような方々の作品がそのサイトで読めます。
 で、この「e-文庫・湖」の成功に手応えを得た自信が、ペンクラブでも、「ペン電子文藝館」を創れるぞという確信を喚び起こしました。

 「ペン電子文藝館」の開館は、昨年(二○○一年)の「ペンの日」十一月二十六日でした。満一年を経過したのが、ちょうど四日前のことで、満一年間で、お手元に配りましたような内容(展観現況・生年順筆者一覧)にまで充実し、十年もすれば、千人・千作の国民的な「大読書館」に成りうるであろうと期待しています。この一年、文字通り渾身の努力を傾けてきた、これもまた私にとっては大きな「創作行為」であり、また文学への「批評」でもありました。
 そんな次第で、「紙の本」時代の「出版主導」の悪傾向に対し、冊子版「湖の本」創刊により、ささやかに警鐘を鳴らした私が、今では「電子の本」時代にも、ささやかに先駆けていると、ま、申し上げても、いくらかお許し戴けるのではないかと、そう願っております。

 「ペン電子文藝館」を発想した・企画した、私の秘めた「本音」のようなモノを、今日此処で、少し白状しようと思います。

  最初の企画は、ペン会員の誰もが、平等に「文藝・文筆」をもって参加できる、広報的かつ文学的な「場」を設けよう、ホームページが在るのだから、技術的かつ経費的に、容易なことだと委員会と理事会を口説きました。
 東京周辺の会員なら親睦の例会にも出て来られます。が、全国の会員は、高い会費を払って、会員たる何の特典があるか。せいぜい名刺に「日本ペンクラブ会員」と印刷できる、それだけのことで、他に、何一つもメリットはないんです。会員になると「原稿料が上がるでしょうか」と真顔で尋ねられたことがありますが、多少、書き手として信頼される程度でしょう。わたしは理事になり、このことに気付いて、東京から遠くにいる年会費只払い会員のみなさんが、気の毒でならなかった。
 また「日本ペンクラブ」ってナニですか、ペン習字の団体かと思っていた人も現にいたんですね。つまり、どんな名前の会員が、どんな資格と仕事とで構成している団体なのか、世間ではまるで識っていない。なんだか、事あるごとに「声明」を頻発している、ときどき講演会かシンポジウムをやっている団体だとぐらいが関の山でしたし、今も、そんなところです。手前味噌で自画自賛はするが、広い広い世間では泡のようにすぐ消えてしまうことを、「やらないよりは、まし」と諦めたまま何かの折りの免罪符の自己交付のようなことをやってきた。ムダではないが、効果ははなはだ希薄なものです。あの猪瀬直樹君が言論表現委員会を率いるようになって、少ゥし声明なども効果を発揮するようになった面が有ります。が、まあ、そんなところです。肝心なところ、いったいどこが文筆団体なのか。わたしは、その辺がいたく飽き足りなかった。

 会長の梅原猛さんは、時々、思い出したように、「文学の力で平和を訴えなきあ」なんて言われる。しかし、理事会で、本当に「文学」そのものが真剣な話題になることなんぞ、無いに等しいのでした。少なくもこの数年。
 で、せめて、会員の一人一人が、自分の文藝・文筆を、一つずつ、ペンクラブに寄付して、「ペン電子文藝館」というかたちで世間に公開しよう、と。そうすれば、どんな人が、どんな仕事で「会員」になっているのか、一目瞭然の、いわば存在証明になる。それも「無料公開」して、国民的な大きな「読書室」を社会に提供しよう。文筆家団体である「日本ペンクラブ」ならではのこれは「文化事業」に成るだろうと、まず、電子メディア委員会に委員長提案し、次いで理事会に理事提案し、趣旨において、誰一人も反対する理由が無かったんです。
 理事会では、井上ひさし副会長の発言が象徴的でした、「ほんとうに出来るのなら、とても良いことです」と。裏返せば「やれるモノのならおやんなさい」ということでして、私は、「出来る」と確信していました。似たモノをすでに自分の機械でちゃんと実現していましたらね。
 企画の決まったのが、昨二○○一年七月で、直ぐさま委員会が力をあわせて「電子文藝館」立ち上げの作業にかかりました。十一月二十六日、創立六十六年の「ペンの日」に「開館・公開」と予定しました。

 その際、私の「企画」には、もう二つほど、お添え物がありました。

 一つは、初代会長島崎藤村以降、現十三代梅原会長までの、歴代会長作品を一つずつ入れよう、もう一つは、現会員だけでなく、昭和十年に創立以来の、物故会員の作品も入れよう、と。この提案にも否やの理由は誰にもなかったのです。
 なぜ、それを強く提案したか…。
 私の予想では、失礼ながら現会員だけでは、質的に高い作品レベルを維持できないという心配がありました。理事会における会員審査の、実にイージィで矜持にも欠けていることに、私は、理事就任以来あきれ果てていましたし、同時に、そういう現会員からは、(一)ごく安直に昨日今日出来合いの作品を出してくる人と、(二)ある種の自尊心やまたは不安から過度に慎重に様子を見て出し渋る人と、(三)例えば、パソコンに無縁で作品の電子化なんて出来ないとか、その他何かの理由で「文藝館」に近寄れない・近寄らないと身をよける人たち、が当然出る。「開館」時には少なくも三百本ほど作品を揃えてなどと言う委員もいましたが、とんでもない、作品は、そうそう簡単には集まらないですよと、ま、物書きの心理上・実務上の予測が私にはありました。これは、正確に読みが当たっていたと、今の時点でも言えるのです。理事ですら三分の一しか出ていません。会員はやっと百人あまりでしょうか。予想通りでした。

 私が当初来、心から期待したのは、これが「文学・文藝」だと、或る程度「日本ペンクラブ」として胸の張れる作品をなるべく揃えたい、さもないと自慰的な、その辺の同好会なみのものになってしまいかねない、と。それだけは何としても防がねばならないが、そのためには、こんな著名な人の、こんな優れた作品と、自分の作品とが同等に並ぶ…、それは嬉しいし、それには本腰を入れて良いモノを出さないと恥ずかしいと、そう、現会員の多くに思って貰わねば成らんと。
 だから第一番に、著作権の切れている島崎藤村作品を選んで入れ、現会長で、文藝館長に祭り上げた梅原さんの作品を同時に入れ、その上で、「ペン電子文藝館の趣旨」をよく説明して、歴代十三人の全会長作品を、ぜひ「開館」時には揃えたいと、それには、苦心し苦労しました。山崎合戦の天王山に当たると覚悟して、そしてそこのところを実現したのです。藤村以下、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹そして梅原猛……。資料をご覧下さい、石川達三は第一回芥川賞作品を、遠藤周作も芥川賞作品を、私の希望を入れて、ご遺族は、寄託出稿してくださいました。嬉しかった。
 正直の所、全会長作品の出揃うまでは、むしろ現会員作品は数が揃わなくて構わないんだという気持ちを、責任者として、私は胸にいつも隠し持っていました。と言うか、目星を付けた会員には、こっちから、この作品を是非にとお頼みし、少しでも質の高い作品を、著名な人を、はやく積み上げ呼び出してゆこうと、一心でした。
 そのために、もう一つ、是非とも必要としたのが、著名な物故会員の秀作や異色作や力作であったわけです。与謝野晶子、徳田秋声、谷崎潤一郎、横光利一、長谷川時雨、上司小剣、林芙美子、岡本かの子、吉川英治など、着々と掲載してゆきました。実現し、数が増えれば増えるほど「ペン電子文藝館」の収録内容は、質的に高い水準を実現し、現会員の出稿意欲に、或る種の魅力や激励を加えて行ったと思います。

 こういうことも、実は、私は、初めから考えていました。

 われわれは、いわゆる純文学や藝術的な文学と、通俗文学や大衆文学読み物との、優劣や得失を競い合う、久しい水掛け論をたくさん知っています。ミリオンセラーも知っているし、隠れた名作・秀作も知っています。
 で、私は思ったのです、四の五の水掛け論を繰り返すより、一人当たりのサンプル数こそ少ないけれど、「ペン電子文藝館」という文壇的に公認された一つの「土俵」へ、全く同等に、横並びに、フェアに作品をならべて、各個に相撲を取らせれば良かろうと。行司の判定は「読者」に求めればいいだろう、と。
 有名がえらいのか、無名はダメなのか。売れるから良いのか、多く売れていないのが本当につまらないのか。本屋の商売に尻を掴まれたようなお雇いの弁護人なんか無しで、此の「土俵=文藝広場=ペン電子文藝館」でお互いその新の魅力や実力を競い合えばいいだろう、と、そう考えたのです。
 そのためにも、今を時得顔したペンクラブや文藝家協会の理事だの役員だのというエライ人達の作品が、せいぜい沢山並んで、それがどんなものになるかも、ハイどうぞと人に観て貰えばいいだろうと考えました。「文学」を真剣に考えるなら、これほど良い、広い、平等な「土俵」はないわけで、そこで作品そのものに、立派に、公平に、いろんな取組の相撲を取らせてみようじゃないか、と。歌合や絵合ならぬ無数に取組みの替わる「小説合せ」や「詩歌合せ」を日本語の読める大勢サンに楽しんで貰いたい。
 で、この秘かな考えを、より盛り上げて確かなモノに仕立てるべく、また新しく私の考え出したのが、日本ペンクラブの「現会員、物故会員に限る」などとケチなことは言わず、少なくも昭和十年(1935)の創立には物理的に間に合わなかった、過去の、多くの、近代文学の諸先達と作品をも、敬意をこめて此の「ペン電子文藝館」に「招待」しようじゃないか、と。で、「招待席」を特に設けることにしたのです。
 優れた業績をもちながら、不運にして歴史に埋没しかけている、忘れては成らない湮滅作家達も大勢います。しかし、そういう人達の仕事をも無形有形の足場にしながら「文学史」は展開されてきました。日本ペンクラブは、それを忘れてはいない、忘れてはいませんということを、私は世界に向けてもハッキリさせたかった。そうして「日本近代文学史」を、せめてアバウトな「流れ」だけでも、作品という如実性豊かに「ペン電子文藝館」のなかへ確保し、広く世間に、世界に示してみようではないかと、また「新提案」したわけです。むろん根から本心でした。と同時に、「ペン電子文藝館」の質的な水準を、さらにより確かに高められる足場も得たかった。
 これには、一部理事から、反対の声が理事会で出ました、「際限がない」と。また、どういう基準でやるのか、だれが人と作品を選ぶのか、客観性は保てるのか、などと。
 私は即座に、「私が選びます」と言い切り、座がシーンとしました。文学者や文学作品の選定に客観的基準など在るものかと私は思っていますし、必要なのは、「ペン電子文藝館」の充実を誠実に本気で切望する「私」の決意が一番大事だと思っていたのです。梅原会長は「選定委員会」をなんて言っていましたが、猪瀬直樹理事が、ごちゃごちゃ言っても始まらない、秦さんに任せようよと言ってくれまして、それで、ま、そのままになりました。
 いったい、こんな際に、時間をかけて慎重にとか、小委員会を立ち上げて作品の選考をなどという類の発言は、永田町でも何処の企業でも大学でも組織でもそうですが、モノゴトをうやむやに実現しないための脚引っ張りにしかならないことを、私も永年あちこちで働いてきましたからよっく知っている。じゃ一つ一緒にやるかいと反対を述べた理事に水を向けると、いやいやと怖じ毛をふるって逃げてゆくんです。そういうものなんです、けちな文句を言う前に自分の自信作を、先ず出せばいいじゃないかというのが、私の本音で、猪瀬君の切った啖呵もそれでした。その通りなのです。その「招待席」特設の話が、そんなふうに理事会で「黙認」されたのが、今年(二○○二年)のせいぜい春過ぎでした。

 さ、それからの私の馬力は、我ながら、ま、鬼のようであったと、お笑い下さい。証明書は御覧の満一年め「出稿一覧」また「筆者生年順一覧」で、何も付け加えて言う必要はないでしょう。「招待席」と「物故会員作品」は、数編をのぞいて、悉く、私が選びました。「略紹介」の記事、掲載のヘッドの部分は、総て、私が書きました。これは、まだまだ進むでしょう。誰がアト担当するにしても、もっともっと人も作品も「招待」し続けて行かねばなりません。途中なんです、すべては、まだ。二年度には、すでに出稿している人は、作品を差し替えるかもう一作を積み上げることが権利として許されています。すでにその出稿作も何人か現会員から届いています。

 そして、その「満一年」ペン創立六十七年記念の企画として、私はまた委員会を説得の上で、「ペン電子文藝館」の特設ジャンルとして「反戦・反核」文藝室を立てよう、また原民喜の歴史的作品「夏の花」を出来るだけ多く他国語でも翻訳して、反戦・反核を広く訴える「夏の花」特別室として併設し、日本ペンクラブの姿勢を文学作品を介してつよく打ち出してゆこうと、その「ペンの日」理事会に提議し、異議なく承認されて、その晩の「ペンの日」式典で梅原猛会長から会場の皆さんに話されました。
 これで、「反戦・反核」の秀作は、ペンの会員でない作者の者でも拾い上げてゆくという、また一段の拡大が確定したわけです。そして、もはや、二三の、四五の作品が「反戦・反核」文藝室に掲示されているのです。

 申すまでもなく、作品を持ってきて、ペタンと貼り付けて、一人一作「上がりィ」じゃないんです。
 先ず、作家をえらび、原本原作を読みくらべ、周辺資料も参考にし、そしてこれをと作品を選定しますと、一頁ずつ拡大コピーをとります。これが難しい。見開きでとると左右が歪みやすく、もし歪んだままスキャナーにかけようなら結果がひどい、全部書き直すぐらいに文字が崩れてしまいます。で、一頁ずつコピーをとり、慎重にスキャナーにかけます。わたしの家の古いスキャナーの識字率は、よくて90パーセント程度で、それがたとえ99パーセントであろうと、とにかくも全部、句読点に至るまで正確に校正しなければ成りません。それは「日本ペンクラブ」として先輩作家達と読んでくださる読者へ敬意でなければならない。
 で、私と家内とで二度起稿作品を読み直し、業者の手で用意してある「文藝館専用の予備サイト」に先ず掲示し、委員の何人かに指名しまして常識校正、つまり通読を依頼します。委員会のメーリングリストを通して、指摘された疑問箇所を、キーマンの私がこまかに一々最終調整し、業者に一々訂正させまして、やっと「本館に公表して下さい」となります。
 少なくも一作一本ごとに、すべて、これだけの手間がかかります。この一連の作業が、これら招待作品・物故者作品の一作ずつに、総て同等にかかっているのです。それどころか、現会員の送ってこられる作品も、丁寧に点検すると間違いが一杯見つかり、一々訂正して貰わねばモノにならないのです。現会員原稿の内容は審査しません、一切。しかし、誤植のものを「日本ペンクラブ」の名前では責任上出せないのが大原則です。どれほど途方もない作業量であるか、お察しが付くと思います。

 そこまで頑張らせた推進力は、何であったか。「ペン電子文藝館」の作品の水準を、高く維持したい、そしてまた日本の近代現代文学は、今今の人達だけで出来ているのでなく、百数十年の久しい伝統と歴史の上に成り立っているのだとよく再認識したい、そして文学作品にもその作家達にも、ほんとうにいろいろ有り、そのいろいろの真価・真相は、こういう、あらゆる垣根を取っ払った公正な「広場=土俵」でこそ、効果的に「相対化」してみるのがよい。「有名」に大きな顔はさせず細心に、「無名」には縮こまらせず親切・大胆に、向き合いたいと、まあ強くそう願う気持ちがありました、私には。そうでなければ、優れた「新時代の新人」は生まれて来にくい。
 日本の文壇は、また勲章だの肩書だのは、或る意味で、藝術家らしからぬ俗情と虚名で見苦しく塗りつぶされ汚れていないとも言い切れないからです。

 井上ひさしさんが言ったように、「ペン電子文藝館」は、「出来るのなら良いこと」なのでした。出来るかどうかという気持ちは、理事会同席の全員が持っていたと思います。それでも、出来た。
 出来た以上は、文藝・文筆の人達にとって、これはもう「悪いモノ」ではないという「道理」が立っています。そうなれば、会員の中で、自分の仕事に自負と自愛のある人は、たとえ電子化の技術は人に頼んでも、少しの費用はかけても、出稿するでしょう。出稿しない人は、「ペン電子文藝館」の趣旨に反対なのではなく、いろいろ言うでしょうが要するに腰を引いているだけ、ひょっとして此処へ並ぶ自信が持てないのであり、それ以外は、つまりは尊大に、夜郎自大に、リクツを付けて逃げているだけのことです。
 作品を横書きで読まれたくないなんて、縦書きで読みたい人は簡単に楯に変えて読めるのですし、文学の真価が縦なら発揮でき横では読めないなんてバカなはなしは通用しないのです。私のような伝統派のガチガチが言うのだから間違いない。源氏も枕も徒然草も活字で読んできたのですが、紫式部や清少納言や兼好さんの値打ちが下がったでしょうかね。掲載した全作品を私は横書きのママ校正しましたけれど、受けた感銘はそれぞれに大きなモノで、そんなのは縦の横のなどということでは聊かも曲げられはしないのです。まさにヘリクツです。

 もう一度申しますが、「ペン電子文藝館」は、或る意味で「国民的な読書館」であり、また、会員達の「自己証明書、質的な名札」であり、同時に、ジャンルを問わない勝負の「土俵」バトルの「戦場」という性質も帯びています。容赦なく比較される。比較して良いのです読者は、大胆不敵なほどに…。
 市販の文学全集が出ても、また撰集など出ても、実に偏ったものです。
 現に「招待席」に例えば佐々木邦も入れたいんだと私が言うと、梅原会長はあんなものはと反対でした。私はしかし、佐々木邦のユーモア小説の優なるものと、梅原哲学の最たる論文とが、同じ「ペン電子文藝館」のなかで辛辣に比較されるのも、又、功徳だと信じています。谷崎潤一郎と吉川英治とを此処「ペン電子文藝館」という場で、素直に読みくらべ、こう違っている、お互いにこんな異なる長所があり、そしてそれが読む自分にとって何事であるのか、と読者が銘々に自問自答されればよい。
 世の文学全集では、こういうことが、たいてい、不可能なんです。それは、可笑しい。それでは、いけないんじゃないか。
 現会員の作品は「無審査」です。会員として審査されて入った人は、平等であり、当然平等に扱われます。その代わり鴎外や漱石らとも平等なその見返りの「責任」を、どう自分は取れるのかを、会員の一人一人が、自作を此処へ、此の土俵へ持ち出すことで、堂々と、示して貰いたい。鴎外や漱石や一葉や潤一郎や直哉や鏡花や秋声や川端らの作品と己を同等に示してほしい。(わたしの真意を誤解しないで欲しい、なにも闘争的な、競争的な意味から言うのではないのです。静かな自負の問題です、ものを創り出す者の。)己れの質と才能を、読者による比較鑑賞の前に曝し、読者達の厳しい判定に投じて欲しいのです。ソレがないから読者の室も落ちたり偏ったりしてしまうのだと私は考えています。
 実は、悲しいかな、我が国では、そういうことのやれていない・やらない文学風土があり、文学史の、安直な構築があった。
「ペン電子文藝館」に私の秘めていた意図の、最も大きな一つは、文学史への批評・批判でもあった。少なくも、その一つの方法的な「場」を、二十一世紀にドンと持ち込もうという所にあった。
 これまでの文学史的な価値評価のものさしは、「出版」資本が握ってきたのです。彼等が、文豪だの、大家だの、勲章だのをかなり恣に商品として生産し、認定し、宣伝し、管理し、操縦しつつ、商売の「タメ」にしてきた。それは明らかですから、たいした物でないのがエラソーにしていたり、力のある存在が不遇だったりは、有った。無かったとは言えない。と、思わず我ながら笑っちゃいますが、ま、実情はそんなところじゃなかったかなあ、と、申し上げておきましょう。

 技術的なところへ、少し触れておきます。この「ペン電子文藝館」を始める前から、私は、日本ペンクラブを代表し、情報処理学会の下部委員会である「文字コード委員会」に参加しておりました。機械屋さん、国語関係、電信電話関係、通産省関係の人達で、従来この方面のことは進められてきましたが、漸く文筆団体からの参加を要請してきたのでした。
 で、ここで私がしぶとく主張し続け、他の畑のみなをしばしば辟易させたのは、パソコンというこの通信可能の機械は、「双方向」で働くからこそ有用性がある以上、受発信の間で「文字化け」がいつまで経っても平気で出ている内は、まだまだ半端なモノだと。インフラだなんてえらそうに簡単には言わせないと。釈迦も孔子も馬琴も、国史も漢詩音曲や戯曲の譜や台本も、みな、自分で書き、それが他人の機械でも安定して受信・共有できなければ、とても威張ったモノじゃない。商取引や理工の計算にだけ役立てばいいワケじゃない、と。
 ところが、数ある文字パレットの中で、文字コードの与えられている漢字の数は、もう何万と、有りすぎるほど有るけれど、無条件に誰が誰とでも受発信の利く漢字の数は、やっぱり、今でも、たった六千字程度と変わりない。その不如意たるや大変なモノです、今でもです。「ペン電子文藝館」はそれを日々に体験し悪戦し苦闘している。
 誤解しないでください。
 もし、私が、私の機械で、私一人のために、古い文献などを再現するだけなら、これは、かなりのことが技術の駆使で出来るのです。しかし、他の人達の機械へも、それをそのまま送れるかとなると、とんでもない、夥しく化け文字を出すか、とうてい再現出来ないのです。ほんの一例が、示偏の神様の神=正字、示偏の幸福の福=正字ですら、機械環境により、欠字になります。文字パレットでいくら拾えようとも、送った先の機械には、ちゃんと出ない。出なければ、何の意味ないのです。文字を「図」として貼り付けられますが、大小不同が生じてそれはもう見苦しいことになります。小説や詩歌の場合、鑑賞の妨げになるというよりない。
 漢字だけではない。日本語表現で固有のオドリが、まだ使えません。傍点もルビも、不可能ではないが、行間が大きく乱れて不同を生じます。文学作品を「読む」には、やはり印象を損ない過ぎます。謡曲など音曲に用いる記号は、みな使えません。オコト点もだめ、漢文の返り点もみな、現状では安定してどの機械ででも再現でき共有できるとは、望めません。じつはお話にもならずパソコンの日本語ワープロ機能は不出来モノです。文字コード委員会で幾ら言ってもなかなか分かって貰えなかった。なら、実地にやって残念ながら不出来の証明をしてやるぞというのも、「ペン電子文藝館」企画の根にもっていました。文筆団体として大いに今のパソコンの「感じや記号の実装」には不満があると。せめて二万字ぐらいは実装して欲しいと、実験を突きつけているツモリなのです。
 で、そういう状況下にあって、黙阿弥の「島鵆月白波」や紅葉の「金色夜叉」を、安定したテキストで送り出すのは、とてもとても辛いことでした。その為には、工夫も妥協も便法も用いねば成りませんし、しかしながら、原作を損なうことも出来ない。ある研究者は、「ペン電子文藝館」に、「研究者の喜ぶテキストを期待」してこられました、が、私は、お断りしました。無理なんです、双方向ワープロ機能の現状では。
 それよりも、「ペン電子文藝館」は、新時代の若い読者に、昔の作品にも接しうる機会を、ふんだんに提供したい。作品本文の趣意と表現を、極力損なわないままに、「読む」「読める」楽しみを提供したいのです。したがって漢字再現が不可能なら、それなりに仮名に戻したり、こういう漢字ですよと、括弧に入れて示したり、いろいろ便法は用いますが、作品の趣意は決して損なわず、意味の通るように本文を守っています。そういう対策を、今日の不熟な機械環境がまだまだ我々に強要しているのです。オドリは、すべて、いよいよ、はやばや、と文字を重ねて表記しています。ルビはカッコしてウシロに入れています。仕方がないのです。それでも作品内容は支障なく読めます。「読める」ことを重く見ています。

 「ペン電子文藝館」のことは、この辺にして、今後の、「新メディア時代の文学・文藝・創作等の問題」で、少しだけ大事なところへ触れて置きたい。いろいろ有ります、が、的を絞ります。

 最初に、電子メディアの使用状況ですが、a パソコンを日常的に使用している人もあれば、b たまに使用している人もあり、c 自分ではパソコンにさわることのない人が、まだ大多数です。
 パソコンを日常的に使用している人でも、そのパソコンを、インターネットに、a 接続している人も、b まだ接続していない人もいて、この方が数多いけれども、インターネット利用者は明らかに増えて来つつあります。
 では、インターネットでどんなサービスを利用しているか。a 電子メール、b ウエブサイト(ホームページ)の閲覧、運営(作成)、c メールマガジンの閲読、d インターネット放送の視聴、e ネットショッピングの利用、f その他、いろいろです。自分で「情報発信」している人もあれば、サービスを利用しているだけの人もあります。
 パソコンをまだあまり利用していない、または未使用の人にも、今後、a 積極的に利用していきたい人、b パソコンとのつきあいは程々にしたい人、c 現状を変えるつもりはない人、もいて、ペンの理事会では拒絶派が多かったですね、本音はともかくとしましてね。
 しかし現に二千人近い会員の、四人に一人ほどが、すでにメールアドレスを持っています。しかしホームページを自分の手で、文藝・文筆上に運営している人は、百人にすらまだ間があいています。
 つまり、自分の作品を、a ウエブ上で公開している、b メールマガジン等で特定者に送信している人は、まして、日々更新し続けている例は、微々たるモノというのが実情です。
 しかしまた、c 現在は著述等を公開していないが、いずれ公開したいと思う人も明らかに増えていますし、e 将来も機械上に作品を公開する気なんかないと言う人の現に多いのも、動かぬ現実です。
 ウエブ上で公開している場合の「形態」ですが、a 一人の独立した形で、b 同人誌的に、c アパートのように共同で、d ウイークリーマンションふうに期間限定で業者に寄託して、など、いろんな形があり得ます。
 その運営方法もさまざまでして、a 自分で出来る人も、b 出来る友人知人に頼んでいる人も、c 専門の会社や出来る部下に委託している人も、あります。、
 さて、作品をインターネット上に公開している場合、有料発信か無料公開か、これは一つの要点でして、a 閲覧(受信)は有料という例も、b 閲覧は無料だがダウンロードは有料である(、ないし一部は無料だが、全文だと有料という)例も、c 有料の特定会員のみに対して公開している例も、私のように、d 全くの無料  の例もあります。「ペン電子文藝館」は、はっきり「無料公開」としています。
 なぜ「有料化」が一気に広がらないか、これには技術的な有効性の問題と、読者心理の問題と、インターネット環境のワールド・ワイドに広大であることなどが絡み合っているわけでして、今少し先へ進まないとより精確な検討すら、今は、難しすぎると考えています。またこの辺に、「著作権維持」と「パブリックドメインという思想」のせめぎ合う接点があり、アメリカでも、憲法まで持ち出しての激しい議論がいままさに始まったばかりかと思われます。

 これからのインターネット環境での文学活動は、いろいろに可能で、その形態は、機械環境やツールの種類により、さらに自在に広がるかも知れませんが、根本的なところへ踏み込めば、例えば一つのとても難儀な問題があります。
 それは、インターネット作品公開に絡んだ、「編集」また「編集作業者」の問題です。

 当然ながら、パソコンのインフラ化は、技術の進歩につれ一層進展してゆくでしょうし、「紙の本」や「紙の雑誌」だけでなく、電子化作品によるいわば「電子本」や「電子雑誌」が、文学・文藝の世界に占める比率は増してくるモノと思わざるを得ません、が、また、そんな簡単なモノでないのも厳然たる事実であります。評価に堪える、鑑賞に堪える文学・文藝が、どれだけ現にウエブ上に公開されているかとなると、過去の「紙」の作品や本からのただの「電子化」例は巷に溢れるようでも、「誕生の場」をはなから電子環境に得て、根付いた、評判の作・名作は聞いたことがない。電子的に書かれたモノで、あれはホントに佳いですねえという作品は、有るのでしょうが、無いに近いのは現実の事実です。そんなものは、ハナから認められないよと言う人も、編集者も、いるのではないか。

 私は、ペンの電子メディア委員長になってほどなく、もう数年前ですが、理事会に対し、一つの、そう、画期的ともいえる提案をしました。ペンの会員になるための資格として、従来、不文律のように「著書二冊」ということを言ってきました、が、それに準じた、「電子の場での公表作品」も、正当な審査対象として「認める」ことに決めたのです。つまり、日本ペンクラブという世界的な文筆家団体の「会員資格」に、「電子作品」「電子本」の市民権を、正式に承認し決定したのです。「紙の本」だけの時代では、もはや、ないのだと。
 言い換えれば、これは、インターネット上に公表される創作の、作品の、「質」を大切に「問題にするぞ」と言う宣告でもあります。
「紙の本」では、ふつう、編集者が原稿を吟味し、出版者が売り物として刊行する。それで、或る程度の「質的保証」がされていることになっています。ま、そうアテになるモノではないと、だんだんバレて来てはいたのですが。読者もそれは承知していますが…。
 ところがインターネットというウエブの世界で作品を公表するという行為は、極端に言えば、機械の操れる人なら誰にも、無条件で、容易にその真似事は出来るわけです。現に、相当な量の「小説らしきもの」「詩歌らしきもの」「エッセイらしきもの」はインターネットに氾濫しています。関心があり覗いても見るのですが、遺憾ながら、また当然にも、それはもう殆ど全部が屑同然の、イージィなモノばっかりです。間違ってもペンの会員に「推薦」してあげたいなと、気をそそられる作品は、無い。無いにひとしい。有るとも思っていますが、微々の微々です。
 正直のところ、既成の「紙の本型・出版主導」の文壇に籍を置いている作家なら、なにもインターネットのウエブに頼らなくても済んでいます。出版者で従来型の「紙の本」にしてもらい印税をとったり原稿料を稼いでいれば、生活できましょう。
 しかし、私などの殊に憂慮しますのは、新人が、いよいよ、ますます、出て来にくいことです。で、勢い、インターネットを利用しようとする若い人は増えてくるでしょう。だが、そこでは、「編集者」の、厳しい、「新人虐め」などとすら言われたきついチェックが、激励が、協働が、まるで利かない働かないわけです。
 どういうことか。要するに、大甘の自己満足や、自己批評欠如が露呈されて、作品の質の底上げが利かない。出来ない。垂れ流し必至、混乱と醜状が露わになります。
 これを、どうするのか、が、文学史的未来への展望で、いちばん深い大きな、懸念・悩ましさになってくるのです。それが新時代というモノだと言っていて良いかどうか、です。そういう考え方の人も、ある。

 創作とは本来が「自己批評」です。自己批評の力のないモノは、例えば自分の原稿の推敲もロクに出来ない。自分に甘えるからです。そして、さらにそこへ「編集者の批評」が加わっていた。ほんとうに良い編集者は、真実ありがたいものでした。
 私の持論ですが、新人の時期に付き合うほんとうに良い編集者とは、強い強い「弁慶」です。七つ道具を振り回し、ひよわげな「牛若丸」の作者を、追い回し、追い回し悩ませます、が、最後には「負けてくれ」ます。(負けてくれないことも多いのですが。)その時、作品はかなり、更に、良くなっています。そして作品がやっと世に送り出された。そういうモノでした、私の出た頃は。
 インターネットのサイトでは、こういう「編集者」が不在です。せいぜいのところ、共有のサイトで、「仲間」がいて観てくれるかどうか位です、が、仲間自体が仲間褒めをしてしまう悪弊は、いわゆる同人雑誌にもありましたろう。絶対に仲間褒めをやらないグループからの方が、世に出る人は多かったでしょう、経験がないので分かりませんが。
 自己批評する気がなく、編集者の目も経ていない、文字通りただサイコロを振り出しただけの「出たら目」電子作品がいくら氾濫してみても、文学・文藝の前進には成りません、害でこそ、あれ。
 この問題に、ひとつ解決策といえるかもしれないのは、きちんとした「責任編輯者」の付いた「e-文藝誌」が出来ること。私自身、そういう思いから、自分のホームページの中に、入れ子型に「e-literaly magazine湖umi」を創設して、私の「責任編輯」制で、投稿を受け容れています。掲載までに、メールで繰り返し検討し合いながら納得ずく掲載してゆく。同時にサイトの存在を、識者・読者にいろいろに伝えるというやりかたを始めました。質を高く維持するためにいわゆる「招待席」ふうにこれぞと思う人達からも原稿を頂戴しています、沢山。
 こういう「文藝の場=電子文藝道場」が幾つもウエブ上に出来て、そこで「編集」ないし、それに準じた質的なチェックを受けるということが、是非とも必要ではないかと私は考えています。心あり力有る作家や批評家や詩人達が、また、これがもう一つの方法なのですが、ベテラン編集者が、一人でも複数ででもいい、同じような「場=道場」を開いてくれて、そういうところから、先にも申しました仕方で、例えば「日本ペンクラブ」や「日本文藝家協会」の「会員」審査に挑戦してゆけばよい。
 その点、もう数多く出来ている電子出版社の顔ぶれを見ていると、機械の操れる技術者達が主として実務にタッチし、仕事はといえば従来の「紙の本出版社」の「下請け電子化」をせっせとやっている。あるいは、元版を写真版にして不細工に貼り付けています。イージィの極みで、これじゃ、電子時代の自律した出版社とはとても謂えない。誇りも見識もない只の下請け屋・版下書き屋に過ぎません。
 出版社という以上は、そして新世紀の新文学を機械環境において期待するのならば、そこには「編集」の実力が、是非とも欲しいのです。
 単独・単身で、優れた作品を創り出せる新人のいることは、いわゆる新人賞にいきなり当選する人もあるので明らかですが、また極めて極めて数少ないことも明白です。「新潮」や「群像」や「文学界」等に匹敵するような新たな「e-文藝の場作り」がいまや必要不可欠であり、追々に増えてくることでしょう。こういう場と場とが、きっと神の文藝芸誌同様にやがては競合し始めることでしょう。従来の出版社とはこういうものという常識を、敢然と止揚して、真新しい別の「電子出版活動」が誕生しなくてはウソです。
 これは、ペンクラブでも検討し始めており、「日本ペンクラブ電子文藝賞」もいずれ設定されるだろうし、なによりかより、要するに電子の「場」から、一つでも良い、早くほんとうの「名作」が生まれることが必要なのです。それが、いわば新たな文学世論を盛り上げます。
 小泉八雲が帝大の講義で、最初に持ち出したのが「世論」の役割ということでした。彼の言うとおりに謂えば、真に名作が出れば、いっぺんに視野は変わる、評価も変わる、と。プーシキンやトルストイやドストイエフスキーやチェーホフが出る以前のロシアを、ロシア国家を、ヨーロッパ人が見ていたイメージは、まさに動物同然の野蛮国を見るような容赦ない偏見に満ちていたと。ところが大作家達の名作が翻訳されてくるや、一夜に様変わりし、瞠目の敬意を生み出した、と。百万の外交よりも絶大の力であったと八雲は、優れた作家と作品の誕生を、日本の文壇にも切望していたモノでした。

 さて、話題を少し転じますが、パソコン環境での「編集」という言葉には、働きには、今申しました「紙の本」時代から引き継がねばならない、「編集」という名の「基礎的作品批評」だけでなくて、それとは、全く別の意味のような「編集」も、存在するのです。これが、また、大きな、厄介な問題に絡みます。
 機械を扱われる方はお分かりです。文章を作成しますワープロソフトには、例えば、スクリーンの上、左の方から順に、「ファイル」「編集」「表示」「挿入」「書式」「罫線」「ナビ」「ツール」「ウインドウ」「ヘルプ」などと、各種の機能表示があり、それらを一つ一つクリックすると、また、いろいろ出てきます。例えば「ファイル」では、「上書き保存」とか「名前を付けて保存」とか、「印刷書式」とか「印刷」とかと出ますし、「編集」には、「コピー」「取り消し」「貼り付け」その他いろいろ出てきます。
 こういう機能を自由に使い分けますと、一つのコンテンツ=作品を、ほぼ自由自在に「切り貼り」したり「削除」したり「貼り付け」たり、いわゆる「カット&ペースト」といわれる、極めて便利な作業がラクに出来ます。ラクラク出来る。
 ですが、その便利さが、自分の仕事にだけ使えるなら問題ないが、他人の作品・文章・文書・メールに対しても同様に自由自在に出来てしまう。なんとも言えない難儀で厄介で、迷惑千万な、著作権や、人権や、セキュリティーにかかわる、時として「犯罪行為」にまで達する「編集行為」が、いともいとも簡単に可能なのです。
 そういうのを総称して、パソコン上では「編集」と呼んでいる。そういう編集の、技術的に自由自在なプロが出来て、「製作編集プロ」の商売を盛んにしています。
 こういうプロの手にかかれば、笑い話ですが、谷崎さんの「細雪」という小説を、人の名前や知名などずんずん取り替えて、アメリカ人の、ニューヨークやシカゴを舞台にした別の物語にパロディにしちゃうことも出来るかも知れない。
 あらゆる「文書情報や表現」を、「パロディの原料」にしてしまえる「編集機能」が機械の中に用意されて活躍しているという次第です。
 これが、原理的には、ワールド・ワイド・ウエブの上で可能なのですから、さ、此処から、機械環境上での「著作占有権」や「人格権」や「財産権」が、いったいどう守られるのか、守れるのか、どういう「対策が必要」という、それはもう気の遠くなるような問題が、重々関係者の世間では早くから意識されていて、しかし有効な「手」は、全く全く、まだ手が付けられないでいるというのが今日只今の現状です。
 ま、この辺で、ついに「音」を上げさせていただき、長話を終わります。すべては、「これから」だという意味を込めまして、プツンと終わります。ご静聴、感謝します。

      
     

 
     (2002.11.30 14:00  於・大正大学巣鴨校舎三号館323階段教室)


 

  
    ネット時代の文藝活動と著作権
 
 

                秦 恒平 
 
 

 秦恒平です。もともと、喋るよりも、字に書いて、文字で表現して、三十数年を物書きとして過ごして参りました。根っからの書斎人でした。
 いつ頃からか、家の外でも、仕事をしなくてはならん時間が、仕事の量が、増えてまいりました。ま、それも、そういう年齢に立ち至っていた、という、それだけの事なんでしようし、言いようでは、働き盛りだったとも、そのようにして年齢は取ってゆくのだとも申せましょうか。

 やたらグズグスした、脱線だらけの話にもしたくありませんので、およそは、要点を書いたものを覗きながら、お話しさせて戴きます。不器用なところは、どうぞ大目に見てお許し下さいますように。

 講演というのも、いつ知れず、何度も繰り返してきました。ですが、大概は、私の専門の畑の話題で。文学、美術、歴史、茶の湯や、能・狂言などの芸能、また和歌や物語や文化史といった方面です。それと、生まれ育ちました京都や、京言葉や、ひいては日本語や、日本の文字や記号や漢字について、また、出版とか編集とかについても、繰り返し、こういう場所へ来て、話す機会がありました。私は、作家以前に、十数年の編集者体験も持っておりました。

 ですが、今日のような、「著作権」という話題は、一度も有りません。つまり「著作権」ということに関して、法律的に、理論的に、私は、専門家であるみなさんに向かって、何一つ、お話し出来る材料も、蓄えも、持たないのです。それでも宜しいのですかと、牧野さんに、お断りを致しました。それでも宜しい、が、それでも、それらしい話はするようにと、重ねてのお話でしたから、では、勝手なことを申し上げましょうと、お引き受けしました。
 ですから、かなり勝手放題な話になります。ま、大真面目な議論よりかは、やや、ものの破けたようなお話の方が、存外、お聴きの皆さん方もお気楽であろう、などと勝手なことを思いながら、出て参りました。

 著作権という際の、この「著作」という中身は、今日では、まことに多岐多彩かつ複雑なものになっている。ですが、私のような立場の者の「著作権」とは、もともと、書いた「原稿」や、出版した「本」にかかわる「著作権」でした。この辺から、あまりハミ出ないようにしないと、私自身、何を喋って、どんな座標上に自分が立っているのか、が、分からなくなります。で、「著作者」とは、この際は、私のような、「物書き」の意味と限定させて戴きます。むろん「物書き」もいろいろと居ります。作家も詩人歌人俳人も、批評家・評論家も随筆家も劇作者も、また学者も、新聞記者も、さらには大勢の、市井の、「私家版作者」達もいます。ま、そんなものと、前提しておきたい。つまりプロもアマも、いる、ま、むしろ、厖大な数の「セミプロたち」がいるのだと思ってください。その中で、便宜に、「作家」の話をしたいと思います。

 で、「作家」とは、そも、何者か。これまた、いろいろな角度から、たっぷりと「説明」できますけれども、一つ、これを「身分的」に申しますと、これまでの、従来の、前世紀までのと申しておきますが、これまでの作家とは、即ち、「出版社の、非常勤雇い」であると謂うのが、ずばり、適切であったと思います。正規に専属の「社員」ではない。決まった給料は貰っていない。しかし「仕事」は、させてもらう。仕事を「させる・させない」を決めるのは、作家の側ではない。たとえ「原稿依頼」「執筆依頼」という依頼形式をとるに致しましても、要するに、その物書きを、その書いてきた作品を、自社のために使うか使わぬかは、「出版社の専権事項」でありまして、作家側から決められない。使うときも有れば、使い捨てにすることもある。その意味では、仕事を「やる・もらう」の関係でありまして、つまり全くの下請け、「非常勤雇い」身分なのです。よっく考えても考えなくても、事実がその通りなんですね。中には、顧問か客員重役ほどに会社から優遇される「売れっ子」もいるにしましても、本質的には、それとてやはり「雇い」身分なんです。資本主義社会の中で、とてものこと、確固たる地位と立場などもたない、やはり昔からいわれていたように「作家は水商売」人、ま、人により少しは「優雅な水商売人」に過ぎないのです。しかも、この自己認識が、「物書き達」に、あまり無い。そうは思いたくない野でしょうが、そういう「基本の自己批評」が、出来ていないんです。

 こういう、ま、情けない立場を、象徴的に現わして来た一つが、いわゆる「原稿料」でした。
 例えば、みなさん、喫茶店に入りますね、そしてコーヒーを飲まれる。で、店を出るときになって、ああ今日のコーヒーには、五百円置くからね、とか、今日は二百円だとか、客の方で好きに金額を決めて支払ってくる、そんなお店が存在しましょうか。乗り物にも、娯楽にも、そんな支払いかたで済ませられる場所は、まず、在るものじゃない。売り物には「定価」がつけられて、正当に請求する、客はそれを支払う、わけです。
 ところが、作家達という「著作権者」は、今でも、九割九分の者が、出版側の「宛行い扶持」だけを、黙って、不服は不服と感じながらも、黙って頂戴している。それが原稿料という支払い方式でした。原稿依頼の最初から「原稿料はいくらです」「いくらですか」と、提示する出版社はほとんど無く、聞く作者はもっと少ない、それが、今までの、いえ、今でもの、実状です。私など、提示しない原稿依頼は、かなり断りました。或いは、提示を求めるようにしてきました。むろん、いやな顔をされます。そういうことは、双方で、はなから口にしないのがこの業界の慣習でした。と云うより、出版側の都合のいい、強いられた刊行でした。途方もなく、前近代的なシロモノなんです。
 そんなことをやり・やられながら、「書くもの」では、たいした勢いで、時代や、人や、ものごとへの「批評・批判」を堂々とやってのけいるつもりなんですから、物書きが、概して「他を顧みて」言うのは得意だが、自分のことは棚上げの「世間知らず」だと言われるのは、滑稽なほどの、事実・現実、なんですね。むろん、だから偉いもんだと納りかえることも出来なくは、ない。そういう価値観も無いわけではない。それは、それ、です。

 そんなわけですから、著作者である「物書き」達が、「著作権」なんて言葉を口にし始めたのは、ま、ほんの「昨日今日の話」なんです。私が、三十数年前から続けてきた作家生活のなかで、昨日今日より以前に、著作権問題に「意識」して取り組んでいたような、只の一人の作家も、思い出せません。第一、うかうかと、そういう金銭問題・権利問題を口にしたりしますと、たださえ不安定で、背後には「予備軍」が一杯待機している、やっとこさ手に入れた「非常勤雇い」の身分すら、「あんた要らない」と、直ちに危なくなって仕舞う。その一人の見本が、じつは、この私だと申し上げても、いいんです。後ほど、その話題に移って行かざるをえません、が、私は、「出版社の非常勤雇い」ではない、「作家の自由」は不可能だろうか、例えば「作家自身による出版」の可能性はないものかと、まこと、身の程知らずな実験を始めまして、すでに満十六年も過ぎたという、変わり種の現役作家なのです。そのことは、もう少し、後ほどの話としまして。
  
 事ほど左様に、ごく一部の作家たちが、「著作権」「著作権」と大きな声を挙げはじめたのは、まだ「ほんの昨日今日のこと」だというのは、ほぼ、事実なんです。
 では、どういう点から「著作権」が問題になってきたか。
 これが、原稿料が安すぎるぞとか、印税率が低いではないかとか、出版社による版権設定の年限が長すぎるではないかとか、出版契約すら交わさないで著作を占有する慣行は困るとか、紙の本のどさくさに「ディジタル化一任の約束」まで取り付けようとはアコギではないかとか、ま、他にも挙げればきりもない、いろんな「出版からの締め付け」に対し、物書き達が、「著作者の権利」を何とかして守ろう、守らねばならんという、そのような、本来交渉の「相手」として一番に考えねばならない「対出版社」「対版元」への「著作権意識」なら、分かる。ところが、妙な話ですが、あまり、そういうのは表に出て来ないんです。怖くて言えない。ことに我が事の場合は言えない。他人の例でなら、ま、みんなで渡れば怖くないと、応援したりするけれど。
 その意味では、相変わらずの「出版主導、出版の天下」で、「物書き」は、相変わらずの「非常勤雇い」たる弱みのまま、腰が、うーんと、引けたままなんですね。
 では、例えば「物書き」が、声高に言いたてる「著作権」とは、どの方面へ向けられているか、と言いますと、最近の大きな一例では、いわゆる「ブックオフ」に対して、私の所属します日本ペンクラブでも、著作者の著作権を「尊重せよ」という、苦情の申し入れを致しました。私も委員の一人であります「言論表現委員会」で、その声明文を作りました。この私は、実状を、もっとよく調べてからにした方がよいと、声明に消極的でした。
 ブックオフについては、よくご存じであろうと思います。建前としては、ともあれ読者が売りに来た読み捨ての本を、思い切り安く買い叩いて、それを安く売ると言います。古本屋さんの商売と似ていますが、同じ本がぐるぐると回転するところに、うま味があると言います。
 しかし、ちょっと観察し、ちょっと考えてみれば分かりそうなものですが、読者による古本だけで、ああも大量の、ピカピカの本が、どんと積まれるほど各店舗に広範囲に集まるものでしょうか、どうか。どう考えただけでも、あれだけの本の出どころは、読者からだけとは思われない。では、どこからあれだけ出てきているのか。そこをよっく考えれば、著作者が「著作権を守れ」と捻じ込むべき先は、たぶん、ブックオフの方ではない、その背後の陰暗い流通だか横流しだかの方である筈なんです、が、そこまで調査もせず、ぽーんと、いきなりブックオフに、言うて行く。
 法的には、恐らく咎め立てようのない商売をしているのですから、たしかに何やら迷惑なところはあるにしても、抗議も声明も、ふわっと聞き流されて、二の矢がない。ま、敵ながらうまい商売をしているわけで、それは、それだけの商品がそこへ流れているから、出来ている。どこからどう、どれほど流れているか、まず調べてかかるのが抗議の仕方ではないか。近在の書店が、ブックオフゆえに、売れる本が売れなくてと言っている、その小売り書店から版元へ返本分の中に、なんとブックオフで買ってきたらしい本が混じっていたりなどという笑えてしまう噂すら有るんですね。ブックオフゆえに売れる本が売れなくなるという例が、わたしは皆無だとは思いません、マンガ本などには、有るかも知れない。しかし、一般論として、ブックオフゆえに、当然売れる本が書店で売れなくなるという論法にも、どこか迫力も説得力も、やや欠けていました。同じ物書きの中にも、ブックオフを重宝しているという声まで、無くはなかった、のです。

 もっと問題をはらんでいたのが、自治体の図書館活動に対して、著作権侵害の気味がある、是正せよと、苦情を申し入れたことです。
 大きな視野の中で、わたしは、この申し入れには当然の理があると、観ています。近い将来に、検討さるべき課題として、広い範囲で議論が深まるでは有ろうと思っている。海外の図書館で、例えば公貸権が制度化されて、同一書籍の貸し出し回数に対し、何らか、公から、著作者への著作権料金の支払いが為されている例が、すでに存在しています。そのような議論や、また制度化の望ましいこと、それの未だに無い日本の現状で、喧しく言えば、図書館の貸し出しにより「著作権が侵されている」と、言えないことも、確かに無いわけなんです。さらに、その上に、一つの傾向として、こういう事実が、ある。

 一つの地域図書館で、「複本」購入といって、よく読まれるであろう本を、一冊だけでなく、例えば十册も二十册も、時には百册も、買うとします。すると、近隣の書店では、売れるべき同じその本が、その何倍何十倍と売れなくなると言うのです。
 これは、数字は、幾らかは割り引いても、あり得ることだろうと思います。だから過剰な、目に余る複本購入には明らかに問題があるわけです。
 ですが、また、その一方で、公共図書館の、地域のニーズに対して持ってきた、長い間のまた別の価値評価・奉仕行為も絡んでくる問題点ではあります。ブックオフとちがい、図書館は、貸し出しで商売はしていない、儲けているのではない。地域のニーズに応えているだけと言う、ま、言訳も立場も、長い間の慣行とともに、もっています。
 しかし、複本購入が過度になりますと、たしかに著作者も版元も、なにか、売れるべきが売れなくされているという、被害感情をもつことになるのは、自然で当然です。
 しかし、それはそれで、図書館により著者は名前も本も「宣伝」して貰っているメリットがもあるじゃないか、著作者の中には、図書館の選定図書等に指定されること等で、どんなに助かっているかしれない人も大勢いるではないか、それに、現在只今のことだけでなく、そうして大勢に読まれることで、著者の評価が口コミにより未知の読者へも、さらには次世代へも莫大に広がってゆくという恩恵を間違いなく受けているではないか。そんな反論もされるわけですよ。
 また第一、学生でも主婦でも誰でも、ブックオフの場合でも同じなんですが、そもそも図書館で只で借りて読めるから読むけれど、それでなければ書店へ駆け込んで、お金を払っても「読む」だろう、「買う」だろう、本が「売れる」だろうなどと短絡して思うのは、狸の皮算用のようなもんで、そんな甘い話は現実には起きていないという辛辣な反論もありまして、これは、若い人に聞いても年輩の人に聞いても、みな、笑ってそう返事します。ま、その辺のことはよく実状を煮詰め調べたわけでないから、これ以上は申しませんが。

 要するに、図書館は、一著書につき、今後は一冊だけ備えるのは認めるけれど、それ以上は「購入するな」と、「複本」購入を全否定する議論まで作家達の一部では飛び出しています。現に図書館関係者を呼び寄せまして、そういうことを「要望」した席に私も同席しておりましたから、間違いない事実です。どうも、高飛車な話で、私はさほどは賛成しかねていましたが、そんな際に、作家の中には、「複本」購入の結果損害を受ける著作者が、たとえ一人でも有るなら、われわれは、その「たった一人のためにも」著作権擁護のために立たねばならない、闘わねばならないと叫ぶ、若い元気な物書きも、元気いっぱい発言しておりました。
 原理原則から言えば、それは、その通りです。私でも、不当に被害を受けている著作権者がいて、それがたとえ只一人であろうと、連帯して、権利を守りたいと思います。
 ただ、この際の図書館というのは、「著作者の敵」であるはずがないし、むしろ、この問題は、仮に公貸権が法制化されるについても、もっと大きな「公の壁」に向かって著作者と図書館とが、出版もそうでしょうが、みんなで力をあわせて根気よく働きかけて行かねばならぬ大問題なんであり、つまり、著作権者の団体が図書館団体に対し、久しい経緯や実状もよく調べずに、原則的な抗議で互いに反感をむき出しにしあうような事になっては、角も矯められずに、大事な牛を殺してしまいかねない。わたしは、両者のまず話し合いの場こそが必要だろうと、日本ペンクラブの中にいて、そういう機会を作る方へ方へ動いて、ま、その方向へ事態は今、なんとか推移しております。

 ま、図書館だのブックオフだのに向かっては、著作者たち、えらく威勢がいいんです。たとえ只一人といえど著作権が侵されれば、われわれは闘うぞなどと、啖呵を切る。しかしながら、どうも私に言わせれば、啖呵を切る方角がトンチンカンです。著作権問題で闘うのなら、第一に極度に「出版主導の出版社会」に対してでなければならなかった。今でも勿論そうなんです、が、それは、一向、出来ていない。出来ない。そこへ頭がぶつかると、尻込みして、ムニヤムニャと、人のうしろへ隠れてしまう。著作者同士の喧嘩なら、これはけっこう激しくも凄くもあるんですが、著作者が出版社に、それも自著を出した版元に対して、著作権問題で徹底抗戦したなんて例は、全然無いわけではないが、全然無いに等しいほど、無いと言えるでしょう。
 なぜ、か。言うまでもなく、著作者が、偶然の雇用を待望し渇望している「出版の非常勤雇い」身分であるから、どうにもこうにも頭が上がらないという、繪に描いたほどの「不自由」業者であるからなんです。自由業なんて、ちゃんちゃらおかしい話です。

 ま、それでも、最近には、著作内容を無断で出版社が改変し、それを告訴した著者が全面勝訴していたような事例が、生まれてきてはいます。結構なことに、こういうことも全く無いわけではないんですが、そもそも、こういう告訴が必要なほど、「出版主導」「著作者弱腰」というのが、少なくも、二十世紀の不動の図柄でした。どんなに勇ましそうな若い著作権主張者でも、他人事ならともかく、我が事で、自分の本の関係する出版社にとなると、とても正面から「著作権」を争えるような、慣行も、心理的な強さも、培われてはこなかった。それが、少なくも前世紀までの「物書き著作権」問題の一大特徴というものでありました。

 これに比較して、音楽などと異なり、物書きの著作権が、読者・愛読者の側から、露わに侵されるという現象は、例えば無断コピーの問題をのぞけば、さほど大きな事件は起きなかったと思います、これまた「前世紀での特徴」としてのはなしですが。書籍や雑誌の全流通量からして、無断コピーで書いたものを読むというのは、まだまだ、かなり質と量とで、限られていたと言えるでしょう。

 ところが、前世紀末から、まことに大きな変化の波が、物書きの世界にも、津波のように被って参りました。申すまでもなく、ディジタル普及に関連する、「表現と著作権」との新たな問題です。インターネットの世界では、ご承知のように、「問題」は、とてもとてもそれしきに限定できませんが、今は、それだけに絞って話して参りたく、これから先は、一層、私自身の「体験的な面」が絡んで参りますのを、ぜひ、お許し願います。

 平成三年(1992)から数年、私は、突然指名され、東京工業大学に、専任教授として招かれました。あの、亡くなりました江藤淳さんの直の後任で、工学部「文学」教授という立場で、六十歳定年まで勤め上げまして、無事、退官しました。ま、私には、全くもって無縁の国立大学でした。なぜ私に矢が立ったのか、事情は何も知りません、訊きもしませんでしたが、そんなところへ、教育になど無経験な、生来無精者の私が、敢えて道草を喰ってみるかと就任を承知しましたのには、大きな、一つ、思惑がありました。もし東工大で暫くでも暮せば、必ずや、コンピュータという機械に、近づける、操作も出来るようになる、のではないか、是非そう在りたいという、大げさに言うと、燃えるような欲求が有ったのです。これは、好奇心だけではなかったのです。切実な必要が私には自覚できていました。、何故か。その答えが、私にすれば、作家たる死命を制するほどの、それはそれは大問題なのでした。

 私は、それよりもなお何年も前から、「秦恒平・湖の本」という、シリーズの私家版を、事実上の「全集本」を、自力で、出版し続けておりました。この「現役作家による独力出版」という稀有の事例は、今年で、満十六年を経過し、通算して六十八巻を、刊行し続けています。むろん、売り物です。まだ当分は継続してゆけるでしょう。むろん蔵が建つどころか、お察しのように血の滲んでいる維持の難しい事業ですが、幸い「物書き稼業」はまともに本業としてやれていますので、なんとかこのサイドワークも維持しています。
 とは言え、よほど全国規模の読者の皆さんの支持がなければ、十六年も七年も、七十巻も、の定期的な刊行と販売とが可能になるわけが、ない。その意味では、私の「湖の本」刊行は、近代の文学史・出版史のなかで、稀有の実例、稀有の達成と、知る人は、きちんと知って高く評価して呉れています。
 しかし、一方において、これが、「作家による出版への反逆的な敵対行為」と観られていることも事実でして、従って、物書きが、「出版の非常勤雇い」である現状から観ましても、大っぴらにこれを容認したり肯定したり賛同したりすることは、ま、「タブー」のようになっているのが、現実のようです。しかし、蔭からの応援・声援が、支持が、ずうっと今も絶えないでいるのです。新聞社は、朝日新聞をはじめ、各社が折りごとに応援してくれました。とても助かりました。

 どういうことを、具体的にやってきたのか。私は、1969年に第五回太宰治賞をもらって文壇人になりまして以降、人が目をそばだてるほど、毎年に、四册五冊六冊というようなピッチで単行本を各社から出してゆきました。十年あまりもたてば、著作は大小六十七十册にらくに達していました。しかし、私は、たくさん売れるようには、書かない・書けない「書き手」でした。その代り、常に、熱い、少数の、良い読者に恵まれていたのでした。しかし出した本はどんどん在庫が切れて行き、そうそう増刷なんて出来る訳がないので、読者からは、本が無くて、読みたいあなたの作品が読めないと、嘆かれ続けていました。これではいかんなあと、元編集者でありました私は、苦しい思案を重ねました。
 結局、出版社には出来ないことを、作者である私が肩代わりし、品切れや絶版の作品がまた読めるように、いつでも手に入るように、安くて、軽くて、読みやすい本に私自身の手で「再刊」してみよう、その中へ、時折りは「新刊」も入れて行こう、と、そう決心しまして、「秦恒平・湖の本」を、シリーズで、年に、四册か五冊ずつ、出し始めたわけです。創作のシリーズが現在四十五巻、エッセイのシリーズが、現在二十四巻目を進行中です。合わせて今のところ、六十八巻、作者から読者へ直かに手渡しの本、いわば産地直送本として、愛されていますし、ずいぶん親切に報道もしてもらえました。おかげで、実に十六年の余、欠かさずに継続出版しているのです。ちゃんと売れているのです。読者に喜んで戴いていればこそ可能であったことです。

 しかし、不思議というか当然というか、「出版」は、これが不快のようです。この不快には、知る人は知る、前例があります。その昔に、作家の菊池寛と、当時の中央公論社の社長とが、殴り合わんばかりに喧嘩したという実話が、その社長のご子息であった嶋中鵬二さんの本に、記録されています。作家であった菊池寛が「文藝春秋」社を起こしたことは歴史的に有名な事実ですが、これに対し中央公論社の社長は、作家が出版に手を出すとはと常に不快感を隠さず、確執の末に、ひどく揉めた。腕力沙汰にまでなつたんだ、と。私の「湖の本」など、ごく小さな、しかも私自身の品切れ絶版作品以外には出さないのですから、なんにも実害なんか有るわけもなく、むしろ増刷も出来ない版元に肩代わりして、読者のために作品をサービスするのですから、感謝されて良いほどのことなんですが、ま、ずいぶん冷たくされてきたのは事実です。
 問題は実害ではなく、「非常勤雇い」の身分であるべきヤツが、自由自在に本まで出して作家稼業をやつている、それが、危険とも不快とも思われるのでしょうか、むろん、失笑されるだろうと思いますが、本音はそんなところでしょう。と申しますのも、もし私と同じことの出来る作家が、住人も現われて自立して出版し始めたなら、じつは、革命的な事態もまんざら不可能ではなくなってきます、分かる人はそれが分かっている筈です。そして、デイジタルの、インターネツトの時代が到来して、それはもう目前の現実に成りかけているのだから、問題は小さくはないのです。
 ともあれ、私は、その、「非常勤雇い」の立場から、かなりサッパリと自由を得てしまいました。むろん不利な、世間の狭い立場にも自身を投げこんだという次第でした。差引勘定はする必要もなく致しませんけれど、想像以上に自由に文学活動を続けてこれたわけです。一つには、それだけの質と量との仕事を、もう、たっぷり積み上げていたから出来たのです。雇われなくても、有り難いレベル高い良い読者がいて助けてくれたから出来たのです。

 そうはいえ、約百册の単行本その他を、あちこちの出版社から出してきましたものの、新しい作品を新しく発表する点で、たしかに窮屈にもなって来ていました。
 丁度、そういう時に、東工大が教授として来ないかと呼んでくれました。よしッと手をうちました。コンピュータがあるぞッ、と。自分のホームページを立ち上げて、インターネットで、作品を書こう、発表しよう、保存しよう、公開しよう、それが出来るはずだと、思ったのです。原稿用紙として、発表誌として、単行本として、読書室ないし書庫・文庫として、自分専用の大きなホームページを創設できれば、「紙の本」の社会で「非常勤雇い」の身分にまた膝を折る必要、跼蹐している必要は、ないんだ、と。
 で、結果から申しますと、私は、それを実現しました。
 今、私のホームページ「秦恒平の文学と生活」には、20MBに近い、厖大な文章が収録されています。つまり一千万字、原稿用紙にして二万五千枚、ま、内輪に見ても二万枚ものコンテンツを満載し、しかも、日々に欠かさず更新されています。長短の小説、随筆、講演録、そして「私語の刻」と称する、批評的・思索的・生活的な日録が入っています。また、「紙の本」で出版し続けてきた「秦恒平・湖の本」の新たな「電子版」が全巻、揃って行きつつあります。
 それだけでなく、私・秦恒平の責任編輯します、広範囲に渡るLiterary Magazine「文藝文庫」を、同じホームページの中に「入れ子」にして開設し、これは私の作品ではなく、創刊一年未満にして二百人ちかい、よく選ばれたプロ作家や詩歌の人たちの文藝作品や論考など、また私自身で厳しくチェックし採用しました新人の投稿原稿が、満載されています。だれでもが、自由に、無料で読むことが出来るように公開されているのです。
 このホームページの運営については、さらに後ほど、改めて問題点に触れることに致しましょう。

 東工大を六十歳で定年退官しますと、すぐに、私は、梅原猛会長の推薦で、日本ペンクラブの理事会に加わりました、以降、三期・五年目を今務めているのですが、私の理事会入りした当時、日本ペンクラブは、なんと、まだ事務局で、電子メールすら自由に使えていない按配で、むろん、ホームページなど持っていませんでした。理事四十人の中で、自前のホームページを持っていたのは、猪瀬直樹と私と、たった二人だけ。で、すぐ、私は「電子メディア対応研究会」の創設を提案し、追っかけて「日本ペンクラブの広報ホームページ」を開きました。会長以下、理事達は、コンピュータの話をすると、みな渋い顔をして「別世界の話」だと、本気で煙たがったモノでした。それでも私は進んで漢字の標準化問題では「情報処理学会の文字コード委員会」にも委員として参加し、さらに、これは真に画期的な決定だったと思うのですが、こういうことも理事会に承認して貰いました。
 日本ペンクラブに入会するには審査があります。必要な条件として、入会希望者は、それ以前に二册以上の「紙の本」の単行本・著書を持っていなければなりません、が、私は、もはや近い将来には「紙の本」に準じて、「ディジタルな作品」いわば「電子の本」の時代がやってくる。現にその兆候はインターネットの中で日々に顕著化して来ている。これにも「紙の本」と同じ「出版物としての市民権」を与えなければ、新時代の文学・文芸の環境に即応しきれないと説きまして、これに、理事会一致の承認をとりつけたんです。何らかの妥当な規定のもとに、「電子版の本」も資格審査の可能条件として容認するよう求めて決断を得たのです。これは、文学の世界で、歴史で、エポックメーキングな一つの題判断であったと思います。

 その次に取り組んだのが、「電子出版契約の要点・注意点」という、会員向けのパンフレットの制作でした。ご承知のように、実に濛々とした混沌状況でのガイドブックですから、大変なことでした。幸い、牧野二郎委員の絶大な支援と助言と指導とがものを言い、これまた画期的なものが出来たと実は自負しているのです。
 このパンフレットの要点は、まさに「著作者の著作権」を、「著作者の立場から」守ろう、防護しようとするもので、過去を引きずった「出版主導」の、曖昧な、不利益誘導に対しても、断然言及してゆくという意向を貫いていますので、或る方面では極めて好評、しかし或る方面では黙殺という恰好で、一つのエポックメークに参与している文書なのではないかなと思います。

 さらに、いよいよ、本題へ到達しましたが、次ぎに私は、日本ペンクラブのホームページを、従来の「広報」機能とは別建てに、全く新たな発想で、「日本ペンクラブ・電子文藝館」という壮大な「ライブラリー」を、世界に向けて発信しようじゃないかと提言しまして、これも、理事会の一致した賛同により、現に、着々と「電子文藝館」開館の日を、日本ペンクラブ創立記念日に当ります、今月十一月二十六日「ペンの日」を期しまして、用意が進んでいます。
 これは、どういうものかと申しますと、私どもの日本ペンクラブは、1935年、昭和十年の、私の生まれました誕生日より、ちょうど一月足らず前に、初代会長・島崎藤村を擁しまして、「国際ペン」の「日本センター」として発足したのです。以来、歴代会長を申し上げると、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹澤光治良以下、第十三代の現梅原猛会長に至るまでに、物故会員が千人ばかり、現会員が千九百人ばかりが、これを支えて参りました。いわば、日本の「近代文藝の生きた歴史」を成しますと共に、ペン憲章に基づいた世界平和と言論表現の自由を守ろうという思想的な政治的な活動を続けて参りました。
 とは申せ、会の外側から見ますと、実際にどんな人が会員に入っていて、その人達にはどんな文藝上の実績があるのか、さてと言うと、そう分かり良くなっているとは言えません。なんだか、事あるつどいわゆる「声明」というのを頻りに出している団体としか思われていないかも知れません。
 たしかに今も申しますように、ペン憲章にもとづいた、思想と行動の団体でありますけれども、しかし、その基礎には、基盤には、梅原会長もよく申しますように、会員各自の「文藝・文筆」の力というものが働かないのでは、意味をなさないわけです。
 で、その、「文筆団体である本来の姿」を広く知って貰いながら、かつ、優れた会員の優れた作品に、数多く一挙に出逢える「場」を、「ライブラリー=読書室」を、無料提供しようというのが、私の持ち出した発想でした。
 で、原則的に申せば、物故会員、現会員を問わず、一人一編の文藝・文章を「電子文藝館」に、筆者・作者の「略紹介」付きで掲載し展観しよう、と。原稿料は出さない、掲載料も取らない、そして読者に対してはすべて無料公開する、課金は一切しない、という考え方です。
 すでに島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、芹澤光治良、大岡信、梅原猛各会長作品をはじめ、与謝野晶子、徳田秋声、上司小剣、横光利一、林芙美子、岡本かの子、岡本綺堂、三木清らをはじめとして、続々と、鳴り響くような先輩作家のもの、また現会員の自負・自薦の作品の掲載用意が調っています。さきざき、「質的に精選された大量の作品館・読書館」として、大きな文化財的意義を確保してゆくであろうと庶幾しております。

 実を申しますと、こういうことを、日本ペンクラブは、やれるのではないか、やらねばいけないのではないか、という私の発想の根には、私自身が自分のホームページ上で試みはじめました「e-文庫・湖」の実験がありました。ここでも、小説、随筆、論考・批評、講演禄、戯曲・シナリオ、詩歌一般、さらには寄稿者と編輯者とのメール交信にいたるまで、二百を越す多数のファイルを擁しておりますが、これが、果たして成功するだろうか、ライブラとして成り立つだろうかという「実験」意識がありました。これが成功するのなら、ペンクラブでも「電子文藝館」を開設することは可能な筈、という見越しが有ったのです。で、これは出来る、という実感が持てましたので、今年の七月に企画を理事会に提出して、異議なく承認されました。以来僅か四ヶ月して、今月の「ペンの日」には、まず問題なく開館の運びになると思っております。
 もし、これと同じことを「紙の本」でやろうとすれば、厖大な経費がかかります。経費を回収するためにはその「紙の本」を大量に売らねば成りませんが、三千人からの文章をどう編成すれば、いつ頃には形になり始めるかなどと思えば、これはもう机上の空論というものです。
 しかし「電子化して実現」する分には、経費はじつに少なくて済みます。またごく少数のコンテンツから、見切り発車して、漸次増やしてゆくことが出来るだけでなく、その方が、効果的に読んでもらえます。いきなり何百人もの作品が入っていたのでは、目移りがして困ります。むろん、掲載作品を売って、つまり課金して、是が非でも経費を回収しなければならんという問題が全然、ない。文化事業として、徐々に内容豊富になって行けばそれだけで良く、売らねばならぬ特別の理由が無いのですから、実現可能性が高いのです。

 ただ、ここからが「著作権」がらみの話題になって行くのですが、掲載料を取らないのは、主催者側の自由な判断です。原稿料を支払わないのは、日本ペンの構成会員が、事業に協力・協賛・支持して行こうというわけですから、ま、いやだという会員は、出稿しなければ済む話です。
 物故会員のなかには、すでに著作権年限の切れている著名な書き手が、与謝野晶子、徳田秋声以下、すでに、相当人数おられます。有り難く作品を頂戴しまして、まず、これは著作権問題はクリアしいます。こういう人数が、一年一年と確実に増えて行くのですから、あとは、良い作品を慎重に選んで顕彰してゆくだけで、事は、足りて行きます。
 しかし「著作権切れ」に成っていない物故会員も、千人程度居られましょう、その作品は、「著作権継承者のご承諾と賛同と」に、よらねばなりません。「電子文藝館」の趣旨をよくご説明すれば、反対なさる方は少なく、あとは、もし現在なお「版元との版権問題」が有るとすれば、それは、お話し合いで、事前にクリアして戴いてから「出稿」願うと云うことにしています。
 活動中の現存会員の場合は、当然、出稿掲載作品にかかわる版元との事前の話し合いで権利問題はクリアにして置いて戴くという原則で進めています。

 しかし、著作権に関連して、少なくも、もう二つないし三つの問題点が残っています。これが、ある意味で、大きい問題になります。

 一つは、電子メディア上での、インターネット上での「無料公開」という点です。ほんとに「無料」で、よろしいのか。「紙の本」でなら、考えられないことですよ、ね。
 私自身が、自分のホームページを、原稿用紙とも、発表の場とも、単行本同然とも、全集そのものとも、書庫・文庫・ライブラリーとも考えまして、活動を始めました時にも、いわゆる「課金」するかどうか、一度は考えました。ですが、瞬きするほども躊躇なく、「課金はしない」と決めました。と云うより「課金できない」「しても効果は上がらない」という判断に、電光石火、落着したのでした。
 もし金銭的な収入が得たいのなら、電子メディアでの周知度や、感度や、好評価を広げていって、結果的には「紙の本」の方を、買ってもらった方がよいという判断でした。私の場合で云うなら、「電子版・湖の本」を課金して読んで貰うより、そこで見た、知った作品を、「紙の本版・湖の本」を買って読んで戴く方が効率がよい、ということです。つまり、電子版と紙版とを「両輪」にして活動すればよい、所詮は、電子版、電子の本は、そう簡単に「売れるものではない」だろうという認識を持ちました。

 ペンクラブの「電子文藝館」も、もし課金すれば、手続きの煩わしさに、読者は寄りつかれないでしょう。それよりも「無料公開」で、いつでも好きに、自由に、繰り返し訪れて、読んで、作者や作品を知ってもらう効果の方が大きいし、文化的なライブラリー効果も、いや増すであろうと、少なくも私は、発案者として最初から思い決めておりました。「著作権料以上」の、著作者への、著作団体への、「文化的な波及効果」が上がるのなら、それもまた、或る意味の「著作権利益」というものであろう、と。
 この私の考えは、実は、図書館活動に対する、やや短絡的な著作権者からの苦情申し入れ等に対して、私個人の懐いていた「躊躇理由」にも成っております。金銭給付だけが「著作権益」なのであろうかという考えが、私の認識下に、忍び込んでいるんですね。

  電子メディアでの「出版」行為は、少なくとも、ここ当分は、いわゆる「儲け」には成らないだろう、それで利益を上げるには、文学・文芸の場合、まだまだ制約や障害の方が多いだろうという、そういう、判断。その一つの証拠に、どうしても電子本・電子出版物は、マンガ・劇画、図像作品のほうに、それも低俗なものに、より多く傾くことで、かろうじて、体を成している実例の方が多いではないか、と。優れた文芸作品等で、論考や研究に至るまでを含めますと、それで商売の成り立ってる例は、実に実に稀有な状況ではないだろうか、と。

 一つには、何と謂われましても、まだまだ「紙の本」が実力を持っていまして、その、いわば「おまけ」のように「ディジタル化」が云われている。「紙の本」型の従来出版社の出版契約に、「将来のディジタル化」が、まるで「お添えもの」のように書き加えられて、「電子化著作権」が、まだまだ軽く扱われているのも、一つの証左といえましょう。

 私は、電子出版だけで「商売になる」には、未だ相当の年数がかかる、よほど売れっ子作家の、しかも或る限られた作品だけが、稀に可能性を発揮するにしても、いわば新人が、いきなり「電子の本で世に立つ」なんてことは、ハウ・ツウものや、稀な、エッセイ等でのまぐれ当たり以外には、期待など、持ちすぎない方が良かろうという考えで居ります。私のように、「紙の本」時代に、稼げるだけは稼いでおいて、わりと気楽な老境に入ってきている人間には、いろんな「電子メディアでの実験や工夫」も楽しみながら可能として、これで生活を支えようと、メインの場として「電子メディア稼業」を期待するのは、危険度が高い、高すぎると、まあ、この辺までのことは、言い切れそうに思います。

 そして、もう一つ、電子メディア上に、文章や作品を公開した場合の、著作人格権、ことに「作品の同一性保持」という大原則が、容易に損なわれやすいという、困難な問題がついてまわります。自由自在にコピーされ編集されて行くという、大問題も有る。
「電子文藝館」発足に際しまして、この点に関して、むろん問題が起きれば精一杯の対応はするものの、これは余りに起きやすく、かつ防ぎがたい性格の「侵犯行為」であり、これには、或る程度の「覚悟を願う」といった付帯の依頼文を添えまして、「出稿」をお願いしようとしています。
 これは、情けない、じつに困惑の極みであると同時に、どうも、誰も、どんな技術者も、防げないだろうと、はなから「お手を上げ」ています。電子メディアには、その意味で、とても「擁護し切れない著作権問題」というものが有るのだと、それが「前提された断念」かのようになっています、が、しかしながら、そんなことで本当に良いのだろうかというのが、ま、第一番の、やや、途方に暮れている著作権問題だ、ということになるのだろうと思います。
 どうすると、訊かれましても、電子メディア委員会の委員長としても、少なくも日本ペンクラブ会員に対し私は有効な返事ができません。各種関係団体が、認識を一つにし、大きな協力態勢で、先ずは協議のテーブルを用意すべき時機だとだけ申したい。
 で、せめても、「対出版社」向けに、電子出版契約上の「要点」「注意点」を取り纏めて配布することで、ま、問題から目は逸らすまいとしている、暗い現状なんですね。で、その「要点」とは、「注意点」とは、と訊かれれば、少なくも只一つ、「紙の本」と「電子の本」とは、性質の違う、別物の、別事だから、どさくさに、一緒くたに、軽率な「一括契約」などしてはいけません、はっきり「分けて置く」ことで、いずれ改めて、利害を考慮して契約できる「フリーハンド」は手元に残して置かれるように、という助言に、尽きてしまいますが。

 三つめの問題は、「作品の同一性保持」と、文字・記号等の「再現能力」と、文字化けしない「誠実・正確な伝達」にも、まだまだ現在の機械環境では、さまざまに障害・障壁が、有る、という現実問題です。物故会員の多くの作品が、難字・正字と、旧仮名遣いと、またオドリや、多彩フリガナ等の「表現」を持っています。これらの、全部が全部を、誰のどんな機械環境へも、同一に、甲乙無く送信できるか、となると実に難しいのですね。そういう点にも、著作権と抵触してくる「モラル」が、相当に厳しく問われます。
 そもそも、同じ作品でありながら、正字と旧かなづかいの「本」も有れば、略字と新かなづかいに改めた「本や全集」も、世には多く行われております。どっちを底本にして従うか。若い世代には、旧かなは、正字は、読めない・親しめないという読者が多く、しかも「電子文藝館」や、私の「e-文庫・湖」で来訪を期待しているのは、そういう新世代読者です、当然のことに。そこに、「原作の同一性保持」をよく考慮しつつも、誰にでも親しんで「読める」「読みやすい」コンテンツの提供という、本質的な、ライブラリーとしての配慮も、必要不可欠になってきます。

 とりとめなくなりましたけれど、ま、私の、今もなお関わって、熱中しております、作家としての仕事の範囲内で、思いつくまま、「著作権」の話題に触れてみたつもりでございます。杜撰な話でしたが、ご寛容に感謝し、この辺でお喋りをやめようと思います。
 お喧しゅうございました。
 

          2001.11.5  於・霞ヶ関 弁護士会館  {著作権シンポジウム}記念講演 草稿
 
   

 


     お静かに  日本人の美意識     
 

           秦 恒平
              
 

 この企画(哲学一日アート大学七回 日本の美の思想)の中で私に与えられている課題(最終回 日本人の美の思想)は、申すまでもなく、小さいモノではありません、むしろ、大きすぎる問題です。だから、容易でないのは当たり前です、が、だから、いろんな話しようがあるとも申せます。易きにつくというのではないが、思いつくまま話してまいります。
 うたい文句によりますと、自分から言うたことですが、「さわがし」に対する「しづか=静・閑」、「きたなし」に対する「きよし」に喜びを覚えてきた、と。「禅寂」といったことも念頭に、静と清への思慕から、日本の美の思想に向かえればと思います、と、こう、予告しておりました。
 旨い具合にそんなところへ辿り着けるものかどうか、根がもの書きです、話し手では有りませんので、多少、書いて用意したものに、目をあてながら、話しますことを、おゆるし願います。

 かなり若く、まだ小学生のうちから、裏千家の茶の湯になじんでおりました。叔母が町屋での師匠をしておりまして、ま、かなり気の入った門前小僧でした。叔母は、遠州流のお花の先生もしておりました。生け花は、とくに、優れた技倆をもっていました。
 町屋での稽古場ですから、社中といえば、近在のおばさんや娘さんが大方です、叔母は、お茶の稽古場でも、侘びの寂びのと、難しい理屈はほとんど言いませんでした。和敬清寂とも、口になどしません。ま、その是非はともかく、今謂う、この「和敬清寂」という、いわば茶の湯の看板のような標語ですが。

 和も敬も、また寂も宜しいとして、三字めの「せい」を「静か」と書く人もいます。利休の七則でしたか、それは「清い」の方でして、「静かな」静と寂では、意義が重なります。一文字ずつに意義を帯びさせるのなら、清い方が、当然よいと、私も感じてきました。
 しかしまた、清いと静かとも、同じ「せい」で、日本語の語感では、親密な親類のような文字であり言葉です。静かなものは清く、清いものは静かである。そう、感じてきた歴史が、ある、と言いきっていいのではないかと思います。同時に、それらはまた、日本人の美の趣味から申しまして、美しさの基本の性質のように受け取られてきた。清らで静かなものが美しいのだ、と。美しいものは、静かで清らである、と。
 そして逆に、騒がしく濁ったものは、醜く、悪しきものであるという、裏側の価値観も、これまた自然に了承されていたと思われます。
 その例証をたくさん拾い上げてみる必要すらないぐらい、それは、美の感受・享受の根底に敷かれたコモンセンスのようであった、少なくも、時代を遠く遡れば溯るほどそうであった、と言えそうに思います。山や水の自然から、深く受け入れてきた好みとも、そこから形成された古神道的な感化による美意識とも、推察して、大過ないものと思われます。

 また叔母の話をしますが、叔母が生け花を教えるときに、生け花を挟んで弟子と向き合う場所から、というのは、つまり活けられた花の、真裏側から、自分は手を出して、弟子の活けぶりを、ちゃつちゃと手直ししていました。これはたいへんなことなんですね、しかも、ぴしっとサマを成してゆくのです。そういう腕前でした叔母が、生け花でも茶の湯でも、殆ど唯一、口にした批評語は、「騒がしい」のはあきませんえという、それだけでした。言外に「静かであれ」と言うていたわけでしょうが、そうは口にはしませんでした。ただただ「騒がしい」のはいけない、よくありません、と。
 ところで、別の生活場面では、叔母に限らず、身の回りにいました京都の大人達は、なにかの挨拶の際に、よく「お静かに」と申しました。たとえば父や私などが、外出すべく、「行ってきます」と言うと、打ち返すように、「お静かに」と、母も叔母も申しました。来客が、帰って行く際にも、そう言っていました。なにごとも起きないで、平らかにという、呪祝の言葉かのように私は聞き覚えて育ちましたが、さて、自分では、どういう実感で同じ「お静かに」と言ったかどうか、はきとしないのですけれど。
  しかし、「騒がしい」のはよくない、「静か」なのがよい、静かであるとき、人は、ある「清まはり」の祝福を受けるのだという、ほとんど無言の教えを、霧の降り積むように、身内に蓄えてきたには間違い有りません。その体験が、およその根拠となり、体内に落ち着いてしまっていると、言えば、多少は言い過ぎかも知れませんけれども。

 その辺までを前置きにして、ぐるりと一巡りして、またそこへ、うまく話が戻せますかどうか。いま少し、茶の湯の縁で話して参ります。

 「一期一会」という、日本の思想としてはかなり個性味のつよい思想があります。日本の思想は、大概が、背後に外来思想を持っていまして、その換骨であったり、奪胎であったりすることが多いのですが、換骨奪胎という応用性の濃い中で、かなりいい線へ繋いで、日本固有の面持ちをもった一つが、「一期一会」であろうと思います。
 一期一会は、もう先年来、コマーシャルの言葉にすら現われるほどですが、語義は、たいてい誤って通用しています。私はそう観ています。つまり、文字通り、一生涯に一度っきりのことと理解されています。「会」の字が、いわば出逢いの意味に受け取られています、が、本来の意義から、これは、大いに逸れています。違うゃないかと、私は、早くっから「異論」を唱え続けてきましたが、根づよく、まだ、誤解のまま通用しています。

 驚くことに、浩瀚をもって知られた『大辭典』(昭和十年・平凡社)に「一期一会」という語は出ておりません。世上に流布し始めたのも、そう古いことではない。
 言葉としては、幕末の井伊直弼『茶湯一会集』に謂うのが、最も今日でもよく知られていますが、利休の高弟で、秀吉に惨殺された山上宗二が、どんな茶の湯も「一期ニ一度ノ会ノヤウニ」と書いていたのが、たぶん初例でしょうか、『山上宗二記』の茶湯者覚悟十体の一条に、「道具開キ、亦ハ口切ハ云フニ及バズ、常ノ茶湯ナリトモ、路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏ルベシ」とあります。もっとも、この言い方は、更に先行して、千利休の師の一人でありました、室町末から安土時代の茶人、武野紹鴎の『紹鴎遺文』中「又十体之事」にあるのと同文の、いわば祖述であったようです。
 はっきり「一期一会」と用いたのは、伊井直弼の『茶湯一会集』が、やはり最初らしい。和敬清寂などにくらべても、そうそう世に出て知られた言葉ではなかったわけですね。
 この言葉の理解のために興味深いのは、今謂う武野紹鴎の言葉として、「一期一碗」という物言いも、また伝えられています。
 紹鴎によれば、茶人は生涯に何千度も茶を点てたり喫んだりしますが、その一碗一碗を、一期に一度の一碗「かのように」せよ、という言明であったろうと思います。宗二も、直弼も、全く同じ趣旨を、表向き「茶会」という「会」に寄せて、謂うているわけで、井伊直弼はこのように書いています。
 「抑、茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度同じ主客交会するとも、今日の会に再びかへらざる事を思へば、実に我一生一度の会也。さるにより主人は万事に心を配り、いささかも麁末なきやう深切実意を尽し、客も此会に又逢ひがたき事を弁へ、亭主の趣向何一つもおろかならぬを感心し、実意を以て交るべき也。是を一期一会といふ」と。
 ですが、そこで上澄みを浅く掬って理解を停止してしまうワケには行かないんですね。こういうことです。
 一期は、一生のことでよいが、その一生に只一回きりの一度一会だとは、宗二も、直弼も、決して言っていないんですね。ちゃんと「ノヤウニ」と言っている。

 われわれの日常は、日本の四季自然が、うるわしくも、年々歳々繰り返しているのと同じく、いわば際限のない「繰り返し」を生活しています。そう枠づけられて生きています。清水の舞台から飛び下りるようなことは、めったに有るものでなく、また、それは思い切り次第で、一度だけなら可能なこと、不可能ではないこと、なんですね。
 しかし、普通は平々凡々の繰り返しを生きている。退屈し、陳腐に凡庸になるのも無理ない日々を、繰り返し返し生きているわけです。昔は、今よりも、もっとそれがはっきりした生活の下絵になっていました。
 茶人とて、たいていは、そんな具合に、繰り返し何百千碗ものお茶をたて、それでよしとしているのなら、その茶はさぞや不味いにちがいない…それではいけないと、紹鴎先生は、「一期一碗」に気を入れて、茶はたて、茶はのむようにと教えられた。
 山上宗二は「一期ニ一度ノヤウニ」茶の出会いは、常に、心清新にと覚悟していたし、井伊直弼も、深切に先達の教訓を、敷衍していたんです。もし同じ場所で、同じ道具で、同じ顔ぶれで、また明日「一会」の茶湯を建立しようとも、単なる繰り返しでなく、あたかも「一期」に「一会」かのように、清新に出会おうと。繰り返しの一度一度を、一期一会、かのように、実現し、成就しようと。

 茶の湯にかぎった話ではありません。どんなことも、所詮は「繰り返し」であることを免れようがない。その繰り返しの一度一度を、あたかも「一生に一度、かのように」清新に繰り返せるか、と、われわれは、取り巻く自然の呼び声として、日々に、問われています。その自問が「一期一会」であり、その自答も「一期一会」なのであって、一生に一度ッきりの機会、出会い、のことと限ってしまうのは、ほとんど誤解というのに等しいのですね。
 繰り返すぐらい簡単なことはないようで、これほど難しいものは、ない。だらければ、たちまち足下に地獄が口をあく。文字どおり退屈する。

 それにしても宗二も、直弼も、一会の「会」を、茶会・機会・会合の「会」とばかり用いていたのでしょうか。これも、違うのと違いますやろか。
 一期一会の「会」と、あの祇園祭りの祇園会、あの「会」とは同じ意味でしょうか。社会の会は「しゃかい」ですが、法会の会は「ほうえ」だし、会得の会も「えとく」です、が、会議の会は「かいぎ」と読んでいます。出会いという「会」もある。
 一期一会の「え」を、出会いや会議の「かい」のように、茶会という「かい」かのように、さも直弼は書いていますけれど、「一期一会」の背後には、それよりも、「一会一切会」という、頓悟・覚悟、の意義が隠れているのでは無かったでしょうか。『碧巌録』でしたか。この「会」は、端的に「会得」の「え」を意味している。一事に徹すれば、他もまた、と。
 私は思うのですが、必ずや紹鴎や宗二の示した「ノヤウニ」の四文字は、一期の「一会・一碗・一事・一度」のもつ意義を喝破した、まさに「一会一切会」「一明一切明」の証語であったことでしょう。「一期一会」は、その、まさに、おみごとな換骨奪胎、転用であったとも言えるでしょう、それあればこそ、紹鴎も、利休宗易も、山上宗二も参禅していた。

 なるべく、野狐禅に遁走しないように、話題を、自由に創ってゆきたいのですが、今も申しましたように「一期一会」には、日本の、典型的に四季を繰り返す自然が下敷きになっています。かなり日本出来の思想として、深いモノを持っていて、なにも茶の湯だけのものではない。優れた茶の湯人には、それだけの懐があった、覚悟があった、そういうことです。
  では、一期一会は、日本人の「美意識」にも触れているでしょうか。「繰り返し」「繰り返す」ことの負荷=マイナスを、そのままで逆転させる点だけ見ましても、明らかに、優れた美意識への接点をもっています。

 何度も語ってきました古証文を請け出して見ますが、ご承知の謡曲、「鉢木」を話題にしましょう。徳川時代、ことに武士達に好まれて、よく演じられた曲目です。なぜ好まれたか。あれは、梅松桜の鉢木にちなんで、鎌倉より直々に領地を得た、佐野源左衛門常世のいわば出世物語ですから、当然でしょう。
 しかし、あの能の感銘はもっと別のところに、実は、あるのではないか。大雪の夜に宿を借りた、貸した、貧しい佐野源左衛門は、何処の誰と知れぬ突然の旅僧の寒さしのぎにと、他に馳走とてなく、秘蔵の梅松桜の鉢木を伐って、燃して、客僧に暖を与えます。その親切もいかにも感銘深い事ですが、さらに云えば、この主人公ならば、この痩せ浪人源左衛門ならば、もし、同じ場面が、同じように明日もう一度繰り返されても、明後日再現されても、可能な限りは全く同じに、心して、大事の鉢木を、見知らぬ客のために火に投じるであろうと想わせる、その心事に、必然思い及ぶ、そのことにこそ深い感動を覚えるのではなかったでしょうか、「鉢木」という能の真の魅力は。
 「一期一会」とは、そういう覚悟、そういう実意の深さ、を意味しています。繰り返しをただの繰り返しにせず、幾たび繰り返そうとも、恰も、一生に一度のこと、「かのように」に、振る舞えるという意味でなければ、たいしたことではないんですね。一生に一度こっきりの思い切りや振る舞いでは、さしたることとは云えない。
 いかに深く心新たに繰り返せるか、それが感動の源になっている。それが、私の「一期一会」説です。根に、「繰り返し」という「日本」事情が、西欧的な伝統では問題にされない、陳腐や退屈と同義語になりかねない「日本」事情があり、申すまでもなく、我が国土の四季自然がかかわっています。

 井伊直弼や山上宗二とは、ほぼ無縁の人でありますが、しかも彼等と同じといえるほど、繰り返しの意義をよく悟っていた近代の人に、谷崎潤一郎のあること、昭和八年に彼の書きました「藝談」という論文のことは、それこそ、繰り返し、私は書いたり話したりして参りました。役者などの藝談ではありません、が、「藝」という創造行為について語っておりまして、日本や東洋の美の理想は、新しいもの新しいものを追うのではない、一つの価値有ることを「繰り返し繰り返し」追究するのだと云っています。くわしくはその「藝談」なり私の谷崎論なりをご参照願いますが、一つ申せば、有名な彼の『細雪』のなかで、或る意味で同時代批評家たちの理解が得られなかった、というか、鼻白ませた、と云いましょうか、そういう二つの場面がありました。
 一つは、蒔岡四姉妹の二女幸子と夫貞之助との新婚旅行で、夫に好きな花はと問われた新妻は、言下に「桜」と答え、では魚はと聞かれて、やはり即座に「鯛」と答えたというところです。ま、なんと陳腐な、平凡なと、露骨に云うた人もいました。
   も一つは、平安神宮の花見の場面です。豪華絢爛の絵巻だけれど、なんとまあと、ま、その辺で絶句した。そこで立ち止まって、その先までは踏み込まなかったんですね、多くの批評家も、読者も。
 花見の場面では、谷崎は、慎重に、蒔岡家の人達が、例年の行為を、例年同じ場所で、意識してでも繰り返す気持を、印象的、いいえ象徴的に、まさに一期一会の事例として書き表しています。
 そしてまた云うまでもなく、日本の桜も鯛も、文字通り、繰り返し繰り返してなお常に新鮮で良きもののシンボルとして、採り上げられていると読めるのです。はんなり、はなやかであるが、騒がしくなく、清らなもの、人の思い・心を、静かな深みへ誘うものとして。

 しかし、また、静かでないと見えるものごとでも、また美しく心に触れてくることを、日本人は見知ってきました。
 例えば、久方の、光のどけき春の日に、静心なく花の散るのを、「美」と眺めることを知っていましたが、それとて、神代の天津神々が、地上を眺めて、ウルサイ蠅がぶんぶんと騒ぐように乱れ醜きものどもよといった感想とは、根本異なる、美への視線が生きています。

  この辺で思い切って「心」の話へ話題の重心を動かしてゆきましょう。
  心というのは、さ、どうでしょうか、根は、静かに清いものなんでしょうか。それとも騒がしく、乱れがちに、濁ったものなんでしょうか。

「動揺する」といえば、たとえば地震のような状態より、心理的な不安などを意味する用例の方が多いようです。「こころ」は揺れたり動いたり、また騒いだり乱れたりする。
 先に挙げました百人一首で知られた、久方の光のどけき春の日に「しづ心なく」花の散るらむ、とある「静心なく」とは、花の散りざまにそんな「こころ」のありようを重ねた表現ですね。「不動心」とも「平常心」ともよめる「静、心」と、「動き・揺れ・騒ぎ・乱れる、心」とが、どっちも、同じ「こころ」なんですね。
 さらに、「こころ」は、浮きも沈みもする。浮かれも弾みもする。伸び縮みもすれば、湿りも乾きもする。はしゃぐこともあり、萎れることもある。それらがみな「静心」を要(かなめ)に据えて、扇の骨がひらいたように布置・配置されている。
「こころ」は、ある単一の平たい状態としてのみ、把握したり承知したりは出来ないんで、ほぼ絶え間なく、定まらない視線に似て、揺れ動いているわけです。
 が、その根というか要というか、元の状態として「静心」が失せているわけでも、ない。
 座禅を組み、禅定といえるほどの境地にまで達すると、なにより脳波や、心電図が、文字どおり「静心」なる状態を、波形で、目に見せてくれます。座禅の効能がいかがなものか、体験的には何も知りませんが、実験されたその真ツ最中の「静かな」直線を見たときは、感嘆しました。
 同時に、こりゃ無理だ、とうていこんな境地に、私などは、立ちも座りもなるものでないと観念した。我々風情にとって生きるとは、まこと、さまざまに「心を騒がせ」ていることに、他ならない。
 「こころ」と「心臓」とを単純に同一視は、さすがに誰もしていない。しかも、動揺のあまり「心乱れ」「心騒ぐ」状態と、破れ鐘をつくように「心臓」が激しく脈打つこととは、しばしば重なって、同時に起きる。一方で他方を代替しておくというわけには行っていない。
 そして、面白いほど、同じように同じ程度に「心臓」の鼓動も「こころ」の動揺も、やがていつか静まっています。かならずしも、強い刺激に耐えられず衰え弱まる一方、というのでもない。「こころ」は、あまりに定めなく、つまり静かなままでもいられないが、動揺したままでもいられない。そんな「こころ」の動きに、われわれの「心臓」は、比較的忠実に伴奏を繰返しているようです。

 日本人は「間」という言葉が好きであす。「間」に関する発言は、それぞれのジャンルで、独特に鍛練され洗練されていて、特異な芸道論や武道論の芯になっている事例が多い。
 もっとも、裏返しに言えば、ジャンルごとに、かなりほしいままな「間」の理屈ではありまして、普遍性のある日本の「間」の本質論といえるほどのものは、まだまだ、あまり見た覚えががないのも確かです。
 
 時「間」空「間」という。時空を総合する「間」の微妙を、たとえば「静-心」から解いてみせることは出来ないもんでしょうか。「静心」を要点ないし起点にした「こころ」の動揺、ないし活動のリズムとして、「間」を生理的に問うた議論が十分に行われていないのが、私にはやや物足りない。
 文章の「間」は、例えば句読点の微妙な間隔から読みとることも可能ですが、それが文体形成にどうかかわるか、など、ただ書き表わされた文章からだけ、現象的に判定するのでなく、書き手の「こころ」の弾みかた動きかた、強いて言い換えれば、「心臓」の働きの、強い弱い・早い遅い、過剰過少等からも検証すべきだろうと思うんです。冗談でなく、脈拍にも、間伸び・間抜け・間違い、不整脈というのが、ある。
 以前に、ある、勝れた臨床医にいわれたことがあります、あなたの文章は、えらく息が長い。つまりセンテンスが概してたいへん長い。よほど息をつめて長い文章を書いているのだとしたら、健康である証拠でもあり、その一方、心臓や肺をいたわる用意も、必要だと思いますよ、と。

 息に乱れがあって、長いセンテンスを維持するのは、確かに難しい。おそらく歌唱でも、音曲でも、朗読でも、書でも、そうだろうと思います。
 視線の運びにも、それは、影響をおよぼすに相違なく、「ゆったり」眺めるのと「きょときょと」するのとでは、端的に、脈拍の「間」の在りようが関係しているでしょう。裏返せば、「こころ」が、静かか、騒がしいかが反映しているのでしょう。
 だが、座禅・禅定の人、のように、いつも「心静かに」いるということは、容易でない。静かに、静かにと思い、願い、焦る、それがはや「こころ」の波立ちなのであり、波は、容易に騒いでくる。荒れてくる。もう一度申しますが、私の幼時、といっても国民学校時代まで、日常に、しばしば「お静かに」という挨拶を耳にしました。だれかが騒ぐ、それへ、静かにしなさいととがめる言葉では、なかったのです。
 たとえばいま外出しようという折り、また客が立って帰ろうという折りなどに、「お静かに」と声を掛けたり掛けられたりしたのです。バタバタしないで。けがをするよ……と注意する気もちがあったかも知れません。が、ちょっと様子はちがっていた。何としても、「お心、静かに」の気味に聞えていた。

 話は、ポーンととびますが、あの、夏目漱石作『こころ』の「先生」は、つまり静かな「こころ」の持てぬ人でした。下宿の「お嬢さん」に恋をして、以来、つねに「心を騒がせ」ていました。
 ことに友人の「K」を死なせてからは、愛した人を「奥さん」にしながらも、いつも「心の落着かない」人でした。まさしく、自分で自分の「こころ」を御しかねた。
 そんな『こころ』という作品のなかで、作者は、「お嬢さん=奥さん」に限って、ひとり「静」という特定の名前を付けています。他は「先生」「K」「私」「父」「母」という按配です。
 愛する「静」ゆえに痛ましくも「静心」のもてなかった男の、悲劇。その悲劇を綴った本を、この作者は、みずから念入りに装丁しまして、表紙に窓を開け、荀子の「心」の説を、抜粋していました。

 古来、老子の「道」や荀子の「心」の説の重要なキイ・ワードが、実に「静」一字にあることは、原典に当って確かめることが出来ましょう。
 当たり前の話ですが、禅=ディアーナは、即ち寂静=静かな意義を体しています。藤原定家のたしか法名が、寂静ではないが、たしか明静じゃなかったでしょうか、同義ですね。彼は之を『摩訶止観』冒頭の二字に得てた筈でして、定家も又、概して「静かな心」にはなりにくいたちの詩人でした。
 日本の創作は、私の叔母なども含めまして、静かさを貴び、騒がしきを憎みました。「静か」「騒がしい」は、「清ら」「をかし」「おもしろし」などと匹敵する、基本の批評語でした。しかもいわば「心術」に触れて、この批評は、直ちに容易に、人柄へも及びました。「静心なく」という詠嘆に、余儀ない、日々の「悔い」が籠もるのは、凡庸の思いに「心根」のあまり揺らぎやすいのを、つくづく知らされているからでしょうか。

 今少し、夏目漱石の「心の問題」に触れて参りたい。あらまし作品はご存じのことと思ってお話しいたしますが、「奥さん」「お嬢さん=静」の軍人遺族の家へ、帝大の学生だった「先生」が下宿します。彼は両親に死なれ、遺産の大方を叔父一家にかすめとられたのを怒って、人間不信のあまり、家郷を、完全に捨てて来た学生ですが、たまたま入った素人下宿の母子家庭になじんで、「お嬢さん」を好きになる。
 そのまま婿入りしていれば何ごともなく済んだものを、やがて彼は、自分より貧しく、自分より不幸だと思うばかりに、親友の「K」を、自分の賄いで、同じ下宿に連れて来ます。養い親からも、実の親たちからも、離縁され勘当されて、どう取り付き把もない、頑なな「K」は、いつかやはり「お嬢さん」が好きになり、事もあろうに「先生」に告白してしまいます。
 「K」と「お嬢さん」の接近に、事実以上に神経を擦り減らしていた「先生」は、恋する「K」を、さながら出し抜き、「奥さん」に、「お嬢さん」を下さいと申し込んで、承諾を得てしまいます。貯金利息の半ばを費し暮らして、なお経済に余裕のある「先生」と、貧寒たる「K」とでは、情の如何にかかわらず、優劣は、分明だったでしょう。だが、青年の純情を問うなら、「先生」が「K」を裏切った事実は動かない。かくて「K」は自殺します、久しい「先生」の友情に、ただ感謝の言葉を遺して。恋の詐術は、あるいは許されてもいいのかも知れません。しかし「先生」は自身を責め抜いて、「奥さん=静」との夫婦愛に生きる意欲よりも、「K」に殉じたいほどの決意のみを深めて行く。
 その頃から「先生」の家庭に、ふとした事情で帝大生の「私」が頻々と出入りするようになり、親しみが深まり、「先生」の「私」に対する信頼がほぼ決定的になった頃から、「先生」は、はためにも暗い影をはらんだ不幸な過去を、「私」独りに語って聞かせて、いいと、思うようになる。聞いて欲しい、分って欲しいとすら、思うようになります。
 折しも「私」は、卒業して故郷に帰り、父もほどなく重い病いから危篤に陥って、重ねて「明治」という時代までも逝ってしまう。そして東京では、ついに「先生」が、「奥さん」を独りのこして、宿執の自殺を遂げ、かねて就職の世話を希望していた「私」のもとへ長い遺書が届く。「私」は、遺書を見るなり、瀕死の父と家郷を打ち捨てて東京へ奔るのですね。

 「先生」は「明治」に殉じた。「奥さん」は「先生」に殉じてあとを追った、などという、それでは『こころ』という題の作品が意味を成さない読みが、妙に通用していますが。「私」などは、ただ遺書を受取る必要だけで作品に登場しているとも、そういう人たちは言うのですが、名作を、台なしにしたいのか、と思いますね。「私」は、もっともっと重要な人物であります。

「先生」と「静」とは、所詮「幸福であるべき」実は不幸な一対の男女でした。最初に「K」の割り込むのは、辛うじて「先生」もしのぐ。ですが、あたかも一人二役めいて、「K」を、ちょうど、やわらかに裏返した感じの「私」が、あらたに登場し、実に自然に、それ故に当然、深く意識下に沈んで、美しい「奥さん」と若い「私」との間に信頼と愛とが育って行く…のを、「奥さん=静」の夫である「先生」は、認めざるをえなかったのです。
 「K」をかつては追い落した「先生」も、今度は、「私」の存在に、却って静かな安心を得ながら、「奥さん=静」を、さながら預ける気持ちをも籠め、「私」への遺書を書いたのですね。
 この只一人実名の「静」という名は、明治天皇に殉死した乃木大将の夫人静子に擬したなんぞというよりも、わざわざ自装本の表紙に刷り込んだ荀子「心」論の、殊に一眼目である、「静」の説に宛てたものと見たい。乃木夫人に宛てて何の「こころ」の研究になりましょうか。
 第一、「静さん」の、「先生」後追い死を暗示する字句など、微塵も作中に認められず、逆に、「私」と「奥さん」とが、出逢いの最初から、どんなに親しく、心惹かれ合っていたかは、内証に事欠かないんです。結論として、問題作であり漱石代表作の一つである『こころ』の行く先は、生き残った、互いに年若い前途ある二人の、死者にゆるされた「愛」の確認に、至らざるをえまい、と思われるのです。二人の間には、既に子供の誕生も、かすかに話題に、現実になっていると読めるのです。それはもうこの頃では、ほぼ定説のように認められつつあります。

 我といふ人の心は我一人、我よりほかに知る人はなしと、谷崎潤一郎に、頑強な述懐の歌一首がありまして、だいたい、誰もがそう思っています。しかし、そんな、我と我が心が、我一人には自在にコントロール出来るかとなれば、とてもとても、どうにもなかなか成るものではない。

『心』の「先生」は、何とかして「静かな心」を持ちたいのに、それが出来ない、という深い惑いにとらわれて、死んでゆきます。静かな心を期待させる運命的なシンボルのように「お嬢さん=奥さん」だけに漱石は、「静」という名前を与えたんです。荀子、ないしもっと幅広く、漱石は老荘の教えに、また彼自身も参禅していますように、「禅那」寂静に、明らかに間近な意識をもっていました。しかも、彼はその「門」の前に佇んだなり、引っ返すより他になかった体験、の、持ち主でした。
 少なくも、「門」や「彼岸過ぎ迄」や「行人」や「心」を書いていた時期の漱石は、「則天去私」なんて、とても不可能なほど重苦しく生きていた人です。その漱石が、『心』初版を自分で装丁しました時に彼が表紙の窓に埋め込みましたのは、「心の説」の引用で、そのトップに、荀子「心」の説を捉えています。その言句は荀子の「解蔽編」に見えています。
 人間の「心」とは、いつ知れず、汚れ歪んだボロを何枚も纏い付かせているような状態だと、荀子は、言うのです。さまざまな偏見で蔽われているのが「心」なんだと。だからその偏った蔽いを、ボロの一枚一枚剥ぎ取って、純真無垢な「心」に人は立ち戻らなきゃ、道を知ることまた難し……と。
 さてその「心」ですが……。心の中は、いつも、いろんな事や物でいっぱいなのに、しかも、虚、つまりカラッポな、なお幾らでも収め取れる状態をもっている。
 また、四方八方、天上へも地底へも、いつも限りなく向かえていて、しかも、壱、つまり、ただ一つ事に打ち込める状態も備えている。
 それから、これが肝腎のところなんでしょう、心は、いつも活動していながら、その心棒のところに、不思議と「静かな」状態を、しっかり持している。それが肝腎要になっている、と。荀子は、そう、この解蔽編で説いています。いわゆる、虚、壱…そして、静の説です。
 ところが…ほかの何を措いてもですよ……。小説『こころ』の「先生」には、その「静かな心」ッてのが、持てなかった。

 漱石作『心』に関わって大事なのは、「静」の一字を、「心」のもっとも貴い在りようと認めている点だと思います。それを、作者は「奥さん=お嬢さん」の名前に据えまして、じつにその周囲に「先生」「K」そして「私」という三人の運命の男を意味深く配することで、人間の『心』の研究、を果そうとした、果した、というわけです。

 それにしても、いま世間を一人歩きして、これは、あんまり呑気過ぎてないかと思われる相手に、この「心」があります。とにかく、「心」を持出してさえおけば、善玉で、意味深長で、頼りありげに、高等だと謂わんばかり。新聞雑誌も、テレビもラジオも、「心」のぺージや番組を必需品のように抱き込んでいます。なんとも「心よげ」に「心ある」「心暖まる」ようだけれど、さて、そんなにも、「心は、頼れる」ものでしょうか。
 心が頼れないで、どうして、日々、まともに暮らして行けるものかと考えておいでの方が、多いようです。しかしその一方で、まこと、我も、人も、共に、心ほど「心もとない」ものは無いなあと、「ほぞを噛む」思いで痛感されている方も、決して少なくあるまいと思います。
 
 ところで、いま「ほぞを噛む」という言葉を使いました。後悔しても及ばない。本当に臍を噛むわけではない。私は、この種の言葉を「からだ言葉」と命名し、以前に『からだ言葉の本』(筑摩書房)を出し、辞典も添えたことがあります。例えば「頭が痛い」「骨を折る」と、事実骨折しまた頭痛がするのを、「からだ言葉」とは申しません。現に頭痛が無くても「頭痛鉢巻」とか「頭が痛いよ」とぼやき、骨は折れていなくても、「骨を折ったのに。骨折り損だ」などという場合は「からだ言葉」になります。
 人体各部の名称からは、夥しい「からだ言葉」が、湧いて出たように出来ています。「目が届く」「鼻が高い」「口はばったい」「二枚舌」「歯向かう」「耳ざわり」「眉をひそめる」「唇さむし」「首にする」「顔が利く」「面の皮が厚い」「額を寄せて」「頭越し」「頬かむり」「喉もと過ぎれば」「顎を出す」「目くそ鼻くそを笑う」「唾をかける」「空涙」などと、およそ、首から上だけでも何百とある。首から下へも「胸三寸」「腹芸」「肩で風を切る」「乳くさい」「手が利く」「足が早い」「及び腰」などと、仰天するほど「からだ言葉」は生まれ出ていまして、ことに「手」には、千にも及ぶ「からだ言葉」が、まるで生え出ています。「頭」と「目」にも、たいへん多い。
 私は、日本人の「からだ」感覚や「からだ」認識を調べるのに、こういう「からだ言葉」の丁寧な検討が抜け落ちていては、たいへん「手ぬかり」なのではないかと、ずっと主張してきました。
 「からだ言葉」の特徴は、少なくも、二つある。
 体中で「からだ言葉」を生まない部位が、まず無いという事実。無数に有るのに、意味の分からない表現が、殆ど無いという事実。いつの間にか識って、使って、ずいぶん便利をしています。もう一つ、あんまり気持ちいい意味の「からだ言葉」が少なく、どれも辛辣な批評味を帯びています。
 この二つの事実を、うまく説明するだけでも、日本人の「からだ」についての感じ方、考え方の、大事な要点が見えて来るのではないか。
 「ことば」とは、暮しの現場を流れる血液のようなものであります。「からだ言葉」ほど、多用し慣用されている材料を、もっともっと大切に、「日本人」理解に、利用し活用してもらえれば、あまり観念的な、ややっこしい「からだ」論から、より有益な実体論の方向へ、転じ得るかも知れない、と、久しく、私は考えて来ました。
 その「からだ」と、いつも一対・対極に在るかに思われている「心」ですが、さて、ほんとに「心は、頼れるか…。」実は、かなりもかなり、「心もとない」のではないか。
 「心もとない…」とは、即「心は、頼れない」という意味を謂う言葉では、ありませんが、「心細い」「心丈夫とはいえない」意味である以上は、やはり「心頼みにできない」ことになり、回り回ってやっぱり「心は、頼れない」というのに近い、意味合い、を持って来ます。詭弁でも何でもない。これは事実であります。
 だが、現に「心丈夫」とか「心強い」という物言い…も、ありますからね。「心頼み」というのも、要するに「頼もしい心」を感じさせる。

 私は、こういう「心」のさまざまな、いろいろな状態を、これをまた、無数に表現している日本語に注目して参りました。是を、ひとまとめに「こころ言葉」と呼んで、これも、辞書にまとめたり、書いたりして来ましたし、こういう「こころ言葉」の数々を、具体的に把握し、理解してこそ、日本人の「心」観……「心」を、どう把握し、どう考え、「心」と、どう付き合って来たかを、より具体的・実際的・生活社会的に考察してもらう必要が、あるのではないか、と、提唱して来ました。

 「心」って、何? 突然そう聞かれて、とっさに答えられる人が、そう大勢は有るまいと思います。どう思案してみても、なかなか「とりとめない」のが、どうも「心」というものです。これかと思うと、あれになる。そうかと思うと、そうではなくなる。
 いま「心静か」であったのが、ふっと「心騒ぎ」「心乱れ」「千々に砕け」て、「心ここにあらず」という有様です。いとも「心丈夫」な「猛き心」「強い心」で、「心堅固」に「心強く」いた「心算=つもり」なのに、一瞬にして「心弱く」「心細く」「心沈んで」しまい、ついに「心病ん」だり「心狂気」に陥ったり、してしまいます。
 「明るい心」が一転「暗い心地」になる。むろん、これと真っ逆様にもなり得る。「清い心」の人だと思っていたのに、じつは「きたない心」だったと分かったり、「心安い」と「安心」していたのに「心変わり」して、裏切ったり、裏切られたりする。
 「心」というヤツ、じつに「とらえどころ」無く、現に、あれもありこれもあり、いろんな相反する意味の「こころ言葉」が、心の「とらえどころ無さ」を、じつに雄弁に証言して、余りある。
 その「とらえどころの無い心」を、どうか「把握」したい、把握した気になって何とか「心静か」にありたければこそ、「こころ言葉」が、いろんな意味、いろんな面でこうも必要になり多産されたのでしょう。

 現に、われわれは、在る筈の無いものを、敢えて在るかのように、「心」に、いろんな性質を付け加えて、説明して来ました。具体的な、余りに具体的な、例えば色や、形や、構造や、行為を付け加え、表現して来た。例えば「心構え」というように、「身構え」に同じ姿勢を、心にもとらせています。構造的な「構え」まで持たせています。
 「心」には、「内」も「外」も、「奥」も「底」も、「隅」も、在るのだと観察して来ました。「心根」という根があって、根は深い「心の闇」に通じ、闇の中には「心の鬼」までが棲んでいると考えて来ました。
 「心掛ける」ことも「心を尽くす」ことも「心を残す」ことも「心を宥める」ことも「心を見る」ことも「心をやる」ことも「心を通わせる」ことも出来るし、「心を休める」ことも「心を隠す」ことも「心を秘める」ことも出来る。「熱く」もなり「寒く」もなり「冷え」もし、「心温かな」こともある。そのように観察してきました。

 いったい、どれが「心」のほんとうの在り様かというと、とても、どっちかへ、またどれか一つへ、決めてしまえるものではない。
 さらに「気」や、「情」「精」「神」「霊」「魂」「モノ」などに熟している「こころ言葉」までも拾って参りますと、まざまざと、われわれの「心」の複雑さが、まさに「心の形・象」かのように、夥しくも、目に見えて来るのですね。
「無心の境地」を貴いという、が、また「無心」といえば、金品を人にせがむ意味にも、日本人は用いてきたではありませんか。
 「心」なる日本語を、強いて定義づけよういうのが、もともと無理なんです。「心」とは、「必定まらない」もの、どうにでも変わってしまうもの、「不動心」「無心」「一心不乱」のときも、「大きい心」「広い心」でも有り得るけれど、これが、一瞬に揺れて騒いで、「心ここにない」「あやふやな心」「頼りない心」に、「狭い心」「ちっぽけな心」に、ぐらぐらと、変わってしまう。変わること、変り易いこと、自体が、「心」というものであり、一定(いちじょう)ではなく、まこと不定(ふじょう)のものと考えた方が、肯綮に当たっていると、そう考えた方が分かりが早いのだと、云わず語らず、日本人は知っていました。その証拠のようなものじゃありませんか、わたくしの名付けました「こころ言葉」とは。

 むろん、修行や修養で「心を磨き」「心を鍛える」ことの出来た、立派な実例は、古来多かった。ですが、なまなかの「心根」「心掛け」で出来たことじゃあ、ない。ただもう悩ましいのが「人の心の持ちよう」だということになります。
 「心」という一字一語を、ただトクトクと、掲げておきさえすれば、貴い、美しい、気高い、ご利益ありげな…もの・こと…かのように新聞、雑誌が、「心のページ」を持ち、特集し、現に氾濫していますが、どれほど、効果が上がっているというのでしょうか。「心」に対し、へんな固定観念を持ち、やみくもに「信心」してみても、それは、どこかで、間抜けて、間違って来ます。

 仏教では、人の「心」は、迷いの根源だとしている。「心」も、「愛」も、どっちかといえば人を迷惑に陥れる、難儀なものの方に数えあげてあります。
 「心」こそが、人間の自我(エゴ)の根底をなしていて、人を惑わしているのだと分かってしまった方が、どんなに佳いか知れないんです。「心」という「惑わし」からの「真の自由」を得た方が佳いんです。
 「静かで清い心」とは、そういう、実に「無心」正に「無心」を謂うものと分かってしまった方が、本当に佳いんです。わたしは、そう感じています。

 つまり、「心は頼れるか」は、正しい問いなんかではなかったんです。自分の心は、あなたの心は、ほんとうに「静かであるか」と問うのが、本筋なのでした。
 荀子は謂います、心は森羅万象に関わり得るが、また、只壱つの事に集中できると。また無尽蔵に蓄え得るが、また一瞬に虚に返せると。しかも、心の芯の一点は、実に深い「静」を湛えて揺るがない、と。「虚」「壱」「静」の、この最も大切な「静」に関わって、人の「心」の不安を抉った、抉ろうとした作品が、小説が、あの夏目漱石の『心』でした。

 人間の「心」を研究した作品だと、作者は、新聞連載の予告に書いていました、が、さ、その結果は、どうだったのか。
 文明論ふうの批評には多く飾られてきたこの小説ですが、根本の「心」に則した作品論は、実に乏しいと私は見ています、私は。
 「静かな心」ほど、作者にも、作中のあの「先生」にも望ましいものはなかった。容易に、だが、得られはしない。
 たぶん、漱石『こころ』の結論は、人の求めてやまない「静かな心」なんてものは、死ぬまで手に入らないという、絶望、であったかも知れません。そんな気が、私にはします。

「静かな」は、この小説の重要な「鍵」言葉になっています。「静」という、作中「先生の奥さん」の名前は、かくも深い意義を持っていました。そして「静」の存在を、「先生」や「K」には手の届かない、深い深い「悩みの種」として、悩ましく、其処に置いたのです、夏目漱石は。
 少なくも作中の「先生」は、静という名の「奥さん」に象徴された「静かな心」が、ついに保てなくて、自殺しなければならなかった。「幸福であるべき一対の(不幸な)男女」であったことを、証ししてあまり在る「心」の悲劇でした。「静かな心」は、この作品にも、我々人間にとっても、見果てぬ「夢魔」なのでしょうか。

 深入りしたついでに、漱石の書いた女性に、「清」の名の与えられた例が、大事な例が、少なくも二例あります。ご承知のように『坊ちゃん』の乳母が「清」で、これは軽々しく見過ごせない、ある種の永遠性を、坊ちゃんに対して帯びたばあやです。もう一人、則天去私の作と謂われる、未完の絶筆作、『明暗』のヒロインが、「清子」です。
 「清」いが、「静」かと、音通の基盤を共有していることは、他にも類字がありますが、他方の極に、「汚」い「穢」れや、「騒」がしいものとの、相対・緊張の関係で、意識的にも無意識にも捉えられていまして、静かに深く「清まはる」ことを喜び謹んで迎え、騒ぎ立ち、浅く「汚れ濁る」ことを、避け、退けたいと願う心性──。
 まさしく「日本の自然」のありよう、四季自然の運行に学び・まねびながら、果ては、人間の心術や、気稟の清質に、ことを及ぼしていった美意識、というものが、ま、およそ基本の線を敷いていました。そして、その助走陪線の体にして、「にぎわふ」といった「趣向」する意向が、また、絶えず通底した価値の試行錯誤として、存在した。
 陰気な静かさや清さではなく、陽気をはらんだ静かさや清さ、を求めるためには、そこへ「にぎわひ」が参与した方が効果があったでしょう。度が過ぎれば「けれん」の騒がしさに流れたり、走ったりする、が、その間際のぎりぎりまで、静かさと清さとの淵にまで、賑わふものを欲深く呼び込みまして、かくて、花有り、つまり、はんなりした美意識を満たしていたい、楽しみたい、というわけです。
 その際に、最上の理想的な「きよら」な理想までは、たとえ届かなくても、二流の、次善の、つまり「きよげ」なもの、で満たされておくも、また良しと腰を引いて、「融通」を利かすところが、日本人の美意識の、優しさ柔らかさであり、「いいかげん」に、「適当」なところ、だ、とも言えるでしょうか。
 ま、この辺にさせて戴きます。  (2002..1.31草稿了)
 

                                                                     (講演 2002.2.8 於・ワタリウム美術館)