現在収録 *漱石『心』の問題 *嵐 三
つの「ご縁」を介して *藤村作『破戒』の背後 *蛇 ー水の幻影・泉鏡花の畏れと誘いー
*川端康成の深い音 ー体覚の音楽ー *知識人の言葉と責任─
今、なぜ、芹沢光治良作「死者との対話」が大切か─
*いま、谷崎を本気で読むために
つい先日の朝日新聞に、「何と言っても、白楽天」と
いう文章を書いております。この白楽天の詩集が、昔、私の家にありまして、小学校、戦時中でしたから、国民学校…へ、入るや入らずの頃の、いい退屈しのぎ
だったんです。ナニ、明治の出版物です、総ルビ…。それに訓みと、簡単な解説との付いた詩集でした。なんとなく分かるのもあり、分からない方がもちろん多
かったけれども、とにかく、繰返し読んでいました。ま、大昔のことになりました…。
私は、秦さんの家に生まれた子供じぁなかった…。貰いッ子でした。事情は知りませんでし
た。知ろうという気も無かった。孤独でいいんだと、六つ七つの歳で、諦めていたんです。育ててくれました父は、根ッから、本を読むなんて、「極道」だと、
嫌う人でした。ところが父の父、おじいちゃんは、やたらと漢字ばかりの本を買い集めていた人でした。ずいぶん在った。袖珍本の『白楽天詩集』も、その一冊
でした。有名な「長恨歌」も入っていましたが、私の好みではなかった。つき動かされるほど感銘をうけ、繰返し読んだのは、「新豊折臂翁」という、少し長い
詩でした。
米寿ほどのおじいさんの、片方の腕が無残に折れている。わけを問われて答えている。遠い
昔むかしに、まだ青年だったおじいさんは、無道な兵役を強いられたんですね。万に一つの生還も望めない、しかも、時の権力が、ただ、身勝手に起こした戦争
なのだと悟った青年は、敢然として、時分の腕を、石で砕いて、そうして兵役を拒否・拒絶した。今だに、寒い夜には腕が痛む…それでも、今も、生きて、日々
安らかに過ごしていますよと、この「折臂翁」、腕の折れたおじいさん、は、悪しき政治の、勝手な戦争行為に対する、切実な批判を語る…というわけです。も
とより、白楽天その人の思想であった…でしょう。 朝日に書いた新聞の文章は、この詩「新豊折臂翁」との出会いが、私を、将来の小説家へ、押し出した、と
いう内容のものでした。事実…私は、その後十七年ほど経まして、あれは、昭和三十七年、一九六二年の、七月二十九日、もう二十六歳半、サラリーマンになっ
て三年めでした、が…突如…、小説を書き始めました。そして、その年末、満二十七の誕生日に書き上げました処女作、が…『或る折臂翁』と題した、現代の、
兵役忌避の小説でした。六十年安保闘争に、触発された、ま、あまり上手とは言い兼ねるものでしたが…、原稿用紙を、まッ黒々にしながら、書きました。
「何と言っても、白楽天」は、それでも、意外と受けとった方が多かった。秦さんなら、紫式
部とか、谷崎潤一郎とか、泉鏡花とか書いてくるだろうと、担当の記者さんも思っていたようでした。でも…「何と言っても、夏目漱石」と、書いてみてもよ
かったんです…。
先刻…私が、貰われッ子だったと、お話ししました…。
お前は貰いッ子だと、もちろん、親は、言いません。けれど、近所の人が、容赦なく私を指さ
しました。…家の中で、親の前で、大人になるまで、私は、そんなことは露知らない顔の、演技を、し通しました。その一方で、呼び名のある人と人との関係、
つまり親子とか、夫婦とか、兄弟とか、親類、師弟、上司と部下、そのほか、もろもろの人間関係の、「型」や「枠組み」というものを、信じ過ぎまい、いや、
そんなものは、信じないようにしようと、幼い子供心に、思うようになって行きました。
あげく…、人間には、要するに自分と、他人と、世間…、この三種類しか、無いんだとい
う、実感を持ってしまった…。他人とは、親や夫婦も含めまして、「知っている(だけの)人」のこと。世間とは、世界中の「知らない人=人類」のこと…
と。…それが、幼い私の下した、人間の分類であり、定義でありました。まことに淋しい実感でした。夏目漱石という人は、淋しいを、「寒い」という字で「さ
むしい」とも表現した人ですが、私の心のうちは、ちょうどそんな感じでした。
そして…読書。…友達に、…近くの大人の人に、しきりと小説本を、借りて読みました。
買っては貰えない…。本屋での立読みが、すっかり生活の一部になっていました。
あれは敗戦後の、小学校六年の頃でしたが、近所の古本屋で佐々木邦というユーモア作家の
本を、題も筋も忘れましたが、立読みしていました。面白いことに作中の男主人公も立読みの常連で、彼の場合は、その本屋の帳場にきれいな娘さんが番をして
いて、両方で恋をしていたんです。でも…青年は告白できない。家の奥に雷親父がいるんです…。そこで一計…青年は本棚の或る一冊を引っこ抜いて、娘さんの
目の前へ黙って差出しました。そして、先ず自分の事を指差します。次に「本」を指差し、次には本の「題」を指差しました。本の題は「心」一字…。つまり自
分の恋は「本」「心」からだと伝えたんです。
そこんとこだけ、はっきり覚えています。うまいことやりよるなぁ…と思いました。
それはさておき…読書だけじゃ、けっして満たされないほど、…孤独の毒は、少年の私を、
いつも呻かせていました。寒すぎた。とうとう、こういうことを、私は、思い始めるようになったんです。
この世界は、譬えていうなら、…みなさん、目に、想い浮かべてみて下さいませんか…、
人の世の中とは、広い広い、果てしない「海」なんだと。その海に、よく見ると、無数の島
が、まるで、無数の豆をまいたように見えています。さらによく見ると、その島の一つ一つに、一人ずつ、たった一人ずつ、人の立っているのが見えます。島
は、たった一人の人の足を乗せる広さしか、もたない。島一つに人一人しか立てないんです。そして…島から島へ、橋は、まったく架かっていない。島は…人
は…完全に孤立の状態で、「海」という名の世間に、寒々と、佇んでいるのです。あぁ…これが「生まれる ウォズ・ボーン」という、受け身の意味なんだ。人
は、こうして世界に投げ出され…生まれ…ているんだと、私は、ぼんやりと、しかし、身を焼くほど寒い気持ちで、思いました。堪らなかった…。 先刻、人と
は、「自分」と「他人」と「世間」だ、それしかないと思った…と、お話ししました。でも、それでは、あんまりだという思いが、だんだん芽生えました。なぜ
か。「恋」を、して、知ったのです。…恋をして、何を、どう知ったかを、お話ししましょう。
もう一度、さっきの「海」を、想い浮かべてみて欲しい。橋の架かっていない、島から島
へ、人から人へ、呼び合っている、声が、聞こえてきます。淋しいから…、孤独で堪らないから、ああやって、懸命に、人は、人に、呼びかけるのでしょう、私
も、新制中学に進んだ頃から、必死に、誰とも、まだ分からない誰かへ、呼びかけていました。
やがて、一人の女性に出逢いました。…と言っても、それは、転校して来たばかりの、一つ
上級、中学三年生の女の子に過ぎませんでしたが、しかしその人は、たちまち、大きな大きな存在になりました。その人も、私を、愛してくれました。が、あっ
というまに卒業して、家庭の事情もあり、そのまま…まったく私の手の届かない、遠くへ、姿を消して行ってしまったんです。…運命…でした。
その人は、卒業式のあとで、私を呼び寄せまして、手紙と、記念の贈り物とを手渡してくれ
ました。贈物は、一冊の文庫本でした。夏目漱石の、題が…『心』だったんです。
あれから、『心』を、何十度読んだことか。…大事に大事に読んで、読んで…そして…こ
う、考えるようになりました。
あの「島」には、たしかに、人は、一人しか、立つことが出来ない。それなのに、いつ知れ
ず、人一人しか立てない筈の小さい島に、二人で立っている、三人、五人、とさえ、一緒に立っている・立てていると、信じられる…時が、在る……。
人一人しか立てない島に、一緒に立てている。そういう人や人たちのことも、「他人」だと
か、「世間」だとか、呼ぶのか。呼んでいいのか…。それは、ちがう…と、私は思いました。そして、そういう人たちを、言葉の最も正しい意味で、「自分」と
同然の「身内」…「真実の身内」と、名付けようと思ったのです。
この、私の申します「身内」とは、単に「(良く)知っている人」というだけでは、ありま
せん。譬えて言うなら、「死んでからも、一緒に暮らしたい人」とでも、定義したい。それが真実の「身内」であり、世にいう「親子」「兄弟」「親類」また
「夫婦」といった、ひょっとして、抜け殻でも在りかねないような…ただ呼び名だけでは、何ら「真実の身内」は、保証されてはいないのです。それじゃ、親子
夫婦といえども、他人に過ぎない…。
むろん…、私は知っていました。一人しか立てない筈の「島」に、倶に立つ・立てる、など
というのは、「錯覚」だと。しかし「高貴な錯覚」「愛ある錯覚」…というべきでしょう。人の「孤独」は動かせない。しかしそれを、「愛」という名の錯覚の
深みへ、冷たい氷を溶かすように、温めることは、出来るのです。私はそれを、「恋」をして知りました。その恋が、あたかも化身したかのような、一冊の文庫
本…『心』を、読みに読みこむことで、いつか、私の文学の、一つの芯になるもの、思想…を、創り上げて行ったのです。 大学院を、一年だけで中退します
と、すぐ、生まれ育った京都を離れ、東京で就職し、大学時代に知り合った一つ歳若い妻と、結婚生活に入りました。そして三年めの夏、突如小説を、『或る折
臂翁』を、私は、書き始めたのでした…。
以来、七年ーー。私が、小説家として文壇に招き入れてもらったのは、昭和四十四年、一九
六九年の六月、桜桃忌の当日でした。『清経入水』という小説が、第5回太宰治賞に選ばれたのです。
さて、受賞後の五年間は、二足のわらじを履いていました。昭和四十九年に文筆一本になり
ましたが、心配して下さる方があって、ご好意を無にするわけに行かず、一年間だけ、或る女子短大に、まるで「文学漫談」をしに通ったんです…。そしてその
機会に、また、あの、『心』という小説について、考えて見ずに済まなくなったんです。大方の短大生の、この小説を読んでの感想に、どうもこうも…、引っ掛
からざるをえなかったんです。
作中の、あの「先生」は、何という人でしょう。可哀相に…「奥さん」を放っぽり投げて、
自殺してしまうなんて、というのが、一つ。
また…、作中の、あの「私」は、何という人でしょう。今日にも死んで行くお父さんを放っ
ぽり投げて、臨終の枕元から、一散に東京へ出て行くなんて、というのが、もう一つ。 うーんと、唸りました。
では、私は、その短大の学生のそういう疑問に、どう答えたのか。じつは、ろくすっぽ、何
も答えてあげませんでした。まったく申し訳のないことで、あの時の無責任さの悔いが、反省が、今度の東工大では、ひたすら親切に親切に接しようという覚悟
になりました。その、東工大の四年間をかけまして、毎年の前半には、漱石の『心』を話題にして来ました。
話が、すこし前後致しましたが、先の短大の一年間と、今度の東工大の四年半とには、ほぼ
十五年ほどの間隔があいています。その十五年ほどのちょうど真ん中辺で、たしか…昭和五十九年の秋九月でしたが、これまた突然に、劇団俳優座から、漱石の
原作『心』を、『心ーわが愛』という題で、加藤剛…、永いこと、テレビで大岡越前なんかやっている人ですが、その彼の主演作品として、『心』を、脚色して
くれないかと、依頼の電話が突然飛びこんで来たんです。たぶん加藤さんの発案だったのでしょう、私の『心』への愛着は、妻でさえよくは知りませんでした。
むろん、引き受けました。
そこで…もう一度、さっきの素朴な疑問から、問題点を、こう整理し、少し言い換えてみま
しょうか。
第一に、「先生」は、明治四十五年(大正元年)に自殺していますが、親友の「K」が自殺
のあと、何故、明治四十五年まで、何年も何年もの間、自殺できなかったのでしょう。裏返せば、何故、明治四十五年になって、「先生」は自殺できるように
なったのでしょう。何がそうさせた…させ得た、のでしょうか。
第二に、「私」は、「先生の遺書」を、臨終の父の枕べで受けとります。そして父も母も、
故郷も、すべて見捨てまして、無二無三に停車場へ走ります。東京へ駆けつけます。しかし「先生」は、その時は、もう「とつくに、死んでゐる」のです。
「私」はそれを知っているのです。なのに、何で、父親が、今にも息を引き取るのも待てずに、あんな行動に出たのでしょうか…。
次に第三に、『心』という作品は、小説内部の建前として、「私」が、自分の手記(上・
中)を、「先生の遺書」(下)に添えまして、世間に、公表していることになっています。「先生」は遺書の最後に、遺書を公表するのは構わない。しかし
「妻」の思いは純白に保ってやりたいと、つまり「見せるな」という重い禁忌を、「私」に科しております。それでもなお、ともあれ、大正三年の春から秋へか
け、遺書や手記の公表が、現に、作品『心』として、世間の目に触れているわけです。…これは、いったい…どういう状況なのでしょう。「先生の奥さん」も、
大正元年の秋から、たったの一年半ぐらいな間に、「先生」のあとを追って、または病気でもして、もう死んでしまっていると言うのでしょうか。そういう脆弱
な、脆い女性だったでしょうか、あの「奥さん」は。どう思いますか……。 で、バン…と、いきなり猛烈なことを申し上げますが、俳優座との最初の打ち合わ
せに入りました時に、今言った三つの点について、こう私は、自分の理解を話したのです。
第一の点。あの「先生」は、明治天皇が何人死のうが、乃木夫妻が幾組み殉死しようが、
それだけでは、とうてい自殺なんかできなかった、と。明治の終焉は、自殺の引金にはなった
けれど、絶対に必要で十分な条件では、なかったんだと。それよりも、「奥さん」のことを安んじて託せる存在、やっとやっと、この世の中で「たった一人」信
じられる存在となった、「私」…というものが在ればこそ、「先生」は、自殺に踏み切れたんだ、と。「K」に死なれたあと、何度も何度も死のうとしながら、
そのつどそれを引き止めたのは、「奥さん」を、一人ぽっちで残してゆく、気の毒さだった、不安だったと、「先生」は、繰り返し遺書の中で言っているんで
す。
天皇や将軍ゆえに自決を考えるような、そんな外向きの「先生」でなかったのは、作品
『心』の、何がテーマなのか、よく考えれば明白です。まさに人間の「心」が主題であり、明治の精神への殉死なんかではなかった。劇は、あくまで「お嬢さ
ん」の家「先生」の家の中で起きていた。人間の心が、どこよりそこで乱れ、絡み、問題を起こしたんです。
次ぎに、第二の点です。「私」は遺書を見て、「先生」がとっくに死んでいるのを知ってし
まいました。それでも、いままさに臨終の父親を見捨て、何故、汽車に飛び乗ったか。父や母以上に大切に感じている人が、東京で、現に悲しみに沈んでいて、
或いはその命にも危険を感じていたからでなくて、他に、それ以上に自然な理由が、有り得たでしょうか。 そうです…。夫に死なれた「奥さん」のもとへ、
「私」は飛んで行った。「先生」の死も重大事でしたけれど、「奥さん」の生、生命は、現実に、もっと重いものでした、若い愛に今はっきりと気付いた「私」
には。…それならば、よく、分かる……。
思わず顔をしかめた人が、たくさん、おいででしょうね。分かっています、その気持ちも、
理由も。順々に、いちいち、チャンと答えましょう。
さて、第三の点は…。たしかに『心』は、そして「先生の遺書」は、公表されています。
それが小説の建前です。「先生」が遺言で禁止したにもかかわらず、遺書が公表されて行くの
は、一つ、「奥さん」がもう死んでいて、遠慮する必要が無くなっているか、二つ、それとも、元気な「奥さん」が、すべて遺書の内容なんぞ、ちゃんと察して
いて、ぜんぶ「奥さん」が承知のうえで公表されているか、…の、どっちかでしょう。
私の考えは、後者なんです。秘密もなにも、「奥さん」には、およそ「遺書」の内容が分
かっている。承知のうえで、公表を、認めていると読んでいます。
それだけじゃ、ない。「奥さん」と「私」とには、たぶん結婚が、そして二人の間にはもは
や「子供」の存在までも、目前の現実問題として、予期または既に実現していることが、「上・先生と私」の章を、その本文を、丁寧に読めば、はっきり示唆さ
れ、表現されてある…と、私は読んでいます。どうですか…。笑っちゃいますか…。
とにかく、俳優座は、加藤剛さんらは、これを聴いて、びっくりしました。
で…、ビューンと、話を、先へ進めちゃいますが、私の「読み」に、結果として、十分身を
寄せてくれました俳優座公演の、『心ーわが愛』は、昭和六十一年十月八日、六本木の俳優座劇場で、初演の幕をあけました。補助席はおろか、通路にも客があ
ふれるほどの大入りで、興行は、成功しました。
やや遡りますが、私は、昭和六十年元旦の奥付で、満
五十歳の記念にと、『四度の瀧』という限定本を出版しました。俳優座との最初の打ち合わせがあって、暫く後のことです。その本のあとがきに、『心』の、今
も申しましたような「読み筋」を、実は書き入れておりました。そしてその本は、いろんな方々に贈ったのですが、その中に、別の或る小説の、すばらしい紹介
文を書いてくれていました、若き日の、小森陽一君も居りました。
小森さんは、明けて新年早々、その、あとがきの「心の説」に対し、やや興奮気味の、共感
ないし賛同の手紙をくれました。ちょうど今、自分も、同じ趣意の「心論」を書いていますと書いてありました。しばらく経ってから、小森氏は、その論文を載
せた雑誌を、送ってきてくれました。この小森論文の辺から、学界で、「こころ論争」の火蓋が切られたんだと思います。さらに、私の、『心ーわが愛』の舞台
が公開され、同時に、私の戯曲、『こころ』も出版されまして、火に油をそそぐことになった。そうした成り行きは、平成六年二月の朝日新聞が、「こころ論
争」を大きく取り上げまして、知られています。その新聞記事には、加藤剛の「先生」と、香野百合子の「奥さん」とが、相合傘で歩いている舞台写真を載せて
いました。この傘が、さながら私の申しますあの小さな「島」の意味を帯びるように、巧みに演出され使われていたのを、懐かしく思い出します。
さ、そこで、問題点を、もう一つ出して、それを考えてみましょうか。それは「年齢」のこ
とです。「先生」が自殺したあの時、彼は、いったい何歳ぐらいだったのでしょう。「奥さん」は、また「私」は、何歳ぐらいだったのでしょう。
と言いますのも、先刻の第二の点、…父親の臨終も見捨てて「私」が東京へ走ったのは、既
に死んでいる「先生」ではなく、生きて今在る「奥さん」のことを思っての一挙であったろうと、私は、解釈しました。これで、だいぶん、私は笑われました。
一つは、かりにも年齢が違い過ぎるじゃないかと。
もう一つは、かりにも「先生の奥さん」と弟子たる者の間で、不道徳だというわけです。
「先生はコキュか」などと、ばかばかしい難癖をつけた人までいました。論外です。
よろしい。二つとも、ちゃんと答えましょう。先ず、二つめの「不道徳」の方…。
もともと、通俗な道徳つまり「世の掟」に対して、一見背徳的な「人の誠」を重く見た作品
が、漱石には、幾つも在るのです。『それから』や『門』を挙げるだけで、足りましょう。ともに、人妻を奪う恋であり、奪った後の結婚生活が書かれていま
す。この恋も結婚も、作者は強く肯定しています。いわゆる不道徳なんてことを、恐れた作者じゃない。 第一に、「先生」を、「コキュ」つまり寝とられ夫に
するような、慎みのない、乱暴な「奥さん」でも「私」でもない。逆に、若い「私」を、着々と「恋」の自覚へ誘導していたのは、終始「先生」自身であったこ
とが、上の章の会話をていねいに読めば、歴然としています。「先生」生前の二人に不倫な関係など有るわけもなかったし、万一在ったにせよ、それが「人の
誠」に適う愛であれば、それを肯定して書くのが、むしろ、漱石の信念でさえあるでしょう。
次ぎに「歳の差」という、問題です。大概が、ここへとびついて、私を笑いました、が、
どっちが笑うことになったか…。
結論を先ず言えば、「私」と「奥さん」とは、「先生」の死んだ時点で、二人ともほぼ同い
歳…二十七、八歳なんです。「先生」は三十七、八歳なんです。作品を、少し丁寧に読めば、証明できるんです。平成六年九月十二日、毎日新聞の夕刊に、私
の、それを証明した文章が出ています。よほど目を引いたとみえ、文芸春秋から出た、その年度のベスト・エッセイ集にも、再録されています。
で、もうずいぶん以前になりますが、私の読者、それも高校の先生なんぞに、この「歳」の
事を、「先生」が自殺した時の年齢をどう読んできたかを、質問してみたんです、試みに…。すると、五十代かと思っていましたが…と、ま、大方が漠然として
いて、あんまり、気にもされていない。驚きました。
鎌倉の海で、若い「私」と一緒に、雑踏の海水浴客をよそめに、うんと沖の方へ出て、悠々
と一人で泳ぎを楽しんでいた「先生」なんですよ。私も、じつはそういう水泳を楽しむ方でしたが、四十代になってからは、もう、ちょっと怖い。出来たって、
しなかった。五十代じぁ、とんでもない話なんです。
東工大でも、同じアンケートをとりました。「先生」六十四歳「奥さん」「六十」歳という
のが最高齢で、やはり夫婦とも五十、四十代が、断然多かった。一方「私」は大学を卒業したばかりなんだからと、二十二、三歳が多く、以下十八歳などと答え
た人もありました。これじゃぁ確かに、「奥さん」と「私」に、男女の愛が生じたり子供が生まれたりしたら、オドロキです。でも、こんなアテずっぽうには何
の根拠も無く、つまりデタラメな印象を言っているだけなんです。学校制度も今とはちがい、大学生の年齢も、今日只今のとは、違うんです。平均して、三歳余
りは、今よりも年上なのが普通でした。
さ、よく、聴いていて下さいよ。
「先生」は、明治天皇崩御の直後に自殺しました。「明治」四十五年(大正元年)で、これ
は動かぬ史実で、確実です。
『心』には、少なくももう一つ重要な、年代を示す史実が語られています。日清戦争です。明
治二十七年八月に始まり、翌年、二十八年二月には勝敗が決しています。この戦争で、「お嬢さん」のお父さんが、戦死をしたと書かれています。かなり激戦で
した。七年の冬、八年の春、ま、そう前後の差はなかったでしょう。「奥さん」と「お嬢さん」とは、文字通り、軍人遺族の母子家庭となり、その後、引越しま
して、小石川の、源覚寺裏の方に住むことになります。母娘がここへ引越しましてから、また「一年」ほどして、「先生」が、下宿人として、この母子家庭に、
同居することになります。「先生」はもう、帝国大学の帽子をかぶっていました。高等学校を卒業し、当時は九月が新学期の大学に、入学の直前、夏の内のこと
でした。
問題は、「先生」の下宿同居が、明治何年だったかです。但し日清戦争は動かぬ史実ですか
ら、明治二十八年の夏以前、ということは在りえません。「お嬢さん」のお父さんは、職業軍人でした。屋敷内に馬を飼っている、厩舎などがある、
かなりの上級軍人です。そういう人の遺族が、戦死しましたのでハイと、即座に引越しの許さ
れる、そんな世間体でも、時代でもなかったでしょう。強行すれば、遺族は心無いと、無思慮を非難されたでしょう。世智にたけた「未亡人」です、そんなこと
はしなかった。一周忌、ないし満二年めに当たる三回忌までは動けない。主人亡き家屋敷を守りまして、それから引越したに相違ありません。引越しの理由に
は、家が広すぎるだけでなく、「お嬢さん」の、女学校進学やら通学の便宜なども、考慮されていたでしょう。
さ、こうなると、小石川の家に引越したのは、一周忌
過ぎた明治二十九年か、三回忌、満二年が経った明治三十年か、とみて宜しく、私は三回忌を重くみて、明治三十年の春に引っ越しと読み取っております。そし
て、その後「一年ほど」して下宿希望の「先生」が、初めてこの家を訪れて来ます。高等学校六月の卒業式が済んだ、明治三十一年の七月頃でしょう。そしてま
た一年ほどして、運命の「K」が、「奥さん」「お嬢さん」らの懸念にかかわらず、「先生」の、自信満々の好意に導かれて、同じ下宿人として同居をします。
あげく卒業もまたず、三年生、明治三十四年正月に、「K」は自殺してしまいます。
では明治三十一年に、「先生」は、何歳で、大学に入学していたのでしょうか。ご注意願っ
ておきますが、当時の文科大学生は、三年間在学して、卒業、でした。「先生」は、明治三十四年六月に卒業しました。年齢さえ判れば、明治四十五年の自殺ま
でを、足算するだけで、ほぼ正確なことが言えるわけです…、そうでしょう…。
注意深く『心』を読んでいる人なら、まだ「先生」が「十六七」の歳に、「女」の美しさに
目が「開いた」体験を語っていたのを記憶している筈です。また、自分が「両親」を亡くしたのは、「まだ廿歳にならない時分」だったとも、明言しています。
そのすぐあと、「先生」は、高等学校に入学すべく、満十九か、ないし数え歳の二十歳で、東京に出て来ているのです。高等学校卒業は、順当にみて三年後の、
二十三歳頃でありまして、これは、あの、同じ漱石作の小川『三四郎』君が、熊本の高等学校を出て、東京の帝大へ入学すべく上京してきた際の、「二十三年」
という、宿帳記入の年齢とも、きっちり、一致しています。「先生」が大学に入ったのは、ほぼ間違いなく、数え歳の二十三、ないし、早くに留年か何かの年遅
れがあったにしても、二十四歳でしょう。しぜん、卒業は、二十六歳か七歳です。これも、夏目漱石その人が帝大を卒業したのと、ぴったり一致していますし、
例えば、中退はしていますが、もし谷崎潤一郎が、明治四十四年に卒業していても、やはり同じ、数え歳二十六、七歳なんです。実は統計をとった人もありまし
て、この入学卒業の年齢は、その当時の平均的なものでした……。
さ、そうなれば、明治四十五年に自殺した「先生」は、明治三十四年から、十一年分を足算
した、三十七、八歳であったことになる。これならば、それよりも数年前の鎌倉の海で、高等学校の学生だった「私」と一緒に、元気いっぱいの水泳をしてたっ
て、まだまだ元気なもんです。それと同時に、明治四十五年に、帝大を卒業したばかりの「私」の歳も、これまた、「先生」らと同じく、数え歳の二十六ないし
七歳だったと見まして、もはや、何の不自然もないわけです。「先生」と「私」との歳の差は、まずは十歳程、一世代の差、長兄と末弟程度の違いだったんです
ね。
それじゃ、「先生の奥さん」の歳は、どんなものであったか。これが何と言いましても微妙
に大事になってくる。
思い出して欲しいんです。鎌倉の海で別れるまえ、「私」は「先生」に、東京のお宅を訪ね
てもよろしいかと聞きます。そして秋になり、訪ねて行く。ところが「先生」は留守でした。二度めにもまた不在でした。じつは、毎月の「K」の墓参りに出て
いたんですが、「私」の知ったことじゃ、ない。その日は「奥さん」が出てきて、気の毒がってくれた。 ここで、その時に実に注目すべきことが、二つ、書か
れています。
一つは、「私」が、「奥さん」を、「美しい」「美しい」と繰り返していることです。 そ
もそも、東京という本舞台で、「私」の初対面の相手が、肝心の「先生」ではなく、「奥さん」の方だった。この計らいは、作家の私には判るのですが、意味深
長な用意だと言い切れる。まして男が、女と会って、第一印象が「美しい」とあっては、これだけでも「奥さん」が、そう年寄りでないのは確かでしょう。事実
「奥さん」と「私」とは、ほぼ同い歳だったんです。「先生」より十ほど若いんです。あとで、はっきりさせます。
皆さん方、考えてもごらんなさい。あの軍人遺族の母子家庭にですよ。未亡人とお嬢さんだ
けの女住まいにですよ。二十何歳にもなる「先生」が下宿できたのは、近所でイヤな噂もされず、後指もさされないほど、まだ「お嬢さん」が幼かったからで
す。「奥さん」「先生」「お嬢さん」に、それぞれ一世代ほどの年齢差があればこそ、ごく穏便に、素人下宿の共同生活も成り立ったんです。もし「お嬢さん」
が既に年頃ででもあったりしたら、身元もよく知れない、男子学生とのいきなり同居なんて、ま、とんでもない話です。「お嬢さん」は女学校を、「先生」の大
学卒業とほぼ同時に卒業していますが、この当時の制度では、ふつう、十七歳です。たぶんその年の内に、また引っ越して行った小日向台の家で、「先生」と、
結婚しています。母子家庭という事情や、「先生」の裕福、「K」の変死の事情などからして、また明治の風からしましても、十七八での結婚に、何の問題もあ
りません。また「お嬢さん」が、上級の学校へ進学していた形跡も、みられません。「先生」と出会ったのは、満で十三か四の少女時代だったんです。不自然は
すこしも感じられません。結論として「先生」の自殺した年に、「奥さん」は、「私」よりも一歳年上か、或いは同い歳かも知れない、二十七、八歳です。それ
以上は有り得ないんです。
確認しておきましょう。明治天皇の死と日清戦争という、動かし難い史実を軸に、本文をキ
チンとよく読めば、「先生」が自殺したのは「三十七、八歳」であり、「奥さん」は「二十七、八歳」です。「私」は「奥さん」と同い歳か、僅かに一つ歳下で
しかなかったんです。この証明を引っくり返すのは、たぶん、容易なことではないでしょう。
こうなって、初めて、よく分かってくる点が、幾つも
あります。
私は去年の暮れに、還暦の六十歳になりました。だから、この三月末で東工大を退職したわ
けですが、家内も、この四月五日に、やはり還暦を迎えております。で、かりにですね、私のことを、いたく尊敬してくれます男子学生が、いると仮定しましょ
う。お宅へ訪ねていいですか、ええ、いらっしゃい…。で、せっせと訪ねて来てくれる。慣れるにしたがい、家内とも遠慮のない口を利きあうようになる。
しかしですね。かりに学生が二十四、五だとしましてもですよ、…まさかに六十の婆さんに
惚れたりはしないでしょう。六十が五十、あるいは四十であったって、ま、学生と家内との仲に、めったな事は起きない、というのが順当なところです。でも先
生への尊敬は尊敬ですから、学生がそれで良く、先生もそれで良いのなら、いい関係は続くでしょう。いわゆる良き師弟関係とは、そういうものでありましょ
う。安定して簡単には変化しない人間関係が出来上がっている…、そう言い切って済んでしまいます。
『心』の「先生」「奥さん」と「私」の場合でも、もし、これまで一般に漠然と読まれてきた
ように、「私」より二倍も、二倍以上も歳とった「先生」「奥さん」夫妻であったのなら、それじゃぁ、私の言うような愛情関係の展開は、当然ながら考えられ
ません。
しかし事情は、まるで、違っていたじゃないですか。ご夫婦の「先生」「奥さん」対、学生
の「私」とばかり眺めていたのが、こと年齢に関しては、年長の「先生」対、若い、同い歳ほどの「奥さん」と「私」となった。これは重大です。人間関係の心
理が、年齢で動くのはあまりにも自然なことだから、です。
作中の「私」は、自分とほとんど歳の違わない、しかも初対面から「美しい」と真先に印象
づけられたような、親切で、聡明で、まことに魅力ある「奥さん」のいる、そういう「先生」の家へ、通いつめていたんです。老人夫婦の家へ、じゃないんで
す。若者の心理として、「美しく」て若い「奥さん」のいる家にしげしげ通うのと、親ほど歳とった夫婦の家を訪ねて行くのと、同じ気分でなんか、ある、筈
が、無いじゃありませんか。従来の『心』の読みで、こういう自然な生活的実感を、それぞれの年齢に則して、よく調べよく納得してこなかったなんて、まさ
に、怠慢も極まれり、です。日本中で、もっとも大勢に永く愛読されて来た『心』ほどの名作にして、こんなに根本の、基本のところで、大きな見当ちがいを平
気でやって来たというのが、実は実情であった。
『心』は、本気で読み直されねばならない、誤解の渦に沈んでいた名作なんです。誤解へ導い
たのは、多くの過去の知識人でした。例えば漱石全集の解説を一手に引き受けてきた、小宮豊隆という人は、ただただ「先生」と「K」とだけ、つまり「遺書」
だけ重視して、上の「先生と私」中の「両親と私」つまり「私」の手記にあたる部分は、完全に見捨てていた。「私」はおろか、「奥さん」や「お嬢さん」の存
在すら、まるで、デクの坊同然に、無視していました。積極的に無視していたんです。
その悪影響ででしょう、高校時代、課題で『心』の感想を書いたという体験談を聞いてみま
すと、「先生の遺書」しか読まなかった、それでいいと教室で言われたという学生が、山ほどいる。読まなくて済む部分が、一章も二章分もある小説なんて、名
作なんて、在るものでしょうか。呆れて、ものが言えないとはこれです。
『心』の魅力は、上・中の手記の章にも、満載されているのです。私なんか、遺書よりもそこ
の方が、楽しくて、懐かしくて、夢中で読んだ。芝居の台本のために書き抜きを作った経験からも、特に「上」の章には、大事な、微妙な、伏線になっている会
話や地の文が、いっぱい有るのが分かります。
さっき「私」と「奥さん」との初対面の場面で、大事なことが、二つ…と言いました。 一
つは「美しい奥さん」という第一印象。このことは、今まで話しました。
もう一つは、「奥さん」が、事もあろうに、全く初対面の学生に対し、事もあろうに、「先
生」のお墓参りの話をしてしまいます。更に事もあろうに、「K」のお墓のある場所まで、具体的に教えていた事です。教わっていたから、「私」は、雑司ヶ谷
の墓地までも「先生」を探しあてて行くことが、出来た。
でも、それがどんなに「先生」にすればショックであったかは、墓地で呼びかけられた瞬
間、「どうして」「どうして」と、二度も呻いて、呆れていることで分かります。突然だから驚いたんじゃない。「K」の墓参りという、あの夫婦にすれば、忌
まわしいタブーであるほどの、天罰を償うほどの、いわば秘事とも恥部ともいえる行事を、「奥さん」が、いとも簡単に、初対面の「私」に教えたという事が、
信じられなかったのです。いいえ、はっきり、心外で、不愉快でさえあったのです。「先生」が、「奥さん」を愛しながらも、信じられずにいたという、かくも
歴然たる証拠が、最初ッから、もう作品には露出していた。それは、逆に言えば、無意識にも「奥さん」が、初対面から「私」のことを、受け入れていた事を示
しています。また、夫である「先生」への、その墓参りへの、意識の深層での、「奥さん」の不快感を示していたのだとさえ、言えるでしょう。
この夫婦は愛し合っていました。それは疑いようのないことです。しかも幸福な夫婦ではあ
りませんでした。「先生」自身が、「幸福であるべき一対の夫婦」という物言いをして、「私」から、「べき?」と不審を示されています。愛してはいたが、幸
福であるべき筈ではあるが、どうしても幸福になれない夫婦だという、不幸な認識が「先生」にはあり、「奥さん」にも、それが見て取れます。しかし「先生」
は、「奥さん」を、真実幸せにしてあげたい愛情を、しっかり、死ぬまで持っていました。でもどうしたら良いのか、気の毒な「先生」が、明治が終わる日まで
自殺できなかった、それが、最大の理由でした。
幸便に、触れておきたいことが一つあります、「先生」は、「十六七」のいわゆる色気づく
年頃に、初めて「女」の「美しさ」に目が開いたと述懐しています。ことさらにしています。夏目漱石自身の体験が反映しているのかも知れませんし、軽く読み
過ごしてよいこととは考えられません。
なに一つ注釈はないのですが、べつの箇所で、お互い「男」一人「女」一人だと、夫婦の緊
密を語る夫「先生」で在りながら、その別枠に、「十六七」の頃の出会いを、ほんの行きずりなんでしょうが、たいへん重々しく、しかしさりげなく「先生」は
告げています。「一人」「一人」とは、言うまでもなく夫婦の間柄での肉体の接触を示唆しているわけで
すが、肉体的な男女関係を取り払えば、「先生」には「お嬢さん=奥さん」以前に「美しい」
「女」体験があったのです。「遺書」に明記せざるをえないほどそれは「先生」の記憶にやきついていた。そう、読めます。
ズバリ言ってこの「女」こそ、「先生・奥さん」夫妻を、「幸福であるべき(不幸な、或い
は幸福になりきれない)一対」の夫婦に仕立てた根源だったのではないか。そう読み取らせる作意が秘められていないか、漱石という作者のなかに。
漱石夫妻の在りようについては、従来、種々語られていますから深くは触れませんが、彼に
も結婚以前に「女」の原体験がないし前体験が在ったこと、それがなみなみならず重大な体験だったろうことは、今日、もはやだれも否定していない。
その反映が「先生の遺書」にももちこまれているのだとしたら、そこに、「先生」の妻に対
するいわく言いがたい不充足も、また「奥さん」の夫に対するいわく言いがたい不満も、ともに垣間見うる隙間が在る。われわれ読者はその隙間を眼前にしてい
る、ということになります。
もし自分という妻がいなければ「先生」はきっと死んでしまうでしょうと、「奥さん」は
「私」に自負しています。だが、それすら実はかすかな無意識の強がりだとも、目に見えぬ或る存在への悲しい抵抗だとも、また自負の誇示だとすら見て取るこ
とが可能になります。
「愛し合ってはいた、だが充全には幸福でありえなかった夫婦」を、根底から説明すべく「先
生」は、また漱石は、この「十六七」の頃の「女」体験を、「遺書」に、作品に、さし挟んだと私は考えます。そう読んでいます。裏返していえば、「奥さん」
が「私」を男として見て行く視線や心理にも、それが痛烈に影響していたことでしょう。
「先生」は、結局は、「私」に頼ったのです。「この世でたつた一人、信じられる人間」に
成ってくれた「私」になら、無意識にも「美しい」人に恋をしているらしい「私」になら、妻を安心して委ね、また妻も、内心の隠れた愛にやがて気づくだろ
う…と、「先生」は信じたかった。信じられるようになっていた、のでしょう。
もう一つここで、これは笑われるでしょうが、言ってみたい。「先生」の選択は、或る実例
に則して表現すれば「妻君譲渡」に近いものでした。或る実例とは言うまでもなく、あの谷崎潤一郎が、有名な「小田原事件」の絶交から歳月を経まして、つい
に昭和五年、三者合意の上で妻千代と離婚し、千代は佐藤春夫と結婚した、あれです。谷崎が「先生」漱石に辛辣であったのは知られています…が、ま、何はさ
て…本題へ戻りましょう。
「奥さん」の思い描いた幸福の一つに、この家に、「子供でもあると好いんですがね」とい
う、強い願望がありました。「奥さん」はその言葉を、「先生」を前にして、「私の方を向いて」口にしているのですが、何という微妙な場面でしょう。「一人
貰って遣らうか」と「先生」は言い、「貰ッ子じや、ねえあなた」と、またも「奥さん」は「私の方」を向いて愬えるんです。すると「先生」は、自分たち夫婦
の間に、「子供は何時まで経ったって出来ッこないよ」と言ってのける。「何故です」と、「私」は即座に反問します。それも、「奥さん」の「代りに聞いた」
と、微妙に明記してあります。「先生」は、「天罰だからさ」と高く笑いました。ヒステリックに笑ったんです。「奥さん」は黙って顔を背けていた。何が、ど
うして「天罰」なのか、「奥さん」にも分っていたからでしょう。察していたからでしょう。当然、そう読むべきところです。
つまり「奥さん」を幸福にするには、「母」たる人生を与えてあげなければならない。しか
し「先生」では、それが不可能なんだと、それを、実にきちんと表現していたのが、この場面です。
また「先生」には、「私」を「恋」に誘導して行く、無意識の意図が、もう徐々に働き始め
ていたようです。十分印象的だから、皆さんも気づいておられるでしょう、「先生」は、故意にというしかないほど、何度でも、執拗に、「私」に向かって
「恋」の話題を出しています。「恋をしたくありませんか」「とつくに恋で動いているじゃありませんか」「異性に向かう階段として同性の私のところへ」「恋
は罪悪ですよ」「たが神聖なものですよ」といった按配に。それにはそれの理由が、動機が、有ったはずです。慎重にそれを読み取るというのも、読み手とし
て、当然、必要だったんじゃないでしょうか。
けれど、もう一度、さっきの場面に、話を戻します。
もっと大事な問題点が、あそこには、ちゃんと書かれていたんです。子供が欲しいと、「奥
さん」は言いました。「その時」の「私」はといえば、「同情」のない、鈍い男に過ぎませんでした。それでいて彼は、現在執筆中の手記に、あの当時を思い起
こしながら、こう書いているのです。「子供を持つた事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅いものの様に考へていた」と。
「子供を持つた事のない、その時の、私は、……考えていた」という、少々持って回った物
言いを、自然に、素直に、しかし語感をよく働かせて、読み直してみて欲しいんです。普通なら、「子供を持つた事のないその時の」など、わざわざ言う必要の
ないことなんです。だからこそ、この事更な物言いは、「子供を現に持った(又は、やがて持とうとしている)現在の私ならば」、決してそうは「考えない」と
いう気持ちを、表明したものと読んで、いいんじゃないか。そうとしか読めない文章なんじゃないか。普通なら「何の同情も起こらなかった。子供はただ蒼蠅い
ものの様に考えていた」だけで済む話なんです。
こういうことに、なります。「私」が、現に、手記ないし作品を書いている現時点で、彼
は、自分の「子供」のことを、読者に対し示唆しているのだと。日本語の表現として、ごく自然に、そう受け取れます。子供の現実在ないし近未来の誕生を、
「私」は、現に、愛情と分別を持って認知していると、確かに、十分に、読み取れるんです。子供は「蒼蠅い」といった強い表現が、かえって、実感豊かに、現
在の気持ちを言い表しているのです。 注意しないといけないのは、『心』という、建前上「私」の公表している手記の部分は、「先生」の自殺から、最大限、
一年半以内に書かれています。しかし書かれている中身は、明治四十五年の九月より以前の事柄に、厳しく限定されています。「書いている」現在と、「書かれ
ている」内容の現在とには、登場する人物にも、書き手の心理にも、十分な抑制や整理が行き届いています。一つには、「先生」「奥さん」「私」の当時の人間
関係を、冷静に、また礼儀にも孛ることなく、なるべく分かり良く言い表したい、また、そうすべきだという配慮ないし協議さえ、出来ていたからでしょう。な
にしろ「奥さん」の承知や同意や協力が、大きくものを言う公表の筈です。承諾無しに強行するような「私」ではないし、「奥さん」が、夫の後追い自殺をして
いたなんて推測を許す箇所は、作品のどこにも指摘できないんですから。
では「奥さん」が「遺書」の内容を察していた、「純白」に何も知らなかったわけはないん
だ、だから「公表」に問題はなかったんだ、などと何で言い切れるのか、今度はその疑問に答えましょう。
まず、皆さんに尋ねます。もしも、あなたが「奥さん」「お嬢さん」の立場にあるとしてで
すね、「お嬢さん」は当然のこと一年一年成長し、思春期に入って行くわけですが、そんな家に、帝大の青年が二人も同居してきて、この、かなり賢い母親と娘
とがですよ、男たちの噂話や評判を、していなかったなんて想像できますか。あなたがたは、しませんか。するでしょう。しなかったら不思議ですね。ものの
分った母親は、もともと男二人は迷惑だ、宜しくないと、「先生」に忠告していたぐらいです。その懸念が的中して、「K」は自殺してしまった。あんなに仲の
よかった「K」に、「先生」は「お嬢さん」に求婚したとも、承諾を得たとも、告げませんでしたね。「奥さん」はそれと知って、「先生」に剣突くを食らわし
ています。そしてその直後の「K」の自殺でした。「奥さん」はテキパキと処置して、「先生」を指導もしていた。
娘の結婚を現実問題と見きわめて、貧乏な「K」より、財産もあり人も良い「先生」の方
が…なんてことは、かりにもあの母親は考えていますし、年頃になっていた「お嬢さん」だって、そりぁ、夢中で考えていたでしょう。あのよく笑う「お嬢さ
ん」は、いくらか、男二人を手玉にさえ取っていた、けっこう、したたかな女性です。とてもとても夫のあとを追って死ぬ人ではない、生き抜くタイプです。
結婚のあと、かなり長期間「先生」は荒れています。妻も姑も、ほとほと胸を痛めたでしょ
うし、何故かと話し合うのも、当然です。黙りこんで眺めていたなんて、不自然です。と、なると、突き当たるのは「K」の「変死」事件です。「先生の奥さ
ん」は、自分から口を切って、「私」に、「K」の変死を告げながら、夫の無残な変貌を、どうにか解釈して欲しいと愬えていたくらいです、何が「純白」なも
のですか、考えようによれば「先生」より、もっと辛辣に、事の本質を見抜いていたのが、この「奥さん」「お嬢さん」であったとさえ、読み取れるぐらいで
す。それなのに、女ふたりとも、まるで人形だなどと軽視し、無視してきた、従来の『心』読みたちは、いったい何を読んでいたのでしょうか。
いやいや、そうじゃない。あの「先生の奥さん」の、
「静」という名前は、明治天皇に殉じて自決した乃木将軍、その夫希典に殉じて自決した、妻「静子」の名前を用いたものだとして、「先生の奥さん」も、だか
ら夫のあとを追って自殺したんだという説も、あったのです。もっともらしい説です、が、私の考えを、聴いてください。
この作品の中で、実名を与えられている主要人物は、奥さんの「静」だけです。ほかに、
「私」の母親が、「お光」と夫から呼ばれている。あの『三四郎』の故郷で、彼と許嫁のよう
に言われていたのが「三輪田のお光さん」ですから、三四郎が美禰子に失恋したあと、もしこのお光さんと結婚して、『心』の「私」の父親になっていたかのよ
うに想像してみるのも、ちょっと面白い。と言いますのも、『心』の「私」という青年は、あの「三四郎」君を、いかにも柔らかに裏返したみたいな、臍の緒の
同じい人物とも読めるからです。
しかしその一方、「私」は、あの「K」の再来のような存在だとも見える。「先生」もその
ように感じていた気がしますし、「奥さん」も、最初ッから、そんなふうに感じていたんじゃないか。だから無意識に、あんなふうに墓参りの話もしてしまった
んじゃないか。「K」を死なせました「先生」の胸の中には、「K」が愛した「お嬢さん」「奥さん」を、なんとなく「K」の再来かのような「私」の手に、安
んじて委ねておいて、自分は「K」のところへ死んで行こうと、そういう深層の衝動が、働いていたんじゃないか。この私は、そう読みたいんです。だから俳優
座の舞台でも、最初、熱心に加藤剛の「K」と「私」の二役を、私は希望したんです。
それは、ま、深入りをしませんが、要するに「先生」の悲劇は、彼がついに「静かな心」
というものを持てなかったところに有るのは、確かだと思う。「静か」という言葉が、この小
説の要所要所に現れて、それらは、「先生」の騒ぐ思い、揺れる心を示しています。実に大事なキーワードです。言うまでもない、まさに、そこに、「先生」が
深く深く愛しながらも、妻の「静」を、信じ切れずに終わった……、我が物=「我が、静かな心そのもの」として,遂に所有できなかった、という事実が表れて
いる。象徴的に表れている。
ご存じの方も多いでしょう、『心』は、岩波書店開業の第一冊だったんです。彼は『心』
の出版を先生に懇願し、漱石は本の装丁を自分に任せる事を、条件の一つにして許可したので
す。その結果、あの『漱石全集』の特色ある装丁が出来上がったというわけです。
ただ、ここに一つだけ、『心』のための、特別のこしらえが用意されていました。表紙の表
に、四角い窓を明けまして、そこに中国の辞典の一つから、「心」なるものについて書かれた或る部分を引いてきて、その窓に嵌め込んだのです。第一番に「荀
子解蔽篇」の説が挙がっていました。以下数行、別の本の説も載っているんですが、その、どれもが、或る示唆を持ち得ているんです。即ち、すべて「荀子解蔽
篇」の根本の心の説に合致している。漱石は、よくよくそれを理解した上で、ここに挙げているらしいのです。
「解蔽篇」で、荀子が力強く説いていたのは、「心」には「虚」と「壱」と「静」という、三
つの性質があるということです。分かり良くいうと、凡そこうです。
「心」は、無尽蔵になんでも容れることができる一方、いつでも「虚」つまり、からっぽにも
なれる。また、あれへこれへと八方に働きながら、また、たった「壱」つの事に集中することも出来る。そして「心」は、いつもその中心のところに、実に
「静」かな一点を、しっかり抱いているものだと。その、「静か」という一点の真価が、まさに「心」の命、「心そのもの」なんですね。漱石は、これを知って
いた。だから第一番に、「荀子解蔽篇」の挙がった「心」の記事を、わざわざ、表紙に窓を明けて、嵌め込んだ。
「静かな心」が持てなくて、苦しみ抜いた「先生」でした。「先生」は、「静」さんとの静
かに幸せな夫婦生活を、どんなに心から願っていたことか。だがそれは不可能でした。「奥さん」の名前が「静」であることの、辛辣で、切実な意義は、明らか
です。
「虚」と「壱」と、そして「静」との荀子の説を知ってみれば、「静」の名が、乃木将軍の
奥さんの名と同じだからといった説は、ニュース記事ふうの趣向としては少し面白いけれども、所詮はその程度のもので、比較にも何にもなりません。
そもそも、小説『心』は、人間の「心の研究」をうたって構想された作品です。何よりも、
「先生」と「K」と「静さん」と「お母さん」と、そして「私」との、少なくともこの五人が、がっちりと、構造的に組み合って、一つの「心」を真剣に探り
合った小説です。その中で、「お嬢さん=先生の奥さん」に限って、「静」という実名が与えられている。荀子の「心」の説を、あんなに重く見ていた漱石にす
れば、「静さん」こそ「先生」の、また「K」の、さらには「私」の、心から愛し求めていた「心そのもの」であったんだと、まるで、作者の解説をハナから得
ていたも同然ではありませんか。明治天皇が何人死のうが、乃木夫妻が幾組み殉死しようが、「先生」の目の前に「私」が登場していなかったら、信頼されてい
なかったなら、あの「先生」は、「奥さん」を一人ぽっちで残して、自殺は、結局出来ずじまいであったことでしょう。それほど「先生」は、「奥さん」の、幸
福な、若々しい再生…最出発を、祈り、また愛していたのだと、私は、思っています。
「真実の身内」を切望した、愛の小説でこそあれ、死の小説ではないんです、『心』は。
それがたとえボンヤリとでも感じられていたから、こんなにも大勢に愛読されてきたのです。
真の身内でありたいと望む「静」と「私」とに、今しも生まれくるあろう新しい若い命の誕生を、「先生」も「K」も、心から、安心して、祝福しているだろう
というのが、私の「読み」でした。
東工大のある学生がこんな指摘をしていました、
『心』の「奥さん」は、『三四郎』の美禰子が、三四郎をひきつけることで実は野宮を刺激していたように、「私」を介して夫である「先生」の愛情表現を求
め、モーションを掛けていたのではないでしょうかと。
「先生」存命中の「おくさん」の願望としては、それは有り得た心理だと思われます。しか
し結果として「先生」は「奥さん」を「私」に託し、自殺しました。その限りでは悲劇的な夫婦でありました。
すこし、顧みておきたい。
「K」は、「お嬢さん」を聡明な人、可愛い人、笑う人というふうに評価し、評価は徐々に
高まり、「惚れる」に至りました。死を賭した評価でした。けっして「お嬢さん」を軽くは見ていません。「先生」の方が、むしろ、「K」の告白があってから
突発し、友を出し抜いているんですね。この優柔さは、漱石作品にはまま見られる特徴です。
『彼岸過ぎ迄』では、千代子の須永に対する猛烈な批判がある。「愛してもゐないのに嫉妬な
さる。それを卑怯だと云ふんです」と。千代子が他の男に関心をよせて初めて須永は動くともなく動くから、やっつけられているんです。
『三四郎』の野宮もそうです。美禰子が他の男と結婚してから嫉妬しています。
『それから』の代助など、本心に背いて身をひき、愛する三千代を友人にむしろ押し付け
た。そうなってから三千代への愛を自覚し、「世の掟」に背いて奪い返すのです。
『門』の宗助は、人妻のお米を愛して一瞬に泥に塗れ、そのことに殉じて「世の掟」に背を
向け生きて行きますが、子は流れ、もう出来ないことを夫婦の受ける「天罰」と感じています。『心』の「先生」と同じ精神構造をしている。
『行人』の兄一郎は、弟二郎に現に嫉妬していながら、その弟に妻の「貞操」を確かめる役
を強いています。
どうも漱石の精神にはこういうタイプの男が住み着いているとしか言い様がない。そしてさ
まざまに人生齟齬を来している。誠実も見えるけれど、卑怯も見える。すくなくも図太くは生きられない。「先生」と「奥さん」に愛は在っても齟齬もあるのも
明らかです。「奥さん」の方がずっと図太く生きられる強さを持っていたに違いない、それがまた「先生」の心を「静か」にさせなかった。
繰り返しますが「奥さん」は、「先生」と「K」との一件を知らなかったか、知っていたか
といえば、知らずにいられた道理は無かった。狭い家です。かしこい母子です。だからこそ「先生」は下宿の当座、こっけいなぐらい母子の言動に被害者意識の
神経を立てていたではありませんか。
それじゃ「先生」抜け駆けの求婚、友を裏切った求婚を、「お嬢さん=奥さん」らは、「K
の変死」ゆえに許せなかったでしょうか。とんでもない。自殺は痛ましいが、難儀は失せたと、ほっとさえしていたでしょう。「先生」の抜け駆けも、若い恋の
よぎない敢為ぐらいに受け入れて、いっそ「先生」のしつこい煩悶が情けなかったでしょう、合点できなかったでしょう。
そもそも「K」が婿がねとして欠格者だとは、母子の間だけでなく、市ヶ谷の叔母さんはじ
め、親族中の、もう申し合わせになっていたとすら思われる。それで自然と読める態度や言葉を、「奥さん」らは繰りかえし『心』の中で漏らしています。
「奥さん」らが心から待っていたのは、「先生」の、ざっくばらんな「K」一件苦渋の告白
と、それに対して「奥さん」らからの慰藉を待ちかつ求める姿勢であったでしょう。
しかし「先生」は、それを徹底的にしなかった。墓参にも同伴しなかった。話題にもしな
かった。妻の「純白」を強いて願望し幻想した。独り妻をおいて死のうとし続けていた。幸福であるべき不幸な夫婦と思い決めていた。妻を信じ切れず、世の中
でたった一人信じているのは「私」のことだけと、明言しています。「天罰」という過酷な表現で、子供の欲しい「奥さん」の根深い願いすら、むげに退け、協
力を拒絶しているのです。
こういう夫婦の隙間へ(むしろ「先生」の意に誘われる体で)「私」が導かれて行きます。
そしてついには「私」と「奥さん」との距離が、「心臓」の動きと「奥さんの涙」とで急接近します。
小説表現の微妙なあやのなかで、あの『門』の一瞬の泥まみれといった表現を背景に見入れ
ますと、まことに危ない男女の接触すら想像されなくはないと論じてきた学生も、東工大にはいました。若い今日の学生のなかには、「先生はコキュであった」
と読み込むほどの者もいたのです。私は、さすがにそうまで読みたくありませんが、「奥さん」と「私」とに、深い心理での接近は、愛は、あったものと当然信
じています。『心』の「奥さん」は、三人の男に愛された「心」そのものだったのです。しかし「K」と「先生」とは「お嬢さん=奥さん」を幸せにできなかっ
た。だからこそ二人の男の化身かのような、まさしく身内かのような「私」の登場が、小説『心』にとって必然の要請だったのです。おそらくは長い長い「遺
書」を書いていた間かその前に、「先生」は「私」の「地位」をも周旋し、信頼に報いていた筈です、そう読むのが「遺書」の意図と信実を高めます。
もう一つ申しそえておきたい。「どこにそんなことが書かれているか」「想像(妄想)に過
ぎない」と非難を浴びることがあります。それも文学研究者を自称する専門の読み手から聞く。本文に則して読み、加えて想像力や相応の創造的センスを働かせ
る。それの出来ない人を、作者は「いい読者」とは歓迎できない。私だけの思いではない、世界的なある作者の弁です。言わで思い、書かで言い、言いおおせて
何かあるという、行間を読み紙背に徹するという、そうした日本語表現の今に久しい素質に対し、理解が無さ過ぎはしないか。そんなことでは、源氏物語「一部
の大事」などまんまと読み落としてしまいます。古今、作者という人種は、存外に作品に仕掛けをしています。意図的でなくても本能的にそれを創ってしまって
いる。漱石も例外ではないごく「意識的」な作家であった。どこにそんなことが…。ばかを言っちゃいけない、それを読むのも読者の読書なのです……。
では、どうか思い出してください。『心』の「先生」は、いま、まさに死なんとして、こう
「遺書」に書き、「私」に、祝福を与えています。
「私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」と。
この「新しい命」というのがいかなる「命」であれ、「先生」が、「私」に、また「奥さ
ん」に、「真実の身内」として生きよ、幸せになれよと願っていたのは、まず、間違いない。万に一つも、あとを追って死んで来いとは誘っていない。さもなけ
れば、あの「遺書」は単なる無駄になってしまいます。されば「新しい命」とは、「静」に託された「静かな心」であり、また、その「静」によって、やがて
「私」にもたらされる、「子供」という愛しい希望、ででもある筈です。そう 読みたいし、そう読める、放恣な妄想をせずとも、まさに本文の表現そのものか
らそう読み取れる、ということを、今日、心をこめて私は話しました。
『心』を読んで、ここまで来た、それも、「真の身内」を願う私の「人生」であり「文学」
というものであったことを、ご理解いただけるなら、「満足」です。
於・昭和女子大学人見記念講堂 (平成八年四月二十五日 午前十時半ー十二時)
ーー秦 恒平・湖の本エッセイ第17巻
『漱石「心」の問題』 1998.9.15刊 所収ーー
藤
村作「破戒」の背後 (講演)
秦 恒 平
秦恒平でございます。こういう壇の上に立とうとは、ゆめ、思いませんでし
た。お引き受けしてしまったのを、何度も後悔しました。皆さんは藤村の研究者でいらっしゃる。私は、確かに愛読者ではありますが、それだけです。他の作家
で、曲がりなりに書いたり話したりして参ったことは、幾らか、有るには有りました、が、藤村については、たったの一度も、ございません。難儀なことに、私
の読んだような文献は、皆さん、先刻よくご存じなんです。受け売りは、まったく利かない。「藤村」理解に付け加えられるものなど、今さら勉強したって、在
りっこないんです。もののはずみというのは、ほんとに怖い…。 ま、事のここに至りまして何を言おうも、無責任の上塗りでしかありません。お許しを願っ
て、しばらくお付き合いをいただきます。あとで質問などして、どうか私を窒息死させないで下さいますよう、前もってお願いしておきます。藤村文学とまとも
に交錯しない方向へ、話を、あえて逸らすつもりでいます。かと申しまして、逸れきってしまうことの決して出来ない話題ーー私の、と限定させていただきます
が、私の「差別」に関する知識なり見解なりを率直にお話ししてみることで、遠巻きに『破戒』の外堀を一寸でも二寸でも掘ってみたいと思うのです。
たいした仕事をして来たわけではありません、が、概
して、私の小説については「美と倫理」とか「幻想」とか「王朝の伝統」とか言って紹介して下さる向きが多いのですが、全体の流れでみますと、最も私の力を
いれてきました主題は、いろんな意味の「歴史的な差別問題」であったろうと自覚しております。むろん人間差別に対し、反省と抗議を示したということになり
ましょうか。そして、それは「京都」で生れ育ったことと無縁ではないはずです。京都は、何と言いましても千年の久しきにわたりまして、いわば貴賤都鄙の集
約された町ですし、私は、その中でも、歴史的にも、風土的にも、社会的にも、色濃く寺社支配の残っています東山区で、明らかに人を差別してきた一人とし
て、育ちました。東山にも、鴨川にも、ごくまぢかに育ちました。「日本の歴史的差別」を考えますときに、この山は紫の東山、水は明らかな鴨川は、無視でき
ない大きな大きな意義をもっておりまして、そこに育まれました問題が、また、藤村の『破戒』に見られますような差別問題と、そう疎遠なものではありえない
という事を、問題を、かなり時間的にも空間的にも押し広げまして、お話ししてみようと思うのです。それならば、藤村研究と即かず、またしかし離れることも
なく、私なりに、責を塞ぐことが出来ようかと思うのです。
長い前置きのついでに、それでも、藤村と私との関わりをちょっと、ごく私的にお話しして
置こうと思います。
私の育ての母親は、おそらく自分で実際に読んだとい うことは無かったに違いありませんが、明治三十四年に生まれておりまして、小説家や詩人の名前を、ときたま、口にするぐらいのことは致しました。例の、紅 露逍鴎といい夏目漱石といい、芥川、菊池寛、谷崎潤一郎なども、いま思えば、まるで知り合いの小父さんみたいに口にしましたし、泉鏡花や国木田独歩や田山 花袋の名も知っていました。どういう情報によって知ったものか、我が家には、絶えてそのような小説本の影も形も、在ったためしは無かったのです。ただ、祖 父の趣味だったと思われますが、漢籍はかなり豊富にございました。唐詩選、古文真宝、白楽天詩集などは、子供ごころに気をひかれ、よくひろげました。日本 の古典も、湖月抄や俳諧ものや謡曲本などがあり、例えば謡本の、扉の裏の梗概など、面白がって読んでいました。私は、ことに日本の国史に興味をもち、明治 時代の通信教育の教科書などがありましたのを、むさぼり読みながら幼稚園から国民学校三年生ぐらいまでを、つまり戦火を避けて丹波の山奥に疎開いたします までを、京都の町なかで過ごしました。すぐ近くに、上田秋成や、たぶん与謝蕪村なども住んだことのある、知恩院の袋町がありました。
ちょっと話が前後しましたが、じつは島崎藤村の名前
も母に聞いたのが最初でした。母は藤村の作品として『若菜集』と『破戒』を、名前だけでしょう、知っていました。詩と小説とであることも知っていました、
が、読んだとは思われません。
私は、恥ずかしながら、国民学校の、あれは二年生だった筈ですが、自分も小説というもの
を書いてみたいと思い、なんでも、武者修行に出て行く侍の門出から書き始めまして、ものの三行も書けずに、こりゃ大変じゃと投げ出しました。小説家の名前
ばかり聞いて、なんとなくえらいものに思ったものの、作品は全然知らない。小説といえば、猿飛佐助や霧隠才三のようなのを書くものと思っていたのが、これ
で、ばれてしまいます。
なんだか、母の話ばかり致しまして恐縮ですが、今年で九十六になり、まだ、なんとか私や
家内と、筆談ができます。耳は全然聞こえません。で…、その母に、あれは私が高校の一年生ごろのことでしたが、谷崎さんの『細雪』が一冊本で出ていたの
を、なけなしの小遣いで買いまして、読みまして、母にも見せました。母は読んで、「これは、ええ小説やね」と、一言、感想を漏らしました。あのとき私は、
自分の母を尊敬しました。そして、もし本が読みたいだけ読める暮らしを、もし母がして来れていたなら、いろんな知っていた小説家たちの名前も、もっともっ
と母の心を豊かにし得ただろうにと、気の毒に感じました。残念な事に、私が、どんどん本を溜め込んで行くようになりました時分には、もう母は、骨の折れる
読書などに、気を向けようとはしませんでした。
私自身は、藤村文学との出会いは、むしろ、遅い方で
した。筑摩書房から現代日本文学全集が出て、第一回配本が、島崎藤村集でした。昭和二十八年八月初版で、それは久々に『破戒』が初版本文に復元された本で
した。高校三年の二学期に入る直前でした。インクの匂いだかクロースの匂いだか、プンプン・クンクンするのを、清水の舞台をとびおりる気分で ー三五0円
でしたー 買ってきまして、それはそれは夢中で読んでいました時に、『新生』という作品についてふと話しますと、母は、妙に、にやっと笑いました。母は、
つまりはスキャンダラスに「新生」という小説のことを、聞き齧っていたんです。
いったい、母だけじゃないんでしょうが、私の母はとくに、えらい人の名前を、或る種のス
キャンダルと一緒に覚えていることが多かった。作家だから尊敬して覚えていたんじゃない、作家には自然スキャンダラスな話題がこびりついていたということ
になります。作家だけじゃない、母は、上村松園といった閨秀画家のことも、要するにアンマリド・マザーとして認識しながら、私に、その名をいつ知れず教え
込んでいました。そして私は、後年に彼女を、松園を、小説に書かずにいられなかったのでした。
スキャンダルであろうと無かろうと、「新生」は私をびっくりさせました。ああいう話に
びっくりしたというのでは、ありません。作品の力にびっくりしました。「新生」を読み出した日、その頃持病のようにしていました腹痛に、夕方から悩んでい
ましたが、ねじふせるようにして二階の自室に腹這いまして、うんうん唸りながら「新生」に取り付きました。そして、いつのまにか腹痛など忘れ、寝るのも忘
れ、明け方までまじろぎもせずに三段組みの長編を、ぜんぶ読んでしまいました。母との間で「新生」が話題になったのはその徹夜のためでした。そして母は、
なぜか、にやっと笑ったのです。
「新生」に優るとも劣らぬ感銘を得ましたのは、それより二、三年して古本で手に入れた
「家」でした。さらに雄大な感動をもって読み終えました作品は、「夜明け前」でした。これは、しかし東京へ出てきてからでした。講談社版の、百冊以上もあ
る全集を一冊一冊買っていました。そのうちに、私自身、小説を書き始めていました。その頃に「夜明け前」を読んで、深々とした読後感に満たされました。
笑っちゃいけません、私は、こんなふうに思ったんです。これは、この小説は、長い長い日
本の無明長夜を、とりわけ「神と仏」とが熾烈に闘って来ての「夜明け、前」を書いたもんだと。そういう長いサイクルで、私は、ものを見てしまうヘキが有る
んですね。しかし、それについては、今日は、これ以上触れません。
昭和四十四年六月に第五回の太宰治賞を受けましたと
き、選評のなかで、太宰治とずいぶんタチの違う作風だと言われていました。事実、私は太宰をあまり読んでいませんでしたし、太宰治賞のことも、雑誌「展
望」の存在すら知りませんでした。賞は、偶然の事情で向こうから、招待状のように舞い込んできたのでした。
で、その受賞の記者会見ででしたが、尊敬する作家はと聞かれました。即座に答えたのが
「藤村・漱石・潤一郎」でした。一瞬座がどよめいて、なんだかむちゃくちゃに写真のフラッシュが焚かれ、ぼおっとしました。けれど、そう言ったことは実感
でした。今でもそう考えています。この三人、家と詩性の藤村、私と心との漱石、性と美との潤一郎の、それぞれに抱えた文学的課題が、打って一丸となって達
成されるほどの日本文学が生まれれば、どんなに立派かと、ま、こういうのを素人考えというのでしょう、が、自分の仕事は棚に上げておきまして、夢見ている
という次第です。
そこで、唐突に、本題に入ります。ところが、その本
題も、なんだか閑話休題じみ、とりとめないと、そう思われるかも知れません。微妙に難儀な話題であることを、学問学会の名においてご了解いただきながら、
ちょっとだけ、ご一緒に考えてみたいと思います。
私ごとばかりを申しますが、『からだ言葉の本』というのを、昔に、筑摩書房で出しており
ます。「腹芸」「肘鉄」「目を付ける」「腕が立つ」「背に腹は替えられぬ」「尻餅」「顎を出す」「爪弾き」「肩すかし」などと挙げますだけで、私の命名す
るところの「からだ言葉」は、説明の必要もなしにお分かり戴けましょう。おそろしい数、これが日本語の中にございます。そして日本人ならほぼ説明の必要な
く、意味をとり違えることなく、日々に愛用され慣用されています。いわゆる慣用語の最たるものです。その本には、その語彙集も大雑把に編んで収めました。
ついでに「こころ言葉」も…。「心根」「心得る」「心づくし」「心から」「気は心」「心底」「無心」などというもので、これまた慣用語の微妙なものとし
て、日本語を特色づけております。これについても、昔から、継続して発言し、また書き次いで参りました。日本人の「からだ」と「こころ」に就いて、ものを
言うのなら、これら極めて具体的な「からだ言葉」「こころ言葉」を通して考えるのも、実に実に大事な手続きであると、ま、そう信じておるわけでございま
す。
で、その厖大な量にのぼります「からだ言葉」の中でも、体の、どの部分に熟した「からだ
言葉」が多いかといえば、第一に「手」です。ものすごく有る。次いで「目」と「頭」です。それぐらい「手」「目」「頭」に、人の意識は集まっていた。人体
の部位で、「からだ言葉」に熟していない箇所は、ま、足の裏ぐらいなものです。掌には「掌を返す」というのがある。
「手」という漢字を宛てた「手ことば」の、最もお馴
染みのものを挙げてみますと、上と下、これに手の字を添えた「訓み」が幾種類もありますね。「じょうず=へた」「かみて=しもて」「うわて=したて」
「じょうて=げて」「じょうしゅ(ず)=げす」
中学だったか、高校でしたかの国語の教科書に採用されたこともあり、もう古証文なんであ
りますが、要するに、人間は「手」を使います。最初は「手当たり次第」の「手さぐり」ですが、おいおいに「手順」「手続き」を発見して行きます、つまり文
明が「手」に導かれて行くわけであります、が、この、「手さぐり」「手当たり次第」から「手順」や「手続き」への道程で、適切な「手加減」や「手直し」
が、細心に成されねばならない。
ごく象徴的・比喩的に申すのだとは、ご理解願いますが、ここのところで先ず「じょうず」
と「へた」とが、個人の、集団の、種族や民族の、国の「運命」を分けて来た。それが、「歴史」です。歴然としております。あげく「じょうず」なものは、い
つか「かみて」を占め、いつも「うわて」に出て、「じょうて」の文物を、欲しいまま用いまして、「じょうしゅ」つまり王や覇者や貴族や上つ方と、名乗り
も、呼ばれも、するようになる。
一方、「手さぐり」も「へた」なら、ものの道筋を、優れた「手順」「手続き」として適切
に所有できない、つまり「へた」なものは、いきおい「じょうず」の「しもて」に立つよりなく、万事に「したて」に出て、「げて」ものばかり与えられ、「げ
す」と呼ばれますことに、甘んじなければならない、と…こういう個人や集団や国の歴史がこの地球上に展開されて来たわけであります。
おおまかに申しますと、「上手」か「下手」かで、何と申しましょうか歴史上に分担すべ
き、広大な意味での「手分け」が出来てしまうわけです。私どもも、その「手分け」に応じ、生きている。生活している。これで、誰も彼もが例えば「文学」研
究では、世の中成り立たない。広い世間は、つまりは「手分け」の出来た世界であります。
そしてこの「手分け」というヤツが、また至極微妙でありまして、満足している人もあり、
甚だ不満、甚だ苦痛な分担を強いられている例もある。どうも「手分け」に満足し切っている人の方が少なくて、そこに進歩、向上、上昇志向も働くわけでしょ
うが、つまりは、損や得が、どうしても「手分け」には、ついて回ります。そして大きな得を自覚している連中、つまりは「じょうず」に「かみて」を占め、
「うわて」に出てきます連中ほど、得な手分けのまま、子々孫々まで伝え継がせたいと頑張ります。得な方の、つまり世襲です。王侯貴族たちがそうでしょう。
地主や金持ちもそうでしょう。
こういう連中が、世襲の「得」を、永代抱き込むためには、いきおい「損」な手分け、
「損」な世襲を他者に押し付けておきたい。うっかり「手分けの手直し」などしては何が押し付けられるやら分からない。革命を恐れるのは常に「得」な、
「楽」な手分けに安住してきた連中であり、一方不利な、「損」な、「苦痛」な手分けを代々世襲させられた者は、当然ですが、その桎梏をはねのけて、「手分
け」の「手直し」を切望するでしょう。 ま、大なり小なり、人間の世の中は、そういう損得や、分担・手分けをめぐる複雑微妙な網目を成していると申しまし
ても、これを否定できる人はいないでしょう。
一つ、ここに、大きな大きな円卓が在る、大勢が、この円卓を囲んでいるとしましょう。
円卓の上には、無数の、形あるもの・形無きものが載っていると、想像してみて下さい。そし
て、いちばんすばしこく上手なヤツが、真っ先に手にし、一抜けたと、一人高い場所へ上ってしまいます。その手には王冠が握られていた。ま、そんな具合に、
皆が、てんでに、我勝ちに、円卓上のモノを掴んでは、己が手持ちに従い手分けの場に赴きます。そこに「損得」や「美醜」や「強弱」や「苦楽」などの選択肢
が働いてくるのは自然当然です。少しでもマシなのを取りたい。そして後へ残ってくるものほど、不満や不足や不愉快や不利益の度が強くなる。そう想像して、
不自然ではないはずです、あくまで象徴・比喩的にですが。 では、いったい、最後まで円卓に残されてしまうのは何なんでしょう。
私は、最後にその場に残った二人の兄弟が、目の前にした二つのモノは、それは、一つは
「神」で、一つは「死体」であったろうと思っています。
文明を持っていようと、持っていなかろうと、「死」
「死者」「死体=死骸」の三つとは、人類在るかぎり、太古このかた、付き合ってきた。付き合わずには済まなかったのです。中でも「死体」と「死」という観
念、この二つは、最も早く、人間の視野と理解とにこびりついたと思います。見るも無残な死骸=死体の、変容と腐乱は、古事記のイザナミの死に、黄泉の国の
描写に、はっきり見えています。「死」への恐れ=畏怖、「死体」の穢れへの恐れ=忌避。その「死」から、死者なる「神」が生まれ、「死体」からも、死者な
る「神」が生まれました。前者の神は、おそらくは古事記に「そのミミを隠したまひき」とありますような、根源の姿を自然と化したような、観念の神でしょ
う。一方、具体的に「蛆たかり、とろろぎ」て腐乱死体と化してしまう変容の死者も、神とされ、敬遠ないし忌避の対象となります。霊魂の神でしょう。
歴史が堆積すればするほど「死」の観念は、むしろ背景にますます隠れ、前景に「死者=
神」と「死体」とが、処置を要する対象として、いつも取り残される。取り残したままでは済まなくて、結局は、誰かに、その面倒を見て・扱って貰わねば困る
わけです。
円卓の側に、最後に取り残された兄弟は、余儀無く、兄が「神」を、弟は「死骸」を、己が
分担として手にします。「手分け」を、受け入れるしかなかったのです。祭りと葬り。祝ぎと清め。どっちも、欠くことは出来なかった。しかし、誰も、自分で
はしたくなかった。いわば、押し付けたわけです。押し付けて置いて、しかし、その手分けを、けっして代わってやろうとはしなかった。身寄りの死者であり、
生前は偉大な力をもったり、絶大な愛の対象であった死者の場合ですら、「死体」と化し「神」という死者と化したからは、出来るかぎり専従の世襲者に、代人
に、その面倒見を委ねて行きます。平安時代も中期までに、既にその風を伝えております「金鼓(きんく)打ち」のような、死者の供養に、あちこち、霊験で以
て聞こえた寺や社へ、金鼓を打ち打ち代理で参詣参拝する、いわば代参を業といたします者が現れています。「死・死者・死体」をめぐって、大きく申しまし
て、信仰と芸能とが、大昔、神代の昔から、日本でも、しっかり手を繋いでいる。
神楽の起源として語られております、例の、天の岩戸前での、あの、アメノウヅメらの「歓
喜咲楽」の様子、あれなどは、まさしくアマテラスのための葬送儀礼、ないし魂よばいが、幸いに成功した場面として語られておりまして、いかにも神事芸能の
淵源と言い得るものを示唆しております。また、天つ神々の命をうけ、国譲りの交渉役として地上に派遣されながら、国つ神々に籠絡されましたアメワカヒコ
が、高天原からの矢に射抜かれて死にましたあとの、「日八日・夜八夜を遊びたりき」と語られております「遊び」にも、明らかに葬送儀礼としての芸と遊びの
さまが、彷彿としております。
さらには「遊部」の伝承、それに発しまして後々の、「猿女」のこと、「猿さま」の女が宮
廷まぢかに出入りしまして、歌・舞いの芸に遊ぶ様子を報告しております『枕草子』の記事、そしてまた万葉集から梁塵秘抄どころか今日の港・港に至ります長
きに亘って、いわば水辺の、また山辺の女でもありました遊女たちの、性と芸での神(まれ人=男客)への奉仕など、はなはだ示唆するところの豊かな、「葬り
と遊び」との切っても切れない習俗が、否認出来ないわけなんですね。鳥居本といわれ、またお寺の境内にまで、遊所・遊郭ができて行く、水駅ができて行く。
参詣参拝という信仰の行為に、そういう女たちの性的な、また遊芸での奉仕を期待する楽しみ、そっちの方が優先しそうな「旅情」の演出が、いかに楽しまれた
かは、盛んな熊野参詣や、厳島参詣や、お能の「江口」「住吉詣」「熊野」など、これを支持する例証はふんだんにございます。
芸能がいかに華やかになりましょうとも、そこに、常に死ないし死体、さらには死者への深
い畏れや、忌み避ける気持ちが、下敷きに秘め抑えられていたことは、それがまさに、日本での、また世界での、根の深い芸能差別の理由でした。芸能は、死者
の荒ぶる霊魂を宥め葬りつつ、裏返しには、生者のために寿福と延年とを祝う職掌にありました。それが「手分け」になっていた。観世・宝生・金春・金剛・喜
多といった能楽座のめでたい名乗り、例えば万作とか千五郎とか文楽とか喜左衛門とか成駒屋とか、芸の一つ一つの中仕切りに「おめでとうございまぁす」と叫
ぶ雑芸軽業とか、みな、祝う、言祝ぐ、つまり祝言の芸としての役割に忠実な、めでたい名乗りであり作法でありますけれど、その根底には、死・死者ないし死
体との膚接が、歴史の名において認知し続けられていましたから、漠然とではありましたが、どこかに畏れ・忌み・避ける態度が持続され、その感情に添いまし
て、それを利用致しまして、「近世の身分化」が法制的に強行されてしまった。
言うまでもなく、その背景に、その根底に、は、無量無数の差別への前提事例が、古代の律
令制の中ですら積み重ねられていて、その丁寧な検索はまだまだ出来ていない。検索されないままに、じつに謂われのない、「人種の違い」といったような決定
的な笑うべき誤解、或る意味で我田引水の都合良い誤解が、ことさらに先行してしまいました顕著な例の一つが、『破戒』です。
藤村は、または丑松の意識にも、「人種」という、とんでもない言葉を用いて、差別の理由
を固定化していますが、藤村の頭に、その根拠など、ほとんど無い。狭い範囲の慣習を盲目的に追認しているだけです。しかし、そこに「死体=死骸」処理にか
かわる何かの視野を有していたことも、また、表現や叙述のなかに幾度となく見受けられる。ただ藤村には、死と死骸とをめぐる久しく久しい歴史上の役割分
担、その社会的・階層的な世襲の強要、信仰と芸能との不可分であった伝統、まれ人として漂泊した芸能人たちの祝言芸の根のところへは、認識は殆ど及んでい
ません。人種差でも何でもない、政治の悪意が便宜に固定化してしまった「手分け」の問題でもあったことを、まったく認め得ない無知のなかで、「破戒」は書
かれています。力作であり、文学史的にはじつに貴重な傑作であると推すに躊躇するところは、まったく無い。無い、けれども、そのモチーフかのように利用さ
れました差別問題への認識・知識は、じつに嗤うべきヒドイものでありまして、これに猛然として抗議をよせました人たちの議論は、その観点に限って言えば、
実に正当であると同時に、強烈に文学的な批評たりえています。ただ付録かのように扱うのでなく、『破戒』論の基本文献として、つねに参照されて至当な、読
ませる文章になっている。
それですら、差別を、近世の政治的桎梏の程度に限定し過ぎています。もっともっと人類社
会の根源に発した、「手直し」を拒まれ続けた、不利な、損な、いやな「手分け」、強いられた分業という「手=職掌」の問題として見直すべきだと思う。
ところが「手直し」「見直し」は容易に行われずに、それを、「人種」といったばかげた固
定化へ、つい、下心や恐れもあって人は持っていってしまいます。その証拠堅めかのように、いろんな勝手な伝説をつくり挙げて行く。じつに歴史の悪意という
のはむごいものでありまして、みんなで渡れば怖くないとする大衆は、これに便宜に応じて、片棒どころか、全面的に差別やいじめを当然の役のように振舞って
来た。明らかにそういう歴史がつい最近まで、どころか、今も、続いていて、いつまで続くやら知れたものではない。
藤村は、何も知らないと言いましたが、むろん、或る面で、これは私の言い過ぎです。 ご
承知のように、藤村に『海へ』というエッセイがある。その第一章の冒頭で藤村は、「再生」の願いを抱きながら、「海」という名の「死」と対話しておりま
す。
自分の周囲にあつたもので滅びるものはだんだん滅
びて行つてしまつた。私は自分独 り復た春にめぐりあふといふ心持が深い。私はいつまでも冷然として自己の破壊に対す ることが出来なくなつた。ふと私は
思ひもよらない人の前に自分を見つけた。
『君は。』
と私が尋ねて見た。
『僕は海から来たものです。』
『海から?』
『さういふ君を誘ひに来ました。」
この言葉に私は力を得た。私はその日まで聞いたことの無い声をその人から聞いたや う
な気もした。左様だ、心を起さうと思はば、先づ身を起せ。海から来たといふ人は一 すぢの細道を私にささやいて聞かせて呉れた。私は長年住み慣れた小楼
を、幼い子供等 を残して妻が死んだ後のがらんとした屋根の下を去らうと思ひ立つた。老船長よ、死よ、 と呼びかけて地獄の果までも何か新しいものを探し
求める為に、水先案内を頼んだ人も ある。死よ、その水先案内を私も一つ頼もう。
例の『新生』事件を背景に、深い読みも浅い読みもい
ろいろ可能な箇所ですが、私は、そこへは関わりません。ただ、藤村が、「海」に「死」を、「再生」と表裏した「死」を、感じとっていた事実だけをここで指
摘します。地球規模に於て伝統的な、いわば単に知識の問題に溶かし込んだだけの、認識だ、とも言えます。同じ伝統でも、島国日本の古来の感性に根差した理
解を、奥深くから汲んだものとも、だが、申せましょう。
たしかに日本の、死も、生も、海とのかかわり抜きに語ることの出来ない民俗により、支持
されて来ました。もとより日本の海は、日本の山へ、いきなり続いています。南方の花祭が天竜川の最上流の山奥に綿々と保たれてきた事実一つを挙げれば、足
りるでしょう。そして、それを可能にしたのは川の働きでした。海と山と川とに、日本の死は、死と表裏した生の繰り返しは、支えられていました。さらにいえ
ば海は天とも遥かに溶け合っていました。「アマの原」という時、遥かに天と海とは一つものと意識されていました。国は、天と海とに挟まれた世界であったと
思われます。そこに世界と世界との交渉があったのでしょう、天津神と国津神との国譲り神話は、太古の政治ドラマを、優に想像させます。
しかし、その方向へ私は話をもって行く気ではありません。
話を海へ戻します…と、海あり、川があり、湖や沼や池もある、湿原・湿地もあった。日本
の風土は、莫大な山地と狭い平地を覆うようにして、それらに織り成された世界でした。しかも、一言でいえば、つまり「水」に浸された世界でした。海と山と
平野を、水が支配していた。「水の神」が支配していたとすら、言えるはずです。それは、あてずっぽうではない。日本中で、真に古社と言われるかぎりの古社
に祭られた神々を調べて行けば、ほぼ例外なく「水の神」です。「水神」や「海神」です。もっとハッキリいえば、性根は「蛇」の神が殆どです。諏訪の神事の
根は、藁の蛇体を室の中で、神官が大きく育てて行くものです。諏訪湖の「お巳渡り」もそうなら、蛇の化身とされる太刀を逆立て、その上に座って、国譲りの
交渉に抵抗したタケミナカタの神話も、それを明かしています。出雲、熊野、三輪、住吉、八坂、松尾、気比、八幡、伊勢、稲荷、厳島、竹生島、白山、佐多、
鴨、琴平、丹生、貴船、三島、熱田、籠、鹿島等々挙げれば際限ない、どの神社も、まず間違いなく水の、海の、川の、湖の神々、それも根は、蛇体へと辿り着
くことになる神々を祭っているのです。水の神は、そのまま農事や猟り漁りを守る神でも在り得ました。
蛇や龍への畏怖は、人類全体に、大きな根深いものでした。その豊かな生殖の能力を、目の
当たりにしていた日本太古の人々にとって、結界を意味したあの「しめなわ」のようなシンボル、青竹や綱で長虫を印象づけた民俗は、極めて自然でした。人の
側からも、蛇なる神の側からも、お互いに、ここから先へは、出て来て下さるな、踏み込むな、という微妙な場所に、そういう神社は建てられ祭られてきたこと
は、その地勢に鑑みまして容易に知れる、見て取れるものです。神ではあるが、それは「生」と表裏した「死」のシンボルでもあったし、その正体は蛇かのよう
に見立てられて、恐れられた。崇められた。
神は祭られるものでした。祭られるものとして祭るもの、神に仕える、奉仕する者、を要求
していた。それは重労働でした。「髪落ち体痩かみ」痩せ衰えてと古事記にもありますが、とても女には負担のきつい仕事でした。遊部の職掌を伝えました古伝
承にも、喪屋に籠り、死者の鎮魂慰霊に勤めます身分は、どうか男であってもらいたいということを、職掌を伝え保っておりました一族の女から申し出たことが
語られております。しかし全体に神に奉仕して、つまり死者の霊魂に奉仕し、その荒ぶる威力を静め・慰めた担当者は、つまり遊びの女たちであった。神の妻と
して性的な奉仕と歌い踊りの芸能による奉仕を事としてきたようです。大神や末社どもを遊ばせた遊所の風を思ってみれば分かりは早い。 しかし、そういう
「生き神」様との遊びで、事は済みません。現実に人は死んで死骸と化し、人の側では無数に鳥・獣も死んで死骸を晒します。死の穢れ畏れをそのままに人は日
常を暮らして行けません。神を祭る職掌と重なって、死体と触れ合う職掌も分担された。 藤村に、『海へ』『エトランゼエ』と並んで、フランスから帰国後に
『幼きものに』という、子供むけのお話の本がございます。その最初の呼び掛けが「驢馬の話」です。
太郎もお出。次郎もお出。さあ父さんはお前達の側
へ帰つて来ましたよ。一つ驢馬の お話をしませう。仏蘭西の方で聞いて来たお話をしませう。
ある時、年をとった驢馬が自分の子を幾匹も連れて、草藪の側をポクポク歩いて行き ま
した。そこへ悪戯好きな学校の生徒等が通りかかりまし た。『驢馬のお母さん、今日 は。』とその学校生徒の一人が挨拶しました。驢馬は何と言って、そ
の時返事をしまし たらう。『オオ、倅共か、今日 は。』
仏蘭西あたりでは、驢馬とは馬鹿の異名です。いたづらな学校生徒がその驢馬を年よ り
と見て馬鹿にしてかかったのです。『馬鹿のお母さん、今 日は。』斯ういふつもりで、 からかつたのです。そこで驢馬は、ふざけることの好きな少年に、
すこしばかり『礼儀』 といふものを教へたのです。
あの年をとつた驢馬の返事を、もう一度繰返して御覧なさい。
『オオ、倅共か、今日は。』
こう結んでいます。藤村は、なにも民話を拾いあげて
「幼きものに」語ろうとしていたわけではない、続く話題をみれば明らかです。この「驢馬の話」は、甚だ寓意的に感じられるのですが、では、何を寓意しよう
としていたか。「学校生徒」と「驢馬」という顔合わせが、既に寓意的です。驢馬が「馬鹿の異名」なら、学校生徒は、教育のある、しかも「悪戯好き」で「ふ
ざけることの好き」な人間を代表している。しかしこれを動物と人間の問題とは読めない。馬鹿な動物扱いをされている人間と、動物扱いをしている人間との応
答であるのは確実でしょう。それでこそ、驢馬のお母さんが、「オオ、倅共か」と即座に打ち返した挨拶の強さが響くわけです。ただ賢い、愚かといった対比に
は止まらない、明らかに人間差別の実情を見通しまして、藤村は、差別をされる方も、する方も、どこかで、みな親同士であり倅同士であらざるをえない、つま
りそれは人種の差なんかではありえない、背後の社会の機構そのものが孕んできた「悪意と偏見」とに基づくことを、洞察し得ていたのだと読んで上げたい。
「幼きものに」に対し、「あの年をとつた驢馬の返事を、もう一度繰返して」、耳によく聴けとよと教えています藤村は、たんに老人の知恵を若者に訓戒してい
るのでは、ないでしょう。おそらくは、はじめて藤村の耳にも、「瀬川丑松の父」や「猪子蓮太郎」の声が、本質を帯びて、聞こえだしていたのではないか。ま
こと人が人を、あたかも種類の違う驢馬かのように見る、人外に見る、空しさ謂れなさを、藤村は、ようやくようやく骨身にしみ、気付いていた…だろうと思い
たい。
猿、犬にはじまり、げじげじだの蛆虫だのと、人が人のことを譬えて謂うことは、古来あり
ましたが、そのように露骨なものには、まだしも渾名っぽく、空気の抜ける逃げ道がまだあった。しかし、無意識に、意識の深層で、そのように想っていなが
ら、禁忌のように表に出さず、しかし、重大な差別の根に蟠ったもの。歴史的に、また地球規模でも推量して、それは「蛇」や「龍」であったろうと、私は思い
ます。ことに日本の「蛇」意識の背景には、「海」と「水」への信仰が大きく深くものを言っていた。ことに柳田国男との交友と感化のなかで、あの椰子の実を
歌った藤村は、それに気付いていたでありましょう。
ーー
藤村学会招待講演 於・明治学院大学 ーー
ーー 島崎藤村学会機関誌 掲
載ーー
鏡花(と、敬称抜きで呼ばせていただきますが、)鏡花について、纏まってものを書いたことは、私、ござ
いません。学研が、『明治の古典』を選んで、十巻の、大判で、写真の沢山入ったシリーズを出しましたときに、『泉鏡花』編を担当いたしました。
私の選びました作品は、先ず『龍潭譚』次いで『高野聖』と『歌行燈』の三編でした。 『龍潭譚』は、私
の言葉で、現代語訳をしました、そうする約束でした。
『高野聖』と『歌行燈』とは、ご承知のように、現代語訳の必要はございません。
そして三編を通じて、私なりの或る意図を活かして、脚注をつけて行きました。脚注だけを通して読まれま
しても、何か、私の「鏡花観」といったものが、ないし、鏡花に関わる問題意識が、ほの浮かび上がればよいがと、目論んでおりました。
その前後に、どこかで、どなたかと、座談会で、鏡花にふれた話し合いをしましたが、よく覚えておりません。司会が、篠田一士さんであったような、朧な記憶
が残っています。
それよりも忘れがたいのは、前の館長さんの新保千代子さんのご好意で、能登島のあの名高い火祭りを見せ
ていただきました。あれが、とても嬉しかった。あの、前でしたか、次の日でしたか、この井川近代文学館で、「鏡花」について、よたよたと、頼りない、講演
ともつかないお話を致しました。なに、ろくに私自身も記憶しないようなものでした。
その折りであったかも知れません、さきの、『龍潭譚』を訳しました私の原稿を、「館」に、お収めいただ
きました。ご縁、というものでございましょう。
ご縁といえば、新館長の井口哲郎さんとのご縁は、もう話し始めれば尽きないほどで、ただ有り難く、この
場を拝借し、一言、久しい感謝の気持ちをだけ、申し上げておきます。
で、その、『龍潭譚』を訳しました私の原稿で、少しく問題を生じましたことを、思
い出します。
一箇所で、問題が起きたんです。或る箇所で、「渠=かれ」という、いわば異風の代名詞が使われていまし
た。それは誰を、何を、指しているのか、わたしの理解に、異存が提出されたんです。
じつはそのような注目が寄らないものかと、脚注で、ことさらに、鏡花原作の草稿まで持ち出して、その上
で、「深読み」のおそれが無くもないが、あえてこう訳してみたいと、理由を書き添えて置きました。
『龍潭譚』の少年は、斑猫といわれる毒ある虫に、さも嘲弄されますように、山道を誘われ、山道に迷いま
す。
斑猫は「道教え」という名もある虫でして、本文に、「渠は一足先なる方に悠々と羽づくろひす。憎しと思
ふ心を籠めて瞻りたれば、蟲は動かずなりたり」とあります。ここの「渠」が、「蟲」を謂うているのは明らかです。あげく、少年は躑躅の花の燃えるように咲
いた山坂の道で、斑猫を石で撃ち殺してしまいます、が、すでに刺されていて、虫の毒で、面体が変わりつつあります。少年はまだそれに気づかす、むず痒い痒
いと思っている。そしてますます道に迷い、泣き叫んで、優しい保護者の、我が姉を、声いっぱい呼ぶのですが、「こたへやすると耳を澄せば、遙に瀧の音聞え
たり。どうどうと響」いています。その瀧の音の「どうどうと響くなかに、」透けるように、「いと高く冴えたる声の幽に、
『もういいよ、もういいよ。』
と呼びたる聞えき。こはいとけなき我がなかまの隠れ遊びといふものするあひ図なることを認め得」まして、
少年は、やがて見なれぬ土地の子らが事実「隠れ遊び」していたらしい、或る「鎮守の社」にたどり着きます。ほっとして、少年は里心地のうちに、家は近いと
一息つくのでした。
さ、そこで。問題になった「渠」は、章節の見出しを「かくれあそび」と替えまして即座に、こういう風に使われていました。
「さきにわれ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠に認められしぞ幸なる。」と。
さ、この「渠」とは何なのか。何を指すのか。慶応義塾大学図書館の鏡花原稿では、実は、ここの「認めら
れしぞ幸なる」の「認められ」のあとに、二字分の抹消があり、私は、「認められざりしぞ」と打ち消されていたのが、「認められしぞ」と直ったのだと考えま
す。で、「認められざりしぞ」だと、姉を呼んでいたのですから、微妙な「幸なる」との関わりこそともあれ、単純に「渠」は「姉」と読めてしまうのです。し
かし、鏡花は二字を消しまして、「認められ(* *)しぞ幸」いと直し、活字本ではその後、一度も変更されて居りません。 私は、こう訳しました。
「先刻山なかで、泣いて助けてと姉を呼んだ時、瀧の音や「もういいよ」に前途を誘ってもらえて、ほんとに
良かった」と。
そして此の箇所脚注の最後に、「深読みの惑いは抱いたまま訳稿を定めた。他日、論考の機会をえたい」と
書き記して置いたのです。
さて、この箇所について、私に宛てて、直接、異存を申し立てて下さったのは、一人は寺田透氏で、もうお
一人は鏡花夫妻の養女の泉名月さんでした。こう申してはたいへん失礼だが、わたしは、大物を確実に釣り上げたわけです。
三人の間で、しばらく、私信を通じて意見交換が続きまして、やがて終熄しました。だれもが、自説を曲げ
るほどは、説得されなかったんです。
問題は、残されたままになっていて、寡聞にして、他の場所でこれが論議されたことがあるかどうか、私
は、知らないでいます。ま、古証文を引っぱり出すのは専売特許のようなもの故、この辺から、ものを申してみようかな、と、腹を、八分がたくくって参りまし
た。ご心配なく。あまりこまごまと細部にこだわり続けようとは思っておりません。
ここの「渠」の字は、もともと水路や溝を意味しています。暗渠、溝渠などと熟しますね。また、かしら、
親分ふうに、渠魁などとも熟するそうです。「なんぞ」「いづくんぞ」と、漢文では疑問や反語の助字に用いている。それでも「彼」「彼女」風の代名詞なみに
使われる例は、鏡花ひとりに限らないし、また人間だけでなく他の生き物や、擬人化して、物にも宛てて使われている例もあります。
で、寺田さん、名月さんご両人は、この「渠」とは、ここまで物語を読んできまして、実は、まだ作中に全
く姿をみせていない、登場していない、やがて登場してくる、けれども読者は、その存在すら、まだ、全然知らない、或る不思議の「女人」のことだと言われ
る。
なるほど、読者はまだそんな「女人」は見も知らない、けれど、作中の少年はこのお話を、はるか後年に追懐している体裁ですから、その「女人」のことは語り
手は承知している。承知の上での「渠」であるから、読者の知る知らないは問題ではないと、言われる。
しかし、叙述に即して本文を読めば、あくまで頑是無い少年の心理的な現在感覚に貫かれつつ、コトは進ん
でいるのでして、決して後年の海軍少尉の追想・追懐は微塵もまだ混じっていない。それは最後の最期にパッと初めて明かされるんです、だからこそ「締めくく
り」効果も挙げている。少年の現在感覚、それと同調して読み進んでいる読者の現在感覚に即して申しますと、登場もしていないモノを明確に「渠」とは、この
際指さしたくても指せないのが道理であり、小説や物語の、ないし叙事・叙述の、力学というものです。
で、私は、その不思議の「女人」に、確かに「なぞらえられ」ているが、直接に指さした「渠」ではない、
この「渠」とは、該当個所の直ぐ前で、ほんの直ぐ前の語りで、語り手の少年を、道に「迷い子」の窮地から救った、「瀧」ないし「瀧の音」それ即ち「もうい
いよ」という「迷い子からの解放=侵しのゆるし」に、宛てて、読んだのです。少年は或る魔境を侵していたのです。
「渠」は、そもそも常用の代名詞では、ない。「かれ」と読むからそんな気がするわけですが、先にも申しますように、本来の字義を体していまして、白川静さ
んの『字通』によりましても、この「渠」という文字の第一義は、中国の字典『説文』をも引き、「水の居る所なり」とされているのです。本義は、「水」の在
る「場所」を明確に指さしています。沼や池や、淵や瀧。この語りのごく近辺から代名詞的に指さして謂えるのは、「瀧」「瀧の音」が、まさに実在していま
す。そして、件の「女人」は、まだ、その「瀧・瀧の音」の背後に、文字通り、「隠れ」ていましたから、少年も、むろん読者も、女人の姿も存在も予見もでき
ず、ただ「瀧の音」を耳にしつつ「もういいよ」と、迷い子の窮地から放免されたのでした。宥され、助かり、安堵しながら、その背後に、かすかな不思議への
「誘い。いざない」を感じていたというのが、より正確でしょう。この「瀧」や「瀧の音」は、てちゃんと書き込まれています。それは鏡花にも少年にも、聖と
俗を分かつ結界に位置した、さながら「龍」潭への門かのようにきちんと表現されています。
これが、私の理解でした、主張でありました。この「瀧」こそは、物語の題の、「龍」ないし「龍潭譚」
に、文字の姿からもハッキリかぶさり、そして、やがて登場する神秘の女人の「水神」性につながるあだかも擬人化された化性と、私は、読んだのでした。そし
てその「読み」の延長上に、名作「高野聖」と「歌行燈」の読みをも、まさぐって行ったのでした。
これら秀作・名作には、まさに「水の幻影」としての「龍神」「蛇神」が、支配神・地主神のごとく、たゆ
たい生きている。鏡花の世界に、遍満している神様です、化性のモノ、です。
で、今日は、そのお話をしに参りました。じつは「書いた」ものでありますが、私の声と言葉とで、みなさ
んにお話しし、ご批判を願おうと思っています。鏡花から、ぐうっと離れて行くようで、そうでは、ない。鏡花の「誘いと畏れ」に、きっと触れあって参ります
ので、モノがモノ、少し長めにお時間を、ぜひ頂戴したく、お願いします。
(*補注 ここで会場から、この「渠」は即ち毒虫「斑猫」だと考えているという強い意見がでた。「さきに
われ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠(斑猫)に認められしぞ幸なる。」だが「さきに」は時限を特定した指示句であり、明白に「われ泣きいだして救を姉
にもとめ」た時点をさしている。ところが少年は、この毒虫を「その時」よりもっと早くにすでに石で、撃ち殺し叩きつぶし蹴飛ばしている。「認める」は「見
留める=受け容れる」のであり、殺し殺されてしまっている美しい毒虫が、泣いて「救を姉にもとめ」ていた時点での少年を「認めた」と読むのは、本文に即し
て道理を得ない。「道教え」のこの毒虫は、物語の結果から見て少年を不思議の女に誘い寄せる役をしていたのであるが、それは物語をすべて読み終えて識る筋
書きで、文章表現の、また作中人物の「現在進行感覚」を恣に無視した議論であってはなるまいと思うが、どんなものか。)
がらっと話を変えるようですが。あの、飛行機の窓から大地を見下ろしますと、大きな河川ほど、大木の、無数に枝を張ったように見え、また、長大な「蛇体」
の、のたうつようにも見えるものです。シベリアからモスクワへ向かう飛行機では、そんな大河の蛇行が、日本列島とは、比較にならないほど、もの凄い。「蛇
行」という譬えは、河の流れにいちばんよく謂われますね。「蛇」とはいわなくても、大河を「龍」に見立てた例は、天龍川、九頭龍川など、他にも、幾つもあ
る。「水」をさながら「龍」と見立てたのが「瀧」であることも、言うまでもありません。瀧が、そのまま「神」かと拝まれ・祀られます時、例外なく、それは
「龍神」としてであります。
幸いに「龍頭蛇尾」という言葉もございます。それもよし気楽な蛇行を、委蛇として、試みて参ります、
が。
「水」は手にむすぶ。渇きもいやす。煮炊きにも用いる。日常的だけれど、また、広大に茫漠としたものでも
あります。海、河川、池沼、また雨露や雲霧。現代ならダム、また水道水。みな、どこかで一と繋がりであり、その不思議が即ち「水」の恵みでした。畏さでも
あった。
それほどの「水」に、神の住まぬ、また憑らぬことは、人間の想像力では在りえないんですね。水の神は、
日本では即ち「龍ないし蛇」と信仰されてきた。龍宮伝承などが、何のよるべもなく生まれ出た、わけがない。天照る神の子孫ウガヤフキアエズを産んだ豊玉姫
は、龍宮から迎えた龍女でありました。出産時の正体を、「けっして見るな」の禁忌を夫に侵されますと、産んだ子を地上におき、海底に帰り、育ての母の役
に、妹の玉依姫を送りこむ。やはり龍女であったこの姫が、育てた甥神のいつか妻となって、後に、大和の橿原に即位する、人皇第一代の神武天皇らを産んだわ
けです。
どんな正体を夫は見てしまったのか。後にも触れますが、それは、男神のイザナギが、女神イザナミの死
を、悲しみ、追うて、黄泉国に下り、そこで、やはり「見るな」の禁忌を侵してしまったときの、すさまじい「死者イザナミ」の容態と、そう大差のない姿で
あったことでしょう。
「水神=龍=蛇」とても、いわば歴史的な存在であり、スサノオ(子)とイザナミ(母)とに繋がれ、海と黄
泉とを跨いで、「死」の世界に接していた。日本神話ではスサノオが八岐大蛇を討ち、その尾から剣を獲たように、また蛇が、しばしば太刀=剣に譬えられるよ
うに、鉄や銅の技術や社会にも接していた。その「タチ」も、「イカヅチ=雷=稲妻」にリンクされまして、雨や雲に、水に、接していた。スサノオの獲ました
草薙剣は、初め「アメノムラクモ」と名付けられていましたし、天(アメ)と雲雨(アメ)とに違和感は、なにも無いんですね。その眼下には、農耕社会も、
はっきり目に見えてきます。
オロチ大蛇・タチ太刀・イカヅチ雷のそんな連携を、「チ」の一音が通分しています。「チ」が、蛇ないし
蛇体を原意としたであろうことは、「オロチ」「ミヅチ」「カガチ」もさりながら、日本中の多くの神社、それも地主神を祭った地域の鎮守に多く見られる「茅
の輪くぐり」が、なにを象っての信仰かを想えば分かります。「茅の輪」は、蛇形象の愕くほど数多い日本の民俗のなかでも、ことに分かりやすい、まさしく
「チ=蛇の輪」であり、大きな茅の輪を潜って受ける恵みは、端的に、蛇の、豊かな精気でした。蛇が、古来絶倫の精気で「神」なる威力を畏怖されてきたこと
は、人身御供に美しい女体を要求した八岐大蛇はもとより、多くの「蛇婿入り」や「蟹満寺」系の説話が雄弁に物語っています。 ついでに言えば、同じ形象を
「ミの輪」と称している神社や習俗も少なくないが、現在どのような漢字を宛ててあるにせよ、それが「巳=蛇の輪」を意味したことは、「茅の輪」潜りの例
と、なんら変わりはない。蛇の、互いに身をよじり合うておそろしく長時間に亘る性の姿態は、太古このかた多く久しく見聞され、畏怖されてきました。神社の
結界であるあの「しめなわ」の容態に、その姿態が象られているかという観察も、真実であろうと想われます。「しめなわ」を結うた古代の多くの神社、日本の
神社は、あだかも「蛇」と「人」とを分かつ、それ自体が、聖なる「結界」であったのでしょう。
「しめなわ」の巨大さで聞こえた出雲大社は「スサノオ」を、また「オオクニヌシ」を祀っていますが、とも
に「大蛇神」であり「大水神」であることは、大蛇と異体同質の神と目されてきたスサノオが、「海・黄泉」を統べる神とされていること、後者オオクニヌシ
が、後にも触れますように、蛇と縁の濃い、ないし蛇そのものを意味した「オオアナモチ=大穴持」「オオナムチ=大巳貴」「オオモノヌシ=大物主」を「異
名」にしていることからも、伝承のそれを疑う理由が、ない。出雲大社の祭は、今日なお、真っ先に日本海の稲佐浜にうちあげられるという「龍蛇神」を渚に出
迎えまして、行列の先頭にたてて社に入るところから始められています。
諏訪神社は、天つ神に敗れ出雲を逐われた「タケミナカタ」が、いわば押し籠められ祭られた神社であるこ
とは、よく知られています。その祭事は、先ず神官が地下の土室に籠り、藁で、小さな蛇身から、だんだんに大きな蛇体へ綯い上げてゆくという、神秘の作業か
ら始まるとされています。「オオクニヌシ」の子の「タケミナカタ」が、蛇神である心証も、これを疑う理由は、何もない。諏訪の祭事には、聞こえた「御柱」
が、大きな役割を占めていますが、するどく頭の尖った形象が、「蛇」の威力を示しておればこそ、神域の四囲を護っているとされて、きわめて自然なんです
ね。大縄といい御柱といい、諏訪の神が蛇神である心証と、伝承とは、諏訪湖の「オミ」渡りを、祭事絡みに大切に見守ってきたことでも補強できます。「御
身」は、また「御巳=御神」にほかならず、「タケミナカタ」のムザネ、正身が「巳ぃさん」であることと、きっちり呼応しております。
「巳」の文字が出たところで、少し、こだわって置きたいのですが。
よく似た文字に、「己=コ・キ」と「已=イ」とがあります。前者は「おのれ」を、後者は「やむ・すで
に・より・はなはだ・のみ」等を意味している。それに対し「巳=シ」は、和音では「み」で、十二支の第六、蛇が配してありまして、この文字そのものを、古
くから「蛇」と弁えてきました。さきに大国主神の異名として「大穴持神」「大物主神」などと一緒に、「大巳貴神=オオナムチノカミ」を挙げておきました、
が、この表記は、従来は「大己貴」で通って来た。「大きな貴い己れ」では、他からの尊称でなくて、尊大な自称になってしまう。自称でもよいけれども、
「己」を「ナ」と読むのは、じつは意義の上で、縁が全然、無い。おそらく他に用例も無いと思います。
これが「大巳貴」ならば、「大きな貴い蛇」神であり、「大穴持」「大物主」「大国主」「大国魂」などと
も、見るからに太い意義の繋がりをもって来ます。「アナ」と蛇はもとより、「モノ」も、ともに神異を示唆した和語であり、「大きな貴い蛇」は各地で地主神
として、岩の上などに「イワナガ」とも影向し、礼拝され、まさに大地を統べる自然神の意義を負っている。ただ、蛇を、死や穢れとの連想により、つよく忌避
する世俗の風習に影響されまして、ここでも「巳」の字を慣習的に避けてしまい、「己」の字を、代用したものと、私は解釈しております。
しかし「巳」の訓みは「シ」か「み」であり、「ナ」ではあるまいと、一応は言わざるを得ない。しかし、
もし「ナ」に「蛇」の意義が添うのであれば、義訓として「巳=ナ」が成り立っていいでしょう、いわゆる万葉訓みの時代の、これは表記でありますから。
では「ナ」に「蛇」の意義があるのか。有った、と、ほぼ断言できます。
海の民の最たる、安曇族の根拠地でありました博多沖、志賀島の渚から、後漢の宮廷から「漢の委の奴の国
の王」に授けられた金印が発見され、国宝に指定されている。有名な史実です。ところでこの「印の摘み」は「蛇」に造ってありますが、この種の「親授印の摘
み」には、相手国の宗俗・風習への認識を示すのが、いわば作法であったと申します。
わが国では、従来「委=イ」を、あえて「ワ」と読み、ニンベンを添えた「倭」つまり「大和=日本国」を
謂うものの如く、決めてかかってきました、日本国の一小部国なる「奴」の国が、在った、ものと。
しかし「委」に、「ワ」の音はないんです。「奴」の音も「ヌ・ド」で、「ナ」ではないんです。漢の支配
下にある「委奴=イド・イヌ」国の「王に」と理解するのが、素直で、自然であり、「奴」は、「婢」と一対の、つまり男隷への蔑称でありまして、主意は、こ
の「奴」よりも実は「委=イ」の方に在ったろうと私には考えられるのです。
そしてこの「委」こそが、「蛇=イ」に通じている。「委蛇=イイ=うねうねと、なよなよと、曲がってい
る」という熟語にもなる。「委奴国王」とは「蛇に親しみ暮らす者どもの国ないし王」の意味でしかなく、これを「倭=日本の中の、奴=ナという国の王」と読
むのは、「委」の「蛇」イメージを嫌っての、故意に看過しての、歴史的にねじ曲げられてきた、無理筋というものでありましょう。
金印には明らかに「委=イ」とあって、「倭=ワ」とはないのです。だが、それにもかかわらず、ここから
「ナ」の国という読み取りの定まって来たのも史実でありますからは、「ナ」または「ナカ・ナガ」の国は、事実自称としても実在し、後漢は、その事実を蛇紐
に依って認識し表示した上で「委奴」と義訓し、つまりは宗主国による属国への他称印を授けたものと思われるわけです。「ナ」には、「蛇」の義が、たしかに
添うていたんです。
柳田国男は、蛇の名称のおどろくほど多数で多様であることを、詳細な論文に書いている。わたしが戦時に
疎開していた丹波では、「クチナ」と呼んでいましたが「くちなわ」の訛ったものという人もある。口のある縄と謂うのかもしれません、が、私は、「ナ」の音
こそ、原初のものと考えています。「ナやらい」などという悪魔秡いの「儺」にも、蛇への、古代の畏怖が忍び入っていましょうし、それも「ナカ=ナガ」と根
の同じ「ナ」であろうと考えています。我が国の「ナ=蛇=長虫」の源流は、明らかに、東南アジアに瀰満した「ナーガ=蛇」神でありましょう。
カシミールのアナンタナーグ(=数え切れない蛇)は、ヒンドゥー教の久しい聖地ですが、名のとおり無数
に棲む蛇を祀っている寺々が多いそうです。蛇の王は「ナーグライ」と呼ばれています。細心無比に水利を工夫して、奇跡の王国を「水」ゆえに大繁栄させたア
ンコールワットの初世王が、壮麗な城館を幾重にも巻いて守護させたのは、長大な水神「ナーガ=蛇」でした。日本中に散らばった「ナカ」「ナガ」ないし「ナ
グ」「ナ」とつく土地には、遠く、インドや東南アジア、南シナに由来の「ナーガ(蛇)神」を畏み祀った海(山)の北上民が、日本列島にちりぢりに別れ住ん
だのだとは理解できないものでしょうか。「委のナの国」と言い伝えたのも、そのような一ヶ所だったんではないでしょうか。
単純に、日本の姓名・地名で、頭に「ナカ」「ナガ」とつく例は、「大」「田」
「高」などにも増して、断然多い。「ナ」「ナグ」等を加えればもっと多い。
中間、中部の意味と取れる「中」がむろん有ります。が、まるでそうは受け取りにくい例えば中郡や那珂
郡、那賀郡や名賀郡が諸方にあり、長郡もあった。たとえばナガ野もナガ島も、ナカ川もナカ山もある。山ナ、川ナ、浜ナもある。桑ナ、椎ナ、榛ナもあります
し、ナ切、ナ倉などもある。もしこれを、おおかた、「蛇の棲む」「蛇に親しい」と翻訳して読み取れるものならば、高天原からは服わぬ国と見えていた、生い
茂り蟠る『葦原の「ナカ」つ国』の国情も、由来も、がぜん南方的、水上民的な背景を背負うて読めて参ります。
思いつく限りを挙げてみましょうか、出雲、諏訪、三輪、鴨、松尾、熊野、神魂、八幡、八坂、稲荷、伊
勢、貴船、丹生、琴平、厳島、住吉、気比、佐太、白山、生玉、三島、熱田等々、名だたる古社は、源をただせば、みな「蛇体」の水神だというのが意味深長で
すし、反抗する「ナガすねひこ」を先ず討って、初めて、神武天皇の即位が実現したという、古事記の謂いにも聴くべきものがあります。「討っておいて、祀
れ」ば、日本ではそれが即ち「神」であり「社」でありました。押し籠め、伏し鎮める。もう、ここから外へは、出て来ないでほしい。現れないで欲しい。その
代わり、もう、そっち側へ我々も、決して踏み込みません、と、日本の神社は、大方が、そういう場所に、鎮守され祭祀されて来た。
ひとつご注意下さい。「祭祀」の「祀」の文字に、どうぞご注目下さい。まさしくこれは「巳ィさん」を祭
るという字義を如実に示しております。
常陸国風土記に、こんな事が言われています。
継体天皇の頃という。箭括氏の麻多智は、或る谷=ヤトの葦原に目をつけ、新たに田を切り拓きました。と
ころが、先住の蛇たちがおびただしく現れ、「左に右に」耕作の邪魔をする。もともとこの国の「郊原」には、蛇があまた棲みついていました。麻多智は為体に
大きに怒り、「甲鎧」を着「仗」をとって、蛇の群れを、谷に打ち山へ逐って、山口・谷口に境を固め、きびしく杭を植え、堀を掘った。そして蛇たちにこう宣
言しました、「これより上はお前たちの世界として許そう。これより下は、人が田を作る土地だ。この後は、ながくお前たちを祀っておろそかにしないと誓お
う。だから、祟るなよ、恨むなよ」と。ついに一宇の社を建てまして、麻多智の子孫が畏み祀ってきた、と、いうんです。
おおよそ神社「祭祀」の起源をこのようなものと理解すれば、じつに分かりがいい。出雲も諏訪も伊勢で
も、この例と、何ほども違わない鎮められ方をしています。
ところが孝徳天皇の頃になり、さきの麻多智の子孫で、壬生連麻呂という者が、境より上へ越えて谷を占
め、大きな池の堤を築いてしまった。谷にひそむ蛇という蛇は、蛇を即ち風土記は「夜刀の神」と呼んでおりますが、この池のほとりの、椎という椎の木の枝に
蛇が、夜刀の神々が、無数に垂れ下がり、怒って去ろうとしなかった。しかし麻呂はひるまず、この池は、人間の暮らしにいかにも必要なもの、もし神といえど
もオモムケ「風化」つまりは開発政策に従わぬヤツらは、と、手の者たちに、一切容赦なく目に見ゆる限り「打ち殺せ」と命じたものです。蛇たちは余儀なく、
さらに山奥へ姿を隠し、その池は「椎の池」と名づけられたというんです、が、退去退散を「強ひの池」の意味であったに、万々、相違ないでしょう。人間の水
利にからむ自然開発の葛藤は、上古以来、今も少しも変わっていないという、これは典型的な例話であります。ここから「椎ナ」「榛ナ」「桑ナ」などの「樹上
蛇」を表した地名表記が生まれたと想ってみるのも、そう見当ちがいだとは思われません。
中村草田男に、「公園で撃たれし蛇の無意味さよ」の一句がある。この句の無意味さ不気味さを東工大の学
生に解いてもらうと、先ずの手順に、「公園」という人為・人工と、「蛇」なる自然と、を対比させてくる。そして公園の地に先住していたのは蛇だと言う。学
生たちのこの読みでいう蛇と、常陸国風土記にいう「椎の池」の蛇とは、まるで同じ座標にいます。その「撃たれ・打たれ・討たれ」ようの、或る「無意味さ」
は、無残というよりない。
ただし風土記に「蛇」と語られている「夜刀=谷の神」をば、即ち、地を這う蛇そのものかと思うのは、神
話の話法に聴いてみせるだけのことでして、事実は、水の神、土地の神、山の神として「蛇」を太古このかた崇め畏れてきた、ワダツミ(海民)ヤマツミ(山
民)が、力ある異族に父祖の地を逐い払われた悲劇ーーと、こう読むより、ない。常陸国風土記に、道をサエぎり王化に服さぬ化外の民としてしばしば見えます
サエキ、クズ、ツチクモらの運命がそれだったでしょう。そして、神とまじわり、蛇の子を産み、また育てた額田の「ヌカ」ヒメや兄「ヌカ」ヒコのいわば神話
にも、「ナカ」や「ナガ」に通じた、そしてシャーマンかと想われているあの額田姫王や姉の鏡王女へも通じた、上古日本の不思議が、アリアリと生きていると
申せましょう。「カガミ」とは「カカ=蛇、の目」という説も在るのです。
常陸国を流れる大河の一つは、水豊かな那珂川であり、流域は、幾つもの蛇伝説に彩られた、那珂郡です。
君臨したのは久しく那賀国造でした。常陸国風土記の或る記事では、大蛇が即ち「オホカミ」と呼ばれ、訓まれています。豊葦原の瑞穂の国。日の本、常陸、
は、ことに潤沢な水と草木に恵まれました、米どころでもある。そういう大地の蛇は、まさに水を恵み水を統べる「地主神・国主神」であったと想像されます。
大国主神はまたの名の一つを「葦原シコ男の神」といわれていますが、高天原から見まして、葦原を委蛇と
して這いずる「醜男」とは、まさに蛇(のごとき存在)をさしていた。おそらくは、それは、後漢の王朝から見た「委奴=地を這う者ども」の国への思いと同じ
視線であったでしょう。この「醜」の姿は、根源の大女神「イザナミ」が神避りし黄泉国での、「見てはならない」禁忌の姿に、露骨に表現されていると思われ
る。凄まじい腐爛の屍体に「八色の雷公」の、即ち蛇性の、まつわりついた姿でありました。
蛆たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には 析雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足 には伏雷居り、并せて八の雷神成り居りき。
「蛇と死」との印象的な等質・等価の認識が、おそろしいまで表現されています。
「イザナミ」は、まさに地底に棲む「大地母なる大蛇神」であったという認識も示されている。そして男神「イザナギ」の訪れていった黄泉の国は、いかにも
「大穴」の底のように描写されているんですね。禁忌を侵して「黄泉醜女」に追われつつ辛うじて遁れ出る時の「坂」や「道」の描写にも、さながら深い「室」
や「穴」をのがれ出たように書かれ、穴道を巨大な千引岩でふさぐとき、ああこれが「墓石」なのかと連想の利く書き方を古事記はしています。追った「醜女」
が「八色の雷公」と同類であることも疑いない。
日本の神話では、大地母神を地底の闇に大岩で伏せておいて、父神ひとりで「日」「月」「海」の神を生
む、と、それらがまた不思議に、「母なる蛇神」の属性を分かちもつという「世界の構図」を得ていたのですね、面白い話ですね。
少し話の向きを変えましょうかーー「水」を美しい「線」で描ける力を、日本人は
もっています。到達した典型のひとつが、尾形光琳の『紅白梅図屏風』の水流であり、現代では小野竹喬「奥の細道」連作中の『最上川』などが思い出せます。
するどい視覚の持ち主であれば、滞りなきそのような「水の線」に、身を添わせて走る「蛇」の姿を透視することもあるでしょう。水は蛇で、蛇は、水の精でも
あり神でもあるとの信仰が、この島国に避けがたく育まれてきた。水を「美学」の話題にすることは、いろんな面で有効でありますけれども、美学を溢れ、こぼ
れて、日本の「社会」に何とも悩ましい幻影をさしかけた「水」の問題があります。そう思いつつ、話題を、ややに押し拡げてみたい。
ごく一例を挙げても、京都の鞍馬には大青竹伐りが、南国には、男綱女綱のまぐあいを象った勇壮な大綱引
きが、多くの村はずれ町はずれでは、塞(境=幸)の神の前までひきずった長い竹や笹や綱を、伐ったり打ったり燃したりの、また、しめ縄をまとめて焼く、お
火焚きなどの行事がある。みな、蛇への畏怖を下敷きにしてこそ、よく、その意義の読み取れる行事ばかりです。
鬼や化性を演じる者のきまって着る「鱗」の装束。能や歌舞伎での装束。多くの古社にみる「二重六角」蛇
鱗の神紋。山姥や山の者らの常に携え持つ、蛇をとらえる鹿杖。一本足の案山子を山の神とみて、蓑笠を着せ、それと同じ蓑笠姿のまま闖入してくる客(まれび
と)を、極度に嫌ってきた風習。大木の洞や根方に生卵を置き、きまってその周辺には白神、姫神などの小さな祠の群集するさま。「シラ」も「ヒメ」も漢字に
とらわれてはなるまいと思う、あの卑弥子の「ヒミ」「ヒメ」は、古代朝鮮語では「太陽」でもあり、しかし風土記などに謂う「ヘミ」「蛇」の意味でもあった
といいます。
蛇のとぐろを巻く姿は、しばしば人の目を驚かせましたし、その長くのびた姿、ことに恐しい三角に尖った
頭や、まるく膨らんで威嚇する頭などは、諏訪の御柱にも、日用の杓子にも形象化された。岩に現れるいわゆる石神(シャクジ)と、あの日用の杓子との縁な
ど、また蛇のとぐろから缶(ホトキ)に、またホトケにも転じた器の名「ヒラカ」への経路など、今日ではあまりに気疎くなってはいますが、例えば太刀魚や鰻
など「ナガ」いものの小絵馬を売っている神社では、間違いなく祭神としての水神・蛇神・龍神を拝むことになる。それどころか、京都御所内に鎮座しています
厳島社には、思わず声をあげて走ったほど、恐ろしくリアルな「蛇の絵馬」が掲げてあります、現に。
折口信夫の有名な論文『水の女』は、水沼(ミヌマ)という表記の背後に、女蛇神をそれと意味した「ミツ
ハノメ=罔象女=ミヅチ」の実在を精妙に読み分けて行きます。同じく男蛇神には「オカミ= 」があり、万葉歌にも見るごとく、水や天象の不思議に深く深く
関わっています。
目を外国に向ければ、日本のミツハノメに近い、シベリアやロシアの「ルサールカ」がある。一本足の蛇婆
さん「バーバヤガー」がいる。八岐大蛇なみの「コシチェイ爺さん」や恐ろしい「ドモヴォイ」もいる。北欧へ行けばブヤン島の「ガラフェン」が、スラブには
「スビャトビト」がいる。むろん創世神話をさぐれば中国にも朝鮮にも蛇や龍が出てきますし、宗教説話にも、しばしば出てきます。キリスト教のマリア像に
も、蛇の頭を踏んだ図像がある。マリアの名は「海」に由来しています。むろんそれらには、水と深く関わる蛇のほかに、べつの意義を担った蛇もいますでしょ
う。しかし大方の蛇ないし龍は「水」とかかわることで畏怖されていたのは、間違いありません。
いわゆる道成寺ものの久しい人気に触れ、また上田秋成の『蛇性の婬』を何度読んでも、一方で蛇を厭悪し
忌避しつつも、また、蛇に悪い役を勝手に押しつけてきた、うしろめたさの気持ちも、或る「あはれ」とともに読み込める。そんな気が、してならないんです。
おそろしく根の深い近親嫌悪、アンビバレンツとも読める。
その辺へ、いま少し話題を、蛇行させて行きたい。
「鏡花文学の核心にわだかまるものは、端的に『蛇』へのアンビバレンツ」であり、
「水神へのいわば畏れと帰依心だと思う」と、かつて、私はどこかで書いていたようです。田中励儀さんの著書『泉鏡花文学の成立』を興深く読んでおりますう
ち、鏡花作『南地心中』の成立過程を論じた章で、そう私の言葉が引用されているのに出会い、おやおや、なるほどと、思わず頷きました。田中さんは、「上方
の 巳 さん信仰に動かされて成立した本作=南地心中など、その典型であろう」と、私の言説を肯定されています。明治四十四年七月の『祇園物語』も大正八
年三月の『紫障子』でも同じです。
泉鏡花ほど「蛇」をしばしば、それも重大な主題意識をもって、さまざまに書いた作家はいないと、繰返
し、私は言い、かつ書き続けてきました。
事実上の処女作かも知れない『蛇くひ』が、凄い。『龍潭潭』では「龍」に「瀧」の誘いが、みごとにか
ぶっていました。『歌行燈』では、海女郎であったヒロインに、謡曲の「海人」がかぶることで、「龍神の珠取り」へ話が繋がって行きます。『高野聖』も、さ
んざんに生身やイメージの蛇を出し入れしながら、水の精の蛇性の女、を書いている。『天守物語』の大獅子頭も、もともとは「龍ないし蛇」の変化と、折口信
夫らは認めています。蛇にゆかりの、女や、イメージや、また蛇そのものの姿をあらわす、鏡花の小説は、全作品中の、しいて言えば何割にも相当しているとわ
たしは見ている。書かかるべくしてまだ書かれない鏡花論の最大の主題は、『鏡花と蛇』であると、今もわたしは確信しています。
『蛇くひ』や『妖剣紀聞』前後篇をみれば、鏡花が、「蛇」を被差別のシンボルかのように、女性をもふく
め、芸能もふくめ、つねに社会や歴史の敗者弱者と等価的に提示していたことはあまりに明らかです。そしてより多く、他界・異界に半ば身を隠しながら、現世
に、出入りさせた。死の世界を統べるものかのように働かせた。
他界異界も死の世界も、鏡花の表現では、海、山、川、池、沼、湖、原、沢などの一切を通分して、「水」
に浸されていました。『龍潭潭』や『沼夫人』や『高野聖』がそうです。『歌行燈』でも、そうなんですね、実は。そして姿をみせる時は、凄艶な謎めく「女」
か、醜悪な「化性のモノ」か、それとも切ない女の吐息のような「生身の蛇」としてか、でありました。
それを総じて、田中さんの謂われる「巳」信仰というもよし、大きく深く「水神」信仰、いやそれよりもっ
と広く、「水」「海」世界への畏怖と郷愁、または共同幻想、が、鏡花をとらえて放さなかったのだと考えるべきでありましょう、か。鏡花の背後にかなり間近
くいた柳田国男らの民俗学の感化を指摘するのもいいでしょう、が、そのような外的な感化や影響より以上に、鏡花自身の、秘し持っていた「根の哀しみ」のよ
うなものにこそ目をとめるのが、もっともっと適切なのではないか。
「鏡花」という号は、たんに本名の鏡太郎に由来するとみて済むかもしれない。「泉」は戸籍にある本姓で、
特別な何ものでもなかった。そうは言える。言えるけれども、だが、なかなかそう簡単に我々を、いや私を、解放してくれる名乗りではないのです。「泉鏡花」
の名乗りに、いま少し、こだわってみたい。
鏡花の早い時期の文名に、「白水楼」がある。「白水」はそのまま「泉」であり、寄る辺として「楼」を添
えたのだから、単純な雅号といえる。その一方、上古の文献に「白水郎」があった。「アマ」と訓まれてきました。海人、海士、海民のことをそう書いたので
す。この海人には、水上を水平にもっぱら移動する系統と、水底に垂直に潜水して生きる系統の、二つあるのが指摘されています。龍宮に珠を求めた類いの伝承
は、むろん後の系統のものでしょう。鏡花は比較的、この水に潜る、水底や海底の世界に関心をもっていた。広大な海上よりも、深淵や海底や、池沼、川の底の
深い闇にうごめき、そこから現れるものを見つめていた。『海神別荘』は典型的な、その魚くずの世界ですし、また『天守物語』のような、地底の水をくみあげ
て可憐に咲く草花をいとおしむ世界も、あります。さながらに水の底を遊泳しているに等しいとみた、大気に舞う鳥類『化鳥』の世界もある。
鏡花は、同じ人間でも、狭斜の巷にすべり落ち、くらい苦界に沈んだ女たちを、多く、愛をこめて描いてい
ます。俗悪なものには「現世」をのみ与えて、哀切に生きるものには「他界」への切符を発行するのが、鏡花世界の律法でした。彼の他界は、あたかも海の底の
ような「黄泉」の国に膚接していた。鏡花ほど切ない「入水」を繰り返し書いた作家はいないのです。
海の国と黄泉の国とは、神話的には次元を異にしています。「黄泉」には、死者の肉身に蛆たかりころろい
でいる、腐乱と崩壊との、大墓所の如きイメージがある。戯曲『海神別荘』に拠れば鏡花は明白に「蛇」の国と表現していまして、しかも、海の国は「白水=
泉」の根底の国であり、陸上の現世と異なった、また一つの「清い」活世界であり、他から侵されてはならない律法をもつべしと、鏡花は、つよくこの世界を
庇っています。
しいて通訳すれば、まともな者だけがそこへ帰って行ける、受け入れてもらえる、あるいは、許され解放し
てもらえるのだと、鏡花はその文学を通じて終始言い続けている。彼は、「泉」「白水」という自分の姓を、「海」に、「水」に、深く深く根差した、歴史的に
も由緒あるものと自ら意識し、本能のように意識し、心から愛していた筈であります。
彼の小説は、ときに解読のむずかしい不思議なメッセージを示します。朱の色で光る、三角や丸や四角の単
純なそんな記号が、ぽっと輝き出て、すぐ消える。太古北欧の水上民らの船に、そういう記号を描いた船印や旗印があったり、似た図像が、太古の墓室の壁など
に描かれていたりします。鏡花は、潜水だけでなく、航海系海上民の「船魂」の祈りとも感応できるだけの、あわれに、確かな、知識を、持っていたようです。
ここで一つ、関連づけて申し上げておきますが、日本の古典のなかでも代表的な古典
に、源氏物語や平家物語を挙げますのは、むしろ常識でございます。その源氏物語と平家物語とが、これがまた深く深く「海」に、「海の神」に支配されていた
文学・芸能であると申せば、異な思いをなさるかも知れません。ながく話せば、これはこれで何時間もかかる底知れないお話でありますけれど、一例を申せば、
思うままの栄達と安穏と幸福とを得た光源氏が、先ず真っ先に、なんで「住吉詣で」をしたのか。住吉は、申すまでもなく海の神そのものです。凄い龍神です。
光源氏の世界は、この住吉の海の神により予言され守られていたのでした、須磨と明石への源氏の君の流されは、けっしてダテに構想されていたのではありませ
んでした。源氏物語の根は「海」の龍神の意向に支えられていたのです。
平家の運命は、厳島神社に根拠をもち、瀬戸内海を舞台にして開け、そして海に沈んで行きました。彼らは
三種の神器の一つ、宝剣を抱いて海の藻屑となりました。この剣は、あの八岐大蛇の尾から取り出された、まさに蛇の化身でしたが、後白河や後鳥羽の朝廷は必
死で海女などつかって捜索したのです。すべて空しかった。海女の一人は、巨大な龍宮の大蛇の膝に乗った今は亡き平清盛が、傲然として宝剣は返しはせぬと叫
びました由を、朝廷に呼ばれまして話した、などという平家物語の異本の記事も残っています。
事ほど左様に、「海」の意思や意向は「日本」を支配し、同じことは「世界」中に拡がっていました。われ
われは、そういうことを忘れるわけに行かないのです、泉鏡花という作家には、そういうことが、しっかり根づいていました。「海」の意向の、申し子のような
作家であったと申し上げたい。
言うまでもなく泉鏡花は金沢の人で、生涯この故郷に対し、凄絶なアンビバレンツを 抱いていました。ひたすら愛し、ひたすら憎悪していた。だが、愛憎を分別するのは、そう難儀なことではありません。要するに鏡花は、「海=水」の側の清さ を愛し、「陸=土地」の側が占める俗世の栄燿を憎んだ。海の側には、あらゆる被差別の者、山の者や川の者や、野や墓に生きる者や、いわゆる水商売の者や、 貧しい者や、芸人、職人などを見ていた。逆に、高級軍人や、知事や、富豪や、大名や城主や、鉄道を敷く者や、利権に群がる者などを、具体的にキッと睨んで いた。それは、格別な思想的下支えのある分別ではなかった。たわいないけれど、だからこそ生得の、弱い者へ味方せずにおれない「不平」の表明でした。ただ 鏡花は、それを、彼が生きた時代の、限られた視野でするのではなく、広大な歴史の視野で、かつ「水=海」への直観や洞察や、いくらかの学習を通して、して いたのです。そういう意味では、日本に、それほどグローバルな思想的立場を持ち得た作家は他にいなかった。じつに世界的な作家だったといわねばならないん です。
もうすこし「泉鏡花」こだわっておきたい。
鏡花が加賀金沢の人であることは繰り返すまでもないが、「カガ」の国とはどんな国であったのか。これに
関連しては、吉野裕子さんが多くを説いています。「カガ」は、湿生の草地を意味したであろうといい、またそういう場所を多く占めて棲息したものとして、
「カガ」または「カカ」などが、蛇の古名ではなかったかとも言われる。多くの神社が、御正体に鏡をもつのは、「カガ(蛇)身」ないし「カガ目」であろうと
言われる。一本足の「カカシ」は蛇の変化もの、山の神の姿を表したものとされ、蛇の一種に「山カガシ」「山カガチ」のあるのもそれかと説く人もおられま
す。誕生の際に、母神の「陰部=ホト=火処」を焼いて死なしめた「カグツチ」の神も、たしかに系譜的にも「蛇」神でした。
また吉野さんは、古い祝詞に「カカ呑み」「カカ呑む」などとある難解なことばも、がぶりと呑むにはちが
いないけれど、鵜呑みという言葉もあるのだから「蛇呑み」と取った方が呑みこみが早いと説いています。なにしろ蛇の口は自在に顎の骨がはずれ、顎の直径の
十五倍程度はらくに呑みこむといいます、それも、噛まずに。
出雲国風土記では「加賀」は「カカ」と清んで訓んでいる。佐太の大神は加賀の潜戸の名で知られる海中の
大洞穴に鎮座していましたが、その闇い岩屋の奥を、金の弓矢で射たものがいた。岩屋の奥がそのとき「光加加」やいた、だからもとは「加加」といったのを
「加賀」と改め書くようになったと言い伝えています。佐太大社の大祭は十一月二十五日ですが、そのお忌祭には、社頭で、凄い生身の蛇にとぐろをまかせて、
ギヤマンの蓋のついた三宝にのせて祀る。その日には出雲中のどこかの浦に、きっと龍蛇と呼ばれる、背の黒い、腹の黄色い海の蛇が、海神の御使いとして上が
ると、いまもって信じられていると謂います。
光輝いて「カガ」なのではなく、吉野さんらの説くように「カカ」「カガ」が蛇の古名の一つであったろう
と、たしかに想像されるんですね。洞窟が光ると見たのは「鏡」さながらの「蛇の目」だったからです。蛇の目には瞼が無い。開きっ放しでまばたきしない。ま
るで鏡なのです。神社に鏡を祭る遠い遠い意味は、おそらく、ここにあったでしょう。清んで訓もうが訓むまいが、要するに「カカ」「カガ」また「カグ」「カ
ゴ」の音を含んだ山や川や沢や湿地は、みな、蛇と関わりをもっていたかと読めば、「ナ」「ナカ」「ナガ」などの例と同様、多くが納得され、モノがよく見え
て来ます。鏡花は、そういう「カガミ」の意義を、よく幻視しえていたように思われてならないのです。
鏡餅は、蛇のとぐろを巻いた形象を祀るのだと説く人がいました。枝につけた餅玉は、蛇の産卵だと説く人
もいました。餅をたくさん甕に隠していたけちんぼうが、開けてみると、みな蛇に変わっていたという説話もあります。餅を的に矢を射ると、餅は鳩になって翔
び去ったという稲荷社の伝承もあれば、蛇が鳩に変じて翔んだという伝承も、八幡社には古くから伝わっている。能登島の火祭りにもそれが実感されます。つま
り鏡と餅と蛇と鳩とは、或る、不思議に一連の「変容譚」を担ってきています。じつは酒も、その輪に加わっているんですね。
われわれの文化は、多くを、漢字に負うています。また漢字ゆえの惑いも負うている。例えば「出雲」
「泉」と漢字で書いてしまう以前の、「イヅモ」「イヅミ」のままモノごとを感受できるのなら、湧く雲や湧く水のイメージにのみ、想像を、限定されることは
少なかったでしょう。折口信夫も言う、音声の似通いに、おおらかな広がりを持ちえていた、太古上古の慣いのままに、「アダ」「アド」「アドメ」「アドモ」
「アヅミ」「アツミ」「アタミ」「イヅミ」「イヅモ」「イヅメ」「アヅマ」「ウヅメ」など、一連の「上古音」が即ち、一連の海民・水民の移動や分布を、優
に、示唆し暗示しえていたことを、もっとたやすく洞察できたのではないでしょうか。その背後に、総じて、かの「安曇」なる海族を透視して、大きな謬りが
あったでしょうか。いま、これらを日本地図上の該当する地名に置きかえ、視線を移動させて行けば、ありありと、幾筋も、太古の海路や水路が目に見えてく
る。天龍川上流の奥地に、南海の花祭の伝承されている由来などにも、察しがついてくる。
同じことは、「ナ」「ナカ」「ナガ」「ナゴ」「ナグ」の場合も然り、あるいは「ウラ」「アマ」「シラ」
などの海民由来を思わせる地名等にも、類推の範囲を、広げて謂えることでありましょう。おシラ神は海人の畏怖した醜悪な海底神「磯良」に深く由来し遊行分
布した筈と私は確信しています。「磯良」を「いそら」と訓むのは間違っていましょう、「磯城」を「いそき」と訓むようなものです。
これらは、要は「ウナカタ=海方=宗像」に由来したでしょうし、「ヤマカタ=山方」とも、諸水路を通じ
て連帯していたでしょう。
泉、和泉、出水、夷隅、射隅、出海。それだけでも各地に散開しています。漢字を便宜の当て字とばかりは
言えないにしても、とらわれなければ、かえって「見えてくるもの」が、あります。泉鏡花は、そういうことも、よく知っていた察していたと想われます。そし
て、その、至るところ、蛇は、巳は、なにらかの形で信仰され、畏怖され、またじつはアンビバレントな差別を、久しく、受けて来たと思う。
田中励儀さんの本に戻って、鏡花の『南地心中』の「蛇」信仰を見てみましょう。舞台は大阪住吉大社の神
事、宝の市。筋は作品でお読み願いますが、ここで女主人公のお珊が、懐から祭礼のさなかへ投げこむ、二条の、蛇。元はといえば、心願を抱いて多一とお美津
という若い二人が、言い合わせたように、お互いに、身に、秘め持っていた蛇でした。
「生紙の紙袋の口を結へて、中に筋張つた動脈のやうにのたくる奴を買つて帰つて、一晩内に寝かしてそれか
ら高津の宮裏の穴へ放す」と、願いが叶うという言い伝えがあった。その蛇を売る家も、買う人も、放つ穴も、事実在ったんです。高津神社にも生国魂(生玉)
神社にも在った。この「巳ぃさん」信仰を、ながく熱心に支えたのは、多く、廓の芸妓たちでした。田中さんは、大阪は水と縁の深い街であり、「水の神さんで
ある『巳さん』をお祭りする社が多い。(略)普通『お稲荷さん』としてお祭りしてある祠も、実のご本体が『巳さん』であることが多い」という、往時の証言
を引いていますが、これとても大阪に限ったことではない。京の八坂の旅荘の女将が、庭内の亭に二尾の蛇を祀っていた『紫障子』のような作も、同じ鏡花にあ
ります。
ともあれ、『蛇くひ』を書いた昔から、「蛇に対する異様なほどの執着を示していた鏡花は、若い女性が蛇
を持参する上方の 巳さん 信仰に驚嘆し、これに触発されて」この小説を「成した」と、田中さんが説かれるのは正にその通りでしょう。いや、触発される以
前の下地を鏡花は根の哀しみのように身に抱いていた。
だが、また、鏡花が或る作中、たしか『勝手口』と謂いました、あの『龍潭譚』と同じ明治二十九年十一月
発表の短編ですが、妻子ある男が自宅を出掛けに、ふと邸内でみつけた蛇を、袖の中に掴みこんだまま、愛人の家を訪れて、即座にその蛇を女に手渡し、女に始
末をつけさせるといった場面に、決定的な或る「意味」を持たせて書いている相当に露骨な作品も有ったのです。これなどは相当に露骨です。
蛇を渡された女は、それを機に、自死を覚悟する。この蛇は、男(や男の妻子)から、その女への、差別意
識の、いわばシンボルとして働かされていた。その日男は、この女を捨てる意思を抱いて、女を訪れていたのでした。処分すべき「蛇」と、あだかも等価値的に
みなされた「女」の背後に、えんえんと連なって、例えば『南地心中』の蛇を懐中して祠に放つ式の、狭斜の巷に愛をひさぐ女たちの影がならんできます。ここ
の「お美津」が、「おミィ」と呼ばれていることも、鏡花はおろそかには書いていない。『歌行燈』の「お三重」もまた、これら女たちに繋がる一人として、謡
曲「海人」を、同じ芸人・能役者への恋を胸に、懸命に、舞いに舞うのです。
鏡花の作に「蛇」さんの意義をもとめて探索するのは、せつなくも、哀れな、豊かな、「水の美学」そのも
のなんですね。同時に、厳しい「水の歴史学」なんですね。
数年前の秋、アジア太平洋ペン会議の分科会に、ついぞ経験のない演題を提出し、採 択されまして二十分ほどの演説をしました。所詮は一冊の本にもするしかない、大きな話題であり、お約束どおり龍頭蛇尾で時間を超過してしまいましたので、 その会議に提出した「『蛇』表現から共同の認識と成果を」と題するレジュメを、サマにもならなかった今回の話の、結びきれない結びに置かせていただきま しょう。演説集は数か国語で、日本ペンクラブから刊行されています。そのまま読み上げます。
グローバル(地球規模)の視野で、グローバルな協働の成果のまだ十分に現れてい
な い未開拓課題の一つに、「蛇」ないし「龍」があると考えている。生物の蛇にかぎらな い、もっと広範囲にイメージをひろげて、言語・神話・伝承・説
話・詩歌・散文・小説 ・演劇、また多彩な造形に、表現され、示唆され、象徴化され、信仰ないし忌避されて きた「蛇や龍」が、東西南北を問わず広く広く
実在している。しかも必ずしも各国・各 地において表現も造形も乏しいわけではないのに、各国間の境界を越えて大きく深く意 義や問題が関連づけられ、構
造的に把握されてきたとは言いがたい。
しかし蛇や龍の問題は、人間のがわの恐れや嫌悪とも関連しつつ、想像以上に各国各 地の「社会」の底
辺に、「信仰」の名に隠された「差別」の源泉としても沈んでいる。 その意味で上古いらい今日もなお、「文学と人間」との、かなり危険をさえ含んだ主題
であり得てきた。根強い禁忌の判断によって意識外へ押しやられながらも、現在なお微 妙に表現を変え、場面を変えて、主題化され作品も成っていると思われ
る。例えば「い じめ」問題にも、根をたどればこれが抜きがたく関係しているが、暗に社会も政治も目 を背けて触れることが出来ずにいると言える。
ましてアジア・太平洋地域に、水(山)神である蛇のイメージは、また生物としての 繁殖も、著しく豊
富であり、人はこれと無縁に過ごしえた歴史をもっていない。
今すぐ論考の結果を取り纏め語ることはできないが、いかに重要な文芸・芸術の課題 であるか、ひいて
は人間社会の根底にとぐろを巻いている問題であるかを示唆し、各国 各地からの、今後、豊かな連携連絡可能な共同の認識が生れくるのを、また深刻で歴史
的な人間差別の根が急速に絶たれ行くことを、ぜひ「ペン」に期待し提言しておきたい。
同じ「期待」を泉鏡花研究にもかけることが、無理難題だとは、少しも考えておりません。ちなみに私は、
文壇処女作『清経入水』このかた、『みごもりの湖』『初恋』『北の時代』『冬祭り』『四度の瀧』など、「蛇の問題」にかかわる小説を、何編も、意図して書
いて参りました。ここで言い尽くせなかった幾分かは、それら作品に譲っておきとうございます。長らくご静聴いただきました。有り難うございました。
ー完ー
(講演 一九九九年十月二十三日 於石川県文教会館)
(「日本の美学」27号 一九九八年四月刊
の掲載論文に、大幅加筆)
川
端康成の深い音
─体覚の音楽─
秦 恒平
とことん、今回は、困惑しております。
川端康成の久しい愛読者ではありますが、殆ど論じた事がありません。そういう気になれない作家なので、
何度も、この話は、お断りしましたが。
ほぼ一年、気にかけ、気にかけしながら、また、困惑の余りに「川端康成の深い音」なんて、わけの分から
ない仮題を出してしまい、それにも縛られまして、身動きの取れない思いのまま、今日のこの場にいたりました。申し訳ない気持でいっぱいです。
谷崎潤一郎なら、泉鏡花なら、これが夏目漱石であっても、幾らかは「論点」を持て ると思います。しかし川端康成のことは、論じたいという欲求が湧きませんでした。川端康成は「読めば」いい。それで、自分は、いいんだ、と。
ま、事のついでのように川端康成、また川端文学について、触れたぐらいは、何度か
ありました、が、感想でした。論証や論考ではありません。
一度、それもごく早く、昭和四十七年、丁度三十年前になりますが、川端康成が自殺し、ほとんど動転のま
まに、「廃器の美」と副題して、原稿を書いたことがあります。論証でも評論でもない、ま、エッセイでした、が。
あの時、自分がどんなことを思っていたか。かなり気恥ずかしくもありますが、川端研究の人達から不評を
買っていましたかどうか。参考文献に拾い上げて戴いたりもしていたようです。
で、その三十年前に、「死なれる」という喪失感に堪えて、どんな感想を書いていた
ものか、どの辺が、今も変わりなく、どの辺が、今ではそうは思っていないか。反芻してみたいと思います。
大急ぎで注釈しなければなりませんが、"死なれた"
は、なみの尊敬語ではなく、私には、重い「受け身」の感じ方でした。『死なれて死なせて』という単行本を私、出しておりますが、この物言いは、私の読者は
よくご存知なんですが、私自身の仕事や人生にあって、ゆるがせにならない一つの鍵言葉なんです。
三島由紀夫に死なれて、あの日、昭和四十七年四月十六日、今また川端康成に「死なれた」と私は書いています。谷崎潤一郎の死に遭って、初めて小説創作の筆 を執り、太宰治賞で作家となり、数年のうちに、つづいて三島、川端両氏に死なれてしまった。自分はそういう者だ、そういう者なのだと、喪失感に堪えて、私 は胸の内で繰り返している、と書いています。
川端康成は、私には、こわい作家でした。漢字の「怕い」に借りて謂え ば「心持ちの真っ白になるような」こわさであったと思い出せます。存在そのものが、そのまま、手厳しい批評であるような人には、"好き"というほどの、甘 えた近づき方ができなかった。ですが、美しく割れた真っ白な磁器のかけらを、こわごわ眺めるように、繰り返し繰り返し、私は、川端康成の幾つもの作品に 帰って行きました、何度も。ただ、いつも及び腰に、逃げ支度をしいしい近寄っていたように思い出します。
谷崎文学の場合は、およそ平凡作・駄作といえども、活字に唇を添えて、旨い滴りを 吸っていた私が、川端文学に触れる時は、おそるおそるでした。うかうか手にとって、怪我すまいという風だったんです。多少、今もそんな気分は残っていま す。
よく耳にするように、川端文学が、小説も批評も、たとえ、き一んと鳴る支那の白磁
のようであろうと、それが完好の名器であれば、私は、安心して親しみ、おそれず、何度も手にとって、嘆賞の声を惜しまなかっただろう、と、そう、三十年昔
に書いています。ですが当時の私は、川端康成の世界に、十全にして無瑾の磁器を見ていませんでした。
川端文学とは、一かけらの磁片、その断面に、白くてかすかな、焦ら立たしい光を結晶させた、「美しさ」
さえもが、幾分危険な、「廃器」だったのではないか。ただ、それが、秀れてつよい、佳い一かけらだったが故に、充足や十全を超えた地平までを、瞬き照ら
す、生得の「批評の光」を備えている、と、川端文学の全部から、尖鋭な「批評性」を私は意識していたようです。
円満具足の完璧なもの以上に、廃器の批評、破片の批評は、一層妖しく光り、一層なまめいて冷たく、何よ
りも、あまりに、いつもいつも、寂びしげだと私は書いています。
この感想にも、今も何となし、同感できます。
「寂びしげ」というのは、川端が死を凝視したからでしょうか。そうは思わない、と
若い日の私は言い切っています。川端康成は、「死」に親しみ切れない眼で、いつも寡黙に「生」を眺め、人恋しい「歌」を胸の底に秘めていた。作品は、気早
に死化粧を匂わせるかに見えながら、実は、作家は口籠もりがちに、寂びしい人の寂びしい生き方を、沈黙したまま歌っていた。歌声としては聴き取れなかった
し、それ故に、或る種の視線には、あまりに川端は神経質に感じられる、という意味のことを私は、書いていました。
少しく修辞的=レトリカルですが、また、私なりに、感ずべきは、感じ取っていたのかなあと、評価してや
りたいと思います。この辺は、さらに、少しでも言葉をかえて、もっと追って行っていいところかなと、予感もしています。
さらに、こんなふうにも書いています。
故人が、つまり川端康成自身が、生前洩らされていたように、「新感覚派」という名称や文学運動にはそう
捉われないまでも、結局、終生、秀れた意味での、「感覚」で書き通してきた、と述懐されていた、その、生来の川端「
感覚」の原質というものが、今後、かなり厳しく究明されるに違いない、と。
殊にその文体。繊細で冴えたと謂えばそれまでですが、またどこか奇態に大味な、や や一人舞踊にも似て、物寂びしい流露感に、幾分の、「かすれ」や「やせ」の見える文体に就いては、あんなにも故人が、「日本」および「日本の自然」を語ら れていながら、果して、どこで、どう、川端文学が「日本的な真相」と関わり合えていたのか、という課題と共に、より率直に深切に、論じ直されていいだろ う、と。
これは、かなり機微に迫っていたかも知れません。
「一人舞踊」に似て「もの寂しい流露感」というのは、ある種私の、共感でも、批評でも、あった気がしま
す。
その上に、畏れ多くも文豪川端の文体に、或る「かすれ」や「やせ」をすら感じているなどと、ポレミーク
なことを発言しています。自分でもどきどきしてしまう発言です。
もっと追いかけて、こうも書いています。
川端康成の文章は、時に突然、白銀の糸でぴ一んと織りなされていたかの「趣」を、呆気なく、かき消して
しまう。匂いの薄れた花びらのように、文字が、ただ、視野を漂うことがある。忽然と、今までたしかに感じていた或る文体の魅力が、溶暗(フェイドアウト)
してしまう、などと。「なぜなのか、ここでは、言えない」とは言え、これは率直の感想であって、例えば「山の音」に、よかれあしかれ私は一番それを感じて
いるのだ、と。
なんたる大胆、若いというのは恐れ知らずなものです。しかも、「なぜなのか、ここでは、言えない」なん
てことで、さっさと逃げています。どうしようもない。
そして──、同じ匂わぬ花でも、三島由紀夫は、丹念に彩色した輪郭の強い造り花、
紙の花のように言葉を駆使した作家だと言っています。
川端康成の花は、決して造り花ではない。だが匂うと思わせて、静かに匂いを喪って行く、枯れる寸前の、
寂びしい花の色かのように、川端文学の言葉は織りなされている、と、三十代半ば過ぎた頃の私は書いています。「涸れる寸前の、寂しい花の色かのような美し
さ」は、川端康成にとって、あたかも人間の運命、衰弱して行く "個性"
の運命として、意識して巧まれたものであったかもしれない。その巧みと絡めて、「感覚」の如何が問われたなら、その時、川端文学の「類稀れな廃器の美しさ
哀しさ」、その「尖鋭に光る批評性」の背景に、意外に「非日本的容貌」の(まして西欧でも大陸でもない)、むしろ一回限りの、 "神経" と" 趣味"
に、構成され・演出されて成り立つ文学世界の表情が、まざまざと読まれるように、私は予測する、と──、ま、こんな大胆予測をしていたんです。
「美しい日本の私」と、ノーベル賞を受けて演説した世界的な「日本的作家」の文学から、こともあろうに
「非日本的容貌」を、この私は、秘かに、偸み見ていたというわけです。これは大問題です。
そして、短い文章をこう結んでいました。
谷崎潤一郎は、堂々と咲き切った、厚咲きの桜だった。均しく "美学"
の文字を作者の名前にいつも添えられながら、また銘々に「日本の自然や伝統」を、作風の「根」に据えようとしていた、谷崎と、川端と、三島と、それは、想
像以上に種類の異なった存在、異質の三人だった。しかも三者三様に、三人の "死" は、強硬そのもので、長嘆息して、 "死なれた"
とより他に、言いようがない。忘れてはならない、と。
「日本読書新聞」の依頼で、昭和四十七年五月一日号への寄稿でした。
同じ魅力というにしても、譬えれば、三島由紀夫の小説は、「造花」の魅力、川端康成は「雨にうたれた花」のような魅力、谷崎は「満開の花」のよう、と。
ま、レトリックですし、むろんこれは、優劣をつけたのではありません。三島由紀夫と三島文学とに対して
は、率直に言いまして、私は、全面に「好き」などと決して云いません。しかし、川端康成と谷崎潤一郎なら、ほぼ、等価的に好きで、いつも感嘆し、まこと
に、天才的だと思います。
自然、今日のこの後の私の話は、この二人の、関わりようや比較を、実質とするより他に、間のもてようが
ない気がしています。が、さ、どうなるのか、見当がついていません。
確かなこととは謂えませんが、川端は谷崎より遅れて登場したのは言うまでもなく、
「新思潮」という同人誌でみましても、谷崎や和辻哲郎らの時代より遅れて、芥川や菊池寛の時代があり、川端康成はその菊池寛の引き立てで世に現われて出た
作家ですから、谷崎は相当な大先輩です。
そして、谷崎が川端康成の文学について書いたもの、発言したものは、記憶の限りですが、ありません。
谷崎の批評でごく早いものは漱石の「門」を丁寧に論じた作が学生時代の「新思潮」にすでに載っておりま
すし、後には、「明暗」を酷評しています。
また永井荷風の「つゆのあとさき」を深切に語っています。 しかし谷崎が、後輩作家に触れて特別の文章
を書くことは少なく、書けば、大衆文学畑の中里介山「大菩薩峠」だの、直木三十五「南国太平記」だの、また水上勉さんの「越前竹人形」を褒めています。そ
してデビューして間もない頃の大江健三郎の文章については、きつい不満を叩きつけたりしています。谷崎の押し掛け弟子と自称していたのが、今東光や舟橋聖
一や川口松太郎なんぞ、みな、文壇主流を逸れていた人達ばかりなのも面白いことです。
むろん文芸時評をも得意技にしていたような川端康成は、自然に何度も谷崎には触れ
て書いていますでしょう、が、今日の主人公は川端なので、彼の谷崎評に重きを置くことは本末転倒だから、これ以上は触れません。興味深いのは谷崎が川端に
ついて殆ど口を利いていないという、むしろ、そのことです。
おそらく、同じ畑の人の文学には触れたくないというのが、谷崎の場合、健康法のようなものであったろう
と察しられます。川端のような純然文壇人種とちがい、谷崎は文壇から始終距離を置いて作家生活をいわば源氏物語体験の場のように虚構化してゆくところがあ
りました。菊池寛らの文藝春秋派ではなかった、彼は終生中央公論派の作家でした。
文春と中公のハナシになったので、本題に入る前に、一つ、脱線します。文藝春秋の
創始者が大きな作家であった菊池寛であるのは、まだ記憶されていることです。そしてそのことを、誰も何とも今は思っていません。が、文春が雑誌や出版活動
を始めた頃は、そうではなかったのでして、菊池寛が、中央公論社に殴り込みをかけまして、あわや中央公論社の当時の嶋中社長と乱闘という騒ぎが起きていた
んですね。これは嶋中社長の子息の次の嶋中社長が書いておられます。
喧嘩の原因は何か。作家が出版に手を出すとは何事だと、事あるごとに菊池寛はやられていた、嶋中さんは
むかっ腹を立てていたわけです。堪忍袋の緒を切った菊池寛が中公へ乗り込んできたと嶋中さんは観ていたように書いています。
面白いですね。そういう空気であったんですね、作家と出版というのは。
今日、私が、出版に完全にそっぽを向いて、自力で自分の本をどんどん出す、それが十六年にも成り、もう
七十巻も出し続け維持継続しているなど、やっぱり、既成の文芸出版からは、じつにみごとに総スカンを喰い、わたしは、孤軍奮闘していますが、時代が大きく
変ってきました。紙の本ではなく、電子の本が可能になり、旧来の出版の力は今や大きく分散してきています。わたしは、「秦恒平・湖(うみ)の本」という紙
の本のシリーズ出版と併行して、「電子版・湖の本」を発信しつづけ、おまけに、その中で電子文芸サロンである「e-文庫・湖umi」も創設して、新世紀の
電子文藝に先駆けて行ける「場」を公開し提供して、百に及ぶ著者と作品とをすでに満載していますし、その経験を生かしまして、理事を務めています日本ペン
クラブにホームページを立ち上げまして、そこに電子文藝館をひらいて、過去現在の会員三千人の各一作品を国内外の読者に無料公開するという文化事業を展開
し始めてもいます。
日本ペンクラブは、昭和十年に島崎藤村を初代会長に発足しました。第一回芥川賞に石川達三の「蒼氓」が選ばれた年で、石川さんは後にペンの会長になられま
したが、私の提唱して実現した電子文藝館には、藤村の「嵐」正宗白鳥の「今年の秋」志賀直哉の「邦子」など歴代会長の秀作と並んでその石川達三作「蒼氓」
も掲載されています。川端康成の作は、「片腕」を載せています。川端は、最も長期間ペンの会長を務めた人で、日本が主催国の世界ペン大会をみごと成功させ
た人物でした。電子文藝館には、開館以来わずか二箇月半で、与謝野晶子、徳田秋声らから芥川賞の木崎さと子、三島賞の久間十義らに至る、すでに七十人近く
が力作、秀作を展示しています。紙の本でなら三十册近い分量の出版にかけました経費は、限りなくゼロに近いものです。
実に、こういう時代に、今は、成ってきています。
このディジタル・ライブラリーは、繰り返しますが、完全に無料公開で、原稿料も、掲載料もなく、課金も
一切しておりません。文学好きの読者に、吹聴、愛用して下さいますように。
冗談のようですが、むろん谷崎潤一郎も川端康成も、たぶん、ワープロの存在すらも
知らなかったでしょう、ですが、もしも今日に生き長らえ、パソコンを身近に知ったとして、二人とも拒絶したか、二人とも興味をもち使ってみようすらした
か、片方は関心を示し、片方は見向きもしなかったか。これは、なかなか深読みの利くクイズのようなものであるなと思っていま
す。
機械で小説が書けるモノでないとか、ごたくさ、ものを言う人もいますが、文体を
もったまともな物書きなら、何と謂うこともありません。
影響があるなら、見分けが利くはずですが、ある連載の途中から、完全に機械書きに転じたときも、誰一
人、ここからが機械だなどと見分けた読み手は無かったのです。
そういうものです、その手の議論は、もう過ぎた昔話でありましょう、その上で、今のクイズめく問題を、
少しく、本題に絡めてものを思ってみますが。
機械を実際に「使う・使わぬ」は別にしましても、川端文学の方が、機械で書くのに馴染みにくく、谷崎文
学の方は、むしろ機械書きに応じて行きやすい、そんな、文学自体の性質の差がありそうな気が、私は、しています。
結論ではありません、ただの予測です。予測以上に踏み込むのは危険過ぎますが、ま、いよいよ、本題に
入ってゆき、手短かに、ちゃっちゃっと、お茶にして、しまいたいものです。
本題本題と言いますが、何が本題なのやら、川端康成の「深い音」って、何なんだと 思われる方も、苦しまぎれに、あの『山の音』を念頭に置いたろうとは、見え見えにお察しの通りです。が、ま、その辺へ、話題を運んで行けるものかどうか、 まだ分かりません。先が見えていません。お、と気がついたらその辺まで、辿り着いているという具合に行けば佳いのですが、実のところ、繪に描いたような見 切り発車なんです。御免なさい。
あまりそういう経験は無い方なんですが、一度だけ似た困惑にまさに悶えたことがあ ります。
「墨」という雑誌に、「秋萩帖」という小説を連載する話がありました。秋萩帖は、小
野道風の筆になるかという伝の、極めつけ、書の国宝ですが、草仮名という、書の歴史では一時期を画しました書法書体で書かれているのも一特色でして、かな
り登場の時期が限定されますが、これに関して、小松茂美博士の、ま、革新的な研究論文など出まして、私は、ずうっと注目しておりましたし、そのうち、小説
に書きたくなりました。で、「墨」から話が来ましたので、なら、これでと、先方も大賛成。時間も迫っていましたので、「行けるだろう」という気でスタート
しました。
小説の事ですから、小野道風はいいとして、ヒロインも登場させたい。そしてそこには、恰好の女性が存在
していたんです、名前は、大輔。古今集の次の、後撰和歌集で、女では、伊勢に次いで二番目に採られた歌数の多い、交際の範囲も皇太子から藤原時平から藤原
実頼などまで絢爛豪華なんです、が、主人公たるべき小野道風とも、紛れもない恋の相聞歌を、一度ならず交わし合っていまして、これぁもう、ヒロインとして
申し分がないと、それは書き出す前からよく知っていたものですから、よっしゃと飛びついて、創作の進行にも、ま、タカをくくったところがありました。作の
モチーフは、恋愛なんかとは別に、ちゃんと持っていましたのでね。安心していました。
安心の一つには、大輔ほどの大物女性ですから、氏素性明白だと思いこんでいたわけです。所がこれがとん
だ誤算で、諸々の参考書に謂うこの大輔は、古今和歌集にも出ています大輔と同一人で、従って父親は、王族である源弼だと云うんですよ。
ですが、これは、多くの点で大間違いでした。第一、歌風がちがうし、年齢も、大幅
に食い違ってきます。学界によく有るいわゆる孫引きで、誰かの説が無批判に踏襲されていただけで、精査しますと、早くに、少なくも源弼の女ではありえな
い、古今集と後撰集の大輔とは全く別人であるという論考が、ちゃんとその当時に出ていたんですけれど、埋もれていたんです。
それじゃ、後撰の大輔、大鏡にも大和物語にもいろいろに噂の多い、大きな史実にも絡んでいる大輔の、親
は誰かとなると、これが全然、研究も言及もされていない有様なんです。
弱りました。連載は始まってしまったのに、ヒロインを自信を持って形作ってゆきにくい。なにしろ、彼女
の関わってゆく貴族達はみな眩いほど錚々たる連中なんで、ヒロイン一人を、いい加減には持ち出せないわけです。
あの時は、ほんとうに汗をかきました。
で、仕方がない。小説を書いて行く一方で、研究者・学者もして来なかった、大輔の戸籍調べを、自力で
やったんです、うんうん唸りながら。
結果的に、これは、かなりな成功裏に収束しました。なにしろ小説家のこういう言説に、つねづね実に厳し
い角田文衛博士が、京都からわざわざ、電話で、「よう調べあげましたねえ」と褒めてきて下さったんだから、ま、いい線に達していたものと今でも思っていま
す。
その詳細は、この席の本筋ではないのですべて略しますが、後戻りの利かない見切り発車というのは、じつ
に切ない苦しいものであること、今回の川端康成の話は、それに近い、いいえ、苦しいそのものの汗の掻きようである、と。泣き言と思ってくださって結構で
す。
ところで、今、古今和歌集の大輔、これは源弼の女でありますが、この人と、後撰和歌集の大輔との、「歌
の風」が違いはせぬか、ということを申しました。
この詮議は、むろん容易じゃないんです。古今集には、大輔という女性の和歌は、只一首が採られているだ
けでして、こういう歌です。
なげきこる山とし高くなりぬれば
頬杖(つらづゑ)のみぞまづつかれける
嘆きという木を、樵(きこり)する山、嘆き・ため息の「き」が凝り固まって、山に
なっている。そんな「山」に登ろうとなると、途方も無さに真っ先に「頬杖」がつきたくなっちまう。ま、そんな歌です。才走った言葉遊びと読めますし、物憂
げな恋愛体験に裏打ちされている、とも読めます。
そして、歌が硬い。伊勢ほどの名手と、勅撰和歌集で歌の数を競えるような秀歌詠みでも何でもないんで
す、「カ」行の、硬い音を、七音も、工夫無しに連ねています。
後撰和歌集の大輔の歌は、幾つもありますが、例えば、こんな感じです。
わびぬればいまはとものをおもへども
心に似ぬはなみだなりけり
ふるさとの奈良の都の初めより
馴れにけりとも見ゆる衣か
ともに古今調です、万葉調ではない。が、心持ち、後撰集の大輔の歌の方が、古今集 の大輔のより、柔らかい。ずっと柔らかい。声に出して歌ってみると、感じがつかめます。
が、こんな微妙な「うた」の差異は、感覚的に、直感的に「認める」か「認められない」かのどっちかですから、頼りないと云えば頼りないが、違いの分かる者
には、分かると言うて置くしかないようです。
いま、小野道風の話が出ているので申し上げますが、源氏物語のなかで、紀貫之と小野道風との「書風」が
競い比べられて、道風のほうに軍配が上がっています。その理由に、道風の方がわずかに今様である、今めかしいからだ、と言われています。しかし、紀貫之と
小野道風との時代差なんて、ものの二十年ともありはしないほどなんです、が、物語中の人達は、たぶん、物語を読んで聴いて嘆賞していた読者達にも、この、
かすかな古様古風と、新風今様とが、かぎ分けられていたわけですね。二人の大輔にも、わたしは、確実にそれが露出していると読み分けております。
ま、これは和歌の、「うた」の話です、が。
それじゃ、「うた」って何でしょう。「音楽」じゃあ、ありませんか。
詩歌とは、言語の音楽であればこそ、「うた」と呼ばれているわけです。定型による「外形の韻律」も「内
在律」も、まさに音楽の効果に導かれて、言葉が、紡がれるように、好ましく表現されて行きます。これに異存のある人は少ない、無い、のではないか。
と、同時に、では散文は、詩歌とは別ものなのか、と、問われれば、じつは散文もまた「音楽」性を、たと
えば「絵画」性よりは、遙かに濃厚に、本来具有していることは、当然です。
いまでこそ、滅多に小説を「音読」はしませんでしょうが、類似・相似のジャンルで
ある、演劇や、話藝・ラジオ放送等の朗読には、言葉の音楽的な響きや、諧調や、快感に心惹かれることはあり、それが、かなりの度合い、「間」という音楽的
旋律感や、文字通り間隔=インターバルの魅力で受け取られています。
想像力を絵画的に刺激することは可能でも、言葉は、どうしても、例えば饅頭の甘さを、正確には言い得な
いし、音色も、色彩も、硬さ柔らかさも、寓意的・比喩的に「表現する」しかないが、その「言葉自体の魅力」の取り込まれようが、音楽のそれに近いことは、
論をまたないわけです。
文学・文藝の魅力には明瞭に音楽性があり、もともと「音の楽しさ」と表記した音楽にならい、文の学問で
なくて「文の楽しさ」というのが「文藝」の名称・表記であってこそ、より快いものが、そういう性格が、認められるわけです。
言い換えれば、文藝活動の芯の所で、意識の深層で、詩人も小説家も、本当は批評家 ですらも、一人一人の個性のにじみ出た、独自の「音楽」を「奏でている」のだと謂えるところが、在る。間違いなく在ると、私は思います。
もう何十年か前のことですが、電器屋をしておりました父が、京都から東京の私に、
まだリール式でしたが、テープレコーダーを送ってきてくれました。
私は、親にものをせがむ、ねだるということをしない子でしたから、父からの自発的なプレゼントでした
が、その頃、私は三十前で、やっと、小説を書き始めていました、ごく孤独に、こつこつと。
私は、カラオケ等の好みのない男でありますから、さて機械を何に使うのか。で、テープレコーダーの届き
ましたその晩、恥ずかしいものですから、妻子のみな寝静まりました深夜に、小声で、いきなり、「男がいた。」と吹き込みました。
それから先、思いつくまま「話」を吹き込んで行きまして、そして寝ました。朝起きて、再生してみます
と、なんだか、思いがけない自分の心根が覗いているんで、面白いなと、そんな試みを随分続けました。
それが、私の「掌説」です。五十編以上ありましょう、かなりな意味で、私自身の「索引」を成しているよ
うに感じます。
そして触発されまして、また古典物語体験の延長上からも、私の、「文学は音楽」である、少なくも音楽的
魅力を、本質に抱えているという自覚が、格別に強くなりました。自分の小説を、書いては音読しつつ推敲して行く習慣のようなモノすら、出来て行きました。
皆さんにも御経験があろうと思いますが、ある種の文学作品を読みまして、その夜の
夢に、なんとも謂えぬその作品の強烈な文章・文体の印象が、うねりにうねるように、旋回し、連続し、果てしないということ。
私は、そういう体験を、例えば幸田露伴の「運命」、森鴎外の「即興詩人」や、ことに「渋江抽斎」を読ん
だ晩にしまして、魘されるというのでは、ない、えもいわれぬ「波」に載せられ運ばれる思いを夜通し、しつづけた覚えがあります。それは、バッハや、モーツ
アルトや、ベートーベンの、強い曲を聴いて寝たときにもあるのと似た、それよりはやや、夢魔に遭ったような疲労感すら伴う、ちょっと「降参しました」とい
う感じなんですね。
小説「清経入水」で太宰治賞を受けましたあとの、記者会見で、私は、島崎藤村、夏
目漱石、谷崎潤一郎を愛読し尊敬してきたと告白しまして、ま、驚かせたというか呆れさせたようなことのある人なんですが、この三人からも、まさに三様の
「音楽」を、聴き続けて、楽しんだのだとも謂えましょう。
お前さんの謂う「音楽」とは、「文体」のことではないのかと反問されましたなら、素直にそうですと返事
するでしょう、が、しかし、それをわざと、「音楽」というように申しますのは、比喩的には、その方が明快であるからです。
文学の「文体」とは、というと、「文章」とは、というのと混同されやすく、曖昧にわかりにくいもので
す、一般には。
それに、文体は、個々の作家と作品とに属しています。
文学の「音楽」というと、文学・文藝全体を覆った体に謂いましても、分かりがいいし、作家と作品とに即
しては、もっと納得しやすい。
今も申しました、漱石、藤村、潤一郎が文章によって演奏しています「音楽」は、まず、歴然と、指紋のよ
うに異なって聞こえます。甚だ、分かりが良い。
学生時代を終え、京都から東京へ出て参りました数年は、貧しく貧しく 新婚生活しておりまして、テレビはおろか、ラジオもなく、新聞もとれませんでした。娯楽はといえば読書です、僅かに手元に置いていた潤一郎、藤村、漱石の 何冊かを、わたしが、順繰りに朗読し、家内は聴いて過ごす。そういう生活でしたから、声に出し、耳に聴き、そのようにして文学の音楽を我々は、味わい得て おりました。
では、そんな中に、川端康成は入っていなかったか、というと、じつは、入っていま
せんでした。
私は、川端康成に、先ず彼の書いていたいわゆる「少女小説」から入ったのです、小学校、五、六年生の頃
に。私のためにと新しい書物の買えるような家ではなかったので、読書はというと、家にあった、祖父の買い込んでいた漢籍や古典、父の謡曲本や事典類だけ
で、他は、古本屋での立ち読みか、人に借りるかでした、が、小学校の友達は、貸してくれても、山中峯太郎の「見えない飛行機」のたぐいか、女の子達の少女
小説でした。川端康成の名前は、吉屋信子や佐藤紅緑らと並列で、この手の書き手なんだと思っていました。
じつは、その頃にはわたしはもう縁有って漱石文学には出逢っていましたし、家にあった、頼山陽の日本外
史だの、白楽天詩集だの日本国史だのを愛読もしていたのですから、とても少女小説として括られた、甘い、センチそうなシロモノには満足するわけがなかった
のです。それぐらいなら佐々木邦のユーモア小説の方が、上等だと感じていました。
つまり川端康成の名前を覚えた頃の私は、彼を、佐々木邦より下風にみていたとすら謂えます。
そんなわけで、中学生から高校生になり、既に谷崎文学の大方、藤村の代表作も、漱
石全集もあらかた、出逢っていた頃に、ようやく、評判の小説「千羽鶴」ついで「山の音」を続けて読んで、感嘆しました。笑い話のようですが、見直したんで
すね、よっぽどの驚きようでした。
とくに「山の音」に、魅了されました。それから、「雪国」を読んだのです。その後は、もう折りごとに読
み進みました、いろいろと。しかし、全部じゃありませんし、よく谷崎の場合にいいますように、活字に唇をつけてうま味を啜るように読んだ、そんな風に読ん
だ、といった「谷崎愛」的に、川端康成を読んだというわけではなかったのです。
ごく尋常にというか、平凡にといいますか、自分にとって川端康成は、「伊豆の踊り
子」「雪国」「山の音」そして十ほどの優れた短編、あとは晩年の「眠れる美女」「片腕」とか、批評の三つ四つ程度。それでも足りているかなあ、と。
とても、こういう場所で、何かを話せるほどの入れ込みようではなかったのです。
貶めていたわけではないのです。ただ全集を嘗めるように読みたいとは考えなかった。鴎外でも露伴でも、
大変な敬意と愛情を持っていますが、何もかもじゃない、選んで、読んできましたからね。、
何故だったろう、という、告白をしなくちゃいけませんね。強いて挙げれば、理由が 二つほど謂えるかも知れません。二つではない、同じ一つであるのかも知れません、が。
そこへ戻って行くべく、意図的に少しまた、脱線しますけれど。最近、ある人と電子
メールで、或るやりとりをしました。その人は、一度も顔を見たことのない、関東平野の北の方に暮らしている若い女性のようです、小説を書く志のある人で
す。
先ほども申しましたが、日本ペンクラブに、「電子文藝館」ディジタル・ライブラリーを創設しまして、島
崎藤村初代会長から、以降、白鳥、直哉、川端康成、芹澤光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹、そして第十三代の現
梅原猛会長に至る、物故会員、現会員合わせて約二千数百人の文藝著作を、一人一作ずつ、作者紹介を添えて国内外に「無料公開」して行きつつあります。
こういうことが可能だと、私が見越して、企画し実現できましたのには、事前に、一
つの実験をしておりました。
私は、自分自身のホームページを持っていまして、すでに、二万枚を優に越すコンテンツを、多くのジャン
ルで書き込んでいます。写真など入れない、とことん「文字」による文藝文学のサイトなんですが、ペンクラブの電子文藝館開館のちょうど一年前から、更にこ
のホームページの中に、入れ子構造で略称「e-文庫・湖umi」という文学サロンを創設し、私の責任編輯で全ジャンルの作品を蒐集し募集しはじめたこと
を、先ほどもちょっと申し上げました。
文豪の作品も頂戴していますし、高校生や九十のおばあさんの小説も、科学者の随筆 も、プロの歌人俳人詩人の作品も、満載しています。原稿料も払わず、掲載料ももらわず、読者への課金も一切していません。新世紀へむけて、ディジタルな文 藝登場のための、まともな「場」を用意することが、とても大事だと思いました。水準の高さを設定すべく、既成の文士文人の作品も戴いて、あくまで、私がよ しと思うものを責任を持って採るという、そういう「電子的な文学サロン」なんですね。
で、さきほど申しましたメール交換した人、若い女性というのも、「e-文庫・湖」
への投稿者であったわけで、もう以前に、一作小説を掲載し、二作目がまた届いたという時の話、まだ最近に属する話、でした。
投稿してきた人の第二作は、前作より遙かによく落ち着いて書けていました。ですが、前作がストーリィに
重きがあったとすれば、今度は、かなり心理的に書いていた。心の内がたくさん書き込まれていまして、それなりの効果をあげていました、が、ふっと顧みて、
これで読者は「面白い小説」と読むだろうかなあ、と感じました。で、たまたま考えてきたことでもあり、こんな「感想」らしきものを、技術的な二三の助言に
続けて、述懐風に、書いて送ったのでした。
川端康成と谷崎潤一郎とを読んでいますと、それぞれの特色が明白に分かれ、川端
は、精緻に、せつないほど内心を表現し解釈し、一挙手一投足にも「心理的な意味や背後」を透かし観せて、書きこみます。
谷崎は、具体的な人物の行為と事件との推移の中で、「筋=ストーリー」に多くを語らせます。心理の説明
に重きは置かずに、これで「心理もちゃんと書けているはず」という主張です。「春琴抄」での、彼のこういう言明は、特徴的によく知られていまして、その通
りに、私も感じています。
川端作品では、「筋」の面白さのもつ比重は、さほどとは思われない。心理表現の犀
利と精緻のなかに「あわれ」を感じさせて、大いに魅力に富みます。
谷崎は、おおらかに物語自体を掴みだしてきて、具体的で、心理表現に立ち止まる神経質は、殆ど持ち合わ
せず、かなりストレートに、面白い小説世界へ誘いこみます。
あなたは(その投稿者のことですが、)自分の意欲が、どっち寄りであるかを、意識
的に吟味したりしていますか。
もし川端寄りというなら、まだまだ川端康成の足元にも遠く及ばないのだから、つまり、たいして面白いダ
イナミックな小説にはなりにくいまま、心の内を、むやみと解剖するような、そんな仕事ぶりが当分続くでしょう。
また、谷崎寄りに、物語を創り上げて面白くするには、何かしら大きな部分を、吹っ切るようにして断念し
なければならず、さらには、多面的な勉強が、話嚢の充実や話術が、必要になるでしょう…と、 ま、そんな風にメールを上げました。
そして数日して、念のためにもう一度、こう補足しました。
強いてどっちかに寄ろうという必要はないのです。小説の書かれ方には、そういう大きな違いのあること
を、分かっていれば済むことです、と。
昔なら、谷崎と志賀直哉といった対比でよく語られました。その頃は、谷崎と川端は、むしろ、いつも一括
りに感じられていました。三島由紀夫でさえも。
しかし、書き方となると、三人は、ずいぶんちがいます。
で、脱線していた話題を、もとへ戻してみますと、大まかな話、私には、「声」に出
して読んでみたい作家・作品と、声に出して読みたいとは、感じない、そうは、仕難い作家・作品が有る、と、ごく自儘なことが、謂えば、言えるのです。
谷崎は朗読したくなり、川端文学はそういう気にならない。
むろんですが、これは、作品の「質」の高下とは無関係です。が、その「音楽性」の差に、質の違いに、ど
こかで微妙に触れているのだとは謂えるでしょう。
その際、それは、「私にとっては」という限定が是非必要なのかどうか、その辺、確言できるほどの吟味も
追究もしていないのですから、それ以上は申しません。申しませんが、
かつて、潤一郎作「細雪」を、子ども達との食後に、少しずつ、全編朗読し通したことがあります。漱石の
「こころ」も、そうすることで、家族での話題に採り上げた。昔ですよ、まだ子ども達が小さい頃のことですが、藤村の「家」のような小説まで、そのようにし
て音読・朗読しました。
藤村などに比べたら、小説の興味からすれば、川端の「雪国」や「伊豆の踊子」の方 が、うんと入りやすいのですが、これが朗読となると、すこし違う。川端の方が入り難いんですね。
二つほど、その、理由らしきものを挙げてみますと。
一つには、文から文へのつなぎに、川端の文章は、思いの外急峻な切迫があり、足が早く、意識して、ゆっくりと息をつがぬ限り、黙読には適していても、朗読
には、少なからず間がもてないところがある、と、私は、実感しています。
谷崎の文章・文体には、創作の際に、口述筆記しても効果をあげられる本来の性質ないし利点がありまし
て、「夢の浮橋」のように、全編口述筆記されたものが、いかにも、物語によく膚接していて、佳い仕上がりを見せていましたし、谷崎自身もかなりな満足を表
明していましたが、川端作品に、事実として口述の作が有った無かったは知りませんけれども、「雪国」にしても、「山の音」にしましても、あれらは、口述で
は、到底創りきれないのではないでしょうか、息継ぎを、一つ、注目しましても、そう思います。
その点にも当然関わりますが、今一つの理由として、さっきの読者・投稿者とのメー ルに触れて居ますように、川端作品は、佳境に入れば入るほど、「雪国」「山の音」、また「片腕」なんかでも、心理的な独白、自問したり自答したり、気持や 内なる推移にたいする、解釈や斟酌が俄然多くなり、そういう表現が、櫛の歯のように続き始めますと、これはもう、朗読ができるかどうかよりも、むしろ「黙 読」にこそふさわしい、微妙な感情の「出入り」になって参ります。
外へ出る声音は、ふうっと殺されまして、内面へ内面へ沈潜した言葉で、読者自身
も、対応せざるを得なくなる。
妙な言い方をしますなら、谷崎の音楽は外へ向けて演奏されており、川端の音楽は、地下水のように沈潜し
て流れていて、「耳」に聞えるよりも、はるかに「胸」に、よく申します琴線というヤツに、直に、触れてくる。読者に挑発し、読者に和して、自然と「声」を
出させるような谷崎流でなく、読者の声を吸い込んでしまって、自分の作品世界に、惹き入れてしまう、そういう川端文学の、いわば読者への声なく音もない誘
惑が、それこそが、川端文学の「音楽性」の特色、かのように内在し、また内面化されてあると、私は、そのように川端康成の小説を読んできました。読んでき
た、ようであります。
だから、川端文学を、私は、音読しないのです。できない。それをやると、作品の魅 力を、我流に、汚したり傷つけたりするように感じるのです。
映画を多くは観ていません、が、吉永小百合の「伊豆の踊子」原節子の「山の音」ま
た木暮実千代の「千羽鶴」も。川端映画で記憶にあるのはそんな程度ですが、それぞれ気持のいい、また印象的で、映画として佳い出来のものでした。
しかしながら、人物の「会話」だけを拾い出してみますと、まことに、どれも、普通の会話になっていま
す。
原作では普通でないのかというと、意外なことですが、川端の会話は、概して普通の会話のようなんです
ね。川端康成は、それほど奇矯な言語を、作中人物達に強要しているとは、私、感じません。
けれど、その普通の会話が、それぞれに、川端流の深部心理や深部意識というか、「内面」という名の「重
り」をぶら下げていまして、作品を読んでいますときは、その重りと共に一見「普通の会話」を読んでいるわけですが、映画になると、映画の文法によってすべ
て映像化されてしまい、原作の会話は、只、利用されている。容易なことでは、必ずしも「川端原作の効果」つまり「内面」や「深層」とは結びつかなくなり、
ごく普通の会話っぽくなってしまっている。つまり小説の「粗筋」が映像化されているので、川端の独特な「深層音楽」が、あまり聞えて来ないんですね。すっ
かり敬遠されているか、それとも映像に馴染まないモノに成っている、ようなんですね。
谷崎作品の映画化したものは、幾つも見ています。「細雪」は何度も。「春琴抄」
も。また芦刈の「お遊さん」や「鍵」「瘋癲老人日記」「痴人の愛」「無明と愛染」「卍」「蓼食ふ虫」「猫と庄造と二人のをんな」その他、数々ありました
が、これらはもう、原作にそのまま寄り懸かっても、よし。思い切った「解釈」を好き放題に加えても、よし。
もともと、外向きに、物語や小説世界があけすけに提供されていますので、かえって、いろんな「趣向」が
加えられやすく、原作とは「別の趣」に創られても、創られなくても、とにかく一つの映画になりきり、人物も、なかなか奇抜に会話したりしているのですね。
川端原作映画は、それほど、原作から自由になりきれてなかった気がしています。
美しい絵にはなるけれど、川端文学の「音楽」が、絵では、映像という写真表現では、十分に汲み取れな
い。強い言い方を致しますと、川端文学の強固な意志として、簡単にその「音楽」は、「映像で」なんか汲み取らさないぞという、そういう途方もなく強い言語
性質をもっているのだと思います。
こんなところで、自分のことを喋るのはどうかと思いますが、私のようなものでも、小説を本にしますとき
に、何度か、担当編集者から、「もし映画化のハナシがありましたなら」云々というセリフを聴きました。わたしには、その方の欲望がないものですから、本気
にもせず、何の対応も無論しませんでしたが、腹の中では、いつも、自分は、小説を、音楽として書いているつもり。絵に、写真に、映画になんぞ、出来るもの
ならやってみろ、という気持がありました。今でも有ります。
そういう気持で居ますときは、「谷崎愛」の私も、文学的には「川端康成の音楽」に、心服し敬愛している
自分に、かなり気がついていた筈です。
その点、谷崎は、日本の近代作家の中でも、最も早く最も深く、最も実践的に「映
画」を愛した作家でした。映画製作者でもあったし、家族の中から女優を世に出したり、家族中で映画出演したりしていたのです。
私も趣味として映画は大好きですが、こと文学に関しては、作品に映像性を強いて与えるよりも、はるかに
「表現に於ける音楽」を、「内在する音楽」を、「静かに深い音楽」を、求めてきました。
川端康成が美術骨董の、いわゆるコレクターではなくても、大変な愛好家であったこと。では、この点をど
う見るか。美術骨董は、彼の文学と、どう関わるか。その方面でも、若い研究者から、佳い報告があるようです。
こまかな論証は、私の任ではないので勘弁願いますが、率直な感想だけで申しますと、川端康成という人
は、たとえば骨董の場合、手で、掌で、指で、触れながら、目は閉じて、骨董の奏でています「音楽」に聴き入っている、それが「鑑賞」というものだと思って
いたのではないか、そんな気が私はしています。「視覚」が行き届いて、まさしく「目利き」になるというのではなくて、むしろ「触覚」に導かれまして、対象
への不思議な「聴覚」が研ぎ澄まされてゆく、そういう骨董愛好なのではなかったか、と。
もっと思い付きに近い推測を致しますと、あれほど内面描写や心理解剖に長けている 川端康成ですが、はしなくも今、解剖とという言葉を使いましたけれど、比喩的に謂うと、川端という人は、「心を、あたかも体かのように」解剖してゆく、一 種根源的な「からだ主義」者ではなかったろうかと、私には思われるのです。
「雪国」の島村がそうでありますように、川端康成は、舞踊好きの人でしたね。「舞
踊会の夜」という小説もある、「舞踊靴」という小説も有るから、そう言う、と謂うのではないのですが、「舞踊」という小説には、「女は舞踊によってのみ、
美を創造することができる」という、川端風の持論を、少しく実現してみせた趣もあり、いわば「体の音楽」に、かなり意識して触れています。
つまり、さように、深層の性意識とも絡みながら、文学創作の根底部に、変な言葉を自前で創って申します
と、触覚と謂うよりも、もっと大きい、鋭い、深い「体覚」性の音楽が、言い換えれば「舞踊的な音楽」が、川端文学言語の「底」を支えているのではないか、
という気がしてならないのです。
具体的に、これは、たぶん挙証し論証して行けるのではないかとすら思います。
「音楽奇譚」のような、ややこしい家庭劇も川端は書いていますけれど、そういう、 じかに「音楽」という言葉に交わるよりも、「伊豆の踊子」「雪国」「山の音」そして晩年の幾つかの作品から、それらの「文体の底」から湧いて出たような 「体覚性の音楽表現」に、深く深く聴き入ってみることは、朗読するよりも、音読するよりも、遙かに遙かに、川端文学の味わい方として、「理」に、とは謂い ませんが、作者の「意」にも「気」にも、よく適うもの、と私は感じております。
この辺で、終らせて戴きます。
(2002.2.13 草稿)
(2002.2.19講演 於・駒場 近代文学館)
知識人の言葉と責任
今、なぜ、芹沢光治良作『死者との対話』が大切か。
秦 恒平
お招きにあずかり、恐縮しております。芹沢先生とは、ご生前に、ご縁を得る機会は、一度もございませんでした。 むろんお名前も、お写真等でのご風貌も、御作も、存じ上げておりました。もっとも、読者として、そう深いおつき合いをしてきたとも申せません。みなさん方 のほうが、遙かに遙かに、なにもかもよくご存じです。私の場合、拝読のつど、いい感じを得ていた、と、そう申し上げるにとどめておきます。
それで、どうして此処にと、ご不審であろうと思います。
ご紹介にありましたように、私は、現在、日本ペンクラブの理事をつとめております。ご承知のように芹沢先生は、日本ペ
ンクラブの第五代会長でいらっしゃいました。昭和四十年秋のご就任で、『人間の運命』第2部の第一・二巻が続けて刊行された前後でした。
私の身の上で申しますと、ひっそりと独り小説を書き始めておりまして、私家版の本を、一冊また一冊と、作っておりまし
た。その四冊目の本が、私の知らぬところで、まわりまわり、中の一作『清経入水』という小説が、第五回太宰治賞候補にあげられまして、受賞しました。選者
は、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫という、凛々と鳴り響くような諸先生でした。昭和四十四(1969)年の桜桃忌のこと
で、やがて、満三十三年になります。それ以来の作家生活ということになります。当時私は、本郷の医学書院という医学研究書の出版社に勤務しておりました。
芹沢先生は、その年、たしかノーベル文学賞の推薦委員をなさっていたのでは、なかったでしょうか。
で、時代はぽーんと飛びまして、昨年の十一月二十六日、日本ペンクラブが昭和十(1935)年に創立されまして
以来、満六十六年めの「ペンの日」に、「ペン電子文藝館」が、インターネット上に開館になりました。私の提案によりますもので、昨年七月の理事会で決しま
して以来、熱心に開館をめざして、準備に勤しんでおりました。
「ペン電子文藝館」とは、どのようなものか。それは、お手元にお配りしたもので、おおよそご判断いただけると存じます。
一つには、ペンの過去・現在の会員作品の「展示場」であり、二つには「ディジタルな(電子化された)読書室」です。現会員が約二千人、物故会員が、まだ正
確につかんでいませんが、ざっと五百人以上。その方々の、さし当たり作品一点ずつを、いわば会員の「顔」つまり存在証明として展示公開すると共に、どんな
人材により、日本ペンクラブが歴史的に構成されてきたかを、会員本来の「文藝・文筆」により、広く国内外に識っていただこうというのを、当面の目的にして
おります。
その際の、先ず魅力の一つとして、歴代十三人の会長作品を、お一人残らず揃えたいというのが、責任者の私の、希望でし
た。それが成れば、他の会員も進んで作品を出して下さるだろうと。じつは、この「ペン電子文藝館」は原稿料をさしあげられません、ペンの財政はいつも逼迫
しております。そのかわり、アクセスされる読者に対しても完全に「無料公開」し、これでペンクラブが稼ごうとは致しておりません。ペンクラブだから出来る
「文化事業」としてお役に立てればと考えております。
お察しいただけると思いますが、こういう事業は、「会議」を重ねていても進行しませんし、「よろしくお願いしま
す」を幾ら繰り返しても、いつまで待っても出来上がることでなく、歴代会長の十三人、ついでに申し上げますと、初代が島崎藤村先生、以下敬称略で、正宗白
鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹、そして現在の梅原猛さんに至りますが、梅原さ
ん、大岡さんのほかは、みなさん、お亡くなりになっています。自然、ご遺族に出稿をお願いしなくては成らないのですが、「お願いします」だけでは、とても
とても、ただ「一作」を選んで戴くのは難しいことと、それはもう、分かり切ったことです。大変なお仕事の山から、一つだけ選んでくださいと、これは、お気
の毒すぎる難作業です。
で、私が、もう独断専行、ただし誠心誠意よく考えました上、どうかこの御作を頂戴できませんでしょうかと、そのよう
に、「候補作品」を具体的に挙げまして、そしてお願いに上がりました。実は現会長の梅原作品も、私が選びまして、「これで行きましょう」と薦め、幸い、
「うん、有り難う」と、一発で決まりました。もし此処で躓いていたら「ペン電子文藝館」は未だに「開館」出来てなかったかも知れません。が、幸いに、これ
が、すべて成功しました。
芹沢先生の御作では、私は、躊躇なく『死者との対話』をと記念会の方へお願いに出まして、幸いに、ご賛同戴くことが叶
いました。そしてその結果として、何故に『死者との対話』を選んだかを、この懇話会に来て話すようにと、ご息女岡玲子さんの再三のご希望がございました。
ご辞退しましたがお許しがなく、厚かましく、こうして参ったわけでございます。
『死者との対話』は、私は、少なくも両三度読んでおりました。それについて、書いたり話したりしたことこそ無かっ
たけれど、忘れがたいと言うだけでなく、進んで時に立ち戻って行く、そういう御作でありました。感銘を受け、深く物思うところがあったからと、ともあれ、
さよう申し上げる以外にありません。「ペン電子文藝館」に何をと、思案よりも前から、芹沢元会長には『死者との対話』をと、だから、迷いなく、腹を決めて
おりました。
その際──、この私は今、六十六歳半、つまり日本ペンクラブが誕生した翌月(昭和十年十二月)に私は生まれておりまし
て、ま、ペンとはちょうど同い歳なわけですが、その私の頭には、ごめんなさいお年寄りではなくて、「若い人」「若い新しい読者」のことがクッキリと有りま
した。『死者との対話』をぜひ読んでほしいのは、これからを生きて行く、今からの、若い人たちなのだと。
作品は、みなさんよくご存じなので細かには繰り返しませんが、この作品には、もともと「唖者の娘」という題も考
えられていたのでした。いわば全体のキーワードでもあり、執筆の動機に直結し、また此処が、主題にもなっています。
しかしこの題は、最終的には『死者との対話』で落ち着きました。
堅いことをいえば、確かに、小さからぬ問題が、この「唖者の娘」という言い方には含まれます。作者の言わんとする「趣
旨」自体が明白であり、深切・誠実であるために、表立った問題にはなりませんが、聴覚と言語機能に負荷を負った女性が、やはり、やや不適切に比喩的に用い
られたことは否めないようです。
なぜなら、作品に現れます大哲学者ベルグソンの娘さんが、事実「唖者」であったのは致し方なく、また、それ故に、発声
等に大きな異変を示していたのも、これまた無理からぬことであり、そのことと、彼女の知性や理解力とは、ほんとうは、ま、無関係なのです。ところがウカツ
に其処のところを読みますと、この際の「唖者の娘」が、即ち「理解力」に乏しい知的に遅れた存在かのように、だからそれ故に、父ベルグソンは、「唖者の
娘」の絵の制作に対し、噛んで含めるように平易な言葉を用いてあげねばならなかった、分かりよい批評や感想で懇切に手引きしているのだ、と、こう、作中の
「僕」の思いを「誤解」してしまいそうになります。その上に、引いては、さよう理解に遅れた「唖者の娘」なみに、日本の、知識人ならぬ一般の「国民」が比
定され、その比定の上で、幾つかの「本質的な意見や疑問や反省」が持ち出されている、と、そのように「誤解・誤読」されてしまいかねない隙間が、たしかに
この作品には、在るといえば、在りますね。じつは誤解なのですが、誤解されかねない気味を剰して書かれています。ちょっと残念な気がします。
芹沢先生の真のモチーフを受け入れるに際して、ですから、私は、あまり「唖者」「唖者の娘」という所や言葉にはこだわ
らないで、もっと大事な、根本の主張、芹沢先生が打ち出された真の意図に即して、以降、ものを申し上げて参りたいと思います。
肝心の所は「言葉」と「知識人」、それも「日本」の運命を左右してきたような「日本の知識人」「日本の知識階 級」と「言葉」とが、その「責任」が、『死者との対話』をぜんぶ通じて、厳しく問われています。
発端は、この作品の主人公でもある、即ち「対話」の相手の、今は「死者」である、「和田稔」という学徒兵──実在した学生でした──の、痛切な疑問の言葉
にありました。疑問を突きつけられたのは、即ち「哲学」、具体的には、世界的存在と当時の日本が誇りにした、西田幾太郎博士の哲学、「西田哲学」でありま
した。
私は、はじめてその箇所へと読み進みましたときに、大砲で胸を射抜かれたほどの思いがしました。若き和田稔は、出征直
前に語り手の宅を訪れて、恩師と膝をつきあわせての対話の中で、真率に、悲痛に、こう語ったと、作品にあります。
「君は戦争に懐疑的であるばかりでなくてまだ死の覚悟ができていないからと、神経質な目ばたきの癖でいった。君は
死の覚悟をもつために哲学書、特に西田博士のものを一所懸命に読んだが、なにも得るところがなくて、却(かえ)っていらだつばかりだったと苦笑してい
た。」
「覚えているかしら、その時君はいった」と、こうも書かれています。
「死を前に純粋な心でこれほど切実にもとめるのに、何もこたえてくれない哲学というものは、人生にとってどんな価値があ
るでしょうか。それは日本の哲学者はほんとうに人生の不幸に悩んだことがないので、人間の苦悶から哲学をしなかったからでしょうか、それとも哲学というの
は、生や死の問題には関係のない学問で、学者の独善的な観念の体操のようなものでしょうか。」
和田青年は、やがて出征、「人間魚雷回天」に搭乗して壮絶に戦死してゆく人です。そういう若者の口から、呻くように語られたこの言葉には、千鈞万斤の重み
と痛烈な「非難」が感じられます。そしてその時に、先生は、さきの、哲学者ベルグソンとその「唖者の娘」に会った昔を思い出して、答えるともなく、思い出
話を彼に聴かせたのでした。
そこが発端です、が、この発端に呼応して、すでに戦後になり、こういうことが有ったと、「先生」は今は帰らぬ「死者」
となっている和田稔に向かい、語りかけるのです。この語りかけによって、「主題」が、ベルグソンや唖者の娘との「大過去」、和田稔との最期の対話という
「中過去」、そして一月ほど前の或る「近い過去」の、三重唱になります。そしてそれらが、最後には「現在の思い」へと結び取られてゆく、そういう「構造」
をこの作品は持っています。
その一月ほど前の「近い過去」の事とは、こうでした。
「つい一ヶ月ばかり前に、東海の或る都市で講演したことがある。僕といっしょに、西田博士を想うという題で、博士
の愛弟子の一人が講演した。講演後、山ぞいの古寺の書院で座談会を催したが、集ったのはその都市の高等学校の生徒がおもだった。学生の質問は主として若い
哲学者に向けられたが、学生諸君は敗戦後の混乱のなかに、生活の秩序をもとめ生きる希望を得ようとして、みなひたむきに哲学、特に西田哲学を読んでいると
いっていた。しかし、その哲学は学生諸君のひたむきな心にはこたえてくれないといって、うったえていた。哲学を理解するのにはそれだけの準備がいるのだろ
うが、西田哲学の難解はその準備が足りないためではなくて、人生の苦悩の上につくられた哲学でないばかりか、表現も一般人の理解できないものをつみかさね
ているが、これは、哲学が本質上凡人の縁のない観念的な遊戯であるからだろうかと、次々に若い哲学者に質問した。
『哲学は実生活にすぐ活用できる応用学ではないから──』
『僕たちが哲学にもとめるのも、そんな手近なことではなくて、生死の問題にかかるようなものをもとめるのです』
『それは宗教にもとめるべきだろう──』
『先生(若い西田門下の哲学学者ですが、秦。)はさっき西田哲学は世界に出してはじない哲学だというように話しておられ
ましたが、日本人の僕達が必死に読んでも、読後少しでも生き方を変えるようなものを与えられずに、ただ脳神経のくんれんをしただけの印象を受けるのです
が、それでも世界の人を動かし得るのでしょうか』………」
此処までは、いわば西田哲学ないし哲学、いいえ正しくは「哲学学」が厳しく糾弾されていまして、これには弁解の
余地が全くない。生死の瀬戸際に立つ者にとり、そんな「哲学学」は何の役にも立ちはしないのでした。有名な『善の研究』にしても、正直に、あの日本語がす
らすら読めた、分かったという日本人がいたらお目にかかりたいぐらいです。
私も、そのように思いました。まるで成っていない日本語で書かれた哲学や美学の書物・翻訳にほとほと愛想をつかし、大
学院の哲学研究科から脱走し、小説家になったという一人です。胸を大砲で射抜かれるほど愕然としたのは、意外なことを聴いたからでなく、あまりにも真率に
まともなことが、若い人たちの胸の底から吐露されていることに感動したからでした。そうだ、そのとおりだ、と思いました。この作品を初めて読んだ時は、も
う大人でしたが、いま読みました先生方と学生たちとの懇話会の実際に開かれたのは、敗戦直後、まだ戦禍の影響の、物質的にも精神的にもたいそう生々しかっ
た時期のことです。芹沢先生のこの作品の発表が、昭和二十三年の暮れちかくであったことを思い出しましょう。ちなみに、私が、戦後新制中学の一年生二学期
を終える頃の、この御作なのです。
で、芹沢先生の真意をくみ取るためにも、作品に即して話題をおさらいして行くのですが、「ベルグソンの哲学のな
かに、独り娘が唖者であるという人間的な不幸が、影をとどめていない筈はなかろう」と、作中の「先生」は、往年のベルグソン体験を反芻します。「ベルグソ
ンの哲学自身難解ではあるが、いろいろ卑俗な日常性のなかに面白い引例をたくさんして、理解させようと努力しているスタイルの平易さは、唖者の娘に話し
て、.唇を見ているだけで理解されるようにという父性愛からうまれたのではなかろうか」というわけです。
もっとも、この見解は、それ以上は精査されてはいません、一つの大きな大きな「感想」に留まりますが、本当に言いた
かったことは、べつの言葉で、もっと明快に話されています。
「手取早くいえば、日本では、学者にとって大衆は唖の娘であろうが、学者は頭から唖だときめて、唖の娘にも分るよ
うに話そうと努力してくれないのだ。そして、学問も結局は唖の娘に理解させ、唖の娘を一人前の娘に育てることであるが、それを忘れて、学問のメカニズムに
ばかり心を奪われて、それを学問だとしてしまう。それ故、唖の娘はいつまでたっても一人前の娘にならず、不具な娘にとどまってしまうのではなかろうか。
君(=和田稔)が出陣の直前最後に訪ねてあんな風にうったえた時、僕は唖の娘のなげきとして聞きとるとともに、唖の娘
として見すてた学者に対する憤(いきどおり)としても受けとったから、あのベルグソンの話もし、日本人の不幸であるとして、君や僕が唖の娘だという立場で
話したことを今もおぼえている。その時、君はあの癖のまばたきをして眼鏡のうらに涙の粒をごまかした。僕は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らな
い。
しかし戦争がすすむにつれて、僕たちの日常生活も苦しくなったが、僕は君や僕も唖の娘であるとしていたが、実は、西田
博士ばかりでなく、僕や君をふくめてすべての日本の知識人が、大衆を唖の娘にしていたために、唖の娘に復讐されるような不幸な目にあっていることに、おそ
まきながら気がついたのだ。学者や藝術家など、あらゆる知識人が、現実からはなれ、現実に背をむけ、凡俗を軽蔑して、自己の狭い専門を尚いこととして英雄
的に感情を満足させている間に、一般の大衆はもちろん、軍人も政治家もかたわな唖の娘になって、知識人の言葉も通じなくなって、知識人を異邦人扱いすると
ころから、日本の悲劇も生じたが、知識人は復讐を受けるような不幸にあったのではなかろうか。」
ここへ来て、批判されていた例えば「西田哲学」はじめ難解な言葉で話すことで、理解の届かない読者たちを「縁無 き衆生」と見捨てたような「哲学・学問」への不審や疑念が、どっと拡大され、この「先生」や「学生たち」も含めた、即ち「知識人」全部と、そうではない一 般国民との「対立」として、問題が、より大きく、深く、取り上げ直されます。「知識人」としての先生自身の、自らの「反省」が大きく立ち上がってくるわけ ですね。それも、問題点をいたずらに拡散してしまうまいと、「書く言葉」「語る言葉」つまり「言葉と知識人」の問題に、焦点が結ばれてきます。
しかし、この辺から、ふっと作中の状況は逸れまして、あの戦時下の困窮や迷惑の話が、K公爵と愛人との話や、過
酷な勤労奉仕や、人心のすさみなど、いろいろに語られて行きます。一見するとメインテーマを逸れた話のようでいて、決してそうではない。即ち「起きてし
まった戦争」の、悲惨と間違いとが、具体的に、語られていたのでした。
そして、では何故に不幸な戦争は「起きてしまった」のか、その根が探られながら、もう一度本題へ戻って『死者との対
話』が結ばれて行く。
「……こんな(戦時下)経験をなぜ君にくどくど語ったのか。僕達のなめた不幸が戦争から生ずる不幸であるよりも、
僕達日本人の人間としての低さから生じた不幸であったことを、君にいいたいばかりだ。
みんなで避けようとすれば避けられる不幸だった。それに苦しめられながら、僕はあの唖の娘のことを思いつづけた。西田
博士ばかりではなく、日本には多くの善意を持つ偉い学者や藝術家や思想家がおろうが、この人々がみな仲間同志にしか通用しない言葉を使って、仲間のために
仕事をして来たので、日本人は唖の娘としておきざりされて、民度をたかめることもできなかったが、これはそうした知識人の裏切りであったと、最後に君に
あった日に憤ったのだった。
しかし、僕は不幸をなめながら、僕自身もその裏切人の一人であったことを意識して、唖の娘から復讐せられるものとし
て、甘んじて、不幸を堪えた。僕だけではなく、君がいたらば、君をもまたその裏切人の中へ数えいれたかも知れない。」
もう一度、大事の点を繰り返しますが、「日本には多くの善意を持つ偉い学者や藝術家や思想家がおろうが、この人
々がみな仲間同志にしか通用しない言葉を使って、仲間のために仕事をして来たので、日本人は唖の娘としておきざりされて、民度をたかめることもできなかっ
たが、これはそうした知識人の裏切りであった。」「僕は不幸をなめながら、僕自身もその裏切人の一人であったことを意識して、唖の娘から復讐せられるもの
として、甘んじて、不幸を堪えた。僕だけではなく、君がいたらば、君をもまたその裏切人の中へ数えいれたかも知れない」と言うのです。
「仲間同志にしか通用しない言葉」でしか話さない、いいえ、話せないような「知識人」が、結果的に日本を裏切ったから、
「戦争が起きてしまった」と先生は語気をつよめ指弾しています。これも弁解の余地のない事実、日本の近代史を歪めてしまった大きな事実だと、私も考えま
す。
「先生」は「死者」へ、さらにこう語りかけています。
「同じ言葉を使わないことは、いつか思想を同じくしないことになって、外国人同志のような滑稽な悲劇が起きる原因
になる。そうだ、君に極東裁判の法廷を見せたいと思う。日本では、陸軍は陸軍の言葉を、海軍は海軍の言葉を、外務省は外務省の言葉を、陛下の側近者は側近
者の言葉といふ風に、めいめいちがった言葉を使っていて、他の者を唖の娘扱いしていたので、お互に意思が疎通しなかった滑稽を暴露している。
誰も戦争をしたくはないが、その意思がお互に通じあう言葉がないから、肚(はら)をさぐりあっているうちに無謀な戦争
に突入して、戦争になってみんなあわてたが責任がどこにあるのか、分らないといいたい様子だ。おかしなことだ。国民はもちろん太平洋戦争のころには戦争に
飽いていたから、日本人全体が同じ言葉を使っていたらば、戦争にならなかったかも知れない。
敗戦後、僕達はその過失に氣付いた筈だ」と。
「敗戦後、民主主義ということが流行しているが、すべての唖の娘が口をきき出して、しかも同じ言葉をどの方面に向っても
話すということでなければ、民主主義も戦争中にいくつも掲げられた標語と同じことだろうと、僕は心配している」とも。
言うまでもないことですが、誤解を避けるために、即座に此処で申し上げておきたいのは、「日本人全体が同じ言葉 を使っていたらば、戦争にならなかったかも知れない」とは、例えば中国人のいわゆる国を挙げて「一言堂」などといった思想統一のファッショ志向とは全く逆 の人間理解、自由を基盤にした相互性を求めた発言であるということです。「同じ言葉」とは、互いに理解の届き合う「垣根のない言葉」の意味であることを申 し添えます。
で、この辺で「先生」は、先生らしく「文学」にふれて行きます。以上のような「考え」から引き出されてくる、文
学上での「いい仕事」とは何か、先生の考えでは、「唖の娘にもわかるように努力して唖の娘の言葉で書きながら、なお藝術的な作品であると理解している」
と、「死者」からの末期の「励まし」に対し先生は応じているのです。だが、戦後に発表されつつある若い人たちの多くの文学作品は、まだまだというか、また
もやと言うか、「みいちゃんはあちゃん、太郎くんはもちろん、大衆を唖の娘としてうちすてて、やはり同じ仲間の言葉でしか物を書いていないようだ」と慨嘆
しているのです。「唖の娘を対手にしたからとて立派な仕事ができない筈はない」とも言い切りながら、です。芹沢光治良という世界的な作家の文学的信念が、
此処に特徴的に露われていると申して宜しいかと、私は信じています。
それかあらぬか、ここまで、手も加えず、ただもう原作のママに引いて読み上げました、要所要所の言葉・文章・発言の全部が、まったく説明を要しない、誰の
耳にも目にも思いにもそのまま等条件で正確に届く、というふうに、芹沢先生は書いておいでになる。その物の言いようは、ま、先生のいわゆる「唖者」にも、
また「知識人」にも、共通して正確に伝わる話し方・書き方、が、されています。
むろん、一種の「解釈」をさしはさんでみたい表現もあります。問題が提起されて、その理解を、その思索を、読者
側に預けたままにしてある箇所も、じつは有ると私は感じています。
この一編の小説──私は作品『死者との対話』を、エッセイだとは思いません。小説として受け入れておりますが──この
小説は、こう結ばれています。
「それにしても、人間魚雷とは、悪魔の仕業のように怖ろしいことだ。それを僕達の唖の娘はつくりあげて、それに、
君があれほど苦しみぬいて神のように崇高な精神で搭乗して、死に赴いたのだ。
君の手記は、その悲劇を示して僕達に警告している。僕達がまた唖の娘にそっぽを向けていたらば、僕達は崇高な精神に生
きながらまた唖の娘のつくるちがった人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを。」
ここでの「唖の娘」と「僕達」という区別は、どうつけられているのでしょうか。話の続き具合からして、「僕達」
の二字には、「我々」仲間内にばかり通じて、「彼等」である他者を無視した「言葉」に酔い溺れてきたために、日本国を、混乱と不幸の戦争に導いてしまった
責任有る「知識人」の意味、が預けられているのは確実です。
それとの対比で、「唖の娘」とは何の譬えなのかと、此処の所を繰り返し読みますと、「日本国民ないし日本国家」は、と
含意されてあるようにも受け取れます。あるいは「思索し表現する知識人」たちは置き去りに棚上げにして、「生産する非知識人=国民」を巧妙にまた悪辣に統
制・統御して、両者ともに、上から、ガンと支配した、即ち「国家・権力」のことを諷した「唖の娘」とも解釈出来ます。
そして、その上で、芹沢先生の「懸念・危惧」を、今日ただいまの我が国の政治社会情勢に引きつけて、よくよく眼を瞠い
てみますと、市民の安全を口実にした「盗聴法」にはじまり、保護の名目で実は市民のプライバシーまで管理し収奪してゆく「個人情報保護法」、国民のではな
くもっぱら政治家の不都合隠しに手を貸す目的の「人権擁護法」、国家有事に際しては、国民の安全よりも国家体制の安全を優先して恣意的に国民の資財や労力
を徴発しうる「有事法」等々の、法の「名前」が、決して法の「実体」を表わしていない諸法案の、続々成立やら成立の画策やらが進んでいます今日のていたら
くを、芹沢先生は早くも予感され憂慮されていたのかも知れぬと、暗澹たる思いに陥る日々を、今まさに我々日本国民は、私どもは毎日迎え・送りしている現実
なんですね。
この、あんまり正確すぎて怖いほどの『死者との対話』なればこそ、私は何の躊躇もなく、他に名作・傑作の数有るのも承
知のうえで、長さが好都合というような小さな配慮は抜きにして、「この一作」を二十一世紀の、インターネット上の読者たちに、もう一度も二度も三度も読み
直して貰いたいと思ったのです、願ったのです。それが、今日のこの場へ私を引っ張り出して戴いた岡玲子さんやみなさんへの、まずは、お答えということにな
ります。
しかし、ついでというわけでなく、せっかく「知識人の言葉」に焦点を結んで戴いたのですから、その方向で、今少 しお時間を拝借しようと思います。
その前に、「死者との対話」で、少しく別方角からの問題箇所が、少なくも二つ、感じられたことは、深入りはしま せんが、申し上げておきたい。
一つには、こういう箇所がありました。和田稔の最後の訪問の、もう別れ際のところです。
「君が出陣の直前最後に訪ねてあんな風にうったえた時、僕は唖の娘のなげきとして聞きとるとともに、唖の娘として見すて
た学者に対する憤(いきどおり)としても受けとったから、あのベルグソンの話もし、日本人の不幸であるとして、君や僕が唖の娘だという立場で話したことを
今もおぼえている。その時、君はあの癖のまばたきをして眼鏡のうらに涙の粒をごまかした。僕は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らない。」
此処の「涙」には、たしか、もう一度言及されていましたが、ここでこの先生の、「僕は君の涙の意味がよく分らなかっ
た。今も分らない。」が、今も、私にはかなり「気」になっています。この「分らなかった。今も分らない」と二度も強調されているのは、何故なのでしょう。
「分らなかった。今も」とは、真実なんでしょうか。どう分かるのが正解なのか。この問題は、皆さんに今日はお預けして帰りたいと思います。
もう一つが、やはりその時に、和田稔という今まさに死の戦陣へ出で立つ学生が、作家「宇野千代」に是非会って行きたいので紹介状がほしいと言い出します。
先生は、作品の中では「うん、書く」と承知されているようですが、事実は、紹介状のことは二人の間で自然に置き去りにされまして、そのまま、その日和田稔
は先生宅を辞します。そして二度と帰らぬ「人間魚雷回天」での、爆死を遂げました。
先生はそれを後に思い起こし、「後悔」されています。芹沢先生は、別の文章「幸福について」のなかでは、彼、和田稔が
宇野千代に会いたがるのに対し、「その希望をかなえてやらなかった。(略) 会うのはよせと、私は無情に答えてしまったが、(略)
後悔した」と書かれています。ここでの「宇野千代」なる存在は、作品『死者との対話』をとび超えまして、かなり本質的な「芹沢文学論」の一つの足場、大き
な切り口の一つになるであろう、ならざるをえない気持ちを、私は持っております。
ま、これは大問題であり、今日のところは、これも皆さんにお預けして行くと致しますが、忘れがたい大事の要所かと考え
ております。
さて、芹沢先生は、「知識人の責任」と、責任を正しく果たすための「知識人の言葉」とを関わらせ、適切に問題を
差し出されたわけです、が、此処でこの「知識人」とは何か。近代日本の激動の歴史にあって、どんな役目を果たしてきたのか、または果たせなかったのか、そ
の辺にも、私どもの「ペン電子文藝館」のコンテンツがらみで、簡単に触れておきたいと思います。
「ペン電子文藝館」で一番に作品を決定したのは、初代島崎藤村会長の「嵐」と、現会長梅原猛さんの「闇のパトス」でし
た。そして『闇のパトス』に梅原さんのOKが出ると、即座に芹沢先生の『死者との対話』を選ばせて貰いました。
梅原さんは、言うまでもない「哲学者」であり、西田哲学の感化の濃厚であった京都大学の出身ですが、しかも彼は、西田
哲学主流からかなり逸れた、むしろそれに批判的な、つまり「哲学学」的な「哲学学・者」ではありませんでした。「いかに生きるか」に、のたうちまわる青春
を生きて、副題通り「不安と絶望」の中から書き上げたのが、二十五歳の『闇のパトス』でした。当時身辺の「哲学学」の師友からはたいへん不評で、これが哲
学の論文かと冷評されたそうです。ちょうど「和田稔」の位置にあって、戦時から戦後へと苦悶のうちに生き延びた人でした。在来の「哲学語」に強く飽き足り
ない不満も持たれていたのでしょう。
私も、近来とみに、「哲学」と「宗団宗教」に対し、ほとんど期待はもてないと考えている人間の一人であります
が、学生時代、ことに日本語で書かれた「哲学」「美学」の殆どが、あまりに独善難渋、広い世間の眼には、たんに無用の存在と言いたいほどに思っていまし
た。
で、梅原さんの『闇のパトス』の、青春の身も心ももがくような痛切な日本語の駆使、けっして熟していない、巧くもない
日本語での、切々としたねばり強い思索に、世代の近い者としての共感を覚えていたのです。ひょっとして芹沢先生の『死者との対話』から生まれ出てきた梅原
さんの『闇のパトス』なのかも知れないほどに私は感じたのです。
それについては、これ以上は言いません。が、次いで、芹沢先生のあとを継いで第六代日本ペンクラブ会長に就任された、
中村光夫先生の、ずばりその題が『知識階級』という、まことに優れた興味深い論考を、奥様のお許しを戴いて「ペン電子文藝館」に掲載させて戴いたです、こ
の論文は、いわば『死者との対話』の主題・訴えをその基盤から、歴史的に解明するていの、みごとな解説でありました。ただ漫然と作品を選んでいたわけでは
ないのです。
知識階級──。なるほど、こういう呼び方をされて、それなりに妥当適当な人たちが、近代以降と限りましても、か
つていたこと、今もいること、は、確実なようです。それは資本家と労働者といった今や古典的な階層とは、意味がちがいます。門閥と庶民というのとも、違い
ます。
幕末から明治初年にかけ、日本の「新・知識階級」を名乗り得たのは、かつて武士身分の中でも、むしろ「門閥制度は親の
敵」とすら考えていた、下層の武士出身者でした。福沢諭吉、森有礼、西周、津田真道、加藤弘之、西村茂樹、箕作麟祥ら「明六社」という同人を成していた知
識人、同じく菊池大麓、中村正直、外山正一などという「知識人=洋学者=西欧渡航経験者」らは、みなそうでした。新島襄も、いわばそんな一人でした。彼等
と同類の下層武士出身者たちで作られた「明治新政府」に、かつての対立関係なども忘れて、彼等が惜しみなく「讃辞」を送って熱心に肩入れしたのは、政府が
彼等の知識を必要としていたのですから、これは自然なことでした。この人たちを、近代日本の第一次知識階級と呼ぶことは、大きな間違いではないでしょう。
彼等に共通した特色は、その得たる新知識の力で、「国家」「日本」の行くべき道を示唆・指示し、自分たちで操縦できる、舵が取れると自負していた、その強
烈な自信でした。国家・政府・時代もそれを期待し、尊敬の念を惜しみませんでした。彼等の背後には、「西洋」という「世界」が(その実質はともあれ)背負
われていて、嘗ての上層支配者たちでは、そんな広い「世界」に伍して「国の行方」を誤らないで済む能力は全くなかったのです。
明治政府の推進者であった例えば伊藤博文も、彼等と同じ程度に西欧を体験してきた新知識階級の一人でした。「末は博士
か大臣か」と謳われた相互呼応の蜜月関係が現にありえました。大臣だけでなく、博士も、たいした重みを持ち得ていたのです。いま「博士」を表に掲げるのは
町の開業医さんぐらいなものでしょう。福沢諭吉ら第一次知識階級たちこそ、そう呼ぶ呼ばないは別として時代の「博士」でした。それも実践的な処方の書ける
博士でした。
幕府の頃の蕃書調所から、開成校になり、明治十年には東京帝国大学になっていった「大学」等の教育機関の道筋が、此処
へ積極的に開けてゆきました。鴎外は十四年に、坪内逍遙は十六年に、それぞれ帝大医学部、文学部を卒業しています。
第二次の知識階級は、この「大学に学ぶ」という、さらには「西洋へ洋行・留学する」という経路を経て、なお、相当の重
きを日本国の広い分野で成しえたのでした。森鴎外・夏目漱石ら文学者の名が典型的に思い出されます。「博士」の称号は光り輝いていました、「博士」の代表
者の一人が坪内逍遙でした。シェイクスピアを初めとする西洋の学藝の紹介と祖述、また演劇等での実践で、尊敬を集め、博士といえば大きな「紋所」でした。
だからこそ夏目金之助・漱石が文部省授与の「文学博士」を辞退し退けたことが、大きな話題になり得ました。
しかし漱石は「文学博士」をガンとして拒み通し、公よりは「私=個人」の心の掟や誠に従った、人間的な文学世界を築き
上げますし、医学博士森鴎外は、作品「舞姫」では恋と官途の板挟みに悩んで官途に従い、専門の知識を持って帰国し、終生国に奉仕しますが、しかもその遺書
では、政府による死後の栄誉のすべてを辞し、「岩見人森林太郎」としてのみ死んで行くと言い切ります。知識階級のうちに、国ではなく、少なくも国優先だけ
ではなく、吾、己れ、人間として生きるための、意識の変容が、深いところで進んでいたと思われます。しかしなお、明治二十年代、そういう知識人は世の表に
は現れにくく、ごく少数派でした。
では第一次の福沢や森有礼たちの頃と同じであり得たか。そうは、あり得なかったのです。
明治は、ご承知のように四十五年続きました。明治十年に起きた西南戦争は、西郷隆盛による政治的な内乱でした。此処ま
では、明治政府による維新の建設と、社会的・文化的にはいろいろにまだ混乱がありましたものの、国は、玉石混淆、西洋人を大勢お雇い教師に採用もしつつ、
挙げて、和魂洋才による文明開化と富国強兵を模索追求し、いわば新国家の草創期でしたから、少数の優れた洋学者・先覚者たち「新知識階級」には、発言と活
躍の場が、有り余るほどにありました。福沢諭吉に代表される彼等知識人は、身に付いた武士道と儒学漢学の基盤を生き方の底に抱きながら、西洋舶来の新知見
をもって、「無学」な政治的上位者たちの「政府・政策」を実質的に動かしてゆく、リードする、自信満々の勢いと活気とを持っていました。
中村光夫先生の観察を待つまでもなく、たとえば旧藩主等の支配層と、福沢や森有礼らとを比べれば、西洋風の学藝や知識
において、前者の「無学」は、歴然としていました。だがまた、福沢諭吉たち明六社同人を初めとする知識階級の「西洋学の程度」はといえば、まだまだ専門学
の実質を著しく欠いた、いわば彼等自身も実は「無学」に等しかったのです。鴎外や漱石のように、専門学を西洋で学習してこれたわけでは無かったのですか
ら。外遊の時期・年限や、学習術の未熟・不備からも、それは、さもありましょう。
それでもなお、むしろ、それが幸いしてとも謂えるのですが、彼ら新知識階級は、確かに、政権の内側でも、外からでも、
たとえ猪突猛進であれ、明瞭に「国家」の前途を視野に入れた、とにかくも「大きな」ことがやれたのです。
その意味では彼等は幕末以来のあの「志士」の変身したもので、嘗ての身分は総じて低く、それが希望と力とになり得まし
て、国を新しく変えてゆく上で、これはいい、これは大事と思うことなら、何でも、どのようにでも、その方向へ「蛮勇」をもって「邁進」する気概やモラル、
武士道的な儒学的な秩序への奉仕意識を、意識の下に隠したまま「理想への意欲」だけは、溢れるほど持っていたというわけです。また、それが、時代からも、
権勢の側からも、期待されていたのですね。知識階級の、もっとも幸福な環境、活躍出来る環境が在った、存在した、そういう時節でした。つまり真に変革期で
ありました。
知識階級のこのように幸福な、得意な時節は、むろんのこと、国家建設が進み、秩序化・支配体制が整うに連れて、無惨な
ほど速やかに崩れてゆきます。明治二十年までに、つまり西南戦争からの十年のうちに、西洋の学藝や藝術に学ぶ人は、何よりも、人数の上で増えてゆきまし
た。
学問して偉くなろう、出世しよう、出世できるのだという希望を抱いて郷関を出てきた人が、大都市に集中し、永井荷風そ
の他海外にまで学びに出た人も幾らもいました。各分野での専門教育が進み、大学やそれに準じた学校が、増えてきます。「書生・学生」が、維新の初期に比
べ、比較にならぬほど増えていました。
すると、当然にも、逆に「知識・才能の希少価値」は相対的に下落します。能力が求め迎えられるどころか、相応の「地
位」を官途に獲得することにも、彼等遅れてきた知識階級は、無惨な奔命を強いられ始めています。しかも迎えられ方が、明治初期とはまるで違い、国や政府
は、専門の知識を持って唯々諾々ということを聞く、道具に等しい単に技術者としてしか彼等を用いなくなっていました、なまじ意見や主張や理想のある知識階
級などは、もうむしろ五月蠅い無用の存在でした。知識階級は、黙々と車を牽く車夫同然の存在に甘んじて職を得て出世を狙うか、その路線から転落しいたずら
に零落するかの選択に早くも迫られていました。車を牽くのはそれなりの技術であり力ですが、それに乗るのはもっと力のある他人であり、何処へ走ってゆくか
も車夫の自由ではなく、車上の主人がきめることでした。福沢諭吉は、このような辛辣な譬えで、第二次の知識階級の余儀ない変貌を描写しています。福沢だけ
でなく、知識階級の一角から、先駆的な文学者がこういう苦渋の知識人を造形し始めます。
その最初の典型が、明治二十年、二葉亭四迷作『浮雲』の主人公内海文三でした、彼は、上長の求めるままに従順な車夫に
成りきれない存在として、落ちぶれて前途も見えない敗北者に成ってゆく。その一方で、如才ないあたかも上の自由になりきった道具のような本田昇は出世への
街道を軽やかに歩み、文三の許嫁の女も奪い取ります。十年後、明治三十年の尾崎紅葉作『金色夜叉』で、あの熱海の海岸で、宮さんを争った、間貫一と富山唯
継のような按配です。もうこの十年のうちに、知識階級の多くは、殆どは、上の言いなりに長いものに巻かれて生きるしかない存在になり、その気のない者は落
ちこぼれるしか無くなっていました。
日本の知識階級の特色の一つは、昔も今も「貧乏」なこと、と中村先生は、ためらい無く指摘されています。門閥や資産な
どに恵まれない経済的な下層から、学問し知識を持ち出世したいと這い上がってくるのが普通の形でした。そういう階層の青年たちが、学歴は得たけれど職が得
られない、政官界もそんなに多くの書生・学生を受け入れられない、と言うよりも、都合良く使える者しか使おうとしなくなっていました。当然のように実業界
も又同じでした。得意の絶頂にいた知識階級は、急速に失意の集合を成しまして、すると、知識や学藝に培われた彼等の内なる人間が、個性が、うめき声と共に
適切な出口を求めて悶え悩み始めます。、あの鴎外でも漱石でも二葉亭でも、まさに誠実に呻いていたのでした。
知識階級は、だんだんに、学校を出たあとは、いわゆる先生になるか宗教家になるか、大概二つに一つという時代に、遭
遇・当面したんだと、国木田独歩は、自分が何故「小説家になりしか」というエッセイで、はっきり知識階級にとって打つて変わり果てた時代を、概括し、総括
しています。そのエツセイも「ペン電子文藝館」は拾い上げています。
知識階級のうめきのはけ口のように、詩歌や文学が、藝術が、俄然として彼等に意識され始めます。心ある知識人ほど、も
う「国」「国家」「公」よりも、自分自身の内側へ目を向け、いわば魂の表現に向かう方が、人間的に生きる方が、意義深いこととして意識されてきます。鴎外
も漱石もそうしてきたわけです。尾崎紅葉を中心にした泉鏡花らの我楽多文庫派の文学者たちも、北村透谷や島崎藤村ら文学界の若き魂も、正岡子規から流れ出
た俳句や短歌の人たちも、みな、次の明治三十年という次の画期へ向けて、活動を始めよう、いいえ活動し始めています。その丁度明治三十年に、芹沢先生は生
まれておいでです。先生ご自身が知識階級に身を置かれるまでには、もう四半世紀が必要でした、少なくとも。
日清戦争、そして日露戦争、さらには大逆事件と、明治時代は奥深く進むにつれて、もう知識階級は政治的な経世家 であるよりも、優秀な人ほど、思想家的な相貌を己のものにしてゆきます。批評は出来る。しかし、社会や政策を動かす実践的な力には容易になれない、半失業 者的な存在として、かなり貧しく苦しく生きることを意味します。三文文士の通り名どおりに、「借金」は常のことでした。貧困ゆえに一葉も啄木も窮死し、藤 村は妻子を次々に死なせました。日露戦争後は、機械的人間たりえない、道具としては生きたくない知識階級の逼塞は深刻度を増しました。官界・実業・芸術、 どこでもそうでした。
あげく、得意であれ失意であれ、深く、そして狭く、「知識階級」は己の専門たる教養をそう理解したかのように、
広く世に受け容れられようなどと思わず、一つは傲慢から、一つは断念から、「我々」という垣根の中で、垣根の仲間にしか通用しない「言葉」を平気で、それ
が当然の思いで用い始めたのだ、と、そう言えるでしょう。
ついにと言いましょうか、芹沢先生が『死者との対話』で、鋭く表に出された「知識人・知識階級の自己閉塞」が、そう進
行して来たのです、石川啄木の言う「時代閉塞の現状」に押しひしがれるようにして。この「閉塞」は、初期知識階級とは逆に、国に対し、体制に対し、背を向
けて道具扱いの、車夫扱いの協力は「もうご免だ」という意思表示で示されてきました。啄木は「もうご免だ」を、繰り返し、書いています。
この有名な啄木の論文は、明治四十三年八月、大逆事件が報じられて、社会が大きく揺れだした最中に書かれたものです。
若き日本の「知識階級」は、未だ真の「敵」を認識してこなかったという意味深長な言い方の中で、明治初年とは逆さまに、むしろ国体や体制と闘うべく立たね
ばならない知識階級の前途を洞察しつつも、時代は絶望的に閉塞していると嘆いて、知識人たちの自己閉塞ぶりに檄をとばしたのですが、現実はどうにもならず
に、明治は果て、大正の擬似的なデモクラシーを経過し、関東大震災を体験します。
そのあと、「ぼんやりとした不安」から芥川龍之介は自殺し、めくるめく早さで、「公」は容赦なく「私」を弾圧的に押さ
えつけたまま、あの大きな不幸な戦争へ日本国を追い落としていったのです。知識階級はむしろ国家の余計物でした。
中村光夫先生もこう断言されています。
「国家(支配者と民衆)に無関係の地点で、自分等だけの思想や感情を理解しようとしたので、自然主義以来の文学が文壇の
文学者同士を相手に書かれたといわれるのは、こういう知識階級や気質の現れの一端なのです」と。落ちたプライドの裏返しに、自分とは他の「彼等」なんぞに
まるで通じなくてもいいかのように、「我々仲間内」だけの言葉を平気で誰もが話し始めて、狭く固まってしまっていた「知識階級」の、数知れない各集団は、
全く無力に、結果として「大政翼賛の協力者」を演じたあげく、芹沢先生のいわゆる「裏切人」に成りはてていたあげく、哲学も宗教も科学も、藝術や文学すら
も、日本国ないし日本国民を、「唖者の娘」なみに「暴走」させただけで終わったのでした。
適切な把握であるかどうか、みなさんが個々にご判断なさるでしょうが、こういうことを念頭にして、私は、私の発
案し実現を推進してきた「ペン電子文藝館」に、大きな期待をもって、あの芹沢光治良作『死者との対話』を、ぜひ掲載しなくては成らぬと考えました。
折しも、新聞テレビ等は、日本の現在のかなり危うい後ろ向きのありようを、日々に、イヤになるほど報道し続けていま
す。永田町の言葉は永田町でしか通じない。野党の言葉と与党政権の言葉とは、同じ日本語かと思うほど引き裂かれています。そしてこの国の真の主人公である
と認め合った「国民」が、日増しにまた「唖者の娘」かのように政治的支配のもとで、外側で、不安と不自由を強いられつつあり、国民の多くがなかなかそれに
も気がつかずにおります。
ほんとうに必要な「対話」が、共通の言葉によってよく成されていれば生じないであろう「危険の予兆」が、ひしひしと身
に迫ってきているのではありませんか、と……。
以上を以ちまして、岡さんからのお尋ねへ、「今、なぜ『死者との対話』が大切か」の、私の、お返事とさせていた
だきます。
甚だ堅苦しいお話に終始しましたことを、みなさんに、お詫び申し上げます。
平成十四年(2002)六月九日 於・芹沢光治良旧居マグノリアホール