秦恒平エッセイ選 2

 

*収録   流通する文学 ・  『秦恒平・湖(うみ)の本』 18年・80巻 ・ ネットの時代へ、作家として編集者として ・ 早春 ・ 志賀直哉の日記 ・ 谷崎潤一郎の細君譲渡 ・ 澤口靖子の「雪子」を観て  ・ 電子空間の「闇」に書く ・ 機器と文学 ・ ある書家の見当違い ・ わたしのインターネット ・ 京のちえ ・ 京で五、六日(京都案内) ・  京の河原町 ・ 陸軍と海軍 ・ 男の美学なんか要らない ・ 『能の平家物語』(書下ろし単行本) 
 
 





    流通する文学        秦 恒平 
                      

「流通」は、ふつう、経済用語のように想われる。わたしの領分では流行らない言葉であり、「流通する文学」を経済的に理解して「総論」する真似は私の任で はない。不可能に近い。それでも引き受けたのは、一作家として、文筆家として、読書人として、或る別角度からもそういう言説を試みる余地が或いは有るかも 知れぬ、と考えたから。成功するかしないか、成算があるわけでない。流通どころか、逼塞するかもしれない。

  流通にちかい言葉に「流行」があり、これも広くは経済・社会の状況言語であるけれど、芭蕉の「不易」を持ち出せば「流行」は文学の用語でもある。流行作家 という言葉はやや古びたが、今日なお御用済みでない。

 海外の映画に「ベストフレンド」と翻訳された、原題「RICH & FAMOUS」というジャクリーヌ・ビセットとキャンディス・バーゲンが演じる娯楽作があった。親友の女二人の、ジャクリーヌは藝術的な優れた文学作品で 世の尊敬をうけており、キャンディスは爆発的に売れる大衆読み物を書いて富裕を謳歌している。フェイマスな文学作家とリッチな読み物作者とが友情を抱いた まま軋轢し葛藤するおはなしである。不易と流行の一対とも見えて、「リッチ」は流行ないし大量の流通を示唆している。「フェイマス」な質の文学は、量すな わち流通の分野では多くを現に望めない。望んでもいない。
「流通」問題にはこのように文学の質が、傾向が、大なり小なり絡んでくる。背後で「出版資本」の機構的・制度的なな意図なり欲望なりも関わってくる。その 理解を避けては、とても通れない。

 文学を語るとき、文学は読むもの、文学とは読まれ・読ませる作品であり本であると考える。しかし、遅くも西鶴の頃、読む本はもう売り買いの商品になって いた。近代百数十年、文学は、文学の本は、ほぼ例外なく商品であった。当然のこととされた。
 だが「商品としての文学」が広い場所で語られたりしたのは、何となく今次の世界戦争より後かのように、おおかた誰もが思うだろう。
 そうではない。
 一例をいえば杉山平助に、すでに昭和六年(1931)九月「商品としての文学」という文章があり、十九・二十日の二日つづきで「朝日新聞」に掲載してい る。大阪に生まれ、慶應理財科予科を胸を病んで中退し、療養生活のなかで老子等を濫読、長編の自伝的小説『一日本人』を自費出版して生田長江に認められ、 以降自由主義的な各種文筆に活躍したが、日支事変頃より右傾をみせつつ敗戦後の早々に歿した人である。そしてこの一文、「商品としての文学」の表題に即し て、或るめざましい先見の明を「文学」の「出版」に対して見せており、戦前に溯る稀有の文章になっている。これより以前、また以後も当分のあいだ、この手 の論題にわたしは出会っていない。

「藝術の商品化」は文明社会で避け得られることでなかった。言い直せばそれ以前に商品でなかった歴史があったし、極めて長い期間そうであったが、それに も、いろんな事例において先後の差が出る。たとえば「勧進」という名目の能の上演など、何らか財の拠出を目当てにしていたし、工藝・染織等の美的所産に も、絵画・彫刻の制作にも何らか経済上の対価は、古代以来いつも予定されていたのはむしろ当然である。音楽・和歌・物語等の創作にこそ対価が意識されるの は、よほど時代が降るのであるが、それでも秘伝・秘技の伝授や写本の受け渡しには追々謝礼が暗黙裡に動いていた。
 が、総じて日本の文学的所産の商品化は、常識的に西鶴の頃からとおよそ概観して足りるだろう。秋里籬島の『都名所図絵』などがベストセラーになるのも近 世の半ば以降である。古くは文学の制作と享受、「作・受の関係」はかなりに直接的で、和歌も物語も先ずは誰の手に渡るか届くかが、自明のこととしてよほど よく知れていたであろう。
 だが一度「商品化」されると、この直接関係は「遮断」される。杉山平助は当然のようにこれを先ず指摘している。杉山は言う。
 
「もはや詩人(=作者)は、何人(なんぴと)が自分の歌(=作品)を需要するであらうか、知ることが出来ない。ただ漠然たる社会的要求を見越して、製作す ればどこかに需要者があるだらうと考へ――この見込が如何にはづれがちであることよ! ――製作品は従来のごとく身のまはりの支持者の中に持ちこまれるか はりに、仲買人たる出版業者の許へ持ちこんで、その手を通じて一般の読者、即ち間接の支持者を求むるに至る。
  ところで、この藝術品の仲買人、即ち書店あるひは雑誌社なるものは、これを経済的に見ると藝術品売買によつてその手数料を利潤とする一企業と見るべきであ らうが、その発生形態においては批評的役割と結びついて出現したものの如くに想像される。
 即ち、ある商品の仲買人たることは、その商品についてかなりにたしかな鑑定力の所有者たることを前提として初めて成立する。
 従つて藝術品の仲買人たることは、ある程度までの藝術鑑賞力を前提とするのであつて、その伝統を継承する以上、出版業者の文化的役割におけるプライドの 強烈なるは、もとより当然のところなのである。
 (昭和初年の)今日俗に『文壇に出る』といふ言葉は、ある藝術職工の製作品が、仲買人によつてその商品的価値を認められるといふことを意味するに外なら ぬ。即ち今日の仲買人は詩人と読者を結びつける出雲(いづも)の神みたいなものとなる。
 そこで、よき読者をめとらしめ給へとばかり仲買人への詩人の参詣がはじまるのであるが、この出雲の神はまた利潤を追求する慾深の神である。そこで出版社 の応接室を背景とする不遇詩人の悲劇の幕があく。」
「そもそも藝術品の商品化といふことは、作者自身のあづかり知らざる彼の背後の社会的現象であるために、それがきはめて高度に進行するまでは彼自身によつ ても認識せられないものである。従つて、そのことが彼の創作態度に影響し得るといふが如き考へは、『純な藝術家』の断乎として承認するを欲せないところの ものであるが、事実としては、すでに藝術に刻印せられた商品性は、時々刻々に作者の創作態度に反映して、つひには大勢的に却つて逆にこれを支配するに至る のである。
 今日叫ばれてゐるヂャアナリズムの弊害といふことは、一切がこの事実を根柢とするのであつて、これ等の非難は商品的価値は必ずしも藝術的価値と両立し得 るものでないといふ原則の上に成立する。
 藝術品として優秀なものが、必ずしも売行きのいい商品たると限らないことはだれでもたいがい常識的に分つてをるつもりであらうが、しかしこれを原則的に 證明することは、それほど容易ではないのである。
 何故なら、元来商品として売行きのいいことは、その使用価値の一般的妥当性を実證するもので、従つてまた質的優秀さの證明だといふ理窟が対立するからで ある。が、これは大衆の慾望とさへいへば、なにもかもが絶対に正しいとする時代的錯覚の一つなのだが、今ここにこの問題に深いりしてるいとまがないからし ばらくおく。」

 今日では常識と言えるこういう事態を、八十年近い以前、一九三一年当時にして杉山が的確に捉えていたことには瞠目していい。それに関連してなお遥か明治 の、近代文学草創期に、すでに島崎藤村があえて「緑陰叢書」を作者自らの手で『破戒』『春』等々歴史的な問題作を三冊四冊と出し続け、出版史上に異色の事 蹟を遺したことが想い出される。彼の意図の中に、文学作品の商品化にともなうある種「出版」の意義の偏りや歪みへ強い批評ないし批判の働いていたことは はっきりしている。藤村は、何故に「緑陰叢書」を発想したか。出版支配の「主導ないし先導」や「肥大化」に対する、たとえかすかでも、先見的な警戒心が、 働いていたからだ。著作者としての、少なくも「自由な創作」や、「読者への親愛や期待やアピール」、また微妙に関連してくる「著者の収益面」に関する「擁 護の気持」が働いていた。彼は小説『分配』を通して語っている、「私はあの山の上(=小諸)から東京へ出て来て見る度に、兎にも角にも出版業者がそれぞれ の店を構へ、店員を使って、相応な生計を営んで行くのに、その原料を提供する著作者が、少数の例外はあるにもせよ──食ふや食はずに居る法はないと考へ た」と。はっきりした「著者」なる立場からする「出版業者」への、痛烈な、しかも意義ある批判であり、指弾であったと、今一度胸によく納めておきたいとわ たしは思う。わたし自身の二十年九十巻になろうとする「湖(うみ)の本」出版も藤村の思いを受けている。
 杉山平助の言説はその藤村の苦しい試行錯誤から数十年を経ており、作者達の当時の自覚は、未だしも未だしであった。その「未だし」を横目にすり抜けて商 品化の進んだ文学の流通範囲も量も、だが「空前に拡大」されていたのである。

 日本ペンクラブが世界に発信している「電子文藝館」には、「出版・編集」特別室が設けてあり、今までに例えば岩波書店の岩波茂雄、講談社の野間清治、平 凡社の下中弥三郎、新潮社の佐藤義亮、中央公論社の嶋中雄作、改造社の山本実彦、第一書房の長谷川巳之吉ら錚々たる創業者が、自身の業績・足跡を自分の言 葉で語っている。例外なく苦闘のサクセス・ストーリーであり、また出版物の「質と企画」を誇る人達と、商品としての流通量の「空前の拡大」に奔命し成功し たことを誇る人達に、かなり露骨に分かれているとも見え、しかし事実はそれは気質と程度のいわば僅差であり、つまり混在しているのである。杉山の言葉を借 りれば誰も彼も「批評的役割・鑑賞力」を持ち合わせていたと同時に、資本家社会に置ける「慾深の神」でもあったことが、可笑しいほど読み取れる。そしてこ れが、「創作」の文化価値と謂うよりも、商品「製作・生産」上に利潤重視の著しい「偏向」を与えたのは間違いない事実であり、杉山は昭和六年時点でこれを すでに「後世から指弾せらるべきところ」と批評していたのである。
「人間社会においてもつとも基本的であり且つ久遠(くをん)なるは生産者と需要者だ。即ち文学の領域にあつては作者とその読者である。
 仲買人の如きは単に一時的な便宜として出で来(きた)つた機関にもかかはらず、今日ではあたかもそれが第一義的要素の如き観を呈してゐること、たとへば 或種の流行婦人がデパートがなくなれば、着物が着られなくなるかの如く思ひこんでゐるやうなもので、本屋や雑誌社がなくなれば、文学もともに滅び去るかの 如き錯覚が人々を支配する。もちろん現在突然に出版社がなくなれば、作者と読者の受ける不便宜は異常絶大なものであるにせよ、文学に対する社会的要求が絶 滅しない限り、そのことのために文学そのものが滅びるなどといふことは考へ得られない」と杉山は言い切り、「出版機能が一時的に磨滅したソビエット革命時 代の朗読会などがそのよい例の一つであらう」などと、遥か海彼の話をしているが、日本国では如何あるであろうか。
 それより何より、杉山は一文を結ぶにあたり、おそらく昭和六年当時としては黙殺され冷笑でもって看過されたかもしれないが、平成の今日只今からすると、 ビックリする洞察・予見の言を以てしている。
 こうである、「要するに、今日の社会にあつて、文学もまた商品たるを解せぬ詩人の認識不足はいふまでもないが、同時に商品としての外に文学は存在し得な いと思ひこむことも亦時代的短見だ。文学は曾てある時代に商品でなかつたやうに、将来もまた商品としてでなしに生産される時代が来るであらう。即ち文学生 産者と文学需要者の関係が、利潤にケーアを持つ仲買人の手を通じてではなく、より合理的な新しい社会機関を通じて結びあはされる時代が迫りつつあり、また 一刻も早く来らさねばならないのである」と。

 指摘するまでもない、杉山は、パソコンやケイタイ電話等、コンピュータによる今日の機械環境、まさしく「新しい社会機関」の成立を、想像すら出来なかっ た。テレビはおろかラジオ放送もまだこの時は知らなかったろう。だが「文学生産者と文学需要者の関係が、利潤にケーアを持つ仲買人の手を通じてではなく、 より合理的な新しい社会機関を通じて結びあはされる時代が迫りつつあり、また一刻も早く来(きた)らさねばならない」と彼は言い切っている。「一国も早く 来らさねば」という要請の意義だけは俄かに評価できないが、コンピュータの「ネット」世間は文字通り WWW=world wide web となって拡がり、ネット上で誰の編輯意図や批評に掣肘されることすらなく「書いている」書き手は、ケイタイまで含めれば、無慮無数に及んでいる。
 今日、「読みたい人」は減る一方、「書きたい人」は増える一方と、言われている。ホームページ。ブログ。そこで為されているのは、とても「創作= creation」とはいえない低度・小規模の「製作・生産=production」であり、特徴的に、殆ど全部がまだまだ「商品」にほど遠い。制度的に も商品でなく、文藝の価値としても、とても商品として通用しない。しかし「書かれ書かれ書かれ」ていて、そうは「読まれていない」。「文学生産者と文学需 要者の関係が、利潤にケーアを持つ仲買人の手を通じてではなく、より合理的な新しい社会機関を通じて結びあはされ」得る時代「だけ」が来ているのは確実 で、だが現状では作者と読者とがそこで質実に「結び合わされ」得ず、みなが「書き手=作者」寄りへ殺到しているという按排なのである。
 とはいえ在来手順の「紙の文学」はますます「読まれ少なく」なり、「電子の本」ないしそれに準じた「ケイタイ文筆」は過剰に自由自在に「ネットの世」を 飛びまわり始めている。「慾深」な出版資本は懸命にこの新たな環境=社会機関に適応しようと懸命に努めているが、まだそこからの大きな利潤を安定して得る ことは出来ない。

 私は、ながらく杉山平助のことは何も知らなかった、文学への関わりを深めた若い頃には、中村光夫、伊藤整、平野謙といった、また十返肇といった批評家た ちの「文壇史」的な戦後の論考や評論を愛読した。最近もまたまとめて読み返す機会があった。そして、その犀利で剴切な論議にやはり感心しながら、一つ、否 でも応でも突き当たらずにいられなかったことがある。この先輩達は、毛筋ほどもコンピュータの出現を「文学の問題」として勘定に入れ得ていなかったし、同 様に、この人達の視野にもすでに動いていたはずの漫画・劇画の「文学」への影響も、またいっこう勘定に入れていない事実であった。
 その意味では、戦後から昭和三十年代に、旺盛に「文壇」絡みに創見も示唆も豊かに発言していた中村や伊藤や平野よりも、戦後早々に死んでいる杉山平助の 遠い戦前の予見の方に、いっそ凄みすらわたしは感じたのである。  
 或る道筋のために思い出しておくのだが、中村光夫が「知識階級」という論考で近代日本史の一側面を鮮明に照射したのが、昭和三十四年(1949)七月 だった。その一部分だけをつまんでも、中村の議論はいわゆる「私小説」の体質を鋭く衝いていた。
 また伊藤整が「近代日本人の発想の諸形式」という優れた論文を書いたのが、中村より早く昭和二十八年(1953)であり、近代文学の、比喩的にいわば血 液型を示唆豊かに提示していたし、これをさらに明確に簡約したような「求道者と認識者」を書いたのが昭和三十五年(1960)九月であった。
 奇しくも伊藤のこの論文と同じ月に高見順も、「商品としての誠実について」というエッセイで、「求道の文学=誠実型」を「藝術至上の文学=耽美型」と並 べた「思いつき」を書いている。
 そして高見のように、はや若い作者達が純な「創作(creation)者」であるよりも「製作・生産(production)者」へ露骨に変容・変貌し ている現実を現実として認知し、認容しつつ、高見にせよ伊藤にせよ「文壇」の掌からはみ出て脱出してしまおうとする現代文学の動向を、半ば肯定し半ば憂慮 しているといった表情であるのだが、注目すべきは、この伊藤・高見発言より数年早く、昭和三十一年(1956)十二月に既に十返肇は、「『文壇』」崩壊 論」(中央公論)によって、久しい近代「文壇」文学の末路と新展開を、ほぼ全面、容赦ない筆で解き明かしていたのである。もうどうあっても後戻りはしない という見極めで書かれていたのであり、根底には、出版社や編輯者の姿勢以上に、「作者」達自身の「流通する文学」観を問題にする視座が、十返に有ったとい う事実である。
  伊藤整は夙に名著『小説の方法』に、「私小説の変態性は、たしかに、一面では日本の文藝享受の仕方の特異性によつて生れたとは言わぬまでも強められた。そ れほど文藝批評は日本ではきびしいのである。作品よりも文壇というギルドの中での生活態度が批評され、作家は絶えずギルドの中での生き方に注意すると共 に、その生き方の告白と弁護を作品の内容とせざるを得ないのである。そしてこのたがいに知り合つているギルド生活の実体が文学作品の実体となつているため に、作品は常に、身辺雑記であり、身の上話であり、人物の説明抜きが必要な礼儀なつている。(略)そしてこういう風に文壇生活そのものが倫理的思想的修練 であり文壇は道場であるため、作品は告白文以上の肉づけを不要とする結果、肉づけの作家谷崎潤一郎は東京に住む事ができなかつた。永井荷風は文壇人と交際 するに耐えなかつた。生活の論理の思考者志賀直哉は文壇の精神的背骨とならねばならなかつた。悉(ことごと)く必然」と書いていたが、十返はこんな伊藤の 書いた「一節は、もはや現代の『文壇』には該当しなくなつている」と言うのである。そして石原慎太郎の登場に深い嘆息を投げかけている。

「芥川賞受賞以来の石原氏のジャーナリズムにおける扱われ方は、これまでの新作家にみないもので、ここに至つて『文壇的』評価などは完全に黙殺された観が あつた。それは、ちようど映画批評家がどんなに大根よばわりしようとも、映画会社が売り出そうと思う新スターは、なんとしてでも売り出す宣伝戦をおもわせ るものであつた。意識的に一人のスターを売り出す、あるいは売りものにしようとするジャーナリズムの商業主義の完全な勝利であつた。すでにそれは『文壇』 がジャーナリズムの商業主義にほとんど無抵抗であつた事実を示している。
 今日ジャーナリズムに『文壇』が無抵抗となり、無抵抗になつたことで『文壇』が崩壊したのは、現代作家の脆弱(ぜいじゃく)性によるのではなく、社会的 必然なのだ。
 さらに今日では藝術家とジャーナリストの区別ということが厳格に規定できない。すくなくともジャーナリズムで存在しえている藝術家はジャーナリスティッ クな才能をもつていることは疑えない。そして、それが藝術の変革を必然化せしめる。それは現代の素質として血肉化しているのである。彼らの文学はその気質 の産物である。
 彼らは、それを『貧乏と病気と女の苦労』の体験から学んだのではない。先輩文学者から教えられたのでもない。彼らは今日の普通の青年として生活の中から 身につけたにすぎぬ。そして彼らの生活には、『文学の師』などというものは存在もしていなければ意識されてもいない。彼らはかつての私たちのように文学青 年でさえない。」

 だからと言ってそれが文学の幸福を購ったかどうかは別問題である。書き手が創作者であるより生産者になり、つまり売れなければ困る、ないし売れればい い、と自分の作品を「流通」本位に製作するようになったのは大勢として紛れもない事実であり、「リッチ」は「フェイマス」を業界から事実問題として大方締 め出してきた。
 しかしその「リッチ」もすでに危ういのである。今日リッチ文藝の最たる業界は推理小説などであろうが、推理作家協会がこのところヒステリックなまでに例 えば図書館の貸し出しに噛みつき続けていること、その背後に大手出版社の尻押しのきついことも、見え見えになっている。彼等をそれほど苛立たせている背景 に、文房具や通信具の域を大きくはみ出た「書けて流せる流通機械」としての電子メディア=パソコンやケイタイの途方もない普及が、明白に見て取れる。昭和 三十一年の十返肇の論調に、まだそれが全く予期されていないのは当たり前で、わたしの現に出席している日本ペンクラブの理事会でも、今日なお以て電子メ ディアには大半というより殆どが「弱い」のである。
 しかし、世間へ出ればそうではない。わたしのいわゆる「電子の杖」を利した「e-OLD」の増加は日増しに恐るべきものがあり、ホームページを経過し、 いまやブログを介して利潤のあがる文筆活動を狙っている、しかし、とても作家などとはお呼びでない普通の人たちで溢れていて、もし肩書きを要すれば彼等の 何割もが、平然と「作家」と名乗りかねないのである。こういう人達は「読まないで書きたい」のであり、紙の本の「流通」疎外に大いに貢献しているし、泣く 図書館も黙らせるほど強暴な文筆団体ですら、この傾向には手も足も出せないでいる。
「文学生産者と文学需要者の関係が、利潤にケーアを持つ仲買人の手を通じてではなく、より合理的な新しい社会機関を通じて結びあはされる時代が迫りつつ あ」るという七十五年も昔の太平洋戦争前に杉山平助のしていた予言は、「紙の本」社会の頭上をまさに大跨ぎして「実現」しかけている。ジャーナリズムがこ の新形式に新しい「仲買人」として割り込もうにも、新たな書き手は「おおきにお世話」と背を向ける自由自在が「機械的に」許されている。「質」を問いさえ しなければ、機械を操れる者には文章も絵画すらもネット世界へ自由に流せる。「慾深」出版人に出来そうな手は、仕方がない「名誉」を売り「紙の本にしてあ げる」と誘惑することしかない。
 しかし、わたしの思うところ、本当は「編集の鑑賞力」を売るのが一番なのではなかろうか。ラチもない詐欺まがいの文学賞がやたら増えるよりも、出版資本 の手を脱した優秀な「読み手」たちが、電子文藝を、「鑑賞力」で吸引し始動し編輯して行く「新システム」の生まれることが大切なのである、その時にこそ、 杉山のいう「合理的な新しい社会機関」が意義を持ち始める。
 いま「流通している」のでなくただ「氾濫しつつある文藝行為」の本当に良い「流通」を質的にリードできるのは、慾深な資本の神でなくて、文学を愛する力 ある編集者であろうとわたしは期待しているのである。 

                           

              ――「芸術至上主義文藝」2005年――






 

  『秦恒平・湖(うみ)の本』18年・80巻   


       作者による、読者と作品のための出版

                     
 一 「湖(うみ)の本」十八年・八十巻

『みごもりの湖』という書下し作品を、わたしは持っている。依頼されて出版まで、五年頑張った。名作だ、なんとか賞候補だと幸い評判され、今も代表作にあ げて下さる読者・識者がある。けれど、どれだけの期間、書店に本が在ったろう。版元に在庫が在ったろう。あまりに短かかった。しかも何社からも文庫本に欲 しいと言ってきた。版元は、いずれうちからとすべて拒絶し、あげく、そのままにされた。大出版社の理不尽であったと、率直に怨んでおく。読者から、読みた いのに本が手に入らないと、何度も何度もうらまれた。
 一つの「例」であり、多くの作者が、似た実例を、いやほど体験しているだろう。もっとも、小刻み増刷も容易ではない。商売だけを考えるなら、ムリは言い にくいのである。
 一九六九年の桜桃忌に、幸運に飛び込んできた「太宰治賞」で出発したわたしは、その後十五年で、人も驚く六、七十冊もの新刊本を出し続けた。その後のも 足すと著書は百冊をずっと越している。それが業界の「評価」というものであり、恵まれた作者生活をわたしは過ごしてきた。有り難かった。
 その一方、それら多数の著書の運命は、例外をのぞいてやはり『みごもりの湖』とほぼ同じであった。作者は出版社の「非常勤雇い」の身分であり、どんな名 のある書き手でも、品切れと絶版には、何一つ口は出せない。仕方がないのである。
 作者なら、身にしみて分かっている。一つの作品が成るまでの苦労、その結果である著書が、いとも簡単に書店や版元から雲散霧消してしまうこと、を。或る 意味で仕方がない。が、或る意味でそれはあまりに文化的でなく、経済至上の環境を意味していて、質を、量が、いつも蹂躙して行く。「読者」(買い手でな く)の意向も、なんら斟酌されない。 
 で、泣き言は嫌い、やってやろうじゃないか、と、読みたくても「読めない・読まれない」読者と作品たちのために、「秦恒平・湖(うみ)の本」という私家 版作品集を創刊した。「作者」のわたしが自力ですべて再刊(新刊)し、全国の読者にじかに本を手渡そうというのだ、 第一巻に太宰賞作『清経入水』を置き、「産地直送」と謂われた「作家の出版」が、用意ドンと、たった一人でスタートしたのである、一九八六年六月の桜桃忌 であった。
 激励と歓迎があいつぎ、しかし一年もつまいと嗤われもした。それが、今年六月には「満十八年、通算八十巻」に達し、体力・気力等の事情が許すなら、百巻 でも百二十巻でも、幾らでもまだ続けられる。八十巻記念には、書下しの藝術家小説『お父さん、繪を描いてください』上下巻を、同時刊行。好調に、昨日も今 日も新しい注文が来ている。
 趣味の自費出版では、とてもこう永く多く続けられるものではない。継続講読という固定読者の支持があればこそで。そしてあの『みごもりの湖』上中下巻も ちゃんと復刊されている。総て簡素に美しく装幀され、丁寧に再編集されていて、どの巻も喜ばれてきた。
 ミニコミ・ミニセールに徹しているから「蔵が建つ」どころではない。実に厳しい。一巻出せば次の一巻がかつがつ可能になる程度だ、だが、それで足りてい る。生活は昔の頑張りでナントカ成っている。書きに書きつづけ、今も書いている。おかげで食べて行ける。
 こういう作家自身の私家版活動は、島崎藤村の『緑陰叢書』四冊が、早くに前例としてある。藤村発想の根には、作家として優れて自覚的な批評があった。出 版支配へ、たとえかすかでも、先見的な警戒心が働いていた。「兎にも角にも出版業者がそれぞれの店を構へ、店員を使つて、相応な生計を営んで行くのに、そ の原料を提供する著作者が、少数の例外はあるにもせよ──食ふや食はずに居る法はないと考へた」と。
 加えて藤村には、想像以上に重く、恐らく終生変わらず、自身の「読者」達をたいへん大切に、常に、より身近に遇する気持ちがあった。「作者と読者と」 が、索漠と、大きく乖離していては「好ましからず」という、独特の姿勢、近代日本の作者達にあまり従来考えられなかった、しかし健康で健全な「価値観」が 働いていた。わたしは、それを尊いことと、じつは青年の昔から感じてきたのである。  
        (東京新聞夕刊 2004.7.27)


       誰にも出来ることじゃない。けれど…

               
  二 「湖(うみ)の本」は、出版史の先駆的な一試み

 ある哲学者と対談したとき、秦さんの「湖(うみ)の本」と同じことをしたいと、どれだけ多くの作者達が内心願っているか知れないんだ、だが、誰にでも出 来る事じゃないんだなあ、これが、と嘆息されたのを思い出す。わたしも、ノウハウを、それは何度も質問されてきた。苦労しても苦労しても、それがどんなに 佳い作品であっても、簡単に市場から押し出されてしまう。いや市場へ、そもそも顔出しもならなくなっている。
 十八年・八十巻。まだまだ続くだろう「秦恒平・湖(うみ)の本」のような「作家の出版」は、では、どうすれば、他の作者にも可能か、ちょっと質問に答え てみよう。
 一つには、家人の身を入れた協力が無ければ、とてもムリ。人は雇えない。
 二つに、自分の作品をうまく編成整理し、入稿し、逐一校正し、製本後には読者のもとへ発送できる、それほどの「編集技術」および「健康と集注力と根気」 が是非なければならない。大概の作者に、これが無い。二冊や三冊出しておしまいでは始まらない。
 さらにその前に、造った本を買って下さる、かなりの数の固定講読者を確保していなければ、当たり前の話、製作費も回収できない。本が積み上がり、資金は 無残に消え失せて、お話にならない。幸いわたしの場合、儲かる必要はないし、事実儲かりなど決してしない。むちゃくちや、厳しい。だが制作費と郵送費等 は、人の羨ましがるほど、ごく短期間に回収できて、自動運動のように、少なくも「次回刊行」だけは可能になっている。
 じつは毎巻、全国の大学研究室や図書館に寄贈している。各界の人にも相当数寄贈している。営利でなく、文字通り「わが文学活動」のための「湖の本」だと 腹を括っている。読者との関係は九割九分確乎として築かれており、復刊だけでなく全くの新刊も、いつでも送り出せる「文学環境」を、十八年、有り難いこと にわたしは確保してきた。
 正直のところ、ほんとうに愛読してくれる人が、刊行の維持可能な程度にあれば、あり続ければ、それで十分、有り難い。この湖は、「広い」よりも「深い」 方が嬉しく、心底有り難いのである。その意味でも、時代こそ大きく違え、五百人の堅い固定読者ゆえに、自然主義全盛の時代も悠々生き延びたと伝説のある、 あの泉鏡花が、わたしには常に心親しい大先達である。
 当今、自分の読者を、氏名・住所もろとも「親しい親戚」のように全国に把握している作者なんか、たった一人も日本の文壇には実在しないだろう。ところ が、この「読者住所録」が或る程度まで用意できてなければ、「秦恒平・湖(うみ)の本」の創刊など不可能であった。出来なかった。言い換えれば、つまり、 人と作品に触れたファンレターが毎日のように飛んで来ない作者では、このような「出版」は、かなり難しいのである。
 さらに、もっと大事な要件が、もう一つ有る。自負・自愛の作品を、相当量持っていて何十巻と提供でき、さらに清泉泓々(おうおう)と、涌くごとく新刊・ 新作も書き継いて行ける筆力・集中力が、ただの自己満足でなく、「事実」の質・量で証明できる作者でないと、とても「続かない」「保たない」のである。
 見たところ、それほどの人が、じつは、何人もおられる。そう見ている。わたしが、赤坂城や千早城でさんざ粘り抜いているうちにも、どうか、そういう力有 る作者達にも蹶起してもらい、反省薄き「出版」や「取次」の幕府・探題を押し揺るがしてもらいたい。
 現役から退場している「優れた編集者」が、今一度少し手を貸す気になれば、わたしの「湖の本」とはまた異なった方法や形態での、「作者の出版」は必ず可 能になり、誰よりも「読みたい本が無くて読めない」と嘆く読者たちの、旱天の慈雨になるだろう。
 幸か不幸か、電子メディアの時代になっている。電子版「湖の本」も、インターネットでどこへでも届いている。これからは作者と読者とが、直接に「思い交 わせる」時代になろうとしている。いつしれず、わたしの十八年・八十巻の活動は、「出版」の最後尾から、小なりとも、先駆的な一試みとして文学史・出版史 の前面へ、確実に動いてきている。「認めたくない」という姿勢が、まだまだ出版にも文壇にも強いのは確かであるけれども。
             (東京新聞夕刊 2004.8.3)
 






 

   ネットの時代へ、作家として編 集者として
 
 

 わたしは「書き手=小説家」だ。批評もエッセイも書 いてきた。どのように作家として出発し、現にどのようにこの議論との接点をもっているか、それを知ってもらうのが、議論の趣旨にいちばん適う気がする。な ぜか。

  エプスタイン氏に始まり加藤敬事氏らの対話に到る議論が、ほとんど「書き手=作家・著作者」を、「出版」の問題にしていない。「読者」への評価もまるで無 い。こと「出版」を語って、作者と読者への視野や評価を欠いた議論というのは、何なのか。久しく作者を出版の「非常勤雇い」として?使し、読者から「いい 本」を取り上げて多くの泡をくわせ、待ちぼうけを食わせてきた、出版社主導ないし独善の「出版」なるものが、いま自己破産に瀕しているのは、けだし当然の ように見受けられる。新世紀は、そういう作者や読者から、旧出版へ反撃の時代とも位置づけられる。反撃を可能にするのが、デジタルテクノロジーであること は、言うまでもない。「出版」抜きの出版、作者と読者とで直接交しあう出版が、今日、可能になっている。わたしはそれを、十五年、成功させてきた。出版よ 変われと願い孤軍奮闘してきた。その実践を人は楠木正成の赤坂城に喩えてくれる。愚かしい真似であったか、意義があったかはみなさんの判断に委ね、他人の ことでなく、あえて自分のことをこの場で語ろう。

  1960年代、創作を職業にする以前に、出版社に頼らず、私家版を少部数ずつ作って、ごく少数の読者に作品を手渡していた。その四冊目の表題作が、作者の 知らぬうちに太宰治文学賞の最終候補に推されていて、受賞した。1969年である。文学賞は、この業界からの「雇い入れ」招待状になった。
  以後、年に四冊から六冊ほど、毎年本を出版し続けた。折り合える限りを出版社・編集者と折り合い、勤勉に書いて書いて著書を積み上げていった。一年に書く 二千枚の原稿のほぼ全部が右から左へ単行本になって行くほど、この新人作家は出版に恵まれた。十数年といわぬうちに各種六十冊を越えていた。ただし、どの 一冊もベストセラーにならなかった。わたしには出版が大事なのでなく、心ゆく創作や執筆、その自由と発表の場が大事であった。「いい読者」が大事だった。 少数だが熱い読者に常に支持されていると、編集者も出版社も本を出しつづけてくれ、蔵は建たなかったが、職業としての作家業は、受賞以来五年の二足わらじ を脱いでからも、十数年、二十年、なお十分成り立った。原稿料・印税その他で、一流企業の友人たちよりもわたしは当時稼いでいた。

 ところが、お付き合いの濃かった人文書出版社が、つ ぎつぎ具合悪くなった。筑摩書房、平凡社、最近では中央公論社。意外とは思わなかった。優秀なバックリストに満たされての破局は、エプスタイン氏の批判に 言い尽くされているのかも知れない。龍澤氏の反省がまるで当時機能していなかったのは明白である。
 痛みとともに想い出すが、すでに1970年代前半にして、わたしが勤めてきた出版社の企 画会議・管理職会議での合い言葉は、強圧は、「前年同期プラス何十パーセント」という機械的な生産高設定であった。医学専門書の出版社でそうで
あったし、読者確保の利く専門書であるがゆえに高価格設定でそれもなんとかなったけれど、 龍沢氏のいわれる「幅」のある、それだけ見通しの利かない人文書出版社で、生産高本位の「前年同期プラス」に歯止めなく走り始めれば、そん
なバブルが、うたかたと潰えるのは目前であった。作家として独り立ちしてからの7-8- 90年代を通じ、わたしは「出版」の自己崩壊または異様な変質は、あまりに当たり前のことと眺めていた。良識ある編集者の発言力が社内で通用せず、むしろ 進んで変質し、「売れる本を書いて欲しい」としか著作者に言わなくなっていたのだ。龍沢氏は言われる、「書籍編集者は年間出版点数を倍に増やさなければ売 上げを確保できず、企画は次第に画一化されてゆく。その過程で編集者・出版社は、かつて強力な流通網の向こう側に確実に実在していたはずの、ある『幅』を もった多様な人文書の読み手であった『読者階層』の姿を急速に見失ってしまったのである。企画の画一化は、結局のところ画一的な読者を生む以外にないので ある」と。この通りであった。「編集者」はいなくなった。原稿もろくに読まない・読めない「出版社員」だけが下請けを追い使って生産高を競った。
 そんな中で、作家・著作者とは、バブル化する出版資本のかなりみっともない「非常勤雇 い」に過ぎないとわたしは自覚し、イヤ気もさして、このままでは、百冊の本を出しても、売り物としては半年から二年未満の寿命に過ぎないし、読
みたい本が手に入らないという「いい読者」たちの悲鳴に出版が見向きもしない以上、作者で ある自分に「できる」ことは何だろうと、考えに考えた。

 そして、1986年に創刊に踏み切ったのが、絶版品 切れの自分の全著作を、自身の編集・制作により復刊・販売・発送し、作品を、作者から読者へ直接手渡すという、稀有の私家版シリーズ「秦恒平・湖(うみ) の本」であった。辛うじて自分
の「いい読者」を見失うまいと手を伸ばしたのだ、詳しく話していられないが、今年の桜桃忌 (太宰治の忌日)までに、満十五年、六十七巻の著作を簡素に美しい単行書として、自力で出版し続け、百巻も可能な見通しで、なお継続できる「文
学環境」が確保できているのである。読者の質は高く、支持は堅く、代金は一ヶ月でほぼ回収 している。復刊だけではない、新刊も躊躇なく刊行し、ただし実作業はわたしと老妻との二人で全て支えてきた。苦労そのものであったが、読者と
いう「身内」に恵まれ幸せであった。「本が売れないって。泣き言を言うな。自分で売るさ」 と、実に自由であった。むろん市販の本も、各社から二十冊ほど増やした。忙しかった。

 大事なのは、ここからだ。かつて菊池寛が文藝春秋を 創立したとき、作家が出版社経営に手を出すのかと中央公論社長らに大いに憎まれ、喧嘩沙汰もあった。菊池寛のような政治家ではないたった独りの純文学作 家・秦恒平の自力出版が、五年しても十年しても着々続いていては、陰に陽に凄い圧力がかかる。文壇人としては野たれ死ぬかな、ま、赤坂城のあとには千早城 があるさと粘っているうちに、1993年、東京工業大学の「文学」教授に、太宰賞の時と同じく突如指名された。大学教授の方はとにかく、理系の優秀校、コ ンピュータが使えるようになるぞと、わたしは、牢獄を脱走するエドモン・ダンテスのような気分になった。紙の本で得てきた創作者の自由を、電子の本でさら に拡充し、紙と電子の両輪を用いて、「いい読者」たちとの「文学環境」をもっと豊かにもっと効果的にインターネットで楽しもうと、奮いたったのである。

 定年で退任したいま「作家秦恒平の文学と生活   http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/」は、その途上にある。途上とはいえ、文学・文藝のアーカイブに徹して、コンテン ツはすでに600万字に達し、電子版「湖の本」の他に、新たな創作もエッセイや批評や講演録も多彩に取り込んでいる。課金しないから、読者は自由にすべて が読めるし、気が向けば印刷版の「湖の本」へ自然に注文が入る。紙の本の魅力はまだまだ当分失せはしないのである。
 わが「湖」は必ずしも広くはなっていない、が、深まっている。その証拠ともあえて言お う、わたしのホームページは、さらにその中に「e-literary magazine文庫・湖umi」を抱き込み、わたしが責任編輯して、弁慶の刀狩りではないが千人・千編の各種の文学文藝を掲載発信すべく、すでに創刊半 年で、百数十人の作品に満たされているが、書き手の大方が「湖の本」の読者であり、大半は立派に知名の書き手なのである。その水準の高さに惹かれ励まされ て若い無名の書き手も次々に参加してきている。原稿料は出さず、掲載料もとらず、ただわたしの「編集と取捨」とに委ねられている。実はわたしは、作家以前 に、弁慶のような「編集者」として牛若丸の「書き手」を追いかけ回し、そして最後には勝たせてあげていた。その「体験」が、わたしの「作家」三十数年を支 えてきたのだ、ここが、もっとも肝要な「これからの編集者」論ということになる。龍沢氏の文中にもある「編集者・出版社」という一括はもう崩れていい。 「作家・編集者」という根源のチームに立ち帰らねば「編集という本質」は瓦解するのだ。

  もし、力ある作家と編集者とが、小さく緊密に、コッテージ・インダストリーふうに紙とデジタルで信頼の手を組めば、そういう「新出版」が各処に渦巻き働き 始めれば、老朽した「旧出版」という北条政権は、遂には傾くだろう。インターネットに、読者と作者を引き裂く「中間」存在など無用なのだから。
 この場合に必要なのは、作家自身の誠実な自己批評の能力、編集力、だ。作家自身も、それ をサポートできる編集者にも、何よりもつまりは良きものを求めて「読んで」見つけだす力が必要なだけだ。インターネットで文学環境を築こうと
すれば、作家自らが誠実な意欲的な編集者になれるかどうか、その結果時代が真に新しくなる かどうか、が、鍵になる。弁慶と牛若丸のように、今こそ編集者は作家と、作家は編集者と組んで「旧出版社」から脱出せよと言いたい。その際、力ある「いい 読者」たちの存在をけっして無視してはならないのである。 2001.6.17

 

     ─ウェブサイト「本とコンピュータ」英語版 2001.6.22掲載─


 
 

   早 春

 

 林佐穂さんの手紙を就寝前に読んだ。懐かしそうに国民学校の昔から戦後のことなどが、わたしのことも織り交ぜ書 かれていて、しんみりした。昭和二十年、敗戦前の三月に卒業生答辞を読んで卒業しいった、仰ぎ見る憧れの先輩であった。答辞を読むすずしい声音を耳の底に だいじに秘めたまま、間を置くひまもなく、わたしは、祖父と母とで「丹波」へ疎開していった。ホームシックのなかで京を懐かしく焦がれるときには、しばし ば講堂での卒業式の静粛を思い出していた。戦争もへたくれもなかった。ただ佐穂さんの声音に耳を澄ませていた。
 戦後、いつしかに叔母の稽古揚に、お茶お花ともにお稽古に通ってくる佐穂さんがいた。それはそれは美しい点前でいいお 茶をたててくれる人だった。その後の生き方も結婚も、大家のお嬢さんとしては決然として個性的な進路であり、聡明な選択であったと遠くから感心して眺めて いた。断続して文通は続いていた。安心だった。子供の頃以来一度も顔を合わしたことがないが、すぐ身の側に、いつも感じている。
 五十年も昔のことをそんなに「意識」しても仕方がないと、世間には言う人もいる。そうかも知れない。そうでは無かろう と思い、わたしは、ここ数年は、意識して少年の昔を顧み、その頃への「旅」を続けてきた。『早春』と題したながいものも書いてみた。
 記憶の旅には一血的なところがある。後輩にも当たる京都の読者のおかげで、例えば若くて亡くなった図画の西村敏郎先生 の、また一つ心嬉しいエピソードが伝えられたりすると嬉しくてならなかった。だが、すぐさま、べつの心よからぬ評判を伝えてくる声も届いてきたりする。人 間の「世間」ゆえ、一人の人物も視覚しだいで、いい・わるいの両側をもたざるを得ないだろうが、今さらに人のいやな側面を聞き知ってみたいとは、全く、思 わない。いやなヤツと思ってきた人の、思わぬいい面を教わるのは嬉しいことだが、逆は、愉快ではない。そういうところに丁寧に「意識」を置くことも、また 年の功というものではなかろうか。
 くさいものに蓋をする気ではない。一面からだけ見過ぎては、その一面がわるい一面の場合は殊に、いけなかろうと思うの だ。
 西村先生の場合、画業への不運不遇がどんなにか生活の焦れを招いていただろう、経済難もさぞあったろう。先生のあの頃 のあまりな年若さを思えば、青春の悩みも深かったに違いないと想像される。
 わたしは小学校五年から新制中学二年までも『早春』と呼んだのだが、一年入学で理科を教わった佐々木葉子先生は、女専 を出てすぐの新任だった。あの頃こそが自分の「青春」でしたと昨日戴いたお手紙に書かれていた。佐々木先生と西村先生とでは、みたところもむしろ男先生の 方がやや若かったかとすら思われる。二十歳代に入って間もなかったろう。敗戦直後、青雲の思いのなかなか満たされにくい時代でもあった。そんな西村先生 が、一つのパンを二つに分けて、食べるもののない一年生に与えられていた。思い出すだけで涙腺がゆるむとその一年牛は、いましも高齢にさしかかりながら告 白し、なにと人が言おうとう先生はわたしの「ヒーロー」でしたと書いている。「わるい」だけの記憶からものは得られない。それを否定も出来ないが、わるい 記憶は出来れば処分するか、少なくも胸にしまっておき、わるい噂話にして人に伝えたりしない方がいい。それとも、きっちりした形で表へ出して「書き表す」 か、だ。
 人には、「もののあはれ」に柔らかに反応し、しおれたり、はずんだりする何か不思議な能力がある。このせわしない現代 生活では、大方の人が、そんなものは押し殺して、むやみやたら忙しい忙しいと得意がっていたり、悩んでいたり、追いまくられて、痩せている。時代の病であ る。そういう病を通過しなければ済まない世代もあり、一概にわたしは否定しないが、胸の内に「花びらのように」ある、ふしぎに柔らかい美しいものを全て見 失ってしまうのは、ひからびてしまうようで、恐ろしい。
 ガンコ者のわたしが言うと少し可笑しがる人もあろうが、「わたしは、わたし」と言い募ってガンと曲げないことを誇りに している人があると、そんな「わたし」が何だろうと、滑稽な気がする。そういう「わたし」に限って、つまりは卑小な日常的ガンコさ以外の何ものでもなかっ たりする。他者への柔らかい思い入れが乏しいのである。外からのはたらきかけで自分が変わるのを小心に怖れているのである。我執。
 ある秤度まで己れを頑固に護らねばならぬことは、実際に多々あり、むしろ護らずに妥協しすぎるのが日本人の大きな欠点 の一つと思っている。しかし個性的で人間的な自己主張には、芯のところに、「花びらのように」柔らかい、美しい静かさが置かれてあるものだ、「かなしみの ような」ものと言い替えても佳い。

       ──「月刊ずいひつ」平成十三年一月号──



 

   志賀直哉の日記

 

 ここ数ヶ月、志賀直哉全集の「日記」をたえず身近に引きつけ、ひまがあれば読み返している。
 直哉は、全集二十一巻のうち作品分は十巻で、残るところは日記と書簡。作品として収録されたモノにも、小説とも随筆と もつかぬ短文・短章が相当量を占める。それらが、だが、佳いのである、余人の遠く及ばぬ確かな筆致が、そのままで「文学・文芸」として揺るぎない魅力を湛 えている。わたしは久しく、この辺で浅い誤解を重ねていた。「作文」作家のように感じていたが、たとえ作文でもすこぶる佳いということの、意義を、読み落 としていた。直哉は源氏物語の紫式部のような作家ではなく、枕草子の清少納言の伝統に巨きな位置を占めた文学者であった。「小説の神様」とは思わないが、 「文学の神様」といっていい至芸を、強靱で明確な文体の内側から彫刻していたのである。
 目の前にはっきり見えるまで観て、その通りに書くのだと直哉は繰り返し語った。強く正しく把握せよと言うのである、そ うすれば表現も強く正しくなる、と。
 明治四十四年の二月二十五日に、直哉は、島崎藤村の『犠牲』を「少し読むで」日記にこう書いている。
「書かれた事が作者の頭にハツキリうつつてゐるといふ事はよく感じられる。けれども直接読者の頭へハツキリとは来ない。 書かれた物と読者との間に作者がハサマツテゐる感じがある。/藤村の物を見る時には上手ないい芝居を遠い所から立ち見をしてゐるやうな感じがする。兎も角 読者に面接して来ない。いい句でもいい科でも遠くでやつてゐるので何所かオボロ気な感じがある、時々ボンヤリしてゐるといい句やいい科を、聞き落したり見 落したりしさうである。夏目(漱石)さんとはマルデ反対である。」
 夏目漱石も出てきて、じつに面白い。藤村について言われてある「感じ」が、よく解る。
 それにつけて想い出すのは、瀧井孝作先生のことで。瀧井先生は言うまでもない、直哉の高弟であり、雑誌「白樺」仲間と はまた違った文学上の盟友であり、身内にも等しく、それ以上の信頼・敬慕の間柄にあった。
 この瀧井先生が、かつてわたしの小説『糸瓜と木魚』を褒めて下さり単行本に帯の推薦文を頂戴したとき、本の表題作に なっていた『月皓く』の方を、「美しい物が遠くで動いているようだ」と評されたのである。先生のこの批評は、直哉のここに謂う、「上手ないい芝居を遠い所 から立ち見をしてゐるやうな感じがする」に、ピッタリ相当していた。これを見ても、自分は間違いない直哉の孫弟子でもあったのだなあと、感慨深い。瀧井先 生は、ご自分の作品が、そこへ落ち込まないようにと、文学・文体・文章を、いつも力強く彫り込んでおられた。
 明治四十四年になって、直哉は「白樺」だけでなく、視野を広げている。一月四日には、「酔はない男と酔つた男と一緒に ゐると、酔つた連中の方がどうしても景気がいい、然し左う長く人は酔つてゐられないし、酔つぱらいの言葉も左う長くは聴いてゐられない。スバル連は酔つぱ らいである。酔つて警句をハイてゐれば満足の出来る連中である。酔つた勢で自然派をつぶせなどクダを巻いてゐる連中である」と、いわゆる芸術派をやっつけ ている。藤村を読み白鳥や花袋を読み、敬愛していた漱石や少年時から愛読したという泉鏡花をべつにすれば、直哉は、高く評価しないまでも自然主義の作物に よく接している、反自然派のものよりも。直哉の私小説も、いうまでもなく自然主義の流れに棹さしていたことが分かり、しかし自然主義をはみ出たモノが 「何」であったかの見極めが、是非必要になる。「自然」の捉え方が、よほど、自然主義者とは異なっていただろう。
 この年の五月二十七日、直哉はこういうことを日記に書いている。
 ○雀のクチバシを拭ふのにリズムがある。小鳥の声に実にsweetなシメリ気のあるのがある。鳶の舞は舞の舞と同じで ある。 ○自然の美の方面を段々と深く理解して行くのが芸術の使命である。 ○かうもいへる、芸術心(人間)を以つて、段々自然を美しく見て行くのも使命 である。 ○だから、普通の人の見るに止まる自然を再現した所でそれは芸術にはならない。 ○自然を深く深く理解しなければいけない。 ○然し人間は段々 に自然を忘れて、芸術だけの芸術を作らうとする。 ○その時に自然に帰れと叫ぶ人が出て来る。 ○自然といふ事を忘れてゐる芸術は、芸術の堕落である。  ○自分は華族様の表情のない美人のお姫様の顔が此の堕落した芸術と同じだと思ふ。 夜(どこへも出ずに)自家にゐる――と。この年、志賀直哉は、二十八 歳。
 直哉のこの述懐を読み解くのは、少なくも文章に志ある者にとり、実に興味深い。
 
           ―― 「ずいひつ」平成十二年六月号――
 
 

 
 

  文豪谷崎潤一郎の細君譲渡 ー聡明な醜聞の蔭でー

                                           
 

 ともに文豪といわれた谷崎潤一郎と佐藤春夫の出会いは、大正四年の谷崎の結婚よりやや遡るかと見られる。谷崎の 妻石川千代(子)には気性の烈しい姉と妹があり、千代は穏和で家庭的な人であったが、当時悪魔主義、芸術至上主義をもって目されていた谷崎は、長女鮎子の 生まれた五年に「父となりて」を発表し、妻子の存在をことさら蔑視する態度に出ていた。ことに同居し親近した妻の妹(名作『痴人の愛』の女主人公ナオミの モデル)に惹かれて以来、彼女を映画女優に仕立てて自ら映画製作に熱中するにつれ、夫婦仲は冷え込んだ。佐藤春夫は兄事し敬愛する谷崎の妻千代に愛を覚え て同情し、千代も佐藤の愛を頼む気持ちを抱き始めていた。谷崎と佐藤とは千代を譲り譲られようと一度は協約したものの土、壇場になり谷崎が翻意し、佐藤は 谷崎と絶交した。大正十年の「小田原事件」であり、両者は三角関係の内情を剔った長編小説で烈しく応酬し、ことに佐藤は幾多の抒情的な詩篇をもって千代に 届けと世にうったえ、谷崎も辟易した。
 互いに深く認めあう文学の友であった谷崎と佐藤とは、だが、大正十五年に快く和解し、谷崎はこれを機に『痴人の愛』 『蓼喰ふ蟲』以降昭和初年の名作群を続々産出の基盤を得ていった。その蔭には、昭和二年早春に出逢った後の松子夫人への恋慕がちからづよく働いていた。谷 崎はふたたび妻千代を佐藤に譲ろうと考え、佐藤も進んで受け入れようとした。その頃、実は『蓼喰ふ蟲』に書かれている、千代夫人にもべつの恋が見え隠れに 進んでいた。谷崎も佐藤もそれも承知で「細君譲渡」を決意し、千代も受け入れた。小説より奇なる事実として、昭和五年、三者連名の「挨拶状」が公表され、 世間を驚倒した。
 「小田原事件」から「細君譲渡」へ、これを谷崎佐藤両家の、私的で、異様に非常識な醜聞と見た世間は広かった。二人の 作家よりも「譲渡」を受け入れた千代への非難が強かった。だが三人の男女は「挨拶状」に一言半句の理屈も述べず、端的に決断した事実だけを淡々と述べた。 それを聡明な処置と評価する人もいた。文学者、芸術家の恣まな背世間的逸脱ともみられ、また、精神と行動の真の自由を汲み取った者もいた。明治維新以降の 近代日本が、軍閥跋扈の太平洋戦争へすでに暗い時代の斜面を滑り落ちつつあった時に、「こういうこと」もできる魂の、断乎としたこれを自己表現とみれば、 これほど大胆な伝統の夫婦観・家庭観を覆す態度は無かった。「世の掟」ではなく「人の誠」を建てて断行された意味で、それは夏目漱石が『それから』で示し た逸脱に倣う、昂然たる個と個との聡明の表明であったろう。
 だが別の面から結果的に見ると、谷崎は、佐藤によき妻と家庭を与えて、その中へ、強力な文学のライバルと、神にも玩具 にもなれない尋常な妻とを、同時に埋め去っていた。加えて妻千代のそれこそ醜聞に発展しかねない『蓼喰ふ蟲』の「阿曾」という存在をも、みごと噂の闇へと 葬り去った。「細君譲渡」は、谷崎潤一郎というしたたかな芸術家による鮮やかな「三重殺」であったし、その勢いで、谷崎文学の真の黄金時代が幕を開けた。
 

             ーー (週間20世紀) 平成十二年二月 刊 ーー

 

 
 

 澤口靖子の「雪子」を観て

* 一月九日 日

* 帝劇の「細雪」公演、文句無く楽しめた。
 原作の力は言うまでもなく、脚色・演出にもソツなく、澤口靖子の完璧に美しい「雪子」の演技に、目も心も奪われた。こ んなに美しい女性を見たのは生まれて初めてで、その美しさが「細雪の雪子」になりきっていて、女優澤口靖子とも思わせない自然さと気品にも、感動した。涙 が溢れて困った。映画では山根寿子や吉永小百合の「雪子」を見てきた。山根が小百合が演じている「雪子」で、それなりに納得し好きだったが、今日の「雪 子」は雪子その人が、生身のまま舞台の上で光り輝いて自然であった。「澤口靖子」が美しいとも素晴らしいとも思わせず、「なんと美しい雪子だろう」と、た だ心を奪われていた。
 双眼鏡で「雪子」だけを見ていた。「細雪」の世界は知悉している。古手川祐子の「幸子」はよかった。この人の映画の 「妙子」もとてもよかつた。佐久間良子の「鶴子」は、映画の時の「幸子」役と同様、感心しなかった。「こいさん」役は美しいが未熟だった。役が掴めてな かった、自然な説得力では。
 そんなわけで、他に気を取られることなく、わたしは終始「雪子」を見ていた。芝居そのものの良さにも素直に感心した。 脚色が佳いということの大切さがしみじみと納得できた。菊田一夫という元の脚色者がいいのか、潤色した今の書き手がいいのか、台本を見ないから分からな い、が、普通に「細雪」を舞台化するのなら、これで良いと思わせる程度に的確な脚色で潤色だったと思う。帝劇で、これで五つも六つも芝居を見せてもらった が、抜群の舞台であった。
 わたしは松子夫人が懐かしくてたまらなかった。また、はじめて「細雪」を通読した子どもの頃を思い出した。死んだ母に も読ませた。小説の感想など言う人でなかったが「ええもんやな」と母は一言で評した。とても嬉しかったのを覚えている。
 華麗で、幸せの絶頂にあるような美しい四姉妹が、それぞれに深い悲しみを抱いて、時代の運命にも翻弄されて行くものの あわれが、無理なく美しく描けていて、付け刃ではない感動へ誘い込んでくれた。こういう舞台が創れて、帝劇の超満員の客を感動させうるのである。それなら ば月々の興行も、もう少し客の能力を高くみて、質のいい舞台を謙虚に創って欲しいものだと思う。
 
* 『細雪』は円熟の名作であり、時代と人間を読み得た批評の名作でもある。単なる絵巻物ではないのである。
 そして、今夜の舞台とはまた全く違った「細雪」のドラマを、私なら、別に思い描くことが出来る。思いのままに私にも 「細雪」が脚色し得たならば、それは谷崎自身がこの長編をそもそも構想した、最初の動機や展開に大胆にちかづくだろう。「貞之助をめぐる三人の姉妹」の美 しくて烈しい葛藤となるだろう。映画の市川崑監督は、ややそれへ近づいていたが、「こいさん」の、より深い内面には近づけないでいた。

* 帝劇地下の香味屋で、ディナーを十分楽しんでから、舞台を堪能した。このレストランがわたしも妻も気に入って しまった。ワインもなかなかで、満ち足りた新年会だった。
                                  ーー 私語の刻・闇に言い置く ーー
 
 


 

   電子空間の「闇」に書く

               インタビュー  秦恒平さんに聞く    「本とコンピュータ」平成十二年五月号
 

――秦さんは、一九八六(昭和六十一)年から、それまでに出版された自著のうち、主に品切れ・絶版本を私家版として復刻・再刊の、「秦恒平・湖(う み)の本」というシリーズを続けられています。プロの作家である秦さんが、このような試みを構想されたのは、何がきっかけでしたか?

 わたしは、六九年に太宰治文学賞を受賞以来、小説も批評もエッセイも、書くものは次から次へ残らず単行本になる という、新人としては最も恵まれた文学作者の一人でした。年に四、五冊が出版され、著書は各社より百冊近く出ています。そのこと自体が、善し悪しは別にし て、一つの「時代」を証言し得ているでしょう。現在なら、わたしのようなタイプの純文学の新人が、そんなふうに迎えられるのは容易でないはずです。それほ ど、恵まれていました。
 ところが本はたくさん出せたんですが、すぐ品切れして、簡単には増刷されない。出版の楽屋裏もわたしは永く体験してい ます、これはムリもない。しかし、そのうち、「本が売れない」という言葉が、「出版・編集」の愚痴ないし本音から、なにかしら、言い訳ないし「多く売れる 本は売るが、売れない本は売らない」口実か戦略へと、すり替わり始めたんです。編集者たちは作者に、「売れる」ことを一に要求しはじめました。他方で読者 は、「あの本が読みたいのに、手に入らない」と作者にまで愬えてきました。八〇年代に入るにつれ、水かさの増すように、その感じは強まりました。このまま では読者が気の毒だし、作品も可哀相……。
 では、作者である自分に「何ができる」だろうと考えたとき、版元に在庫を置く余裕がないのなら、作者が読者に、希望の 本を自ら「手渡し」しよう、「直送」しようと思ったんです。そんなふうに、書き手が身を起こす、動かすということが、のちのち、何か目に見えない可能性に なって、一つの「前蹤」を創るかもしれぬという予感がありました。

――どんな本をつくろうと考えられましたか?

「在庫」をある程度確保し、「読みたいのに本が無い」という読者の嘆きを少しでも解消するのが、根の発想でした。 宣伝なんて出来ません。取次や書店とも無縁。作者から読者へ直接「手渡す」のですから、手元の読者名簿だけが頼りでした、アドレスは、さあ、三百とは無 かったでしょうし、そういう人はわたしの本を既に買って持っています。思えばアテハカもない見切り発車でした。ずいぶん苦労しましたが、支持や応援もびっ くりするほど有りました。本造りという面では、幸い、作家以前に出版社勤めで医学書の編集をしていましたから、企画も編集も校正も、本をつくる技術は持っ ていたわけです。
 まず考えたのは、簡素に美しい、重くない本にすることです。あまり分厚くしない。旅行カバンなどのすき間へすっと入っ てくれるサイズで、厚い堅い紙は使わず、手触りの良い軽い本にしたかった。色も使わない。白い表紙が汚れやすいと心配する読者もいましたが、せいぜい汚し て何冊も買い替えてもらいたい。(笑) 泣き所は、サイズからも雑誌に見えちゃうことでね。実質は、はっきり単行本なんですが。
 作品。これは、たっぷりありました。それを自在に編成し直し、本文もよく整え、同じ装幀、同じ組みで、A5判の百三十 頁前後に一冊を仕立てています。長編は二冊ないし三冊に分冊しています。年に四、五冊、編集から校了まで、そして発送も自分でします。手伝ってくれるのは 妻だけ。制作費と送料その他にかかる経費が、全部は容易に回収できません。僅かですが不足分は持ち出しています。それでいいものと最初から覚悟していまし た。その意味では、きちっと成り立っています。

――それからの十四年間で、通算六十二巻(創作四十二巻、エッセイ二十巻)もの本
を、ご自分の手で出版されたわけですね。「こんな仕事が、今年の桜桃忌には満十四年になる。その息の長さ。たとえ代金が全部は回収できなくても、『本』そ のものに旅をさせることで十分購えていた。」と書かれていますが、いい言葉だなと思いました。

 この本を手にとった人が、右から左へ紙屑籠には捨てないでくれるだろうという自信を持ち、一巻一巻をていねいに 配本してきました。作家が自身でこういう出版をしていることを、各界に、ただ識ってもらうだけでも、一つの「批評」になるのを意識していました。この本 が、現に、売れている・買われているという事実、それで刊行が維持継続できている事実も大事なことですが、こんな「作家の出版」が何故に必要になったかと いう「出版」事情を広く識ってもらうことも、批評的にたいへん重要なんです。
 宣伝・広告は事実上できなくて、すべて読者の支持・応援が頼りです。それがなければ維持も継続も不可能でした。こんな に永く続いてきたのは、いい読者のおかげです。
 配本のつど、読者には一人残らず手書きで、宛名と挨拶を入れています。大変な作業ですが、魂の色の似通う作者と読者と を直かに結ぶ、これはもっとも象徴的な交感作業なんでして、「湖の本」の一等の魅力だとも読者は言ってくれます。

――執筆にはかなり早い時期からワープロをお使いですね。

 八三年、東芝「トスワード」の高価な一号機でした。二行しか画面に表示できないものでした。(笑) 買ったその 日から実地に使いました。長い連載小説の中途でしたが、作品のどの箇所から器械書きに替えたか、分かる人は一人もありませんでした。文体とはそういうもの です。以来二十年、自分の作品は、何万枚もの原稿のすべてを、器械の画面で創りだしています。抵抗感もむろんあります、が、克服できないものでは全く無 かったですね。九六年頃から、パソコンを使うようになりました。パソコンは原稿用紙でもあるし、作品のための文字通り「文庫=文業保管庫」として使ってき ました。

――その原稿用紙や倉庫の延長として、九八年四月から「作家秦恒平の文学と生活」というホームページを始められた。ここに、長編・短篇の新作の書き 下ろしを載せたり、エッセイや講演録を転載されたり、「湖の本」の告知などされていますね。

 新しい機能の「原稿用紙」が、また自身専用の「文庫=作品所蔵館」が欲しかったんです。さらにコンテンツの公開 の利く「作品展示館」も。いろんなアーキテクチュアで多彩にホームページを装飾する洒落っけは最初から無く、ただもう「文章」の、書ける、保管できる、展 示できるホームページ、「作家秦恒平の、文学と生活」が率直に表現できるホームページを欲していました。
 もう一つ、これは大事な点ですが、多年勤勉に働いたおかげで、なんとか余生は暮らして行けると思います。だから金を稼 ぐ気はかなり薄れています。ホームページの文章がお金に化けることなど、ほとんど期待していません。その点、若い「これから」の作家たちとは、生活して行 く立場がだいぶ違っていると言えましょうか。趣味的だなどとは決して思っていませんが。
 国立の東工大で、四年半、「作家」教授を勤めまして、理工系の優秀な学生諸君と大勢親密につき合ってきた。それがなけ れば、コンピュータとのご縁はあり得なかったでしょう。大学に誘われたとき、何が何でもコンピュータに近づきたいと内心切望していましたが、それでも、 ホームページ開設に辿りつけたのは、定年退官してなお二年後ですものね、そこまでが実に難しかった。現在わたしのホームページには、文章ばかりが約四千枚 か、優にそれ以上入っています。院生で、我が器械の先生が、「秦さん、1メガバイトとは半角百万字です、かな漢字なら五十万字ですよ」と教えてくれ、5メ ガバイトのホームページをつくってくれた時の嬉しさ、忘れることはないですね。今は17メガにしていますが、限度の50メガまで、自分の作品で埋め尽くし たいと、本気で思っていますよ。

――ホームページでは、「生活と意見」という欄で、日々の生活を綴ってらっしゃいます。インターネットで公開の日記を載せることで、読者との距離感 が変わってきたという感覚はありますか?

「生活と意見」には、「私語の刻・闇に言い置く」という副題をつけました。まさにあの通りで、器械の奥は独特の 「闇」でしょう。実際にすぐ目の前に読者の姿、顔かたちが見えていたら、あのような日録はなかなか書けないですよ。ところが、ありがたいことにパソコンを 覗いている限りにおいては、人の顔は全然見えない。濛々たる闇ですから。そこへ向かって書く。話しかける。
 一方で、ワープロは文房具だけれども、パソコンは明らかに自己表現の手段であると同時に、他者の参加を受け入れるもの でもある。だから、私語のときのつもりが、いつの間にか、他者との対話のときになり変わっています。それが、佳い。嬉しい。
 インターネットは、事実はそうでなくても、可能性において転送した瞬間に世界中で読むことが可能なものです。自分で日 記帳に日記を書いていたときには、ついいい加減に書かれ過ぎていても、パソコンでは厳しく己れを律しざるをえない。何か言われても責任はきちんと持たな きゃいけないわけですよ。おかげで読者が、漠然とだけれども、莫大に広がったという、錯覚ではあるが、実感はありますね。

――ホームページをつくるときに、どういう点に気をつけてらっしゃるのですか?

 作家は、精神が、活発で生き生きしていなければならない。ホームページも、日々に新たに生きて、緊張し更新して いなければ無意味です。「自分は生きているぞ」という日々の刻印なんですね。一切は「闇に言い置く」遺書同然であり、本質的に「私語の刻」を器械の前で持 つのですから、他人の存在を気にすることは微塵もありません。しかも他人にも見られ得ることを識っています。そこに鋭い緊張が生まれます、しかし意識しな い、拘束もされない。まして筆を枉げるなんてことはしないのです。創作も日録も、文学・文藝です。よそからの妨げは受けないと、ぐっと気を入れていなけれ ば、「言葉」がウソになってしまう。表現は虚構でいいが、書き手の態度にウソは困るのです。
 インターネットでは「闇に言い置く」行為が、そのまま世界に呈示するのと同義語なんですね。こんな緊張感は、そうある ものじゃない。じつに嬉しい、全く新しい「原稿用紙」であり「発表場所」じゃありませんか。文体がダメになるの、紙とペンとでなければどうの、などという ヘンな理屈は、文体や思想を持ちえていない人や、文学言語の魅惑=FASCINATIONのよく分かってない人の、ウワゴトだと思いますね。

――ホームページで作品を発表することと、紙の本の出版との違いは何でしょうか?

 ホームページが即「出版」だとは思いませんが、一つ一つの作品にきちんと体裁を整え、プリントアウトすればその まま本として読める形で提供したいと思っています。そのためには、一行字数の設定とか、そういうことも丁寧にしないといけない。よほど丁寧にやらないと と、いろんな工夫をしてきました。最近いただいた、T-Timeというソフトなどを使ってみますと、画面上で縦書きに綺麗に内容が読み出せて、横書きのも のが俄然生き返ったように読みやすくなりました。あれは嬉しかったな。
 いつかはホームページの内容を、自分で自在にCD-ROM化して行くこともできればいいなと願っています。そういう作 品提供の仕方へも移れるよう、用意しておこうとっています、まだ今は、そういう技術も手段も持っていませんが。
 紙の本の、きちんと装幀された従来の本=ブックという固定したイメージは、変わって行くと思っています。
 前にも書いたことがあるんですが、「本」とは、いま手にしている「ブック」の形自体を謂うのでなく、中身の質の意味な んですね。物事のまん中に、中心に、デンとして在り、誰もが頼り得て、寄りかかり得て、それを信頼することのできる、本質的で本格的な「何か」が「本」 だったと思います。そういうふうに、いっぺん「本」という理念をブック以前に戻して考えていく。すると、電子メディアによる表現も、明らかに新たな「本」 と理解され、受け取られ得ると思う。
 電子本も、現在のCD―ROMやフロッピー・ディスクのかたちは過渡期的なもの、かなり短い期間でいろいろに変わって いかざるを得まいと予想しています。環境は、すこぶる流動的に推移していると眺めています。

――作家がホームページで作品を発表するだけでなく、インターネットを使って自分の作品を積極的に販売していこうという動きが、エンターテインメン ト系の作家を中心に起こりつつありますね。

 インターネット上で売る売らないは、今は技術的にも法制的にも過渡期なので、確かな基盤が築かれるまでは、試行 錯誤を繰り返していくしかないでしょうね。インターネット上で作品が売れ、作家の生計が成り立つには、なによりも、正確な課金方法の確立と著作権確立と の、両面から、懸命の環境づくりをして行かねばならない。現状では、山ほど克服の必要な難所・関所が予想されます。一人一人の書き手がバラバラで解決して 行ける問題とは思われません。
 電子メディアの著作権がどのようになるか、明確なビジョンをもっている人がなかなかいない。Aという作品を CD―ROMにして千枚売った、その印税は、という程度ならまだ紙の本の著作権に準じて処理できます。もっとややこしいのは、映画と同じように、電子メ ディアの大きなプログラムのなかに文筆家が巻き込まれていく場合です。たとえば、電子百科事典や電子新聞などにおける文筆家の著作権ということになると、 作家だけでは手に負えない。これは法律家や専門の研究者たちの協力も得ながら、ほんとうは文筆家団体がその辺にしっかりした展望や希望を持って具体的に動 きはじめなきゃいけないんだけれども

――二月に、日本文藝家協会が「活字のたそがれか?ネットワーク時代の言論と公共性」というシンポジウムを開きましたね。

 出口のないトンルネに入ってしまい、ただワンワンと怯えているが、何に怯えているのかも判然としないことが判然 とした、そういうシンポジウムでしたね。電子メディア著作権の殆ど実質無効に近い現況や未来のことも、課金システムの難しさも、紙の本の高級品化保存傾向 も、著作者の経済権確保の容易でないことも、みんな、わたし程度の者のとうに思い至っていた範囲を出なかった。そして、大事なことは、具体案が全く出てこ なかったいことです。
 電子メディア出版契約書づくりなどは、まさに、今を失しては、またしても、これまで以上にひどいめに著作権者があうの は明白なのに、その組織的対応に踏み出そうと、協会とペンとが協同してとも、ちっとも具体的な提案がない。展望もない。動きが、ない。それでは、題目をな らべているだけで、つまりは単に評論しているだけに過ぎない。評論など百万だら並べても、屁の突っ張りにもなりはしません。戦略なき闘いは負けるに決まっ ている。
「活字のたそがれか?ネットワーク時代の言論と公共性」という、この、ぼやんとした把握の弱さが、下手な小説のように、 弱みの全てを明かしていたと思う。いっそ「ネットワーク時代に、著述者(著作権者)はどう立ち向かうか」その具体的な対策や対応を語り合うべきでした。せ めて文藝家協会で、シンポジウムの遣りっぱなしでなく、何がこれから必要かをさらに話し合って、たんなるガス抜きシンポにしてしまわないで欲しいです。 
 日本の文筆家団体は、今もってコンピュータなんて別世界のことみたいとか、文学が器械で書けるかなどと、寝ぼけたこと を言っているエライ人が中枢に居座っているところですからね。わたしは日本ペンクラブの電子メディア対応研究会で座長をやっていますが、理事達の反応は、 いたって鈍い。電子メディアでの文学や文筆の著作権問題に、深い危惧と理解とを示して対応に本腰を入れるには、手遅れ必至と怖れるぐらい、時間がかかりそ うです。その間に、またしても「出版主導」「作家服属」型の電子メディア・システムが着々とつくり上げられ、書き手はまたも先々まで苦労することでしょ う。作家が「奴隷で裸の王様」であるのは、運命なのかな。
 どっちにしても、「電子メディアには著作権は成り立たない」なんてことになってしまいます。それならば何としても「紙 の本」方式を死守したいと、たださえ頭の固い文学者は思いこみ、機械では文学はできないのだということになる。こういう議論は、物事の過渡期に、新しい物 の出てくるときには、どんな時代にもどのジャンルにも足をっぱるかたちで現れたものです。
 このあいだ、ジーン・ケリーの『雨に歌えば』(一九五二)という映画をたまま見ていたら、映画がサイレントからトー キーに変わる時期の珍妙なエピソードが笑わせてくれました。活動写真に声が入るなんてとんでもない「邪道」だなんてね。いまのわれわれからすれば、それの 克服されて来たのを知っている安心感があるから、笑って見ていられますが、電子メディアのこれからの問題を、さてほんとうに克服できるかどうかという点で は、とてもすらすらと楽観的な言葉を吐くことはできません。私なんかも、秦さんはパソコンを駆使して」なんて言われるけれど、一指か二指ぐらいしか動かし てない。九指まではなかなかいかないです。(笑)そんな有様ですから、いまは断定的なことが言えないですね。

――さきほど、秦さん自身は、経済のことはもうあまり考えなくてすむとおっしゃいましたが、これから出てくる若い作家は、電子メディアによって生活 しなければならなくなるかもしれませんね。

 そこが問題なんです。紙の本が百パーセントいままで通り続くのならば、ある程度その人の努力と運次第で作家生活 へ入って、本もたくさん出してもらうことができるかもしれない。ところが、電子本になってくると、出版社は、まず、たとえばマンガなども含めて映像的なも のや、知名度の高い著者の声価の定まった作品など、損をしないで済むものから手がけるのじゃないでしょうか。インターネットにのせても、注文の来そうにな いものはハナから排除しようとするでしょう。内容のダメなのが排除されるならいいけれども、質的に良いものを持っているけれどお客さんのつきそうにないも のが、まるで蚊帳の外に置かれたまま、その傾向のまま電子本がシェアを増やしていくと、相対的に文学・文章の質は低落していくことになる。
 もう一つは、若くて生活力を持たない人たちに、どれだけのペイバックが可能であるかという問題です。紙の本時代のよう な、いわゆる「保障印税」(印刷した部数の印税を保証する)は、容易に確保されないでしょう。そうなったときに、新進未然の作家たちは、どういう文筆生活 ができるのか。否応なく兼業作家を強いられてしまうでしょう。本業が別にあって、ホームページに作品を載せ、細々でも自分に収入が入る仕組みをつくってい くしかないのか、そんなことでいいのか。これから出てくる若い書き手には、かなり苦しい時代になるんじゃないかな。

――ただそこで、その困難を乗り越えていくエネルギーや情熱、新しい才能が生まれてくるかもしれないですね。

「紙の本」時代にいろんな作品があったように、電子本の時代になって、それと匹敵し、あるいは陵駕していく作品 が、そこを「場」に生まれてくればいいと思います。ただ、いい作品が生まれてくるかどうかは、書き手だけの問題ではないんです。その誕生を手助けする筈の 出版や編集への質的な信用が、ここ十数年のあいだにどんどん失われつつある。その信用を回復しようとする気魄や理想が、編集者たちの中に、まだまだ戻って 来てない気がしますね。編集と編集者との意識と能力との革新が、いまこそ大事な時点なんだけど、そこがねえ、希望がもちにくい。
 それから、本には読者がつねに必要なんですが、たいへん良質の読者と、それほどではない読者とのあいだの乖離現象が、 さらにひどくなって来ています。
 
――昨年秋に、前スウェーデン作家協会会長のペーテル・クルマンさんが来日し、それにあわせてオン・デマンド出版についての講演・パネルディスカッション を行ないました。秦さんはこの催しにいらっしゃいましたが、どういう感想をお持ちですか。

 時宜に適った佳い講演会でしたね。書き手が「自ら動いた」という点を先ず画期的に感じました。ただクルマン氏ら の場合、既成の「出版」と、つかず離れずどころでなくひどく遠慮して、いわば革新の気迫や自負にほど遠い。隙間産業並みの位置に身の程を自ら限定している な、と感じました。それと、一番大切な著作者の法的権益保全への対策や主張を、まだ後回しにしていることも、少なからず危うい見切り発車のようにも思いま した。逆に言えば、ヨーロッパでは、基盤を広く深く固めないままに建物を建て急がねばならないほど、現実に書き手も読者も、さらには小出版社も追い込まれ ているということですね。その点では、日本のオンデマンド出版には、より良いシステムをと、期待をかけざるをえませんね。
 話を聞いて、わたしの「湖の本」型の「作家(個人ないし少複数)の出版」を腕のいい編集者が助けたほうが、少なくも純 文学のいい作品と読者とを確実に掘り起こせるんじゃないかと思いました。大部数は期待しないが、力量と文学の純度をもった作家なら、必ず熱心な固定した愛 読者を持っています。「売れない」といわれた作家が自ら「売って行く」道のあることは、「湖の本」の維持と持続という多年にわたる事実が示しています。純 文学作者たちが、廃物扱いにされている自作を自力でデジタルに置き換え、オンデマンド出版に託しても、作品は甦りの機会を得ることでしょうね。動かなけれ ば出逢えない、そう思いますよ。

――これからの作家活動について、お考えになっていることは何でしょうか?

 わたしは、現在のままで躊躇なく、創作もエッセイも批評も続けて行きます。ホームページでは、必要が生じれば ファイルを幾つでも増やして、内容の多彩と充実をはかりますが、「文学と生活」に徹して脱線しないだろうと思います。ビジターは増え続けています、だから と言って路線を変える気はありません。わたしの精神が堅固で活発ならそれが反映するだけ、それ以外のことは望みません。
 その一方で、私家版「秦恒平・湖の本」は、ま、赤坂城が落ち辛うじて千早城を守っている段階ですが、もう暫くわたしに 気力と余力の在るかぎり、稀有の「文学環境」として続けたい、続けて欲しいとも言われています。ものが「本」として提出でき、新作発表の「場」にもなり、 しかも継続購読の固定した有り難い読者にしっかり支えられ、在庫も用意していますからね。しかしデジタル化についてももっとアクティヴに考えたいし、オ ン・デマンド出版にも電子書籍にも力を貸して欲しいという気はありますよ。
 ともあれ、こういう「文学と生活」であるかぎり、嬉しいことに、何の拘束も受けることなく、確実に創作と出版の自由自 在を堪能することができ、感謝しています。独善に陥らないことだけを、心して自分に課しています。紙の本と電子の本とを自分の両手に持っていて、誰にも奪 われないことを、愛読者に感謝しています。コンピュータと出会えたことにも、心から感謝していますよ、わたしは。
                     (聞き手 萩野正昭)
 
  



 
 

      機器と文学

                   

 1983年に東芝トスワード一号機を購入の当日から、執筆と創作には、ワープロを専ら使用し始めた。1996年以降パ ソコンに移行し、現在は、NECの二台のノート型機器を用途により使い分けている。わたしには、ワープロの時代はもう過ぎた。
 こんな質問を受けた。「機器を使うことで、手書きとの変化はあるか。手書きと比較して、長所短所など感じているか」 と。
 機器による文章・文体の変化は無い。機器の使用前後で、だれ一人変化を指摘できた人もいない。手書きでなければという 絶対的な利点は、無い。機器を用いて得られる利便は多々あるが、不便もある。文章・文体・表現は、手書きだから、機器だから、良い・悪い、良くなる・悪く なる、というものではない。機器には確かに多くの利便は有るが、それで文学・文章・表現が良くなるわけでも悪くなるわけでもなく、手書きなら良い文学・文 章・表現が保証されるわけでも全く無い。文はむしろ人に属している。書く手段は、好みと慣れにすぎない。また個人的な事情での選択にすぎない。
 こんな質問も受けた。「雑誌、本という紙に印刷される形だけでなく、電子本、インターネット上の雑誌など、メディアの 世界では様々な変革が見られるが、今後の十年二十年を単位として、執筆、出版などの形はどう変化すると考えているか。」
 安易には答えにくいが、私個人の「対応」では、一つには、紙の本による表現と公表の場を私的にも確保すべく、「秦恒 平・湖(うみ)の本」を十四年来、六十数巻に及んで継続刊行をなお維持し、一作者として、固定の一定数の読者との間に「文学環境」を確保している。
 今ひとつには、新世紀の潮流を見越して、インターネットのホームページによる、創作・執筆と作品館設営に既に取り組 み、相当に拡充して行ける用意がある。現在数千枚の各種原稿が、実験的に多彩にページを埋めている。
 紙の本とインターネットの本を両輪にした、わたしのこの方式は、かなりの確度で、未来の文筆家活動の姿を占えるものと 予感している。
 紙の単行本は、高級品的に大切に求められて、価格は相対的にさらに高くなり、占める割合は漸減して行くだろう。
 電子本が、形式内容の両面で落ち着いて定着するには、試行錯誤のかなり長期間を経なければならないだろうし、その間 に、なによりも電子メディアの特質に即した新たな著作権益保護と確保の新体系が工夫され法制化されねばならない。
 三十年すれば、書き手はいろんな技術を手にして、従来紙の本型の出版・編集の桎梏を脱し、自立的に電子メディア上で作 品や文章を読者へ直接提供する例が増えてくるだろうが、紙の本時代のような印税・原稿料収入に匹敵する収入手法の保証は容易には得られないだろう。また、 電子本の自由化が放縦に進んだ場合、「批評」や「編集」の機能で、文学・芸術の質がどう維持できるかは、最大の難問となって残り、わるくすると、混濁と低 迷の永い季節を経なくてはならないかも知れない。
 紙の本が、堅実に生き残って欲しく、その為には現在の出版・編集・流通の在りように、よほどの理想の回復や反省と改革 がなければならないが、期待は全くもちにくい。
  「書家によるワープロ徹底批判」と銘打ち『文学は書字の運動である』と題した石川九楊氏の文章が話題になりもてはやされているようだが、三ページとまとも に読める議論ではなかった。「文学」は、機器にも手書きにも質を保証されたりしない。

                 ーー 山梨近代文学館 館報 平成十二年 春号 ーー
 
  


 
 

   或る書家の見当違い

                        

* 「文学界」二月号に載っていたという石川九楊という書家の文章が、なんだか、もてはやされている。
 二月号を改めて取り出してみたら、載っていた。
 「書家によるワープロ徹底批判」と銘打った『文学は書字の運動である』という題の文章で、目次には、「ワープロを使っ て日本語の文章を書くことは、必ずや思考の混濁と頽廃を生む」とも付記してある。
 じつは他のマスコミ記事で、文学界とも二月号とも気付かず、なにやらこの石川氏の文章に仰々しく触れたものを、ちらと は見ていた。「ほい、また始まった」と思っただけで、忘れていた。
 つまらぬ話ではないか、手書きしようと機器を使おうと、大きにお世話で、まして「文学は」などと押しつけのそれも書家 のご託宣など、聴きたくもなかった。時々あぶくのように現れる、不勉強な高慢天狗の譫言に過ぎないのは、読む前から分かっていた。

* しかしまあ、せっかく雑誌を貰っているのだから、読み始めてみた。だが、気が乗らない。読ませるような文章で はない、読み通す根気を惜しいと思うぐらい、案の定、ばかばかしい。すこし、関わってみようか。

* 「ワープロを早くから使い始めた詩人や作家がこれに対し違和感を感じ、捨て始めた」と、いきなり書いてある。
 おおまかなものの言いようで、機器を早くから使い始めた人が、いきなり全面使用していたのか、(そういう人もいる。 )手書きと併用していたのか、(そういう人もいる。)全面使用から、手書きとの用途別の共用・併用に割り振って落ち着いたのか、(そういう人もいる。)す ら押さえていない。これでは単に我が田に水を引くための立言であって、事実は、もう機器が手放せないと告白している作家も著述業の仲間も、少なくない。い やはっきり言って「捨て始めた」人に出会うよりもずっと「使い慣れてきた」人の方が身辺には多い。そして、むろん、こんな数の多い少ないなど、何ら「文 学」にとって本質的なことではなく、要するに好みと便宜とが選択されているのである。「書く」手だてに何をどう選ぼうと、その限りでは大きなお世話なので ある。
 大事なことは、手書きか機器を用いる(この場合ある程度習熟していることの必要なのは当然で、同じことは例えば毛筆に ついても言える。)か、それが、「文学」の質を左右する問題なんかでは、全くない、ということである。そういうアホなことを言う人は、「文学・創作」をよ く知らないことを暴露しているだけだ。

* すぐ続いて、「文章作成機にせよ、個人用電子計算機にせよ携帯電話にせよ、現代商品は、どこかにいかがわしい 暗部をもっている」とある。
 この程度の認識で、何かたいしたことを指摘したつもりなのだろうか。近代の産業社会と資本主義社会に割り込んできたさ まざまな機械器具の類が人間に対して、多大の利便とともに、ある種の深刻な敵性・毒性をもはらんで、人間の自然と精神に影響を及ぼしてきたのは、ほぼ常識 に類している。すでに百年前に、「ロボット」といった批評的な佳い戯曲が海外で上演され、日本へも輸入されていた。俳優座が最近再演したし、作の意図と批 評はむしろ百年前以上に尖鋭に現代を刺していた。ここで石川氏の語彙に乗じてものをいえば、その「いかがわしさ」を、どう意識的に捌きながら用い使って行 くか・行けるかの上に、「近代・現代」という歴史的な現実は築かれてきた。
 大なり小なり、われわれは、我々の手で創り出したものの敵性・毒性との、巧みな、ないし聡明な「共生」を、意図して目 論んできた。それを必要悪であったと謂ってもかまわないが、そういう自意識をあまり肥大させたいともわたしは思わない。このいわばパラドックスを否認否定 する道があれば、よろしい、行くがいい。それは石川氏が得手の隷書や篆書や甲骨文字で、現代から未来へ思想的・実践的に自己表明して行けると言上げしてい るのに似ている。だが、わたしは活字体でけっこう、電子文字でも差し支えない。それでも、わたしは、きちんと「文学」できる。
 それでいて断って置くが、隷書や篆書の美に冷淡なのではない。わたしが芸術表現の分野で最も深く敬愛しているのは、い わゆる書、好みでは古文古筆の書である。昔の漢字やかなの書なのである。だが、自分の文章は機器でも書き、ペンやボールペンも使うし、必要なら毛筆でも 使っている。「文学は書字の運動である」などと、お節介であやふやな書家の観念論を押しつけられたくない、大きなお世話だ。

* 「現代商品は、生まれた時から、自由と共同を求める人間の潜在意識(自覚されない意識、意識以前の意識)に違 和感を感じさせるほどに不吉なのである」と石川氏の論旨は続く。
 この「現代商品」という曖昧模糊としたもの謂いは、これは何だろう。新しい思想はもとより、新しい物や手段の誕生が、 どんな時代のどんな人々にも双手をあげて歓迎されたとでも石川氏は思っているのだろうか。それなら誤解である。よほど便利な道具ですら、慣れるまでは、ま がまがしく無気味で不吉なしろものでありえたことは、日本での電信電話の開設当時を思っても分かるし、未開族のシャーマンらが、いちはなだって文明の道具 に警戒を示すのもそれだ。我々の社会にあっては、むしろ石川氏のようなものものしい根拠のないもの言いこそが、「不吉」な、カルト言説に属するだろう。こ こへ、「阿頼耶識」のようなものを持ち出して曖昧な認識を修飾しようなどというのは、ただ大袈裟で、そんなことを謂うなら、古来、人間は、いわば「不吉」 と「不安」の海をはるばる泳いで、現代まで来たのだと言ってしまった方が、当たっている。
 言って置く、「現代商品」によって人間は「不吉」に悩むのでなく、人間存在それ自体の行動や思弁が根に「不吉・不安」 をはらんでいたのである。不吉の原因を人間の「外」に、「外の条件」に押しつけてとかく言うなどは、ものの分かっていない証拠のようなものである。

* すぐ続いて、石川氏は今度は、「本来、人間の生と生活を豊かにし、率直に喜んで歓迎すべきーーいわば垂涎の的 であるべきーー商品が」と、まるで前言を裏切るような楽天的・断定的なもの言いで、さも本音らしい「商品」観を露出させている、が、なんという寸の短いも のの見方だろう。しかもその上で、そういう「商品が、気のりのしないまま購入と使用にかり立てられるということ自体が、現代商品の反人間性、反社会性、反 文化性を証している」と言い出す。安直な言葉遣いで、とうてい「文学」がどうのと言い立てられる人の文章でも議論でもない。ここではワープロやパソコンが 目の敵にされているようだが、もし「購入と使用に」ほんとうに「かり立てられ」ているというなら、もう一度言うが、それは機器商品のせいではなくて、人間 自体が持っている「衝動」にこそ問題がある。「商品」は、人間でなく、社会でなく、文化でもない。それを擬似人間(ロボット)化するのも、社会性を与える のも、文化にしてしまうのも、「人間」自身であり、「機器・商品」ではない。そしてワープロ・パソコンにかぎらず、人類が最初に道具を持ち始め、器械を作 りはじめた時から、同じ問題はつきまとって、文明の陰陽を生み出してきたのである。何万年の道具や機械の文明史の中で、うまれてわずか五十年のコンピュー タにだけ食ってかかる図など、配慮の視野の狭い人だなと思わざるを得ない。「不吉で不安な現代の機器商品」としてなら、もっと露骨にテレビなどの長短を言 うこともできる。石川氏の「商品」論はすでにして視野狭窄の愚をはやばや露呈している。

* もののまだ一ペイジも読み進まないのに、こんなに安直なことが語られているのだから、あとを読むのは、まず百 パーセント時間の無駄だと確信している。しかし、せめては三ページぐらいは読んであげないといけないだろうか。廿四、五ページあるらしいが、最後の最後を ふっと見ると、「だから、だから墨を磨れ」と結ばれてあるではないか、推して知るべし、やはり付き合わない方がマシのようだ。

* ひとつだけ追加しておこう。
 石川氏は三ページ目へ来て、こんなことを書いている。それまでのところでも、機器の「漢字かな変換」などについて、 もっともそうな非難を並べているが、初期ワープロの頃は、漢字の数の少なさにこそ参ったが、実は「漢字かな変換」の珍妙さや煩わしさには、笑ってしまうわ りに、特段の妨害は受けていなかったし、器械を替えて行くにつれ、ソフトの方も改良も著しく、今では、変換の自在さや誤差範囲そのものまでが、けっこう利 用価値になっている。機器での執筆に習熟している人にとっては、石川氏の、鬼の首をとったようなことごとしい議論、「日本語にとっては、決定的に歪んだ操 作と仕組を強いられる機械」だの、「日本語と日本文化に奇怪な現象をもたらす」だののまさにモノモノしいもの言いは、ご大層にという他はない。これは「日 本語と日本文化」と「日本語で書く」ことに、ながく心を砕いてきた一人として言うのであり、わたしの全著作の質と量とを賭して言うのである。

* で、石川氏は、更に、こういうことを言う。「作品をつくると言うことは、集中し、持続し、その極点で白熱する ことだ。この白熱を通して、過去を突き破る現在がほんの一瞬姿を現わす。電話がひっきりなしにかかってきて、思考の流れを絶えず乱される中で、まっとうな 詩や小説が書けるとは思えない」と。

* これだけ読んでも、石川九楊氏が、少なくも独り合点の、美文家だとわたしには分かる。よほど酒に酔っぱらって も、この前段のような青臭いことは、この年になると書けない。創作について固定観念はもったが、体験は積んでいないらしい若者が、早口で大急ぎにものを 言ってのけたという按配で、気恥ずかしい、が、ま、若い人なのであろうと、聴くは聴いておこう。こういう感じ方も、あり得ていいだろう。
 だが、石川さん。「電話がひっきりなしにかかって」来る状況と、「思考の流れを絶えず乱される」こととは、必ずしもい つも同次元にはないのです。ほんとに「書く」気になっているときは、脱却もまたそう難儀ではない。体験を話したい。

* わたしは、小説を書き始めてから約十二年、医学研究書と医学月刊誌の編集者だった。後半は末端の管理職も兼ね ていた。多忙も極限にいた。一人で百数十点の単行本企画と取材を担当し、月刊数誌の発行責任ももっていた。その中で小説を書き始めて、作品「清経入水」に より太宰治賞を受けた。「蝶の皿」「畜生塚」「慈子」「廬山」「閨秀」そして「みごもりの湖」「墨牡丹」などと、書いていった。批評やエッセイも、「花と 風」「女文化の終焉」「趣向と自然」「谷崎潤一郎論」などと次々に本にしていった。
 これらの全ては、だが、勤め先のあった本郷の、昼休みなどの喫茶店で、昼飯屋で、よその人と相席も厭わず、喧噪のさな かで書かれたのである。家ではものを調べ、勤務中の寸暇を惜しんで、あらゆる場で、取材先の教授室や院長室のドアに持たれて立ったままのこともあり、バス の中のこともあり、四人席の三人は知らぬよその人と相席の喫茶店ででも、ラブシーンの演じられるラブ喫茶の位席でも、平気で書いた。それでも石川氏のいう 「極点の白熱」は暫くの集中でいつも得られたのである。「思考の流れを絶えず乱される」ことからのがれ得ていたのである。
 会社を辞めるまでの私の全著作は、斯くおおかたが喧噪のさなかで書かれていたが、多くの人が、私のそれら作品が微塵も そういう喧噪の混濁に毒されていないことを、「静かな」特色に数えてくれた。うそだと思うなら、そんな「中で、まっとうな詩や小説が書けるとは思えない」 と言い張りたいなら、どうぞ、上に挙げたどの作品でも、読んでみて下さればいい。

* わたしと同じような環境をものともせずに書かれた、作家や作品が、必ずしも少なくないことは、調べれば分かる かも知れない。それほど特別のことだとは思っていない。
 創作にはいろんな「手」があり、芥川のように考え抜いてから書く人もあれば、石川淳のように暗闇に飛び込んで行くよう に書く人もいる。尾崎紅葉のように徹底推敲で仕上げる人も在れば、初稿のままで人に渡す人もいる。そもそも「推敲」という手段そのものが示すように、文学 の場合、「作品をつくると言うことは、集中し、持続し、その極点で白熱することだ。この白熱を通して、過去を突き破る現在がほんの一瞬姿を現わす」などと いった過程ばかりでは、必ずしも、ないのである。「書」のことは言わないが、「文学」の場合は、「電話がひっきりなしにかかってきて、思考の流れを絶えず 乱される中で、まっとうな詩や小説が書けるとは思えない」などとは、必ずしも限らない幾種類もの「白熱」の仕方も可能なのであり、明らかに石川氏はよく知 らないことに関して、勝手なことを言い過ぎている。
 そして、その上に、まだ、こう付け加えているのだ、そんな「思考の流れを絶えず乱される中で、まっとうな詩や小説が書 けるとは思えない。文章作成機(ワープロ)を打つことは、これと同じことに帰す」と。
 ほんとうに創作に打ち込んでいるときには、たかが機器を使っているかいないかなどで本質的に拘束されるような隙間もな い。万年筆のペン先が割れて字がかすれたり、インクがもれたりする程度の迷惑も、ほとんど意識しないで済んでいる。なぜなら、所詮はペンにせよ機器にせ よ、書字の道具以上のものとは評価していないから、そういう手段として機器をこのわたしに付き合わせている、つまりわたしが「使用」しているから、であ る。

* 文学の創作には、「口述」という、筆記とはべつの方法も使われる。谷崎の「夢の浮橋」は口述作品であり、作者 自身の書字によっては書かれていないが、いい作品になっている。他にも例がある。公表前に親しい人に「読んで聴かせる」方法を、志賀直哉はじめ白樺の人た ちは、ことによく用いていた。これも書字とはひと味ちがう書き方である。わたしは、いきなり作品を録音機に吹き込んで、更に推敲して行く方法も、時々取っ たことがある。いろんな「手」がつかえるのである。
 だが、「手」をつかうのは、人たる作家であり詩人なのであって、そこに内奥のもし秘儀が在るとせよ、それは決してペン や筆や機器の左右できるところではないのである。是非に「墨を磨り、」「書字」して「文学」を、などということを決定論風に突き出して言い募るのは、書家 のとは言わない、石川九楊氏一人の、論理を欠いた好き勝手に過ぎない。どうぞご勝手に、但し好き勝手に押しつけないで貰いたい、ハタ迷惑になる。
 石川氏の願いどおりすれば、作家が「手書きした原稿の文字」のまま読者も読めなければ、意味が無くなるのではないか。 それを「活字」に置き換えたものを読むのでは筋道が逸れているのではないか。
 だが、文学は、「書く」だけで完結するのではなく、「読む」という行為も創造的に加わっている。「書くのは書字」だが 「読むのは活字」でもいいのか。
「書字」という書く行為ににこだわるなら、読む行為も「書字」でとならねば一貫しない。書字と活字では、字の素質が随分 異なる。だいいち、そんなことは不可能であり、ま、無意味な話になろう。

* 以上は、三ページだけのおつき合いでウンザリしてしまった弁である。それだけのものだと、お断りしておく。

           ーー ホームページ「闇に言い置く・私語の刻」 二千年二月八日より ーー


 
   

    わたしのインターネット

          

 東工大の院に進学直前だった田中孝介君が、保谷の私宅に来て、わたしのために最初のホームページを設置してくれたの は、一昨年、一九九八年の三月十一日であった。「秦恒平・湖(うみ)の本」の二種類の表紙繪で「ページの表紙」を飾り、デザインも文字も目次もその場でわ たしが希望し、田中君はてきぱきと希望通りに立ち上げてくれた。帰宅してから、彼はさらに細部を調えたINDEXを電送してくれ、右も左も分からないわた しは連日連夜メールで質問し、煩をいとわず田中君はどんな初歩の問いにも手を取って導くように励ましてくれた。最近には、院を卒業し富士通に勤務の林丈雄 君が、いっそう便利に豊富に目次を大改造してくれた。わたしにとってインターネットとは、目下は、このホームページ http://www2s.biglobe.ne.jp/?hatak 運営以外のなにものでもないのである。
  ホームページの主旨は宣伝活動ではない。長短の小説、エッセイ、批評、講演録等を初稿段階から文字通り「公開」しながら、徐々に作家秦恒平の文業のあたか も所蔵館のように充実させて行こうという、いわばわたしの原稿用紙であり、発表の場であり、全く場所をとらない作品保存室なのである。無用な写真や絵画や 音楽の類はむしろ厳格に排除し、すでに四千枚、来訪者が思わず音を上げるほど「作品・文章」のみを満載している。いつでも、世界中のだれにでも、インター ネットで自由に読んでもらえる。一日三十平均のアクセスがあり、一日一日、水かさを増すようにビジターは増え続けている。
 わたしのホームページは何度も云うが「倉庫」のようなもので、簡単に「読める」分量ではない。ビジターは関心に応じて 好みのページを覗いたり、自分の器械にダウンロードしたりプリントしたりされているようだが、耳にする限り、最も関心をあつめて、毎日欠かさず読んで下さ る人もあるのが、「私語の刻・闇に言い置く」ページ、わたしの「生活と意見」を忌憚なく日々にただ率直に、筆を枉げず書き継いでいるページ、らしい。
 器械に向かう習慣は、ワープロから数えれば二十年近くになる。しかしワープロは只の文房具であった。だがパソコンでの ホームページは、原稿用紙に字を書く感覚であっても、インターネットに転送の瞬間から、世界中で同じ条件で読まれ得る可能性を帯びている。そうはいうもの の、その「世界」は,あまりに濛々と,捉えようのない濃い深い「闇」に等しい。「闇に言い置く」のとすこしも変わりないほど、目の前には、只の液晶のスク リーンしか見えていない。「他者」は遙かに遙かに彼方の闇の奧に隠されてある。
 公開される「日記」というものを、かつては日記として不純なのではないかと疑っていた。だが、公開を意識しないで書い た昔の日誌などを読み直してみると、人に読まれないと思うぶん、かえって浅く薄く自分自身を甘やかした・偽った記述が無いでもない。「闇に言い置く」とは いえ、インターネットに書き込む行為は、書いたままが即座に他者に読まれる「覚悟」なしに出来ない。その重みに堪えてなお率直に忌憚なく「書き置く」のな ら、それは容易ならぬ、己が誠意と自覚とを自身で鞭撻しなければ書き継げる「場」ではなかった。そして、いつしかにこの「私語の刻」が、大勢の人との親し い「対話の時」とも成ってきたように思われるのである。こう「生きています」と胸を張るには貧しく、緩く、狭苦しい日々に過ぎないが、自分が、何に、どの ように反応し感応して心象風景を成しているかは、いやおうなく此処に、全てではないが、多くを露出してしまっている。
 その中から、江藤淳の処決以降、兄北澤恒彦の死までの四ヶ月を、『死から死へ』と題して切り出し、哀悼の意とともに、 何とか自身の生きの命に意欲あらしめたいと願って、やがて湖の本エッセイ第二十巻を読者に送り出すつもりでいる。

              ーー 「しんぶん赤旗」 平成十二年二月 掲載 ーー
    


 
 

   京のちえ  ー京都新聞特集の巻頭言ー

                               
          
 子どもの頃、「あんたに褒めてもろても嬉しゅうはございまへん」と、腹立たしげに憮然としている大人を初めて見て、人 を褒めるのにも、相手により事柄により「斟酌」が必要らしいと、深く愕いた覚えがある。「人の善をも(ウカとは)いふべからず。いはむや、その悪をや。こ のこころ、もつとも神妙」と昔の本に書かれている。智慧である。
 「口の利きよも知らんやっちゃ」とやられるようなことこそ、京都で穏便に暮らすには、最も危険な、言われてはならな い、常平生の心がけであった。京の智慧は、王朝の昔から今日もなお、慎重な、慎重すぎるほどの「口の利きよ」を以て、「よう出来たお人」の美徳の方に数え ている。
「ほんまのことは言わんでもええの。言わんでも、分かる人には分かるのん。分からん人には、なんぼ言うても分からへんの え」と、新制中学の頃、一年上の人から諄々と叱られた。十五になるならずの、この女子生徒の言葉を「是」と分かる人でないと、なかなか京都では暮らして行 けない。いちはなだって、声高に「正論」を吐きたがる「斟酌」に欠けた人間は、京都のものでも京都から出て行かねばならない、例えば私のように。
 京都の人は「ちがう」と言わない。智慧のある人ほど「ちがうのと、ちがうやろか」と、それさえ言葉よりも、かすかな顔 色や態度で見せる。「おうち、どう思わはる」と、先に先に向こうサンの考えや思いを誘い出して、それでも「そやなあ」「そやろか」と自分の言葉はせいぜい 呑み込んでしまう。危うくなると「ほな、また」とか「よろしゅうに」と帰って行く。じつは意見もあり考えも決まっていて、外へは極力出さずじまいにしたい のだ、深い智慧だ。 
  この「口の利きよ」の基本の智慧は、いわゆる永田町の論理に濃厚に引き継がれている。裏返せば、京都とは、好むと好まざるに関わらず久しく久しい「政治的 な」都市であった。うかと口を利いてはならず、優れて役立つアイマイ語を磨きに磨き上げ、日本を引っ張ってきた。京都は、衣食住その他、歴史的には原料原 産の都市ではない。優れて加工と洗練の都市として、内外文化の中継点であり、「京風」という高度の趣味趣向の発信地だった。オリジナルの智慧はいつの時代 にも「京ことば」だったし、正しくは「口の利きよ」「ものは言いよう」であった。この基本の智慧を、卑下するどころか、もっともっと新世紀の利器として磨 いた方がいい。

                    「京都新聞特集版」平成十一年十一月五日



 
 

    京で、五六日  ―京都案内― 
 
 

留学生の希望で一緒に京都へ行きたいのだが、どう歩いたものかという東工大生の
希望にこたえ、大急ぎで書いた、ごく半端な「京で、五、六日」の案内である。
配布の希望が多かった。読者からも。お笑いぐさであるが、少し書き加えたりして

 

* 京都市内に宿泊するものと考える。
* この通りこの順番ですべて訪ね歩く必要はない。おおよその目途をつけておくだけ。* 京都はおおむね四角い街で、 「市内」から「東」「西」「北」に山が見え、南はひらけ、東山のなお東側に、北から南へ細長い「郊外」がある。無駄足をなるべく避けるために、この(括弧 でくくった)五つの方面別に、案内する。たくさん見るより、ゆっくり見て楽しく歩くことを考えたほうが、京都にはふさわしい。
* およそ市内のどこからでも、東北西の三方に、低い壁のように山が見える。山の感じを先ず見覚えてしまうと、方角をあ やまることが少ない。東北の角のところに、ひときわ高い山がある(比叡山。ひえいざん)のを眼に入れておくと、90度に折れて向かって右側が東山、左側は 北山と記憶すればいい。
* 京都人は、外国(他府県)人には一般に親切。中年以上の女性に遠慮せず質問して、無駄を省く。*「東山ぞい」は最も 見どころ多く、ここだけで、二日三日かけてもいいほど。

* 先ず「郊外」の、「滋賀」「宇治」「山科」「醍醐」方面を案内する。

 1 天気がよければ、思いきって先ず「出町柳・でまちやなぎ」(市内、やや北寄り)へ向かう。東西に通った今出 川(いまでがわ)通りがある。その通りの、鴨川を東へ越えた加茂大橋詰めから、百メートルも無いすぐ北に、叡山電鉄の始発駅がある。この郊外電車で「八 瀬・やせ」へ行き、ケーブル・カーでいきなり比叡山へ登ってみるのも良い。終点からは山上を歩くが、京都市内や琵琶湖が一望できる。また日本史にもっとも 重要な古代寺院である「延暦寺・えんりゃくじ」があり、茶店などで案内の略地図を手に入れて、「根本中堂・こんぽんちゅうどう」など見歩いてから、滋賀県 の「坂本・さかもと」へ降りると、そちらには「琵琶湖・びわこ」や「三井寺・みいでら」「近江神宮・おうみじんぐう」など湖西の名所多く、「浜大津駅・は まおおつえき」まで気の向くままに途中下車しながら戻る。そこで京都三条行きの電車で「三条・さんじょう」駅まで帰ってもいい。
 時間があれば、浜大津からさらに南へ「石山寺・いしやまでら」まで行って来てもよい。紫式部が源氏物語を書いたともい われる古代寺院で、途中の「粟津・あわづ」には、芭蕉の墓と木曽義仲の墓とが背中合わせの「義仲寺・ぎちゅうじ」もある。浜大津経由で、簡単に京都へは戻 れる。
 このコースは、いちばんの大遠足。比較的、景色が大きくて気が開ける。あまり目的意識を持ち過ぎず、おおまかに「遠 足」だと思って行けば、景色の変化がよく楽しめる。

 2 宇治の「平等院・びょうどういん」へは、行き方が二つある。
  1で挙げた「浜大津」または「石山」から、「宇治川ライン」を船で「宇治」まで行くのが楽しい。宇治川は、かつて 「川」コンクールで日本一の人気投票を得たこともある。ただ、季節により船の休むこともあり、宿で確かめてもらうか、「京阪電車・けいはんでんしゃ」の駅 で聞くといい。運行しているならこのコースは、最高。川の上は季節により冷えることもあるので注意。下船してからは、川下へ川ぞいに、てくてく歩く。遠足 気分でのんびり歩くのがいい。概して降り道、らくなもの。
 宇治へつけば「平等院・びょうどういん」「鳳凰堂・ほうおうどう」「中の島」「宇治橋」川向うの「興聖寺・こうしょう じ」「宇治上神社・うじかみじんじゃ」などを、地図をみて歩く。平家物語の頼政戦死や名馬先駆けの古跡。鳳凰堂では、静かに、ゆっくりする。中尊の阿弥陀 像は「定朝・じょうちょう)による平安時代、いや日本史上屈指の佳い仏像。建築も見映えがする。興聖寺参道や境内も清々しい。源氏物語の美女浮舟の往来し た辺りとも言われる。
 宇治は最もうまい日本茶の名産地。パックの宇治茶なら宿ででも家ででも熱湯でかんたんに味わえる。
 京阪宇治駅からすぐ「黄檗・おうばく」まで乗り、そこで「万福寺・まんぷくじ」へは是非立ち寄りたい。中国風の禅寺 で、佳い趣がある。門前「白雲庵・はくうんあん」の精進料理も余裕があれば楽しみたい。簡素で旨く、庭も、風情あふれている。
 黄檗駅から京阪電車で市内の七条なり四条・三条なりへ簡単に戻れる。JRを利用して京都駅へも戻れる。道順などは土地 の人に聞くのが早い。いずれも距離はたいしたものでは、ない。
 これも、一日行程として、十分。もしまだ時間があるなら、黄檗からの帰りに、京阪電車を「伏見稲荷大社・ふしみいなり たいしゃ」で下車、日本最高の数を誇るお稲荷神社の総本山に参ってくると良い。とくに本殿裏から山上へえんえんと延びてつづく赤い鳥居の大トンネルを、す こしの間でも潜ってくる体験は、忘れがたいものになるだろう。ここは「必見の京都」の一つでもある。参道の風情もひなびて面白い。
 宇治へ行き方が二つと言った、もう一つは、つまり右の逆コースの意味。しかし船さえあれば先のコースの方が断然気分が 良い。宇治川を流れに沿うてくだった方が気が晴れる。

 3「山科・やましな」へは「三条京阪前・さんじょうけいはんまえ」のバス・ターミナルからのバスと、徒歩とを、 うまく組み合わせるのがいい。(最近、JR二条駅と醍醐間を地下鉄が走るようになり、今はなにかにつけ、この利用が便利。)
 山科では「小野随心院・おののずいしんいん」が佳い。さらに醍醐では、「醍醐寺・だいごじ」の、なかでも特に門を入っ てすぐ左の「三宝院・さんぼういん」庭園は日本一の名庭といえる豪奢なもの。ゆっくり楽しみたい。少し奥の五重塔も必見、京都には五重塔がいまも五つ遺っ ている、その一つ。随心院は小野小町ゆかり。建物の奥の、静かに清い庭先で放心してみるのもいい。べつに「勧修寺・かじゅうじ」という古代寺院もあるがハ イウェイのそばで騒がしく、今は特別勧めたい場所ではない。
 醍醐寺への移動は、京都三條からのバスが楽しい。歩きたくなれば、すぐ下りて歩ける。道は地元の人に尋ねるのが一番。 どこを歩いても疲れるほどの距離ではない。大石内藏助や志賀直哉の愛した山科盆地は、なかなかに味な場所で、上古・古代の匂いがする。
 繰り返すが、醍醐寺三宝院の庭は、おそらく日本一巧緻に美しいもので、豊臣秀吉の名とともに桃山時代の豪華さを、加え て静寂と、趣向の極致とを、堪能させてくれる。絵画も茶室も自然もみごとに織り成されている。洛西嵯峨の天龍寺の庭とならんで、さらに絢爛と大きく豊かに 美しい。
 醍醐から「日野・ひの」へ移動する。バスがいいが、タクシーを拾っても。「法界寺・ほうかいじ」「一言寺・いちごん じ」がいい。『方丈記』の世界。ことに法界寺の仏像は宇治鳳凰堂の時代のもので、すばらしい。京阪電車の最寄り駅から(宇治からの帰途と同じに)京都へ戻 れる。時間次第で、この時に「稲荷大社」に立ち寄ってもいい。
 また「東福寺・とうふくじ」駅で下車して、現存最古の大きな三門を擁した、有名なこの禅寺の鳴り響くシンフォニーのよ うな伽藍を、夕まぐれに、しみじみ歩いてから帰るのもすばらしい。一度寄っておき、日を改め、泉涌寺・東福寺を起点に東山ぞいを、ゆっくり楽しみ直すこと を、ぜひ勧めるが。

* 「東山ぞい」は、南から北むきに進む「南コース」と、北から南むきに歩く「北コース」と、その接点部を、町歩 きもふくめて楽しむ「中央コース」がある。そう思う。「中央」は、時間と体力しだいで、「南」「北」のどっちかへ巧く組み入れることが可能。
 なににしても、京都は、そう広い広い街ではない。その気なら、端から端まで徒歩でも押し渡れる程度だから、東京都とは ちがい、乗り物にあまり頼らずに済む。もっとも、時は金なり、時間の経済を考えれば適度にタクシーを利用しても、これまた東京のように費用はかからない。 タクシー使用の有効度はなかなか高い。
 基本的には、しかし、歩くことの楽しめる・楽しんだ方がよい街である、京都は。

 1 「南コース」  いきなり「伏見稲荷大社」へ京阪電車で直行してもいい。何万と続く朱の鳥居の胎内を、気力 の許す範囲で山高く遠くまで潜ってくるのは凄い体験である。眺望もよく、太古の遺跡にも雰囲気と凄味がある。伏見街道を北へ、人にも尋ねながら暫く歩くと 「東福寺」へ南から入れる。
 いきなり東福寺から、この日程に入っても良い。その際は京阪電車の「東福寺」駅まで行く。
 道順は駅員なり、土地の人にすぐ尋ねたほうが早い。距離はほとんど無い。東福寺という寺は、大建築の配置(伽藍)が自 慢。「通天橋・つうてんきょう」を渡ってぜひ奥の「常楽庵・じょうらくあん」「普門院・ふもんいん」の庭園まで入ってほしい。稀有の明浄処。また「本堂」 も見学したほうがいい。裏の「龍吟庵(りゅうぎんあん)へ入れれば最高。数多く末寺(塔頭・たっちゅう)が周囲にならんでいる。ひとつひとつ、覗きこむ程 度でいい遠慮なく門内に入ってみると、思わぬ風情の清い小庭が隠れている。優しい花も咲いている。
 東福寺境内を北から東寄りへ抜けて行くと、「泉涌寺・せんにゅうじ」参道へ出る。徒歩で数分。土地の人に道筋を聞くと いい。
 泉涌寺は日本で唯一「御寺・みてら」と尊称される皇室の位牌寺で、背後に御陵山を抱きこみ、これまた清寂の明浄処。御 所と寺院との不思議に習合した感じに気品がある。
 町家のなかの参道をのぼって、小さな門前へ来たら、すぐ左の「即成院・そくじょういん」の中に入る。境内右の小道を奥 へ奥へ進むと、平家物語に名高い那須与一の塚が隠れている。さらに東へ突き当たる「戒光寺・かいこうじ」本堂に上がってみるとよい。すばらしい釈迦如来の 立像がある。深く覗きこんで礼拝を。たいした大仏様で、京都の人も知らない、とって置きの秘仏「丈六釈迦像・じょうろくしゃかぞう」。堂に上がりこんでも 拝礼の客は咎められない。
 参道へ出て東へ進めば、泉涌寺や「拝跪聖陵・はいきせいりょう」の碑に、自然にすぐ辿りつく。右へ折れていった御門か ら東の山向き真正面に境内へ入ったほうがよく、庫裏(本堂)へ入れれば、中は、信じられないほど静かに奥深く心地がいい。金堂や楊貴妃観音もいいが、金堂 より左の御陵道へのぼって、途中、山腹の「後堀河天皇陵・ごほりかわてんのうりょう」に参ってくるのもいい。
 金堂のわき、御陵道へさしかかるすぐ左へ、ふっと小道坂を降りると、右手に「来迎院・らいごういん」の在るのを、此処 は、ぜひ覗いてほしい。「含翠庭・がんすいてい」には池も茶室も書院もあり、忠臣蔵の家老大石内藏助が一時身をひそめていた所。秦サンの大切なヒロイン 『慈子(あつこ)』の住んでいたお寺でもある。恰好の案内書にもなっている。
 この来迎院門前を、渓ぞいに細い道を下って右へ行くと、すぐ奥に「観音寺・かんのんじ」があり、愛すべき日だまりを 作っている。赤い鳥居橋を渡って元の参道へもどったら、むしろ躊躇なくタクシーを拾うなりして、東山七条の「パークホテル」または「三十三間堂・さんじゅ うさんげんどう」を指示する。乗れば数分の距離。バスでも、東山通りを北へ歩いても、いいが。
 パークホテルの北側、通りの向うが「国立京都博物館・はくぶつかん」西側向うが「三十三間堂」、南隣が「後白河天皇御 陵・ごしらかわてんのうごりょう」「養源院・ようげんいん」「法住寺・ほうじゅうじ」で、中でも、特に三十三間堂は、必見。建築も仏像もじつにすばらし い。平清盛の建てたもの。中尊は堂々と大きく鎌倉初期の最高傑作の一つ。千体像のある本堂の、裏の廊下にも、見過ごせないみごとな彫刻群がたくさん居並ん でいる。
 養源院には優れた画家俵屋宗達の、すばらしい「松」襖絵や「象」などの板扉絵が見もの。後白河御陵も清寂で感慨深い。 養源院と三十三間堂の向き合っている道路の、南奥の豪宕な「門」構えにまで眼が届くと、すばらしいのだが。隣接パークホテルは静かで、一階や地下などで、 昼食が気軽にとれる。
 京都博物館は最高水準の藝術品や参考品を莫大に備えていて、東京・奈良の博物館に劣らない。疲れてしまう程は広くもな い。
 博物館の南隣に、秀吉を祭った「豊国神社・ほうこくじんじゃ」や国家安康の釣り鐘で歴史的に知られた「方広寺・ほうこ うじ」がある。
 見過ごせないのは、パークホテルの東側、大通りの東向うにある「智積院・ちしゃくいん」で、ここの殊に山水庭園や堂も みごとだが、宝物館に保存した長谷川等伯らの『楓・桜図』の大襖絵は日本美術の最高峰の一つ、桃山時代の豪華な作品。
 また智積院北側の広坂道を少し上ると「新日吉神社・いまひえじんじゃ」が、往時の日吉信仰の華やぎを今に伝えている。 高い高い石段山の上に「豊国廟・ほうこくびょう」がある。
 博物館の東側、東大路に面して「妙法院・みょうほういん」があり、北の並びに病院がある。この市立病院の庭園「渉成 園・しょうせいえん」が、平安時代以来の面影をやや伝えた、池の広いなかなかの好環境で、史跡に指定されている。無料で気軽に入れる。
 東山通り(東大路)の西側に立ち、北向きにタクシーを拾って、思い切って「清閑寺・せいかんじ」まで走らせるのも良 い。高倉天皇らの鬱蒼と奥深い御陵があり、紅葉の季節は眩いほどの景勝地になる。御陵前の山上に「清閑寺」の境内がひっそりと向かいの「花山・はなやま」 や京都の町を見下ろしている。この界隈一帯は秦サンの長編『冬祭り』の幻想的な舞台になっている。
「清閑寺」「高倉陵」の前から右へ右へ山の根を巻くように寂しい山道を進むと、「清水寺・きよみづでら」の奥へ通じてい る。清水に至る山の中一帯は、いわゆる「鳥部山・とりべやま」「鳥部野・とりべの」の墓原と想っていてよい。あまりに寂しければ、このコースは割愛しても いい。
 その際は博物館の東、東山通り(東大路)の西側に立ち、北向きのタクシーを拾って、「清水寺・きよみずでら」のなるべ く近くまで一気に登らせると良い。
 ここでは「舞台・ぶたい」と、奥の「子安塔・こやすのとう」を拠点に、音羽山などの眺望を楽しむ。「音羽瀧・おとわの たき」で手と口とを清め、本堂裏のちょっと高みの「地主神社・じしゅじんじゃ」へも寄るといい。縁結びを願う人で雑踏し、夥しい参拝客の小絵馬のバラエ ティが面白い。
 清水寺本堂には、美術的にも史料的にも古い貴重な「絵馬・えま」が数多く掲げられてある。清水寺内には、「成就院・ じょうじゅいん」もあり、この庭園がすばらしく、拝観させている時は、ぜひ寄って見るといい。
 参道を人の流れにまかせて坂を降りてゆくと、やがて右へ石段を人は流れて行く。「三年坂・さんねんざか」または「産寧 坂」で、それを、降り道なりに、くつろいで進むといい。
 もし雑踏が嫌いなら、清水寺を出て、すぐ右へ山ぞいの小道を、北むきにどんどん行くと、民家の並びに「正法寺・しょう ほうじ」前へ出る。小さい古寺だが、釣鐘堂からみる町も西山も、眼下の「八坂五重塔・やさかのごじゅうのとう」も、それは結構な眺め。めったに人の行く寺 ではないが、境内に清水涌く清い古井もある。『冬祭り』のヒロインたちの小さなお墓が、ひそりと静まっている。
 正法寺から下りて行った先の、「京都(護国)神社・きょうと(ごこく)じんじゃ」も閑静に清潔な、いいお宮。境内から 間近に、平安時代の「雲居寺大仏・うんごじだいぶつ」を偲ばせる、大きな石造観音菩薩座像が、青空の真下に見下ろせる。この一帯は「鷲峯山・じゅぶせ ん」」「鷲尾・わしのお」といわれた古代以来の遊楽の名所。雲居寺跡地に建った「高台寺・こうだいじ」は秀吉夫人の寺。めったに開放していないから、開い ていたら必見。庭もいいが、「御霊屋・おたまや」「時雨亭・しぐれてい」「傘亭・からかさてい」などの、蒔絵や茶室、また本堂の軒にかかげた「方丈」の二 字額など、見もの多い。ここも、秦サンの問題作『初恋』の生まれた舞台であり、また建礼門院の昔と現代を大きくはらんだ長編『風の奏で』の大事な舞台の一 つにもなっている。
 高台寺のすぐ下に、等伯襖絵のみごとな「円徳院・えんとくいん」の枯山水の庭がよろしく、前庭では有名な甘酒を売って いたが、その「文之助茶屋」は引っ越したとか。
 門前をさらに北へ東寄りに進むと、「西行庵・さいぎょうあん」「長楽寺・ちょうらくじ」「圓山公園・まるやまこうえ ん」「双林寺・そうりんじ」など見どころがひしめくが、もうこの辺で西向きに、公園から「八坂神社・やさかじんじゃ」へ入って行ってもよい。
 この、日本三大祭筆頭「祇園祭・祇園会・ぎおんまつり・ぎおんえ」の総本宮をそぞろ歩きに、西の総門から、四条通りの 繁華へ降りて行く感じは、はんなりとして、なかなかの気分。ちなみに「はんなり」は、秦サンの説では「花あり」だと考えている。最近では、この私説がだい ぶ定着している。『京と、はんなり』という著書もある。
 門の向って左手前方、「弥栄中学・やさか中学」の背後一帯がいわゆる「祇園町・ぎおんまち」つまり京都で名高い遊郭・ 花街である。中を散歩してもすこしも剣呑ではない。風情はあり舞子にも出会うだろう。食べものの佳い店もある。
 祇園のすぐ南隣に「建仁寺・けんにんじ」も大きいが、ここは塔頭が殆ど開かれていない。建仁寺から遠くない南手には、 「六波羅密寺・ろくはらみつじ」があり「平清盛像」「空也像」「鬘観音像」などすばらしい遺産が在る。界隈は平家一門にゆかりのまさに六波羅の地である。
 以上、莫大なプランのようだが、体力と地の利を心得た者には、優に回れる範囲内にある。適度に省いてよし、加えて寄り 道してもいい。二日に分けてもまた構わない。
 
 2 「北コース」  事情が許して「修学院離宮・しゅがくいんりきゅう」にもし入れる場合は、なにより行きたい場所だ が、普通は無理。したがって「三条京阪・さんじょうけいはん」駅からバスで、または「出町柳・でまちやなぎ」駅から電車で、「一乗寺・いちじょうじ」辺ま で行き、尋ねて歩いて、東の山辺の、「曼殊院・まんしゅいん」へ先ず直行を勧める。格式高い中世寺院で、庭園と建築との調和は、じつに優美そのもの。縁側 に座りこんで、夢のように時のたつのを忘れる。半日ほど何も考えずに坐っていたくなる。
 そこから、坂を歩いて降り、左・南へ田中道をしばらく行くと「詩仙堂・しせんどう」がある。近世の文人趣味の邸宅で、 建物も庭も鑑賞に耐え、みごとである。「曼殊院」と「詩仙堂」だけでも、京の半日は、疲れずに堪能できる。
 標識にしたがい、「詩仙堂」から暫く南の山寄りに回って行くと、「金福寺・こんぷくじ」がある。与謝蕪村ゆかりの古い 小さなお寺だが、「芭蕉庵・ばしょうあん」わきの木深い山腹には、蕪村の墓をはじめ近代に至る文人俳人の墓碑が、大小夥しくかつ和やかに静まっている。季 節はつつじ・新緑の頃がいい。ほととぎすが鳴き渡る。秦サンの『あやつり春風馬堤曲』の大事な舞台である。
 そのまま山沿いに北へ歩いても、タクシーでも、西の白川大通りからバスでもいいが、「銀閣寺・ぎんかくじ」へ。言うま でもない足利義政将軍の遺跡、東山文化の拠点であり、「東求堂・とうぐどう」は書院の美しい典型。銀閣寺のすぐ西に画家橋本関雪のアトリエ跡「白沙村荘・ はくさそんそう」が、一見の価値ある、庭園住宅。銀閣寺へ入るより前に寄っておくといい。
 銀閣寺を出れば、そのまますぐ山ぞいの小道を南へ行き、「法然院・ほうねんいん」にぜひ立ち寄って欲しい。許可さえあ ればぜひ仏殿に参り、また庭や茶室や襖絵(狩野光信の槙図)も観たほうがいい。この寺の墓地に文豪谷崎潤一郎の墓がある。隣にすぐれた画家福田平八郎の墓 も並んでいる。場所は人に聞いたほうがいいが、一番山ぞいの高みにある。秦サンの短編『蝶の皿』がここで生まれている。
 法然院からはいろいろ道があるが、西の方角近くに低い山なみが見えている。吉田山であり、ここに「真如堂・しんにょど う」「黒谷金戒光明寺・くろだにこんかいこうみょうじ」がある。広大な黒谷墓地もある。佳い散歩道で、わざわざ山を降りまた山へ登って探し尋ねても、それ だけの価値は十分ある。山といっても丘程度のもので、たいした時間も体力も要しない。「大文字山・だいもんじやま」の「大」字がよく見える。秦サンの代表 作といわれる長編『みごもりの湖』のヒロイン姉妹が学生時代をここで暮らしている。
 黒谷を南へ降りると、近くに「平安神宮・へいあんじんぐう」がある。人に尋ね尋ね行き、平安時代の「応天門・おうてん もん」「大極殿・だいごくでん」を模した壮大な輪奐を見ておいて、白砂の前庭の左奥入り口から、ぜひ奥の大庭園に入ってみるように。谷崎作『細雪』の花見 で知られた枝垂れ桜の庭を経て、奥へ奥へまことに優雅に美しく変化に富んだ天下の名園がひろがっている。職人芸を尽くした全国屈指の名庭で、心豊かに堪能 できる。神宮の外、大鳥居の両側に市立美術館・近代美術館がある。
  ここから「疏水・そすい」に沿って、歩いてでも車ででも、ちょっと真東へ山裾まで戻るが、ぜひにも「永観堂・えいか んどう」を訪れて、寺内を拝観してくると良い。奥の奥に「見返り阿弥陀」像が安置されているが、これは、忘れがたい感動の出会いとなろう。この寺の建物は まこと平安時代の貴族の山荘を思わせ、京都でも、もっとも華奢に感銘深い美しい寺院の一つである。すばらしい国宝の山越阿弥陀「来迎図・らいごうず」も蔵 している。
 ここからは南へ「南禅寺・なんぜんじ」にもう程ない。近い。そのまま北側から南禅寺境内に入ると、すぐ「奥丹・おくた ん」の湯豆腐が名物。味わってみるといい。庭も座敷も面白い。「南禅寺」は歴史に名高い「京都五山・きょうとごさん」に、なお別格で超越した位高い禅寺 で、境内をそぞろ歩くだけでも楽しめる景勝の地。石川五右衛門の「絶景哉」で知られる三門の眺望はまことに美しい。上れる機会には、ぜひ上ってみたい。
 三門の脇に「天授庵・てんじゅあん」また「金地院・こんちいん」などの飛びきりの塔頭が軒並みに犇めき、分けてもこの 二つは庭園抜群、観るに値する。特に「金地院」には秦サンの長編『糸瓜と木魚』のその「木魚」先生洋画家浅井忠の墓がある。
 それだけではない、見落としてはならないのが、三門より向かって右斜めに奥に隠れた「疏水の水道」建造物。不思議に美 しい近代科学の所産が、いまはしっくりと環境に馴染んでいる。
 この一帯は、大昔から景勝の地として皇族・貴族の別荘が殊に多かった。いまも細川家の別邸はじめ、大別邸が数多くあ る。多くは開放していない。中で、京料理の極めつけ、日本一といわれる料亭「瓢亭」にまぢかい「無鄰庵・むりんあん」は、旧山県公爵の別邸であったが、庭 園とともに一部開放されている。尋ねればすぐ分かる。「瓢亭・ひょうてい」の小座敷は市中の山居を堪能できる、今では類のない寂境である。お金が出来た ら、いつか、一度でも食べに行けるといいね。
 南禅寺を出て、「蹴上・けあげ」の都ホテルで休息してはどうか。眺望のいいレストランや割烹の店を選んでもいい。超級 のリゾート・ホテル。
 三条通りを避け、一筋南、民家の奥の山近い細い道へ入る。昔の三条通りというより旧東海道。今はごく狭いが古いお寺も あり風情はいい。西へゆるやかに坂をおりて行き、途中「粟田神社・あわたじんじゃ」に寄ってもいい。一帯が昔の「粟田口・あわたぐち」で、やがて粟田小学 校が道の角にある。そこで右をむけば平安神宮の朱の大鳥居が見え、左の急な坂へ上って行くと、すぐ左に「青蓮院・しょうれんいん」がある。これまた鳴り響 く格式を誇る古代寺院で、ここの庭園や茶室が佳い。建物も古式を帯びている。高僧慈円がいて親鸞聖人を得度させた寺でもある。この辺にも、御陵がある。皇 室の墓だが、御陵はどこにあっても清らかに日本の美意識に結びついている。青蓮院のすぐ南隣の「十楽寺陵・じゅうらくじりょう」も覗いてみるといい。
 南へ、やがて広い坂道とのT字路へ出る。「瓜生石・うりゅういし」が据えてある。すぐ左手・東の石段をあがって門の中 へ入るのが便利。ずうっと大石垣の道なりにまるで城郭の中を進むと、浄土宗総本山「知恩院・ちおいん」の本堂(御影堂・みえいどう)前へ入って行く。この 道筋も捨てがたく、しかし、また先の広道T字路をそのまま南に進むと、やがて日本一大きな「知恩院三門・ちおいんさんもん」前へ出る。この門をくぐり、さ らに急な石段・男段を上っても、結局同じ、知恩院本堂まえの広場に出る。本堂へはぜひ上がってみる。世界でも最大級の木造建築である。また徳川幕府が事あ らば京の城として構えた、城郭寺でもある。
 本堂の東、北寄りの山の上へ石段をのぼって行くと「開山堂・かいさんどう」や墓地に通じ、かなり高い。また本堂の東 側、やや南・右手の山へ石段をのぼると、日本一の「大釣鐘堂・おおつりがねどう」がある。この釣鐘、一見の価値は十分ある。
 釣鐘から右・南へ抜けて行くと、山手に「安養寺・あんようじ」があり、すこし先に蝋燭など立てた小さな祠堂がある。こ の堂の真裏に、じつに立派な古い「五輪塔・ごりんのとう」が隠れていて、重要美術品になっているのが珍しい。この辺が、「圓山公園・まるやまこうえん」の 一番の奥に当たっている。すぐ南の山腹には、平家物語ゆかりの「長楽寺・ちょうらくじ」がひっそりと隠れている。また目の前に高級料亭の「左阿弥・さあ み」がある。
「左阿弥」前の舗装路からちょっと降り、そしていきなり公園奥の心地よい落ち水まで木立の隠れ道を降りると、公園をほぼ 全部見ながら、噴水の池へ、有名な枝垂れ桜へ、また八坂神社境内へとやすやすと降りて行ける。「南コース」と「北コース」の、いわば合流点に、この圓山公 園や八坂神社は在る。
 圓山公園の噴水や枝垂れ櫻から南を向くと往年の「たばこ王」といわれた富豪ゆかりの洋館「長楽館・ちょうらくかん」が 見え、その先は「真葛ヶ原・まくずがはら」から「祇園女御塚・ぎおんにょうごづか」「祇園閣・ぎおんかく」「菊渓・きくだに」「高台寺・こうだいじ」「石 塀小路・いしべこうじ」或いは「八坂五重塔・やさかのごじゅうのとう」などが、また東を向くと、「大谷廟・おおたにびょう」「双林寺・そうりんじ」「西行 庵・さいぎょうあん」などが在る。

* むろん見残している場所は無数にあるが、これでも、十二分に盛り沢山である。
「比叡山コース」「宇治川ラインコース」「山科醍醐日野コース」「東山南コース」「東山北コース」と、五日六日間はらく に楽しめる。「西山」と「北山」とは後日に温存しよう。

* ご希望の「大徳寺・だいとくじ」を中心にした「市内コース」を考えてみよう。

「大徳寺」へは、いっそタクシーで、いきなり門前へ行ったほうが経済な気がする。いろんな末寺(塔頭・たっちゅ う)はあるが、どこも皆見せてくれるとは限らない。境内自体はそう風情のある寺でなく、末寺の一つ一つを尋ね歩き見て歩く寺である。
 山門の「金毛閣・きんもうかく」は、二階に「千利休・せんのりきゅう」が自分の木像をあげたのを咎められ切腹に及んだ 門。中を見せている時期もある。
「大仙院・だいせんいん」の小さな庭が、途方もなく有名。見せているところはすぐ分かるので、興味しだいで、どんどん 入ってみるといい。鉄鉢の精進料理の寺もある。入れば、さすがにどこも内部は禅境らしい深みがあるが、あまり過大に多くを大徳寺に望み過ぎないほうがい い。
 この北方やや西よりに、「今宮神社・いまみやじんじゃ」という古代からのひなびた祭で知られた、いいお宮がある。この 辺からは、北東の「上賀茂神社・かみがもじんじゃ」へタクシーを拾って走るのもいいし、北西の山寄りへバスで「鷹峰・たかがみね」の「光悦寺・こうえつ じ」に行くのもいい。甲も乙もない。すてきな神社だし、すてきな自然である。気の動いた方へ。
 上賀茂神社からは、いっそ加茂川ぞいに河原を歩いて下って、「下鴨神社・しもがもじんじゃ」まで散歩してみては。両神 社とも、平安京以前からの山城国の一の宮である。環境は、それぞれに趣を変え、それぞれに素晴らしく清浄な、奥深い歴史的・神秘的な時空である。
 そして下鴨神社からは、町なかをすこし西へ歩き、「京都御所・きょうとごしょ」つまりかつての皇居や、そばの「相国 寺・そうこくじ」「同志社大学・どうししゃだいがく」など覗いてから宿に帰るのも一興か。
 また光悦寺からは、裏山道をぬけて遠足してもよし、バスかタクシーかで走った方がらくだが、なにはともあれ「金閣寺・ きんかくじ」に行くのが、順であろう。三島由紀夫や水上勉の作品とも関わり、日本の中世が誇る斬新な建築でもあり、広大な庭園にも変化があって、しみじみ とする。
 さらに土地の人に尋ねながら「等持院・とうじいん」「妙心寺・みょうしんじ」「龍安寺・りょうあんじ」から「御室仁和 寺・おむろにんなじ」まで、京都でも屈指の寺々を歩いて尋ねるのが、奥行き深くじつに面白い西山めぐりになる。美しい竹林や池に出逢い、嵯峨にも近く、自 然はよし、町もさびさびと古都の風情である。
 等持院は庭園、妙心寺は小さな末寺の一つ一つに秘めた坪庭や絵画。龍安寺は何といっても名高い「石庭」とともに、本堂 の手前から脇に隠れた、広大な池をめぐる散歩、これは是非とも奨めたい。
 そして御室仁和寺は、優美な境内と、五重塔。見せて貰えれば、平安朝さながらの優美な建物の内部も、是非に。宮廷気分 が優に実感できる。山ぞいを歩くと、魅惑の隠れ古寺も点々と遺っている。
 この程度もまわれば十二分で、時間と体力は、それぞれの場所での時間配分にゆっくり按配したほうがいい。気ぜわしくし ないのが、京都を満喫する、一番の秘訣だ。
 そして街なかへ戻り、京都市街区にも馴染んで欲しい。

 以上「六日分」のメニュ。大急ぎで書いたので、不備や間違いが有るかも知れないが。京都市の北・西と、北西郊外 と、南とは、今回は割愛。また今度。あぁ疲れたぁ。   (おしまい)

                   (平成七年秋 東工大教授室で書下ろし)



 
 

    京の河原町

                                         

 戦後に新制中学が出来て間もなく、そう、あれで二年生時分から、四條、三條の橋をわたって河原町へ出歩く習慣を もった。東の新門前通の中ほど、仲之町で育った。ちいさかった頃は戦中で、異人さん相手の美術商は軒並み灯を消し、それは静かな閑散とした通だった。戦後 に、どっと外国の団体客がバスで乗りつけたりし、うって変わって賑わった。
 その頃からか、新門前の縄手西側には空き地が一画のこされていて、川西の先斗町にも同じような空き地のある、いつか は、あそこへ橋が架かるらしいと、噂に聞いていた。河原町の真ん中へまっすぐ行けるのか、よろしぃなと、呑気に想像していた。
 そう呑気な話でなくなり、先年、「フランス橋」問題でやかましい話題になった。わたしは、もう四十年余も東京暮らし で、噂にだけ聞いていた。
 中学・高校頃の河原町へ、わたしは、何をしに日ごと通っていたのだろう。あの頃、学校へさえ下駄や草履で通った。靴を 履くことなど珍しく、河原町散歩も当たり前のようにちびた下駄履きで、しかも本を歩き読みながら、かなりの速歩で、人波をすいすいすり抜けて行くのが、ス ポーティな、変な自慢だった。買い物などする小遣いは持たなかった、ただ河原町通の風情をいたく好んで、西側を、東側を、二の字に、または蛸薬師の横断で タスキに掛け渡して、ただもう通り抜けるのが、夕過ぎての日課だった。
 立ち寄るのは、書店での「岩波文庫」の物色と立ち読み。
 足を止めるのは、何のお店であったかショウウインドウの、女優原節子の大きな顔写真に、じいっと魅入られるために。あ りていにいえば、これが、たまらぬ誘惑であった一時期が、確かにあった。なにしろ、あの原節子である。丈高い品のよさが河原町通の明るさとよくツロクして いて、思春期から青春期の少年を、磁場のように惹き寄せた。
 中学二年生で、初めて自分のお金で、「※一つ」の岩波文庫を奮発した感動は、たいへんなものであった。以来、万と数え る大量の本を買ったり貰ったりしてきたが、第一歩は、懐かしき河原町の書店で踏み出した。暫くして、次に、お年玉で『徒然草』と『平家物語』上下を買っ た。それが文壇に招き入れてもらった太宰治賞作品や、書下ろし処女長編の誕生に、まっすぐ直結していった。
 わたしは、大学に入るまで喫茶店に入った体験がなかった。恋をするようになっても、京都中を、いまの妻と、ただもう歩 きまわっていた。だが「ユーハイム」という風変わりなお店で、背もたれの高いフカフカの革の椅子に沈み込み、妻にキスした覚えがある。
 その頃には、叔母の代稽古でお茶の先生役を小遣い稼ぎにしていた。足りない分は叔母が助けてくれると言うので、垂涎も のの、ニッカの高級カメラを、あれは「さくらや」といったか、東側の写真機店のウインドウに日参また日参、ついに手に入れたのが、当時で五万円ほど。あと にもさきにも、生涯、あれほどの買い物に踏みきったのは、あまり例がない。後のちに聞いたが、そのカメラ屋に、国民学校へ入学式当日にもう惚れ込んだ秘か な「好きやん」が、嫁いでいったとか。だがカメラの方がぐっと深い印象を胸に彫んだ。
 河原町商店街の経営診断などに、去年亡くなった実兄の北澤恒彦が、熱心に関わっていた話を聞いている。ご縁で、鮨の 「ひさご」夫妻には、わたしも仲良くして貰っている。夫妻ともすてきに勉強家で、じつにうまい鮨を「創作」している。そういう進取の意欲があのハイな人気 の源になっていることは、ながくお店を維持しているどの商店もみな同様であろうと、敬服し親愛もして、京都へ帰るたび、今は「靴」を履いて、ゆっくりと、 馴染みの店を覗いてまわっている。幸い買い物も出来る。幾久しい平和な繁栄を祈りたい。
 
 ── 河原町商店街振興会 依頼による──



 

 

    陸軍と海軍

                                                   

 少し変わった本が読みたくて、山口宗之九大名誉教授の『陸軍と海軍』(清文堂)を取り寄せた。戦闘や作戦の本で はない。明治建軍以来の「人事」の研究書である。
 軍人・兵隊の位には誰もが一応の関心を払わねば済まぬ時世に育ったが、大将にまで成った人数が例えば陸軍一四八人など とは知るわけがなかったし、どういう経歴の人が大将や元帥になるのかも知らなかった。
 その一方、陸軍と海軍との空気のちがいには関心をもっていて、なにとなく「開明的な」海軍に人気があり「硬直した」陸 軍には陰気なものを感じていた。戦時中にも感じていたし、戦後に増幅された感もある。阿川弘之や司馬遼太郎らの海軍礼讃の感化は大きかったろう。東条英機 より米内光政に心を寄せていた所はわたしにもあった。海軍の方が陸軍よりもと好感していた。
 この本は、軍の「人事」に的を絞りながら、そういう思い込みがいかに事実と違い、陸軍がむしろおおらかに緩く、海軍部 内がいかに差別的に硬直したいっそ冷酷な空気をもっていたかを、克明に反証して行くのである。
 例えばいわゆる「特攻」出撃で、陸軍ではエリート将校が率先垂範死地に赴くことが多かったのに対し、海軍ではいわば学 徒兵をもっぱら追い立てて、エリートは殆ど特攻に出なかったと謂う。また大将や将官への昇任でも、陸軍では事実が示すところ経歴や学歴に関して拘泥を大き くは示さず意外に柔軟公平な人事をしているのに対し、海軍での内部差別は強烈で、学歴や経歴がほぼ不動の重みをもっていたのを立証して行くのである。実名 付きで事細かに追及されていて、記憶に残っている将官も多く、なかなか面白い。
 断って置くが、著者の山口氏は軍の人でも自衛隊の人でもなく、もともと「橋本左内」を中軸に幕末思想の克明な研究者 で、在任中に『陸軍と海軍』的な論文や著述が有ったのではない。余技か趣味かのように関係の資料を蓄えていたのを、大学を退いてのちに、ぽつぽつと検討を 加えた成果が、この本に纏まったのだという。遠い動機は、親族に三人もの将官や高級将校があってのこととか、なるほどと納得もし、思いがけない基本の分野 を立証されたものとして、かなり高価な本であったが、読書欲を大いに満たされた。
 わたし自身は軍人にも兵隊にも全然成りたくない少年だったが、戦争の推移にも戦後の敗戦処理にもそれなりに触れていた から、元帥大将らの記憶は、実名とともにたくさん残っている。漠然とし雑然としていたそういう記憶に、幾分の整理がつき、ふうんと感じ入ることが多かっ た。
 幼年学校と士官学校とが、いまの中学と高校にあたり、幼年学校生は無試験でうえに進むが、試験をパスして士官学校へ 入ってくる者もいる。この幼年組「カデ」と受験組「デーさん」との確執が凄じかったらしい。わたしの娘はお茶の水女子高校へ受験して入学したが、幼稚園か ら無試験で上がってきていた「内部」に「外部」扱いされ、入学当初かなり腐っていた。同じことは息子の早稲田高校にもあり、中学でパスしていた息子らは、 高校から入ってきた「ソト」連中に対し肩で風切っていた気味があった。陸軍にも海軍にも根強くそんなことがあり、しかしそれが大将や中将に進むに当たっ て、陸軍はあまり影響せず、海軍では頑なに影響していたと、著者は事実と数字とで逐一証明し、むやみな海軍賛美は当たっていないと言いたいらしいのであ る。なるほど、なるほどと読んだ。
  こういう記憶や体験の、どんどんと消え失せて行く瀬戸際のような時期に今は在ると思う。山口氏の著書に手を出したわたしに、そういう判断のあったことは否 めない。忘れ果てていいことか、記憶を繋いでおくべきか、その辺は微妙だけれど。幼年学校の最期の生徒として終戦を迎えた加賀乙彦氏のような作家もある。 終戦の日、わたしは国民学校の四年生で、疎開した丹波の山なかで暮らしていた。国民学校の講堂の高いところに「至誠」と、荒木貞夫陸軍大将の二大字が額に 掲げてあった。
 当時陸海軍の元帥大将らの氏名を、じつは、驚くほど記憶していた。ただし崇拝の念らしきものをもった人としては、やは り山本五十六海軍元帥が唯一人。心親しい気持ちでいた米内光政海軍大将も、「名」の響きに惹かれただけで、知識は短期間の首相という程度。また同じ「ハ タ」の音を姓で共有した畑俊六元帥のことも、実像の知識はゼロのままだった。たしかA級戦犯の一人だった。
 
       ──公明新聞 発表──



 
 

   男の美学なんか要らない
 
 

 道に唾をはかない。子供を抱いた女の人には座席を譲る。貧乏も金持ちも好きではない。痩せるために運動などしな い。嫌いな人とは会わない。食いたいものを食う。酒はうまい間だけ飲む。美食を趣味にしない。いい女がいい。原節子。澤口靖子。好きと尊敬とは区別でき る。裏の白い紙は捨てない。着るものに奢らない。仕事は大事にする。正当な報酬は請求する。安物買いをしない。わけもなく先生と呼ばない。先生と呼ばれよ うが秦さんと呼ばれようが、何でもない。猫が好き。蛇がにがて。妻を愛している。隠し芸は売らない。時間は守る。必要な無駄、無用な無駄がある。いい政治 というものは、無い。学者にも研究者にもならない。心から祈る。知らない事のほうが遥かに多い。不可能なことが有る。選挙権はかならず行使する。多くは望 まない。言葉を信じすぎない。盗んでいいものも有る。物を蒐めない。逢いたい人がいつもいる。貰えば嬉しい。適当に嫉妬する。花が好き。死に急がない。可 能性を疑わない。花も実も、無い。まさかという事がある。好奇心は捨てない。新しい器械にいつも興味がある。相対的だから絶対がある。不器用である。据え 膳は食う。嘘は適度につく。大儲けも大損もしない。貰った手紙には返事を書く。ゴミも出す、おつかいにも行く。自動車より自転車。ま、いいじゃないか。孫 は文句なく可愛い。毎夜死者たちのために本を音読する。美空ひばり。きれい好きとは言えない。怒る。家族とは何でもよく話す。読まない本は買わない。自分 で考える。寝相はわるい。親切に。魂の色の似た人をいつも捜している。愛は不可能。そんなものさ。一視同仁。簡単にあきらめる。容易にあきらめない。一割 ほど高いめに買う。宝石はいらない。経済は大事。こだわらずに筋を通す。カラオケは嫌い。ストレートをダブルで。結婚式も葬式も無用と思う。していい妥協 はする。わが子はわが子。繰り返しを厭わない。出版記念会なんてやらない。現代と現在とはちがう。字はへた、絵は描けない。分かる人には言わなくても分か る。分からん人にはいくら言っても分からん。強いてほんとのことを言う必要はない。一度言えば足りる。期待しすぎない。愚痴るだけの人は嫌い。正義は疑わ しいものの一つである。念々死去。日の丸はわるくない。君が代は認めない。碁は三番。歴史に学びたい。ボールペンとパソコン。気稟の清質最も尊ぶべし。だ ましてあげるのも、愛。暖簾より創意。つるんで歩かない。あれば使い無くても構わない。若い人を大切に思う。へんなメモは残さない。あやまるべきは、す ぐ、あやまる。強硬に頑張る。時は金よりも貴い。長湯。電話が嫌い。気はくばる。手土産も旅の土産も無し。死ぬまでは生きている。能を見ながら気持ちよく 寝る。無用な寄付はしない。保守より革新。革新は幻想だと思う。幻想も現実である。現実は夢である。夢はさめる。男と女しか無い。私は男である。美学は要 らない。男の美学なんか要らない。
 
 
 


       
 

   能の平家物語 ー書下ろし単行本ー

                                 秦  恒平
 

 はじめに

 平家物語は、わたしの、最もはやくに馴染み、もっとも永く親しんできた古典のひとつである。源氏物語、徒然草、古事 記、百人一首も同じように親しんできたと言える。
 古典文学として親しんだかどうかはともかく、いま一つ、観世流謡曲の稽古本というものが、少年の昔の我が家にかなりの 数揃っていて、二百冊ほどあった。詞章などめったに「読む」ことはなく、ラヂオ屋の父が抜き出してきて時折に謡をさらつているのを「聴く」だけであった が、巻頭の梗概だけは、残りなく繰り返し幼くより読み返し返し、いつかあらまし覚えこんでいた。
 父は、京観世の大江能楽堂などで、地謡の前列真中に座って、又三郎の舞台などに駆り出される程度に稽古を積んでいた。 素人の域は超えていたように思う。自慢もせずいつも悠々と謡っていた。
 美しいものとして、わたしは幼い日々にすでに謡曲を知っていたのである。敗戦直後の六年生国語の教科書に「末広がり」 が出ていたのを起って読まされたとき、いきなり謡曲で聞き覚えていたふうに声を張って読み始め、教室中をびっくりさせた。わたしにすれば、つまりそういう ものであると、自然に聴き習っていただけの話だった。中学生ごろには父の、「教えたろか」に乗せられて、「鶴亀」「東北」「花筐」の父好みの三番を仕込ま れ、ま、その辺で腰を折った。叔母の茶室で、飲み食いと女けのある茶の湯の稽古のほうがわたしにはラクで、楽しくなっていた。
 能舞台へも、おかげで、中学高校の頃には馴染んでいた。父は入場券を負担していたのだろう、余ると呉れた。「羽衣」の ように長々しい舞のあるものでも「美しいな」と思い、心根を洗われる喜びをいつも感じていた。能を見ていて、「清まはる」気分のするのが、一番、いつも嬉 しかった。「清い」と「静か」と、それが能の、また日本の美の真髄であると感じていた。それとともに、まちがいなく「死なれ・死なせ」た人たちの不思議な 稀有の世界だと感じていた。平家物語に取材した能の多いことを、ごく当たり前に肯っていたのである。
 平家物語の魅力も、また「清く」「静か」なものの、底に流れているところに在った。
 ただ、平家物語に取材したという、その平家物語なるものが、実は一団の星雲にも似ていて、同じ平家物語を読んだといっ てみても、まるでちがう記事や本文に出会う場合が多いのである。能の作者たちが、どの本のどの本文、どの異本のどんな記事に接していたのか、その辺が興味 深いし、分かりにくい。しかしそこに能の平家物語の尽きぬ興趣も生まれている。
 わたしは、この本では、「平家物語と能」とか「能と平家物語」とか分別しないで、あえて「能の平家物語」と題しつつ、 各種の異本諸本の記事へ余所見を重ねながら、能舞台からは自在に漂游して、意外な、存外な、案外な平家物語の素顔や横顔や仮面を覗きこんで行こうと思う。 それが能を観る上で面白く役立てばいいが、役立たなくてもいい。
「祇王」から「大原御幸」まで二十篇、自ずと平家物語の大流れは汲み取ってある。
 平成十年(一九九八)の真夏に、これは書き下ろした。
 

 

 祇王 ー心に任せぬ此身の習ひー

 新幹線からもよく見える近江富士、琵琶湖東の三上山(御上山)西の麓に滋賀県野洲町がある。かつては途方もない天井川 でよく溢れた野洲川が流れ、近隣は大量の銅鐸出土地で知られ、古墳や遺跡が群れている。著名な地名辞典の編者であった吉田東伍は、御上祝や安国造(やすの くにのみやつこ)が占めていたこの「安(野洲)」の地が、けだし近江国でもっとも古く早く開けた人跡であろうかと推している。なにやら、高天原に八百万の 神々が集うた、古事記の「安の河原」の名までが思い起こされる。
 平家物語の祇王・祇女らは、伝承によればこの野洲沿いにあった江辺庄中北の出で、いまも、JR野洲駅にほど近い東海道 線の西寄りに、妓王寺がある。野洲川から岐れた妓王井川も流れ、その下流は、ことさらに童子川と呼ばれている。
 平清盛の寵愛をうけていた祇王が、あるとき、何なりと所望せよと問われて、言下に、用水に不便な故郷の地に、どうぞ水 路をと願い、「神にも通じた」剛の者の瀬尾太郎兼康が奉行して成ったのが、野田浦に至る紆余曲折の水路であり舟路であったという。工事は、だが、甚だ難渋 したらしい。そのおり一の童子が現れて万事をよろしく導いたといい、流域の土安神社に今も祭られている。童子川の名ののこった所以であり、ま、いい話であ る。祇王という女人がぐっと身近に寄ってくる。だが、普通の、入手しやすい市販の平家物語には、こんな話は出てこない。
 平家物語とは、時代を経てなだれ落ちるように裾野をひろげていった、莫大な「異本群」のいわば総称なのであり、「読 む」ための本も、「語る」ための本も、饒舌なのも、簡要なのも、際限がない。わたしも、以前は、南北朝ごろに整備された語り本の「覚一本」(岩波文庫)で もっぱら源平の角逐を楽しんでいたが、今は、いろんな「本」を手に入れている。数十巻におよぶ『参考源平盛衰記』も手近に置いてある。百余部もの各種文献 を博覧博捜して関連記事を模索し編成したものだが、広く観れば近代の所産の、これもなお、いわゆる平家物語という巨大な星雲の一環ないし外延なのであり、 源平盛衰記は平家物語ではない、わけではないのである。義経記や曽我物語すらその光芒に連なっていて、その区別に境界線を引く事は容易ではない。
 ともあれ平家物語は、一時期に、一人ないし数人の手で同時に企画し創作された類の書物とは、とても考えにくい。あの後 白河法皇が在世の頃にすでに兆し初め、その後少なくも鎌倉時代を経て室町時代にも及んで行く永い永い歳月と、あちこちに渦を成していた「心ある」人々に よって、幾重にも仕立てられ、語りつがれ書きつがれていった社会的・歴史的な、ほとんど国民的な産物だというしかない。
 そうはいえ、或いはそれだからなおさら、平家物語の「最初本」とは、どのような意図で、どんな人ないしどんな人たち が、企画し取材し本文を定めていったのだろうかという、推量や考察や研究がなされねばならなかった。信濃前司行長が書いて、生仏という法師に語らせたとい う、徒然草の一説などが盛んに論議されてきたのもそれ故であるが、それにしても、どうも学者たちの視線と視野とが、異本簇生の方へ方へもっぱら向かうよう に素人目にも見え、これは面白くないと思えたので、ちと横槍を入れた感じに、二昔ちかく前の話になるが、「最初本平家物語」そのものをさながら主人公にす るような、『風の奏で』(文芸春秋)という長編小説を書いたことがある。小説の題が暗示し示唆しているように、わたしは、「平家語りの台本」としての物語 編纂を大事に感じていた。文学文芸の作物というよりも、時代をこえて吹き流れてきた「芸能」の、いわば奏で・調べを即ち「風」と読みとって、王朝の郢曲か ら、平曲や謡曲への連携をさえ推理して行きたかった。そんな素人考えを「是非」してもらう必要はないが、平家物語に登場する貴賤都鄙の大勢のなかでも、わ たしは、いわば芸能の人たちにいつもつよい関心、ときにはなつかしい共感を懐いてきたことは、先ずここで言うておいた方がいい。祇王・祇女といい仏御前と いい、また静御前や千手の前や、男性のなかにもひょっとして有王も与一も、景清ですらも、さらには出家して正仏と名乗ったという源資時にしても、一つは 「歌舞」一つは「語り」と性質は異にしながら、やはり切実に「芸風」を吹き起こしていた人たちだったと見るべきだろう。
  読み本が先か語りが早かったか、は、必ずしも本質の問題でなく、どういう意図で平家物語が生まれ出ねばならなかったのか、断絶平家という盛者必衰の理を解 くのか、源平闘諍の経緯を戦記として示すのか、それとも鎮魂平家の切々たる追悼であったか、または厭離穢土・欣求浄土の鼓吹であったか、等々を、「諸本」 によって幾重にも読み解いて行くのが親切な態度だろうと思う。「祇王」のことも、清盛悪行のはじめと読むか、念仏往生の勧めと読むか、必ずしも簡単なこと ではない。
 平清盛が台頭の当時、白拍子ないし遊びの女たちが、芸と容色とで貴紳の召し仕えとして寵愛を得ていたことは、一種の流 行、文字通りの「今様」であった。女たちはその「今様歌」を歌い舞い世に広め、しかしそのような歌の歌詞を蒐集編纂し、歌唱の技にかかわる深切な口伝をさ え自身で書き著したのは、一天萬乗の後白河天皇であった。皇子の頃から、今様を歌うことにかけて天才的な自負をもち、稽古も重ね、いわば家元ほどの自覚 を、「大天狗」とも「愚物」ともいわれたこの天皇は胸に深く抱いていた。源平の角逐をわが掌のうえで実演させた後白河法皇の一面に、そのような「今様」へ の執心があったことは、つい忘却されがちであるが、清盛の祇王や仏御前への横暴な寵愛にも、院の今様好みが感化していた明かな事実は知っていたい。
  清盛は、祇王・祇女を最愛し、栄耀をほしいままにさせていたが、芸者の常として敢えて清盛邸に推参した仏御前の、若やかな美しさに心を奪われ、即座に祇 王・祇女を追い放ってしまう。そればかりか時を経て強いて祇王を召し、仏御前を慰めよと歌舞の奉仕までも迫るのだった。祇王は涙をこらえ、知られた今様歌 を当座に少しく詞を改めて、神妙に、辛辣に、歌いあげた。清盛も閉口した。
  
  ほとけも昔は凡夫なり われらもつひには仏なり
  何れも佛性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

 かくてはどんな屈辱がさらに加わるやも知れず、祇王たちは老母とともに深く嵯峨野に忍んで、ともに厭離穢土、欣 求浄土の念仏三昧に出精していた。
 その草の庵を、いつしかに、そっと尼の姿に身をやつし訪れてきたのは、自らも平家の栄華に背いて世を厭い離れた、あの 仏御前であった。
 この説話は、時勢への痛烈な批評味を帯びながらも、来世の救われを願う人々の耳に、はなはだ良くできた説法であっただ ろう。極楽往生をひたすら祈る女人たちの、健気にものあわれな物語を、清盛悪行の初めに挿入したことで、平家物語のとじめと成る大原御幸後の建礼門院往生 浄土と、首尾照応のみごとな効果を上げていることも疑えない。
 もっとも祇王や仏が、まこと実在の人であったか、これは微妙であり、むしろ琵琶法師たちの久しい唱導の経過中に、脚色 ないし創作され、挿入された一句かも知れない。
「ギオウ」の名は、本により祇王とも義王とも妓王とも分かれている。ところが滋賀県野洲の妓王屋敷にまぢかく、上古から 「行(ギオ)の森」があり、行事宮が、近隣の呪祝に当たっていた。加えて行の森一帯が「浦(占)谷」と呼ばれてきた。ミカミ山の麓にヤスの河原を控えてウ ラを行じたこのギオウの故地は、また、ほど近く、今様歌いでも名高い遊び女たちが群れ棲んだ龍王の鏡山宿とも気息を通わせていたのである。後白河の宮廷社 会にしばしば愛顧を得ていた女たちの、ここは一巣窟であった。地祇(国つ神)を祭って歌舞に長じた遊部の末裔であったか、行業不思議の伎女であったか、と もあれ「祇王」は、梁塵秘抄でいうならば、つまり「神歌」の世界を身に負うて、近江国から京の都へしきりに往来していたと見られるのである。
  そして仏御前の歌う今様世界は概していわば法文歌であり、しかも仏御前の出は、加賀国シラ山のシラ拍子であった。シラの根は、深く遠く西海、北九州の海底 にある。世に恐ろしい安曇の磯良(イソラではない、シラと読むべきだろう。磯城をシキと読むように。)に発して、日本列島を裏から表から海沿いに北上し、 ついにオシラさま信仰にまで至っている。ホトケ・ホトキとは、そんな怖いシラ神をも祭り、また死者にも供し、乞食行にも用いた、サラキやヒラカと根の同じ い容器、一般に祭事・凶事に備えた器の呼び名であった。例えば大仏(オサラギ)の読みも、それを教えている。
 ホトケ御前を、ぜひにも仏如来に由来するかのようにのみ受け取っていては、微妙なところで、日本の「芸」「芸能」の性 根を見錯まりかねない。白拍子の「シラ」の遠景も、あまり単純に考えていると、じつは平家物語が懸命に奏でてきた、不思議の「風の奏で」をも聴き損じてし まいかねないのである。
 

 

  熊野 ーまたもや御意の変るべきー

  宗盛という人物がいないと、平家物語は厚みを減じてしまう。源頼朝の子に頼家と実朝とがいて、平清盛には重盛と宗盛と知盛とがいる、と、仮に見立てれば、 父親の内蔵した魅力は、清盛のほうに分があるというのが、昔からのわたしの身贔屓である。わたしは、少年の頃から根からの平家贔屓であり、平宗盛をさえ、 なかなかの存在だと思ってきた。
 宗盛に印象をえた最初の出逢いは、戦後の新制中学三年の三学期に、お年玉から岩波文庫「平家物語」上下二冊を買って読 んだあの時に相違なく、とはいえ幼稚園、国民学校の昔から、唱歌や絵本で、源平のスターたちの華麗と哀愁とには、たっぷり馴染んでいた。「赤勝て、白勝 て」の運動会の興奮をすらふくめて、そういうご時世でもあった。
 平家物語の後半に、「八島大臣」と呼ばれて平総帥の地位にいた、従一位宗盛の印象は、たしかに芳しいものではなかっ た。だが、それにもかかわらず宗盛登場の各場面は、それぞれに、ちょっとずつ興味深くはあるのだった。やや硬直した兄重盛の上出来すぎた印象よりいつも妙 に阿呆らしく、妙にまた物哀れに生き生きとして、宗盛には現実感があった。よく謂えば、印象がふっくらしていた。軽くても、薄くはなかった。
 源三位頼政の嫡子伊豆守仲綱との間で、名馬をめぐって失笑ものの確執がある。驕る平家をかさに着て、仲綱秘蔵の「木の 下」を強引に召上げた宗盛は、さらに愚かしくも馬の名を「仲綱」と替え、印焼まで打って、ことごとに「仲綱」「仲綱」と、見よがしに乗り回した。この遺恨 がやがて仲綱の父源三位頼政の挙兵に繋がったのだと、平家物語は巧みに動機づけている。その際仲綱は行きがけの駄賃に、働き者渡辺競の機転で宗盛のべつの 愛馬を奪い取り、「昔は煖廷、今は平宗盛入道」とこれも馬に印焼して持主へ追返している。
 こういう宗盛は、なんでこうもと、あまりに阿呆くさいのだが、奇妙なおかしみもある。愚かしい振舞いが、いつしかに いっそ間抜けた人の良ささえ感じさせていたことに、こっちの歳が行くにつれ思い当たるのだった。誰もの遣りそうな事を宗盛は遣っていた。
「熊野」の能を観ていると、宗盛にはわがまま勝手な情け知らずと見えた一面が、ふいと哀れ知ったふうなはからいに転じ、 見所をほっとさせる。それとても今にも「御意の変わ」るおそれのある、やはり気まぐれな気ままなのである。本人は真面目なので、そこにおかしみが出る。か るく救われる。『吾輩は猫である』の苦沙彌先生が、後架(便所)に入ると必ず「これは平の宗盛なり」と名乗って近所中の失笑を買っていたおかしみと、奇妙 に平仄があっていて、くすっとくる。よくも悪しくも裸の王様の、それなりにさすがの「風情」が宗盛という人物にはある。人徳とすらいえる。
 世に「八島大臣」といわれながら、まことに厄介で難儀な時機に、宗盛は、平家落ち目の棟梁となってしまった。風当たり はきつかった。だが、宗盛が本物の情け知らずな阿呆であったとは、わたしは思わないことにしている。父清盛が鳥羽に幽閉していた後白河法皇を、親孝行な高 倉天皇がひそかに見舞いに訪れたいと望めば、またひそかに容認していたのも宗盛だった。一門の都落ちに際し、弟知盛の勧めとはいえ、畠山、小山田、宇都宮 ら、源氏の根拠の東国に妻子をおいた武士たちを、強いて西国に伴うことも斬って捨てることもなく、「有難き御情」で、故郷へ帰れよと解き放ってやったの も、この宗盛だった。
 さらには勇将知盛が嫡子武蔵守知章を一谷の戦で身代わりに死なせ、かつがつ馬で沖の御座船へ遁れて帰って、一座を前に 声涙ともに恥じ入り、泣いて嘆くのを見守りながら、「武蔵守の父の命に替はられけるこそありがたけれ。手も利き心も剛に、好き大将軍にておはしつる人を。 清宗と同年にて、今年は十六な」と、わが子衛門督の方を見て涙ぐむのも、平宗盛だった。一見これは勝手なようでいて、じつは感じの深いすばらしく好い場面 であり、知盛のあわれはもとより、この宗盛の飾り無き情愛はほんものだと言いたい。
 この宗盛と清宗親子とが、そのまま、後に壇ノ浦で、父は子を子は父を気づかうあまりに入水も人に後れ、海面でもともに 沈みかねているうち、源氏の兵に無惨に囚われてしまうことになる。父と子とは、この後も互いに偲びあいいたわり合いつつ、ついに斬られて果てる。こういう 父子の在りようを、ことに宗盛の振舞いを、怯懦とも未練とも難じるのは容易いけれど、わたしは、これもこれ、情ある優なる宗盛と受け入れてきた。たしかに 潔くはない。だが建前よりも本音で、死ぬる間際までそれらしく本性を全うした。
 平家苦難の棟梁として、いちばん肝心な場面では颯爽と決断を下したこともあった。
 一谷に破れた平家は八島に陣し、都では法皇らが、「内侍所」など三種神器の無事帰還に最も苦慮していた。安徳天皇と列 び立った都の後鳥羽天皇は、三種神器を欠いての異例の即位を余儀なくされていたのである。折しも一谷の敗戦で、三位中将平重衡が源氏に囚われていた。朝廷 は、この重衡自身が八島なる生母二位尼に宛てた、命乞いの書状を添え、「院宣」という重々しい出方で、三種神器と重衡の命との交換を平家に申し入れた。情 にひかれ、母尼が取引に応じてほしいと泣き叫んだのは無理もないが、その際の宗盛の言葉がいい。
「誠に宗盛もさこそは存候へども、さすが世の聞えもいふがひなう候。且は頼朝が思はん事もはづかしう候へば、左右なう内 侍所を返し入奉る事は叶ひ候まじ。其上帝王の世を保たせ給ふ御事は、偏に内侍所の御故也。子の悲しいも、様にこそ依り候へ」と。
 この宗盛と、知章十六歳の戦死に涙ぐみ、同じ十六歳の清宗と生死をあくまで倶にしようと波間に喘いだ宗盛とには、何の 矛盾もない。「子の悲しい(愛しい)も様(時と場合)に依り」という言いぐさも、わたしには素直に頷いて聴ける。殊に神鏡を相手に渡しては朝廷として立つ 瀬はなくなるのだ。大方が八島方の決断を是とみたであろう、「八島大臣」という尊称も、この宗盛の決断に対して献じられたと思う。
 もっとも、またしても阿呆なマネをと思うのは、院宣と重衡書状を携え来た「花方」という使いの者を、強いて「波方」と 改めさせ、あまつさえ額に印焼して追い返したことで、宗盛の愚行というしかない。実否はいかにあれ、そういう宗盛と見られていたのだ。
 能「熊野」の宗盛は、これほどは乱暴ではない。だが、故郷の母が危篤のひたすらな願いに、どうか一目娘の熊野に逢いた がっていると、はるか東国から使者が来たのを知りつつ、俄かの桜狩りを触れだして伴を強いる宗盛であった。ずいぶんな仕打ちだ。
 宗盛には、ああそうかと、奇妙に素直になれない或る屈折があったようだ。
 実は二位尼の実子でなく、同時に生まれたべつの町の子とすり替えて育てたという怪しい噂まで、平家物語の異本は伝えて いる。異本が出来るとは、そうした尾鰭が付け加わって行くのでもある。逆に無駄な尾鰭をきれいに省いて行くはたらきも、実は、ある。ともあれ、あわれを知 り風情を知ることで、宗盛は決して没分暁漢ではなかった、ただ、妙なところで臍を曲げるのである。あの仲綱の愛馬を奪い取ったまでは権門の我儘なのだが、 仲綱が馬に添えて、「身に添へるかげ(影、鹿毛)をばいかが放ちやるべき」と、主が恋しければ逃げ帰ってこいよの和歌一首を詠み添えて寄越した、それが、 宗盛にはぐっときた。「あはれ馬や。馬は誠に好い馬で有けり。されども余りに主が惜みつるが憎きに、やがて主(仲綱)が名乗を印焼にせよ」とやった。名を 重んじた武士の実名を馬の名にしたのである。
 故郷の母がどうぞ娘に一目と哀願するのを、宗盛は「そうか、よし」と、すぐに言わない。言えない性分で、つれなく清水 寺の花見に付き添えと強いる。熊野もまた、一人の「祇王」一人の「仏御前」に他ならなかった。男と女とのあいだに横たわる論理は、愛が第一ではなかった、 支配が優先した。だが、愛がまるで無かったとも言い切れない。かつて遠江守だった縁で、若き宗盛が若木の桜の熊野を、東海道の池田宿から根移ししていたの だ、類まれな美女であった。簡単に帰したくない、宗盛なりに、暇を呉れるにふさわしい場面づくりがしたかったのかも知れない。かくて清水の山へ花見車は動 き出した。
「熊野、松風に米の飯」といわれてきた。微妙に含蓄があり、誉めたとばかりも言えまい、「米の飯」なみの普通のご馳走と いう意味にもなる。欠かせないもの、普遍的なもの、それほど人気の佳いもの、というところか。「巨人、大鵬、卵焼き」ほど単純ではないようだが、「熊野」 の舞台は、道行きの所々も、少年時代のわたしには我が庭のように近しい場所だった。景色も遺跡もそのまま今も目に映る。能「融」の東山は、月光にぬれて豊 かな見晴らしだが、「熊野」の道行きは目のあたりに間近い。六波羅地蔵堂、愛宕寺跡、六道の辻、鳥辺山、そして経書堂がなつかしい。経書堂からものの三十 メートルほどの木隠れた細辻に、高校の頃の女友達がいた。だれも、わたし達が親しいと気づいてはいなかった。ひっそりと、何度も家をたずねた。母親と二人 暮らしで、堀辰雄の本などがあった。わたしが夢中で『風立ちぬ』を畳に腹這って読んでいても、静かな母子は平和に黙っていた。寂しいどころか、わたしに は、くつろいで我に帰れるそれは嬉しい時間であった。
 ちょうど、あれに似た時間を、宗盛は熊野とともに過ごしていたのかも知れない、会者定離を覚悟していたのはむしろ宗盛 ではなかったか。清水の霊験あらたかに、熊野は暴悪の宗盛から解放されたとばかり、この能を観ていては、それこそ寂しくはないか。
 母親は亡くなったが、あの友達はいまもわたしを、いつでも迎えてくれる。
 

 

 俊寛 ー待てよ待てよといふ聲もー

 驕る平家は、世の反感の前に、いつか討つべき標的になって行く。謀反の意志は潜行して、鹿の谷の俊寛山荘が陰謀最初の 舞台になった。後白河院をまきこみ、大納言成親、法勝寺執行俊寛僧都、平判官康頼、西光法師らが集った。与力には北面の武士達が多く加わっていた。安元三 年(一一七七)初夏の頃だ。
 謀反には動機が必要だった。「驕る平家」だけではなかった。公家にも受領にも寺社勢力にも、なにより己れの慾と利害の 打算があった。西光法師縁辺の加賀国にも、白山神社がらみに公事を争う熱い火種があった。飛び火して、比叡山延暦寺と三井の園城寺とにも、祇園社と清水寺 とにも対立と葛藤があり、後白河院の近辺でも、新興武家と寺社権勢との紛争が絶えず火の粉を吹き上げていた。院近臣である平清盛の威勢は、そんな渦中から 異様にすさまじく拡大していった。ついに太政大臣にまで昇り、朝廷の人事を恣にし始めた。
 だが、高倉天皇とのあいだに、清盛の娘徳子が皇子を懐妊し出産して、清盛と平家一門に揺るぎない外戚の堅い足場をもた らすには、まだ暫く間があった。鹿の谷陰謀は、平家のまだ絶頂にいたる以前の大騒ぎであった、それは、忘れていいことではない。
「陰謀」はやがて「発覚」する。「西光」は斬られ、首謀の「成親」も配所で殺され、成親の子少将成経、判官康頼、そして 俊寛僧都は、鬼界が島に「流罪」となる。孤島の四季が苛酷に、また悲惨に、巡って行く。漸くこの頃に徳子「御産」の無事が平家一門を挙げて祈り願われ、 「赦免状」が鬼界が島に届くのである。能「俊寛」は、ここから幕が開く。
 鬼も出ない、幽霊も出ない、女もいない。徹して現在能であり、ツクリの巧みなこと、真に劇的なこと、三百番の能のなか でも傑出している。白状しておくが、好んで読み、好んで能を観たとは言いにくい。傑出した表現であろうとも、全然、救いがない。俊寛という頑なな性格が、 播いた種を自業自得に取り込んだまでというにしても、哀れが過ぎた。過ぎたるは、何としても優れた感銘や感動を生まない。後味があまりに重い。
  平家物語の前半をしめ、鹿の谷謀議から俊寛の悲惨な死にいたる物語は、「額打論」「清水寺炎上」さらに「御輿振」などを序幕に、「有王」「僧都死去」ま で、圧倒的な分量になる。よほどの史実に、よほど力のこもった脚色が施されている。平家滅亡の真の序曲が奏でられ、真の原因が深く広くここに探られてい る。そのぶん異本の異説も活躍する。
 簡明簡潔に最もよく纏めた「覚一本」では、鹿の谷謀議を、後白河院も加わって俊寛の山荘でとしているけれど、院は参加 していなかった、山荘は別人のものだった、「瓶子(平氏)」の首をねじ切ったのは、半ば猿楽者のような判官康頼が独りで演じた狂言だったとした本もある。 平家物語は、繰り返して言うが異説や浮説の渦巻いた大星雲のようなもので、手堅い「史実」として鵜呑みにはできない。むしろ偉大な「脚色」「創作」であっ た、永い永い継続や断続のなかで、大勢の喜怒哀楽や批評や祈願に根ざして積み成されてきた所産であったことを、根の深みで読者は忘れてはならないし、その 上でしかも真実真情に手をふれた心優しい「読み」を楽しまねばならないだろう。
  赦免状に「なぜ」俊寛一人の名が欠けていたか、能の作者は触れていない。平家物語では、清盛の憎しみがひとしお俊寛一人に対して強かったと、もっともそう な理由を挙げているが、要は三人の流罪も、二人だけの赦免も、俊寛への容赦ない憎しみも、これが公の処罰処断ではなくて、清盛のいわば「私刑」であったこ とを史実は示している。赦免は、徳子御産の無事を願った清盛一人の沙汰であった。そして俊寛を峻別した無惨が、誕生した新皇子、後の安徳天皇海没の最期へ と、因果の糸を結んで来る。平家物語は、平家滅亡に至る「道理」をいわば一つ一つ拾って行くことで「歴史」をながめ、慈円の『愚管抄』と歴史観の符節を合 わせているが、俊寛の鬼界が島へ置き去りも、大きな一つとして余りに巧みに脚色されている。
  脚色は幾重にも輻輳する。成経と康頼とは熊野信仰の霊験を蒙り赦免のよろこびを得たが、謙遜な神頼みを拒絶し一乗法華への帰依をも忘れた俊寛は、自業自得 の置き去りに遭ったと、これこそがと言いたげに、平家物語はぬかりなく神徳佛恩を説いている。
 信心のうすい高位の僧。たけだけしく気性のねじけた僧。余りに哀れな物語であるにもかかわらず俊寛の像には、鹿の谷謀 議のそもそもから反感を催すものがあった。道を逸れた強情我慢の坊主という感じに、例えば静賢ーー謀議に批判的で「本」によれば法皇の山荘出御を未然に阻 止したとも伝える静賢法印とは、正反対に脚色されている。静賢もふくめて明らかに平家物語を語ろうとした「或る側」の脚色者たちにとって、俊寛は終始好意 をもたれていない。
 そのような俊寛に「もののあはれ」を添え、懸命に共感や同情を引きだそうとしていた「べつの或る側」の語り手たちも、 だが、明らかにいたのである。「有王」の登場がそれを思わせる。
「足摺」までは、現に平康頼のような悲劇の体験者がいて、大筋を証言できた。『宝物集』ほどの仏教説話集を著しえた人物 が、東山の双林寺辺に住まいして、鬼界が島体験を説話的に多くの人々に語るなどは、大いにあり得たことと思う。
 だが「有王島下り」以降はどうか。なるほど「僧都の稚うよりふびんにして召使はれける童」があっていいし、それが有王 でもよく、彼が俊寛の娘の書状を携えてはるばる鬼界が島に渡り、再会のよろこびの後に主俊寛の最期を見届けて、また都に戻ってことの始終を世に語りひろめ た事実があり得ても、いい。延慶本や源平盛衰記は、有王が三人兄弟の末であったとし、長門本は二人兄弟の弟として「越前国水江庄の住人黒居三郎が子」とま で具体的に語っている。水江庄は俊寛が執行した「法勝寺の寺領」だという。
 民俗学の柳田国男は、だが、有王の「アリ」とは、古事記を誦み習った稗田有礼の「アレ」や鴨神社の「みアレ」祭などと も同じ、神霊の「顕れ」来たる不思議と関わりをもち、また祈祷や呪術判断を業としていたような、「アリマサ」なる男ら一般の名乗りであると説いて来た。有 王の「王」も、神の申し子に等しい神意の伝達者を示していると説いたのである。有王とは、俊寛に仕えた下人なのか、「アリマサ」の一人か。その双方であり えた実在の者か、全く創作された者なのか。
 白状するが、初めて「有王島下り」を岩波文庫で読んだとき、中学生の頭で、「ほんまやろか。ちがうのとちがうやろか」 と、容易にその美談じみた行動が信じにくかった。飛行機で行くのではない。京都から自分の足と舟とを頼みにはるばると、あまりにはるばると行く言語道断の 旅ではないか。あのような気難しい俊寛に仕えて、これだけの難儀を思い立つということに、凡庸で薄情な私などは息苦しいまでの驚異を感じたのだ、俊寛の娘 が父親を尋ねて行くのならまだしも、と。南海の孤島ではなかったのだから、配所の父「景清」を探し求めた娘と同列には見られないが、真実感は、平家物語の 「有王」より能の「景清娘」に今でも感じる。むろん人により逆の人も多かろう、男と女という無視できない肉体的・社会的条件もあるのだから。
 問題はそんなことでなく、私が言いたいのは、あれほどの平家の栄華と滅亡を体験した同時代ないしその後の時代に、どれ ほど多く、柳田国男のいうような「アリマサ」有王が多くの言葉を世の中へ語り伝えていただろうかという、畏怖の思いだ。平家物語の有王が実在の人であろう となかろうと、鬼界が島に置き去りにされた俊寛の最期を、多くの人々が忘れてはしまえなかった。それではあまりに俊寛に酷く、自分たちの騒ぐ胸も収まりが つかなかった。俊寛の鎮魂が、平家の鎮魂につながるのだ、多くの死者達の鎮魂につながるのだと思って語り始めた「有王」が現にいたように、もっともっとい ろんな語り手たちが、もっともっと別の物語を始めつつ、実在した。そう思わなければ説明の付かないほど、いわゆる平家物語は、あまりに多彩に執拗に時代の 哀情を噴出しつづけた。
 源平盛衰のあの時代ほど、戦乱に多く人の死んだ時代はかつて無かった。よくよく思えばそれは「死んだ」のではなかっ た。多くが「死なれて」泣いたのだ。多くが「死なせて」苦しみ悶えたのだ。人は一度しか死なない。だが「死なれ・死なせ」ることは一生に幾度体験しなけれ ばならないか数知れず、まして戦乱や天災に襲われた時代は嘆き苦しみの声に天も曇るのである。
 鎮魂慰霊しなければならぬ死者は多く、だが死者達よりも生き残った大勢がなによりも傷つき汚れた己の魂と肉体とを癒さ ねばならない。
 平家物語とは、まさにそのための、世を挙って鎮魂平家の「悲哀の仕事=モゥンニングワーク」つまり追悼なのであった。
  忘れてはならない、芸能は、アマテラスの死を悲しみ、蘇りを願って八百萬の神々が誠を尽くした天の岩戸前での、あの「モゥンニングワーク」なる神楽から肇 まった、日本では。その伝統を、見事に伝えているのが「能」ではないか。
 能「俊寛」では誰も死なない、が、死んで命絶えるよりも残酷な、生きながらの死が描かれた。だから見所は、観客は、 「死なせた」無惨さに胸を絞られる。
 平家物語でも「足摺」の置き去りで鹿の谷事件は終幕の筈であった。だが、さらに「有王」の登場を必然にした、こういう ところに平家物語の根のモチーフが、他にも随所に紛れもない「鎮魂」のモチーフが、生きている。
 

 

 小督 ー恋慕の乱れなるとかやー

「桜町」天皇という方がおられた。次の「桃園」天皇に継いで「後桜町」天皇もおられた。次が「後桃園」天皇だった。その 次の「光格」天皇でまた神武、綏靖なみの厳めしい名に戻った。二百年程前、江戸時代末期のことである、天皇さんに対する関心が薄く、痕跡だけが記録されて いるような気がする。
 だが「桜町」とはなんと優しい名乗りだろう。時代はずいぶん離れているが、平家物語の「小督」という女人を思い出すつ ど、いつも反射的に「桜町天皇」という久々の女帝の名乗りを連想し、ついで「桜町中納言」といわれた小督の父藤原成範に思い至る。そういうヘンな回路がわ たしの頭に出来あがっている。
 桜を愛し、広い邸うちを桜木で満たしたという、だから桜町。桜より優る花なき春なればと紀貫之が歌ってこのかたの、絵 に描いたような王朝の好みであるが、驕る平家の突風の前に、花はあらけなく散らされがちであった。成範の女小督は、その、危うくも美しい花一輪であった。 手荒い嵐は、他ならぬ平清盛入道相国が吹きかけたのである。
 能「小督」は、清盛に宮廷を逐われた小督が嵯峨野に隠れているのを、恋慕やみがたい高倉天皇の意をうけた使者仲国が、 小督の爪弾く「想夫恋」の琴の音をたよりに捜し当てるという話である。いまも嵐山渡月橋の畔に「琴聴」ゆかりの跡が人を集めている。
 もともと小督は、清盛の女、高倉帝の正妃徳子平氏によって夫高倉天皇に進められた女であった。高倉帝はかねて葵の前と いう女を愛されていたが、平家を憚り心ならずも遠ざけられた。女は悲しんで落命し、帝もまた悲哀に沈んでおられたのを、御慰めにもと、徳子中宮に仕えてい たひときわ美しい小督が、帝の御側へ送り込まれたのだった。
 親孝行であったが女好きも至っての高倉天皇は、小督局をまたもや熱愛され、あまりのご寵愛に中宮もいささか白け、徳子 の父清盛は大きに臍を曲げたのであった。
 小督は帝の愛を受けただけではなかった。もともと藤原隆房の執拗な愛を受けていた。だが一度帝の御側に上がったからは と、小督はかたく隆房を拒み続けた。隆房も容易には諦めなかった。隆房の妻は、高倉妃徳子とは母も同じ仲良しの姉妹であったから、清盛は小督を、可愛い娘 ふたりの婿を同時に手玉に取る女だと憎んだ。「いやいや小督があらん限りは世の中好かるまじ。召出して失はん」とまで言った。小督は漏れ聞いて「我身の事 はいかでもありなん、君の御為御心苦し」と覚悟して、「暮方に行方も知ず」失跡し、やがて嵯峨嵐山に身を潜めた。これもまた清盛悪行「驕る平家」の犠牲で あった。平家は物語の前半で、妓王といい熊野といい、また小督といい、可憐な女たちを何人も泣かせていたのである。
 高倉天皇はまたしても悲嘆に沈み、ついには病におかされ、位もすべり、若くして崩御されてしまう。平家物語では「小 督」のことは、亡くなった先帝が、どんなに心優しい御方であったかを物語る逸話の一つとして、こまやかに芝居仕立てに語られるのである。
  高倉天皇は、後白河院と建春門院平滋子との間に生まれた。この女院はよほどすばらしい人であったらしい、藤原定家の姉で建春門院に仕えた建御前の日記を読 むと、衣食住そして女文化は、王朝の盛時を凌ぐほどに見える。清盛の妻二位尼時子と女院とは姉と妹だった。清盛は滋子のあるが故に高倉天皇の外戚に準じて 権勢を占めてきたのである。だが、その建春門院は安元二年(一一七六)秋に惜しまれて亡くなった。すでに清盛は高倉帝に女の徳子を娶れており、皇太子も得 ていた。強いて幼帝にも立てた。高倉上皇は父後白河法皇にもきわめて孝行であり、真実情け深い方だった。相手がいいと、心から愛された。葵の前では辛うじ て自制されたが、小督にはそれも利きそうになくて、しかも猛烈な清盛のいやがらせが出た。それでも上皇は恋慕の余りひそかに仲国に命じられたのである、 「嵯峨の辺に片折戸とかやしたる内に在りと」人の囁く、小督を、探し出して参れよ、と。
 この先は奇妙に気恥ずかしく、能舞台を再現してみようと思わない。はっきり言って能「小督」の成行きにはあまり心うた れたことがない。
 一つには弾正少弼の「仲国」が、この場面ではすてきに恰好いいのだが、この人物、世は鎌倉時代になってから、妻と共に あやしげなカルト的言辞を弄して暗躍し、世を乱した罪で処罰を受けている。そのチグハグが響いて、琴聴の風情はかなり割引かれてしまうのである。
 今ひとつに能「小督」は、あんまりいい拍子にトンと一足踏んで舞台を終えてしまうのが淡白過ぎる。一件はこの後になお 幾波瀾もあった。仲国は従者に命じ、小督がその夜のうちにも他へ遁れて尼にでもなられてはならぬと隠れ家を固めさせておいて、小督の手紙を携え宮中に帰っ て事の次第を申し上げる。院は小督が想夫恋を弾じていたと聴くともう辛抱できずに、今夜中に密かに女を伴い帰るよう、また仲国を嵯峨へ遣わされた。清盛の 思惑を恐れながら、綸命なればと仲国は小督を御所に伴い入れた。高倉院は喜ばれ、仲らいまことに麗しくいつしかに女皇子も一人生まれた。範子内親王であ る。
 人の口に戸は立てられず、清盛はそれと知って激怒し、小督をとらえ有無をいわせず尼にして追放してしまった。本によれ ば福原から駆け上り小督の隠れ家に乱入、「長ナル髪ヲ入道手ニカラマキテ、坪ノ中ヘ引出シテ見ラレケレバ、誠ニ君ノ思召サルルモ理ナリ、天下第一ノ美人ニ テアリケルモノヲトテ、ナツカシゲニ思ハレタリ。アマツサヘ耳ニ差寄テ、入道ニ近ヅキタマヘ、今ノ難ヲタスケ奉ラント聞ヘケレバ」などと、きわどく言い寄 り口説いている。
歳二十三の小督は、凛として「日月イマダ天ニマシマス。玉體ニ近ヅキ進ラセナガラ、イカデカサル事ハ候ベキ。貞女ハ両夫 ニマミエザル事ハ知セ給ヘルカ」と応じない。憤然とした清盛が美女の「髪ヲ切リ尼ニナシ、耳ヲ切リ鼻ヲソギテ追放ス」とは、すさまじいが、ここまで書いて しまうところが平家物語異本群のまた一つの興味であり、性質なのである。
 覚一本ならば「主上はかやうの事どもに、御悩はつかせ給て、遂には御隠れありけるとぞ聞えし」と簡潔だが、読み本にな ると、「主上此事聞召テ、口惜事ナリ。我萬乗ノ主ト云ナガラ是程ノ事叡慮ニ任セヌ事コソ口惜ケレ。丸ガ代ニ始テ王法尽ヌルコソ悲シケレト、御歎アリシヨリ シテ、イトド中宮ノ御方ヘモ行幸モナラズ、深ク思召沈マセ給ヒケルガ御病ト成、終ニハカナクナラセ給ヒニケリトゾ承シ」と詞を尽くす。
 小督は実は名高い信西入道の孫女に当たる。信西の縁辺には平家物語の語り広められるについて、かなりに関わりをもった 人物が何人も居たと説かれている。その語り広めの主なる狙いは、実に「清盛悪行」の唱導であった。小督は逐われ、高倉院は病に伏し再起されなかったのであ る。小督の生んだ女子は、小督の旧主建礼門院が養女として育てたといわれている。
  高倉天皇陵は京都東山の清閑寺の奥にある。殆ど同じところに兄二条天皇、その子六条天皇陵もある。京都の歴史的風景で、最も清潔に、人跡に荒らされていな いのは、各所の天皇御陵であろうか。
 青春時代、私は、思い屈すると、よく独りで御陵にひそんだ。寒々と心が洗われる。葬られている天皇さんに共感して行く わけではない。最も日本的に簡潔な明浄処であろう、御陵とは。泉涌寺や観音寺にある御陵、粟田坂上の十楽寺陵、また鳴滝辺に散在した御陵や嵯峨山中の御陵 がそれぞれに懐かしい、が、とくべつ好きでよく忍んだのは清閑寺の高倉陵だった。何ということはない、そこは高校の女友達と、世離れた夢を見に忍びこんで いた、淡いたわいない恋のねぐらでもあった。小督の尼は、この御陵の畔に庵をかけ、終生静かに亡き高倉天皇とともに過ごしたと伝えられる。遺跡も御陵のう ちにあり、わたしたちは、その間近へひそと身を隠して、時を忘れてあれもこれも話し合い、夕暮れを迎えた。彼女は馬町へ、わたしは清水寺の方へと別れて帰 るのである。全山紅葉の果ては時雨にあう日もあった。小走りに家路を追いながら、
   山の辺は夕暮れすぎし時雨かとかへりみがちに人ぞ恋ひしき
などとわたしは口ずさんだ。まさかに自分を高倉院だとは思わないが、時にはあの変な仲国であったり隆房のようであったり する。そんな錯覚を強いて追い求めるように、小督という平家物語の女人をわたしは愛していた。鬱然と樹木に包まれた高倉天皇の奥津城を守って、尼生涯を終 に悔いなかった、そういう小督という女人をわたしは忘れられなかった。
 その小督のやつれながら凛々しい尼姿を、わたしはちらと見た気がしたことがある。大原の里へ、かつては仕え、かつては 愛憎の劇を分かち合わねばならなかった建礼門院徳子を訪れていった小督である。徳子のもとへは、建礼門院右京大夫も訪れていた。小督のことはわたしの幻想 なのであるが、同じ女院のもとには小督と同じ信西の孫女とも娘ともいわれた阿波内侍が、身の回りのお世話をしながら仏に仕えていた。右京大夫も小督も愛す る男に死なれて生涯をその追慕と追憶にささげたが、女院徳子平氏ほど無数に死なれ、また自身の存在故に無数に死なせた人はいなかった。しかも自分は西海の 波間に死ぬることも出来なかった。
 小督はかつての国母中宮を赦していただろう、大原までもいたわりに訪ねて行ったにちがいないとわたしは想像している。
 

 

 頼政 ー憂き時しもに近江路やー

 
 鹿の谷陰謀は、与力の面々が、公家、僧、院近臣、北面などの非力な寄合い所帯では、平氏の武力勢力を凌ぐなど無理な相 談だった。しかも頼みの源氏の一角から真っ先に離反者が出、その密告で一気に事は露見した。
 保元の乱では保たれた源氏の勢力も、平治の乱では平家の前に一敗地にまみれた。源三位頼政の一党だけが、遠慮がちに息 をひそめて宮廷社会に生き延びていた。清盛の子平宗盛が、名馬「木の下」を寄越せと強談に及べば、父源頼政の指示で嫡子仲綱は、愛馬を平家に送り届けねば ならなかった。送り添えた「恋しくば来ても見よかし、身に添へるかげをばいかが放ちやるべき」の一首は、仲綱の愛着を鹿毛の愛馬に囁いた申し訳でこそあ れ、宗盛に対しては喧嘩を売ったに等しかった。宗盛は和歌に挑発され、ついに頼政・仲綱も起たずには済まなかったのだと、挙兵の段取りを平家物語はうまく 付けている。
 この喧嘩、収支決算は難しい。頼政一味は高倉宮以仁王を担いであっけなく挫折したものの、平家滅亡への飛び火はしたた かに各地に燃えた。宗盛も洒落た返歌ぐらいで捌けばよかったのに、行く果ては「木の下」ならぬ西海の波間に源氏に囚われ、嫡子清宗とともに斬られた。平家 は滅んだ。秀逸とはいえないが、これも一首の和歌徳といえたのか。
  仲綱の母は菖蒲の前といい、鳥羽院の寵愛ただならぬ美女であったと諸本が伝えている。若き日の頼政はふとした折りにこの美女を見初め、三年が程も懸想の文 を送りつづけた。だが「一筆一詞ノ返事モ」貰えなかった。よくある話だ。
 院はそれと知り、しかとは女の顔も見まいものをと、同じ装束のよく似た女たちに菖蒲の前も加え、五月五日のはや黄昏時 に、「いづれが菖蒲」と列べて頼政が「眼精」の程を試された。当てたなら女は遣ろうというのである。頼政は閉口した。辞退もしにくく、うかと「ヨソノ袖ヲ 引」けば当座の恥では済まない。そこで「カク(一首を)仕」った。

   五月雨に沼の石垣水こえて何れがあやめ引きぞわづらふ

「御感ノ余リニ龍眼ヨリ御涙ヲ流サセ給」うて鳥羽院は菖蒲の前を頼政に授け、夫妻は「志、水魚ノ如クシテ、無二ノ 心中」を分かち合い、嫡子仲綱を儲けた、というのである。
 源三位頼政という武将は、幾つもの和歌徳説話に美々しく装われた、文武両道を絵に描いたような最初の存在だった。頼政 はともあれ「三位」の公卿に列してはいたが、不遇の歳月が長かった。昇殿を許されたのが「年たけ齢傾いて後」だった。述懐の一首にものを言わせ、和歌の威 徳でやっと昇殿した。正四位下で停滞していた時にも、ぜひにと「三位を心にかけ」て、こう詠んだ。

   のぼるべき便りなき身は木の下にしいを拾ひて世をわたるかな

 仲綱愛馬の名は、父が「しい」から三位に昇った、慶びの名前であったやも知れない。
 平安末から鎌倉時代にかけて、和歌が、宮廷社会の巧みな恋愛社交術から、より精神的に深く「道」として求められ初め、 後拾遺、金葉、詞花、千載和歌集へと水嵩が増すように、精魂こめて和歌の「好き=数寄」を極めようとした歌人たちを輩出した。それにつれ、もとは神仏との 感応として多く伝えられた和歌徳説話が、恋にも、出世にも、時に免罪符としても、どっと世俗世間へ流れ出して多くの本に競って載り、喜んで読まれるように なった。頼政はその流行のなかで、文武両道の栄誉をすでに「同時代」に確保した第一人者であった。平家物語も多くの和歌徳逸話に飾られ、武士も優れた歌人 であり得たと強く主張しているが、平家ならぬ源氏の頼政ほど、和歌に生涯を物語られている武人はいない。
 武士は命がけで生きた。源平闘諍の時代はことに切羽詰まった「命」を抱え、奔命した。彼らの和歌は修羅の覚悟に生ま れ、だから感銘を与えた。辞世の和歌が重みをもった。読むものに感慨を強いた点で、武士の、例えば頼政の辞世歌などは、ヤマトタケル最期の歌以来の、典型 の地位を得たと言える。頼政は、只の敗者ではなかったのである。

  三位入道、渡辺長七唱をめして、「わが頸うて」との給へば、主の生首うたん事の悲 しさに、「仕ともおぼえ候 はず。御自害候はば、その後こそ給はり候はめ」と申し ければ、「まことにも」とて、西に向ひ手を合せ、高声に十念唱へ、最期の詞ぞあはれ なる。
   埋木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
  これを最期の詞にて、太刀の先を腹に突き立てて、うつぶっさまに貫かってぞ失せ られける。

  以来、無数のこういう場面が書きつがれ語りつがれ、浅野内匠頭にも西郷隆盛にも及んだのである。頼政の首は唱が取り、泣く泣く石に括りあわせ、敵方を紛れ 出て、宇治川の深みに沈めたと平家物語は言う。ここにも見聞きの者が終始いたに違いなく、いわばこの手の見聞集のように平家物語の取材や編集はなされて いった。著作権という考えはなく、たとえ異なるグループでもこれぞと思う材料は踏襲し、盗作も改竄もし、尾鰭をつけていった。または尾鰭を省いて整えて いった。
 源三位頼政ほど、或る意味で生涯を全うした幸せ者は、平家物語の中でも稀なのではないか。辞世の歌はもの悲しい。挙兵 したとも言えないうちに事は露見し、肝心の以仁王をさえ守護できず、宇治まで逃走せざるをえなかった。果ては平等院の芝の上で割腹した。
 頼政ははや齢七十五の老木の花だった、だが、最期の一と花は咲かせた、源氏の棟梁として大きな役は果たした、と誰も思 えばこそ、頼政は平家物語の一方の雄として、大きく、「はんなり=花あり」ともて囃されている。最期は、歌を詠んでいられる状況ではなかったろう。だが 「若うよりあながちに好い(数寄)たる道なれば、最期の時もわすれ給はず」辞世の一首をのこした。割腹の場所は今も「扇の芝」として平等院にのこり、鳳凰 堂を建てた藤原頼通は忘れられても、武人頼政の最期を知らずに帰るような観光客はいない。
  頼政を、だが、名将、勇将とは思ってこなかった。一源氏の棟梁として身を全うしてきたが、ひょんなことから「時代」に火を放った。火種はあっけなかったが 「飛び火」が燃えた。文字通り「埋木」の以仁王を唆し、勇ましい令旨をたくさん書かせ、健脚の伊勢義盛改め行家を以仁王の名で蔵人に任じ諸国へ走らせるな ど、政略家としては手順を踏んで大胆だが、彼自身の武略は甘かった。根回しが不十分なまま破綻した。女装してかつがつ以仁王はきわどく自邸を遁れ、おかげ で「信連」のような家来の武勇をわれわれは平家物語で楽しめた。彼が以仁王の置き忘れてきた名笛小枝をぬかりなく見つけて王を喜ばせたなど、読んでいても 心嬉しい。
 だが頼政挙兵(治承四年・一一八0)の成行きは情けなかった。王にはことに気の毒であった。頼政も仲綱らも所詮勝つ気 ではなかったのかも知れない。扇の芝にのこした頼政辞世など、以仁王の「身の成る果」を優に代弁したようなもので、担がれた悲運の王に、頼政は「埋木」の 歌で最期に詫びを入れたていると私は読んできた。食えない男ゃな、けど、おもしろいナ、と。
 頼政はもともと食えないヤツであった。安元三年、比叡山延暦寺の暴れ僧たちが「神輿振」して大挙御所に迫り、例によっ て強訴に及ぼうとした。御所の門を固めたのは平家、源氏の武士達だが、頼政の備えはいかにも手薄で、僧兵も目をつけ押し寄せてきた。頼政は思案し、長七唱 を使者に立てて、どれより手薄な我等の陣から破ろうなど、山門の名が廃りましょうと申し入れた。僧兵たちは詮議し、豪雲という僧の説得を是として頼政の陣 を退き、他へ向かったのである。豪雲はこう説いている。

   就中にこの頼政卿は、六孫王より以降、源氏嫡々の正統、弓箭をとつていまだその 不覚を聞かず、凡武芸にもかぎらず、歌道にもすぐれたり。近衛院御在位の 時、当座 の御会ありしに、「深山花」といふ題を出されたりけるを、人々よみわづらひたりしに、 この頼政卿、
   深山木のそのこづえともみえざりしさくらは花にあらはれにけり
 といふ名歌仕て御感にあづかるほどのやさ男に、時に臨んで、いかが情けなう恥辱をあ たふべき。この神輿かきかへし奉 れや。

 競、唱、信連、豪雲、また猪早太、その他宇治橋の合戦などにも、何人もの魅力的な男たちが活躍して倦ましめない のも、頼政一連の物語の大きな徳になっている。鹿の谷事件ではとかく気分は陰気になり、かろうじて西光法師が清盛相手に猛然と啖呵をきるあたりは痛快だ が、頼政挙兵の、悲劇的ではあるが或るはなやぎと優しさ面白さには遠く及ばない。
 これぞ和歌の徳というかのように、ちりばめられた歌の一つ一つが、よく利いている。
 

 

  鵺 ー仏法王法の障とならんとー

  頼政逸話の中で、白状すると、「鵺」の話は苦手である。「かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなは(蛇)、手足は虎の姿」などという怪物とは付き合いたくな い。目に触れやすい「覚一本」だとこの怪物は、鵺の鳴き声に似た鵺とはべつの怪獣で、此れを退治して頼政は、「獅子王」という剣を褒美にもらっている。 「折しも卯月十日余りのことなれば、」左大臣頼長が「時鳥名をも雲井にあぐるかな」と声をかけると、即座に、「弓はり月のいる(=入る=射る)にまかせ て」と、すこぶる即妙の下句を頼政は返上した。
 覚一本では、このあと、似た状況のもとで、今度は雨中の鵺を、同じ頼政がまたみごと射落としている。この時も「五月闇 名をあらはせる今宵哉」と貴人の声がかかると、「たそがれ時もすぎぬとおもふに」と下句をつけ、「弓矢を取てならびなきのみならず、歌道も勝れたりけり」 と誰もが感心したというのである。
 鵺とは「トラツグミ」という鳥だといわれている。頼政に退治された怪物は、だが鵺だけでなかった、怪獣もいた。「鵺的 なヤツ」というと得体知れぬヤツの意味だが、平家物語では、能「鵺」ほど簡明な話ではなくて、似た話が二つ混線しているのである。覚一本で、「かしらは 猿、むくろは狸、尾はくちなは(蛇)、手足は虎の姿」なのは、「鵺」のように鳴くべつの化け物の方であったが、能では、これが「鵺」にされている。
 なぜ、こんな、気味の悪い「鵺」が、一曲の能に仕立てられたのだろうか。
 頼政の武勇。それは賞讃されている。だが弓矢をとって立つ武士は、表道具の弓矢で化け物を射るなどを、「武勇」とは考 えなかった。異本群には、頼政より前に化け物退治を辞退した何人かが居たとしてある。武士の名折れとさえ思う者が少なくなかった、頼政も、実は気が進まな かった。だから二の矢を用意し、もし射損じたときは、こんな役を強いた憎い公家を射殺そうと物騒なことも考えていた。そう書いてある本が現に、ある。まさ かと思うが、それぐらい気乗りしない役目であった。
 頼政の文武両道を疑いはしないが、平家物語の頼政は、たしかに「武」より「文=和歌」の方で、より華やかに賞讃されて いる。鵺退治でも、弓矢芸もさりながら神妙の和歌で名を「雲井に」あげている。
 平家の忠盛が祇園社に出没した「化け物」を沈着に捉え、無用の殺生を避けた話は、いずれ清盛の誕生譚にまで展開する が、これは武勇談であった。その場で和歌は無かった。ただし忠盛もなかなかの歌詠みであった。清盛の和歌は平家物語にはついぞ出てきた記憶がない。重盛に も少ない。無かったかも知れず、こういうことも面白い。
能「鵺」の脚色には、或る何かを、人に読み取らせたい「背景」が、背後のアヤが、隠してあるのだろうかと、長いあいだ私 は考えてきた。すこし途方もない話を、ここで、しておこう。じつは「鵺」の話、諸本の異同も、かなり激しいのである。
  能では、鵺ゆえに夜な夜な「御悩」の主とは、「近衛の院」であり、在位中「仁平(一一五一 - 五六)のころほひ」つまり保元の乱直前の話だとあるが、平家物語では「鵺(怪鳥)退治」は保元の乱より以後「二条院」の頃(一一五八 - 六五)のことと、諸本が、みな声を揃えている。延慶本という代表的な読み本、覚一本という代表的な語り本が、ともに「変化の怪獣退治」の方を、仁平頃、近 衛院の御悩としているのである。近衛天皇とは、鳥羽院と傾国の美女美福門院との間に生まれた皇子であった。二条天皇とは、後白河院の皇子で、美福門院の強 い支持で後白河の後を襲った。そのためか、後白河上皇と二条天皇との父子の仲はぎくしゃくしていた。
  この辺り、皇室の人間関係は実にややこしいのだが、あらましを言えば。
  白河院という強大な独裁者が院政をしき、子の堀河天皇は病に若くして死に、堀河の子の鳥羽天皇が即位した。世は白河法皇の思うままであった。この白河院 が、少女の頃から愛育した璋子藤原氏を、孫の鳥羽天皇の妻にした。璋子はやがて後の崇徳天皇を生んだが、だれもが、父鳥羽天皇でさえも、この皇子は白河法 皇が璋子に生ませた「をじご」であると疑わなかった。白河院はやがて鳥羽天皇を強引に退位させ、問題の崇徳天皇を即位させた。鳥羽が崇徳を疎み嫌う気持ち は執拗であったから、白河法皇が死後に自ら院政を執った鳥羽法皇は、たちまち崇徳を退位させて、寵愛の美福門院腹の近衛天皇を即位させた。今度は崇徳院の 恨む番だったが、家父長制の皇室にあっては鳥羽院の力は強大だった。
 そのうちに近衛天皇は病に早く死んだ。崇徳院は自分の皇子が即位するものと期待していたのに、鳥羽院の遺志と美福門院 の権勢とで、崇徳の弟の後白河天皇が攫うように即位してしまった。キレてしまった崇徳院は、保元の乱の引き金を我から引き、後白河天皇側の平清盛や源義朝 らの武力の前に完敗した。院は讃岐に流され、讃岐で無念を噛みしめて死んだ。美福門院はもともと後白河の皇子二条天皇の即位を望んでいた。後白河もやがて 譲位したのである。崇徳院の都へ帰還を願う熱望は、二条天皇の在位のさなかに繰り返し繰り返しうち砕かれていた。崇徳は凄い怨霊と化していた。
 能「鵺」の作者は世阿弥元清といわれている。誰であってもいい、が、怪鳥に悩まされた天皇を、敢えて鳥羽院と美福門院 の皇子の近衛天皇と推して脚色したのは、「鵺(怪鳥)退治」に、(史実の時機は前後はするけれど、)崇徳天皇の怨霊退散といった趣向を作者は含ませていた のだろうか。
「さてもわれ悪心外道の変化となつて、仏法王法の障とならんと、王城近く遍満して」と、能のシテの鵺は、功力の僧の前に 「救われ」を願い、頼政に射落とされた次第を切に物語る。
 鵺には、「われ悪心外道の変化とな」る以前に、人間の姿があったのである。よほどの恨みがあって外道の身に変化したの だと優に想像できる。では誰への恨みか。前身は何者であったか。鵺はなにも語っていないが、現に「仏法王法の障とならん」と脅し、時の天子の「御殿の上に 飛び下」りて玉体を悩乱させているのであれば、朝廷への恨みと見られる。さればこそ、いかほど朝廷に願ってもついに都へ帰ることを許されず、憤然、讃岐の 配所で自身を「魔道」に回向して果てたという崇徳院の瞋恚の言行と、この謡曲の表現とは、暗く悲痛に符節を合していると読みとれる。そんな気がする。
  ところで、主上の意をうけ、「獅子王」を頼政に授けて「雲井」の歌を読みかけた左大臣頼長は、後に崇徳上皇と組み、保元の乱に負けて死んだ側なのである。 また、近衛院が在世のころには崇徳院はまだ都にいた。都にいて崇徳院は近衛天皇を恨み、幼い近衛を位につけて自分を退けた、ややこしい父親の鳥羽法皇や寵 愛された美福門院のことを、深く憎悪していたことだろう。その心根はさながらに怪獣か怪鳥の「鵺」さながらであったのかも知れない。崇徳院の恨みが、「仁 平のころほひ」なら美福門院と鳥羽法皇にも向けられていたに違いなく、讃岐へ流されてからは、後白河院と二条天皇に向けられて当然であった。能の作者は、 その辺の平家物語のややこしさを逆手にとり、曖昧なままに微妙に暗く、微妙に重い崇徳上皇=讃岐院の怨霊譚らしきものを能舞台に匂わせたのではないか。
 この推量に深入りはしないが、頼政には鵺を射落とした褒美に「獅子王」という御剣を下されている。本によっては、この 剣が「鳥羽院」所持の名剣のように特記してあり、「鵺=崇徳怨霊」という推量とも微妙にからんで、ここにも父子対決がほの見えて面白い。
 ところが頼政には、さらに意味ありげな、三種神器の宝剣がらみに不思議な逸話が、平家物語異本群に書き込まれている。 そしてそれこそが頼政の真実「武勇」を物語っているとも読めるのである。
  時は平治の乱もまぢかいある日、殿上に影のように男が立ち、咎められるとかき消えて、そこに一振りの剣が置かれていた。もしや宝剣か、それなら山も岩も切 り崩せようと、権勢を誇った藤原信頼が御坪の石に切りつけると、「七重八重」に無残に歪んだので、剣はその辺に棄て置かれた。そこへ頼政が来た。信頼はか らかい半分、剣のことは分かるかと尋ね、頼政は弓矢取る身です、分かりますと答える。信頼は棄て置いた剣を女房に取りにやらせた。頼政が剣を静かに手にす ると剣は目の当たりにまっ直ぐに鞘に納まり、信頼は驚愕した。頼政は剣をじっと見て、実に見事な剣です、きっと朝家の守りとなりましょうと言い切り、「大 神宮ニ五ノ剣アリ、当時内裏ニオハシマス宝剣ハ第二ノ剣、是ハ第三ノ剣也」と、実は昨夜半に、天のお告げがあった、「国ヲ守ラン為ニ皇居ニ一ノ剣ヲ奉ル、 即チ宝剣是也。亡国ノ時ハ此剣又宝剣タルベシ」と言われたと、まことしやかに告げた。信頼は信ぜず、証を求め剣で御坪の石を斬れと命じた。頼政はこともな く大石を散々に切った。人々はどよめき、信頼は畏れ、剣は大切に温明殿に蔵われた、というのである。
 それでもなお頼政の言うことを、信頼も、また主上も、信じにくく思っていた。だが、元暦二年三月、安徳天皇とともに宝 剣が浪の底に沈み果てて後に、かの頼政に見出された剣が、波間から拾われた宝鏡と印璽とともに三種神器と成されたときには、みな人は、頼政がまこと「タダ 者」ではなかったのだと思い当たった、と、いうのである。時代を経て後にも「頼政程ノ者ナカリケリ。諸道ニ疎ナラズ」文武両道にわたって「威ヲ顕ハサズト 云事ナシ。花鳥風月弓箭兵杖、都テコノミト好ム事、名ヲ揚ゲ人ニ勝レタリ。就中弓矢ニ験ヲ顕ハシキ」と褒め上げて、さて平家物語の「鵺」の話が始まるので ある。
 三種神器から「剣」が海底に埋没した事件は、平家物語世界の真実一大事であった。埋め合わせに、実にいろんなことが云 われたり書かれたり説かれたりしたが、宝剣に代わる宝剣が、頼政武勇の眼鑑に叶って宮中に用意されていたというこの逸話は、頼政が、いかに世の人の印象に 深切に、大事に、彫まれていたかの、なによりの証拠ではなかろうか。
 

 

  実盛 ー老い木をそれと御覧ぜよー

 芭蕉の句である。

   あなむざんやな冑の下のきりぎりす

 去来抄に拠っているが、芭蕉は猿蓑で、初句の「あな」をはぶき捨てている。謡曲「実盛」に、「樋口参りてただ一 目見て、あなむざんやな、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」とある。わたしは、そのままの「あなむざんやな」の方が、調えての改作より好きである。小松市の 多太神社で、その「冑」を観てきて、やはり「あな」という実感をもった。
 能「実盛」は、他にも例はあろうが、ちょっと意表に出た始まり方をする。登場の囃子が無く、ワキの遊行上人が従僧を連 れて出て、脇座で床几に腰をかける。法談が今から始まるという体である。アイが出て、常座でいきなり話し始める。加賀の国篠原に住まいする男で、他阿弥上 人の法談の座に加わろうと来たのだが、この男、妙なことを言う。上人が、正午ごろになると決まって独り言を言われる。何を言われているのか、その聞き役を 人に頼まれたので高座近くに出ようと思っている、と。                                日中の刻限になると、法談の座に、俗人には見えも聞こえもしないのに、上人の心眼心耳には、一人の老人が日参してくる。そして二人は問答になる。高徳の人 のさも独り言をいうと、人の目に耳に見え聞こえるのは即ち、それであった。上人は、この篠原の戦に果てた実盛の幽霊と対話していたのだ。
 能から離れて実盛を思うとき、彼が平氏でも源氏でもない斎藤、つまり武士の藤原氏であることをつい忘れている。藤原と いうと公家のように思うが、俵藤太秀郷のように強豪をもって知られた藤原氏は、奥州藤原氏もそうだが、各地に割拠していた。あの西行法師も佐藤義清という 武勇の士であった。暴れ者の文覚すら舌を巻き、うちひしがれそうな毅さを法師西行に感じていたという。
 関東平野は「八平氏」というほど平家の扶植された土地だが、足利、新田、武田のような源氏もおり、藤原氏もいた。源氏 の頼朝が、平氏である北条時政の婿として都の平政権を倒そうと起ったことに象徴されているように、「関東」の武士団のかかえた事情は、どっちに味方するか だけでも、複雑だった。一族や家族を根拠の関東に置いて、都の平家に仕えていた武士たちは、関東で頼朝が起ちまた木曾で義仲が起つにつれ、いわば立場上微 妙に宙吊りにされていたのである。
 斎藤実盛にも、源平に挟まれ、似たような事情が無くはなかった。
 実盛戦死の後日のことだが、平家が木曾義仲に逐われて都落ちの際、はたと難儀な判断を迫られたのは、「大番」というい わば公務のために都に来ていた関東武士たちを、西国に強いて引き連れて行くか、いっそ後顧の憂いなく討っておくか、関東に帰すか、だった。中には、もう以 前から厳重に「召籠」めてあった畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門尉朝綱ら一騎当千の者らがいた。中納言知盛はこう意見を具申した。

  御運だに尽させ給ひなば、是等百人千人が頸を斬せ給ひたりとも、世を取らせ給はん 事難かるべし。故郷には妻 子所従等如何に歎き悲しみ候らん。若し不思議に運命開けて、 又都へ立帰らせ給はん時は、有難き御情でこそ候はんずれ。只理を枉げて、本国へ返し 遣さる べうや候らむ。

 総帥宗盛は即座に、「此義尤も然るべし」と彼らに「暇」をやる。畠山等は涙ながら「二十余年の主」の恩義に感謝 し西国への同行を誓うが、宗盛大臣は「汝等が魂は皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国へ召具すべき様なし。急ぎ下れ」と追い放つ。こういう平家 が、わたしは好きだった。実盛も、こういう平家が好きで、最後の最期まで平家の武士として節を枉げなかったという文脈の上で、平家物語でも賛嘆され能でも 顕彰されている。
 それにしても「実盛」物語には、「あなむざんやな」と一息に嘆じさせて余りあるものが、ある。何としても、ある。わた しは苦手なのである。俊寛も景清も無惨であるが、実盛の最期は、無惨でなく無惨でなくと筋を運んであるぶん、樋口次郎の間髪をいれない「あなむざんやな」 に、すべて真実が迸リ出る。樋口次郎はいわば実盛の置かれた平家内での立場に、その武士たる意気地に、一切を代表して「共感と哀情」とを捧げたのだった。
 能「実盛」には、泣かせどころが二つ用意されている。一段と有名な「髪洗い」と故郷に「錦を飾る」話で、簡潔な平家の 語り本に取材しているのだろう、盛りだくさんよりも分かりがいい。だが盛りだくさんに話を積み上げた異本も、拾い読んでいると面白い。理に落ちて説明する きらいはあるけれど、ほろりともさせる。
  実盛には武蔵の国長井に所領があった。妻子は久しくそこに置いていたかも知れない。死に場所は加賀の国江沼郡の、篠原とある。平維盛が木曾義仲に撃ち破ら れた戦で「老武者」実盛は、身を投げ出すように木曾方の勇士手塚太郎光盛と組み打ち、討死した。この間実盛は軍陣の常に違えて、「存ずる旨ありければ」終 始名乗ろうとしなかった。「木曾殿は御覧じ知るべし、」頸はだいじにお目にかけよと、「独り武者」のままに敵中の鬼となり奮戦したのである。討った手塚の 目には「大将かと見れば続く勢もなし、また侍かと思へば錦の直垂を着」ているし、声はとても都の人とは思われない「坂東声」だった。
 義仲は直感で、実盛の頸だと思った。それなら白髪頸と思われるのに、見れば鬢髪黒く、髭も黒い。呼ばれた樋口次郎は見 るなり「あなむざんやな」と呻いた、実盛に相違ないと。老いの花はなやいで討死しようという戦に、老い故によき敵と思われないのでは口惜しい。鬢も髭も染 めて出陣したいとは実盛のいわば遺言に等しかった、のを、心知った友の樋口はよく覚えていたのだった。舞台の感動をなにもかも、拙く話してしまうものでは ない。「錦の直垂」のことは、どの平家物語にも漏れていないが、実盛の頸と知って、涙ながらに木曾義仲が斎藤別当との遠く深い縁を語っている本は少ない。 「木曾殿は御覧じ知るべし」と実盛が敢えて名乗らなかったのには、胸にしみる理由があった。
 実盛が今度の戦を死出の旅と覚悟していたのには、一つには、坂東武者として平家に仕えた時代の不運を嘆く気持ちもあっ た。過ぐる富士川の合戦に、水鳥の羽音に驚いて潰走し大敗して都に帰った無念も恥じていた。今一つに、決起した源氏一方の雄たる木曾義仲にならば、勝ち戦 をさせてやりたい密かな存念をも、実盛は身の深くに抱いていたのである。義仲はそうした背後の事情を源平盛衰記で語っている。
  義仲の父「帯刀先生」の名乗りは、東宮護衛隊長に由来するが、その源義賢は、同じ源氏の甥義平に武蔵大倉の館を襲われ、殺されていた。義仲はまだ二歳だっ た。義平は畠山重能に遺児を捜索しきっと殺せと命じていたが、畠山は稚い義仲を憐れみ、情けある斎藤別当実盛の手に預けた。実盛は七日の間預かったもの の、周囲は義朝・義平方の源氏ばかりで剣呑を極めた。頼まれて守り切らぬも本意でなく、養い置けば早晩義仲のために危険が迫る。実盛は思案を尽くして、稚 い義仲を木曾の中原兼遠にはるばる送り届けた。兼遠は「請ケトツテ、カヒガヒシウ二十四年養育」したのである。
 兼遠とは、義仲と最期まで死命を倶にした樋口兼光や今井兼平の父であった。実盛の白髪頸を眼前に、義仲に今が在るのは みな実盛のはからいによるもので、加えては「七箇日ノ養父」でもあったと、義仲は「サメザメト泣」いて、「危キ敵ノ中ヲ計ヒ出シケル其ノ志、イカデカ忘ル ベキナレバ、此ノ首、ヨク孝養セヨト」義仲は命じ、兵たちも袖を絞って実盛の冥福を祈ったのである。
 同じことを、長門本では、二歳の義仲を「母泣く泣くいだいて、信濃の国に越えて、木曾の中三兼遠がもとへ行き、いかに もしてこれを育て人になして見せ給へ」と頼ませているが、畠山や斎藤別当が背後で心遣いしていたことと何の矛盾もない。また吾妻鏡では、義仲の乳人だった 兼遠が、窮余、稚い主君を抱いて自分の生国木曾に連れて遁れたと記録しているけれど、これも実盛らの情けあるはからいを否定するものではない。
 木曾殿義仲の、最期に至るまで、哀れは哀れとしていつもほの温かにファミリアな主従の情愛にとり包まれているのは、心 嬉しい救いであるが、背後にはこんな事情が隠れていた。実盛が「存ずるところ」を胸中に畳んで木曾の前に老いの身を擲ったのには、「七箇日ノ養父」とし て、やがて義仲も、平家ならぬ身内の源氏の手におちて最期の命を散らす修羅の悲しみを、はや、予感していたからかも知れぬ。
  源平盛衰記「実盛」を叙した結末に、面白いことが書いてある。「新豊県老翁ハ八十八、命ヲ惜ミテ臂ヲ折ル。斎藤別当実盛ハ七十三、名ヲ惜ミテ命ヲ捨ツ。猛 キモ賢キモ人ノ心トリドリ也」と。白楽天の長詩「新豊折臂翁」とは、若い昔の無謀に強いられた南征の軍役を、自ら石で臂を折り忌避して長命した老翁であっ た。卑怯に命を惜しんだ例ではない、失政への強烈な非難の敢為だった。この対比、微妙な批評と言わねばならず、この「折臂翁」が、実はわたしの処女作の題 材になった。
 

 

  経政 ー恥かしや人には見えじものをー

  修羅能もいろいろだが、僧の功力に救われて終わるものの多い中で、「経政」の能では、常世の闇に、修羅の鬼のまま、また消え失せて行く凄みがある。平家物 語では経政でなく「経正」が正しい。
「俊成忠度」や「清経」と同じく一場物の修羅能である。概して、シテとワキとに特別な関係があって、ワキが名前を名乗っ て出てくる能は、一場物になっている。僧都行慶は仁和寺守覚法親王に仕えた僧であり、修理大夫経盛の子息経正は、法親王に「八歳のとき、参りはじめ候う て、十三にて元服つかまつり候ひしまで」は、病気の時のほかは、ひしと近侍し寵愛された公達であった。琵琶を天才的に弾じ、青山と銘された琵琶の名器を預 けられていたのを、平家一門の都落ち(寿永二年・一一八三)に際し、いま一声の別れを申したさに仁和寺にまで馳せて行った。琵琶の青山を、「余りに名残は 惜しう候へども、さしもの名物を、田舎の塵に成さん事口惜う候。もし不思議に運命開けて、又都へ立帰る事候はば、其時こそ猶下し預り候はめ」と、泣く泣く 返納して行ったのである。
 経正は、「甲冑をよろひ、弓矢を帯して、あらぬさまの装ひにまかりなりて候へば、はばかり存じ」て、門前で去ろうとす るのを法親王はひきとめて、親しく対面した。別れは、目睫にせまっていた。
「経正その日は、赤地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧着て、長覆輪の太刀を帯き、切斑の矢負ひ、滋藤の弓をわきばさみ、兜を脱 いで高紐にかけ、御坪の白洲にかしこまる」と、こういう際のまさに作法どおりが書かれている。
 御所の人々も泣いて別れを惜しみ、経正を放さなかった。なかでも経正が幼少のとき、「小師でおはせし大納言法印行慶 は、余りに名残を惜みて、桂河の端迄打送り、さてもあるべきならねば其れより暇請うて泣々別れ」た。この行慶が、能「経政」のワキになって出る。見ず知ら ずの「諸国一見の僧」が通りがかりに幽霊にあい、逗留して功力をもって往生の業をたすけるというのが通例だとすれば、これは異例に、シテとワキとは親しい 間柄である。長門本ではなぜか同一人の名が「行尊」になっている。語りの現場現場でなにがしか存命であったり関係者がいたりして、ちいさな配慮や錯覚がこ ういう変更を生むのであろうか。このときに行慶=行尊と経正とは、こう歌を詠みかわしたという。

    あはれなり老木若木も山桜 おくれ先だち花は残らじ  行慶

    旅衣よなよな袖をかたしきて 思へば我は遠くゆきなん  経正

 さて、巻て持せられたる赤旗、さと指上げたり。あそこここに控へて待奉る侍共、「あはや」と て馳集まり、其勢 百騎ばかり鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に逐つき奉る。

  あざやかな「語り」である。和歌にも句読点が振ってあり、語って聴かせた平家物語の呼吸が生きている。なんという美しいここの「赤旗」だろうか。送る行慶 にも先途をいそぐ経正にも、もう夢にも不思議の生還は断念されているのが、痛ましく、潔い。
 経正は、経盛の嫡男であり、弟に、あの十六歳の花を散らせた敦盛がいた。経盛父子は、例えば弟教盛の子弟ともくらべて 官位官職にあまり恵まれていない。そのことも、こういうところを読んできた頭に、いつも、あった。妙に、ものあわれであった。だが騎馬の武者百騎がさっと 鞭をあげて駆け去ってゆくなど、目に映る光景は優美で雄壮で、涙ぐましい。公達の中ではむしろおとなしく地味に感じられる経正なのに、この御室の別れは、 ひときわ印象的にわたしは愛読してきた。
  能では幽霊の「経政」が琵琶を弾じる。語り本にはそれがない。そんな余裕のあり得ようはずのない都落ちであった。だが読み本には、青海波、萬寿楽など五六 帖を暫く演奏して辞去したという。実際に弾いたというより、弾いて行かせたい読み手や聴き手の願望を斟酌した作意だろう、ここは、きびきびと先へ運んで行 く語り本系の緊張感が、いい。
「青山」という琵琶の名についても、簡潔を旨とした覚一本、長門本などは「夏山の峰の緑の木の間より、有明の月の出でた るを、撥面に描かれたりけるゆえにこそ」とあっさりしているが、読み本はもっと角度を替えて説明してくれる。もとは大唐国に伝えられたこの琵琶を、廉承武 という名手が手づから弾じ、秘曲を日本人に伝えた時、感に堪えず、青山の緑の梢に天人が天降り舞い遊んだ、それで「青山」なのだと。いや、そうではなくや はり撥面の絵からついた名であり、もし撥面絵に牧の馬を描けば琵琶に「牧馬」と名がつくようなものだと。ともあれ「青山」は、「玄上」「獅子丸」という名 器とともに、廉承武に秘曲を学んできた我が朝の男が、仁明天皇の御代に、唐からはるばる持ち帰った琵琶であった。だが「獅子丸」だけは、海路、龍神の惜し むところとなって海没したという。
「経政」の能は、「管弦講にて弔ひ申せ」とあるように、経正追悼会、いや、いっそ経正葬儀の体をとっているとみてもいい だろう。「弔ひ申せとの御事にて候程に、役者を集め候」と、ワキ行慶は、最初に宣言する。開式の辞のようなものである。
「役者」とある二字が、この際なにを説明していようとも、ことに目を惹く。
「役者」とは何なのか。楽器演奏上の配役であるのか。それでもいい。源氏物語の音楽の場面でも、丹念に琴はだれ、笛はだ れと、配役している。シテといいワキというのも、能役者の役どころに相違ない。相違のないそれらの「役」を、全てひっくるめて、遠くはるかに遡れば、天の 岩戸前でエロチックに舞い遊んだウヅメの舞いは、あれこそが「役者」の「芸」の初まりに相違なかった筈である。
 あれはアマテラスの蘇生を祈る、まさに葬儀であった。幸い日の女神は、ウヅメ入神の「役」に引きづられるようにして、 蘇生したのだった。
 だが国譲りの交渉役に天上から出雲に遣わされたアメワカヒコの時は、「日八日夜八夜を遊」んだけれど、蘇生しなかっ た。「遊ぶ」とは、つまり葬儀に配役して、「河雁をきさり持(うなだれて供物を持つ役)とし、鷺を掃持とし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女と し、如此行ひ定め」て、日八日夜八夜を葬祭したのだ。使者の霊魂を鎮め慰めようと「役の者」が「遊ぶ」ことこそ、芸能の根源であった。もとより、かぶりも ののような扮装をもしたであろう。
 そのような久しい「はふり・いはひ」の伝統を踏んで、「役者」という二字が、正しくここにも用いられていることは、な により、岩戸神楽を能の肇と世阿弥や観阿弥が言っているのだから間違いはない。経政をいままさに弔っているところへ、経政の幽霊があらわれる。蘇生でこそ ないが、管弦にことよせた「役者」たちの「芸」が、それを実現し可能にしたのである。能「経政」の舞台は、そのように読みそのように魅入られて、より一層 みごとな効果が味わえるのである。
 それにもかかわらず、「経政」作能は、じつに巧みに平家物語「青山之沙汰」にまなんでいると見える。これは長門本本文 に従ってみたいが、聖帝といわれた村上天皇が、「三五夜中の新月すさまじく、涼風颯々たりし夜半」に、清涼殿で琵琶の玄上を弾じていると、「影のごとくな るもの、御前に参りて、興に乗じ高声に唱歌めでたく」和してきた。帝は琵琶をしばらくさし置いて、「そもそも、なんぢはいかなる者ぞ。いづくより来たれる ぞ」と訊ねた。
 影の男は、その昔、日本から訪れた貞敏に、秘曲と琵琶とを授けた「大唐の琵琶の博士廉承武」ですと名乗り、じつはあの 時三曲を授けるところを一曲を惜しんで授けなかった。その罪で「魔道」に沈淪していたが、いま帝の御琵琶の撥音のあまりに妙なるにひかれて、かくも現れ出 ましたと言い、「御前にたてられたる青山を取って、転手をひね」って、帝のためにその秘曲を、残り無く伝授したのであった。
「そののちは、君も臣もおそれさせ給ひて、この琵琶を」だれも弾奏しないまま、御室の守覚法親王に伝わっていたのを、 「最愛」のあまり、琵琶の名手であった経正にお預けになっていた。西国へ落ち行く間際に経正は、この琵琶青山を返納のために御室へと馳せ来たのであった。
 管弦講に惹かれ、その経政は幽霊となって影のように能舞台に現れる。唐の琵琶の博士廉承武の亡魂と、日本国に名器青山 を弾じえた若き名手経正の幽霊とが、凄艶に一つの「影」を分かち合い、重ね合うに等しい「趣向」が生かされているのだ。
 だが、かの廉承武は、村上聖帝の琵琶により魔道を脱却することが出来たというのに、あわれ経政は、「あら恥かしや、我 が姿、はや人々に見えけるぞや。あの燈火を消し給へ」と、魂消ゆるように叫ぶのである。修羅道の猛火に焼かれ苦しみながら、「恥かしや、人には見えじもの を。あの燈火を消さんとて、その身は愚人、夏の虫の、火を消さんと飛び入りて、嵐とともに燈火を、嵐とともに燈火を吹き消して、くらまぎれより、魄霊は失 せにけり、魄霊は失せにけり」という、物凄い幕切れになる。
 これほどもの哀れなもの凄い修羅能が、他にあろうか。あるかも知れない。が、わたしは、芸術家にして武者でもあらねば ならなかった経政の、無限の怨みに、肌を焼かれる心地がする。
 
 
 

 清経 ー偽なりつるかねことかなー

  平家物語を初めて通読したのは中学三年生であったが、その時、奇異に感じ、印象的だった箇所が、少なくも二箇所、いや四箇所あった。同じ記事が、二度ずつ 別の箇所で繰り返されていた。奇異というと、変なとも思われようが、むしろ一種のつよい感銘をうけたのである。
 平家の都落ち間際に、平家は当然、三種神器とともに一天萬乗の後白河法皇を安徳幼帝ともども、西国へ祭り上げて行きた かった。徳子平氏の生んだ安徳天皇はまだほんの幼児でしかない。ぜひ院政をとる後白河をも体よく「取り奉っ」て、つまり拉致して都を去れば、去って行く先 が、そのまま院と天子との皇都となり、刃向かえば逆賊になる。
 平家の思惑は戦略として自然で当然であったが、思惑を引き外そうと、平家の身勝手で拉致などされたくない老練の法皇 が、すばやく脱出を考慮したのも自然当然であった。事実法皇はかろうじて夜陰に乗じ都を抜け出して、鞍馬山に忍んでしまった。
 この時に、私の読んだ岩波文庫の覚一本では、源資時という若い公家が、只一人「御伴」に随ったと書かれてある。
 わたしは、この資時という人物について、当時、すこしだけ識るところが有った。わたしの買った文庫本の校注と解説をし ていた山田孝雄博士が、この資時、出家して「正佛」といわれた人物こそが、徒然草にいわれている、平家は信濃前司行長が詞を書いて、法師「生佛」に語らせ たとある、その生佛と「同人」であろうと説かれているのを、興深く読んでいたのだ。偶然は重なるものだが、平家物語の次に、いや先にであったと思うが、私 は徒然草の文庫本も買っていて、これはなかなか読み煩ったけれども、校訂者の西尾実博士が、有名な平家物語の成立ちに触れてある段で、「生佛」に「綾小路 資時、正佛」と脚注されているのもちゃんと記憶していたのである。
 残念にも当時中学高校生の私は、まだ後白河撰の梁塵秘抄を知らなかった。資時が、今様唱いの名人であった後白河院に愛 され、歌唱の免許皆伝を享けていたような天才だったとは、まだなにも知らなかったのだ。ただ、此の二人が、ただならぬ仲ではあると、平家物語であの場面に 出会った最初から直感した。何のことはない、かかる危急の際に法皇に只一人「御伴」をするとは、さぞや資時は緊張もしていたろうが、幸福感も味わっていた だろうなと、ま、中学生の感覚ながらそう感じて、奇異にも印象的にも受け取っていたのだった。しかも鞍馬脱出の記事は、巻第七「主上都落」半ばにも、巻第 八「山門御幸」冒頭にも、詞も同じく、ていねいに繰り返されていて、ひとしお私の感慨をそそった。
 後年に、平家物語「最初本」を探索しながら、この源資時や後白河院や建礼門院徳子らを大事に働かせての、しかも現代も の長編の『風の奏で』を、また中編『雲居寺跡=初恋』をわたしに書かせた動機が、その辺に遠く既に疼いていたのだった。これらの小説には、実はわが「清 経」も、なかなかに働いていた。大事な一人であった。
 これらとは異なる『清経入水』という小説が、私を文壇に押し出した太宰治賞受賞作だったことは、幸い、知る人は広く 知ってくれている。この清経入水の記事も、平家物語では二度繰り返されていた。その二度めは、後白河院が、平家滅亡の後に、はるばる大原の庵室に建礼門院 を訪れたとき、女院みずから、六道の苦になぞらえ、西国西海での平家一門の悲しみ苦しみをつくづくと語り出すなかで、象徴的にすべて「不運不幸の初め」と して謂われているのである。まことに清経の入水死にはその趣が色濃くて、数行の僅かな記事でありながら、強烈に印象づけられている。中学生の私もまた、清 経の死に心を奪われてしまい、「なんでやろ、なんで清経は死んでしもたんや」と、不審半分、共感も半分で胸にしっかりと抱き込んでしまった。それを吐き出 したのが、『清経入水』というこれもまた現代小説に化けて現れたのだった。
 平家は一度は福原に入りまもなく九州にまで落ちて行った。北九州には、清盛が太宰大弐を勤めてこの方の、勢力の扶植が ある。宋国との交易で多くを獲得し、文物も財貨も蓄えて平家はぐんぐんと伸びたのだ。だが、時代はいまや動いていた。強硬に対抗し、さしもの平家を九州の 地から追い立ててしまうほどの、強い、新しい地力が生まれていた。

 小松殿の三男、左の中将清経は、本より何事も思入れける人なれば「都をば源氏が為に 攻落され、鎮西をば維義が 為に追出さる。網にかかれる魚の如し。何くへ行かば遁るべ きかは。長らへ果つべき身にもあらず」とて、月の夜心を澄まし舟の屋形に立出て、横 笛音取朗 詠して遊ばれけるが、閑に経読み念仏して、海にぞ沈み給ひける。男女泣き 悲しめども甲斐ぞなき。

 ただこれだけの記事が私の身にしみた。この時九州の地を追われた平家は、柳ヶ浦に舟を浮かべて寄る辺を求めてい た。やがて本州に上り、むしろ勢力を回復して東へ東へと失地を奪い返し、ついには京都をすら望める足場にまで盛り返して行ったのだが、清経は、その全てに 先立って、音も立てずに入水して果てたと謂うのである。一の谷や屋島の合戦よりも、それは、ずっと早い孤独で静寂な自殺であった。
 平家には、忌まわしい、士気を萎えさせる清経入水だったことを語るのが、灌頂巻のすでに仏門に入っていた建礼門院徳子 であった。

 寿永の秋の初、木曾義仲とかやに恐れて、一門の人々住馴し都をば雲井の余所に顧みて、 故郷を焼野の原と打詠 め、古は名のみ聞し須磨より明石の浦伝ひ、さすが哀れに覚え て、昼は漫々たる浪路を分て袖をぬらし、夜は洲崎の千鳥と共に泣明し、浦々島々由あ る所を 見しかども、故郷の事はわすられず。かくて寄る方無りしは、五衰必滅の悲しみ とこそおぼえ候ひしか。人間の事は、愛別離苦、怨憎会苦、共に、吾が身に知 られて候 ふ。四苦八苦一として残る所候はず。
 さても筑前国太宰府と云ふ処にて、維義とかやに九国の内を追出され、山野広しといへ ども立寄り休むべき処なし。同じ 秋の末にもなりしかば、昔は九重の雲の上にて見し月 を、今は八重の塩路に詠めつつ、明し暮し候ひし程に、神無月の比ほひ、清経の中将が、 都のうちをば 源氏が為に責落され、鎮西をば維義が為に追出さる。網にかかれる魚の如 く、何くへ行かば遁るべきかは。存へ果べき身にもあらずとて、海に沈み候ひしぞ (平 家一門にとっては、)心憂き事の始めにて候ひし。

 平家の苦境を、気の毒なほど明快に語って余すところがない。
「清経」という能は、けっして身贔屓するのでなく、惹きこまれる名曲で、謡だけを繰り返し聴いても面白い。何といって も、「音取り」という小書(演出)でのシテの出は美しい。が、そういうことにここでは触れない。平家物語で清経の入水には、要するにただこれだけの本文が ある、覚一本の場合。だから能のように清経と妻との形見の髪をめぐってのやりとりなど、能作者の創作かと思われそうだが、これまた異本にはしっかり出てい て、それを読むと、なぜ清経が入水死に至ったか、まことしやかに説明してあったりする。
 清経は妻を西国までも伴いたかった。妻も熱望していた。だが縁辺の藤原氏の猛反対で別れ別れになり、夫は道中より形見 の髪を送り、文通は怠らないと約束した。ところが三年、「たより」が無い。むくれた妻が「一首ノ歌ヲ」添えて形見の「鬢ノ髪」を返してきた。

   見ルカラニ心ツクシノカミナレバウサニゾ返ス元ノヤシロニ

 能「清経」の、まさに眼目となる和歌一首である。「形見こそなかなか憂けれこれなくは忘るることもありなんと思 ふ」古歌の心を踏んで、「見ているだけで気が滅入ります。心憂さが堪りませんので、宇佐の宮ではありませんが、元の持ち主に、神ならぬ髪は、お返しします わ」と嘆いている。その時、清経ら憂色濃き平氏は、豊後国の柳ヶ浦にいた。「左中将是ヲ見給フテハ、サコソ悲シク覚シケメ」と本の作者には大いに同情され ている。この同情が、能では清経から妻への怨み返しになって来る。その応酬により能が冴え返る。
 本によっては、この妻は、夫恋しさのあまり、先に「憂い死に」をしてしまい、使いの者が、遺言の歌のままに、形見の髪 を返しに柳ヶ浦なる平家の陣を訪れてきたとある。さてこそ清経は、悲歎にうち負け、跡を慕うように清寂の入水死を遂げたのだと謂う。
 源平盛衰記など読み本系統でも似た話をしている。能「清経」は明らかに読み本系によって巧みに創作されていたのであ る。
 むろん平家物語も、誠に巧みに清経の寂しい入水死をもって、「心憂き事の始め」と一門の末路を象徴した。心幼いなりに わたしはそこに惹かれた。

 
 

 巴 ー薙刀柄長くおつとりのべー

 題は忘れたが木曾義仲と、寵妾たちの確執を扱った映画が、むかし、あった。好ましい作とは観なかったので殆ど忘れてい るが、巴を京マチ子が演じていて、適役だった。記憶はあやしいのに、頭の中でぴたりのはまり役として、まだ生きている。華やかな鎧姿の表情まで蘇る。京マ チ子は昔も今もひいきの女優である。巴と、確執いや角逐した相手の女のことはさっぱり忘れているが、葵、山吹、朝日など、の名前が平家物語諸本に少しずつ 見えていて、関わりの、こんな思い出がある。
 京都市東山区の東大路に安井金比羅宮があり、大路をまたいで鳥居前の広道をまっすぐ上って行くと、高台寺や、京都神社 もとの護国神社などへ突き当たる。突き当たる直前に右へ路を逸れて行くと清水寺の方へ行ける。
 この東大路から東向きに、ものの百メートルも行った右側民家、道路から十段ほど石段を上がった玄関先に、朝日御前の墓 と称する石塔がある。朝日御前が木曾義仲の愛妾の一人という以上のことをわたしは知らなかった。そういう遺跡の遺ったことが嬉しかった。
 また私の通った小学校、戦争当時は国民学校であったが、校庭の校舎寄り中央に、大きな椋の樹がそびえ立ち、根方に山吹 御前の墓とした石塔が建っていた。山吹は、木曾殿最期の際に、病でか義仲と倶に都を遁れられなかったと書いている、本がある。なんだか先の映画の題が、 「巴と山吹」だったような気がしてきた。
 平家物語に、木曾義仲の書かれようほど、極端なイメージの分裂は珍しい。八島大臣の宗盛など、比較的人物像が揺らいで その時々の言動や印象がちがって感じられる方だけれど、そして宗盛のためにはそれが人間味を添えた効果をもち得もしているのだが、大方は、することなすこ とほぼニンというものが定まっていて、意外なと特に驚くことは少ない。
 ところが義仲にかぎって、木曾に決起の頃の勇猛果敢、武将として最大限の魅力を発揮していた頃と、都に入って宮廷や公 家社会に接して以後の振舞や描写とでは、別人かのように、扱われ方も書かれ方も大差がある。そして一転して、近江の粟津松原での最期になると、また凛々と して哀情痛切、芸術的感動に富んでいることは、平家全編の白眉といえる場面になる。義仲も哀れならば、最期まで義仲をいたわり庇って壮烈に死んで行く乳兄 弟の今井兼平のみごとさは、涙なしにおれない。
 人物の幅と魅力となれば、べつの価値観を持ち出すしかないが、「書かれ方」という表現の結晶度においては、全編に無数 の人物のあるなかで、木曾義仲は図抜けて傑出している。匹敵するのは義経でも清盛でもなく、私は、後白河院と平知盛とを挙げたい。これは人それぞれの思い 入れでよいことと思う、が、こと義仲に関して一つ言えるのは、清盛や高倉院もしのぐほど「女」が好きで、いささかダラシもなかったことか。
  昔も今も変わらない、この筋の噂は面白づくに飛び交い、新聞も週刊誌もないけれど、筆まめに書き留めたり囁き合うたりすることは、今以上であったろう。そ れが説話の集にも編まれ、また多大な平家物語の異本を生む、いわば「話嚢」となった。
 さしも朝日将軍義仲も、宇治川の備えを、義経率いる佐々木・梶原らの先駆けに打ち破られ、はや都は維持しかねると見 て、法皇に「最後のいとま」申して落ちようとするのだが、「六条高倉」辺に「見初めたる女房のおはしければ、それへうち入り、最後のなごりをしまんとて、 とみにも出でもやらざりけり」という按配だった。この女、「おはしければ」の言葉遣いから、たぶん「松殿入道殿下(関白基房)御娘」であろう、いや「ある 宮腹の女房」であろうと、詮索されている。基房の娘で絶世の美女を義仲が強奪した話も先の方に出ていて、都入りした「木曾冠者」は、その粗暴の故に都人士 に大いに顰蹙されていた。
 しかし義仲はたいへんな美男でもあった。義経は醜男の小兵だったそうなが、義仲は鎧兜をぬいでしまうと別人のような二 枚目であったと、多くの本が口を揃えている。もとより剛勇の猛將であり、女は、結局は魅せられてしまった。そういう女を義仲も好んだ。
 もうそこの河原まで東国の敵勢が「攻め入ッて」いるのに、義仲は女との別れを惜しんで出てこない。まだ新参だという家 来の武士が口を酸くして諌めても、聞かない。
「さ候ば、まづさきだちまゐらせて、死出の山でこそ待ちまゐらせ候はめ」と、癇癪を起こした家来はその場で「腹かき切ッ て」死んでしまい、「われをすすむる自害にこそ」と、やっと木曾は女のもとを離れた。
 いくらか、いらいらする。但し「英雄色を好む」のが常であるなら、或る意味では美女たちがぶらさがるのは、勲章だっ た。義仲は勲章を同時にいくつも遠慮なくぶらさげていたわけで、なかで、最後の最期まで義仲から離れなかったのが「巴」であった。
 さすが好色の木曾義仲も、最期の場に寵愛の女が同伴で、枕をならべて戦死したとあっては人聞きがわるいと、心を鬼に し、我が菩提を弔うてくれてこそ「倶会一処」「後の世までの伴侶ぞ」と強く云い含め、強いて巴を粟津の戦場から落としてやる。巴は泣き、だが義仲はゆるさ なかった。
 さらばと、巴は最後のめざましい一働きをし、鎧を脱ぎ捨てひとり戦場を落ちていった。だが巴の魂は決して義仲の身から 離れなかったというのが、能「巴」前シテの出になる。
  巴は、あの実盛の友中原兼遠の娘であり、今井兼平、樋口兼光らの妹である。義仲とはもともと乳兄妹であり、この一族を抜きに木曾義仲の生涯は語れない。至 福真実の身内であり、一心同体の主従だった。
 能にも、「木曾」という能は、木曾最期を描いたものでなく、義仲挙兵を祝って神の加護をうたいあげた特殊な作であり、 かえって「巴」「兼平」の二番が、義仲戦死を、まことみごとに表現している。義仲は兼平を求め、兼平は義仲を求めて、近江路を敵の勢いからのがれのがれ幸 せにも行き会うのであり、平家物語のその辺からは、凛々しい緊張感と清らかな哀情に満たされて、読みながら感動で息も喘いでくる。その時もまだ美しい巴は ひしと愛する義仲に付き随っていたのである。
 
  木曾殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹は痛はり有て、 都に留りぬ。中にも巴は色白く髪 長く、容顔誠に勝れたり。ありがたき強弓、精兵、 馬の上、歩立ち、打物持ては鬼にも神にも逢はうと云ふ一人当千の兵也。究竟の荒馬 乗り、悪所落し、軍 と云へば、実よき鎧著せ、大太刀強弓持せて、先づ一方の大将には向けら れけり。度々の高名肩を並ぶる者なし。されば今度も多くの者ども落行き討れける中 に、七 騎が中まで、巴は討れざりけり。

  巴は、女ながら、一騎当千の強者をすら一時に二人もとりひしいで頸をねじきってしまうような無類の強豪であり、戦の場に出て負けたことなど一度もなかっ た。兼平は、義仲とただ二人になったときに、自分一人で兵の千人には当たります、気弱になられるなと励ましていたが、巴でも、必ずそう言ったにちがいな い。
 我が国の説話の世界には、女ながらに桁はずれな力持ちがときどき現れる。神の申し子のような、とんでもなく強い女であ るが、この巴は、美貌と強力とを兼ねもった女として、史上第一位の名声と人気を保ってきた。義仲は、女に気の多い男であったけれど、一番深い心の底では、 巴を、我が身と同然に熱愛し親愛していたに、頼んでいたに、違いないとわたしは思う。いっしょに死のうとしなかったのは、薄情であったとか、武士の意気地 で見栄をはったとかではあるまい、愛情であったろうと思いたい。
  寿永三年一月(一一八四)、粟津の別離はどのような平家物語異本でも洩れなく読めるが、その後の「巴」を書いているのは、例によって読み本であり、盛衰記 などである。義仲と別れるまでの戦で巴は目立つ活躍をしつづけたので、国中に知らぬものはなかった。中には女ごときにと、好色を下心に秘めて、言挙げして 巴にわざと組み付いて行った武者も何人もいた。だが例外なく巴の手に命を落とすか赤恥をかいた。それほどの巴であれば、元の木曾に落ち延びたにしても、鎌 倉の頼朝が見逃しては置かない、ついには鎌倉に呼び出された。
 一目見合って、もとよりうち解けうる二人では、ない。頼朝は森五郎に預けて、斬らせようとしたが、武勇の和田小太郎義 盛がつよく願って出て、巴を貰い受けた。見たところわるびれもせず落ち着いて、なかなかの者、あれほどの女に我が子を産ませたい、頂戴したいと。用心深い 頼朝は、親の敵で主の敵である鎌倉の侍に、隙あらば寝首もかこうとするに相違ない、よせよせと諾かないのを、強って申し受けた。
「即チ妻トタノミテ男子ヲ生ム。朝比奈三郎義秀トハ是ナリケリ。母ガ力ヲ継タリケルニヤ,剛モ力モ双ナシトゾ聞ヘケル。 和田合戦ノ時、朝比奈討レテ後、巴ハ泣々越中ニ越エ、石黒ハ親シカリケレバ、ココニシテ出家シテ、巴尼トテ、仏ニ花香ヲ奉リ、主(義仲)親(兼遠)朝比奈 ガ後世弔ヒケルガ、九十一マデ持テ、臨終目出度クシテ終リニケルトゾ。」
 巴ほどの女を永く末あらしめよと願う人の多かったことが想われ、何となく私は嬉しい。
 

 

 忠度 ーただ世の常によもあらじー

「薩摩守タダ乗リ」と、気の毒な駄洒落のたねにされているが、平忠度は地味な印象の底に渋く光る魅力があり、一人の人気 者、平家の悪逆をほとんど担わないままに人の心に影像を置くことの出来た、或る意味で幸せな公達であった。
 歌を詠むとなると、その場を逃げ出す平家の公達もいた。清盛や重盛の和歌を急には誰も思い出せまい。知盛でも宗盛でも 辞世の和歌はない。南都奈良の寺々を焼き払った重衡にはしみじみとした辞世歌があるけれど、およそ平家の和歌を一手に引き受けていたかに見えるのが、平忠 度であった。薩摩守忠度には「俊成忠度」「忠度」と二つの能があり、一つの能に編集できそうなほど、一連の、即ち和歌徳の能になっている。いや、和歌道に 執心執着の能になっている。
 平家では、忠度や清盛の父忠盛が、機転の利いた、文字通り「和する歌」の達者であった。古代の素養を新興の武家として 巧みに身につけ、幾分はその徳を一門の徳に結びつけたのが平忠盛であった。忠度は、すこし違う。和歌の歴史でいうと、確実に父忠盛の一歩先を歩いており、 歌は即興味よりも、真実を尽くして自然と境涯とをいわば写生していたと見受ける。清新な詠みくちで、真剣だった。和歌の道にしんから出精していた。そうい う時代であった。
  武将としての忠度は剛強武勇の士であった。最期の力戦はみごとで、死にざまも美しかった。ここでそれを繰り返すのはやめよう。忠度は粋な人でもあった。王 朝の女文化に対する素養も確かで、敬意も払った。諸本の中には、こんな逸話を伝えた本文もある。
 宮廷社会に、才色兼備をもってその頃ひときわ評判の女性がいて、忠度との親愛には濃やかなものがあった。ところが、い い女というと目のない高倉院も、評判にひかれて時折りに訪れておられた。ある秋の夜長に忠度が訪ねて行くと、先客がある。忠度は院とも知らず、庭面を徘徊 して客の帰るのを待ちわびていたが、なかなか腰をあげそうにない。すこしく焦れて、忠度は扇を鳴らしてそれとなく催促した。
 女には忠度とわかり、気の毒には思うものの、院に、ぶしつけに振舞うわけに行かなかった。また扇の骨をきしませるらし い音がする、院も不審げにされたときに、女は、さりげなく「野もせ」とだけ、呟いた。忠度はそれと聴きとめると、そのまますっと帰っていったのである。類 話も多いのだが、源氏物語の夕顔の巻に、「かしがまし野もせにすだく虫の音よ我だにものを言はでこそ思へ」と出ている歌を、忠度は心得ていた。忠度の扇を 鳴らすのを女は蟲の音に譬えながら、一方歌の下句に情深い忠度への思いも託した。それも忠度はきちんと汲み取ったのである。二人の仲らいは、また一入深 まったと謂う。
 こういう忠度が、誰を歌の師としていたのか、本当に俊成卿であったのか。

      更くる夜半に門を敲き わが師に託せし言の葉あはれ
      いまはの際までもちし箙に 遺せしは花や今宵のうた

  わずか唱歌の四句に能「俊成忠度」や「忠度」の全部が唄われていて感心するが、この美談にひとしい理解に対し、必ずしも賛成ではない人が、わたし自身もそ うなのだが、わたしだけでなく、昔から、いた。いたらしい。平家物語が語り伝えられた時分から、実は少なからずいたのである。能「忠度」の作者、たぶん世 阿弥もその強硬な一人であった。
 忠度に取材した能は、「俊成忠度」はもとより、ことに能「忠度」は、源氏の勇士岡部との最期の決闘を語るための修羅能 では、ない。「生前の面目」を賭けた和歌への執心、それによるいわば無念怨念が忠度を幽霊にしているのである。忠度は俊成の弟子ではなく、歌風からも、俊 恵らの歌林苑に筋を引いた歌人であった気が、わたしは、している。 
 藤原俊成はいずれ勅撰の和歌集、のちの千載和歌集を撰するであろうことは宮廷社会に知れ渡っていた。だから「門を敲」 いて、書き溜めた家集を辛うじて忠度は届け終え、心おきなく都を落ちて一門の悲運に殉じた。
 師弟と見るには、この際の俊成の迎え方が硬かった。琵琶の「青山」を持参の経正を招じ入れた、御室の法親王や行慶らと 比較しても分かるし、平家物語の本に依っては、門前に忠度が来たと知って俊成邸は周章狼狽し、俊成は「ワナナキ、ワナナキ」門の陰まで出て、門を開けるこ と無く忠度と応対した、余儀なく忠度はだいじな歌巻物を門内に「投入レ」て行ったとまで書いている。少なくも門の内へ俊成は終始迎え入れなかった。「勅 勘」の平家で、無理もない。それを咎めはしない、が、師弟の情があったとは思わないのである。
 知られているように俊成は、千載和歌集に忠度の「故郷花」と題する一首を、「勅勘」の朝敵であった平家の身分を憚り、 単に「読人しらず」として撰し、採った。

   さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな  読人しらず

 近江大津京にほどちかい「長等」の地名もよみこんで、温和に懐かしい秀歌である。そして忠度が最期まで身に帯び ていた有名な一首は、先に挙げた唱歌「敦盛と忠度」にも唄われた、

   行きくれて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし    平忠度

 能ではこの「花や今宵」の歌を「読人しらず」と脚色しているが、岡部に最期の手柄を授ける段取りからも、これ は、頷ける。それは、この際はどっちでもいいのである。
 平家物語では、ある本は、千載集に採られたことを、忠度の「亡魂イカニ嬉シク思ヒケン」と前向きに評価している。
 だが覚一本をはじめ幾つもの本は、「読人しらず」とされたことに、「其身朝敵と成ぬる上は仔細に及ばずと云ながら、恨 めしかりし事ども」だと明記し、憚らない。世阿弥もその怨執の念を主題に能を作り書き、どれほど和歌の道に「生前の面目」を賭して忠度が生きたか、その無 念を代弁している。能「忠度」のワキは、今は亡き俊成の身近にいた僧だが、忠度の幽霊は、俊成子息の名誉の歌人、藤原定家がやがて勅撰集を編まれる時に は、どうぞ「忠度」の名を顕わして一首なりと採っていただけまいか、お口添えが願わしいと切望しているのである。岡部に討たれた修羅の無念ゆえに、忠度は 迷い出たのではない。勅撰の歌人たる名誉が、「忠度」の「名」に与えられなかったのを、俊成に対しても、恨めしく思っている、そこが肝心なのである。そこ に世阿弥の批評がある。
 ここに「定家」の名の見えるところが、興味深い。世阿弥は、能の作者は、平家物語の或る本に書かれたこんな記事を、確 実に踏まえていたに違いないからである。
 清盛の子の基盛は早くに死に、遺児に左馬頭行盛がいた。彼は和歌の道を、俊成の子の定家について出精していた。明かな 師と弟子とであった。
 都落ちに、もとより平家の一門の行盛も運命を倶にしたが、怱忙の間に行盛は師の定家に別れを告げ、定家も懇ろに迎えて 薄き縁を惜しんだ。行盛は師の手元に、日ごろ心に入れて書きとめた歌百首の巻物と、手紙とを遺し、都を離れて行った。見ると、巻物の端に、自作の和歌一首 がそれとなく書き入れてあった。

   流れての名だにもとまれ行く水のあはれはかなき身は消えぬとも 

 若き定家は感動し、心に期するところがあった。父俊成が忠度の和歌を「読人しらず」として撰した時も、子息定家 はそれを「本意ナキ」こと、「忠度朝家ノ重臣トシテ雲客ノ座ニ連ナレリ。名ヲ埋ム事口惜し」いことと思い、自分はきっとあの「行盛」の名を顕わしてやりた いと、心にまた誓った。それでも定家は三代の御代をやり過ごし、ついに後堀河院の頃、新勅撰和歌集を苦心して編み、宿願の行盛の歌を「左馬頭平行盛」と明 記して入れたのであった。
「寿永二年大かたの世しづかならず侍りし比、読置きて侍りける歌を、定家がもとへつかはすとて、つつみ紙に書附て侍り し」という題詞も、定家が自身で書き添えたのであろう、「亡魂イカニ嬉シト思フラント、アハレナリ」とは、其の通りである。
 それにしても、この行盛と定家、忠度と俊成の二つの話は、対照が利きすぎていて、意図的な脚色とすら読める。忠度の 「無念」を、ぜひに代弁して遣りたくて堪らなかった人たちが事実いたのだろうと想像させる。忠度の幽霊が、俊成縁者のワキ僧に向かい、定家に頼んで欲しい と懇望するところに、能の意図は、とても面白く、とても哀れに、露出している。
 世阿弥が、この対照的な平家物語の話柄に取り付いて能を作ったのは、ほぼ確かではないかと、わたしは考えている。
 

 

 敦盛 ー跡弔ひてたび給へー

  熊谷直実が、心ならずものしかかり頚を掻かねばならなかったとき、少年敦盛は、どんな顔をして直実の目を見上げていたか。そういう課題が、永らくわたしの 頭にあった。
 直実が躊躇したのは何故だろうとも思った。気の毒…。そういうものだろうか。手柄首をそんな感情で擲てるようには、武 士の神経は出来ていない。熊谷は名誉欲も強ければ、恩賞に対する貪欲も人一倍であった。訴訟が思うに任せなくて出家したのだという俗説すら囁かれた熊谷直 実である。
 敦盛が、わが子の小次郎と肖ていたか。年齢は同じ十六歳でもいいが、首実検で人を欺けるほど肖ていたというのでは、い かにも歌舞伎で、話が出来すぎている。熊谷直実は関東のむしろ荒武者であった。敦盛を渚から呼び返したときにも「日本第一の剛の者」と名乗っている。小次 郎にしても、荒い気概では父に負けていなかった。一谷での、熊谷平山「一二之懸」「二度之懸」を読めば分かる。どうにも手柄をあげたい武骨な父子であり、 またそれでこそ武士なのであり、「現ニ組タリシ敵ヲ逃シテ、人ニトラレタリトイハレン事、子孫ニ伝ヘテ弓矢ノ名ヲ折ベシ」と思い返して、直実は敦盛を逃が し放ちはしなかったのだ。陣中で、心澄まして名笛小枝を吹いていた敦盛とは、もともとモノが異っている。その自覚の上で、さすがに息子小次郎に向っては、 敦盛最期は痛わしかったと、ほろりと、告白している。本によれば、「後ハ、軍ハセザリケリ」とも記事が結んである。根からの武士が、ふっと無常の風に誘わ れた。それは否定しない。だが、それだけのことであったろうか。
 直実は、組み敷いた実感において、一瞬、女を、すこぶる上等の異性…を、感じたのではないか。そうわたしは想って来 た、それなら、わかる…と。
 遂に熊谷は上になりのしかかり、左右の膝で、敦盛の鎧の袖をむずと押さえたとある。これぞ手籠である。敦盛は身動きも ならなかった、いやいや「少シモ働キ給ハズ」と本文にある。手籠にあいながら動いて逆らおうとは、ちっとも、しなかったのである。熊谷は腰の「刀」を抜 き、「兜の内」をのぞいた。なんと、エロチックな表現。「十五六ノ若上臈、薄化粧ニ金黒也、ニコト笑ミテ見ヘ給フ」たとは。女か……。熊谷は、胸を轟かし た。

 穴無慙ヤ。弓矢取身ハ、是程若クウツクシキ上臈ニ、イツコニ刀ヲ立ツベキゾト、心弱
 ク思ヒケル。

 平家物語の敦盛も、能の「敦盛」も、むろん少年である、が、女とみまがうほどに優しいその公達が、わが頚を斬っ た当の熊谷蓮生坊により、修羅道の苦患から救われたい、救うて給われと幽霊で現れる、そこに、この能の奇抜で奇妙な色気がある。倒錯の魅力が、あまい風の ように匂うのである。稚児にも似た敦盛が、どうかすると、昔愛された今は出家の男によって救われたがっている女に、見えてくる。女ではない、少年だ敦盛 だ、あれは男同士だと思い直して行けば行くほど、それでよけいに、とほうもなく能の舞台がセクシィになる。むろん、いやらしくも何ともない。美しく「あは れ」なのである。
「十六」という能面が、「敦盛」の専用面のようになっている。同い年の「知章」にも用いられる。もう一人同い年の公達が いて、宗盛の嫡男清宗がもしシテを演じても「十六」の面をつけただろう。シテがつけるといい面だが、面だけを写真にしたもので見ると、ふっくらした頬で、 妙に栄養が足りていて、「あはれ」味が薄い。あれでは少女とは見えない、年増にも見えないと、これまた永いあいだ物足りなかった。ちがうのとちがうやろ か…と、持って行き場のない気分でいた。
 ある年、能の題を小説の題に、いろんな古美術の名品の写真と競い合うように、現代モノの短編を連載してくれと、茶の湯 の雑誌から、凝った注文がきた。頼み込んで一回目だけ、「十六」という題で敦盛を書きたいと言い、むろん題だけが「敦盛」の、現代小説ではあったのだが、 美術の写真には、三井永青文庫所蔵の能面「十六」を撮影してもらった。私も現場で撮影を見せてもらった。
 カメラマンは、能面は正面から素直に撮りたいと言ったが、わたしは、角度をつけて、能面十六にべつの顔が見えてこない か、ぜひ探ってほしいと注文をつけた。写真家は何度も根気よく試みてくれて、その都度わたしもファインダーを覗かせてもらううち、総身に電気の走るような 戦慄を覚える「女」の顔に、ついに出会った。凄艶な女の顔だった。少年だけが隠し持っている、それは、うら若い母か姉かの顔に見えた。これだと思った。熊 谷直実は組み敷いた少年の、己れを見上げてくる表情に、この顔を見たのに違いない。理屈を超越し、わたしはそれを信じた。
「これを撮って下さい」と、わたしは躊躇なく叫んだ。その写真が連載の一回目を飾り、わたしは幻想的な短編で、古傷の少 年の恋を書いた。写真は、これがあの永青文庫の「十六」かと驚かれた、冴えて、悩ましい、凄いほど美女の横顔だった。連載を終え、単行本になった『修羅』 の表紙や函も、その「十六」のカラー写真が飾った。
「あはれ」であった。
 
  一の谷の戦やぶれ 討たれし平家の公達あはれ
  暁寒き須磨の嵐に きこえしはこれか青葉の笛

 わたしぐらいな六十過ぎた年輩なら、この唱歌を知らないものは少ない。いまはなぜか「青葉の笛」と題してあるよ うだが、昔はずばり「敦盛と忠度」だった。歌詞の一番には敦盛を、二番は忠度を歌っていた。源氏より平家が贔屓だったわたしは、愛唱に愛唱した。同じよう に南北朝の時代、「青葉茂れる桜井の」駅の、楠木正成正行父子が訣別の歌も熱唱した。そういう時代であり、そういうタチの少年だった、わたしは。敗者に涙 した。
 平家物語を読むようになったのは、戦後、新制中学をそろそろ卒業という頃だった。能楽堂へ出かけ、主に京観世の舞台で 「清経」や「八島」を観たのも、顔見世の南座で市川寿海の盛綱を観たり、人形浄瑠璃の「熊谷陣屋」を聴いたりしたのも、高校一年頃からのことだった。そん な時もあの唱歌の哀調はわたしの中でいつもたゆたっていたし、そうでなくては、能にせよ歌舞伎にせよ、そうそう親しめる芸能ではなかったかも知れない。
 だから平家物語をはじめて文庫本で買って、頭からどんどん読み進んで「敦盛最期」に来た時、「きこえしはこれか」と 唄ったはずの「青葉の笛」などという笛の名が、本文に全然出ていないのに、文学少年、大発見の面持ちを隠すことができなかったのである。
 事実「青葉の笛」と書いた本文は無く、大方が父経盛より伝領の名笛の銘は「小枝」としてある。頼政に担がれた無品の宮 以仁王が「御秘蔵ありける」名笛も、「小枝」と呼ばれていた。両者になにの交通もなげであるからは、奇妙というしかないが、実は「青葉の笛」を世に広く流 布した張本は、能の「敦盛」であった。本説正しきを尚ぶ世阿弥ないしは当時の作者であるから、どこかに典拠のあることと思いたいが、例えば十訓抄に「笛の 最物」つまり横笛の名器「青葉」の名は出ているのだが、創作であっても面白い。とにかく小謡にもなっている、こんな「敦盛」の詞章に、めざす笛の名は紛れ もない。

 身の業の。すける心により竹の。小枝蝉折様々に。笛の名は多けれども。草刈の吹く笛 
ならばこれも名は。青葉の笛と思し召せ。

「敦盛」のワキは、熊谷直実出家して蓮生法師で、往年討ち果たした平家公達の菩提を弔うべく、一の谷に登場したと ころで、前シテの草刈男の笛を吹くのに出逢う。あまりの優しさに笛の名を問い掛けた、その答が「青葉の笛」であった。この少し前、蓮生は草刈る男の笛を、 物珍しく「その身にも応ぜぬ業」に思い、かえって男から「それ勝るをも羨まざれ。劣るをも卑しむなとこそ、承れ。其の上、樵歌牧笛とて。草刈の笛樵の歌 は。歌人の詠にも詠み置かれて、世に聞こえたる笛竹の。不審はなさせ給ひそとよ」と窘められている。笛を吹く草刈男に、例えば「小枝」「蝉折」のような伝 来の品の銘を期待して聞くものはいない。珍しい音色、珍しい形の、見慣れず聴きなれないものだったから、「それは何の笛か」と尋ねたのだ。他ならぬこの草 刈る男こそ、後シテの敦盛その人と思えば、いよいよ義経や熊谷の涙を誘ったという、うら若い「上臈」の鎧の袖に隠されていた笛を、草刈の青葉の笛に重ねて は想像しづらい。
「山路に日落ちぬ 耳に満てるものは樵歌牧笛の声。澗戸に鳥帰る 眼に遮るものは竹煙松霧の色」とも、朗詠集に謂う。そ して明らかに蓮生法師が須磨の浦一の谷の夕まぐれに聴いたのは「草刈笛の声添へて吹くこそ野風」と謡われている、牧笛の哀調なのであった。草笛、葉笛で あった。

 

  通盛 ー討死せんと待つところにー

  もし小宰相という愛妾をもたなかったら、一の谷の合戦(寿永二年・一一八四)で討たれた、能「通盛」のシテは、平家一門の中で目立つ存在とは謂えなかっ た。平家物語では、北国に木曽義仲が起った頃から、追討軍の大将格で名前が何度か見え初めるが、忠度とほぼ同時に源氏に討たれた記事以外にはさしたる問題 のない人物であった。恋女房の小宰相に、妊娠していたこの愛人に、哀切無比、後追いの入水自死をさせた男こそ、通盛、といえば全ては尽くされる。
 武将としては、弟の能登守教経が平家では抜群だった。終始豪快に闘いぬいて、しばしば「高名」を馳せた。「討つべき敵 なし」というほどに、都落ちの後も一時平家挽回の立役者になったのが、能登殿だった。のちには、あわや源氏の義経を追い詰め、手もかけんばかりに派手に活 躍して、壮烈に壇ノ浦で戦死した。
 通盛もそこそこに力強くはあったようだが、敵を組み敷き首を掻くのに、鞘のまま刀を使っているうちに、たばかられた感 じに、下から眉間を刺し貫かれて果てたらしい。
 通盛は、一門総帥の八島大臣、従二位宗盛の婿であったという、が、この北方は年端もゆかぬ少女であったため、藤原憲方 の娘で小宰相局という女房を西国へ伴っていた。けれど、妻の座にはなく、乗る船も別であった。だが二人は人目を忍んでしばしば逢う瀬を語らい、この上もな いアツアツぶりは、知らぬ人もなかった。
 小宰相はかつて宮仕えしていて、「心懸ケヌ人ハナ」いほど、「心ハ情深ク形人ニ勝レ」ていた。ある春の一日、高貴の人 の北野参詣にこの女房の付き添っているのを「通盛ホノ見給ヒテ、宿所ニ帰テ忘レントスレドモ忘ラレズ、」人を介して、文と歌とを送った。

   吹送る風のたよりに見てしより雲間の月に物思ふかな

 うまい歌ではない。小宰相は返事をくれなかった。「三年ガ程、書尽キヌ水茎ノ数積モレドモ、終ニ返事」は無いま まであった。とうどう、死ぬとまで書いて、小宰相が朋輩らと同車の中へ恋文を投げ込んだ。大路に捨てるのも流石に憚られ、車中に放置もならず、仕方なく 「袴ノ腰ニ挟」んだまま建礼門院の御用を務めているうちに、ふと取り紛れ、文を落として気づかなかった。
 女院は衣の袂にそっと伏せ隠し、懐中し、御遊の後に、女房達の中でこのような文を拾ったが誰のものかと聞いた。「我も 我も知ら」ないと言う中で、ひとり小宰相局は身の置き所もなげに俯いていた。文には香がたきしめてあり、「手跡モナベテナラズ美シク、筆ノ立チドモメヅラ カ」であった。文の端には思いのたけを、
   
   我が恋は細谷川の丸木橋ふみ返されてぬるる袖かな
   踏みかへす谷の浮き橋浮き世ぞと思ひしよりもぬるる袖かな

「つれなき御心も今はなかなか嬉しくて」などと「文返し」続けられて「逢はぬ恋を恨」みがちに、しみじみと恋慕の 気持ちが書き連ねてあった。
 女院は、一門の通盛が執心している噂はほのかに聞いていたが、細かな経緯は知らなかった。こういうことであったのかと 女院は小宰相に、「アマリニ人ノ心ツヨキモ讐トナル」と諭し、これほど思う男との「一夜ノ契リ、何カサホド苦シカルベキ」と、女院自ら硯を引き寄せて返事 を遣った。

   ただたのめ細谷川の丸木橋ふみ返しては落つる習ひぞ

 こうまで女院の仲立ちがあっては、小宰相も「力及バデ終ニ靡」いた。傍目もまばゆい仲の好さで、もとより通盛が 通いつめた。日ごろを経て、それほどの小宰相から一時通盛は他の女に心をうつし、「離レ離レニ成」ったが、小宰相はこんな歌を通盛に送った。

   呉竹の本は逢夜も近かりき末こそ節は遠ざかりけれ

 竹は、根元ほど節から節が短くて、末になると広がるのを、通盛との「逢夜」から「逢夜」までの長さに巧みに譬 え、優しく恨んでいる。「モトヨリ悪シカラザリケル仲ナレバ、通盛」は小宰相のこの歌に愛で、また「互ヒニ志浅カラズシテ年ゴロニモ」なっていた。。
 正室在る通盛と小宰相とは、世間には「仮初ノ」仲と見られていたから、「一ツ御船ニハ住ミ給ハデ別ノ舟ニ宿シ置キ奉 リ、三年ノ程波ノ上ニ漂ヒ、時々事ヲ問ヒ給ヘリ。中々情ゾ深カリケル」と平家物語は伝えている。一人の「妾」への記述に敬語が頻繁に用いられているのは、 小宰相には同情や称賛が集っていたのであろう。そして通盛最期の前夜にも、男は女を陣屋に呼び寄せ、尽きぬあわれを夜をこめて交し合い、ついには弟能登殿 に窘められている。ようやく通盛も、「今コソ最後ト知給へ」と覚悟も堅く、小宰相を舟に返し送って、自らは急ぎ「物具シテ」戦陣に備えたのであった。
 一の谷の合戦は、だが、平家散々の負け軍に終わった。弱冠十六の敦盛の「討たれ」に象徴されるように、まさに「一の谷 のいくさ敗れ 討たれし平家の公達あはれ」であった。重衡は捕えられ、大将軍の忠度や通盛や、また若い敦盛や知章らが次々に討ち取られた。知盛は愛する子 を身代わりにかつがつ沖の船に逃げもどり、ふがいなさに号泣した。
 通盛が弟能登守と赴いていた戦場は、山の手であった。「此ノ山ノ手ト申スハ一谷ノ後、鵯越ノ麓ナリ」というから、逆落 としに源氏の義経に攻め落とされたのである。あそこに討たれここに討たれ、通盛も、多くいた従者はみな散り散りに、身一人となって落ち延びて行くのを、源 氏の兵も「追懸」けていた。そして運も尽きたか通盛は、「馬ヲ逆マニ倒シテ首ヘ抜ケテゾ」前のめりに落馬してしまう。後ろからは児玉党の七騎が追い、そこ では「近江国佐々木荘ノ住人」源三成綱が落ち合うて、落馬の通盛にむずと組み付いた。
  三位通盛は、だが忽ち上になり、佐々木を組み敷いた。佐々木は撥ね返そう返そうとしたが通盛は力勝りの人で、押さえ込んで佐々木に働かせず、刀を抜いて源 三の頚を掻こうとした。ところが「掻ケドモ掻ケドモ」頚が落ちない。見ると鞘のまま斬りつけていた。
 この際どいところで佐々木は、この敵が、かつて主筋であった越前三位通盛卿であると気づいて、「成綱叶ハジト思ヒケレ バ、下ニ臥ナガラ、誰ヤラント思奉リ候ヘバ君ニテ渡ラセ給ヒケリ。知リ参ラセテ候ハンニハ、イカデカ近ク参リ寄ルベケン。年ゴロ平家ニ奉公ノ身ナレバ御方 ヘコソ参ルベキニテ侍リツルニ、心ナラズ親シム者ドモニスカシ下ラレテ、今戦場ニ馳セ向ケラレタリ。イヅレノ御方モオロソカノ御事ハ候ハネドモ、殊ニ見馴 レ参ラセテ御懐シク思ヒ奉ル。只今カク組マレ参ラセヌルコトヨ。同ジクハ人手ニ懸カリナンヨリ嬉シクコソ」などと言い掛けた。宇治川の高綱といい、藤戸の 盛綱といい、この成綱もしかり、佐々木一族の口のうまさよ、後には佐々木道誉のようなバサラも現れる。
 通盛は、一瞬ためらってしまった、その隙に下の成綱は、兜の隙間へ抜いた刀を二度まで深く刺し入れた。「刺シテ弱リ給 ヒケルヲ、力ヲ入レテ跳ネ返シ、起シモ立テズ、ヤガテ三位ノ頚ヲ取ル。」覚悟の上とはいえ、通盛はあわれここで命絶えた。
 源三もひどい手負いで、通盛の刀を見ると、鞘尻の二寸ほどが砕け、刀の峰が二寸ほど源三の首を切りつけていた。「源三 成綱ハ左手ニテ(自分の)頚ササヘ、右ノ手ニ(通盛の)首ヲ捧ゲテ陣ニ帰ル。ユユシクゾ見エタリケル」と異本の一つは書き、また別の本は、佐々木の獲た通 盛の頚を、梶原景時が横取りしようとした凄まじい話も書いてある。さまざまな位相で見聞や伝聞が入り混じり、いろんな本を生んでいるのだが、小宰相のもと へ、通盛最期をこまかに伝えたという通盛家来の一人は、いったい、組打ちの時にどこにいて、どのように主の討たれるのを見届けていたのかと、小説家は、そ ういうところに興味を感じてしまう。
 ともあれ夫通盛の死を告げられた小宰相は、愛した男の子を身に宿したまま、悲歎の余りに沖波の底の藻屑と身を投げ果て てしまうのである。わたしが初めて平曲の語りを聴いたのはこの「小宰相」入水の一句であった。今日、平曲の正統を語れる事実上只一人ともいえる橋本敏江の 演奏だったが、震えるほどの感動があった。
 ありそうで少ないのが男の跡を慕って女も死ぬということで、逆に男のほうに、それが有る。平家物語でも小宰相はわたし の記憶する限り唯一の例であり、よほどの感銘を与えたのではないか。信じられないと思った人も、死なせたくないと願った人も多かったのではないか。小宰相 は死ななかった、壇ノ浦から安徳天皇を奉じて山陰の海づたいに逃れた、一行を率いていたのは門脇中納言教盛だったという伝説が、現に二十一世紀まぢかい今 日にも、山陰地方に実在している。教盛は通盛や教経の父であり、小宰相には舅に当たっている。
 

 

 千手 ー目もあてられぬ気色かなー

 いい能で、いつ観てもふと涙ぐむ。重衡は平家の公達のなかで、花なら「牡丹」と譬えられていた。しかも罪深い南都焼討 ち(治承四年・一一八0)を敢えてした張本人であり、国家的な大罪人であった。おごる平家の代表者とまで言う気はないが、南都を焼き払ったのにも、余儀な い一門の強要があったからというより、また当人が頼朝に弁明していた不慮の成行きなどというより、図に乗って自ら奈良の大寺憎しと踏み込んだ向意気の強さ は、否めまい。そういう重衡であった、跳ね返ったとも出過ぎたとも言わば言えた。そういう重衡にくらべれば、同じなら能登殿教経のような、源氏の義経を追 いかけ追いつめ、最後は颯爽と自決して果てた敢闘の勇者の方が、誰の思いにもはるかに好ましかったろう。
 平家物語はおもしろい。そういう罪業深重の平重衡を、それが「けじめ」で「はからい」でもあったとばかり、数ある公達 のなかでいちはやく源氏の手に捕縛させた。みじめに都へ追い上げ、厳しい恥をみせつけた。だが、さてその後はというと、最期の間際まで、哀切きわまって譬 えようもないもの哀れな幾場面を重衡に演じさせて、これぞ平家物語と言わんばかりに情深い物語を優に繰り広げるのである。
 囚われる以前の重衡の書き方と、囚われてからの重衡に対する平家物語の静かに優しい扱い方には、まるで視線の当て方が ちがっている。別人の観がある。おそらく、重衡その人の打って変わりようもさりながら、実際に重衡を観察していた眼の持ち主も、微妙に、前後交替している のではないか。驕る平家の重衡を見ていた白い眼と、囚われて後の重衡を見ていた温情の眼とは、別の人ないし別集団のものであった。考えれば、当たり前のこ とであった。
 平家物語とは、まさにそのような複眼による複雑で微妙な所産であった筈だ。わたしは、いつも後段の重衡を叙した筆にも 語りにも、何ともいえぬ感謝に似た嬉しいものを覚えて読んだ。なぜこうもと訝しいほど、重衡の、京から鎌倉へ、そして最期の奈良南都に至るまでが、いかに も心優しく扱われていて、いわば「重衡物語」とも纏めて読めるほど結構の宜しさと良質な表現とに満ちている。おそらくは、影のように付き添うて重衡最期の 物語を専ら語り伝えた存在が、愛情深き存在が、前半部とは別に実在したのであろう、例えば重衡没後の、千手の前、伊王の前のような。わたしは、そう想って いる。
 能の「千手」も、平家物語の哀調を湛えた心のぬくもりを素直に踏襲し、しみじみと美しい鬘能になっている。まるで流謫 の光源氏のように罪科深重の重衡がそこにいる。そんなように創ってある。
 ところで、である。 
 能の「千手」は、最後にいたり、「何なかなかの憂き契り。はやきぬぎぬに。引き離るる袖と袖との露涙」とある。男女に 実事ありきという表現である。二人はともに寝たと理解してある。その上で、それゆえに、美貌の千手と後朝の心も露けく引き放たれた「重衡の有様、目もあて られぬ気色かな、目もあてられぬ気色かな」という異彩を放つトメに入る。勘ぐれば、このような情緒纏綿の生き別れの悲しみのほうが、やがて訪れ来る南都奈 良坂での怨みを負うた刑死よりも更に辛かったろうとすることで、重衡のためにも大方の世人のためにも、悲惨の色合いを峻烈から優情へとそっと転調させた趣 をすら、「千手」という能は感じさせてくれる。ありがたい、功徳供養の能である。
 だが「能」と違い「平家物語」には、重衡と千手の前とは寝ていない、性的な関係はついに無かったのだとする、かなり強 硬な意思が働いていて、これがまた、重衡に死なれ先立たれた千手や、身辺の者たちの意向を反映しているようで興深い。面白い。「寝た」といい「寝ぬ」とい う。どちらも「あはれ」に趣深く、しかもわたしは、平家物語の諸本が多くにじませている、「寝ぬ」説を、殊に捨て果てるに忍びない。
 覚一本を読み返すと、ほんとうに、これは善い整理の行き届いた本だと、台本だと、感嘆する。と同時に、その簡潔で要領 をえた叙事の、もう少し先、もう一寸先、そこは、ここはと知りたがる聞きたがる向きへ、親切過ぎて委細を尽くして行く尾鰭の面白さというものが、他の詳し い読み本には満載されている。苦笑いしてしまうことも多いが、凡俗の読者としては面白くないなどとは言えない。うんうんと頷いて読んでしまう。
 こと「千手」に関して、そんな平家物語の簡潔派も詳細派も「寝た」「寝ぬ」に関しては、まずは一致で「寝ぬ」に、思い も声も揃えている。能とは違っている。こだわるようだが、まだ心身ともに幼かった昔に初めて読み、また若い盛りに初めて能「千手」を観て、あの二人は、ど やったんゃ、寝た、ちがうのとちがうやろか。寝ん。ほんまかいな。きまじめな愛好者には申し訳ないが、気になった。気になるだけでなく、大事な見どころに 思われた。比較になるのは、だが、当時は例の覚一本と、謡曲「千手」の稽古本としか手元に無かった。
 重衡は、囚われのまま鎌倉に送られて頼朝に見参した。一通りの応対で重衡もけっして臆してはいなかった。ただ出家する ことは許されなかった。いつかは南都の手に引き渡して処断を委ねざるを得ない。頼朝は重衡の身柄を狩野介宗茂に預け、「相構へてよくよく慰め参らせよ」と 命じている。宗茂も情けある武士で、気を配って種々もてなそうとするのだが、千手の前ほどの美女、それも頼朝の意をうけて湯殿の世話にまで訪れてくる女を も、重衡は快くは受け入れる気になれない。
 古来湯殿の女は、すなわちそこで性的に奉仕する女でもあったことは、神々しき民俗としても一の伝統であった。湯巻はそ のまま一時の褥ともなったのである。頼朝はそのために寵愛さえしていた千手を送り入れ、「何事でも思召さん御事をば、承はて、申せ」報告せよと命じていた のだし、狩野介も言葉を添えていた。実は頼朝は、重衡の望みを聞いて報せよと言っていたのではなかった。男女の仲にもしなれば正直に申せよと、いささか男 臭い下がかった興味をもっていたことが、語り本などでも分かる。だが、千手の言葉によれば重衡は率直に出家させて欲しいと答え、いわば頼朝の覗き趣味をか わしたのだった。むろん、本音だったろう、そんな本音の重衡は、千手がどういう女かと宗茂に聞いているほどの興味こそあれ、湯殿でも、女には我から肌は触 れなかったのである。
 今度は、酒と音楽で千手と宗茂は重衡を慰めようとした。これにも重衡は「いと興なげに」少し杯を傾けるだけであった。 行儀のいい覚一本にさえ、これも頼朝のはからいで、彼は重衡の音楽の才を聴き知りたさに立ち聞きの挙に出ていたことを明かしている。他の本ではもっと露骨 にそれを面白おかしく言い囃している。
 重衡は知るや知らずや容易に興に乗ってこないのを、千手は懸命に手をかえ品を尽くす。先ず菅公が配所にいた頃の詩句を 一両返、しみじみと朗詠したのが巧みな誘導であった。「手越の長者が娘」千手は、さすが「眉目形、心ざま優に」すぐれた才媛であった。詩句は菅原道真の自 信作で、これを朗詠する人を心にかけて守護したいとまで言い遺していた。重衡は初めて、自分は菅公と同じくこの世では捨てられた存在、千手に和してその詩 句を朗詠しても詮無いこと、もしも「罪障軽みぬべき事」ならば声を添えるのだがと述懐した。千手はすかさず「十悪といへども引摂す」と西方教主の弘誓本願 を朗詠して、さらに「極楽願はん人は、皆弥陀の名号唱ふべし」と繰り返し繰り返し心こめて唄い澄ました。重衡
は静かに盃を傾けて千手の情けに感動を隠さなかった。重衡が宗茂と酌み交わしているうちにも千手は琴を持ち出し、重衡が 得手の、頼朝がものかげで期待している琵琶をそれとなく薦めた。千手が琴をかき鳴らすと、それは「五常楽」という曲だが、いまわたしには「後生楽」と聞こ えて有りがたいと重衡はあわれを催し、されば「往生の急」ならんことを願おうよと遂に琵琶を手にして「皇?」という秘曲の急、つまりおしまいの方を、みご とに演奏した。
 夜やうやう更けて、萬づ心の澄むままに重衡は、「あら思はずや、吾妻にも是程優なる人の有けるよ。何事にても今一声」 と所望すれば千手の前また、「一樹の陰に宿り合ひ、同じ流を掬ぶも、皆是前世の契」と云ふ白拍子を、歌いかつ舞った。言うこと為すことソツがない。ただの 挨拶とは思われぬ情け深さに重衡は涙ぐんで、「燈暗うしては数行虞氏の涙」と朗詠した。四面楚歌のさなかに皇帝項羽の虞后に別れるのを悲しんだ詩句であっ た。そのうちに夜も明けた。「武士ども暇申して罷り出づ。千手の前も帰にけり」とある。
 覚一本はおとなしいが、頼朝は千手のためによい仲人を自分はしてやったぞと千手をからかい、千手は顔を赤くしてほんと うに何事もなかったことをしきりに言う。
 二人の会うのは一夜ではなかったから、男も女も情けの前にさぞ得堪えかねたであろうけれど、ガンとして千手は寝ぬとい い、同じく送り込まれた伊王の前という女も、重衡は共寝はしなかったと言い張るのだった。
 いずれにしても別れの日は来た。重衡は奈良で無惨に死に果て、千手も伊王もともに手を携え、強いて頼朝のゆるしを得て 尼になり重衡の菩提を願う日々を過ごしたのである。「寝て」の哀れよりも、ついに「寝なかった」男に殉じた千手らの哀れに、心を惹かれる。
 

 

 藤戸 ー思へば三途の瀬踏なりー

 
 一の谷と八島とに挟まれ、平家物語のなかでの児島合戦は、引き沈んだ窪みのようにあまり思い出されることがない。
 一の谷を追われた平家は四国讃岐の屋島に陣を張り、安徳天皇と三種神器を奉じて正統の朝廷であることを誇示していた。 これは京都の後白河院にも、その支持で即位しようとする後鳥羽天皇の周囲でも悩みの種であった。安徳天皇のことはまだしも、三種神器は是が非でも奪回しな いでは済まない、至上の課題であり難題であった。源氏に対する平氏討つべしの至上命令も、言い換えれば鏡と玉璽と剣とを無事に是非に都へ戻し奉れとの意味 であった。神器を身に負う事なくして即位した、後鳥羽天皇は史上に例をほとんど見ない天子たらざるを得なかったのである。
 そしてこの頃の平家は、あわよくば都を窺いうるかと思われる勢いを徐に蓄えていたとも、言えば言えた。ひとつの現れと して平家は西から山陽道をもほぼ制圧しながら、四国の屋島からは瀬戸内海を隔てた対岸備前の国の児島にも一根拠を構えて、西下してくる源氏に対抗してい た。さりとても、児島は海上に浮かぶ一つの島にすぎない。源氏は頼朝の弟範頼を大将に藤戸の渡しまで迫っていた。言うまでもないが頼朝のもう一人の弟義経 は、屋島の背後を衝こうと嵐をおかして阿波国へめざしていた。
 児島へ二千余艘もの船で押し渡っていた左馬頭平行盛らの平家方は、結果から言うと呆気なく源氏の軍勢に攻め込まれて、 あたふたとまた船で屋島に逃げ戻って行った。源氏の大勝利には奇襲が何度もあるが、児島攻めもまた平家にはまさかと思われた海を馬で渡るという、稀有の奇 襲であった。佐々木三郎盛綱の大手柄であった。
 ことわっておきたい、わたしは、いわゆる「藤戸」のことは好きでない。初めて文庫本で読んだときも、能の「藤戸」を観 たときも、いやな話だと思った。歌舞伎の「近江源氏先陣館」で盛綱を観ても、歌舞伎にはそれなりの趣向があり面白くも哀れにも出来ているとして、それでも 能の、また平家物語覚一本の印象に、よほど妨げられていた。
 盛綱は、あの宇治川の先陣を切った佐々木四郎高綱の兄であり、藤戸の馬の渡しでは高綱のあの手柄を凌ぐほどの絶賛をあ びまた重い恩賞にも与ったのであるが、それほどの大功名を授けてくれた藤戸の土地の男を、口封じに無残に斬って捨てていた。わたしは、そういう盛綱にいつ までも拘った。不快で仕方なかった。
 不快に感じた人が昔にもいたからであろう、能の作者は「藤戸」を作った。能の中でもなお盛綱は男を殺された怨みを告げ てきた女にむかい、一度は事実を否認し、その上で殺したことを認めている。そんな盛綱の追悼をうけて、怨みゆえに悪道に落ちていた男の幽霊は盛綱をゆるし 追悼を謝してまた冥土に沈んで行くのであるが、さほどはわたしの心地は良くは改まらないのである。
 武士であるから、源氏の兵たちが、功名手柄に目の色を変えるのは、ま、仕方がない。その点、平家の方には、そういう武 士がもともと数すくない。名を重んじる点は源平変わりはないとして、源氏には、佐々木も熊谷も梶原も畠山もみな個人プレーの抜け駆けや駆け引きに精魂を用 いている。平家の侍は、もともとの「侍」の意義である、地にひざまづいて主君の命に信義を尽くす。どっちがどっちという事は言わないけれど、手柄のためな ら他を出し抜いてもというのは、あの高綱の「腹帯が緩んでいるぞ」と先駆する梶原をたぶらかしたのなども、あの場合はまだからっとしていて幾らか笑って見 過ごしていたが、盛綱のようにそのために無辜の人を殺めてまで手柄をという、手のこんだ知恵の働かせ方は、わる智恵としか言いようがない。平家物語の諸本 を調べて行くと、たしかに「手のこんだ」やり方を盛綱はしている。事実、したかどうかは、確かめられないが、そういう風にいわば表現されてしまう盛綱のい やらしさが「批評」「批判」されていたのだと受け取れば、分かる気がする。
 児島と藤戸とは指呼の間とはいえ間は瀬の早い海原であった。川ならば高綱景時の宇治川のためしもあるが、海は馬では渡 せない。軍船の数でも平家は源氏を圧していたから、こういうところが後に那須与一の例もあり平氏のへんにしどけないところだが、図に乗って舟を漕ぎ出して 源氏に向かい「ここまでおいで」をやってしまった。源氏は悔しいだけでなく、無為に日々を過ごさねばならなくて二重にいらいらしていた。だが馬では海は渡 れないはずだ。
 佐々木盛綱はなにがな手立ての無いことがあろうか、平家がああも招くのは「渡す淵瀬」の在るのを知っていてからかうの ではないかと、夜分汀に出てしみじみ思案のあげく「浦人」の一人にふと白鞘巻の太刀を遣り、意を迎えて、「ヤ、殿」と語らい寄ったのである。この呼びかけ が憎い。気色がわるい。礼ははずむ、向こうの島に渡す瀬はないか「教ヘ給ヘ」といと懇ろに頭を下げた。
 高綱の名誉にかかるところゆえ私も慎重に断っておくと、藤戸の高綱については、実は浦人を口封じに殺してしまう筋書き と、殺すことになどちっとも触れていない筋書きとが平家物語の異本群でも相半ばしているのである。
 殺さなかったのなら、後味はわるくない。ただの功名譚でありなかなかのものだと思う。世人にはここでも「殺した」「殺 さぬ」の相反する立場から盛綱の功名を是非したとみえ、仲間内の武士の嫉妬心が働いて由無い中傷を鬱憤に任せて腹癒せしたのかも知れない。途方もない競争 の社会であったし、人の功を盗んででもという恩賞や名誉心は露骨なほどの武士たちであった。殺していない方を紹介しよう。

 浦人答ヘテ云フ。瀬ハ二ツ候。月頭ニハ東ガ瀬ニナリ候、是ヲバ大根渡ト申ス。月尻 ニハ西ガ瀬ニ成候、是ヲバ藤 戸ノ渡ト申ス。当時ハ西コソ瀬ニテ候ヘ。東西ノ瀬ノ間ハ 二町バカリ、ソノ瀬ノ広サハ二段ハ侍ラン。ソノ内一所ハ深ク候ト云ヒケレバ、佐々木 重ネテ、浅 サ深サヲバイカデカ知ルベキト問ヘバ、浦人、浅キ所ハ浪ノ音高ク侍ルト申 ス。サラバ和殿ヲ深ク憑ム也。盛綱ヲ具シテ瀬踏シテ見セ給ヘト懇ロニ語リケレ バ、 彼ノ男裸ニナリ先ニ立チテ佐々木ヲ具シテ渡リケリ。膝ニ立ツ所モアリ、腰ニ立ツ所モ アリ、脇ニ立ツ所モアリ。深キ所ト覚ユルハ鬢鬚ヲヌラス。誠ニ 中二段バカリゾ深カリ ケル。向ノ島ヘハ浅ク候也ト申シテソレヨリ返ル。
 佐々木陸ニ上ツテ申シケルハ、ヤ殿、暗サハ闇シ、海ノ中ニテハアリ、明日先陣ヲ懸ケ バヤト思フニ、如何シテ只今ノト ヲリヲバ知ルベキ。然ルベクハ和殿人にアヤメラレヌ 程ニ澪注ヲ立テ得サセヨトテ、又直垂ヲ一具タビタリケレバ、浦人カカル幸ヒニアハ ズト悦ビテ、小竹 ヲ切集メテ、水ノ面ヨリチト引入レテ立テ、帰テカクト申ス。佐々 木悦ビテ、明ルヲ遅シト待ツ。平家是ヲバイカデカ知ルベキナレバ、二十六日辰刻ニ、 平 家ノ陣ヨリ又扇ヲ挙ゲテゾ招イタル。

 この記事の通りならば佐々木は先陣を懸けんためと浦人に告げていて、しかも男の頚を掻き切るような真似はしてい ない。事実はこうであった可能性が高く、殺したと言い触らしたのはまんまと先陣を目と鼻の前で派手に演じられた「土肥梶原千葉畠山」の連中であったやも知 れない、それは考えられる。しかし、「下臈ハコトモナキ者ニテ、又人ニモ語ラハレテ案内モヤ教ヘンズラン。我ガ計コソ知ルラメトテ、カノ男ヲ差殺シ、頚掻 切テゾ捨テテケル」とも、「思フヤウ、明日ハココヲ盛綱ガ先陣渡サンズルニ、下臈ノニクサニハ又人ニヤ知ラセンズラント思ヒケルカ。ヤ殿、コナタヘヨレト テ、物云ハンズル様ニテ、取テ引寄セ頚カキ切テステテケリ」とも、明記した本も多い。盛綱の家来が主の意を受けて「六十有余」の夫婦者から教わってきたと いう本もあるし、土肥の郎党にも佐々木の先陣を察して主に告げていた者もあった。
 もっと手のこんだ話もあり、面白い。何としても佐々木は先陣の秘密も知られまい、それと疑われたくもないと、わざと梶 原の目の前で無謀に言挙げしてみせ、いきなりざっと海に馬を馳せ入れてすごすごと引き返す芝居までしている。これを見た梶原以下の面々は、「山ヲ落シ河ヲ 渡スノ例アリトイヘドモ、大海ヲ渡ス、思ヒ寄ラズ思ヒ寄ラズ」と大笑いし、盛綱は「人々ヲ謀リオホセテ」おいて、ひそかに我が手の者共に「約束シテ、一度 ニ打出テ、カノ浦人を先立テテ渡リケルニ」と、この本では殺した筈の男がちゃんと途中まで間違いのない案内役を勤め、いいところへ行きつくと、あとは「島 ノ方ヘハ浅ク候ト教ヘ捨テテゾ帰リケル」と書いてある。なかなか男もさる者と見てよく、こういうものが戦場にはきっといて、取りたてられてひとかどの武士 になったりしたのではないか、義経に屋島への道案内を勤めた鷲津だか鷲尾だかも、まさにその例であった。
 能「藤戸」の作者は「殺した」という立場から舞台を創作している。それも一曲であったが、わたしは、「殺す」盛綱を好 かないことは最初に言った。「殺さなく」ても、なんとなくわたしは弟四郎高綱の先陣ほどは、兄三郎盛綱の功名を喜ばない。
 

 

 八島 ー源平互に矢先を揃へー

 屋島と謡本にもある、題だけが「八島」のようで、この文字センスが好ましい。実の地名から、創造の世界へのりかえるは からいが利いている。らちもないが、そんなことを思いながらこの能は観てきた。これは平家物語の能としては珍しい「勝ち修羅」と謂ってよかろうか、九郎義 経への賛歌である。哀れよりも勇壮な合戦の幾場面をも彷彿とさせる。
 屋島壇ノ浦と続けていうぐらい、平家にとっては滅亡へ一続きの悲壮な負け戦であった、義経の働きが目立った。義経の働 きはいわゆる政治的ではない、軍事の智謀において本能的に優れていた。屋島の背後を襲って平家をまたしても海の上へ追い立てたのが、結果的に壇ノ浦の決勝 に結びついた。脚が地につかなかった平家は、海戦に長じていた筈なのに戦機に見放された。勝ち運を招いて効果抜群なところが源義経の横溢の魅力であった。
 むろん義経も義仲もわたしは愛した。そのぶん頼朝はうとましく、その政治力の抜群なところまでうとましいと思った。そ れは京都生まれ京都育ちの人間の鎌倉幕府に親愛感をもちにくい感情と結びついていた。少年というのは、そういうふうにも古典を読むのである。それは大人に なっても完全には払拭されないのである。
 継信最期、那須与一、錏引、弓流、と、見所に飽かせない屋島合戦であったが、とりわけて誰にも印象の残るのが扇の的を はるかに射抜いて見せた那須与一の遠矢の冴えであった。なぜか能の「八島」にこの話が出ない。狂言の替間で「那須」の与一の語りを聴かせてもらえるとこの 能は満点のサービスになると思い、自分の小説の『八島』では気ままにそのように書いてみた。わたしの頭の中では、以来、能「八島」のアイは「那須」と決め てしまっている。それほど、あれは気分のいい狂言語りの名作である。
 それはもう余談というよりないが、余談のままもう少し話したい先がある。その短編小説『八島』では妙な家庭に出くわ す。京都の街なかの、ま、骨董屋で苗字が「平内」という。通りすがりにひょんな間違いから店に入って品物を買うはめになり、店の主人と話しているうちに、 変なことを聞くのである。あの那須与一に扇を射抜かれたあと、ほめそやす体にまた平家方から武者が出て舟の上で舞い遊んで見せた、のを、あれも射て落とせ と命じられ、与一は容赦なく「しや頸の骨をひやうふつと射て船底へまさかさまに射倒し」た。「あ、射たり」と言う者もいたし、「情なし」と言う者もいた。 骨董屋の「平内」さんはその情けなく殺された武者の子孫だというのである。
 京都という街はその程度の内懐の底知れないものはもっていて、あながち、荒唐無稽には思われないのでわたしは書いたの であるが、これにまた、小説ならぬ現実のおもしろい後日談があった。
 殺された武士は平家の名将知盛の乳兄弟であったといわれる伊賀平内左衛門家長の弟で、十郎兵衛家員であった。どうも平 家にはこの手の挑発行動がめだち、それが因となって源氏を勢いづかせてしまうことがまま有った。児島の陣を藤戸の渡しを馬で駆けられて敗走したのもそれで あった。十郎兵衛のは無惨なほどの犬死にであり、「情なし」の声には必ずしも射た与一だけを責めてはいないだろう。わたしはこの男にひそかに久しく興味を 抱いていた。どういう奴なんや。あんな死に様では後に残った身寄りのものが、どんなに肩身も狭う、泣き嘆いたやら。むろんそういう男にも妻子がいたであろ う、ああいう男の子孫ほど、えてして、ひっそりと巷の波間に身を沈めたまま、まことほそぼそと世に永らえて幾世代もを生き続けているのではないか。八百年 後にもなお京のような懐深い町なかに、ひょっとして十郎兵衛家員が最期の鎧や薙刀を無念の家の宝に秘蔵しながら、代々子孫の家系が意外な家業と家族とで、 めずらかに暮らしていたりはせぬものか、と、まあ、そんな想像から私の小説『八島』は出来たのだった。
 ところへ、同じように思った人が小説の読者にいて、その「平内」という家は、必ずや我が親族に当たると思われるので、 どうか仲介の労を願いたいと丁重な依頼が舞い込んだからわたしは呆気にとられた。手紙の差し出しが、冗談ではないらしい、きちんと活字印刷した「伊賀平内 左衛門」さんだったから、仰天したのである。娘さんが明石のほうに嫁がれていて、たまたま掲載号を読まれ、すぐ父上に連絡されたらしい。
 で、ご当人のお手紙にいわく、自分はまぎれもない「伊賀平内左衛門家長」直接の子孫であり、自分たちの現に暮らしてい るあたりは、かつて陸の孤島といわれた日本海に臨んだ秘境で、かしこくも安徳天皇を奉じて門脇中納言教盛はじめ与党の多くがこの地にのがれ住み、由緒正し い遺跡は今でもたくさん残っています、ぜひぜひお訪ね下さいと、兵庫県城崎郡の正確な現存の地名が、現住所として封書の裏に印刷されていた。
 氏によれば、「門脇宰相教盛、伊賀平内左衛門家長らの一隊は御座船を護って虎口を脱し、幼帝安徳を奉じ日本海岸沿いに 東進、ひとまず鳥取付近に上陸して戦塵を洗い、態勢を整えて更に東進を続け、但馬の国御崎の海岸にたどり着」いた。地形的にも、三百メートルの断崖絶壁の 下は眺望のひらけた荒海で、「陸からの探索も容易でない」という。嬉しいことに、夫通盛の戦死のあとを追い入水死したはずの小宰相局も生きながらえ、この 地にあって、安徳帝のお世話をしていたとか。寿永の平内左衛門らはその幼帝を守護してもっと奥地に深く隠れ住み、昭和平成の平内左衛門氏もまたその香住町 畑に住み着かれて年久しいのである。
 要は数ある落人なごりの地の一つであるらしいが、眉に唾どころか、こういう事は、すぐ、心からよろこんで信じたくなる タチのわたしは、勝手な想像で伊賀さんに迷惑をかけたこともけろりと忘れて、さあ行ってみたい行ってみたいは山々なのだが、なかなか、東京という街は人を 釘づけにして動かせてくれぬ。だが、この世間には実にこのような出逢いがまだ遺されているのだった。
 屋島の戦は平家にも勝ち味があった。屋島の内裏の背後へまわりこんできた義経らの先陣は想像以上に小勢であった。だ が、火を放って平家を心理的に脅かした。平家は幼い帝や総大将の宗盛らを夥しい軍船に乗せて沖へ退かせ、教経ら強豪が内裏にこもって、陸と海で源氏を迎え たのである。一気に源氏を囲んで行けば勝敗は平家に利有りと、源氏の大将義経のほうが先に読んで、館に一時に火をかけさせ、向かい風に煽られて難なく内裏 も焼け落ちてしまった。仕方なく多くの陸に隠れた平家も船にのがれ、口合戦や矢合わせがしきりに為されたものの戦機は一時膠着した。その時だった、美しい 女をのせた小舟が、棹の先に皆紅の日輪をくっきりと描いた扇をたてて、源氏に、射よと誘ったのは。
 どうしてこんなことをしたのだろうと、一度は誰もがいぶかしみ、戦陣の遊び心かと思って詮索もしない。覚一本など、普 通に読める本にはなにも書いてない。
 だが諸本のうちには、そういう痒いところへちゃんと手を届かせたものがあり、あそうかと頷けることも多い。源氏を差し 招いた美女が、名は玉虫といい建礼門院に仕えたすばらしい美女であったことも、本によれば玉虫は後日に那須与一に与えられたとも、二人はもとから知己の仲 であったなどとも、だんだんに怪しげなことも出てくる。
 だが、それよりも扇の的のことが問題であり、これは勝敗を占う平家としては祈願のこもった賭けであったらしい。この扇 はもともと厳島に奉納された由来正しい宝物の一種であった。それをわざわざ的にしたのは、もし源氏が射損じたなら平家が勝ち、射落とされれば源氏が勝つ と、運勢を見ようとしたのだ。ばかばかしいと感じるのは現代の感覚であり、こういうことは類似の例が戦の前によくなされる。紅白の鶏を蹴合わせたりして 占ったり、言葉合戦をしたり、遠矢を競ったりするのも似た話なのである。言葉合戦などは、アイヌがよくしたチャーラケという口争いとも繋がっているだろ う、中途半端に終わるのを半チャラケというのも、そうなのだろうとわたしは想っている。
 平家はまさか射落とせまいと風波の季節にも頼む気持ちがあったろうが、那須与一の祈願の力が勝った。与一にしても、な にも、只の射芸を披露したのではなく、源平の戦を左右する賭けに勝ったのであった。玉虫を貰いうけるぐらいは当然であった。
 よく読めば分かるが、この手の占いや賭けの競いに、源氏は悉く平家を圧倒していたと言える。都落ちして行く公達の誰も が、二度と都には戻れまいと諦念を抱いていた運命のほどが、なにかにつけ露表していたところにも平家物語の哀れがある。
 義経についていえば能の「八島」では弓流が感動的に取り上げられている。源氏の大将の名を惜しんで、誇るにたるとはい えない取り落とした弓を、危険を敢えてしても敵に渡さなかったという話だが、小さい頃からそんなに感動しては読まなかった。八艘飛びというのも義経を装飾 する話題だが、わたしは、義経を追いかけまわした平家の教経の方がよほど印象にも残り感銘深かった。『源義経』という大河ドラマで、一等美しかった頃の尾 上菊五郎が義経を、緒形拳が弁慶を演じたときの、教経役はすばらしくカッコよかった。燃え熾る火の柱のようだった。俳優の顔はよく憶えているのに名前は忘 れてしまった、山口崇であったか。
 

 正尊 ー鞍馬は判官の故山なりー

 
 まずは歌舞伎の二幕物にちかいにぎやかな現世能で、楽しもうと思えばそれなりに楽しめる。こまやかなものではなく、部 外者の新作能かと見ればそのような才気も粗さもあり面白い。
 早くに、土佐房「正俊」と名を覚えていたので、「正尊」の名に、なかなか馴染めなかった。どっちかが間違い。いやいや どっちも間違っているかも知れない、「昌俊」「性俊」などと書いた本もあるのである。
 こんなことは、浩瀚にして奔放な異本の集合体である平家物語では少しも珍しいことではない。一人の同人物とおぼしき者 が、本によって三人四人分の紛らわしい別の名前、別の表記で現れる。音での聞き違いもあれば、漢字表記のあてずっぽうもすさまじく、自然の成り行きであ る。又聞きの又聞きを、時間と距離をおいていろんな人たちが話にして行けば、自然そうなる。今日の我々にしても、人の名を耳に聞いて、正確に漢字に換えら れる人はいないと言うほうが正しかろう。また漢字で書かれた氏名が正しく読めないこともままある。「角田」と書く苗字の、早稲田出の教え子が作家になって いるが、「かどた」「つのだ」「すみた」「かくた」のどれで呼ぶか、たとえ読み当ててもそれは、知っているからか、あてずっぽうでしかない。この点では我 々の国には、ひらがなはともかく、正書法も正読法も無いに等しいのが、実情である。「しょうしゅん」と聞いた者が、正俊とあて、「しょうそん」と聞こえた 人は正尊とあてた、のかも知れない。
 平家物語と限りはしないが、ことにこの「本」では、いろいろに書かれてあるどれが本当やら判然とは分からない按配で、 聞きこんだ面白い話にさらに潤色が加わったり、過剰に趣向されたりする。巷談とはそんなものである。
 そんな頼りないものかと嘆くのも、だが、どんなものか。
 こと事実というものに、どこまでの裏づけが可能だろうか。今日のように情報収集に精度高げなマスコミですら、突き合わ せて吟味するとずいぶんマチマチなことを書いたり伝えたりしている。同時代同時節の資料こそ歴史的には一等資料などと、そんな簡単なことは言ってもらって は困るのであり、何百年もしてやっと真相らしきものが見えてきたということは、現に在る。
 それに、事実とは、そんなに価値高いものかどうかという、かなり難儀な本質論も考慮しなければならない。「かく在り し」と正確に言い難い事のほうが圧倒的に多い以上、むしろ「かく在るべかりし」記述を通して真相を示唆しなければならぬとも言える。正史をすら不充分だと して、狂言綺語に類した物語の叙事に重きをあえて置いた紫式部の思想は、けっして今日まで軽んじられたことは無い。事実事実とそれのみの追求により真実の 妙味を取り落としてしまっている味気ない俗な小説もけっこう数在る。平家物語を「事実」として信頼しきれないといって、その感銘深い表現を拒絶していたな ら、大きな損失をわが身に蒙るだけである。昌俊かもしれず正尊かもしれなくても、それを超えた奥や深みへ思いの届いて行くことを「表現」は命にしている。
 土佐房という人物は、魅力も乏しく、肌触りのざらついた面白くもない男で、例えば鹿の谷の事件で捕えられても清盛を面 罵して退かなかった西光法師のようにすかっとしたところがない。「あはれ」という美的要素のしずくも無い男に造形されていて、際立って弁慶や義経が良く見 える仕掛けを担っている。
 彼らが出会うのは、もう壇ノ浦で平家が滅亡(元暦二年・一一八五)後になる。義経が悲劇的に兄頼朝の忌避に遭い追討の 手に追われ始めるときに当たっている。それはまた源氏の頼朝の鎌倉幕府が衰弱していずれ平氏の北条氏に実権を奪われて行く始まりでもあった。弟三河守範頼 も、また弟伊予守義経も、いわば平家追討の実戦を勝ち進んだ大将であり、頼朝は終始鎌倉にいて二人を督励していたのだが、平家が海の藻屑と消えうせるや程 も無く兄頼朝は弟二人を受け入れがたい気持ちになり、大功をあげた義経が、平家の頭領宗盛父子を囚われ人として引き連れ、謙虚にはるばる帰参してきても、 頑として鎌倉に迎え入れず、腰越からまことにつれなく都へ追い返している。
 一つには後白河院ら京都の朝廷の辣腕も働いていて、義経に官位を与え、鎌倉の方針に事実上背かせてしまうということを している。父子の仲とも誓い合ったほどの頼朝の弟とはいえ、あえて御家人なみに遇して他の武士団との折り合いをつけていた頼朝としては、鎌倉の頭越しの任 官は迷惑であり、それを一義経が気ままに受け入れたのを鎌倉への異心と見るいわれはあったのである。加えて公家とはいえ平家一門に大きな力をもっていた平 時忠の女を娶るというようなこともしたらしく、義経にも甘えがあった。義経への人気も高かった。木曽の義仲のようには無作法でもなかった。検非違使として よく都を守護もしていたのである。だが梶原景時をはじめ、手柄を争ってしきりに頼朝に讒言した武将もいた。いたに相違なかった。すこしくどいが、分かり良 く長門本などから要約しておこう。

 伊予守義経、源二位頼朝を背く由、ここかしこに囁きあ合へり。兄弟なる上に父子の契 にて殊にその好み深し。是 によつて去年正月に木曽義仲を追討せしより、命を重んじ身 を捨てて、度々平家を攻落して、今年終に亡し果てぬ。一天四海澄みぬ。勲功類なく 恩賞深くす べき處に、如何なる仔細にてかかるらんと上下怪しみをなす。
 此事は去年八月に院使の宣旨を蒙り、同九月に五位大夫に成りけるを、源二位に申合は する事なし。何事も頼朝の計にこ そ依るべきに、院の仰せなればとて申合はざる条、 自由なり。また壇ノ浦の軍敗れて後、女院の御船に参会の条も狼藉也。また平大納言の 娘に相親しむ事謂 われなし。かたがた心得ずと宣ひ打解けまじき者也と思はれけるに、 梶原平三景時が渡辺の船沙汰の時、逆櫓の口論を深く遺恨と思ひければ、折々に讒言す。  平家は皆亡びぬ。天下は君頼朝の御進退なるべし、但し九郎大夫判官殿ばかりや世に立 たんと思召し候らん。義経、御心剛に、謀勝れ給へり。一谷落さるる 事鬼神の所為 と覚えき。川尻の大風に船出し給ひし事人の所行と覚えず。敵には向ふとは知りて、一 足も退かず。誠に大将軍哉と怖しき人にまします。もつ とも心得あるべし。一定御敵 とも成り給ひぬと存ずと申しければ、頼朝も、後いぶせく思ふなりとて、追討の心を挟 み給へり。

 ここに「自由」の二字は至って興深い。これは勝手気侭、放埓の意味で、精神の自由などと近代現代が尊重してきた 自由とは違っている。狂言などにも用例があり、みなここにいう意味で多用された。この「自由」はいつの時代にもあった。どんな世間でも見られた。今日の日 本もおおかたこの「自由」によって混乱もまた活気も生じている。
 これで、だが、「頼朝義経仲違」いの事情は分かる。秩序と自由との齟齬であり、そこに付け入る人間心理の「すすどさ」 である。梶原景時が遺恨を含んだ「逆櫓」事件とは、屋島の攻めに四国へ押しわたった時が大暴風雨で、義経は風雨を冒して突進を言い、義経目付け役であった 梶原は、せめて後戻りの利くように逆櫓の備えをと言い、烈しい喧嘩になり、義経は梶原を置いてけぼりに渡海を決行したのを言う。義経にはたしかに鬼神が憑 いていた。
 戦が済んで見ると、戦略の段階でなく政略の段階になる。義経はとうてい頼朝の敵たる政治の素質は持たぬ、安心な善男子 でしかなかったのを、頼朝ほどの者が猜疑心を梶原に煽られてしまったというしかない。しかも梶原は自ら義経討手を引き受けるのは憚りありと、土佐房正尊に お鉢を回したのであった。
 腰越から追い返されて都に戻った義経には、まちがいなく兄の手で追討の憂き目を見るであろうと分かっていた。頼朝も義 経はぜひ討たねばなるまいと腹をくくっていた。緊迫した関係に世間も目を向けていたし、朝廷も困惑しながら、まぢかな義経と遠い鎌倉の頼朝とに、等分に目 配りし心配りしていた。頼朝が義経に付き添わせ上洛させた十人もの大名衆も、保身のために一人抜け二人抜けてみな鎌倉に帰っていった。文治元年秋(一一八 五)そういう都へ、頼朝による討つべしの密命を受け、奈良七大寺詣でに言寄せて土佐房正尊はひそとして乗り込んできたのであった。
 もと奈良法師の土佐房には、どこか無頼の、だが小才の利いたところもあった。いわゆる流布本では見えにくいが、正尊は 根が大和国の奈良法師で、東大寺と興福寺との争いに乗じて春日社の神木を伐り捨てるという乱暴が咎められ、土肥実平に預けられているうちに巧みに土肥を篭 絡のあげく、頼朝に仕えようと鎌倉に来ていたのである。
 名の知れた武将を遣わせば義経はすぐさま用心するに違いないと、これも梶原の口車に土佐房も乗せられた。あげく義経が 牛若の昔から誼み厚い鞍馬山に逃げ込んで囚われ、空しく命を落とした。
  

 

 船弁慶 ー潮を蹴立て悪風を吹きかけー

 歌舞伎座で「船弁慶」を観ていて、となりで妻が泣き出したのにびっくりした。菊五郎の演じる平知盛の幽霊が、ずうっと 黒い装束で蒼隈の顔をしていたのに、団十郎の弁慶に祈り伏せられ、ついに、ただ一度くわっと真っ赤な大口をあいて、舌を巻く。黒くて蒼い知盛がその一回だ け真っ赤に口をあけた痛烈な悲しみに胸うたれ、可哀想で可哀想でと妻は泣くのだったが、私も同感だった。
「葵上」の御息所でも「道成寺」の清姫でもそうだが、祈り倒されて行くモノはどこか哀れでならない。赤い口をあくのは威 嚇ではなく、無念の思いで舌を巻くのである。演出だといえばつまり旨い演出だが、そんなことは通り越して、知盛の幽霊には壮絶な哀感哀情が横溢する。
「船弁慶」は能も歌舞伎でも主役はむろん知盛である。もう一人は弁慶で、英雄義経はすでに著しく矮小化され、弁慶の庇護 のもとにある。能では子役が演じる。
 土佐房は討ち果たしたが、義経は兄頼朝を怖れ、朝廷に対し、朝敵にならずにすむ手立てを懇請する。もとより朝廷は鎌倉 の頼朝を憚っているが、現在都に兵を蓄えているのは義経の方で、すげないことはしにくい。院の下問をうけた公卿たちは、難儀な相手にその場限りの宣旨を与 えて置き、すぐまた逆の手を打つなどは、何度も過去にしてきたことで、いまは義経の請いを受け入れ、次には頼朝の顔を立てればよろしいと、まさに「政治」 的なチャランポランを平気で言うのだった。それが公家社会の源平武家をあやつってきた、たしかに常套手段だった。文治元年十月(一一八五)頼朝追討と日本 国の西半分を義経の沙汰に任せるといった院宣を手に、都へ攻め上るかと見えていた鎌倉の軍勢を迎え撃つことなく、義経らは西をめざして落ちて行く。そうい う義経への都人の視線はなかなか暖かく、だが判官贔屓が始まれば始まるほど、もう義経には去年までの勢いはしぼんでいる。鬼神も避けたような義経ではもう なかった証拠に、海に出たとたんに「平家の怨霊」に船は襲い掛かられている。以降、吉野の義経も、安宅の義経も、終始武蔵房弁慶の手厚い庇護なしには道中 もならなかった。
 能の「船弁慶」は奇妙に前段と後半とに分断されていて、ふつうは関係の無い二幕物の狂言仕立てに出来ていると見られ る。前シテは静御前で、弁慶により義経との同船をすげなく拒まれる。後シテは知盛の幽霊で、弁慶の功力の前に海底に退散する。しいて理屈をつければ、船上 でさような危機の迫った時に、女連れは「何とやらん似合はぬ様」であり、主君義経の闘う気力をそぐ怖れがあると、女の同船を足手纏いに忌避したといえる。 歌舞伎ではそれらしいことを、弁慶が主君にも静にも言い渡している。男女の仲を阻んで、静ははっきり弁慶に押し返されている。能の作者は賢しくも、「静 か」を拒めば海は「荒れ」ようという、ものの因果も探っている。
 海は、事実、荒れた。平家の怨霊は凄まじく弁慶らの船に迫り、「あら珍しやいかに義経」と呼びかけ、ひときわの執念で 義経を何としても海に引き入れようと、「薙刀取り直し」「あたりを払ひ、潮を蹴立て、悪風を吹き掛け、眼もくらみ、心も乱れて、前後を忘ずる」ばかりに襲 いかかったのが、知盛の亡霊だった。
 なぜ、知盛か。それが一つの問題である。
 宗盛父子は海には沈まなかった。重盛ははやくに病死している。瀬戸内の波間に沈み果てた平家の、知盛は事実首領であっ た。いや、壇ノ浦での決戦の時すでに知盛こそが平家の主将であり全軍の指揮官であった。指揮官の作戦に従い指揮官の指示にそのまま従っていたなら、平家に は勝つ機会が、事実あったのである。
 むしろ優勢であった平家の敗戦と全滅の原因が、少なくも一つあったことでは、諸本が一致している。阿波民部大夫重能 (成良)の裏切りであり、これで水軍の勢いが逆になった。また寝返りに際して重能は平家必勝の秘策を、源氏方に通報してしまい、源氏は、一気に平家の芯の ところへ攻勢をあつめて、撃滅できた。
 知盛は、阿波民部大夫の裏切りを予知して斬ろうと図っていた、が、総帥宗盛は首を縦に振らなかった。大きな失策だった ことはやがて知れて、宗盛は大いに悔いたが遅かった。秘策は知盛の、義経に対する並外れた敵愾心に発していて、ほとんど私憤にも近い敵意であったけれど、 かなりに有効な、成功すれば決定的勝ちに繋がる名案であったのである。
 この案を延慶本というじつに個性味豊かな読み本が、たぶんこの本だけが伝えていて、荒唐無稽とも思われぬ真実感に満ち ている。知盛の奇策は「唐船カラクリ」と称されているが、早い話、安徳天皇や母后をはじめ宗盛父子や二位の尼らを、御座船の唐船から、いかにも兵士たちの 兵船と見える小さな船に御移しして、御座船には能登殿ら勇士を隠し置こうというのである。何が何でも三種の神器の欲しい義経は、御座船をめがけて自身で 迫ってくるに違いなく、そのとき多数の兵船をもって義経を取り包むようにすれば、味方の船は数も多く、必ず義経を討ち取れるに違いない、と。
 たわいないが、海の上の事であり、海戦は平家のほうが源氏よりも習熟している事は誰もが認めている。事実、かなり平家 に優位に壇ノ浦の海戦は始まったのであった。内心は知盛は「今ハ運命尽キヌレバ、軍ニ勝ツベシトハ」思っていなかった。天竺震旦日本の別なく、並びなき名 将勇士といえども、運命が尽きてしまえば今も昔も力及ばぬことである、ただ名こそは惜しい。その「名」にかけても「度々ノ軍ニ九郎一人ニ責メ落サレヌルコ ソ安カラネ」と思い染みていたのだ。「何ニモシテ九郎一人ヲ取テ海ニ入レヨ」「何ニモシテ九郎冠者ヲ取ッテ海ニ入レヨ。今ハソレノミゾ思フ事」というの が、知盛必死の司令であった。執念は凄まじかった。

 唐船カラクリシツラヒテ、然ルベキ人々ヲバ唐船ニ乗タル気色シテ、大臣殿以下宗トノ 人々ハ二百余艘ノ兵船ニ乗 テ、唐船ヲ押シカコメテ指シ浮カメテ待ツモノナラバ、定メ テ彼ノ唐船ニゾ大将軍ハ乗リタルラント、九郎進ミ寄ラン所を後ロヨリ押巻キテ中ニ取 リ籠メ テ、ナジカハ九郎一人討タザルベキ。

 わたしはこれを読んだとき、お、いけるかも知れないと本気で思い、鳥肌立った。この時である、知盛は阿波民部大 夫の裏切りを察知していて斬ろうと強く主張したのは。宗盛はだが聴かなかった。結果「唐船カラクリ」のことは裏切り者の口から源氏に伝えられ、平家の船は 算を乱して崩れていった。その後の凄惨な成り行きは、ここで拙くまねぶことは避けよう、平家物語をつぶさに読まれたい。知盛は「見るべきものはすべて見 つ」と、一族のなれの果てを見納めて乳兄弟の伊賀平内左衛門家長と、抱き合って壇ノ浦の水底に沈んで行った。
 その知盛の幽霊が、風を巻き波に乗って落ち行く義経主従の船に襲いかかったのである、それが能「船弁慶」の後シテであ る。
 知盛といい教経といい、義経を追いに追い詰めて海に引き込もうとしたが壇ノ浦では果たせなかった。この大物浦では何と してもと、勇猛の教経でなく知盛の現れたところに執念の凄さがある。逆にいえば義経一人、九郎一人に亡ぼされた平家という印象の強化法が平家物語にも、読 者たち享受者たちにも共通していた。それが義経の末期の哀れをまた強め得て、ついには「義経記」のような平家物語の傍流末流物語成立へまで行く。
 それにしても能「船弁慶」の前半と後半とのアンバランスは目立つ。手持ちの謡本でみれば前シテ静の十九頁分に対して、 後シテ知盛幽霊は九頁にも満たない。しかも印象は圧倒的に幽霊知盛の挑みと屈服とに傾く。能でこそ静の舞姿が美しいが、歌舞伎では終幕後にまで静の印象は 殆ど残らず、弁慶ののさばりだけが異様に印象に残る。静は奇妙に前座めく。
 なぜこんな作りが必要だったのか、弁慶の配慮と功力の大いさを表現すれば「船弁慶」は事足りているからか。いやいや、 今一度、何故に弁慶はああも靜の乗船を忌避したのかを考えて見たくなる。弁慶の不思議な直感に、どこかで、靜という女人と知盛の怨霊とを繋いで「危うい」 とみるものが忍び入っていなかったか。
 夫婦で見て妻が泣き出し、わたしもふと引き込まれた歌舞伎の舞台では、菊五郎が靜と知盛とを前後二役で演じた。能では 当たり前だが歌舞伎では必ずしも当たり前ではない。菊五郎だから静も、靜以上に知盛もよかった、泣かされた。
 そして感じるところが有った、この芝居や能の作者には、もともと論理整合的にとは行かなくても、靜と知盛とを根深いと ころで「同じ側」に眺める視線を秘め持っていたのではないかと。弁慶にすでにそれが在り、静を主君義経と乗船させることに決定的な危険と不安と憂慮を覚え ていたのではなかろうかと。
 これは直ちには説明しきれない。しかし手がかりがまるで無いのではない。知盛ら平家の怨霊らは間違いなく今は海底の住 人、陸に住む者らへの怨念に生きる海の霊である。平家物語は住吉や厳島を芯に、実は想像を超えて「海の神意」に深く導かれた物語である点で、あの源氏物語 とも臍の緒をしっかり繋いでいるのだが、シラ拍子の靜、母の「磯」は、もともとは海方の芸能に生きていた女たちであった。弁慶の怖れは、謂われなくは有り 得ない深い根拠をもっていたとわたしは考えたい。
 

 

 景清 ー面影を見ぬ盲目ぞ悲しきー

 この能を、平家物語の流れで謂えば「八島」の頃に並べても可笑しくはない。だが「現在」の景清に力点をおけば、時節は はるかに後れている。景清は鎌倉の頼朝をつけ狙って囚われ、日向に流されている。盲目になっている。境遇は「俊寛」と似ているようでちがう。感銘もちが う。ヒタ面でも見せてほしい能である。
 平家物語は、結果的に見ればあの「史記」と似た叙事をそれとなく実現していた。厳密な事はともかく、平家の直系を「六 代被斬」まで書いて断絶平家という縦軸を通しながら、これぐらい生き生きと下級の武士たちまでも主人公なみに活写しえた文芸ないし芸能はそう類がない。平 家方にも源氏方にも、なに遠慮も無く見出し付で大勢の武士たちの活躍や生死が語られている。景清もその一人として幾場面もに登場し印象に刻まれてきた。俊 寛に好感を持った人はそう多くは無かろうけれど、実盛にしても景清にしても平家方武士を代表して源氏の熊谷や佐々木と優に匹敵している。人間的にはより魅 力的にすら感じている。
 もっとも景清はいたって武辺の人であった。実盛なみの哀感を湛えて彼がわれわれに迫るのは、まさに能の「景清」なの で、平家物語の景清は一途に武勇の人物でしかない。
 何度も何度も景清は「上総悪七兵衛」として陣揃えの侍大将の一人として現われる。具体的な記事が出るのは、だが、熊谷 直実とのわずかな接触、戦いそうで戦わず仕舞いに退くところが最初で、次いで屋島の合戦に豪勇ぶりを見せる。それが名高い三穂屋十郎との兜の錏引きだが、 それとても那須与一の扇の的の後産程度にしか語られていない。
 平家は那須与一に名を成させ、あまつさえ伊賀十郎兵衛家員までむざと死なせてしまい、本意なしとばかり、三人の武士が 陸に上がり、「楯を衝いて、敵寄せよ」と源氏を手招いた。平家はよくよく「手招く」のが好きであった。

 判官、「あれ馬強ならん若党ども、馳寄せて蹴散らせ」と宣へば、武蔵国の住人、三穂 屋四郎、同藤七、同十郎、 上野国の住人、丹生の四郎、信濃国の住人、木曽の中次、 五騎連れて、をめいて駈く。楯の影より、塗箆に、黒ほろ矧いだる大の矢をもて、真っ 先に進んだ る三穂屋の十郎が馬の左の胸懸づくしを、ひやうづばと射て筈の隠る程ぞ、 射籠うだる。屏風を返すやうに馬はどうと倒るれば、主は馬手の足をこえ弓手の方 へ下 り立つて、やがて太刀をぞ抜いだりける。楯の陰より、大長刀打振て懸りければ、三穂 屋の十郎、小太刀大長刀に叶はじとや思ひけむ、掻い伏いて迯け れば、やがて続いて追 懸けたり。長刀で薙がんずるかと見る処に、さはなくして、長刀をば左の脇にかい挟み、 右の手を差し延べて、三穂屋十郎が甲のしこ ろをつかまむとす。つかまれじとはしる。 三度つかみはづいて、四度の度むずとつかむ。暫したまつて見えし、鉢附の板よりふつ と引切てぞ迯げたりける。 残四騎は馬を惜しうで駈けず、見物してこそ居たりけれ。 三穂屋十郎は、御方の馬の陰に逃入て、息続ぎ居たり。敵は追うても来で長刀杖につき、 甲のしこ ろを指上げ、大音声を上て、「日頃は音にも聞きつらん。今は目にも見給へ。 是こそ京童部の喚ぶなる上総悪七兵衛景清よ」と、名乗棄てぞ帰りける。

 これで平家方はちょっと気をよくしたとある。独り働きでは格好いいが、景清が侍大将として参加した勝ち戦は、せ いぜい以仁王を追いつめていた時ぐらいで、たいていは平家方の分はわるい。ただ景清は、武運の有る方であったというか、あの壇ノ浦でも、「その中に、越中 次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は、何としてか逃れたりけん、そこをも又落ちにけり」とあるように、源氏の手に囚われることなく、戦場を 落ち延びた。源氏にすれば一騎当千のうるさい猛者ばかりであった、事実、彼らはしぶとく抵抗を続け、とりわけ、景清最後の奮戦の偲ばれるのは、壇ノ浦合戦 もとうに過ぎて、平家の残党が容赦なく追討されていた時分に、小松大臣重盛の遺児丹後侍従忠房を奉じて紀伊国湯浅城で頑強に熊野別当らの源氏方を悩ませた 時であった。
 
 小松殿の御子丹後侍従忠房は八島の軍より落て行方も知らずおはせしが、紀伊国の住 人湯浅権守宗重を憑んで湯浅の城に ぞ籠られける。是を聞いて平家に志思ひける越中次 郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵共著き奉る由聞えしかば、 伊賀伊勢両国の住人 ら、我も我もと馳せ集る。熊野別当、鎌倉殿より仰せを蒙つて両三 月が間、八箇度寄せて責め戦ふ。城の内の兵共命を惜まず防ぎければ、毎度に御方は追 散 され、熊野法師数をつくいて討たれにけり。

 景清の名をさしては語っていないが、頑強な平家の根力の一つで景清がいたことは分かる。そればかりか、おおかた 平家は掃滅されるにかかわらず景清が捕まった確証はない。 
頼朝の洞察と指示とで湯浅の城攻めはことなく、平家方すべてが城から姿をくらまして収まってしまうが、これに懲りたか頼 朝は甘言を用いて忠房を自首させ、殺してしまう。さらに徹して残党狩りに力を入れる。だが、上総悪七兵衛景清にかぎって、平家物語流布本に、囚えられた形 跡は全く無い。能「景清」に謂う日向遠流と定まるような頼朝暗殺事件などは平家物語には見当たらないのである。
 これはあらゆる「作者」には有り難い、脚色自由な前提ができている。歌舞伎の熊谷陣屋に突如として現れる弥陀六実は悪 七兵衛景清は、義経の面前から黙契を得て熊谷に討たれた筈の公達敦盛を櫃に負うて立ち去って行く。見えない共通の敵の頼朝の影を察しながら歌舞伎の舞台を 見ている人も多かろう。記憶違いでは恥じ入るが、琴責めで鎌倉の詮議を受ける遊女阿古屋は行方をくらまして久しい景清の妻ではなかったか。
 末始終が分からない人物は、魅力が在ればあるほど奥ゆかしさに想像力が鼓舞され刺激される。弁慶の立ち往生に救われた 源義経が、蝦夷から蒙古に渡ってジンギスカンになったという伝説もそれなら、源為朝が琉球王になったという伝説もその類であり、景清にもそれだけの資格が 生まれていたのである。能「景清」の娘人丸にせよ傾城阿古屋にせよ、それらしい縁者が生き長らえて景清の物語をいろいろに流布させた役回りを想像して見る 余地はいかようにも否定しきれない。潤色し脚色するに値した他の逸話や事件にもこと欠くことは無かったろう。景清と頼朝とのことなどは、平家物語が語って いる越中次郎兵衛盛嗣の最期が利用されたのではなかろうか。この平家の猛将は、多くの場合悪七兵衛ら一群の侍大将の常に筆頭に位置していたし、その最期も なかなか物語りに富んでいる。
 平家の侍越中次郎兵衛盛嗣は但馬国にまで落ちて行き、気比四郎道弘という在地の豪の婿におさまっていた。道弘はまさか に越中次郎兵衛とは気づかなかったが、嚢中の錐の譬えもあり、ありあまる威勢の盛嗣は夜になると舅の馬を引き出しては馳せまわっていた。馬で海の底を十四 五町も潜ってくるようなことまで出来るのは、龍神にもゆるされた豪強の武士としか思われず、ついに鎌倉殿の守護地頭も怪しんでいるうち、鎌倉でも漏れ聞い てのことか、但馬の朝倉高清に捕らえて鎌倉へと命令が届いた。朝倉の婿がさきの気比四郎であったから、両人は驚いて、だがどうして搦め取ろうかと相談も慎 重であった。

 湯屋にて搦むべしとて湯に入れて、したたかなる者五六人おろし合はせて搦めんとする に、取つけば投倒され、起 上れば蹴倒さる。互に身は湿れたり、取りもためず。されど も衆力に強力叶はぬ事なれば、二三十人、はと寄て太刀のみね長刀の柄にて打ち悩ま して搦捕 り、やがて関東へ参らせたりければ、御前に引据させて事の子細を召問はる。
「いかに汝は同じき平家の侍と云ながら、故親にてあんなるに、何とて死なざりけるぞ」
「それはあまりに平家の脆く滅てましましし候間、もしやと狙ひ参らせ候ひつるなり。 太刀の身の好きをも、征矢の尻の鉄 好きをも鎌倉殿の御為とこそ拵へ持て候ひつれど も、是程に運命尽果候ひぬる上は、とかう申すに及び候はず」
「志の程はゆゆしかりけり。頼朝を憑まば助けて仕はんには如何に」と仰せければ、
「勇士二主に仕へず。盛嗣程の者に御心許し給ひては必ず御後悔候べし。只御恩には疾疾 頸を召され候へ」と申しければ、
「さらば切れ」とて由井の浜に引出いて切てんげり。ほめぬ者こそなかりけれ。

 平家物語の気持ちよいのは、誉めるところは敵味方なく誉めてくれるところで、自ずから聴いたり読んだりした者へ の価値観教育、つまり啓蒙的な指導性をもちえただろうと思う。何をすれば人は誉め、何をすれば人は嗤うか。それが分かるということが社会の教育であった。 越中次郎兵衛盛嗣のこの潔さも逞しさも、うまく能「景清」に収斂され、いわば虚像の魅力に実像の景清はきれいに潜り込み、いまなお生き延びてものを訓えて くれている。
 

 

 大原御幸 ーその有様申すにつけて恨めしー

 行幸と御幸とがある。天皇の出御、というよりも他出や訪問は行幸であり、皇后や親王方だと行啓である。御幸は上皇の場 合に用いている。そういうことを知っていれば、この題が、上皇、院の大原行きを意味していると分かる。
 大原が、都よりよほど草深く木深き田舎であることを、昔の人は、京に近い人々は、今日のわれわれより遥かに実感してい たから、この題にはそれなりの意義があった。歴史的な事件といえば大げさなようで、じつは幾重にも歴史にかかわる事件であった。後白河院が、いわば嫁にあ たるかつての国母の建礼門院徳子平氏を、わざわざ大原の里へ訪問された。それ自体が在るべかりし史実であった。まったくの虚構ではないのである。
 女院は壇ノ浦の波間から源氏の兵士たちにまさに掬い取られ、泣きの涙で都へ連れ戻されたお人であった。言うまでもなく 平清盛の女と生まれ、高倉天皇の女御となり、中宮となり、安徳天皇の生母となって父清盛に外戚の権をもたらした当の女人であった。目の前で我が子の海底に 沈み行くのを空しく見送ってきた母親であった。ありとあらゆる平氏の身内の、討たれ、また入水して果てて行くのを目の当たりに見てきた人であった。この建 礼門院こそ、真実「見るべきほどは見つ」と言うことのできた平家滅亡の生き証人であり、この人ほど多くに「死なれた」人は珍しく、また実に、この人ほど多 くを「死なせた」存在も少ないのである。
 そこから、二つの、少なくも二つの目立った配慮が平家物語に加えられた。建礼門院の上に加えられた。
 一つは、「断絶平家」を告げたいわば平家物語大尾のまだ外に、いわゆる「潅頂巻」が特別に立てられ、「大原御幸」の首 尾がしみじみと語り終えられるとともに、二つは、史実に背いてまで、まだ若き建礼門院の「死去」が語られることになった。
 平家物語には「潅頂巻」を立てた本と立てない本とがあり、読み本だから立てない、語り本だから立てるとも言いきれな い。が、概して覚一本など平曲の台本には「潅頂巻」を立てて「大原御幸」と「女院死去」とを特別視したものが多いとは言えよう。
 一つには「潅頂巻」とは斯道免許皆伝ぐらいな意義を持つ事があり、琵琶法師らの当道においてもそれほどの意義をもたせ て特にこれを立てたという事情が察せられる。
 今一つには、「潅頂」とは早い話が洗礼にも類した一種の聖儀礼でもあり、また独特の水死者に対する鎮魂慰霊の営みでも あった。「流れ潅頂」のように河の流れに交わって水死霊をいたわり慰めることは、今日の鴨川でもしばしば行われていた。
 安徳天皇をはじめ、平家一族はもとより多くの者の西海に沈んで果てた稀代の戦禍は、いわば日本中の全ての人に重くのし かかり、「悲哀の仕事=モゥンニングワーク」を迫っていた。「潅頂巻」を物語りの大尾に心をこめて据えることにより、明かに平家物語なる国民的な営為自体 を、ただに「断絶平家」を語るだけでなく、いわば深甚の「追悼平家」を行じるものに仕立てようとの意思が働いた。「大原御幸」と「女院死去」とはその実現 であると考えられた時に、そこに働いていたであろう後白河法皇の意向は限りも無く大きかったのではないかと、私は、いまも、その考えを捨てきれない。この 帝王の胸中にこそ真っ先に「平家物語最初本」への意思が宿ったのではないかと。「大原御幸」とはその意向の実現であり、意図的ないわば場面作りですら有り 得なかったろうかと。
 壇ノ浦の後始末で、何が一大事であったか。平家の総大将である宗盛以下の虜囚を都にもたらすこと、平家が事実上滅亡し たこと。それよりも朝廷にとって大事なのは三種の神器の無事奪回であったが、神鏡と玉璽は取り戻せたにもかかわらず、遂に宝剣は海底に沈んだ。必死の捜索 はされたものの海流は激しく速く、要するに神剣喪失の「説明」が是非にも必要だった。奇怪な伝説もできたし議論もされた。
 例えば歴史学者でもあった延暦寺の座主慈円は、武の象徴たる剣の代わりに鎌倉に武家の幕府が必要となり、京の公家―― 慈円の場合は彼の出た九条家の摂政道家――による執政と、頼朝に基づく武家の権威とが、相俟って朝家を補弼すべき歴史の道理が、「神剣喪失」により即ち実 現したと説いた。その朝家の天子もまた九条家が外戚の仲恭幼帝であり、鎌倉の将軍と謂うのも九条家から実朝横死後に送り込んだ頼経を指していたのだから、 あまりにも我が田に水を引くものであった。この議論では目睫の危機とせまった承久の乱を回避することは遂に不可能であった。
 海女の一人は壇ノ浦の海底に潜って捜索の上、龍宮に招じられ、安徳天皇を抱き込んだ身の毛もよだつ大蛇が、かの剣はも ともと我らが所有であったものを、さまざまに策を用いて遂に奪回したのであって、二度とは渡すまじと言い切るのを聴いて戻ったと謂われ、これよりして宝剣 の捜索は断念されたとの奇怪な説話を語る平家物語異本も実在する。清盛をはじめとする平家の一門がさも「本来の家」かのごとく龍宮に帰って安居しているさ まをさえ、その海女は、実際に見てきたように後白河院らを前に語り聴かせている。
「喪われた理由」からみれば、今や宗盛らの運命など、朝廷にはさまで大事ではなく、また建礼門院の処置にも源氏は大きく はこだわらなかった。吉田の仮り居で髪をおろし、大原寂光院に隠れ棲み、たしかにここへは法皇も、またかつての女官たちもたまさか訪れないではなかった。 だが、平家物語の流布本がたいてい語っているようには、建久二年(一一九一)に女院は死んではいなかった。ただもう平家物語の最終場面に必然の脚色であっ た。だが真実は以下に要点を引くこの記事にあった。
  
 建久三年三月十三日に(後白河)法皇隠れさせ給ひぬ。その後主上(後鳥羽)、代をしろし めす。おり居(上皇)になら せ給ひて、承久三年に思召し立つ御事の有りけるか、御謀 反の事顕れて(承久の変)、院は隠岐国へ流されましまし、宮々は国々に遷され給ひぬ。 雲客卿相 或ひは浮島が草の原にて露の命を消し、或ひは菊河の早き流れに憂き名を流 すなど(お側の者から)披露有りければ、女院(建礼門院)聞こし召して今更又悲 しくぞ 思召しける。此の(後鳥羽)院は高倉院御子にておはしまししかば、女院には御継子にて 安徳天皇の御弟にましまししかば、よその御事とも思召さ ず。配流の後は隠岐院とぞ申 しける。又は後鳥羽院とも名付け奉る。
 平家都を落ちて西海の浪に漂ひ、先帝海中に沈み給ふ。百官悉く亡びし事只今の様に覚 えて、その愁ひ未だやすまらせ給 はず。如何なる罪の報ひにて露の命の消えやらで、又 かかる事を聞し召すらんと、尽きせぬ御歎き打続かせ給ひけるに附けても、朝夕の行業 怠らせ給はざり けるが、御年六十八と申しし貞応三年春の頃、五色の糸を御手にひか へ、南無西方極楽教主阿弥陀如来、本願誤ち給はずは必ず引摂し給へと祈誓して、高声  に念仏申させ給ひて引き入らせ給ひければ、紫雲空に靉靆、異香空に薫じつつ音楽雲に 聞ゆ。光明窓を照して往生の素懐を遂げさせ給ひけるこそ貴けれ。

 まこと「見るべき程は見」切って建礼門院徳子は老いの命を果てたのであり、平家の一門は多く命脈を絶たれ、源氏 も、義経も頼朝も、それどころか三代将軍実朝もすでに死んで、源氏将軍は早や跡を絶えていた。三種神器なしに皇位に即いて屋島の安徳帝と並び立った後鳥羽 天皇も今は遙かな沖の島に流され果て、天下の成敗はすでに陪臣北条の執権にしっかと握られていた。そこまでを見て死のうと、後白河よりも先だって若くして 死んだことにされようと、もはや建礼門院にはなにごととも思い分くことはなかったであろうが、平家物語を支えた多くの日本人が、女院の若い命を、大原寂光 院で御仏の来迎摂取に委ねよう、委ねたいと思ったのも、一つの大きな追悼の行為であった。
 或る本が謂うように「妙音菩薩ノ化身」で女院があったかどうかはともかく、よほど強靱な神経の持ち主でなければ生きな がらえにくい永すぎる生涯を建礼門院は生きた。それもあの大原の里に棲み果てたのではなかった。小督局を愛して舅清盛をやきもきさせた藤原隆房の妻は建礼 門院と姉妹であった。隆房夫婦は寒さの厳しい大原の里から、いつしかに姉の女院を、ちょうど今の平安神宮大鳥居にまぢかい邸宅に引き取り世話をしていた。 そこが火事で焼けると、また山沿いに南へ、ちょうど現在の高台寺の山に実在した金仙院という別邸とも私寺ともいえる場所へ移り住まわせた。角田文衛博士の 研究によれば、建礼門院のお墓は、あの豊臣秀吉の未亡人おねが入定死したかといわれる現在の高台寺御霊屋をそうは離れない辺りであったと謂う。
「百二十句本」では、鎌倉の六浦坂で平家正嫡の六代御前が斬られ、「それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり」と結ばれ る。まさに「断絶平家」の終末だが、の第百十九句に据えられた「大原御幸」が、「覚一本」などでは「女院御往生」を結びにした灌頂巻で終えている。覚一本 は十二世紀末の「建久二年きさらぎの中旬」といい、延慶本などは十三世紀の「貞応三年(一二二四)春の頃」という。それとても、もろともに「追悼平家」の 祈念も深い、大団円であった。     (完)
                                     
                           ーー 朝日ソノラマ 刊  1999年 11月 ーー