*収録 流通する文学 ・ 『秦恒平・湖(うみ)の本』
18年・80巻 ・ ネットの時代へ、作家として編集者として ・ 早春 ・ 志賀直哉の日記 ・ 谷崎潤一郎の細君譲渡 ・ 澤口靖子の「雪子」を観て
・ 電子空間の「闇」に書く ・ 機器と文学 ・ ある書家の見当違い ・ わたしのインターネット ・ 京のちえ ・ 京で五、六日(京都案内) ・
京の河原町 ・ 陸軍と海軍 ・ 男の美学なんか要らない ・ 『能の平家物語』(書下ろし単行本)
ネットの時代へ、作家として編
集者として
わたしは「書き手=小説家」だ。批評もエッセイも書 いてきた。どのように作家として出発し、現にどのようにこの議論との接点をもっているか、それを知ってもらうのが、議論の趣旨にいちばん適う気がする。な ぜか。
エプスタイン氏に始まり加藤敬事氏らの対話に到る議論が、ほとんど「書き手=作家・著作者」を、「出版」の問題にしていない。「読者」への評価もまるで無 い。こと「出版」を語って、作者と読者への視野や評価を欠いた議論というのは、何なのか。久しく作者を出版の「非常勤雇い」として?使し、読者から「いい 本」を取り上げて多くの泡をくわせ、待ちぼうけを食わせてきた、出版社主導ないし独善の「出版」なるものが、いま自己破産に瀕しているのは、けだし当然の ように見受けられる。新世紀は、そういう作者や読者から、旧出版へ反撃の時代とも位置づけられる。反撃を可能にするのが、デジタルテクノロジーであること は、言うまでもない。「出版」抜きの出版、作者と読者とで直接交しあう出版が、今日、可能になっている。わたしはそれを、十五年、成功させてきた。出版よ 変われと願い孤軍奮闘してきた。その実践を人は楠木正成の赤坂城に喩えてくれる。愚かしい真似であったか、意義があったかはみなさんの判断に委ね、他人の ことでなく、あえて自分のことをこの場で語ろう。
1960年代、創作を職業にする以前に、出版社に頼らず、私家版を少部数ずつ作って、ごく少数の読者に作品を手渡していた。その四冊目の表題作が、作者の
知らぬうちに太宰治文学賞の最終候補に推されていて、受賞した。1969年である。文学賞は、この業界からの「雇い入れ」招待状になった。
以後、年に四冊から六冊ほど、毎年本を出版し続けた。折り合える限りを出版社・編集者と折り合い、勤勉に書いて書いて著書を積み上げていった。一年に書く
二千枚の原稿のほぼ全部が右から左へ単行本になって行くほど、この新人作家は出版に恵まれた。十数年といわぬうちに各種六十冊を越えていた。ただし、どの
一冊もベストセラーにならなかった。わたしには出版が大事なのでなく、心ゆく創作や執筆、その自由と発表の場が大事であった。「いい読者」が大事だった。
少数だが熱い読者に常に支持されていると、編集者も出版社も本を出しつづけてくれ、蔵は建たなかったが、職業としての作家業は、受賞以来五年の二足わらじ
を脱いでからも、十数年、二十年、なお十分成り立った。原稿料・印税その他で、一流企業の友人たちよりもわたしは当時稼いでいた。
ところが、お付き合いの濃かった人文書出版社が、つ
ぎつぎ具合悪くなった。筑摩書房、平凡社、最近では中央公論社。意外とは思わなかった。優秀なバックリストに満たされての破局は、エプスタイン氏の批判に
言い尽くされているのかも知れない。龍澤氏の反省がまるで当時機能していなかったのは明白である。
痛みとともに想い出すが、すでに1970年代前半にして、わたしが勤めてきた出版社の企
画会議・管理職会議での合い言葉は、強圧は、「前年同期プラス何十パーセント」という機械的な生産高設定であった。医学専門書の出版社でそうで
あったし、読者確保の利く専門書であるがゆえに高価格設定でそれもなんとかなったけれど、
龍沢氏のいわれる「幅」のある、それだけ見通しの利かない人文書出版社で、生産高本位の「前年同期プラス」に歯止めなく走り始めれば、そん
なバブルが、うたかたと潰えるのは目前であった。作家として独り立ちしてからの7-8-
90年代を通じ、わたしは「出版」の自己崩壊または異様な変質は、あまりに当たり前のことと眺めていた。良識ある編集者の発言力が社内で通用せず、むしろ
進んで変質し、「売れる本を書いて欲しい」としか著作者に言わなくなっていたのだ。龍沢氏は言われる、「書籍編集者は年間出版点数を倍に増やさなければ売
上げを確保できず、企画は次第に画一化されてゆく。その過程で編集者・出版社は、かつて強力な流通網の向こう側に確実に実在していたはずの、ある『幅』を
もった多様な人文書の読み手であった『読者階層』の姿を急速に見失ってしまったのである。企画の画一化は、結局のところ画一的な読者を生む以外にないので
ある」と。この通りであった。「編集者」はいなくなった。原稿もろくに読まない・読めない「出版社員」だけが下請けを追い使って生産高を競った。
そんな中で、作家・著作者とは、バブル化する出版資本のかなりみっともない「非常勤雇
い」に過ぎないとわたしは自覚し、イヤ気もさして、このままでは、百冊の本を出しても、売り物としては半年から二年未満の寿命に過ぎないし、読
みたい本が手に入らないという「いい読者」たちの悲鳴に出版が見向きもしない以上、作者で
ある自分に「できる」ことは何だろうと、考えに考えた。
そして、1986年に創刊に踏み切ったのが、絶版品
切れの自分の全著作を、自身の編集・制作により復刊・販売・発送し、作品を、作者から読者へ直接手渡すという、稀有の私家版シリーズ「秦恒平・湖(うみ)
の本」であった。辛うじて自分
の「いい読者」を見失うまいと手を伸ばしたのだ、詳しく話していられないが、今年の桜桃忌
(太宰治の忌日)までに、満十五年、六十七巻の著作を簡素に美しい単行書として、自力で出版し続け、百巻も可能な見通しで、なお継続できる「文
学環境」が確保できているのである。読者の質は高く、支持は堅く、代金は一ヶ月でほぼ回収
している。復刊だけではない、新刊も躊躇なく刊行し、ただし実作業はわたしと老妻との二人で全て支えてきた。苦労そのものであったが、読者と
いう「身内」に恵まれ幸せであった。「本が売れないって。泣き言を言うな。自分で売るさ」
と、実に自由であった。むろん市販の本も、各社から二十冊ほど増やした。忙しかった。
大事なのは、ここからだ。かつて菊池寛が文藝春秋を 創立したとき、作家が出版社経営に手を出すのかと中央公論社長らに大いに憎まれ、喧嘩沙汰もあった。菊池寛のような政治家ではないたった独りの純文学作 家・秦恒平の自力出版が、五年しても十年しても着々続いていては、陰に陽に凄い圧力がかかる。文壇人としては野たれ死ぬかな、ま、赤坂城のあとには千早城 があるさと粘っているうちに、1993年、東京工業大学の「文学」教授に、太宰賞の時と同じく突如指名された。大学教授の方はとにかく、理系の優秀校、コ ンピュータが使えるようになるぞと、わたしは、牢獄を脱走するエドモン・ダンテスのような気分になった。紙の本で得てきた創作者の自由を、電子の本でさら に拡充し、紙と電子の両輪を用いて、「いい読者」たちとの「文学環境」をもっと豊かにもっと効果的にインターネットで楽しもうと、奮いたったのである。
定年で退任したいま「作家秦恒平の文学と生活
http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/」は、その途上にある。途上とはいえ、文学・文藝のアーカイブに徹して、コンテン
ツはすでに600万字に達し、電子版「湖の本」の他に、新たな創作もエッセイや批評や講演録も多彩に取り込んでいる。課金しないから、読者は自由にすべて
が読めるし、気が向けば印刷版の「湖の本」へ自然に注文が入る。紙の本の魅力はまだまだ当分失せはしないのである。
わが「湖」は必ずしも広くはなっていない、が、深まっている。その証拠ともあえて言お
う、わたしのホームページは、さらにその中に「e-literary
magazine文庫・湖umi」を抱き込み、わたしが責任編輯して、弁慶の刀狩りではないが千人・千編の各種の文学文藝を掲載発信すべく、すでに創刊半
年で、百数十人の作品に満たされているが、書き手の大方が「湖の本」の読者であり、大半は立派に知名の書き手なのである。その水準の高さに惹かれ励まされ
て若い無名の書き手も次々に参加してきている。原稿料は出さず、掲載料もとらず、ただわたしの「編集と取捨」とに委ねられている。実はわたしは、作家以前
に、弁慶のような「編集者」として牛若丸の「書き手」を追いかけ回し、そして最後には勝たせてあげていた。その「体験」が、わたしの「作家」三十数年を支
えてきたのだ、ここが、もっとも肝要な「これからの編集者」論ということになる。龍沢氏の文中にもある「編集者・出版社」という一括はもう崩れていい。
「作家・編集者」という根源のチームに立ち帰らねば「編集という本質」は瓦解するのだ。
もし、力ある作家と編集者とが、小さく緊密に、コッテージ・インダストリーふうに紙とデジタルで信頼の手を組めば、そういう「新出版」が各処に渦巻き働き
始めれば、老朽した「旧出版」という北条政権は、遂には傾くだろう。インターネットに、読者と作者を引き裂く「中間」存在など無用なのだから。
この場合に必要なのは、作家自身の誠実な自己批評の能力、編集力、だ。作家自身も、それ
をサポートできる編集者にも、何よりもつまりは良きものを求めて「読んで」見つけだす力が必要なだけだ。インターネットで文学環境を築こうと
すれば、作家自らが誠実な意欲的な編集者になれるかどうか、その結果時代が真に新しくなる
かどうか、が、鍵になる。弁慶と牛若丸のように、今こそ編集者は作家と、作家は編集者と組んで「旧出版社」から脱出せよと言いたい。その際、力ある「いい
読者」たちの存在をけっして無視してはならないのである。 2001.6.17
─ウェブサイト「本とコンピュータ」英語版 2001.6.22掲載─
林佐穂さんの手紙を就寝前に読んだ。懐かしそうに国民学校の昔から戦後のことなどが、わたしのことも織り交ぜ書
かれていて、しんみりした。昭和二十年、敗戦前の三月に卒業生答辞を読んで卒業しいった、仰ぎ見る憧れの先輩であった。答辞を読むすずしい声音を耳の底に
だいじに秘めたまま、間を置くひまもなく、わたしは、祖父と母とで「丹波」へ疎開していった。ホームシックのなかで京を懐かしく焦がれるときには、しばし
ば講堂での卒業式の静粛を思い出していた。戦争もへたくれもなかった。ただ佐穂さんの声音に耳を澄ませていた。
戦後、いつしかに叔母の稽古揚に、お茶お花ともにお稽古に通ってくる佐穂さんがいた。それはそれは美しい点前でいいお
茶をたててくれる人だった。その後の生き方も結婚も、大家のお嬢さんとしては決然として個性的な進路であり、聡明な選択であったと遠くから感心して眺めて
いた。断続して文通は続いていた。安心だった。子供の頃以来一度も顔を合わしたことがないが、すぐ身の側に、いつも感じている。
五十年も昔のことをそんなに「意識」しても仕方がないと、世間には言う人もいる。そうかも知れない。そうでは無かろう
と思い、わたしは、ここ数年は、意識して少年の昔を顧み、その頃への「旅」を続けてきた。『早春』と題したながいものも書いてみた。
記憶の旅には一血的なところがある。後輩にも当たる京都の読者のおかげで、例えば若くて亡くなった図画の西村敏郎先生
の、また一つ心嬉しいエピソードが伝えられたりすると嬉しくてならなかった。だが、すぐさま、べつの心よからぬ評判を伝えてくる声も届いてきたりする。人
間の「世間」ゆえ、一人の人物も視覚しだいで、いい・わるいの両側をもたざるを得ないだろうが、今さらに人のいやな側面を聞き知ってみたいとは、全く、思
わない。いやなヤツと思ってきた人の、思わぬいい面を教わるのは嬉しいことだが、逆は、愉快ではない。そういうところに丁寧に「意識」を置くことも、また
年の功というものではなかろうか。
くさいものに蓋をする気ではない。一面からだけ見過ぎては、その一面がわるい一面の場合は殊に、いけなかろうと思うの
だ。
西村先生の場合、画業への不運不遇がどんなにか生活の焦れを招いていただろう、経済難もさぞあったろう。先生のあの頃
のあまりな年若さを思えば、青春の悩みも深かったに違いないと想像される。
わたしは小学校五年から新制中学二年までも『早春』と呼んだのだが、一年入学で理科を教わった佐々木葉子先生は、女専
を出てすぐの新任だった。あの頃こそが自分の「青春」でしたと昨日戴いたお手紙に書かれていた。佐々木先生と西村先生とでは、みたところもむしろ男先生の
方がやや若かったかとすら思われる。二十歳代に入って間もなかったろう。敗戦直後、青雲の思いのなかなか満たされにくい時代でもあった。そんな西村先生
が、一つのパンを二つに分けて、食べるもののない一年生に与えられていた。思い出すだけで涙腺がゆるむとその一年牛は、いましも高齢にさしかかりながら告
白し、なにと人が言おうとう先生はわたしの「ヒーロー」でしたと書いている。「わるい」だけの記憶からものは得られない。それを否定も出来ないが、わるい
記憶は出来れば処分するか、少なくも胸にしまっておき、わるい噂話にして人に伝えたりしない方がいい。それとも、きっちりした形で表へ出して「書き表す」
か、だ。
人には、「もののあはれ」に柔らかに反応し、しおれたり、はずんだりする何か不思議な能力がある。このせわしない現代
生活では、大方の人が、そんなものは押し殺して、むやみやたら忙しい忙しいと得意がっていたり、悩んでいたり、追いまくられて、痩せている。時代の病であ
る。そういう病を通過しなければ済まない世代もあり、一概にわたしは否定しないが、胸の内に「花びらのように」ある、ふしぎに柔らかい美しいものを全て見
失ってしまうのは、ひからびてしまうようで、恐ろしい。
ガンコ者のわたしが言うと少し可笑しがる人もあろうが、「わたしは、わたし」と言い募ってガンと曲げないことを誇りに
している人があると、そんな「わたし」が何だろうと、滑稽な気がする。そういう「わたし」に限って、つまりは卑小な日常的ガンコさ以外の何ものでもなかっ
たりする。他者への柔らかい思い入れが乏しいのである。外からのはたらきかけで自分が変わるのを小心に怖れているのである。我執。
ある秤度まで己れを頑固に護らねばならぬことは、実際に多々あり、むしろ護らずに妥協しすぎるのが日本人の大きな欠点
の一つと思っている。しかし個性的で人間的な自己主張には、芯のところに、「花びらのように」柔らかい、美しい静かさが置かれてあるものだ、「かなしみの
ような」ものと言い替えても佳い。
──「月刊ずいひつ」平成十三年一月号──
ともに文豪といわれた谷崎潤一郎と佐藤春夫の出会いは、大正四年の谷崎の結婚よりやや遡るかと見られる。谷崎の
妻石川千代(子)には気性の烈しい姉と妹があり、千代は穏和で家庭的な人であったが、当時悪魔主義、芸術至上主義をもって目されていた谷崎は、長女鮎子の
生まれた五年に「父となりて」を発表し、妻子の存在をことさら蔑視する態度に出ていた。ことに同居し親近した妻の妹(名作『痴人の愛』の女主人公ナオミの
モデル)に惹かれて以来、彼女を映画女優に仕立てて自ら映画製作に熱中するにつれ、夫婦仲は冷え込んだ。佐藤春夫は兄事し敬愛する谷崎の妻千代に愛を覚え
て同情し、千代も佐藤の愛を頼む気持ちを抱き始めていた。谷崎と佐藤とは千代を譲り譲られようと一度は協約したものの土、壇場になり谷崎が翻意し、佐藤は
谷崎と絶交した。大正十年の「小田原事件」であり、両者は三角関係の内情を剔った長編小説で烈しく応酬し、ことに佐藤は幾多の抒情的な詩篇をもって千代に
届けと世にうったえ、谷崎も辟易した。
互いに深く認めあう文学の友であった谷崎と佐藤とは、だが、大正十五年に快く和解し、谷崎はこれを機に『痴人の愛』
『蓼喰ふ蟲』以降昭和初年の名作群を続々産出の基盤を得ていった。その蔭には、昭和二年早春に出逢った後の松子夫人への恋慕がちからづよく働いていた。谷
崎はふたたび妻千代を佐藤に譲ろうと考え、佐藤も進んで受け入れようとした。その頃、実は『蓼喰ふ蟲』に書かれている、千代夫人にもべつの恋が見え隠れに
進んでいた。谷崎も佐藤もそれも承知で「細君譲渡」を決意し、千代も受け入れた。小説より奇なる事実として、昭和五年、三者連名の「挨拶状」が公表され、
世間を驚倒した。
「小田原事件」から「細君譲渡」へ、これを谷崎佐藤両家の、私的で、異様に非常識な醜聞と見た世間は広かった。二人の
作家よりも「譲渡」を受け入れた千代への非難が強かった。だが三人の男女は「挨拶状」に一言半句の理屈も述べず、端的に決断した事実だけを淡々と述べた。
それを聡明な処置と評価する人もいた。文学者、芸術家の恣まな背世間的逸脱ともみられ、また、精神と行動の真の自由を汲み取った者もいた。明治維新以降の
近代日本が、軍閥跋扈の太平洋戦争へすでに暗い時代の斜面を滑り落ちつつあった時に、「こういうこと」もできる魂の、断乎としたこれを自己表現とみれば、
これほど大胆な伝統の夫婦観・家庭観を覆す態度は無かった。「世の掟」ではなく「人の誠」を建てて断行された意味で、それは夏目漱石が『それから』で示し
た逸脱に倣う、昂然たる個と個との聡明の表明であったろう。
だが別の面から結果的に見ると、谷崎は、佐藤によき妻と家庭を与えて、その中へ、強力な文学のライバルと、神にも玩具
にもなれない尋常な妻とを、同時に埋め去っていた。加えて妻千代のそれこそ醜聞に発展しかねない『蓼喰ふ蟲』の「阿曾」という存在をも、みごと噂の闇へと
葬り去った。「細君譲渡」は、谷崎潤一郎というしたたかな芸術家による鮮やかな「三重殺」であったし、その勢いで、谷崎文学の真の黄金時代が幕を開けた。
* 帝劇の「細雪」公演、文句無く楽しめた。
原作の力は言うまでもなく、脚色・演出にもソツなく、澤口靖子の完璧に美しい「雪子」の演技に、目も心も奪われた。こ
んなに美しい女性を見たのは生まれて初めてで、その美しさが「細雪の雪子」になりきっていて、女優澤口靖子とも思わせない自然さと気品にも、感動した。涙
が溢れて困った。映画では山根寿子や吉永小百合の「雪子」を見てきた。山根が小百合が演じている「雪子」で、それなりに納得し好きだったが、今日の「雪
子」は雪子その人が、生身のまま舞台の上で光り輝いて自然であった。「澤口靖子」が美しいとも素晴らしいとも思わせず、「なんと美しい雪子だろう」と、た
だ心を奪われていた。
双眼鏡で「雪子」だけを見ていた。「細雪」の世界は知悉している。古手川祐子の「幸子」はよかった。この人の映画の
「妙子」もとてもよかつた。佐久間良子の「鶴子」は、映画の時の「幸子」役と同様、感心しなかった。「こいさん」役は美しいが未熟だった。役が掴めてな
かった、自然な説得力では。
そんなわけで、他に気を取られることなく、わたしは終始「雪子」を見ていた。芝居そのものの良さにも素直に感心した。
脚色が佳いということの大切さがしみじみと納得できた。菊田一夫という元の脚色者がいいのか、潤色した今の書き手がいいのか、台本を見ないから分からな
い、が、普通に「細雪」を舞台化するのなら、これで良いと思わせる程度に的確な脚色で潤色だったと思う。帝劇で、これで五つも六つも芝居を見せてもらった
が、抜群の舞台であった。
わたしは松子夫人が懐かしくてたまらなかった。また、はじめて「細雪」を通読した子どもの頃を思い出した。死んだ母に
も読ませた。小説の感想など言う人でなかったが「ええもんやな」と母は一言で評した。とても嬉しかったのを覚えている。
華麗で、幸せの絶頂にあるような美しい四姉妹が、それぞれに深い悲しみを抱いて、時代の運命にも翻弄されて行くものの
あわれが、無理なく美しく描けていて、付け刃ではない感動へ誘い込んでくれた。こういう舞台が創れて、帝劇の超満員の客を感動させうるのである。それなら
ば月々の興行も、もう少し客の能力を高くみて、質のいい舞台を謙虚に創って欲しいものだと思う。
* 『細雪』は円熟の名作であり、時代と人間を読み得た批評の名作でもある。単なる絵巻物ではないのである。
そして、今夜の舞台とはまた全く違った「細雪」のドラマを、私なら、別に思い描くことが出来る。思いのままに私にも
「細雪」が脚色し得たならば、それは谷崎自身がこの長編をそもそも構想した、最初の動機や展開に大胆にちかづくだろう。「貞之助をめぐる三人の姉妹」の美
しくて烈しい葛藤となるだろう。映画の市川崑監督は、ややそれへ近づいていたが、「こいさん」の、より深い内面には近づけないでいた。
* 帝劇地下の香味屋で、ディナーを十分楽しんでから、舞台を堪能した。このレストランがわたしも妻も気に入って
しまった。ワインもなかなかで、満ち足りた新年会だった。
ーー 私語の刻・闇に言い置く
ーー
――秦さんは、一九八六(昭和六十一)年から、それまでに出版された自著のうち、主に品切れ・絶版本を私家版として復刻・再刊の、「秦恒平・湖(う み)の本」というシリーズを続けられています。プロの作家である秦さんが、このような試みを構想されたのは、何がきっかけでしたか?
わたしは、六九年に太宰治文学賞を受賞以来、小説も批評もエッセイも、書くものは次から次へ残らず単行本になる
という、新人としては最も恵まれた文学作者の一人でした。年に四、五冊が出版され、著書は各社より百冊近く出ています。そのこと自体が、善し悪しは別にし
て、一つの「時代」を証言し得ているでしょう。現在なら、わたしのようなタイプの純文学の新人が、そんなふうに迎えられるのは容易でないはずです。それほ
ど、恵まれていました。
ところが本はたくさん出せたんですが、すぐ品切れして、簡単には増刷されない。出版の楽屋裏もわたしは永く体験してい
ます、これはムリもない。しかし、そのうち、「本が売れない」という言葉が、「出版・編集」の愚痴ないし本音から、なにかしら、言い訳ないし「多く売れる
本は売るが、売れない本は売らない」口実か戦略へと、すり替わり始めたんです。編集者たちは作者に、「売れる」ことを一に要求しはじめました。他方で読者
は、「あの本が読みたいのに、手に入らない」と作者にまで愬えてきました。八〇年代に入るにつれ、水かさの増すように、その感じは強まりました。このまま
では読者が気の毒だし、作品も可哀相……。
では、作者である自分に「何ができる」だろうと考えたとき、版元に在庫を置く余裕がないのなら、作者が読者に、希望の
本を自ら「手渡し」しよう、「直送」しようと思ったんです。そんなふうに、書き手が身を起こす、動かすということが、のちのち、何か目に見えない可能性に
なって、一つの「前蹤」を創るかもしれぬという予感がありました。
――どんな本をつくろうと考えられましたか?
「在庫」をある程度確保し、「読みたいのに本が無い」という読者の嘆きを少しでも解消するのが、根の発想でした。
宣伝なんて出来ません。取次や書店とも無縁。作者から読者へ直接「手渡す」のですから、手元の読者名簿だけが頼りでした、アドレスは、さあ、三百とは無
かったでしょうし、そういう人はわたしの本を既に買って持っています。思えばアテハカもない見切り発車でした。ずいぶん苦労しましたが、支持や応援もびっ
くりするほど有りました。本造りという面では、幸い、作家以前に出版社勤めで医学書の編集をしていましたから、企画も編集も校正も、本をつくる技術は持っ
ていたわけです。
まず考えたのは、簡素に美しい、重くない本にすることです。あまり分厚くしない。旅行カバンなどのすき間へすっと入っ
てくれるサイズで、厚い堅い紙は使わず、手触りの良い軽い本にしたかった。色も使わない。白い表紙が汚れやすいと心配する読者もいましたが、せいぜい汚し
て何冊も買い替えてもらいたい。(笑) 泣き所は、サイズからも雑誌に見えちゃうことでね。実質は、はっきり単行本なんですが。
作品。これは、たっぷりありました。それを自在に編成し直し、本文もよく整え、同じ装幀、同じ組みで、A5判の百三十
頁前後に一冊を仕立てています。長編は二冊ないし三冊に分冊しています。年に四、五冊、編集から校了まで、そして発送も自分でします。手伝ってくれるのは
妻だけ。制作費と送料その他にかかる経費が、全部は容易に回収できません。僅かですが不足分は持ち出しています。それでいいものと最初から覚悟していまし
た。その意味では、きちっと成り立っています。
――それからの十四年間で、通算六十二巻(創作四十二巻、エッセイ二十巻)もの本
を、ご自分の手で出版されたわけですね。「こんな仕事が、今年の桜桃忌には満十四年になる。その息の長さ。たとえ代金が全部は回収できなくても、『本』そ
のものに旅をさせることで十分購えていた。」と書かれていますが、いい言葉だなと思いました。
この本を手にとった人が、右から左へ紙屑籠には捨てないでくれるだろうという自信を持ち、一巻一巻をていねいに
配本してきました。作家が自身でこういう出版をしていることを、各界に、ただ識ってもらうだけでも、一つの「批評」になるのを意識していました。この本
が、現に、売れている・買われているという事実、それで刊行が維持継続できている事実も大事なことですが、こんな「作家の出版」が何故に必要になったかと
いう「出版」事情を広く識ってもらうことも、批評的にたいへん重要なんです。
宣伝・広告は事実上できなくて、すべて読者の支持・応援が頼りです。それがなければ維持も継続も不可能でした。こんな
に永く続いてきたのは、いい読者のおかげです。
配本のつど、読者には一人残らず手書きで、宛名と挨拶を入れています。大変な作業ですが、魂の色の似通う作者と読者と
を直かに結ぶ、これはもっとも象徴的な交感作業なんでして、「湖の本」の一等の魅力だとも読者は言ってくれます。
――執筆にはかなり早い時期からワープロをお使いですね。
八三年、東芝「トスワード」の高価な一号機でした。二行しか画面に表示できないものでした。(笑) 買ったその 日から実地に使いました。長い連載小説の中途でしたが、作品のどの箇所から器械書きに替えたか、分かる人は一人もありませんでした。文体とはそういうもの です。以来二十年、自分の作品は、何万枚もの原稿のすべてを、器械の画面で創りだしています。抵抗感もむろんあります、が、克服できないものでは全く無 かったですね。九六年頃から、パソコンを使うようになりました。パソコンは原稿用紙でもあるし、作品のための文字通り「文庫=文業保管庫」として使ってき ました。
――その原稿用紙や倉庫の延長として、九八年四月から「作家秦恒平の文学と生活」というホームページを始められた。ここに、長編・短篇の新作の書き 下ろしを載せたり、エッセイや講演録を転載されたり、「湖の本」の告知などされていますね。
新しい機能の「原稿用紙」が、また自身専用の「文庫=作品所蔵館」が欲しかったんです。さらにコンテンツの公開
の利く「作品展示館」も。いろんなアーキテクチュアで多彩にホームページを装飾する洒落っけは最初から無く、ただもう「文章」の、書ける、保管できる、展
示できるホームページ、「作家秦恒平の、文学と生活」が率直に表現できるホームページを欲していました。
もう一つ、これは大事な点ですが、多年勤勉に働いたおかげで、なんとか余生は暮らして行けると思います。だから金を稼
ぐ気はかなり薄れています。ホームページの文章がお金に化けることなど、ほとんど期待していません。その点、若い「これから」の作家たちとは、生活して行
く立場がだいぶ違っていると言えましょうか。趣味的だなどとは決して思っていませんが。
国立の東工大で、四年半、「作家」教授を勤めまして、理工系の優秀な学生諸君と大勢親密につき合ってきた。それがなけ
れば、コンピュータとのご縁はあり得なかったでしょう。大学に誘われたとき、何が何でもコンピュータに近づきたいと内心切望していましたが、それでも、
ホームページ開設に辿りつけたのは、定年退官してなお二年後ですものね、そこまでが実に難しかった。現在わたしのホームページには、文章ばかりが約四千枚
か、優にそれ以上入っています。院生で、我が器械の先生が、「秦さん、1メガバイトとは半角百万字です、かな漢字なら五十万字ですよ」と教えてくれ、5メ
ガバイトのホームページをつくってくれた時の嬉しさ、忘れることはないですね。今は17メガにしていますが、限度の50メガまで、自分の作品で埋め尽くし
たいと、本気で思っていますよ。
――ホームページでは、「生活と意見」という欄で、日々の生活を綴ってらっしゃいます。インターネットで公開の日記を載せることで、読者との距離感 が変わってきたという感覚はありますか?
「生活と意見」には、「私語の刻・闇に言い置く」という副題をつけました。まさにあの通りで、器械の奥は独特の
「闇」でしょう。実際にすぐ目の前に読者の姿、顔かたちが見えていたら、あのような日録はなかなか書けないですよ。ところが、ありがたいことにパソコンを
覗いている限りにおいては、人の顔は全然見えない。濛々たる闇ですから。そこへ向かって書く。話しかける。
一方で、ワープロは文房具だけれども、パソコンは明らかに自己表現の手段であると同時に、他者の参加を受け入れるもの
でもある。だから、私語のときのつもりが、いつの間にか、他者との対話のときになり変わっています。それが、佳い。嬉しい。
インターネットは、事実はそうでなくても、可能性において転送した瞬間に世界中で読むことが可能なものです。自分で日
記帳に日記を書いていたときには、ついいい加減に書かれ過ぎていても、パソコンでは厳しく己れを律しざるをえない。何か言われても責任はきちんと持たな
きゃいけないわけですよ。おかげで読者が、漠然とだけれども、莫大に広がったという、錯覚ではあるが、実感はありますね。
――ホームページをつくるときに、どういう点に気をつけてらっしゃるのですか?
作家は、精神が、活発で生き生きしていなければならない。ホームページも、日々に新たに生きて、緊張し更新して
いなければ無意味です。「自分は生きているぞ」という日々の刻印なんですね。一切は「闇に言い置く」遺書同然であり、本質的に「私語の刻」を器械の前で持
つのですから、他人の存在を気にすることは微塵もありません。しかも他人にも見られ得ることを識っています。そこに鋭い緊張が生まれます、しかし意識しな
い、拘束もされない。まして筆を枉げるなんてことはしないのです。創作も日録も、文学・文藝です。よそからの妨げは受けないと、ぐっと気を入れていなけれ
ば、「言葉」がウソになってしまう。表現は虚構でいいが、書き手の態度にウソは困るのです。
インターネットでは「闇に言い置く」行為が、そのまま世界に呈示するのと同義語なんですね。こんな緊張感は、そうある
ものじゃない。じつに嬉しい、全く新しい「原稿用紙」であり「発表場所」じゃありませんか。文体がダメになるの、紙とペンとでなければどうの、などという
ヘンな理屈は、文体や思想を持ちえていない人や、文学言語の魅惑=FASCINATIONのよく分かってない人の、ウワゴトだと思いますね。
――ホームページで作品を発表することと、紙の本の出版との違いは何でしょうか?
ホームページが即「出版」だとは思いませんが、一つ一つの作品にきちんと体裁を整え、プリントアウトすればその
まま本として読める形で提供したいと思っています。そのためには、一行字数の設定とか、そういうことも丁寧にしないといけない。よほど丁寧にやらないと
と、いろんな工夫をしてきました。最近いただいた、T-Timeというソフトなどを使ってみますと、画面上で縦書きに綺麗に内容が読み出せて、横書きのも
のが俄然生き返ったように読みやすくなりました。あれは嬉しかったな。
いつかはホームページの内容を、自分で自在にCD-ROM化して行くこともできればいいなと願っています。そういう作
品提供の仕方へも移れるよう、用意しておこうとっています、まだ今は、そういう技術も手段も持っていませんが。
紙の本の、きちんと装幀された従来の本=ブックという固定したイメージは、変わって行くと思っています。
前にも書いたことがあるんですが、「本」とは、いま手にしている「ブック」の形自体を謂うのでなく、中身の質の意味な
んですね。物事のまん中に、中心に、デンとして在り、誰もが頼り得て、寄りかかり得て、それを信頼することのできる、本質的で本格的な「何か」が「本」
だったと思います。そういうふうに、いっぺん「本」という理念をブック以前に戻して考えていく。すると、電子メディアによる表現も、明らかに新たな「本」
と理解され、受け取られ得ると思う。
電子本も、現在のCD―ROMやフロッピー・ディスクのかたちは過渡期的なもの、かなり短い期間でいろいろに変わって
いかざるを得まいと予想しています。環境は、すこぶる流動的に推移していると眺めています。
――作家がホームページで作品を発表するだけでなく、インターネットを使って自分の作品を積極的に販売していこうという動きが、エンターテインメン ト系の作家を中心に起こりつつありますね。
インターネット上で売る売らないは、今は技術的にも法制的にも過渡期なので、確かな基盤が築かれるまでは、試行
錯誤を繰り返していくしかないでしょうね。インターネット上で作品が売れ、作家の生計が成り立つには、なによりも、正確な課金方法の確立と著作権確立と
の、両面から、懸命の環境づくりをして行かねばならない。現状では、山ほど克服の必要な難所・関所が予想されます。一人一人の書き手がバラバラで解決して
行ける問題とは思われません。
電子メディアの著作権がどのようになるか、明確なビジョンをもっている人がなかなかいない。Aという作品を
CD―ROMにして千枚売った、その印税は、という程度ならまだ紙の本の著作権に準じて処理できます。もっとややこしいのは、映画と同じように、電子メ
ディアの大きなプログラムのなかに文筆家が巻き込まれていく場合です。たとえば、電子百科事典や電子新聞などにおける文筆家の著作権ということになると、
作家だけでは手に負えない。これは法律家や専門の研究者たちの協力も得ながら、ほんとうは文筆家団体がその辺にしっかりした展望や希望を持って具体的に動
きはじめなきゃいけないんだけれども。
――二月に、日本文藝家協会が「活字のたそがれか?ネットワーク時代の言論と公共性」というシンポジウムを開きましたね。
出口のないトンルネに入ってしまい、ただワンワンと怯えているが、何に怯えているのかも判然としないことが判然
とした、そういうシンポジウムでしたね。電子メディア著作権の殆ど実質無効に近い現況や未来のことも、課金システムの難しさも、紙の本の高級品化保存傾向
も、著作者の経済権確保の容易でないことも、みんな、わたし程度の者のとうに思い至っていた範囲を出なかった。そして、大事なことは、具体案が全く出てこ
なかったいことです。
電子メディア出版契約書づくりなどは、まさに、今を失しては、またしても、これまで以上にひどいめに著作権者があうの
は明白なのに、その組織的対応に踏み出そうと、協会とペンとが協同してとも、ちっとも具体的な提案がない。展望もない。動きが、ない。それでは、題目をな
らべているだけで、つまりは単に評論しているだけに過ぎない。評論など百万だら並べても、屁の突っ張りにもなりはしません。戦略なき闘いは負けるに決まっ
ている。
「活字のたそがれか?ネットワーク時代の言論と公共性」という、この、ぼやんとした把握の弱さが、下手な小説のように、
弱みの全てを明かしていたと思う。いっそ「ネットワーク時代に、著述者(著作権者)はどう立ち向かうか」その具体的な対策や対応を語り合うべきでした。せ
めて文藝家協会で、シンポジウムの遣りっぱなしでなく、何がこれから必要かをさらに話し合って、たんなるガス抜きシンポにしてしまわないで欲しいです。
日本の文筆家団体は、今もってコンピュータなんて別世界のことみたいとか、文学が器械で書けるかなどと、寝ぼけたこと
を言っているエライ人が中枢に居座っているところですからね。わたしは日本ペンクラブの電子メディア対応研究会で座長をやっていますが、理事達の反応は、
いたって鈍い。電子メディアでの文学や文筆の著作権問題に、深い危惧と理解とを示して対応に本腰を入れるには、手遅れ必至と怖れるぐらい、時間がかかりそ
うです。その間に、またしても「出版主導」「作家服属」型の電子メディア・システムが着々とつくり上げられ、書き手はまたも先々まで苦労することでしょ
う。作家が「奴隷で裸の王様」であるのは、運命なのかな。
どっちにしても、「電子メディアには著作権は成り立たない」なんてことになってしまいます。それならば何としても「紙
の本」方式を死守したいと、たださえ頭の固い文学者は思いこみ、機械では文学はできないのだということになる。こういう議論は、物事の過渡期に、新しい物
の出てくるときには、どんな時代にもどのジャンルにも足をっぱるかたちで現れたものです。
このあいだ、ジーン・ケリーの『雨に歌えば』(一九五二)という映画をたまま見ていたら、映画がサイレントからトー
キーに変わる時期の珍妙なエピソードが笑わせてくれました。活動写真に声が入るなんてとんでもない「邪道」だなんてね。いまのわれわれからすれば、それの
克服されて来たのを知っている安心感があるから、笑って見ていられますが、電子メディアのこれからの問題を、さてほんとうに克服できるかどうかという点で
は、とてもすらすらと楽観的な言葉を吐くことはできません。私なんかも、秦さんはパソコンを駆使して」なんて言われるけれど、一指か二指ぐらいしか動かし
てない。九指まではなかなかいかないです。(笑)そんな有様ですから、いまは断定的なことが言えないですね。
――さきほど、秦さん自身は、経済のことはもうあまり考えなくてすむとおっしゃいましたが、これから出てくる若い作家は、電子メディアによって生活 しなければならなくなるかもしれませんね。
そこが問題なんです。紙の本が百パーセントいままで通り続くのならば、ある程度その人の努力と運次第で作家生活
へ入って、本もたくさん出してもらうことができるかもしれない。ところが、電子本になってくると、出版社は、まず、たとえばマンガなども含めて映像的なも
のや、知名度の高い著者の声価の定まった作品など、損をしないで済むものから手がけるのじゃないでしょうか。インターネットにのせても、注文の来そうにな
いものはハナから排除しようとするでしょう。内容のダメなのが排除されるならいいけれども、質的に良いものを持っているけれどお客さんのつきそうにないも
のが、まるで蚊帳の外に置かれたまま、その傾向のまま電子本がシェアを増やしていくと、相対的に文学・文章の質は低落していくことになる。
もう一つは、若くて生活力を持たない人たちに、どれだけのペイバックが可能であるかという問題です。紙の本時代のよう
な、いわゆる「保障印税」(印刷した部数の印税を保証する)は、容易に確保されないでしょう。そうなったときに、新進未然の作家たちは、どういう文筆生活
ができるのか。否応なく兼業作家を強いられてしまうでしょう。本業が別にあって、ホームページに作品を載せ、細々でも自分に収入が入る仕組みをつくってい
くしかないのか、そんなことでいいのか。これから出てくる若い書き手には、かなり苦しい時代になるんじゃないかな。
――ただそこで、その困難を乗り越えていくエネルギーや情熱、新しい才能が生まれてくるかもしれないですね。
「紙の本」時代にいろんな作品があったように、電子本の時代になって、それと匹敵し、あるいは陵駕していく作品
が、そこを「場」に生まれてくればいいと思います。ただ、いい作品が生まれてくるかどうかは、書き手だけの問題ではないんです。その誕生を手助けする筈の
出版や編集への質的な信用が、ここ十数年のあいだにどんどん失われつつある。その信用を回復しようとする気魄や理想が、編集者たちの中に、まだまだ戻って
来てない気がしますね。編集と編集者との意識と能力との革新が、いまこそ大事な時点なんだけど、そこがねえ、希望がもちにくい。
それから、本には読者がつねに必要なんですが、たいへん良質の読者と、それほどではない読者とのあいだの乖離現象が、
さらにひどくなって来ています。
――昨年秋に、前スウェーデン作家協会会長のペーテル・クルマンさんが来日し、それにあわせてオン・デマンド出版についての講演・パネルディスカッション
を行ないました。秦さんはこの催しにいらっしゃいましたが、どういう感想をお持ちですか。
時宜に適った佳い講演会でしたね。書き手が「自ら動いた」という点を先ず画期的に感じました。ただクルマン氏ら
の場合、既成の「出版」と、つかず離れずどころでなくひどく遠慮して、いわば革新の気迫や自負にほど遠い。隙間産業並みの位置に身の程を自ら限定している
な、と感じました。それと、一番大切な著作者の法的権益保全への対策や主張を、まだ後回しにしていることも、少なからず危うい見切り発車のようにも思いま
した。逆に言えば、ヨーロッパでは、基盤を広く深く固めないままに建物を建て急がねばならないほど、現実に書き手も読者も、さらには小出版社も追い込まれ
ているということですね。その点では、日本のオンデマンド出版には、より良いシステムをと、期待をかけざるをえませんね。
話を聞いて、わたしの「湖の本」型の「作家(個人ないし少複数)の出版」を腕のいい編集者が助けたほうが、少なくも純
文学のいい作品と読者とを確実に掘り起こせるんじゃないかと思いました。大部数は期待しないが、力量と文学の純度をもった作家なら、必ず熱心な固定した愛
読者を持っています。「売れない」といわれた作家が自ら「売って行く」道のあることは、「湖の本」の維持と持続という多年にわたる事実が示しています。純
文学作者たちが、廃物扱いにされている自作を自力でデジタルに置き換え、オンデマンド出版に託しても、作品は甦りの機会を得ることでしょうね。動かなけれ
ば出逢えない、そう思いますよ。
――これからの作家活動について、お考えになっていることは何でしょうか?
わたしは、現在のままで躊躇なく、創作もエッセイも批評も続けて行きます。ホームページでは、必要が生じれば
ファイルを幾つでも増やして、内容の多彩と充実をはかりますが、「文学と生活」に徹して脱線しないだろうと思います。ビジターは増え続けています、だから
と言って路線を変える気はありません。わたしの精神が堅固で活発ならそれが反映するだけ、それ以外のことは望みません。
その一方で、私家版「秦恒平・湖の本」は、ま、赤坂城が落ち辛うじて千早城を守っている段階ですが、もう暫くわたしに
気力と余力の在るかぎり、稀有の「文学環境」として続けたい、続けて欲しいとも言われています。ものが「本」として提出でき、新作発表の「場」にもなり、
しかも継続購読の固定した有り難い読者にしっかり支えられ、在庫も用意していますからね。しかしデジタル化についてももっとアクティヴに考えたいし、オ
ン・デマンド出版にも電子書籍にも力を貸して欲しいという気はありますよ。
ともあれ、こういう「文学と生活」であるかぎり、嬉しいことに、何の拘束も受けることなく、確実に創作と出版の自由自
在を堪能することができ、感謝しています。独善に陥らないことだけを、心して自分に課しています。紙の本と電子の本とを自分の両手に持っていて、誰にも奪
われないことを、愛読者に感謝しています。コンピュータと出会えたことにも、心から感謝していますよ、わたしは。
(聞き手 萩野正昭)
ーー 山梨近代文学館 館報 平成十二年 春号 ーー
* しかしまあ、せっかく雑誌を貰っているのだから、読み始めてみた。だが、気が乗らない。読ませるような文章で はない、読み通す根気を惜しいと思うぐらい、案の定、ばかばかしい。すこし、関わってみようか。
* 「ワープロを早くから使い始めた詩人や作家がこれに対し違和感を感じ、捨て始めた」と、いきなり書いてある。
おおまかなものの言いようで、機器を早くから使い始めた人が、いきなり全面使用していたのか、(そういう人もいる。
)手書きと併用していたのか、(そういう人もいる。)全面使用から、手書きとの用途別の共用・併用に割り振って落ち着いたのか、(そういう人もいる。)す
ら押さえていない。これでは単に我が田に水を引くための立言であって、事実は、もう機器が手放せないと告白している作家も著述業の仲間も、少なくない。い
やはっきり言って「捨て始めた」人に出会うよりもずっと「使い慣れてきた」人の方が身辺には多い。そして、むろん、こんな数の多い少ないなど、何ら「文
学」にとって本質的なことではなく、要するに好みと便宜とが選択されているのである。「書く」手だてに何をどう選ぼうと、その限りでは大きなお世話なので
ある。
大事なことは、手書きか機器を用いる(この場合ある程度習熟していることの必要なのは当然で、同じことは例えば毛筆に
ついても言える。)か、それが、「文学」の質を左右する問題なんかでは、全くない、ということである。そういうアホなことを言う人は、「文学・創作」をよ
く知らないことを暴露しているだけだ。
* すぐ続いて、「文章作成機にせよ、個人用電子計算機にせよ携帯電話にせよ、現代商品は、どこかにいかがわしい
暗部をもっている」とある。
この程度の認識で、何かたいしたことを指摘したつもりなのだろうか。近代の産業社会と資本主義社会に割り込んできたさ
まざまな機械器具の類が人間に対して、多大の利便とともに、ある種の深刻な敵性・毒性をもはらんで、人間の自然と精神に影響を及ぼしてきたのは、ほぼ常識
に類している。すでに百年前に、「ロボット」といった批評的な佳い戯曲が海外で上演され、日本へも輸入されていた。俳優座が最近再演したし、作の意図と批
評はむしろ百年前以上に尖鋭に現代を刺していた。ここで石川氏の語彙に乗じてものをいえば、その「いかがわしさ」を、どう意識的に捌きながら用い使って行
くか・行けるかの上に、「近代・現代」という歴史的な現実は築かれてきた。
大なり小なり、われわれは、我々の手で創り出したものの敵性・毒性との、巧みな、ないし聡明な「共生」を、意図して目
論んできた。それを必要悪であったと謂ってもかまわないが、そういう自意識をあまり肥大させたいともわたしは思わない。このいわばパラドックスを否認否定
する道があれば、よろしい、行くがいい。それは石川氏が得手の隷書や篆書や甲骨文字で、現代から未来へ思想的・実践的に自己表明して行けると言上げしてい
るのに似ている。だが、わたしは活字体でけっこう、電子文字でも差し支えない。それでも、わたしは、きちんと「文学」できる。
それでいて断って置くが、隷書や篆書の美に冷淡なのではない。わたしが芸術表現の分野で最も深く敬愛しているのは、い
わゆる書、好みでは古文古筆の書である。昔の漢字やかなの書なのである。だが、自分の文章は機器でも書き、ペンやボールペンも使うし、必要なら毛筆でも
使っている。「文学は書字の運動である」などと、お節介であやふやな書家の観念論を押しつけられたくない、大きなお世話だ。
* 「現代商品は、生まれた時から、自由と共同を求める人間の潜在意識(自覚されない意識、意識以前の意識)に違
和感を感じさせるほどに不吉なのである」と石川氏の論旨は続く。
この「現代商品」という曖昧模糊としたもの謂いは、これは何だろう。新しい思想はもとより、新しい物や手段の誕生が、
どんな時代のどんな人々にも双手をあげて歓迎されたとでも石川氏は思っているのだろうか。それなら誤解である。よほど便利な道具ですら、慣れるまでは、ま
がまがしく無気味で不吉なしろものでありえたことは、日本での電信電話の開設当時を思っても分かるし、未開族のシャーマンらが、いちはなだって文明の道具
に警戒を示すのもそれだ。我々の社会にあっては、むしろ石川氏のようなものものしい根拠のないもの言いこそが、「不吉」な、カルト言説に属するだろう。こ
こへ、「阿頼耶識」のようなものを持ち出して曖昧な認識を修飾しようなどというのは、ただ大袈裟で、そんなことを謂うなら、古来、人間は、いわば「不吉」
と「不安」の海をはるばる泳いで、現代まで来たのだと言ってしまった方が、当たっている。
言って置く、「現代商品」によって人間は「不吉」に悩むのでなく、人間存在それ自体の行動や思弁が根に「不吉・不安」
をはらんでいたのである。不吉の原因を人間の「外」に、「外の条件」に押しつけてとかく言うなどは、ものの分かっていない証拠のようなものである。
* すぐ続いて、石川氏は今度は、「本来、人間の生と生活を豊かにし、率直に喜んで歓迎すべきーーいわば垂涎の的 であるべきーー商品が」と、まるで前言を裏切るような楽天的・断定的なもの言いで、さも本音らしい「商品」観を露出させている、が、なんという寸の短いも のの見方だろう。しかもその上で、そういう「商品が、気のりのしないまま購入と使用にかり立てられるということ自体が、現代商品の反人間性、反社会性、反 文化性を証している」と言い出す。安直な言葉遣いで、とうてい「文学」がどうのと言い立てられる人の文章でも議論でもない。ここではワープロやパソコンが 目の敵にされているようだが、もし「購入と使用に」ほんとうに「かり立てられ」ているというなら、もう一度言うが、それは機器商品のせいではなくて、人間 自体が持っている「衝動」にこそ問題がある。「商品」は、人間でなく、社会でなく、文化でもない。それを擬似人間(ロボット)化するのも、社会性を与える のも、文化にしてしまうのも、「人間」自身であり、「機器・商品」ではない。そしてワープロ・パソコンにかぎらず、人類が最初に道具を持ち始め、器械を作 りはじめた時から、同じ問題はつきまとって、文明の陰陽を生み出してきたのである。何万年の道具や機械の文明史の中で、うまれてわずか五十年のコンピュー タにだけ食ってかかる図など、配慮の視野の狭い人だなと思わざるを得ない。「不吉で不安な現代の機器商品」としてなら、もっと露骨にテレビなどの長短を言 うこともできる。石川氏の「商品」論はすでにして視野狭窄の愚をはやばや露呈している。
* もののまだ一ペイジも読み進まないのに、こんなに安直なことが語られているのだから、あとを読むのは、まず百 パーセント時間の無駄だと確信している。しかし、せめては三ページぐらいは読んであげないといけないだろうか。廿四、五ページあるらしいが、最後の最後を ふっと見ると、「だから、だから墨を磨れ」と結ばれてあるではないか、推して知るべし、やはり付き合わない方がマシのようだ。
* ひとつだけ追加しておこう。
石川氏は三ページ目へ来て、こんなことを書いている。それまでのところでも、機器の「漢字かな変換」などについて、
もっともそうな非難を並べているが、初期ワープロの頃は、漢字の数の少なさにこそ参ったが、実は「漢字かな変換」の珍妙さや煩わしさには、笑ってしまうわ
りに、特段の妨害は受けていなかったし、器械を替えて行くにつれ、ソフトの方も改良も著しく、今では、変換の自在さや誤差範囲そのものまでが、けっこう利
用価値になっている。機器での執筆に習熟している人にとっては、石川氏の、鬼の首をとったようなことごとしい議論、「日本語にとっては、決定的に歪んだ操
作と仕組を強いられる機械」だの、「日本語と日本文化に奇怪な現象をもたらす」だののまさにモノモノしいもの言いは、ご大層にという他はない。これは「日
本語と日本文化」と「日本語で書く」ことに、ながく心を砕いてきた一人として言うのであり、わたしの全著作の質と量とを賭して言うのである。
* で、石川氏は、更に、こういうことを言う。「作品をつくると言うことは、集中し、持続し、その極点で白熱する ことだ。この白熱を通して、過去を突き破る現在がほんの一瞬姿を現わす。電話がひっきりなしにかかってきて、思考の流れを絶えず乱される中で、まっとうな 詩や小説が書けるとは思えない」と。
* これだけ読んでも、石川九楊氏が、少なくも独り合点の、美文家だとわたしには分かる。よほど酒に酔っぱらって
も、この前段のような青臭いことは、この年になると書けない。創作について固定観念はもったが、体験は積んでいないらしい若者が、早口で大急ぎにものを
言ってのけたという按配で、気恥ずかしい、が、ま、若い人なのであろうと、聴くは聴いておこう。こういう感じ方も、あり得ていいだろう。
だが、石川さん。「電話がひっきりなしにかかって」来る状況と、「思考の流れを絶えず乱される」こととは、必ずしもい
つも同次元にはないのです。ほんとに「書く」気になっているときは、脱却もまたそう難儀ではない。体験を話したい。
* わたしは、小説を書き始めてから約十二年、医学研究書と医学月刊誌の編集者だった。後半は末端の管理職も兼ね
ていた。多忙も極限にいた。一人で百数十点の単行本企画と取材を担当し、月刊数誌の発行責任ももっていた。その中で小説を書き始めて、作品「清経入水」に
より太宰治賞を受けた。「蝶の皿」「畜生塚」「慈子」「廬山」「閨秀」そして「みごもりの湖」「墨牡丹」などと、書いていった。批評やエッセイも、「花と
風」「女文化の終焉」「趣向と自然」「谷崎潤一郎論」などと次々に本にしていった。
これらの全ては、だが、勤め先のあった本郷の、昼休みなどの喫茶店で、昼飯屋で、よその人と相席も厭わず、喧噪のさな
かで書かれたのである。家ではものを調べ、勤務中の寸暇を惜しんで、あらゆる場で、取材先の教授室や院長室のドアに持たれて立ったままのこともあり、バス
の中のこともあり、四人席の三人は知らぬよその人と相席の喫茶店ででも、ラブシーンの演じられるラブ喫茶の位席でも、平気で書いた。それでも石川氏のいう
「極点の白熱」は暫くの集中でいつも得られたのである。「思考の流れを絶えず乱される」ことからのがれ得ていたのである。
会社を辞めるまでの私の全著作は、斯くおおかたが喧噪のさなかで書かれていたが、多くの人が、私のそれら作品が微塵も
そういう喧噪の混濁に毒されていないことを、「静かな」特色に数えてくれた。うそだと思うなら、そんな「中で、まっとうな詩や小説が書けるとは思えない」
と言い張りたいなら、どうぞ、上に挙げたどの作品でも、読んでみて下さればいい。
* わたしと同じような環境をものともせずに書かれた、作家や作品が、必ずしも少なくないことは、調べれば分かる
かも知れない。それほど特別のことだとは思っていない。
創作にはいろんな「手」があり、芥川のように考え抜いてから書く人もあれば、石川淳のように暗闇に飛び込んで行くよう
に書く人もいる。尾崎紅葉のように徹底推敲で仕上げる人も在れば、初稿のままで人に渡す人もいる。そもそも「推敲」という手段そのものが示すように、文学
の場合、「作品をつくると言うことは、集中し、持続し、その極点で白熱することだ。この白熱を通して、過去を突き破る現在がほんの一瞬姿を現わす」などと
いった過程ばかりでは、必ずしも、ないのである。「書」のことは言わないが、「文学」の場合は、「電話がひっきりなしにかかってきて、思考の流れを絶えず
乱される中で、まっとうな詩や小説が書けるとは思えない」などとは、必ずしも限らない幾種類もの「白熱」の仕方も可能なのであり、明らかに石川氏はよく知
らないことに関して、勝手なことを言い過ぎている。
そして、その上に、まだ、こう付け加えているのだ、そんな「思考の流れを絶えず乱される中で、まっとうな詩や小説が書
けるとは思えない。文章作成機(ワープロ)を打つことは、これと同じことに帰す」と。
ほんとうに創作に打ち込んでいるときには、たかが機器を使っているかいないかなどで本質的に拘束されるような隙間もな
い。万年筆のペン先が割れて字がかすれたり、インクがもれたりする程度の迷惑も、ほとんど意識しないで済んでいる。なぜなら、所詮はペンにせよ機器にせ
よ、書字の道具以上のものとは評価していないから、そういう手段として機器をこのわたしに付き合わせている、つまりわたしが「使用」しているから、であ
る。
* 文学の創作には、「口述」という、筆記とはべつの方法も使われる。谷崎の「夢の浮橋」は口述作品であり、作者
自身の書字によっては書かれていないが、いい作品になっている。他にも例がある。公表前に親しい人に「読んで聴かせる」方法を、志賀直哉はじめ白樺の人た
ちは、ことによく用いていた。これも書字とはひと味ちがう書き方である。わたしは、いきなり作品を録音機に吹き込んで、更に推敲して行く方法も、時々取っ
たことがある。いろんな「手」がつかえるのである。
だが、「手」をつかうのは、人たる作家であり詩人なのであって、そこに内奥のもし秘儀が在るとせよ、それは決してペン
や筆や機器の左右できるところではないのである。是非に「墨を磨り、」「書字」して「文学」を、などということを決定論風に突き出して言い募るのは、書家
のとは言わない、石川九楊氏一人の、論理を欠いた好き勝手に過ぎない。どうぞご勝手に、但し好き勝手に押しつけないで貰いたい、ハタ迷惑になる。
石川氏の願いどおりすれば、作家が「手書きした原稿の文字」のまま読者も読めなければ、意味が無くなるのではないか。
それを「活字」に置き換えたものを読むのでは筋道が逸れているのではないか。
だが、文学は、「書く」だけで完結するのではなく、「読む」という行為も創造的に加わっている。「書くのは書字」だが
「読むのは活字」でもいいのか。
「書字」という書く行為ににこだわるなら、読む行為も「書字」でとならねば一貫しない。書字と活字では、字の素質が随分
異なる。だいいち、そんなことは不可能であり、ま、無意味な話になろう。
* 以上は、三ページだけのおつき合いでウンザリしてしまった弁である。それだけのものだと、お断りしておく。
ーー ホームページ「闇に言い置く・私語の刻」 二千年二月八日より ーー
ーー 「しんぶん赤旗」 平成十二年二月 掲載 ーー
「京都新聞特集版」平成十一年十一月五日
京で、五六日 ―京都案内―
留学生の希望で一緒に京都へ行きたいのだが、どう歩いたものかという東工大生の
希望にこたえ、大急ぎで書いた、ごく半端な「京で、五、六日」の案内である。
配布の希望が多かった。読者からも。お笑いぐさであるが、少し書き加えたりして。
* 京都市内に宿泊するものと考える。
* この通りこの順番ですべて訪ね歩く必要はない。おおよその目途をつけておくだけ。* 京都はおおむね四角い街で、
「市内」から「東」「西」「北」に山が見え、南はひらけ、東山のなお東側に、北から南へ細長い「郊外」がある。無駄足をなるべく避けるために、この(括弧
でくくった)五つの方面別に、案内する。たくさん見るより、ゆっくり見て楽しく歩くことを考えたほうが、京都にはふさわしい。
* およそ市内のどこからでも、東北西の三方に、低い壁のように山が見える。山の感じを先ず見覚えてしまうと、方角をあ
やまることが少ない。東北の角のところに、ひときわ高い山がある(比叡山。ひえいざん)のを眼に入れておくと、90度に折れて向かって右側が東山、左側は
北山と記憶すればいい。
* 京都人は、外国(他府県)人には一般に親切。中年以上の女性に遠慮せず質問して、無駄を省く。*「東山ぞい」は最も
見どころ多く、ここだけで、二日三日かけてもいいほど。
* 先ず「郊外」の、「滋賀」「宇治」「山科」「醍醐」方面を案内する。
1 天気がよければ、思いきって先ず「出町柳・でまちやなぎ」(市内、やや北寄り)へ向かう。東西に通った今出
川(いまでがわ)通りがある。その通りの、鴨川を東へ越えた加茂大橋詰めから、百メートルも無いすぐ北に、叡山電鉄の始発駅がある。この郊外電車で「八
瀬・やせ」へ行き、ケーブル・カーでいきなり比叡山へ登ってみるのも良い。終点からは山上を歩くが、京都市内や琵琶湖が一望できる。また日本史にもっとも
重要な古代寺院である「延暦寺・えんりゃくじ」があり、茶店などで案内の略地図を手に入れて、「根本中堂・こんぽんちゅうどう」など見歩いてから、滋賀県
の「坂本・さかもと」へ降りると、そちらには「琵琶湖・びわこ」や「三井寺・みいでら」「近江神宮・おうみじんぐう」など湖西の名所多く、「浜大津駅・は
まおおつえき」まで気の向くままに途中下車しながら戻る。そこで京都三条行きの電車で「三条・さんじょう」駅まで帰ってもいい。
時間があれば、浜大津からさらに南へ「石山寺・いしやまでら」まで行って来てもよい。紫式部が源氏物語を書いたともい
われる古代寺院で、途中の「粟津・あわづ」には、芭蕉の墓と木曽義仲の墓とが背中合わせの「義仲寺・ぎちゅうじ」もある。浜大津経由で、簡単に京都へは戻
れる。
このコースは、いちばんの大遠足。比較的、景色が大きくて気が開ける。あまり目的意識を持ち過ぎず、おおまかに「遠
足」だと思って行けば、景色の変化がよく楽しめる。
2 宇治の「平等院・びょうどういん」へは、行き方が二つある。
1で挙げた「浜大津」または「石山」から、「宇治川ライン」を船で「宇治」まで行くのが楽しい。宇治川は、かつて
「川」コンクールで日本一の人気投票を得たこともある。ただ、季節により船の休むこともあり、宿で確かめてもらうか、「京阪電車・けいはんでんしゃ」の駅
で聞くといい。運行しているならこのコースは、最高。川の上は季節により冷えることもあるので注意。下船してからは、川下へ川ぞいに、てくてく歩く。遠足
気分でのんびり歩くのがいい。概して降り道、らくなもの。
宇治へつけば「平等院・びょうどういん」「鳳凰堂・ほうおうどう」「中の島」「宇治橋」川向うの「興聖寺・こうしょう
じ」「宇治上神社・うじかみじんじゃ」などを、地図をみて歩く。平家物語の頼政戦死や名馬先駆けの古跡。鳳凰堂では、静かに、ゆっくりする。中尊の阿弥陀
像は「定朝・じょうちょう)による平安時代、いや日本史上屈指の佳い仏像。建築も見映えがする。興聖寺参道や境内も清々しい。源氏物語の美女浮舟の往来し
た辺りとも言われる。
宇治は最もうまい日本茶の名産地。パックの宇治茶なら宿ででも家ででも熱湯でかんたんに味わえる。
京阪宇治駅からすぐ「黄檗・おうばく」まで乗り、そこで「万福寺・まんぷくじ」へは是非立ち寄りたい。中国風の禅寺
で、佳い趣がある。門前「白雲庵・はくうんあん」の精進料理も余裕があれば楽しみたい。簡素で旨く、庭も、風情あふれている。
黄檗駅から京阪電車で市内の七条なり四条・三条なりへ簡単に戻れる。JRを利用して京都駅へも戻れる。道順などは土地
の人に聞くのが早い。いずれも距離はたいしたものでは、ない。
これも、一日行程として、十分。もしまだ時間があるなら、黄檗からの帰りに、京阪電車を「伏見稲荷大社・ふしみいなり
たいしゃ」で下車、日本最高の数を誇るお稲荷神社の総本山に参ってくると良い。とくに本殿裏から山上へえんえんと延びてつづく赤い鳥居の大トンネルを、す
こしの間でも潜ってくる体験は、忘れがたいものになるだろう。ここは「必見の京都」の一つでもある。参道の風情もひなびて面白い。
宇治へ行き方が二つと言った、もう一つは、つまり右の逆コースの意味。しかし船さえあれば先のコースの方が断然気分が
良い。宇治川を流れに沿うてくだった方が気が晴れる。
3「山科・やましな」へは「三条京阪前・さんじょうけいはんまえ」のバス・ターミナルからのバスと、徒歩とを、
うまく組み合わせるのがいい。(最近、JR二条駅と醍醐間を地下鉄が走るようになり、今はなにかにつけ、この利用が便利。)
山科では「小野随心院・おののずいしんいん」が佳い。さらに醍醐では、「醍醐寺・だいごじ」の、なかでも特に門を入っ
てすぐ左の「三宝院・さんぼういん」庭園は日本一の名庭といえる豪奢なもの。ゆっくり楽しみたい。少し奥の五重塔も必見、京都には五重塔がいまも五つ遺っ
ている、その一つ。随心院は小野小町ゆかり。建物の奥の、静かに清い庭先で放心してみるのもいい。べつに「勧修寺・かじゅうじ」という古代寺院もあるがハ
イウェイのそばで騒がしく、今は特別勧めたい場所ではない。
醍醐寺への移動は、京都三條からのバスが楽しい。歩きたくなれば、すぐ下りて歩ける。道は地元の人に尋ねるのが一番。
どこを歩いても疲れるほどの距離ではない。大石内藏助や志賀直哉の愛した山科盆地は、なかなかに味な場所で、上古・古代の匂いがする。
繰り返すが、醍醐寺三宝院の庭は、おそらく日本一巧緻に美しいもので、豊臣秀吉の名とともに桃山時代の豪華さを、加え
て静寂と、趣向の極致とを、堪能させてくれる。絵画も茶室も自然もみごとに織り成されている。洛西嵯峨の天龍寺の庭とならんで、さらに絢爛と大きく豊かに
美しい。
醍醐から「日野・ひの」へ移動する。バスがいいが、タクシーを拾っても。「法界寺・ほうかいじ」「一言寺・いちごん
じ」がいい。『方丈記』の世界。ことに法界寺の仏像は宇治鳳凰堂の時代のもので、すばらしい。京阪電車の最寄り駅から(宇治からの帰途と同じに)京都へ戻
れる。時間次第で、この時に「稲荷大社」に立ち寄ってもいい。
また「東福寺・とうふくじ」駅で下車して、現存最古の大きな三門を擁した、有名なこの禅寺の鳴り響くシンフォニーのよ
うな伽藍を、夕まぐれに、しみじみ歩いてから帰るのもすばらしい。一度寄っておき、日を改め、泉涌寺・東福寺を起点に東山ぞいを、ゆっくり楽しみ直すこと
を、ぜひ勧めるが。
* 「東山ぞい」は、南から北むきに進む「南コース」と、北から南むきに歩く「北コース」と、その接点部を、町歩
きもふくめて楽しむ「中央コース」がある。そう思う。「中央」は、時間と体力しだいで、「南」「北」のどっちかへ巧く組み入れることが可能。
なににしても、京都は、そう広い広い街ではない。その気なら、端から端まで徒歩でも押し渡れる程度だから、東京都とは
ちがい、乗り物にあまり頼らずに済む。もっとも、時は金なり、時間の経済を考えれば適度にタクシーを利用しても、これまた東京のように費用はかからない。
タクシー使用の有効度はなかなか高い。
基本的には、しかし、歩くことの楽しめる・楽しんだ方がよい街である、京都は。
1 「南コース」 いきなり「伏見稲荷大社」へ京阪電車で直行してもいい。何万と続く朱の鳥居の胎内を、気力
の許す範囲で山高く遠くまで潜ってくるのは凄い体験である。眺望もよく、太古の遺跡にも雰囲気と凄味がある。伏見街道を北へ、人にも尋ねながら暫く歩くと
「東福寺」へ南から入れる。
いきなり東福寺から、この日程に入っても良い。その際は京阪電車の「東福寺」駅まで行く。
道順は駅員なり、土地の人にすぐ尋ねたほうが早い。距離はほとんど無い。東福寺という寺は、大建築の配置(伽藍)が自
慢。「通天橋・つうてんきょう」を渡ってぜひ奥の「常楽庵・じょうらくあん」「普門院・ふもんいん」の庭園まで入ってほしい。稀有の明浄処。また「本堂」
も見学したほうがいい。裏の「龍吟庵(りゅうぎんあん)へ入れれば最高。数多く末寺(塔頭・たっちゅう)が周囲にならんでいる。ひとつひとつ、覗きこむ程
度でいい遠慮なく門内に入ってみると、思わぬ風情の清い小庭が隠れている。優しい花も咲いている。
東福寺境内を北から東寄りへ抜けて行くと、「泉涌寺・せんにゅうじ」参道へ出る。徒歩で数分。土地の人に道筋を聞くと
いい。
泉涌寺は日本で唯一「御寺・みてら」と尊称される皇室の位牌寺で、背後に御陵山を抱きこみ、これまた清寂の明浄処。御
所と寺院との不思議に習合した感じに気品がある。
町家のなかの参道をのぼって、小さな門前へ来たら、すぐ左の「即成院・そくじょういん」の中に入る。境内右の小道を奥
へ奥へ進むと、平家物語に名高い那須与一の塚が隠れている。さらに東へ突き当たる「戒光寺・かいこうじ」本堂に上がってみるとよい。すばらしい釈迦如来の
立像がある。深く覗きこんで礼拝を。たいした大仏様で、京都の人も知らない、とって置きの秘仏「丈六釈迦像・じょうろくしゃかぞう」。堂に上がりこんでも
拝礼の客は咎められない。
参道へ出て東へ進めば、泉涌寺や「拝跪聖陵・はいきせいりょう」の碑に、自然にすぐ辿りつく。右へ折れていった御門か
ら東の山向き真正面に境内へ入ったほうがよく、庫裏(本堂)へ入れれば、中は、信じられないほど静かに奥深く心地がいい。金堂や楊貴妃観音もいいが、金堂
より左の御陵道へのぼって、途中、山腹の「後堀河天皇陵・ごほりかわてんのうりょう」に参ってくるのもいい。
金堂のわき、御陵道へさしかかるすぐ左へ、ふっと小道坂を降りると、右手に「来迎院・らいごういん」の在るのを、此処
は、ぜひ覗いてほしい。「含翠庭・がんすいてい」には池も茶室も書院もあり、忠臣蔵の家老大石内藏助が一時身をひそめていた所。秦サンの大切なヒロイン
『慈子(あつこ)』の住んでいたお寺でもある。恰好の案内書にもなっている。
この来迎院門前を、渓ぞいに細い道を下って右へ行くと、すぐ奥に「観音寺・かんのんじ」があり、愛すべき日だまりを
作っている。赤い鳥居橋を渡って元の参道へもどったら、むしろ躊躇なくタクシーを拾うなりして、東山七条の「パークホテル」または「三十三間堂・さんじゅ
うさんげんどう」を指示する。乗れば数分の距離。バスでも、東山通りを北へ歩いても、いいが。
パークホテルの北側、通りの向うが「国立京都博物館・はくぶつかん」西側向うが「三十三間堂」、南隣が「後白河天皇御
陵・ごしらかわてんのうごりょう」「養源院・ようげんいん」「法住寺・ほうじゅうじ」で、中でも、特に三十三間堂は、必見。建築も仏像もじつにすばらし
い。平清盛の建てたもの。中尊は堂々と大きく鎌倉初期の最高傑作の一つ。千体像のある本堂の、裏の廊下にも、見過ごせないみごとな彫刻群がたくさん居並ん
でいる。
養源院には優れた画家俵屋宗達の、すばらしい「松」襖絵や「象」などの板扉絵が見もの。後白河御陵も清寂で感慨深い。
養源院と三十三間堂の向き合っている道路の、南奥の豪宕な「門」構えにまで眼が届くと、すばらしいのだが。隣接パークホテルは静かで、一階や地下などで、
昼食が気軽にとれる。
京都博物館は最高水準の藝術品や参考品を莫大に備えていて、東京・奈良の博物館に劣らない。疲れてしまう程は広くもな
い。
博物館の南隣に、秀吉を祭った「豊国神社・ほうこくじんじゃ」や国家安康の釣り鐘で歴史的に知られた「方広寺・ほうこ
うじ」がある。
見過ごせないのは、パークホテルの東側、大通りの東向うにある「智積院・ちしゃくいん」で、ここの殊に山水庭園や堂も
みごとだが、宝物館に保存した長谷川等伯らの『楓・桜図』の大襖絵は日本美術の最高峰の一つ、桃山時代の豪華な作品。
また智積院北側の広坂道を少し上ると「新日吉神社・いまひえじんじゃ」が、往時の日吉信仰の華やぎを今に伝えている。
高い高い石段山の上に「豊国廟・ほうこくびょう」がある。
博物館の東側、東大路に面して「妙法院・みょうほういん」があり、北の並びに病院がある。この市立病院の庭園「渉成
園・しょうせいえん」が、平安時代以来の面影をやや伝えた、池の広いなかなかの好環境で、史跡に指定されている。無料で気軽に入れる。
東山通り(東大路)の西側に立ち、北向きにタクシーを拾って、思い切って「清閑寺・せいかんじ」まで走らせるのも良
い。高倉天皇らの鬱蒼と奥深い御陵があり、紅葉の季節は眩いほどの景勝地になる。御陵前の山上に「清閑寺」の境内がひっそりと向かいの「花山・はなやま」
や京都の町を見下ろしている。この界隈一帯は秦サンの長編『冬祭り』の幻想的な舞台になっている。
「清閑寺」「高倉陵」の前から右へ右へ山の根を巻くように寂しい山道を進むと、「清水寺・きよみづでら」の奥へ通じてい
る。清水に至る山の中一帯は、いわゆる「鳥部山・とりべやま」「鳥部野・とりべの」の墓原と想っていてよい。あまりに寂しければ、このコースは割愛しても
いい。
その際は博物館の東、東山通り(東大路)の西側に立ち、北向きのタクシーを拾って、「清水寺・きよみずでら」のなるべ
く近くまで一気に登らせると良い。
ここでは「舞台・ぶたい」と、奥の「子安塔・こやすのとう」を拠点に、音羽山などの眺望を楽しむ。「音羽瀧・おとわの
たき」で手と口とを清め、本堂裏のちょっと高みの「地主神社・じしゅじんじゃ」へも寄るといい。縁結びを願う人で雑踏し、夥しい参拝客の小絵馬のバラエ
ティが面白い。
清水寺本堂には、美術的にも史料的にも古い貴重な「絵馬・えま」が数多く掲げられてある。清水寺内には、「成就院・
じょうじゅいん」もあり、この庭園がすばらしく、拝観させている時は、ぜひ寄って見るといい。
参道を人の流れにまかせて坂を降りてゆくと、やがて右へ石段を人は流れて行く。「三年坂・さんねんざか」または「産寧
坂」で、それを、降り道なりに、くつろいで進むといい。
もし雑踏が嫌いなら、清水寺を出て、すぐ右へ山ぞいの小道を、北むきにどんどん行くと、民家の並びに「正法寺・しょう
ほうじ」前へ出る。小さい古寺だが、釣鐘堂からみる町も西山も、眼下の「八坂五重塔・やさかのごじゅうのとう」も、それは結構な眺め。めったに人の行く寺
ではないが、境内に清水涌く清い古井もある。『冬祭り』のヒロインたちの小さなお墓が、ひそりと静まっている。
正法寺から下りて行った先の、「京都(護国)神社・きょうと(ごこく)じんじゃ」も閑静に清潔な、いいお宮。境内から
間近に、平安時代の「雲居寺大仏・うんごじだいぶつ」を偲ばせる、大きな石造観音菩薩座像が、青空の真下に見下ろせる。この一帯は「鷲峯山・じゅぶせ
ん」」「鷲尾・わしのお」といわれた古代以来の遊楽の名所。雲居寺跡地に建った「高台寺・こうだいじ」は秀吉夫人の寺。めったに開放していないから、開い
ていたら必見。庭もいいが、「御霊屋・おたまや」「時雨亭・しぐれてい」「傘亭・からかさてい」などの、蒔絵や茶室、また本堂の軒にかかげた「方丈」の二
字額など、見もの多い。ここも、秦サンの問題作『初恋』の生まれた舞台であり、また建礼門院の昔と現代を大きくはらんだ長編『風の奏で』の大事な舞台の一
つにもなっている。
高台寺のすぐ下に、等伯襖絵のみごとな「円徳院・えんとくいん」の枯山水の庭がよろしく、前庭では有名な甘酒を売って
いたが、その「文之助茶屋」は引っ越したとか。
門前をさらに北へ東寄りに進むと、「西行庵・さいぎょうあん」「長楽寺・ちょうらくじ」「圓山公園・まるやまこうえ
ん」「双林寺・そうりんじ」など見どころがひしめくが、もうこの辺で西向きに、公園から「八坂神社・やさかじんじゃ」へ入って行ってもよい。
この、日本三大祭筆頭「祇園祭・祇園会・ぎおんまつり・ぎおんえ」の総本宮をそぞろ歩きに、西の総門から、四条通りの
繁華へ降りて行く感じは、はんなりとして、なかなかの気分。ちなみに「はんなり」は、秦サンの説では「花あり」だと考えている。最近では、この私説がだい
ぶ定着している。『京と、はんなり』という著書もある。
門の向って左手前方、「弥栄中学・やさか中学」の背後一帯がいわゆる「祇園町・ぎおんまち」つまり京都で名高い遊郭・
花街である。中を散歩してもすこしも剣呑ではない。風情はあり舞子にも出会うだろう。食べものの佳い店もある。
祇園のすぐ南隣に「建仁寺・けんにんじ」も大きいが、ここは塔頭が殆ど開かれていない。建仁寺から遠くない南手には、
「六波羅密寺・ろくはらみつじ」があり「平清盛像」「空也像」「鬘観音像」などすばらしい遺産が在る。界隈は平家一門にゆかりのまさに六波羅の地である。
以上、莫大なプランのようだが、体力と地の利を心得た者には、優に回れる範囲内にある。適度に省いてよし、加えて寄り
道してもいい。二日に分けてもまた構わない。
2 「北コース」 事情が許して「修学院離宮・しゅがくいんりきゅう」にもし入れる場合は、なにより行きたい場所だ
が、普通は無理。したがって「三条京阪・さんじょうけいはん」駅からバスで、または「出町柳・でまちやなぎ」駅から電車で、「一乗寺・いちじょうじ」辺ま
で行き、尋ねて歩いて、東の山辺の、「曼殊院・まんしゅいん」へ先ず直行を勧める。格式高い中世寺院で、庭園と建築との調和は、じつに優美そのもの。縁側
に座りこんで、夢のように時のたつのを忘れる。半日ほど何も考えずに坐っていたくなる。
そこから、坂を歩いて降り、左・南へ田中道をしばらく行くと「詩仙堂・しせんどう」がある。近世の文人趣味の邸宅で、
建物も庭も鑑賞に耐え、みごとである。「曼殊院」と「詩仙堂」だけでも、京の半日は、疲れずに堪能できる。
標識にしたがい、「詩仙堂」から暫く南の山寄りに回って行くと、「金福寺・こんぷくじ」がある。与謝蕪村ゆかりの古い
小さなお寺だが、「芭蕉庵・ばしょうあん」わきの木深い山腹には、蕪村の墓をはじめ近代に至る文人俳人の墓碑が、大小夥しくかつ和やかに静まっている。季
節はつつじ・新緑の頃がいい。ほととぎすが鳴き渡る。秦サンの『あやつり春風馬堤曲』の大事な舞台である。
そのまま山沿いに北へ歩いても、タクシーでも、西の白川大通りからバスでもいいが、「銀閣寺・ぎんかくじ」へ。言うま
でもない足利義政将軍の遺跡、東山文化の拠点であり、「東求堂・とうぐどう」は書院の美しい典型。銀閣寺のすぐ西に画家橋本関雪のアトリエ跡「白沙村荘・
はくさそんそう」が、一見の価値ある、庭園住宅。銀閣寺へ入るより前に寄っておくといい。
銀閣寺を出れば、そのまますぐ山ぞいの小道を南へ行き、「法然院・ほうねんいん」にぜひ立ち寄って欲しい。許可さえあ
ればぜひ仏殿に参り、また庭や茶室や襖絵(狩野光信の槙図)も観たほうがいい。この寺の墓地に文豪谷崎潤一郎の墓がある。隣にすぐれた画家福田平八郎の墓
も並んでいる。場所は人に聞いたほうがいいが、一番山ぞいの高みにある。秦サンの短編『蝶の皿』がここで生まれている。
法然院からはいろいろ道があるが、西の方角近くに低い山なみが見えている。吉田山であり、ここに「真如堂・しんにょど
う」「黒谷金戒光明寺・くろだにこんかいこうみょうじ」がある。広大な黒谷墓地もある。佳い散歩道で、わざわざ山を降りまた山へ登って探し尋ねても、それ
だけの価値は十分ある。山といっても丘程度のもので、たいした時間も体力も要しない。「大文字山・だいもんじやま」の「大」字がよく見える。秦サンの代表
作といわれる長編『みごもりの湖』のヒロイン姉妹が学生時代をここで暮らしている。
黒谷を南へ降りると、近くに「平安神宮・へいあんじんぐう」がある。人に尋ね尋ね行き、平安時代の「応天門・おうてん
もん」「大極殿・だいごくでん」を模した壮大な輪奐を見ておいて、白砂の前庭の左奥入り口から、ぜひ奥の大庭園に入ってみるように。谷崎作『細雪』の花見
で知られた枝垂れ桜の庭を経て、奥へ奥へまことに優雅に美しく変化に富んだ天下の名園がひろがっている。職人芸を尽くした全国屈指の名庭で、心豊かに堪能
できる。神宮の外、大鳥居の両側に市立美術館・近代美術館がある。
ここから「疏水・そすい」に沿って、歩いてでも車ででも、ちょっと真東へ山裾まで戻るが、ぜひにも「永観堂・えいか
んどう」を訪れて、寺内を拝観してくると良い。奥の奥に「見返り阿弥陀」像が安置されているが、これは、忘れがたい感動の出会いとなろう。この寺の建物は
まこと平安時代の貴族の山荘を思わせ、京都でも、もっとも華奢に感銘深い美しい寺院の一つである。すばらしい国宝の山越阿弥陀「来迎図・らいごうず」も蔵
している。
ここからは南へ「南禅寺・なんぜんじ」にもう程ない。近い。そのまま北側から南禅寺境内に入ると、すぐ「奥丹・おくた
ん」の湯豆腐が名物。味わってみるといい。庭も座敷も面白い。「南禅寺」は歴史に名高い「京都五山・きょうとごさん」に、なお別格で超越した位高い禅寺
で、境内をそぞろ歩くだけでも楽しめる景勝の地。石川五右衛門の「絶景哉」で知られる三門の眺望はまことに美しい。上れる機会には、ぜひ上ってみたい。
三門の脇に「天授庵・てんじゅあん」また「金地院・こんちいん」などの飛びきりの塔頭が軒並みに犇めき、分けてもこの
二つは庭園抜群、観るに値する。特に「金地院」には秦サンの長編『糸瓜と木魚』のその「木魚」先生洋画家浅井忠の墓がある。
それだけではない、見落としてはならないのが、三門より向かって右斜めに奥に隠れた「疏水の水道」建造物。不思議に美
しい近代科学の所産が、いまはしっくりと環境に馴染んでいる。
この一帯は、大昔から景勝の地として皇族・貴族の別荘が殊に多かった。いまも細川家の別邸はじめ、大別邸が数多くあ
る。多くは開放していない。中で、京料理の極めつけ、日本一といわれる料亭「瓢亭」にまぢかい「無鄰庵・むりんあん」は、旧山県公爵の別邸であったが、庭
園とともに一部開放されている。尋ねればすぐ分かる。「瓢亭・ひょうてい」の小座敷は市中の山居を堪能できる、今では類のない寂境である。お金が出来た
ら、いつか、一度でも食べに行けるといいね。
南禅寺を出て、「蹴上・けあげ」の都ホテルで休息してはどうか。眺望のいいレストランや割烹の店を選んでもいい。超級
のリゾート・ホテル。
三条通りを避け、一筋南、民家の奥の山近い細い道へ入る。昔の三条通りというより旧東海道。今はごく狭いが古いお寺も
あり風情はいい。西へゆるやかに坂をおりて行き、途中「粟田神社・あわたじんじゃ」に寄ってもいい。一帯が昔の「粟田口・あわたぐち」で、やがて粟田小学
校が道の角にある。そこで右をむけば平安神宮の朱の大鳥居が見え、左の急な坂へ上って行くと、すぐ左に「青蓮院・しょうれんいん」がある。これまた鳴り響
く格式を誇る古代寺院で、ここの庭園や茶室が佳い。建物も古式を帯びている。高僧慈円がいて親鸞聖人を得度させた寺でもある。この辺にも、御陵がある。皇
室の墓だが、御陵はどこにあっても清らかに日本の美意識に結びついている。青蓮院のすぐ南隣の「十楽寺陵・じゅうらくじりょう」も覗いてみるといい。
南へ、やがて広い坂道とのT字路へ出る。「瓜生石・うりゅういし」が据えてある。すぐ左手・東の石段をあがって門の中
へ入るのが便利。ずうっと大石垣の道なりにまるで城郭の中を進むと、浄土宗総本山「知恩院・ちおいん」の本堂(御影堂・みえいどう)前へ入って行く。この
道筋も捨てがたく、しかし、また先の広道T字路をそのまま南に進むと、やがて日本一大きな「知恩院三門・ちおいんさんもん」前へ出る。この門をくぐり、さ
らに急な石段・男段を上っても、結局同じ、知恩院本堂まえの広場に出る。本堂へはぜひ上がってみる。世界でも最大級の木造建築である。また徳川幕府が事あ
らば京の城として構えた、城郭寺でもある。
本堂の東、北寄りの山の上へ石段をのぼって行くと「開山堂・かいさんどう」や墓地に通じ、かなり高い。また本堂の東
側、やや南・右手の山へ石段をのぼると、日本一の「大釣鐘堂・おおつりがねどう」がある。この釣鐘、一見の価値は十分ある。
釣鐘から右・南へ抜けて行くと、山手に「安養寺・あんようじ」があり、すこし先に蝋燭など立てた小さな祠堂がある。こ
の堂の真裏に、じつに立派な古い「五輪塔・ごりんのとう」が隠れていて、重要美術品になっているのが珍しい。この辺が、「圓山公園・まるやまこうえん」の
一番の奥に当たっている。すぐ南の山腹には、平家物語ゆかりの「長楽寺・ちょうらくじ」がひっそりと隠れている。また目の前に高級料亭の「左阿弥・さあ
み」がある。
「左阿弥」前の舗装路からちょっと降り、そしていきなり公園奥の心地よい落ち水まで木立の隠れ道を降りると、公園をほぼ
全部見ながら、噴水の池へ、有名な枝垂れ桜へ、また八坂神社境内へとやすやすと降りて行ける。「南コース」と「北コース」の、いわば合流点に、この圓山公
園や八坂神社は在る。
圓山公園の噴水や枝垂れ櫻から南を向くと往年の「たばこ王」といわれた富豪ゆかりの洋館「長楽館・ちょうらくかん」が
見え、その先は「真葛ヶ原・まくずがはら」から「祇園女御塚・ぎおんにょうごづか」「祇園閣・ぎおんかく」「菊渓・きくだに」「高台寺・こうだいじ」「石
塀小路・いしべこうじ」或いは「八坂五重塔・やさかのごじゅうのとう」などが、また東を向くと、「大谷廟・おおたにびょう」「双林寺・そうりんじ」「西行
庵・さいぎょうあん」などが在る。
* むろん見残している場所は無数にあるが、これでも、十二分に盛り沢山である。
「比叡山コース」「宇治川ラインコース」「山科醍醐日野コース」「東山南コース」「東山北コース」と、五日六日間はらく
に楽しめる。「西山」と「北山」とは後日に温存しよう。
* ご希望の「大徳寺・だいとくじ」を中心にした「市内コース」を考えてみよう。
「大徳寺」へは、いっそタクシーで、いきなり門前へ行ったほうが経済な気がする。いろんな末寺(塔頭・たっちゅ
う)はあるが、どこも皆見せてくれるとは限らない。境内自体はそう風情のある寺でなく、末寺の一つ一つを尋ね歩き見て歩く寺である。
山門の「金毛閣・きんもうかく」は、二階に「千利休・せんのりきゅう」が自分の木像をあげたのを咎められ切腹に及んだ
門。中を見せている時期もある。
「大仙院・だいせんいん」の小さな庭が、途方もなく有名。見せているところはすぐ分かるので、興味しだいで、どんどん
入ってみるといい。鉄鉢の精進料理の寺もある。入れば、さすがにどこも内部は禅境らしい深みがあるが、あまり過大に多くを大徳寺に望み過ぎないほうがい
い。
この北方やや西よりに、「今宮神社・いまみやじんじゃ」という古代からのひなびた祭で知られた、いいお宮がある。この
辺からは、北東の「上賀茂神社・かみがもじんじゃ」へタクシーを拾って走るのもいいし、北西の山寄りへバスで「鷹峰・たかがみね」の「光悦寺・こうえつ
じ」に行くのもいい。甲も乙もない。すてきな神社だし、すてきな自然である。気の動いた方へ。
上賀茂神社からは、いっそ加茂川ぞいに河原を歩いて下って、「下鴨神社・しもがもじんじゃ」まで散歩してみては。両神
社とも、平安京以前からの山城国の一の宮である。環境は、それぞれに趣を変え、それぞれに素晴らしく清浄な、奥深い歴史的・神秘的な時空である。
そして下鴨神社からは、町なかをすこし西へ歩き、「京都御所・きょうとごしょ」つまりかつての皇居や、そばの「相国
寺・そうこくじ」「同志社大学・どうししゃだいがく」など覗いてから宿に帰るのも一興か。
また光悦寺からは、裏山道をぬけて遠足してもよし、バスかタクシーかで走った方がらくだが、なにはともあれ「金閣寺・
きんかくじ」に行くのが、順であろう。三島由紀夫や水上勉の作品とも関わり、日本の中世が誇る斬新な建築でもあり、広大な庭園にも変化があって、しみじみ
とする。
さらに土地の人に尋ねながら「等持院・とうじいん」「妙心寺・みょうしんじ」「龍安寺・りょうあんじ」から「御室仁和
寺・おむろにんなじ」まで、京都でも屈指の寺々を歩いて尋ねるのが、奥行き深くじつに面白い西山めぐりになる。美しい竹林や池に出逢い、嵯峨にも近く、自
然はよし、町もさびさびと古都の風情である。
等持院は庭園、妙心寺は小さな末寺の一つ一つに秘めた坪庭や絵画。龍安寺は何といっても名高い「石庭」とともに、本堂
の手前から脇に隠れた、広大な池をめぐる散歩、これは是非とも奨めたい。
そして御室仁和寺は、優美な境内と、五重塔。見せて貰えれば、平安朝さながらの優美な建物の内部も、是非に。宮廷気分
が優に実感できる。山ぞいを歩くと、魅惑の隠れ古寺も点々と遺っている。
この程度もまわれば十二分で、時間と体力は、それぞれの場所での時間配分にゆっくり按配したほうがいい。気ぜわしくし
ないのが、京都を満喫する、一番の秘訣だ。
そして街なかへ戻り、京都市街区にも馴染んで欲しい。
以上「六日分」のメニュ。大急ぎで書いたので、不備や間違いが有るかも知れないが。京都市の北・西と、北西郊外 と、南とは、今回は割愛。また今度。あぁ疲れたぁ。 (おしまい)
(平成七年秋 東工大教授室で書下ろし)
戦後に新制中学が出来て間もなく、そう、あれで二年生時分から、四條、三條の橋をわたって河原町へ出歩く習慣を
もった。東の新門前通の中ほど、仲之町で育った。ちいさかった頃は戦中で、異人さん相手の美術商は軒並み灯を消し、それは静かな閑散とした通だった。戦後
に、どっと外国の団体客がバスで乗りつけたりし、うって変わって賑わった。
その頃からか、新門前の縄手西側には空き地が一画のこされていて、川西の先斗町にも同じような空き地のある、いつか
は、あそこへ橋が架かるらしいと、噂に聞いていた。河原町の真ん中へまっすぐ行けるのか、よろしぃなと、呑気に想像していた。
そう呑気な話でなくなり、先年、「フランス橋」問題でやかましい話題になった。わたしは、もう四十年余も東京暮らし
で、噂にだけ聞いていた。
中学・高校頃の河原町へ、わたしは、何をしに日ごと通っていたのだろう。あの頃、学校へさえ下駄や草履で通った。靴を
履くことなど珍しく、河原町散歩も当たり前のようにちびた下駄履きで、しかも本を歩き読みながら、かなりの速歩で、人波をすいすいすり抜けて行くのが、ス
ポーティな、変な自慢だった。買い物などする小遣いは持たなかった、ただ河原町通の風情をいたく好んで、西側を、東側を、二の字に、または蛸薬師の横断で
タスキに掛け渡して、ただもう通り抜けるのが、夕過ぎての日課だった。
立ち寄るのは、書店での「岩波文庫」の物色と立ち読み。
足を止めるのは、何のお店であったかショウウインドウの、女優原節子の大きな顔写真に、じいっと魅入られるために。あ
りていにいえば、これが、たまらぬ誘惑であった一時期が、確かにあった。なにしろ、あの原節子である。丈高い品のよさが河原町通の明るさとよくツロクして
いて、思春期から青春期の少年を、磁場のように惹き寄せた。
中学二年生で、初めて自分のお金で、「※一つ」の岩波文庫を奮発した感動は、たいへんなものであった。以来、万と数え
る大量の本を買ったり貰ったりしてきたが、第一歩は、懐かしき河原町の書店で踏み出した。暫くして、次に、お年玉で『徒然草』と『平家物語』上下を買っ
た。それが文壇に招き入れてもらった太宰治賞作品や、書下ろし処女長編の誕生に、まっすぐ直結していった。
わたしは、大学に入るまで喫茶店に入った体験がなかった。恋をするようになっても、京都中を、いまの妻と、ただもう歩
きまわっていた。だが「ユーハイム」という風変わりなお店で、背もたれの高いフカフカの革の椅子に沈み込み、妻にキスした覚えがある。
その頃には、叔母の代稽古でお茶の先生役を小遣い稼ぎにしていた。足りない分は叔母が助けてくれると言うので、垂涎も
のの、ニッカの高級カメラを、あれは「さくらや」といったか、東側の写真機店のウインドウに日参また日参、ついに手に入れたのが、当時で五万円ほど。あと
にもさきにも、生涯、あれほどの買い物に踏みきったのは、あまり例がない。後のちに聞いたが、そのカメラ屋に、国民学校へ入学式当日にもう惚れ込んだ秘か
な「好きやん」が、嫁いでいったとか。だがカメラの方がぐっと深い印象を胸に彫んだ。
河原町商店街の経営診断などに、去年亡くなった実兄の北澤恒彦が、熱心に関わっていた話を聞いている。ご縁で、鮨の
「ひさご」夫妻には、わたしも仲良くして貰っている。夫妻ともすてきに勉強家で、じつにうまい鮨を「創作」している。そういう進取の意欲があのハイな人気
の源になっていることは、ながくお店を維持しているどの商店もみな同様であろうと、敬服し親愛もして、京都へ帰るたび、今は「靴」を履いて、ゆっくりと、
馴染みの店を覗いてまわっている。幸い買い物も出来る。幾久しい平和な繁栄を祈りたい。
── 河原町商店街振興会 依頼による──
少し変わった本が読みたくて、山口宗之九大名誉教授の『陸軍と海軍』(清文堂)を取り寄せた。戦闘や作戦の本で
はない。明治建軍以来の「人事」の研究書である。
軍人・兵隊の位には誰もが一応の関心を払わねば済まぬ時世に育ったが、大将にまで成った人数が例えば陸軍一四八人など
とは知るわけがなかったし、どういう経歴の人が大将や元帥になるのかも知らなかった。
その一方、陸軍と海軍との空気のちがいには関心をもっていて、なにとなく「開明的な」海軍に人気があり「硬直した」陸
軍には陰気なものを感じていた。戦時中にも感じていたし、戦後に増幅された感もある。阿川弘之や司馬遼太郎らの海軍礼讃の感化は大きかったろう。東条英機
より米内光政に心を寄せていた所はわたしにもあった。海軍の方が陸軍よりもと好感していた。
この本は、軍の「人事」に的を絞りながら、そういう思い込みがいかに事実と違い、陸軍がむしろおおらかに緩く、海軍部
内がいかに差別的に硬直したいっそ冷酷な空気をもっていたかを、克明に反証して行くのである。
例えばいわゆる「特攻」出撃で、陸軍ではエリート将校が率先垂範死地に赴くことが多かったのに対し、海軍ではいわば学
徒兵をもっぱら追い立てて、エリートは殆ど特攻に出なかったと謂う。また大将や将官への昇任でも、陸軍では事実が示すところ経歴や学歴に関して拘泥を大き
くは示さず意外に柔軟公平な人事をしているのに対し、海軍での内部差別は強烈で、学歴や経歴がほぼ不動の重みをもっていたのを立証して行くのである。実名
付きで事細かに追及されていて、記憶に残っている将官も多く、なかなか面白い。
断って置くが、著者の山口氏は軍の人でも自衛隊の人でもなく、もともと「橋本左内」を中軸に幕末思想の克明な研究者
で、在任中に『陸軍と海軍』的な論文や著述が有ったのではない。余技か趣味かのように関係の資料を蓄えていたのを、大学を退いてのちに、ぽつぽつと検討を
加えた成果が、この本に纏まったのだという。遠い動機は、親族に三人もの将官や高級将校があってのこととか、なるほどと納得もし、思いがけない基本の分野
を立証されたものとして、かなり高価な本であったが、読書欲を大いに満たされた。
わたし自身は軍人にも兵隊にも全然成りたくない少年だったが、戦争の推移にも戦後の敗戦処理にもそれなりに触れていた
から、元帥大将らの記憶は、実名とともにたくさん残っている。漠然とし雑然としていたそういう記憶に、幾分の整理がつき、ふうんと感じ入ることが多かっ
た。
幼年学校と士官学校とが、いまの中学と高校にあたり、幼年学校生は無試験でうえに進むが、試験をパスして士官学校へ
入ってくる者もいる。この幼年組「カデ」と受験組「デーさん」との確執が凄じかったらしい。わたしの娘はお茶の水女子高校へ受験して入学したが、幼稚園か
ら無試験で上がってきていた「内部」に「外部」扱いされ、入学当初かなり腐っていた。同じことは息子の早稲田高校にもあり、中学でパスしていた息子らは、
高校から入ってきた「ソト」連中に対し肩で風切っていた気味があった。陸軍にも海軍にも根強くそんなことがあり、しかしそれが大将や中将に進むに当たっ
て、陸軍はあまり影響せず、海軍では頑なに影響していたと、著者は事実と数字とで逐一証明し、むやみな海軍賛美は当たっていないと言いたいらしいのであ
る。なるほど、なるほどと読んだ。
こういう記憶や体験の、どんどんと消え失せて行く瀬戸際のような時期に今は在ると思う。山口氏の著書に手を出したわたしに、そういう判断のあったことは否
めない。忘れ果てていいことか、記憶を繋いでおくべきか、その辺は微妙だけれど。幼年学校の最期の生徒として終戦を迎えた加賀乙彦氏のような作家もある。
終戦の日、わたしは国民学校の四年生で、疎開した丹波の山なかで暮らしていた。国民学校の講堂の高いところに「至誠」と、荒木貞夫陸軍大将の二大字が額に
掲げてあった。
当時陸海軍の元帥大将らの氏名を、じつは、驚くほど記憶していた。ただし崇拝の念らしきものをもった人としては、やは
り山本五十六海軍元帥が唯一人。心親しい気持ちでいた米内光政海軍大将も、「名」の響きに惹かれただけで、知識は短期間の首相という程度。また同じ「ハ
タ」の音を姓で共有した畑俊六元帥のことも、実像の知識はゼロのままだった。たしかA級戦犯の一人だった。
──公明新聞 発表──
男の美学なんか要らない
道に唾をはかない。子供を抱いた女の人には座席を譲る。貧乏も金持ちも好きではない。痩せるために運動などしな
い。嫌いな人とは会わない。食いたいものを食う。酒はうまい間だけ飲む。美食を趣味にしない。いい女がいい。原節子。澤口靖子。好きと尊敬とは区別でき
る。裏の白い紙は捨てない。着るものに奢らない。仕事は大事にする。正当な報酬は請求する。安物買いをしない。わけもなく先生と呼ばない。先生と呼ばれよ
うが秦さんと呼ばれようが、何でもない。猫が好き。蛇がにがて。妻を愛している。隠し芸は売らない。時間は守る。必要な無駄、無用な無駄がある。いい政治
というものは、無い。学者にも研究者にもならない。心から祈る。知らない事のほうが遥かに多い。不可能なことが有る。選挙権はかならず行使する。多くは望
まない。言葉を信じすぎない。盗んでいいものも有る。物を蒐めない。逢いたい人がいつもいる。貰えば嬉しい。適当に嫉妬する。花が好き。死に急がない。可
能性を疑わない。花も実も、無い。まさかという事がある。好奇心は捨てない。新しい器械にいつも興味がある。相対的だから絶対がある。不器用である。据え
膳は食う。嘘は適度につく。大儲けも大損もしない。貰った手紙には返事を書く。ゴミも出す、おつかいにも行く。自動車より自転車。ま、いいじゃないか。孫
は文句なく可愛い。毎夜死者たちのために本を音読する。美空ひばり。きれい好きとは言えない。怒る。家族とは何でもよく話す。読まない本は買わない。自分
で考える。寝相はわるい。親切に。魂の色の似た人をいつも捜している。愛は不可能。そんなものさ。一視同仁。簡単にあきらめる。容易にあきらめない。一割
ほど高いめに買う。宝石はいらない。経済は大事。こだわらずに筋を通す。カラオケは嫌い。ストレートをダブルで。結婚式も葬式も無用と思う。していい妥協
はする。わが子はわが子。繰り返しを厭わない。出版記念会なんてやらない。現代と現在とはちがう。字はへた、絵は描けない。分かる人には言わなくても分か
る。分からん人にはいくら言っても分からん。強いてほんとのことを言う必要はない。一度言えば足りる。期待しすぎない。愚痴るだけの人は嫌い。正義は疑わ
しいものの一つである。念々死去。日の丸はわるくない。君が代は認めない。碁は三番。歴史に学びたい。ボールペンとパソコン。気稟の清質最も尊ぶべし。だ
ましてあげるのも、愛。暖簾より創意。つるんで歩かない。あれば使い無くても構わない。若い人を大切に思う。へんなメモは残さない。あやまるべきは、す
ぐ、あやまる。強硬に頑張る。時は金よりも貴い。長湯。電話が嫌い。気はくばる。手土産も旅の土産も無し。死ぬまでは生きている。能を見ながら気持ちよく
寝る。無用な寄付はしない。保守より革新。革新は幻想だと思う。幻想も現実である。現実は夢である。夢はさめる。男と女しか無い。私は男である。美学は要
らない。男の美学なんか要らない。
かくてはどんな屈辱がさらに加わるやも知れず、祇王たちは老母とともに深く嵯峨野に忍んで、ともに厭離穢土、欣
求浄土の念仏三昧に出精していた。
その草の庵を、いつしかに、そっと尼の姿に身をやつし訪れてきたのは、自らも平家の栄華に背いて世を厭い離れた、あの
仏御前であった。
この説話は、時勢への痛烈な批評味を帯びながらも、来世の救われを願う人々の耳に、はなはだ良くできた説法であっただ
ろう。極楽往生をひたすら祈る女人たちの、健気にものあわれな物語を、清盛悪行の初めに挿入したことで、平家物語のとじめと成る大原御幸後の建礼門院往生
浄土と、首尾照応のみごとな効果を上げていることも疑えない。
もっとも祇王や仏が、まこと実在の人であったか、これは微妙であり、むしろ琵琶法師たちの久しい唱導の経過中に、脚色
ないし創作され、挿入された一句かも知れない。
「ギオウ」の名は、本により祇王とも義王とも妓王とも分かれている。ところが滋賀県野洲の妓王屋敷にまぢかく、上古から
「行(ギオ)の森」があり、行事宮が、近隣の呪祝に当たっていた。加えて行の森一帯が「浦(占)谷」と呼ばれてきた。ミカミ山の麓にヤスの河原を控えてウ
ラを行じたこのギオウの故地は、また、ほど近く、今様歌いでも名高い遊び女たちが群れ棲んだ龍王の鏡山宿とも気息を通わせていたのである。後白河の宮廷社
会にしばしば愛顧を得ていた女たちの、ここは一巣窟であった。地祇(国つ神)を祭って歌舞に長じた遊部の末裔であったか、行業不思議の伎女であったか、と
もあれ「祇王」は、梁塵秘抄でいうならば、つまり「神歌」の世界を身に負うて、近江国から京の都へしきりに往来していたと見られるのである。
そして仏御前の歌う今様世界は概していわば法文歌であり、しかも仏御前の出は、加賀国シラ山のシラ拍子であった。シラの根は、深く遠く西海、北九州の海底
にある。世に恐ろしい安曇の磯良(イソラではない、シラと読むべきだろう。磯城をシキと読むように。)に発して、日本列島を裏から表から海沿いに北上し、
ついにオシラさま信仰にまで至っている。ホトケ・ホトキとは、そんな怖いシラ神をも祭り、また死者にも供し、乞食行にも用いた、サラキやヒラカと根の同じ
い容器、一般に祭事・凶事に備えた器の呼び名であった。例えば大仏(オサラギ)の読みも、それを教えている。
ホトケ御前を、ぜひにも仏如来に由来するかのようにのみ受け取っていては、微妙なところで、日本の「芸」「芸能」の性
根を見錯まりかねない。白拍子の「シラ」の遠景も、あまり単純に考えていると、じつは平家物語が懸命に奏でてきた、不思議の「風の奏で」をも聴き損じてし
まいかねないのである。
五月雨に沼の石垣水こえて何れがあやめ引きぞわづらふ
「御感ノ余リニ龍眼ヨリ御涙ヲ流サセ給」うて鳥羽院は菖蒲の前を頼政に授け、夫妻は「志、水魚ノ如クシテ、無二ノ
心中」を分かち合い、嫡子仲綱を儲けた、というのである。
源三位頼政という武将は、幾つもの和歌徳説話に美々しく装われた、文武両道を絵に描いたような最初の存在だった。頼政
はともあれ「三位」の公卿に列してはいたが、不遇の歳月が長かった。昇殿を許されたのが「年たけ齢傾いて後」だった。述懐の一首にものを言わせ、和歌の威
徳でやっと昇殿した。正四位下で停滞していた時にも、ぜひにと「三位を心にかけ」て、こう詠んだ。
のぼるべき便りなき身は木の下にしいを拾ひて世をわたるかな
仲綱愛馬の名は、父が「しい」から三位に昇った、慶びの名前であったやも知れない。
平安末から鎌倉時代にかけて、和歌が、宮廷社会の巧みな恋愛社交術から、より精神的に深く「道」として求められ初め、
後拾遺、金葉、詞花、千載和歌集へと水嵩が増すように、精魂こめて和歌の「好き=数寄」を極めようとした歌人たちを輩出した。それにつれ、もとは神仏との
感応として多く伝えられた和歌徳説話が、恋にも、出世にも、時に免罪符としても、どっと世俗世間へ流れ出して多くの本に競って載り、喜んで読まれるように
なった。頼政はその流行のなかで、文武両道の栄誉をすでに「同時代」に確保した第一人者であった。平家物語も多くの和歌徳逸話に飾られ、武士も優れた歌人
であり得たと強く主張しているが、平家ならぬ源氏の頼政ほど、和歌に生涯を物語られている武人はいない。
武士は命がけで生きた。源平闘諍の時代はことに切羽詰まった「命」を抱え、奔命した。彼らの和歌は修羅の覚悟に生ま
れ、だから感銘を与えた。辞世の和歌が重みをもった。読むものに感慨を強いた点で、武士の、例えば頼政の辞世歌などは、ヤマトタケル最期の歌以来の、典型
の地位を得たと言える。頼政は、只の敗者ではなかったのである。
三位入道、渡辺長七唱をめして、「わが頸うて」との給へば、主の生首うたん事の悲 しさに、「仕ともおぼえ候
はず。御自害候はば、その後こそ給はり候はめ」と申し ければ、「まことにも」とて、西に向ひ手を合せ、高声に十念唱へ、最期の詞ぞあはれ なる。
埋木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
これを最期の詞にて、太刀の先を腹に突き立てて、うつぶっさまに貫かってぞ失せ られける。
以来、無数のこういう場面が書きつがれ語りつがれ、浅野内匠頭にも西郷隆盛にも及んだのである。頼政の首は唱が取り、泣く泣く石に括りあわせ、敵方を紛れ
出て、宇治川の深みに沈めたと平家物語は言う。ここにも見聞きの者が終始いたに違いなく、いわばこの手の見聞集のように平家物語の取材や編集はなされて
いった。著作権という考えはなく、たとえ異なるグループでもこれぞと思う材料は踏襲し、盗作も改竄もし、尾鰭をつけていった。または尾鰭を省いて整えて
いった。
源三位頼政ほど、或る意味で生涯を全うした幸せ者は、平家物語の中でも稀なのではないか。辞世の歌はもの悲しい。挙兵
したとも言えないうちに事は露見し、肝心の以仁王をさえ守護できず、宇治まで逃走せざるをえなかった。果ては平等院の芝の上で割腹した。
頼政ははや齢七十五の老木の花だった、だが、最期の一と花は咲かせた、源氏の棟梁として大きな役は果たした、と誰も思
えばこそ、頼政は平家物語の一方の雄として、大きく、「はんなり=花あり」ともて囃されている。最期は、歌を詠んでいられる状況ではなかったろう。だが
「若うよりあながちに好い(数寄)たる道なれば、最期の時もわすれ給はず」辞世の一首をのこした。割腹の場所は今も「扇の芝」として平等院にのこり、鳳凰
堂を建てた藤原頼通は忘れられても、武人頼政の最期を知らずに帰るような観光客はいない。
頼政を、だが、名将、勇将とは思ってこなかった。一源氏の棟梁として身を全うしてきたが、ひょんなことから「時代」に火を放った。火種はあっけなかったが
「飛び火」が燃えた。文字通り「埋木」の以仁王を唆し、勇ましい令旨をたくさん書かせ、健脚の伊勢義盛改め行家を以仁王の名で蔵人に任じ諸国へ走らせるな
ど、政略家としては手順を踏んで大胆だが、彼自身の武略は甘かった。根回しが不十分なまま破綻した。女装してかつがつ以仁王はきわどく自邸を遁れ、おかげ
で「信連」のような家来の武勇をわれわれは平家物語で楽しめた。彼が以仁王の置き忘れてきた名笛小枝をぬかりなく見つけて王を喜ばせたなど、読んでいても
心嬉しい。
だが頼政挙兵(治承四年・一一八0)の成行きは情けなかった。王にはことに気の毒であった。頼政も仲綱らも所詮勝つ気
ではなかったのかも知れない。扇の芝にのこした頼政辞世など、以仁王の「身の成る果」を優に代弁したようなもので、担がれた悲運の王に、頼政は「埋木」の
歌で最期に詫びを入れたていると私は読んできた。食えない男ゃな、けど、おもしろいナ、と。
頼政はもともと食えないヤツであった。安元三年、比叡山延暦寺の暴れ僧たちが「神輿振」して大挙御所に迫り、例によっ
て強訴に及ぼうとした。御所の門を固めたのは平家、源氏の武士達だが、頼政の備えはいかにも手薄で、僧兵も目をつけ押し寄せてきた。頼政は思案し、長七唱
を使者に立てて、どれより手薄な我等の陣から破ろうなど、山門の名が廃りましょうと申し入れた。僧兵たちは詮議し、豪雲という僧の説得を是として頼政の陣
を退き、他へ向かったのである。豪雲はこう説いている。
就中にこの頼政卿は、六孫王より以降、源氏嫡々の正統、弓箭をとつていまだその 不覚を聞かず、凡武芸にもかぎらず、歌道にもすぐれたり。近衛院御在位の
時、当座 の御会ありしに、「深山花」といふ題を出されたりけるを、人々よみわづらひたりしに、 この頼政卿、
深山木のそのこづえともみえざりしさくらは花にあらはれにけり
といふ名歌仕て御感にあづかるほどのやさ男に、時に臨んで、いかが情けなう恥辱をあ たふべき。この神輿かきかへし奉
れや。
競、唱、信連、豪雲、また猪早太、その他宇治橋の合戦などにも、何人もの魅力的な男たちが活躍して倦ましめない
のも、頼政一連の物語の大きな徳になっている。鹿の谷事件ではとかく気分は陰気になり、かろうじて西光法師が清盛相手に猛然と啖呵をきるあたりは痛快だ
が、頼政挙兵の、悲劇的ではあるが或るはなやぎと優しさ面白さには遠く及ばない。
これぞ和歌の徳というかのように、ちりばめられた歌の一つ一つが、よく利いている。
あなむざんやな冑の下のきりぎりす
去来抄に拠っているが、芭蕉は猿蓑で、初句の「あな」をはぶき捨てている。謡曲「実盛」に、「樋口参りてただ一
目見て、あなむざんやな、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」とある。わたしは、そのままの「あなむざんやな」の方が、調えての改作より好きである。小松市の
多太神社で、その「冑」を観てきて、やはり「あな」という実感をもった。
能「実盛」は、他にも例はあろうが、ちょっと意表に出た始まり方をする。登場の囃子が無く、ワキの遊行上人が従僧を連
れて出て、脇座で床几に腰をかける。法談が今から始まるという体である。アイが出て、常座でいきなり話し始める。加賀の国篠原に住まいする男で、他阿弥上
人の法談の座に加わろうと来たのだが、この男、妙なことを言う。上人が、正午ごろになると決まって独り言を言われる。何を言われているのか、その聞き役を
人に頼まれたので高座近くに出ようと思っている、と。
日中の刻限になると、法談の座に、俗人には見えも聞こえもしないのに、上人の心眼心耳には、一人の老人が日参してくる。そして二人は問答になる。高徳の人
のさも独り言をいうと、人の目に耳に見え聞こえるのは即ち、それであった。上人は、この篠原の戦に果てた実盛の幽霊と対話していたのだ。
能から離れて実盛を思うとき、彼が平氏でも源氏でもない斎藤、つまり武士の藤原氏であることをつい忘れている。藤原と
いうと公家のように思うが、俵藤太秀郷のように強豪をもって知られた藤原氏は、奥州藤原氏もそうだが、各地に割拠していた。あの西行法師も佐藤義清という
武勇の士であった。暴れ者の文覚すら舌を巻き、うちひしがれそうな毅さを法師西行に感じていたという。
関東平野は「八平氏」というほど平家の扶植された土地だが、足利、新田、武田のような源氏もおり、藤原氏もいた。源氏
の頼朝が、平氏である北条時政の婿として都の平政権を倒そうと起ったことに象徴されているように、「関東」の武士団のかかえた事情は、どっちに味方するか
だけでも、複雑だった。一族や家族を根拠の関東に置いて、都の平家に仕えていた武士たちは、関東で頼朝が起ちまた木曾で義仲が起つにつれ、いわば立場上微
妙に宙吊りにされていたのである。
斎藤実盛にも、源平に挟まれ、似たような事情が無くはなかった。
実盛戦死の後日のことだが、平家が木曾義仲に逐われて都落ちの際、はたと難儀な判断を迫られたのは、「大番」というい
わば公務のために都に来ていた関東武士たちを、西国に強いて引き連れて行くか、いっそ後顧の憂いなく討っておくか、関東に帰すか、だった。中には、もう以
前から厳重に「召籠」めてあった畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門尉朝綱ら一騎当千の者らがいた。中納言知盛はこう意見を具申した。
御運だに尽させ給ひなば、是等百人千人が頸を斬せ給ひたりとも、世を取らせ給はん 事難かるべし。故郷には妻 子所従等如何に歎き悲しみ候らん。若し不思議に運命開けて、 又都へ立帰らせ給はん時は、有難き御情でこそ候はんずれ。只理を枉げて、本国へ返し 遣さる べうや候らむ。
総帥宗盛は即座に、「此義尤も然るべし」と彼らに「暇」をやる。畠山等は涙ながら「二十余年の主」の恩義に感謝
し西国への同行を誓うが、宗盛大臣は「汝等が魂は皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国へ召具すべき様なし。急ぎ下れ」と追い放つ。こういう平家
が、わたしは好きだった。実盛も、こういう平家が好きで、最後の最期まで平家の武士として節を枉げなかったという文脈の上で、平家物語でも賛嘆され能でも
顕彰されている。
それにしても「実盛」物語には、「あなむざんやな」と一息に嘆じさせて余りあるものが、ある。何としても、ある。わた
しは苦手なのである。俊寛も景清も無惨であるが、実盛の最期は、無惨でなく無惨でなくと筋を運んであるぶん、樋口次郎の間髪をいれない「あなむざんやな」
に、すべて真実が迸リ出る。樋口次郎はいわば実盛の置かれた平家内での立場に、その武士たる意気地に、一切を代表して「共感と哀情」とを捧げたのだった。
能「実盛」には、泣かせどころが二つ用意されている。一段と有名な「髪洗い」と故郷に「錦を飾る」話で、簡潔な平家の
語り本に取材しているのだろう、盛りだくさんよりも分かりがいい。だが盛りだくさんに話を積み上げた異本も、拾い読んでいると面白い。理に落ちて説明する
きらいはあるけれど、ほろりともさせる。
実盛には武蔵の国長井に所領があった。妻子は久しくそこに置いていたかも知れない。死に場所は加賀の国江沼郡の、篠原とある。平維盛が木曾義仲に撃ち破ら
れた戦で「老武者」実盛は、身を投げ出すように木曾方の勇士手塚太郎光盛と組み打ち、討死した。この間実盛は軍陣の常に違えて、「存ずる旨ありければ」終
始名乗ろうとしなかった。「木曾殿は御覧じ知るべし、」頸はだいじにお目にかけよと、「独り武者」のままに敵中の鬼となり奮戦したのである。討った手塚の
目には「大将かと見れば続く勢もなし、また侍かと思へば錦の直垂を着」ているし、声はとても都の人とは思われない「坂東声」だった。
義仲は直感で、実盛の頸だと思った。それなら白髪頸と思われるのに、見れば鬢髪黒く、髭も黒い。呼ばれた樋口次郎は見
るなり「あなむざんやな」と呻いた、実盛に相違ないと。老いの花はなやいで討死しようという戦に、老い故によき敵と思われないのでは口惜しい。鬢も髭も染
めて出陣したいとは実盛のいわば遺言に等しかった、のを、心知った友の樋口はよく覚えていたのだった。舞台の感動をなにもかも、拙く話してしまうものでは
ない。「錦の直垂」のことは、どの平家物語にも漏れていないが、実盛の頸と知って、涙ながらに木曾義仲が斎藤別当との遠く深い縁を語っている本は少ない。
「木曾殿は御覧じ知るべし」と実盛が敢えて名乗らなかったのには、胸にしみる理由があった。
実盛が今度の戦を死出の旅と覚悟していたのには、一つには、坂東武者として平家に仕えた時代の不運を嘆く気持ちもあっ
た。過ぐる富士川の合戦に、水鳥の羽音に驚いて潰走し大敗して都に帰った無念も恥じていた。今一つに、決起した源氏一方の雄たる木曾義仲にならば、勝ち戦
をさせてやりたい密かな存念をも、実盛は身の深くに抱いていたのである。義仲はそうした背後の事情を源平盛衰記で語っている。
義仲の父「帯刀先生」の名乗りは、東宮護衛隊長に由来するが、その源義賢は、同じ源氏の甥義平に武蔵大倉の館を襲われ、殺されていた。義仲はまだ二歳だっ
た。義平は畠山重能に遺児を捜索しきっと殺せと命じていたが、畠山は稚い義仲を憐れみ、情けある斎藤別当実盛の手に預けた。実盛は七日の間預かったもの
の、周囲は義朝・義平方の源氏ばかりで剣呑を極めた。頼まれて守り切らぬも本意でなく、養い置けば早晩義仲のために危険が迫る。実盛は思案を尽くして、稚
い義仲を木曾の中原兼遠にはるばる送り届けた。兼遠は「請ケトツテ、カヒガヒシウ二十四年養育」したのである。
兼遠とは、義仲と最期まで死命を倶にした樋口兼光や今井兼平の父であった。実盛の白髪頸を眼前に、義仲に今が在るのは
みな実盛のはからいによるもので、加えては「七箇日ノ養父」でもあったと、義仲は「サメザメト泣」いて、「危キ敵ノ中ヲ計ヒ出シケル其ノ志、イカデカ忘ル
ベキナレバ、此ノ首、ヨク孝養セヨト」義仲は命じ、兵たちも袖を絞って実盛の冥福を祈ったのである。
同じことを、長門本では、二歳の義仲を「母泣く泣くいだいて、信濃の国に越えて、木曾の中三兼遠がもとへ行き、いかに
もしてこれを育て人になして見せ給へ」と頼ませているが、畠山や斎藤別当が背後で心遣いしていたことと何の矛盾もない。また吾妻鏡では、義仲の乳人だった
兼遠が、窮余、稚い主君を抱いて自分の生国木曾に連れて遁れたと記録しているけれど、これも実盛らの情けあるはからいを否定するものではない。
木曾殿義仲の、最期に至るまで、哀れは哀れとしていつもほの温かにファミリアな主従の情愛にとり包まれているのは、心
嬉しい救いであるが、背後にはこんな事情が隠れていた。実盛が「存ずるところ」を胸中に畳んで木曾の前に老いの身を擲ったのには、「七箇日ノ養父」とし
て、やがて義仲も、平家ならぬ身内の源氏の手におちて最期の命を散らす修羅の悲しみを、はや、予感していたからかも知れぬ。
源平盛衰記「実盛」を叙した結末に、面白いことが書いてある。「新豊県老翁ハ八十八、命ヲ惜ミテ臂ヲ折ル。斎藤別当実盛ハ七十三、名ヲ惜ミテ命ヲ捨ツ。猛
キモ賢キモ人ノ心トリドリ也」と。白楽天の長詩「新豊折臂翁」とは、若い昔の無謀に強いられた南征の軍役を、自ら石で臂を折り忌避して長命した老翁であっ
た。卑怯に命を惜しんだ例ではない、失政への強烈な非難の敢為だった。この対比、微妙な批評と言わねばならず、この「折臂翁」が、実はわたしの処女作の題
材になった。
あはれなり老木若木も山桜 おくれ先だち花は残らじ 行慶
旅衣よなよな袖をかたしきて 思へば我は遠くゆきなん 経正
さて、巻て持せられたる赤旗、さと指上げたり。あそこここに控へて待奉る侍共、「あはや」と て馳集まり、其勢 百騎ばかり鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に逐つき奉る。
あざやかな「語り」である。和歌にも句読点が振ってあり、語って聴かせた平家物語の呼吸が生きている。なんという美しいここの「赤旗」だろうか。送る行慶
にも先途をいそぐ経正にも、もう夢にも不思議の生還は断念されているのが、痛ましく、潔い。
経正は、経盛の嫡男であり、弟に、あの十六歳の花を散らせた敦盛がいた。経盛父子は、例えば弟教盛の子弟ともくらべて
官位官職にあまり恵まれていない。そのことも、こういうところを読んできた頭に、いつも、あった。妙に、ものあわれであった。だが騎馬の武者百騎がさっと
鞭をあげて駆け去ってゆくなど、目に映る光景は優美で雄壮で、涙ぐましい。公達の中ではむしろおとなしく地味に感じられる経正なのに、この御室の別れは、
ひときわ印象的にわたしは愛読してきた。
能では幽霊の「経政」が琵琶を弾じる。語り本にはそれがない。そんな余裕のあり得ようはずのない都落ちであった。だが読み本には、青海波、萬寿楽など五六
帖を暫く演奏して辞去したという。実際に弾いたというより、弾いて行かせたい読み手や聴き手の願望を斟酌した作意だろう、ここは、きびきびと先へ運んで行
く語り本系の緊張感が、いい。
「青山」という琵琶の名についても、簡潔を旨とした覚一本、長門本などは「夏山の峰の緑の木の間より、有明の月の出でた
るを、撥面に描かれたりけるゆえにこそ」とあっさりしているが、読み本はもっと角度を替えて説明してくれる。もとは大唐国に伝えられたこの琵琶を、廉承武
という名手が手づから弾じ、秘曲を日本人に伝えた時、感に堪えず、青山の緑の梢に天人が天降り舞い遊んだ、それで「青山」なのだと。いや、そうではなくや
はり撥面の絵からついた名であり、もし撥面絵に牧の馬を描けば琵琶に「牧馬」と名がつくようなものだと。ともあれ「青山」は、「玄上」「獅子丸」という名
器とともに、廉承武に秘曲を学んできた我が朝の男が、仁明天皇の御代に、唐からはるばる持ち帰った琵琶であった。だが「獅子丸」だけは、海路、龍神の惜し
むところとなって海没したという。
「経政」の能は、「管弦講にて弔ひ申せ」とあるように、経正追悼会、いや、いっそ経正葬儀の体をとっているとみてもいい
だろう。「弔ひ申せとの御事にて候程に、役者を集め候」と、ワキ行慶は、最初に宣言する。開式の辞のようなものである。
「役者」とある二字が、この際なにを説明していようとも、ことに目を惹く。
「役者」とは何なのか。楽器演奏上の配役であるのか。それでもいい。源氏物語の音楽の場面でも、丹念に琴はだれ、笛はだ
れと、配役している。シテといいワキというのも、能役者の役どころに相違ない。相違のないそれらの「役」を、全てひっくるめて、遠くはるかに遡れば、天の
岩戸前でエロチックに舞い遊んだウヅメの舞いは、あれこそが「役者」の「芸」の初まりに相違なかった筈である。
あれはアマテラスの蘇生を祈る、まさに葬儀であった。幸い日の女神は、ウヅメ入神の「役」に引きづられるようにして、
蘇生したのだった。
だが国譲りの交渉役に天上から出雲に遣わされたアメワカヒコの時は、「日八日夜八夜を遊」んだけれど、蘇生しなかっ
た。「遊ぶ」とは、つまり葬儀に配役して、「河雁をきさり持(うなだれて供物を持つ役)とし、鷺を掃持とし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女と
し、如此行ひ定め」て、日八日夜八夜を葬祭したのだ。使者の霊魂を鎮め慰めようと「役の者」が「遊ぶ」ことこそ、芸能の根源であった。もとより、かぶりも
ののような扮装をもしたであろう。
そのような久しい「はふり・いはひ」の伝統を踏んで、「役者」という二字が、正しくここにも用いられていることは、な
により、岩戸神楽を能の肇と世阿弥や観阿弥が言っているのだから間違いはない。経政をいままさに弔っているところへ、経政の幽霊があらわれる。蘇生でこそ
ないが、管弦にことよせた「役者」たちの「芸」が、それを実現し可能にしたのである。能「経政」の舞台は、そのように読みそのように魅入られて、より一層
みごとな効果が味わえるのである。
それにもかかわらず、「経政」作能は、じつに巧みに平家物語「青山之沙汰」にまなんでいると見える。これは長門本本文
に従ってみたいが、聖帝といわれた村上天皇が、「三五夜中の新月すさまじく、涼風颯々たりし夜半」に、清涼殿で琵琶の玄上を弾じていると、「影のごとくな
るもの、御前に参りて、興に乗じ高声に唱歌めでたく」和してきた。帝は琵琶をしばらくさし置いて、「そもそも、なんぢはいかなる者ぞ。いづくより来たれる
ぞ」と訊ねた。
影の男は、その昔、日本から訪れた貞敏に、秘曲と琵琶とを授けた「大唐の琵琶の博士廉承武」ですと名乗り、じつはあの
時三曲を授けるところを一曲を惜しんで授けなかった。その罪で「魔道」に沈淪していたが、いま帝の御琵琶の撥音のあまりに妙なるにひかれて、かくも現れ出
ましたと言い、「御前にたてられたる青山を取って、転手をひね」って、帝のためにその秘曲を、残り無く伝授したのであった。
「そののちは、君も臣もおそれさせ給ひて、この琵琶を」だれも弾奏しないまま、御室の守覚法親王に伝わっていたのを、
「最愛」のあまり、琵琶の名手であった経正にお預けになっていた。西国へ落ち行く間際に経正は、この琵琶青山を返納のために御室へと馳せ来たのであった。
管弦講に惹かれ、その経政は幽霊となって影のように能舞台に現れる。唐の琵琶の博士廉承武の亡魂と、日本国に名器青山
を弾じえた若き名手経正の幽霊とが、凄艶に一つの「影」を分かち合い、重ね合うに等しい「趣向」が生かされているのだ。
だが、かの廉承武は、村上聖帝の琵琶により魔道を脱却することが出来たというのに、あわれ経政は、「あら恥かしや、我
が姿、はや人々に見えけるぞや。あの燈火を消し給へ」と、魂消ゆるように叫ぶのである。修羅道の猛火に焼かれ苦しみながら、「恥かしや、人には見えじもの
を。あの燈火を消さんとて、その身は愚人、夏の虫の、火を消さんと飛び入りて、嵐とともに燈火を、嵐とともに燈火を吹き消して、くらまぎれより、魄霊は失
せにけり、魄霊は失せにけり」という、物凄い幕切れになる。
これほどもの哀れなもの凄い修羅能が、他にあろうか。あるかも知れない。が、わたしは、芸術家にして武者でもあらねば
ならなかった経政の、無限の怨みに、肌を焼かれる心地がする。
小松殿の三男、左の中将清経は、本より何事も思入れける人なれば「都をば源氏が為に 攻落され、鎮西をば維義が 為に追出さる。網にかかれる魚の如し。何くへ行かば遁るべ きかは。長らへ果つべき身にもあらず」とて、月の夜心を澄まし舟の屋形に立出て、横 笛音取朗 詠して遊ばれけるが、閑に経読み念仏して、海にぞ沈み給ひける。男女泣き 悲しめども甲斐ぞなき。
ただこれだけの記事が私の身にしみた。この時九州の地を追われた平家は、柳ヶ浦に舟を浮かべて寄る辺を求めてい
た。やがて本州に上り、むしろ勢力を回復して東へ東へと失地を奪い返し、ついには京都をすら望める足場にまで盛り返して行ったのだが、清経は、その全てに
先立って、音も立てずに入水して果てたと謂うのである。一の谷や屋島の合戦よりも、それは、ずっと早い孤独で静寂な自殺であった。
平家には、忌まわしい、士気を萎えさせる清経入水だったことを語るのが、灌頂巻のすでに仏門に入っていた建礼門院徳子
であった。
寿永の秋の初、木曾義仲とかやに恐れて、一門の人々住馴し都をば雲井の余所に顧みて、 故郷を焼野の原と打詠
め、古は名のみ聞し須磨より明石の浦伝ひ、さすが哀れに覚え て、昼は漫々たる浪路を分て袖をぬらし、夜は洲崎の千鳥と共に泣明し、浦々島々由あ る所を
見しかども、故郷の事はわすられず。かくて寄る方無りしは、五衰必滅の悲しみ とこそおぼえ候ひしか。人間の事は、愛別離苦、怨憎会苦、共に、吾が身に知
られて候 ふ。四苦八苦一として残る所候はず。
さても筑前国太宰府と云ふ処にて、維義とかやに九国の内を追出され、山野広しといへ ども立寄り休むべき処なし。同じ
秋の末にもなりしかば、昔は九重の雲の上にて見し月 を、今は八重の塩路に詠めつつ、明し暮し候ひし程に、神無月の比ほひ、清経の中将が、 都のうちをば
源氏が為に責落され、鎮西をば維義が為に追出さる。網にかかれる魚の如 く、何くへ行かば遁るべきかは。存へ果べき身にもあらずとて、海に沈み候ひしぞ
(平 家一門にとっては、)心憂き事の始めにて候ひし。
平家の苦境を、気の毒なほど明快に語って余すところがない。
「清経」という能は、けっして身贔屓するのでなく、惹きこまれる名曲で、謡だけを繰り返し聴いても面白い。何といって
も、「音取り」という小書(演出)でのシテの出は美しい。が、そういうことにここでは触れない。平家物語で清経の入水には、要するにただこれだけの本文が
ある、覚一本の場合。だから能のように清経と妻との形見の髪をめぐってのやりとりなど、能作者の創作かと思われそうだが、これまた異本にはしっかり出てい
て、それを読むと、なぜ清経が入水死に至ったか、まことしやかに説明してあったりする。
清経は妻を西国までも伴いたかった。妻も熱望していた。だが縁辺の藤原氏の猛反対で別れ別れになり、夫は道中より形見
の髪を送り、文通は怠らないと約束した。ところが三年、「たより」が無い。むくれた妻が「一首ノ歌ヲ」添えて形見の「鬢ノ髪」を返してきた。
見ルカラニ心ツクシノカミナレバウサニゾ返ス元ノヤシロニ
能「清経」の、まさに眼目となる和歌一首である。「形見こそなかなか憂けれこれなくは忘るることもありなんと思
ふ」古歌の心を踏んで、「見ているだけで気が滅入ります。心憂さが堪りませんので、宇佐の宮ではありませんが、元の持ち主に、神ならぬ髪は、お返しします
わ」と嘆いている。その時、清経ら憂色濃き平氏は、豊後国の柳ヶ浦にいた。「左中将是ヲ見給フテハ、サコソ悲シク覚シケメ」と本の作者には大いに同情され
ている。この同情が、能では清経から妻への怨み返しになって来る。その応酬により能が冴え返る。
本によっては、この妻は、夫恋しさのあまり、先に「憂い死に」をしてしまい、使いの者が、遺言の歌のままに、形見の髪
を返しに柳ヶ浦なる平家の陣を訪れてきたとある。さてこそ清経は、悲歎にうち負け、跡を慕うように清寂の入水死を遂げたのだと謂う。
源平盛衰記など読み本系統でも似た話をしている。能「清経」は明らかに読み本系によって巧みに創作されていたのであ
る。
むろん平家物語も、誠に巧みに清経の寂しい入水死をもって、「心憂き事の始め」と一門の末路を象徴した。心幼いなりに
わたしはそこに惹かれた。
巴は、女ながら、一騎当千の強者をすら一時に二人もとりひしいで頸をねじきってしまうような無類の強豪であり、戦の場に出て負けたことなど一度もなかっ
た。兼平は、義仲とただ二人になったときに、自分一人で兵の千人には当たります、気弱になられるなと励ましていたが、巴でも、必ずそう言ったにちがいな
い。
我が国の説話の世界には、女ながらに桁はずれな力持ちがときどき現れる。神の申し子のような、とんでもなく強い女であ
るが、この巴は、美貌と強力とを兼ねもった女として、史上第一位の名声と人気を保ってきた。義仲は、女に気の多い男であったけれど、一番深い心の底では、
巴を、我が身と同然に熱愛し親愛していたに、頼んでいたに、違いないとわたしは思う。いっしょに死のうとしなかったのは、薄情であったとか、武士の意気地
で見栄をはったとかではあるまい、愛情であったろうと思いたい。
寿永三年一月(一一八四)、粟津の別離はどのような平家物語異本でも洩れなく読めるが、その後の「巴」を書いているのは、例によって読み本であり、盛衰記
などである。義仲と別れるまでの戦で巴は目立つ活躍をしつづけたので、国中に知らぬものはなかった。中には女ごときにと、好色を下心に秘めて、言挙げして
巴にわざと組み付いて行った武者も何人もいた。だが例外なく巴の手に命を落とすか赤恥をかいた。それほどの巴であれば、元の木曾に落ち延びたにしても、鎌
倉の頼朝が見逃しては置かない、ついには鎌倉に呼び出された。
一目見合って、もとよりうち解けうる二人では、ない。頼朝は森五郎に預けて、斬らせようとしたが、武勇の和田小太郎義
盛がつよく願って出て、巴を貰い受けた。見たところわるびれもせず落ち着いて、なかなかの者、あれほどの女に我が子を産ませたい、頂戴したいと。用心深い
頼朝は、親の敵で主の敵である鎌倉の侍に、隙あらば寝首もかこうとするに相違ない、よせよせと諾かないのを、強って申し受けた。
「即チ妻トタノミテ男子ヲ生ム。朝比奈三郎義秀トハ是ナリケリ。母ガ力ヲ継タリケルニヤ,剛モ力モ双ナシトゾ聞ヘケル。
和田合戦ノ時、朝比奈討レテ後、巴ハ泣々越中ニ越エ、石黒ハ親シカリケレバ、ココニシテ出家シテ、巴尼トテ、仏ニ花香ヲ奉リ、主(義仲)親(兼遠)朝比奈
ガ後世弔ヒケルガ、九十一マデ持テ、臨終目出度クシテ終リニケルトゾ。」
巴ほどの女を永く末あらしめよと願う人の多かったことが想われ、何となく私は嬉しい。
更くる夜半に門を敲き わが師に託せし言の葉あはれ
いまはの際までもちし箙に 遺せしは花や今宵のうた
わずか唱歌の四句に能「俊成忠度」や「忠度」の全部が唄われていて感心するが、この美談にひとしい理解に対し、必ずしも賛成ではない人が、わたし自身もそ
うなのだが、わたしだけでなく、昔から、いた。いたらしい。平家物語が語り伝えられた時分から、実は少なからずいたのである。能「忠度」の作者、たぶん世
阿弥もその強硬な一人であった。
忠度に取材した能は、「俊成忠度」はもとより、ことに能「忠度」は、源氏の勇士岡部との最期の決闘を語るための修羅能
では、ない。「生前の面目」を賭けた和歌への執心、それによるいわば無念怨念が忠度を幽霊にしているのである。忠度は俊成の弟子ではなく、歌風からも、俊
恵らの歌林苑に筋を引いた歌人であった気が、わたしは、している。
藤原俊成はいずれ勅撰の和歌集、のちの千載和歌集を撰するであろうことは宮廷社会に知れ渡っていた。だから「門を敲」
いて、書き溜めた家集を辛うじて忠度は届け終え、心おきなく都を落ちて一門の悲運に殉じた。
師弟と見るには、この際の俊成の迎え方が硬かった。琵琶の「青山」を持参の経正を招じ入れた、御室の法親王や行慶らと
比較しても分かるし、平家物語の本に依っては、門前に忠度が来たと知って俊成邸は周章狼狽し、俊成は「ワナナキ、ワナナキ」門の陰まで出て、門を開けるこ
と無く忠度と応対した、余儀なく忠度はだいじな歌巻物を門内に「投入レ」て行ったとまで書いている。少なくも門の内へ俊成は終始迎え入れなかった。「勅
勘」の平家で、無理もない。それを咎めはしない、が、師弟の情があったとは思わないのである。
知られているように俊成は、千載和歌集に忠度の「故郷花」と題する一首を、「勅勘」の朝敵であった平家の身分を憚り、
単に「読人しらず」として撰し、採った。
さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな 読人しらず
近江大津京にほどちかい「長等」の地名もよみこんで、温和に懐かしい秀歌である。そして忠度が最期まで身に帯び ていた有名な一首は、先に挙げた唱歌「敦盛と忠度」にも唄われた、
行きくれて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし 平忠度
能ではこの「花や今宵」の歌を「読人しらず」と脚色しているが、岡部に最期の手柄を授ける段取りからも、これ
は、頷ける。それは、この際はどっちでもいいのである。
平家物語では、ある本は、千載集に採られたことを、忠度の「亡魂イカニ嬉シク思ヒケン」と前向きに評価している。
だが覚一本をはじめ幾つもの本は、「読人しらず」とされたことに、「其身朝敵と成ぬる上は仔細に及ばずと云ながら、恨
めしかりし事ども」だと明記し、憚らない。世阿弥もその怨執の念を主題に能を作り書き、どれほど和歌の道に「生前の面目」を賭して忠度が生きたか、その無
念を代弁している。能「忠度」のワキは、今は亡き俊成の身近にいた僧だが、忠度の幽霊は、俊成子息の名誉の歌人、藤原定家がやがて勅撰集を編まれる時に
は、どうぞ「忠度」の名を顕わして一首なりと採っていただけまいか、お口添えが願わしいと切望しているのである。岡部に討たれた修羅の無念ゆえに、忠度は
迷い出たのではない。勅撰の歌人たる名誉が、「忠度」の「名」に与えられなかったのを、俊成に対しても、恨めしく思っている、そこが肝心なのである。そこ
に世阿弥の批評がある。
ここに「定家」の名の見えるところが、興味深い。世阿弥は、能の作者は、平家物語の或る本に書かれたこんな記事を、確
実に踏まえていたに違いないからである。
清盛の子の基盛は早くに死に、遺児に左馬頭行盛がいた。彼は和歌の道を、俊成の子の定家について出精していた。明かな
師と弟子とであった。
都落ちに、もとより平家の一門の行盛も運命を倶にしたが、怱忙の間に行盛は師の定家に別れを告げ、定家も懇ろに迎えて
薄き縁を惜しんだ。行盛は師の手元に、日ごろ心に入れて書きとめた歌百首の巻物と、手紙とを遺し、都を離れて行った。見ると、巻物の端に、自作の和歌一首
がそれとなく書き入れてあった。
流れての名だにもとまれ行く水のあはれはかなき身は消えぬとも
若き定家は感動し、心に期するところがあった。父俊成が忠度の和歌を「読人しらず」として撰した時も、子息定家
はそれを「本意ナキ」こと、「忠度朝家ノ重臣トシテ雲客ノ座ニ連ナレリ。名ヲ埋ム事口惜し」いことと思い、自分はきっとあの「行盛」の名を顕わしてやりた
いと、心にまた誓った。それでも定家は三代の御代をやり過ごし、ついに後堀河院の頃、新勅撰和歌集を苦心して編み、宿願の行盛の歌を「左馬頭平行盛」と明
記して入れたのであった。
「寿永二年大かたの世しづかならず侍りし比、読置きて侍りける歌を、定家がもとへつかはすとて、つつみ紙に書附て侍り
し」という題詞も、定家が自身で書き添えたのであろう、「亡魂イカニ嬉シト思フラント、アハレナリ」とは、其の通りである。
それにしても、この行盛と定家、忠度と俊成の二つの話は、対照が利きすぎていて、意図的な脚色とすら読める。忠度の
「無念」を、ぜひに代弁して遣りたくて堪らなかった人たちが事実いたのだろうと想像させる。忠度の幽霊が、俊成縁者のワキ僧に向かい、定家に頼んで欲しい
と懇望するところに、能の意図は、とても面白く、とても哀れに、露出している。
世阿弥が、この対照的な平家物語の話柄に取り付いて能を作ったのは、ほぼ確かではないかと、わたしは考えている。
穴無慙ヤ。弓矢取身ハ、是程若クウツクシキ上臈ニ、イツコニ刀ヲ立ツベキゾト、心弱
ク思ヒケル。
平家物語の敦盛も、能の「敦盛」も、むろん少年である、が、女とみまがうほどに優しいその公達が、わが頚を斬っ
た当の熊谷蓮生坊により、修羅道の苦患から救われたい、救うて給われと幽霊で現れる、そこに、この能の奇抜で奇妙な色気がある。倒錯の魅力が、あまい風の
ように匂うのである。稚児にも似た敦盛が、どうかすると、昔愛された今は出家の男によって救われたがっている女に、見えてくる。女ではない、少年だ敦盛
だ、あれは男同士だと思い直して行けば行くほど、それでよけいに、とほうもなく能の舞台がセクシィになる。むろん、いやらしくも何ともない。美しく「あは
れ」なのである。
「十六」という能面が、「敦盛」の専用面のようになっている。同い年の「知章」にも用いられる。もう一人同い年の公達が
いて、宗盛の嫡男清宗がもしシテを演じても「十六」の面をつけただろう。シテがつけるといい面だが、面だけを写真にしたもので見ると、ふっくらした頬で、
妙に栄養が足りていて、「あはれ」味が薄い。あれでは少女とは見えない、年増にも見えないと、これまた永いあいだ物足りなかった。ちがうのとちがうやろ
か…と、持って行き場のない気分でいた。
ある年、能の題を小説の題に、いろんな古美術の名品の写真と競い合うように、現代モノの短編を連載してくれと、茶の湯
の雑誌から、凝った注文がきた。頼み込んで一回目だけ、「十六」という題で敦盛を書きたいと言い、むろん題だけが「敦盛」の、現代小説ではあったのだが、
美術の写真には、三井永青文庫所蔵の能面「十六」を撮影してもらった。私も現場で撮影を見せてもらった。
カメラマンは、能面は正面から素直に撮りたいと言ったが、わたしは、角度をつけて、能面十六にべつの顔が見えてこない
か、ぜひ探ってほしいと注文をつけた。写真家は何度も根気よく試みてくれて、その都度わたしもファインダーを覗かせてもらううち、総身に電気の走るような
戦慄を覚える「女」の顔に、ついに出会った。凄艶な女の顔だった。少年だけが隠し持っている、それは、うら若い母か姉かの顔に見えた。これだと思った。熊
谷直実は組み敷いた少年の、己れを見上げてくる表情に、この顔を見たのに違いない。理屈を超越し、わたしはそれを信じた。
「これを撮って下さい」と、わたしは躊躇なく叫んだ。その写真が連載の一回目を飾り、わたしは幻想的な短編で、古傷の少
年の恋を書いた。写真は、これがあの永青文庫の「十六」かと驚かれた、冴えて、悩ましい、凄いほど美女の横顔だった。連載を終え、単行本になった『修羅』
の表紙や函も、その「十六」のカラー写真が飾った。
「あはれ」であった。
一の谷の戦やぶれ 討たれし平家の公達あはれ
暁寒き須磨の嵐に きこえしはこれか青葉の笛
わたしぐらいな六十過ぎた年輩なら、この唱歌を知らないものは少ない。いまはなぜか「青葉の笛」と題してあるよ
うだが、昔はずばり「敦盛と忠度」だった。歌詞の一番には敦盛を、二番は忠度を歌っていた。源氏より平家が贔屓だったわたしは、愛唱に愛唱した。同じよう
に南北朝の時代、「青葉茂れる桜井の」駅の、楠木正成正行父子が訣別の歌も熱唱した。そういう時代であり、そういうタチの少年だった、わたしは。敗者に涙
した。
平家物語を読むようになったのは、戦後、新制中学をそろそろ卒業という頃だった。能楽堂へ出かけ、主に京観世の舞台で
「清経」や「八島」を観たのも、顔見世の南座で市川寿海の盛綱を観たり、人形浄瑠璃の「熊谷陣屋」を聴いたりしたのも、高校一年頃からのことだった。そん
な時もあの唱歌の哀調はわたしの中でいつもたゆたっていたし、そうでなくては、能にせよ歌舞伎にせよ、そうそう親しめる芸能ではなかったかも知れない。
だから平家物語をはじめて文庫本で買って、頭からどんどん読み進んで「敦盛最期」に来た時、「きこえしはこれか」と
唄ったはずの「青葉の笛」などという笛の名が、本文に全然出ていないのに、文学少年、大発見の面持ちを隠すことができなかったのである。
事実「青葉の笛」と書いた本文は無く、大方が父経盛より伝領の名笛の銘は「小枝」としてある。頼政に担がれた無品の宮
以仁王が「御秘蔵ありける」名笛も、「小枝」と呼ばれていた。両者になにの交通もなげであるからは、奇妙というしかないが、実は「青葉の笛」を世に広く流
布した張本は、能の「敦盛」であった。本説正しきを尚ぶ世阿弥ないしは当時の作者であるから、どこかに典拠のあることと思いたいが、例えば十訓抄に「笛の
最物」つまり横笛の名器「青葉」の名は出ているのだが、創作であっても面白い。とにかく小謡にもなっている、こんな「敦盛」の詞章に、めざす笛の名は紛れ
もない。
身の業の。すける心により竹の。小枝蝉折様々に。笛の名は多けれども。草刈の吹く笛
ならばこれも名は。青葉の笛と思し召せ。
「敦盛」のワキは、熊谷直実出家して蓮生法師で、往年討ち果たした平家公達の菩提を弔うべく、一の谷に登場したと
ころで、前シテの草刈男の笛を吹くのに出逢う。あまりの優しさに笛の名を問い掛けた、その答が「青葉の笛」であった。この少し前、蓮生は草刈る男の笛を、
物珍しく「その身にも応ぜぬ業」に思い、かえって男から「それ勝るをも羨まざれ。劣るをも卑しむなとこそ、承れ。其の上、樵歌牧笛とて。草刈の笛樵の歌
は。歌人の詠にも詠み置かれて、世に聞こえたる笛竹の。不審はなさせ給ひそとよ」と窘められている。笛を吹く草刈男に、例えば「小枝」「蝉折」のような伝
来の品の銘を期待して聞くものはいない。珍しい音色、珍しい形の、見慣れず聴きなれないものだったから、「それは何の笛か」と尋ねたのだ。他ならぬこの草
刈る男こそ、後シテの敦盛その人と思えば、いよいよ義経や熊谷の涙を誘ったという、うら若い「上臈」の鎧の袖に隠されていた笛を、草刈の青葉の笛に重ねて
は想像しづらい。
「山路に日落ちぬ 耳に満てるものは樵歌牧笛の声。澗戸に鳥帰る 眼に遮るものは竹煙松霧の色」とも、朗詠集に謂う。そ
して明らかに蓮生法師が須磨の浦一の谷の夕まぐれに聴いたのは「草刈笛の声添へて吹くこそ野風」と謡われている、牧笛の哀調なのであった。草笛、葉笛で
あった。
吹送る風のたよりに見てしより雲間の月に物思ふかな
うまい歌ではない。小宰相は返事をくれなかった。「三年ガ程、書尽キヌ水茎ノ数積モレドモ、終ニ返事」は無いま
まであった。とうどう、死ぬとまで書いて、小宰相が朋輩らと同車の中へ恋文を投げ込んだ。大路に捨てるのも流石に憚られ、車中に放置もならず、仕方なく
「袴ノ腰ニ挟」んだまま建礼門院の御用を務めているうちに、ふと取り紛れ、文を落として気づかなかった。
女院は衣の袂にそっと伏せ隠し、懐中し、御遊の後に、女房達の中でこのような文を拾ったが誰のものかと聞いた。「我も
我も知ら」ないと言う中で、ひとり小宰相局は身の置き所もなげに俯いていた。文には香がたきしめてあり、「手跡モナベテナラズ美シク、筆ノ立チドモメヅラ
カ」であった。文の端には思いのたけを、
我が恋は細谷川の丸木橋ふみ返されてぬるる袖かな
踏みかへす谷の浮き橋浮き世ぞと思ひしよりもぬるる袖かな
「つれなき御心も今はなかなか嬉しくて」などと「文返し」続けられて「逢はぬ恋を恨」みがちに、しみじみと恋慕の
気持ちが書き連ねてあった。
女院は、一門の通盛が執心している噂はほのかに聞いていたが、細かな経緯は知らなかった。こういうことであったのかと
女院は小宰相に、「アマリニ人ノ心ツヨキモ讐トナル」と諭し、これほど思う男との「一夜ノ契リ、何カサホド苦シカルベキ」と、女院自ら硯を引き寄せて返事
を遣った。
ただたのめ細谷川の丸木橋ふみ返しては落つる習ひぞ
こうまで女院の仲立ちがあっては、小宰相も「力及バデ終ニ靡」いた。傍目もまばゆい仲の好さで、もとより通盛が 通いつめた。日ごろを経て、それほどの小宰相から一時通盛は他の女に心をうつし、「離レ離レニ成」ったが、小宰相はこんな歌を通盛に送った。
呉竹の本は逢夜も近かりき末こそ節は遠ざかりけれ
竹は、根元ほど節から節が短くて、末になると広がるのを、通盛との「逢夜」から「逢夜」までの長さに巧みに譬
え、優しく恨んでいる。「モトヨリ悪シカラザリケル仲ナレバ、通盛」は小宰相のこの歌に愛で、また「互ヒニ志浅カラズシテ年ゴロニモ」なっていた。。
正室在る通盛と小宰相とは、世間には「仮初ノ」仲と見られていたから、「一ツ御船ニハ住ミ給ハデ別ノ舟ニ宿シ置キ奉
リ、三年ノ程波ノ上ニ漂ヒ、時々事ヲ問ヒ給ヘリ。中々情ゾ深カリケル」と平家物語は伝えている。一人の「妾」への記述に敬語が頻繁に用いられているのは、
小宰相には同情や称賛が集っていたのであろう。そして通盛最期の前夜にも、男は女を陣屋に呼び寄せ、尽きぬあわれを夜をこめて交し合い、ついには弟能登殿
に窘められている。ようやく通盛も、「今コソ最後ト知給へ」と覚悟も堅く、小宰相を舟に返し送って、自らは急ぎ「物具シテ」戦陣に備えたのであった。
一の谷の合戦は、だが、平家散々の負け軍に終わった。弱冠十六の敦盛の「討たれ」に象徴されるように、まさに「一の谷
のいくさ敗れ 討たれし平家の公達あはれ」であった。重衡は捕えられ、大将軍の忠度や通盛や、また若い敦盛や知章らが次々に討ち取られた。知盛は愛する子
を身代わりにかつがつ沖の船に逃げもどり、ふがいなさに号泣した。
通盛が弟能登守と赴いていた戦場は、山の手であった。「此ノ山ノ手ト申スハ一谷ノ後、鵯越ノ麓ナリ」というから、逆落
としに源氏の義経に攻め落とされたのである。あそこに討たれここに討たれ、通盛も、多くいた従者はみな散り散りに、身一人となって落ち延びて行くのを、源
氏の兵も「追懸」けていた。そして運も尽きたか通盛は、「馬ヲ逆マニ倒シテ首ヘ抜ケテゾ」前のめりに落馬してしまう。後ろからは児玉党の七騎が追い、そこ
では「近江国佐々木荘ノ住人」源三成綱が落ち合うて、落馬の通盛にむずと組み付いた。
三位通盛は、だが忽ち上になり、佐々木を組み敷いた。佐々木は撥ね返そう返そうとしたが通盛は力勝りの人で、押さえ込んで佐々木に働かせず、刀を抜いて源
三の頚を掻こうとした。ところが「掻ケドモ掻ケドモ」頚が落ちない。見ると鞘のまま斬りつけていた。
この際どいところで佐々木は、この敵が、かつて主筋であった越前三位通盛卿であると気づいて、「成綱叶ハジト思ヒケレ
バ、下ニ臥ナガラ、誰ヤラント思奉リ候ヘバ君ニテ渡ラセ給ヒケリ。知リ参ラセテ候ハンニハ、イカデカ近ク参リ寄ルベケン。年ゴロ平家ニ奉公ノ身ナレバ御方
ヘコソ参ルベキニテ侍リツルニ、心ナラズ親シム者ドモニスカシ下ラレテ、今戦場ニ馳セ向ケラレタリ。イヅレノ御方モオロソカノ御事ハ候ハネドモ、殊ニ見馴
レ参ラセテ御懐シク思ヒ奉ル。只今カク組マレ参ラセヌルコトヨ。同ジクハ人手ニ懸カリナンヨリ嬉シクコソ」などと言い掛けた。宇治川の高綱といい、藤戸の
盛綱といい、この成綱もしかり、佐々木一族の口のうまさよ、後には佐々木道誉のようなバサラも現れる。
通盛は、一瞬ためらってしまった、その隙に下の成綱は、兜の隙間へ抜いた刀を二度まで深く刺し入れた。「刺シテ弱リ給
ヒケルヲ、力ヲ入レテ跳ネ返シ、起シモ立テズ、ヤガテ三位ノ頚ヲ取ル。」覚悟の上とはいえ、通盛はあわれここで命絶えた。
源三もひどい手負いで、通盛の刀を見ると、鞘尻の二寸ほどが砕け、刀の峰が二寸ほど源三の首を切りつけていた。「源三
成綱ハ左手ニテ(自分の)頚ササヘ、右ノ手ニ(通盛の)首ヲ捧ゲテ陣ニ帰ル。ユユシクゾ見エタリケル」と異本の一つは書き、また別の本は、佐々木の獲た通
盛の頚を、梶原景時が横取りしようとした凄まじい話も書いてある。さまざまな位相で見聞や伝聞が入り混じり、いろんな本を生んでいるのだが、小宰相のもと
へ、通盛最期をこまかに伝えたという通盛家来の一人は、いったい、組打ちの時にどこにいて、どのように主の討たれるのを見届けていたのかと、小説家は、そ
ういうところに興味を感じてしまう。
ともあれ夫通盛の死を告げられた小宰相は、愛した男の子を身に宿したまま、悲歎の余りに沖波の底の藻屑と身を投げ果て
てしまうのである。わたしが初めて平曲の語りを聴いたのはこの「小宰相」入水の一句であった。今日、平曲の正統を語れる事実上只一人ともいえる橋本敏江の
演奏だったが、震えるほどの感動があった。
ありそうで少ないのが男の跡を慕って女も死ぬということで、逆に男のほうに、それが有る。平家物語でも小宰相はわたし
の記憶する限り唯一の例であり、よほどの感銘を与えたのではないか。信じられないと思った人も、死なせたくないと願った人も多かったのではないか。小宰相
は死ななかった、壇ノ浦から安徳天皇を奉じて山陰の海づたいに逃れた、一行を率いていたのは門脇中納言教盛だったという伝説が、現に二十一世紀まぢかい今
日にも、山陰地方に実在している。教盛は通盛や教経の父であり、小宰相には舅に当たっている。
浦人答ヘテ云フ。瀬ハ二ツ候。月頭ニハ東ガ瀬ニナリ候、是ヲバ大根渡ト申ス。月尻 ニハ西ガ瀬ニ成候、是ヲバ藤
戸ノ渡ト申ス。当時ハ西コソ瀬ニテ候ヘ。東西ノ瀬ノ間ハ 二町バカリ、ソノ瀬ノ広サハ二段ハ侍ラン。ソノ内一所ハ深ク候ト云ヒケレバ、佐々木 重ネテ、浅
サ深サヲバイカデカ知ルベキト問ヘバ、浦人、浅キ所ハ浪ノ音高ク侍ルト申 ス。サラバ和殿ヲ深ク憑ム也。盛綱ヲ具シテ瀬踏シテ見セ給ヘト懇ロニ語リケレ
バ、 彼ノ男裸ニナリ先ニ立チテ佐々木ヲ具シテ渡リケリ。膝ニ立ツ所モアリ、腰ニ立ツ所モ アリ、脇ニ立ツ所モアリ。深キ所ト覚ユルハ鬢鬚ヲヌラス。誠ニ
中二段バカリゾ深カリ ケル。向ノ島ヘハ浅ク候也ト申シテソレヨリ返ル。
佐々木陸ニ上ツテ申シケルハ、ヤ殿、暗サハ闇シ、海ノ中ニテハアリ、明日先陣ヲ懸ケ バヤト思フニ、如何シテ只今ノト
ヲリヲバ知ルベキ。然ルベクハ和殿人にアヤメラレヌ 程ニ澪注ヲ立テ得サセヨトテ、又直垂ヲ一具タビタリケレバ、浦人カカル幸ヒニアハ ズト悦ビテ、小竹
ヲ切集メテ、水ノ面ヨリチト引入レテ立テ、帰テカクト申ス。佐々 木悦ビテ、明ルヲ遅シト待ツ。平家是ヲバイカデカ知ルベキナレバ、二十六日辰刻ニ、 平
家ノ陣ヨリ又扇ヲ挙ゲテゾ招イタル。
この記事の通りならば佐々木は先陣を懸けんためと浦人に告げていて、しかも男の頚を掻き切るような真似はしてい
ない。事実はこうであった可能性が高く、殺したと言い触らしたのはまんまと先陣を目と鼻の前で派手に演じられた「土肥梶原千葉畠山」の連中であったやも知
れない、それは考えられる。しかし、「下臈ハコトモナキ者ニテ、又人ニモ語ラハレテ案内モヤ教ヘンズラン。我ガ計コソ知ルラメトテ、カノ男ヲ差殺シ、頚掻
切テゾ捨テテケル」とも、「思フヤウ、明日ハココヲ盛綱ガ先陣渡サンズルニ、下臈ノニクサニハ又人ニヤ知ラセンズラント思ヒケルカ。ヤ殿、コナタヘヨレト
テ、物云ハンズル様ニテ、取テ引寄セ頚カキ切テステテケリ」とも、明記した本も多い。盛綱の家来が主の意を受けて「六十有余」の夫婦者から教わってきたと
いう本もあるし、土肥の郎党にも佐々木の先陣を察して主に告げていた者もあった。
もっと手のこんだ話もあり、面白い。何としても佐々木は先陣の秘密も知られまい、それと疑われたくもないと、わざと梶
原の目の前で無謀に言挙げしてみせ、いきなりざっと海に馬を馳せ入れてすごすごと引き返す芝居までしている。これを見た梶原以下の面々は、「山ヲ落シ河ヲ
渡スノ例アリトイヘドモ、大海ヲ渡ス、思ヒ寄ラズ思ヒ寄ラズ」と大笑いし、盛綱は「人々ヲ謀リオホセテ」おいて、ひそかに我が手の者共に「約束シテ、一度
ニ打出テ、カノ浦人を先立テテ渡リケルニ」と、この本では殺した筈の男がちゃんと途中まで間違いのない案内役を勤め、いいところへ行きつくと、あとは「島
ノ方ヘハ浅ク候ト教ヘ捨テテゾ帰リケル」と書いてある。なかなか男もさる者と見てよく、こういうものが戦場にはきっといて、取りたてられてひとかどの武士
になったりしたのではないか、義経に屋島への道案内を勤めた鷲津だか鷲尾だかも、まさにその例であった。
能「藤戸」の作者は「殺した」という立場から舞台を創作している。それも一曲であったが、わたしは、「殺す」盛綱を好
かないことは最初に言った。「殺さなく」ても、なんとなくわたしは弟四郎高綱の先陣ほどは、兄三郎盛綱の功名を喜ばない。
伊予守義経、源二位頼朝を背く由、ここかしこに囁きあ合へり。兄弟なる上に父子の契 にて殊にその好み深し。是
によつて去年正月に木曽義仲を追討せしより、命を重んじ身 を捨てて、度々平家を攻落して、今年終に亡し果てぬ。一天四海澄みぬ。勲功類なく 恩賞深くす
べき處に、如何なる仔細にてかかるらんと上下怪しみをなす。
此事は去年八月に院使の宣旨を蒙り、同九月に五位大夫に成りけるを、源二位に申合は する事なし。何事も頼朝の計にこ
そ依るべきに、院の仰せなればとて申合はざる条、 自由なり。また壇ノ浦の軍敗れて後、女院の御船に参会の条も狼藉也。また平大納言の 娘に相親しむ事謂
われなし。かたがた心得ずと宣ひ打解けまじき者也と思はれけるに、 梶原平三景時が渡辺の船沙汰の時、逆櫓の口論を深く遺恨と思ひければ、折々に讒言す。
平家は皆亡びぬ。天下は君頼朝の御進退なるべし、但し九郎大夫判官殿ばかりや世に立 たんと思召し候らん。義経、御心剛に、謀勝れ給へり。一谷落さるる
事鬼神の所為 と覚えき。川尻の大風に船出し給ひし事人の所行と覚えず。敵には向ふとは知りて、一 足も退かず。誠に大将軍哉と怖しき人にまします。もつ
とも心得あるべし。一定御敵 とも成り給ひぬと存ずと申しければ、頼朝も、後いぶせく思ふなりとて、追討の心を挟 み給へり。
ここに「自由」の二字は至って興深い。これは勝手気侭、放埓の意味で、精神の自由などと近代現代が尊重してきた
自由とは違っている。狂言などにも用例があり、みなここにいう意味で多用された。この「自由」はいつの時代にもあった。どんな世間でも見られた。今日の日
本もおおかたこの「自由」によって混乱もまた活気も生じている。
これで、だが、「頼朝義経仲違」いの事情は分かる。秩序と自由との齟齬であり、そこに付け入る人間心理の「すすどさ」
である。梶原景時が遺恨を含んだ「逆櫓」事件とは、屋島の攻めに四国へ押しわたった時が大暴風雨で、義経は風雨を冒して突進を言い、義経目付け役であった
梶原は、せめて後戻りの利くように逆櫓の備えをと言い、烈しい喧嘩になり、義経は梶原を置いてけぼりに渡海を決行したのを言う。義経にはたしかに鬼神が憑
いていた。
戦が済んで見ると、戦略の段階でなく政略の段階になる。義経はとうてい頼朝の敵たる政治の素質は持たぬ、安心な善男子
でしかなかったのを、頼朝ほどの者が猜疑心を梶原に煽られてしまったというしかない。しかも梶原は自ら義経討手を引き受けるのは憚りありと、土佐房正尊に
お鉢を回したのであった。
腰越から追い返されて都に戻った義経には、まちがいなく兄の手で追討の憂き目を見るであろうと分かっていた。頼朝も義
経はぜひ討たねばなるまいと腹をくくっていた。緊迫した関係に世間も目を向けていたし、朝廷も困惑しながら、まぢかな義経と遠い鎌倉の頼朝とに、等分に目
配りし心配りしていた。頼朝が義経に付き添わせ上洛させた十人もの大名衆も、保身のために一人抜け二人抜けてみな鎌倉に帰っていった。文治元年秋(一一八
五)そういう都へ、頼朝による討つべしの密命を受け、奈良七大寺詣でに言寄せて土佐房正尊はひそとして乗り込んできたのであった。
もと奈良法師の土佐房には、どこか無頼の、だが小才の利いたところもあった。いわゆる流布本では見えにくいが、正尊は
根が大和国の奈良法師で、東大寺と興福寺との争いに乗じて春日社の神木を伐り捨てるという乱暴が咎められ、土肥実平に預けられているうちに巧みに土肥を篭
絡のあげく、頼朝に仕えようと鎌倉に来ていたのである。
名の知れた武将を遣わせば義経はすぐさま用心するに違いないと、これも梶原の口車に土佐房も乗せられた。あげく義経が
牛若の昔から誼み厚い鞍馬山に逃げ込んで囚われ、空しく命を落とした。
唐船カラクリシツラヒテ、然ルベキ人々ヲバ唐船ニ乗タル気色シテ、大臣殿以下宗トノ 人々ハ二百余艘ノ兵船ニ乗 テ、唐船ヲ押シカコメテ指シ浮カメテ待ツモノナラバ、定メ テ彼ノ唐船ニゾ大将軍ハ乗リタルラント、九郎進ミ寄ラン所を後ロヨリ押巻キテ中ニ取 リ籠メ テ、ナジカハ九郎一人討タザルベキ。
わたしはこれを読んだとき、お、いけるかも知れないと本気で思い、鳥肌立った。この時である、知盛は阿波民部大
夫の裏切りを察知していて斬ろうと強く主張したのは。宗盛はだが聴かなかった。結果「唐船カラクリ」のことは裏切り者の口から源氏に伝えられ、平家の船は
算を乱して崩れていった。その後の凄惨な成り行きは、ここで拙くまねぶことは避けよう、平家物語をつぶさに読まれたい。知盛は「見るべきものはすべて見
つ」と、一族のなれの果てを見納めて乳兄弟の伊賀平内左衛門家長と、抱き合って壇ノ浦の水底に沈んで行った。
その知盛の幽霊が、風を巻き波に乗って落ち行く義経主従の船に襲いかかったのである、それが能「船弁慶」の後シテであ
る。
知盛といい教経といい、義経を追いに追い詰めて海に引き込もうとしたが壇ノ浦では果たせなかった。この大物浦では何と
してもと、勇猛の教経でなく知盛の現れたところに執念の凄さがある。逆にいえば義経一人、九郎一人に亡ぼされた平家という印象の強化法が平家物語にも、読
者たち享受者たちにも共通していた。それが義経の末期の哀れをまた強め得て、ついには「義経記」のような平家物語の傍流末流物語成立へまで行く。
それにしても能「船弁慶」の前半と後半とのアンバランスは目立つ。手持ちの謡本でみれば前シテ静の十九頁分に対して、
後シテ知盛幽霊は九頁にも満たない。しかも印象は圧倒的に幽霊知盛の挑みと屈服とに傾く。能でこそ静の舞姿が美しいが、歌舞伎では終幕後にまで静の印象は
殆ど残らず、弁慶ののさばりだけが異様に印象に残る。静は奇妙に前座めく。
なぜこんな作りが必要だったのか、弁慶の配慮と功力の大いさを表現すれば「船弁慶」は事足りているからか。いやいや、
今一度、何故に弁慶はああも靜の乗船を忌避したのかを考えて見たくなる。弁慶の不思議な直感に、どこかで、靜という女人と知盛の怨霊とを繋いで「危うい」
とみるものが忍び入っていなかったか。
夫婦で見て妻が泣き出し、わたしもふと引き込まれた歌舞伎の舞台では、菊五郎が靜と知盛とを前後二役で演じた。能では
当たり前だが歌舞伎では必ずしも当たり前ではない。菊五郎だから静も、靜以上に知盛もよかった、泣かされた。
そして感じるところが有った、この芝居や能の作者には、もともと論理整合的にとは行かなくても、靜と知盛とを根深いと
ころで「同じ側」に眺める視線を秘め持っていたのではないかと。弁慶にすでにそれが在り、静を主君義経と乗船させることに決定的な危険と不安と憂慮を覚え
ていたのではなかろうかと。
これは直ちには説明しきれない。しかし手がかりがまるで無いのではない。知盛ら平家の怨霊らは間違いなく今は海底の住
人、陸に住む者らへの怨念に生きる海の霊である。平家物語は住吉や厳島を芯に、実は想像を超えて「海の神意」に深く導かれた物語である点で、あの源氏物語
とも臍の緒をしっかり繋いでいるのだが、シラ拍子の靜、母の「磯」は、もともとは海方の芸能に生きていた女たちであった。弁慶の怖れは、謂われなくは有り
得ない深い根拠をもっていたとわたしは考えたい。
判官、「あれ馬強ならん若党ども、馳寄せて蹴散らせ」と宣へば、武蔵国の住人、三穂 屋四郎、同藤七、同十郎、 上野国の住人、丹生の四郎、信濃国の住人、木曽の中次、 五騎連れて、をめいて駈く。楯の影より、塗箆に、黒ほろ矧いだる大の矢をもて、真っ 先に進んだ る三穂屋の十郎が馬の左の胸懸づくしを、ひやうづばと射て筈の隠る程ぞ、 射籠うだる。屏風を返すやうに馬はどうと倒るれば、主は馬手の足をこえ弓手の方 へ下 り立つて、やがて太刀をぞ抜いだりける。楯の陰より、大長刀打振て懸りければ、三穂 屋の十郎、小太刀大長刀に叶はじとや思ひけむ、掻い伏いて迯け れば、やがて続いて追 懸けたり。長刀で薙がんずるかと見る処に、さはなくして、長刀をば左の脇にかい挟み、 右の手を差し延べて、三穂屋十郎が甲のしこ ろをつかまむとす。つかまれじとはしる。 三度つかみはづいて、四度の度むずとつかむ。暫したまつて見えし、鉢附の板よりふつ と引切てぞ迯げたりける。 残四騎は馬を惜しうで駈けず、見物してこそ居たりけれ。 三穂屋十郎は、御方の馬の陰に逃入て、息続ぎ居たり。敵は追うても来で長刀杖につき、 甲のしこ ろを指上げ、大音声を上て、「日頃は音にも聞きつらん。今は目にも見給へ。 是こそ京童部の喚ぶなる上総悪七兵衛景清よ」と、名乗棄てぞ帰りける。
これで平家方はちょっと気をよくしたとある。独り働きでは格好いいが、景清が侍大将として参加した勝ち戦は、せ
いぜい以仁王を追いつめていた時ぐらいで、たいていは平家方の分はわるい。ただ景清は、武運の有る方であったというか、あの壇ノ浦でも、「その中に、越中
次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は、何としてか逃れたりけん、そこをも又落ちにけり」とあるように、源氏の手に囚われることなく、戦場を
落ち延びた。源氏にすれば一騎当千のうるさい猛者ばかりであった、事実、彼らはしぶとく抵抗を続け、とりわけ、景清最後の奮戦の偲ばれるのは、壇ノ浦合戦
もとうに過ぎて、平家の残党が容赦なく追討されていた時分に、小松大臣重盛の遺児丹後侍従忠房を奉じて紀伊国湯浅城で頑強に熊野別当らの源氏方を悩ませた
時であった。
小松殿の御子丹後侍従忠房は八島の軍より落て行方も知らずおはせしが、紀伊国の住 人湯浅権守宗重を憑んで湯浅の城に
ぞ籠られける。是を聞いて平家に志思ひける越中次 郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵共著き奉る由聞えしかば、 伊賀伊勢両国の住人
ら、我も我もと馳せ集る。熊野別当、鎌倉殿より仰せを蒙つて両三 月が間、八箇度寄せて責め戦ふ。城の内の兵共命を惜まず防ぎければ、毎度に御方は追 散
され、熊野法師数をつくいて討たれにけり。
景清の名をさしては語っていないが、頑強な平家の根力の一つで景清がいたことは分かる。そればかりか、おおかた
平家は掃滅されるにかかわらず景清が捕まった確証はない。
頼朝の洞察と指示とで湯浅の城攻めはことなく、平家方すべてが城から姿をくらまして収まってしまうが、これに懲りたか頼
朝は甘言を用いて忠房を自首させ、殺してしまう。さらに徹して残党狩りに力を入れる。だが、上総悪七兵衛景清にかぎって、平家物語流布本に、囚えられた形
跡は全く無い。能「景清」に謂う日向遠流と定まるような頼朝暗殺事件などは平家物語には見当たらないのである。
これはあらゆる「作者」には有り難い、脚色自由な前提ができている。歌舞伎の熊谷陣屋に突如として現れる弥陀六実は悪
七兵衛景清は、義経の面前から黙契を得て熊谷に討たれた筈の公達敦盛を櫃に負うて立ち去って行く。見えない共通の敵の頼朝の影を察しながら歌舞伎の舞台を
見ている人も多かろう。記憶違いでは恥じ入るが、琴責めで鎌倉の詮議を受ける遊女阿古屋は行方をくらまして久しい景清の妻ではなかったか。
末始終が分からない人物は、魅力が在ればあるほど奥ゆかしさに想像力が鼓舞され刺激される。弁慶の立ち往生に救われた
源義経が、蝦夷から蒙古に渡ってジンギスカンになったという伝説もそれなら、源為朝が琉球王になったという伝説もその類であり、景清にもそれだけの資格が
生まれていたのである。能「景清」の娘人丸にせよ傾城阿古屋にせよ、それらしい縁者が生き長らえて景清の物語をいろいろに流布させた役回りを想像して見る
余地はいかようにも否定しきれない。潤色し脚色するに値した他の逸話や事件にもこと欠くことは無かったろう。景清と頼朝とのことなどは、平家物語が語って
いる越中次郎兵衛盛嗣の最期が利用されたのではなかろうか。この平家の猛将は、多くの場合悪七兵衛ら一群の侍大将の常に筆頭に位置していたし、その最期も
なかなか物語りに富んでいる。
平家の侍越中次郎兵衛盛嗣は但馬国にまで落ちて行き、気比四郎道弘という在地の豪の婿におさまっていた。道弘はまさか
に越中次郎兵衛とは気づかなかったが、嚢中の錐の譬えもあり、ありあまる威勢の盛嗣は夜になると舅の馬を引き出しては馳せまわっていた。馬で海の底を十四
五町も潜ってくるようなことまで出来るのは、龍神にもゆるされた豪強の武士としか思われず、ついに鎌倉殿の守護地頭も怪しんでいるうち、鎌倉でも漏れ聞い
てのことか、但馬の朝倉高清に捕らえて鎌倉へと命令が届いた。朝倉の婿がさきの気比四郎であったから、両人は驚いて、だがどうして搦め取ろうかと相談も慎
重であった。
湯屋にて搦むべしとて湯に入れて、したたかなる者五六人おろし合はせて搦めんとする に、取つけば投倒され、起
上れば蹴倒さる。互に身は湿れたり、取りもためず。されど も衆力に強力叶はぬ事なれば、二三十人、はと寄て太刀のみね長刀の柄にて打ち悩ま して搦捕
り、やがて関東へ参らせたりければ、御前に引据させて事の子細を召問はる。
「いかに汝は同じき平家の侍と云ながら、故親にてあんなるに、何とて死なざりけるぞ」
「それはあまりに平家の脆く滅てましましし候間、もしやと狙ひ参らせ候ひつるなり。 太刀の身の好きをも、征矢の尻の鉄
好きをも鎌倉殿の御為とこそ拵へ持て候ひつれど も、是程に運命尽果候ひぬる上は、とかう申すに及び候はず」
「志の程はゆゆしかりけり。頼朝を憑まば助けて仕はんには如何に」と仰せければ、
「勇士二主に仕へず。盛嗣程の者に御心許し給ひては必ず御後悔候べし。只御恩には疾疾 頸を召され候へ」と申しければ、
「さらば切れ」とて由井の浜に引出いて切てんげり。ほめぬ者こそなかりけれ。
平家物語の気持ちよいのは、誉めるところは敵味方なく誉めてくれるところで、自ずから聴いたり読んだりした者へ
の価値観教育、つまり啓蒙的な指導性をもちえただろうと思う。何をすれば人は誉め、何をすれば人は嗤うか。それが分かるということが社会の教育であった。
越中次郎兵衛盛嗣のこの潔さも逞しさも、うまく能「景清」に収斂され、いわば虚像の魅力に実像の景清はきれいに潜り込み、いまなお生き延びてものを訓えて
くれている。
まこと「見るべき程は見」切って建礼門院徳子は老いの命を果てたのであり、平家の一門は多く命脈を絶たれ、源氏
も、義経も頼朝も、それどころか三代将軍実朝もすでに死んで、源氏将軍は早や跡を絶えていた。三種神器なしに皇位に即いて屋島の安徳帝と並び立った後鳥羽
天皇も今は遙かな沖の島に流され果て、天下の成敗はすでに陪臣北条の執権にしっかと握られていた。そこまでを見て死のうと、後白河よりも先だって若くして
死んだことにされようと、もはや建礼門院にはなにごととも思い分くことはなかったであろうが、平家物語を支えた多くの日本人が、女院の若い命を、大原寂光
院で御仏の来迎摂取に委ねよう、委ねたいと思ったのも、一つの大きな追悼の行為であった。
或る本が謂うように「妙音菩薩ノ化身」で女院があったかどうかはともかく、よほど強靱な神経の持ち主でなければ生きな
がらえにくい永すぎる生涯を建礼門院は生きた。それもあの大原の里に棲み果てたのではなかった。小督局を愛して舅清盛をやきもきさせた藤原隆房の妻は建礼
門院と姉妹であった。隆房夫婦は寒さの厳しい大原の里から、いつしかに姉の女院を、ちょうど今の平安神宮大鳥居にまぢかい邸宅に引き取り世話をしていた。
そこが火事で焼けると、また山沿いに南へ、ちょうど現在の高台寺の山に実在した金仙院という別邸とも私寺ともいえる場所へ移り住まわせた。角田文衛博士の
研究によれば、建礼門院のお墓は、あの豊臣秀吉の未亡人おねが入定死したかといわれる現在の高台寺御霊屋をそうは離れない辺りであったと謂う。
「百二十句本」では、鎌倉の六浦坂で平家正嫡の六代御前が斬られ、「それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり」と結ばれ
る。まさに「断絶平家」の終末だが、の第百十九句に据えられた「大原御幸」が、「覚一本」などでは「女院御往生」を結びにした灌頂巻で終えている。覚一本
は十二世紀末の「建久二年きさらぎの中旬」といい、延慶本などは十三世紀の「貞応三年(一二二四)春の頃」という。それとても、もろともに「追悼平家」の
祈念も深い、大団円であった。 (完)
ーー 朝日ソノラマ 刊 1999年
11月 ーー