結城信一の本
矢部 登
結城信一の本は、全部で十三册刊行されている。
終戦直後の昭和二十一年(一九四六)から昭和五十九年(一九八四)までの三十八年間に及ぶ文学的営為の
なかで精選され、まとめられた本である。いま、全十三册を眼前に並べてページを繰っていると、その一册一册からは、結城信一の静かな低い声が聴こえてく
る。
たとえば、こうささやく、『青い水』がある。
《……私は中に大きな海をたたへた一個の小さな静かな生きた貝殻を探し求めたい。この重い疲労と苦痛の
浪の渦の中から。……》
結城信一の小説は、戦争の勃発と同時に断ち切られてしまった青春の深い悲しみとみずからの密かな祈り
を、《この重い疲労と苦痛の浪の渦の中》で、一作一作丹念に長い時間をかけて、遺書のように書き綴ってきたものであった。
また、私の胸奥には、次の一節(「こころざしおとろへし日は」短歌研究・昭和三十一年七月号)も、ふか
ぶかと刻み込まれている。
《……戦争による傷痕は、決して私自身から消えうせてはゐないのだ。私が病みがちに今なほ生きてゐるこ
とは、その耐難い傷痕の中に生きてゐるのであつて、所謂戦争の終結による平和の中に生きてゐるのではない。……》
そんな孤独な日々のなかで、結城信一は時代のながれから遠く離れ、自分一人のつつましい世界を自身の生
き方に重ね合わせた文章で繰返し綴ってきた。《文学とは一に表現、二に表現》(岩本素白)と常に思いながら。ひっそりと、青白い命の炎を燃やし続けてきた
のである。
結城信一の小説からは、古風といった一瞥で済まされてしまいそうな、典雅とか気品、禮節、節度、完璧等
の言葉が思い浮ぶ。こういった言葉は、いまでもそうだが、もはや、殆ど理解されそうにない世紀へと入ってゆくようだ。結城信一の魂を鎭めるように、古風な
《中に大きな海をたたへた一個の小さな静かな生きた貝殻》として在る、愛着ふかい作品群を一巻にまとめるとき、結城氏には望むべき本の姿としての造本・装
幀が思い描かれていたにちがいない。結城信一は戦後逸速く、学藝誌「ロゴス」(昭和二十一年五月)と「象徴」(昭和二十一年十月)を創刊した編輯者でも
あったのだから。「ロゴス」は石井鶴三の扉絵、「象徴」の題簽は會津八一、カットは岡鹿之助であった。
結城信一の小説を、私は愛情をもって大切に取り扱わなければならない、と思う。正字旧かなづかいで精魂
こめて書き誌された小説自体も、そう望んでいる筈である。
そのみごとな結実が、結城信一の本には在る。
*
『青い水』は結城信一の初めての本である。
昭和三十年(一九五五)八月十日、六つの短篇小説を収めて、当時、東京創元社から独立した小林秀雄の緑
地社から刊行されている。装幀は岡鹿之助であった。
結城信一の「あとがき」には、《この最初の短篇集に、岡鹿之助氏の斬新な美しい装幀をいただけたこと
に、今、私は深い感謝と喜びを感じてゐる》と簡単に誌されているだけだが、後年、この書については、《装幀一切をしてくださつたのが岡鹿之助氏で、本の
型、カバー、表紙、目次面の挿絵、本文の組方まで、こちらの身の引緊るほどの有難い心くばりをいただいたものである》とも述懐している。
私はこの一節に出合って驚愕した。
これは、換言すれば、作品集の造本設計から装幀までの一切の指定を岡鹿之助が行った、ということであろ
う。岡鹿之助の装幀本がすべてそうなのかどうか、私は詳しく知らないが、おそらく、異例のことのように思われる。
岡鹿之助の結城信一へ寄せる、深い愛情と激励の思いが窺われるのである。
本文の版面指定は、押しつけがましさがなく、見開きのページのなかで、ゆったりと、ひそかに佇んでいる
ような贅沢な組み方である。
結城信一が短篇小説「春」(「群像」昭和二十七年一月号。『青い水』所収)を発表した折に、岡鹿之助は
カットを寄せている。清潔な詩情と美しい抒情を湛える結城文学に親しみ、結城信一の練り上げられた文章による《みごとな精神の所産》に好感を抱きながら、
愛情を持って接してきたであろう岡鹿之助ならではの造本・装幀であった。昭和二十一年(一九四六)初夏、「象徴」のカットをお願いにあがっていらい、岡鹿
之助を《心の師》として親炙してきた結城信一にとって、この最初の本の刊行は望外の喜びであったろう。
このような、記念すべき作品集から出発した、結城信一は幸福な小説家であった。
*
『夜の鐘』は、昭和四十六年(一九七一)三月八日、七つの短篇小説と二つの小品を
収めて、講談社から刊行されている。駒井哲郎の装幀になる、六册目の本であった。
結城信一が駒井哲郎に会ったのは、昭和二十七年(一九五二)五月である。《お互ひに畏敬する岡鹿之助氏
が、それとなく敷いて下さつたレールの上であつた》。また、《二人は、岡さんの大きな温い懐のなかで、長い友情を深めてきた》(「銅版画の詩人駒井哲
郎」)と結城信一は懐旧の思いをこめて誌している。
岡鹿之助を訪れてから六年のちに識合った駒井哲郎は、結城信一の《生涯の友》となった。
駒井哲郎には『青い水』を紹介した一文(「朝日新聞」昭和四十四年三月二十七日)もあって、《結城氏は
作品の数はすくないかもしれないが、いつも確実な、みがき上げられた作品しか創らない人なのではないのか》、《表面的な叙情ではなくてなにか肉感的とさえ
いえるものを持っているので、ちょうどすぐれた美術品を見るような気持でなん度でも読むことが出来る》、といみじくも書いている。
貼函と本扉に使用されているブラウンの沈んだ色調のモノタイプは、まるで星雲や流星が飛び交っているよ
うな、夢や幻覚の星月夜を髣髴とさせる。その暗黒の宇宙の深みの底には、『夜の鐘』に収録されている七つの短篇小説と二つの小品からかもしだされる、落着
いた燻し銀の暗いきらめきを観ることができる。私は、そこに、《死者の世界》が秘められているかのように感じられて、眩暈がするほどであった。鬱鬱として
絶望的な戦後の時代を結城信一が発狂もせず自殺もしないで辛抱強く生きてきたのは、やはり、文学への夢と情熱があったからにほかならぬ。
私には、『夜の鐘』一巻から、「もういつ死んでもいい」という、結城信一の悲痛な声が聴こえてくる。
そんな《挽歌の連作》ともいうべき作品群を装うのにふさわしい、駒井哲郎の装幀は、作品の内容とも美し
く溶け合った、《すぐれた美術品》のように在る。
結城信一は「あとがき」で、《この本の装幀を多年の畏友駒井哲郎氏にしてもらへたことに、深く感謝して
ゐる。私には遠い道を歩いてきた、といふ感慨が痛切にある》と誌しているが、この《多年》、《遠い道》には、当然、岡鹿之助もいたのである。
*
ところで、『青い水』と『夜の鐘』の間には、次の四册の本がある。
『螢草』。昭和三十三年(一九五八)十二月二十五日、自伝風な長篇小説として刊行されている。題字の木
版は畦地梅太郎。
『鶴の書』。昭和三十六年(一九六一)三月二十五日、五つの短篇小説を収めて刊行されている。装幀は大
谷一良。
『鎭魂曲』。昭和四十二年(一九六七)一月十五日、五つの短篇小説を収めて刊行されている。扉カットは
串田孫一。
『夜明けのランプ』。昭和四十三年(一九六八)八月五日、九つの小品を収めて刊行され、題字等は背と平
に題簽貼りされている。装幀は串田孫一。
いずれも創文社から発行され、大洞正典によって造られた。
大洞正典と結城信一は、第二早稲田高等学院の学生時代からの友人である。
戦後、大洞氏が或る文藝誌で結城信一の名前と作品を識って駭き、その嬉しさを伝えたのをきっかけにし
て、結城氏との旧交はあたためられ、途切れることなく続いて頻繁になった。その交友は、結城信一が亡くなるまでの五十年余に及ぶ。
これら四册の本で、題字の木版、装幀、カット等をされた畦地梅太郎、串田孫一、大谷一良の諸氏は、「ア
ルプ」(創文社発行)に携わっていた人たちである。
山の文藝誌「アルプ」は、串田氏の編輯により昭和三十三年(一九五八)三月に創刊され、昭和五十八年
(一九八三)二月に三百号を発行して終刊された。この「アルプ」に、寡作な結城信一は、大洞氏の要望にこたえて十七篇の小品と一篇の詩を発表している。神
秘な山や高原を舞台にして、遠いむかしの日の歌を物語る結城信一独特の美しい小品で、私には、次のような戦慄的な声が聴こえてくる。
《……「彼は劇場にも映画にも行かない。人と、からだがすれあふことに、耐へられないからだ」……》
「アルプ」に発表された結城信一の浄書原稿は、大洞氏がすべてを大切に保管されていて、現在、日本近代
文学館の「結城信一コレクション」に寄贈されて在る。
私は、結城信一のこれら四册の本をながめながら、「アルプ」を母胎に誕生した山の画文集や詩集、随想集
等の本も想起した。そこからは、本造りの名人であると同時に優れた編輯者としての大洞正典の姿が浮び上ってくる。
本文の版面指定から刷り位置、造本・装幀に至るまで、余白を活かし、すっきりして無駄がない。文字だけ
による、大洞氏のこまやかな心配りが隅々にまで行き届いていて、落着いた、古風な静寂をかもしだしている。さらには、充分に吟味された材質や木版の題字、
継ぎ表紙、題簽貼り等の肌触りから、沁々とした、やさしい温かさも感じられるのである。それは、学生時代からの結城信一を識り、結城文学を愛して歇まない
大洞正典ならではの繊細さと篤い友情によるものであろう。
私は大洞氏の本造りに魅了される。
*
『青い水』から、『夜の鐘』、創文社の本と簡単に見てきたが、結城信一の本にふさ
わしい造本・装幀で、あらためて私は師友に恵まれた結城氏であったと思う。
結城信一の人柄もあろう。作品から匂い立つ魅力的な香気にも拠ったであろう。
私にはここで、おのずから、結城信一の造った『文化祭』が浮ぶ。
『文化祭』は、昭和五十二年(一九七七)三月三十日に印行され、単行本未収録作品のなかから八つの短篇
小説が自選され収められている。六年ぶりの近作自選短篇集で、制作は《精興社企画制作部》と奥附にある。
この本の装幀を結城信一は『夜の鐘』とおなじように駒井哲郎にしてもらいたかった。が、昭和五十一年
(一九七六)十一月二十日、駒井哲郎の死去により、その望みは絶たれ、『文化祭』は駒井哲郎へ捧げる本になった。
本扉には岡鹿之助の絵が二色刷りされ、次の扉には駒井哲郎の絵がある。目次面にも岡鹿之助の絵があり、
これらの絵はいずれも再度の使用であった。
精興社明朝といわれる女性的な、やや細身の特徴のある字面が10ポという大きな活字でゆったりと組版さ
れた本文は読みやすく、天地に余白を多くとった刷り位置で印刷が叮嚀になされているため、よけいに映えて美しい。『文化祭』は活版の原版刷で、気品のある
精緻なできばえの作品集になっている。私の胸底で、ふと、『文化祭』と『青い水』とが重なりあう。結城信一は『文化祭』を造ろうと企図したとき、岡鹿之助
が造本設計まで行った二十二年前の出発の書『青い水』を念頭に置いていたのではなかったか。『夜の鐘』刊行後、短篇集を編む機会に恵まれなかった結城信一
が、死の予感のなかで印行した『文化祭』一巻は、六十代への新たな出発の書であるとともに、《滅びの支度》でもあったから。
残された歳月があと七年しかないことを、むろん結城信一は知らない。
しかし『文化祭』のなかに、私は今までにない、結城信一の意表をつく言葉を聴いて、眼を瞠った。次の一
行である。
《……「仲間と一緒になつてゐればいいが、一本立ちでゐては、辛いことです。……樹木とおなじです
よ」……》
――「サンパン」第七号(一九九九年一月)初出――
(筆者は、文学研究者 日本ペンクラ
ブ会員 湖の本の読者。0.11.14寄稿。誠実な探求と平意の名文で知られた文学者で、ことに結城信一研究では追随を許さぬ成果を挙げておられます。)
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