結城信一の肖像    矢部  登
 
 

   1  《すぐれた美術品》のような小説

 結城信一が昭和二十三年(一九四八)十月号の「群像」新人創作特集に「秋祭」 (『青い水』所収)を発表して文壇に登場したのは三十二歳のときである。そのときの新人に選ばれた五人のうち、最後まで小説を書きつづけてきたのは、結城 信一ただ一人であった。
 この「秋祭」発表ののち、結城信一は昭和二十四年(一九四九)七月号の「早稲田文學」新鋭作家集に「二 月の風」を、昭和二十七年(一九五二)六月号の「オール讀物」清純小説五人集に「紅い木蓮」(「木蓮」と改題されて『鎭魂曲』所収)を、同年十一月号の 「文學界」新人創作特輯に「薔薇の中」等を発表しているのが注目される。
 昭和二十五年(一九五○)度版の『文藝年鑑』から結城信一の名前は登載され、作家生活に入ってゆくのだ が、そのおのおのの創作特集等に選ばれた当時の新人を掲げると、次のようになる。
 「群像」新人創作特集(北川晃二、梅田晴夫、小林達夫、椿實)
 「早稲田文學」新鋭作家集(浜野健三郎、荒木太郎、林弘、小田仁二郎)
 「オール讀物」清純小説五人集(芹沢光治良、小山清、戸石泰一、井上靖)
 「文學界」新人創作特輯(安岡章太郎、伊藤桂一、三條薫、澤野久雄)
 さらには、昭和三十一年(一九五六)二月号の「文學界」現代新鋭特集に「炎晝」を発表している。結城信 一のほかには、安岡章太郎、福永武彦、近藤啓太郎、三浦朱門がいた。
 ところで、結城信一は、いきなり原稿用紙に書かない。
 まず、静かに墨を摺る。部屋のなかには墨の甘い芳香が漂いはじめ、そのなかで、細筆で半紙に下書をして 作品の草稿をつくる。草稿をもとに、さらに推敲を重ね、結城信一はそこではじめて原稿用紙に浄書する。たとえ四百字一枚の短文であっても例外ではない。描 く対象にふさわしい一つの言葉が定着するまで辛抱強く考えぬき、時間をかけて丹念に見つめつづける。《自分の生き方にふさはしい文章》の表現を求めて苦悩 しながら、結城信一は正字旧かなづかいによる作品を彫心鏤骨してきた。一行一行遺書をしたためるようにして。
 一篇の小説作品を仕上げるのに数年の歳月をかけたものも少なくなかったのである。
 寡作ではあったが、確実な作品をこつこつと書きつづけてきた結城信一は、大層律儀で、また大層頑固な人 ではなかったか。
 昭和五十九年(一九八四)十月二十六日、午前六時五十分、六十八歳で死去するまでの三十六年間にまとめ られた作品集は、病弱で孤独な日々のなかでの、その時々の結城信一の遺稿集とも看做すことができる。これら作品群の精緻で丹誠な文章は光り、《表面的な叙 情ではなくてなにか肉感的とさえいえるものを持っているので、ちょうどすぐれた美術品を見るような気持でなん度でも読むことが出来る》と書いたのは駒井哲 郎であった。
 結城信一の生き方が結城文学を支え、研きあげられた、《すぐれた美術品》のように鈍く光らせてきたので あったから。
 

   2  《私の少女》との邂逅と教員生活

 大正五年(一九一六)三月六日、結城信一は東京市下谷区中根岸町(現在、台東区根 岸)に生れた。戸籍面は、東京府南葛飾郡亀戸町(現在、墨田区亀戸)にて出生、とある。
 二歳のときに小児麻痺に罹り、左脚跛行となる。この罹病、および附随する体験のあらましを結城信一は 『螢草』(創文社・昭和三十三年十二月二十五日)一巻に書き込んでいる。
 昭和三年(一九二八)、日本大学中学校(現在、日大一高)へ進学した結城信一は阿部知二に英語を教わ り、昭和九年(一九三四)、第二早稲田高等学院文科へ入学してからは會津八一に英語を、国文学を岩本素白に教わった。この夏、日本橋区箱崎町(現在、中央 区箱崎)に父幸作が独力で興した結城回漕店(現在、結城運輸倉庫株式会社)の仕事を手伝いながらの学生生活であったため、健康を一層大きく損なう。かたわ ら、「學友會雑誌34」(昭和九年十二月二十日)に短歌二首「夏から秋へ(抄)」を発表。翌年、ガリ版刷りの詩文集『時計臺』(昭和十年九月十六日)と 『雰圍氣』(同年十一月一日)を作製し、同人雑誌「柵の会」に誘われて参加する。
 過労状態がつづくなか、早稲田大学英文科へ進んだ昭和十一年(一九三六)、二・二六事件が起きた年であ るが、結城信一は兵役免除となり、夏、胸部疾患により千葉市登戸町の海辺の住居に転地療養する。
 このとき、一人の少女と出会う。後年、結城信一は《私の初恋だつた》と誌している。
 昭和十四年(一九三九)春、二十三歳で英文科を卒業した結城信一は、大学院に在籍して日夏耿之介の教え を受けた。東京に就職先はなく、結城信一は栃木県宇都宮へ都落ちし、宇都宮実業学校(現在、宇都宮学園高等学校。当時の場所には宇都宮女子商業高等学校が ある。)で昭和十五年(一九四○)四月より七月まで英語教師として過ごした。昼間部の授業のほかに週二日の夜学も勤めたのである。健康を得るために静かな 田園生活を希求して敢えて都落ちした結城信一ではあったが、逆に病を得て帰京する。東京から通勤可能な中学校の教師になりたい希望は叶えられず、結局結城 信一はふたたび都落ちし、昭和十六年(一九四一)六月より十二月まで千葉県夷隅郡大多喜町の大多喜中学校(現在、県立大多喜高等学校)で教員生活をして過 ごした。十二月八日、太平洋戦争開戦の日に結城信一は大多喜から帰京し、そののち、東京で短期間ながら本郷中学校(現在、本郷高等学校)、東調布高等女学 校(戦後廃校)の教師を経て、昭和十九年(一九四四)九月より外務省の外郭団体である国際学友会日本語学校の講師(のちに教授)となる。結城信一が日本語 を教えていたのは昭和十九年六月に来日した第二次南方特別留学生である。
 昭和二十年(一九四五)十二月十五日、日本語学校閉鎖により退職するが、その間の八月十五日に終戦とな り、結城信一はふたたび命を与えられたような歓喜におののいた。
 結城信一は二十代後半におけるこれら教員生活の体験を作品のなかに書き誌している。
 宇都宮の実業学校でのことは「柿ノ木坂」(「群像」昭和三十年十月号。『螢草』所収)と「炎晝」(「文 學界」昭和三十一年二月号。『鶴の書』所収)、「幻日抄」(「青春と読書」昭和五十三年六月第五四号)等に、大多喜中学校でのことは「落落の章」(「早稲 田文学」昭和二十八年五月号。『螢草』所収)に、日本語学校でのことは「流離」(「象徴」昭和二十一年十月創刊号。『青い水』所収)と「インドネシアの 空」(「群像」昭和三十三年十一月号。『鎭魂曲』所収)等に。
 

   3 戦 後の出発と『螢草』

 戦後に至って、昭和二十一年(一九四六)一月より五月まで、結城信一は雑誌「ロゴ ス」を千葉眞幸と編輯し、創刊号(五月)に「鶯〔鶯・冬夜抄〕」を発表。第二号(六月)まで編輯する。
 つづいて八月より翌年八月まで、恩師會津八一の揮毫を表紙に刷込んだ高雅な学藝季刊誌「象徴」を松島榮 一と編輯し、秋季創刊号(十月)に「流離」を発表する。第三号まで編輯し、この「象徴」創刊にあたって、夏には本文カットをお願いに岡鹿之助を訪れ、意気 投合する。以後、結城信一は岡鹿之助を《心の師》として親炙し、その敬慕は終生変ることがなかった。
 昭和二十二年(一九四七)六月の「象徴」第三号に「復興祭」、同年同月発行の「小説研究」第一季に「短 篇二章〔ある黄昏・夢の跡〕」を発表して「群像」の創作合評にとりあげられ、結城信一が「群像」の新人創作特集に三十枚の短篇小説「秋祭」を発表して文壇 に登場したのは、冒頭で誌したように昭和二十三年(一九四八)十月、三十二歳のときであった。
 「復興祭」はのちに、英文科で教えを受けた谷崎精二の還暦を祝って編まれた早稲田作家集『時代の花束』 (東方社・昭和二十六年七月一日)に収録された。
 昭和二十五年(一九五○)秋から昭和二十七年(一九五二)秋までの三年間、結城信一は『螢草』一巻にま とめられる「轉身」(「早稲田文學」昭和二十六年十一月号)、「螢草」(「群像」昭和二十六年四月号)、「柿ノ木坂」、「落落の章」とつづく四百枚に近い 連作体の長篇小説に没頭していた。みずからの暗い青春をモデルにした自伝的作品であり、そのなかの標題作「螢草」で作中の二十一歳の大学生である《私》は 十五歳の少女を愛し、その少女は二十歳になった正月に此の世を去る。いこう、少女は結城信一の心奥に《私の少女》となって刻み込まれ生きつづける。そこに は、喪失することによって逆に所有する青春の背理が存在していた。清潔な詩情、美しい抒情と評言される結城文学の根源にはこの《私の少女》がいたのであ る。
 戦争末期の東京大空襲下、昭和二十年(一九四五)一月から六月にかけて短歌百余首をつくる。三月十日未 明の下町空襲の焼跡を見た結城信一は、「もういつ死ぬかも知れぬ」といった悲壮な思いを抱きながら、一巻の遺稿を成さんと藁半紙に小説「絹」を起稿したの であった。
 終戦時、ちょうど書き上げられた草稿が昭和二十五年(一九五○)十月に完成する百五十四枚の中篇小説 「螢草」となった。
 結城信一には後年、《私は「螢草」が世に出たところで、死んでしまつてもよかつた》と誌された一節もあ る。それほどまでの強い思いがこめられた自信作であり、「螢草、螢草……」と胸のなかで繰返し口づさみながら祈っていた当時の結城信一の姿が想起される。
 『螢草』の最終章「落落の章」の下書は、昭和二十七年(一九五二)の夏と秋の二度にわたって、駒井哲郎 の軽井沢別荘で数日の共同生活をしたその秋の季節のなかで脱稿されているのであった。駒井哲郎は《生涯の友》となる。
 「螢草」、「轉身」、「落落の章」の三篇はそれぞれ芥川賞の候補作でもある。
 昭和三十年(一九五五)八月十日、結城信一は最初の記念すべき短篇集『青い水』(緑地社)を岡鹿之助の 装幀により刊行する。そこで、結城信一の三十代は終わろうとする。
 

   4 室 生犀星への共鳴執心と研究

 結城信一には愛の美しさを描いて比類のない短篇小説「冬隣」(「群像」昭和二十五 年六月号。『青い水』所収)や「春」(「群像」昭和二十七年一月号。『青い水』所収)、「交響變奏曲」(増刊「群像」昭和二十八年六月十五日。『青い水』 所収)、「青い水」(「文學界」昭和二十八年十月号。『青い水』所収)、「山吹」(「早稲田文学」昭和三十四年三月号。『鶴の書』所収)等がある。
 そのなかで結城信一が望む愛は、もうこの《地上の愛》の姿ではないのかも知れぬ。
 此の世では結ばれることのない、また報われることも決してない、夢のような男女の哀しい愛の姿なのであ る。
 室生犀星『黒髪の書』(新潮社・昭和三十年二月二十八日)の怖ろしいほどの一行によって戦慄的な感動を 受けた結城信一は、昭和三十三年(一九五八)、犀星に関する研究をはじめる。結城信一、四十二歳のときである。いままで《感受性の作家、官能の作家、市井 鬼物の作家》と思われていた室生犀星が、この一行によって、結城信一の眼前に《いのちの作家》として立ち現われたのである。《そこで眼を洗はれ、室生さん の旧著を徹底的に蒐集し、その世界を探求し、その一ページにまでたどりついた作者の足どりを追つてみよう、と思ひたつた》結城信一は、犀星の初版本蒐集へ の旅に出たのであった。
 そのいっぽう、昭和三十四年(一九五九)九月、會津八一の一文「実践的」を巻頭に登載した《伝記を中心 とする学藝誌》「銅鑼」創刊に参加し、「室生犀星の一時期」(昭和三十四年十月第一号)、「犀星における小説の出発点」(昭和三十五年五月第三号)、「犀 星上京の日」(昭和四十一年九月第一七号)、「室生犀星序説」(昭和五十一年十一月第三一号)等を発表する。結城信一の犀星研究の成果は精緻な「年譜」 (『日本の文学35室生犀星』中央公論社・昭和四十一年十二月五日。ほか)と「書誌」(『室生犀星全集別巻二』新潮社・昭和四十三年一月三十日。ほか)の 作成や二十余篇のエッセイ等に結実している。
 結城信一が《全身を室生犀星の火で焼かれ》たその一行とは、十数年にわたり宿痾と闘いつづけながら、病 臥生活をおくっていた若い有名な文学者に、夫人が顔を寄せてそっと囁くのを犀星が聴いたという、次の言葉である。
 《……そんなにお苦しかつたら、ね、一緒に死んであげませうか……》
 此の世の愛の姿とも思われないが、じっさいは、この《地上の愛》の姿なのである。
 だからこそ、室生犀星はつづけて、《うそでもいいからこんな言葉に出会すために、生きてもゐたのではな かつたか、生きてゐるからこの言葉がふるひ付きたくなる、麗はしさを見せてくるのではなからうか》と誌したのであろう。そんな犀星に《いのちの作家》を見 出した結城信一の胸奥の思いもまた、その夫人の囁きを聴いたときの犀星とおなじ処にあったにちがいない。
 結城信一は《室生犀星の世界》を掘起すために、《好きであればあるだけ、会はぬことの方が、作品に即し ての親しみの節度が保てる》として、犀星に会うことを避けてきた。これは、結城信一の犀星へ寄せる共鳴執心が並大抵ではなかったことを明確に現わしてもい る。十三年もの歳月をかけて蒐集した犀星の二十冊を超える詩集と二百冊以上の初版美本は、現在、「結城信一コレクション」として日本近代文学館に寄贈され て在る。
 

   5  「鎭魂曲」発表の前後と『夜の鐘』

 結城信一にとって「鎭魂曲」(「近代文学」昭和三十九年一月号。『鎭魂曲』所収) を発表した前後九年間は極めて重要な意味を持つ。
 「通遼日記」(「群像」昭和三十五年八月号)から「山の池」(「群像」昭和昭和四十四年三月号。『夜の 鐘』所収)発表に至る結城信一の四十代半ばから五十代半ばにあたる。
 この間、作品発表は「鎭魂曲」、「湖畔」(「風景」昭和四十年十二月号。『鎭魂曲』所収)の二篇と極端 に少ないが、『鶴の書』(創文社・昭和三十六年三月二十五日)、『鎭魂曲』(創文社・昭和四十二年一月十五日)の二冊の短篇集とシュトルムの翻訳『みずう み・三色菫』(少女世界文学全集18・偕成社・昭和三十七年五月十五日)が刊行されている。三度にわたる胃潰瘍と環状七号線による騒音や振動、排気ガス等 に苦しめ抜かれた一時期である。同時に長いスランプの歳月でもあった。
 そのなかで、みずからを《すでに死者の仲間に入つてしまつてゐる》と考える結城信一は、《私の少女》へ の愛の乾きと死の主題の変奏を繰返す。結城信一はふたたび《私の少女》のもとへ回帰するのである。戦争末期、一巻の遺稿を成さんと小説を起稿した十九年前 のときとおなじように。二度目の胃潰瘍による二回もの大量吐血後の、明日死ぬかも知れぬといった恐怖と不安の日々のなかで、命を刻むようにして書き綴られ た作品が「鎭魂曲」であった。
 この時期、結城信一には「鎭魂曲」を誌す以外、《私の少女》へ寄せる、もうどのような強い愛の表現が あったであろう。
 哀しみの深さは、実にこの一作に極まっている。
 結城信一が昭和三十五年(一九六○)夏からの長いスランプを抜けだし、ようやく創作の筆力が甦るのは、 三度目の胃潰瘍による手術後の第一作である「湖畔」を経て、昭和四十三年(一九六八)秋、小品集『夜明けのランプ』(創文社・同年八月五日)刊行の年で あった。
 この九年間にわたる苦しい一時期を経ることによって、結城信一は図らずも、駒井哲郎の装幀になる短篇集 『夜の鐘』(講談社・昭和四十六年三月八日)に結実する鬼気人に迫る作品群を遺し得たのである。初期の甘い感傷性はだいぶ薄れ、文体にも微妙な変化が生じ ている。奥行に一層の深さが加わり、緊張感が増している。そこには澄んだ死への深化と危うい狂気の迸りさえ強く感じられる。結城信一の積年の苦悩と悲哀か ら生れた遺書とも読める、一字一句、ゆるがせにすることなく丹念に書き込まれている「ボナールの庭」(「群像」昭和四十四年十月号)やみずからの命の欠片 を深く鏤めて綴られた「夜の鐘」(「群像」昭和四十五年三月号)、「落葉亭」(「群像」昭和四十五年九月号)、「山の池」、「バルトークの夜」(「風景」 昭和四十四年四月号)等九篇が収録されている。
 『夜の鐘』一巻からは、「もういつ死んでもいい」という、結城信一の悲痛な声が聴こえてくるのである。
 愛する《私の少女》を失い、鬱鬱として絶望的な戦後の時代を結城信一が発狂もせずに自殺もしないで生き てきたのは、やはり文学への夢と情熱があったからにほかならぬ。
 結城信一が座右の銘としていたのは、ピエール・ボナールの次の言葉である。
 《辛抱強くあらねばならない
 待つことをおぼえなくてはならない
 潮どきに感動がわきおこつてくる》
 

   6  『文化祭』の印行と《滅びの支度》

 結城信一は『夜の鐘』刊行後、長い間、作品集を編む機会に恵まれなかった。
 もっとも、小品集『萩すすき』(青娥書房・昭和五十一年十月十五日)の刊行はある。
 『萩すすき』は第五回平林たい子文学賞の候補作であったが、小品文集という理由で見送られた。
 結城信一は『夜の鐘』刊行から七年後の昭和五十二年(一九七七)三月三十日、岡鹿之助と駒井哲郎の絵で 装われた、正字旧かなづかいによる『文化祭』近作自選短篇集を私家版で印行する。この『文化祭』は、前年十一月二十日、駒井哲郎死去(五十六歳)による追 悼の意味をこめた一巻でもあった。私家版印行の二ケ月後、青娥書房から市販本として『文化祭』自選短篇集も刊行されている。
 標題作である「文化祭」(「群像」昭和四十九年十月号)の原型は二十八年前の終戦の年の秋に書かれた結 城信一の出発作「鶯」まで遡及する。三十枚の短篇小説「鶯」は発表してから十二年後、「冬夜抄」の一部分を織り込み改稿されて四十枚の「雪のあと」(季刊 「現代文学」昭和三十三年四月第一号)になり、さらに十六年後、「文化祭」となってみごとに蘇生する。「鶯」の最上老人が教室でその存在に気附いていら い、あえかな愛情を抱きつづけ、養女にまでもと思った村瀬葉子、「雪のあと」の磯貝直子、「文化祭」の磯貝邦子は、《誰の手によつても奪はれたくはなかつ た》という結城信一の心奥に鏤刻された《私の少女》を念頭に置いて描かれたものにほかならぬ。「文化祭」は《処女の純潔に対する憧れの書》であり、末尾の 《……此処のところで、終つたな……》という呟きには、如何にしても心を通わすことのできない作者の深い哀しみが漂っている。
 老人と少女との二人の魂の微妙な交感が美しい旋律を奏でているのだが、そこには結城信一の孤独な命の炎 が青白く燃焼しているかのようである。
 ここで想起されるのは、結城信一が室生犀星の王朝物の短篇小説「津の國人」について誌した「解説」 (『かげろふの日記遺文・津の國人』角川文庫・昭和四十二年九月三十日)の一節である。
 《……室生さんは「官能の作家」であつたが、同時に、あるひはそれ以上に「いのちの作家」であつたの だ。……〔略〕……あなたは健やかに生きておいでなのでせうか、ひよつとすると今はもうこの世のひとでないのではないか、わたくしのこの思ひ、この声、そ して、いのちよ、嘆きよ、飛び立つてあなたのもとにわが悲しみを知らせてくれ、と心の中で悶々と叫びつづける筒井の、そのいのちのあはれを作者は描きあげ たのである。……》
 この筒井の思いとして綴られている一字一句の言葉は、そのまま結城信一の胸奥の思いでもあったのではな いか。筒井の《いのちのあはれ》をみごとに描きあげた犀星に託して、結城信一はみずからの胸の内の真情を吐露したのではなかっただろうか。
 おそらくこの行文の奥には、結城信一の《私の少女》を失った心奥の叫びが切実にこめられ、秘められてい たにちがいない。すなわち、結城信一が繰返し《私の少女》への憧憬と死を主題とする変奏を綿々と書き綴ってきた母胎は、昭和十六年(一九四一)暮に十八枚 の処女作「冬夜抄」を書いたとき、あるいはさらに遡って昭和十一年(一九三六)八月下旬に千葉の登戸海岸で《私の少女》との運命的な、またと在ろうかと思 われるような邂逅をしたそのとき既に胚胎し、将来紡がねばならぬ鎭魂曲の企図の中央に立っていたのである。
 結城信一こそ、まさしく、《いのちの作家》であったのだ。
 結城信一は『文化祭』近作自選短篇集印行の年、『恩地孝四郎詩集』(六興出版・昭和五十二年十一月二十 八日)を編輯して「解題」「略歴」等をまとめている。
 昭和五十三年(一九七八)四月二十八日、岡鹿之助が長逝(七十九歳)する。
 私家版『文化祭』は結城信一の六十代への新たな文学的出発の一巻となり、同時にそれは、死へ向っての 《滅びの支度》でもあった。
 

   7  『空の細道』と日本文学大賞受賞

 昭和五十五年(一九八○)五月、結城信一は『空の細道』(河出書房新社・同年二月 二十五日)で新潮社の第十二回日本文学大賞を受賞する。六十四歳になっていた。
 前年には唯一のエッセイ集『作家のいろいろ』(六興出版・昭和五十四年七月二十五日)が刊行されてい る。
 二十八枚の短篇小説「空の細道」(「文藝」昭和五十三年五月号)は夢うつつのなかで老人の少女へ寄せ る、しかも三十年前に死んだ少女へのこまやかな交情を通して、小鳥たちに化身した十八歳の少女たちに呼ばれて死の世界へ入ってゆく、老年の死に対する恐怖 と寂寥を肌理こまかい透明な文章で結晶させている。《空の細道》とは作中の山形老人が夕暮の空の一角に見る、死者の化身である小鳥たちが束の間飛翔する幻 の細道であり、それはまた死の世界へつながる細道と重なりあって余韻が残る。ひそかに遺稿として書き上げられた、哀切極まりない短篇小説で、かつての「落 葉亭」をなお一層研ぎ澄ましたような、妖しい、凄みのある、死の気配が行間から滲みでてくるみごとな作品である。
 「空の細道」は当初、第六回川端康成文学賞の候補作であった。
 《昔から結城氏を知っている私としては、リリシズムは氏の出発時からの特徴で、以前は空中にただよいが ちだつたそのリリシズムがいまでは肉付きの面のように物自体に貼りつき、この作品ではさらに煮つまって物そのものになってきた》、と「選評」で書いたのは 吉行淳之介である。
 結城信一が吉行淳之介と相識ったのは、昭和二十八年(一九五三)二月十二日、「文學界」編輯部肝入りの 新人の定期的会合「一二会」においてであった。吉行淳之介には追悼文「日暮里本行寺」(「新潮」昭和六十年一月号。『犬が育てた猫』『懐かしい人たち』所 収)がある。
 結城信一は二十五歳のときに書いた処女作「冬夜抄」いこう、「鎭魂曲」、「文化祭」、「空の細道」等を 経て、六十八歳の死去する年に発表された「過客」(「海燕」昭和五十九年三月号)に至る四十四年間にわたって繰返し《私の少女》へ寄せる愛と憧憬を描きつ づけてきた。自画像を丹念に書きつづけてきた以上に《私の少女》に心底ふかく打込んでいた。
 《私の少女》のもとへ立ち戻ることで、結城信一はなにを反芻し、なにを求めようとしたのであったのか。 結城信一の心奥にはつねに《私の少女》が甦り、またときに《私の少女》へと回帰する。あたかも運命的な機能をもって迫ってくるかのように。結城信一が《私 の少女》へ寄せる、このことは、此の世での愛の思いの深さによるものであったのかも知れぬ。
 

   8 結 城信一の死と未完の長篇『百本の茨』

 『空の細道』刊行後、結城信一は《第二の青春の書》を織りなしてゆく。
 心を寄せていたルドンが晩年の六十代に若々しい色彩の秀作を描いて変貌したように。
 結城信一もまた、亡會津八一、岡鹿之助、駒井哲郎へ手向けられた典雅な鎭魂曲を書き継いでゆくのであ る。
 『石榴抄』(新潮社・昭和五十六年七月十五日)所収の「炎のほとり」(「新潮」昭和五十五年七月号)と 「炎のなごり」(「新潮」同年十月号)で亡友毛利の悲恋を物語るとともに、標題作では會津八一と高橋きい子との《結縁》を描いている。毛利のモデルは、結 城信一の第二早稲田高等学院時代からの友人で、雑誌「ロゴス」創刊に参画しながら、昭和二十一年(一九四六)三月に急逝した千葉眞幸である。文科専攻の結 城信一とは違い、千葉眞幸は史学科専攻であった。
 『不吉な港』(「新潮」昭和五十八年五月号。新潮社・同年十月十日)は、戦後の青春を共有した亡友《銅 版画の詩人》への鎭魂曲であり、《多年の心の師》岡鹿之助の霊前に捧げられている。
 寡作を通して《わがひとり居る》細道をあるいてきた結城信一が死の予感のなかで六十代最後の仕事とした のは、『百本の茨』という自伝的連作小説の完結であった。
 『百本の茨』とは「有明月」(昭和五十九年五月号)と「暁紅」(同年八月号)の二篇のみが「新潮」に発 表されただけで、結城信一の死去により惜しくも中断し、未完に終わった自伝的連作小説の標題である。「有明月」には昭和三十六年(一九六一)六月の二回も の大量吐血したことが中心に書き込まれている。つづく「暁紅」では、三年後の昭和三十九年(一九六四)十月に再発した胃潰瘍の五時間にも及ぶ手術体験が精 細に書かれ、当時の「覚書」も織り込まれていて、結城信一の日常生活の興味ふかい断片を垣間見ることができる。さらには、かつて二十歳までのことを綴った 「轉身」の主要な部分が再度描かれてもいる。
 昭和三十年代における、結城信一四十代の苦難の一時期であった。
 この『百本の茨』という標題には六十八年間に及ぶ結城信一の人生を象徴する魂の傷みがこめられている。
 結城信一が『百本の茨』に至って、『石榴抄』と『不吉な港』のなかで戦中戦後の暗い青春を鮮やかに彫琢 したいこうの、病みがちで孤独な作者自身の肖像を鏤刻すべき連作小説に取りかかったのは明らかである。未完の長篇に終わった『百本の茨』は、結城信一がみ ずからの命を賭し、最後の精魂を傾けた仕事であったが、いっぽうでは《絵を描きながら、死にたいと願ひます》、そんなセザンヌの言葉を呟いている結城信一 の静かな声も聴こえてくる。その言葉どおりの細道をあるいて、純粋な詩魂を生涯持ちつづ純粋な詩魂を生涯持ちつづけた希有な小説家結城信一は、《私の少 女》との美しい思い出を胸奥に抱いて滅びたのである。
 そのときちょうど、岡鹿之助歿後初の大規模な回顧展(ブリヂストン美術館)が開催中であった。昭和二十 一年(一九四六)夏から三十八年間に及ぶ岡鹿之助への敬慕の念が、結城信一を亡師の回顧展のさなかに、そっと此の世から立去ってゆかせることを可能にした のである。

    ──「結城信一の世界」第一号(一九九五年十一月二十日)──
 
 

(筆者は、文学研究者。殊に結城信一研究では深い敬愛に基づいた追随をゆるない精緻な探求と紹介で知られて いる。さきの「結城信一の本」とならび、好個の論究を素心平意の達文で愛読願いたい。日本ペンクラブ会員に推した。久しい湖の本の読者である。)


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