「e-文藝館=湖(umi)」 詞華集

たなか そうすけ 詩人 1936.2.23  兵庫県神戸市に生まれる。 掲載作は、作者古稀を自祝の自選、普遍と個別のみごとな融和の底をしみじみ懐かしい詩の言葉のダンスが見て取れる。田中荘介詩 集『少年の日々』平成十八年(2006)三月二十三日編集工房ノア刊の全編である。 (秦 恒平)




     少年の日々


    田中 荘介



ありがとう


春浅い山陰の四月
江(ごう)川のほとり
友なく家亡(な)く
ひとり土手にすわって
きらきら光る
川面を眺めていた

制服の兵士あらわれ
ボートにのせてくれるという
誘われるまま
無言で兵士と
川面に浮かんだ

何か言わなくてはと
子供ごころに思ったけれど
考えごとしている兵士の表情に
何も言い出せなかった



しあわせ


永いいくさ終わって
疎開先の上郡(かみごおり)駅
待合室で
父が着くのを待っていた
九歳のやせた少年わたし

町はずれの仮住まいの家から
歩いてきて
父を待っていた
家は空襲で焼け
友なく本なく
川原の黒牛と
雲のたたずまいだけが
日常だった

日焼けした父の笑顔が
久しぶりのご馳走である
つゆ草の花が咲いていた
父の手にぎって歩いた



いたい


校舎わきのいも畑
毎日いも泥棒が出ると
学校に苦情があった
いも畑のまわりは
竹の柵が幾重にもしてあるのに

ある朝 悲鳴が上がった
竹刀で肉を打つ音
いも泥棒が見つかったらしいと
二階の窓からのぞいた

中学生の男の子が
打たれていた
いつまでもいつまでも
打たれていた
悲鳴は細り
聞こえなくなった



とろける


息が苦しい
夜が長い
撫でてもらう寝巻の
背中に穴があいた
横になれない
うつぶせでも苦しい

谷医院の谷先生の
夜中の往診
細長い紺色の注射器
少しずつ息が戻り
体がとろけるような気分
塩酸エフェドリンの麻薬効果

翌朝は学校に行けない
壁にかけられた
仙人が薬草を摘む
伝鉄斎の絵を眺めていた



たべる


軍隊ではなかったが
早食いがはやっていた
みな五分以内
弁当の量も少なかったのだ
担任は
よく噛んでこぼさぬようにと
隣の席の子は
とくにゆっくり噛んで食べていた

わたしの早食いをとがめて
早死にするぞと
脅かすのだった

先日の新聞の死亡欄に
元小学校長何某の名を見た
(あああの遅食い!)
わたしの早食いは
習、性となって
あらためられないでいる



あそぶ


空地も多かった
赤トンボもヤンマもたくさんいた
ヘッサンという年長の子が
リーダーで
戦争ごっこをして
日が暮れるまで遊んだ
捕虜になったり
戦闘機になったりして
ブタ池と呼ばれる
遠くまで行ったこともある
ドジョウも青大将もいた
青大将をつかんで
ふりまわす子もいた
汗だらけになって
ときには運河に入って泥まみれで
家に帰ってきた



えがく


記憶のなかの空は
いつも灰色
祖父と登った裏山
祖父はステッキで
山土に達磨の絵を描いた
山腹のわずかの空地
もういくさが始まっていたか
まだであったか
港の汽笛が
聞こえたような



しらける


おびえる
おもしろがる
ひきこまれる
ふざけてわらう
耳にふたをする

疎開先の国民学校
教師は児童を
おもしろがらせようと
話をひろげ
こしらえていく

お化けの話
学校の敷地はむかし
処刑場だったと

しらけて聞いている
何人かの顔が見え安堵した
いくさ終ってのちの
夏も終りの日ざしの午後の教室



ねている


ここは白い
カーテンにさえぎられている
校長先生のお話が長くて
倒れた
男の先生に抱かれて
連れてこられた
もう起きて教場へ
帰りたいのに
もう治ったのに
起きられるのに
起きないで
ねている
だれかがこくごの
本を読まされている
風にのって
音楽室から
コーラスも
きこえてくる
起きたいのに
起きられない



はく


江津(ごうつ)に近い
ひなびた温泉宿
温泉津(ゆのつ)という湯治場
日本海の波音

祖父・祖母と泊った
春先の冷たい風
湯に浸ってぬくもる

そのあとの夕食
たまごの料理が混っていた
アレルギーということばも
知られていなかったころ
食べたものを もどした
夜中までもどしつづけた
ぐったりとして 苦しい夜を
祖父・祖母とともに
過ごした



ゆれる


少女は
廊下の窓の敷居の
上にのっかって
ひざをくんで
スカートがすこし
めくれあがって
白い下着が
わずかに
見えて
こっちを見ていた

教室の中から
見える
少女の表情は
逆光のため
さだかでなかった
背景の
桜の木の枝が
かすかに
ゆれていた



みせる


復員兵の
美術の教師は
とめどなく
戦場の体験を語った
話では
いたいもつらいも
遠い出来事だった
生徒たちも
空襲体験では
ころがる死体を
見ていた

美術の教師は
また
西洋の名画だと
いくまいもの
はだかのおんなの
絵を
紙芝居のように
かかげて見せた



きこえる


耳の底に
残っている
ラジオの実況放送で
復員兵たちを
乗せた船が
舞鶴港に着いたと
(テレビのなかった時代)

シベリアの抑留から
帰国した人たちが
いたのだろうか
かぜで学校を休んで
聴いていた

アナウンスのむこうに
人のざわめきが
聞こえていた



にっぽん


いくさに
熱狂しているなか
冷めている人もいた
終戦の日のことは
おぼえていないが
疎開先にいて
土地の年寄りが
淡々と
いくさの終ったことを
少年のわたしに
告げた

こうなることを
予期していた人の
おどろきのない
表情だった
この村の人は
そういう人が多かった
大本営発表など
まるきり
信じていなかった
流言蜚語も
ここにはなかった



なげとばす


進駐軍米兵に
襲われ
金を無心され
後ろから羽交いじめされ

父は
柔道の手で
投げとばし
逃げたと
聞いた

まだ米軍憎しの
思い残っているころ

物量で戦争に
敗けた国に
来ていた
貧乏な米兵も
いたのだ



うちまた


女の子に
内またの歩き方だと
とがめられた
おどろいた(思っていなかったので)
以後歩き方が
気になった

その子は
わたしのことを
どう思っていたのか
いつもわたしの
歩き方を見ていたか
男らしくないと
とがめただけなのか
男の子のような
気性の子だった
とだけおぼえている



はしれた


自転車にやっと
乗れるようになったとき
ゆるい坂道を
くだっていたとき
いきなり
がき大将のS君が
荷台に乗ってきた

ハンドルは
大ゆれにゆれたが
たおれずに走れた
S君のこと
きらいな子ではなかった
だから このまま
走りつづけていられたら
いいと思った
どこまででも



そふ


空襲で
わが家が焼けているとき
祖父は火の中に
とびこもうとしていたと
祖母から何度か
きいた

戦争のあと
祖父は過労で
いくどか倒れ
吐血した

わたしのために
バラックの母屋の横に
一帖ほどの
勉強部屋を
建て増してくれた



そぼ


早く目がさめると
離れのへやの
祖母の
寝ている布団に
もぐりこんだ

祖母がしてくれた
むかし話は
起伏にとみ
ひきこまれた

くり返し聞く
石童丸の話は
父に会いにいくところで
いつも泣いた

ときには
やわらかくぬくい
おちちに
さわった



ちち


空気銃持って
裏山へ
父とすずめ撃ちに
行った

鉛の弾は
はたしてすずめを
撃ち落とせるか
すずめが落ちたのを
見たことが
なかった

父は片目つむって
しずかにすずめをねらった
ぱしと音がしたが
すずめは落ちなかった
父は弾をつめかえた






観音様がお迎えにくると
祖父は
私の手をにぎって
はなさなかった
祖母のときは
死に目にあえなかった
まだ頬がぬくかった
十年ねたきりで
死の三日前
死ぬわとひとこと
父は
救急病院の廊下で
ねたまま私の手にぎって
はなさなかったが
にぎった手の力が
しだいにゆるんでいった



ふうけい


雲は低くたれこめ
少年の心は
鬱屈し
病んで熱っぽく
野良猫のように
人を怖れて遠ざかり
ああ独り居ることの
時はゆるやかに歩み
干戈のざわめきすら
頭上をすべりいき
草は風にそよぎ
鳥はねぐらですくみ
とこしえにむかい
黒い水は流れゆく



  あとがき
      田中 荘介


 わが少年時代を振り返ると、次々に記憶が立ち上ってくる。些細な事柄のディテールを憶えていて、些細であるけれど、それが記憶に刷り込ま れたとき、一人の人間にとって、それは些細ではなくなる。苦しい時代だったが、子どもは子どもゆえにいくらか苦しさを感じないでいられた。しかし、今思え ば苦しかったのかも知れない。おとなはもっともっと苦しかっただろう。けれど、いつの時代も生とは苦しいものだ。
 親戚のある人が、わたしのことを「ぼん(坊っちゃん)は苦労知らずやから──」と言った言葉が耳の底に残っている。そのころ、祖父も父も健在で、家の商 売は景気がよかった。それを羨んでの言葉だと、子ども心にも感じられた。戦争は何もかもひっくりかえした。わたしは自分のことを苦労人ともそうでないとも 思わないが、弱虫だった子どものころを思い出す。わたしが弱虫から少しでもぬけ出せたのは、その後の環境のせいもあるが、それは、わたしが本好きで、本の 中から人の心や世の中を読みとることができるようになったからだ。本の世界をとおしてわたしは、世の中も他人も恐れるに足らずと自信がもてるようになつ た。自信過剰なくらいになった。要するに、青年期は生意気になった。人間は変わるものだと思う。むろん、弱気な部分を抱えもってのことであるが。弱気な反 面、喧嘩して人に傷を負わせたこともある。
 体は弱く、よく病気して寝込んだ。これも三十代から健康になり、普通の人並みになった。人は変わるものである。
 古稀を迎えるにあたり、わたしの二冊目の詩集を編んでみた。どこにも発表せず二か月ばかりの期間に、書きためたものである。詩作の過程で、堀辰雄の「幼 年時代」が頭の片隅にあった。
 この一冊を今は亡き祖父・祖母・父に思いを込めて捧げたい。そしてまた、わが孫たち(裕子、敦子、愛子)に祖父として語り伝えるものとしたい。
   二○○五年十一月