今、あえてフランキー堺を偲ぶ
田名部 昭
ここ数年、一月も半ばになると必然的に亡き名優フランキー堺の顔が思い浮かんでくる。というのも、その頃になれば必ず、平成七年一月十七日に勃発した阪神大震災関連の話題がマスコミに取り上げられるからである。
フランキー堺と大震災に直接の関係があるわけではない。私的な話なのだが、大地震の一報を聞いたちょうどその日、私はフランキー堺と会っていたのである。被災した方々にはいささか心苦しいが、その日から、大震災とフランキー堺は対になって私の記憶にインプットされてしまったというわけだ。
いうまでもなく、フランキー堺は喜劇のスターだった。昭和二十年生まれの私の世代は、子どもの頃のラジオと映画によって「笑い」のセンスを育てられた。子ども心に志ん生、三木助、文楽の話芸の深奥を垣間見、一方で全盛時代の喜劇映画に笑い転げたのである。
スターといわれる多くの喜劇俳優ないしは喜劇役者が当時輩出し、フランキー堺はそんなスターの一人であり、あの「寅次郎」こと渥美清も、また然り。だからフランキー堺に生で接するということは、もう五十男だった私に、期待と緊張のある種複雑な心境を強いたのだと、今にして思う。
思い出深いそのインタビュー記事(「プレジデント」1995年3月号)を、ここに、まずは再録することをお許し願いたい。
異能のマルチ俳優 構想30年『写楽』に挑む
フランキー堺
俳優生活四〇年以上に及ぶフランキー堺が、自らの企画総指揮により、映画『写楽』を完成させた。俳優以外の広い分野に活動の場を持つこの人が、初めて手がけたプロデューサーの仕事である。莫大な私財を投じてまで『写楽』に執念を燃やした俳優の真の思いは何なのだろうか。
上目黒の閑静な住まいを訪ねると、俳優は初対面の私を例の特徴ある笑顔で迎え、気さくに招じ入れてくれた。
『写楽』は俳優が三〇年来温めてきた企画である。今から二〇〇年前の寛政年間、彗星のごとく現れ消えていった謎の浮世絵師・東洲斎写楽。活動期問わずか一〇カ月、世に知られる作品も一五〇枚前後、当時の浮世絵師としては極端に少ない。にもかかわらず、その魅力は今も人々を虜にしてやまない。
──写楽との付き合いは相当古いそうで……。
「あれは昭和三六年の夏でしたが、私の代表作である『幕末太陽傳』の川島雄三監督が撮影所の片隅で私に語りかけてきた。『フラさん、次の作品はね……、写楽です』って、そう言いながら川島さんは二年後に急死してしまった。以来、写楽が私のなかにインプットされたわけです」
四五歳の若さで逝った川島監督の枕元には、青蛙房版の『江戸商売図絵』があった。死の直前まで監督は、写楽の映像化に心を砕いていたのかと、俳優は胸詰まる思いだった。
「もう一人、『飢餓海峡』の巨匠内田吐夢監督の知己を得たのも写楽が縁。昭和四二年に監督のご自宅で、持参のジョニ黒を酌み交わし写楽の映画化を語り合いました。川島さんの死後、たった独りで写楽の研究や資料集めに追われていた私は索漠たる思いが深かった。そんなときだったので、まるで親父に対するように内田監督に語りかけたものです」
だがその内田監督も三年後に亡くなる。形見に渡された小さな羽子板には、監督自らの手になる、写楽を模した役者絵が墨書されていた。
──時がたつにつれ、思いも深まる ?
「そうです。思いが高じて『写楽道行』(文勢春秋刊)なんていう小説も書きましたが、本当にやりたかったのは写楽の映像化。しかもエンタテインメントの映像化です。しかし、それには金もかかるし、多くの才能ある人を集めなきゃならない。これまで四度も頓挫してます。そんなこんなで三〇年」
そんな俳優の意気に感じた多数の出資者やスタッフの賛同を得て、三〇年来の執念はついに実った。この映画で俳優自身は写楽ではなく、版元の蔦屋重三郎を演じている。
──登場人物の一人一人に心意気が感じられますね。
「嬉しいね。この映画そのものが皆さんの心意気で完成したようなものです。篠田正浩さんに監督をお願いするとき、私はこう言った。『この作品は川島雄三と内田吐夢へのオマージュでもあります。この作品ができて初めて、私はお二人の墓参りができる。写楽は一つの記号と考えてもらって結構、彼が生きた時代のエネルギーを映像化したいんです。金は私が集めます』。すると篠田さんは『私も金を出します。知りあい(四字に、傍点。女優・岩下志麻)にも出させます』って言ってくれたんです。当たるかどうかもわからない映画づくりに、こんなにも多くの人が集まってくれた。それが本当に嬉しい」
──今年は写楽が作画してちょうど二〇〇年目に当たるそうですが。
「そう、因縁めいてます。それに、写楽が生きた寛政六年という時期は現在1990年と相似形なんです。バブル崩壊後の締めつけみたいな社会状況でね。そんななかで、停滞した世の中を動かしてやるという心意気、そのシンボルが写楽じゃないかと。すでに固定化し伝統化した美意識に酒落やパロディーで写楽は挑んだと思う。伝統の本流にいる歌麿なんかには新しいものを生む余地はないわけです」
「写楽がやったのは、醜意識の中に美があるかってこと。反社会的、自虐的、一過性というのが写楽の本質です。だから新しい。写楽というのは、固有名詞ではあるけれど、いわば抽象化された時代のエネルギーだと思えばいい。写楽から派生したものを歴史の流れとして受け止めることが大切なんです」
──ご自身は写楽ではなく、蔦重に扮して気持ち良さそうに演じておられる。
「写楽が誰かってことは、どこまで行っても謎のままです。だけど、その無名の写楽を洒落のめし、豪華版にして売り出した蔦屋重三郎の凄みに、私はこのごろ魅せられています。勇気がないとできない。お上に対する反骨精神、権力の怖さを十分承知し、震えながら反骨を貫く心意気。まさに庶民文化のアイデンティティーここにありです。
罰を受けた蔦重が『手鎖(手錠)』を外すシーンがある。この蔦重の台詞『ああ、これで自由にケツが拭けらあ』というのが、いわば私の最大のメッセージでね、主人公の精力的なバイタリティーを表現したつもりです」
──お話を伺って、今なぜ写楽なのか、ということもわかる気がします。
「今はものを創り出す誇り、日本文化への誇りが忘れられてる。戦後ずっと、伝統といえば軍国王義までいっしょくたにする風潮があったでしょう。それは間違いです。それに写楽をメディア論から見れば、現代と共通する文化の土台があるわけです。それで蔦重に代表される江戸の血、エスプリを私は表現し、伝えたかった。江戸人のユーモア、パロディーと遊びの精神は現代人に必要です。その意味でも、この映画は特に若い人たちに見てもらいたい」
静かな口調で『写楽』を語る俳優は、「誇り」を強調した。失われた日本文化への誇り、画面のなかの群像に託した誇り、そしてこの映画を作った人々の誇り、それが基調だと。
もともと俳優の話術には定評がある。テレビのトークショーなどで見る俳優は駄洒落を連発、身ぶり手ぶりに豊かな表情で人々を爆笑の渦に巻き込む。それもそのはず、俳優は、名人と謳われた故桂文楽に直接教えを受け、桂文昇という高座名を許された話術の名手なのである。
しかしこの日、俳優に高ぶった様子はなく、話す内容もきわめて真摯なものであった。それはむしろ、この二七年間ずっと、俳優業と並立させてきた大阪芸術大学の堺正俊教授の顔であったのかもしれない。
(以上、挿入写真の説明)
──今後再び、プロデューサーか監督をおやりになる気持ちはありますか
?
「ありません !」
やはり俳優は、生涯俳優に徹するつもりなのだろう。それにしても、フランキー堺ほど多彩なイメージを喚起させる俳優はいないのではないか。次々と新しいものを生み出す俳優を孵卵器(フランキー)と呼んだのは、(往年の喜劇の)大御所古川緑波だが、喜劇から悲劇まで、俳優の扮したあらゆるキャラクターの輪郭は実に鮮明だ。それはすべて、計算し尽くされた演技から生まれる。音楽は感性、演劇は理性と認識する俳優の本領に相違ない。
別れ際に、俳優はちょっとはにかみ、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「私はね、自分の書斎をカオスと呼んでるんです」
カオスとは普通混沌と訳されるが、つまりは万物が生成する源である。一仕事終えるたびに俳優は、その書斎に籠もり、過ぎたことは忘れて、次なるステップを見出すべく、孤独な作業に浸るのだろう。 (文・田名部昭)
1990年、NHK制作の「山頭火」でモンテカルロ国際テレビ最優秀主演男優賞を受賞。その記念品が書斎に置いてあった。(以下、写真説明)
大阪芸術大学では「パフォーマンス論」を教えて30年近くたつ。本棚には江戸に関するものからフランスの哲学書、演劇論まであった
落語の師匠、桂文楽氏から贈られた詞が刻まれた石碑の前で。ライフワークを撮り終えた堺さん。「また役者に戻りますよ」と。
このインタビューから約一年半後、平成八年六月十日に、名優フランキー堺は病に没したのである。享年六十七歳。後を追うように二ヶ月後の八月七日には、渥美清も亡くなった。何たることか我々は、同じ平成八年に、二人の大きな喜劇役者ないしは喜劇俳優をほぼ同時に失ったわけである。
ついでにいうと、フランキー堺は渥美清より一歳年下だが、デビューもスターに上り詰めた時期も、渥美に先行している。また二人の芸風は異なるように見えても、笑いの質には共通するものが少なくないと思われる。ともに忘れ得ぬ特異な風貌の持ち主という点ももちろんだが、彼らの醸し出す恥じらい、弱者への労りと共感、人間的な温もり、それと反骨批判精神といったものは、良質な笑いに不可欠な要素といえる。わずかにフランキー堺の理知的、理詰めに勝る感が、違いといえば違いかもしれない。
しかるにその死後、今にいたるまで渥美清が人の口の端にのぼることよくご存じの通りで、彼に関する書物も多い。ところが、フランキー堺についてはめったに語られることもなく、いかにもこれは不公平だと、私はあえていいたい。
ところで昨今、テレビの笑いに苛立ちを覚えること甚だしい。とくに番組改変期にはどのチャンネルを選んでも、いわゆるお笑いタレントによる相も変わらぬバラエティーやトークショーばかりで辟易させられる。
しかもその笑いたるや、揚げ足取りと混ぜっ返し、弱者に対する嘲りと品のない下ねた話の繰り返しなのだ。すべてその場かぎり。
そんな笑いには、フランキー堺が熱く語った、時代の閉塞感を突き破る「笑いの力」などこれっぼっちもありはしない。
フランキー堺や渥美清を失ったツケが、かけがえのないツケが、ボディーブロウのように効いてくる。
(筆者は、ドキュメント作家。湖の本の読者。サハラ砂漠などの探検家としても知られ、またギリシァ・ローマ神話に関する著書など有る。)
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