漱石の『こころ』再読 高井良 健一
夏目漱石の『こころ』を再読した。
高校時代、現代文の恩師に『こころ』の世界へいざなわれて以来、16年ぶりのことである。今回、わたしを『こころ』の世界にいざなったのは、秦恒平さん。秦さんは、東工大で『こころ』を題材として、人のこころのあやに迫る文学の授業をされていた。秦さんのホームページで、『こころ』の講義ノートを読み、ぜひとも自分で再読し、たしかめてみたいと思ったのだ。
『こころ』の読みとりについての話は、本のページに譲るが、1冊の本を、時間をおいて読み返すというのは、変化する自分と不変の自分とを知る、愉しい営みである。
高校2年のとき、気合を入れて『こころ』の感想文を書いたことがある。あのとき、私は「K」と「先生」を対象として、観念だけが先走り、実践が伴わない彼らのありようを批判した。そして、自分と他者を追いつめない「いい加減」「適当」という実践原理があるのではないかと論じた。
そして、大学時代、私は教育実習で訪れた母校で、『こころ』の感想文を受けとり、読み返す機会を得た。そのとき、「K」や「先生」、そして「私」と同じような学究の徒の立場にいた私は、「いい加減」「適当」な高校時代の自分を許容できず、過去の自分を断罪した。そこで私が断罪した過去の自分とは、世間そのものであった。
それから10年ほどの歳月が過ぎ去り、私は「感想文」ではなく、『こころ』そのものを読んでみた。私のこころは、上「先生と私」、中「両親と私」に引き込まれた。人に巻き込まれるのでも、人を拒絶するのでもなく、人と関係をとり、そこから学んでいくことはどのようにして可能か。『こころ』の「私」の「先生」と「両親」についての考察を通して、さまざまな思いが脳裏をかけめぐった。
しかしながら、高校時代に圧倒的な比重を占めていた(教科書でもこの場面が引用されている)下「先生と遺書」は、以前よりずっと小さい存在になっていた。
今回、私は、「K」や「先生」のありようを批判するというより、気の毒なことだと感じた。「K」や「先生」が考えた以上に人間とは弱いものではないのかと、私は今思う。
『こころ』には「向上心のないものは馬鹿だ」という印象に残ることばがある。自己を鍛錬することで、強くなれるという一つの幻想がここにはある。この幻想が、感情(あるいはこころ)というままならないものに敗れ去ったとき、「K」、そして「先生」は自らを裁く結末に至る。
そこで「先生」と「両親」の世界が対置される。
「先生」の思索は根源的である。「先生」の世界は、一見輝かしく見える。しかし、「先生」は読書はするが、知的生産はしない。「先生」は日々の糧を国債の利子によって得ている。一方の「両親」は、世間的な慣習にとらわれている。見てくれ主義であり、浅はかに思える。しかし、病いの中で「私」の学資の工面をしている。こうして限りなき「観念」の世界と、限りなき「実践」の世界に引き裂かれる「私」が浮かび上がってくる。これは西欧の学問と日本社会の現実のはざまを、どちらにも同一化することなく生き抜いた漱石の姿でもあるだろう。
私自身に引きつけて考えるなら、身体を観念の支配下におこうとした大学時代、そして見事に破綻をきたした現在、現実への居直りがいやなら、はざまを生き抜く以外に道はない。「先生」の死、「父」の死のあとの「私」の人生は、「近代」の死、「世間」の死のあとの私たちの歩みとも重なっている。『こころ』は偉大な作品である。
(筆者は、東京経済大学教員。メールで寄稿いただいた。1.3.7)
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