神楽と食祭  しぼりたての牛乳を飲んだふたつの週末

    2000年10月28日ー29日/11月4日ー5日
 

           高橋茅香子
 
 

 連続して2週の週末、旅先で、しぼりたての牛乳を飲んだ。そして2週とも、体育館で盛大な祭りに参加。友人の食文化研究家・林のり子さんと思い立った二つの旅だった。

* 10月28日(土)ー29日(日)

 大朝(おおあさ)町の神楽を観に出かけた。
 大朝は広島県山県郡にあり、東京からは新幹線「ひかり」で広島まで約5時間、さらに広島駅と島根県の浜田駅を結ぶ高速バスで1時間のところにある。バスに身をゆだねて広島市内を20分ほど離れると、もう両側は秋の色をいっぱいふくんだ木々。道路は山の中腹をはしっているらしく、木々の合間からふいに谷間の集落が見えたりする。
 大朝インターチェンジでおりると、大朝に住む宮庄良行さんが出迎えてくれていた。新庄(しんじょう)学園という昨年創立90周年を祝った私立中・高校の校長先生だ。昭和10年ころ、私の母が2年近く教師をしていた学校で、そのときの同僚であり良行先生のお母様である宮庄ミツヨ先生が、88歳でお元気でいらっしゃるので、私は、このところ母の面影を求めるように、ときどき訪れている。
 林さんが初めてなので、まず、世界でこの地にしか自生していないという天狗シデを見にいく。
 10メートルほどある樹幹、それに樹枝がくねくねと曲がっていて、40本ほどの樹木が空にむかってたくさんの手を広げているような、ふしぎな雰囲気なのだ。黄葉が美しかったが、私は、春に見たときの紫色の芽で煙るようなシデが好きだと思った。今夜泊まる田原温泉に送っていただき、また夕方7時ころ迎えに来ていただくことにした。
 実は私は大きな思い違いをしていた。今日が神楽を神社に奉納する日だと思っていたのだ。でもそれは1週間後の11月3日のことで、今日は大朝町の神楽競演大会がある日だとのこと。大朝中学校体育館で午後4時ころから始まって、14の神楽団がそれぞれ35分で舞い、終わるのは午前2時の予定。夕食後に良行先生の車で体育館に向かった私たちだが、「ああ、今日来てよかった」と私は思った。これまで数回、大朝町を訪ねながら、町の人たちと触れあう時がまったくなかったのだ。ここではたくさんの家族連れが床に布団をしき、飲んだり食べたりしながら、ときにはごろりと
横になり、子どもを遊ばせ、神楽を楽しんでいる。
 ここの神楽には旧舞と新舞のふたつの流派があるが、リズムが少し違う程度で、いずれも舞楽や雅楽によく似ている。若い人たちが舞うのがここの特徴で、それだけに舞いが激しく華やかなものが多い。衣装がきらびやかで、声が朗々と高らかで、仕掛けがにぎやかで、たいてい衣装の早変わりがあって、とにかく退屈しない。泊まり場所の田原から出た田原神楽団は「葛城山」を出していたが、謡曲や歌舞伎でよく演じられる土蜘蛛の神楽化。胡蝶という侍女に化けた舞いが見事だったし、白い糸吹雪が舞台を埋めつくし、次の日にきくとやはり優勝していた。
 良行先生は、ずっと私たちに付き合っていっしょに観ていてくださったが、9時半ごろ、「じゃあ、ちょっと準備をしてきます」と立たれた。先生も出演するのだ。土地の古名からとった磐門(ばんもん)神楽団を率いていて、先生は大太鼓。出し物は菅原道真の物語「天神」で、先生のご長男と甥と友人二人が舞う。4人がそれぞれ激しくくるくると廻りながら位置を変えていき、いつのまにか紅色の小袖が萌黄色に替わったりしていて、華やかでありながら、いかにも正統派といった落ち着きがあって素晴らしかった。
 次の日、翌週奉納舞いのある神社をたずねた。わずか14軒で支えているという小さな神社だが風格がある。来年はここに観にこよう。
 宮庄家は大きな昔ながらの家だ。縁側が田畑に向かって開かれている。いつもながら心底、ほっとするたたずまい。ミツヨ先生が「よう来んさったのう」とあたたかく迎えてくださり、まず家でしぼりたての牛乳を、と、コップになみなみとすすめてくださった。乳牛を29頭飼っていて、次男の良行先生夫妻、長男ご夫妻、それぞれの家族がみんなで面倒をみている。おいしい牛乳のあとに、なんとも美しい祭り寿司を中心とした大ごちそう。そしてミツヨ先生のお話。家に帰ってくると、きちんと障子を開けて客の私たちにあいさつに来てくれる、お子さんやお孫さんたち。ミツヨ先生にお会いしに、またすぐにでも来ようと私は繰り返し思っていた。
 

* 11月4日(土)ー5日(日)

 東京駅発9時の山形新幹線「やまびこ35号」で、仙台の次、古川、に着いたのは11時21分。
 世田谷区のボランティア活動家・白勢見和子さん、作家の森まゆみさん、共同通信デスクの松本正さんもいっしょの旅で、古川の駅では林さんの旧友である宮城県教育委員会の渋谷さんが出迎えてくださる。レンタカー1台と渋谷さんの四輪駆動とに分乗して、中新田(なかにいだ。バッハホールで有名な町)、色摩(しかま)といった町を通って、目指す宮城県の小野田町まで1時間の道のりを行く。そこに私たち全員の友人あるいは知人である遠藤みどりさんの広大な土地5千坪が広がっているのだ。目の届くかぎり草木と畑の緑のなかに、遠藤さんの山小屋風の家と、レストラン
「Genjiro」がある。あたり一帯を「源城」と呼ぶところから取った名前だとか。家のリビング・ルームがレストランで、外に面した木のベランダでもお茶が飲めるように幾つかのテーブルと椅子があって、見るからに心地よい。
 ここですっかり満足した私たちに、「いえいえ、山の美しさはこんなものではないのよ」と言う遠藤さんの先導で、荷物を置いた一行はすぐまた車に分乗して、出発。
 林道というのだろうか、細いがたがたの道を登ることさらに1時間。「近くの山」というだけの情報で辿り着いた場所は、近く遠く、四方八方を木々に囲まれた静かなキャンプ場。冷たい涌き水のそばに木を切り出しただけのテーブルとベンチが幾つか。
 10分ほど歩いたところには、透き通った水をたたえた、神々しいような湖。と思ったら「鈴沼」と名がついていた。ブナの木が多く、遠藤さんに教えられるままに根元の草のなかを探ると、小さなブナの実がたくさん落ちている。1センチほどの丸みを帯びた三角錐の形をした実は、4、5年に1度しかたくさん落ちることはないものだとか。爪で割って中の白い部分を口に含むと、あっさりとした素朴な味がひろがる。
 キャンプ場に戻った私たちは、ワイン(ちゃんとグラスで)、数種類のチーズ、パテ(林のり子さんは玉川田園調布に「ぱて屋」という有名な手作りパテの店を持つ)、東京から買ってきたビゴのパン、新鮮な赤カブなどで昼食。しかも渋谷さんが湧き水でコーヒーを湧かし、枯れ枝を燃してジャガ芋を焼いてくれる。最高のごちそうだった。
 夜は『山に暮らす、海に生きる』の著者・結城登美雄さんが加わって、まず車で2分のところにある温泉へお風呂代わりにいく。このごろはたいていの地方で、趣向をこらした湯舟の用意がある温泉に、500円たらずではいれる。旅の疲れをとり、最後に露天風呂で冷たい夜気と熱いお湯を同時に楽しむ。
 「Genjiro」に戻ると、夕食。これがまた、素晴らしかった。地元のワインとお酒に、たっぷりとしたオニオン・スープ、赤や黄のピーマンなど野菜のオーブン焼き、ジャガ芋とベーコンのグラタン、絶品の鰺寿司、などなど。夕食後は遠藤さんと森まゆみさんのオペラ・アリアの二重唱が次々ととびだし(どうして二人はこんなにうまいのか)、夜が更けるのも忘れた。
 次の朝は、起きるなり、隣の牛舎に案内される。どっしりと大きな乳牛が22頭。おだやかな目でじっと見つめられて、どぎまぎしてしまった。
 しぼり立ての牛乳は甘い、フレッシュ、そして豊か。でも朝食をとるひまはない。
 実は、この旅の目的はこれからにあり、結城さんのアイデアで、町起こしとして昨年から始められた「宮崎町・食の文化祭」を見るために来たのだ。私たちが泊まった小野田町は国道347号線沿いにあり、交通量もある。宮崎町はそこから北に10キロほどはいり、町の人たちが「どんづまり」と言う通り、そこを通ってべつの場所に行く車はない。人口は約6500人。バレーボールのコートが4面とれるという国体向きのスポーツセンターがある。そこで1年に1日だけ「食の文化祭」が開かれるのだ。一体どういうものか。
 昨年の報告書を見よう。「町民一人ひとりが持ちよった家庭料理、どーんと800品一堂に展示!」。そうなのだ。各家庭の主婦が「うちで食べてる白あえ」「お客に出すおはぎ」などとお皿や小鉢に盛ったおかずや御飯をずらっと並べる。今年は1000食、並ぶ予定だという。
 私たちは10時開会のために運びこまれる様子を見ようと、8時には会場に着いた。広い畑のまん中に建ったゴージャスな体育館。そこを目指してたくさんの車がくる。そしてそれぞれの車から主婦たちが何か嬉しそうな顔つきでラップをかけた料理を運んでいる。体育館のなかには長いテーブルがぎっしりと50本くらい並んでいるだろうか。そこに登録した番号を探して主婦たちが料理を置いていく。それぞれに作った人の名前、住所、年齢、家族構成、材料などを書いた紙が張られる。
 「カボチャの蒸しパン」を持ってきた人にきいた。
 「朝早くから準備なさったのですか」
 「いいええ、こんなものは10分でできますよ。いつも孫がお腹をすかせて帰ってくると、鞄をおろす間に作っちゃるもんですから」
 寒天を5種類くらい、市松模様に並べている人もいた。
 「きれいですね」
 「これね、卵の白身と黄身をかわりばんこにのせているだけで」。
 さまざまな保存食、山の幸をいかした料理、そしてキムチやハムなど外国の食材を取り入れたもの。圧巻としかいいようのない1000食は、1600世帯のおよそ3分の2の家庭から運ばれ、並べられ、みんなの目を楽しませ、そして自分たちの手で片付けられる。
 体育館の外には、とれたての野菜や川魚などを並べた直売店や屋台がずらりと並ぶ。試食も含めて、お腹いっぱいになって満足しきった私たち。お腹もいっぱいになったが、宮崎町の人たちの上品な言葉づかい、振るまいが心にたっぷりとしみ込んだ週末となった。
 

(筆者は、日本ペンクラブ会員 「朝日ウイークリィ」編集長など、朝日新聞社で多年活躍された。語学に堪能、著書も、翻訳も多い。)


       HOME


※秦恒平文庫の文章の著作権は、すべて秦恒平にあります。
掲載された内容を無断で複写、転載、転送および引用することを
禁止いたします。