「e-文藝館=湖(umi)」 詞華集 投稿

たかぎ とみこ 

  

   
  
   詩集  
星宿海     高木 冨子 
 


      目次

隘路   もう夜が   仮寝の部屋   クレルモンフェランにて     エトルリアの棺   マリア崇拝   アルルの幼子   巡礼   視覚   ユダの首吊りの像・・サングェーサ   マヨール広場・・サラマンカ     シャルトル   十字   シニョリア広場で   サンタ・マリア・ノベッラ (1、マサッチォ 2、寡黙な人 3、蝋燭  4、緑の回廊 5、スペ イン人礼拝堂 6、ジプシー・・ロマ 7、逆光の)   カンプッチオ通りの朝   ポンペイ  ギリシア憧憬・・バーリの海辺から    海   ゼノ ビア   地中海   1916−1917のカフカ   星宿海   アフガニスタン(1、涙のコップ 2、少女 3、女 4、空 5、冬になる 6、    再び)   カンボジア(1、不条理 2、輪廻 3、生きていく 4、アンコール・ワット)  
 ベナレス   慰め    




   隘路

崩れかけた円形劇場の 
その隘路 通りぬけ 
際どい時間の裂け目より 
たちどころ あなたに至ります



   もう夜が

ビロードの分厚いカーテンの陰で
振り返ったあなたの目元にある悲しみ
鏡が笑い声を立てたので
あなたはぎょっと立ちすくんだ
 
もう影も形も映さないようにと 
深い思慮もなく 鏡を割ったが
破片のそれぞれに 一つ また一つ 
動かぬ像は 早々と湧き出て貼りついた
注がれる視線に    
もう夜が深い



   仮寝の部屋

一夜限りのこの部屋
僅かな物を並べる・・禅宗の僧侶が規則に従うように 
懐かしい影を引き寄せる
戸外の喧騒が這い上がってくる 
遠い弾き語りの歌が聞こえる  
溢れそうな映像を記録する
書くことで思いを振り払っている



   クレルモンフェランにて

ノートルダム・デユ・ポル 円柱の彫刻は語る 

生涯の書が開かれましたと天使はマリアに告げた
時が至りました 天に召されます

そのように生涯の書が私たちに開かれるでしょうか
ええ そのように・・マリーは答えた
東洋のブッデイストにも・・

死者は倶生神に伴われて閻魔様の前 
生涯を記した閻魔帳が読み上げられます
無垢から遥かに離れ その厚さ重さがずっしりと
今から思いやられます

最後の審判? マリーはため息した 
わたしたちは逃れられない ただ神に委ねる
慕います 讃仰の聖母 歌い讃える至福千年
マリア像に 熱心に祈る人たち
マリーもその一人

雨が重く冷たく痛い
大風は吹きまわり 声あげた
クレルモンフェランのカテドラルは
火山岩の黒さに沈み  空に向って身をよじり唸った

階段に立つ白い晴着の若い人たちは
衣裳が濡れるのを気にしながらも 無邪気に華やいでいる
親たちが熱心に写真を撮っている

やがて堂内では神への誓約・堅信礼の祈り 祝福 合唱
カテドラルを廻って 雨風も呼応した 

街の石畳を歩き続けた 冷たい雨は深い喜びをもたらした

伝統や精神がものに形を与える
構造に支えられた建物の形も 新しい伝統や精神を生み出す

十一、十二世紀のロマネスク建築は 以後ゴシック様式に変わった
人々は構造上の重力の問題から解放され 光の空間を確保した
内部の闇と壁の厚みにこもっていた人々は 外界や天空へ目を向けた

光を迎える窓に 赤や青 眩いばかりのステンドグラス 
その絵解きに目を見張った
窓を通してあの世を夢み 流されて在るこの世を生きる
まばゆさの向こう 空の御座(みくら)に 神様はいらっしゃる 

思えば・・ひとたび知恵の木の実を食し 追放されて
以来 知を頼りに高みに近付こうと 営々と業を為してきた
さらに神はバベルの塔を壊した
人は天を仰ぎ 悔い改めると言いながら
やはり不遜に生きる
   
人は絶え間なく警告されて
常におのが行為を振り返り内省しなければならない 
一神教の神を奉じないわたしとて同じこと
おのが行為を恥じ省み生きる 

風は吹き止まず 大聖堂を廻っていた
しずくが滴り流れるにまかせ 質素な町並みを過ぎ
雨の中 ただ歩き続けた
 
穏やかに樹液が浸透するように
喜びに満たされていた



   エトルリアの棺
             
雪は降りしきり止まなかった 
暖房が効きすぎて水滴がびっしりついた窓ガラス
外の風景はいつもぼやけて泣いていた
エトルリア美術の部屋は奥まって 
人はいつも稀
 
部屋の中央に石棺が二つ
不思議な力を漂わせている  
蓋には寄り添い横たわった夫婦の姿が彫られている
そのリアルさに胸衝かれる
彼らは死して二千年、三千年、見つめ合ってきた
これからも頑なに互いを見つめ続けていく 
凝固し完結した、完結させられた愛?
他者を排除したエゴイズム?
それとも生前、憎みながら生きた二人だったら
死後もこのように在ることは
逆接的な大いなる皮肉、呪いたい仕打ち、むごい罰
そんな斜に構えた見方もした 
彼らはわたしを威嚇した
 
「対幻想」はわたし自身の中で奇妙に揺らめいている
そして恐らくそれは幻想だと・・
何気ない、しかし根強い、夢見心地の対幻想
「本来一つのものであったから男女は引き寄せられるのだ」 
プラトン『テイマイオス』にその記述を見出す
性衝動と生き物の誕生を述べているのは確かだが
それとて赤い糸に結ばれた運命の恋愛や一夫一婦制の婚姻制度に
押し込めも限定もしていない
・・対幻想とは何?

紀元前七世紀 エトルリアは
イタリア半島の広範囲に要塞都市を築いた
廃墟と変わり果てたもの
今も「高い山の背の都市」を形成しているもの 
パヴェーゼの憧憬 丘の上の街
その原型はエトルリアに由来する
しかし彼らがどんな人種だったかさえ正確には分からない
ローマ帝国に滅ぼされエトルリアは忘れ去られていった

墳墓から発掘された品々のいくつかは大西洋を渡った
わたしにとってのエトルリアは目の前のあの棺
石の棺は静まり黙したまま 
妖しい力で惹きつける

生きること愛することは重い、しかし 
静かであって欲しい
予感に震えながら棺の横に立ち尽くしていた



   マリア崇拝

夕方になると 
頭に被りもの 平底の靴を履いた 質素な女たちが 
ひっそりと 祈りを捧げにやってくる 
教会の脇陣 マリア様のもとに
素朴で力強く 時に魁偉な柱頭彫刻の
その絵解きが やわらかく彼女らの頭の上にある
バロックの小さく優雅なマリア様の絵もある

マリア様への憧憬 ただ合掌して祈る
あの方にまみえるために・・此処に来るのです
今日はあなたのために旅の平安祈りましょう



   アルルの幼子

幼きものよ 幼きものの骨よ 
こんなにも これほどにも 小さく小さき細き骨 
形失わず 肉や皮膚を骨にまといつかせて 
小さきものの骨 あなたは待っていた  
ローマの時代から 二千年 それ以上も待っていた

生れ落ちて いくばくもなく 旅立った命 
あなたは葬られ・・
今は博物館のガラス・ケースに収められ 
深き眠りも 浅き眠りも もはやなく 
すべて真昼の すべて夜の 闇 
あるいは 網膜のすべての薄明かり・・

あるかなきかの時間 母の胸に抱かれ 乳を吸ったか
母の乳はどんな味だった? 
母は抱きしめ 必死にあなたを呼んだ
長い時間があった 
そして母は静かに横たえた 命ないあなたを 
魂が去っていくのを留める術は なかった

小さきもの その小ささに 胸衝かれた 
アルルのいにしえの子よ            

幼子に会った夜 
ローヌの川面に星は浮かび 
わたしは川底に愛や憎悪を眠らせた 
しきりにゴッホを思った 
命を灼いた太陽 精神を消耗させたミストラル 
しかし鮮烈な色彩をゴッホに与えたアルル 
安宿のにおい 壁のしみ 僅かに水が出るシャワー・・
それをも優しいと感じた 
深夜 階下の酒場の灯りは消えず 
いつまでも男たちの声がした



   巡礼

現代版頭陀袋と現代版通行手形パスポート携えて  
畏怖の心は十分にもっておりますが
粗忽は隠れようなく否定できません
邪悪なものに遭いませんように
よきものに逢えますように

巡礼の道は
「無責任な一介のツーリストの目にはついに隠れて見えぬ道」
道は見えぬか なにものも生まれぬか・・一切知らず 
一人で歩くこと・・限られた時間ゆえバスにも乗って
説明できない力に 突き動かされて
 
手繰り寄せる わたしの回復期 
星の野(天の川)の巡礼 
天球に親しく対する時
気負うことなく 長い沈黙を恐れることなく



真昼の只中に傾いでいくもの
山塊の深き処 黒々と茂る森の道を行く
疲れれば立ち止まり 坐る
どうしようもなく潜り込みたい

鳥の囀りを聴いて 空を見上げる
錯覚にとらわれる
背中の翼が成長し始めたらしい・・
空と魂と 深く引き合っている        

微妙に彩られて
空と大地の境界がわからない
雲間からプラチナの光の矢が放たれる
god stream 神の光芒 夕映えならぬ 真昼の 

額は透き通り まっすぐな喜びがたちあがる
あなたの声が聞こえる  
あなたの声が乱反射する 
喜びは 抑制されない 遮断されない  

明るさへ一歩を踏み出して・・俯いてしまう
やがて気持ちは引き締まり
蒼褪めながらも 高揚していく
閉じられない光の環を 心に抱く

緩やかに起伏するフロミスタの平原
ああ これを歩き続けなければならないのか・・
思わず立ちすくんでしまう
歩くのだ 歩くのだ  前に
 
寂寥のあざみ 強靭なあざみ 
紅の モーヴの 紫の 連なっていく  
苦い素朴が立ち上がり 
ほどけない激しさを抱きしめる 

雲が動く 雲が踊る
切れ切れに漂着する暗い予感
小糠雨が降り続く
際どい憂鬱に濡れていく

ひとむらの焔が 野に湧き立つ
暮れかねる空に
大地の暗い力を吸いながら
燃えまさる焔

内部の掣肘 とまどい
ネガとポジ いとも容易に反転し続ける
夕暮れの中 動いている
押し倒され引き伸ばされたわたしの影が 

寄り来る影の気配
重さを増していく空気が夜を貫く
沈黙に 闇に
濃度がある 湿度がある 温度がある

やがて語り得ないものたちが
焔の領域に 形を現す
月と星の燦爛が呼応する
底冷えが這い 心も体も芯から惑わされそうだ

花を包む闇 
一筋の明かりをたよりに 花浴みする
やがて月が出れば そう、月光浴
額のみえない瑕痕が 艶を放つ

優しい声で歌って
激しく歌わないで 唇から漏れないほどの声でいい
わたしと唱和するもの 
指に指添わせれば ああ、あたたかい

むらきもの痛み 心痛み    
消耗の極み 肉痛み 骨痛む
ひとしきり降りくるものよ
崩れんとして・・とどまる

疲れ果てれば
意識の真上に 眠りがかぶさってくるだろう
ひととき 覆われて包まれて
無意識の波を漂う

愛する心に溢れながら
いっそう危うい均衡に自分を委ねている
ガリシアの闇を見つめる
夜明けの橋を 一人渡る

この世に在るすべて 変らざるものなし・・
まこと すべては変化するもの
わたしの存在など儚くて 
ましてや 個性・・など 吹き飛ぶばかり

存在論の範疇から 自分を最初に外しておけばいい
外せますかと問うてみる
存在から抜け落ち抜け出てしまったら 「融通無碍」になれるか?
存在なくて・・身体なくて・・心・精神・魂は?拘っている

行けど 行けど まだ・・まだ
足元の野の草に頬ずりする
天球の星よ どうぞ
親しきものに近づけて お願い

巡礼の最終地
朝の逆光を光背にして
翳に立ちあらわれる
サンティアゴ・デ・コンポステラ

ありがとう 感謝します サンティアゴさま
平凡な決まり文句かさねる そのありがたさ
爽快 疲労 交錯する思い
石畳の僅かなぬくもりを歩く

巡礼の道に 星が明滅する
旅が続く 
光の環は 
なお前方に向かいつつある



    視覚

わたしの散漫あやふや 乏しい視覚を 叱咤する
画家のなかでも極めて少数の人に 
ひとたび目に焼き付いた光景の 
その細部に至るまで厳密に記憶して再現できる人がいるという
絶対視覚、ああ、それは今さら望めませんが  
イタリアの 自然、街、村、人・・すべて 
散漫な視覚の呪縛から せめて少しは解かれ 
心広やかに 繊細に 鋭敏に                         わ
たしの視覚が命の律動と呼応できますように
   

   ユダの首吊りの像・・サングェーサ

声が感情に追いつかなかった 
黙すしかなかった         
真実を突き詰めれば いや突き詰めなくても自明の理 
もう戻れない
あの方は これから起きる事すべて御存知で 
わたしを憐れみの眼で見つめた 
わたしはどんな表情をしたか こわばって
・・あの方を「売る」ことが逃れようない行為だと
・・わたしに与えられ 誰にも代われない行為だと
絶句した

あの方を「売った」こと ユダの罪はどれほどか
あの方を「売った」とは あの方を殺したこと
ユダの罪は大きい 
あがなった金の多寡にかかわらず 
わたしはうらぶれて・・しかし頭をあげて歩くだろう

しかし頭をあげて歩くこと思いもよらぬ 
息することが もうできなかった
うらぶれる以前に 
内部が腐ってしまったのだ 
内部が焼けてしまったのだ
首くくるしかなかった
俯いて 息しないで ぶら下がった
おまえは わたしの首吊りの像を 何故そうも見つめる?

足を止める 足が地面にくっついてしまったか・・動けない
心を留める 心が貼りつく

わたしの最大の罪は 裏切ったこと(あの方は それを示された)
わたしの最大の罰は 望みをすべてすべて失ったこと 
立つことも 坐ることも 臥すことさえ もう支えられない
微かな希望? いや、それこそ許されない
だから 吊るされ 棄てられつづける



   マヨール広場・・サラマンカ

花を包む薄い闇
お香に満ちた地下の空間  
薄闇から 漂い寄り来るもののある
サラマンカ大聖堂

石畳の道を行くわたしの足音
そして立ち去らない足音 
脈絡ない浮遊も背後にあった        

広場のオレンジ色の灯り
人の姿がちらほら見えるショーウインドウ 
屋台を畳もうとしている行商人
みな暖かな生者の領域

テントの帆布を一瞬にサッと広げたように
敷き詰められ覆い尽くされた
マヨール広場の静寂と包容

屋台のレモンが石畳に転がった
誰も気づいているようにみえなかった
歴史の堆積する街では 
生者死者 それほどの違いはないらしい



   シャルトル

ボースの野に 大伽藍は聳え立つ       
シャルトル・ノートルダム 我らが聖母のカテドラル
ワレヲメザセ ワレニイタレ 
ワレヨリイデテ・・メザセ

西扉口の王の門
生涯の絵解きの中央に栄光のキリスト
こぞり称えて上昇する天使たちの
壮大な楽の音が聞こえる

シャルトル・ブルー 美しき絵ガラスの聖母 
青く蒼く 茂り継がれる エサウの樹
青、赤の燦爛 限りない光の乱舞に 時は移ろう 
光は溢れ・・仰ぎ見るばかり

地下にまします黒い聖母様
あなたの前身は異教の母なる神 
ケルトの系譜 ドルイドの根から生えでた娘 
あなたこそシャルトル建立の その初めの御姿

石段に導かれ喘ぎ登る      
屋根の形はそのまま巨大なラテン十字をなす 
シャルトルの街が背負う十字架 
築かれた圧倒的な形と力

ファサードから王の扉口にいたる角に  
ひっそり降り立つ日時計の天使
捧げもつ日時計は 我らに繰返し刻限を示す 
遍歴する命 めぐる日時計の影    

何度も何度も建物の周囲を廻る
王の扉口 彫刻の聖者たちの端正とぬくもり 
ゴシックの飛び梁がカーブを描く 
石塊の重量を引き受け支えるものは雄々しく壮麗

ロダンはシャルトルを賛嘆して述べた
「いつも大きな大聖堂のまわりにはこんな風が吹く。
あの偉大さに苦しめられた、大荒れの風に吹きまくられているのだ
控え壁に沿って空気・・かぜ・・が落ちてくる。
あの高いところから落ちてきて風は聖堂のまわりをさまようのだ。」

大聖堂の不思議な風について 人は言う
科学的に物理的に 計測しうると
それこそ神秘 それは神の力であり証と 
人の作り上げたものの偉大さ、歴史の重さが風を呼ぶと

日の落ちかたの さ迷う風を聴く
わたしは ナニモノであるか 
・・離れて・・一人歩くわたしは 

麦の穂の色づく頃 
今も 巡礼の列があるという
ペギーよ 
あなたを慕う若者たちの シャルトルへの巡礼だ
 
傷つきながら 
重い穂のように 行くものたち
若き魂  フランスの 誠実 情熱 そして 狂気 苦悩  
あなたが辿り着いた フランスの精髄 
その象徴であるシャルトルへ  
 
       、 ペギー {1873―1914}フランスの詩人、思想家。
         ドレフュース事件後社会党を離れ、「カイエー」編集、
         カトリシスムに帰依
         「シャルトルの聖母へのボース奉献」「ジャンヌ・ダルク」
        「エヴァ」などの詩がある。




   十字

ただ二本の線分が交わる十字
十字はそのまま形象になる 文様になる 象徴になる 
荘厳、厳格、不可思議の ギリシア十字、ラテン十字、ケルト十字・・

鍵形十字スワスチカ卍は 古くから生命と深く結びつき
中国、インド、地中海・・洋を問わず至る所に生まれた
後に卍はキリスト教の鉤十字にもなった
ハーケンクロイツ ナチの忌まわしい記号にさえなった

十字に組み合わされた木材は 磔の十字架
そう考えればつらく 憧憬は切り裂かれる
イエスが我らの罪を引き受けた証、象徴と思えば
心揺さぶられるが・・なお耐え難い畏怖

薫香たゆたう空間に 浮かびたつ十字
神の厳しさも 十字架も  
なお恐ろしいと 
非キリスト教徒・臆病者・わたしは 我が身震わす

厳しいが優しく透徹したあの方の眼には
かの時代の人の愚かさ、憎悪の血の赤さが
そして現代の悲惨も 
まざまざと しかと 映され集束されているだろう

十字架に架けられたイエスは 最期の言葉を発した
エリ、エリ、ラマ サバタクニ
神よ、神よ、なにゆえわれを棄てたもう・・

言葉の極北 その言葉がそのまま
絶望と苦痛のどん底から 歓喜の極み 昇天への道程
神よ、あなたにすべて委ねます、と 静かに聞こえる

命と命 魂と魂が会い逢う 
十字がその象徴であることを願う




   シニョリア広場で

ペルセウスと彼に首級を上げられたメドゥーサ
あれはマニエリスモのチェッリーニの彫刻
忌むべき怪物にして女・メドゥーサは
正義の男ペルセウスに打たれなければならぬ その必然よ
私の中で感情がうごめく 否定的に

サビーナは常に略奪されなければならない
なんと惨いこと
女は略奪などされたくない
運命には男も女も等しく翻弄されるだろうが
略奪されたくはない 誇り高く生きたい

そして騎馬に乗った男丈夫のコジモが睥睨する広場
この都市の共和制が終わり 
ある種の「支配」や「価値観」が大きく変化したことを示そうとした
彼は 広場に明確に意図した像を配置した
共和制など戯言よ まさに戯言 
この高貴な血こそ 存在の意義

顔向き合わせることなく真昼の広場に男と女がいる
顔は向かい合っているのに実は互いを見ていない男と女
向かい合い見詰め合う男と女もいる
ネプチューン像の前にはユダヤ教の若者が数人と
純色の赤い服が目立つ中国人のツアー客たちの一群

サヴォナローラは まさにこの地点で火炙りの刑にされた
享楽的なフィレンツェは「厳格と禁欲」に我慢ならなかった
強制された禁欲清貧の中で長い時間を生きるなど・・
そしてフィレンツェは法王の破門を何より恐れた
ああ、我らに天国が閉ざされてしまうぞ!

高貴や豪奢とともに
狡猾・猥雑に強くしたたかに生きたかった
貪欲にも傲慢にも沸々と生きたかった
人間の本性自然 あるいは人間の愚かさ 
微妙に分かちがたい

敷石からたちのぼってくる熱
過去から揺り返される記憶
感じて 思い起こして
誰かが囁いている

畏敬をもって受け取ります
不意の 予期されなかった感触
静かにそっと受け取ります

風に吹かれて 
広場の人混みから少し離れて坐っている
嘆きと怒り 慰めと喜び 
さまざま感じながら



   SMNサンタ・マリア・ノベッラにて
 
  1、マサッチォ 
 
マサッチォ二十七歳夭折の無残…(1401−1428)
リナシメント・ルネサンスの絵画の先駆 遠近法の衝撃
三位一体の絵の前で立ち尽くす
その昔 ギルランダイオの写実・華麗に目奪われた聖堂で
 
  2、寡黙な人 
 
寡黙な僧衣の人よ
あなたは回廊に佇んで
限られたその空間の 切り取られた四角い真っ青な空の
さらに上の上にあるものに じっと目を向けていた
目に見えない誰かと言葉を交わしていた
僅かに唇の動きがあった
静かな意志、決意が貌に刻まれていた 
無骨でさえありそうな人 
あなたが紡ぐ魂の仕事
 
  3、蝋燭
 
祈る人たちの ひっそりした息づかい
傍らの蝋燭の匂い
変形し燃え歪み  
風に揺れ 消えるかと思うと
ちぎれるように燃え 燃えつなぎ
蝋燭の炎は 小さくなっていった
 
何処かで声が モウサリマス モウイキマス・・と 
あなたも 去っていった  
薄ら日の回廊の この閾から
何かと渾然一体になって
 
幾多の別れ 涙の幾筋か 
モウサリマス モウイキマス 
 
  4、緑の回廊
 
数日断続的に激しい雨が降った 
乾いた空気がやってきて 湿気を追い払った
明るい陽射しが街を暖めた 
大きな糸杉が 緩やかに伸びをした 
爽やかだ 
雄々しく どっしり 天に向かって伸びたいと 
たゆまぬ思い 生の律動を告白した   
糸杉を囲む緑の回廊の ノアの洪水の絵 
やや埃たつ その空間
 
  5、スペイン人礼拝堂
 
スペイン人礼拝堂に導かれる 
地獄廻りのキリストの図はなんのその
白や黄色の衣裳に身を包んで娘たちは踊っている 
タンバリンのリズムも聞こえる 
手繋ぎあい ひとときのダンスに軽やかに弾んでいる
 
その礼拝堂が スペイン人礼拝堂だとは
コジモ大公の妻エレオノーラは
スペインからお輿入れ 謹厳なる堅物女 
けれど彼女に過酷な試練
夫コジモ大公に殺される運命の 娘と息子 
恋したという罪により 父の怒りの頂点で 
心臓をえぐられた娘マリア
兄ジョバンニを殺し カインとアベルの罪により 
刺し殺された息子ガルチア
ブロンチーノ描く幼い肖像画の二人は 
今もウフィッツィで わたしたちを見つめている
 
  6、ジプシー・・・ロマ
 
ジプシーたちがSMNの辺りにたむろする 
一見して分かる衣服 日に焼けた肌は垢じみて
現代 厳密な意味では さ迷える民ではない人も多いが 
過去何百年の民族の習いどおりに 彼らの社会を崩さない 
同化すまいという姿勢は 彼らの生き方の根底にあって動かない
 
彼らの尊厳?彼らは怒り狂って抗議するだろう 
大いなる我らロマの 大いなる尊厳だと 
ロマという言葉は人を意味するのだ!
 
チゴイネルワイゼンのロマン 流浪の民ロマのロマン 
他者の中途半端なロマンなど打ち払う!
日に焼かれて あるがままの顔と姿勢 
狡猾縦横無尽 苦々しくも気楽にも生きる 
 
彼らロマの地平に  
近づくことさえ憚られ 弾き飛ばされ 
畏れ ただ通り過ぎた  
自戒に揺さぶられながら
農民の子孫 土着の生暖かな安心が担保の 
日本人・わたしが 
それでもなお ロマンを見果てぬ夢を 夢みている
 
  7、逆光の
 
夕方の逆光の写真の顔は ぼんやりと笑っているが
細かな表情は分からない 
背景のSMNが 鈍色の空気からさらに暗く後退している
傲慢 軽佻浮薄 それら寄せ集めて
好奇心いっぱいの 力に溢れた若い二人だ
フィレンツェの駅に初めて降り立って 
SMNの前 今も逆光の中 女の肩に手をかけた男がいる



   カンプッチォ通りの朝

冴え冴えと朝の空気の匂いがする
しののめの清かな予感
薄青の影が退いていく
やがてカルミネ教会の鐘の音が聞こえる
毎朝ベッドの中で聞く 充実した怠惰 
カルミネのマサッチォ描くアダムとエヴァは 
永遠に楽園を追放され戸惑い続け
わたしたちは楽園から離れ放たれて 刹那を刹那的に生きる
バールのお兄さんはコーヒーを入れながら鼻歌と噂話
古い扉を修繕しているおじさんは早や朝食を終えて作業にかかる
おばさんは広場の屋台にトマトやズッキーニを並べている



   ポンペイ

火山灰の底から姿を現して    
そこにある不思議 そのままの不思議
家々の扉の開く音 秘かに迎え入れる手
交歓するものとの幻惑に
心が鋭くなっていく
懼れを知らぬ愚かさ
遺跡に咲く薊の刺の熱さ
静かな陶酔と錯覚
やがて夕暮れ
沈黙の長い道筋を歩いて行った
憔悴の翳が従った



   ギリシア憧憬・・バーリの海辺から

ギリシアに続くアドリア海を見つめる
寄せる波のうねりを受け止める
頻りにギリシアを思い ギリシアはなお遠い
バーリの海辺で老人に出会った

古代ギリシアの繁栄と凋落 
そして幾多の変遷
つい先頃までの ファシズム支配下の悲劇
ギリシアの海は黙したままだ

温かな濃い山羊の乳に育まれた人
頑固な曲線をもつギリシアの老人は語った
人は誰でもこの世に流された罪人だと
この世にあってもやはり罪深いと

真昼の広場で 敷石が砕かれた
真昼の野原で 夏草がなぎ倒された
目の前で人が殺されるのを 黙って見ているだけだった 
何も出来ない 何もしない それは罪ではないか
何も出来ないことさえ 何もしないことさえ 
やはり罪でありうると そうは思わないか?

あまりに強い口調にわたしは一瞬とまどった
ええ、罪を犯していない人なんていない
そうでしょう?誰しも・・ 殺すな 盗むな 姦淫するな ・・

十戒!そんな簡単に羅列してくれては困る
何もしなかった 
けれど その結果として「殺した 盗んだ 姦淫した・・」 
わたしの人生を横切って
長く深いため息をつかせるものが
もう妖怪のように大きくなってしまったよ

埃を被って汗だらけの人たち 村の全員が殺された
地馴らしされて草むらに戻された土地もある
何もなかったなんてわけにはいかない
幽霊が徘徊したって不思議じゃない・・
いや、俺は幽霊を背負っている・・

それでもな、こんなふうにも考える
人はすまし顔して 時に大儀かざして あらゆることをする    
罪深く情欲に満ちたアドリア海 イオニア海 エーゲ海
その鼓動のただなかに生きてきた
この世に流されたこと 罪深いこと 
それ自体が それさえ 恩寵かもしれない・・

何の恩寵か・・何によって我らは支えられているか

アポロンの怒りを ミネルヴァの冷静を・・
時の彼方の古代ギリシアと  
老人の嘆く 二十世紀の現代ギリシアと
ぎしぎし齟齬をきたしているのに
強く痛く直に胸を打つ

ギリシアに恋する・・恋して遠くなるギリシア  
近くだと思っても それは錯覚
恐ろしいまでに見えてしまう
ごつごつと不器用で黒々したオリーヴのように

エル・グレコ・・グレコとは異国に住むギリシア人・・
フィレンツェに住むギリシア人の知り合いを思った
屈折した心と しなやか過ぎる指をもち 
女に毛皮を売り纏わせることを生き甲斐にした 
山羊のような風貌の人
その人は戦争の記憶をもたない

ああ、バーリの海の老人 あなたはグレコ
その武骨と不器用において本当のギリシアの人
何故 ギリシアに帰らない?
目の前のこの海を渡って 何故帰らない? 
頑固にグレコ あなたは

船に乗るのは簡単 帰国することもたやすい 
が梃子でも動かせない重い重いものが 
内部に居座って・・動かぬのだ 

ギリシアは微笑まない 招かない
それでも いつか歩こう
あなたの国  古代を 現代を



   

暗い雲の下
足元から這い上がる寒さの正体が 
自分自身の中にうねっている海の寒さ冷たさと・・分かっていた
空は昏いし それにしても春の季節はずれの寒さが沁みてくる

人の内部の海は 浅いとも深いとも
また荒れたり 凪いで静かそのものであったり
だから誰も自分の海を測れない
わたしの海の烈しさを わたしは生きたい



   ゼノビア

壮大な朝日射す都 
暁の薄紅、橙色 黄色 さまざまに輝き 
落日射さぬ都
薄暗く闇に落ちて 宵の青の漂う

女王ゼノビアの驕り 予見の誤り 虚しい期待・・
ペルシア軍は遂に到らなかった 
薊が哂う 
敗れたり パルミラ 膝屈する時ぞ

土を掘る 彼女の狂気を探るべく
身を躱す 茨から棘から 息とめて 
狂えるならば よいものを・・
覚めて 真を生きる 偽りを生きる

人の決断や行動を促すもの
隠水の噴きあがり突然奔流となるもの
突出し決定的に作用するもの
見定めて晴れやかに生きる

わたしは 笑う
悲しくも 惨くも 憎むも 悔いるとも  
笑いに 身を託す 
運命を生きる



   地中海

遥か地中海を夢に見る
めぐったさまざまな町や村 
われかつて其処に地中海に在りき
ため息混じりに言葉が湧く

今しも円形劇場に夕日は傾き 
月と風 星と魂が交響する
甘ったるい呼吸に満ちた 暗い楽園でもあるか 地中海

まだ見知らぬ多くの土地に 
石の壁に囲まれて 愛しい街は眠っている
あの路地に消えていった姿 半身の真実
戸惑いの眼は カシスの酒の すぐりの酒の黒色だった

ギリシアの 古代ローマの イスラムの 或いはノルマンの
さまざまな興亡 
人の群れ往き来する 内なる大いなる地中海 

磔のイエスの顔は静まり 鮮血は滴り落ち
黒衣の聖母の涙やまず 復活をまだ信じられなかった・・   
聖母の青いマントは広がり 人の苦しみと風を孕んだ   

変成を遂げて 此処にあるものたち 
鮮やかな過程にあるものたち
ただ見つめていた

わたしは其処から遁れたのではなく 追放されたのでもなかった
わたしは生まれた国に回帰するのでもなく 選び取ってもいなかった



   1916−1917年のカフカ

錬金術師通り、いや、黄金の小道22番地に
夕べ 坂道を上がってまいります 
勤めを終えて 一人になること わたしの願い 
深部から這い上がる熱に負けそうで 書かずにいられない 
扉閉じれば 世間はすべて遠いこだま 掻き消えていく 
妹が借りた小さな家 低い天井の小部屋 ここで書き物をする 
書くこと、これもまた密かな錬金術 
わたしは揺さぶられて 赤い滲みを紙に記す
我が胸にある冥さに疲れ 微かに願う   
現前の壁にたたずむものに溶け 調和したい、と
或いは 決定的に引き裂かれたいと  
夜遅く 市街の家に戻っていく 
坂道や街路 カレル橋 ブルタバの流れ 星 霧 
不条理の均衡に包まれて眠っている

金を生み出す錬金術ではないとて  
自然のものの循環生成 すべて驚異の術 
わたしの心もまた自然の不思議に満ち溢れています 
それにしても不条理な・・ 



   星宿海

空を翔けて夜空の彼方 
いつか星宿海で変容しよう
高地の乾いた空気を 薄い酸素を 
紫外線に焼けた大らかな人の笑いを 
憤怒を突き抜けた男のまなざしを 
星を宿した強い光を
何が僻遠の地なものか 
我生きるところこそ 我のこの世の中心



   アフガニスタン

  1、涙のコップ

僕の心の中にある涙のコップはすぐいっぱいになって溢れそうになる
僕はこぼして捨てるが またすぐにいっぱいになってしまう
こぼしてもこぼしても コップは涙でいっぱいになって際限がない
涙が現実の大地を潤せるなら この土地が緑になるほどなのに
涙のせいで僕は盲になるかとも思ったが・・
僕の目はものを見る 視る
この世にあることを僕は見たい 視たい

  2、少女

わたし 学校いきたい 勉強したい そして ね 先生になるの
ぼろくずみたいな服
でも わたしはこの花もようが大好き
赤 ピンク だいだい それから緑と青と・・
いつかこの土の上に色がいっぱいに生まれだしたら
わたしたちしあわせになると思うの  

  3、女

わたしの心は痛む 
射すくめられ 萎えていく 
なによりも屈辱なのは激しい飢餓に追いかけられ
いつも餓えの感覚が思いの中心に居座っていること
子供たちに何を食べさせられるか 今日 明日・・
恐怖が乱反射する至る処に 頭蓋内に
まだ夜は明けないのか
息することが恐怖に連なる この夜は

迷いの荒野 地上の悲しみ
疲弊・・?だからこそ それ故に 人は起つ 
裏切りは一つの手段 大義への一つの階段
復讐は聖戦、聖戦は正義
そう語るあなたは戦に赴いていくが 
侵略者であってはならぬと コーランは説く
神アラーよ 今 侵略者は誰なのか

立ちあがり 流れ 舞い狂う砂塵
暑さ寒さ厳しい 乾いた土に生まれ
風景をすっぽり纏って歩いていく
そして還っていく

  4、空

ローガン空港の朝 テロ実行犯の目に何が映ったか
あの朝 空が晴れていたなら その朝日は彼の目に映じたか
おのれの内部の堅固は 朝日と対峙したか
いや 曇り空だったか それとも雨が降っていたか?
彼の内部は かげり 涙しなかったか
飛び立って一時間 ニューヨークに炸裂したものは
悲しみ以外のなにものでもなかった
silver phenix will attack two brothers・・?

湾岸戦争勃発直前
ローガン空港から飛び立った日の朝焼けをわたしは今も忘れない
どの朝もそれぞれに美しいのに…
憎しみが私たちの頭上に影を投げかける

  5、冬になる

狂気よ 拡散するな
テロを生み出す不公平を地馴らしせよ

凍てつく夜に子供が死んだ 老人が死んだ
高地はもう とうに雪
冬だ   

  6、再び

再びの冬 
さらに再びの冬  
いつからでしょうか 
この長い再びの冬を耐える 
生き継ぎます この子たちと



   カンボジア

  1、不条理

不器用なわたしの手が何を手渡せるだろう?
手渡すという一方的な そんな思い上がりこそ恥ずかしい

失った四肢を 今も感じることがあるという
あなたの無くなった手足が 
空間で ひっそり自在に動いているのね

理不尽な 不条理な 悲しみ
はにかんで 後ろへ後ろへと 引いていくあなた
そうっと位置を占めて あなたは微笑む

涙はもう枯れ果てたの 
語るに語れない 語っても・・
吹き飛ばされたものは戻らない

東洋の我々の仏教は・・ひたすら赦しの教えでしょうか
赦しのなかに互いを見つめるのでしょうか

  2、輪廻

執着や悪い心を 棄てられるなら
「輪廻」から免れるのですか?
わたし 執着と煩悩のただなかで
それでも笑いながら優しく
「輪廻」の輪を廻して生きるよ
ずっとずっと廻していくよ

  3、生きていく

暖かな いえ あなたには夏と思えるこの暑さ
わたしには暖かさ
凄まじい光景と感じとるのは
あなた自身の不安の反映ではないでしょうか
あなたの感受性 ましてや価値観
とんとわたしに分かるはずもありません
見たとおり 何もありませんし
不安や寂しさを携えて わたしもまた生きておりますが
覚束ない不安に 今日のささやかな幸せを譲るなど
どうぞ なさらぬように 

わたしは黙って船を漕ぐ
黒く濁った 汚いと見える水が優しいのを
あなたは理解なさらない
腐臭がわたしたちの生計を支える
襤褸もまたこの水にふさわしい
そう ずっと昔からこうして生きてきた
腐臭に身を添わせる
水は命を育む 
魚も わたしの子供も育まれる
暗い水の動き 雨季乾季の水の移動
船着き場も家も容易に移動
浮き草暮らし

トンレサップ湖は微妙な自然体系に辛うじて守られている
この湖畔と呼ぶには広すぎる大きな湖のほとりで
わたしは地獄も見たのだ 確かに

あなたが驚いたこの現実に
わたしは小さく息を吐き あとは黙々しっかり生きていく
体の端々至るところから流れ出し 水に戻っていくものがある
わたしはこの泥や土から生まれ 塊となり 
侵食され 溶け 戻っていく

真昼に曳航されていく船
船に続くぬらぬらした波のゆらめき
熱に喘ぐ夏 喘ぐ船
ああ子供たち
無心にじっと見つめ 世界を切り取ろうとする子供たち

  4、アンコール・ワット

神域の最も高い領域に
危ない急な階段を登ってたどり着く
遺跡の至高のこの領域を見廻す
まじかに聳え立つ塔の量塊を見上げる
・・量塊とはあまりに即物的だが
確かに実感をもって塊が迫ってくる

ここは願い求めた約束の場所 聖なる祈りの場
須弥山世界のフェイク 聖なる展示場
この世の昔日の聖域 現在の「遺跡」に
夕暮れの影が生長している

人の賛嘆や好奇心を養分にして
ああ、何に変貌していく 
この世の叶わぬ須弥山・極楽浄土

此処を守る数人の人がそっと柱の脇にいる
頭陀袋や傘や食べ物を僅かに携えて
今日一日 十分に満たされているのですよ・・

影は優しさ
仏たちの菩薩たちの微笑む
塔は光り輝く

わたしは足場の悪い回廊を何周も何周も歩き回った
そうしないと何故かいけないと切羽詰まった気がして

塔は夕暮れ
あやめもわかぬ最上層
真っ暗闇の空即是色

深い森の記憶
濠の底に生い茂る藻のまだ新しい記憶から
夜がたちのぼってくる

そして今しも弱まりつつある太陽の囁きを
暮れていく空の静かな息遣いを
夜はすべて受けとめようとしている

樹木の形が一瞬鮮やかになり あっという間に
混沌のなかへゆらゆらと沈んでいった



   ベナレス

ベナレスの 朝焼けの川に
薄い紙に包んで 父母のささやかな形見を流した
ガンジスは 無言のまま 流れる 
空の底 川は流れる 
空の底 あなたは流れる
(大慈大悲の空の底と わたしはまだ言えない・・)



   慰め

刻印されたさまざまな記憶
沸きたったもの ひしめき合ったもの
振り放そうとしたもの 途切れたもの  

旅への衝動に深々と抉られて
死ぬまで旅したら
おまえさんにも分かってくることが
少しくらいはあるだろうと 雲は言った
虚しく生きるな
しかし 虚しくも生きよ 虚しくともいいのだよ

わたしが濾過されていく日もあるだろう    
汚れない道徳律みたいな人になれるはずなく
 「おのれの欲するところに従って矩を越えない」人に
なれるかな?
なれない・・

静かな慰めが訪れる