荊軻について           高田 欣一
 
 
 

 『咸陽宮』に登場する荊軻については、司馬遷の『史記』巻八十六「刺客列伝」に、春秋戦国時代に現われた刺客(テロリスト)の一人として記述がある。
 田中謙二・一海知義の『史記・春秋戦国篇』によれば、そこに取り上げられた五人の刺客は、いずれも職業的な殺人者ではなく、彼らの一人一殺の動機となったものは、小国(弱者)の大国(強者)に対する抵抗精神であるという。
 September 11th のWTC破壊に始まるアフガン空爆戦争のさなかに、謡曲『咸陽宮』に触れることは、奇妙に現代的興味をそそる。
 最初にシテが謡う秦の都咸陽宮の威容は、さしずめアメリカのニューヨーク・マンハッタンのようである。そこに登場するワキとワキツレ、荊軻と秦舞陽はイスラムのテロリストのごとき心境であったか。『史記』によれば、荊軻と秦舞陽は性格的にはっきり対照的に描かれている。
 荊軻は「士は己を知るもののために死す」という信念を持った壮士であるのに対して、秦舞陽は十三歳ではじめて人を殺して以来、殺人に慣れきったプロの殺人者である。荊軻はプロの殺し屋を伴って、秦の都にやってきた。
 そのプロの殺し屋が、始皇帝の玉座の階段のところまで進むと、顔色が変わり、ふるえおののいているのが面白い。「秦舞陽、色変じ、振え恐る。群臣、これを怪しむ」と『史記』にはある。反対に、信念を持つアマチュアのテロリスト荊軻は畏れない。「荊軻、顧みて舞陽を笑い、すすみて謝して曰く、『北蕃蛮夷の鄙人、未だ嘗て天子にまみえず、故に振慴す。願わくは、大王、少しくこれを仮借し、使いを前に終うるを得しめよ』」と、にこやかに微笑んでとりなす。この辺を意識して、演ずれば面白いだろう。
 二人を帝に紹介(奏聞)する「大臣」は『史記』では、始皇帝のおおぼえめでたい家臣で、家老たちの子弟の教育をあずかる蒙嘉という人。荊軻はまずこの人に丁重な付け届けをして、伝奏を頼んだ。
 箱に入れた樊於期将軍の首と燕の地図を差し出し、ふたりが秦王を刺そうとしたくだりはそのとおり。しかし花陽夫人は登場しない。始皇帝の危急を救った人は、侍医、夏無旦である。この人が持っていた薬嚢(くすりぶくろ)を荊軻に向かって投げつけた隙に、かろうじて皇帝は逃げ、生き延びることが出来た。
 花陽夫人は、『史記』のこの物語をそのままそっくり引用して、一章を設けた『平家物語』巻第五「咸陽宮」に登場する。謡曲の典拠は『史記』よりも『平家物語』であるために、そうなったのであろう。しかし、医者や茶坊主が貴人の危急を救うよりは、琴を弾く女性が登場するほうがずっと話としては色気がある。『平家物語』の作者の創作であろう。
 ではどうして「花陽夫人」なのか。『史記』巻八十五「呂不韋列伝」に始皇帝の祖父安国君(孝文王)の正夫人として華陽夫人の名が見え、また荊軻が登場するもうひとつの物語「燕丹子」には、丹が荊軻を花陽台において美人に琴を弾かせてもてなしたことが記されており、これを付会したものだろうか。
 始皇帝の父は安国君の子、子楚(荘襄王)ということになっているが、実は本当の父は皇帝自身も終生知らなかった「呂不韋列伝」の主人公大商人呂不韋である。また父とされる子楚は安国君と夏姫との間に生まれたが、安国君が最も愛したのが華陽夫人であった。しかし、不幸にして華陽夫人には子が生まれなかった。
 こうした経緯を、平清盛の出生と重ね合わせると、始皇帝は清盛と重なってくる。安国君はまた白河上皇に、華陽夫人は祇園女御に重なってくる。吉川英治の『新平家物語』は、清盛を祇園女御の子としているが、最新の宮尾登美子の『宮尾本・平家物語』は、子を持たぬ祇園女御に華陽夫人の面影を与えている。
 始皇帝の出生と清盛の出生の秘密は、以上のように、必ずしもぴたりと重ならないが、『平家物語』に「咸陽宮」の章があるのは、作者が始皇帝に清盛をなぞらえているからであろう。
 この章は、荊軻と秦舞陽を東国で反乱を起した源義朝の遺児たちになぞらえ、始皇帝が刺客たちを逆に殺してしまったことで、この反乱も大事ないとすることで結んでいる。
「王立ち帰って、わがつるぎを召し寄せて、荊訶を八ざきにこそし給ひにけれ。秦巫陽も討たれにけり」「蒼天ゆるし給はねば、白虹日をつらぬいて通らず。秦の始皇はのがれて、燕丹つひにほろびにき。されば今の頼朝も、さこそはあらんずらめと、色代する人々もありけるとかや」と『平家物語』は結んでいる。
 しかし、この楽観的予測は外れ、平家は一族滅亡の悲劇に襲われることは、歴史の示すとおりである。
 謡曲『咸陽宮』は、荊軻・秦舞陽の凄まじい死より、咸陽宮の偉容と花陽夫人の機転を描くのが主であるが、荊軻には筆者自身の思い入れがないわけではない。
 荊軻はテロに向かって出発する時、次のような詩を詠んだ。
 
風は蕭蕭(しょうしょう)として易水(えきすい)寒く
 壮士 一たび去って復(ま)た還らず

 戦争中、特殊潜航艇に乗って敵軍港内に赴いた海軍の将校が、この詩を引いて艇内に乗り込んだとか、真珠湾の岩佐直治大尉であったか、それともシドニー軍港に赴いた松尾敬宇中尉であったか。この詩は永く頭に焼きついて残った。
 WTCのテロに出会ったとき、アメリカ人は思わず「真珠湾以来だ!」と叫んだ。
 もちろん、アラブの無差別テロリストに同情するつもりはないが、そのときも、歴史と人間の運命ということをしきりに思い、荊軻のことを考えた。特殊潜航艇の勇士の影響か、戦争中戦地に赴く学徒は、この詩をさかんに口ずさんで行ったという。  (平成13年11月3日)
 
 
 
 
 

(筆者は、文藝批評家。湖の本の読者である。)


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