小林秀雄雑感     高田 欣一
 
 

 残暑お見舞申し上げます。あっというまに一年の半分が過ぎたと思ったら、八月も終わり近くなり、三分の二が終ろうとしています。
 去年の暮には、今年は志賀直哉を全部読もうと志を立てたのですが、途中で小林秀雄のことを書いたあとから、ドストエフスキイの『白痴』を読み出したのをきっかけに、ドストエフスキイに嵌まっています。じつは六十を過ぎたら大きな活字でドストエフスキイを読みたいと思っていたところに、平成七年、地下鉄サリン事件がきっかけで、オウムの犯罪が明るみに出ました。そのとき、これは一種の「悪霊」の仕業かなと思い、『悪霊』を読みはじめました。
 しかし、そう思って読むとぜんぜん面白くないのですね。小林秀雄は『ヒットラァと悪魔』でスタヴローギンとヒットラーを並べているし、アンジェイ・ワイダ監督はその映画『悪霊』でスターリン批判をしています。こちらも見ましたが、面白くありませんでした。スタヴローギンは内部の人間ですよね。小林秀雄は「ヒットラァをスタヴロオギンに比するのは、私の文学趣味ではない」と断っていますが、それでもどちらかというと外部の人間、外にある異形として書いています。
 ところが、『悪霊』の中でシャートフがスタヴローギンに向かって、「たとえ真理はキリストの外にあると数学的に証明するものがあっても、あなたは真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあるほうを選ぶだろうって。あなたはこう言いましたね?言ったでしょう?」と、問いかける場面があります。(第二部第一章7・新潮文庫版江川卓訳上巻392ページ)これについてスタヴローギンは「昔の自分の思想をくり返されるのは不愉快だ」というように答えていますが、この言葉は小林秀雄が引用しているシベリアの監獄から二年間の懲罰兵役に向かうドストエフスキイ自身が、フォン・ヴィジン夫人に書いた手紙に書いた言葉で、スタヴローギンはあきらかにムイシュキンともラスコオリニコフとも通じているんですね。少なくともシャートフにはそう見えるわけです。彼は「信仰があるかどうか」と訊いています。『「罪と罰」について2』の終わりの「すべて信仰によらぬことは罪なり」というロマ書の引用のことを思い出しました。
 ドストエフスキイは『白痴』の中でも、ムイシュキンにさまざまの人から「あなたは神を信じますか?」という問いかけをさせていますが、ムイシュキンはつねにその答をはぐらかせています。スタヴローギンは信仰を持たぬ神人なので、そうしたものが人間のうちに棲み得るおそろしさを、誰よりも強く感じていたのがドストエフスキイだったわけですが、小林秀雄はそこまで書いているわけではありません。自分のことを棚に上げて言うわけですが、小林秀雄はラスコオリニコフからムイシュキンに行く道は辿ったわけですが、ムイシュキンからスタヴローギンに行く道は、充分に辿れませんでした。そこへ行く前にドストエフスキイ論は中絶してしまったわけですから。小林秀雄のドストエフスキイは『白痴』で終わりです。
 しかし、そんなことを考えながらドストエフスキイを読み、小林秀雄を読んでいると、不思議なことに気がつきました。小林秀雄が昭和二十年以後に最も力をこめて書いた文章は何か。『本居宣長』の最終章は当然入るでしょう。『感想』の最初の部分も入るでしょう。あれはあの部分に帰るために、延々とベルグソンについて書きながら、ついにそこに帰れないとわかったのが、中絶の最大の理由だとわたくしは考えています。
 あとは何でしょうか。そう考えて読むと、『ゴッホの手紙』の文章も『近代絵画』も残らず、さきにちょっと触れた『「罪と罰」について2』の最終章と『「白痴」について 2』の第三章の終わりがそれに当るのではないかと思いました。『ゴッホの手紙』にも『近代絵画』にも『モーツァルト』でさえ、そうした文章の冴えは見せていません。それに匹敵するのは戦争中の『無常といふ事』のうちの何篇かの文章でしょうか。
 小林秀雄の文章は物凄く飛躍するのです。文脈の中で一つ一つの文がイメージを乗せてすさまじい勢いで走るのです。その勢いは普通の人間を跳ね飛ばしてしまう激しさですが、その像がきちっきちっと読むものの心に映じるゆえに、非常に説得力があるのです。若い頃わたくしもそういう文章を書きたいと思いました。しかしどんなに真似をしても、かえって自分の文章がひどくなるだけなのです。どんなすごい文章か、引用はしませんが、機会があったら、『「罪と罰」について2』の最終章の文章だけでも読んでください。
 では、それほどすごい文章で書かれた『「罪と罰」について2』が、小林秀雄の表芸でなく、なぜ『モーツァルト』『ゴッホの手紙』『近代絵画』と続く音楽や絵画について書かれた文章が主流になったのでしょうか。小林秀雄という人は、どんなものが売れるかというジャーナリスティックな感覚の非常に鋭敏な人でした。そうでなければ出版社の顧問だか相談役を長く勤められるはずが無いので、彼が「売れる」と見抜いた本はみんな売れたと言われています。音楽や絵画のことを書いたほうが文学のことを書くより読まれると思ったのでしょう。この時期に対談した坂口安吾は、文学で育った人間がモーツァルトだゴッホだと言っているのは卑怯だと、酔った勢いで絡んでいますが、書くものはちゃんと書いているわけです。
 ことに『「白痴」について 2』は、『ゴッホの手紙』を書き終わってから『近代絵画』を書き始めるまでの期間、「中央公論」という、当時では「改造」なきあと、最高といってもいい舞台で書き始められた文章ですが、最初から物凄く力が入っているのが分かります。『近代絵画』よりははるかにエネルギーを使っているのが分かります。
 しかし、この文章は『「罪と罰」について2』と違って、なぜ九章ある章立ての中間にクライマックスが来るかというと、それにはわけがあるのです。実は第四章で終ろうとしていたのです。具体的に言うと、昭和二十七年の五月から始った連載が一回休載したあと九月で一応終わりになったのです。しかしいったん病気ということで四回で終るはずの論が、病後の経過が非常によく、執筆しても差し支えないほど良くなったという理由であと四回書いて、第一部完了ということにしたようです。よく見ると最初の四回とあとの四回は調子が違います。しかも『白痴』の主要人物であるムイシュキンのほかの三人、ラゴージン、ナスターシャ、アグラーヤに関する文章は何も無く、あと四週間の余命を宣告されたイポリートの独白と、抜け目の無い生活者レーベジェフと天才的虚言者イヴォルギン将軍の、盗まれた四百ルーブルを巡るたてひき、千八百十二年にナポレオンの小姓だったと言うイヴォルギンについての感想が大部分を占めるのです。
 たしかに、この小説を冷静に読み返してみると、これらの人物の登場して喋る場面は小説の大部分を占め、主役三人はムイシュキンの心の中に棲むだけなので、アグラーヤよりはその母親のエバンチナ夫人の心の動きのほうがずっとよく書けています。ムイシュキン公爵でさえ、何を考えているのか分からないところがあります。彼の話ではっきりイメージとして残るのは、死刑の話を除けば、スイスでその死を見た哀れな女マリイと滝と城の話です。この話を除けば、ロシアのムイシュキンとは、彼がいるために調子が狂ってくるほかの登場人物のためにだけ存在しているようです。
 しかし、この小林秀雄の評論を最初に読んだときはかなり面食らいました。雑誌初出の当時は高校に入った年なので、小林秀雄という名前さえ知りませんでした。わたくしが最初に読んだのは、昭和三十九年これが『「白痴」について』と銘打たれて、角川書店から千二百円という、当時としては大変高い値段で出されたときです。そのとき最後の第九章が書かれました。出版社はどうして中央公論社ではなく角川書店だったのでしょうか。この年の終わりになると、小林秀雄は獅子文六を入れて、角川源義と三人で出羽三山の旅などしているので、大分親交が深くなり、雑誌に載せたままで本になっていないこの作品を本にしたいと、角川が言ったのかもしれません。書評などにはこの本はいっさい出てきませんでした。同じ月に出た『考へるヒント』がよく売れて、小林といえば「考えるヒント」だったからです。
 角川でもこんな売れそうもない本を出すのか、小林だから出したのかなと思いました。余談ですが、角川書店はわたくしの学生時代、もっともいい本を出す出版社で、講談社の編集者にはなりたくないが、角川書店の編集者にはなりたいと思っていました。ですから就職試験を受けて、首尾よく最終面接まで行きました。
 わたくしと角川社長の対話は「どうして君は小林秀雄は好きなのに石川淳を好かないのかね?」で始まり、「いい本と売れる本は違うのだけれど、きみはそのことをどう思うかね?」で終りました。どう答えたか、答は憶えていません。その三年前のことです。試験は落ちました。角川書店は、学力試験一番の学生は採らないという伝統があるのだと誰かからいわれました。角川の本などもう絶対に買うものかと思いましたが、一年就職浪人をした上、学習塾を開いて二年目で、少しは順調に行っていたので、そういう高い本も買えたのです。考えてみれば、文庫本を除いては初めて買った小林秀雄の新刊書だったのです。
 角川は社長はあんなことを言ったのに、相変わらず売れないいい本を出していると、おかしくなりました。この本は今も持っています。しかし、この作品が小林秀雄のこの時代の作品群の中でもっとも力のこもったものだと思い出したのは、ごく最近のことです。
 この作品が刊行された昭和三十九年という年を、わたくしは小林秀雄にとって特別な年だと思っています。前年に『感想』は中断しました。六十四歳になっていました。その年齢に達して初めて分かる、自分の人生が何処まで続くかという目測がはじめて立つ歳です。
無駄な荷物は下ろして、必要最低限の荷物で出来るだけ遠くまで行かなければならない。小林秀雄はそう思ったのでしょう。ドストエフスキイという荷物はそのとき下ろされたのでしょう。しかし、小林はドストエフスキイを読むことを止めたとは思えません。
『「白痴」について 2』の第三章の文章が非常によいと思うのは、小林秀雄が戦争中の沈黙の時期に何をしてきたかということがよく分かるからです。「旧約聖書に登場する最大の人生観察家(ヨブのこと・筆者註)は、人生とは荒唐不稽なものであると断言してゐる。生きてゐるよりはいっそ死んだ方が増しだ、死ぬより初めから生れて来ない方が増しだと言ってゐる。予言者等の行ふ残虐や不徳や狡猾など、何の事でもない。彼等は、皆自分のする事が、本当には解らぬのである。たゞ、解らぬといふ事を知ってゐるといふ奇怪な意識を燃やして、まっしぐらに生きる」
 山本七平氏は、この後に続く四つの旧約聖書の引用の出典をことごとく挙げています(「小林秀雄とラスコーリニコフ」新潮文庫『小林秀雄の流儀』所収)。「ヨブ記」を読み続けるにもっともふさわしい時期を小林秀雄はどう過したか。
「ドストエフスキイは、ヨブのやうに、「我がなんぢとともに造りし河馬を見よ」といふ神の声を聞いたかも知れない。恐らく、彼も亦、ヨブの如く、よく言はれる宗教的体験といふやうな、いかがはしいものを語るほど愚かではなかったであらう。「静かに光り、同時に恐ろしい」事が、彼に起ったであらう。それは、信と言っても不信と言っても、ただの言葉に過ぎないやうなものだったであらう。彼の作品の、あの長い呼吸も、其処に由来するのであらう」
 小林はそこでさりげなく、「空想」はもう止めねばならぬ、と付け加えます。なぜならドストエフスキイが獄中で読むことを許されていたのは、新約聖書だけで、旧約聖書はなかったからだというわけです。ドストエフスキイと、この文章に横溢する旧約のイメージは何の関係もない。旧約聖書の世界とドストエフスキイの世界を繋ぐ世界に生きていたのは、小林秀雄であったからです。わたくしは、むしろこの「空想」という言葉の中に、人は「空想」しうるからこそ人であり、「空想」の中で人はもっとも美しいという言葉を献げたくなります。人は幻を貪って生きる。こんな風にいいたくなるのです。
 もしも、昭和三十九年の小林秀雄が「本居宣長」を取らずに、「ドストエフスキイ」を取ったらどうなっていたろうか、とふと考えます。「もし」とか「たら」は意味のないことですが、そう考えて行くと、わたくしはあることが思い浮かぶのです。
 晩年の小林秀雄は小田村寅二郎氏の国民文化研究会の夏季学生合宿会に招かれて何度も講演に行っています。そのテープが新潮社から発売されていて、わたくしもいくつか持っています。国民文化研究会というのは聖徳太子を顕彰するという主旨で造られた修養団体ですから、そこでは聖徳太子が当然話題になります。『本居宣長』を書き終わったあとの宣長についての講演テープについているリーフレットで、亜細亜大学の夜久正雄とおっしゃる先生が、小林秀雄の聖徳太子について言った言葉を紹介しています。
「聖徳太子は、日本最初の思想家だ。『義疏』(太子著『三経義疏』のこと)という本(書物)は、外圧をじっと耐えて爆発するように、日本人があらわれた、というものだ。太子を外国文化の影響に染まった人、という人たちがいるが、そんなものではない。あの人はほんとうの日本人だ。自分が犠牲になって、歴史を作ったんです。だから、日本人はみんな太子を崇めているんです。太子の苦しみが日本人にはわかるんです。それでなくてどうしてあんなに皆んなが太子を憶いますか!」
 これを読んだ時、わたくしは、ああ小林秀雄は自分のことを言っているなと思いました。
小林秀雄の専門は何だったんだろう、と又自分のことを棚にあげて考えます。小林秀雄のずっとあとの東大仏文の後輩立花隆は、同じ問いを自分に課して、専門のないのが専門と嘯きます。小林秀雄にも同じことが言えるでしょう。『本居宣長』以降は「日本文化史研究家」とでも言えるかもしれません。ではそれ以前は何だったのか。ロシア語の出来ないドストエフスキイ研究家ということになるのでしょうか。考えてみれば、ロシア語ができないということは、小林秀雄にとって致命的なことで、それがドストエフスキイの作品論を中断させた最大の理由だという人がいますが、それもある程度あてはまるかもしれません。
 しかし、それではそれまでのドストエフスキイ論もロシア語の出来なかったロシア文学者のものとして不完全なものなのかどうか。それに対しては、わたくしも不安があります。フォン・ヴィジン夫人に語った「キリストは真理の外にいても」という「真理」とはプラウダ(pravda)なのか、もしそうだとしても、この真理は英語の言うtruthの要素をどれだけ含むのか、factという言葉にどれだけ近いのか。この「真理」のニュアンスによって幾通りにも取れるのです。けれども、大事なことはそういうハンディが歴然としながら、なおそれでもドストエフスキイと取り組まなければならなかった男として、彼が居るという事です。彼の仕事はやはり「外圧をじっと耐えて爆発するように、日本人があらわれた」ものだったと思います。
 夜久さんの文章は、このあと木内(信胤)氏が、ぜひ聖徳太子について書いて欲しいというと、「ぼくにはそれに取り組む時間的余裕は、もうないですよ」という言葉が返ってきます。ドストエフスキイについて書く余裕さえないのだから、聖徳太子なんてとんでもないことです。あれは、やはり自分のことを言ったんですよ。
 小林秀雄の『本居宣長』がどんな点で不備で、どんな点で偏っているかなどということは、わたくしはあまり関心がありません。小林秀雄のようでない「本居宣長」論は当然可能だし、それはそれでいいと思っています。
 だから小林秀雄が「あとの人たちに仕事を残しておくことも大事だ」と言ったことを素直に受け取って、彼が『本居宣長』を始める前に肩から下ろした荷物をもう一度検証して、彼が残した仕事は何だったのか、考えたいと思っています。
 今回は此処までです。「エッセイ通信」という題は外しました。じつは、四ページという枠の中では、考えることが書ききれなくなったからです。体裁も変えました。いつもお便りを下さる方に、三ヶ月あまりご無沙汰した近況報告として、お便りする次第です。
 長い間「エッセイ通信」をご愛読くださいまして有難うございました。今度はさらに体裁を変えて、一回二万字をめどに挑戦します。
それはそうと、最近、インターネットにも凝っています。作家の名前を入れて検索すると、ずらずらと関連するホームページが現われます。志賀直哉で多いのは、大学の卒業論文を元にしたホームページです。だいたい今の若い人の受容の仕方がわかります。いちばん人気があり、いろいろな人の意見の飛び交うのは、三島由紀夫と小林秀雄です。「新潮社」が自分のところをホームグラウンドにした作家だといっても、なぜこの不況時にこの二人の全集を出したかわかりました。小説は読まれている形跡はないが、文学は健在だなと思っています。                   (二〇〇一・八・十五)


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