*エッセイ通信より*
 
 

   半惚け老人信州紀行      高田 欣一
 

 田布施なら聞いたことがあるが、小布施など知らなかった。
 子供の頃からきんとんが好きで、正月のおせちで何が好きかときかれたら、何よりも丸ごとの栗一個が入ったきんとんのねっとりした味わいが最高と答えた。正月といえば、雑煮と栗きんとんがあればいい。
 ところが。年齢とともに自然派の様相を呈してきた家人が、あのまっ黄色に着色した市販のきんとんはいやだといいだしたのである。そこで、我が家の正月から栗きんとんが姿を消した。楽しみが半減した。そこで登場したのが、小布施堂の栗鹿の子である。暮になると、一年に一度だけ銀座で食事をする友人を誘って、デパートの地下食品売場で鼠色の包装紙の栗鹿の子を買う。これが恒例となり、何年か前に栗きんとんが復活した。自然の栗の色である。それでも、小布施が何処にあるか知らなかった。高杉晋作奇兵隊の発祥の地田布施の印象が強すぎて、なんとなく山口県の町のような気がしていたのである。わかったのは新聞の紹介記事で、長野市からいくらも離れていない、栗と林檎の町というのを読んでからである。
 信州へ行くということになって、まず行ってみたいなと思ったのは、小布施である。
 町の一角に、というより少し離れた場所に、駐車スペースがあり、小布施堂と桜井甘精堂と竹風堂という三つの店がその周りに店を並べている。東京で知られているのは小布施堂だけだが、ほかの二つも江戸時代から続いている店らしい。栗菓子や栗おこわを売っている。店の様子をみると、前のふたつは栗菓子にウエイトがかかり、竹風堂はおこわに重きを置いているらしい。これらの店はみなめいめいの美術館、博物館を持っている。小布施堂の「北斎館」、桜井甘精堂の「小さな栗の木美術館」、竹風堂の「日本のあかり博物館」である。「北斎館」だけが駐車スペースの真ん前の一番いい場所にあって、あとはすこし奥まったところにある。
 察するところ、この場所はたぶん小布施堂の土地で、ここが音頭をとり、ほかの店にも出てもらい、観光スポットを造り上げたものらしい。われわれが着いたのはまだ九時前で、ほかの人は誰もいなかった。北斎館は九時半にあくが、店は十時にならなければ開店しないという。仕方がないので、博物館の開くまで近所をぶらぶら散策する。
 北斎が天井絵を描いた岩松院という寺を見てくる手もあるが、そこは徒歩だと片道三十分かかり、逆に次の行程に差し支えることになる。北斎館を見終わって外へ出る頃になると、観光バスがどんどんやってきて、老若男女をどんどん吐き出す。もっとも老若男女と言っても「若」はあまりいない。「男」も少ない。つまりこの四文字の二つが欠けている。
 江戸っ子である葛飾北斎の美術館がどうしてここにあるのか。聞いてみると、小布施堂の経営者である高井鴻山という人は、文人画人でいろいろな人と付き合いがあり、北斎とも親しかったらしい。辻井喬こと堤清二という人の名がちらっと浮かぶ。北斎は八十四歳の時にはじめて小布施に来て、それから毎年死ぬまで小布施に通い続けた。避暑に行ったのかも知れない。しかし避暑だけだとは思えない。今と違って年金もないこの時代に、絵描きは死ぬまで絵を描き続けなければならなかったであろう。来ると彼は、寺の天井や神輿の屋根裏に極彩色の絵を描いた。天井絵は見られなかったが、神輿の絵は北斎館に展示されてあって、これはばっちり見てきた。絵はハンカチーフにプリントされて売られている。学芸員の研究発表までA4一枚五十円で売っている。何でも商売にしてしまう信州人の商魂、まことにあっぱれである。
 私は七小町の絵葉書を買った。鴻山が北斎に七小町の絵を描かせたらしい。小町は能に、「通小町」「鸚鵡小町」「草子洗小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」の五小町があるが、「雨乞い小町」と「清水小町」はない。出典は別にあるのか、それとも北斎の創作か。それならば私は「欲惚け小町」と「下痢小町」が欲しいと、嗜虐的な気持ちになる。能でもそうだが、私は深草の少将を百夜通わせて振る小町より、「卒塔婆小町」や「関寺小町」のような、老いさらばえた小町の絵のほうが好きである。人生の哀れをひとしお感じる。
 ずっと前にロダンの「かつて美しかりし女の像」という、乳房がまるで古い靴下のように垂れ下がった女性の彫刻に出会ったときは、何でこんな像を作ったかわからなかったが、いまはなんとなくわかる。
 北斎は毎年浅草から老躯に鞭打ち、残された体力を振り絞って信州まで出かけた。鴻山の金が目当てだったのであろうが、本所割下水で貧しい御家人の子として生まれ、若いときから売り絵を描いて世を渡る生活の果てに来た小春日和のような四歳の夏を楽しむこともあったような気がする。そうでなければ救いがない。五回目も来ようとしたが、ついに来られなかった。そのまま浅草聖天町の裏長屋で息を引き取った。辞世の句は

  飛登魂でゆく気散じや夏の原

 瀕死の老画家の眼裏に映った夏の原の向こうには、小布施の栗畑と林檎畑があったにちがいない。ああ北斎。
 小布施堂の店の裏には菓子工場があり、その奥には鴻山旧宅がある。政官財文藝にわたる彼の交友が図になっている。二階に上がると部屋がある。押入れの床が上がるようになって、とっさの場合身を隠せるようになっている。佐久間象山も、ほかの勤王家も来て泊まったらしい。隣で見ていただれかが麻原彰晃もこんなところに隠れていたのかなと言った。
 小布施堂の菓子は、買っていこうと思ったが、見るとどれも東京で売っているものばかりである。東京どころか、最近は家の近くの、デパートのサテライトショップでも売っている。これはかえってメジャーになった悲劇である。店の客もほかの二店の方が多い。いいんだ、いいんだ、うちは全国区で稼ぐから、まずは地元のためにと、立地のいいところをほかの店に空けて、自分は北斎館をメインにして引っ込んでいる。見上げたものである。高井鴻山以来の経営者の考え方が受け継がれているのか。鴻山旧宅へ行く途中で会った菓子工場の従業員さんも礼儀正しい。明るく挨拶する。こういうことは簡単そうだが、都会の会社では案外守られていない。市村さんという今の経営者のプロ精神を感じる。
 小布施はさっと通ってしまうにはもったいない町である。できれば、一週間ぐらい滞在して、毎日栗おこわを食べ、抹茶で栗ようかんをほおばり、林檎をがりがり齧りながら、無聊を噛み締めていたい町である。
 こちらへ帰ってきて、市役所の人などに聞くと、小布施はいまブームだそうだ。なんでも町おこしに成功した町として。それはそうだろう。観光バスがあれだけ来るのだから。佐倉市の人に、佐倉も小布施のようにやればできるじゃありませんかというと、町の菓子屋がそれぞれ美術館を持つのは大変なことだし、まず観光見せ場にする場所に広い駐車場が取れない、東京に近すぎると、否定的な条件を並べる。要するに、ひとりの高井鴻山もいなかったということじゃないのか。
 善光寺へ行く途中でも、北斎という変な老人のことを考えている。昨日車の中で「必殺仕置人」のビデオを見た。東野英治郎扮する葛飾北斎が人相書きを描きに、娘のお栄の手車と一緒に現れる。北斎が下書きすると、娘が彩色し、仕上げる。小布施にもお栄を連れてきたのかと想像する。いやそのころはお栄は画家応為として一本立ちしていたから来なかったろう。それでは、八十過ぎの北斎の身の回りの世話はだれがしたか。想像はつきない。
 それに昨日見た雷滝の印象が加わる。俗にいう裏見の滝というやつで、滝の落ちる裏側に通路があり、目の前を幅二メートルにもなろうとする滝が谷に落ちるのを、水しぶきを浴びながら、裏から見るのだ。滝の全長は見えない。見えるのは滝の一部分だけだ。もっとも通り過ぎて下へ行けば、全部見える。しかし、私にはこの裏から見る滝がおもしろく感じられた。その名の通り、雷のようなすさまじい音である。音はすれども姿はみえずというやつだ。あんまりえらいやつのそばにいて、裏側から見ていると、かえってその姿はよくわからないのだ。滝の音はよく音をきくと、心なしか、人の慟哭の声を交えて鳴っているようだった。飛沫を浴びながら、天才というのは、近くの人に飛沫を浴びせ、周りの人にずいぶん迷惑をかけるだろうな、と考えた。むかし川端康成の小説で、実業家として成功した友人の会社に金を借りに来た老文士が、その友達の会社のビルの前で「滝が落ちるぞお」と叫ぶ場面を思い出した。
 八十歳を過ぎた北斎に性欲はあったろうか。あったと考えるほうが楽しいが、よくわからない。北斎の身の回りの世話をする若い女性は、この欲惚け、色惚けのような恍惚老人を見てどう思っただろうか。老人は毎晩、歳をとり過ぎて、自分があと何年生きられるか、どれだけ絵が描けるか考えて、あるいは別のこともあって、さめざめと泣いたかもしれない。あるいは怒り狂ったかもしれない。
 そんなことを考えながら旅程の最終目的地善光寺に着いた。私たちを佐倉から連れてきたバスは故障して、ここまでは前日泊った山田温泉の旅館のマイクロバスである。これから運転手さんは旅館まで修理されたバスを取りに戻る。三時には直ったバスと一緒に戻るというが、そんなことはあてにならない。
 お寺では、いつもするように、まず目についたところでおみくじを引く。売店のご婦人が前の客に手間取って、私の引いたおみくじの番号の札をなかなか呉れない。やっともらってみんなに追い付こうとすると、姿をかき消すように誰もいなくなっていた。しかたがないから本堂に上がり、内陣を見渡してから、また境内に降り、山門を潜って外へ出て六地蔵やら、お七地蔵やらを眺めていた。不思議に困らない。北斎になったような気分である。
 たぶん、連れの二十二人は神隠しにあって、永久に私の前に現れないかも知れない。バスもたぶん来ないだろう。おみくじを引いていたおかげで私だけ助かった。よかった、よかったと思った。それとも、それは逆で、私だけが阿弥陀如来の掌にさっと救い上げられて、別の場所に運ばれたのかも知れない。とすると、私が見ている善光寺の内陣や境内はほかの人が見るのと別の景色で、目の前を行き来する善男善女もそうした幸せな人たちであろうか。ならばこれは、ありがたやありがたやの世界である。それにしては、人数が多すぎるなと思った。
 ふと、この世は夢か幻か、という文句が口をついて出た。
 私が目の前にする景色は、現実のものであることは疑いがないが、といってその現実はすべて夢幻ということもあるし、どうもその方が本当のようなのである。できればこのまんま、ずっとひとりでいるほうがいいなと思い出していた。さっき小布施で大きなソフトクリームを食べ、車の中でも食べていたので、お腹は空かない。
 しかし座りたい。山門の階段を登ったり降りたりする運動を繰り返して、何度目かに境内に入ると、前の方に見覚えのある赤いチョッキを着たバスガイドさんが立っていて、しきりに人を探す様子であった。私は下界に下りるような気持ちで、彼女に近づいていった。
 
 

*筆者註  「半惚け老人信州紀行」の葛飾北斎、小布施の高井鴻山との関係については、増田みず子氏「信州台風旅行」(「新潮」一九九九年十一月号)から知識を得ました。偶然同じ時期に小布施に行った氏の随筆を読まなければ、私はこの文章を書かなかったかもしれません。
 

(エッセイスト。 湖の本読者。コクのある「エッセイ通信」を書き続けておられる。)


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