* さわ・ゆきこ エッセイスト エディター 「1972年東京生まれ * ♀ * 会社員 *
辛党」と自身のホームページに書いている。発起して一年間、一日も欠かさず毎日書き続けたエッセイ集に、「黒体放射」と好題を得られてほんとうによ
かった。日記ではない、ともあれ短編ながらエッセイといえる文章が、くる日もくる日も書き継がれた。段々に文藝に成ってきた。云うはやすく、だが月刊誌編
集記者という多忙を極めたなかでの達成であった。優れて個性的な「現代」が、ここ
に展開されている。これが一つの卒業であるなら、同時に一つの新たな出発であるだろう。この未定稿かもしれないスケッチふうの新たな物語がどこへ歩んで行
くのか、見ていたいモノだが。 (秦)
櫻子(さくらこ)
佐和 雪子 作
<1> ここだけの話 2003.4.1
人より1年長く大学に通ったことを隠してはこなかった。ただしその理由は普段言っている「大学がドイツ語の単位をくれなかったから」では、本当は、な
い。自慢じゃないがドイツ語は91点もらっている。
実家に預けたきりの桜子が来週、小学校の入学式を迎える。
桜子と私の身体が完全に分離した日のことはよく覚えている。恐ろしく澄んだ空の手前、前夜からベランダに干したままのタオルは、窓の内側からでも凍って
いるのがわかった。それがまだ桜子を護れていた私の最後の記憶だ。
桜子をひとりの他人として世の中に放ち、脳の回転数が落ちてきて、私はなぜかそのタオルのことを思った。それを尋ねようとする私を制して枕もとに立つ母
は言った。
「タオル、もう一度洗っておいたから」。
その母と私の妹に、桜子は育てられている。私など、産んだきりである。子育ての経験があるなどとはおこがましくてとても言えない。会ってせいぜい月に一
度。それでも桜子が私をかあさんと呼ぶのは彼女らのおかげだ。
初節句も入園式も、私は立ち会っていない。仕方ないよね、締め切りだもの、と自分に言い聞かせてはみても、やはり無責任に過ぎると毎度思う。一方で、ま
あいいか、とも。桜子が私の手元にいたとして、成人式も結婚式もすっ飛ばした私が初節句やら入園式やらをきちんとこなしたか。考え難い。だからこそ母は
「桜子が中学に入るまで引き取る」と私が何も言わないうちから強固に主張したのだろう。
それでもたまには母親らしいこともしようと「ランドセルはかあさんと買いに行こうか」と言ってみた。今年の正月の話だ。桜子は即答した。
「ねえさん(妹のこと)に買ってもらう約束したからいい。それにかあさんは時間も余裕も無いでしょ」。
「時間も余裕も無い」は私の口癖。娘の口から聞かされると誠に気恥ずかしい。
桜子には、強く生きていって欲しい。まあでもどう育とうと、生命力は強いだろう。あのひとと私の子供である。白い肌と長いまつげとカールした髪を見るた
びに、私だけの子供ではないのだなとつくづく思う。
夫には感謝している。結婚を決めるまで、私は桜子の話をしないでいた。さすがに初めは仰天して黙り込んでしまったが、彼はこう言った。「2歳までの写真
を僕が撮れなかったことだけが心残りだ」と。それから数年、プリントとネガの収納場所に困るからデジカメを使えという私の苦言もどこ吹く風、実家へ行くた
びEOS-1である。私に黙って新しいレンズを2本買ったのも知っているが、気付かないふりをしている。今のところ。
桜子が最近、弟が欲しいと言い出した。ヨソ様に言われることなら「うるせえ」と流す私だが、実の娘に言われるとつらい。まさか母が入れ知恵したんじゃな
かろうな。けどね桜子、あなたもわかっているように、かあさんには今、その時間も余裕も無いんだよ。入学式に出席するだけで、イッパイイッパイ。
<2> 桜子、ふたたび 2003.7.4
夫が出張だというので実家に帰ることにした。
玄関の風景が違う。いつもなら私を待つ桜子の姿がない。母に聞けば、元の私の部屋に入ったまま出てこないと言う。明かりをつけずとも足を踏み外すことの
ない階段を上がりすぐ左。扉は閉ざされていた。あの頃と同じなら、鍵はついていない。
「かあさんだけど」と部屋に入った私に向けられた桜子の眼は、涙に濡れているせいだけではなく、暗い部屋でそこだけが光っていた。入ってきたのが私であ
ることに、驚いている。私は部屋の明かりをつける。
きっと、話すまいと決めていたのだろう。何があったのか話そうとしない。私は言葉を篩にかけながら、職場の夏季闘争の話をした。
「かあさんはそれが正しいとは思わない。けど、それで良いと思う人もいる」。
桜子から言葉が零れ出す。滑舌が、良くなっている。小学校という桜子にとって初めての社会が、確実に桜子を育てている。私は私の立ち位置に、刹那自信を
失う。
桜子の答案につけられていた点数を見て、隣の席の男の子が「ああ桜子ちゃんみたいにいつも100点取りたいなあ」と教室の隅まで届くような大声で言っ
た。それを聞いた教職課程を終えたばかりの血気盛んな男先生は、桜子の言葉を信じるならばこう叫んだ。「桜子ちゃんみたいに『できる』ことなんて、何の意
味もない」。
できることの何がいけないのか、桜子にはわからない。私にだって、わからない。平等であること。そのお題目は結構だが、それがこの小さな頑是無い子をい
たずらに傷つけることに帰結しているのであれば、私はそれを許せない。
そのおそらくは私より若いその男先生は、そうやって教師という聖職にある人間に、傷つけられたこと、それに気付いた経験がないのだろう。小学生の、いや
義務教育が終わるまで、あるいは一生、女の子のほうが大人びているのは、こういう幼少時代から、ささやかな傷を自力で癒す力に秀でているからだ。
自分の小学生時代の担任を思い出し、あれも可哀想な男だったとしみじみする。今私の胸で息を整えている桜子も、20数年後に同じことを思うはずだ。そこ
に抱く娘と傍らに立つ夫がいるかどうかは、わからない。
<3> 桜子の父 2003.7.7
昔からそうだった。誘いはいつも急で、それに私が合わせるのが当然のように振る舞う。七夕、桜子の父親との逢瀬は夏の夕立のように突然訪れた。
かつてよく通った、眠らない街のカウンターでは、ない。お互いの職場の中間の、オフィス街でもファッション街でもない、中途半端なエリア。ワインでいく
らか知られた店で、私たちは向かい合っていた。店内は、平均年齢が高い割には、騒がしい。グラスには白ワイン。あの頃良く飲んだ、チリの。
男は、この数年で顔が売れた。これだけカメラ映えして饒舌なエンジニアも珍しいのだろう。深夜の経済番組で、若手製造業を代表するかのようにコメントを
吐くのを、私も何度か耳にしていた。聞くだけ。目にする前にチャンネルは変える。
5年ぶりの男は、当時よりかなり髪がグレーがかっていたが、それがマイナスには映らない。ほかは何も変わらない。男の割には細い指も、白い頬も、長い睫
毛も、ウエーブを帯びた髪も。
客商売の何たるかを知らない店員が、「あのー、すみません、△△さんですか」と話し掛ける。私は半ば他人事のように、その風景を眺める。
男が私に伝えたかったことはひとつ。桜子の親権を渡して欲しい、それだけ。
男は私にないものを多く持っている。それは化学の知識であり、西洋史への造詣であり、彫刻への理解。それだけではない。あの頃、つまり桜子が産まれる
前、私たちの心が離れる頃には、まさか男が私の数倍の年収を得るようになるとは思いもしなかった。
よぎる。私の手元に置くよりも、この男に任せたほうが、桜子は、幸せになれるのではないか。見透かしたかのように、桜子の姿を一度も見たことのない男は
畳みかける。
「女の子なんだよ。必要なのは、父親だ」。
男が持っている、桜子についての情報の源は、私がWebで書いていた日記だと知らされる。匿名ではあったが、読む人が読めば確かに、私とわかっただろ
う。落ち度に、頬が、耳が紅潮する。
君が、あるいは君の夫がどれだけ努力したところで、実の父としか分かり合えないことが桜子にはある、と、男は言う。
「桜子が男の子だったなら、俺だってこれほどは言わない。けど判るだろう、君にとっても父親は、母親以上に特別な存在だったはず」。そう言われれば、それ
がどうして私の夫では駄目なのか、尋ねるまでもなく、判ってしまう。
雲丹のクリームパスタは、缶詰のホワイトクリームと、瓶詰の雲丹を合えただけで、レシピの最後にある「塩胡椒で味を調えて下さい」の記述を読み落とした
ような味がした。
もしここが、裏ビデオ屋とコンビニに挟まれたあの、焼き鳥の煙の充満する、通いなれたカウンターだったら。今、目の前にあるのが塩気の効きすぎたあの中
華麺だったら。今夜の結論は、違っていたかもしれない。
もう、私一人の話ではない。かもしれない、に逃げる自身を、かろうじて私は奮い立たせる。結論は出さない、出せない。あの頃のようには。
<4> 通知票 2003.7.17
信号は何度も変わっているのに、さっきから全然動かない。「五十日のある3連休前の金曜だからね」と運転手。今日17日金曜。あしたから、夏休み。桜子
は今日、初めての通知票を持ち帰っている。
桜子のそれを見る前に、自分の通知票を今一度見ておきたい。エレベーターを降り二回右へ曲がって玄関の鍵を開ける。靴を脱いでいつもなら左側のリビング
へ入りテレビをつけるのだが今日は寝室においた本棚に直行。
私は自分の通知票を、下宿の頃から手元に置いていた。今もある。何に使うわけでなく、実家へ置いておけばいいものを、どういうつもりなのか自分でもわか
らない。
探すまでもない。花柄の紙袋に入って、アルバムの脇に立っている。中には通知票のほか、昔の写真も。桜子と私はそれなりに似ていると思っていたが、そう
でもない。
小学校の通知票は、おもてに「わたしのあゆみ」と書いてある。一年生のときのものだけ、ひとまわり小さい。開くとまず所見欄が目に飛び込んできた。「と
ても落ち着いたお子さんです」。きっと私の親にしてみれば、担任に知らされるまでもなかったこと。桜子の通知票には、私の知らない側面が書かれているだろ
うか。ない、とは思う。思いたい。「わかっていても、自分から積極的には手を挙げようとしません」。これは今でも変わらない。
左側には表。八科目に「よくできる」「できる」「がんばりましょう」の項目があり、該当する欄に丸型のゴム印が押してある。
二十年以上前の七月二十日を思い出す。いつもより早く帰宅した私はその二つ折りの上質紙を母に渡し、代わりにそうめんの入ったガラスの器を受け取って、
言った。
「かあさん、『よくできる』と『できる』ってどれくらい違うの? それと、『よくできる』ことは、もう、がんばらなくていいの?」
母は何か答えたはずだが、覚えていない。きっと納得しなかったから。あるいは、興味が通知票からまな板の上のスイカに移ったか。
母から電話があったのはシャワーの直後。
「桜子、あんたと同じこと言ったわよ」。
髪を拭く左手が止まる。
「こんどはあんたが答えなさい」。
後ろで、妹が笑っている。桜子の声は聞こえない。
明日にしようと思っていたが、今日のうちに、実家へ行こう。