花連歌 目
精二
椿
早朝、投宿した比叡山の薄暗い宿房から廊下に出てみると、あたりは一面の雪景色である。昨夜ここから見えた、黒々とした木立の間から、はるか眼下にチカチカと瞬いていた琵琶湖畔の街灯りが夢のようでもある。
深夜に隣りの布団の上でひどくうなされている友人を揺り起して、すぐ又、旅の疲れで寝入ってしまい、雪降る気配さえ知らずに熟睡してしまったらしい。美大の卒業を前にしてスケッチ旅行に私を誘った友人の、昨夜のうなされようはモノノケがついたように凄じかつた。低い声でうなりながら、布団を跳ねのけ、敷布に両肘をつき立て拳を握りしめて海老反りに全身を硬直させていた。
少し遅れて洗面に起って来た彼が、音も無く降りしきる雪を、同じように肩を並べて見ている。その細面の横顔には悪夢の翳りもなく、あいかわらず冷たい端正さにすきとおっている。
「おはよう」の無言の挨拶の眼に、いつも他人を見下すような高慢さだけが消えている。殆ど自分を語らない彼に昨夜の夢の詮索は無用と思い、今日の旅のスケジュールだけを打ち合わせた。
他の仲間と違って、彼は若者特有の芸術論も語らず、女の話もしない。しかし彼の絵の才能は他を圧し、教授達の賞讃をほしいままにしている。又、時折、首に白い包帯を巻いて教室に現われ、その色白の見えぬ首筋には嚥脂色の吸跡が隠されているはずである。仲間達は、そんな彼の気障さを疎んじたが、私にはよくアルバイトを探して来てくれ、時々ピソハネもされるが、大切な友人である。
断片的な彼の話を継ぎ合わせると、二人の歳上の女が彼をめぐって葛藤を繰り返しているらしい。一人は既に同棲のまま彼の子供を育てている。彼の美貌と才能は、女にとって格好の夢であっても不思議ではない。その泥沼から逃げるように、又、別の恋人が出現し始めている。
あまり雪の積らぬうちに山を下りる事に話がまとまり、明王堂に出向き、阿闍梨様に一宿のお礼を深々と述べた。寒々とした堂内に、真赤な明王の燃えるような膚が異様にかがやいている。私は未だ、その像の前にひれ伏す意味が分らない。彼は明王像に複雑な一瞥を投げていた。
下り道ながら十センチ程積った雪道は歩きづらい。少し歩いて私の提案で小休止した。一面の銀世界の中で、私に小犬のような童心が湧き、雪だるまを作りたくなった。彼は、そんな私を少し離れたところで煙草をふかしながら、小馬鹿にしたような表情でじっと見ている。かなり大きな雪まろげが出来、それに雪の肉髻を重ねる頃、勘の良い彼は、昨日スケッチした唐招提寺の破損仏の仏頭の形に近づいたのが分ったようである。無器用な私をなじりながら、しぶしぶ手を貸し始めた。
誰れ一人通らぬ雪の山道で、二人は汗さえにじませて仏頭造りに熱中した。言葉を交す事もなく、サラサラと降りしきる雪の中に居た。教室では嘗て見た事もない、彼の真剣な横顔に雪が降りかかっている。私はそっとその作業から手を引いて、美事な仏頭の出来上るのを傍観していた。
そんな山道を、麓から登って来たらしい一人の女が近づいて来た。仏頭の前で立ち止り、思わぬところに出現した像に少し驚いたようである。頭からかぶったショールの下から、影ある顔をほころばせてその出来ばえを褒め、製作者の彼に微笑みかけた。その中年の女は、明王堂に毎日参拝している事など、はんなりした京都弁で語りながら、手籠の中から何処からか手折って来た寒椿をとり出し仏頭に添え、し.はらく合掌した。
仏頭の首元に置かれた一輪の寒椿の真紅が、焙火のように雪の中で映えている。凍えるような静寂の中で、その紅色だけが血のように熱い。私はふと、彼の首筋に視線を走らせて、ぼんやり、それ、を見ていた。
沈丁花
町工場の騒音の響く中、この辺りの家並にふさわしからぬ一軒の古びた屋敷が在る。その一角だけが常にひっそり静まりかえっているのは、暫く手入れもしない庭木や灌木の垣の緑の深さのせいかもしれない。
少年の住む粗末なアパートと、酒屋の中間辺りにこの家が在り、度々彼は酒好きの父に飲み足らぬ焼酎を買いにこの路を走らされた。凍える冬の夜の寒さに比べ、春めく頃はついつい使いの足もゆったりとなる。屋敷の垣に植えられた数十株の沈丁花が開く頃、生温かい夜気の中に漂う花の香に酔うように、少年は酒壜を抱えてしばらく立ち止っていたりした。花の名を教えてくれた母親は何処かへ姿を消して一年にもなる。
去年のやはり春めく夜、物心ついてからずっと繰り返されていた、父の酒が因での口論が母と始まり、少年は布団を覆(かぶ)って泣いた。両耳に流れ入る涙がやがてつめたく冷えていく頃、父母の罵り合う声は遠く夢の中にとりこめられて行った。いつもは数日で戻る母の出奔は、今度はひどく永く続いている。一年の廻(めぐ)りは、沈丁花の香りの中で大人びた感傷となって胸をしめつけている。
或る夕刻、沈丁花の香に佇む少年は、この屋敷の主らしい老女に呼びとめられた。老女は仔猫を捨てて来て欲しいと依頼し、親猫が連れ戻さぬよう川の中に捨てる事まで指示して、少年には多額と思える金を胸ポケットに捻じこんだ。病弱らしい老女の哀願するような眼の光と、胸ポケットのふくらみに戸惑い乍ら少年は渋々と未だ充分毛も生えそろわぬ三匹の仔猫を、布を敷きつめたボール函につめた。この冬、沈丁花のところどころに雪が白々と残る夜、株の根元でうずくまる猫の交尾を見ていた。
少年は決心がつかぬまま重い足どりで屋敷の門を出て河に向っていた。嘗て何度も捨て猫を飼おうとした事がある。その度に結局、猫も飼えぬ自分の状況を熟知させられて来た。憐憫がいつしか数倍の哀しみになって跳ね返って来る事を知って居り、老女は花の香に佇む彼の、年齢に似ぬ諦観を嗅ぎとっていたのかもしれない。
二日ばかり続いた雨を集め、街中の河は水量を増していつもより激しく流れている。両岸を高いコンクリートで固められた、水面まで五、六メートルもある橋の上に立って下をのぞきこんだ。生活の染みこんだ物が浮き沈みしながら流れている。様々の人々が色々なものをこの河に捨て流している。夥しい数のゴミをひとつひとつ眼で追っている内に、少年の持つ函の中のしきりに鳴きながら四肢をふんばって動く仔猫の存在が、いつしか遠く意識から離れていった。
思い切りよく彼は手中の函を河の中へ投げた。函の蓋が空中で開き、バラバラと仔猫達が散って水面に堕ちていった。先程、函に詰めこむ時、少年の決心の鈍さが固い紐の結びをためらわせていたのであろう。自分の行為に驚きながらも眼を閉じたりせず、数秒間仔猫達が藻掻きながら水面に沈んで行くのをしっかりと見届けていた。
その夜、彼は手にした金で父の好物の鰻を買って待った。父の帰りは又遅い。先に床に入って眼を閉じると、河の中に堕ちて行く猫の姿態がまざまぎと網膜に焼きついて離れない。寝つけぬ夜を迎えていた。少年の指先は自分の下腹部に、あの仔猫の和毛(にこげ)に似た感触にふれてたじろぎ、ふるえた。沈丁花の香が、生々しく鼻孔を擽るように漂ってくるようでもあった。
百日草
この街は、その名にふさわしく東京の「谷」のように思える。様々の人々が、肉体や心を病んでここに流れ堕ちて来ていた。
三畳ひと間のドヤに身を寄せ合っている一組の男女もその例に洩れない。〈オトコ〉は立派な体躯を持ちながら酒に浸っており、〈おんな〉は顔の右半面に拡がった赤い痣を持つ。それを厚化粧で覆って、労働者相手の小銭で足りる春を売っている。
梅雨があけて、すぐ続いた熱帯夜の澱んだ湿気の残る早朝、街の中の空き地の如き小さな公園で二人は遇った。無一文の男に乞われて、労働者達に早朝から開けている安食堂で女は酒とめしを奢った。黄濁した眼だけが不釣合いの屈強な若者が、汗とも泪ともつかぬものを頬に光らせてヒビ割れた唇に安酒を呷るのを眺め、女は優越感の味のする蕎麦を啜っていた。同情はこの街でも、自分より堕ちた人間を確かめ見る安堵の時をつくる。女はいつも安い金で買われながら男達の侮蔑に苛まれていた。酒を恵む相手の冷やかな視線を感じて、男も又、女の汗で剥げかかった化粧の下から覗く赤い皮膚を盗み見た。
負い目の中で男は、女の右側に枕を並べ痣に頬を添えて眠り、翌朝早く街角に立ち、仕事に出て行った。そして、女の許に夜遅く正体も無く泥酔して戻り、汗のしみ込んだ作業着のポケットから小銭が一粒ころがり落ち、金はそれが全てであった。膝元に崩れて眠る男を横目に女は慣れた化粧の手鏡を取り出し、この街に流れて来て初めてのヒモと最後の夢を持つ自分を覘(のぞ)いた。
同じ事が繰りかえされ三ヶ月近く過ぎた。男の日当はその夜に全て酒に消え、女の細々とした稼ぎが二人を繋ぎ止めていた。女の夢に酬いられない己れに日々傷を深くする男は、宿酔(ふつかよ)いの床の中で人が変ったように優しい。二人で立ち直る明日からの夢を語り絡め、遇う前の互いの過去を短い時間で埋めるかのように、ぴったりと肌を寄せ合った。
そして、昨夜も、十日間の飯場暮しでまとまった金も飲み果たし、一日近く毛布を覆って自責の念に身をふるわせている。昨夜嘔吐した洗面器の中味を女の視線に投げつけ、そのままの女の寝顔を見る事が出来ない。やがて男は顔を埋めた儘、詫びるように汚れた女を自分の方へ強い力で抱き寄せた。
台風が接近しており、逃亡防止の為にとりつけられた鉄格子つきの窓を強い雨が叩いている。女は雨の中を走り、頼まれた睡眠薬と弁当を買って戻った。薬の力で酒を飲まぬ夜を過す何度目かの試みである。二人は布団の上に腹這いになって弁当を食べ、薬を飲んだ。使いの途で女が手折ってきて空壜に挿した一輪の赤い花の名を男が尋ねた。故郷の仏壇に供えられていた花に似るそれがどうしても想い出せない。二人は知る限りの花の名を、ゲームに興じるようにあげ合い、笑った。
すでに寝息をたてる男の腕の中で、女は枕元の花を見ていた。厚い花弁の裏側は、表の赤色を隠すように白い。その白さが少しずつぼやけて、睡気が誘う時、消防車のサイレンが近づくのを聴いた。女は自分を胎内に宿した母親が、火事を見たとか、父の欲情を受け入れたとか云う痣に纏わる迷い言をふと想い起し、二度右頬に受けた熱さの記憶をはっきりと蘇えらせた。
サイレンは夢の中まで一層大きく響いて来ていたが、女はやっと花の名を想い出し、呟くように男に告げた。
「百日草……」と。
桜
敗戦から一年近く経ってやっと、南方で戦病死した長男の遺骨が還って来た。形ばかりの小さな白木の函は両掌の上でいかにも軽く、振ると中からコロコロと虚しい音が聴える。それが息子の何であるのか確かめたくて函を開いた。幾重にも巻いた布の芯に、黒く血の惨んだガーゼが現われ、その骰子(サイコロ)状の中味をもう胸が塞がれて解く事が出来ない。捨吉は/小指をつめて送って来やがった/と慟哭した。賭博好きの職人らしい想像である。長男が/出征後に開けてくれ/と云い残して行った封筒の中味、髪の毛と爪も函に入れて蓋を閉じた。せっかく学問させながらも、自分に似て見栄っぱりな長男の志願の出征を口惜しく思った。
質素な葬儀が済み、出征前夜、自分から乞うて母親に抱きついて眠って行った長男の遺骨を持ち、女房は未だ引き払わぬ疎開先の実家へ、小学生の二人の子供を連れて戻り去った。定職を持ち得ぬ捨吉の許で、子供を食べさせてはゆけない。
捨吉と十七才の次男が空襲で焼け残った下町の長屋に居た。他人を真似て闇市でスイトソなど商ってはみたが、職人気質の彼は無残に失敗した。空腹の浮浪児達の眼の前で食い物を商う事が辛く、三日目には全てを彼らに振る舞い、何かにひどく立腹して空の屋台を引いて帰って来てしまった。誰も居ない家に戻り.ゴロンと畳に身を投げ出し、雨漏りの跡のしみついた天井を眺めている内に、突然、みじめな自分への怒りが爆発した。狂ったように鉈を振りあげ神棚を壊し始めた。爆風を思わせる塵ほこりが天井から舞い溢れ部屋中に充満した。暫く米など炊いた事のない竈に神棚の全てを投げ入れて燃やした。無知な捨吉の云いしれぬ怒りの、神への八ツ当りであった。丁度戻った次男が、竈の火に映える父親のすさまじい形相へ/俺が兄貴と替っていればナ/と冷やかに声をかけた。
次男はすっかりグレている。何をしているのか、身なりも結構いいし、洋モクなど時々父親に投げてよこす。そして、いつのまにか住居も次男の連れて来る客達の花札の賭場に変った。いつ入れたのか彼の腕に二、三輪の桜の入れ墨と女の名前が彫りこんである。その名さえ、女房気取りで彼に纏わりつく派手な娘のものとはすでに違っている。
一組しかない花札も夜毎の熱気に角が丸くなりずいぶん傷ついていた。桜のカス札はもう真横に白いヒビさえ走らせている。捨吉は次男の背一面に桜の彫りものを咲かせる事を思った。捨吉自身、若い頃から器用に自分でいたずらを施しており、腿に彫ったおかめの面もすっかり肉の落ちた皮膚の上でしぼんでいた。次男も立派な彫りものを必要とする生き方に足を踏み入れている。どうせなら、親の手で息子の身を傷つけ飾ってやろう。
雲と満開の桜の下に髑髏を配し、次男の干支(えと)の大蛇がそれを巻く図柄を背中に描いた。若い肌は線描きの墨をはじけさす程、脂が濃い。手製の彫り針のタコ糸をきりりと強く締め直して、たっぷり墨を含ませた筆の軸を口に銜え、うつ伏せの次男に体重を乗せた。やがて、確かな手応えで針先が肌に喰いこみ、はじき、息をつめて血の吹き出す傷口に素速く墨を入れた。古い襖に針先から血墨が勢いよく飛び散り、次男の背中に一輪一輪血の滲んだ筋彫りの桜の花びらがふくれ上り、生臭い匂いを放って咲いてゆく。
捨吉は次男の肌に指の腹を添えながら、失った長男の/行ってきます/と白い歯を見せて笑い、父の手を握ったあの大きな掌の温もりを想い起していた。
木槿
初夏、遅い目覚めの朝、部屋いっぱいに湿った雨の気配に窓際のカーテンを引く。あばら屋の借家の狭い庭は、音もなく煙るような雨に濡れている。一隅の灌木の緑の中に、白い蝶が羽根を休めて止っている。雨に打たれる蝶の痛々しさを不審に思い眼を凝らすと、それは一輪の木槿の花の咲き始めであった。眼覚めのけだるさの中、夢の続きのように、木槿は次々と開花して数日の間にいっぱいに花をつける。茶花に愛でられる如く、ひどく短命な花でもある。〈道のべの木槿は馬に喰はれけり〉芭蕉の一句の治定の確かさと、その内在するものに深く感動したりする。
あの咲きほこる樹の下、充分雨を含んだ黒土の中に、去年埋めた猫の屍体が確実な時の流れの中で腐っているはずである。
繰り返す季節の廻り、あの日も雨であった。猫のむくろをダンボール函に詰め、木槿の花を隙間なく飾って土の下深々と埋めた。一握の土地さえ持ち得ず、己れの筆塚さえつくれぬ絵描きの飼い主が、他人の土地に無断で埋葬した。
五年間程、生活を共にした雄のシャム猫である。その気性の激しさを疎んじられて友人から貰い受けたが、わずかの期間に借家住いの飼い主の都合に従って、三回の転居を共にした仲である。放し飼いにしながらも姿を消す事もなく、その土地その場に慣れついて住んだ。人になつかず家になつくと云う定説に外れた猫だったのかもしれない。満身創痍の形容ぴったりの闘争に明け暮れていた。何故こうまで喧嘩好きかと呆れ果てたが、考えてみれば哀れである。ひとつの土地で精いっぱいの縄張り争いの末、やっと自分のテリトリーを勝ち得た頃には転居の憂き目に合う。猫は再び一からやり直しの闘争を力の限り始めなくてはならない。ザックリと口のあいた深手の傷をその度に自力で癒した。押入れの暗部の中で幾日も飲まず食わずでひたすら傷を舐め、苦しい息に腹を波打たせながら体力の回復を待つ。そんな状況に追い込んだ飼い主への恨みの視線も投げかけず、唯々吾が身の性(さが)のつたなさに堪える如くである。やがて、フラフラと水を飲みに這い出し、筆洗の水を旨そうに飲み、よろけつつも長々とノビをする。そしてきらめく午后の陽射しをじっと視ていたりする。そんな猫の強さに、飼い主はしばしば吾が身を恥じた。好きな絵を描きながら、その道程の傷の痛みについつい愚痴をこぼし、闘争にはっきり破れている身の傷口を見つめて人目のつかぬところで舐める行為を怠っている。
猫は小さい頃から飼い主の腕枕で眠るのが習性となっている。喧嘩の夢に寝呆け野性に戻り、飼い主の腕を血が吹き出るほど噛みついたり、雨の夜をほっつき歩き泥だらけの体で布団にすべり込み、何度も叩き出されたりもした。しかし共に身を寄せて安堵の鼾をたてて眠る五年近い添い伏しは野ぶし達の眠りに似ている。争いのあいまに時々狩猟本能の成果を飼い主の枕元に運んでくれる。鼠、トカゲ、ヤモリ、雀等々、飼い主の困惑もおかまいなしに、自分の好物の小鰺の返礼に獲(と)って来た。蛇など持って来たら承知しないぞとひどく打擲(ちょうちゃく)されると、しばらく後でいかにも高価らしいローラカナリアなど盗んで来ては、枕元に美しくも残酷な死骸を並べていたりする。猫との好意のすれ違いにはずいぶんと困らされたものである。
やがて猫は度重なる闘争の末に片目を失った。飼い主にふさわしからぬ優雅な姿態のシャム猫であったが、日が経るに従って益々うす汚く一種の凄味さえ漂わせはじめた。たったひとつ残った眼でも相変らず喧嘩好きであった。
そして木槿の花の満開の頃、イエローファットと云う病に仆(たお)れた。何の事はない、鰺の食べ過ぎによる美食が原因である。貧乏のくせに美食とはと飼い主を苦笑させた。体調を崩した猫は初めての甘えをみせて病む身を飼い主にすり寄せて眠り、床の中で失禁した。翌朝、事の重さに金をかき集めて獣医に看せた。手遅れを宣言され尿毒症による狂暴を防ぐ為にも注射による安楽死を勧められたが、どんな状況でもこの猫には自然死が似つかわしい。飼い主のエゴは看とる覚悟で家に連れて帰った。
数時間後、深々と息を吐いて猫の命は尽きた。抱きあげると脚をだらりと伸しきったまま、その体長の大きさに今更のように眼を見張った。飼い主の手にずしりと重い感触だけが残った。添える花は、折りから異常に咲き狂う木槿しか見当らない。呆然と雨の庭におり立ち、腕いっぱいになるほど白い花を手折っていた。白い花びらの芯の部分が鮮やかに赤い木槿である。
「底紅」という種類である事を、後に、聞いた。
紫陽花
六月の週末、工場の終業ベルに解き放されて間もなく、彼は近所の未だ客のまばらな銭湯の湯舟に身体を沈めていた。夏至近くの梅雨の晴れ間の陽射しが高い天窓から入り込み、そんな早い時間の入浴が少々贅沢な気分にさせている。
浅黒い若い膚が、溢れる豊かな湯の中で、やがて紅殻色に上気してくる頃、ふと身体周辺に滲み出し湯の表面に流れ出すインク色の油膜に気づき、彼は濃い眉を寄せて舌打ちをした。充分、石鹸で機械油を洗い落したはずであるのに、どこかに染みついた油が、赤・黄・緑・紫と原色のマーブル文様を描いて湯舟の表面に流れ出し、陽に光っている。
少年の頃、友人の誰れよりも早く大人びた肉体を恥じて、客の少ない一番湯によく通った。
あの日誰も居ないはずの湯舟の煙る中に原色の生首が浮んでいた。風呂屋近くの空地に小屋がけしている旅廻りの芝居の役者がひとり、舞台化粧を落さずに身を沈めていたのだ。そして、天窓から射す夕日のスポットライトを浴びながら、湯気の立ちのぼる中で、少年の身体を凝視していた。
舐めるような視線が近づき、親切ごかしに、固辞する少年のしなやかな背を愛でつつ流してくれ始めた。二人だけしか居ない湯気に霞む白いタイルの上で、やがて役者の巧みな話術と指の動きに眩惑され、少年の下腹に磨り白粉がベッタリと粘りつき、鬢附油の濃く匂う役者の頭部が少年の股間でゆっくりと動いた。
週末はいつも工場の帰りに銭湯に寄り、安アパートに戻って小ざっぱりとしたシャツに着替えてから、電車を乗り継いで繁華街へ出向く。毎週きまったように二本立ての映画を観て、ラーメンとライスで腹ごしらえしてから、程良い時刻に裏通りの一軒のバーへ足を運ぶ。
変哲もない扉を押せば、マスターの使い慣れた媚びを含んだ挨拶の声に、カウンターに居並ぶ男達の視線が品定めをするように一瞥彼に痛くつきささる。それを外ずして俯き顔で空席に腰を落す。ずいぶんこの店に通っていながら彼は他の客のようには殆ど口を開かない。母への仕送り後の生活費を考えてちびりちびり舐めるようにビールのコップを口に運んでいる。
周囲の男達は皆、小指を猫のひげのようにピンと立てて煙草やコップをあやつり、女言葉で彩られた面白おかしい恋の経緯や、肉への賛美の話題でさわがしい。口も重く仲間にも入らず、金も使わずに、必ず最後には格好の客を拾って行く彼を、マスターもボーイ達もけっして気を許してはいない。
今夜も又、彼は終電の時間近くになって些かの勘定を済ませて腰をあげ手洗いに立った。そして手洗いからの帰りしなに、一人の外国人に小さく声をかけた。〈Why
dont you get on ball ?〉 店に入ってからずっと遠慮がちではあるが、離れた席から、湯舟の役者と同じ視線を彼に送っていたその男は、彼のブロークンな英語を解したのか、飛び挑ねたように腰をあげ、足早やに店を出た彼を勘定の釣りも受け取らずに、追って来ていた。
カーテン越しの朝の陽射しに、彼はうっすらと眼をあけてみる。有名なやくざ俳優に面差しの似る彼の顔を、じっと窺(のぞ)きこんでいる男の存在に一瞬戸惑い、いつものように昨夜からの成り行きの記憶を呼び戻して安堵し、苦笑と共に相手を見上げる。やはり外国人は動物に似ているとつくづく感じる。ベッドいっぱいに染みついたこの臭いも獣の食べ物のせいだ。昨夜二度応えていながら、又朝に手に余る量を持ちつつも中途半端な硬度で喘ぐ執拗さに辟易とする。唯々、その男根と同じように焦点の定まらないブルーの淡い明度を持つ眸だけが妙に愛しい。
午下り刻、彼は昨夜の相手の部屋を出た。靴を履く彼を呼び止め、相手は財布を探っている。いつでも彼は相手に金を請求はしないが、相手が多少の金を握らせれば、それはそれで遠慮なく受け取ってはいる。
昨夜の相手は名刺をとり出しくCall on me> 哀願するように囁きながら彼のポケットに名刺を滑りこませた。彼に靴ベラを手渡し、それを〈horn〉と英語で教え、意味を解せぬ様子の彼に、それを頭の上に立てて〈角=ツノ〉の形を見せた。続けて日本の意味を尋ねる相手に、咄嵯にヘラの英語が思いつかぬまま、この場にふさわしく、わざとベロを出してその形を真似た。相手は少し顔を赤らめて納得したようである。
相手は門まで送って来た。昨夜は分らなかったが、ある学校の宿舎のようでもあった。睡眠不足の眼には、から梅雨の陽は眩しい。一面に紫陽花が重たげな花をつけた植込みの中を歩いた。昨夜の帷(とば)りの中で一向に夜陰に溶けずに白けた塊りをみせていたのはこの花だったのかと今初めて気づいた。
この学校の英語教師らしい相手は、陽の中で職業に目覚めたかのようにその花を指差して<hydrangea>と美しいアクセントで彼に教える。彼は間違えて<hydrogen〉と聞き返した。〈紫陽花〉もく水素〉も似ていると思った。
二人のちぐはぐな会話に聴き耳を立てるように、紫色の夥しい数の大輪の花がひっそりと息をひそめており、毒々しい原色に彩られた生首がいくつも並んで彼を視ているように思えた。
百日紅
昭和二十年夏──。多摩川の清流に沿った小さな花柳界の中に、もう数ヶ月前に廃業してしまった料亭〈やまと〉の荒れ果てた庭で、幼い少年と一つ歳上の少女が遊んでいる。広い庭の雑草に交って点在する石組みや石燈籠の間に、今一本の百日紅の樹が、うす紅色の炎のようにちぢれた花弁にあふれて咲き誇っていた。そのすべすべくした幹は、その名の通り猿のスベリ台のようだと、幼い二人は信じて、花を摘んではやや傾斜のある幹の部分に滑らせて遊んでいる。
生垣の破れから小さな身を入れてしまえば、ここは二人だけの遊び場である。東京の空襲を逃れて、この土地で芸者をしている姉の許へ疎開して来た少年と、この地に住む朝鮮人の少女は、自然と他の遊び仲間から離れて、何の遊び道具も持たずとも一緒に過す事が多い。〈ゲイシャの子〉とくチョウセンジン〉は他の子供達に溶け込めぬ壁があり、それが一層二人を親密にしていた。
まだ陽が高いうちに姉達芸者一団と共に、風呂屋の裏口から多少高い金を支払って入ったヤミ風呂から帰り、少年は香りのよい天花粉にまぶされ、置屋の定まらぬ夕食時間のまま、白米の握り飯を二つこしらえてもらって少女を遊びの誘いに行く。注意深く握り飯を背に隠して少女を呼んだ。
少女の母は貧しくとも、少年から食べものを与えられる事をひどく嫌う。一度、二人で分け合って食べていた蒸し芋を、母親は少女の手から叩き落とし、耳を強く引っぱって家に連れ帰った。心配顔で中を窺う少年の耳に、口惜し気な響きを含んだ聴き慣れぬ言葉で大声で仕置きする母親と、少女の泣き叫ぶ声がずいぶん永い時間続いていた事がある。
近くに駐屯する軍人相手の花街の置屋には、将校相手の売れっ子芸者も抱えて、食料に不自由は無い。「桃太郎」の名で出ている少年の姉も、ふくよかな美貌と子飼いからの芸達者も加わり、妹芸者「勝丸」と共に置屋の稼ぎ頭である。
荒れた〈やまと〉の庭へ誘い出した少女と二人は握り飯をほおばり、百日紅の下でいろいろなゴッコ遊びに戯れている。少女から持ちかげられて最近おぼえた秘戯が夢中になって繰り返されていた。戸の閉ざされた料亭の濡れ縁に少女は仰臥して垢で黒ずんだ腿を開らく。少女のそこは、芸者達の黒々とした翳りもなく、百日紅の幹のようにすべすべと輝いている。多少の小便の匂いも、置屋の防空壕の中でのカビのすえた臭いに交った強烈な脂粉に汗ばむ体臭に比べればいっそ清々しい。あの夜、この土地にも初めて空襲警報が鳴り響き、少年は芸者達に起され壕に入った。遠くに落される爆弾の地鳴りが壕にも響き伝わり、泊り座敷で居ぬ姉を案じながら身を縮めめている暗闇の中で、誰れかが少年の身体をまさぐっていた。訳知りの女達の忍び笑いの中で、白粉と汗と酒に混濁した獣物(けもの)に似た動きに困惑して、声を殺して耐えた事がある。
少年は少女の秘処に花びらを埋め、少女は少年の堅い肉片を弄び、お互いの肉体に無いものを玩具にして遊んだ。
先程から庭のむこうの料亭から賑やかな宴会のざわめきが聴えて来ていた。さすがに派手な御座敷は少なくなってはいたが、隣の敷地続きのく仙寅〉に久しぶりに大きな宴会が入っているらしい。
二人はその浮立つ華やかさにひかれ、身を繕って境の植え込みを這い抜けて〈仙寅〉に潜入した。よく手入れの行き届いた庭の向うに、大きく障子が開け放たれ、座敷を半分覆うように廊下の庇から簾が一列に並べ垂らされている。座敷の内部はよく分らぬまでも、芸者達の色鮮かな着物の裾と軍袴のカーキ色が入り交り、もう酒席はかなり乱れているらしい。三味線がひときわ高く調子を上げ「浅い川」の曲に変った。川渡りの振りで踊る芸者達の白い脚が、少しずつたくし上げられる裾につれて見えかくれして、和すように客の軍人達の興奮した蛮声が高まって行く。
そんな座敷を外すように一人の芸者が廊下の端に出て来た。姉の「桃太郎」である。酒に上気した頬をさますように袖で風を送りながら佇んでいる。やや夕日に近づいた陽の中の姿に、少女は思わず、緕麗
! とため息をつき、少年も得意そうにうなづいてみせた。私のお母ちゃんだってちゃんと化粧すればもっと椅麗よと、少女は「桃太郎」の美しさに少女らしい嫉妬を燃やした眼で見返した。酔いを醒ます姉の姿を追うように、上衣を脱いだ一人の軍人が千鳥足で近づいて来、それを前から承知していたように姉の姿に一層の媚が表われていた。形ばかりの抗いを示して、姉は男に抱きすくめられた。お座敷着の花模様の裾を割って滑り込んで来る男の手をじらすように制している。
その光景の成り行きを興味深く見入る少女の手を強く引っぱって、少年は慌てて深い負い目を避ける為にその場を去った。
やがて、数日後しんと静まりかえった唯々白金色の太陽の下、玉音放送が流れて敗戦となった。低空を黒々と飛行機が次々に通り、夕刻から暫く一陣の突風が吹き荒れ、高々と唄う異国の歌が少女の家からいつまでも続いた。
九月半ば、もうこの花柳界も赤ら顔の進駐軍の兵隊達の遊び場に変り、姉は闇屋らしき男と結婚する事になり、少年は近々東京に帰されるようである。前借の残った芸者達は煌々と電燈のついた白日の如き見番(けんばん)の前に並んでいる。「勝丸」は軍隊の慰問でしか着なかった派手派手しい振袖の長い袂を翻し、紫の鬘巻をリボンのように洗い髪の上に結んで流し、帯を繕う手が後に回らぬほど綿のように疲れるまで稼いでいる。
少女と久しぶりに百日紅の樹の下に居た。もう花は無残に地に堕ちて盛りの面影も無い。少年は年老いた東京の母の許に帰り、少女は遠い故郷へ帰る前の子供らしい別れの秘戯の後、少女は、少年の姉が本当は母であるという噂話を確め尋ねた。他人(ひと)の口の端(は)に感じて来た事実を、少女の口から残酷に告げられて、少年は狂ったように怒り少女に飛びかかって行った。疎外されていた二人が、初めて口汚くお互いの心の中に隠していた蔑称をぶつけて罵り合った。取組み合いの激しい喧嘩の末に、少女は軽るやかに身を躍らせて庭から道へ逃げ出し走った。
後を追う少年を時折ふり返えり、今までの負い目を埋めるように勝ち誇った嘲笑を見せている。一瞬、真昼の太陽が照ったまま俄か雨が降り出していた。カラカラに乾いた道に雨が降り注いだが、二人の距離の間に雨雲の切れ目があったようである。立ち止まった二人は同じ道の上で、少女は陽ざしの中に居て、少年は雨の中で濡れていた。
蓮
旧い校舎の中でも一番奥まった場所のこの資料室は特にうす暗い。何処からかひどい寒気が吹き込んで来る。乾燥しきった空気の中でも、かすかなカビの匂いさえする。
何度も、膠の固まる絵の具皿を鉄製の火鉢に乗せながら、かじかんだ手を、小さな火種の上にかざしている。
どうしても宋画の模写をしたくなって、授業の課題以外の事に、自らすすんでここに来ている。時々授業をサボってアルバイトに出かけている画学生にとっては珍らしい事でもある。
持ち出し禁止の貴重な軸であるから、この寒い場所で写さなければならない。資料室の助手は小幅の〈蓮池小禽図〉を貸してくれた。三枚の葉が池の面に伸び、それを縫うような一茎のゆるやかな曲線の上に、程よい重さで白い花が開いており、その下に一枚の花びらがはらりと散って行く。画面下の空間には水草ののぞく池面を一羽の鴨が餌を追っている。
教授達のヌルッとした線とは異質の、息をひそませるような緊張感に研がれた線が描かれ、成程全てがきりりと引き締っている。蓮池図の情景は夏ではあるが、それをこの冬の寒気の中で模写するのも、宋画であるからこそふさわしくも思えた。
助手は隣室に閉じこもって何んの会話もない。時折、模写の進行状態を見下すように一瞥しに来るだけである。軸を借りる折や、返却して帰る時の簡単な挨拶だけで数日が過ぎている。
代赭色に古色のついた軸の極めて見えにくい線は、何度も天平紙を巻きあげ何んとか息をつめて写し終え、それを仮張りに貼り替え彩色に入った。水草も鳥も蓮の葉の墨色もどうにか調子よく写し終えたが、花とたった一枚の散華がどうもうまく行かない。厚く塗りすぎてしまった胡粉が、なんべん古色を上から覆うように引いても、執勘に白く浮きあがってしまう。特に、散る一枚の花びらがどうにもならない。消えぬ白さに苛だち、自分の失敗に焦れた。もう一度花びらの上に古色を重ねて、乾きを待った。
その間、冷えきった手を火鉢の炭火にかざして、ほの暗い資料室の隅々まで初めて眺めまわした。うず高く本が積み上げられている窓際にはもう早くも傾きかけた日が弱々しい光を射しかけている。凩が立てつけの悪い窓をしきりにたたいており、本の隙間のスリガラスに逆光に浮び上った落書きがあるのに気づいた。目を凝らして読むと、ところどころ剥げかかってはいるが、太々と墨で書かれたはずの「明日入営」の四文字のようである。
敗戦から十五年経って二十歳をむかえている身には「入営」の文字の意味を解するのに数秒かかっていた。誰かが過去に、ここで入営前日まで模写をしていたのかもしれない。その落書きの主を想って、様々の憶測をめぐらしてずいぶん永い間、寒風に震える窓ガラスの四文字をぼんやりと見ていた。そして筆をとり、しばらく離れた距離からその四文字の万感迫る筆勢を真似て、何度も空間に書き擦ってみた。
絵の具の乾かぬ内に資料室の閉館時間に追われ、又明日に仕事を延ばして部屋を出た。窓ガラスの文字が心に残って少々重い足どりで上野の山をゆっくりと歩いた。右手の赫々とした夕日の輝きにひかれるように、この寒空の下に誰れも居らぬ不忍の池の端(はた)に出た。コートの衿を立てマフラーで鼻まですっぽりつつみ、ポケットに深く手を入れて丸くなって池のほとりのベンチに腰を下した。
目の前の池の面は広々とした蓮池である。枯れて殆んど棒状になった蓮の茎だけが池の面につき出た敗荷(はいか)の情景が拡っている。低く沈んで行く夕日の残照に映えて、池の面は血の色に燃えるように赤く小波立ち、茶褐色の骨を思わぜる夥しい量の蓮の茎がどこまでも続いていた。
それを見つめている内にふと、自分の模写の一枚の散華の白さを、あのまま故意に消さずにおこうと思った。
──『異聞 みにくいあひるの子』1988年
1月 創樹社刊より──
(作者=さっか・せいじは、1937年生れ無所属の日本画家。本名古山康雄氏。東京芸大日本画部卒業。テーマのある個展を多くもつ傍ら書かれた『異聞
みにくいあひるの子』は異彩を放つ小説で好評をえた。アンデルセン体験と自伝的な味わいを融合した境涯に魅力があるが、長編のために、スキャンしやすい原題「花散文」八編を戴いた。蛇足、補足の「寓話」と作者はいわれるが、味わいの濃い佳いものである。今一度ていねいに推敲して用字用語が磨き直されれば、この人なりの繪のない繪本となろう。湖の本の、読者。1.7.20
掲載)
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