辻谷の寅子石     榊 弘子
 
 

 生きてあることがうとましい日は、辻谷の寅子石に逢いにゆく。

  延慶四年三月八日 報恩眞佛法師 大發主 釈唯願

と銘された丈余の青石塔婆は、綾瀬川に近いさびしい水田の只中に、無口な大男のように立っている。南無阿弥陀佛の 雄渾な鑿のあとが数百年の風雪に耐え、なお深々と抉られて、
昭和の寂光を溜めている。

 むかし、このあたりの長者の養女で寅子なる美女が男たちの争いのもとになるのを耐えかね自害して果て、長者はそ の遺言を守り、寅子の腿肉を膾(なます)にし男たちに振る舞ったそうな。男たちは食して後これを知り愕ろき悔やみ秩父から青石を運んで建て供養したそう な……。

 啓蟄の頃三月八日、板碑を囲む共同墓地の村人は、寄り寄って御斎(おとき)をし、寅子石とよばれる板碑に詣でそ の冥福を祈るという。

 わが肉を男たちに与えた佳人の消息を手繰ってみたいと近在の古老をたずねると、「弓山」「膳洗い沼」「有無(あ んなし)」など、その跡もさだかならぬ地名ばかりが、ともっては消える螢火のようにはかなく浮かび、板碑にも御詠歌(ごえいか)にも寅子の名は行方知れな い。
 下総の入江に身を投げた真間(まま)の手児名(てこな)ならば「いにしへの眞間の手児女をかくばかり」と、人麿にもう たわれ「雨月物語」にもとどめられたものを……。
 唯願とは、浄土真宗高田派の高僧眞佛の愛弟子であろうか。親鸞に問いかけた唯圓のような悩める若き仏徒か、それとも寅 子を慕った複数の男たちを象徴する法名であろうか。
 ある古老は、承久の乱で鎌倉に背いた三浦胤義の曽孫が寅子であるという。なるほど「承久記」によれば胤義の七人の遺子 のうち、六人は刺し違えたり首を刎(は)ねられたりしたが、三男豊王丸だけは小河の尼の命乞いで永らえている。
 また別の古老は、曽我十郎祐成の愛人大磯の遊女虎御前の名を挙げる。曽我兄弟の魂鎮めに諸国を巡礼した虎御前は、京か ら東国に流された公達の忘れ形見、和歌の道に心よせ、人丸、赤人の跡をたずね、業平源氏の物語に情たずさえる才女であったという。

 富士山に向かって斜(しゃ)に構えた寅子石の目路(めじ)の彼方に、鎌倉時代のすさまじい戦乱の絵巻が繰り広げ られる。

──人肉を食らっても訝しくなかった時代──人びとは悔いつつ供養塔を建てたが……現代の寅子は蟷螂(とうろう) のように男を食らい、男もまた食われて悔いはしないだろう。
 生きものの気配にふと我に返ると、一匹の白蛇がするすると墓地を縫い水田の方へと消えていった。〈散文詩・寅子石に逢 いにゆく〉

 この不思議な伝説にまつわる散文詩を書いたのは、昭和五十年代だったが、詩の終わりに現われた白蛇は、今も私の 眼裏を音もなく過(よぎ)っていく。それはひとつの疑問符のかたちで私の中に蟠踞(ばんきょ)し、ふとした折にそっと首を傾(かし)げていたりする。
 今年は現代的な視点で「寅子石」に対(むか)ってみるべく、思いをあらたにして出かける。平成九年三月八日、板碑に銘 された延慶四年から六八六年目になるこの日は快晴で、自転車と伴走する風もこころよい。
 寅子石を囲む蓮田市馬込辻谷の旧河合村辻谷組衆の墓石は、以前は刻字も判読し難いような古びた墓石が多かったが、今は 磨かれた新しい墓石が目立ち、墓誌、囲いの石垣も整えられている。目路を遮る建物がほとんどない畠地の一画に屹立する板碑は、長さ四メートル、幅○・八 メートル、三角形の下に二条の横線がくっきりと穿(うが)たれ、裾広がりの長梯形状の板碑の正面には、蓮弁を下に「南無阿弥陀佛」(一字の大きさ約三〇セ ンチ)と六字名号の薬研彫が見事だ。碑の頂点が指す武蔵野の空は青くうらうらと限りない広がりを見せる。
  持参の線香を供え手を合わせ瞑目する。まもなく、三々五々花束や水桶などを手にした人びとが集まって来られた。三十代から八十代ぐらいまでの女性が多く、 男性はチラホラ。二十人ほどの人たちが、お盆に山盛りの白だんごと、花、線香を供え、水をそそぎ、交々(こもごも)に合掌、拝礼される。七百年近い歳月、 先祖から受け継いだ伝承を絶やすことなく守りつづけて農業、教職、会社員、工場経営者など職業もさまざまのようだが、ほっかりと通い合う連繋の温もりが伝 わってくる。読経、詠歌、和讃などを唱したりはしなかったが、このあと今年の当番の家に集まって、御斎(おとき)をされるそうで、静かに墓地を出、ペンペ ン草やホトケノザが群れ咲く畠の小径を、一列になって歩いてゆくさまは、まさに早春の風物詩のひとこまであった。

 ところで、この王者のような板碑の向かって左わきに、高さ二メートルほどの今ひとつの石碑が存在する。
「重要美術品認定記念碑」とあり、碑面に、

抑々(そもそも)当板石塔婆は今を去る六百三十有余年鎌倉末葉延慶四年三月八日 唯願法師が其の師眞佛法師に対し 報恩のため建立せるものにして俗に寅子石と称せらるるもの也
口碑を尋ぬれば昔当地一帯を領有せる長者の一愛娘寅子は近在稀に見る麗人にして其の端麗なる容姿嫣然たる明眸は幾多若人 の情抑え難く 遂に意を決し身を犠牲にして衆望に応ふ 時の人乃ち供養塔を建て其の冥福を祈りたりと
所在の弓山膳棚の名は其の故事を語り三月八日をもつて妙霊供養とし供養念仏の妙音綿々として今日郷土に響くも故なしとせ ず ─後略─

 この本文のほか、一年前の昭和十六年四月に、文部省が重要美術品としての保存を認定した旨も刻されている。記念 碑の裏面には、本橋悌次ほか十四名と、世話人三名、発起人竹野谷源右衛門の名が連なる。
 このほか、板石塔婆前面に並ぶ香炉と、その左右の石燈籠を仔細に見ると、向かって右の石燈籠に、

 万延元年(一八六〇)三月八日、五百五拾回忌、馬込村瑠璃光山東光院五十世

 左の石燈籠に、

 明治四十三年(一九一〇)、六百回忌菩提也施主辻谷組中

 そして中央の香炉には「昭和三十五年(一九六〇)、六百五拾回忌菩提也、東光院満蔵寺五十六世」と、万延元年か ら五十年毎に新しい供養のしるしが奉納されてきていた。
「重要美術品認定記念碑」が建立されたのは、太平洋戦争の最中であり、資源の乏しい時代であったが、そういえば私が去年 取材した「藤橋」が架け替えられた昭和十八年も、あの悪夢のような時代である。遡って蒙古軍の襲来に、宮中では敵国調伏の御修法(みしほ)が行われ、人び とも外圧と内戦に怯えていた十三、四世紀のことなどが思い合わされ、寅子石の謎はこの国の底深い痛みの根と繋がっているように思える。

 世にもまれな美女が複数の男に望まれる物語は、眞間の手古女(手古奈)の入水伝説、竹取物語のかぐや姫ほか珍し くはない。男たちに難問をつきつけて天界に還るかぐや姫の辛口な大人のメルヘンは別格として、悩み抜いた女が自殺したり剃髪して尼になるなどの悲話は数え 切れない。しかし、自分の腿の肉を膾(なます)にして、自分を欲した全部の男に食させるように──との遺言はおそろしい。しかも養父母とはいえ、これを実 行したという話は、説話の詐術がほどこされていたにしても謎めいている。
 岩槻市馬込の天台宗の古刹で、板碑の傍(かたわ)らの記念碑、香炉などに寺名が刻されている満蔵寺の田中住職にお尋ね すると、過去帳など火災で焼失し、由来は不明であるとのこと。
 また岩槻市太田の浄土真宗(本願寺派)の河津住職は、「板碑は眞佛法師への報恩碑であろうけれど、寅子の伝説はおそら くあとからの付け足しでしょう」と答えられた。

『新編武蔵風土記稿』巻之百四十五に〈膳棚〉〈有無〉〈子膾明神社〉が明記されているし、大宮市深作の春岡小学校 の近くに、<膳棚橋>、丸ヶ崎にある、<子なます神社>は、昭文杜発行の現在の地図にも記載されている。また、<子膾明神 社>には、円空も立ち寄ったようで、円空作にしては珍しい掌にのるほどの、小さな薬師像が置かれてあったそうで、十数年前に、その像を保管されてい た丸ヶ崎の多聞院で拝観させて頂いたことがある。
 いわゆる人肉嗜食は意図的に食するので、今世紀のフランスで日本男性のS氏が世を騒がせたし、アンデス山中の飛行機墜 落で雪の中に七十日間も閉じこめられても、生きのびた何人かの記録もある。平安時代の「餓餽草子」、近世の飢饉(けがつ)、太平洋戦争中の孤島などでの、 絵空ごとではない現実があった。
 とはいえ、「寅子石」の伝説では、寅子さんの膾を食した男たちはそれとは知らずに、食膳で寅子さんの愛を分配されたよ うである。

 ひとまず、寅子の事件が有ったか無かったか「有無(あんなし)」の地名にまでなったという伝説の有無 (うむ)は棚に上げて、厳然と建つ大板碑の被供養者「眞佛法師」と、建碑者と思われる「釈・唯願」の史実への足跡を探ってみたい。なお、この板碑の背面に は「銭巳上佰五十貫」という刻字が見られるが、寅子の名はどこにもない。当時の銭一貫は米一石の値に相当するそうで、莫大な費用を要したに違いない。地上 四メートルの地下には、その何分の一かの埋まった部分があるはずだし、この緑泥片岩の巨石を筏にのせて産地から運ばせ、石工に造営の作業をさせることは、 とても個人の僧が負担できるものではないと思う。
「唯願」を個人名と仮定して『真宗新辞典』の頁を繰ってみた。「唯願」の二字は無かっ
たが「唯願無行」の四文字があり、その意は、「唯願無行」→「別時意会通(べつじいえつう)」→「往生別時意」となって いた。
 その「別時意会通」の意は〔摂大乗論〕の四意趣の一とあり、その解釈は俗徒の私には難解で、宗教哲学の袋小路で立往生 させられる始末……。
 さらに「二十四輩」の中で唯がつく僧を調べると「唯仏」「唯信」「唯円」、願がつくのは「信願」など、まぎらわしい僧 名が並ぶ。
「眞佛」は「親鸞聖人二十四輩」の二十四人の高弟の第二番目にあげられている。この「眞佛」についてその閲歴をみると、 当時としては新興宗教だった専修念仏宗(浄土真宗)の悲愴ともいえる足どりがうかび上がってくる。

 比叡山で修学し法然の門に入った親鸞は、すでに政権を動かすほどの強力な勢力となっていた僧徒と幕府の弾圧で、 専修念仏停止の法難に遇い、建永二年(一二○七)越後に流罪になる。五年後赦免されるが京に戻らず、建保二年(一二一四)妻子と共に関東の地に留まり、経 文読誦発願と布教をする。
 人間を透徹した目で、ありのまま眺める人間肯定の精神をわかりやすく説き「教行信証」「浄土和讃」ほか、今に残る多く の宗教書、法文歌などを表わした。
 眞佛がその親鸞聖人を、稲田の草庵に訪ねるのは眞佛(椎尾弥三郎春時)十六歳の年であった。下野国(しもつけのくに) 真岡城王大内国春の嫡子として生まれ、六歳の時筑波山の俊源法師に師事、七歳で外典六経を暗記した逸材と伝えられる。父国春の死に遇い椎尾城王となった が、真宗への志やみがたく家督を弟国綱に譲り、親鸞聖人の門弟となる。「往昔、黒谷の会衆(えしゅう)三百余人未だ如此(かくのごとき)を見(みる)な し」と聖人が称(たた)えた程、聡明、賢者の器量を具えた若き仏徒であったという。
 早くも十八歳の時、親鸞の名代として京都に上り、三月下野の高田に帰り宗祖を扶けて高田専修寺を創立。貞永元年(一二 三二)第二世住職となった。
 師の親鸞聖人が関東での布教を二十年間にわたって行じ、弟子たちに託して京都に帰るのは六十三歳頃であるが、建長初年 頃から関東の教団に対する幕府の弾圧はきびしくなり、親鸞は息男善鸞を代理に派遣する。しかし善鸞は弾圧者側にとり入って、建長八年(一二五六)義絶され るのだ。「善鸞事件」と呼ばれているこの事件についての消息を『親鸞の詩と書簡』(在家佛教協会)の中から拾ってみる。東西両本願寺、高田専修寺などに蔵 されていた親鸞からの<親鸞聖人御消息集><未燈抄>などの書簡の中から、建長四年(一二五二)二月二十四日付の東国への手紙 に、

 ……往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとをもて、よも師 をそしり善知識をあなづりなんとすることは候はじとこそおぼえ候へ。このふみをもて、かしま(鹿島)・なめかた(行方)・南の庄、いづかたもこれにこころ ざしおはしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまふべく候。あなかしこ、あなかしこ

 長田氏は「善鸞事件」について、

 建長四年の頃、常陸方面に、造悪無碍(念仏を信じさえすればどんな悪事をはたらいてもかまわないという)説がさ かんであったので、親鸞は長男善鸞を関東へ送って、正しい信心を闡明し、邪義を糾正させようとしたらしい。ところがその善鸞が、親鸞の息であるという立場 を利用して、逆に策動し、親鸞の門弟たちを自分の勢力下にとり入れようとしたようである。

と解説している。さらに善鸞は父の指示によると称して地頭、名主などの地方権力とむすび、鎌倉政権に対し専修念仏 者を誣告したという。これらのことに苦慮された二十四輩第一の性信、眞佛たちが上洛して東国への下向を懇請し、あるいは書簡で教えを乞い、親鸞から懇々と 諭す返信が認(したた)められるが、書簡の往復に一ヶ月余りも要するので、今の世から見ると何とももどかしい。
 眞佛は示寂の五ヶ月前の正嘉元年十月にも、女婿の顕智と共に上洛している。

 蓮田市郷土資料館の大塚孝司氏から頂いた『紫尾村誌』に描かれた眞佛上人は、

 後深草天皇の宝治二年(一二四八)十一月四十歳の砌安心決定抄を製し、善鸞及立川流の邪義を砕研し、同月上洛聖 人に謁し浄土和讃・高僧和讃の二帖を宗祖から相伝した。建長六年(一二五四)四十六歳の時には、鹿島神宮神官等の請に応じ、往生要集の講演をした。建長七 年三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を読むこと一千二百返、正嘉元年(一二五七)十月京都に上り宗祖親鸞聖人に謁し十一月中旬高田に帰ったが、こ の時宗祖と最後の別れを惜しんでいる。
 後深草天皇の正嘉二年五十歳の砌、日毎に門弟の道俗を招いて次々と勧誡教化し、三月五日には門弟一同に告別をなし、八 日辰の刻(午前八時)浄衣を着て如来堂の正面に端座合掌、門弟と共に勧行し、未の刻(午後二時)高声に念仏四十八返を称え
  往生不労諸善策
  端合掌證無為
と唱えて示寂された、三日を経て葬送されたが端座の姿が少しも変わらなかったと伝えられている(現在椎尾の野村家は眞佛 上人の後裔だといわれている)。

 これを拝読したとき、私は眞佛上人は善鸞事件の責任をとり「即身成仏」のような自裁をされたのでは? と、どき りとした。岩槻清浄寺の河津住職に質問したところ、真宗では「即身成仏」ということはいわない。「即得往生」ということはある──と。
『真宗新辞典』や『親鸞聖人二十四輩巡拝』によれば、出自が東国の武士、城主、太守、都から下ってきた皇族や公卿まで見 られる二十四輩は、百八歳まで生きたといわれる西念をはじめ七、八十代を超える長寿を全うした上人が多い中で、眞佛五十歳の示寂は私には早過ぎる幕切れの ように思われてならない。

 眞佛の最も近くにあった顕智(眞佛の女婿)は、親鸞面授の高弟で、親鸞帰洛後は、下野(しもつけ)と京都を何度 も往復して聞法を怠らなかったという。
 弘長二年(一二六二)十一月二十八日の京都善法院で、親鸞の臨終にもあい、その後の大谷廟堂の造営維持にも尽力してい る。しかし眞佛なきあとの高田専修寺(現・栃木県二宮町)継承については、眞佛の息男眞澄(信証)と争う羽目になり、顕智が専修寺三世となり、眞澄は結城 の称名寺を継ぐことになる。
  城主の出自である眞佛は温和な秀才であったようだが、顕智は実務肌の行動的な傑物であったと推測される。ところで顕智の出自は不明なばかりでなく(富士山 で拾われたとも……)八十五歳の延慶三年(一三一〇)七月四日、如来堂に払子ひとつ残して行方知れずになり、今でも地元で毎年八月一日に、顕智を探したず ねる徹夜の「顕智まつり」が催されている。

 それにしても『紫尾村誌』に見えた「後深草天皇の宝治二年、善鸞及立川流の邪義云々……」の立川流とは?
『密教の本』(学習研究社)によれば、稀代の邪教といわれた「真言立川流」は、髑髏(どくろ)を本尊とし、この法を成就 すれば三世に通じ超能力を得られるというもので、鎌倉時代から南北朝の動乱期にかけて流行したという。
 まず文観上人(一二七八 - 一三五七)の名が挙げられているが、文観は平安時代に伊豆に仁寛が開いた立川流をのち大成したとある。「雑密」といわれる呪術的宗教は、奈良時代の道鏡を 挙げるまでもなく、早くから宗教の奥深い聖処にとぐろを巻いていたようである。

  鎌倉時代後期の宮廷秘話でもある『とはずがたり』は、後深草天皇から寵愛された女性二条の日記紀行文学である。作者の「後深草院二条」は、正嘉二年(一二 五八・眞佛上人示寂の年)に、中院大納言雅忠と大納言典侍近子の間に生まれている。母の近子を愛していた後深草天皇は、早逝した近子の形見の美しい女児を 四歳で出仕させ、光源氏が紫の上を慈しんで育み、やがて妻にしたように、「吾が子」と呼んで寵愛する。成人した二条は華麗な女房生活とはいえ、持明院統と 大覚寺統の政争渦巻く中で、後深草院ばかりか、西園寺実兼、鷹司兼平、亀山院、仁和寺の法助上人などとの複雑な多角形の愛に翻弄される。
 梅原猛氏は『百人一語』で、「『とはずがたり』における、マルキ・ド・サドの世界のような院の所業の背後に在ったの は、実は立川流の真言密教の思想であった」と指摘する。
 しかし『とはずがたり』の後半は愛の遍歴の後、ひとりになった二条が、正応二年(一二八九)から発心の沙弥尼となっ て、諸国の寺社、歌枕の故地などを訪ね、十数年を費やして、五部大乗経の書写を行じ、道中の見聞と心のうちを流麗な筆に託した貴重な記録文学になってい る。その中で二条は鎌倉を経て武蔵国の小川口(現・川口市)に、正応二年の十二月に入り、また『伊勢物語』に歌われたみよしのの里(現・川越市的場)や、 堀兼の井の跡(狭山市)にも踏み入っている。
  昭和二十五年に宮内庁書陵部編叢書の一冊として、はじめて世に出たという『とはずがたり』は、『源氏物語』のように、作者と同時代の人びとに書写されたり 回し読みされたりはしなかったようだ。けれど二条の後半生の後に「女西行」と称されるようになる旅で触れ合った人びと、特に女性たちの目には、貴人の玩具 にすぎなかった宮廷から抜け出て、初々しい尼僧の旅路を辿りゆく姿は、清爽なものに映ったに違いない。
  後宮で恵まれた暮らしをしたであろう宮女やその仕女たちも、仕えている主に先立たれたあとは、髪をおろして尼になるか落魄の境涯に甘んじることが多かっ た。奈良の法華寺の長老にまで出世した聖恵房慈善や、法隆寺の「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゆうちょう)」を発見した信如ほか、高位にの ぼった尼僧も多い一方で、諸国を勧進遊行した熊野比丘尼、歩き巫女、宮中に招かれ後白河法皇に今様・法文歌などを伝えた"遊びをせんとや生まれけん"の 『梁塵秘抄(りょうじんひしよう)』の「遊女(あそび)」と呼ばれた歌姫たち、上臈くずれの遊行の女性や傀儡女(くぐつめ)などなど、道中の情報伝達媒介 者にもなり得た無名の女たちが、数知れず漂泊(ただよ)っていた。
 二条は旅の途上、そんな遊女の姉妹と歌のやりとりもしている。川口での逗留先は、川越入道経重の後家で尼になっている 女性の庵であった。当時善光寺詣りが盛んであり、二条は荒涼とした武蔵野の庵室に二ヶ月余りも滞在し早春二月に信濃の善光寺詣でに赴く。川口市舟戸町の善 光寺は、現在は真言宗だが当時は浄土宗で、鎌倉~南北朝期の板碑も多く、尼僧銘も目につく。
 嘉元二年(一三○四)、後深草法皇崩御の年は、二条の父雅忠の三十三回忌でもあった。この年、二条は、歌聖 人麿の墓に参籠し夢告によって「御影供(みえいぐ)」を行ったのは、その翌年の三月八日であったという。諸国を巡りながら「大集経」の写経を行じてきた二 条は、その費用を捻出するために、大切に手離さないでいた父母の形見まで手離すのだ。
  二親の形見とみつる玉櫛笥(たまくしげ)
        今日別れ行くことぞ悲しき
  母の形見の平手箱を、ちょうど東国へ下るある人が相当高額で引きとってくれた折に、平手箱に添えやった一首である。
  平手箱を引きとってくれたある人が誰であるか不明だが、正応二年(一二八九)新将軍となって鎌倉入りした久明親王は、後深草院の皇子であったし、二条の前 身を知り、それとなく見守っていた人びとが諸国にいても不思議ではない。東国と京都を往来して、親鸞没後、その後裔の教団経営に奉仕していたであろう顕智 も、二条を見守っていた一人であったかもしれない。
 波乱の後半生を潔く生き、嘉元三年(一三○五)三月八日に大志の「御影供」を果たした尼御のありように、八十翁の顕智 上人が、あらためて原始真宗門徒のさきがけだった眞佛師への追慕の念を沸(たぎ)らせたのではないか。ときに正嘉二年(一二五八)三月八日の眞佛示寂の年 から五十年が過ぎようとしていた。
  顕智は弟子唯願(あるいは結衆門徒?)に、眞佛報恩碑建立を促す啓示を与えたのではなかろうか。説話めく「寅子石」呼称の謎を知るのも、延慶三年(一三一 〇)、忽然と雲隠れされた顕智上人その人であるような気もする。

  鎌倉時代を中心に東国の武士がおびただしい血を流したが、青石塔婆の原料になる石材を産する埼玉県は、全国でも最も板碑が多く二万基をこえるという。板碑 に彫られるかたちは、「南無阿弥陀佛」「南無妙法蓮華経」などの念仏・題目ほか、梵字・仏画などで装飾を施されたりさまざまだが、中でも最も多いのは阿弥 陀如来の種子(キリーク)を上部に配した板碑である。
 蓮田市馬込辻谷の「寅子石」には、種子はなく、六字名号の力強い陰刻がシンプルで、おかしがたい威厳と迫力に満ちてい る。私はこれからも、生きてあることがうとましくなる日には逢いにゆく。

 伝説を史実と照合させようとすると、万華鏡さながら、揺らすほどに謎めいた象(かたち)が繰り広げられ、その裏 側の魔の沼に引き摺り込まれそうになる。けれど現在進行形のこの世の事象も、仮想空間と奇怪な現実が混交して、宙吊りの情報に目まぐるしく惑わされている 状態といえそうだ。
 せめて未来につながる現実をしっかり見つめる一方で、古人がのこした遺跡・伝説・文の林などにも分け入って、限りある いのちを寄せ合って生きた人びとのこころに触れたい。大いなるものへの祈りの声を聴きたいと希う。

〈付記〉
 この原稿を何度も書き直し、ようやくペンを置いた平成九年六月八日。Y紙の日曜版を開くと、「ミステリー光と影」に、 "こわいせりふ"という短編が載っている。昭和二十年十一月、群馬の山村で起きた事件で、知的障害のある十七歳の娘を母親が絞殺し、飢えていた家族のため 肉鍋にして食べさせたというものである。その娘の名は「トラ」であり、母親は「トラや」と、一、二度呼んでから手にかけたという。
  その年は私も十七歳、焦土に暮らす痩せっぽちの少女だった。倉田百三著の『出家とその弟子』に出会ったのは翌昭和二十一年。当時の日記に、
「あヽ滅びるものは滅びよ。崩れるものは崩れよ。そして運命に毀(こぼ)たれぬ確かなものだけ残ってくれ。……」など、 稚拙な文字で親鸞が唯圓と交わした会話のところどころが抜き書きしてあった。
 

参考文献
『親鸞聖人二十四輩巡拝』新妻久郎(平8・朱鷺書房)
『親鸞の詩と書簡』長田恒雄(昭31・在家佛教協会)
『親鸞』澤田ふじ子(平2・淡交社)
『真宗新辞典』
『密教の本』(平4・学習研究社)
『中世宮廷女性の日記』松本寧至(昭61・中央公論社)
『中世に生きる女たち』脇田晴子(平7・岩波書店)
『新編武蔵風土記稿』
『紫尾村誌』
『岩槻市史』
 
 
 

    寅子石考     榊 政子
 

 ──さあさ 召し上ってくだされ
  これなる膾(なます)は娘の捧げもの

 長者のすすめに四十人の男は 懇望した美しいお
寅の姿が見えぬのを訝しみながらも 鉢に盛られた
淡紅色の膾を ひとひらずつ嚥み下した

 四十人の男から所望され 一人を選べなかった長
者の娘お寅は わが処女の肉で飢えた男たちをもて
なしてほしいとの遺言を枕辺に自害して果てた

 恋する男たちの舌をとろかし その血肉となって
体内をかけめぐった愛
 奪う愛がむさぼり食らうことであるならば与える
愛は血を流し命を絶つことに極まる

 蓮田市馬込辻谷の共同墓地に屹然とそびえる長さ
一丈余の石碑を 人々は寅子石と呼ぶ

 二十世紀も暮れ方の冬の陽ざしが傾いて 娘を食
らった男たちが泣き泣き建てた無骨な板碑に 百日
紅の裸木が静脈のような影を這わせる

 お寅の血でよごれた皿を洗った皿沼 宴の膳が流
れついた膳棚橋 円空が掌にのるほどの可憐な薬師
像を残していった子膾社……今に残る呼名に不思議
な物語りが証しされて

 橋のほとりの庚申塔には 右ぢおんじへ 左江戸
みちと刻まれてはいるが わたしはいま何処の岐路
にあるのやら

 もはや人から所望されることもない女は 皿沼で
洗う皿もなく 膳棚橋から川に流しやるほどのロマ
ンもない
 血の色の夕焼に燻っているのが 自からの肉の匂
いであることに当惑し 立ち疎むばかり──
 
 

  『伝説をさかのぼる』平成十二年七月さきたま出版会刊より
 
 
 
 
 

(作者は、埼玉県在住の詩人。「蔵王文学」「木綿」同人。数冊の詩集をもち、武蔵国の往時を史実と伝承により探訪した、また故郷青森の文人達 の足跡をしみじみ辿る、着実な、詩性に満ちた散文の業績もある。「寅子石」にかかわる検証と美しい詩とを、あえて対にしてここに掲げる。湖の本の読者。 1.11.15掲載)


       HOME


※秦恒平文庫の文章の著作権は、すべて秦恒平にあります。
掲載された内容を無断で複写、転載、転送および引用することを
禁止いたします。