「e-文藝館=湖(umi)」詞華
集
おんだ ひであき 歌人 1948.3.13
新潟県新井市に生まれる。 掲載作は平成十四年(2002)六月、「「e-文藝館=湖(umi)」のために自選。
燠
恩田 英明
冬の夜を灰の窪みの燠(おき)明り桜花びら散りたまるごと
しんしんと雪降る夜の囲炉裏の火燃ゆるはわれの胸中にのみ
わが根性ケヤキの根瘤いぶりつつ燠となりゆく幾夜(いくよ)さかけて
風に鳴る蜂の巣の骸(から)軒の端(は)を過ぎにし時のしるしのごとく
市(いち)の日の悦楽ひとつ鱈の口開きたるなかに降り込む雪は
夕晴れの空ににぎはしき冬桜細雪来て吹きまじるなり
雪原にぽつかりと開く穴のなか水黒黒とこんこんと涌く
雪原を割りて流るるひと筋の川の黒光り東へ向かふ
川底に水湧くらしも絶えまなく砂は踊りて差す新ひかり
古びたるメモに見出だす些事ひとつ「正月二日爪を切る」など
積雪の中よりわれの引き出だせば人参赤し牛蒡(ゴンバウ)黒し
雪国の杉山の杉大樹なり地より三尺みながら曲がる
鳥足升麻(トリアシ)の花の吹かるるそればかり夢に出で来(く)も春のこの頃
くくみ鳴く鳩を蔵して枝枝は秀(ほ)にむらさきに花房けぶる
廃れたる山田の土手に来て立てり東一花(アヅマイチゲ)のはなの盛りに
どうしても掘りあげられぬ石ひとつ真中に残り谷地田(やちだ)廃れぬ
はればれと鶯は鳴き棄てられし田の一面に枯れ茅の渦
雪融けのあく浮かぶまま滄桑の世に山の田は水澄みわたる
山の神の笑ふこゑ降り谷空木(たにうつぎ)の花咲かすなり渓を埋めて
細かきもの絶え間なく降り地に白く敷きたるみれば花殻にして
麦畑のなびく葉むらとゆくひとのふかるる髪とみな柔らかく
雨ののち雲雀はげしく鳴き出でぬ麦畑遠く見えわたりつつ
ひとたびは刈られし藜(あかざ)萌えいでて穂の立つまでに茂りは探し
白椿落花積みたるその上に伏すに冷えたりわが右の頬
つとめ終へ帰る道道盗む花今宵は赤き椿ひと枝
鬼越(おにごえ)の桜見に来(こ)といざなひしをみなありにきいまはむなしく
辛夷(こぶし)の花たわたわと咲く太き枝男かつぎて山を下り来(く)
山の端(はな)にひと本赤き桃の花誰か来てここに核(たね)埋めけむ
山桜数本花は散り尽くしただ淡淡(あはあは)と森にまじらふ
山に入れば心はさびし若葉吹く風に混じりて雪の香くだる
蜂入りて黄の花震ふもとにしてすでに南瓜の小さき膨らみ
ひこばえのときより知りて幾とせか枝張る辛夷花咲かむとす
覗き見る泉の底にゆらめきて日は差しにけり葭(よし)の根白く
くさ原へ入りつつ心いきどほりあかままの花を踏みにじりたり
日を一つかかげたる空飛びきたり飛び去る蝉太古のごとく
断念を思ふならねど夏雲の岬のかがやきくづれゆく見つ
ソフト帽斜めにかぶり野村大人(うし)ウィスキーの水割り飲みておはしき
窓の辺に欅はしもとをさしのべて夜霧のなかに浮かびいでたり
天道虫布団の上をすべりゆき空のひかりとなるまでの時
投網(とあみ)打つ男青葉の中にあり水ひろやかに流るるに向きて
芭蕉扇空に広げて一吹きをおこせとわれを唆(そそのか)すあり
さきだてるかれ鬼蜻蜒(オニヤンマ)かぜに乗りときにわたしの指に来て止まる
蝦夷蝉の声ぎぎとして山毛欅(ブナ)の森抜けむとするにいよいよ深し
くにざかひの峠に立てば日のふけを風は昇りくる海の方より
あをき身は迫ると見るに銀蜻蜒(ギンヤンマ)つとひるがへり谷へ逸れつも
大いなる朴(ほお)のひと葉を手にもちてわれ日盛りの町へくだり来
ひんがしに山の森より月出でて谷底をゆく水照らしたり
南瓜の葉この大きなるとり持ちて歩みをりけり人にしらゆな
誰か知る小蟹が一つふと消えて岩間ひと筋下る沢水
草原に立つ自転車のスポークに一筋蔓は絡みはじめつ
棚ながら夕顔揺りて地震(なゐ)過ぎぬみずみずと香のたちくるしばし
八月も終らむとして切切と草に虫鳴くこのまひるまを
鳥の声ほのかにて秋の高空を針のごとくに飛行機ゆけり
空にして月かかるごと葡萄の葉のもみぢは照りぬ棚の一すみ
この辺でいいことにして秋ばれの紅葉盛りの山を離(か)れてゆく
皺みたる胸乳あらはし祖母(おほはは)は柿食ふ神のごとくいませし
ひとときのよろこびもちてわれの身を落葉の上に横たへにけり
八本の足もて蜘蛛の越えてくる夜の畳は波立つごとき
憐憫もまたかなしみも数へきれず抱く私は一本の葭
黒と白黄色などなど肉体の力溢るる轟きに満つ
二元論かくも悩まし曖昧のわれを許さず迫りに迫る
代表的宥和主義者と彼の名をかくあきらかに辞書は記せる
必要のものを不要なりと言(こと)に言ふ心の底も覗きみるべし
はめ殺しの扉のごとく開かざるこころひとつを持て余しをり
生くることはマーマレードのほろ苦さ然(さ)あらず黄蘖(キハダ)の苦きに勝る
肉体が自らの胃をつかみつつ絞りあぐればこらへかねたり
朝の日はぽんとあがりてなまくらの身をのぞくなりのぞかれてをり
土の乾き、喉の乾きにたとふべくおもひ思へど類ひにあらず
見る夢の断片ひとつしげりたる大いなるかの山毛欅(ブナ)の樹の影
豪快に仕事なししを馘首さるる君を送ると集ふ三人
大皿の魚をつつきて食ひ続くわれら明らかに怒りつつ食ふ
雲ひとつ雨を落として過ぐるなり草に寝ころび心醒むれば
私はわたくしであるいつもいつも物を言ふとき恥づかしさ立つ
家からも出られぬやうに戸締りを厳重にして眠らむとする
きその夜に見し夢のごとかがやきて巣に逆しまに蜘蛛ひとつゐる
自らの影足もとに見つつ歩むつとめ人われ遊びのごとく
天空にそびえて城の立ちしとふ岩山にしも登らむとすも
ベラスケス描く衣紋のひだのごと重きを見たり嘴(はし)のつけ根に
口中に角砂糖ひとつ叶はざる思ひのごとくああくづれゆく
太幹にぽつりと白く咲く花のその花のごと囚はれにけり
赤黴がはびこるごとく身の膚に悪しみじみと食ひ入りにけり
甘き水ありかは忘れこの日頃喉(のみど)をくだる水に棘あり
下さるは象牙のごとき百合根なりそを食らはずて土に埋めつ
ゴッホ描きわれは見て立つ青暗きアルルの空の北斗七星
部屋に来て蜜蜂ひとつ人の手に叩き落とされ蜜を零(こぼ)しぬ
蝉の穴あまた口あく見つつゐて心はいつか愉快になりぬ
雪深くしてよき春に会ふ生活(たづき)嫌ひて町へひと下りけり
古絵図は川のほとりに家三軒書き入れてありあはれ人の世
産みたての熱き卵を地面よりいただきて来つ朝の飯どき
百合根甘(うま)し舌をふるひて食ふままに夜は更けにけり白き百合根よ
酔ひ酔ひて止(とど)めと飲めばブランデーがああ喉を焼く窓に月かげ
身の薄き肉にてあれば靴底とよばれて膳に親しまれつつ
卓上に胡椒の缶が愚かしく立ちて食堂は男ばかりなり
雨ひと日茶碗のなかは夕暮れて盛る白飯にけぶり立ちたり
雲間より月のぞくときキッチンの浅蜊つぶやき潮吹きちらす
起き出でてあさのご飯に葱坊主もともに刻んで掛けて喰ふかな
いつの日か上がり框(かまち)に腰掛けて乞食(かたゐ)冷たき飯を喰ひにし
産土(うぶすな)のふるきこころをわれ抱へ戻りきたりて銀座を歩む
街を出で夜の川原に見放(みさ)くれば雲ひとつ鉄塔のうへにととどまる
銀色の鳥滑走しおもむろにそらに浮かべつその鳥の身を
くもり空の奥より白く日は差せり大き欠落の感じを持ちて
七階の書店は常に『夜と霧』幾冊積めり見れども買はず
軟弱な雪にてあれどけふひと日降り込められて街にわが出ず
都市に降る雪も冷たきは冷たきに影まつ黒にぼたぼたと落つ
雪雲に似てあらざるが東京の縁(へり)にし浮かび霙(みぞれ)を降らす
乗り合ひて女生徒隣に掌(て)に開く平家物語壇ノ浦の段
線路際の茶房の二階寒き日をココアを飲みて人を待ちにき
雪降りて融けざる街に春の雲うかぶを見ればぐづぐづと居る
雲雀ひばり汝は何でも知つてるとさへづり止まず野に入りくれば
旅の衆(たびんしょ)と古き友より呼ばれたりむべなりされど旅とは何ぞ
夕空に光の塔がたちあがるその骨組の細かき露(あらは)
夕かげの窓辺のごとし自画像のレンブラント額(ひたひ)の明るさ
日本の池と描きけり壁面は睡蓮浮かび柳枝垂(しだ)るる
美術館出でて思へり皿置きてそこに苺を盛りしルノアール
雑貨屋に秤にかけて買ふ林檎不揃ひなれば日本にあらず
引き潮の夜の海しづか岩壁に泊(は)つる船かげややに沈みぬ
曇る窓ぬぐへば海へ続きたる岬の空は雲圧(お)しつつむ
雪凝(こご)る行く手はるかにみちのくの十三湊の空の重たさ
十三湖の面は雪の片寄りてひとところ水の鈍き煌(きらめ)き
〈磯松〉は家並低し壊(く)えかけの板囲(かっちょ)吹き抜く西風の音
寄せに寄せて引かぬ冬波とどろきのいたくさびしく陸(くが)を噛みつつ
桐の花そらの青きに咲くところ旅に過ぐればうれひは探し
果物はひかりの熱を蓄へて枝にありけり墜ちなむまちて
酸(す)の沼の水の青さを幾人かあな美しと言ひつつ過ぎぬ
柘榴の大いなる木よ朝空のくもりに朱(あけ)の花を掲げて
犬枇杷の落ち実ころがり掘割の水際の地(つち)は日差し更けたり
寺山のくもりやや濃し見返れば朴の大いなる繁り騒(さわ)だつ
水面のいたく下がると見おろせばダム湖に傾く白膠木(ヌルデ)のしげり
湯殿へとくだりきて踏む朝かげに座頭虫ひとつ足立ててくる
天にして翔(か)ける雲雀の声きけば週末にして心は寂し
破裂してキャベツの球が畑土の上にころがり花噴き出しぬ
朝の間を雉子(きぎす)は出でてゐたりけり青麦畑に声ぞとよもす
明け暗れの畑に生麦の香をかげば解きがたきひとつ思ひ出づるも
埒(らち)も無く一日は過ぎて夕雲の崩るるときを窓にわれあり
篁(たかむら)に人入りゆきて竹を挽くいたく寂しき音たてて挽く
筑波嶺に白雲かかり雲のなかを歩みてくだるふもとの街へ
地のうねりうねり動くは大いなる牛蒡葉むらか月に濡れつつ
塵厚き武蔵のくにに住み馴れてかたゐにもならずこれが身いまだ
瑠璃色のをさ虫ひとつ路を越ゆ街灯円く照らせる下を
落ちのびてゆく思ひかな乗り込める長距離バスは雨の中行く
ゑのころは種子をふるひて軽々と踊るがごとし冬陽傾く
雪残る夜の畑に湧く霧はおし移り来も窓にむかひて
中学は廃校となり名を刻む門柱ばかり雪原に立つ
生くる術(すべ)伝へおほさず逝くことを許さずと父の耳にささやく
ああわれ悲しむなかれひしひしと夜天(よぞら)に星の圧(お)しあふ寒さ
採り残す葡萄の房の萎みたる夢むと言ふをきけばかなしき
雪吹雪地(つち)にひびきて歌ふこゑ老百姓のいのちを誘(おび)く
父は骸(むくろ)生くるわれらはほつほつと飯を食ふなり雪の朝(あした)を
雪囲い済んだと言ふに応(いら)へしてさうかと声のまさしくひびく
ゆくところまたゆくところ赤赤と雪椿咲きこころは乱る