「e-文藝館=湖(umi)」 小 説

おくの ひでき  小説家 一九三五年生まれ。 作者は「私小説」と題しているが、むしろ「反私小説」作家としてデビューしていた。年を取ってはじめて私小説も 「書 けるだろう」「書いてみたい」と言ってきた。 掲載作は、一九九六年八月に起稿、二○○七年十月に脱稿されている。六十一歳から七十二歳までをかけて書き 下ろしている。
意 識して用いたのは、同じ色をさも塗り重ねるように、要点を、あえて繰り返し巻き返して一過性にやすやすと 流れ去らせない手法、いわば「やるま いぞ」手法であったと告白している。作家奥野秀樹が「奥野秀樹」という架空の人物に託した創作された「小説」であり、「人間」への興味であり、趣向された 「フィクション」である。 (秦 恒平)



   華 燭  私小説──      奥野 秀樹                      




暗がりに汝が呼ぶみれば唯一人ミシンを負ひて嫁ぎ来にけり    遠藤 貞巳

 おぅと声が出た。
 破顔一笑。快い笑みに祝福の思いが湧く。
「呼ぶ」のがいい、声が聞こえるようだ。いじけた声ではない、貧しくとも心豊かに健康に、若い生活を倶に支え合って行こうという、気迫に溢れた「汝」の声 だ。
 女の、「ミシン」ひとつの愛と活気と決意とを受けて、迎える青年にも思わず一歩を力強く踏み出す気概が湧いたであろう。これが結婚だ。
「暗がり」を、人目を恥じてとは読むまい。決意して即刻に今夜から、と私は読む。そこに、「夫婦」の出発点がある。宵から朝へ。
 原始の暦はそのように数えられていた。 「国民文学」昭和二六年四月号から採った。
   秦恒平『愛と友情の歌』講談社刊  所収
                                     

                
   華 燭  続・逆らひてこそ、父    

      
       これは「私の遺書」である。作品ではない。  (奥野 秀樹)
 
        どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されている。 (フランスの諺)




  
     一三

「春生(はるき)がね、あなた。夏生(なつみ)に電話してみたんですって」
「またかね」
「ええ。お芝居のあと、手紙を書くからって帰ってったのに。来ないから」
「そんなの来ゃしないさ。で…」
「電話口で…。あんなもんでしょうって。それだけ…でしたってよ。その言い方が…マタね。春生(はるき)、ブーブー言ってるの」
「夏生(なつみ)にしちゃ、それでホメているのさ。少なくもケナシてない。夏生は、初めてだろ春生の芝居は。あのチャランポランの春坊(はるぼん) が……。信じられなかったろうな」
「満席の人を集めて、お金いただいて、自分の書いたお芝居を自分で演出して見せてるってことに、でしょ。そりゃあ…そうよ。どっちかってば、夏生(なつ み)の方が、お芝居でなくっても何でも、目立つことやってみたかった人ですもの」
「専業主婦やってる、きみなんかは…」
「そうよ、バカにしてたんだもの。でも今までのところ、なンにも出来なかった、あの子は…。図版ものの洋書の、あれ…何て言いましたっけ、ネームね…図版 の解説文。あの部分だけの日本語訳なんかをアルバイトでやってるらしいのよね」
「自発的に、内発的に、ものが生み出せない。これをと決めて手伝わせると、春生(はるき)なんかより丁寧な仕事ができるけど、自分じゃうまく創り出せない んだ…昔から」
「そこんとこ、夏生(なつみ)が…かわいそうでならないの、あたし。あたしに似てるのよ。顔なんかあなたにずっと似てるのにね。自分の…と言えるものは、 春生の方が先に発揮しているのよね」
「羨ましくて、モノが言えなかったんだろな…夏生としては。いつか亭主が、たとえだよ、山手だか下町だかで、やっとこさ教授に成ったにしたって、夏生自身 の自慢にゃならんもの。大学教授なんてもなぁ、狭い日本中に、まともな作家の何百倍もうようよしてるんだからね」
「それでも竹司は、天下に大学教授ほどエライもの無いって、春生が大学出るときそうあの子に言って、なんでサラリーマンなんかになるんだって、本気で不思 議そうな顔したのよ。それも国立校の教授こそ、だって…。
 なのに茨城じゃ、助手でも講師でもない技官にされちゃって。結局、教員の籍はもらえずに、次ぎは私立のあそこ…で講師でしょう」
「白金(しろかね)の女子部に、拾いあげてもらった…。年齢(とし)でなら助教授なんだろうが、茨城の技官というのが障りになったんだろ…」
「それさえ、あたしたち嫁の実家(さと)の責任だなんて言うのよ…。ひどいことを」
「三十過ぎたあんな微妙な年齢(とし)で、三年も留学してりゃ、オーバードクターで溢れた日本では、後輩にどんどんポストをもってかれちゃうの、分かり 切った話なのに…。
 もとの古巣の助手期限は切れて、次のポストが無かった。出身学部にもなく、他の国立にももちろんなかった。格好がつかんと思っただろナ…」
「思い込んだのよね…。夏生に相談せず、留学試験を受けたんですもの」
「で、受かっちまった。が、そこまでは、いいんだよ、そこまではね。一年が普通なのに、あの時期に三年も日本を留守に…。あれで遠回りになった。だが ね…。潔く決めたんならそれだっていい。一時の不利も、将来には生きてくるかも知れないんだしさ。そう言ってたよ、オレ。なのに、あの時は相談もしないで いて、結果がわるいと、理由(わけ)もなくヒトのせいにしてサ…」
「あ、そうそ、それを言うつもりだったの。またフランスへ行くんですって。八月のうちに。今度は一年。春生(はるき)の電話、それを知らせて来たの」
 「………」
 一瞬奥野は反応できなかった。内村にすれば向うの大学に教職を得たい、地位を得たい気があるのだろう、それもいい… と、奥野は反対でなかった。それが出来れば、いい。孫の顔が…さらに遠のくということもあるが、やはり夏生(なつみ)だ、問題は。
 二度と夏生や信哉(しんや)に会えずにこと切れる覚悟は、夫婦で口にしてきた。口にするだけでない、現実問題として夫婦の健康は、藤子はもう十数年も、 奥野もこの数年、心臓に不安を抱えていた。遠い病院まで、気もいい、力もある医者を頼みに、夫婦して定期に診察を受けつづけている。そして、会えなくても と腹をきめた親はまだしも、なにかの折り夏生の精神に永く癒されない傷ののこるであろうことを、奥野らは本気で心配していた。
 現在でこそ肩肘に力をいれていても、それは母も父も生きているからで、このまま死に別れたりしようなら、夏生は、「子」としての無形の負い目を背負いき れるのか…、今しも夏生の精神が荒廃していない保証はなにもなく、春生(はるき)に聞いた姉夏生(なつみ)のへんに太った、みすぼらしそうな身格好にして も、また、拗(す)ねて投げたドロリとした電話の「どうでもいいよ」という声音にも、夏生のやり切れない自棄の惑いがとかく想像されてしまう。
「どうせ、親に捨てられた身ですからね」とさえ夏生は弟に言っていた。
 夏生のためにも長生きしていてやらねばならない、それがまた目に見えず奥野らの負担になった。
「フランスか…。子供二人つれて、ね…」
「連れて行くでしょ。だって、前のときみたいに半年遅れて行くにしたって、内村の家でお姑さんたちと同居って、これは夏生、しないでしょうよ、もう。出来 ない…。あれだけ激しくやッちゃってるんですもの。おまけに、うちともこういう事情(わけ)ですからね」
「今いるとこの家賃を払いつづけるのは、キツい…。一緒に行くなァきっと」
「竹司は、前のとき、夏生と信哉の生活費もろくすっぽアテをしないで、先に一人でパリに行っちゃってたんですものね」
「アテは…してたのさ、ウチで面倒は見るものとサ…。それが当然、と彼は考えてた」
「こっちは、そんなこととも、まったく、まだ知らなかったでしょ」
「学者を婿にするというのは、婿さんの生活を嫁の実家で見るってこと、それが常識だって平然と言うヤツだからな。そのくせ、自分の口では、よう言わないん だ」
「粋(いき)に察してヤルのが、嫁の親の<義務>だなんて…。あげく、それの出来ない非常識な嫁の実家とは、姻戚関係を断つなんて……、ナン て情けない」
「周囲はミナそうしている、それが学者を親類に持ったものの常識だ、か…。何のために学問して来たんだろう」
「そんな気で結婚したのよ。いやしい人ね」
「本気なんだよ、ヤツは。学者様だぞ、住む家と生活費の半分はそっちで見て当然だ、か。そんなこと、かりに、出来てもしちゃならないのがオレの思想(かん がえ)だから。そういう情けない生き方はして来なかった、オレたちは」
「卑怯なのよね、彼。それならそれと頼んでくることも、彼、自分じゃ一度もしなかった。夏生(なつみ)をうちへせっせと寄越してたのも、夏生に言わせ、お 金を取ってこさせる気だったのよ。夏生はあたしたちの考え方を知ってるから…言えなかった。そういういじめかたを夏生はされていたのよ…かわいそうに」
「こっちに来てても、向うへ帰るまえになると、すッごく不機嫌になって帰りたがらなかったな」
「あれが…あたしたちには、最初、理由(わけ)が分からなかった。あとになって、つまり…あぁいうことだったのね。彼は、親にお金貰ってこいと夏生らを寄 越してたの。それが当たり前だと。……」
「あれで教育学、人文主義の教育哲学なんだ、専攻は。これぐらい『教育』や『哲学』に汚物をかぶせる例も無いよ。モンテスキューやルソーが泣くね。大学の 先生の皆が、そんな根性だとは…思いたくないがね」
「あなたも、その大学教授をしてたんじゃないですか。でも…あれが、こたえたわねぇ…。教授になりたいなりたい彼の方は田舎の技官にされちゃってて、お舅 さんは、頼みもしないのにいきなり、名門校の教授…。作家なんかと陰で夏生にボロカスだった嫁の父親に、あっさり国立の大学教授されたもんで、彼…切れて しまったのね。あの…すぐアトでしたよ、汚物を吐き散らしたのが」
「そうだったね」
「うちへ訪ねてきて。帰ってったかと思うと、あの手紙よ。…金も出さずにあんたらはおれをバカにした、だなんて…。あの晩うちに来たときだって、あなた生 活は、だいじょうぶッてあたしが聞いたら、大丈夫ですと、あんなに胸を張っといて。あの人あの時も言ったのよ、わたしは人の三倍稼げますからって。人の初 任給くらいアルバイトで簡単に稼ぎますからって……あぁいうウジウジ男って、嫌い」
「大学教授の息子は大学教授になるもんだなんて、ケチくさいよ、人生観も価値観も」

 結婚まぎわに父親に死なれた内村が、奥野は気の毒でならなかった。父親二人ぶんのことをしてやりたかった。内村竹司はそれを、「黙っていても金を出して くれること」とアテにし、奥野は、「いい人間関係、なんでも打ち明けて遠慮のない、気のおけない婿さん」を望んでいた。
 どっちもどっち…、奥野の方が甘かった。
 内村の望んでいた「身内」とは、つまり金の面倒をとことん見てくれる「舅姑」の意味でしかなかったらしい。夏生(なつみ)は、落差に、さぞガックリきて いただろう。夫の誤解を解き、父親の思っている「身内」とはこういう意味よと、説いてやる気力も結婚早々に無くしていたかも知れない。
 板挟み――、夏生は窮屈に圧しひしがれていた。だが、内村の、それほどまで金は人が、「嫁の親」が、呉れて然るべきものといった考え方は、ちょっと奥野 らには察するにも察し得られなかった。
 そういう親だから、「お金を、ちょうだい」と、夏生はついに一度も両親に向かって口にしなかった。ただ里帰りして来ては、内村へ去(い)に際になると、 顔色を曇らせ、イライラと不機嫌になった。分からなかった。分かってやれなかった、奥野らにはその訳が。
 娘も親たちも、不運だった。奥野らは、媒ちしてくれた山根教授が、いったいどんな仲人口を利いて内村をそんな気にさせたのか、知りたかった。
「何も言っていません」と山根氏は言う、が、それでも、「奥野さんはお嬢さんをそれは可愛がっていますから。お嬢さんのためにも、絶対に、よくしてくれま すよ、大丈夫」ぐらいな物言いはしたのだろう。
 言葉どおりには、その通りだと奥野も思っていた。
 結婚式にも、自分の流儀は曲げても、力を入れた。身も働かした。だが、「嫁の実家」として内村夫婦に生活費や住まいを与えるなどの考えは、基本的に持た なかった。持てもしなかったし、そんなことは成るべくしない、たとえ出来ても安易にしないのが真正直な親の気持ちだった。内村の期待とは正反対だった。
 あげく内村は、仲人の山根教授の家庭でも、奥さんの実家が経済を支えたのは、世間の誰もが知っている有名な事実だ、それも知らないのかと奥野らの「非常 識」を口汚く手紙で嗤(わら)ってきた。罵詈(ばり)罵倒してきたのだ。
 …情けない、イヤなヤツ……。
 もともと「大学」というあたかも地位や組織に、奥野は、さほど思い入れがなかった。将来の「地位」を指導教授に示唆されても、大学院を去り、故郷の京都 をさっさと去って、双親(ふたおや)のない妻との東京での新婚生活を選んだ。
 ものの譬えにも「都の西北」ほどの巨大大学だと、文藝家協会に所属する文筆家よりも大勢の教師が出入りしており、日本中にどれほど夥しい「大学の先生」 がいるやら、比較すれば、世間で通用する「作家」に成るほうがよっぽど難しい。作家には教授、助教授という序列もないし、事実、文化勲章作家に匹敵しなが ら栄典などと無縁の作家もいる。断わる人もいる。
 もともと序列社会に奥野は馴染まない、そういうのの苦手な気象だから、内村がしきりに大学に、教授の地位にこだわった物言いをするなど、はなから笑止 だった。学長であれ学部長であれ、お互いに餅は餅屋、奥野はこの数年大学に出ていても、まるで普通に付き合ってきた。
 それでもそんなに内村が「教授」になりたいのなら、願いはかなう方が、かなわないより、夏生のために望ましい。結婚式にも元総長以下教授陣をずいぶん招 くようだから、そのためにも、いい披露宴をしてやりたいと奥野はひどく無理をした。奥野の口から一人一人お願いして列席してもらえた顔ぶれは、連名にして みれば、おどろくほど立派な人たちが並んだ。だからこそ別格に、谷崎潤一郎夫人に主賓をお願いした。華やかであり、このレディファーストに、少なくも奥野 家側で不服を唱える男性客の一人も有るはずがなかった。「谷崎愛」で売っているひさしい友の駒井次郎など大喜びしてくれた。
 まして夏生には谷崎夫人は恩人だった。むずかしい美術館就職のあとも、なにくれと、かげにひなたに気をつけて、可愛がってもらった。
 その「新婦方主賓」が、大きに、あとあとで引っ掛かった。
 新夫の内村竹司は、初めのうち面(かお)にも出さなかったものの、披露宴のハイライトに、両家主賓が全列席者のまえで結婚届に「証人の捺印」をという、 申し合わせてあれほど奥野の希望した儀式を、勝手にみなフイにしてしまい、そのワケをこう明かしたのだった、谷崎夫人は結婚の証人に不適当だと。それも奥 野夫婦に直接宛てつけた、自作『お付き合い読本――常識編』なる悪ふざけによって。

 じつは奥野には、それよりも一つも二つも幾つも以前に、つよく心に拘泥ってきたことが有った、「何故にこんな…」と、内村の「異様さ」に心凍る思いをし ていたのだ。
 いったい新婚旅行にどこへ夏生らが行ったかも記憶にないが、旅先からの電話で夏生らがせっかくの「結婚届」をせず旅立ったと知らされ、奥野は思わず眉を ひそめた。が、それとても時期の早いか遅いかで、たいしたことでは無いと言えた。
 だが、彼等が届けをサボった真の理由が、当時は分からなかったし、娘の親としては出来れば届けをしてから新婚の旅に出てほしかった。
 そもそも結婚式という儀式部分は省き、披露宴でそれも兼ねたいとは、内村家の希望だった。奥野らにも異存なかった。ただ、その「兼ねる」意味合いを表す ためにも、参会の祝い客みんなの目の前で、主賓二人に「結婚届書に署名」してもらい、二人の結婚を列席の全員の代表になって見届けて貰おうよと奥野は発案 し、内村もはっきり気乗りしていたのだから、希望は叶えられるものと信じていた。
 事実両主賓は、揃って、みんなの目前で署名捺印を演じてはいたのだ、だがその届書は勝手に破棄されていた。(届けは一ヶ月近く遅れて、新居の地元で出さ れ、証人にも全く別人を立てたらしい。)
 新婚旅行の最中に苦情を言うのは避けたかった。で、帰ってきたとき第一番に、
「届けはしたんだろうね、もう」と内村に聞くと、まだしないと言う。急ぐことは無いではないかと言う。そのときは奥野に分からなかったが、べつの届書を用 意してなかったのだ。奥野はむっとして、「なぜ約束どおりではないのか」と詰(なじ)った。内村竹司はとたんに、
「あんた、がたがた、うるさいよ。なんなら、今でも結婚をやめてもいいんだぜ」と。
 奥野は仰天した、まったくこの通りの言葉で、誓ってこの通りの言葉で電話の向うから、婿の内村は、舅の奥野を威嚇したのだ。ぞうっと、肌に冷たいものが 流れた。
 何なんだこいつ…。
 奥野は黙った。結婚披露を終え新婚旅行を済ませた今になって、「やめていいんだぜ」「あんた」ということを新婚の妻の父に向かって言える男に、奥野は凍 えた。かッとなって、「よし、やめろ」と言ってしまいそうな自分を必死に押えるため、奥野は受話器をすぐ置いた。
 内村のそばにその時夏生はいなかったようで、奥野のそばには藤子がいた、が、奥野は内村の台詞をかたく意識の底に記憶したまま、妻にも告げずにおいた。
 内村の送りつけてきた、ワープロ打ちの『お付き合い読本』には、戯作めかして、いろいろ書かれてあり、「け」の項は、こうだった。

  け 結婚式  誰を招くかは迷うところ。注意すべきは、離婚歴のある人、しかもそれを売り物にしているような人は、招待しないことである。かの有名な 文豪「T」は、惜しげもなく奥さんを取り替えたそうだが、常識的に考えて、そんな筋の客は来賓として呼んではいけない。招待された他の皆が奇異に感ずるだ ろう。

 なるほどと、咄嗟に奥野は思った、そういう考え方を、すべて否定しようとは考えない。
 だが、そういう「気の低い」考え方にとらわれて自分は生きては来なかった。そんな「常識」を大事に思うのなら、前もって奥野に直接、または夏生を通して 谷崎夫人の主賓は「遠慮したい」意向を伝えて来ることも出来た。露ほどもそういう意向は聞いていない。聞いていたら――無理はせず、それでも、一人の祝い 客としてお招きしたに違いない。むろん内村にも話しただろう、夫人は谷崎潤一郎とは終生添い遂げられ、文豪昭和の名作のほとんどすべてを成さしめたほどの 奥さんだった、と。あやかって何ひとつ問題のないりっぱな奥さんなのだと。しかも夏生は大恩も享けている、と。
 結婚届の証人欄に谷崎夫人の署名をご破算にし、新婚旅行のあとびっくりするほど日数を経てから誰とも知れぬ代役を立てた理由――が、ここに在ったのか と、内村という男の軽薄で無礼なしたり顔に、奥野は胸を冷やした。
 相手もあれ谷崎文学に励まされてきた作家奥野秀樹に、夏生の父に、「文豪T」と「そんな筋」の夫人とをこのような手口で貶(おとし)しめてかかるとは、 奥野の不徳は不徳としても、あまりに心寒い嘲弄、心ない暴言だった。
 内村は、薄い唇をいっそう歪めて、離婚歴ある夫人を結婚式の主賓になど「非常識」だと、舅姑をはじめ奥野家側を訓戒のつもりらしく、『読本』には続きが まだ有った。

  さ 作家とのお付き合い  作家とはすなわち、自己体験の特異さを専売にする人種。
 いくつかのタイプがあるが、中でもタチの悪いのは、自分の苦労を絶対だと信じ、自己を客観的に眺める習性を持たない奴。それと、やたら「夫婦はかくある べきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、

 奥野は中途で笑ってしまった。日本の小説家をこのように見る視線は、やがて廿一世紀の現在でも、ありうる。奥野でも思う。自分はちがうと頑張る気もな い。駒井次郎もこれを読まされて、ゲヘヘと笑った。
「遊娼声妓俳優雑劇小説家等改制ノ事…で、明治政府が取締りを考えたの、知ってるか。明治のごく初めの公論公議機関だった集議院の、初仕事なんだよ。沙汰 やみにはなったけどね。もうちっと、教えてやろうか」と駒井は、奥野の前でわざと反り返った。
「小説を好むとだな。第一、品行を欠く。第二、女性は不健康で早く死ぬ、閨門を破る。第三、子弟を害する。第四、悪疾多し…。明治開化の、えらい学者さん のこれがご託宣さ。同じご仁の曰く、出版した小説の版木(はんぎ)など、みな焚燬(つぶ)してしまって下されと、丁重にお上(かみ)に願い出ていたんだ、 なんだナ…そのケが残ってるんだ、おまえの婿さんには、まだ」
「すさまじいな」
「感心してちゃ困るよ。ついでに、も少し、ものを知らん文士先生に教えてやるがね。明治五年、時の教部省が三条の教憲ってやつを出して、文学の目的を定義 してくれたのさ」
「………」
「一つ、敬神愛国ノ旨ヲ体ス可キコト 二つ、天地人道ヲ明ニスベキコト 三つ、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキコト。どうだね」
「内村竹司が泣いて喜びそうだ。だがナ…ヤツを育てた稲門(とうもん)こそ、坪内逍遙の小説神髄をはじめとして、愚にもつかんそういう小説観に、精魂こめ て反対してきたのを知らないんだ」
「………」
「福沢諭吉は文学無用論だったけどね。それでも三田文学は荷風なんか招いて、おれたちの趣味にあう、いい伝統をつくった」
「小説家は…常識とかけ離れたところで妄想にふける奴。もっとも、小説とは『ウソ』であるからして、小説家にリアリティーのある認識なんぞ求めるほうが筋 違いだという説もある。お付き合いもほどほどに…ですか。婿さん、得々として書いておるのう。幼稚さがよく出てる」と、駒井はつるりと顔を撫でた。
「自己を客観的に眺める習性を、自分は持ってると思って書いてるんだよ」
「軽薄と未熟を乃公(だいこう)自ら語るに落ちているのに気づいてないね。要は、小説家である夏ちゃんの父親を愚弄してやりたいだけだ。気稟(きひん)も 知性もない」
「こういう男を、夏生(なつみ)におれは押し付けちまった…。それだけでもオレは、ダメ親父でダメな人間(ヤツ)さ。取り返しがつかん…。さらに恥かしい のは、こんなヤツであっても、夏生まで離縁されちゃかなわんと、本気で思っていることだよ。
 かくあるべきかどうかは知らんが、どんなイヤな奴でも夫婦になっちまゃ、親にもうかがい知れん相性の不思議というものがあるじゃないか。夏生にはもう、 子もある。夏生自身がイヤと言いださぬぬかぎり、別れちまえたぁ口が裂けてもおれは言う気がないんだ。家内とは、そこが違う…」
 奥野は、苦い物をむりに嚥み下すようないやな顔をした。
 こんなことも内村は「常識」と称し、書いていた。

  み 見合い結婚  恋愛結婚に比べ、結び付きの必然性が薄い婚姻の形態。周囲がバックアップしてやると、関係はより一層良好となる。とくに双方の実家 が率先して、できることをしてあげるのが、不仲を生まない秘訣。それとは逆に、一方の実家が常識知らずで人並みのこともできなかったりすると、その実家を 持つ妻や夫の肩身がはなはだ狭くなる。もともと繋ぐ糸が細いので、離婚にまで発展しかねない。

 まちがいなく内村と夏生とは「見合い結婚」だった。内村にしたがえば「もともと繋ぐ糸が細い」結婚だった。金銭や物での「バックアップ」がなければ「離 婚にまで発展」しても仕方ない結婚だった。奥野家は「バックアップ」をしない「常識知らず」なので、夏生は「肩身がはなはだ狭」いと言ってある。経済の負 担を嫁の実家はすべきなのに、何故しないかと内村は言っているのだ。見合い結婚とは、そういう条件付き結婚だと内村は思っていて、条件を満たしてくれると 思えばこそ「光栄です」などと言ったのだろうが、奥野も藤子もそんな「常識」とは無縁な思想で結ばれていた。「できることはして」来たつもりだが、内村が 「できる」と期待したのと、奥野らの「できる」範囲は、大違いだった。

  と 嫁いだ娘への援助 「粋(いき)」にやりたいものである。この機を利用して婿に頭を下げさせようなどという気を、ゆめゆめ起こしてはならない。こ ういうことに関しては、女性の方が敏感なので、妻と娘に協議させるがよかろう。そのため、妻の裁量によって 処分できるお金を都合しておくのが夫の心得と いえる。山根某の嫁の出身は千葉だが、この実家は金を出すが口は出さない模範との誉れが高い。

 つまるところは「金」を出させたい、それも頼まれてするのでなく、「粋」に、常日頃から用意し、母から娘へひそやかに、「婿」殿に気をつかわせず煩わせ ずに、早め早めに察して出せということらしい。それが常識である、自分のまわりで学者婿の舅姑は例外なくそのように精勤しているぞと、他の手紙ででも、内 村は奥野らを嘲笑し挑発して来た。奥野は、駒井次郎にだけは、嗤って、「えらい婿殿」の口汚くあつかましい手紙を見せてきた。
「山根某って、あの仲人サンじゃないのか早稲田の杜(もり)の教授で」
「そう…。…ハナシは、聞いてた気もするんだがね。たしかに、末は博士になりそな婿さんを、マル抱えにしたい嫁の親というのは、いたね昔は。いや今も、こ のさきも、いっぱいいるだろうと思うよ。おれは違うけどね。度を越しゃ、ただの失礼みたいなもんさ。それで平気な男なんか、おれは好かん。もの欲しそうな 男が、いちばん嫌いさ」
「はなから金めあてに結婚したんだな、おまえの婿さんは。お門違いだな」
「新井白石の逆様だねこの夏生(なつみ)の亭主は。白石は、おからしか食えん貧乏書生だった。三千両持参金をつけるから婿にならんかと仲人を立てて来た大 商人がいたんだよ、若き白石を見込んでね。見込んだ奴の眼力も相当なもんだがね、誰かさんと違ってさ。だが、一も二もなく白石は断った」
「山根某サン、よっぽどテキトーな仲人口を使ったんじゃないか」
「何一つ、言ってないて彼は言うけどね」
「そうかねぇ。でも婿殿のいわく、『常識』の一例たる誉れはエラク高いらしいじゃないか。それにしても、呑んでかかってるね、この助手は。この教授を。陰 じゃコイツ、こういう口の利きかたを、どんな先生に対してでもしてるんだな、常平生…得意顔して。そういう自己主張ッきゃ出来ない不自由人なんだよ、なん にもモノが分かってない。センスのない坊やサ、こんなことを『誉れ』に数えてるんじゃ。何を勉強したのかね」
「願望が、即、規範になりうると思い込んでいるんだね。開けゴマ、と、唱えるだけで何でも誰でも自分のタメにしてくれるべきだと。それを自分の誉れだと 思ってやがる」
「相手が奥野じゃ、ホントこいつ運が悪かったネ。不運な婿さん、ですよ」
「本気で、不運だ不運だと嫌味を書いて来てるよ。嗤っちゃうよ。こういうことを本気で考えて、かりにも義理の親を蔭から罵倒しといて、一方でモンテス キューがどうだの、ルソーのエミールがどうだのと、やってなさる。ユマニスムの学問が、いかに偽善と瞞着の具にされているか…こういうのが古臭い教授病の 重症患者なんだから、学問・学生の受難も甚だしいよ」
「論語読みの論語知らず、昔からお馴染みだよ。弱るな。しくじったな、おまえ」
「しくじった…。たいへんなカスを夏生につかませた。もっとも夏生はどう思ってるのか、惚れてるんだと思うんだ。おれたちの前じゃ亭主の悪口をベラベラ 言って…、ゴマカシて。ああいうのは、向うに帰るとこっちの悪口で、亭主の機嫌を買うんだ」
「そいつを、また喜んで亭主は売りまくるワケだ。見えてないからね、モノが」
「ガリレオ以前なんだよ、たいへんな天動説さ。そこが坊ちゃま秀才の馬脚でね」
「山根さんは、何もしないんだな、向うへも」
「知らない…。呑んでかかってたからね、内村は彼を。最初からね。今は只(ただ)の平(ひら)教授だし、自分のおやじは学部長だった理事だったと、位取 り、きついんだ。ふつうなら山根さんぐらいな教授じゃなく、総長かえらい理事かに仲人してもらう身分だ、山根の顔を立ててやったんだと、夏生にも、ヤツ、 言ってたそうだよ。
 山根さんが、また、気が優しくてその辺で位負けしちゃう人でね。なんで山根が内村理事の息子さんの仲人を…なんて先輩や同僚に思われてるものと、ずいぶ ん気にして、緊張してたもの。披露宴に出て来た客はたいがい彼より格上だったし…、専門は日本文学だし、内村はもともと政経の出なんだよ。そっちにこわい 恩師がいるわけだから。そういう仲人口の結婚が、内村の地位も定まらない最中にトラブッちゃ、山根さんの学内での面子(おたちば)がヤバイんだ…。だから 学内向けには、あの奥野がよくない、あの作家は頑固なんだ、ケチなんだと言っとく方が、そりゃラクだろうね。大学人には有るんだよ、そういうふうにしか身 を守れんお人がね。……も少し、ジツのある、アテに出来る人だと思っていたが。勝手な坊やの、窘めるべきはピシッと窘めてくれる人かと思ってたが、尻込み 一方で…、こっちに、俺たちにゼンブ辛抱させようとするんだ。せめてウチの家内の話を聞いてやってくれと頼んでも、結局逃げちゃった…。大学という序列の シマを、半歩一歩も出られない人っているよ」
「おまえは、また、根ッから、シマの喪失者だからな。しかし、弱ってるだろな」
「山根さんかい。ああ。おれが赦さないからね。あちこちで愚痴ってるらしい、あちこちから、もう山根さんのこと、いいかげんに堪忍したげなさいよなんて言 われるよ。だけど許しゃしない。よそで愚痴るぐらいなら、紹介者として、友人として、おれと面と向かって話しゃいい。なのに友誼よか中立という名目で、結 果的に、おれへの悪声を振り撒いて歩いてたようなもんさ。奥野さんも年齢(とし)だし、そのうちにきっと折れるから、まぁま辛抱なんてことを夏生(なつ み)には言ってるんだ」
「よっぽど金持ちだと売り込んだんだ。それに飛び付いたんだ。かわいそうに。おまえ程度の物書きに金があったら、それこそお笑いなのに」
「天は自ら助くる者を助くって謂っただろ。おれは天にゃなれんけど。それにしてもヤツは、テンから、天がおれを助けなくてだれを助けるかと、嫁の実家に粋 (いき)な天になれなれと強要してきた。自助努力はハナから棚上げ…。しかし、金は、己れを卑しくして貰うもんじゃないぜ。意味なく遣るもんでも、まし て、ない。イキに金よこせなんて、そんなイジマシイ教育学や哲学、聞いたことあるかい」
「夏生ちゃんを金づると思って嫁にしたか…。若いくせに、嫁、嫁っていう男だな。おまえの金をアテにするのなら、いっそ養子に来りゃいいんだ。嫁の実家の 懐をアテに妻帯するなんて、自分の親の顔をつぶすってもんだ」
「ところが親父さんは死んでいるし、死んだご亭主の金の面倒をみたってのが、内村の母親の自慢なんだから、よくない環境だよ。息子は、だもんだから当然の ように夏生に強いたんだろ。里へ行って、取れるだけ取ってこいって。かわいそうに…、なんでこう再々帰って来るんだろと心配なぐらいだった。そのワケが、 最後に分かった…。向こうへ帰ろうとしたがらないんだよ夏生が…。そりゃそうだ、小遣い程度はやるが、ほかは夏生や子供の物ばかりやっていた。内村に金 は、全然…」
「夏ちゃんは、人一倍おまえの考え方で育ってるから。辛かったろうな」
「結婚して最初のうちは、いいお姑(かあ)さんよ、なんて歯の浮くよなこと言ってたが。すぐに盛大にケンカを始めた。亭主も音(ね)をあげたほどガンガン やってたらしいよ」
「つまりは、金を寄越さぬ嫁の実家…かね」
「そうだ。金を出さず、口を出す最悪の三文文士め…で」
「世間でいわゆるその最悪をサ、それこそ最良なんだと思考する、ケッタイな小説家…か。不運だったな婿さんは」
 奥野秀樹は笑ってしまった。駒井次郎も大口をあいて笑った。内村が母に出して貰っていた「月三万」の援助をとり上げられ、その母や妹に「働かないなら出 て行け」と実家からも追い立てを食っていたのを、まだあの頃、奥野らは知らなかった。


     一四

 六月二十日過ぎに上京します、伴侶となる人を見てほしいと手紙をよこした戸川一馬から、その後音沙汰はなかった。当然だった。いまだに奥野は戸川の真意 がしかと読めない。
 奥野からすれば、およそ、よそごとでしかなかった。物書きの好奇心が皆無なわけではない。ほんとうに妻にする女をつれて戸川が玄関に現れたなら、どんな 気がするか。その人はどんな気分で連れて来られるのか。夫である戸川とこの家の娘とに、ごちゃごちゃした未清算の過去または清算済みの過去があったと知っ て来るのか。知らずに来るのか。
 どっちにしてもフィアンセを連れて来るという戸川の真意は読みにくい。奥野はそんな想像に心まったく惹かれないワケでなかったし、結婚式という日に、四 谷の大聖堂なら覗きにだって行けると思いもした、いや、行きはしないが。
 七月二十日ごろ予定の戸川の結婚ばなしを、息子にもしたか奥野は忘れていた。春生(はるき)は、たとえ母親に聞いていても姉へは伝えまい、が、知れば夏 生(なつみ)はどう感じるのだろう。
 想像がとかく拡散するのは我ながら鬱陶しいが、奥野は、気になることが無いではなかった。もののあわれといえば古めかしい、だが父奥野に忘れられないの は、内村と結婚後の誕生日に、戸川から実家(さと)へ贈られてきた、仰山な薔薇一束だった。
 「捨ててしまってよ」と夏生は吐き棄てた。あんまり割り切れ過ぎていないか。そういうもの…か。
 すさまじい感情のしこりを残して女友達と喧嘩別れしたという過去を、奥野はおよそ一つも記憶していない。よぎない成行きでいっとき疎遠になったことは、 奥野が結婚し東京に出てきた当座は、あった。だが、なだらかに、大方、現在は親しみも懐かしさも回復している。お互いがお互いの生活をもち、それでも文通 があり連絡がある。読者と作者という立場の組み替えが、幸いした例もある。
 結婚したては自然…遠慮があった、どっちへ向いても。とすればあの薔薇は、結婚したての夏生に、あんまり早い過去からのメッセージだったのか。
 では約十年経た今、結婚するよ、したよと戸川一馬から通知があれば、もっと温和な祝福の思いを夏生は胸のうちで抱くのだろうか。せめてそうあって欲しい と思うなどお節介が過ぎると分かっているけれど、それも父の娘によせる人格上の不安の一つだった。
 そうそうあの福井君は…どうしただろか。お嫁さんをとうに貰ったかな。北齊学者の杉本氏はどうしてるのだろう、伴侶をあれから得たのだろうか。
 だが、そんな…人のことよりも、春生(はるき)の方は、どうなったというのだろう。あれは、あの一枚だけ枝に残って風に吹かれているような女の子との同 棲は、あれでも伴侶を得ているということなのだろうか。同居の当座、舟島薫という子はしきりと「結婚」という言葉で春生に訴えたと、母親は息子から漏れ聞 いている。
「あぁ、あぁと受け流して、あれで春生(はるき)…慎重に構えてるらしいのよ、ま、そのうちに考えようよと。あれでも、意識して、やり過ごしてたみたいな の。意外でしょ」
「意外でもないが…。考えているんだいろんなことを。薫さんの状態を、内も外も、まだまだ不安定要因が多いと見てるんじゃないか。それは…慎重でありたい ね。結婚しちゃうのは簡単だと、彼も分かっているんだろう…が、簡単なことにしてしまっていいかという、ためらい… 不安、が有るんだろうよ」
「十二月の、つた一座で責任のある公演が春生には重いでしょうし。薫さんもそれは分かっているし。なんだか、彼女もべつンとこで小劇団に参加してるとか、 してたかとも言ってるし」
「たいしたもんだよ。彼女を春生は、まるごと抱えちまってる。無理は…だが、長く続かんぜ」
「そうよ…ねえ」と、藤子は形ばかり溜め息をついた。
 薫がほとんど無一文で春生(はるき)のマンションに転げ込んだのは本当らしい。春生は可哀相な女友達の一切を抱え込むことに、男意気地も覚えているらし い。先方の親に敵愾心(てきがいしん)を抱いていて、薫の面倒見ぐらい「やってやらぁ」と思ったのだろう、当座は出来ないことではない。だが、時間ほど執 拗に人の行くさきざきについて来るものはなく、それが刻々と重さを増してくる。時間だけがそうでなく、心理もまた、とほうもない悪戯をする。百年の恋がさ めるとか、鼻についてくるとかいったことが、突如として、じつは目に見えない意識の深処で着々と進行していて、ばっと現れて来る。対抗できるのは冷静な意 識と深い愛情しかなく、約(つづ)めていえば冷静で細心な互いの協力だけが、そういう心理の崩壊を避けられる。春生と薫とに、それほどのものの有る気配は なく、あんな穴蔵の暮らしのなかで、やがて音(ね)をあげるだろう、どっちかが辛くて辛くてかなわなくなるだろう、それがどっちかといえば、存外女の薫で はないかと奥野は見ていた。理由は幾らもあった。
 助けてやれる「手」があるか、奥野はまだそこへ頭を使おうと思わなかった。たとえば、纏まった大きな金を春生(はるき)に与えてやれば、いまの春生な ら、会社をやめて芝居に打ち込む基金にしたがるだろう。愛さえあれば薫との現在の暮らしは維持できるとまだまだ錯覚しているにちがいなく、そっちへ金を使 おうとはしないだろう。春生の頭は、会社をやめてもどう生活できるか、そっちの方へ傾き過ぎるほど傾いているところで、だから「結婚」を仄めかしたり露わ に迫ったりの薫を、まぁ待てと捌(さば)いているのだろう。会社をやめて成り立つ暮らしでないこと、春生には分かっている。薫を抱きかかえてでは自滅は自 明、父親が生活を相当に援助してくれたにしても、春生にはまだ、薫との結婚生活、夫婦生活のもたらす生産力や生活力に自信がない。難儀な荷物を背負うだけ かも知れないと思っている。
 薫の方は、他のなにに我慢してでも遁れ出たい「親の家」だったか知れない、が、我慢していればだんだん豊かになる暮らしとは、春生との毎日を送っていれ ば望み薄なのは見えている。自分の存在が春生を幸せそうにしているのは信じられても、春生に途方もない重荷を背負わせているともまた分かっているはずで、 一銭の稼ぎもならず、電車一つ乗るのにも春生の財布をアテにするしかない毎日を、心理的にどこまで辛抱できるか、やがて答えが出てくるだろう。
 そんな答えを見つけるために、一度、薫を、京都で学生生活をしているという薫の姉のもとへやってみるのも良い工夫ではないかと、奥野は考えていた。男女 の両方が「我」に帰って自分を考え直してみる、その時間が要り用だ。
 春生が何かで電話してきたとき、奥野は、ちょっとそれを口にしてみた。
「じつはそれを考えているんです」と、春生も言葉ずくなに返事した。奥野は、それだけにして、話題を逸らした。
 舟島薫の、もし自分たちが父親であり母親であるなら、自分の娘に、また奥野春生に、さらには同棲を黙認して手をこまねいている春生の親たちに、どんな思 いをもつだろう。奥野はそんなことも考える。どんな表情と言葉づかいで春生が薫の父である舟島氏に応対したか、想像するだに奥野はうすら寒くなった。まさ かに内村竹司のような無頼な無礼は春生は働かないと信じているが、薫に同情の急なあまり、向うの親たちを受け入れる気がないことは、口ぶりで察しがつく。
 結婚を考えているほど若い二人が愛し合っているのなら、親なら、ほんとうに結婚を前提の同棲かどうかを確認し、手順を踏んだ穏便な入籍を求めるのではな いか。できれば一旦家に戻らせ、同棲が結婚にというずるずるを避けたくはあるが、言い過ぎて破綻を誘うのも問題だと思うだろう。相手の男がいろんな点で信 頼できるかどうか、気にするだろう。先方の親の生活についても知りたく、保証というのではないが、親の口からも娘を嫁としてなるべく喜んで受け入れてもら いたいと願うだろう。結婚もせず、いつかやっぱり家に舞い戻っている、学校も休んだまま復学のメドも立たない、精神状態もよくなっていない、というのでは やり切れないし、相手方の男や家族を憎く思うだろう――。
 ふつうの親なら、だいたいこんなことを考えているのではなかろうか。奥野はそう推量し、あの春生は、また自分たちは、どう応じられるか…と想像した。
 春生にすれば、前提になる「ふつうの親であれば」のその一点で、全然逸れていると言いたいのだ。「ふつうの親ではない」から、可哀相で薫を家に帰せな い、返さない。そうまで向こうの父親に頑張ったことも言ったようだ。
 舟島の両親は、薫の健康、ことに心の不調をどの程度認識しているのか、それも大事なところだった。健康で、とくに不安もないなら春生はいっそ結婚してし まった方がらくになれるところも、ある。保険や手当ての保証も加わるし、子供がいま欲しいかどうかはおいても、妊娠を過度に恐れたり避けたりせずに済む。 同棲で男に寄食しているのと、妻として生きて行くのとでは、意欲がちがってくるだろう。だが現実に、春生自身、薫を健康・健常とは本心信じていない。日常 にも、疲労や呼吸切迫やヒステリィに近い状態を薫は払拭(ふっしょく)していない。結婚にいたる同棲でなく、衝動的な緊急避難の体(てい)をいっこう抜け 出ていない。愛は疑わないこととしても、その愛、同情と庇護に傾き衝動と依存に傾きすぎている――。
 ま、こういう自問自答などを指さして内村竹司は、「作家」とはやたら「夫婦はかくあるべきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、常識とかけ 離れたところで妄想にふける奴だと言うのだろう…と、奥野は苦笑した。
 「べきだ」などと本気で思っていたら、奥野ももう少し身を動かしどうにかしていただろう、だがそんな真似はできなかった。そんな余力を自分は余していな いという自覚のほうが強い。だからじっとして考えていた、考えねばならぬもっと厄介な問題が春生の上に迫っていて、対策を間違えれば、しぜん奥野らも激震 の煽りを食うだろう、そっちの方が放っておけなかった――。
 十二月に迫った浅草橋での春生の公演は、劇作家つたひできが子飼いの若い書き手たちに自作を上演させてみるシリーズ企画で、一年余にわたる数組競作のい わゆるトリを取って、春生ともう一人女性の出番だった。その舞台は何としても責任を果たさなければならないが、一方春生の勤務先は、公演のつどの二週三週 もの有給休暇や、稽古期間中の散発の休暇や残業拒否にいい顔をしていない。当然だろう。奥野にも管理職の体験がある、春生ほどの例はなかったが、有ったら 会社感覚でいえば対応に困ったし、たいへん迷惑したと思う。それが奥野は気になっていて、さきの五月公演ですら、十二月までの間隔が短かすぎると危ぶん だ。大事でもあり責任もある十二月にだけ的を絞ったらと意見も言った。
 だが春生には春生の身に迫ったべつの判断が在った、間隔をあけず次ぎ次ぎに「上げ潮」をつくって行かねば生き残れないと。
 そうかも知れない。上げ潮といった感覚を、奥野ですら我が身にかすかに自覚した歳月をもっていた、過去に。しかし潮に乗れなかった。乗らなかったなどと 言いわけする気もなく、しかし乗る気なら乗れるという潮でないのも確かだった。春生の曰(いわ)くを、同じ似た道を歩いてきた奥野は否定してやりたくな かった。
 五月公演は、劇場も狭くて盛況だった。ちょっと凄いほどだった。勤め先からも大勢が見に来てくれた。だが、だから会社は春生の演劇活動を容認したという わけではない。そういうものではない。奥野は、会社という生き物の実地を、使われる側でも使う側でも多少なり踏んできたから、春生の「太平楽」と謂わない までも、「なんとかなるよ、凌(しの)げると思うよ」という楽観には頷きかねた。まして十二月への稽古にはや併走して、翌る春三月、今度は新宿でまた自主 公演の劇場予約をもう済ませた、準備に入るつもりだというのには、思わず声が漏れたほど危惧を押えかねた。
「無理が過ぎゃしないか」
「大丈夫だって。それッくらい勢いに乗ってやってくのが、この業界では普通なの」
「そッちの業界はそうでも、おまえが現に給料をとってる業界は、そうじゃないぜ」
「それは、分かってる」
「分かってるだけで、済むならいいがね」
 春生も、それ以上の抗弁は避けていた。
「会社をクビ切られちゃ、元も子もないんじゃないか……あの娘(こ)まで抱えて」
「分かってる…」
「十二月公演は、会社に頭を床(ゆか)にすりつけてでも、やらして貰うしかない、これは投げだせないと思うよ。そしてまた三月に…じゃ、そりゃ怒るぜ」
「かも、知れない…」
 春生の語気にも陰りがあった。現実に破壊的な津波の近づいているのを、子も父も、むろん母親も、感じていた。感じながら、親子の実感にまだ差があった。 子は希望をもち、親は憂慮していた。憂慮は、すぐ、かたちを取った。
 春生は、突如職場を変えられた。窓際へ移されたというのでなく、見ようによれば数十人を統率してでもいるような、だがその数十人は社外電話に応対するの が職務の、おおかた女子の派遣社員で、社員は春生とほかに二、三。
 外の世間から持ち込まれる苦情やトラブルは社員で処理しなければならず、電話を受ける時間帯は、カード会社では当然のこと、ほぼ終日に及ぶ。これまで、 そのポストにまわされた社員の何人かは即刻退社したという伝説もあり、やめたければ、やめてもらってけっこう、というほどの会社の意思表示を読むしかない 地位に春生は据えられてしまった。
「やめざるをえないかも知れない…」
 またまた深夜、奥野に電話をかけてきた春生の声音は、どんより曇っていた。
「おまえは、おまえの冷静な対策を考えてみるといい。甘いことは、もう言っていられないぞ。父さんも、父さんの考えをまとめてみるよ」
 こういうのが親馬鹿なんだ…と思いつつ、すばやく奥野の頭は動き出していた。
 こういう時だな。内村なら口は出さずに金を出せばいいんだと言い募るところだ。
 奥野は冷ややかな軽蔑の気持ちを眼に光らせた。相当の金額を黙って手渡したりすれば、春生は喜んで、そんな金の力を過信して、勢いづいてただ単に会社を やめてしまうだろう、それで何が解決するのか。そんなものじゃない…と奥野は先々が想像できた。
 よく考えて、苦しんで、力を合わせられる相手がいるならよく力を合わせて、敏捷に、しかし慎重に。
 奥野はそういう生き方をしてきた。成功したととても言えないけれど、悔いはそう残さずに来れた。
「すこしは長いスパンで、見ろよな」
 電話の向うに朧ろに顔の見えている息子を、奥野は声低く励ました。受話器を置き、しばらく電気を消した中で考えた。また明るくして、そしてワープロの新 しいファイルに、先ず、こう打った。

 * ――春生(はるき)に。できれば薫(敬称略)にも――

 一 春生は二十八歳半。結婚し子供が一人いても普通の、大人である。

 二 大人は、自分の生活を自力で建てて当然である。今、親の面倒までみる必要はないが、親の力に頼って暮らす年齢(とし)ではない。

 三 体力も気力も親は衰えはじめ、春生の力を借りたい場面は年々増えているが、幸い経済的に負担はかけずに済んでいる。春生も、自分の暮らしは自分で賄 うべし。

 四 春生の置かれている状況。
  1 会社は、演劇社員を雇用する気はなく、配属に不満なら直ちに退社してもらって差支えない姿    勢に在る。
  2 職場は忙しく、かつデスクへの拘束度も高い。残業等の実情から、春生は、時間的・体力的に    ごく窮屈な状態に在る。
  3 有給の許容範囲内であれ、稽古や公演を理由に長い休暇は取り難い状態に在る。
  4 会社をやめ、無収入で暮らせる資金の用意は、退職金を含めて五百万円を出ない。
  5 今年十二月にすでに予告の公演を控え、キャンセルは出来ない。しかし強行すれば「職務命令    違反」による懲戒免職がありうる。退職金も支給 されなくなる。
  6 薫との同棲は、春生の負担になっている。薫に、生活資金を稼ぐ気も力も乏しく医療を受ける    必要すらあるが、健康保険も社会保険も無いに等 しい。
  7 春生は「無収入状態」で二人の生活を維持し、加えて、演劇のための費用も自力で工面しなけ    ればならないが、算段は立っていない。

 五 現実に、どんな選択肢が在るか。
  1 経済成り立たずに演劇活動の成り立たないことは、体験済みである。
  2 経済成り立たずに生活が維持できるわけのないのも、体験済みと思う。
  3 経済成り立たずに藝術に打ち込むこと、必ずしも不可能ではないが、負担は最小限にとどめざ    るをえない。しかも「貧すれば鈍する」という諺 は的を射ている。一人でも泳ぐのに精一杯な    時に、泳げない人にしがみつかれたまま、どこへ泳ぎつけるだろう。
  4 やむをえず、どう苦しくても現在の「給料を確保」するという選択肢がある。その為には、来    年三月はもとより、最悪、この十二月公演も断念 せざるを得ない厳しい事態に追い込まれるだ    ろう。しかし十二月公演は実現しなければ、つた氏への責任が取れない。
  5 十二月を乗り切ったところで、三月にまた繰り返せば、会社は春生の馘首になんら心を痛めな    いだろう。
  6 退社を強行すれば、自然、アルバイト探しに奔命することになり、生活の安定は難い。薫との    生活も共倒れ必至となる。
  7 転職の道を時間をかけて探す道もある。但し同じ繰り返しになりかねない。
 
  六 どの策を採れば、少しでもマシか。
  1 長期的にみて、一時の犠牲と断念により「会社はやめない」よう頑張りぬく。
  2 そのため一時的に演劇の公演活動を自粛し、大過ない会社勤務の間に、戯曲を書き、小説を書    いてもよく、また演劇の勉強を積み上げて、隠忍 自重のじっとガマンの時節を体験する。(実力    以上に無謀に気負った咎めが、社会的にも私生活でも出たのだと見られる。)
  3 十二月の公演だけは誠意を尽くして会社に理解してもらい、成功させたい。(これは、父の希望。)    三月公演は、論外。この際中止。生活の立 場を失って出来る事業など無いと思っていたほうが    いい。
  4 今からでも、とくに会社上層部および職場の同僚の最大限の支持を得られるよう、誠意を尽く    し努力する。
  5 その一方、自前の自立が果たせるよう、鋭意、貯蓄すべきである。
  6 薫とのフレンドシップは従来どおりでいいが、同棲は解消し、互いが互いを拘束し合わないこ    と。
  7 薫も「春生の現状」を把握し、無残な挫折を招かぬよう理解を示して欲しい。家族との関係を    どう修復しどう維持する気か、薫自身の考えを明 らかにし、将来にわたる不幸を回避した方が    よい。
  8 春生は、極力身を軽くして、失速飛行の現状から全身全力で脱して欲しい。
  9 現状の横滑りで、薫も一緒に大泉の奥野家で暮らすというのは、舟島家に対する責任からも、    不可。薫の健康にもし異常があらわれ、病気が 重ったり不慮の事故があったりしたとき、春生    はもとより、春生の親としても責任の取りようがない。奥野には、薫まで抱えこめる余力が無     い。
  10 いまの春生の若さで、若干人生航路を変更して飛び続けることは、不安はあるだろうが不可能    ではない。天与の機会と受けとめ勉強を積むが よい。
  11  もっと虚心に、先々を、人と相談する態度が必要だった。

 七 結論として。 いま会社の給料を失って自立できる道は、はなはだ見つけ難い。
   春生の目下の非力で、「創作・公演・会社・薫の四つ」を何一つ手放さずに持ち堪えられる道理が   ない。失速墜落の危険は目前にある。しかも、い ちばん捨てたがっている「会社こそ」、他の三つ   の存立を、事実上支える基盤であり分母である。「創作」「公演」「薫」の、どれをこの際、省力し    うるか。これに自発的に聡明に順位を付けられるのは春生であり、また薫である。
     平成八年七月十七日 春生の電話を受け、直ぐ   父(母) 
 

 奥野は藤子にも読ませた。意見を一つ二つ取り入れ、字句を直した。最後に(母)とも添えた。だが、春生へすぐ送りはしなかった。もう一度も二度も「波」 はきっと来る。春生から身を動かしものを言ってきた機(おり)でよかろうと親たちは結論した。
「春生(はるき)も夏生(なつみ)も、こういうふうにお父さんに…、そうね、口出し…をされて来たでしょ。子供たちのこと、親もいっしょに考えて意見を出 してきたわ。
 竹司にはそんなことはしなかったし、相談だって一度として受けたことなかった…。けれど、お父さんが、ま、こういう口出しの仕方で夏生なんかに影響力を 持ってたことが、彼には口惜しかったのね。それも分かる…けれど。オーバードクターのまま就職できない彼…、嫉妬心が劣等感にもなってしまいそうで、それ で暴発しちゃったとも言えるわね」
 藤子は初めて、内村竹司の、舅への「嫉妬心」というところに口を入れた。
 ふつうの舅なら秀才を自任する婿殿に敬意をはらい、下手(したて)に出てちやほやしてくれると思っていたのがアテはずれで、適当にあしらわれていると、 「ヒガンだのよ」と言う。
「逆に言うと、これまでは、山根教授なんかも含めて、みんなおれのこと奉ってくれると思い思い、慇懃無礼に腰だけかがめて謙虚そうにしてたんじゃないの。 あなたに、その手は通じませんものね」と、おとなしい藤子も一度言い出すと辛辣だ。
「おれは今、荷風の小説なんか懐かしくてさ。そのはずみでモーパッサンを読んでいる。短編集は君も読んでるよね、文庫本で。ノルマンデイーの田舎を描い た、文字どおり文字で絵に描いたというしかない、みごとな自然主義の人間描写。すごいよね。あれはあれだけなんて悪口言う人もいるけど、眼が凄い。絞りの 深い、しかも全開放のレンズになって、ただただ具体的にものを写し取る技術……、おれなんか同じ小説家だなんて恥じ入るほどみごとだ。
 ま…この際、そんなこたぁ何の関係もないと言ゃそれまでだけど…、つぎに例の『女の一生』さ。あれも読んだ。昔々に読んだときは、あんまり悲惨なんで。 で、逃げちゃった。モーパッサンの筆の冴えなんてもなぁ、中学高校では目が届かないよ。筋だけで読んでたからね」
「こんどは、ちがったのね」
「ああ、ちがった。が…、それはそれ、技術面のことなんかはね。
 こんど『女の一生』を読んでて心臓が凍えそうになったのは、ジャンヌとジュリアンの新婚旅行のところだよ。色男なんだ、落魄(おちぶ)れ貴族のジュリア ンは。慇懃で。格好よくて。だがそいつに惚れたジャンヌは、身も心もささげて夢のようにハネムーンに出て行く。出がけに母親が二千フラン、お小遣いをジャ ンヌにやってるんだよね。
 それを、旅が始まるとすぐジャンヌは、嬉しそうに夫になったばかりのジュリアンに話すんだ。むろんジャンヌは、自分のお金だと思っていた。二人の旅をそ のお金で楽しめるものと思っていた。だけどジュリアンは、言葉たくみに巻き上げてポケットに入れっちまう。一瞬、初めて、ほんとに初めて、ジャンヌはジュ リアンに対して違和感をもつんだ。
 違和感はみるみるうち現実のものとなり、やがて裕福だったジャンヌの実家の経済をかきまわし始めたジュリアンは、反比例してジャンヌを、世にも不幸で寂 しい妻に疎外して行くわけだよ、要するに妻の実家の金をアテに結婚した、典型的な悪性(あくしょう)な寄生虫だったんだ。結婚前と後との悪魔的な落差が凄 いともなんとも…。
 ま…、内村のことは知らないが、少なくも夏生(なつみ)は、新婚旅行へ、ジャンヌのその二千フランを、つまり結婚祝いの包み金を、持って行かなかった。 それが、あいつに天を仰がせた、最初の、具体的な、われわれへの恨みだったんだよ」
「皮算用してたのよね、あれを。夏生は夏生で自分の通帳に前もって振込んで貰ってた大金(ぶん)は、内緒にしてたそうですし…。そういえば、そうそう…。 夏生、二度めの妊娠で御腹が大きいまま、電車で、代々木まで塾の先生のバイトに通ってたでしょう。あのアルバイトのお金を、どこへ振り込みますかと事務か ら電話で尋ねてきたのね。そしたら電話に出た彼、夏生の返事もきかず、即座に自分名義の通帳にって指定しちゃったんですって。びっくりしたぁ…って、夏 生、目をむいてましたもの」
「生活費も彼が仕切ってたのかも知れんな。あれは辛いんだ女房には。うちの親父がそうだった。おばあちゃんは、週か十日ごとに親父に現金を貰うんだけど、 いつも足りないんだよ。お金足してくれと言い出すのが、それは辛そうだった、そばで見てて堪らなかった。だから、おれは給料袋を一度も自分で封を切らな かったんだよ。新婚早々の、貧乏の限りを尽くしてた頃でも、きみの小遣い分は決めてたし、物書き一本になって見通しが立つと、すぐ、収入一切の通帳は、き みに預けたままだからな」
「内村ったら……、実家で取れるだけ取って来いみたいに、夏生をせっせと寄越していたのよ。ほんとなんだもの」
「すっごく暗くなるんだ、夏生。そして、しぶしぶ…」
「そうしぶしぶ内村へ帰って行くのよね。あれが、どうにも合点が行かなかったわ、ながいこと。洋服買ったり、子供にも買ったり、お茶だのお菓子だの、生活 用品でもなんでも持って行かせていたけど…。あれじゃ、ダメだったのよね向うの家(うち)では。竹司本人に、現金をたっぷりやらないとダメ…」
「婿さんにせっせと金を貢がなけぁいけなかったんだ。そんなこと…、思い付きもしなかった。三十過ぎた一人前の男、時間も体力もある健康な男に、それじゃ あ失礼ってもんだと、本気で思ってた…」
「ですから、もう決まる就職祝ははずもうって、百万円包んであったじゃありませんか。でも、ほんとに学者のお婿さんて、そんなに、お嫁さんの実家がお金の お守(も)りをするものなの。ほんとなの」
「常識だそうだ、内村竹司によれば。統計をとって見せてやろうかとまで俺は言われたな。仲人教授の山根某はそういう恩恵に浴した典型的な、誉れ高い一例だ とやられた時は驚いたね。いや、まんざら知らんでもなかった。だけど、それが当たり前だなんて夢にも思わなかったし、山根さんも、奥野さん内村にそうして やってくれなんて、たった一度も、一言も言わなんだぜ」
「するのが当たり前と、…思ってらした…のね」
「うん…。今となれば、そうだったのかな」
「ジュリアンか…。で、どうなるの、そのジュリアンは」
「ジュリアンのはなしなんかよせよ。反吐(へど)が出る……。奴、ジャンヌらの家の財産は、使い放題でね。あげく、森に、移動小屋があって…、押すと動か せるんだ。その中で近くの貴族の奥さんと逢引を重ねてた。その現場をご亭主に見つかり、外から鍵をかけられ、小屋ごと断崖を落とされて、惨死二人とも。 ジャンヌは二度めの妊娠中だった。けど、流産…。ジュリアンは、妻のつわりをひッどくいやがった…」
「あらら。どこかで聞いたようなお話ね…」と、藤子はユーウツそうに首を振った。
『女の一生』のジュリアンは、新婚旅行から帰って妻の館で妻の親たちと生活しはじめると、人が変わったように妻のジャンヌを顧みない。身嗜みもたちまち不 精になり、物言いもガサツになる。ただもう、妻や妻の両親の領地や農民を采配し専権をふるうことばかり考えている。それも、舅の男爵とはうって変わり、吝 嗇を極める。
 それだけではなかった。ジュリアンは、婚約より以前、初めてジャンヌの家に客として訪問したもうその夜のうちに、ジャンヌの小間使ロザリの部屋へ忍び入 り、犯していた。新婚旅行から帰ったその晩にも早速ロザリと寝ていた。あげく妊娠させ、男の子を、妻ジャンヌの目の前でロザリに生み落とさせた。ジュリア ンはそ知らぬ顔して「売女(ばいた)」とロザリを罵り、家から追い出そうとした。事情をしらないジャンヌはロザリを庇い、生まれた子は、父親のさだかでな いまま里子に出された。ロザリは屋敷に残ってジャンヌに仕えていたが、ある晩、ジャンヌは夫の夜の求めをことわり独り寝たものの、寒さと体調の違和に耐え かね、介護を求めてロザリの部屋へ行った。召使はベッドにいなかった。よぎなく夫の部屋に入ると、ジュリアンの枕にロザリも頭を並べて寝ていた。
 一切が暴露されてしまうと、気のいいジャンヌの親たちは、二万フランの年収が約束された領地を生み落とされた男の子の名義にし、それを持参金にロザリを ジュリアンとの子づれで、べつの農家に嫁がせた。当のジュリアンはあんな女には現金の千五百フランもやれば十分なのにと、舅らの金づかいに憤激した。ジャ ンヌも妊娠していたことが分かった。あの晩夫とのベッドを拒んだのも、つわりが始まっていたのだ。
 ジュリアンの所行は、仲裁した司祭の言うように、その地方の日常茶飯事にちかい事件ではあった。年収が二万フランも上がる農園をロザリの子に与えたの は、男爵夫妻やジャンヌの途方もない人のよさであると同時に、経済観念にあまりに欠けた行為であったと言えはする。が、そこに言いしれぬ温情があり、ジュ リアンの過酷な性格との凄いようなコントラストが、言わず語らず描かれていた。目に映じ耳に聞いた事実しか書かないモーパッサンの写実は雄弁だった――。

 奥野や藤子は資産家だったジャンヌの両親とは似も似つかず、むろん夏生(なつみ)もジャンヌではない。内村もジュリアンではない。だが、『女の一生』を 読んでいて、奥野は、どうしても内村竹司の薄い唇をゆがめた白い顔が眼にかぶった。内村がとくに吝嗇かどうか知らない。無用の見栄をはる方だった。やめて くれと断っても、自分で来るときは過分の手土産を持ってきたがった。女遊びはし尽くし、もう飽きて、結婚は「良家の子女」と見合いで決めたかったと当の夏 生に打ち明けていたというが、半分ぐらい本音だったろう、いやいや正しくは、
「金持ちの良家の」だったろう…と、奥野は苦笑した。


     一五

 貞子の返事、佐倉芳江の妹の返事は、奥野の思ったとおり、無かった。諦めるというのとは違ったが、奥野は、空(くう)を見つめていた。矢部先生にもう一 度問い合わせてみる気もなかった。
 姉の、佐倉芳江の、離婚に至った事実や事情が、知りたいか。そう何度も奥野は自分に問うた。
 知りたくなかった。
 事実や事情ほど「真実」から逸れたものは無いのかも知れぬと、奥野は、文学の信念の一つにそういうことも意識してきた。
 あの「姉さん」だった芳江にかかわる、事実だの事情だのを、出逢いの最初からほとんど何も知らなかった。昭和終戦後の新制中学でいっしょだったたった半 年と、その後平成の今日までの何十年に、芳江の実像らしき噂ばなしを奥野は、誰からも、まったく聞いていない。
 人妻であったあの人の声を、最初に仲介して電話口で聞かせてくれた祇園の或る割烹の店の女将だけが、
 「ええ人えぇ」と言い、中年過ぎた奥野秀樹の久しい慕情にいたく思い入れてくれたぐらいが記憶にあるだけで、図画の先生だった矢部卓之氏も、一度として かつての教え子佐倉芳江を、同じ教え子の奥野のまえで評判したことがない。上級生芳江のかすかな写真一枚も奥野は持たず、ただ二、三の手紙と、卒業式の後 でしっかり手渡された文庫本『こゝろ』の奥付裏に、「呈」の署名だけが残された。それで十分ではないかと思わぬ奥野でもなかった。が、どこにどうして暮ら しているか知れぬ人の、無事は、日々祈らずにおれない。
 徹夜にちかく、眠れぬままあれこれ仕事をこなしている毎日がつづいた。肩は凝り、乱杭歯が痛み、遠いの近いのと眼鏡をとり替えとり替えしても、目は霞ん だ。アトランタでオリンピックが始まると、はなからその気の奥野は、深夜実況のテレビとも親密に付き合った。もう決して自分には出来ないスポーツを、世界 のレベルで演じて見せてくれる。なまなかの見物(みもの)や読み物よりオリンピック選手の競技は、多彩で、胸が弾んだ。
 開幕の日の晩、上野のピアノリサイタルに藤子は人に誘われ、彼女は夫も熱心に誘ったが、奥野はテレビの前から動く気がなかった。
 藤子は息子にことわって目白の部屋から舟島薫を誘い出し、連れて行った。
 その上野の会場で、ひとつ、事件が起きた。
 リサイタルへと奨めてきたのは、ピアニストを支援のグループに入っていた、奥野らとはもう久しい友人の女性読者だった。離婚して、三人のちいさかった女 の子をしっかり育て上げてきた人だ。
 別れた元編集者の夫とも、奥野らは今も親しい。女の子たちも父親の木野と小絶(おだ)えなく、よく会っていた。夏休みになると土佐の父の田舎に遊びに行 く。上の二人は、小さい頃奥野の家にもよく連れてこられ、「おにいちゃん」の春生(はるき)にまつわりついて離れなかった。
 離婚は、そのしばらく後で起きた。春生は他人事(ひとごと)でなく道子や文子に同情し、「かわいそう」「かわいそう」をいっとき繰り返し口にした。
 そのいちばん上の、いまは早稲田の四年生が、上野の会場の受付を手伝っていて、藤子の連れてきた薫を見て、「ぶッ飛ん」だ。木野道子は、学内の小劇団で 舟島薫の一年先輩に当たっていた。春生がさきの五月公演のために「芝居のできるやつ」を探していたとき、幼馴染みの道子に声をかけ、道子が舟島薫を紹介し た。奥野らは知らなかった。
 道子のいわく、春生(はるき)はその後二度も繰り返し、薫を紹介してくれて「ありがとう」と道子に頭をさげたそうだ。道子の方は、後輩の「舟島が」誰だ かと目白辺で同棲してるらしい噂を、仲間内で耳にしていた。奥野家のあの春生と、とはまさか思わなかった。
 道子には、春生の「お嫁さんにしてもらお」と思っていた時が、あった。奥野や藤子にも、それを想っていた時があった。春生にもあったかも知れない、が、 あまり近すぎたか、かえって恋するほどの機会がなかった。
 ひとつには小粒ながら活発で利発な道子は、出たとこ勝負の春生を凌ぐ実力と気迫の少女だった。がんばる子だった。親の離婚にしっかり鍛えられ、批評と文 章の力を、優れた編集者だった父親ゆずりに持っていた。小学校の作文コンクールで総理大臣賞を獲った。大学では、薬害エイズ問題を告発する二千人集会を呼 びかけて成功させ、大きな賞をもらっていた。
 春生は、あんまり元気な道子に、平生からやや身を退(ひ)いていたようだ。
 道子は、「奥野先生」に電話をよこし、父親と連れて、週明け、久しぶりに遊びに行きたい、よろしくと、予約を入れていた。たしかに久しぶりだった。
 離婚して木野はべつの女性と結婚していた。離婚まえに、もうその人に子を宿させていた。生まれて来る子を私生児にしないためにと、ちょっと聞けばなんだ かへんてこな口実で、木野は当時の奥さんに一度別れてくれともちかけた。そんなぐあいに木野は向うの女性と再婚した。また別れて前の奥さん、愛子さんとよ りを戻すということは、やはり、ありそうも無かった。
 道子たちは傷つき、父を容易に許していないのだが、父と娘三人とは、いくらか愛子の気をかねながら、自由に家の外では会っている。東大出の父は、三人の 娘の受験に、高校も大学も欠かさずいろんな場所で会っては教師役を勤めつづけ、道子は早稲田に、次ぎの純子は一橋大に難なく受かっていた。今度は三女の亮 子が受験の番だった。木野は受験指南番として娘らの信頼を確保していたが、生活は別だった。いまの奥さんに生まれた男の子も、もう高校が目の前だった。
 「会ったのかい」
 「…、向うの…ですか。会いません」と、道子は酒好きの父をキラリと横目ににらみながら、許すものかという口調だ。木野は磊落にわらい、
 「いやもう…、子育てというのは楽しいものですな」などと言い放ち、酒を啜った。
 「亮子を育ててほしかったわ」と道子は間髪をいれず切り返し、かるい肘鉄を父に見舞う。いちばん下の娘だ、父が家を出ていったのも覚えない稚(いとけ な)い子だった。その子が今は父に受験指導をしてもらっている。ふしぎな父と娘たちだが、木野という男には不思議を不思議がらせない、さらっとした落ち着 きがあった。
 「木野さんは、自由人なんだ」と、奥野はむしろ道子のためにそれを言った。どんな意味でそう言ったか自分にもハキと分かっていたわけでないが、なんとな く割り切れるものがあった。道子も奥野の曰くに抵抗しなかった。藤子の次々にもち出す手料理をみんなでかたづけかたづけ、昼間からの酒が夜おそくまで続い た。かろうじて木野が市川の先へ終電で帰ってゆく限度の時間まで、わいわいと続いた。接待役の藤子はグロッキー気味に、それでも楽しそうだった。
 道子の母や妹の家は、奥野らと同じ区内にあった。木野を最寄り駅で見送り、奥野は道子を自転車のうしろに積んで、夜道を西大泉の母親の家まで送ってやっ た。小柄な道子だが、若い体重はけっこう漕ぐペダルにかかった。「チクショー重いじゃねえか」などと奥野は唸り、道子はうしろの荷台でころころと笑った。
 聡い道子は、舟島薫のことを藤子に訊かれても、決してわるいようには言わなかった。
 「神経質なところ、あるかも知れない。けど…あたしほどじゃないですよ」などと言った。春生と同棲のことは、紹介者として「先生や奥さんに」ちょっと責 任を感じてますとも言った。木野は口をはさまなかった。木野も、この娘は春生にと内心思ってたのではという気が、ちらとした。まだ駆け出しの頃の奥野の小 説に惚れて呉れて、若い木野静雄がどれだけ奥野のために長いあいだ好意を貢ぎつづけてくれたことか。あげく、勤めていた出版社が経営に行きづまると、さら りと退社し、自ら職業というものをなげうった。
 「あなた、自由人なんだからって、お父さんのこと道ちゃんに言ってたでしょ。どっちも傷つけないよう、ウマイこと言うなあって聞いてましたけど…。アレ でしょ、彼…。道ちゃんらの養育・教育費は、高知のおじいちゃん・おばあちゃんから出てるんだって、道ちゃん言ってたでしょ。戸籍と暮らしはいまの奥さん や子供といっしょで、彼は翻訳のアルバイトしてるだけ。奥さんが相変わらずお勤めに出て、そのお留守番しながら、道子ちゃんらとも会いたいように会い、お 付き合いしてるわけよね。さすがに愛子さんは木野さんと会ってないでしょうけど、彼は、愛子さんとだってふつうに会って、付き合って…、それで行く気なら 行けると思ってるんでしょうね。自由人……ね。フクザツな気分…よ」
 「タンジュンに考えていると思うよ、彼は」
 「そういうの、できる人って…、いるんだわ。徳があるというのかしら」と、藤子は哲学するような顔をして黙った。
 「ミチは、新聞記者になるんだって…。あの子は、やるね」
 「一つ、内定がもう貰ってあるって言ってましたね。どこでしたっけ…地方新聞でしたね」
 「群馬県だね、高崎か前橋だか。でも、名古屋も受験してみるんだって。こっちはずっと大きいし。あの社だと、合格したら東京ででも働ける」
 「ミチは軽いんだ軽いんだって春生(はるき)は言うけど、物言いがパキパキしてて、春生とはちがうのよね。でも、あの子は、両親のことからも、確実にた くさん学んできましたね」
 「夏生(なつみ)なんか足下にも及ばないね。…あんなミチでも…、ちっとだけ、年頃らしい色けも出てきたし。ま、あのまま…、そだな… 口を利くときに、人より遅れてせいぜい三番めぐらいに利くように気をつけてれば、伸びて行くだろね、もっともっと。出る杭になると、男どもが頭を叩きたく なるタチだ、あれは。そこは夏生に似てるんだ」
 その夜奥野らは床についてからも、両方で思い思いの気楽本を読み読み、そんなことを言い合って、寝た。

 気がついたとき、戸川一馬の結婚式の日は通り過ぎていた。手紙の届いたのがずいぶん昔に思われるほど、あれから、いろんなことが有った。目前の八月に は、夏生(なつみ)や孫たちがパリへ発って行くらしい。今度は一年間とか。
 ここ数年の実感では、一年ぐらいすぐ経ってしまう。上の信哉(しんや)の小学校はどうなるのか、道哉(みちや)だって学校の年齢(とし)では…。いきな りパリで通学などということが可能なことか、奥野は知りもしないで、ただ無事でとひっそり思っていた。
 夏生は弟へやっと手紙をよこし、芝居の感想に添え、パリのアドレスも知らせてきたと聞いている。姉と弟とに細い糸がともあれ繋がっていることに藤子は喜 びをみせ、奥野はどうでもいい顔をしていた。
 毫末も奥野は内村をゆるしていなかった。孫の顔が見られない分、憎念は増していた。年齢のおとろえに負けて無関心になどなって行くのはいやだった。頑な さに十分恥じ入りながら、拒んでいた。あかの他人のことならとっくに内村如き軽蔑して忘れていただろう、たぶん…と奥野は反省し苦笑しつつ、あの『ここ ろ』の「先生」が「私」に向かって、自分は「これで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立っても二十年立っても忘れやしないんだか ら」と言い、「然し私はまだ復讐しずにいる」と言っていたのもよく覚えていた。「先生」よりだいぶ自分の方が年齢(とし)とっているのは承知で、だが、受 けてはならぬ相手からの非礼を奥野は肯(がえ)んじなかった。礼に非ざれば視るなかれ。礼に非ざれば聴(ゆる)すなかれ。大人気ないなどといった木ッ端 (こッぱ)な物言いでまるめられてしまうのを、ガンと拒んだ。
 年齢に屈していつかゆるむだろうと、それを待たれているのは知っていた。
 赦さぬ…。奥野は拳をぐっと握って突き上げた。からからと何故だか笑った。うつろな笑いだった、だが…赦さない。
 「あなた、すこし、外で寛いできたら」と、藤子は、どう夫の様子を見ていたものかそんなことを、口にした。根が、寛いでなどいるより、いつも何かに身構 えて打ち返そうとしているような、なんとも疲れる性格の夫だった。
 「そうだね」と奥野はもぐもぐ返事しながら、どうあっても京都まで行って果たさねばならぬ、雑誌次号のための美術対談の相手に、「うん、やっぱりあれ だ」と、手探りに身のそばの物の下から、薄っぺらい雑誌を引っぱり出した。
 美術品の輸送、陳列、撤収、返還という、思えばこれくらい必要不可欠な仕事もなかろうに一般の目にも意識にも、めったに上がってこない「アートバイ ザー」という商売がある。京都ではその道で草分けの会社社長が、奥野も財団理事や美術文化賞の選者を引き受けている親会社のPR誌に、原稿を書いていた。
 奥野は、もう一人哲学者の理事と交替で、財団の刊行物に対談を、創刊の最初から連載してきた。哲学者は美術家と、小説家は美術周辺の人とと、ほぼ割振り して、対談の聞き役を分担していた。
 「いいんじゃない。おもしろそう」と、藤子は夫のもってきた雑誌も一瞥して、京都行きに賛成した。
 「八月の京都にゃ、だけど兜をぬぐナ」と、京育ちの奥野でも辟易した。「きみも行くかい」と水をむけたものの、こう猛暑では、かりに九月のあたまにして も心臓の弱い妻には負担だった。奥野はファックスで財団の事務局宛て、意向と、九月早々の日程を二、三伝えた。暑かろうと面倒だろうと、よいしょと仕事の 輪を向うへ転がしてやれば、日々の景色は変わってくる。じっとしてないヤツだおまえは…と、奥野は己れをへへと嗤った。
 翌日の内に「村田社長の快諾をえました」と堅苦しい返事がきた。日は九月五日、朝十時から「本社で」対談をと、前日の宿ももう手配済みだった。ちらと、 姉さん…芳江のことが頭をよぎったが奥野はその頭をコツンコツンと二度叩いた。捜すまい……。
 どっちみち、京都もそんな先のはなしでは、今の今気晴らしの役には立たない。暑いな、暑いなとこぼしながら、奥野はあいかわらず机の前からほとんど立た ない毎日だった。夜中(やちゅう)には独り起きていて、オリンピック競技をテレビで見た。奥野の好きなマラソンは、日本の女子が健闘し、男子は惨敗だっ た。
 夜と昼の転倒した日々から奥野がやっと立ち直りはじめたのは、オリンピックもとうとう閉幕してだいぶ経ってからだった。暑さにまけた体をだましだまし労 (いたわ)りながら、奥野の日々はけっこう忙しい。教授の頃の学生たちに誘い出され、池袋で半日談笑に過ごした日もあった。ちいさな出版社と、どう実ると も知れぬ企画のはなしを、したり聞いたりしに出かけるのも、池袋へだった。藤子が疲れやすくなってもう久しく、仕事の客に郊外の家まで来てもらうことは、 妻のために避けていた。奥野が都内へ出向いていった。真夏は、それが、らくではない。
 スケジュールは、梅若能の例会を告げていた。奥野がひいきの梅若万紀夫が「三井寺」を舞う。おもわず、あぁと奥野は声を漏らした。喪った子を尋ねて遠江 (とおとうみ)から近江大津の御井(みい)の寺まで物狂いの旅路をたどってきた、哀れな母ーー。ジャーン、ボンモンモンと撞き鐘の音色が奥野によみがえっ た。
 うっすら涙ぐみ、みごもりの、わが湖(うみ)=生みのわが母を思い、はるかな異国に去って行ったという娘夏生を思った。奥野は、ちいさく身を起こした。

     *―――――*

平成八年(1996)八月十六日(金)晴 猛暑

 * 今日、ひとつの行為をあえてした。下記の手紙を、もと東大の或る学部長だった、現在は退官し教職を離れているらしいR氏に宛てて発送した。エッセイ の第八・九・十巻、昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たちとの私生活を検証した自著を添えた。氏は、もと南大泉、ご近所に住まわれていた。藤沢へ、氏の移転 話は内村がうちへ持ってきた。内村はR氏を尊敬し師事し、お宅も書斎も見知っていた。

 * 内村と我が家との現状を、当然だろう、R氏はご存じなく、暫く以前に手紙をもらったときも、内村の来信に返事したついでに、ここ数年私の教授時代の 「大きなお働き」について書き添えましたというようなことが書いてあった。
 R氏と内村とは、もともと出身校の縁ではないのだから、現在はもう疎遠かも知れぬと思っていた。疎遠でないのならR氏の力を借りたいと思いつづけて来 た。
 二人に連絡があるらしいと分かったので、思案のあげく、藤子にも了解してもらって、上の三冊を送った。中巻の「あとがき」には、内村との現状が韜晦した 筆ではあるが書かれていて、R氏に見てもらいたかった。
 世間に知られていまいとタカをくくって、時には、私の婿であることをすら吹聴し、便宜に利用していると噂にきく内村を、疎ましく思う気持ちも強かった。

       *

  記録的な熱暑、どうぞお大切にと願っております。
  このような折りに、私事をもちまして御清閑を乱しますのはまことに恥じ入る次第ですが、お察  しの上、お聴(ゆる)し下さい。先のお便りに、内村竹 司のことにお触れいただいていました。その折 りに、いいえ、もっと以前からも、お力添えを願いたいものと幾度び思ったか知れないのですが。
  じつは内村に嫁ぎました娘と、二人の幼い男孫とも、私どもは、ここ数年間ただの一度も会うこと が出来ぬまま過ごしています。文通も、電話もならず、 どう暮らしているのかも知れず、心痛で、家 内は病い癒えぬまま日々に困憊(こんぱい)しております。
  どういう事情か、このお送り致しますものの「あとがき」を、どうぞ御覧願えないでしょうか。韜 晦した書き方をしておりますが、すべてが内村当人のこ ととご判読いただきまして、「文字通り」間違 いない事実なのです。
  彼の為にも、娘たちの為にも、また私自身の為にも、もっとも避けたいことではありますけれど、 不幸な事態が、もっと不幸な悲劇的な事態に陥ることは 更に避けねばなりませず、恥を忍びまして、 せめて、内村がご尊敬申し上げています先生にお縋りしてみたいと、とうとう、我慢の堰を切ってし まいまし た。
  もとより、なにをどう願いたいとすら、思い至らないままの深い嘆きです。ただ、この谷崎論と合 せまして、事情を先生に知っていただけるだけで、少な くも胸に少しのひまを明けたいのが目下の切 望でございます。非常識なご迷惑をどうかお聴(ゆる)し下さい。
  ことは、そもそも「谷崎」に発しておりました。三冊の「あとがき」を、とりわけて中巻のそれだ けなりと、お目通し下さいますようご親切にお縋りしと う存じます。
  平成八年八月十六日          奥野 秀樹

     *

 * こんなふうにでもしないでは済まない鬱憤が有る。それだけだといえば、卑しい。だが卑しい自覚を押えてでも、何かをしてみたかった。
 

     一六

  * 不幸な暴発(一)

  以下に挙げます「文面」は、私ども奥野の家族を深く傷つけました娘婿、内村竹司(現・白金女子大学国際学部講師)の書簡を、文字どおりに引いたもので す。二年前、平成三年八月から九月へかけて届 いた手紙です。
  妻藤子の心臓不調が憂慮され、私奥野に気遣いの多い新聞小説の仕事が重なり、そのため、かねて 来宅静養中の、つわりも幸いに軽快していた娘・内村妻 の夏生(なつみ)を一時引取りに、迎えに来て ほしいと、内村を自宅に呼びました。
  そして彼らが帰宅してすぐの、信じられない「この手紙」でした。配達より前に、娘から、「ひどい 手紙を竹司が書いたみたい。相手にしないで」と電話 で急報してきました。
  当時オーバードクター(=大学教員の地位を希望している就職浪人)の内村は、地位の得られない 状況にジレていたのでしょう。
  しかも全く偶然に、七月十日晩のことでした、ながらく一作家で通してきました舅である私の方へ、 都内の国立大学から、いきなり教授就任を要請の話が きて、これが決まりそうな成り行きになってい ました。事実十月一日には辞令を受けました。母校早稲田でなければ、ぜひ国立大学へと望んでいた 失業中の 内村には、たしかに刺激が強すぎた。気の毒に思いました。
  それはさておき、せっかく内村が来宅の機会に、「生活は大丈夫かね」と、妻とも打ち合わせどおり、 娘の二人めの出産にむけ経済の援助をと水を向けた のです。
  しかし即座に内村は「大丈夫です」と強い一言で、その先が言い出せないほどでした。
  じつは早くに内村には、茨城の国立大から声がかかっていました。が、なぜか彼の人事はすんなり 行かず、先々の見通しが立たない状況でした。私どもも 朗報を首をながくして期待していました。
  幼少来、私奥野は、これは明らかに戦後ベストセラー『道は開ける』のカーネギーに感化されたの ですが、現在の自分に「最悪の事態は何か」と先ず考 え、覚悟をそこに据えて全体に処するのを、凡 そ、常としてきました。で、そうも「考えてみるといいよ。頑張って」と、私たち夫婦は内村を激励 してその 日も帰しました。
  その「励まし方」が気に食わなかったと、内村の手紙は言うのです。もともと、会うも話すもめっ たに機会のない舅と婿でした。思い出そうにも、ろく すっぽ向き合ってきた印象がなく、暮らしむき に関わる改まった話し合いなど、一度も内村の口から出たことはなかったのです。
  で、娘名義の郵便貯金通帳を預かっておき、たいした額ではありませんが娘がカードで気ままに使 える程度を、おりおり振り込んでやっていました。訪ね てくれば小遣いももたせました。しかし、若 い健康な夫婦をマル抱えに援助するといった考えを私どもは持っていません。ところがそれが不満で 内村が「暴 発」したことは、手紙の「文面」が、すぐさま示しはじめます。
  聞けば自分は蔭に隠れ、親に金を出させよと、妻に仕向けていたらしい内村でした。娘は、でも、 一言も私どもに金の無心はしませんでした。そういう甘 えた生活感覚はもたせない奥野家でした、躾 けでした。いきなり内村に「毒づか」れ、その無礼に私は怒りました。妻も息子も怒りました。
  内村竹司の、私どもを傷つけ呆れさせた「文面」を、文字どおり、御覧ください。


* 平成三年八月一四日着の、内村竹司の手紙から。

「1」(冒頭いきなり=) 夏生(なつみ)を迎えにいった折り、秀樹さん(=舅・奥野)の余りに不躾な言葉に、いささか気分を害しました。かねてより、そ の無遠慮な物の言い方がかなり気に触っておりましたが、この際、はっきりと忠告しておいたほうが得策かと思い、いや、むしろ「警告」しておいた方が貴方の ため、ひいては世間のためであると判断し、敢えて筆をとりました。
「2」 貴方は思ったことをそのまま口にするから良くない。内容はともかく、まず量的に、浮かんだことを極力言わずにしまう練習をしてみてはいかがです か。そうすれば、わたしの耳にまでしばしば伝わってくる貴方についての悪口雑言は、半減すること請け合いです。
「3」 付き合い方についていえば、そればかりではありません、正直申し上げて、貴方と姻戚関係を結んでからこの方、貴方の常識音痴(婿殿は、気の毒に文 学音痴だそうですが)に振り回されることばかりでした。
(一例として=)フランスへ留学する際、私が発ってから夏生のヴィザが降りるまでの間、夏生はよりによって旦那の居ない姑の家(=内村竹司の自宅)で暮ら さざるを得なかったのです。私の不在中は夏生は大泉(=奥野宅)に帰る、という合意が(内村=)夫婦では整っていたにもかかわらず、そちらの都合、いやむ しろ貴方の勝手な哲学によって。今回もまたしかりです。出産は大泉で、というスムーズな(内村夫婦間での=)合意があったのに、それは全く尊重されていな かったようですね。何とも驚くべきことです。

 * 何とも驚くのは当方です。フランス行きの当時には、我が家には九十歳前後の両親と叔母とが京 都から一時に転居してくる間際でした。妻藤子は十年来 の心臓病の治療通院が欠かせぬ厳しい状況で した。畳の部屋が三つしかない狭い家には、娘と孫とを常時同居させるスペースがなく、期待を「勝 手に」もた れても、どうにもならない有様でした。
  夏生(なつみ)はよく承知していました。まして第二子妊娠時は、夫(=内村)も母上や妹さんらも 家にいて、手は十分な最中 の話です。夫婦で協力し て無事のお産をと願うのが、「勝手な哲学」でし ょうか。内村の「3」の物言 いは、みな内村夫婦間での申合せで、手前勝手を露出しています。「常 識音 痴」は、どっちでしょう。
「4」(続けて=) 因みに、友人の幾人かにあたって見たところ、夫の海外赴任中に嫁が実家に帰らなかった例は、五人中0人でした。さらに、奥さんが出産 を実家でしなかった例は六人中皆無です。こういった場合一般的に、他の家庭がどういう行動パターンをとるか、ご近所の例ぐらいは聞いたことがあるでしょ う。
 そのくせ、「夫婦でよく相談をしなさい」とは何ですか。一体何を相談するのですか?
 私たちは、同世代の例にも倣い、謙虚で平穏な生活を望みます。そうさせないように妙な哲学を切り回し、条件をことごとく狭め、悪化させているのは誰なの ですか?
 もし貴方の特殊事情で世間の常識を守れないのなら、貴方の責任において、何らかの代替措置(アパートを確保するなど)をいち早く提供すべきです。それ を、なんの負い目も感ずるふうもなく、恥じる様子もなく「嫁いだ先で暮らすのが当然だ」とか、およそ世人には訳の分らない、いわば中世の論理で煙むに巻く のはやめて頂きたい。
 「なんでつわりのひどい妊婦が里(=奥野宅)に留まってはいけないのか」 なんで単純な常識さえあなたは実行できないのか?
「5」(続けて=) 貴方が苦労してきたのは分かります。貴方が本でしか常識を学んだことがないのも推測がつきます。しかし、そのことによって、いまの貴 方の独善的な人付き合いの仕方が正当化されることは決してありません。

 * 内村はやがての手紙に、「妻がつわりのさまを夫に見せる、それだけでも浮気の理由に十分成る」 と書いて寄越す「常識」の持ち主です。私の妻は医師 の警告にもかかわらず、余儀なく老父や老叔母 の最期までみとり、さらに聴覚ゼロ、視野は片目が鍵穴ほどという老母と、現在も筆談をし続けてい ます。神 経をつかう私の創作生活にも協力してくれています。私も妻も疲労困憊しつつ暮らし、今も そうです。「謙虚で平穏な生活」は、還暦に近いわれわれこそ欲し い。職こそないが、親譲りの我が家 の何倍もの家屋敷に住む健康な三十代の若い夫婦が、協力して自宅でお産を迎える、どこが「中世の 論理」でしょう。 「アパート」などを「いち早く提供すべきです」とは、高慢も度が過ぎて、滑稽です。
  体力もなく、当時はむろん定収入もなかった一文士の舅をつかまえ、自分一人の「謙虚で平穏な生 活」のために、妻である妊婦を引き取れ、さもなくば 「アパートを確保」せよとは、これほどの「独 善」もないでしょう。三十半ばの、働く気なら「人の三倍は」何とでも稼げると平生豪語できる健康 な男が、 血迷って傲慢にものを言い募るさまは斯くの如くでした。

「6」 なぜ、経済的に援助(定期的に、)し、娘や孫の日々の生活を少しは潤わせてあげようと思わないのか、実に不思議です。学者として独り立ちした先輩 たちもまた、口々に嫁の実家からの多大の援助に対する感謝について熱っぽく語ります。

 *「若くて健康な夫婦は、渾身の協力で自立して幸せになりなさい、無用の依存心を育むような金銭 上の支援は、むしろ努めてしない。」それが結婚前から 子供たちに教え、私たち夫婦も体得してきた人 生への姿勢です。「学者」なら金銭の援助を受けて当然と言ってくる、独善と高慢には、虫酸(むしず) が走 りました。

「7」 ルソーの「エミール」をお読みなさい。そうすれば、国際化が遅れているのはやむを得ないとしても、頭の中が中世から脱することぐらいできましょ う。

 *「嫁の実家からの多大の援助」を当然のように期待して恥じないのと、夫婦は夫婦で自立して生き よと教える姿勢と、どっちが新しく、かつ国際的でもあ るかは、自明です。「エミール読みの、エミー ル知らず」で、専門と称するモンテスキューやルソーから何を学んだのかと、呆れます。滑稽にも『エ ミー ル』自体が、「中世」を批評しつつ、なお前近代の狭隘で古臭い視野と思考に惑溺した、今日では おおかた時代おくれの「非国際」的所産であることに盲目な のも失笑を誘います。

 「8」 これほど毒づけるのは、生涯ただ一度きりでしょうか。 いずれにせよ、以後どんな挑発がこようと、悪態をつくのは今回限りにしたいと 思います。
 人の悪口を言うためには、まず自らの品位を低下させねばなりません。精神の自律を貴ぶリベラルな教育環境に育ったこの私にとって、そうすることはこの上 なく苦痛です。

 * 私奥野はこの手紙にはむろん、以降一切、内村に対して反応も、応答も一度もしなかったのです。 黙殺したのです。「生涯ただ一度」どころか、内村は 黙殺されるのに耐えかねて、さらに「品位を低下」 の「悪態」で「毒づき」つづけました。
  あげく「姻戚関係を解消」すると一方的に告げて来て、以来「二年」が経ったのです。

「9」 貴方は夏生(なつみ)が必死で送った(援助を望む=)サインに目を遣ろうとしなかった。ほどなく(私内村の=)忍耐も限界を越しました。

 *「今、私たちは困窮しています。誰の目にも明らかだ」と内村は書いています。けれど相談し易い ように話題にすると、「大丈夫です」とニベもない。娘 の「サイン」とは何ごとか。「忍耐の限界」と やらも妻に一任の高見の見物なのです。うじうじして、しかも横柄です。
  私たち奥野の家族は、内村からの乱暴な手紙を「無視」することとし、私の代わりに妻藤子が、  内村を窘(たしな)める返事を書きました。率直に実意 を「話そうともせず」に、何故いきなりこんな 手紙なのか。奥野には読ませない。話し合いに来なさいと。
  一時の逆上ならば、藤子にだけ内緒で頭をさげればいい、秀樹は知らないことにしておこうと、修 復の「道」を残したのでした。ところが内村は、どう血 迷ったものか、以上と全く「同文」を、今度 は藤子と秀樹宛て連名で、わざわざ、また送り直してきたのです。


* 平成三年八月二十日着の、内村竹司の手紙から。

「10」(姑藤子に宛てて=) お母さんの感覚も麻痺してらっしゃる、私の手紙を「非常識」とお書きになっておられますが、あれはそもそも売られた喧嘩を 買って書いたもの。喧嘩に礼も非礼もございません。

 * たいした「リベラルな」知性です。まるで殴り込みです。 

 この時点に最もちかい八月初め、内村の暴発より以前に私から竹司に宛てた手紙があります。

* 奥野から内村への、内村暴発直前の手紙。(これ以前から、娘と孫とは奥野家に滞在中)

  竹司君、元気にしていますか。先日は(いつもよりは少し多めに)話が出来てよかった。
  夏生(なつみ)の様子は前回時にくらべて、ずいぶん良いようです。わたしの経験(家内の二度の場 合と、昔の職場でたくさん産科婦人科の症例報告を編 集者として読んできた体験と)からは、まず、 生理的に尋常なつわりと思われます。少しずつですが食欲もあり、吐いてはいますけれど衰弱はなく、 ただ不 快感や頭重感に悩まされているようです。
  信哉は元気に遊んでいます。
  妊娠や出産はむろん病気ではないが、安全の配慮を要する危険な状態なのは無論です。怪我や事故 のぜったい無いようにすべきです。無事な出産へ、内村 夫妻で万全を期して欲しい、それが我々の希 望です。その為にも夫婦で、ないし内村家で、よく話し合われて応急の対策をも慎重に講じてほしい、 それも我 々の希望です。
  私も家内も、出産まで夏生らは相模原の方(=内村家)で、夫婦協力して事に当たってほしいと願 っています。我々の家庭では人手なく医療的にもごく不 便な土地で、家内の心臓負担も懸念されて安 全を期しがたく、出産や通院・入院の世話はとうてい出来る段ではないのです。責任が持てないので す。また一 つには、秋に、私にすこし纏まった大きな仕事(=新聞小説)の予定があり、家のなかで 静かに集中したいのです。
  もう第二児のことで経験もあり、幸い母上もいらっしゃり竹司君にも時間の余裕の有るときですか ら、夫婦相和し協力して、万事夫婦の才覚と頑張りとで 事に当たっていただきたい。その態勢をふた りでよく相談され、万全を期して下さるようにと切望します。
  おそらく、もう近々につわりは軽快するでしょうから、その時はどうぞ迎えに来てやって下さい。
  少々のつわりは残っても、夫婦親子が離れ離れに暮らしているというのは、あまり健康な尋常なこ とでないと、それも我々は心配しています。よくよく夫 婦で話し合って、佳い対策をして下さるよう お願いします。   奥野

 * これが「喧嘩を売」った文章でしょうか。率直に当方当座の事情を伝え、ていねいに話していま す。「礼も非礼もございません」ような「喧嘩を売り」 つける手紙とは読まれまい行文です。
  しかも内村の「暴発」は、この手紙に直結して、夏生らを迎えにきた直後に起きました。夏生や子 供を、奥野家に置いておけないのなら「代替措置(ア パートを確保するなど)をいち早く提供すべきです」という「依存心」まるだしの文面へ直接繋がって来ます。内村はこう言います、

「11」 お母様は、私たちがさも「妻の実家に頼る依存的な常識」に浸っているように述べておられますが、それは全くの誤解です。「依存」というのは、実 際に援助を受けている人が、それに頼ることを言います。援助をしてもらわない私たちは、現代において希(まれ)な、いや史上希な、実家からの完全な独立を 維持しております。

 * 笑うのも恥じ入る「現代において希な、いや史上希な」屁理屈、まさに「依存願望」の露頭でし た。貧乏を恐れず恥じず、ゼロから立ち上がってきた私 ども夫婦には、かかる噴飯ものの「独立」維 持ほど危なっかしいものはありません。援助を受ける、それも時には生活力なのです。人徳なのです。 援助して くれともよう口に出して言えずに、「援助を受けてい」ないと毒づくのでは、妻に押し付けて 高見の見物では、みっともない限りです。
  彼の妻は、私どもの娘は、一度も援助してなどと言いませんでしたが、折々には娘の通帳に纏まっ た金額を振り込んで来ました。内村は知らないか、知ら ぬふりの「完全な独立」を謳歌していますが、 留学前にも何十万も餞別をし、夏生の緊急時にと用意してあった百万円も内村の都合でパリに送金し て貰って いたのも、頬かむり。
  あげく、こうでした。

「12」(続けて=) 世の中には、嫁の実家からマンションの提供を受け、生活費の半分までも援助を得て、まだ苦情をいう輩(やから)がおるそうですが、 そういう「物足りない」人間には怒りを覚えます。

 * これには笑ってしまいました。内村が怒る相手は、「嫁の実家からマンションの提供を受け、生活 費の半分までも援助を得て」いる輩では無いのです。 それほどの「援助を得て、まだ(足りないと=) 苦情をいう」輩に怒るのです。それほど底無しに要求はしないが、裏返しにいえば、「嫁の実家からマ ン ションの提供を受け、生活費の半分までも援助」してもらうのは当然、という認識を露骨に示して いる。私の妻が、内村を「物足りない」と窘めたのはもっと もで、「妻の実家に頼る依存的な常識」が、 これ以上なく厚かましく露出しています。

「13」 娘が貰ったお祝いをかすめとる父の行為、娘に旦那のいない姑の家で暮らすことを命令する奥野さん自身が、余りに非常識であることを例外なく(人 は=)認めている。

 *「嫁」という文字を多用しながら、嫁ぐという意味には殆ど自覚のない勝手な夫の物言いです。私 の妻のように、結婚した時もう両親のなかった妻もい る。せまい場所に病弱の妻は三人もの九十老人 を抱え込むべく、しかも夫の仕事にも気を配っている。
  そういう状況のときに、姑と折り合えないという理由で、嫁がせた娘を必ず実家が抱えねばならぬ 道理は無いでしょう。妻の健康上も、共倒れしてしまう 愚は、我々は我々として避けねばならぬ深刻 な問題、つらい状況でした。そのためにも、やむをえず義理ある老母を、後には福祉施設に委ねさえしたぐらいで す。
 この内村の物分かりのわるさが、前段のバカげた中傷に結びついています。
  結婚がきまった時に、私は娘に相当の纏まった金を先に渡してやりました。
  結婚式を挙げ、旅行に行き、さらに緊急時の予備金としても残せただけの(それを後にパリへ送っ てやったのです)金額でした。
  その際に娘と申し合わせたのが、当日奥野家側の来客やまたお祝いを頂戴した方へ、多めのいわゆ る「倍返し」に疎略があってはならない。だが新婚早々 の夏生には行き届かないだろうから、責任を もってそれは里でする。その費用の一部に、現金で「奥野家」に宛てられた祝い金を宛てる。その分 は事前に、 十二分に上回る金額を、纏めて、結婚と新婚とのお祝いないし資金として、先渡ししてお くからね、と。娘は喜んでいました。
  これは我々親娘の申し合わせで、内村に関わりない「奥野内」の約束事です。
  所が内村は、当然のように「奥野家」へ来ていた「包み金」に望みをかけていたらしく、アテが外 れたのでした。結婚式まえに親娘でよく申し合わせて あったことを、「お祝いをかすめとる父の行為」 などと、人に吹聴して得意がっていたかと思いますと、呆れます。

「14」 最後に、お母様の描いておられる「率直にものを言い、率直に話しあう」、そういう人間関係は私も理想とするところです。
 「なぜ、面と向かって話さないか」と、お尋ねになっておられますね。卑怯だ、というご批判なら甘んじてお受けいたします。
「15」 どうか念のため再び同封したあの手紙を秀樹さんに渡してください。それともかれは、入れる情報をコントロールしてやらないと、正確で冷静な判断 ができないのですか?

 * 妻藤子が折角つけてやった退路も見失い、「卑怯」に居直って内村はことさらに齟齬と中傷と無礼 とを重ねています。 挑発的逆上とでも謂いますか。 もうこれ以上は相手にせぬと決めました。
  人間、相手が好きであれ嫌いであれ、どっちにも批判したくなれば批判のできる弱点はあるもので す。虫が好かないのもウマが合うのも、時としてそっく り逆転もします。内村の手紙に、この私の人 間を批判した点があろうと、当たる当たらぬは別として、そういう事はいつもお互いに誰もが仕合っ ているのだ から、おアイコなのです。言われなくとも、自覚している妙なところは、私にも、いっぱ いある。だから「創作」という不思議な仕事もできる。円満具足を必 ずしも理想とはしていません。
  ただ、内村のように陰(いん)にこもってしか、モノの言えぬ男は、堪りません。私は、言いたいこ とは、 可能なかぎり、率直に言います。しかし内村 の「文面」ほど下品には言えません。書けませ ん。
  次の内村の手紙は、無残です。したり顔が滑稽です。
  むろん返事はやりませんでした。だから内村はジレています。前文があり、それに付録として、『お 付き合い読本──常識編』というものが自慢げに付い ています。「もうやめる」どころか、「毒づき」「悪態」を、自家中毒のように繰返します。あげく、「姻戚解消」の通告です。

* 平成三年九月九日着、内村竹司の手紙から。

「16」 貴方は、だんまりを決め込まれたようですね。無理もないでしょう。あれだけ非をあげつらわれたら、完膚なきまでやられたら、詫びる、居直るのど ちらかです。
 後者をお採りになったわけですか。もともと私の予測では、グーの音も出ない貴方がやむなくそういう態度をとる確率が95%と出ていました。己の落ち度に かかわることはすべて棚に挙げ、相手を無視するふりをして、「女房まで愚弄した」ことだけをひたすら強調し、誰かの義憤を誘う手段こそ、ぶざまな貴方の採 りうる最良の選択肢だからです。
 そのほか、一種高踏的な立場を貫き、相手を黙殺することで「格」の違いを印象付けるテクニックもありますが、頭の中を洗いざらい喋る貴方の力量からする と、明らかに無理です。
 いずれにせよ、いつまで沈黙が持続しますか。「主人には読ませない」というサル芝居もボロが出たようですが。
「17」(続けて=) さてそこで、次のような対処を考えました。「縁無き衆生は度し難し」という尊い言い伝えもございます。諭してわからなければ諦め る、というのが私のポリシーです。かくて本日をもちまして、姻戚関係を解消させていただきます。
「18」(続けて=) 恋愛結婚ならいざ知らず、見合いで結ばれた嫁の、人並みの最低限もできない実家と、しかも不快な口だけ出し密かに離婚を望むような 義父と、泣いて懇願する娘を撥ね除ける冷血動物と、孫の生活よりアルコール代を優先するような欠陥人間と、お付き合いを継続する意志も希望もございませ ん。「お前は身内でない」と貴方に言われる先に、こちらから身内を願い下げいたします。近日中に同様な主旨の書状が夏生 (なつみ)からも届く筈です。

 *「恋愛結婚ならいざ知らず、見合いで結ばれた嫁の、人並みの最低限もできない実家」という物言 いに、内村が、この見合結婚から何を期待していたか明 白です。金銭と住宅を主とした「定期的」な 「援助」です。それも「学者」だからという理由です。援助しないのなら「姻戚解消」です。
  むろん娘はそんなバカげた書状など寄越しません。     
  親よりも、内村や息子たちとの生活をとりなさいと、板挟みの苦から手を放してやり、娘や孫とも 余儀なく交通を諦める気になった一事でも、娘の離婚を 望んでいた私でないのは明白でしょう。
  娘には夫や子との暮らしは捨てられない。そこで内村に代わって、娘が、べつの手紙を寄越しまし た。
  内容はこうです。
  夫内村の「暴発・烈(劣)悪」は歴然としています。でも、それにはどうか目をつぶって、奥野家の 西棟(=老母の病間が階下にあり、息子春生が二階に おり、私の仕事部屋もあります。)へ、内村竹司 と家族全員を迎えて、家賃なしで使わせて欲しいという提案です。弟春生(はるき)には家を出てもら いた いという希望です。
  そればかりか、その際、舅の私奥野から婿の内村へ、「従来の非礼」を詫びて、どうか揃って奥野の 家へ来て下さいと「申し出て欲しい」という、なんと も仰天する文面でした。
  むろん物理的に収容の余地はなく、まして、内村の無体な言い掛かりの真っ最中です。平安な気持 ちでどう暮らせるワケもなく、それでは小説が書けませ ん。妻と春生(はるき)と相談の結果、断りま した。
  内村の申し出には背景がありました。彼の失業とブラブラの日常が、当の内村家のお母さんや妹さ んからも責められ、内村は参っていたのです。家を出る には金がない。妻は妊娠中。
  あげく夏生のそんな手紙となりました。しきりに内村の「文面」に「アパート」の「住宅」のと出 て来たワケは、この辺にあったのでした。夏生の苦衷は 察しましたが、これは断るしかありません、 地所三 百坪の内村とちがい事実我が家は立錐の余地もなく不可能、物理的に。心理的にも。それを 内村は「冷  血動物」と非難しているのです。

「19」(続けて=) もはや、ご不幸でもなければお会いする機会もないでしょう。せいぜい身内をしっかりかこって、(心理学ではこれを幼さの現われ、一 種の集団自慰行為とみなします)、お健やかにお暮らしくださいませ。京都風味の吝嗇と、閉まりの悪い口舌で身を滅ぼさぬよう、ただそれだけを衷心よりご案 じ申し上げます。
 なお、これまでの御交誼に感謝し、拙筆「お付き合い読本」を贈呈させていただきました。先の二通の手紙とともに、ご高覧願えれば幸甚です。

 * 娘夏生が、二人の我が子とともに、一緒に生きて行く男なのです。夫婦として娘が幸せであって くれるように、寒い気持ちで、祈るしかありませんでし た。
  返事はしませんでした。関わり合うだけで汚れる気がしました。


* 内村竹司著の『お付き合い読本――常識編』から。

 か カネと口  古今東西、口を出すが金は出さない人間ほどケムったがられているものはなかろう。東京では、金を出すが口はださぬのが理想とされてい る。

 * 笑止にも、「金を出して」当然のように「口も出した」あげく、働かない息子は家を出て行けと実 の母親にもやられ、金もひっこめられていたのが、当 の内村竹司でした。「理想」と程遠い「リベラル な環境?」のようですが、尻隠さずとはこれでしょう。

 せ 責任転嫁  人の道に外れているので、こういう行動を採らないよう自重されたい。ヒデキでなく「不出来」と異名をとるある作家は、自分の非を全部棚 に挙げて、喧嘩の仲裁に入った娘に「相手と腹を割って話せる機会を作らなかった御前が悪い」と八つ当たりした。この娘はすでに嫁いでいたので、まさに責任 転「嫁」である。手前の落ち度を素直に謝れないタイプが、この手を常用する。

 * 駄洒落もできますという調子です。ここにいう「非」や「落ち度」とは何か。つまり「黙って金 をくれない」です。子供もあり妻の御腹にも子のある働 き盛りの男が、「家でブラブラ」しながら「嫁 の親」から厚顔かつ無道に金をせびる気でいる、それこそ「責任転嫁」も極まれりというべきでしょ う。

 つ つわり  きわめて厄介な代物。妊娠中、とくにつわりが続くと、夫婦の仲もギスギスしがち。統計ではこの期間に夫が浮気したという例も多い。あまり ひどければ、実家(さと)に籠ることが肝要であろう。嘔吐する姿を最愛の夫にみられずに済むし、症状について気軽に相談できる両親がいる。出産の際も同様 だ。ただ最近は住宅事情などのため、隣に借りて貰ったアパートに里帰りする嫁もいる。肉親が近くにいれば問題はなかろう。

 * 浮気の話は、知性の無さ、品の無さを露わにし、内村の人物を表しています。いやなことは他人 任せ。これは「夫婦愛」ではなく「夫(=竹司)の身勝 手」です。

 む 婿と舅  「嫁と姑」とは違って、本来は仲が好く、一献交えて気楽に語り合える。ただ舅がアル中だったり、嫁を溺愛していたり、婿の能力をやっかん でいたりすると、うまくいかない。ことに舅が婿に逐一干渉したり、婿を軍門に下さねば気が済まない場合、一挙に摩擦が高ずる。ただ結婚が恋愛なら、それ位 は婿がじっと我慢すればよい。

 * よほど「見合い結婚」に見返りを求めていたわけです。竹司に夏生(なつみ)への愛や責任が感じ られないと夏生の母が終始嘆くのも当然です。竹司は 「一献交え」て面白い相手でもなし、その気も ない。うじうじと腹のなかでこういう僻(ひが)んだことを思いながらつくり笑いしていたかと思いますと、  被害心ばかりの情けない男です。私は「アル中」どころか、仕事に入れば何ヶ月でも飲まずに平気で 済まします。
  それより、「結婚が恋愛(結婚)なら、それ位は婿がじっと我慢すればよい」とは、何を考えています やら。「結婚」も「恋愛」も何も分かってない子供 の言い草です。
 「婿の能力をやっかんで」には、嗤えました。

 よ 嫁と姑  古来より険悪な間柄の象徴。暮らしの流儀がまったく違うので、つとめて一つ屋根の下に置かないようにするのが賢明。とくに夫が留守がちで あったり、夫の海外赴任や出張が頻繁だったりすると、関係は悪化しがち。夫の長期不在中は、嫁と姑が二人だけにならないよう、実家に帰るなどの特別の措置 が不可欠であろう。
 り 離婚  娘の婿をこころよく思わない時、それとなく離婚するように仕向けるのがよい。方法としては、若い二人にはビタ一文援助しない、つわりや出産 でも娘を実家に引き取らない、生活の困窮は挙げて旦那の無能のせいにする、婿殿に時たま「おまえは身内でない」と暴言を吐く、などがある。
 ただし、これらの手段に訴える際は、娘にまで軽蔑されるのを覚悟のこと。50も半ばを過ぎた自由業の0氏は、この目論見を婿に見破られ、墓穴を掘ってし まった。くれぐれもご注意を。

 * これが「精神の自律を貴ぶリベラルな教育環境に育ったこの私(=内村竹司)」の「謙虚で平穏」 を語る言葉です。語るに落ち、無残なものです。言葉 は心の苗だと謂いますが、苗も根も腐っています。卒業させた早稲田大学も迷惑、竹司の父君も、さぞや泉下で恥じ入っておられましょう。
 

 鬱憤、憤激という言葉を、奥野は抑制しかねた。冷静であることで、断念や諦念へ自分をいざなうのを、むしろ今は未だ拒みたかった。そういう解決に意義を 見出だせなかった。「執念深く」「復讐」と遺書に書かずにおれなかった『こころ』の「先生」の声を、奥野は聴いていた。
 月皓き三井寺の境内に喪った子を追うてひびく「ジャーン・ボンモンモン」の鐘の音に、まだまだ奥野は己が煩悩を捨てようとしない意地を固めてきた。梅若 万紀夫演ずる母なる狂女を、いましばし狂わせたまま見ていたかった。だが、奥野は、能をみて泣いて帰ってきた。内村を許そうなど、けっして思わなかった。
 その頃、たまたま近県の大学で田山花袋を講じている若い友人の頼まれものを、池袋まで手渡しに出ていった機会に、あらましは知っていてくれるのを幸い、 内村のこと、夏生(なつみ)や春生(はるき)のこと、要するに「こどもと私」の過去を、現在進行形であけすけに書いているのだよと、初めてそのF君に告げ た。原稿疲れで青ぐろく顔をはらしたFは、一瞬きつい目をして、じっと奥野を見た、が、
 「およしなさい」と即座に言った、「奥野秀樹を、汚してしまうかも知れない」
 「そうかね。花袋先生からそれを言われちゃ困るが…。なまなましいと思うわけだね」
 「なまのまま出す気でしょう。小説になりますかね」
 「わたしの今までのものとは、そりゃ…ちがうね。もちろん一字一句気をつけて書いている。花鳥風月とはいかない。けど、動機はある。強い動機です」
 「強すぎるでしょう。制御できるんですか」
 「見てもらうしかないね。書きたいんだよ。教授をしてた四年間、ずっと書きたかった。やめたら、すぐにと思ってた。私怨や私憤の文学が、これまでに有っ た無かったは問題じゃない。私怨や私憤だけで書くのでもない。『渦中』の「私」を、煮つめて書いてみたいんだよ。奥野の名をけがすなんてこたぁ、これっぽ ちも考えない。考えたくない。そんなことを考え考えしてきたかも知れないこれまでの凹んだ自分と、ちがう自分を書きたい。今だから書けるんですよ」
 「まったくの私小説ですね、すると」
 「そんな分類は、問題じゃない」
 「夏生さんはめちゃくちゃ傷つきますよ。春生さんも。奥さんだって。いいんですか」
 夏生より三つ四つ年かさのFは、夏生とも二度や三度はふたりでお茶をのんだ仲だ。
 「傷ついて、……いいじゃないか。もっとよく生きて行ける…」ならばと、奥野は言いたい。
 「奥野さんはそれでいいでしょう。だけど夏生さんたちは傷つくんじゃない。傷つけ…られるのですからね」と、F君、冷酷なほど低い声で突き放した。
 しまった…話すんじゃなかった。奥野は不自然に話題をよそへもって行きながら、突然竹取物語というのは、娘に死なれた夫婦者の思いついた創作であったか もしれない気がした。
 任地で幼い愛娘に死なれてきた、あの土佐日記の貫之が、もし若い日に竹取物語も書いてたりすれば、
 「これは、きみ、すごいがね」と奥野は声をはしゃがせた。F君は、へんに痛ましそうに奥野の顔をぎょろぎょろと見るだけだった。
 源氏の「絵合」には、詞を貫之の書いた竹取の翁の絵が出てくるじゃないのーー。奥野はだが口をとじ、つくねんとして家に帰った。
 R氏からの反応はなかった。なくてよかった。それどころか直かに何かを言ってこられれば、奥野は、ものが言えそうになかった。
 この暑さだもの、避暑で留守かもしれないしと想っていた。

 
八月十八日(日) 晴れ猛暑

* オリンピック以来、というより夜更かしに障りがなくなった四月以来、夜と昼とが転倒してしまった。このところDさんの『日本文学通史』の近・現代編を 一昼夜に一冊ずつ、もう四冊読んだ。徹夜も続いた。午前中に寝ることも、そのまま寝ないでしまうこともある。
* D氏とわたしとの作品の評価が、よく似ている。もともと氏は鏡花、荷風、潤一郎、川端、三島などという系統、つまりわたしの親しんで来た系統の作家が 好きである。日本の文学ではむしろ主流でなく、主流から離れたところでそそり立ってきた作家たちである。そういう人達の作品でも、当然傑作とそうでないの とがあるが、その点でもしばしばこの著者の好みは、わたしの好みに重なっている。その親しさでどんどん読んでゆける。
 もっとも、こういう記述史のこととて、大まかで、かい撫でである。十分に精しい章もある。
* こんなことは、かつて書いたことがない。書いておいていいだろう。
* 藤子との性は、去年に一、二度もなく、今年も同じ。倶に還暦では自然とも言える。
 藤子は、もう十年も以前に、夫であるわたしが性に淡白なのだと思いこみ、「助かるわ」と口にしたことがある。夫婦のあいだに横たわる、これは大きな誤解 であった。
 性は、夫婦の人生にせいぜい15パーセント程度より以上の比重を占めてはならないが、あまりに少ないと人間が内側から壊れかねないことを、藤子は知らな いか、知っていても気が付かぬフリをしてきた。藤子のは、そんな性理上のことでなく、十数年来、心臓病がわざわいしたのである。出血性素因も、もともと警 戒すべき藤子の痼疾だった。
 妊娠のおそれが比較的無くなり夫婦の性がよほどよく満たされた、まさにその頃から心臓への負荷が問題になった。
 齢六十の今しも、必ずしも淡白でなんかないわたしに、藤子は、だが、気付いていないか、そのフリをしたまま、忘れていたいと望んでいるらしい、無理もな い。
* 医療に頼ったこともあったが、ホルモン治療などは危険をはらみ、わたしはそれを続行させなかった。生きていてもらわねば困る。藤子は、妻として、共同 生活者として、一番安らかに幸せでいられる良き伴侶、良き身内であり、心から愛している。
* ただ大きな懸念が、少なくも一つ有る。いわゆる性的に触れなくなってしまうと、逆に、ふだん、はだかを見てしまうことに、思わず肌の触れることに、夫 婦でいながら不条理な恥じらいを感じ、ふつうの抱擁や接吻にも思わず双方で身を退いてしまいかねない。これは、「からだ」という羞恥心や不潔感を誘いやす い肉身の拒避に直行し、危い徴候だ、互いに老いて、手をとり足をとり、労り合わねばならぬ時が来ているのだから。


八月二十三日(金) 晴 猛暑。

* 十月末に、衛星テレビの五時間生放映の「短歌大会」に、ゲスト選者で出てくれと言ってきた。千五百ほどのファックス応募の歌から、二十首ほど選び、優 秀作を二首選ぶらしい。おもしろそうだ。
* 九月は藤村学会講演、十月に生テレビ、十一月にはアジア太平洋ペン会議での演説。気忙しい。気ぜわしい秋の皮切りに、九月五日には京都で対談。美術運 送の話を聞いてくる。できれば、その前に「塔の本」の通算第46巻を読者へ発送して行きたい、が。


八月二十五日(日) 晴 暑

* 晩、入浴中に、R夫人から電話、藤子が応答。内村のことで。
 だいぶん長く話していた。わたしもお終いの方で、電話口に出た。しばらく奥さんと話した。
 「山根教授はどういう対応をされたのですか」という点が、いちばんの話題になった。
 R氏は、新聞でも大きく報道されていた或る思想家の急の葬儀のために、避暑先から帰って、そっちの方に詰めておられ、奥さんが代わりに電話を下さった。 死んだ人と死なれたR氏との親交はわたしもよそながら知っていた。折りも折りで、恐縮した。
* もう、こうなってしまっている以上、例の「あとがき」ではやはり舌足らずなので、藤子のお礼の手紙に添えて、当時「暴発」ものの控えを、手を加えずに 送らせてもらった。

    *

  奥様 ご多用のさなかに、ご親切なお電話を頂戴し、恐縮しております。それで も、なにか、 とてもほっとして胸のつかえがすこしのいた心地もしまし た、奥野も、 同じように申しながら、 痛く恐縮しております。
  中途半端な、しかも、ちょっと角度を変えての、それも、止むにやまれず書いたと思われます「あ とがき」で、御清適を煩わせましたこと、幾重にもお恥 ずかしくまた申し訳なく存じております。
  あまりの中途半端でかえってご不審もございましたことでしょう。
  問題の事件が生じまして、約二年ちかく静観しておりましたが、ちょっとした電話一つ掛けるにも 気をつかうばかりで一向よくなる気配も無く、内村は何 かと言うと離婚を口にし、娘はそれは避けた いしということで、致し方なく、「姻戚関係を断つ」という内村の申し出でを受け、「義絶」という結 論を奥野 は出したのでございました。
  ここに、厚かましく御覧に入れますものは、その折に、万一、だれかに事情を聞かれたなら、即座 にお見せ出来るよう奥野が用意しておいたもので、文字 どおり、こういう順序で事は起きて、事は破 れたのでございます。
  中途半端なままでは、かえっていやな 気分をお残しになると、勝手なことを思いましたが、こん なものは見るも無残、目も汚れると、奥野も恥じて嘆い ております。ご処分いただいてやむを得ない と存じますが、ご厚意にいま一度甘えさせていただき、奥様にまでお届けいたしますことを、どうぞ お許しくだ さいませ。
  けっして、こうして頂ければ、などと、もうそのような希望をもつこと自体が恥ずかしうございま す。お胸のうちにお納め下さいまして、もしももしも、 万一の機会があれば、奥野も申しておりまし たようですが、内村に、「あまり褒められた話ではないと思うよ」とだけでも、ご忠告願えればと、わ たくし も、切にお願いいたしとう存じます。
  たいへんな時期に、申し訳ないご面倒をおかけ致しました。お詫び申し上げ、この残暑をお大切に お過ごし遊ばしますよう、お祈り申し上げます。  奥 野 藤子

     *

* 手元に用意の、「内村竹司の暴発の事 一・二」「経過一束」他に少々を添えた。恥ずかしいが、ま、仕方がない。嗤うのも嗤われるのも簡単だ、が、こう いう運命…と思う。うつつは夢よ。

 
     一七

  * 不幸な暴発(二)

* 平成三年九月九日着、内村竹司の奥野藤子・春生宛ての手紙?から。

「20」 ・・・という次第です。秀樹さんと姻戚関係を解消することとなりました。
「21」 先の手紙に効き目がないとすると、かれ(=奥野秀樹)の意固地な態度を改めさせる方法として、唯一浮かぶのは「風刺」です。
 もし大泉に良識を代弁できるどなたかがおられましたら、もし秀樹さんの「無神経の恒常化」「非常識の常識化」に染まっていないどなたかがおられました ら、どうぞ横っ面を張り倒してでも、かれの目を覚ましてやってください。
「22」(続けて=) 春生(はるき)君!。今回の件で、秀樹さんと連帯を深めるのも一案かも知れませんが、よくよく考えてみて下さい。家族とは本来、重 要な意志決定を「合議」で行うものです。秀樹さんの考えだけが大泉の意志ではないはずです。

 * 我が家ほど家族が議論し話し合い、そして泣いたり笑ったりしてきた家族は、少ないでしょう。 私秀樹の出版社を退職の時は、夏生(なつみ)はまだ小 さかったけれど、きちんと私から意見を聞いた ものです。進学についても、京都の年寄りを引き取るにも、改築や改装にすら、だいたい何ごとでも 話し合い ます。
  いちばん家族で話し合ったのが、実は夏生の結婚でした。竹司の父内村遶氏の病重く、たいへんス リリングな状況でした。それでも結局、夏生は、山根教 授ご紹介の見合結婚に踏み切ったのでした。
  また今度の「暴発」一件ででも、弟の春生(はるき)は、終始、いい相談相手として家族の「合議」 に加わっています。我が家は相当な「話し合い」家族 なのです。私が自分で決めるのは自分の仕事の ことで、これは譲っていません。仕事がしにくいと判断すれば協力してもらいます、たとえ娘や孫で も。我が 家では当然の選択なのです。妻子はよく協力してくれました。

「23」(続けて春生へ=) 収入をより多く得ている長者だけが威張る時代ではもはやありません。お母様に自分の意志で処分できる現金はいくらあります か? 一七00円の買い物を二000円と家計簿に記して、秀樹さんの目を盗まなければ娘や孫に援助できないお母様の惨めさを、春生君なら理解できるでしょ う。妻でさえ禁治産者扱いされる家父長の専制を許してはいけません。

 * 噴飯物(ふんぱんもの)とはこれでしょう。我が家の歴史では、給料袋を私が開けたことは只の一 度もなく、また文筆で立って以来、私の全収入の振り 込まれる銀行の預金通帳もカードも妻が持って いて、家計にいくら使われているかなど、私は知らないのです。どこからこんな妄想が湧くかと、思 わず皆で 笑ってしまいました。妻には相当に早い時期から、クレジットのカードが渡してあり、妻は 買い物にも食事や交際にも、自由に用いています。夏生らもかなり の恩恵を被っているのを気付いて いないで、こういう珍妙な演説をぶつのは、病気なのではないかと疑ってしまいます。
  この一つをとっても事実無根の思い込みや中傷を満載した内村竹司の手紙だと分かります。
  そして次の手紙にも同じ『お付き合い読本』が付着しています。
  次の此の内村の手紙は、私奥野から夏生へ書いた長文の手紙を、途中で遮断し、一存で「未開封」 のまま彼が返送してきた中に、添えられていました。私 から娘への手紙がどんなものであったかも、 あとで、見ていただきます。先ず内村の。


* 平成五年九月一二日着の、内村竹司の手紙から。

「24」(夏生に送られて来たのが=) どんな内容の手紙か知れませんが、これ以上夏生をいじめるのは止めて下さい。開封せずに(竹司の手で=)お返しし ます。もう妊婦をいじめるのもそれくらいにしたらどうですか。
  それと貴方も女々しいですね。義絶を言い渡された相手にアプローチするなんて。男らしく没交渉に耐えなさい。
  手紙の内容は二通りに予測できます。
  1・自分の非を詫び、謝る。3/100%
  2・過去の行為の言い訳や正当化、旦那の悪口。97/100%
  1の場合・・・言葉はいいですから、頭を丸めて詫びにくるなど態度で示しなさい。
 2の場合・・・胎教に悪いですから夏生には読ませません。貴方は今頃それを書いたことを深く後悔しているでしょうから、温情で特別にお返しします。
 いずれにせよ謹んで返送いたします。繰り返します。ひとたび自分で「身内ではない」と言ったからには、没交渉に雄々しく耐えなさい。それが京男の生きる 道です。

 * 「礼も非礼もあるものか」という無見当な手紙です。しかも、夏生に宛てた「親展」の手紙を独 断で侵しています。夏生は娘であり、なにより、自分の 親と「義絶」するなど一言も言って来てはい ません。父の手紙は夏生の手に届く前に遮断されたのです。こういう「非礼」「勝手」が、何度も続き ました。 たいした自称「リベラリスト」です。
  夏生宛ての(夏生に届かなかった)私の手紙をすこし御覧になって下さい。

* 平成三年九月六日夜に書かれた、父奥野から娘内村夏生への手紙

  待っていたが、来なかったね。父さんも母さんも、待っていた。めったに電話をしない春生も、二 度も三度も、夏生(なつみ)はと出先から訊ねてきた。 顔をみて話せばいろいろと、少なくもおまえと は分かりあえる所も出てこようと、みんなで願っていたが。
  あの最初の竹司の手紙を、母さんが途中カットの体(てい)にして返事したのが、母さんらしい配慮 であったことを、竹司は、分からなかったのだろう か。わたしが読めば修復の難しいたいへんな葛藤 になる。打開の道をつけるために衝突を避けようと母さんはした。 わたしも賛成した。人間逆上するく ら いは誰にも有ることだし、元へもどす常識・良識 の回復力もふつう持ち合わせている。
  それなのに竹司は、愚かにも、また書いてきた。
  竹司には、ことのコジレも眼中になく、修復の意志は無いらしい。それは前便でも言ったように、 仕方がない。竹司が望まないのでは仕方がない、構わな い。しかしおまえ はわたし達の一人娘であ り、信哉は孫の一人。拒むわけが無い。
  しかし竹司とは、このままでは、どうにもならない。相手にしない。あやまる気になればあやまり の手紙をキチンと書かせなさい。気持ちの修復は簡単に 行くまいが、それ でも時間という奇しき治 癒力ははたらきもしよう。
  言っておくがおまえたちが結婚したとき、竹司に言ったことがある。わたしは好むと好まざるにか かわらず、亡くなった内村氏の分 もいっしょに、時に は苦いことも言うだろう。おおけない話では あるが、二人めの父の言うことと思い、付き合ってもらいたいと。
  竹司はわたしの目には、雲のようにいる学校秀才の一人に過ぎず、前途は不明の一青年としか見え ていなかった。彼ていどの秀才なら、その辺の会社にも 学校にも藝術の世界にもいくらでも、いる。 そういう相対化された自己認識が竹司には乏しい。無い。だから謙虚でなく尊大で、まるで「父」世 代とも対等 のような気でいる。会社へ入ってきたその日から、先輩や役員を「あんた」呼ばわりして 得意がっていた全共闘世代の子供たちの域に、今もってうろうろして いる。知らず知らずこんな態度 をしていては、世間でもさぞ苦々しく無徳に感じている人が多かろうなと、前途を危ぶんだものだ。
  竹司が個人の技倆で生きて行くならそれでもいいと言う気もない。しかし人交わりの世界でしか生 きられないのなら、根から生き方を改めないと、今しも 苦汁をのんでいる難航人事のように、道を阻 もうとする勢力に何度も涙にくれるだろう、己の非も悟らないままに。
 「結婚」したのはおまえたちであり、しかもおまえは「内村家」に入った。おまえは内村家の配慮下 に入り、そこで共に生きる立場になった。結婚生活の責 任はそういう「内村夫妻」が自立して果たす べきなので、なし崩しにいつもいつまでも親兄弟に甘えていていいものでは無い。援助などというこ とは、情に おいてすることで、婿が、舅姑に強迫がましく要求できることではない。
  只の一度でも竹司から援助を頼むと頼まれたことが、無い。頼まれたのを断ったという事実 も一度も無かったことをハッキリ言っておくよ。そして今度な ども、言い やすいように誘いの水を 向けても断ったのは竹司であり、よほど断ったのが本音と食い 違っていたかして、手紙でいきなり 暴発してきた。そ のうえで、察してくれていいでは 無いかと、途方もない要求を常識の名において 言って来た。親の頭に土足をあげたまま、家を金を寄越せ、世間のそれが常 識だ、統計をみせてやろ うかと。
  言っておくが、わたしはお前の父であり、竹司はおまえの夫です。わたしは竹司とは年齢も一世代 高く、故内村遶氏と並んでいる。存命であれば、わたし は、内村氏の僚友 であった人たちと現に付 き合っているのと同じように、付き合っていただろう。内村氏が冥土で、竹司がわたしや母さんにし たり言った りしている「内容」や「言葉」の低さ下 劣さを、どんなに恥ずかしく思われているかと、 気の毒に思います。
  なにもかも、を、理性的にも心情としても大切にしたいと願っています。大事 になさい。 父
 

  ここで、この手紙が「返事」の体をなしている理由の、この前に届いていた夏生からの手紙を引い ておきます。一連の事情を、父と夫との中間の立場から 証言していて、これに信を措くしか、水掛け 論に陥る愚を避けえないと思うからです。


* 平成三年九月三日着の、内村夏生の奥野両親への手紙

「25」(内村末妹が就職できない兄夫婦への不満から家を出て自立したこと、内村の姑から息子宛ての生活援助が停止され、同居の光熱費も負担せよと言われ ていること等の、内村家内の葛藤と現況に大略触れたあと、=) ちなみに国民年金、国民健康保険はすでに減免措置を受け、信哉の育児手当(年1万ですが) も申請しました。
 まず私は、もう金輪際相模原(=の内村宅)には(姑・小姑らと一緒に=)住んでいたくありませんし、また、経済状態の変化からそれは不可能にもなりつつ あります。

 * 内村夫婦には、自分たち二人が、同時に、同じに、内村・奥野両家の一員だという家庭感覚があ ります。「ですから、私たちに対する、特に経済的な接 し方で、婚家、里方という分類は捨てて下さい」 と言うわけです。こんな考え方がいまは普通なのでしょうか。嫁がせた娘はやはりもう内村家の者、 親類の 一軒ではあるが、やはり嫁いだ先に骨をうずめる意味でも、私どもは、娘の言い分とはべつの 考えでいます。もし息子が結婚すれば、尋常に彼の妻はわれわれ の家族だと思いますが、同じ意味で 内村は「他家の戸主」です。夏生も、娘ではあるが「内村」夏生として、内村家の主婦たる者と思いま す。
   しかしこの食い違いが、夏生に、次ぎのように言わせます。喫驚しました。

「26」 さて私は先日も少し申しました通り、この家(=内村宅)を出るための緊急の方便として、万やむをえず、「依頼心」をもって、奥野の西家を借(= 貸)して下さるよう懇願いたします。その条件は以下の通りです。
 ■ 家賃はお払いできません。(できれば光熱費も。)
 ■ 設備は現状のままでけっこうです。
 ■ 春生(はるき)氏(=弟)には申し訳ありませんが、その間、東家(=奥野夫婦の生活の場なら   びに書庫・事務所・仕事場)へ御同居願いたいと思 います。
 ■ 私(=夏生)が家庭教師をやめるのに相当する現金収入の道を開いていただきたいと思います。
 ■ 父上の部屋(=西家にある書斎・書庫)はそのままでけっこうです。
 ■ たか様(=骨折入院中の老祖母)帰宅の折は、お世話いたします。
 ■ 大型の家財は、茨城へ移るまで相模原(=内村宅)に置きますので、衣類・書籍の移動に多少の   (現金=)支援を頂ければ幸いです。
 ■ 基本的な家庭生活は東西分離で行います。(母藤子の消耗を来さぬよう=)信哉の世話等は極力お   願いしません。
 ■ 生活クラブ(=生協)の資材を実費でわけて頂きたい。

 *「虫のいい申し出であることは百も承知です」とあるが、娘や孫のこと。これだけなら(スペース 不足で完全に駄目なのですが、)心情的には問題はない のでした。「これらのお願いの基本にあるのは」 と書いて夏生は、要するに現在内村の母から受けているらしい若干の「支援」から自由になりたい「切 なる 願い」だと言うのです。(但し「春生氏」などの物言いには、内村自身の要求をほぼ口写しに、仕 方なく夏生(なつみ)が伝えている印象があります。いえ、 この手紙のこの辺り、内村自身の作文かと すら読めてきます。)

 「27」(現に住む=) 家と、月3万の支援を(姑から=)受けて来たということが、私たち夫婦をどれだけ束縛してきたでしょう。挙式以来 「財産ねらい の女」という不当なレッテルをはられてきた私(=夏生)としては、事のゼヒを論争するより、(現在の住まいから=)離脱する方を望むのです。同じ束縛なら 私は、奥野から受ける方を選ばざるを得ません。

 * 金銭といわず住居といわず、一度援助を受ければ自然心情的に「束縛」された気がするものです。 当然です。だから私はつとめて援助という干渉はしな い。真の親切は、無意味に金を出さず、むしろ 口(いい言葉)を出す(交わす)ことだと、吝嗇でも何でもなく、当たり前に考えてきました。金も なし、金 を出して口は出さぬことなど凡俗に出来る真似ではないと敢えて避けてきました。内村の足 元で、彼自身血縁からの援助の束縛に喘いで、家からの脱出をはか らざるをえない事情があったので す。実の親や妹にさえ働 こうとしないブラブラの息子=兄の竹司は、突き放されていた。

「28」(続けて=) 私(=夏生)は、しかし内村竹司を切り(=捨て)たいわけではありません。ですから、私たち母子2人半ではなく、家族4人をまとめ て引き受けて頂きたいのです。

 * 内村は何を考えていたのでしょう。あれほど私たちへ暴言と無礼とを高慢に言い散らかしながら、 上の条件で、本気で大泉の我が家へ「引き受け」ても らいに来る、来れると思っていたのでしょうか。
  夏生はこう言います。「彼(=内村)の主張する『実家の支援をうけた学者』は、大方妻の実家に住 むという立場を受け入れているわけですから、竹司さ んも(=大泉行きには)同意すると思います」 と。
  内村の家の、四分の一だか五分の一だかの狭い地所に建った奥野家の二棟です。そもそも西棟は老 母の持ち家です。たとえ隣同士といえど内村のような男 と、鼻も目もつき合わせてでは、心静かな創 作や執筆は私には出来ません。夏生には可哀相だが、断るしかないのでした。
  夏生の懇願は、まだ続きました。

「29」西家の件につき、お受け頂ける折には、父上の発案として、竹司宛お便りを下さい。その折、誠に恐縮ですが、左のような文面にて短めにお願いいたし ます。(=要するに舅から婿へ、成行きに遺憾の意を表して軽く頭をさげて欲しいと。)
 ◎ 生活大変とのこと。夏生の健康も気がかり。また母上も大変であろう。大泉の西家に来て住むつ もりはないか。家賃はいらない。夏生も希望通り母親の 下で出産できるだろう。茨城(=の大学)へ 移るまでのことだから、身の回りの品だけで気軽に移って来てよい。決心がついたら連絡をくれれば うれしい。 夏生が動きやすい秋のうちに決めてくれたまえ。

 * 夏生の必死なことだけが、分かりました。それにしては内村の「暴発」に、私も家族もあまりに 傷ついていました。母子二人半ならまだ女同士妻と入れ 混ぜが利きますが、夫婦親子を収容の空間は どこを探しても無く、それなくとも内村竹司と準同居など、妻も息子も「何を考えてるんだ」と、首 を横にふり ました。
  夏生から電話がきて、この件は断りました。しかし話しには来ないかと誘いました。待ちましたが、 来なくて、そして前出の長い手紙を送りますと、内村 の独断で開封もされずに返送されて来て、加え て暴言のラッシュでした。
   夏生からの手紙は、まだ他に、たいへん大事な内容をもっていました。
  内村の手紙全部が「不幸な暴発」だったこと、その表現たるや「烈(=劣)悪」なことを妻である  夏生が認めていたのも、その一つです。舅と婿と男二人の性格や常識の差を、「異なる信仰」者のそれ のように説こうとしていたのも、その一つでした。
  より大事なのは「経済」や「援助」についての実感でした。

「30」 私(=夏生)の金銭感覚は、人生観以上に奥野の血をついでいると言えます。ですから竹司さんを弁護するなどということは苦痛であり、したくもな いことです。しかし、困っているのは彼だけでなく、私であり信哉であり、もう一人の(お腹のなかの=)子供です。私はこれまで、彼(=内村)の、どん底で の力を期待して耐えてきましたが、今回のような「不幸な暴発」の結果、それを待ってはいられない立場となりました。
 これから書くことは、彼の立場を支持したり、正当化したり、または救援したりするためではなく、私と二人の子供の保身であり、またそのために必要不可欠 な、「夫」「父」としての竹司さんを死守したい思いからのものであるということを、まずご理解下さい。

 * 核家族として「夫婦・親子」を安定させ確立したい気持ちが痛いように受け取れます。たしかに 「不幸な暴発」であったわけで、夏生も書いていますよ うに、「生活は大変か」と訊かれて「はい、大 変です、助けて下さい」と「一言言えばすんだものを」内村は「(口にだして=)言えない」のです。 言えな いまま、じれて先に「暴発」したのでした。口で言えないなら、せめて冷静に手紙に書き、妻 子のためにも一時の援助を率直に頼めばいいのでした。「学者を 婿にした嫁の実家は」とか、「統計を見 せてやる」とか、あげく問題外の「身内」問題へ話を逸らせて「暴発」の名分を工作したわけですが、 根本は「核家 族」として出て行ける住居が必要だったのです。しかし出て行くにも金がなかった。内 村の手紙が、しきりと「アパート」等の「提供」を要求していた文面に 繋がります。   
  話合い無しには、だが、私どもには内情が分からない。聞いても話さない。内村の父親がわりの甘 木与之介氏も、内村が金に困る、家に困るなんてことは 「絶対にないですよ」、(だから竹司が援助など 望むはずがない=)と請けあう始末でしたが、事実はこの有様だったのです。内村の幼稚で無思慮な 「不幸 な暴発」が先行していましたので、物理的にも心理的にもいかに夏生の「願い」とはいえ、内 村の非礼な鉄面皮は受入れようがないのでした。

「31」 竹司さんには、奥野家(=の感覚)からみれば、2つの欠点があります。
 まず、親切の手は相手から第一にさしのべられるべきであり、しかるのちにこちらが返す、という中華思想。
 また、その親切の度を金額で換算する、という習慣です。
 じつに不思議ではありますが、彼の「計算」は門口でだけ働くのです。

 * 「粋」な仕方で援助をするのが理想の「お付き合い」だと内村は言い、翻訳すれば、「察して金を 出してくれるのが常識、出さぬは非常識」であり、率 先して「女」が気をつかうべきなのに、奥野の 妻は「禁治産者」なみでそれが出来ないと言う。
  たしかに「じつに不思議な」「中華思想」です。親切を金で「換算するな」が、親として子におしえ た我が奥野の家の「金銭感覚」でした。夏生(なつ み)の苦労がよく分かります。
  経済的に困窮して援助を頼みたいのに、「頼む」ということが出来ない。夏生の言い方だと「赤裸々 に」なれない。相手が先ず親切に察して手を「さしの べ」る「べき」だと考えている気の毒な男でし た。生得のそれが内村の「中華思想」でした。しかし「大丈夫です」と、出された手を払ったのも内 村でし た。
  あとで思えば「黙って寄越せ」でした。ところが手を払われた私どもも、内村家の内情に、とんと 疎かったのです。もともと頼まれもせぬ援助をおしつけ る気も、毛頭もち合わせませんでした。
  内村は暴発しました。無視されると、いきり立ち「毒づき」だしました。そのうち「姻戚解消」と いう事を考え出して、その理由に、私奥野がよく「身内 である」「身内でない」という話をするのに絡 めて、おまえとは「身内でない」と言われたと同然だ、身内でないなら親戚ではない、だから「姻戚 解消」だ という屁理屈をこじつけて来たのです。内村は「身内」を、ひとえに家族・一族・親戚・姻 戚という意味に取っていたのです。それが一般の語法ではあるので す。よく知っています。
  しかしながら、私、奥野秀樹の「身内」は、そういう意味で「ない」点に特色のある、いわば、創 作の根の動機をなす一語でした。「奥野秀樹の身内観」 は相応に読者には知られていて、論文を書いて くれる研究者もあり、批評の課題にもなって来ました。夏生の表現を借りれば、いわば「魂の色の似 た人」の ことでした。家族とか姻戚とかいう普通の概念をむしろ安易に容認しない意味を付与された、 本質の人交わりを意味した言葉でした。
  また私の物言いでいえば、「身内」ではなかろうとも、親愛され尊敬される人はいくらもいて自然当 然なのでした。内村の固い頭は、それが理解できな かったか、はなから理解する気もなかったのでし ょう。それでいて文句はつけたのです。
  魂の色の似る似ないとは、どういう所でみるか。一例ですが、作品をはさんで深く人間的に交感で きる「作者と、いい読者」といった「譬え」を、私は分 かり良く用いてきました。そうなると、例え ば私の作品をまるで知らないし、知る気もない内村と私とでは、少なくも私からすれば「魂の色」の 似通うわけ のない間柄になります。しかしそれはものの譬えですから、そんな所ひとつに拘泥して、「親 戚でないと言われた」「身内でないと言われた」と思いこむ方 が、子供っぽい滑稽な早合点でした。
  夏生なら、夫の誤解は簡単に解いてやれたでしょうし、内村も、そんなに気になるなら私の本を読 むなりすれば、少なくも私のいう「身内」の意味くらい 理解したでしょう。強いはしませんが、誤解 して怒るくらいなら、身を寄せて見てみる聴いてみる舅への親切は、有って良かったでしょう。
  『お付き合い読本』にも明らかに揶揄ないしことさら侮辱を与えるために、内村は、私が作家であ ることに「毒づいて」ています。もともと「教授」志望 の内村には「作家」などは眼中にない態度が 見えていました。その挙句が、「身内」一語の誤解から「姻戚解消」となったわけで、わるいことに「身 内でな い」に力点を置いて「暴発」の口実にしようとすればするほど、より奇妙な袋道に内村は入り こみました。内村も最後には、すべて「誤解」であったと詫び、 誤解にもとづく「過剰反応」に出たのは「慙愧に耐えません」と、全然適切でない表現でしたが、FAXで伝えてきました。
  しかしながら私どもの怒りは、不快は、失笑こそすれそこの「誤解」にあるのでなく、かりにも娘 の夫、孫の父親が、「非礼も礼も」あるものかと下劣で 醜悪な言葉を吐きかけて来た無道にあるのでし た。「言葉」を心の苗として私は生きてきました。「金を出すより口(いい言葉)を出せ(交わせ)」と 考え てきた人間です。「金」は、いざとなると「人を悪人に変える」と漱石に教わって以来の思いでし た。親しければ親しいほど「金」の付き合いは御免でした。
  金や援助の、また身内がどうしたの、は問題でないのです。礼に非ざれば視るなかれ、
 礼に非ざれば聴(ゆる)すなかれ。私どもが内村の「非礼を受けぬ」「許さぬ」のは、その「言葉」と 「心根」があまりヒドイからです。謝罪すべきは、そ れなのです。
  ですから、何が本当の原因で「暴発」したかを、内村自身の「文面」で炙り出しながら、どんな「ひ どい言葉」に不快であったかも、同時に明かにしてみ たのです。

  最初にも申しましたが、ここに挙げた「内村竹司の言葉」は、可能なかぎり誤字までもそのまま内 村自身の手紙から「文面」を写したものであり、それら の「言葉」でどれほど痛く傷ついたかを分か っていただきたいと思いました。
  われわれは、事の打開と和解のために、内村竹司の当然の「謝罪」を求めています。
 「姻戚解消」の通告はもとより、内村当人のことも当初来、完全に黙殺し続けました。内村当人を一 度たりと相手にしませんでした。
  内村は、舅一人との「姻戚関係を解消」しただけだと、私の妻や息子に書いて寄越していましたが、 やがて勝手に拡大されて行きました。個対個の考え方 でやれる人物なら、彼は、夏生あての私の手紙 を、夏生の手から未然に奪うだけでも、恥ずべき行為でした。ルソーのモンテスキューのと振り回す 親子二代 のじつに「教育学」「教育哲学」の徒が、無残にも「本だけから学問を得た」結果の、これぞ 未熟な非常識そのものでしょう。
  やがて内村は、妻夏生(なつみ)の蔵書から父の著書全部を、自分自身で大きく荷造りし、送り返し てきました。娘からはすぐ電話があり「ごめん。保管 しておいて」と頼んできました。
  来る冬のために私の妻が、祖母が、孫のために与えてあった新しいオーバーコートまで、父内村は 自分で荷造りして突っ返して来ました。これが『エミー ル』を読んで悔い改めなさいと舅に訓え得る 人物の行為でしょうか。
  さらには、娘や孫との手紙の往来が内村の手で妨害され、伝わらぬままになることが、頻々と起き て来ました。孫の信哉が祖母に書いた手紙の投函を、た またま父親に頼むと、それは届きませんでし た。こっちから出したものも、何度か、娘にも孫にも届かないという事が起きました。
  信哉は父親の様子がおかしいと見はじめ、黙しがちになりました。母親からそう伝えてきました。
  骨折で入院し急に衰弱してきた夏生の祖母を、夏生が、子供づれで見舞いに行く間際にも、内村は 「離婚」を覚悟して行けと口走り、夏生らの足を引っ 張ったことも、夏生の口から、妻も私も聞かさ れています。その一方で夏生は大きなお腹をかかえて都心まで学習塾の先生をしに、長い電車を乗り 継いでい る始末でした。妻と一緒に新宿まで、私独りで代々木まで、娘の顔を見に出掛けたりしまし た。夏生は、パパたちが竹司の顔を立ててやり、黙って面倒をみて やるしか、打開の道はもう無いと 言うばかりでした。
  彼は何をしていると聞くと、「家でぶらぶらしている」と言うのです。「少しは働け」と大学生の妹 にまでやられていると言うのです。安易に、顔など立 ててやってはいけないと思いました。
  そして、とうとう生まれた二人めの孫道哉に、会うことも、抱くことも、私の妻は出来ないでいま す。
  もうその頃内村は、茨城に(=講師にしてもらえずに=)「技官」で就職し、官舎に、親子四人で移 っていました。しかし会えなかったのは遠いからでは なく、二言目には「離婚」を口にされ、夏生に も動きようがなかった。
  たったの一度でした、内村が旅行中に、弟春生(はるき)の車の迎えで、かろうじて母子三人で一晩 だけ東京まで泊まりにきてくれましたが、内村には内 証でした。
  私どもは、平成三年八月九月の一連の「暴発」「非礼」だけでなく、以後の二年間に、不当に肉親の 情を傷付けられてきた、こうした心ない所行にも、 「謝罪」して欲しい。
 
 
     一八

 奥野は、いままた新ためて、数年前ただただ気持ちを鎮めたいばかりに誰にともなく書きに書き起こした愬えの文章を、不快な内村の手紙を、また夏生(なつ み)の切羽詰まってほとんど捨て鉢な手紙を、つくづくと読み直していた。R氏夫妻がどう読まれるか、どう読まれようと無残に恥ずかしい代物(しろもの)で しかなかったが、この臭い物に、やみくもに蓋して終わらせてはならぬという、「執念深い」ものに衝き動かされていた。
 当時に纏めて「経過一束」と題しておいたものにも、奥野は、目をむけた。娘夏生が言い切った婿内村竹司の「不幸な暴発」が、順序を追い、まざまざと再現 されていた。


*平成三年(一九九一年)夏から初秋へ・経過一束*

 六月 二七日  夏生・信哉、奥野家来泊。秀樹と夏生(なつみ)、銀座へ。食事・夏生のため買い物         など。
 七月  一日  夏生・信哉、内村家へ帰宅。
    一○日 (奥野秀樹に都内の国立大学より専任教授就任の依頼と打診の電話が来る。)
    一二日  信哉の電話で(戸外から?)夏生が妊娠したらしいと聞く。夏生は信哉に話させ、         側に居た。藤子が応対。「めでたい が、大変だな」と思う。  
    一三日  夏生の電話。妊娠のこと確認。藤子が応対。前回に懲りてつわりを案じる。
    一九日  夏生へ発信(秀樹)。手書き。妊娠に対し、心して専一大切に、無事出産を、と。
    二○日  夏生の電話。前便への感謝。
    二四日  夏生電話。つわりの由、大泉へ休息に行きたいと。
    二五日  夏生電話、明日、信哉と二人で行きたいと。(つわりひどいと聞き、前回時の例もあ         り、)安全上、竹司に送って来ても らうように勧める。
    二六日  内村親子来訪。竹司のみ帰宅。風邪気の由。出産等の内村側の対策等何の話も出ず。         茨城の大学の方、就職難航につき説 明すこしあり。翌日夏生誕生日、31歳。
 八月八日以前  内村竹司宛て発信(前出)。
     八日  内村竹司に電話。つわりも、やや軽快しており、前便の趣旨をふんだ、ともあれ対         策の為にも、一度迎えに来てやって欲 しい、と(藤子応対)。
         明日、行くと。藤子に疲労あり。
     九日  事情で、明日行くと内村の電話。奥野家では藤子の体調、依然、違和。
     十日  内村竹司来訪。当方の事情(藤子不調、秀樹大きな仕事へ着手)あり、いったん夏         生は帰すが、今後について、「経費等 の経済面はどうか」また就職もかなり難航の様         子だが、こういう際は『道は開ける』(カーネギー)の説ではないが、(自分はいつ          もそう心掛けてきたが、)「最悪の事態(不採用)も予測してかかる程の心用意をし         つつ、『待つ』も含めいろいろに対処を」と も求めた。親としては自然な思いであり、         又、その時は、内村も普通に聞く様子だった。
         出産については、産後はともあれ、幸いなことに現在夫婦とも在宅状態なのだから、         協力して妊娠の安定期を過ごす方が いい。それが自然なように思う、それでも、「と         きどきは骨休め、気休めに奥野へ来ること、いっこう構わない」と勧める。もっと          も奥野の夫婦とも、老人介護をはじめいろんな面で楽隠居とは言えぬ事情、承知し         ていて欲しいとも。
         内村の三人、帰る。この日の対話内容は「前出」双方の手紙に在り。
 八月 一二日  夏生の電話。「今、竹司が手紙を投函したようだ。どうも、むちゃくちゃなモノに想         われる。受け取っても気を悪くせ ず、忘れてくれ」と。まことに唐突な話。藤子が         応対。
    一四日  内村竹司の奥野秀樹宛て、第一便(前出)。藤子が読み、竹司宛て藤子が返信。
    一五日  夏生の電話。内村家での母子・兄妹紛糾のことども。
    一八日  竹司の手紙を「無かったことにして」と、夏生の電話。この先不安と。    一    一九日  藤子、夏生と信哉に手紙だす。控えは ない。電話を掛けてきやすいようにテレホン         カード入れる。
    二○日  内村竹司、再度、奥野秀樹・藤子宛て、第二便(前出)。秀樹旅中、藤子開封せず翌         日へ持ち越す。
    二一日  藤子、内村の手紙を春生(はるき)に先ず読ませ、春生は母に「読むな」と示唆。帰         宅の秀樹、読む。親子三人で事態を 協議。内村竹司の非礼・非常識には、一切黙殺         を以てすると。
    二三日  電話往来の便に、夏生へ予備の電話カードをまた何枚も送る。
    二四日  夏生、信哉の電話あり。
    二七日  夏生の電話(藤子応対)。姑小姑と同居の内村家を出たいと。竹司の浪人状態に、内         村家族の懸念も募っているかと、推 測。
    二八日  夏生の電話(藤子応対)。「竹司の家族」はこの家を出て行くよう、姑に言われた。         竹司の妹は、竹司らが同居している 限り、自分が出て行くと言う由。「働け」と兄に         言うらしく、しかし「竹司は何の対策もしていない」と。
         仲人の山根信之氏へ発信、時候挨拶と近況報告の程度で、控え無し。
 九月  二日  夏生の電話(藤子応対)。藤子病院へ出がけで話していられず。
     三日  夏生宛てに秀樹発信(前出)。行き違いに夏生の手紙届く。封書の宛名は、信哉の文         字で(前出)。奥野方の西宅から弟 春生をよそへ出し、内村竹司の家族に明け渡して         欲しい旨。読んで感じたままを書中に走り書きする。
         一家で協議。物理的にも心情的にも成る話ではないと。
     四日  秀樹外出中に夏生の電話。母の応対では致し方なしと、切れる。
     六日  夏生の電話、秀樹受ける。大泉へ行きたいが、自分からの手紙はみたかと。前便の、         老母の病室のある、また春生の部屋 や秀樹の仕事場のある西宅を、内村竹司一家に         明け渡すのは、どうやりくりをしても論外、心情に於ても不可能と返事する。
         「それなら(話しに)行かぬ」と。「来た方がいい。来て休息するがいい。よく話し         合えば道が開けるだろうし」と。電 話切れる。終日待てども来ず。夏生へ手紙を書         く。
     七日  夏生宛てに、長文を発信(前出)。
     九日  秀樹の前便と行き違いに、内村竹司による、奥野秀樹宛て(前出)及び藤子・春生         宛て(「お付き合い読本」付き)の第 三便届く。一方的に、「姻戚関係を解消」通告         など、異様な内容。
     十日  かねて用意の、信哉の誕生祝い品を、宅配。また「親展」「速達」で、夏生へ父から         手紙を出す。
    十二日  内村竹司の一存になると明白に読める手紙(前出)とともに、奥野 発「夏生」宛         て「速達親展便」が、速達で返送(未 開封のまま。前出)されて来る。通信の勝手         な遮断はかかる際の意思疏通や事態打開を妨げ、また親書の往来を侵す卑劣な行為。          怒り加わる。
         仲人で友人でもある山根信之氏へ電話で、面談を願う。明日にと約束。              この日の午後、さらに、九月七日に秀 樹から夏生へ宛てた長文の手紙が、竹司の「独         断」で未開封の状態のまま返送されて来る。この時点で、この手紙が夏生の手に渡          らず目に触れなかったのは、痛恨の事態。竹司も夏生も、冷静を欠いた処置と、嘆         息のほか無し。
    十三日  池袋メトロポリタン・ホテルで山根氏と会う。ごく一部の手紙を見てもらい、「これ         はヒドイ」と山根氏の顔色変わる。
         (山根氏と会うにあたり、俄かに手帳等により書き起こしたので、尽せてはいない         が、往来した手紙の前後関係を明かに する程度には、足りていると思う。)


 この頃には奥野自身の文部省人事は確定していて、十月一日付け、東*大工学部(文学)教授として就任した。
 内村の方の茨城就職は、大学内の人事抗争に邪魔されていっこう採用の動きがないまま、ひたすら待たされていた。事情は奥野らに知れる由なく、ただ耳の底 に、夏生(なつみ)が、父奥野の唐突な国立大学人事を聞いた瞬間、「竹司より先に決まらないでね」と叫んだ声音がこびりついていた。夏生にはたまらなく 「不幸な」夫と父との落差であったろう、自分の父が、そんな人事を夢にも願ったことのないのをよくよく知っていたから、よけい天の配剤が恨めしかっただろ う。まして内村は「何故なんだ」と叫びたかったろう。
 だが、だから無頼漢のように「暴発」してよいわけはなく、暴発の仕方もあまりに醜く、無礼だった。おとなしい藤子でさえも、そんな内村は許せず、無礼を きちんと詫びさせて原点に戻したかった。
 せめて「二年」待ってやってくれ、内村も反省するだろうしと、夏生は懇願してきた。内村の顔など見たくもないが、夏生や信哉らには今までどおり大泉へ来 てもらいたい。それの出来るかぎりは待ってやろうと奥野は思った。
 ところが、やっと「技官」の地位を得て茨城に就職できた内村は、不本意な人事にこれも「嫁の里」の責任だと八つ当たりし、奥野の祖父母と孫信哉との交信 も拒みだした。親と付き合うなら「離婚」と、夏生に圧力をかけ始めたという。
 脚の骨折で入院した祖母を見舞うにも「覚悟して行け」と威し、玄関まで出掛けていた夏生たちの足を凍りつかせたという。
 平成五年八月、「暴発」からまる二年経て奥野は、仲人という以前に友として心ゆるしてきた山根教授に愬えた。山根は、事前の疏通があったものか、内村竹 司の伯父で父親代わりに結婚式に出ていた甘木与之介氏に「同席してもらいましょう」と言ってきた。
 山根さん、逃げ腰だなと奥野は内心苦笑しながら、いいでしょうと答えた。


 * 不幸な暴発(三)

 * 私(奥野)どもが、今年(平成五年)八月以降、甘木与之介氏を介して内村竹司に求めてきまし た「謝罪文(自書)」は、例えば以下の内容を備えたも のです。

  私、内村竹司は、奥野秀樹様及びご家族に宛てました、平成三年八月一二日発信以降 九月に及ぶ礼を失した通信・郵送等につき、心からお詫び申し上げま す。一切の内容を 謹んで撤回させていただきます。またその後も肉親間の接触に、いくつかの非礼を重ね ましたことについても、同じく、心からお詫び申し 上げます。ご海容下さいますようお 願い致します。
   平成五年  月  日     (署名)      (印)

 * これに対し、平成五年九月九日の夜分に、甘木氏を介して届いた内村竹司のFAXは、文字通りに以下の通りです。

    詫び状
  朝夕めっきり涼しくなってきました。皆様、お健やかにお過ごしのこととお喜び申し上げます。
  さて、二年程前になりますが、私は奥野様より「奥野文学を読まぬものは身内でない」
 と罵られ、さらに「文学音痴」など一連の嘲笑を浴びせられ、抗議文を書きました。しかし奥野様よ り何ら釈明が得られなかったので、怒り心頭に発して絶 縁状を送付しました。しかし今年七月、間接 的ながら、「『みうちでない』は奥野文学の語彙である」と聞くに及びました。
  いまだ奥野様から直接の弁明を受けてはおりませんが、仮に「みうちでない」発言が「故意」では なく「不注意」であったとすれば、私の書き送った絶縁 状と、その前後幾通かの手紙は、いわば「過 剰反応」に相当し、慙愧の念に堪えません。したがって、慎んでこれを撤回します。
  時節柄ご自愛のほど、お祈り申し上げます。
    平成五年九月九日        内村竹司

 * 妻も、また息子も一致して、かように事実を歪曲捏造したものは受け取らないと、突き返しまし た。
  内村自身が事の発端として挙げています奥野の「身内」という物言いに、そんなにも拘泥っていな がら、夏生と結婚して何年にもなる今年七月まで、理解 もしないまま「過剰反応」したとの言い訳一 つでも、いかに内村が不用意で「不注意」な、傲慢な人物かが分かります。誤解のまま怒りを「暴発」 したとい うだけでも幼稚な振舞いです。怒るまえに「どういう事か」と確かめるのが、大人なら自然 当然の順序であり思慮でありましょう。
  まして舅婿の間柄です、夏生に確かめてよし、著作に当たってよし、仲人の山根氏に問うてもよろ しく、手段はいくらでも有ったのですから。奥野からわ ざわざ「弁明」することでなく、「不注意」な のは内村自身だったのですから。
 * 要するに内村には、「身内」問題など、言い掛りの口実なのでした。
  問題はそんなことでは無かったのです。真っ正直に「金銭」「住居」の援助を申し出られない己(お の)が情けなさから、「暴発」してしまったのです。 内村の手紙が示す全ての「文面」が、最初から内 村家葛藤の内情とともに、明白にそれを指さしています。
  そう理解しつつ、そんなことよりも「暴言」の「非礼」を先ず「謝罪せよ」と私どもは言っており ます。許せる度合いを遥かに超えた「無礼」だからで す。
  けれど、ここに至っても内村は、事のこじれの意味、無礼・高慢の事実を、「故意に」「身内」解釈 の誤解に無理にすり替えようとだけしています。
 * 私奥野にも、不徳を恥じて身に痛い点は多々あります。それは私の問題です。内村との対話は、 事の打開と解決とのあとで成されましょう。            以上
       平成五年初秋     奥野秀樹

      *―――――*

 暑い暑い真夏のほぼ一ヶ月を費やした折衝は、奥野にも、藤子にも、落胆というだけで過ぎた。
 親代わりの甘木が問題の「手紙」など読むまでもないと読みもせず甥・内村のカタをもち、竹司に暴発させるだけのことが奥野らの側にあったと言い募るの は、ま、身びいきで、どうせそんなことと奥野も予想していた。山根はただ沈黙し、藤子が、一度二人でお話ししたいと願うのにも応じなかった。
 いつ知れず奥野は、甘木・山根組に一人で対処していた。
 奥野は山根に失望した、あの内村の無礼を、なんで友達がいにも強く窘めて叱ってくれないのかと。
 夏生(なつみ)も苦しい立場にいた。夫のそばで、親を、父親を、非難するしかない立場にいた。藤子は、じつは春生(はるき)も、夏生に離婚して帰ってき てほしい、子供たちを連れてと本気で思うらしく、奥野は、だがそれは避けたかった。夏生も、
 「たとえ竹司に離婚されても、自分は大泉の親の家には帰りません」などと山根や甘木に言うらしく、
 「奥野さん頑張られると、お嬢さんたちを永久に失うことになりますよ」という山根氏の警告は、その通りに相違ないのだった。夏生は、親たちに見捨てられ る自分を感じているのだろう、可哀相に…。
 だが、だから内村を許そうという気にはならなかった。孫たちには「父親」でもある「教育者」内村竹司の逸脱を、そのままにしてはならなかった。そのまま にすれば自分はまちがってなかったと思い込む男だから、なおさらだった。
 奥野は、あらためて、夏生と自分との「運命」を考えていた。


* 夏生に。 (平成四年師走)

  この間から、おまえのことを、幾度となく、なにかというと考えていた。なにを考えるという具体 的なことではなかった。考えるというより思うというほ うが当たっている。気にしていたというほう が、もっと当たっているのだろう。それだけのことだけれど。
  今日は十二月十日。ママと結婚しようと約束して、三十五年め。今年は、とくべつの事も計画せず、 昼前までゆっくり寝ていた。春生(はるき)が幸い休 みをとっているので、車でどこかへ連れていって もらい、遅めの昼飯でもちょっと奢ってみようかなと思っている。彼はまだ寝ているけれど。
  元気にしているかい。血管の故障など、ほんとに有るのなら、ぜったい早めに、それも十分信頼で きる専門医の診察を受けておかないと、とんでもない事 態に陥らぬでもない。医学的になら、いくら か知恵を貸してくれる人と、まだすこしは付き合いがあるから、直感を利かせて、躊躇なく相談して くれるよう に。
   ぢいちやんかといふ声幼く聞え来て受話器の中をのぞきたくなる  神田朴勝
   花びらの如き手袋忘れゆきしばらくは来ぬわが幼な孫       出浦やす子
   花嫁の初々しさを打ち見つつ身近く吾娘(あこ)といふも今日のみ 山下 清
  こんな歌を選んで、以前に一冊の本を出した。あとがきは「昭和六0年六月八日 娘が華燭の日に」 となっている。男女の愛、夫婦の愛、子への愛、親子 の愛、血縁の愛、友の愛、師弟の愛を歌った無 数の歌からわたしは歌をえらび、そしてそれらの後へ「さまざまな愛」という一章を設けて、冒頭に こんな歌 をえらんだ。
   愛の最もむごき部分はたれもたれもこのうつし世に言ひ遺さざり  東 淳子
  大学の後期は、二つ、授業をしている。メインは二年生中心の文学概論で、あとの一つは三、四年 対象の小人数の特殊講義。文学概論には後期八百八人 (前期三百二十人)というウソのような人数が 申告し、そのうち二百人足らずはレポートで採点することにしたが、残りの人は毎時間聴きにくる。 平均して 五百人ほどが出席して父さんの漱石や潤一郎のいろんな話を聴いてくれる。うちの大学には そんな人数を収容できる大教室はないから、席取りがたいへんらし く、教壇のぎりぎり側(そば)へま でびっしり立ったり座りこんだりしている。

   初めてのわが口紅に気づきしか口あけしまま見入る( )     中島輝子

  「( )島」と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき   中山 明

   どっと笑ひしがわれには( )める母ありけり                   栗林一石路

  こういう虫食いに漢字一字を入れてもらい、次週には正解誤解を紹介し鑑賞しつつ授業の本題へ入  って行く。詩歌に縁のうすい学生諸君も、これを考えるとき、一瞬詩人になっている。作者の原作ど おりでなくても「名解」も評価してあげている。
  春生(はるき)が、母さんとわたしとを、秋日和めくあたたかな石神井池、三宝寺池、また善福寺池 へ連れていってくれました。とくに三宝寺池の風情 は、往時の武蔵野をそのまま残した幽邃な自然で、 無数に散りはえる枯れ葉までが、わたしたちを楽しませ静かな気持ちにしてくれました。
  そして晩にはまた車で吉祥寺へ出て、近鉄デパートのなかに来ている京懐石を堪能しました。春生 も、大人になり、このごろは父さんや母さんのわがまま も黙ってよく聞い て付き合ってくれます。 三つの池を二時間以上も散歩している親二人を、好きにさせて おいて、じっと車の中や外で待って いてくれる のです。むろん言葉にだしてはあえて言 わないだけで、三人が三人ともおまえのことを それぞれに思っています。暮れにはおばあちゃんを一時帰宅させよう と、準備中。
  凛々歳暮。元気にいい新年を迎えてください。
   平成四年十二月十日             父


 ワープロのフロッピー・ディスクにだけ保存された、投函されなかった、投函してももう夏生の手に渡るという保証のない手紙だった。十数年使い慣れた器械 の文字が、几帳面に、つらかった日々を今もそっくり刻印していた。
   

* 夏生に。 (平成四年師走)

  だいぶ押しつまって、ホワイト・クリスマスではないものの、寒さは今年いちばんの厳しさ。筑波 の雪は、どうだろうか。機嫌よく、していますか。
  誕生日には、電話をありがとう。新宿の伊勢丹わきにある田川、あそこでひさしぶりにふぐの鍋で もと、春生の希望にあわせて、食事をして帰った、ちょ うど、そんな時で。とても嬉しかった。あの 日も、ずうっと、おまえのことを気にしていた。田川でも、む ろんおまえの事をみんなで話してい た。あの店 は、むかし、おまえがママのおなかにい た時だったか、生まれてまもなくだったか、鯉 こくを食べるとよくお乳がでると聞いて、とくに頼んで、つくって 貰った店でね。店内が、その当時 のまま、まったく模様替えし ていないというのも、いまどきの新宿では稀有(けう)の店です。思え ば、しかし、久しい ものだなと、このところめっきり体力の落ちたのも、不思議でない気がしました。
  そうそう、昨日は、信哉が電話をくれたとか。センター試験の監督に駆り出されるにつき、説明会 があって大学へいっていました。残念、残念。誕生日の 田川のまえに、三越でママとみつけた信哉 と道哉との洋服は、まだ届くまいと思いますが、年内には。お正月に着せてやってくれると嬉しい。
  もう、今年の仕事はあらかた済んだと言いたいところだが、そうでもなくて、結局だらだらと年を 越してしまいそうです。正月八日から録音と聞いていた NHKラジオの仕事が、十五日からと延びた ので、いま、ほっと息をついています。三月に放送で、各四十五分、四週分。その原稿をおよそは作 っておきた いので、たぶん大晦日までに二回分、五○枚。それが年内の最後の仕事のようです。新年 号ものは、もう届いて来ています。
  あぁ、だめだ…今夜は眠くなってしまった。この頃は疲れて、よく電車でも寝てしまう。座れる電 車に乗る。先日立っていて、目的の駅まで来たら、前の 人が立ったんだ。反射的に明いた席に座って しまい、気がついたけど立つ気になれずに、一駅乗り越したよ。 
  一月には、センター試験を済ませて、すぐ京都の美術展へ出掛けます。帰るとすぐまた二月のあた まに、今度は金沢・小松まで講演にでかけます。そし て、学生たちの採点。新学年の用意。塔の本、 エッセイの5冊め(都合29冊め)発送が重なります。S堂からの新しい本の出版も重なります。新年 のこと を思うと、もう、なんだか、そわそわと落ち着かないくらいです。忙しい年になるでしょう、 またしても。
  ごめん…、もう寝ます。おやすみ。      父
 
  土曜日の夕方です。ずっと昼過ぎからテレビ映画をみていた。「大統領をつくる男たち」です。
  ほんとは、そんな呑気な時間を過ごしていてはいけないんだが、さてと言ってこう押し詰まってし まえば、ジタバタしても始まらない。文藝春秋のT氏が 電話をくれました。書下ろしの依頼を受けて いて、これからは、わたしの一番怖い人になります。まだエンジンは温まっていない。それよりも年 末の片付け が面倒でたまらない。このごろは、ちょっとした肉体労働が面倒で面倒で、書庫は乱雑の 極みのまま。カウンターにも、本が溢れるくらい投げ出してある始末 で、せめてそれだけでもと思い つつ、手がでない。それでいてそれがストレスになっている始末です。
  ノコ――。いまこの家で、真実主人公であるのはノコかも知れんなぁ。われわれは、春生も含めて、 ひたすらノコの無事な長生きを祈っています。運動能 力こそ格別に落ち てはいるが、幸い視線もつ よく、やせて小さいぶん負担も少ないかして、元気です。い つも寝しな、ママの顎のしたへ入って、 ママの 読書に付き合って寝る読書猫です。   父
 
  二十七日の、もう八時半になりました。ママは、昨日から疲れて寝ています。おばあちゃんの正月 帰宅に対応できるだろうかと、心配しています。
  放送用の原稿、二回分、もう仕上げました。日本語「で」読む、書く、話すことの意味を、来年も 相変わらず考えて行きます。
  春生が、日曜出勤? から愛車でご帰館のようです。彼は、自前で新車を買い替えたんです。ちょ っと小さめになったけれど、綺麗な車で、運転しやすい ようだ。独身貴族? の日々を楽しんでいる 気らしい。
  家が狭くなりました。もう東の家は、本であふれて、隙間なしです。西(イリ)の家の洋間にも本棚 を二つ 大きいのを入れて「塔」のシリーズを収容し はじめました。
  この出版をやめれば、わたしもママも、だいぶ体はらくになりますが、昨今の文藝出版の事情から して、さきざきの為にもこの仕事は、むしろ頑張って続 けざるをえないでしょう。いまでこそ大学教 授の給料が入るし、文筆や講演でけっこう稼ぎはあるのだけれども、定年後の執筆生活に大きな展開 があろうと は思われず、年齢的にも地味さの度を加えて行くだろうと思っています。「塔」は、その時 に、かなり大きな気の支えになってくれる。それは目に見えている ので、努めて維持したいのだが、 疲労は加わる一方です。
  こんな話は、きみには退屈だね。もう、よそう。
  今も学生の採点をしていました。採点中に二度宅配があった。今年も呉市からのデビラが届きまし た。滋賀県から餅、愛知からちくわと蒲鉾、京都からは すぐきが、東京の読者から羊羮が、届きまし た。このごろは、出版社からよりも読者から戴くほうがずっと多い。有り難いね。
  大学の方が、この一年しきりに揺れていて、へたをすると、定年前にわたしは大学院の教授へと、 籍がうごくかも知れない。定年も、うちは本郷(=東 大)なみに珍しく六十歳なのに、延長の動きが具体 化しているらしい。わたしは六十でぜひ退官したいと、申し出てあります。
  だらだらと、おしゃべりしてしまった。煙草がわりの、へんな手紙だ。
  夏生(なつみ)。元気に、陽気に、気持ちいい新年へ、力づよく踏み出してください。健康を心 よ り祈ります。
   平成四年師走二十七日 夜九時すぎ   父


 これも奥野は投函しなかった。深夜、ひとり呼び掛ける、愛しい娘への手紙だった。内村とのことには、すこしも触れないで書く手紙だった。内村が「暴発」 した翌年だ。
 だが、もう半年もたてば奥野の欝塊はふくれて疼きだしていた。投函しない手紙を一つ書き、また二つ空しく書いた。


* 夏生に。 (平成五年梅雨)

  つい最近学生に、こんな歌の虫食いに字を入れてもらった。

   しづかなる悲哀のごときものあれどわれをかかるものの( )食となさず  石川不二子

  この気概があれば、人は、いたずらに喜怒哀楽の感情にわれと我が魂を「餌食」にささげる愚はお かさない。狂いもしない。
  不幸にも狂ったと正気づけば、静かに反省して、座標を正す「行為」からはじめればよい。なしく ずしに、ぐずぐずとゴマカしてしまうのは、不幸な欺 瞞、これに過ぎたものはない。親しきなかに礼 儀あり。愚劣な罵詈雑言は、まして婿が、娘も、親にたいし、どの世界でも許されてはいない。時計 の針が狂 えば、なにはおいても直す。修理する。時を狂わせるのも人、正すのも人。お互い正常の時 間のなかで、話せば分かるという付き合いの出来るのが、大人。一 度として話そうとせず、いきなり 「暴言」を書き送ってきた理性の「狂い」は、礼儀正しく正したがいいだろう。それを否認している のは、おまえたちの甘 えた逃亡であり勝手な言い分にすぎない。返事を待つ。
  そう言っても理解できないようなら、せめて山根・甘木氏立ち会いのうえ、「手紙」をみなで「読み 直して」みればいいと思う。それをイヤがるのは、自 分の「非」が歴然と自覚できていて、目を逸  らしているからであり、卑怯だと言うのです。先ずそこへ戻して、そのうえで今後を互いに考える  というの なら、それは出来る。狂った時間を「あの時点」へ「正す」義務と責任とは、内村竹司に  ある。知性ある礼節をもつべし、似て非なる自尊心の「餌食」に なっていてはならない。
  「嫁の実家」が婿の学者的地位のために「経済的援助」をするのが「多数」で、「あんたらのような 非常識なもの」を「親戚にしてしまった身の不運」を 嘆くというのが、どんなに実情から遠い恥ふか い処生であるかは、若い学生や立派な学者たち「多数」によって現に嗤(わら)われているのだよ。
   平成五年六月二十二日   父


 奥野は――今、三年後(平成八年)――読み返して忸怩(じくじ)たるもののあるを恥じた。自分自身が怒りの「餌食」になっているのではないのか、と。
 いやいや、「怒り」をわが餌食に…と、奥野は自身に鞭打った。


* 夏生に。 (平成五年夏)

  七月二十六日になった。あしたは夏生の生まれた日だ。あんなによく覚えている日が、ほかに有  るだろうか。たくさんの、たくさんの人の心配と応援と があって、夏生は生まれた。母さんのよこに 寝かされた夏生(――顔をみるより前から「夏生(なつみ)」という名前はついていた。母さんもわ  たしも、 微塵の躊躇もなく生まれて来る子の名前は「夏生」だった。かがやく季節の宝ものだった。 ――)との、初対面の印象、忘れない。
  あの日から三十三年もたったのだね。「みそさざい(三十三歳)」の夏生が、声佳く鳴きしきって、 こどもたちに負けず元気でありますようにと祈りま す。
  夏休みになりました。さすがに、ほッと一息ついています。それでも午前三時よりはやく寝たこと がこの十日ほど無かった。今夜はすこしでも早くやすみ たいと思ううち、もうすぐ午前一時になる。 母さんも春生ももう寝ています。
  このごろは井上靖の『孔子』をゆっくり音読し、そのあとお祈りをして寝ています。母さんはひょ っとして寝床で、ジェーン・オースティンの『高慢と偏 見』を二度め、読 み耽っているかも知れな い。この二十一歳の女の子の書いた、蕪村や秋成の頃のイギリ ス小説は、わたしも初めて読んだが、 とてもす ぐれた作品でした。
  東博に今、上海博物館の佳いのが来ている。むかし館長室で秘蔵の名品逸品をたくさ ん、井上(靖) さんらと一緒に見せて貰ったのが懐かしく、近日に 行ってみようと思っている。渋谷の文化村にはパ ウル・クレーがもうすぐ来ます。忙しいでもあろうけれど、美しいものへの深い興味も育てつづけて 欲し い。
  そんなことを誕生日へのはなむけに。元気で。 おやすみ。
   平成五年七月二十六日                        父


 八月に入って、奥野は、山根信之をついに煩わせたくなった。我慢の限界が来ていた。山根氏は、竹司伯父の甘木氏同席を希望した。
 そしてその八月末――、奥野は娘にあてて「夏生、さようなら」と、よぎない別離の予測を書き置く心境だった。


     一九
 
* 夏生に。 (平成五年夏)

  夏生(なつみ)…と呼びかけて手紙を上げるのは、最後になるやも知れない。
  今日、平成五年八月六日、池袋で、甘木与之介(=内村竹司の伯父・父親代わり)山根信之(=夏 生と竹司との仲人)両氏と会います。二時半の約束で す。母さんも一緒です。
  夏生が、あの「竹司の手紙を、甘木さんには見せてくれるな」と母さんに言って来ていたのは、聞 いています。恥かしかろう。出来るかぎり、見せまいと 思う。
  あの当時の「経過」を、一束一覧にしてある。手紙が一と山ある。竹司は得々として幼稚な手紙を 何度もよこした。私からは結局一度も竹司に「アプロー チ(=竹司の弁)」しなかった。相手にしなか った。夏生には、だが、何度か手紙を書いた。そのうちの大 事な二通が、竹司の独断で(と本人が 言ってい る)おまえの手に届かず、竹司の手で返 送されてきた。その後二年間にも、夏生や信哉宛 て親書の隠匿や破棄が卑劣に繰り返さ れてきた事実は、おまえ自 身、何度も認めていた。
  今日会っても、わたしから言うことは「一つ」しかない。夏生も再三口にしていたように、あの竹 司の手紙は「狂って」いた。二年経ち、もう正気に返っ ているのなら、それらしく非を認め「お義父 さん(竹司は結婚以来、そう、わたしを呼んでいた)」に、きちんと謝るべきです。その後に、普通の 態度と言 葉とで何をどう話し合うことも可能だろうが、「狂った」ままではどうしようもない。狂わせ た時計の針は、自分の手で、節義をもって先ず正しなさい、と。
  甘木さんらがそれを約束ないし保証して帰られるなら、わたしは、なにも付け加えることなく、後 日を期して別れてきたい。
  甘木さんらが、それは出来ぬと言われれば糸は切れたものと考える。おまえはずっと「二年間ほど のスタンスで」と言い続けた。二年間待ったけれども、 空しかったわけだ。
  したがって今後は、「冠婚葬祭等の一切」を含め、奥野家(秀樹、藤子、春生とその家庭)は、内村 竹司一家及び親族との交際を、絶ち切ります。通信、 交流、すべて絶ちます。そちらからも一切無用。 お互いに、無いものと処置します。
  何故か。
  奥野か。内村か。片方しか選べなくなった以上、母さんも私も、今は一致して、夏生には、内村竹 司の妻として、息子二人の母として、幸せになって貰い たい。竹司の手紙はおまえを見合結婚の「嫁」 としか認めていない、が、おまえは、竹司の「妻」であり、信哉や道哉の「母」として生きる人間で す。その 方がいい。「奥野」という姓も過去も、可哀相だが、忘れなさい。
  わたしの一存を、母さんや春生(はるき)に強要しているのだろうと、邪推するかも知れない、が、 母さんが口を極めておまえに告げてきたように、ちが う。今度の竹司の非礼は、多くの犠牲を払って もなお看過できない暴挙であり、母さんも春生も、同じ考えだということを、しっかり言っておきま す。
  よその者なら放っておく。内村竹司が、娘や孫の夫であり父であればこそ、我々は非礼を受けぬ。 黙認して、それが温厚な大人、などと考える方が、俗 で、恥ずかしい。
  思えばこうなる遠因は、披露宴の場で主賓二人に証人署名してもらう、その結婚届を即日届け出る、 という事前の約束、それが無事の結婚式のために奔走 した親の希望でよろこびでもあった計画を、平 然と二人して反古(ほご)にし、さらには新婚旅行から帰った竹司が私に向かって、「あんた、がたがた、 う るさいよ。なんなら、今でも結婚をやめていいんだぜ」と、電話の向うで、やくざのように 言い放った瞬間に在りました。糸は、あの時、もう切れていた。
  「魂の色が似ている」というおまえの「名言」を、あれ以来、繰り返し考えた。
  いま、私ははっきりと感じている。さきざきの事は分からないが、おまえと私との魂の色は、ちが うと。ちがうものを似ていると 強いて思う必要が、ど こに在ろう。親子も夫婦も兄弟も「他人」か らの出発だと言いつづけてきたが、おまえと父さんとは、遂に「身内」ではなかった。似た者夫婦。 おまえの 「身内」は内村竹司であってほしいんだ、父さんは。
  わたし達三人は、だが、おまえやお前の子らに心の門を、当然のこと、閉めてはいな い。それは 告げておく。
  血をわけるとは、大変なことだね。血をわけてさえいなかったら、私はこんなにおまえを愛したり しなかった。この愛は、しかし、要するに互いに自己愛 のようなものだった。それが、よく分かった。
  夏生。さようなら。   父     平成五年八月六日 午前三時


 山根氏、甘木氏、どちらかの手で夏生に渡して貰おうと持参した奥野の手紙だったが、渡さずじまいに、奥野夫婦は、ただただ会見に疲れて家に帰った。


* 夏生に。 (報告を兼ねた、すこし長い追伸。 八月七日夕方)

  甘木・山根両氏との会談を終え、母さんと二人で美濃吉で食事して、帰りました。母さんが、びっ くりするほど、あの人たちと、よく話した。
  我々の認識をとりまとめて知らせておく。
  あの「狂った」何通もの手紙を内村竹司が書いた原因は、それより以前に竹司がわたしから「いろ いろ圧迫」を受けたのが、積もり積もって爆発したのだ という説明だった。「いろいろ」とはどういう 事か、漠然とした話でなく、それほどに爆発するというのなら、たとえ一つでも二つでも具体的に挙 げてくれ と頼んだ。全く出来なかった。出てこなかった。「腹に据えかねた」実例の唯一つも挙げられ ぬほどの事で、あんなに「狂う」人間なのかと反問した。絶句さ れていた。
  昭和六十年六月におまえたちが結婚以後、平成三年八月の「暴発」まで、六年。そのうち彼はほぼ 三年近く、パリにいた。行く前も、行っている間もおま えたちは、わたし達から受けたさまざまの経 済援助や親切に重ね重ね礼状や謝辞や、又いろいろ親愛の言葉を、何度も何度も寄越して「暴発」の 気配など微 塵も無かったじゃないか。ま、竹司とは顔を合わせた回数まで、手帳をみれば簡単に分か るが、年三、四回が関の山で、都合二十回と会った実感がない。全然 無い。時間をかけて話した記憶 も無い。
  彼はまず口をきかず、わたしもそんな「お客」の意をやや迎える以上の話はしなかった。どっちか らも他人行儀だった。正直な話、L君やS君(=共に若 い友人)との時などは、ことさら刺激的に話 し合うことも辞さない私だが、君の夫とはそんな気分についぞ成れた覚えがない。茨城の人事が不如 意の頃、憤 慨した口調で、希望が阻まれれば学内関係者と「闘ってやる」などと聞いた日は、なんだ か「肉声を初めて聞いたようだね」と、あとで母さんと目を丸くして 話し合ったくらいだ。
  あとにも先にも、彼は、我が家ではお座なりな客だった。彼は気後れと(字義本来の)退屈とで、「自 分で自分を圧迫」していたに過ぎない。
  わたしは他人の話を聞くのが好きだ。口を封じて押さえる真似は、内村竹司に対し一度たりとした ことは無い。ただ問い掛けても話さないンじゃ、所詮面 白い相手でなし、呼びに来られなければ、い つも部屋で自分の仕事を続けていたでしょう。
  彼が例えば抗議をした、それでもわたしが不当に言い募ったとか、そんな実例が次々にでも挙げら れるのなら、「積もり積もって爆発」と言えるだろう が、そんな場面は一度もなかった。そんなことで も有ればむしろ良かったんだ。要するに積年の爆発なんてのは、母さんが断言するように「言い掛か り」に 過ぎない。大人の男なら、不満があれば一度や二度は、はっきり言う。気がつかずに足を踏む といった事が世の中に無いとは思っていないから、指摘されれ ば、分かることは分かる。自信と余裕 のある者なら、節度とユーモアとで、なんとでも抗議の伝えようがある。いきなり「狂う」なんて、 竹司も現在はそう 認めているそうだが、「大人気なかった」「やり過ぎた」のだ。そうと分かったら、 反省を、礼儀と言葉とできちんと示すのが節義だと、両氏に言っておい た。
  それでもなお、竹司のわたしへの不満が、三ヵ条あると甘木氏は指を折って示された。
  1 文学音痴だと言われたと。
  わたしが彼を「音楽音痴」だと言っていれば、わたしの非は明らかだろう。彼の音楽の才などわた しの知るところでないが、わたしには音楽や楽器の知識 は乏しい。もし彼から「お義父さんは音楽音 痴」だと言われても苦笑して認める。その程度の「文学音痴」なら、わたしが言うまでもなく、甘木 さんによれ ば、竹司自身認めていると言うじゃないか。たわいない話ではないか。
  2 日本音痴だと言われたと。
  「音痴」などという物言いはしないが、竹司に、「文学音痴」なみに「日本」についての蓄えの乏し いことは話してれば分かるし、これまた本人も認めて いると甘木さんも言われるのだから、何が不満 なのやら、爆発なの やら、要するに素直に人の話を聴く度量や雅量のないのを暴露しただけではな いか。
  3 わたしの文学を理解できない者は、「身内=親戚」でないと言われたと。
  そういう幼い物言いを、わたしは、決してしない。これは夏生(なつみ)の責任が重い。彼の理解す る「身内」とは、つまり「姻戚」のことであった (と、甘木さんは言われる)。だから「身内でない」 のなら「姻戚関係を絶つ」と言ったまでだと幼稚な短絡の弁明があった。甘木さんはわたしの説明を 聴 き、竹司は完全に「誤解」していたのだと認められた。
  夏生は、明らかにわたしの「身内」の説を知っている。承服するしないは別として、耳にタコほど 聴いたり読んだりしてきた。彼の「誤解」は、夏生なら 簡単に訂正できた筈だ。彼が「それ故」の絶 縁宣言だったと強弁するのなら尚更、夫の誤解を夏生が解いていれば、(甘木さんの弁明をそのまま聴 くかぎ り、)絶縁宣言になど及ばなかった。わたしは、夫婦だから、親子だから、舅と婿だから、即「身 内」であるといった考えを否定する体験から、文学に入って 行った。たとえ妻といえ子といえ無条件 に「身内」ではあり得ないと書いてきた。おまえのいわゆる「魂の色が似ている」のが、それだ。「一 人しか立てぬ (筈の)島に何人もで立つ・立てる」のが「身内」だ、私の文学では。思想では。体験 では。
  甘木さんにその話をした。甘木さんの表情が、途中からまじめに聴く顔に変わって行くと見えた。 明らかに、竹司の「誤解」または理解しようという姿勢 の欠如がさせた「早とちり」であることを、 甘木さんも、また私の作品を通して友人となり親しくなった山根さんも、何の反論も抗弁もなく納得 されていた と思う。
  せっかく三ヵ条挙げられた内村竹司の「積もり積もった不満」とやらも、そんなていたらくで終っ た。他に、何も出てこなかった。舅が「うるさい」と、 たとえ彼が思うことがあっても、それがわた しの「配慮」「善意」「厚意」の言葉であり手紙であったことも、わたしがそう言うより前に甘木さん は、「認 めています」と、それらの言葉を用いて表現されていた。ひとの善意や厚意を汲む度量や雅量。 そこに「大人」の資格があり、竹司は単に「傲慢」に「狭量」 だったんだという指摘にも、絶句され ていた。
  次に、竹司は妻子に対しつねに責任と愛情とをもって処して来たと甘木さんは言われ、これには、 母さんが肯(がえ)んじなかった。
  恋愛結婚ならいざ知らず「見合いの嫁」であるからは、嫁の実家が娘の夫を経済的に大きく支える のは常識だ、しないお前たちは非常識だといった言い分 で、妻の親たちとの姻戚関係を絶つと言って くる、「そんな責任感や愛情があるのでしょうか」と。
  妻が妊娠してつわりのさまを夫に見せる、それだけでも離婚や浮気の理由になると書いて来る、「そ んな妻への愛情や責任があるのでしょうか」と。
  幼い子の着る物まで剥ぎ、祖母の手へ勝手に送り返したり、娘に与えてある父の著書を勝手に送り 返してきたり、(夏生はすぐに手紙で「保管しておい て。処分したりしないで」と頼んできた。)親書 の往来を秘密に破棄したり、「それがどんな妻子への愛情で責任でしょうか」と。
  臨月ちかくまで夜おそく、遠方代々木までの塾講師をさせておいて、山坂の道を日々のおつかいに 出しつづけて、自分は母親や妹からまで「働け。働かな いなら出て行け」とまで言われる有様で、「そ れが何の愛情で責任ある生活態度でしょうか…」等々、それらにも、甘木さんは一言半句もなかった。
  結局出てきた話が、竹司が例の手紙を「撤回」すれば、済ませて貰えるか、だった。
  「非と非礼」とを認め、申し訳なかったと「明記」の上でなら、いいと答えた。「大人気なかった」 「やり過ぎた」と自らも甘木・山根氏には認めていな がら、一言半句の詫びもわたし達にせず、ただ 「撤回」して終りでは済むまい。「狂ってしまった」と夏生(なつみ)も認めていた暴発時計の針は、狂 わせ た当人の手で、先ず正しなさい、「ごめんなさい」と認めて正しなさい、「それが当然です」と言 いました。
  そうあれば即座にあの時点へ戻って、何ごともなかったかのように、以後は普通に戻して貰えるか と問われ、「無論」と返事した。蒸し返すことも書くこ ともないかという話に、蒸し返さない、しかし 作家としてどんな事であれ未来にわたり「書かない約束」は自殺行為だから出来ないと言い、しかし 普通にわ れわれの関係が推移している限り蒸し返す理由はなく、それは約束できると言った。
  一方、竹司が「非と非礼とを詫びる」態度が無いかぎり、ただ内村竹司とというだけでなく、夏生 や孫との一切の交渉も絶つしかないとはっきり告げまし た。
  それでは「夏生さんが可哀相」という声も出たが、奥野を訪れるだけで「離婚」と威(おど)される 今のままではもっと可哀相、かと言って、竹司の無礼 をただ無い話にする気は毛頭なく、夏生の幸福 は、内村竹司の妻として信哉や道哉の母として築くのがなによりだと、わたしも母さんも言った。
  夏生も三十三歳、母さんの場合でいえば、とうに両親はなかった。中途半端に間に挟まって気をつ かう立場を出、能う限りは内村家の人間として幸福に なってほしいと言った。この気持ちに嘘はない。
  およそ、そんな話し合いで別れてきた。山根さんは、ほぼ終始黙っておられました。
  この追伸は、 半ば備忘録として書いた。  平成五年八月七・八日記   父
 

 奥野は、次ぎの山根氏宛ての一通に、痛みを感じながら、いま改めて目を通した。
 山根氏が、奥野に読ませる手紙を、奥野へ直接でなく、先ず甘木氏に送り、奥野より先にそれに目を通した甘木氏が、改めてそれをFAXで奥野の方へ送って きた。なぜ、そんな迂回の必要が山根氏にあったのか。しかも文面は奥野にはおおかた承服できなかった。
 すぐ返事した。
 率直な気持ちを、もう、なりふり構う余裕なく書いた。あくまで「内村方(がた)」の甘木氏の態度は予想どおりだった、が、友人山根さんへのこの一通、忘 れてしまえないなと、今にして奥野はつよく思った。


* 山根信之様。 (平成五年夏)

  甘木様経由の御所感、拝見しました。只今の感想を項目ごとに申し述べます。
  「曲解」「誤解」が、私どもの方にあるやに書かれていますが、山根さんの判断は、内村夫妻の話を 「聴取」しただけで為されています。公正にと言う以 上、内村や夏生がどんな「手紙」で私どもを怒 らせたか、根源の火種のそれらを、なぜ全部「読んでみて」判断しようと言われないか。
  わたしから出した「過去の手紙」のどこが問題か、保存のワープロ・コピーを全てそっくり提供で きると申し出ているのですから、なぜ、その根本のわた しの気持ちを全部知って判断なさらないのか。 その一点でも、山根さんは、故意に奥野に対し公平を欠く印象を免れません。それでどう中正かと、 先ず申し 上げます。
  以下「(内村から山根が=)聴取した結果の突き合わせ」に就て。ご提示の番号によりお答えします。
 「1」 内村最初の手紙に、既に、こう有ります。出産は実家でするもの、もし「特殊事情で世間の 常識を守れないのなら、何らかの代替措置(アパートを 確保するなど)をいち早く提供すべきです。」 嫁いだら成るべく「『嫁いだ先で暮すのが当然だ』とか、およそ世人には訳の分らない、いわば中世の 論理」 を言うなと。
  こういうのを、相談もなく人の懐に手を突っ込むというのでしょう。「不在中は夏生は大泉に帰る、 という合意が(内村=)夫婦では整っていたにもかか わらず、そちら(=奥野)の都合」で出来ない のは理不尽とでも言いたげですが、仰天ものの手前勝手です。「なぜ経済的に援助(定期的に…、=傍 点内 村)しないのか、実に不思議」とも、あります。恥ずかしいことが平気で言えるものですね。
  さらにこう内村は明記しています。
  「世の中には、嫁の実家からマンションの提供を受け、生活費の半分までも援助を得て、まだ(= 傍点奥野)苦情をいう輩がおるそうですが、私は、そう いう『物足りない』人間には怒りを覚えます」 と。だれが読んでも、「嫁の実家からマンションの提供を受け、生活費の半分までも援助」を受けるの は当然 だと、内村は、一番最初からぶちまけているのです。曲解でも何でもない、他にどんな理解が この文面から出来ましょうか。わたしの妻も申しますとおり、内 村の真意は経済支援なのです。「困窮 しています。誰の目にも明らかだ」と内村自身が傍点を打っています。それでいて、どう尋ねても「大丈夫です」と差し 出した手は払い除けておいて、いきなりあの「暴発」です。非常識に、礼も節も欠けています。
 「2」 財産狙いという言葉の好きなのは内村で、それは夏生の手紙に「財産ねらいの女」という「不 当なレッテルを(嫁ぎ先で=)はられてきた私」と ハッキリ書かれています。そういう下品な言葉は、 軽蔑して投げ返したい。「食費として(お姑さんに=)頂いていた3万円は停止になり、重ねて水道光 熱 費を負担するよう言われました」と夏生の九月三日の手紙にあり、「金輪際(相模原に=)一緒に住 んでいたくありません」としたあとで、「家と、月3万の 支援を受けて来たということが、私たち夫婦 をどれほど束縛してきたでしょう」とも書く夏生です。
  金の支援など、親からでさえ受ければ「束縛」になる。山根さんにはお分かりでないかも知れない が、それこそ私どもの、「言葉」は交しても「金」は不 用意に出すものでないという、相手の自由を考 慮した処世観の根拠です。
  夏生は夫の手紙の「劣悪」を認め、「赤裸々」を「恐怖」する男だと夫を認識しています。「生活は 大変かと聞かれて、はい大変です、助けて下さいと一 言言えばすんだものを」と夫に言ったら、内村 は「チアノーゼ」を起こして「そんなことは言えない」と呻(うめ)いたとも有ります。そして約(つづ) ま る所は「思想の差」だと夏生は言います。「私(=夏生)はこれまで彼(=内村)の、どん底での力 を期待して耐えてきましたが、今回のような(内村の=) 不幸な暴発の結果、それを待っていられな い立場とな」って、あげく奥野方の西の家を、竹司も含め,家賃なしで住ませよと言ってきた。
  家の中を見れば分ります、そんな余地はなく、また内村の「暴言」に晒された直後に、誰がそんな 「依頼心」に応じられるでしょう。まして夏生は、「父 上の発案の形で」内村に対し「頭をさげてや  って」くれ、快く迎えてくれ、と、虫のいい無理を言っているのです。
  また夏生は、内村竹司という男の「2つの欠点」を指摘しています。
  「まず、親切の手は相手から第一にさしのべられるべき(=傍点奥野)であり、しかるのちにこち らが返す、という中華思想。また、その親切の度を金額 で換算する、という習慣です。まったく彼の 『計算』は門口でだけ働くのです」と。夏生はよく見ています。
 「3」 親書の秘密を侵したのを「やむをえなかった」は、言い抜けでしょう。内村は、人はみな自 立した人格をもち自由である、『エミール』を読めと、 最初の手紙で生意気な口を叩いています。妻へ の手紙や孫への手紙を隠したり阻んだり、どこに個々の人格を認めているのか。まして親展の内容を ソンタク した内村の見当違いや無礼は、滑稽です。 
  九月七日と十日付けの私から夏生に宛てた手紙をご覧下さい。私に対し「頭をまるめて謝りに来い」 といった言語道断な内村自身のしろものと、読みくら べて欲しいものです。
  また、私から過去に出した「手紙」に傷付いたとか。手書きは少なく、いつもワープロ。その殆ど が保存されています。いつでも、だれにでも、お目にか けます。
  なお、「自分はあくまで内村につく」という夏生の判断は、大切で、そう有るべきでしょう。当然と 思えばこそ、私はすでに夏生へ訣別の手紙も用意して いるのです。内村竹司の、妻子への本当の愛と 責任とを望むばかりです。
 「4」 先日もお話ししましたが、「身内」のことは、私の基本の思想です。理解できないのは内村 の勝手ですが、誤解は、正す気さえあれば結婚して直後 にも、いや婚約中ですら、容易に正せました。 私の作家生活は、内村をご紹介いただくより、遥か以前からです。「なにかと言うと奥野秀樹の婿だと 吹聴し てるみたいよ」と、夏生からわれわれは笑い話に何度も聞かされています。その私の「身内観」 が、「身内」という言葉が、「『辞書的な意味とは違う』と後 (あと)になってから言われても、(奥野の =)弁解にしか(内村に=)聞こえないのは、仕方のないこと」とは、それは今に至っての、子供だ ましの言い 逃れです。一般の通用と違い、「親戚を即ち身内」といった用法こそ、奥野の世界では強く 否定否認されて、読者に届けられてきました。「奥野の身内観」に は、論文も書かれています。暴発す るほど身にこたえるのなら、誰よりも妻に、また仲人の山根さんに、聞けばいい。その上で批判すべ きは批判すればい い。話せばいい。それを不用意な誤解からいきなり「暴発」して「縁を切る」とは 無礼でしょう。
  また、「絶縁」を告げたのが先で、「金銭問題のもつれから私(=内村)の悪態が始まったと(奥野 家が=)考えるのは誤解」とありますが、明らかに、 「姻戚関係を解消」の通告が来たのは九月九日の 三度めの手紙が、最初です。その前の彼の長い手紙は、最初から生活費と住宅とを含む「金銭」支援 を何故 しないかと迫る文面です。「恋愛結婚ならいざ知らず、見合いで結ばれた嫁の、人並みの最低限(=金銭の貢ぎ)もできない実家」という、これを言いたいばか りに彼は「暴発」したのです。
  家内への手紙で内村は、「『なぜ、面と向かって話さないか』と、お尋ねになっておられますね。卑 怯だ、という批判なら甘んじてお受けいたします」と 認めています。
  山根さん、あなたから頂戴したこのファックスに書かれてある内村の弁解にも、この「批判」が、 そっくり適用できます。彼は「卑怯者」です。
 「5」 は、所詮は夏生からの伝聞を言うまでですから、その限りにおいて、妻や私が内村の情けな い日常を親として呆れ危ぶむのは自然なこと、「はやと ちり」でも何でもない。
  要は内村が無策の「窮地」におちこみ、夏生は夫が「どん底での力を期待して耐えてきました」け れど空しかったというのが、夫婦して手紙に書いている 実情というものでした。われわれの不安は、 当たっていたのです。
  先に「縁を切ってきた」のは内村です。反省撤回なく、二年間待って空しく、(内村の弁を借りれば) 縁なき衆生は度し難しです。なぜ二年の間に「素直 に謝罪する気持ちにな」らなかったか。ただ黙っ て、謝罪への道はいつもつけてあったのです。「脅迫されているような状況下では、素直に謝罪する気 持ち にはなれない」と言う内村の言い逃れは「卑怯」そのものです。
 「6」 という番号は見当たらず。
 「7」 夏生をわれわれが手紙で責めていたという形跡を、内村は私どもの「手紙」のどの文面から 言い得たものか、反問したい。夏生への両親の愛情は、 山根さんはよくご存じです。
  「常識がちがう」同士など世の中にはいっぱいいます。一度それを指摘されると、もう、祖母が孫 に買ってあげたものまで突き返すという、それこそ愚な 短絡でしょう。娘に父の著書が与えてある、 それを、人間の自立と自由とを精神的にもっとも貴ぶと言った当人が、どうして妻の意に背いて勝手 に送り返せ るのですか。夏生は即座に手紙をよこし、「保存しておいて。どうか処分はしないで下さい」 と私に頼んで来ています。「絶縁」にしてもそうです。内村は、 夏生からも同じ内容の手紙が行くと書 いていましたが、むろん、そんな手紙は来ていません。内村は「大人気ない」と自認したそうですが、 「苦い思いはあ る」どころか、さっさと謝罪すべきです。

 * さて、そのあとの、山根さん、あなたの文面に触れましょう。
  山根さんの言われる、私どもが頑張ると、「夏生さんや孫たちを失う」ことは、誰より私たち家族が、 「最悪の事態」として、しかも「覚悟」して、腹を 決めていることです。夏生たちを疎外するためで はなく、夏生を板ばさみの辛い状態におくのが可哀相だからです。
  だからと言って内村を、そのまま許して「非礼をうける」ほど、俗悪でグズグズな「大人っ気」は 持ちあわせないのです。打開への「正念場」という認識 は、内村竹司が率先して為すべきでしょう。
  最初に、私どもの「論点の幾つかが、誤解ないし曲解」と、山根さんは書き出されています。で、 その「突き合わせ」を各項目にしてみたわけですが、上 の如く、内村竹司の弁は、彼の「手紙」自体 が、言い逃れ、ないし今になっての苦しい弁解であることをはっきり明かしています。偏見と先入主 でもの申さ れては、迷惑します。
  口さきの水掛け論でなく、私どもが書き、彼等の書いたものが、そっくり手つかずに残っている、 その「当時そのままの」声や言葉を、あなたは先ず公正 に読まれるべきでした。
  今度のは「暴発」と言い条、なかなか内村の本音なのです。本音は「金」なのです。「くれるものは 貰っておけ」の「まだ足りない」なのです。身内の何 のという言いがかりは、子供っぽいトンチンカ ンであって、そんなことで「姻戚解消」と怒るのなら、あれだけ愚劣な何通もの手紙の最後の最後に でなく、 何故、いの一番の最初にそれを持ち出さなかったか。
  要するに「見合い結婚」に、内村は最初から「金銭支給」を期待していたことが、手紙の端々から も真ん中からも明確に指摘できます。それとてお互い業 の深い人間のこと、不思議でもない。
  問題は、そのような、「悪態」と本人も書いている手紙を、よくもシラフで寄越せた内村竹司の未熟 さと、反省の無さでしょう。
  山根さんのお手紙には、ただもう内村に荷担されてなのか、婿内村の「非礼」「暴発」「未熟」(いず れも夏生の手紙が認めています。)を批判するお言 葉が、一条も出ていません。信じられない。ご紹介 者として、また年長の教育者としても、おかしいではありませんか。
  ともあれ、およそのところ、お手紙を拝見した感想を個々に述べました。「まだ小生は緩衝地帯に立 っている方がよい」と仰せのお気持ち、分かります。 「まだ」という所に希望をもちたいものです。
  このあなたのファックスが、甘木様経由(何故じかに私に送られないのか。久しい友ではないです か。)で届いて即座の感想なので、意は尽くさずに、言 葉が走って、激して、ご無礼もあろうやに思い ますが、いまはご容赦ください。
  八月十七日に甘木様とお目にかかります。そのまえに山根さんのフアックスを読んだ、感想を、逐 条、お伝えしておきたく思いました。こんな不十分なご 理解から偏見を言われては困ると、率直に、 感じたまま申し上げます。
  それにしてもご心配のみかけます事、重々申し訳なく存じます。
     平成五年八月十五日       奥野 秀樹


     二○

* 夏生に。 (平成五年八月末)

  追伸の追伸  八月十七日に再度甘木さん(=内村竹司の伯父。親代わり)に会いました。母さん も一緒でした。山根さんは見えなかった。
  甘木さんに対し、内村は、金の話から奥野へ「悪態」をつき始めたのではない、例の「身内」の誤 解から、「そっちがそうなら、こっちから縁を切ってや る」というのが本音だったと主張したそうです。 ところが彼の暴発の手紙には、最初ッから金銭と援助のことだけが書いてある。「姻戚解消」など、(平 成 三年=)九月九日の最後段階に突如出てきたのが事実です。「竹司の弁明は全部崩れてしまう」と甘 木さん、絶句でした。
  奥野へ、「つもり積もった」不満という問題も、なにしろ結婚このかた会った回数が少なく、ロクに 話していず、竹司宛ての手紙など、尋常な挨拶がたっ たの数通。「つもり積もる」素地そのものが稀薄 だった。「積もり」ようがなかった。
  かりに気が合わぬなどといえば、まったくそれはお互い様で、そういう不快ならわたしにも「つも り積もって」いた。それでもバカげた暴発など、しな かった。されても相手にしなかった。喧嘩は売 られたが、終始、買わなかった。そういう経過です。
  結論として、「内村の謝罪」が先ずなされることを求めました。甘木さんも「竹司が謝罪すべきです」 と、言い切っておられた。
  こんなことは早く済ませたほうが、誰より内村のためによかろうという点で甘木さんもわたしたち も意見一致し、早めにまた甘木さんから連絡するとのこ とでした。
  しかし八月も空しく過ぎ行きます。ここへ来て、内村は殿様気分に居直り、夏生の態度も問題をや やこしくしているのではと、案じています。改むるに憚 るなかれと、おまえの夫に忠告すべき機(とき) です。 そのあとでどんな議論も交渉もいとうわたしたちではない。
  内村の暴発が、結局なにを全員にもたらしたか、よく考えなさい。われわれは娘と孫とをうしない、 おまえは父や母をうしなう。信哉も道哉も祖父母や叔 父さんをうしなう。それだけだ。愚かに悲しい 話だ。それでも、その男はおまえの「身内」なのだ、よく前 途を考え、夫婦して正気に戻りなさい。
  この追伸が本当の最期になるのかも。それも宿命かと思いつつ書きました。
  夏の朝日のように輝か しくいてほしい。健康に、心豊かに。
     平成五年八月末日   父


* 夏生に。

  夏生。夏生。  平成五年九月三日です。
  竹司の代弁者である甘木さんは、降りられました。わたしも、それを受入れました。
  甘木さんは降りてしまってから、「後学のため」に、竹司の書いた暴発の手紙を、読んでみたいと言 われる。最初(まえ)に「読んで欲しい」といった時 は横を向かれた。われわれも、夏生の「見せない で」と頼んできた心情を思い、強いては見せようとしなかった。
  肝心要のあれら「手紙」を一通も読みもしないで、それで「公正な和解」の仲立ちなど出来るわけ がなく、山根さんにしても甘木さんにしても、竹司の手 紙には目をつぶったままでした。われわれを 心服させられる道理はないのでした。あげく降りてしまって、「後学のために」とは、呆れる話でした。
  竹司が胸を張って人にみせられる手紙なら、真っ先に「見て下さい」と、伯父さんや仲人さんに自 分から持参していたでしょう。甘木さんも、一番に竹司 に見せよと請求すべきでした。勝手な話です。 竹司のフロッピーでどうぞと、断りました。
  母さんも私も、悲しい。アカの他人ならほっときますが、おまえの夫、信哉らの父なればこそ、こ のままは許さないのです。九月九日まで待ち、竹司次第 でおまえたちと終生別れることになる。寂し いが、もう諦めています。この日あることは、すでに山根さんの態度や、八月六日最初の会談のとき から覚悟し ていました。九月九日まで待ちます。  
    元気で、夏生。
  春生は、心から夏生のことを案じています。わたしは彼の判断を認めるつもりでいます。よほど辛 いことがあれば、弟に言いなさい。彼はおまえの為に細 いパイプ役をつとめてやりたいと言っている。
  夏生、幸せに。信哉、幸せに。道哉、幸せに。元気でと祈ります、父も母も。祖父も祖母も。


* 夏生に。 (母藤子より。平成五年九月)

  夏生。
  この夏はすべてに優先して、あなた達との関係修復に懸命でした。
  いまは、夏生への手紙もこれが最後と思って、書きます。
  お父さんとお母さんは、あなたたち(=内村夫婦)は嘲笑うのでしょうが、その時その時、真剣に 努力してきました。
  両親も兄も亡くなり、その誰よりも長く生きて、私(=藤子)は五十七歳です。自分の人生が「あ ぁこの程度のものか」と見えてしまった気持ちになる時 があります。「たった一度の人生が、これだっ たのか」と。こう書くと何やら否定的に聞こえるでしょうが、ミヨ様(=秀樹養母)程もこれから生 きれば、 まだまだもう一つ人生が有るようなものです。それに、いつもそんなことを思っているわけ でもありません。
  それよりも、いま言いたいのは、そんな思いが頭をかすめる時でさえ、「私は間違っていた」「もっ と別の人生こそが私に相応(ふさわ)しいはずであっ た」などと、臍(ほぞ)を噛む思いはすこしも無い、 という実感です。どう思い返しても、この人生は自分が一所懸命積み上げたもの、だからなのです。
  お墓のことも済ませ、故人の法事も済ませ、菩提寺とのご縁も春生(はるき)にしっかり覚えてもら った今は、奥野家への(嫁の)義理もあらかた果たし たと思うので、ミヨ様とノコ とを見守り、お 父さんと自由に生きようと思っています。
  夏休みになったら小さな子供達が来ると、私もミヨ様も楽しみにしていました。誕生日すぎても来 ないので、「夏休みは八月からなんでしょう」と言い、 九月になった今では、夏生も働いていますから、  と言いわけしてあります。翻訳の仕事を家でしているの。子供が小さいので大変らしいわ、と言って あります。「英語、仏語、独語を、日本語に直す仕事よ」 とそこまで筆談してあげると、ミヨ様は「大 学を出てるもんな」と微笑まれました。「えろう(嫁を里へ=)出したがらん(内村の=)家(うち)な んや な」と日頃言っておいでですから、来ない理由もそれだけで納得されたかどうかは分かりません。
  ミヨ様の可愛いがってられるお人形には、十八ヶ月の乳児服がぴったりなので、目につくと買い、 ミヨ様が僻(ひが)まれるほど、衣装持ちになっていま す。はじめ、人形に服など勿体ない! と叫ん でおられましたが、今は喜んで新しい服でまわりの人にもお披露目をなさる。お人形は、ミヨ様とあ の世まで もご一緒の約束になっています。
  竹司さんの絶縁状には、誰かの葬式には来るようなことが書いてありましたが、仮に誰に万一のこ とがあっても、竹司さんはもとより、誰も、来るには及 びません。知らせもしません。死者は、生者 を煩わすべきでない、とは作家M氏の言葉ですが、そんな意味でもない。竹司さんが言い出した「絶 縁」とは、 そういう事なのですから。
  なぜ、先ず竹司さんは、あんな乱暴な失礼を、潔(いさぎよ)くあやまらないのですか。
  竹司さんの理性を欠いた「暴発」(これはあなたの手紙にある表現なのよ。)の結果として、私たち は、娘と孫とを失わざるを得なかった。お父さん(= 秀樹)は勿論、私も、この結果を、こころから 憎みます。おさまりません。
  相談のテーブルを蹴って、自ら援助の門戸を閉じ、焦(じ)れてまともでない手紙を書き、撤回する どころか絶縁だと宣言し、あげた手紙を読みもせず送 り返し、いよいよ金銭のやりくりがつかず、つ いには福祉に頼ってお産をしなければならなかった。皆、あなた方の不心得がそうしたので、私たち がさせた ので無い事を、よくよくあなた一人にでも思い出して貰いたいのです。
  他人様(ひとさま)にこのトラブルをご理解いただくには、これからは、躊躇無く、まず最初に、竹 司さんや夏生の、例の手紙を見てもらいます。いくら 夏生の頼みでも、そうしない限り分かって貰い にくいと、つくづく甘木様や山根先生とお話しして、思い知りました。内々でと思えばこそ、親がわ りの甘木 様やお仲人の山根先生にお願いした仲立ちでしたが、内々にという壁は甘木さんの手で簡単 にこわされました。やむなく、いまお父さんは、いろんな人脈を手 さぐりに、「動き」だそうとしてい ます。私ももう止める気持ちは失せています。二年間もの私たちの我慢、たやすいものではありませ んでしたからね。当 然の反撃です。
  夏生。あなたもりっぱな大人。パパが悪い、ママが悪い、あげく春生(はるき)が悪いとまで、他人 頼(ひとだの)みの繰りごとは、もう、言わないこ と。
  ママは怒っている、と、身にしみて、気を落ち着けて認識する事です。
  今にして経過報告を兼ねたつもりの前便が、さようならの手紙に相応(ふさわ)しく思えてきました。 信哉の誕生日が近いので、九日までにカードが届い たら、マミーからの最後のお便りよと、渡してや ってください。
  さようなら、愛しています。私たちは最後の最後まで真剣でしたよ。
     一九九三年 九月五日     母


 まだ先は有った。むなしい先であった。


* 夏生に。 (平成五年九月)

  矢は弦を、いま放れる。親はもうこの世に亡いと思って内村との道を行きなさい。
  ゆうべも母さんと、しみじみ話した。この夏休みに入り、なんとか都合をつけて夏生が一度でも大 泉へ来てくれていたら……大きな前進だったろうに、 と。「来ない」おまえに、おまえの意向や意思や 選択を察しえたときに、われわれにも結論が見えたのです。親から自立し、妻に、母に、徹しなさい。 それ が父の最期の訓えです。おまえは「内村竹司の身内」です。板挟みの苦から、両親はおまえの手 を、いま、放してあげる。
  健康でありますように。
   内村夏生殿  さようなら。  平成五年九月九日  父


 もう、どうしようも無いと奥野は決断した。
 とにもかくにも、このように書いてみた。結婚式に列席してもらった一人一人を念頭に書いてみた。

     *

  拝啓 ご高適の御事とお慶び申し上げます。
  日頃ご無沙汰を重ねながら、本日は突如かかるご挨拶をなさねばなりませぬ事を、恥じ入り、また 申し訳なく存じます。まず、御詫び申し上げます。
  昭和六十年六月、私どもの長女は、早稲田大学教授山根信之氏ご夫妻のご紹介とご媒酌により、ま た元総長、現総長ほか多くのご厚意に見守られまして、 故内村遶理事の長男、当時早稲田大学助手で ありました内村竹司と結婚致しました。
  その内村竹司から、二年前でした、一度の話し合いもなく、突然私ども夫婦への罵詈罵倒の手紙数 通とともに、「姻戚関係を今後絶つ」との一方的な絶縁 通知がありました。
  不徳の致すところで何とも申し様なく、そういう態度に応答すること自体恥ずかしくて私からは一 切の返事をせず、内村の反省と謝罪とを、ただ待ちまし た。当時内村は大学への就職決まらず、それ が心理的にわざわいしたやも知れませんが、それにしても妻子あり教育も受けた三十半ばの男子の態 度とは信じ られぬ、無礼で無体なものでした。手紙はすべて保管してありますが、「恋愛結婚ならば知 らず、見合いで結ばれた嫁の実家」から「婿の家庭」へ独立の住宅 をあてがわず、月々の生活費等も 支給せぬ「非常識」を咎め、支援は「察してするのが常識、せぬは非常識」と言い募っての「絶縁」 宣告でした。夫婦して ゼロから出発した私どもの人生観や生活やまた経歴を、侮り毒づき、「学者には 援助が常識」と言い放つ高慢には、虫酸が走りました。
  二年待とう。それが私の、「答えず」の真意でした。二年待ちましたが反省の色なく謝罪もなく、加 えて娘や孫たちとも逢わせない、通信も妨げる、娘が 私かた病祖母の見舞いに行くというのにも、「離 婚」をもって妻を押さえるという、一事が万事の有様が続いています。内村暴発の手紙は二年経てな お見る に堪えず、心なく無残です。
  ここに、二年前九月の内村竹司の「絶縁」通知に初めて応えまして、「無縁の者と処置」する旨、返 答しました。娘や孫をも永く喪う結果となりますが、 妻として子として、娘や孫たちが、内村家で安 穏に幾久しく幸せでありますよう、最期に祈るのみです。
  なお伝え聞くところ内村竹司は茨城教育大学技官を経て、現在、白金女子大学国際学部講師の地位 にある由。娘や孫のためにその良識にめざめた前途を願 いつつ、「許さぬ」の意を伝え、義絶致しまし た。遺憾ながらこの旨ご通知申し上げます。
  心境と状況、お察しくださらば幸いです。
  ご清適を乱し申し訳なく、重ねて深く御詫び申し上げます。 敬具
    平成五年 九月  日             奥野 秀樹

      *

 むろん山根らの他、誰一人にも奥野は送らなかった。ただこう書き置かずにおれなかった。
 憎悪にかられたことは、しばしばだった。生まれて初めて人を心底憎んでいる自身に奥野は寒くなった。熱くもなった。関係のない他人は、くだらない、よせ と言うだろう。他人(ひと)の身の上できけば、自分でも冷淡にそう言うだろうなと奥野は苦笑する。我が身と心とを「憎悪」という怪物の餌食にさしだしてい るわけか。学生に戒めたことを、おれは教授だった間も、教授を退いた今でも、やめない…のか。

 「いいだろうが。生きているということだ。そのために、おまえさん、死期をはやめるかも知れない。分からない。奥野秀樹、悟り澄ます境地にまだ遠いの か、悟ってるから頑張るのか、それもわたしには分からん。執念深くやるのがおまえさんの手法だもの、徹底的にやればいいさ。私怨の文学を創っていいんだ よ、殺気のほとばしるもの、書けよ」
 酒の勢いとも思われない沈んだ声で、駒井次郎は奥野の聞き役をつとめてやりながら、奥野もぎょっとするようなことを言った。
 「夏ちゃんを、おまえ、これで二度棄てたんだ。内村の手へ棄て、もういちど内村の手へ棄てた。そのことだけは忘れるなよ。けしからんと言って いるんじゃ ない。これだけながく人間が地球の上で生きてきたんだ、もっと凄いこたぁいっぱい起きてるさ。夏ちゃんも今はきっとおまえさんたちを恨んでいるだろう、親 に棄てられたと。そんなこと言ゃ、おまえさんも実の親に棄てられ、育ての親を棄て、あげくの物書きじゃないですか。夏ちゃんだって春坊だって、そういうお まえを忘れてしまゃしないと思うよ。忘れないでいて、自分の道を結局見付けるだろう。かりに、よう見付けなくったって、おまえの責任だなんてあの子らも言 わんさ、おれも言わんよ。本人の問題だ。だから夏ちゃんのことは、もう気にするな。西行じゃないが足蹴に庭へ蹴転がした。そりゃ事実だが、だから愛してい ないッてことには、ならんさ。おまえの娘だもの、あの子はやってくよ。分かる者には分かるよ、言わなくても」
 「分からんヤツには、なんぼ言うたかて分からん……か。それが分かっててこんなことしてるんだからナ。おれは」
 「それが凡俗さ。ま、奥野にいた頃とは、段違い…、鍛えられておるよ、あの娘(こ)は」
 「慰めてる気か。諦めちまえって言ってるのか」
 「けしかけてるんだよ。だって燃え切ってないんだろ。はっきり言って復讐したいんだろが。復讐たって、おまえには武器も手練手管も無し、書くしか出来ん 男だもの。それを、そんなの書いちゃいかんとか、みっともないとか、文学の冒涜だとか、下らんことおれは言わんよ。作品に成ってればよし、成ってなきゃ駄 作なんだ。でも、駄作だって書いちゃならんとは思わんよ。書く運命の人間が、理屈つけて、書きたいのに書かんというのは不衛生だから。何だって書ける畑な んだ小説は。恋愛やセックスはいいが、怨恨や復讐心や未練はモチーフにしちゃならん、なんてことは、無いね」
 「蘆花…。久米正雄。谷崎と佐藤春夫も小説でやり合った。志賀直哉と里見トンとにもあった……」
 「残念ながら傑作はない。だけど彼らが本気で作家として生きた証しになっているよ」
 「恥ずかしい話だがね……ま、内村の…いわば進路妨害のようなことさ、講師を助教授にさせないとか、教授にさせないとか。そんなことでやっつけたいなん て、凡俗は、真っ先に考えちまうもんなんだ。おれも、その煩悩から自由になるのはキツかった。これは、だけど最低でね。考えてないよ」
 「ああ最低だ。なにか、…やったのか」
 「やりかけた…。できなかった。書くしか、きみの言うとおり、無いんだ。それも、あいつを失脚させたい目的で書くんじゃ、だめ……。そんなご利益(りや く)を望んで書いちゃいかんのだ。ヤツが、結果、どう出世しようといいんだよ。どうせ仇花(あだばな)でね。しかし、闇に言い置いたもの、言葉で書いて刻 印したものは一人歩きする。そして残る。読まれる。記憶される。噂される。その結果がなにをもたらすかは分からん。ヤツ一人がシャアシャアしてて奥野秀樹 は潰れ、夏生も孫もおれを許すまい。
 仕方がない。後悔すまい。どう、指でほじくり出しかなぐり捨てたくても、決して出来ない言葉で、ただ書き置く…」
 「そうか…。物書きが復讐するのなら、それしかないナ」
 「また『心』の話をするがね。あの先生が、おれはまだ復讐していないと言っていた。はじめて読んだ時、この人にどんな復讐が可能なんだろうと、ちょっと 怪訝(けげん)な気さえしたよ。でも…」
 「遺書を書いた、あの先生は」
 「そうなんだ。あれが彼の復讐だったんだ。書くことで刻印されちまった。単純にゃ遺産を奪った叔父一家の背信を刻印したんだが、じつは、先生の奥さんに たいする、さらにはKにたいする告発と刻印も、あの遺書は実現しちゃってるとも言える。そう思ったとき、ああ、おれにも書くべき『遺書』があると、腹の底 まで響くちからで感じたんだ」
 奥野は、友にそう告げ、盃をほし、そっと下に置いた。駒井はそんな友には気がつかない顔をして、元気に「くさやぁ」と、土間の女将に言いつけた。奥野に はなかなか理解できない駒井次郎の好物が、くさやだ。
 「くさいものに、蓋をするな、ですな」と駒井は唇をとんがらせ、奥野へにやりとした、「おまえさん知らんだろ。ホメロスの英雄オデッセウスという名は サ、怨み・復讐という意味なんだぜ」
 ──アア、えらそうに言いながら、おれは、とうどうRさんにあんなものを送ってしまった。自分の弱さに負けたんだなと、くっと目頭ににじんでくる悔しさ が奥野にあった。

     *

* 大学の数人の先生に宛て。

   たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも

   今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ   窪田空穂

  この「片」一字を空白にして学生に埋めさせますと、意外に難渋するようです。「片思ひ」といえば 男女の恋に限った言葉と思いこんでいまして、空穂の 歌のように、より広く深く根の悲しみに触れる ことが、なかなか出来ません。それでも、ほんの少し手引きしますと、授業後のある学生のメッセー ジに、他 は忘れてしまうかも知れない、が、今日の空穂の歌の「片思ひ」三文字だけは、生涯忘れな いでしょうと書いてあったりします。

   花びらの如き手袋忘れゆき久しくも逢はぬわが幼な孫     出浦やす子

  白風洗秋の日々、心晴れぬまま、胸中の鬼との対話に疲れています。どうか、拙いしかも旧著です が、ただ、お納めくださらば、すこしでも私の心はやす まります。
     平成五年 十月三日

 三年まえ、いきなり、内村竹司の「う」の字もないこんな添え手紙といっしょに、見もしらぬ他大学の作家教授から自著を送ってこられた、白金(しろかね) の学長や学部長や学科主任や大学理事長らは、さぞ怪訝(けげん)に思ったにちがいなかった。
 奥野の思いはたゆたい迷っていた。どう、なにを愬えていいのか、どうして貰いたいのか、算段も思案もなかった。ただもう道を手さぐりしていた。
 その間にも、「もし自分の手紙を公開したなら名誉毀損の罪で告発する」という、六法全書から法文を切り抜いたコピーの添った内村の手紙が、奥野の勤める 大学の教授室宛てに届いていた。
 「そうも威したいほどひどい手紙だと、竹司は、自分で分かってるわけだ。夏生(なつみ)お姉サン、おかわいそうにィ」
 夏生の弟は言葉尻を歌いながら、パチンと指を鳴らした。
 それでも奥野は、書く機会があれば、よそごとの体(てい)にやや韜晦の筆をつかって「学者婿」内村に、三度四度と触れた。尋ねられれば率直に誰にでも話 してきた。そのほうが自然な気持ちになれた。
 さる親しい能楽家の息子の結婚披露宴に招かれたテーブルで、たまたま白金の学長と同席したときにも、奥野の方はやり過ごすつもりだったが、宴たけなわ、 N学長の方から近寄って来られ、何度かの「献本」の隠された「事情」を聞かれてしまった。
 奥野は初めて「内村」の名前をだし、手短かに、だがあけすけに話した。そして自身の失礼を詫びた。
 「できる人と聞いていましたのに。ひどいですね、それは…。(学問で=)やってることと、(人として=)することが、違いすぎる」
 そんなふうに言われた。
 奥野は、その上のなにも望まなかった。まもなく退任し、大学を去る人だと聞いた。気にかけてもらっていたと分かり、話して胸にすこしひまあく心地がし た。それも情けなかった。
 元学長とはその後も能楽堂でときどき顔が合い、声を掛け合ったりした。
 だが…、今度のR氏とは面識もない…。
 肩を落とし、じっと物を思い……、そして遂にかつて手を触れたことのない娘の、奥野夏生(なつみ)の卒業論文草稿を、奥野は書斎の机へ運んで来た。掌 に、冷えたファイルを、そうっと置いた。
 全くの草稿だった。ほぼ清書と見えながらまだ書き入れも直しもあった。コクヨB5判四百字の原稿用紙を、黄土いろ横あきの簡単なファイルに綴じ、百二十 四頁。ファイルの表に題も署名もない。
 奥野の知らないムンクの絵がちいさいカラー写真で貼ってあるだけで、第一頁にもタイトル、目次、署名もなにもない。間違いない夏生の筆跡、全部鉛筆書き で、二行め上へ大きく「第一章 『歴史』への道」と見出しを書き、次行の下に「――壁画概要」と小見出しがしてある。本文は、「一九一六年九月十九日、オ スロ大学の講堂で、壁画の除幕式があった。ノルウェーが世界に誇る、画家エドワルド・ムンク(一八六三〜 一九四四)の作品である。」と書き起こして、改行していた。
 論文というよりエッセイだった。明らかな下書き。自分の思いを確かめ確かめ納得しようとしている文章だった。独り合点でひとかど学問している気で書いた むかしの自分の卒論にくらべれば、夏生はごく素直に、調べながら考えていったことをレポートしていた。力んでいない、むしろ目をとじて独り言をそっと言い つづけている感じだ。夏生の低い声を聴いているように奥野は読みつづけ、いつのまにか泣いていた。おうおうと泣いていた。
 夏生は両親へ、ことに父へメッセージを送っていた、ムンクの大作を動機的に検証して行きながら、ムンクの動機にさも倣うかのように。
 ムンクは、ノルウェー国の客間的存在、ノーベル賞の受賞式なども行われるオスロ大学講堂の正面主壁に、昇る朝日と輝くフィヨルドの『太陽』を、向かって 左に、昔語りする老人の『歴史』を、右には、子らを見守る大いなる慈しみの母『アルマ・マーテル』を描いていた。三大作をとり囲んでなおスケッチ風な薄塗 りの他の八点も描かれているのだそうだ。
 ムンクのまだ幼いうちに母は死んでいた。父と息子エドワルドには諍(いさか)いが絶えなかった。
 乖離(かいり)は、だが「徹底的なものではなかった。」


  ある晩、私は父と、不信心者はどのくらい地獄で苦しむものかを言い合った。私は、神が千年以上 も苦しめるような大罪人はいないだろうと言った。彼ら は千年の千倍も責苦を受けねばならぬと父は 言った。私は譲ろうとしなかった。諍いは、結局私がドアを荒々しく閉めて外へ出ていくことで終っ た。しばら く街を歩きまわった後で怒りは去った。私は家に帰って父に許しを乞おうと思った。彼は もう寝に就いていた。私はそっと寝室のドアをあけた。彼はベットの 上でひざまづいて祈っていた。 それはついぞみたことのない姿であった。私はドアを閉めて自分の部屋へいった。落ち着かない気分 で、眠ることができな かった。私はスケッチブックをとりだして描きはじめた。ベットにひざまづく 父を描いた。サイドテーブルの蝋燭が寝衣の上に淡く黄色い光を投げていた。私 は絵具箱を出して色 をつけた。それはかなりいいスケッチになった。私は充ち足りて横になり、すぐ眠った。

  このエピソードは、ムンクにとって、作画という行為が何であったかを、かなり端的に示している。 第一に、絵を描いている間のムンクは、父と諍ったエ ドワルドではない。画家として第三者の視点を 持つことで、父子の相克を超越し得るということを、彼は学んだのである。第二に、作画は、癇の強 いエドワ ルドの、心悸亢進の有効な対症療法であった。つまり作画を通じて、エドワルドは身心とも に、自己を脱却することができたのである。そこで第三に、彼は自 己の精神生活をドキュメントとし て描くことで、苦悩から解放されることを求めたのである。もちろんこれらのことを、ムンクはまだ はっきりと意識しては いないのであるが……。


 ムンクは画学校に入学した頃から急進的な写実主義の使徒であったクリスチャン・グローブに接近し、その運動グループのクリスチャニア・ボエームに参加す る。基調はアナキズム、敵はキリスト教と道徳と旧法典で、「ボエームの九つの戒律」は反俗精神の「アイロニーに満ちた凝縮」だと夏生は数えあげていた。

  1 汝、汝の生命を書くべし
  2 汝、汝が家とのかかわりを根絶すべし
  3 父母はいかほど虐待すれど、したらぬものなり
  4 汝、五クローネ以下の借金のため、隣人と手をうつなかれ
  5 汝、ビョルソンのごとき、すべての田舎者を憎み、蔑むべし
  6 汝、セルロイドの袖口をまとうなかれ
  7 クリスチャニア劇場にて、醜聞を起こさざることなかれ
  8 汝、悔い改むなかれ
  9 汝、汝が生命を絶つべし

 ムンクは、だが、熱狂的な闘士にはならなかった。守ったのは第一項だけと言ってよく、「自殺は論外であった」と夏生は付記している。第二項にも反し、ム ンクはいつも「食前の祈りとシチュー鍋の待つ」家へと帰っていったし、「父を虐待するということも、彼には成し得なかった」と書いている。ああ、それでも ムンクは……己(おの)が生命を自ら絶った。
 日付は残っていないが、大学四年生の秋、もう提出をまえに清書を始める十一月中の草稿だろう、ちょうど谷崎夫人の奔走で夏生の美術館採用が内定し、夫人 に耳打ちしてもらって浜町「すみ谷」で、奥野夫婦親娘が汗をかきながら世話になった四人の接待にこれ勤めた頃に書き上げられていった。
 直後に奥野の京都の父が入院し、藤子は付き添いの間に心臓をいちだんと弱くした。夏生はだが卒論の仕上げでほとんど母を手伝えなかった。奥野も雑誌「世 界」の連載小説に心を砕いていた――。
 夏生は親へ、内密に「ムンクふうの」いわばラブレターを書いていたようなものだった。ところが、奥野は読まなかった。そんなもの…といった顔でやり過ご した。藤子も読んでいなかった。どの程度の夏生の落胆であったかも知る由なく、かろうじて夏生が封印していった「過去完了」のダンボール箱の中でそれは十 四年半も化石になっていた。夏生は、長い論文を、壁画「太陽」の作者ムンクのためにこんな詩で結んで、だれの詩とも断わっていなかった。

   長い道程を行こうとする
   覚醒(めざめ)たばかりの魂よ
   絶望の淵に立とうとも
   諦(あきらめ)を学ぶな
   日射しにまどろむ者ではなく
   一個の熱い太陽となれ

 奥野は、また泣いた。夏生の「片思い」がつらかった。娘が親を、父を、見捨てたのではなかった。そのまえに「あんたらが、あたしを投げ出したのよ」と夏 生はさぞや思っただろう。いま、あの子は、諦めずに「一個の熱い太陽」となろうともがいているのだろうか…。
 夏生の『ムンク』を、いま現在の仕事にはさむことは出来ないが、「付録」として最後には付け加えたい……と、奥野は考えた。夏生の文章が、父の文章の、 塵労に汗饐(す)えたくさみやいやみを幾分でも洗い去ってくれるのではないか。奥野はそんなことをさえ祈るように、娘の温順な鉛筆の文字に、いつまでも、 見入っていた。


     二一

 またしても窪田空穂のこの歌こそ、繰返し繰返していつも奥野の胸に突き刺さって来る。

  たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも   

  今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ

 何度も何度も奥野は書いてきた。語ってきた。「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍む」も、人間関係に生じてくる感情や言葉を代表して謂うかのように読ん で、よい、と。子の親へのそれと今一首から察してよし、逆にも、もっと広げたいろんな間柄にも言えることだと。 人と人とのどのような心情表現も、どこか で足り過ぎたり足り無さ過ぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生まれる。それもこれも、「皆人として」避けがたい人情の難所だ。
 残念なことに、自分のする「片思ひ」にばかり気が行って、自分が他人(ひと)にさせてきた「片思ひ」には、けろりとしているのも「人、皆」の常であり、 自分も例外ではなかった、歌人空穂はそう嘆いているのだと、奥田は読んだ。例外でなかった中でも最大の悔い・嘆きとして、空穂は亡き「父・母」が、子たる 自分に対してなさっていた「しましし片思ひ」を挙げていた。「今にして知りて悲しむ」と指さし示し、歌人は我が身を恨んでいた、父も、母も、もうこの世に は亡いと。この世におられた頃には、いつもいつも自分は、両親に「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれない か、なんで好きにさせてくれないか。
 しかも同じその時に、「父母がわれに(向かって)しましし」物思いや嘆息や不安の深さには、目もくれなかった…と。かく言う、おれもと、奥野は「今にし て知り」かつ「悲し」かった。夏生(なつみ)にも春生(はるき)にも、妻の藤子にも「片思ひ」させてきたに違いなかった。情けない。

  亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一 

  安んじて父われを責める子を見詰む何故に生みしとやはり言ふのか  前田芳彦

 ありふれた言葉の「片思ひ」も、こう読めば、人間関係を成り立たせるまこと不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であることに気がつく。ここへ 気がついた時、初めて、自分が他者にさせてきた苦痛の「片思ひ」に気がつく。
 奥野のうちで、消え入りたい気持ちが疼(うず)く。いや、ずっと、疼いていた。今も疼くのだ。情けない。

  吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪へがたかりき    土屋文明

 我・人ともに、この「貧」一字は、幾重にも読まねばならぬと奥野は思った。たまたま「好きな歌」を挙げよと新聞社に頼まれ、奥野は空穂の歌を、また引い てみた。

  思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき   清水房雄

「長き苦しみ」を誰もが生きねばならぬと、新聞原稿の文章を結んだ。

 内村竹司に、夏生の夫に、「片思ひ」をさせていて気が付かなかったかどうかを、奥野は何度も考えた。
 察して、頼ませないで、早く黙って金を出してやるのが婿への「粋」な援助だと、内村は奥野夫婦に書いて寄越した。
 嫁がせた娘がつわりになれば、黙って引き取って出産の面倒を見、夫や夫の家に迷惑をかけないのが「嫁の実家」の務めなのに、それしきの「常識」もない、 そんなヤツとは「姻戚」を絶つと言ってきた。
 内村が奥野にしたこれぞ「片思ひ」であり、奥野家は真実至らなかったのか。婿殿を傷つけたのか。
 事情を知ったある人は、「嫉妬」と言って、内村の暴発を解釈した。「何に」と奥野が反問すると、「親娘に」と手短かな返事が返ってきた。金でも地位でも 仕事でも名前でもなく、「親娘に」とその人は言い、ポール・ジェラルディの『トワ・エ・モア』という詩集を貸してくれた、「3 かなしみ」というのを読め よと。松村仁という詩人のいい翻訳だった。
 奥野は読んだ。もう、以前のことだ。


  かなしみ  『トワ・エ・モア』より  松村仁 訳

 おまえには 過去がある
 しあわせにみち 苦しみにみちた
 遠いよろこび 古いなやみ
 大きい過去が
 おまえのその小さな頭いっぱいに
 ぼくにかかわりのない 幻の
 大きいかげり 小さい影がある
 もういちど 話してくれ
 いままでにおまえが百ぺんも話したこと
 ぼくの知らない おまえの思い出
 今夜 おまえの睛の底には 謎がある
 ほんとなんだね おまえが 光のなかで
 長い髪をみだして とびはねてた日があったのは
 言ってくれ ほんとうに
 この写真のとおり
 ここに写ってる あまりきれいじゃない この姿のとおりだったのか
 話してくれ そのころ おまえはなにをしていた
 なにを思い なにをしゃべって
 どんなふうに 暮らしてたのか
 ここにある庭は こんなに広かったのか
 この鉄柵は どっちにあった
 この しようのない小娘が
 ほんとうにおまえなのか
 この流行おくれの帽子が
 まちがいなく おまえのだったのか
 それに この年寄りたちは
 おまえを知ってた人たちなのか
 おまえの初めての旅行
 汽車に初めて乗った旅行
 はじめての森 はじめての海を
 ぼくよりも前に教えてくれたのは
 この人たちだったのか
 手をひき 肩にのせ
 あそこをごらん とおまえに言った
 この人たちは どうして
 その役を ぼくにのこしておいてくれなかったのか
 ぼくはおまえを抱き
 遠くへ行き ふたりの旅路を教えてやりたかったのに
 夜と夏を
 さびしい ながい道程を
 うつくしい村の名を
 ぼくは おまえに教えてやりたかった
 ぼくは それらをよく知ってたはずなのに
 行く先々の 見はるかす地平線
 町や部落で 案内人のぼくは
 少しは誇らしげにできたろうに
 この人たちは ぼくから盗んだものを 知っているのだろうか
 もう 手おくれだ とりかえしはつかない
 それに この人たちは
 ずいぶん 俗っぽく見えるじゃないか
 そう ぼくとおまえは まま しっくりしないことがある
 それはみんな この人たちのせいなのだ
 そうなんだ 休日を口実に
 おまえを あちこちと連れ出し
 ぼくよりも前に おまえの一生に 消えないものをしるしてしまった
 もう 考えまい
 その写真は しまってくれ
 

 この「嫉妬」は、だが「愛」の表現だった。この「ぼく」なら、「おまえ」のつわりをいやがるどころか、出産に立ち会うのも「愛」ゆえの権利だと主張した だろう。妊娠中は実家に帰れ、夫を煩わせるなとは言うまい。なんで親のもとへ行くか、ぼくは愛しているのに。いつも、いつまでも、いっしょにいたいのに。 そう言って恨むだろう。
 内村竹司がこの詩の「ぼく」の嫉妬を、夏生の親たちに対しもっていたのなら、なんと夏生は幸せであったろう。無念なことに、だが内村は『トワ・エ・モ ア』のモア(ぼく)ではなく、あの自己暴露は、どうみても『女の一生』の無残な夫ジュリアンだった。内村はどの手紙でも夏生を「妻」とは、ただ一度も呼ん でいない。実家の金を吸い上げるパイプに過ぎない「嫁」だ「嫁」だと繰り返していた。内村は「嫉妬」した、「親娘」の仲に、という読みは奥野らには、たぶ ん夏生にしても、無理筋だった。
 奥野の家に行くと夏生の写真、夏生と信哉の写真、親や弟と夏生の写真はあるのに、内村のまじった写真は見当たらないと言って不機嫌だった話は聞いた。だ がどんな機会に竹司の写真が撮れただろう、ろくすっぽ彼は奥野らに馴染もうとしなかった。
 ジェラルディの「モア」は、だが、そんなケチな嫉妬のかなしみを歌ってはいない。もっと切ない運命と愛とを歌っている。
 内村竹司が、あれ以来夏生を手放さないでいるのは夫婦愛かもしれない、それならいいが意地と面子(めんつ)かも知れない。奥野はかすかにそれを疑って不 安だった。仲良くやってくれと祈るのも、本心。若い夫婦に、過酷に水をさしているのも事実。矛盾――に、奥野は唸った。藤子といる時にも、ひとり電車など の中ででも、はたの者が顔を見るほど奥野は突如唸った。どうにもならない葛藤に恥じしめられ、苦しい胸の毛玉を吐くに吐けず唸った。R氏が、どうか何も 言ってこないでくれますようにと願った。

 幸い、ものに思い煩っていられない忙しい時がまた来た。創刊して満十年を通過した記念の、私家版全集「塔の本」の第四十六冊めが出来てきた。発送に奥野 は追われた。十年のうちに手順は練られ作業も工夫され、藤子の手を借りなくてもおおかた奥野一人で荷造りができる。藤子は郵便局に連絡し、およそは四、五 日間かけて、荷を集めにきてもらう。読者のカードを整備する。一人の作家だけをやっていていいものを、なんでおれはこんなことをと思わぬこともなかった が、おれにしかできないという幸せも奥野を動かして来た。
 折りもよし、大手の経済新聞が日曜の文化面を広くあてがって、その「作家の出版」について書くよう頼んできた。文化部長直接の電話で、聞けば年来の読者 が「十年」続いたシリーズを売り込んでくれたらしかった。ありがたく奥野は原稿を引きうけた。
「塔」の十年には、奥野夫婦の塵労といわば清福とが凝っていて、もうこれなしに奥野秀樹の生涯が人に印象されることは無いとさえ言えた。
 春生(はるき)が奥付に発行人として名を出していた。夏生(なつみ)は「十年」より以前に奥野家を出ていた。内村はその「十年」を知らない、知ろうとも しなかった。「作者から読者へ、手渡され続けた作品」と奥野はまず大きく書き、題にした。

 どんなに読みたい文学作品でも、書店に行けばきっと買えるわけではない。では版元 の出版社に注文すれば、手に入るのか。版元にも、年々歳々の出版物を 在庫管理できる広い倉庫は、ない。
 文藝書のおおかたの初刷部数は、三、四千部以下でしょうと、大手の出版部長が公の場で発言していたのを聞いたことがある。考えようで、必ずしも少ないと 思わないが、けっして多くはない。そしてこれが、そこそこ売れようとも、ますます売れるということには、残念ながら滅多にならない。増刷するなら千部が限 度だろう。だが、そんな少部数を刷って製本して、元が在るのだから安く上がるはずなどと皮算用されると、とんでもないのである。値上げしたいぐらい、手間 も金もかかる。だから、少々の成績で増刷を作者に希望されると、版元はつらい。造った分がすっかり残って動かないことも、まま、生じる。
 どんなに読みたい本や作品でも、これでは、らくに読者の手に入るわけが無い。版元は売れないと言いわけするが、売れるものだけを売れるにまかせ、他は売 ろうとしない例がじつに多い。悲しいかな、そこにも力不足があるのであって、こうも出版物の多い 時代に、ひとしなみに売ろう努力など払えるものではな い。しかたなく、つまり売れる ものだけをもっと売ろうという仕儀となり、たいていの文学作品には、手も力もまわらない。文庫本でも、むしろ文学作品ほ ど、出たかと思うまに品切れ・絶版の例は、いっぱいある。
 では、どうしようもないのか。文学は売れませんと、こともあろうに売り手に「宣伝」されてしまうと、作者は弱い。自由業とは名乗っているが、なんの、出 版社の、いわば執筆部に非常勤雇いの立場にしかいない不自由業なのだから、よほど世渡り上手でないかぎり、売れませんなぁ、そうですかと引っ込み、愚痴を こぼしているしかない。
 私は、小説やエッセイの単行本を、六、七十種も出版してもらった十数年間のうちに、
 およそこのような出版事情を実地に覚えた。だからといって、読者からの、あの本は、 あの作品はの問い合わせや希望には、なかなか応じられない。だが、 謝っていて済むこ とか。なぜ私が謝るのか。自分の著書が景気よく売れないからか。もともと景気よく売 れなくてもいい創作を、真剣に、丁寧に続けてきた のだ、口が曲がっても売れないのを愚痴になどしたくない。それにしても、十年二十年かけた作品もある。半年一年で消え失せるのでは、作品がかわいそう。読 者も気の毒。私だって実につまらない。
 手は、無いのか。有る、と思った。絶版や品切れ本を、自分の手で簡素に美しく、小 部数でよい、復刊しつづけようと決めた。作者の手から読者の手へ、直 接に手渡すこと の可能な私家版全集を、造る技術なら、幸いむかし編集者の私はもっていた。
 しかし、かりにも小説や批評を書いて食ってきた人間が、大出血して生活を犠牲にそ んな真似をするのでは、情けない。利は、事実まったく生まないけれど も、問題は、造った原価や送料ぐらいは回収できるかどうか、だった。うっすらと血はにじんだ。幸い 作品は、たっぷり在る。質の評価は読者がして下さる。 少なくも一度は出版社が出してくれたものばかりだ。そして、家族のありがたい協力がある。一つ、作品。二つ、技術と体力と根気。三つ、家族の協力。そして その全部を支えて下さる「いい読者」の存在。必要で十分な条件は、これだけだ。
 年に四、五冊。小説で走りはじめ、今はエッセイのシリーズも併走して、都合四十六 冊めを今月も送り出した。一九八六年九月の糸瓜忌に、正岡子規賞作品 『獺祭(だっさい)』で創刊し、きっちり満十年を経過した。口コミだけで、北は稚内(わっかない)から南は石垣島まで全県に、アメリカにも少ないながら、 読者がある。九割五分が継続購読者なので製本部数の読みはらくだし、目的どおり僅かでも在庫分をのこして置ける。あれをと注文が来れば、即日、発送でき る。あっちこっち探し回ってもらう必要は無い。そればかりか、読者と作者との連携は密になり、津々浦々に親類がいるような安心があり、じつはたいへん便宜 もある。電話一本でものが尋ねられる。力も、貸してもらえる。
  むろん、十年間には、読者の出入りがあった。現在の継続読者の何倍もが、いろんな事情で「奥野秀樹・塔の本」の上を渡って行ったし、月日を経てまた購 読を再開する人もある。とにかく読者とは、まごころ当然、しぶとく、ねばりづよく、あたう限り親切第一に友人づきあいを努める気でなければ、ただのミニ出 版社でしかなくなってしまう。私は、出版人として「塔の本」を読者に送りつづけてきたのでは、けっして、ない。いわゆる出版社でしたくても出来ない増刷と 在庫の確保を、作者が肩代わりしてあげながら、現代の「出版」を批評し、また協力しているのである。読みたい本が手に入らないと嘆息されている、とりわけ 東京から遠い地方にその嘆きは深いのだが、そんな「有り難い・いい読者」と倶に、文学と作品とを、分かち持っているのである。倶に「文学」しているのであ る。むろん新刊は変わりなく各出版社から出してもらった。「塔の本」では、絶版と品切れの作品を主に復刊すべく頑張ってきた。新作も少し加えた。版元には 感謝されていいはずだが、叛旗をひるがえす逆賊のように白眼視され、罵声まで浴びた。その一方、有り難い応援も、各方面からびっくりするほど多く戴いてい る。見ようでは、これほど大勢に恵まれ助けられている作者はすくないだろうと思う。
 たしかに「塔」はもう高くならない。不景気の強風に揺れてさえきた。けれど、確実に「建って」はいる。それを喜んでいる。いつかは崩折れようが、読者と 作品のために、今少しでも、もち堪えたい。

     *

 いま発送を終えた小説は、書下ろしの未公表作品だった。例外だった。そんな例外をあえてして、奥野ら夫婦は「十年」の苦労をささやかに自祝した。
 十年――のうちに、いろんなことが、あった。あってあたりまえだが、不思議と思う心地も奥野をとらえていた。
 このシリーズを「創刊」へと思い立ったその日、春生(はるき)は早稲田中学、高校を経て大学の入学式だった。夏生(なつみ)は前年六月に結婚し、つわり に悩んで、信哉を生むために美術館を退職した。あの年、奥野は初の芝居を劇団「湖(うみ)」のために脚色し、上演した。佐倉芳江に導かれた、原作は、漱石 の『心』だった。
 やがて助手年限のきれた内村竹司は、パリに三年の留学を決め、奥野は二度めの新聞小説を書いた。欲しかったシシリー島の資料を夏生は探し当て、向うから 送ってくれた。手紙もよくくれた。奥野の父が死んだ。叔母も死に、母は衰えた。藤子の共倒れをおそれて奥野は老母を施設の介護に委ねた。
 春生は卒業し、就職し、帰国した内村は大学に地位をもとめて、空しい月日が過ぎた。内村家では姑と嫁が、妹と兄が反目しはじめた。夏生は二度めを妊娠 し、そして思いがけなく、婿の内村の頭越しに舅の奥野秀樹の方へ、都内の国立大学から教授就任の要請があった。春生は「名門だよ父さん」と電話のそばで教 えてくれたが、奥野には疎い理工系の大学だった。いっそ興がって、引き受けた。
 内村は家族との軋轢に負け、不運にも焦れ、あげく奥野の方へ「暴発」した。黙殺されるとますます焦れ、金をくれぬ嫁の親とは「姻戚」関係を絶つと言って 寄越した。それすら二年間黙殺され、その間に、内村はやっと地方大学に技官資格で就職した。先に望みの薄い地位だった。次男道哉が生まれたあと、内村は念 願の国立を断念し都内白金の私立大学に講師で迎えられた。前職の技官が邪魔して、すぐ助教授にはなれなかったらしい。
 春生は、勤務の縁で劇作家つたひできと出会い、つた氏の鞭撻を受け、いつ知れず劇作と演出の仕事に希望をもって活動しはじめた。
 奥野と内村のこじれた仲は修復の努力空しく、奥野は握っていた夏生の手を、あえて手放した。
 愛しかった子猫のノコが、十九年間を家族として生き、とうとう藤子の胸に抱かれ奥野にも見守られて死んだ。
 教授の四年半も過ぎ、奥野はことし春、規定の六十歳定年で大学を無事退官した。文学賞の三つ四つに匹敵した、学生諸君との奥野には楽しい、いい道草だっ た。
 夏生のかつての恋人戸川一馬の結婚するという手紙が舞い込んだのは、ついこの六月だった。戸川はやり過ごしたが、今度は佐倉芳江の離婚を、京都で、人に 囁かれて来た。やり過ごそうにも、あまりのことだった。奥野は呆然とした。
 内村は助教授に昇進できたのだろうか、パリ一年の留学にまた八月初めに発った。発ったそうだ…夏生も。孫の二人も。奥野も藤子も夏生や孫に逢いたいが、 諦めは深かった。孫たちの可愛さすらだんだんと忘れかけて、藤子は東南アジアのどことかの国にささやかな名目の養子をもち、レターを書いたり援助の寄付を したりしていた。
 あぁ…そんな「十年」だった。そして、いま、春生(はるき)――春生が、もがいていた。

     *

八月二十九日(木) 曇 暖

* 春生、藤子に電話を寄越す。数日高熱と腹痛に悩んで、日大病院や近くの救急病院へ行ったとい  う。点滴も受けたという。理由は分からないらしい。し かし、また配置転換の噂が出ていて、地方転 勤という説もあり、恩義ある上司が自分のところへ引っ張ってくれるらしいという情報もあり、どっ ちに転んで も芝居がらみで、退社やむなしと悩んでの神経性胃炎ではなかろうか。
  藤子も、先夜、R夫人の電話に出ただけで,直後,強烈に腹痛を起こしている。
* 春生は、私と触れあう前に、先に辞めてしまい、事後報告する気でいるらしい。それは間違ってい ると思う。ことは、甚だ錯綜している。知恵は寄せ合っ たほうが宜しく、いいかげんな見切り発車は 愚かで危うい。立つ対策はすこしでも慎重に立て、賢明に断行した方がいい。
* どうも、まだ、退社したあとの人生苦渋へ想像力が乏しくて、事態の把握よわく表現もよわい。三 十に手の届く大人として、もうすこし現況を立体的・具 体的に憂慮し対策するちからが欲しい。本当 は怯えていて、しかもタカをくくっている。
  春生! ここが右するも左するも、正念場ぞ。


八月三十日(金) 曇 暑

* 春生(はるき)がまた藤子に電話してきた。会社の空気は、もう、にっちもさっちも行かないほどほ ぼドツボと化していて、春生は孤立、身の置き場もな い有様らしい。会社から具体的に何を言われ  ているのでもなさそうだが、白い目の衆人環視のなかにいることに、耐えられないらしい。幾分は被 害妄想も あろう、半ばは事実だろう。来年三月はおろか、今年の「暮れの芝居」に温情の理解を得る ことすら、社からも職場の仲間の寛容からも、限界だ、無理だと春 生は言う。
  泣きごとに類しているが、掌をさすような帰結だとも言える。こうなること「火を見るより明らか だよ」と、口を酢く警告したのに。
  だが、どんな道がありえたか。ひとりで小説を書くのとはちがう、そこが、苦しい。せめて春生は、 会社の仕事でうしろ指さされてはいけなかった。「芝 居」は免罪符どころか、会社や同僚には目障りな のだ。私にも覚えがある。春生に辛抱できても周囲の方が我慢ならないのだ。
* 辞めれば、健康保険、社会保険、市民税などの、明年度また今後の支払いが負担になる。失業保険 の給付資格も面倒な手続きになる。そんなことも頭に無 いのではないか。
* 奥野家に、危険な時代が忍び寄っている。眉に火がついている。春生は、野宿にちかい崩壊または 蹉跌をこのさき体験しかねない。耐える気力・体力・精 神力はあるのだろうか。すでに腹痛に悩 ん でいる。困った。
* 舟島薫の心理にも変化が出かかっている。大学へ戻りたい意向も口にしはじめ、それには一度は親 の家に帰るより仕方ないかと、本人が言うらしい。親に 学資を出してもらって復学し、通学は春生の 部屋からしたいような、「勝手なんだよ」と、春生すら小声で母親に苦笑するようなことも、薫は思っ ているら しい。健康な発想とは言えない。


八月三十一日(土) 曇り小暑

* 何をしていても春生のこの先が気になる。ふっと、気弱く、こんなふうに考える。
* あまり健康とは言えないわれわれ夫婦が、年に*百万円で暮らす気なら、当分は、坐して生活でき る。むろん金融機関に事故があっては困るし、インフレ になったら手に負えない。病気や怪我という 大敵もある。そういう危険要因を読み込まねばならないから、甘い見通しは禁物だが、その上であえ て言うな ら、藤子と二人で暮らして行く未来にと思い用意して来たものを、春生も含めて歩んで行く のだと考えれば、たとえ半減しても私たちが七十までは辿り着ける だろう。努力すれば、原稿を売る ことも、まだ細々とだが可能だろう。よしんば不可能でも、春生の人生が不本意なものになるよりは、 春生が潰れてしまう よりは、いい。
* 世間が、世俗の常識で彼を受け入れなくても、もしも春生に才能と根気とがほんとうに有るなら、 いやいや、たとえ才能が不十分であったにしても、彼は もう「創作的日常」という「毒」を嚥下(のみ くだ)してしまっている。そういう人間は、もうそれを忘れられない。「忘れてしまえ」とは、同じ道 を歩い て来た 私には言いにくい。言えない。
  だが、さて、そんなことを考えて、それは春生の「為」になるのか、本当に為になるのかどうか、 だ。
* 夫婦二人で生きて行く老後だと思って来た。春生もいっしょに三人で生活して行くと思うと、不安 だ。人生は経済だけ、食って寝てだけでは全うできない からだ。だが春生の心身が充実して行くため の援護だと思えば、何とか成るには成る。成ると思っている。失敗覚悟で、それ自体を三人の生き甲 斐と考えれ ばいい。
* たとえば株を買って失敗し、大損するぐらいなら、「春生という株」を買ってやる方がマシだろう。 彼の進みたい先が、金を生む畑でないことは知ってい る。金だけ欲しくて仕事をされても叶わない。 右顧左眄(うこさべん)しないで、地道に努力してくれるなら、勇気ある投資をしてみてもいい。
* 怖いのは、安易な依存心。支えや援助を当然の取り分かのように考え、身を持ち崩してダラケられ ては、共倒れになる。幸か不幸か藝術は、短期決戦で は、ない。だから、難しい、気力の要る戦なの だ。
* もう一つ、この発想には、薫のことが抜いてある。薫はわれわれの娘でなく嫁でもない。舟島家に 属していて、健康にも生活にも問題を背負い、未解決の ままでまるで宙に浮かんでいる。女友達とし てなら黙認しておくが、この緊急事態に、薫まで抱えこむ余裕は、われわれには無い。
* 春生が独身のままで良いとは、思わない。しかし、親の希望は、聴かれれば、有る。春生を助けて、 気力あり、心身ともに健康で気もちよい女性(それが 薫であってもいいのだ、が、)を期待したい。早 く、可愛い孫を藤子にも抱かせてやりたい。
* 現状の薫との同棲を、ずるずる伸ばしに、一緒くたに抱えてやる元気は無い。薫は親の家に帰り、 両親と話し合い、大学生活を続行する生活へ、健康回復 の生活へ、少なくも舟島家の家出人という現状からはっきり脱却した生活へ、戻って行くのが望ましい。春生のこの苦境に、女友達である以上の重荷となって共 倒れしてほしくない。共に溺れてほしくない。現状では、頼れるパートナーですらない。
* お互いに未来の生活に重荷となり合わない、フリーハンドな付き合いに戻って行けるもはや最後の 機会ではないか。結婚を望むのなら、春生には春生なり の、薫には薫なりのもっと堅実な自己批評が、 「家庭」や「家族」への構築的な実感が必要だ。(こういうことを言うのを、内村は「中世的」だと嘲 けるの だが。)春生の現実は、甘い夢を見るにはあまりに厳しい。薫にも分かってもらいたい。なんだ か『椿姫』の父親みたいなことを言うが。
* 必ず言われるだろう、春生(はるき)にしてやれると思うことを、なぜ、夏生(なつみ)にはしてやら なかったか、と。
  はっきりしている。想像するだに、あの内村に金を与えて仲好くしている図など、醜悪だから。夏 生はそのことで、ますます内村家の中で自分を喪失し、 幸せとは真っ逆様なほうへ落ち込むのが見え ていた。内村家と金銭ずくの付合いは御免蒙りたい。娘夏生と、内村夏生は、おなじ夏生ではなかっ た。内村 は、春生ではなかった。


九月一日(日) 曇り暑

* 三時、春生が来た。親子三人で話し合い、結論として春生の退社に賛成した。同じ退社なら、退社 せざるをえない退社より、前向きに踏み込んだ退社にし た方がよく、精神論に過ぎないといえばそれ までだが、安易な蹉跌としてでなく、自己批評を経て、力強く退社してもらいたい。
* 春生の自己資金は、退職金や積立金も含め、せいぜい四百万円ぐらいの皮算用らしい。
 一度の小劇場公演にどうしても百五十万円ほど、かかるそうだ。回収できればまだしも、赤字をだせ ば(五月は、やはり少し赤字が出たという。)あわれな 結果になる。月に二十五万円ほどの生活費と見 ているらしいが、来年も、公演以外に市民税や健康保険など今年なみの支払いが必要だし、現在の家 賃は八万 円。みるみるうちに資金は底を打つ。一年間はなにも考えず、ありぎりの資金で創作や演劇 活動をすると言っているが、先は真っ暗だ。「こわいよ」と、こわ がり春生の本音が出た。
* いざとなれば、担いでやらねばならない。担ぎ方が問題だと思う。卑屈にさせてもならない。せめ て薫が健康な妻であれるぐらいなら、いっそ二人とも担 いでしまって、そのかわり家族の一員として 薫にも尽力してもらうところだが、どうも、薫の本意は、もう春生の生活から浮いて、めくれあがり かけている らしい。苦境を一致協力してやって行くには、精神・気力・体力・生活の自覚のどの点で も、力になる・助けになるというより、負担になる不安の方が大き い。春生にも分かっていると見受 けた。
* 今すぐ、まとまった資金を与えることは、考えていない。藤子も反対だ。それは役に立たない。刀 折れ矢尽きるまでは、会社をやめても…と自ら覚悟した 以上、自分の持ち前で頑張ってもらう。余儀 ないことになれば食うと寝るとの面倒は見る。それだけは安心して、精一杯勉強してもらいたい。偶 然の僥幸で 得た自信など、底の浅いものだ、今が好機と思って本気で、悔いのない勉強をしてほしい。 基盤のない建築は危ない。
* それにしても、面痩(おもや)せて、どことなし、いかにも人生を「こわい」と実感した春生の体躯 や表情に、胸を痛めた。
  私には家庭の支え、藤子や、夏生や春生のいる家庭の支えがあって、安心して仕事に打ちこめた。 碁でいう両眼が出来ていたから、安心して手を前へ前へ だして行けた。それを願って早く自分の家庭 をもった。
  受賞してからでも五年、就職してからだと十五年半、頑張った。無収入でも十年…という用意を調 えてから退職した。私には責任があった。
* 春生の退職は比較にならない危険なものだ。よく自覚し、父の場合の何倍もの努力と勉強とがなけ れば、脱却できまい。心身の健康を大事にと願う。意味 のない慢心は捨て、初心に帰り初心を保って、 努めてほしい。一度、頭をからにした方がいい。日本の野山に、凡山凡水に、ただ目をやり、三、四 日、ぽく ぽくと歩いて来るのもよい。


九月七日(土) 晴 暑

* 昨日、山根信之氏の「塔の本」払い込み票に、夏生らのパリに行ったことが、さりげなく書いてあ った。知らせるでもなく、ごくあたりまえに書いてあっ た。なしくずしにあたりまえのように話題に するとも取れ、困った。そんな気分ではないので、下記の手紙を出しておいた。
   *
  京都から戻りまして、例のご送金を頂戴し、添えられたお便りも拝見しました。また先日は、学生 さんたちとの旅のお便りも頂戴し、有り難うございまし た。京都では、関係しています財団の美術雑 誌で、定例の対談をしてきました。美術の輸送と陳列と撤収を専門にしている会社の社長の、興味深 い話の聞き 役を勤めてきました。哲学者のH氏は現役の美術家と、私が美術周辺のいろんな人材と、 交替で、対談を分担しています。
  これも十年、美術と京都との仕事なので、いくらか便宜もあります。
  東福寺と泉涌寺とをゆっくり歩いて来ました。来迎院にもひっそり立ち寄って。帰りぎわ、木屋町 の「たん熊北店」の座敷で、一人酒と懐石とを楽しん で。新幹線は東京まで寝て帰りました。
  夏生のことは、春生に聞いていました。弟の芝居を、こっそり見に来たということなども。
  正直に申しまして、内村を、いささかも許していません。憎しみが深くなっています。内村自身が きちんと謝罪して来ぬかぎり、夏生や孫たちのことも断 念しています。義絶を貫く気持ちに、いささ かも変更はありません。
  内村が私たちに何をしたか、何をしたまま今日に至っているか、問われれば躊躇なく、問われなく ても知っていて欲しい方々へは、ただの中傷と誤解され ぬよう十分な根拠と材料を添えて、率直に話 しています。「モンテスキューが聞いて呆れますね」と慨嘆された方もおられましたし、失礼ですが、 「山根教 授は、内村の無礼を許しておかれるのですか、なぜきちっと謝罪させないのですか、真実あ なたのお友だちだったのですか」と問い返す方も、何人もありまし た。
  小説としても書き始めています。公職を離れ身軽になったら、先ず手がけたかった仕事でした。
  年齢をつめば、気弱に折れるものと待たれているよし漏れ聞きましたが、不幸は不幸として身に負 い、投げ出さない決意です。『こころ』の「先生」のよ うに「執念深く。
  そんなワケですから、そんな不快なことは上手に棚上げしておいて、山根さんとは昔のように、学 問や趣味や日本のことを、楽しく語り合いたいのが念願 です。今度の新作もご批判いただきたいし、「能 楽スクール」の楽屋話も聞きたいし、べつの作の構想についてお知恵を借りたいこともいろいろ有り、 それ らもまた、風情ある酒の肴になるのではと思っています。お声をかけて下さい。お大事に。     九月六日 夜

      *

 内村との、未清算の過去を未清算のまま、これで一つ、整理をつけたのではないか。奥野はそう思い、しばらくは忘れたかった。忘れて、いたかった――。
 これは、奥野も忘れかけていた――が、彼が彼の本を発送をしていた最中、突然、玄関へ木野道子があらわれた。藤子が玄関をあけ、道子はこれから大学に行 くのでと上がらなかった。土佐の祖父母の家へ行ってきた、その土産を届けてくれた。その前に、四万十川からはるばる電話ももらっていた。名古屋の新聞社に 入社の内定がとれた、「合格しました」という報せだった。
「やったじゃないか」
 奥野らも興奮した。新聞社に、なにのコネもなくて入れるとは、りっぱとしか賞賛の言葉もなかった。道子らは、なにがしか奥野のかげの力があったかのよう に言って感謝してくれていたが、そんな力は奥野にはない。受かるといいなと祈る思いはあったが、名古屋ほどの大新聞では、さ…どうかしらんと、内心、心配 していた。
 それにしても玄関に突っ立った道子の恰好は、ほんとにそれで大学へ行くのかと、奥野が二度も三度も確かめて驚いたほど、簡素というよりも疎略なものだっ た。腰に、ジーンズの短かな切れっ端を裏向けのようにちっちゃく巻いて、上は、袖のあるともないとも分からない白いシャツだけで、履物も突っ掛けのスリッ パなみだった。おそろしいほど華奢にみえた。ほそく捩じたパンが立っているみたいに玄関土間で揺れながら、道子は、だが、はきはきと元気いっぱいだった。
「ミチは、お洒落ね」と藤子にあとで評判され、
「…あれで、お洒落なのかい」と奥野はびっくりした。
「あれ、流行りなのよ」と言われても、まず、奥野の勤めた理系の大学では見ないタチのお洒落だった。
「早稲田じゃのぉ」と呟き呟き、先日、「ミチが新聞社に受かったようだよ」と春生に告げたとき、一瞬息子がまぶしい顔をしたのを、奥野はすこしせつなく思 い出していた。
 あれから、春生とのこれという接触はなかった。舟島薫ともだいぶ会っていない。藤子をちょっと唆してみても、薫ひとりと会うだけに街まで出ていくのは億 劫かして、かと言って電話口に呼び出して話すほどのことは藤子にも無さそうだった。それより藤子は、当面、打ち込むものを持っていた。自分の母の実家で あった紀州田辺出の長谷部家のことを、伯父が、母の兄が、手記にしていた。『長谷部家五代記』と題され、五代前、かなりな網元として田辺を離れ現在潮岬ち かくで網元を起こした人物からはじめて、代々の事跡を書いた精粗まばらな草稿だった。清書本ではなかったが藤子に伯父は預けていた。自分の子らをさしお き、姪に預けた理由は分からない。その伯父も亡くなって年経てしまったが、藤子は、書き消しや直しの多い、あちこちに不十分も齟齬もあるその草稿を、熱心 にワープロに打ち直していた。克明に注をつけ、本文は一字一句そのまま、とにかく読めるものに作っていた。奥野も知恵を貸し手を貸した。
 どうかして秋彼岸までに手作りの一冊一冊にまとめ、長谷部の親類に送ってあげたいと、
藤子は熱中した。そういうことをしてみたい年齢(とし)になっていたのだ、奥野も藤子も還暦を通り越したところだ。藤子には良いことだと奥野は思い、もっ と、いろいろしてみれば良い、体の負担が過ぎない範囲でならばと、あれは、これはと提案さえした。
 山根氏にすこし厳しい手紙をだした翌日に、春生がまた母親に電話をよこした。藤子がいなくて奥野が話を聞いた。奥野の出しておいた手紙に春生はなにも触 れないで、こんなことを父に告げた。
「退社」もよしと親子で話を決めた、あれから間をおかずに春生は、入社いらい親切に面倒を見てもらった、今は直属ではないが何かにつけ相談に乗ってもらっ てきたK部長に、苦境を愬え、退社しようと思うと報告に行った。Kさんはすぐ、この人も春生にいつも親切なS常務に話し、S常務はK部長と三人で飯を食う 機会を作ってくれた。その結果、人事部へ退社の話をしに行くのは「すこし待て」となった。芝居との両立の可能そうな部署を見付けてやれるかも知れない、な んとか口を利いてやろう。「退社」を口にした奴を引き止めたことの一度もない自分たちだが、「ま、ちょっと待て。成るとも保証はしないが、慌てるな」と、 そんなことに「なってるんだよ」と春生は言う。
 助言に従った方がいい。奥野は、ありがたいと思った。春生の為にほんとうに良いことかどうか手短かには決められないが、あとへ備えのない退社が誰の目に も危うく見え、精神論で乗り切れる保証のないのも自明だった。なにより、こういう危機にそう言いそう動いてくれる役員や上司を社内にもっていた春生を、す こし頼もしく感じた。そういうことが万一にもあるかも知れないよと、退社をのっぴきならず公にする前にKさん、Sさんには率直に話しに行くようにと、この 間からも、その前の電話ででも、奥野は春生に勧めていたのだった。
 どう転ぶかは知れないが、胸の温かくなる嬉しい話だった、「よかった…」と奥野は身びいきに繰り返し言い、春生は口だけは、
「拍子抜けだよ」と、幾分本気だろうが、贅沢なことを言った。
 薫の方にも変化が見えていた。舟島の家に帰ってみようと本気で考え出したらしい。
「おれの口から帰れとはけっして言わない。だけど本人がその気になれば、それで良いと思っている。一年は面倒をみなきゃならんかと思ってたけど、回復して きたんだと思うよ。吐かないし、頭痛も起こさないし。大学に戻りたいのも、それには家に戻るのが先決なのも、あいつ、よく分かってるんだ」
 春生の口調には、寂しいは寂しいが、独りになって戯曲を書きたい意欲が透けていた。「それも良いね」と父は相槌を打った。
 また十日ほどして今度は奥野の方から春生に連絡をとった。来月のなかごろ、神戸で女学校のクラス会があるのにぜひ出たいと藤子は、その前か後にいっしょ に旅行をしようと、奥野にせがんでいた。心臓の不調の支えに、要は神戸へついて来てほしいのだ、それならば国民学校以来の友達がペンションをやっている信 州蓼科の秋をさきに満喫してから、木曽路を名古屋へ、そして神戸へ、会場のあるホテルまで前夜に着こうと決めた。手配は、旅行のライセンスをもっている春 生に頼めばお手のもの、翌日にはすっかり用意ができた。
 春生は、社内の秋人事が九月末か十月はじめにあると言う。それまでは、「黙って待っています」と、息子の声音は、親もおどろいたほど穏やかだった。
 やがて奥野の新しい連載が、月二度ずつ、向う一年の予定で始まった。人気の雑誌だ、「季の花」の絵に匂いづけの、エッセイだった。第一回が発売になっ た。次々に「龍胆(りんどう)」「金木犀」「石蕗(つわぶき)」「茶の花」「薮柑子(やぶこうじ)」「枇杷の花」と、年内の題目ももう決まっていた。長 かった夏のなごりに、初回の「夕顔」と次ぎの「萩」とは、奥野から希望した。
      
     *

  久隅守景(くすみもりかげ)という江戸時代の画家に、「夕顔棚納涼」を描いた、涼しい絵があります。 絵は国宝の指定を受けています。半裸の夫婦と幼 い子が、夕顔棚の下で投げ座りに肌に風をいれてい ます。朧ろな月が雨雲をふくんで鈍く光っています。昔の暦なら、初秋七夕のころまでは、所によっ て、 こんな夕涼みの風情に出会えたことでしょう。
  絵をよく見ますと、瓢箪ではありませんが、長瓢箪とでもいいたい瓜の実が夕顔棚に垂れています。 白いはかなげな花も咲いています。やがてしおれて宵 闇に沈んで行くのでしょう、わびたなかに花あ り情けも深い情景です。目にはまださやかとも言えず、それでも、そぞろ秋のけはいが、厳しい残暑 を淡くも 色染めはじめています。長かった夏のなごりに、名もなつかしい夕顔の花をえらびました。
   夕顔のそれは髑髏(どくろ)か鉢たたき
  蕪村の句です。瓢箪にも似て、夕顔の実から、ちょっと見に面長(おもなが)なひさごをつくります。 それを叩いて京の町なかを、「チャッセン、チャッ セン」と茶筅を売りあるいた有髪(うはつ)の坊さん たちがいました。鉢叩きと呼ばれていました。蕪村は、実を干してつくったそれを、夕顔の髑髏かと 諧 謔を弄しています。よほどの思い入れがあったからでしょう、鉢叩きの佳い絵や句を彼はいくつも 残しています。
  実(み)のことはさりながら、夕顔の花は、朝顔や昼顔のようにきっぱりとした輪郭はもっていない ようです。いかにも「たそがれ」の花らしく「誰 (た)そ、彼は」と問うてみたくなる、寂しいなかに 人心地を誘う艶(えん)な風情の白い花です。光源氏は、平安京の五条の辺で、思わずも、そのような  夕顔の花にさも似た女人と知り合いました。源氏物語「夕顔」の巻のお話です。
  「たそかれ」の逢瀬をお互いに名乗りあうことなく愛を深めあった二人は、ある晩、やみがたい光 君の愛欲にひかれまして、いつもの宿から、そう遠くな い、しかし今は人跡(ひとあと)絶えた寂しい 院に、人目を忍んで愛を契ろうとします。ところが夜中(やちゅう)、夕顔に物の怪(け)がとりつき、 光君 必死の介抱もむなしく、夕顔はその腕に抱かれて息絶えてしまいます。
  この辺までは、さすがに源氏物語です、よく知られています。
  ところで作者の紫式部は、夕顔の物語をどう思いついて書いたのでしょうか。ぜんぶ想像だったの でしょうか。紫式部は、意外にあの大作を、同時代の、 また近い過去のいろんな実際の事件からも取 材していた人でした。
  花の夕顔の散ってしまった「なにがしの院」とは、その昔、融(とおる)左大臣といわれた源氏にゆ かりの、河原院だというのが通説ですが、同じ五条で も、もう少し西寄りに千種(ちぐさ)殿という当 時具平(ともひら)親王の邸宅があり、そっちの方が適切かという説を京都の角田文衛先生は立ててお られ ます。この親王は、紫式部の家とは親族にも、また主人筋にも当たっていました。式部もよくよ く勝手知ったお邸でした。
  こんな事件が、この具平親王の身辺に起きていたのです。親王は大顔と呼ばれた女人を途方もなく 愛していました。可愛い男の子まで生まれていました。 ある月の明るい夜、親王は大顔と二人、車で、 北嵯峨の広沢の池のほとりに、当時すでに人寂しくなっていた遍照寺を尋ね、池の面(おも)にうかぶ 千代原 山の秋月に見惚れていたのでしたが、ふと気がつくと、大顔はかき消すように物にさらわれて 姿が無かったのです。
  この怪談はさぞや喧伝されたことでしょう。親王は牛車(ぎっしゃ)の中に大顔の絵を描かせ、忘れ 形見の子といつも同車で悲しみに堪えたそうですが、 紫式部が、大顔失踪の事件を、夕顔と光源氏の 悲恋につくり替えたのは確かだと思われます。

     *

  紅くて佳く白いのも佳い花に、梅がありますが、萩もそうです。女の色香を緑の黒髪と譬えた意味 はさぞ奥行き深いことでしょうが、わたくしは、大雪崩 をうったように折り敷いた盛りの萩むらをみ ていますと、豊かな女髪(おんながみ)のしっとりした色けを感じます。
  萩の寺で知られた、京の常林寺の、萩いっぱいの前庭で、そう口にしました時に、そばにいた人は 黙って頬を染めていました。
  萩は、鹿の臥す宿りとしても知られ、鹿は、妻を呼んで恋を知る生き物です。紅白の花に露しとど、 ひたぶる靡き伏す萩むらに、なまめかしい愛欲のあわ れの感じられるのも無理からぬことです。
   ひたぶるに人を恋ほしみ日の夕べ萩ひとむらに火を放ちゆく (岡野弘彦)
  萩を焼くのは園藝上の必要があってでしょうが、ひとしおの繁殖も願われています。生殖願望とさ え言ってもいいでしょう、昔から色に馴染んだ浮かれ女 (め)の伝説にも萩と露の艶(えん)な風情がよ く織り込まれていました。
  そして小萩といえば、生まれ落ちた子供にしばしば譬えられました。あの光源氏も父帝と祖母との あいだで交わされた歌に、小萩と譬えられているので す。
  萩は一夜豊産の花として風土記の昔から、各地で言い伝えをもっています。咲く時はいっせいに花 をもつからでしょうか、可憐にちいさい紅白の花の一つ 一つに、かけがえない命の宿りを信仰する人 たちが多かったのです。おそらく「お萩」というあの粒々の米に小豆餡をまぶしたお菓子にも、さも 豊かな生命 感を願うきもちが籠もっていたように思われます。
  そうそう、国宝の名蹟に秋萩帖のありますのを、御覧になりましたか。ことに第一紙は伝小野道風 のすばらしい草仮名(そうがな)で、成り立ちにはいろ いろの説もありますが、歌二首があたかも歌合 わせのように左右に番(つが)えてありまして、書はむろん、歌の風情も、なかなかに心知った佳いも ので す。
   秋萩のした葉いろづく今よりぞ独りある人の寝(い)ねがてにする
   鳴きわたる雁の涙や落ちつらむ物思ふ宿の萩のうへの露
  誰の歌とも知れませんが、やはり恋の歌ですね。
  でも、なんと言っても忘れ難い萩の場面は、光源氏の愛してやまなかった紫上が、華やかな六条院 を去り、光君と新婚の頃をすごした二条院にわざわざ帰 りまして、夫と、子として愛育しました明石 中宮とにみとられ、今しも息絶えて行く「御法(みのり)」の巻でしょうか。
  秋八月です。紫上の臥せります部屋の庭は、折しも萩の盛り。
 「置くとみえて風にちる萩の上露のように、はかない自分の命」を、静かに紫上は歌にします。夫の 源氏は思いあまって、「ややもすると消えをあらそうよ うな萩の露ですが、あなたが先とはかぎりませ んよ、この悲しさに私のほうが」と泣きます。中宮も涙にぬれて、こんなふうに歌います。
   秋風にしばしとまらぬ露の世をたれか草葉の上とのみ見む
  萩は「露」とだけいえば、だれにも分かる花でした。露ははかなく散るものとも、また、なまめく 愛の結露とも、打ち重ね、王朝をいろどった風情でし た。紫上の命は、風さそう萩の下葉へ光る露と 落ち、寂しく消えて行きました。
  藤原隆能の源氏物語絵巻にも、この「御法」を描いて、それはみごとな萩の庭が見られます。三人 の歌よみ交わすもののあわれに、思わず、涙ぐまれま す。そんな涙も、やはり萩の命の滴(しづく)か と感じます。萩の花が、ことに好きです。さすが秋の七草の筆頭です。  
   かはい白萩いろにはでねど
   風がさそへばついなびく
   恋のおもには朝つゆ夜露
   なやむ姿もいぢらしや    (中 勘助)

     *

 また二日ほどして藤子が春生(はるき)に電話した。京都の読者から「十年」を祝って、季にさきがけた美しい松茸を、一籠に二十本も盛って送って来た。ぷ うんと、家の中を香りが走った。携帯電話の春生は出先だった。
 「薫さんと食べに来たら」と誘うと、
 「あした家に帰るよ、彼女」という返事、「今もたぶん、(家に)いないと思うよ」と落ち着いていた。翌日遅い時刻にまた母親が電話すると、「ああ帰った よ。大学出たら、マタね…だって」と春生は苦笑いし、「書くには、いいね」とも言い添えた。
 「寂しいんでしょう…、でも、これで良かったと思うわ。やっと、本当に一人で暮らして行くわけよね」
 藤子はそう言い、
 「九月二十一日。半年ね。彼の部屋へとびこんできたの…ちょうど半年前よ」と呟いた、「あたしのこと、お母さんて呼ぶの、ごく自然なの…」舟島薫が夜中 (やちゅう)に…。あの春生の電話の声はまだ耳にあった。
 あぁ…こと繁き半年間だった。しみじみ奥野も頷けた、「十年の…うちだね、これも」
 「夏生(なつみ)…、元気にしてるでしょうか」
 「元気にしてるさ。そして夏生なりになにか考えているよ」
 「元気な声……聴きたいわ」
 「ああ。聴きたい……」
 非常に勢力の強い大型の台風──が、東京湾へ突っこんで来ていた。夜半から豪雨降りしきり、朝には秋の空を響(とよ)もして大風が刻一刻と吹き荒れた。 テラスの植木鉢を藤子といっしょにずぶ濡れで家に入れ、雨戸という雨戸を立て切っておいて、夫婦は到来の松茸をぜいたくにまた焼くと、すこしだけ朝酒を酌 みあった。
 

 * 硯滴――   この作の最後に

 平成八年十月半ば過ぎて、春生は、正式に退社した。暮れの芝居の稽古が、もう始まっていた。
 「よし。やるんだ」
 奥野は自分が会社をやめたように、きっと眼をみひらいて、きつく拳を二つ握った…。 藤子に付き添う体(てい)で、久々にちいさな旅も奥野はしてきた。 蓼科に二泊した。小学校から高校までずっと仲良しだったMが、夫婦親子で経営しているプチホテルで世話になった。Mは、奥野らを自分の運転で、豪華な蓼科 の秋色に身も心も染め上がるほど、いたるところへ連れていってくれた。なかでも御射鹿池(みさかいけ)の清寂に、奥野も藤子もただ佇ち尽くし、涙をこみあ げた。
 帰りには諏訪まで送ってもらい、念願だった神長官屋敷や諏訪大社も奥野は見てきた。Mと別れてからもタクシーで春宮、秋宮に参り、藤子は天を衝く御柱 (おんばしら)におどろき、奥野は、拝殿に、太い縄のうずたかく高くとぐろを巻いて在るのに、じっと眼を剥(む)いてきた。
 あやうく塩尻駅の乗換えに遅れかけたが、ぶじ名古屋を経て、神戸のポートアイランドにできた大きなホテルに、その日のうちに入った。藤子はぐったり疲 れ、晩の食事の途中でひとり部屋に帰って休んだ。
 女学校の同期会は翌土曜日の昼にあり、だが日曜の十月二十日は総選挙の日なので、予定どおり頑張って東京へ帰った。
 その日曜の朝ばやに、奥野らは電話で起こされた。
 母が、死んだ。特別養護老人ホームでいつもどおり朝食の途中、瞬時に絶息したという。最後の最期に残っていた息とひとかけのバナナを吐いて、あとはもう 無いといった静かな大往生であった。かけつけた時は、これ以上はない穏やかな寝顔でとわの眠りに静まりきっていた。
 白雪のように、しみ一つない体を、藤子が清め奥野は修証義を誦(ず)した。明治三十四年五月四日生まれ、享年九十六。
 母とのこととなれば、何冊もの本を書くしかないほどだった。奥野らは、その日のうちに母を家につれて戻り、藤子と交替で投票にも行き、その夜奥野は添い 寝をするように夜をこめて母のそばで、経をよみ、こごえで歌をうたい、話しかけ、眠らなかった――。
 母の死を、夏生(なつみ)に告げなかった。

 師走、春生(はるき)の三度めの芝居は、作も演出も、父や母の贔屓目にはおもしろく観られた。来年三月新宿で、春生は四度め、自主公演としては二度めの 用意にかかっていた。題を聞くと「砂漠」だと言う。
 殺風景だナ、いっそ「サハラ」におしよと笑って父は提案した。
 「ああして…うまくなって行くんだね、やっぱり」
 「そうね」
 頷き頷きあい、奥野と藤子は日曜の楽日(らくび)を観たあとは、人とも別れ、浅草に足をむけた。花屋敷の奥の米久本店ですき焼きを楽しみ、通りがかりに 浅草演芸場に入って二時間の余も笑いころげてから、タクシーで大泉まで帰った。
 奥野らは浅草の仲見世で、かつて、母のために乳児大のそれは可愛い女人形をみつけて買った。それを母は、胸があつくなるほどしんから喜んで、片時も手放 さなかった。死ぬまぎわにも膝にのせていた。母は自分の腹をいためてわが子を生むことの出来なかった人であった。その悔(くや)しさに生涯泣いた人、泣い て奥野を育ててくれた人であった。
 母は人形をほんとうによろこんでくれたのに、どうしてか名前をつけなかった。奥野らに教えないだけかも知れなかった。
 通夜のおり奥野は妻とはかって、笑顔の愛くるしい優しい人形に蓼科みやげの「まゆみ」と名づけ、そして、母とのはるかな旅路へ、添えて見送った。息子の 芝居よりも、すき焼きのうまかったよりも、木久蔵の漫談に大笑いしてきたのよりも、いま、夫婦の車中の思い出は、亡き母や「まゆみ」の上にあった。
 時を運んで自動車は夜の東京を走りつづけていたが、あの蓼科の秋に、いたるところで、まゆみの実の彩(いろ)づいて可愛かったことを、藤子は、また、 そっと口にせずにおれないようだった。
 妻の手に手をかるく置いて、奥野は目をとじていた。姉さん…げんきだろうか。ふっと、それを想った。入れ代わるように夏生の「パパ…ママ…」と呼ぶ声 が、した…と、想った。

                                              ――了――


      下巻の後に

* しづかなる悲哀のごときものあれど われを かかるものの餌食となさず
                               石川不二子
 みずから求めて餌食になろうとし、自虐の自己表現を自意識する人は、少なくない。「われをかかるものの餌食となさず」という決意は強い佳い表現になって いる。
 よく生きるための消費税は「適切に」支払い、払いすぎてはならぬ。難しい。じつに難しい。
* 人を傷つけるのは容易いが、人を励ますのは難しい。秀れた藝道の人ほど深く戒心されているだろう、日本の藝の基本が祝言であり、言忌みであり、衆人皆 楽、壽福増長にあるのだから、当然である。
*「文学」の徒は、では何を大切にしてきただろう。
* 古めかしいかも知れないが、やはり「人間探求」であり、人を励まし楽しますという最終効果は願わしいが、過剰に目的にするのは賛成でない。人を愚かし く傷つける言表はいかにも嗤うべきだが、探求の鋭敏と真摯とが、必然「自・他」を追究し時に傷つけることがあっても、文学表現には不可避のことと考えてい る。それを懼れていては、社交は円満であろうが表現や創造は半端に終わる。文学は祝言藝ではない。文学はしょせん人間を追究・探求の表現藝術であり、その 表現や達成が結果人を励ますモノと成れば最良だろうと思う。文学は妥協の所産であるとき気稟の清質を喪い、人間の闇に光をさしこむことは出来ない。
* では「文学」表現の本質は何だろう。前言を裏切っていないと思いつつ、その話題になると、わたしは、いつもこう口にしてきた、二つの願いを静かに忍び 込ませて。
* 文学は音楽です。文学の根は詩歌ですもの。優れた文体は、音楽です。
  「音楽」と書いて「音学」と書かなかった幸せを感じるとき、
  「文楽」と書かずに「文学」と書いてしまった不幸を思います。
* では「文学」を衝き動かす力とは、何だろう。
* 文学が動き出す基底には、「私」の発奮が在る。恋愛として、欲望として、喜怒哀楽として、憤怒や復讐心として、震央で「私」が刮目し「私」が文学的に 発奮する。噴火し噴出する。
 ホメロスの英雄『オデッセウス』の名は「怨みの子・復讐する者」と謂われている。漱石『心』の「先生」は断乎たる「執念深さ」によって作品を名作にして いる。但し、どうその「私」を殺し得て「私」が生かせるか。それが「文学表現」ということだろう。その意味では<私>小説たらずとも、文学が 書いてきた恋愛はみな、<私>の恋愛であり<私>の憤怒であり<私>の怨恨であり<私>の歓喜にほかな らない。
 <公>や<一般>に喚起されたものも<私>に根を見つけて初めて文学と化して行ける。
* 逢花打花 逢月打月   出典は調べていないが、玉室宗珀の書でみている。「打」一字は「打(だ)し」と訓む。打つ意味でなく、「受け容れる」の意と謂われる。風流の花月、自然の 花月と謂うにとどまらない。極端な場合、花とは生、月とは死でありうる。逆でもいい。美でも醜でも、戦争と平和でも、悪と善とでもありうる。そして「受け 容れる」とは「受け容れない」ことである。だから「受け容れる」のである。花も月も、何処に在るというモノでない。無いモノでもない。「打」とは、颯爽。
* 思いだしている。
 以前、環昌一さんといわれる最高裁判事がおられた。久しい読者であった。お名前すら存じ上げないでいたが、あるときお手紙をくださり、お仕事柄を明かさ れながら、あなたのお作に「人と魂とのかがやき」を愛読していますと書き添えて下さっていた。こういう法律家もおられるのだなと、物静かなお人柄と筆づか いに感銘を覚えた。もう早うに亡くなられた。「死なれた」と思った。「いい読者」たちにたくさん死なれてきた。
*『梁塵秘抄』の人たちはまだしも後世(ごせ)や浄土への想いを抱いていた。
    われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
    今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし

    暁静かに寝覚めして 思へば涙ぞ抑へあへぬ
    はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき
 いまわたしに、こういう「抱き柱」はない。欲しいか。いいや。
* からりと晴れているかと想ったが、そうでもない。天気はふしぎだ。心身の元気に照応し呼応している。天も身内も、おなじ空なんだ。
* バグワンに聴く  『十牛図』講話の訳者に感謝しつつ
 恐怖から、おまえは他人(ひと)に従いつづける
 恐怖から、おまえは<個>になれない
 だから
 もしおまえが本当に<牛=真のお前自身>を探しているのなら
 恐怖を落としなさい
 なぜならその探索は、危険の中を進む
 冒険をしなければならない、そうしたものだからだ
 それを、社会や法や群衆はよく思うまい
 社会や法や群衆はなんとかしておまえを引き戻し
 恐怖を抱いたまま姑息な安全に安住していたいおまえでいさせたがる

 もしそこに恐怖があると
 おまえは,それと遭遇する代わりに
 神に祈る、助けを求める──
 貧しさ
 おまえの内側の貧しさを感じる
 と、おまえはそれに遭遇することよりも
 富を蓄積し続けていって
 自分が内側で貧しいことを忘れられるようにする
 自分が自分自身を知らないことがわかると
 この無知に遭遇することよりも
 おまえは知識を寄せ集め続ける
 知識人と呼ばれたがる
 おうむみたいなものだ
 そして、借りものの知識をくり返し続ける

 みな逃避だ
 もしおまえが本当に自分自身と出会いたかったら
 おまえはどうやって逃避しないかということを学ばなければなるまい
 例えばもし、真実怒りがある──
 それならそれから逃げないこと
 遭遇 encounter
 生は遭遇されなければならない
 それが何であれ目の前に来るものを
 おまえは深ぁく覗き込まなければならない
 なぜなら、その同じ深さが
 おまえの<明知=自己知>となってゆくのだから

 もしそれが怒りなら その怒りの背後に、<牛の足跡>がある
 もしおまえが
 あれこれから恐怖と怠惰とで逃げ出していたら
 おまえは探し求めている<牛の足跡>からも逃げていることになる
* わたしも怖くて逃げ出したいが、バグワンに聴いて、「抱き柱」は抱かない。社会からも法からも群衆からも嫌われ見捨てられるだろう、まちがいなく。だ が、わたしは内なる「牛」を求めている。遭遇したモノは深く覗き込んで、逃げないのである。それが奈落へ誘う闇かも知れなくても。
* 花に逢へば花に打し 月に逢へば月に打す  わたしは上のように、此の花も月も受け容れる。見ようによれば今のわたしは、晩節をけがし汚濁と醜悪にま みれて藻掻いていると見えるだろう。だが、そうだろうか。一人の作家として、人として、それこそが「月」で「花」でないわけがない。
 ウエブに書きおかれた我が日録『闇に言い置く 私語』は、『晩景』とでも題されていいわたしの「今・此処の文学」である。書くな、書くな、書くなという声もある。身辺にもある。わたしを法廷に引きずり 出して躍起になっているそんな者達は、まさに「書かれる」のがイヤなのである。
 なるほど。
 だが、しかし。
 なぜ、なにを、わたしの筆で書かれているのか。それは考えないのか。
 長編小説『逆らひてこそ、父』を書き終えた。本巻は上巻を継いだ下巻であるが、独立して読んでもいただける。『華燭』と、添えて題した理由である。
 この巻で意識して用いたのは、同じ色をさも塗り重ねるように、要点を、あえて繰り返し巻き返して一過性にやすやすと流れ去らせない手法、いわば「やるま いぞ」手法であった。奥野秀樹が「奥野秀樹」という架空の人物に託した創作した「小説」であり、「人間」への興味であり、趣向された「フィクション」であ る。