「e-文藝館=湖(umi)」 論 考

読本(よみほん)には伝奇性が或る意味つきもので、面白いと手を拍たせる工夫がたくさんしてある。論者の選んだ題材も屈指の読本・ 物語の一つ。その主人公墨縄(すみなわ)に関して論策してある。この名前と、「飛騨匠」とある題から、お話世界の見当をつける読者もあるだろう。
お茶の水女子大学国語国文学会『国文』97号2002年7月初出。
論者は、 「mixi」でのマイミクさんお一人
。日本近世文学を専攻し、『雨月物語』から出発し、その後は主に江戸読本を中心に研 究。2005年、お茶の水女子大学博士後期課程単位取得、現在は高等学校で教鞭をとっている。ジェンダー研究や新しい文学論的手法は、「正統派」の近世文 学研究からは外れるため、学生時代は封印していたが、大学を離れ、近年は『日本女性文学事典』や『ジェンダー研究のフロンティア』にも原稿を寄せていると いう。今後も、石川雅望の読本作品と王朝文学あるいは国学研究との関係、ひいては彼を中心とする天明狂歌壇と国学の関わりを解明する必要性を感じている と。 海外での生活体験もあり、歌舞伎をはじめ日本の美しき「も の・こと・ひと」へも情熱を抱いた国文学徒。。
国文学とかぎらず日本の文系論文は、与えられる枚数制限にもせめがれて、概して窮屈に書かれてしまうが、この江戸の読本の話題など、例えばある水準の「聴 衆」に向かい 講演するかのように美しい日本語で書き直してみると、原作のおもしろみとも湊合され、すこぶる読みがいのある面白い論策に変貌するだろうなと思っている。  (編輯者)






   『飛弾匠物語』試論

          墨縄の造形と典拠に関する一考察 ――
 中矢 由花


      
 はじめに

 『飛弾匠物語』は、文化六年(一八〇九年)の刊記を持つ石川雅望による読本である。本作は、中国清代の戯曲家・李漁(李笠翁)作『笠翁十種曲』中の「蜃 中楼伝奇」を利用して書かれたものであると従来考えられており(1)、また、雅望の自序に 「ひだ人のたくみがうへをいひて、かつたけしばのふることをさへとりまじへて、つゞりなしつ」とあるように、『更級日記』の竹芝の一段を利用して書かれた ものであることが知られている。更に、物語前半に描かれる、仇敵の家に産まれた者同士の悲恋の物語は、建部綾足の『西山物語』或は『妹背山女庭訓』の世界 を利用して書かれたという指摘も既にある(2)。つまり、既存の研究では、物語前半は『西 山物語』的世界、物語後半は『更級日記』竹芝の段を利用した世界、そしてそれら全体をまとめあげているのは『笠翁十種曲』の「蜃中楼伝奇」の世界であると 言われてきた。
  さて、『飛弾匠物語』の梗概は以下のとおりである。

  ある時代、飛弾国に墨縄という名匠がいた。
  墨縄は、悪徳郡司らの差し金により桧前松光という匠と技比べをし、圧勝する。感服した松光は墨縄の弟子となる。
  ある日二人は仙境に至り、そこで魯班という仙人と出会い、墨縄は魯班から大工道具を授けられる。また、仙境で禁忌を犯した男女の仙人が人間界に落とされる ところを目撃するが、女の仙人は都の貴人として生まれ、男の仙人は東国の庶民に生まれることとなる。その時仙人が、男女の仙人が再び仙境へ戻る際に必要と なる瓢を男仙に持たせることを忘れたため、墨縄と松光がそれを男仙に届ける役目を請け負う。
  人間界で、墨縄は神技にも等しい妙技で作り上げた「機関(からくり)」を駆使しつつ、「山人」という美男子に生まれ変わった男仙を援助する。山人は紫とい う少女と恋仲になるが、両者の家は仇同士であるためにそれは悲恋に終わり、紫は自害してしまう。
  その後、山人は都で衛士として働くが、そこで、女仙の生まれ変わりであり今は帝の娘となっている女一の宮と出会う。二人は恋に落ち、女一の宮を連れて山人 は東国へ逃亡する。山人は罪に問われかけるものの、今や帝から絶大なる信頼を得て高位に上った墨縄の進言により、二人は武蔵国で幸福に暮らし、後、再び仙 界に戻る。
   墨縄もまた、仙人として仙界に上る。


 これらの内容は、仙界における契が人間界で実現する点、転生後に、仙人であった者の境遇が一転してしまう点、老仙の助力により主人公たちの婚姻が成立す る点などに共通性が見られるとして、『笠翁十種曲』の「蜃中楼伝奇」に拠ると考えられてきた。これについての山口剛氏の指摘をまとめると(3)、 「蜃中楼伝奇」での東華上仙は、『飛弾匠物語』における魯仙と対応し、舜華・瓊蓮が士肩に渡した聘物は、『飛弾匠物語』における瓢に対応している。士肩は ある時は墨縄に対応し、士肩に追随する伯騰は、松光に対応することもある。また、士肩・伯騰は山人として変化させ、舜華・瓊蓮を女一の宮に変えた。舜華と 士肩・瓊蓮と伯騰の仲を裂こうとする赤龍王は、やや形を変えてではあるが、紫の父・船主にうつされたと考えられる。また、東華上仙の、男女を助け、二組の 男女が結ばれるために活躍し、話の進行を握るという役割は、墨縄のそれにうつされているという指摘であった。
 しかし、『飛弾匠物語』の特性のうち最たるものとして考えられるのは、墨縄の作る〈機関〉であるが(4)、 それら〈機関〉に代表される墨縄のエピソードは「蜃中楼伝奇」にはなく、その点で主人公墨縄は「典拠」から逸脱した存在であると言える。また、山口氏らに 言われてきた両作の共通性も、強引の感が否めない。よって、本論は、『飛弾匠物語』における飛騨匠「墨縄」に焦点を絞り、「墨縄」を「飛弾匠の系譜」を視 野に入れた上で捉え直すことを第一の目的とする。その上で、本作の「典拠」に対する一考察を加えることを目的として、論を展開する。
    
 一、絶対者としての墨縄
 
 では、まず『飛弾匠物語』中の墨縄の特性について見ていこう。
 雅望が創作した墨縄の独自性は、ひとえにその絶対性にあると言える。墨縄が絶対的存在として描かれていることは、本作を読むに明らかである。それは、一 つは彼の作る〈機関〉に所以を求めることが出来る。墨縄が作る〈機関〉は、ある時は悪を滅ぼしつつ、物語を導く。そして、その〈機関〉は、生首の実物と見 紛うばかりの女の首や、往還自在の船、自動で動くあじろ車等等、人力を超えたはたらきをするのである。そのように、作中において何ものをも超越し、物語そ のものの進行を担う〈機関〉の創造主たる墨縄は、すなわち物語全体を掌握し、数々のエピソードの上層に位置する存在であると言えよう。
 このような墨縄の絶対性を端的に示すものを次に例示する。
  『飛弾匠物語』巻五「びさもんてん」において、墨縄と百済の絵師との技比べの場面が描かれる。墨縄の評判が高いことを妬んだ百済の絵師は、壁に描いた醜い 死人の絵で脅そうとする。その報復のために墨縄は自分の堂に百済絵師を招き、また死人の木偶で百済の絵師を完敗させる、という場面である。これと同様の話 が『今昔物語集』巻二十四「百済川成飛弾工挑語第五」にあるので、以下それを紹介する(5)
   当時の名匠「飛弾ノ工」と名絵師「百済ノ川成」は好敵手同士であった。あるとき「飛弾ノ工」は川成を自宅に招く。川成が行ってみると、

  〈寛ニ可咲気ナル小サキ堂有リ、四面ニ戸皆開タリ。飛弾ノ工、「彼ノ堂ニ入テ、其内見給ヘ」ト云ヘバ、川成延ニ上テ南ノ戸ヨリ入ラムト 為ルニ、其戸ハタト閉ヅ。驚テ廻テ西ノ戸ヨリ入ル、亦其ノ戸ハタト閉ヌ、亦南ノ戸ハ開ヌ。然レバ北ノ戸ヨリ入ルニハ其戸ハ閉テ、西ノ戸ハ開ヌ。亦東ノ戸ヨ リ入ルニ、其戸ハ閇テ、北ノ戸ハ開ヌ。如此廻々ル数度入ラムト為ルニ、閉開ツ入ル事ヲ不得、侘テ延ヨリ下ヌ。其時ニ飛弾ノ工咲フ事无限リ。〉

という有様であった。 後日、今度は川成が「飛弾ノ工」を自宅に招く。「飛弾ノ工」が家に入ろうとすると、遣戸の所に脹れ膨れた死体が横たわっていた。そして〈臭キ事鼻ニ入様〉 の死体に閉口し、「飛弾ノ匠」は逃げ帰る。しかしこれは、実は川成が障子に描いた死人の絵であった、という内容で、かくのごとく、二人は均衡した実力を持 つ好敵手同士であったことが書かれている。この百済川成と飛弾匠との技比べの様子は、内容はもちろん、字句もほとんど『飛弾匠物語』の「びさもんてん」に 一致している。また、『飛弾匠物語』本文中にも「此百済人を今昔物語に百済川成と記せるはつたへの異なる物なり。又飛弾の匠とのみ、しるして、姓名を記 さゞるは、いかなる故にかいぶかし」と雅望自身がとぼけつつも出典を示していることから、この「百済川成飛弾工挑語第五」をうつしていることは疑いない。 が、ここまで明らかに内容を踏襲しているからこそ、異なる点が明瞭となるのもまた事実である。技比べの内容もその字句もほとんど同一であるため『今昔物語 集』をそのまま踏襲したかのようにも見えるが、実は百済人と飛弾匠との関係や話の内容には、大幅な改変が施されているのである。
  『今昔物語集』では、技比べを仕掛けるのは飛弾匠からであるが、『飛弾匠物語』では墨縄を妬んだ百済の絵師が一方的に墨縄への挑戦を始め、死人の絵を描き 墨縄を脅す。墨縄は「扨は、われをはかりて、其道に、ほこらんとするなりけり。かれも世にしられたる人なり。恥見せんは中々なり」と思い、百済の絵師の絵 を、わざと本物の死体と見て騙されたふりをする。つまり、墨縄の技術は百済の絵師の上位に立ち、また人間性も、目先の勝ち負けに拘らず相手を立てる思慮深 い人物として改変されているのである。また、『今昔物語集』にはない死人の人形も『飛弾匠物語』では墨縄の製作物として登場しており、そして匂いさえする ほどの生々しい出来栄えの死体は、川成の創作品ではなく墨縄の創作であると改変され、墨縄が百済川成をはるかに凌駕する存在として描きなおされているので ある。こうすることで、雅望は墨縄の技能と人間性を、常人を遥に凌ぐものとし、墨縄の絶対性を裏付けたと考えられる。
  いま一つ墨縄の絶対性を示す例を挙げるなら、『飛弾匠物語』巻六「あじろ車」には、

 されば、墨縄が、道に巧なりし事は、千載の末の世にも、かたり伝へいひつたへて、飛弾の匠と称しよびて、宇宙第一の木工なりとは、かたお ひのみどり子まで、聞しらぬ者もなかりけり。

とあり、墨縄は「宇宙第一」の存在として、その絶対性を保証されているのである。


 二、「飛弾匠の系譜」と「墨縄=魯班」という設定

 さて、既に諸氏からの指摘も多いことではあるが、墨縄の造形には、万葉集の時代から脈々と続いてきた「飛弾匠の系譜」とも言うべき諸典拠が挙げられる。 まず、墨縄の命名には『万葉集』巻十一の「かにかくにものは思はず飛騨人の打つ墨縄のただ一筋に」や『日本書紀』「雄略天皇」の記事が用いられている。こ の「飛騨匠」は、古来から和歌などに用いられ、工匠を表す一般名詞的にも用いられている。また、古浄瑠璃『飛騨匠』や『今昔物語集』巻二十四「百済川成飛 弾工挑語第五」では飛弾匠という主人公の活躍や名匠譚が描かれ、そのほか、「飛弾匠」という者が主人公ではないものの、その細工などが共通していたり、飛 弾匠に関する記事が載っているものとして『小野小町行状記』や『和漢乗合船』の「八木岡氏金鶏附五月鶯雁之玉草 四面堂奇画屍附踏牀龍蝿虎子曲」、『狗張 子』巻七「細工の唐船」などがあり、本作『飛弾匠物語』もこれらの系譜の上にあるとも言える。墨縄の設定は「蜃中楼伝奇」の内容と必ずしも一致せず、今述 べた「飛弾匠の系譜」が雅望によって意図的に用いられたことは想像するに難くない。
 しかし、この「飛弾匠の系譜」に、墨縄の造形の全てを担わせるには、いささか無理があるようにも考えられる。これらの系譜を踏襲させるだけでは、先に述 べたような墨縄の絶対性が十分に保証されないことはもちろんだが、日本古典作品の「飛弾匠」の造形それ自体も、そもそも中国文献に典拠があるのではないか とも考えられるからである。つまり「飛弾匠の系譜」は、日本古典だけでなく中国古典をも系統に加えねばならないものだと考えられるのである。
 『飛弾匠物語』では、墨縄を仙界に誘い、物語を予言する存在として魯班という仙人が登場する。この魯班というのは雅望の創作ではなく、魯班についての伝 承は中国文献に多く記されている。『淮南子』の「斉俗訓」には「以木為鳶而之飛」として紹介されており、『論衡』の「儒増」には、魯班の母は魯班が作った 馬車に乗るが、走り出すと帰ってこなかったという話が載っている。『述異記』巻下には魯班が舟を作った話や、木で鶴を作り、その鶴は一度に七百里も飛んだ 話が載っている。また、魯班については『孟子』の「離婁章句」や『朝野僉載』にも記されている。
 『飛弾匠物語』では、巻一「ほうらいの山」において初めて魯班が登場する。木材を取りに山に入った墨縄と松光は、仙境に至り蓬莱宮に誘われるが、ここで 魯班は墨縄にこう自己紹介する。

 「われはから国にひとゝなりて、姓は公輸にて、名は班といふものなり。魯国にて生れたれば、人われを呼で、魯班と称したりき。おのれ人間にある時、工匠のわざを好みて、大きなる物は、殿閣楼台橋梁、さて小なる物は、船車器皿の 類を、つくるに、人其巧をほめて、神と生(ママ)せざる者なかりき。後に塵世をいとひて、高唐雲夢の間に隠れ、終に蓬莱に到て、居をしめたり」(太字引用者)

 この内容は、今見た中国文献にも述べられていることであり、それを雅望が踏襲したと言うことが出来るが、ここで注意したいのは、この魯班が語る、魯班自 らが作ったものについての言及である。魯班は「大なる物は、殿閣楼台橋梁、さて小なる物は、船車器皿の類を、つくるに、人其巧をほめて、神と生せざる者な かりき」と言う。その魯班の製作物は、全て、墨縄が作るものと合致するのである。
 墨縄が本作中で製作する〈機関〉は数多いが、その中の数点を任意に挙げよう。巻五「びさもんてん」において、墨縄は「武楽院の造営」に携わる。

 〈此たびの造営百人の匠等が集りて、一年を経とも、成就こゝろもとなしと、いひあへりしに、墨縄松光が入来てより、三十日を経ずして、此 造営、のこりなく出来て、しかもこまやかなる彫物など、草木鳥獣のかたちまで、生るがごとくつくりなしければ、あらゆる匠どもは、さらなり、匠づかささ へ、見驚きて、「実に凡力にあらず。神仙の下り来給へるなるべし」といひて、ほめあへりけり〉

となる。つまり墨縄は「殿閣」の造営をし、「神と生せ」られているのである。また、巻一「すみなは」で登場する墨縄自身が作った家は、普段は普通の家であ るが〈墨縄ついたちて、なげしめく所にありしくさびを引ぬきて、「さば御覧ぜよ」といふほどに、此家おのづからかみざまにあがりて、地をはなるゝ事一丈あ まりにな〉るという「楼台」なのである。そして同巻一「ほうらい山」で、松光を伴い山に入った墨縄は谷に行き会い、

 〈松光に負はせたるつゝみとりて、ひきとけば、中にくだのやうなる物、いくらともなく入おきたり。それをつぎあはせつれば、階子のやうな るかたちとはなりぬ。墨縄かのはしごやうの物をとりて、むかひの谷へむけてはしの方をなげければ、ひとつのかけはしとはなりけり〉。

 つまり、墨縄式の「橋梁」を作ったのである。また、巻三「うきふね」では〈内にいさゝか機関をまうけ置〉いたという「船」を作り、これは一定の距離を進 むと自動でもとの場所に戻る仕掛けがついているため、舟に乗ったまま川に流された少女紫が無事帰還し、人々は〈墨縄ぬしの機関のたくみによれりとて、いよ /\たふとみ仰〉ぐという結果をもたらす。
 巻五「あじろ車」では、無事人間界でも夫婦となれた山人と女一の宮への引き出物として〈夫婦の人をのせ奉らば、牛をかけずして、此車おのれとうごきめ ぐ〉るという「車」を贈っているし、巻一「すみなは」では、悪徳郡司を懲らしめるために〈酒をいるれば、盃おのれと、さかさまにかへりぬ。力を手にいれ て、いかでかたむけじと、かまふれど、大力の人の来てひきかなぐるやうなる心地せられて、いくたびもさかさまにうちかへ〉る盃、すなわち「器皿」を作って いるのである。つまり魯班が人間界にいた時に製作した数々の物は、全て墨縄の製作物でもあり、墨縄は魯班の功績を踏襲したと言えるのである。そして魯仙 を、皆「人其巧をほめて」、「神と生せざる者なかりき」ということであるが、墨縄も、何か機関を作るたびに、全ての機関披露において〈まことに凡人にはあ らざりけり〉(巻一「すみなは」)、〈人々もあツと感じてふしをがみつ〉(巻二「ひろをか」)、〈今にはじめぬ墨縄が機巧のほどを、人々は「あゝ」と感ず るばかりなり〉(巻四「よめの君」)などと、賞賛され、「凡人」ではないと称えられているのである。
  また、他にも墨縄が作った機関には、中国故事にある魯班の伝承と合致するものがある。中国文献に登場する魯仙は、舟や木鶴、一度駆け出すと止まらない 馬車などを作っており、それらは全て墨縄が作ったものと一致する(魯仙の作った馬車は、墨縄の場合は、松光を乗せて走り止まらなくなる「木馬」である が)。また、先に見たように、魯仙は『淮南子』によると「以木為鳶而之飛」と、木で鳶を作って飛ばしている。これも墨縄は巻二「ひろをか」で作っているも のである。
 そして墨縄は、巻五「あじろ車」では、最終的に魯班仙人が「墨縄が手をとりて、雲居高くぞのぼり行ける」となり、蓬莱に行って仙人となったことが示され ている。これも、「終に蓬莱に到て、居をしめたり」という魯班と共通しているのである。
 こうして見ると、『飛弾匠物語』において墨縄は魯班の人物像と大いに重なり、墨縄イコール魯班である、とも言い換えられるように思う。そう考えると、先 に見た墨縄の絶対性もより補強され、かつ、納得し易くなるだろう。なぜ墨縄がかくまで絶対性を付与されているのか。それは、墨縄は凡人ではなく、仙人だか らである。仙界の男女(山人と女一の宮)を援助するためにしばし人間界にいるものの、いずれは〈雲居高くぞのぼり行〉き仙界に戻る、〈宇宙第一の木工〉だ からである、と。

 
 三、『広益俗説弁』との類似と馬琴の言及に関する考察
 
 さて、このように墨縄イコール魯班である、ということを今述べたわけであるが、この考えは、雅望の創作であるとも言い切れない。先に「飛騨匠の系譜」と いうものを述べたが、その中でも注目に値するのは佐藤深雪氏によって提示された(6)『広 益俗説弁』(正徳五年《一七一五年》刊)である。これも、「飛騨匠の系譜」の一つとして挙げられる文献であるが、その「飛騨内匠が説」を引用する(7)。 (太字引用者)

  《前略》今按るに、往昔飛騨内匠といふ者一人ありと思ふは、甚だ 誤なり。『職原抄大全』云、木工寮大工之所作、皆掌之。古飛騨国多大工、参京都。木工頭奉行曰之飛騨工也。『日本書紀』云、延暦十五年十一 月己酉、令天下捜捕諸国逃亡飛騨工等。『異称日本伝』云、飛騨国多匠民。巧造宮殿・寺院。迄今称飛騨工。

とあり、また、補足として、

  『今昔物語』云、昔画師百済朝臣治成(『画家伝』 云、治成本姓余。後改百済)、与飛騨工争芸〔然れども、其ころの飛騨国の工にて、名は見えず。『今昔物語』に載ところ、甚だながし。 《略》〕『太平広記』云、韓志和者倭国人也。中国為飛竜衛士〔これ、日本の飛騨の工の類をいふと〕。『万葉集』歌に、とにかくにものは思はずひだ人のうつすみなはのたゞ一すぢに〔『夫 木集』には此歌を人丸の歌とし、ひだ人をひだたくみとあり〕。同集歌、ひだ人の真木ながすてふ爾布の川ことばかよへど船ぞかよはぬ。

と加えている。これらはみな、先にも述べた「飛騨匠の系譜」として言われているものであり、その意味で、古典文献中、この『広益俗説弁』が「飛弾匠の系 譜」をまとめ上げたものと言えるだろう。さて、ここまでなら、日本古典にある「飛騨匠」という流れをまとめたものに過ぎないのだが、注目すべきはこのあと の記述にある。

  《前略》余按るに、右の俗説(引用者注:飛弾匠が木鳶に乗って唐に渡ろうとした際に矢に射られかけたが、それは木鳶の片羽を射、その羽 が落ちた土地を「羽形」のちの「博多」と名付けたとする俗説)は、もろこしの魯般が 事と、我朝の仏工春日が事を取あはせたるものにや。『祖庭事苑』に、魯般はいにしへの般輸子也。心匠はなはだたくみなり。『朝野僉載』云、 魯般は粛州燬煌の人、年代を詳にすることなし。たくみ、造化にひとし〔魯般が事、詳に『呂子春秋』に見えたり。ながき故に略之〕。凉州にをいて浮図を造る に、木鳶をつくり、楔をうつこと三下してこれに乗、無何に帰る〔無何 は魯般が家〕。《中略》思ふに、是等の説をとりあはせ作りしものならん。

という記述である。つまり、日本に伝わる飛騨匠の系譜のうち、中国の伝承が加味されたものがあるという指摘がなされているのである。
雅望が『飛弾匠物語』において描いた墨縄(=飛弾匠)イコール魯班という設定は、この『広益俗説弁』に既に記載されていたのである。
 『飛弾匠物語』と『広益俗説弁』との共通点はそれだけではない。
 『飛弾匠物語』冒頭部において、「飛弾匠」に関する考証が述べられており〈斐ダの匠とは人ひとりの名にはあらず〉という一文から本作は始まるのである が、『広益俗説弁』においても飛弾匠に関する考証の開始として「往昔飛騨匠といふ者一人ありと思ふは、甚だ誤なり」と述べられており、両者は一致してい る。また、『今昔物語集』の百済川成の話や中国文献中の魯般(班に同じ)の話、そして『万葉集』の歌を引くのも共通している。更に言うならば、先の引用部 の後に続く『広益俗説弁』が引く『大和鑑』の仏工稽文会の話も、『飛弾匠物語』に摂取されていると考えられなくもない。
 巻四「よめの君」において、山人の家とは仇敵である芦屋船主の養子で、少女紫の義兄である棹丸が、実は幼い時に養子に出された山人の兄「てつくり丸」で あったと判明する。その契機は、今は亡き、棹丸と山人の父が色紙に歌を書き、その下の句部分を棹丸(かつてのてつくり丸)に持たせており、それを山人の家 に残されていた上の句部分と照会することによる。これは、『広益俗説弁』にある「稽文会」と、彼を尋ねて来た息子「稽主勲」とが仏の半身を作りあい、それ がぴったり合うことによって実の父子であることを確認するという話に似通っている。また、山人・棹丸の母が、棹丸を養子に出した理由を、自分が本妻ではな く妾であったからだとすることも、『広益俗説弁』の稽文会が「在唐の間、妾あり」という一文に合致している。これら棹丸が山人の母の実子であると判明する 場面や、山人の母が妾であったというエピソードは、これまで典拠とされていた『笠翁十種曲』の「蜃中楼伝奇」にはない部分の一つであった。
 こうして見ると、本作が「蜃中楼伝奇」とは異なる話や構成を持つことがより鮮明になってくるだろう。先に、山口剛氏によって指摘された『飛弾匠物語』の 典拠が「蜃中楼伝奇」であることの根拠、つまり仙人の登場と、登場人物たちの移し変えについてを述べたが、それらはみな、「典拠」と呼ぶには根拠が薄く、 関係性に乏しいものである。雅望は『飛弾匠物語』の前年に『近江県物語』を刊行しているが、それは、内容・字句の一致共に『笠翁十種曲』の摂取が明らかで あった。それに比べると、『飛弾匠物語』と『笠翁十種曲』との関連は希薄なものであると言わざるを得ない。
 しかし、にも拘わらず、これまで「蜃中楼伝奇」が『飛弾匠物語』の典拠であるという説が異を唱えられることはなかった。それはおそらく、雅望の同時代作 家にして、文学史上に及ぼす影響の強い、曲亭馬琴の言及があったからであろう。
  『飛騨匠物語』が『笠翁十種曲』から構想を得ているということは、曲亭馬琴によって早くから指摘されていた。馬琴は、『本朝水滸伝を読む并批評』(天保四 年成立)の中で「近ごろ六樹園が著したる飛弾匠物語は、笠翁伝奇十種曲の中より趣向を取り出て、文は宇治拾遺物語にならひて綴りたれど、文のうへをいふも のなく、趣向の出処を知るもの稀なるべし」と述べている(8)。この言及を踏襲し、諸研究 者は『飛弾匠物語』の典拠に『笠翁十種曲』を求めたのではないだろうか。
  しかし馬琴は、この文中において『笠翁十種曲』のうちどの話が『飛弾匠物語』の典拠であるかは指摘せず、よって十話のうちでは最も『飛弾匠物語』との共通 性が高いものを、「典拠」として後世の研究者が「蜃中楼伝奇」を採用した。逆に言うなら、馬琴によって『飛弾匠物語』の典拠らしきものが先に指摘されてし まったが故に、その言及に符号する「典拠」を、諸研究者は『笠翁十種曲』から探し出さざるを得なかったということである。しかし今、馬琴の言及の信憑性を 疑ってみる必要があるだろう。
  『飛弾匠物語』が『笠翁十種曲』から構想を得たと指摘した馬琴であるが、『飛弾匠物語』よりもはるかに『笠翁十種曲』の影響が強いはずの『近江県物語』に 関しては触れていない。また、馬琴は『飛弾匠物語』が『宇治拾遺物語』に倣って綴られたとするが、それも『近江県物語』において顕著に見られる特質なので ある(9)。とすると、馬琴は『飛弾匠物語』ではなく『近江県物語』についてここで指摘し たと考えられるのではないだろうか。『近江県物語』は『飛弾匠物語』刊行の前年である文化五年に刊行されており、その年代から見ても馬琴がこの二作を混同 したと考える余地は十分にあるだろう。また、『本朝水滸伝を読む并批評』では、雅望(六樹園)の作として『飛弾匠物語』『都の手ぶり』『吉原十二時』に触 れているが、これらと同時期に出た『近江県物語』に触れていないのはやや不自然である。しかも、馬琴は『本朝水滸伝』についての言及の中で「源氏物語の女 三の宮の、から猫の換骨奪胎ともいふべし」と述べているのだが、「から猫」もふくめて『源氏物語』の影響は『飛弾匠物語』に見られる特徴の中でも特筆すべ きものであるのに(10)、馬琴はなぜかそれには触れていない。『本朝水滸伝』の中に「か ら猫」の影響を見るだけの素地があるなら、当然『飛弾匠物語』から「から猫」など『源氏物語』の影も見出せたはずであるのに。ということは、やはり馬琴は 『飛弾匠物語』と『近江県物語』を混同し、内容的には『近江県物語』を指しつつも、それを『飛弾匠物語』と呼んでしまったのではないだろうか。そして馬琴 の混同を正確な記述だと信じ、その言及に力技で合致させた「典拠」として「蜃中楼伝奇」が見出され、典拠としての位置を付与されてしまったのではないだろ うか。
  もちろん、『近江県物語』に『笠翁十種曲』が採用されていることからも雅望がこの『笠翁十種曲』を読んでいたことは間違いないし、だとすればそのイメージ が雅望の中に残っていたと考えるのはむしろ当然であろう。しかし、それは果たして「典拠」と呼べるほどの強固な意図のもとに採用されたとは言えないと、論 者は考える。
  本作は山人と紫・山人と女一の宮を中心に展開される二つのまとまりと、それらを統括する墨縄の活躍を軸として展開されていることは先に述べた。その山人と 紫の関係は『西山物語』に由来を求められ、山人と女一の宮とのエピソードは『更級日記』のうつしである。そして墨縄の絶対性や魯班との同一視は『広益俗説 弁』との対応が強いということも今見たとおりである。
  つまり、主人公と仙人との関係をわざわざ中国典拠に求めるまでもなく、既に日本古典に(飛弾)匠と中国の仙人である魯班とを同一視する考えが存在したので ある。そう考えると、「蜃中楼伝奇」の登場人物のある一人を『飛弾匠物語』では墨縄に、そして山人に、またある時は松光に移し変えた、等等の強引な解釈を 加える必要性はないのではなかろうか。『飛弾匠物語』の典拠として「蜃中楼伝奇」に執着する必要性はほとんどないのである。

 
 まとめ

 従来典拠として指摘されてきた「蜃中楼伝奇」から、本作『飛弾匠物語』の主人公墨縄が逸脱した存在であることを、彼の絶対性を証明した上で確認した。そ して墨縄の絶対性は仙人である魯班と同一視されることで補強された。また、その「墨縄(飛弾匠)イコール魯班」という公式は日本古典に既にあり、その「飛 弾匠の系譜」の最たるものとして『広益俗説弁』を挙げ、それこそが『飛弾匠物語』との多くの共通点を持つ「典拠」とも考えられること、あるいは、少なくと も『広益俗説弁』が書かれた正徳五年には既に雅望と同じく飛弾匠イコール魯班と見る説もあったことを確認できると述べた。また、古く『笠翁十種曲』を本作 の典拠として指摘した馬琴の言及は、『近江県物語』との混同と見ることができると考えた。
 これらの考察から、本来『飛弾匠物語』とは関連の薄いはずである『笠翁十種曲』の「蜃中楼伝奇」を、多少の関係は認めつつも、「典拠」として 扱わず、むしろ日本古典の影響の強さを本作『飛弾匠物語』の上に見ることを提案し、本論のまとめとしたい。


 1 日本名著全集第一期・江戸文藝之部第十三巻『読本集』山口剛解題 昭和二年五月四日 日本名著全集刊行会
 2 叢書江戸文庫28『石川雅望集』(校訂者 稲田篤信 一九九三年 国書刊行会)解題
 3 前掲1
 4 この「機関」がもつ意味については、松田修「石川雅望の復権」(『展望』191号 昭和四十九年十一月)や稲田篤信「『飛弾匠物語』論 機関と正 義」(『江戸小説の世界』所収 一九九一年九月二十日 ぺりかん社)などにより考察されてきた。
 5 引用は日本古典文学大系25『今昔物語集 四』(校注者 山田孝雄・山田忠雄・山田英雄・山田俊雄 昭和三十七年三月五日 岩波書店)による
 6 「『飛弾匠物語』典拠私考」佐藤深雪 『日本文学』26‐10 一九七七年十月
 7 引用は東洋文庫503『広益俗説弁』(校訂者・白石良夫 一九八九年 平凡社)による
 8 滝沢馬琴「本朝水滸伝を読む并批評」 『曲亭遺稿』(曲亭馬琴 一九一一年 国書刊行会)所収
 9 『近江県物語』では、「袴垂」や「僧迦多」などの『宇治拾遺物語』から摂取したと考えられる人物設定や物語内容がしばしば見られる。
10 『源氏物語』の影響については、特筆すべき点が多々あるが、それに関しては後日稿を改めたい。


 なお、『飛弾匠物語』本文の引用は全て叢書江戸文庫28『石川雅望集』(校訂者 稲田篤信 一九九三年 国書刊行会)に拠った。また、論 中の「ひだ」「ひだのたくみ」の表記は、引用文中はそれにしたがったが、それ以外は『飛弾匠物語』に従い「飛弾」「飛弾匠」に統一した。