樹林帯を抜けた。
視界がひらけ、真白に雪を冠った双耳峰が見えてくる。
ピークまであと少し。思わず体がよろけるような風が吹く。
冷たく、訪れる者を拒む風。夏の稜線を吹く風とは違う。
アイゼンをしっかり雪に噛ませ、一歩、一歩慎重に登る。
予報では午後から天候は崩れるそうだ。すでに西の空は雲に覆われている。
やはり展望は期待できないか...。
友人と二人で八ヶ岳の天狗岳を訪れた。
八ヶ岳山麓は一般に夏沢峠を境に北と南に分けることができる。「北八ツ」の名で親しまれている北部は険しい岩稜の聳える南部とは対照的に、山容はなだらかで、静かな針葉樹の森が広がり、湖沼が点在する。
その北八ツで最も高い山が天狗岳である。
急な岩場をトラバースして頂上にたどりついた。
2646mのピークは晴れていれば遠く北アルプスの山並まで望むことができるのだが、残念ながら今は厚い雲に覆われ何も見えない。
目に映るもの全てがモノトーンに染まっている。
2枚重ねにした靴下に寒さが突き刺さる。つま先が痛い。
とりあえず風を避けて岩陰に入り、お湯を沸かしてスイスロールをかじった。
静かだ...。お湯を沸かすコンロの音が実に心細い。「寂しい」とか「孤独」とかいう言葉が浮かんでくる。しかし、普段の生活の中で、ふと、感じるそれとは少し違う。
とりとめのないものではない。それでいい、と思える。 遥かに続く稜線を目の前にしたとき、自分が内側から解き放たれた気持ちになる。どこか寂しいが、あたたかくもある。自分にとって山に行く理由の一つかもしれない。
雪が降ってきた。
佐久平も霞み、浅間山の姿もおぼつかなくなってきた。
下山を急ぐ。
天狗の奥庭で一瞬道を見失い冷やっとしたが、なんとか黒百合平まで下り、そこでアイゼンをはずした。ここから先はふたたび林の中に戻る。冷たい風は木々が遮ってくれる。
降り積もった雪で足下から仄かに照らされるような林道を滑るようにして下りてくると、ツーンと硫黄の匂いがしてきた。麓が近い。
下山し、旅館の温泉に飛び込んだ。
嬉しいことに、風呂場には沸かした温泉の他に、源泉をそのままためた風呂があった。
ぷくぷくと湧き出る源泉につかっていると、友人が昨今の安っぽい郷土意識に物申す。旅をし、土地の料理を食べて、その土地を理解した気になっているなんて笑わせる。温泉こそその土地固有のもの。土地の恵みだと。
少々、極端な意見にも思うが、わからないでもない。彼とは随分と山行を共にしている。こちらも少なからず洗脳されてしまったみたいだ。しかし、湯舟の湯を飲み出すのには「?」。
人肌の源泉と熱い温泉を交互に入ること数回、冷えきった体が芯から温まっていく。天候には恵まれなかったが、山からの素晴らしい贈り物に感謝。
一時間以上は入っていたと思う。去りがたい思いで旅館を出た。
春、ざら目の雪の間から新緑が顔を出すころまた来よう、そう思い大雪の気配を見せる北八ツをあとにした。(2001.1.20)
(筆者は、建築家。東工大院卒。建設設計の会社に勤務。湖の本をときどき買ってくれる。卒論以来の文章らしい文章を、三週間ほどかけて書いたというが、清潔によく推敲された気持ちのいい表現で、ほぼ間然するところがない。新しい、いい書き手登場。もっといろいろ書いてほしい。)
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