サロマ湖から 村上 泰子
お久しぶりです。いま、北海道サロマ湖の東岸、ホテルの四階に。外は三分の一が湖面、あとは空、ひろい空。その間を区切るように遠くに木々の波が見えています。2000年12月31日、PM8:00に、すこし前です。テレビから、オザワ振るミサ曲が流れるなか、この手紙を書き始めています。
旅に出る前、何人もから、なぜ(何も無さそうな)北の地へ行くのかと聞かれました。一応返事はしたものの自分でも的を射ていない答えだと思いました。けれど、旅に出るのに明確な理由があるとしたら、それは旅ではない気もします。 しいて言うなら海に降る雪の美しさを思い出したのと、日常から離れたかったことでしょうか。
今年後半は旅行に出る機会が多くなりました。昔はフーテンの寅さんのようだったのに、元気のなくなっている私を思って、いろいろな友達がひっぱり出してくれたおかげです。
夏、遠野に行きました。タクシーの運転手さんに、このあたりホタルがとびますかと尋ねると、用水が整理されてホタルはめったに見ないととのこと、もう河童もいなくなったのでしょうか。
初秋には、京都の、神護寺の紅葉が数枚だけ紅らんでいた頃、私の陶芸の先生が作品展をしてられるのを見に行き、ついでに南座で八十助の芝居を観ました。あれやこれやあっても十代目の人気は大したもので、京娘達の行列が出来ていました。でも、最近の歌舞伎役者に品格のある人が少ないと言ったら、失礼か、物を知らぬか…どう思わはる
? 私のような者が言うのは失礼ですね。
その後、市中に河井寛次郎記念館、大和路に富本憲吉美術館をたずねました。富本の井戸端にある石榴がざっくりと割れて秋の陽ざしにかがやいていました。館のおじ様が親切に駅まで車で送って下さって、過日の横浜での美術展のこと(私もうかがっていたので)、富本憲吉さんのことなど、あれこれと話して下さいました。
秋、平泉から花巻に旅しました。よしつねは、新幹線にも乗らず、こんなところまでよく来たものだと感心します。花巻の高村光太郎山荘を訪ねたことがありますが、妻千恵子さんの死後に移られたそうですが、胸がつまるほどそまつな小屋で、涙が出ました。いえ、生活がではなく生 き方に涙が出たのです。
期待していた新渡戸稲造記念館には行けませんでしたが、おいしいそば屋もみつけたので、ぜひ、また行こうと思っています。(蕎麦の実も頼んでよく作らせているそうで、そばは、火を通さない手打ち。地物の野菜のてんぷらもおいしい…
!!)
そして晩秋に備前と倉敷へ。いんべの窯の在るところで手びねりをさせて戴いたのですが、目の前には土とろくろだけ。陶芸の経験のある友人は何の道具もないことに不自由を感じたようですが、「指十本あれば、たいがいのことは出来る」という主の言葉に納得もいきました。
登り窯の火をみることの出来たのもうれしいことでした。ちょうど1000度程になったあたり、夜中、赤松をくべる合間に見た真っ白な世界。高熱の窯の中に雪を見た気がしました。
言い遅れましたが四月から陶芸教室で四十の手習い( ? )をはじめました。私が今さら言うのも変ですが、物を作ることはたのしいし、人が物を創られるのを理解するたすけにもなります。
翌日は大原美術館を観ました。これでもかという作品群に疲れたものの、印象深いひとときでした。倉敷にはおいしいコーヒーやさんもあるし、夕食のおすしもおこぜもおいしかった……。おいしい物があると幸せになれるのは、いいことですよね。
旅の話から変わりますが、今回の旅には、面と向かって読みたい本を幾冊か持って来ました。今日は早朝から、エッセイ20『死から死へ』を読み返しています。本当は、この本が送られてきた頃、私自身、死という文字に向き合う気力がなく、サラリとひろげて閉じていました。今思い返すと、父が亡くなり母が亡くなり、私の気持ちは病んでいたようです。閉所が恐くなり、飛行機にも新幹線にも乗れなくなり、地下鉄でさえ精神安定剤を持って行かないと不安でした。帯状疱疹で仕事を続けて休んだり……。
どこをどうさまよったか、気づいたら、今、に至ったという感じです。私自身けっこう強いと思っていたのですが、固い物ほど、するどく割れてしまうらしいです。
テレビのミサ曲も終わったので、続きは新年にゆずることにさせて下さい。 おやすみなさい。
あけまして おめでとうございます。
旅先には賀状の束がやってこないのが残念。
今日の天気は、パイ生地のようにグレーの雲が重なった下に、水色のクリームが一層はさまっているという風。雪は降っていないので、昨年の雪をざくざく踏んで、近所のちいさな神社に初詣にいってきました。
残念といえば、昨年の京博の若冲を見損なってしまいました。まだ二十歳代の頃、深草の五百羅漢に出逢ってから、繪のこと、庭のことなど視野が広まったきっかけになった人でした。特に庭はずいぶん本も読んで京都にも足をはこぶことになりました。若冲のことをいろいろ教えて下さったご住職も高齢になられ、以前車椅子だったお姿をみかけたことがありました。どうしていらっしゃるでしょうか。
エッセイを読みながら、私も、父のこと、母のこと、久しぶりに思い返しています。
私は父とよく話をする子でした。国際問題、仕事のこと、宗教のこと……内容は覚えていないのですが、老子思想と中国について話をした記憶もあります。(十七歳ごろでしたか…。)体中にガンがひろがり、痛みで気が遠くなりながらも、人の生き方を話す人でした。プライドのある人で、ひげそりも、下の始末も、私にしかさせませんでした。なお自分の将来を話す父の車椅子を押しながら、声を殺して涙を落としたこともありました。父の亡くなった日、はじめて父の顔をみて泣くことができました。
母は、心も体も弱い人だった気がします。だから、自分を守ろう守ろうとする人でした。親に受け入れられない気持ちを持って育ち、悲しい青春時代を過ごしたようです。病が進み、思うように動けなくなるにつれ、弱音が増えていきましたが、私は、母の弱さが嫌でした。自分中心の考えも嫌でした。それも病気の一部だったのですが…。
父は母を案じていましたが、私は、心の底で憎んでいた気がします。最近私自身でそんな母の多くが認められ分かるようになり、少しだけ、心が晴れました。「十七にして親をゆるせ」より二十年以上遅れたわけで、私の中にも問題は秘められてあったのでしょうね。
母は死ねることがうれしかったのでしょう、ほほえんで亡くなりました。だから、看護ミスだった気のしないでもない死も、母が望んだようであり、そのままにしました。
哀しみは時が癒すと言いますが、悲しみは心の底に静かにしずんでいるだけで、また雨が降ったり風が吹いたり木の葉が落ちれば、池の水のように悲しみ色に戻ってしまいます。若い頃は、悔いのない人生は自分しだいで送れると思っていましたが、人生には悔いのクイがぐさぐさにささっているものと、四十を過ぎて分かりました。
でも、この道以外には無かったのだ…とも、思うのです。
いつのまにか、窓の外は夕景です。雲のふちを金色に染めて、陽が消えていきます。
手紙はまた明日続けさせて下さい。
1 月 2 日 箱根駅伝を観終えて……。
常に一区二区だとばす法政大学が五区までトップでよろこんだのに、往路勝てず、残念。弟もお嫁さんも法政なので、出場すればいつも応援するのですが…あーあ です。
さて、エッセイに戻ります。
菊の節句の、(雑誌「ミマン」連載の)出題に今応えるなら、
年たけて世のあり憂さを知りしとき悲しかりにし(雪)と思はむ (岡野弘彦の原作は「父」と 秦記)
何事もなかつたやうに(鐘)を打つ (原作は「水」を 秦記)
では、いかがでしょうか。「蕎麦」を打つの方が私らしいかも…。
今年は、エッセイにあった小鹿田に行きたいと思っています。鎌倉のもやい工芸で買った食器のあの美しいカンナ目は、どんな手がつけているのでしょう……。(本には、おんだとルビがありましたが、オンタと覚えがあるのは、又、私の思い込みでしょうが。)
ついでに九州で美術館もみてきたいと思います。あちらでは鍋島は十分に観られるでしょうか。地元より東京の方が充実している時もありますが、それぞれの作品が生まれた場所をみたり空気を吸うのも、楽しいことですし勉強にもなります。
話は、またとびますが、私は以前シャルトルのことも書きましたでしょうか。
シャルトルは石だたみの残る小ぢんまりしたあたたかみのある街だったと思います。大聖堂は外観もいろいろな表情をもっていて、しばらく回りを歩いてから中に入りました。建物の大きさとは不釣り合いな程の小さな木戸の様な入口を入ると、中世の空気をその中に温存しているみたいな気圧の違うような空間がありました。
窓は開けるためのものではなく、外界と区切るためのもの
! !
まるで高度を飛んでいる飛行機と同様で、そこにあるけれど、そこのものではなく別の空間になっている、そんな建物だったと覚えています。
シャルトルブルーのステンドグラスも美しいのだけれど、持って帰りたい美しさではなかった。私というものを溶かしていきそうな感じは、ユイスマンスの本を読んだら解けるのでしょうか。
建物を出てしばらくぼんやり歩いていると、店は小さいけど品数の多いパン屋さんを発見
! ! 白いエプロンのかっぷくのいいお゛さんからパンを買い、歩きながら食べたらほっとした気がしました。
どこに行っても食べ物がオチになるのが、私らしい旅かな
?
今回は、ひとり旅。 夕食を食べながら、向かいの席に先生がいらしたら、いいのになあ、なんて勝手に空いた席に話かけています。
今年はお目にかかれる機会があるでしょうか。逢いたい人と逢うことは、同じでしょ !
!
ぜひまた、おたよりしたいと思います。又、とめどないおしゃべりにおつきあい下さい。
益々寒さきびしい折、奥様共々 お元気でおすごし下さいませ。
長い手紙になってしまって 本当に ごめんなさい。 おやすみなさい。
2001年 1 月 2 日 サロマ湖岸にて 泰子
(筆者は、湖の本の読者。東京の保育園に勤務。一度だけ、もう十数年もまえにフードピア金沢の宴席で挨拶したことがあり、以来逢わないが、文通は繰り返しあった。今度の手紙は、孤心・孤愁を抱いての「旅」なる意味を、淡々とした筆致の奥に静かに置いていて、優れた文藝価値を感じさせる。紀行のもっとも純なる述懐に富んでいて、とりとめなさに、もののあはれがにじみ出ている。細いペンで描いた、ホテルの窓からのサロマ湖眺望画を、うまくここに取り込めないのが残念。)
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