「e-文藝館=湖(umi)」招待席

もりしま みちお  森嶋通夫教授の記事には、あたりまえだ が、いくらか、事実と言い切れない点も含まれる。中にもあるように氏はわ たしのことをご存じないし、母や父のことも、書き遺したものも見ていられない。しかし九割九分以上も不自然なところは感じられなくて、しみじみとした。母 のためにも兄のためにも、これ以上はない供養である。森嶋氏ほどもとても知り得なかった兄のことを、たくさん教えていただいた。感謝に堪えない。 氏は、数理経済学の世界的な泰斗として知られた人である。英国在住。



     北澤恒彦のこと   森嶋 通夫
 
 

 私が北沢恒彦にはじめて会ったのは八九年の京大での連続講義の時だった。学生運動 の成果として京大の経済学部の学生は、彼らが選んだ先生の連続請義を開催する権利を獲得していた。講義はその年出版された私のRicardo's Economics に則っていた。学生の出席率はよく、教室は満員だった。前から五列目くらいのところに年配の人が坐っていた。
「あなたはどなたですか」と私は聞いた。彼は「京都市役所の者ですが、傍聴禁止なら退場します」とはにか みながら言った。こうして彼は講義に皆勤した。講義の回数が増えるとそのうちに親しくなり、親しくなると「一緒に肉でも食いに行きませんか。神戸にうまい 所があるのです」と誘われた。神戸まで行くのは大変だから私は断った。彼は「四条に安いところがあるから行きましょう」といって、私たち二人を京阪四条駅 を降りてすぐの、安そうだが、おいしそうには見えないレストランに招いてくれた。
 その時に彼は、何か日本で味わってみたいことはありませんかと私に聞いた。私は別段何もないが、強いて 言えば畳の上で日本の布団に寝てみたいと一言った。彼は「僕が言えば必ず引き受けてくれますから頼んでみましょう」といって、四条富小路の徳正寺を紹介し てくれた。私たちはその年の正月をその寺の庫裏で過ごした。
 私が神戸大学で話をした時にも、彼はわざわざ神戸まで来た。龍谷大学で講義した時のセミナーには徳正寺 の住職と奥さんを連れて来た。私は徳正寺の宗派を知らないし、龍谷大学が仏教系の大学であることは知っていたが、何宗の何派なのかもよく知らないので、食 い合わせ症状のようなことが起こらないかと心配したが、セミナーは無事すんだ。しかしその日の私の出来は悪かった。
 立命館大学で教えることになってからも、彼は私の講義に皆勤してくれた。ただしその後半の頃は彼は京郡 市役所を退職して精華女子大学の先生をしていたので、時間の都合上隔週にしか出席できなかった。彼が異常といえる程の興味を私に持っていることは、その頃 の私にはよくわかっていた。しかし彼は特別な質問を何もしなかった。精華女子大では文化論の先生をしていたので、彼は私が雑談としてするイギリス観やイギ リスの目から見た日本論に興味を持っているのだと思っていた。
 ある日、彼は乗って来た自転車を押しながら、「先生の『経済成長論』を読んでいる。ありゃ大変な本です な。だけど、もう数回読み直せば克服出来る所までこぎつけた」と言ったので私は驚いた。その後彼は私のCapital and Credit を読み始めたということを葉書に書いて来たから、彼が私の経済学に興味を持っていることがわかったが、私に会うまでは私の経済学の本は読んでいなかった管 だ。
 私はその頃、彼が高校生の時代に、学生反戦活動に参加し火炎瓶を投げて逮捕されたりして、大学の卒業が 遅れたことを知っていた。その後も京都べ平連の中心人物の一人となった。彼は同志社大学法学部を出ており、マルクス経済学の知識はあっても、マルクスの解 釈は私とは全く違う上に、彼の年齢ゆえに、私のような考え方をもはや受け入れられないような頭になっていると私は思っていた。彼の弟の秦恒平(元東工大教 援)は彼のことを「心優しい兄」と書いている。それに全く同感だが「心優しさ」だけでは数理経済学の論理を克服出来ないとも私は考えていた。
 驚いたことに、彼は私が九七年に天津の南開大学で講義をした時に、天津までやって来て私の講義を聞い た。日本では、折角彼が来ているのだからと、彼用の話を講義のなかに挿入して彼にサービスしていたが、そういうことは中国ではしにくい。私が英語でサービ スしても、それが彼にうまく通じるかどうかは不明だし、講義の後は中国人に取り巻かれて彼に直接話をする機会はほとんどなかった。
 そのあとは大阪市立大学である。彼はその大学の大学院の学生であったそうだから、アット・ホームであっ た。しかし一緒にご飯でも食べようと声をかける余裕は私にはなかった。最後に私の送別会があった時、そそくさと帰る彼を追い掛けて「少し話をしていきませ んか」と言ったが、次節に書くように「ターンパイク定埋の所を読み上げました」と言って、振り切るように彼は去っていった。

 私は彼のもう一つの面を全く知らなかった。彼自身数冊の本を書いていたし、彼の実 弟秦恒平は小説家でもあった。以下に書くことは、彼の死(自殺)後、二人の書物から私が知ったことである。北沢はそのことを敢えて私に隠したとは思わな い。断片は聞いていたが、それらがまさか以下に書くような実態の断片だとは思わなかった。
 以下は秦恒平の『死なれて、死なせて』(弘支堂)と北沢恒彦の『家の別れ』(思想の科学社)に基づく、 彼らの母親と彼ら自身についての悲しい物語である。母は阿部鏡子といい文才のある才気にあふれる人であった。彼女の父は彼女が一一歳の時、東洋紡績から退 陣することになり、そのあとを「後年財界の覇者として識られた当時の青年層F・A氏」が継いだ。退陣した父は韓国に行き、彼女も住み慣れた家から追い出さ れた(阿部鏡子「わが旅・大和路のうた」による、未見)。
 F・A氏が誰かはわからないが、阿部房次郎であるならば、当時の東洋紡社長の彼は「財界の覇者」とも一 言えるし、同じ阿部姓の彼女の父は阿部房次郎の前任者であるから、阿部一族の内紛の結果、鏡子の父は放り出されたのだとも見られる。古い話だが東洋紡の社 史でも読めば、この憶測の正否ははっきりするだろう。その後鏡子は結婚し、四人の子供を産んだが、夫が死んでから彼女は生計を立てるために彦板で下宿屋を 始めた。
 そこへ北沢・秦の父が彦板高商の生徒として下宿し、彼女との間に彼らをもうけた。まず生まれたのが恒彦 (北沢)で一年後に生まれたのが恒平(秦)である。彼らの父は、阿部家に下宿をはじめた当時は一八歳であり、鏡子にはすでに同じ年の娘がいた。彦根で生ま れた北沢は恒彦、平安京生まれの秦は恒平と名付けられた。父の家はかなりの名家(吉岡家)であったから、体面を重んじる吉岡家は子供をすぐに養子にやり、 鏡子も結婚していた先の家から放り出され、亡夫との間に出来た四人の子供も孤児になってしまった。成人しても恒彦と恒平は長い問兄弟付き合いはさせてもら えず、想像し得るように父方(吉岡家)にも母方(阿部家)にも出入りできなかった。「子供たちが北沢ないし秦の子供と
して暮らしているのを乱したくない」という配慮で父と子供たちとの間の連絡もなかった。恒彦は自分の子供 たちとの関係はあっても他の家族から自分や子供を切り離していた。恒平も彼自身が「四○半ばをすぎる年まで、血縁にかかわるすべてを拒絶し統け」てきたそ うだ。
 しかし母は必死になって子供(特に恒平)に逢おうとした。「いとけなき私や私の兄の行方をさがし求め て、(母は)ほとんど狂奔した。ただもう兄と私に執着し、その執着心にすがりつくようにして死ぬまで生き続けた」と恒平は書いている。鏡子は色紙に「恒平 さんヘ」と書いて
  話したき夜は目をつむり呼ぴたまえ
         羽音ゆるく肩によらなん
という歌を残して、死んだ。彼女は「不治の傷と病とをうけてほとんど自ら死をえらんで逝った」と恒平は書 いている。私は秦を知らないが、北沢同様心の優しい人だと思う。
 私は恒彦と恒平とでは恒平の方が文才があると思うが、彼らが書き残した鏡子の和歌を見れば、彼女は二人 の息子よりも優れた文芸の才能を持っていたように思われる。そういう彼女の激情と非常識が生んだ悲劇だが、またそれだけに彼女は驚くべき立ち直りを見せ た。彼女は四○歳代にさしかかった頃、大阪に新設された保健婦養成校に入学し、卒業後、奈長県で看護婦兼保健婦のような仕事を始めた。晩年には奈良県下の 未解放地区の診療所で働き、彼女に世話になった人たちは彼女の献身的な活動を絶賛した。世俗的な倫埋基準から見て、それまでの彼女が魔性の女であるとすれ ば、後期の彼女はマリアのようだといえる。
 シャイで、用心深く引っ込みがちの秦は長い間父をも母をも拒絶していたようだが、母の性質を受けて秦よ りは前にでるタイプの北沢は、少年の頃から母とも「微妙に連絡を保っていた」ようである。私が彼と付き合うようになった頃には、母はずっと前に死んでいた が、彼は実父にも養父にも非常に親切にしていたことを私は知っている。
 親類付き合いというものを知らなかった子供達に伯父や叔父、従兄弟、従姉妹への親しみ方を教えるのに、 北沢は家族単位の付き合いでなく個人単位で付き合うことを秦に主張したそうだが、普通の家庭環境に生まれたものならば、自然に知っている親類付き合いの仕 方を、白分達で子供の為に見つけねばならない北沢、秦の人生はさぞかし大変であったろう。その結果得た北沢の「個人主義的解決」という知恵は、彼の友人の 選ぴ方にも及んでいると見なければならない。そうすると、彼は私の中に何か惹かれるものを見たから、私を追っかけ、私の書物を繰り返し読んだのである。な ぜ彼は自殺したのか。なぜもう一度私に会おうとしなかったのか。イギリスと日本に別れていても、生きてさえおれば、会うことは不可能ではないのに。

 森嶋通夫 「論座」 2000.9月号 『終わりよければすべてよし』 (朝日新聞刊)より抜粋
 



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