百姓名を読む 中世のイメージを求めて
森 秀樹
近世初頭の百姓の名前には、中世の雰囲気を残す官名などの名残りが多く見られ、兵農がまだはっきりと分離していなかった時代のイメージをつかむことができます。とりわけ関東の太閤検地帳、徳川検地帳には、俗に「関東の百官名」と呼ばれるほど、バラエティに富んだ八省百官の官職名が登場してきます
官名のたくさん出てくるたいへん興味深い例として、文禄四年(一五九五)乙未霜月二日の「下岡本村検地帳」(栃木県河内町下岡本・五月女久五家文書)からその名前を拾ってみることにします。土地台帳とも言うべき検地帳は歴史的にとても大切な記録なのですが、ふつう見ただけでは、味もそっけもないような古文書(帳簿)で、字面からはなかなか往時のイメージがわいてこないものです。しかし、読みかたによっては、想像力と推理力を働かせてくれる恰好のストーリーにもなりえますし、土の匂いがつたわってくることもあります。
*検地帳からの名寄せ
1 国府(守)名 (国の等級─上・中・下─、遠近─遠・中・近─は「延喜式」による)
1 丹波(京都府。上国、近国)
2 備後(広島県。上国、中国)
3 因幡(鳥取県。上国、近国)
4 若狭(福井県。中国、近国)
5 河内守(大阪府。上国、近国)
6 豊後および豊後守(大分県。上国、遠国)
7 さとの守および佐渡守(新潟県。中国、遠国)
8 淡路守および、あわち(兵庫県。下国、近国)
9 対馬守および、つしま、つし満(長崎県。下国、遠国)
10 丹後(京都府。中国。近国)
11 讃岐守(香川県。上国、中国)
2 官職名 (大宝律令、養老律令一令制一に規定された制度にもとづく官制は、律令国家が形骸化した後も、京都の宮廷に存続した。)
1 兵庫(兵庫寮 : 兵器の監理及び儀杖をつかさどる役所)
2 雅楽亮(=うたのすけ。治部省に属する、歌舞を教習する雅楽寮の次官一亮一)
3 内蔵助(=くらのすけ。中務=なかつかさ省の内蔵寮の次官一助―。金銀、珠玉、宝器を管理し、供進の御服、祭祀の奉幣をつかさどる役所)
4 監物および、けんもつ(中務省、大蔵、内蔵などの出納をつかさどる職)
5 雅楽丞(=うたのじょう。雅楽寮の判官一じょう―)
6 たちわき(帯刀=たてわき。または、たちはき。東宮職、舎人の中から武術にすぐれたものを皇太子の警衛に当て、特に帯刀させた。)
7 大学助(=だいがくのすけ。式部省の中、官吏養成教育機関の大学寮の次官)
8 内記(=ないき。中務省。詔勅、宣命を起草、奉行し、宮中一切の事を記録した官。能文、能筆の者が選ばれた。)
9 蔵人(=くらんど又は、くろうど。蔵人所の職員、天皇に近侍し、伝宣、進奏、儀式、その他の宮中の大小の雑事をつかさどる役所で名誉の職とされた。)
10 玄蕃(=げんば。玄蕃寮。治部省に属し、外国使節の接待、送迎、仏寺や僧尼の名籍をつかさどる役所)
11 もんと(主水=もひとりの司=つかさの略。宮内省の被官。水、粥、氷室の事をつかさどる役所)
12 右京亮(=うきょうのすけ。右京職の次官。京職=きょうしき、は京中の戸口、田宅、訴訟、租税、道路などの事務をつかさどる役所。左京職、右京職に分かれていた。)
13 左京亮
14 内膳(宮内省に属し、天皇の食事の事をつかさどる役所)
15 たくみ(内匠寮。中務省に属し、禁中の器物、工匠の事、殿舎の装飾をつかさどる役所)
16 はやと(隼人。兵部省に属し、宮門の警衛にあたった。つわもののつかさ)
17 将監(=しょうげん。近衛府の判官。皇居を警衛し、行幸には供奉警備した武官)
18 主膳(東宮坊の被官。主膳官 : 皇太子に奉仕、御饌を調達し、試食をつかさどる役所)
19 修理亮(=しゅりのすけ。修理職。令外の官司で、内裏の修理・造営をつかさどった。おさめつくるつかさ)
20 げき(外記。八省諸司および諸国の元締めたる太政官=だじょうかんの主典。小納言の下で、太政官の記録や公事=くじ、をつかさどる官。四等官の最下位)
21 かげゆ(勘解由使=かげゆし : 国司などの交替の時、後任者から前任者に交付する文書─解由─を審査した職)
以上のような百姓の官名を少し難しい言葉で「官途名」といい、その官途名がついた経緯を「官途成」といっています。中世では村内の有力農民が、儀式を経たり、「官途状」をもらうなどして官名をつけていったことも考えられるようです。また、もともとは、先祖がその職についたことを名誉として名前をもらったのでしょうが、平安初期頃の古い時代から、官職や官名が金銭で売られていたという記録も残っています。そして、時代とともに、台所の苦しい朝廷が官名の大安売りをしていき、中世のある時点では(これはもちろん、地政学的な条件によって個々の村落の事情は違いますが、)かなり官途名が一般化そして次第に形骸化していったのではないでしょうか。
ただ官途名(他に、太夫成、権守成という言葉が学術的にはあります)が一般化していったにしろ、その名前のステータスシンボル的な意味合いが大きいならば、名前を持つことで、村落での有力者たる肩書以上の重みがあったのかも知れません。また、いわゆる武士的な名前(官名)を持つ者の、村落での武士的な役割を何か意味しているかも知れません。ただ、今とりあげた太閤検地帳の時期は、すでに戦国期を終え、兵農分離がかなり進んでいた背景があり、そこら辺は確かではありません。
もう少し突っ込むならば、各人の名前をまとめ(名寄せ)、名請け地の耕作面積をだしてみなくてはなりませんが、おおまかに見回したところでは、官名を持つ者の優越性は立証できないように思えます。反対に、もし官名を持つ者の耕作地が少ない場合は、半農半士的な性格の百姓が農事を離れつつあった、という経緯として考えられますが、いずれにしろ、前後の時代の同村の百姓名を調べてみなければならないでしょう。そして、この村の場合、官名の占める割合がかなり大きいので、官名を持つ者を有力者(地位、財力)、特権階級として判断することはできないわけですが、一方、官名を持つ度合が大きい村全体としてのイメージの方がおぼろげながら見えてくるかも知れません。
それと、もし調査を続けるなら、大体同時期の近隣地域の百姓名を採集し、比較検討する必要も生じてくると思いますが、これは、文書記録の保存の状況からいって至難の技ではないでしょうか。
3 衛門名 (衛門府。宮城門をまもり、出入りを巡検する役。左衛門府、右衛門府に分かれている。この衛門からでた名前は、近世の百姓名の中心的在在となっていく。)
* 源左へもん(頭に、源氏からでたと思われる源がつく。)
* 八郎へもん(衛門プラス排行型) * 八郎左へもん * 太郎右衛門(衛門プラス排行型。もともと右衛門の長男・太郎だが、形骸化していった。) *
刑部左衛門(刑部省一刑罰、訴訟をつかさどる役所─プラス衛門。官名のダブリ)
4 兵衛名 (兵衛府。左右があり、内裏の守衛をつかさどった。これも近世百姓名に多い。)
*助兵へ(助兵衛、助は次官の意味) * 源兵へ(源兵衛)
5 排行名 (太郎、次郎、三郎のように出生の順位を示す。中世、近世で最もポピュラーな名前)
* 六郎次郎(次郎の六男)三郎五郎、四郎三郎、八郎三郎(この排行ダブリ型は近世初期まででほとんどなくなる) *
又三郎、助三郎、喜四郎、喜六郎、新三郎、藤四郎(藤は藤原の藤か)、助二郎、源二郎、源三郎、彦六郎(六郎の彦(孫かひまご))、弥五郎、助十郎、彦太郎
6 排行名プラス官名 (一部3に重複する)
* 八郎へもん(出生の順位プラス官名)、さへもん二郎、右衛門三郎、さへもん五郎、孫へもん、孫さへもん、弥さへもん、弥へもん
7 排行の略称 (氏あるいは官職名の下に排行を付ける場合は、郎の字を省く風習よりおこった)
* 助六、藤六(藤原の藤か)、藤七、新六、彦七、弥七
8 僧名または寺名
* 小里坊、真龍坊、長伝坊、持宝坊、しか房、善行房(房のつく名は移動もする修行僧か)
* 吉祥院、宝連院 * 禅門 * 道明、道満、道妙、道珍、道森、道清(この道のつく名前が多いが、僧の数としては多すぎるので、武士的一族の実名かもしれない。) *
満足(これも、僧名とも実名ともとれる。)
百姓は、南北朝頃までは、名(うじな)、仮名(けみょう・通称のこと)、実名(じつみょう)をもっていて、武士と同じような名前の付けかたであったといいます。そして、その後官名が仮名としてひろくつかわれるようになっていきました。また、江戸時代の百姓は公的な文書では苗字・実名を名乗ることは許されていなかったわけで、今日(こんにち)目を通せる文書はすべて仮名といってもかまいません。ということは、記録に残る実名(例えば、西郷吉之助隆盛の隆盛の部分)がないということで、どの程度実名(源平藤橘(げんぺいとうきつ)に代表される氏名(うじな)も含め)が日常生活で普及していたかは定かではありません。ただ、近しい間では、幼名とか、小字(こあざ)、地字(ちあざ)、仮名または仮名の略称(またはニックネーム的な通称)で呼び、村役など地位があるものに対してはその役職名で呼んでいたことが多いと思われます。また、実名が使われたケースとしては、筆者の確認した範囲では、実印(判子)の印文(図案化した実名)か、日記、覚書などの私文書以外にはありません。
*中世の村を想像する
この下岡本村(中世の岡本郷)は高一千石以上の大きい村で、官名(官名の転訛は除く)を拾いだすと、名請け人総数一五〇人として、ほぼ五分の一近くの数になっています。また官吏や国守(国府はみな関東以西)があれこれ登場し、一つの村で国の行政機関がある程度そろってしまうにぎやかさです。まるで独立国のようでもあります。……このにぎやかさはどこからくるのでしょうか。
*関東百官名を考える
今までに、下野、上野、武蔵、安房、上総、下総の、天正から慶長、元和期頃までの検地帳を少しずつ調べていますが、確かに他の地方に比べて官名が多く見られ、俗に関東の百官名と言われたこともうなずけます。それでは、近世初頭の関東の百姓名に官名が多くあった理由は何なのでしょうか……。
◆秀吉の刀狩り、検地も西に比べ遅く、規模も小さかった。ということは、兵農分離をポイントとする中世から近世への最終的脱皮が遅れた、ともいえます。
◆これは、秀吉の関東平定、奥羽平定の時間的推移をみても分かります。東北の検地帳はまだ調べていないので分かりませんが、官名が関東よりは少ないにしろ、同じような傾向が見えるはずです。
◆官名が多いということは、武士的な存在(戦(いくさ)に備える士たち)が多かった、という推測も成りたつはずです。そして、西の新しい統一政府の意に対して、戦う姿勢、抵抗する気構えが充分残っていた、ともいえます。天下が統一されたといっても、秀吉の政策の徹底は関東では、まだまだおぼつかなく、刀狩、検地に際し相当の精神的抵抗にあい、妥協している事も多くあったのではないでしょうか。
◆時代も、朝鮮出兵の文禄の役、その後の慶長の役、関ヶ原の合戦、大阪の陣など激しく動いており、武力による村落の自衛権は必要とされていたと思います。
◆坂東はもののふの国であり、戦う農民、耕す兵士の伝統は続いていたと思われます。
◆関東(特に北関東)は、歴史的にみても中央から離れた辺地であり、中央に対する特別の感情、官尊とか貴種への憧憬が強かった、という別の見方もできます。
◆その後、17世紀の中頃(寛永の終わり頃)には、官名も殆ど消滅または変化していくようです。これは江戸幕府も落ち着いてきて、江戸に近いこともあり、百姓要素が安定し、武士的要素がなくなっていった結果かと思われます。
多少とりとめのないまま、推論をすすめてみた次第です。
──SEIKEN BUNKO 所載──
(筆者は、日本ペンクラブ会員、作家で、またじつにユニークに広範囲な視野と深い視線をもった日本学者である。この稿なども幾重にも楽しめて、貴重な提示である。感謝。0.12.29)
HOME |