みしま
ゆういち 1928.4.11 大阪市に生まれる。四天王寺国際仏教大学教授。船場大阪を語る会会長。大阪船場という地の利もさることながら、深い考察で
谷崎学に優れた業績の多いお一人。特にお願いし、前後編あわせてご寄稿戴いた。掲載作の前編は、季刊「大
阪春秋」第八十五号 平成八年十二月二十五日発行初出、後編は、季刊「大
阪春秋」第百一号 平成十二年十二月十九日発行 所収。(秦 恒平)
『細雪』の船場ことば 三
島 佑一
一
『細雪』の会話の言葉は、船場ことばが使われていて、御寮人(ごりょん)さ
んや、とうさんや、こいさんの雰囲気がよく出ているといわれている。しかし一方で、そこで使われている船場ことばは決して正確ではない、おかしいと批判す
る人もある。
それに対して私は、そもそも大阪弁を活字にすること自体甚だ困難で、変な受け取られ方をするのはやむを
えないということと、小説の会話は小説の会話として、日常会話とは区別して理解しなければならない、単純に日常会話の物差で律することはできないと考えて
来た。
しかし今度、以上の点から改めて『細雪』を読み返し、点検してみたところ、いろいろ気になる所が出て来
たので一文を草してみたくなった。
お断りしておくが、私は『春琴抄』の舞台となった船場道修町に昭和三年に生まれ、それから太平洋戦争の
始まる昭和十六年まで維持された、丁稚(でっち)奉公、女中奉公の最後の模様を見て育った者である。
すでに職住分離は始まっていて、会社組織になりつつあったものの、それは半分くらいで、私の家など彼ら
住込み奉公人と起居を共にし、大阪弁丸出しの生活をしていた。しかしそれはあくまで幼少期の感受した経験である上に、そういう旧体制のくずれて行く時代で
もあった。
即ち職住分離によって、店の間から奥の、暖簾から中の上り框(かまち)から上の女の世界が、近所の居宅
から、さらに空気のよい芦屋や豊中や仁川などの郊外の別荘へと移り、大阪の店舗と家族の住む郊外の別荘の関係が疎遠になりつつあると同時に、客に対する船
場の言葉づかいを下の者に注意する小番頭の年代が、徴兵検査から衛生兵などとして狩り出され、その分船場以外のなまりのままの若い者が補充され、船場こと
ばが次第に乱れていった時代といえると思う。
しかし年輩の旦那さんや大番頭さん、それに職住同居で暖簾の内にとどまっている、お家(え)さん(姑)
や御寮人さんやいとさんの女の世界によって、まだまだ昔の船場ことばは維持されていた。
私の強みはただそういう船場ことばの雰囲気に身をおいていたということだが、以後学校で教えられた標準
語を使うようになって、昔の大阪弁を忘れることも多くなったので、昔の大阪弁は意識して使わないと口から出て来ない。単なる過去の自分自身の狭い経験に
頼っていては、記憶も曖昧な上に、正面切って大阪弁に取組み、研究しているわけでもないから、案外誤りを犯す。したがってせいぜい年長の人々に聞き、本も
読んで考えてみたい。以上のような次第なので、お気づきになった点いろいろご批判を仰ぎたいと思う。
二
まず冒頭の「こいさん」と次女の幸子が四女の末娘妙子を呼ぶ呼び方、──船場の女の雰囲気に読者を引張り込む効
果はあるが、姉妹同士でこんな言い方を許容する家庭はどれくらいあったのだろうか。
なぜなら「こいさん」は小いとさんのつづまったもの、「いとさん」はいとしい人、いといけない人の意か
ら来ているといわれ、つまり可愛らしいお嬢さんということ。したがって身内同士で「可愛らしいお嬢さん」と呼び合うのは、厳密にいえば自画自賛の滑稽な
話、いとさんはもちろんのこと、いとさんの「い」が曖昧に発音されることから転音した「とうさん」も同様で、つまり「いとさん」「とうさん」「こいさん」
は元来の意味から考えれば、親子兄弟姉妹の身内では使ってはおかしい言葉。あくまで他人が、身近なところでは番頭、手代、丁稚、女中、近所の者、それに訪
問客などが使った。身内では自然に言わない習慣がついていた。中には親から厳しく注意された家庭もあったと聞く。
しかし『細雪』の冒頭のような言い方はしなかったかというと、そうでもないらしい。「いとさん」はそれ
こそ桃割れ姿のええしのお嬢さんの感がある。それに対して「とうさん」はよく耳にしたが、東京の人は「父さん」かと思うそうで、東京出身の谷崎には抵抗が
あったのであろう(船場では「お父さん」といっていたから紛らわしくなかった)。
その点「こいさん」は大阪独特で、語感もいい。谷崎は特にこの言葉を好んだようで、『春琴抄』でも春琴が次女で三女四女もあるのに「こいさん」と呼ばせて
いる。『船場ものがたり』の著者で、三越の南の伏見町に明治三十年後半に生まれ育った香村菊雄氏の言によれば、「こいさん」はそんなこだわりもなく、身内
でも気軽に使っていた家庭が割合あったそうである。
ただ『細雪』の場合、もう少し立ち入って考えてみると、幸子にしても雪子にしても、下がまだ生まれてい
ないうちは、「こいさん」と呼ばれていた時期があった。下ができると周囲のものが自然に末娘の方を「こいさん」と呼ぶ。そして今までの「こいさん」が「中
ちゃん」「中さん」となる。
鶴子と幸子とは二つ違い、幸子と雪子とは四つ違い、雪子と妙子とは四つ違い。したがって幸子の場合は二
つのとき次ができたのであるから、自分が「こいさん」と呼ばれていたなと思う間もなく「中ぁんちゃん」に切替えられて抵抗がなかったと思うが、雪子の場合
下ができたのは四つだから、「こいさん」と呼ばれた響がまだ記憶に生々しい。しかもすでに「中ぁんちゃん」と呼ぶべき幸子が上にいるから、周囲は今までの
「こいさん」はそのままにして、新しくできた末娘を「小いとちゃん」「小嬢ちゃん」または「ややいとちゃん」など各家庭でまちまちだが、そんな呼び方をし
たと考えられる。
しかし「小いとちゃん」「小嬢ちゃん」「ややいとちゃん」では子供のうちはよくても、大きくなったらお
かしいし、新しく彼女らを知る者は、自然に妙子を「こいさん」と呼び、幸子・雪子を「幸子とうさん」「雪子とうさん」と呼ぶようになる。そんなことから妙
子を「こいさん」と呼ぶようになるには少々時間がかかった、逆に雪子にとっては、妙子が生まれたからすぐ「こいさん」と呼ばれなくなったのではなく、その
まま「こいさん」と呼ばれた期間が長かったと考えられる。したがって後の方──例えば上巻二十二章で、雪子も妙子を「こいさん」と呼んでいるが、その場
合、かつて自分にいわれた「こいさん」という呼び名を、今度は妹に向って呼ぶには抵抗があるはずである。「妙ちゃん」「妙子ちゃん」と呼ぶのが自然であろ
う。
ちなみに私の家庭の場合、私は上二人の姉には体の大小に関係なく、「大(おっ)き姉ちゃん」「小
(ちっ)こ姉ちゃん」、妹には名前の上一字に「ちゃん」をつけて呼んでいた。父母も自分の娘に「とうさん」「こいさん」などとは言わなかった。
三
次にひっかかるのは一章の終り、妙子が階下の女中に、「御寮人さん注射しやはるで。──注射器消毒しと
いてや」と言うところである。
ここは女中の立場に立って自分の姉を「御寮人さん」と呼んでいると考えられる。親が自分の子供の立場に
立つて、「お父さん」「お母さん」「パパ」「ママ」と配偶者を呼ぶのに似ている。しかし後者はあくまで一般的な呼称で、特殊な敬称はないが、「御寮人さ
ん」という呼び方は、船場の富裕な商家の奥さんという特殊な敬称を意味している。
もっとも御寮人さんである妻が亭主を「旦さん」と呼んだり、「旦那さん呼んではるで」と使用人にはよく
言った。逆に亭主も「御寮人さんは
?」と聞いたりするのも不自然ではなかった。殊に船場では番頭を跡継養子にする、いわゆる女系家族が多かったから、今まで「御寮人さん」と呼んでいた習慣
が、結婚してもなかなか抜け切れなかったこともあったろう。自営業で社内で妻が夫を「社長」、夫が妻を「副社長」と呼んでおかしくないのと似ている。した
がってこれが船場の中でのことなら、まだしも妙子が姉のことをこのように言うことは考えられないでもない。
しかし舞台は芦屋、蒔岡商店は船場から十二三年も前に姿を消している。しかも幸子は結婚してすぐ芦屋に住み、鶴子の場合と違って、船場の御寮人さん的存在
感が薄い人である。
鶴子の場合は辰男を養子にもらったときまだ船場に蒔岡商店があり、したがって「御寮人さん」と呼ばれて
いたであろう。
けれども幸子の場合は、夫の貞之助が計理士で、船場の今橋に事務所を持っていたとしても、使っているの
は、旦さん、亀吉トン、お梅どんなどと呼んだり呼ばれたりするのでもない男女の事務員であり、幸子もあまり事務所を訪れることはなかったようである。その
辺のことは一切書かれていないから、幸子と船場との関係は希薄である。
ただ、御寮人さんとは寮即ち部屋つきで女中つきのまま婚家へ嫁ぐ人という意味といわれているから、本家
の女中が分家へ行って「御寮人さん」と呼んでその呼び名を温存した。または本家へ幸子が来たとき、本家の女中たちは「幸子御寮人さん」と呼んだであろうか
ら、そういうところで呼ばれていたことは考えられる。
しかしまだ十八の女中のお春どんは三年前の十五のとき、ということは蒔岡家が船場を去って七年後の芦屋
の分家に奉公に来たのだから、船場の空気を全然知らない。しかも彼女が一番上の女中のように書かれている。だからほっておけば彼女らの口から、「御寮人さ
ん」という言葉が出て来ることはないはずである。
とすれば、幸子や雪子や妙子が、かつての船場の大店(おおたな)蒔岡商店の衿持で、「御寮人さんと呼ぶ
ようにしなさい」と躾けたということになる。現にここでも、普通はわざわざ「御寮人さん」と言わなくても、「はる」という大阪弁の敬語を使っているから誰
が注射するのかわかるし、妹の立場から姉を「御寮人さん」と口にするのはちょっとためらわれるところ、だから省いて言うはずである。
こういうところが小説的会話で、「御寮人さん」を使うことによってその辺の事情を示唆しているともとれ
るし、殊更使わなければ消えてしまうほど、船場における蒔岡家の残影がかすかになっていることをうかがわせているともとれる。
さらに今一歩突っ込んで考えるならば、谷崎は久保一枝という実際に使った女中を「お春どん」として小説
世界にそのまま持ち込むことによって、作品にリアルな息吹きを吹き込もうとした反面、実生活とフィクションの世界を混乱させたともいうことができる。
幸子を「御寮人さん」とお春が呼んでいるのは、モデルの松子が歴とした船場の大店根津商店に嫁した御寮
人さんだから、つい安易に重ねあわせてしまったといえなくもない。
また松子の妹の重子や信子は、松子が「御寮人さん」とよく言われているのを耳にして来たから、自分らも
「御寮人さん注射しやはるで」というような言い方も口から出やすかったと思う。谷崎も高嶺の花と仰ぎ見ていた根津松子夫人を自分のものにしたのだから、船
場の御寮人さんという崇敬の念を持ちつづけて、妻の松子を見たかった、重子や信子も引取ってそんな雰囲気の中で生活した。そんな実生活の舞台裏が、こんな
ところについ顔を出したと見ることもできる。
四
逆に船場の令室令嬢というイメージをもっと自然に出せるところとして、最初の見合の相手瀬越を斡旋する
井谷の言葉がある。
井谷は幸子がよく行く神戸の美容院の女主人で、弟は九章にあるように大阪の鉄屋国分商店に勤めている
し、その国分商店の常務を瀬越との見合の介添役にしている。だから幸子や雪子を世間一般のと、「奥さん」や「お嬢さん」と言うより、「御寮人さん」「嬢
(とう)さん」と呼んだ方が、彼女らの心証をよくすることはわかっているはずである。しかし見合の席での会話にそれが出て来ないというのは、幸子や雪子に
船場を意識していないということで、こんなところにも過去の大店の影がもはや薄らいでいることを暗示しているともとれるし、そういうことを谷崎が示唆して
いるともとれる。
逆にモデルの松子・重子・信子たちがそういうふうに見られていたことが顔を出しているのかもしれない。
同様のことは二十二章で本家の辰雄家族が上京するのを見送った駅で、辰雄の大学時代の同窓で、辰雄が蒔
岡家へ来た当座、終始遊びに来た関原という男が、五、六年ぶりに海外出張から帰って来て、妙子を呼び止めた会話にも出ている。彼は妙子には「こいさん」と
言いながら、幸子のことは「幸子ちゃんは今夜は
?」といっている。幸子が婿養子をもらったことは知っているようだから(ただしその婿養子の貞之助も見送りに来ていたことは知らなかったようだが)、こん
なところでさりげなく「幸子ちゃん、御寮人さんにならはったんですね」という言葉を入れると、船場との結びつきを読者に印象づけることができるのだが。そ
うしないということは、ここでも蒔岡家の分家の船場の影が薄くなったことを諷しているのかもしれない。
五
次に気になるのは上巻六章の「姉ちゃん、こいちゃん、いってらっしやい」。八章の「有難う、姉ちゃん」というよ
うな、標準語を使う悦子の言葉づかいである。もしも悦子が船場の中に住んでいるか、船場の小学校に通っているならば、「お早うお帰り」「おおきに」という
船場言葉が出るはずである。
当時は今日と違って越境入学はやかましくなかったので、船場の中の小学校は、甚しいところは半分くらい
が校区外の越境入学、芦屋などの郊外から通ってくる児童も珍しくなかった。ただしそういう児童は店が船場の校区内にあるので、低学年なら女中なり丁稚なり
が別荘と学校間を送り迎えして、下校後ちょっと店に立ち寄って父や母の顔を見て帰る。都合によってそのまま店の奥にいて、父や母と一緒に郊外の別荘に帰る
というようなこともあった。
蒔岡家の場合は店がもう船場にないのだから、悦子は地元の小学校に通うほかない。したがって芦屋の小学
校友達の言葉になじむのは自然の勢いではある。
しかし前述したように、芦屋は船場の商家の暖簾から中の上り框(かまち)から上の女の世界が、職住分離
によって居を移した所といってよいから、そしてそういう人達は船場ことばを最高のものとして誇りに思う意識が強かったから、この蒔岡家の分家のように、
「御寮人さん」「こいさん」という呼称を、疾(と)うに船場とは縁が切れているのに使い、芦屋の中で船場という城を固守しているのである。
芦屋は大阪よりむしろ神戸に近いし、ほっておけば兵庫や神戸なまりの言葉に感化される。しかしそういう
言葉のなまりに染まらぬように、蒔岡家の人たちは船場ことばを堂々と駆使し、そうすることによって船場の人間であることを自己確認しているのである。
したがって悦子が「いってらっしゃい」「有難う」という標準語を使うのは、それだけ世代も若く、貿易港
神戸に近く、ハイカラな近代的な気分が入っているともとれるが、「お早うお帰り」「おおきに」で取り囲まれて暮らしている船場の人間が耳にすれば、何か親
しみが薄い違和感を抱く。子供は学校ではともかく、家の中では大人たちの使っている方言の方に感化されて、教科書的なとりすました標準語は意識してしか使
わない。現に悦子は、「そうやろ」とか、「いかんねん」とか、「やってんなあ」とか、妙子叔母を「こいちゃん」と、皆が呼んでいるように呼んでいる。その
点、こういう言葉が悦子の口から出たとき、船場の城を守ろうとする幸子や雪子が聞きとがめて、「えらいかしこまった言葉づかいするんやなあ」とか、「学校
では皆そないな標準語で挨拶してんのんか」とか、一言あってしかるべきだと思うのだが。
香村菊雄氏の言によれば、船場ではたとい楽しい会話がはずんでいても、お家(え)さんや御寮人さんが、
「そんな汚い言葉づかいしたらいきまへん」とぴしっとその場で注意するので座が白けてしまうほどだったというし、番頭も店じまいをしてから、今日のあのと
きの客に対する言い方はいけない、亀吉トンはまだ国なまりが残ってるなどと、丁稚たちに今でいう話し方教室をひらいていた。そういう光景が晩方表通りを通
ると、よく聞えて来た。ものを言えば何か言われるので、もの言わずの丁稚や女中があったほどだとか。
とすれば次のような悦子の言葉づかいを、母親の幸子はなぜ注意しないのであろうか。
上巻二十六章で、幸子が妙子に電話をかけている悦子に、
「こいさんになあ、暇やったら姉ちゃん迎いに行ったげ、言いなさい」という。それを受けて悦子が、
「あのなあ、お母ちゃんがなあ、こいちゃん暇やったら迎いに行ったげなさいて」という。
ここで悦子が単純に母親の言葉を反復して妙子に伝えればよいのに、母親もいっていない「なさい」という
命令形を妙子にわざわざ使っていることである。母親の幸子はすかさず、いくら身内でも年上の叔母にそんな言い方をしてはいけませんと注意しなければいけな
いところである。これは船場ことばとは関係のない、一般的な対人会話用法であるが。
ついでにいえば、上巻八章で幸子が娘の悦子のことを、「お春どん、あんたお嬢ちゃんに、何ぞ今日のこと
云うたんか」「あんた、お嬢ちゃんにいつ云うたん」と言っているのもおかしい。自分の娘だから「お嬢さん」とは言わず、「悦子」と呼ぶべきであろう。しか
しここも小説的会話で、殊さら悦子をええしのお嬢さんに見せる効果をねらってのことかもしれない。が、同じいうならいっそ「とうちゃん」を使う方が、船場
のお嬢さんという雰囲気がより出るであろう。
ここへ来て気がついたことは、貞之助や幸子や雪子や妙子の会話の中に、「お早うお帰り」や「おおきに」
が使われていないことである。これでは悦子が言うはずがないし、大人が注意するはずもない。
日常会話は一過性で、つい言い間違いや余計な言葉や失礼な言葉が口をついて出て、しまったと思うことが
あるが、小説の中の会話は、谷崎の場合など一日三枚のペースでじっくり推敲して作り上げたものである。したがってそれなりの意味を考えるとすれば、谷崎潤
一郎は大阪の人がよく使う「お早うお帰り」や「おおきに」をあまり好まなかったのであろうか。それとも今日大阪の人がこれらの言葉をほとんど使わないのか
ら照らしてみれば、谷崎は蒔岡家の人々に時代を先取りさせたと考えるべきなのであろうか。
「細雪」と船場ことばについては、さらに時間をかけて考察してみたいと思っている。
(「大阪春秋」第八十五号 平成八年十二月二十五日発行(季刊) 所収)
『細雪』の船場ことば (続)
一
私は四年前、本誌八十五号に「『細雪』の船場ことば」と題して書いたことがある。
その末尾に、「さらに時間をかけて考察したいと思っている」と記したものの、続編は細部の異論も出るよ
うな問題なのでそのままでいたところ、今回特集「なにわことば」の一部として依頼を受けた。そこで、他に気づいたことを採りあげてみることにする。
前回同様、あらさがしをするようなことになるので気がすすまないが、そもそも『細雪』で使われている船
場ことばはおかしいのではないかという声を、まま耳にしたことが動機になって、個々に検討を始めたのだから御容赦願いたい。また今回はいやそうではないと
いうこともあるように思うので、御意見をお聞かせいただければありがたい。
前回お断りしたように、私は昭和三年(一九二八)船場道修町の薬問屋に生まれ育ち、幼少時代は大阪弁丸
出しの生活をしていた。それだけの体験を基にするのだから、強みもあるが危険もある。危険というのは案外思い込みもあるし、忘れてしまって間違いをするか
らである。
ただ前回本誌に書いたことが機縁になって、四天王寺国際仏教大学で、大学短大総合の特別研究講座「大阪
ことば」を開くことになり、『細雪』の講義もして、少しは勉強した。が、その程度のことで、決して専門に大阪ことばにかかわっているものではない。
二
まず妙子が幸子に言う会話。
「そんな会社の名、私(あたし)は聞いたことあれへなんだ」「何で四十一まで結婚しやはれへなんだやろ」
(上・一=上巻第一章の略)など以下たびたび出てくる「へなんだ」は、「へん」(打消)に「なかった」(打消の過去形)が結びついて「ん」が略され、「な
かった」が「なんだ」になまって、しかもただの打消の過去形というややこしい成立ちをもつようだが、聞いたところでは、普通は「へんなんだ」「へんなんだ
んやろ」とさらに「ん」を入れて言っていたらしい。が、私の小さい頃、昭和十年代前後で、私たちの世代ではもうあまり使わなくなっていたことに気づく。
『細雪』は昭和十一年秋から十六年春までの時代設定だが、大人は言っているのを耳にしても、子供は「へ
んかった」と、もとの形のうち「な」を省いた歯切れのいい言い方をしていた。意味は違うが、丁稚や番頭や旦那衆が「それ、なんだす」と言っていたのに対
し、子供は「それ、なんや」「なんやの」などと言った。濁音が何となく古臭く感じられるので、死語になって行ったのであろう。
もっとも小学生の悦子が、「来なんだの」(下・二)という言い方は、「来んかったの」とともに使ったよ
うに思う。他に「知らなんだ」「食べなんだ」なども、「知らんかった」「食べんかった」が主だが、使ったように思う。
次に気になるのは、前例の「結婚しやはる」などのなくてもいいところに入れる「や」。「あの人、昨日ま
たやって来やはって」「云やはるねんが」「承知してほしい云やはって」(上・四)など。やはり幸子と妙子の会話であるが、この「や」は、女の子が「あの
子、こんなことしやはるねんし」と「し」を末尾において強調し、いけず(意地悪、あてこすり)ことばとしてよく耳にしたので、何となく下品に感じる。
「何で西宮へ家を持ちゃはったん」「死にゃはったんやったわなあ」(下・九)のように「ゃ」を小文字で
書いて、軽く含ませる発音だと下品には聞こえない。実際は下品に聞こえない言い方をしているのだろうが、以下たびたび大文字で書かれていると、そんなふう
にもとれてイメージがこわれる。表記がむつかしい。
「なさい」という、下に丁寧語の命令形「ませ」の省かれた形と考えるか、「なさる」自体の命令形とも考
えられる使い方も気になる。元来は尊敬語であるものの、船場界隈では通常先生が生徒に、大人が子供に向かってなどに使い、上の者に対しては使わない。
したがって妙子が姉の幸子に、「これにしなさい」「ま、うちの云う通りにしてみなさい」(上・五)「こ
れ着けなさい」(上・十二)などの言い方は、「これにしたら」「うちの云う通りにしてみ」「これ着けたらどう」というような勧誘表現にするのが普通であ
る。
「中姉(なかあん)ちゃんと雪姉(きあん)ちゃんで呼ばれて来なさい」(下・二十九)という妙子の言葉
も、よそ行きの言葉では「呼ばれて来て下さい」、普段着の言い方では「呼ばれて来て」で切って、命令形にしない含みをもたせた表現をする。
また悦子が母に、「こいちゃん何で家(うち)へ連れて来(け)えへんの。早う引き取ったげなさいな
!」(下・十九)は、「引き取ったげてえな !」と、ねだる口調になると思う。
「ごらん」もさらに尊敬の意を含んでやわらかいが、「なさい」が省略されているからやはり標準語の間接
的な命令形。したがって「これしてごらん」「中姉ちゃん、息してごらん」(上・五)などは、「これしはったら」「息しはったら」と尊敬語「はる」を使って
「ごらん」の尊敬の意を出すか、もっと気軽に「これしとおみ」「息しとおみ」というような言い方もする。
これは神戸の方から入って来た女性ことばで、牧村史陽『大阪ことば事典』によれば、「シトォ=シトオク
ナハレ(してちょうだい)の約」とあり、それに「してみたら」の意が加わったものと解されるから、やさしく言えば敬意が生じる。が、一方では単に「してい
る」「しておる」がちぢまって「してる→しとる→しとお」になった形とも解されるので、時にぞんざいにも聞こえる。
「あんたはとにかく、何も持たんと話だけして来なさい」(上・十四)、幸子が夫貞之助にいう言葉も、
「来たらええ」または「来とくれやす」というところ。「やす」は「遊ばせ」に当たる。同じく「もう止(や)めなさい」(上・二十)は、「止めとき」「止め
といて」「お止めやす」、命令形にしても「止めときなはれ」と敬語「はる」を使う。標準語で言うなら「来て下さい」「止めて下さい」となる。同じく「(雪
子ちゃんやこいさんに)晩は何ぞ奢(おご)りなさい」(中・二十七)は、「奢って上げたら」から「奢ったげて」になり、略して「奢ったげ」になるところ。
お見合いの席で幸子がボーイに、「お隣へ少し葡萄酒を注いで上げて」(上・十一)といっているように。
貞之助が妻幸子に、「明るい所(とこ)へ来てみなさい」「臥(ね)てなさい」(上・二十)と言うのも他人行儀の感じで、「来てみ」「臥て」で止めてしま
う。
三
女中のお春が、あまりにも折目正しい標準語で敬語を使っているのも気になる。敬語は使う人自身の人柄や品位をか
もし出す性質を持っているから、女中のお春が立派に見える。
「奥さんに申し上げてくれおっしゃっていらっしゃいます」(中・六)、「シュトルツさんへお茶に呼ばれ
ていらっしゃいました。もうお帰りになる時分でございますけど、お呼びして参りましょう」(中・十)、「これからこちらの御寮人(ごりょん)さんがお伺い
したいとおっしゃっていらっしゃいますのんで、私がお供して参ります。旦那様からお手紙が参っておりますのんで持って参りますが、ほかに何ぞ持って参りま
すものは
?」(中・十七)、「六時半頃と存じますが」(中・三十五)とか。
ところがこのお春は「幾日でも垢だらけのものを平気で着ている」「中から御寮人様のブルマーが出て来
た」「洗濯するのが面倒臭さに、お上のものまで穿(は)いていた」「傍へ寄ると臭くてたまらぬ」「始終買い食いや摘(つま)み食いをする」「素質が悪く、
学校の成績なども弟妹に比べて著しく劣る」幸子は「何せ、だらしないことというたら、あの着物の着かた見たかて分るやろ。お春どんは前も何も丸出しにして
るいうて、ほかの女中たちが笑うたもんやったけど、今かてちょっとも直ってえへん。生れつきいうもんは何ぼ叱言(こごと)云うたかてあかんもんやなあ」と
愚痴っている。しかも、まだ二十歳、そんなお春の言葉とはとても思えない。
それから「は」の返事も標準語的で、「へ」「へえ」がないのも船場の雰囲気からお春を浮き上がらせてい
る。
昔は丁稚奉公したら「はい」ではない「へえ」と返事せよと旦那や番頭から教えこまれた。女中も例外では
ない。いわば四六時中大阪ことばの話し方教室の中にいるようなもので、お家(え)さん(姑)、御寮人さんは両方の個人教授であった。なまりの強い地方から
来た.者は大阪弁になじむのがたいていでなく、たとい仲間と談笑していても容赦なく注意されるので座が白け、もの言わずの丁稚や女中になったといわれるほ
どである。とすると、このお春の標準語の敬語の言葉づかいは誰が教えたものか。芦屋で、船場の雰囲気を存分に発散している蒔岡家の人たちの中で、標準語の
優等生が一人いるようで不自然である。
したがって、例えば「はあ、わたくしが出て参りました時はいらっしゃいました……」(下・二十二)は、
「へぇ、わてが出て参(さん)じました時はいたはりました……」と、「わて」や「参じ」を使うように教えられるはずである。「参じ」は「参上する」武家こ
とばだが、船場では「行(い)て参じます」というのがメリハリの効いた挨拶ことばであった。
四
『細雪』は帯が「キュウキュウ」鳴るので、あれこれ帯を結び替えるところから始まるが、その頃着物の柄選びによ
く使われた「はんなり」とか「こおと」とかいう言葉が、全く出て来ないのがふしぎである。
「それ、似合うやろか」(上・五)の次に、「派手やないやろか」とか「ちょっと地味と違う
?」とかあっていいし、それに対し「これでええ、これでええ」の次に、「はんなりしててええ」とか、「こおとで品があってええ」とか、あっていいところで
ある。
また、「雪子ちゃんの年で、あれだけ派手なもん着こなせる人はあれしませんで」(下・二)の次には、
「派手は派手でもはんなりしてよう身に合うたある」と一言ほしいところである。
なぜなら「派手」は、「派手なお人や」「ちょっと派手すぎへん
?」と否定的に使うことが多かった。
これは派手は成金と結びついて、船場は成金に見られることを嫌ったのと関係がある。ちょっと金ができたからといって派手にふるまうのを成金根性といって蔑
んだ。暖簾分けさせてもらった本家を立てて、たとい急成長して本家をしのぐようになっても、分家別家は本家以上に出ることを慎むという風があって、派手は
「はしたない」と見られたからである。また栄枯盛衰は世の常であるので、成金になったからといって有頂天になってひけらかすのを自戒したこともあった。
そこで「はんなり」した派手が好まれた。「はんなり」は「花なり」と「ほんのり」が結びついたような言葉で、上品な、やわらかいはなやかさをいう。「こお
と」も「高等」から来ているといわれ、世間では「地味」と片付けられているようだが、やはり上品でシックな地味をいい、「派手─地味」、「はんなり─こお
と」あるいは「派手─はんなり─こおと─地味」という図式が考えられ、それぞれ単なる派手や地味とは一味違った。
共によい言葉なのに戦後使われなくなったので、せめて『細雪』の中にあったら生きつづけるのにと残念で
ある。敗戦のどん底で「はんなり」も「こおと」も死語になったのはわかるが、経済大国になった今日では、これらの語のもつ洗練された雰囲気がまた復活して
いるから、言葉も復活してよいと思うのだが。
妙子の言葉で「よばれてめえへんか」(上・十六)は、表記すると下品に感じる。「みませんか→みまへん
か→みいひんか」s音がh音に変わってseがheになるのは大阪弁の特徴で、「mima」のm音が脱落しa音がi音に変化して「mii」になった形だが、
この方がまだしもという感じもする。「めえへんか」は「見えた見えた」が「めえためえた」に転じたところからできたと思われる。今も使っている言葉で、日
常会話では別に気にならないのであるが。
「食う方やったら」(上・十七)という貞之助の言葉づかいも蒔岡家らしくない。「食べる方やったら」と
言ってほしい。
「大阪弁使うてくれなんだら、どこの子たちやら分らへん」(中・十四)と雪子が東京の姉の子供に言うの
もおかしい。「良うできた子たちをお持ちで」などと、「子たち」は船場の慣習ではよその家の子供にいう一種の敬称で、ここはやはり身内扱いで「どこの子や
ら分らへん(複数でも単数で)」とするべきであろう。
作者が苦慮したと思われることに、それぞれ自分をいう場合の呼称がある。妙子だけ「うち」、他の姉たちは「あたし」、悦子は「悦子」と使い分けされてい
る。これらは各家庭でさまざまだし、妙子の場合も最初に引用した箇所のように姉妹間でも「私(あたし)は聞いたことあれへなんだ」と言い、姉夫婦が上京す
る際、見送りに来た老妓や義兄の学友には「あたし」と言っている。
「うち」は今でも妻が夫のことを「うちのひと」とよく言っているから──もっともこの「うち」には
「家」の意味も含まれているが──、現実には場合によって姉たちも「うち」を使うこともあると思うし、悦子は学校と家の中では使い分けしているから、他の
言い方も出て来ておかしくない。が、小説の中では混乱が生じる恐れがある。これも文字化する上のむつかしさである。
船場では御寮人さん・いとさんも「わて」という風習があった。しかし文字化すると品が下がるようにも感
じられるので、せめてお春の場合に「わて」を使うと、より船場の雰囲気が出るのではないかと思うのだが。
最後に、当初から不審に思っていた「中姉(なかあん)ちゃん」「雪姉(きあん)ちゃん」という呼び方
は、やはり船場では言わないようである。「ゆきあんちゃん」が詰まって「きあんちゃん」に聞こえたと説明してあるが、「あんちゃん」に結びついて語呂がよ
いのは「き」音ぐらいしかないのでないか。「中あんちゃん」も特殊な言い方で、一般には「中さん」「中ちゃん」と言っていた。とすれば「細雪(ささめゆ
き)」といい、「雪(き)あんちゃん」といい、谷崎は素晴らしい言葉の発見者といわなければならない。
東灘岡本の谷崎邸への出稽古に父菊原琴治検校の手を引いて行った菊原初子氏は、「松子奥さんとせんど(長く何度も)船場ことばで話している間、谷崎先生は
隣の部屋の戸の側でずっとお聞きになっておいでやしたそうで。あとから知って、そおでっか、そないにしてお勉強されてやしたんでっか。それで『細雪』で、
きれいな船場ことばを上手に使うておしやすのんですなあ」とよく話されている。大阪弁を活字にして文章にするのは敬遠される風潮の中、『細雪』には堂々と
船場ことばが登場するのは千金の重みがある。
(「大阪春秋」第101号 平成十二年十二月十九日発行季刊 所収)
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