ばいばい年の暮れ 眞岡 哲夫
帰りに花を買ってきました。乱雑に物の置かれていたのがきれいに片づいて、机の上に、白い洋花が生けられています。その花が、終わろうとしています。亡き人には白い花がいいのかも知れませんが、あなたの人柄には白ばかりでは寂しすぎると思い、花屋で赤いチューリップと黄色いかすみ草を選びました。整頓好きな私の目には、ずいぶん散らかったあなたの机でしたが、散らかっていたということは「生き生きしていたのだ」と、いま、痛いほど気づいています。明日になったら色花を飾って、せめて机の上を生き生きとさせてみようと想っています。
日曜の夜、珍しくむずかしい顔でパソコンに向かっていましたね。青白い顔で、ふっつりと黙り込んで、大好きなかりんとうをバリバリと食べることもなく、私が入れたお茶を黙って飲んで、何かにとりつかれたように文章を作っていました。
帰り際に、「ちょっと疲れ気味の時は、風邪を引いたことにしておくんだよ、家では。そうすると大事にしてもらえるんだよー」といたずらっぽく笑い、パソコンに向かっている私の背中に、「じゃね、ばいばい」と言ってあなたは帰って行きました。一時間後に昏倒するなど、誰が想ったでしょう。それどころか、あなたが倒れ、救急車で病院に運ばれて意識不明になっても、私は何も知らず朝まで職場で仕事をしていたのです。
朝食を摂りに家に帰り、山のように入っていた留守電に胸騒ぎがしました。同僚が泣きながらあなたの変事を告げ、すぐ病院に行ってほしいと繰り返し伝えているのを聞いても、なぜか私は「大丈夫・大丈夫」と思い、一人の部屋で何度もその言葉を言ってみました。けれどあなたは大丈夫じゃなかった。病院に駆けつけたときには、人工呼吸器につながれ、血圧上昇剤が絶えず投与されていました。医師は、自律的には生命は維持できぬと断言しました。でも、あなたの心臓は強かった。薬に助けられてにせよ、よく動いていました。何より、あなたの手は温かかった。そしてその顔は、まるで会議中に居眠りをしているような、そんな様子に見えました。
雪の中を函館から、お友達に助けられ娘さんがとんできました。病院の入り口で捜して待ちかねていた私は、何度も違う人に声をかけて訝しがられました。それでも私は受付の前でお嬢さんをつかまえ、お嬢さんはあなたの手が温かいうちに救急室にとびこむことができました。
午後になり、三時になり、温室から上がって来てあなたが研究室でお茶を飲むいつもの時間になりました。室内実験の多い私には、元気に帰ってくるあなたが、温室の植物の生気を連れてくる気がしていました。かりんとうが好きでした、三時のお茶に菓子器に有ったかりんとうが、次の日に残っていたことなんか、なかったですよね。そのあなたが日曜の夜、菓子器に残っていたただ一つのかりんとうに、手をつけようかつけまいか迷って、結局残して帰ったのは何故であったでしょう…。その最後の一つが、そのまま今も菓子器の底に残っています。
枕べに詰め寄っていた私たちは、あなたの顔と、機械のモニター画面とを半々に見据えていました。血圧と心拍を示す緑色波形が、だんだん形をなさずさざ波のようになっていきます、もう心臓は脈打っていない、と医師は。
だれもだれも、そんなことは信じませんでした。さざ波が続くかぎり、細くても命脈は続くものと思っていたのです。
奥さんが泣いて「真人さんの顔が青くなってる」と、叫びました。「しまった」と思いました。モニターに気を取られ顔を見るのを忘れていたのです。その間の油断がいけなかったのか、あなたは逝ってしまった、静かに静かに。いつも研究室で、私やパートさんたちとお茶を飲み、菓子を食べているちょうどその時間に、なぜ、あなたはたった五十年生きただけで逝ってしまうのか。
あなたをご自宅に運び、お別れの儀式をしました。九州からも四国からも大勢の人が来てくれましたね。そしてあなたはあっという間に骨になってしまいましたが、その骨も拾わせていただきましたよ。庶民派を標榜していたあなたは、少しこそばゆかったかも知れませんが、浄土真宗の声明はグレゴリオ聖歌のようで美しかった。
小さな箱に収まって再びご自宅に帰られても、骨になられても、あなたの姿は日曜の夜のあのときのままです。ご自宅には、お茶を飲みに行くような気軽さで、時々手をあわせに寄らせていただいてますよ。お気づきですか。
私が九つの時、あなたより一つ若かった父が、同じくも膜下出血で倒れ、亡くなりました。幼かった私は、あの時ただすべてがおどろおどろしく、いたたまれなくて、むやみと逃げ回っていたのです。三十年後、今、まったく同じことが起きました。あの後悔を、深く埋め合わせの機会をあなたは与えてくださったのですね。今度は、逃げ出さずに踏みこたえました。父も見ていてくれたと思います。
明日は御用納めです。年末年始は例年どおり、研究室で論文を書いて過ごします。岩崎室長の机に、花は絶やしません、ご安心を。お茶も一緒に飲みましょう。
いまでも「○○だよー」という長州人特有の言い回しで、あなたがひょいと現れそうな気がします。さすがに夜はちょっと怖いですから、いらっしゃるなら明るい昼間にしてくださいね。あなたの代わりに書く沢山の報告書に、いい知恵を貸してください。
八ヶ月足らずの部下でしたが、よくして下さいました、ほんとうに楽しかった。二人のドクターを世に出せたと、誇らしげに、少しはにかんで笑っていたあなたの笑顔を忘れません。さようなら。
ばいばいと背で聞き永久(とは)の別れかな
モニターにさざ波ひきて逝きたまふ
白い花に赤きも添へて年の暮れ
(筆者は、北海道の研究施設に勤務の、植物病理学者。湖の本の読者)
HOME |