秦 恒平 様
 仕事で書いている論文の推敲がだいぶ進み、投稿間近になってなってきた勢いに乗じ、中野(智行)さんの気持ちの良い文章にも触発され、ずっと抱えていたテーマの一つを、この連休でまとめてみました。
 この原稿を書きたかった最も大きな理由は、沖縄でお茶を習っている人たちが、(教えている先生の多くも)、茶道は戦後になってようやく本土からやってきた外来文化で、本来沖縄とは無縁のものだと思ってしまっていることでした。
確かに、沖縄には京都のように利休さんが作った茶室もありませんし、九州のように古い流派も残ってはいません。そのせいか、地域に根を張ったような安定感がなく、みんな何となく頼りない心持ちでお茶をしているように、私には見受けられました。できるだけ沢山の人に、少なくとも17世紀の琉球に、忘筌のようないいお茶室があったことを知ってほしい、できればそれを復元して、胸を張って「沖縄自慢の茶室」で茶会をしてみたい、そういう気持ちで書いてみたもので
す。
 沖縄に十二年住んでいて、琉球文化の層の厚さ、沖縄学という学問の領域があることに驚きました。しかし、すべての分野を網羅していると思われた沖縄学も、意外と手が回っていないところもあり、この原稿で扱ってみた琉球王朝の茶の湯に関しては、沖縄県立芸術大学の、文化受容史が専門のホルスト・ヘンネマンさんというドイツ人教授が一人で、細々と研究をしている現状です。日本で茶の湯という文化が形作られていく過程で、琉球を要にした交易ルートが果たした役割は大きく、物の流通と共に、茶の湯自体も、早くに琉球に招来されていたことはあまり知られていません。 今回は、琉球王朝の茶の湯自体には深く触れず、「御茶屋御殿」という建物にテーマを絞ってみました。機会があれば、琉球王朝と千家のつながりを軸に、王朝の茶道文化についても書いてみたいと思います。
 理系の学術論文と違って、文系の論考を書く場合は、ある程度テーマへの導入部として、落語のまくらのようなものがあっていいのか、小見出しが必要か、重要なポイントを繰り返して強調してもいいのか(私はよくこのポイントのだめ押しをして、同じことを二度書くな、と上司に怒られます)などわからないことばかりですが、我流のスタイルで書いてしまいました。謝辞、参考文献についても同様です。また、御茶屋御殿の周辺にある、琉球文化の背景をどの程度書き込むべきかもよくわかりませんでした。
 最も重要なのは、このテーマが、「e-文庫・湖umi」のカテゴリーに収まるものであるかどうかです。なんだか、『畜生塚』に出てくる、「オトギヤロ」の香合の名誉挽回にムキになっている道具屋さんのようなことをしているのかなぁ、など
と自信がなくなってきました。慣れない分野の書き物はしない方がいいのかも知れませんが、あの道具屋さんと同様、御茶屋御殿の茶室については胸を張って世に出したいとフンガイしてもいるのです。
 いずれにせよ、まず秦さんに「琉球版忘筌」の存在を知っていただければ、とりあえずは満足です。よろしくご指導お願いいたします。2001.2.13   真岡 哲夫
 
 
 

       琉球の御茶屋御殿考

 
            眞岡 哲夫
 
 

 消失した御茶屋御殿

 琉球は、歴史的には中国と日本の影響を色濃く受け、地理的には東南アジア諸島と共通する亜熱帯海洋性気候にあることから、これらの要因が複雑に融合した独自の文化を生み出しました。琉球文化といえば、首里城などの建築にはじまり、三線に代表される音楽、あでやかな舞踊、紅型(びんがた)などの美術工芸品等々、枚挙にいとまがないほどですが、その一方で文化的価値が高いにもかかわらず、世に顧みられることのないものも少なからず存在しています。その一つに、御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)という御殿の茶室があります。
 御茶屋御殿とは、十七世紀後半に琉球王国の首都・首里(しゅり)に建造された、尚(しょう)王家の離宮を指します。戦前に文部省が行った調査では、首里城守礼門などと共に、御茶屋御殿も国宝候補となっていましたが、沖縄戦により建物は跡形もなく消失しました。沖縄県那覇市首里崎山町四丁目付近に遺構の石垣が一部残り、現在その近辺は首里カトリック教会と城南小学校になっています。

 欠落する茶室としての検証

 戦後首里城が国営公園として整備され、一九九二年に正殿が復元された後、復元事業は正殿以外の建造物におよび、離宮であった御茶屋御殿も復元されるべき建造物として候補にあがるようになりました。その後御茶屋御殿に関する報道や著作、論文もいくつか発表されるようになりましたが、それらのほとんどは、御茶屋御殿が文献上では中国皇帝の使者・冊封使(さっぷうし)を歓待する場面でよく登場することから、もっぱら冊封使に関連づけられて取り上げられています。これらの論考は、王家の公文書である『球陽(きゅうよう)』等の記録をひき、歴代冊封使が御茶屋御殿での宴をいかに楽しみ、興にまかせてどういった漢詩を詠み扁額を残したかを述べて、中琉外交の場として御茶屋御殿は重要であったという結論を導いています。
 むろん、このような論考も重要ですが、ここには御茶屋御殿があたかも中国との関係の枠内のみでとらえられてしまう危険性があります。御茶屋御殿は、その名が示すとおり、茶室を含んだ御殿であり、茶の湯を行う場として建設されたはずですが、「御茶」に関する部分、すなわち茶の湯に使われた茶亭が一体どこにあり、茶室がどのように使われていたのかなど、茶の湯の場としての解析に正面から取り組んだ論考はこれまでされておりません。
 そこでここでは、現存する資料をもとに、御茶屋御殿の茶室の構造と機能を明らかにしてみたいと思います。以下に、御茶屋御殿が造られるに至った経緯を簡単に述べた後、これを茶室として見たときどのような価値があるかを検証していきます。

 琉球の歴史と文化の多面性

 琉球王国は、一四〇六年に尚思紹(しょう・ししょう)が中山王となったことにより始まり、一八七九年に内務大丞・松田道之が、六〇〇名の歩兵と共に首里城へのり込み、琉球処分を言い渡したことにより消滅します。琉球王国の主たる産業は海外貿易で、中国の王朝に対して臣下の礼をとり、王国が誕生してから消滅するまでのすべての期間を通して朝貢貿易を行いました。また、一六〇九年以降は、薩摩に制圧されて日本の幕藩体制にも組み込まれ、二重の支配下におかれるという特殊な立場におかれました。首里城は琉球王国の王府として、十五世紀中頃から次第に整備が進み、王朝文化の殿堂となってゆくのですが、複雑な政治背景や他国との交流が文化面にも色濃く反映し、ここに花開いた王朝文化は、日琉中の文化を織り交ぜた独自の多面性を持つこととなります。そしてその多面性は、御茶屋御殿にも反映されることとなります。

 二つの離宮

 琉球王朝には、南苑(なんえん)と東苑(とうえん)という二つの離宮が存在していました。このうちの東苑が、御茶屋御殿のことで、一六八三年に清の康煕帝の冊封使として来琉した王楫(おうしゅう)が、「崎山は首里城継世門の東にあり、中山第一の景勝地である」(使琉球雑録)ことから、これを東苑と命名し、以降この名で呼ばれるようになりました。ちなみに南苑は、十八世紀末頃に首里城西南方の湧水に富む高台に建造された廻遊式庭園で、識名御殿(しちなうどぅん)と呼ばれ、一九九五年に国指定名勝として復元開園されました。建築家田辺泰は『琉球建築』(座右宝刊行会)の中で、「南苑を桂離宮にたとえるならば、東苑は修学院離宮にも擬すべきものであろう」と述べ、南苑と東苑の特徴を巧みに表現しています。

 御茶屋御殿の茶亭

 御茶屋御殿は首里城からみると南東にあたる、見晴らしの良い丘の上にありました。『琉球国絵図資料集・第三集』(沖縄県教育委員会文化課編、熔樹社)収録の首里古地図に、一七〇〇年頃の御茶屋御殿の配置が記されているので、その位置関係をみてみることにします。まず、首里城の方から南西に向かっていくと、西向きに門があります。向かって右側の御茶屋部分には、築地塀に瓦葺きと見られる門があり、左側の苑部には透かしのある垣に簡素な木門が構えられています。築地塀の中には、赤と青で描かれた建物が三棟と、番屋風の建物を伴った内門が認められます。また、左側の苑部の門を入ってすぐの所にも、一群の建物が建っていて、御茶屋御殿が、単に一棟の御殿を指したものではなく、複数の建物と庭を持った施設であったことがわかります。
 原田禹雄氏(「東苑をめぐって」南島研究38巻)は、東苑内の建物の配置について、「門をくぐった芝生の上方、苑内の一番高いところに、望仙閣という吹き抜けの木造建築があり、その後ろに、南向きに能仁堂という釈迦堂が建っていた。能仁堂から東へ行き、小さい竹の橋を渡ると岡がありながめがよく、門を入った芝生には、南向きに大小二軒の茶亭があった」と述べています。この、望仙閣・能仁堂・大小二軒の茶亭が、首里古地図に赤と青で記された建物の、どれに該当するのかはにわかに判断がつきませんが、園内東側の、門から入って一番奥の建物にだけは石垣が書き込まれていて、前出『琉球建築』に所収されている写真とその形が一致していることから、この建物が茶亭であったと断定できます。首里古地図をよく見ると、この建物は、東(右)側の、こちらに妻を向けた棟と、西(左)側の、こちらに平を向けた二棟から成り立っているように見えます。写真が残っているのは、東側の建物部分だけですが、西側の建物が、小さい方の茶亭なのかもしれません。
 東苑に茶亭が建てられたのは、尚貞王(しょうていおう)の時代、一六八二年と言われています。この時代は、十七世紀の初頭に、堺の人、喜安(きあん)によって琉球王朝にもたらされた利休流の茶の湯が、尚豊王(しょうほうおう)から尚貞王に到り全盛期を迎えていた頃にあたります。東苑には、剃髪・単衣の茶道職・御茶屋当(あたい)がおかれ、王朝の迎賓館としてお茶の他にも、生け花、武芸など様々な催しの会場となり、多くの扁額や詩が寄せられ、琉球王朝の文化の殿堂としての役割を担っていたものと思われます。

 御茶屋御殿の様式

 御茶屋御殿と似た施設が他にないか探していたところ、福島県の会津若松市に同名の「御茶屋御殿」という建物があることがわかりました。会津の御茶屋御殿は、藩主の松平氏が別邸として営んだもので、現在は「会津松平氏庭園」として、国の名勝に指定されています。その園内には各種の薬草が栽培されていたことから、「御薬園(おやくえん)」の名で広く親しまれています。薬園は、大宝律令の職制としての薬部・薬園師から始まり、古くは平城京薬師寺などに薬園がおかれた記録があります。江戸時代には、将軍家をはじめとして、各藩が盛んに薬園を経営し、薬品の製造、鑑識、研究などを行ったようです。
 会津にある御茶屋御殿と琉球の御茶屋御殿の間には、何か共通性があるのでしょうか。まず、御薬園と東苑の成立年代と構成を比較してみます。会津若松市教育委員会の資料によれば、御薬園は、一六九六年に小堀遠州の流れをくむ園匠、目黒浄定によって現在の形に整えられました。御薬園の立地に関して特徴的なことは、園内に薬師堂などが建立されたほか、庭園が付随し、御茶屋が建てられたことです。このことは、御薬園が、単なる薬草園ではなくして、将軍や藩主の鑑賞や遊興にも使用されたことを示しています。
 一方、東苑の造営は、諸説ありますが、一六七七年から一六八二年頃で、その構成は、釈迦堂、庭園、茶亭などからなっています。また、後述するように、その作風には遠州の手法が色濃く感じられます。さらに、苑内には薬種が栽植されていた記録があり、国王、冊封使の歓待に使われたことは、前に述べたとおりです。こうしてみると両者は、十七世紀後半に遠州流の作風で造営され、仏堂、庭園、薬園を伴い、もっぱら貴人の利用に供されたことなど、その特徴が良く一致しています。
 つぎに、御薬園の御茶屋御殿と、東苑の茶亭を比較してみましょう。御薬園の御茶屋御殿の上の間は八畳敷で、北側に一間床を構えています。その西側に次の間が、さらに北側に扣(ひかえ)の間が続いています。写真を見ると、天井も高く長押(なげし、柱をつなぐ水平材)も入って、書院造りの堅苦しい雰囲気になりそうなところですが、柱に面皮丸太(めんかわまるた、丸太の四隅を平らに削って自然味を残したもの)を使うなどして、数寄屋造りのわびた雰囲気をうまく作り出しています。座敷の回りには、広縁がめぐらされ、庭園と座敷をつなげる役割をしています。ここからは庭園のすばらしいながめを鑑賞できるようになっています。
 一方、東苑の茶亭も御薬園のそれと同様、三室から成り立っています。やや北向きに西面する玄関を入った南側には、上の間とみられる床を配した七畳敷があり、時計回りに十畳半、六畳の間が続いています。ただし十畳半の部屋は、六畳と四畳半に仕切って使われていた可能性があります。これらの部屋は、広縁に囲まれており、景観鑑賞の目的を持っていたことを物語っています。つまり、両者の基本構造は、いずれも床の間を持った主室に、二つの控えの間が付随し、その回りに広縁を配していて、茶室についても特徴が良く一致しています。
 御薬園が国の名勝として復元されるに際しては、会津若松市教育委員会や(財)文化財建築物保存技術協会によって詳細な報告書が残されています。これらは、東苑の茶亭の復元を考える際に大変参考になるものと思われます。また、御茶屋御殿に関して、遠州流の作風を指摘したものはこれまでになく、薬園様式という、もうひとつのキーワードと共に、新たな観点から東苑をとらえ直す必要があると思われます。

 御茶屋御殿独自の工夫

 『琉球建築』に、一九三四年から三五年ごろの御茶屋御殿の茶亭の図面と写真が掲載されています。また、文部省職員であった阪谷良之進も、一九三一年当時の茶亭を撮影しており、数葉の写真が沖縄県立図書館に保管されております。
 これらの資料をもとに、茶亭の構造を見ていくことにしましょう。前に触れたように、東苑には大小二棟の茶亭があったようです。二つの資料にある「御茶屋御殿」の図面、写真は、このうちの大きな棟のものとみて間違いないでしょう。茶亭の外観の写真は、南東側から北西に面している建物正面を撮ったもの、北側から建物正面と向かって左側を撮ったもの、西側から建物正面と向かって右側を撮影した三枚があります。建物右側を写した写真から、南向きの傾斜地に琉球石灰岩の石垣を築き、その上に茶亭が建てられていたことがわかります。建物は、木造平屋のほぼ正方形をしており、外壁は竪板張りで、屋根は入母屋造り、明式瓦葺きです。建物左側の写真を見ると、縁側から広縁には沓脱石を使って三段登るようになっていて、床の位置が高かったことがわかります。関東平野の農家などでも、川の氾濫による浸水に備え、床の位置が高くとられている家を見かけますが、御茶屋御殿は丘の上にあり、浸水の心配はありません。この床は、高床にして涼気を取り入れる工夫です。
 外壁の木板は三段に張られています。復元された南苑(識名園)の御殿を見ますと、外壁は上下二段に張られており、上半分が蔀戸(しとみど)のように外に突き上げられるようになっています。東苑茶亭の外壁では、一番上の段が突き上げられるようになっており、正面玄関右脇および建物右側部分の玄関側半分が、このような構造の壁になっています。写真をよく見ると、中段部分に一対の小さな取っ手が付けられているのがわかりますが、この取っ手を持って引き上げると、中段が取り外せるようになっています。下段は造り付けになっていて、その高さはちょうど舟の艫程度で、蔀戸を上げ中段を取り除くと、広縁から手すりに寄りかかって庭が観賞できるようになっています。
 正面玄関と、左側の勝手口と見られる入口は、母屋から突出しており、庇(ひさし)を付けて軒先から柱を下ろしています。これは、識名園の御殿の玄関部分とほぼ同じ造りです。玄関部分の左右二本の軒先柱は、左側は上三分の二に袖壁を付けていますが、右側はまったくの吹き抜きになっています。これに対して、勝手口は両側とも足下まで袖壁が取り付けられています。玄関右側の袖壁を取り去ったのは南向きの眺望に配慮したためで、細かい心配りがされています。軒先柱は右側を写した写真の建物右(南)端にも見られ、建物背面の、簀縁(すのこえん)の付いた部分にも幅の細い庇が付けられていたことがわかります。
  茶室に入る前には、手水を使って身を清めますが、東苑茶亭には玄関の左脇に大型の舟形手水鉢が据えられています。通常茶庭では、石の手水鉢を低く据えて、つくばって使うことが多いのですが、この手水鉢は大型で背が高く、立って使ったものと思われます。ここからもこの茶亭が、王家、国賓などの貴人用に造られたことが感じられます。
 建物左側の庭に面している部分は広縁が続き、合計四組の沓脱石が据えられています。こうすれば、庭のどこからでも広縁に上がれ、逆にどこからでも庭に下りられるわけですから、建物を庭に向かって最大限開放している姿勢が感じられます。左側を写した写真では、この広縁に簾が掛けめぐらされています。また、右側を写した写真を見ると、玄関左側の簾の部分が透けていて、広縁から庭を見たときの、涼しげな光景が想像できます。さらに、左側の写真には、軒先にも簾を掛ける取っ手がみられますから、日射の加減によって、内側の簾を巻き上げ、外側に短い簾を掛けたことも考えられます。このように茶亭には納涼に主眼を置いたさまざまな仕掛けが凝らされています。

 東苑七畳敷茶室の作風

 小堀遠州(一五七九?一六四七)は、利休、織部亡き後、将軍家茶道師範として家光に仕えた大名茶人です。遠州は、公家的な古典美と武家茶道との一体化をはかり、作事奉行として多くの城や茶室を造営し「書院茶」を確立しました。遠州の作庭には、通常「御亭」と「御茶屋」という、二つの建物が設けられました。御茶屋は、畳敷き四畳半以上の茶座敷で、専ら貴人の利用に供し、上段、中段、下段の室を持っていました。会津若松市の御薬園でも、御茶屋御殿と楽寿亭という二棟が設けられ、御茶屋御殿は、上の間、次の間、扣(ひかえ)の間から成り立っています。また、東苑の茶亭も大小二棟があり、大きな茶亭は三室からなっていることを前に記しました。これらの特徴は、小堀遠州の作風と良く一致しています。
 東苑の茶亭内の三室のうち、玄関入って右手の部屋が、上段の間と思われます。この広間は、七畳間の南側に一間の出床があります。一九三一年当時の写真を見てみますと、その様子がよくわかります。撮影時の茶室は、畳を取り外した状態であったため、写真左下隅に正方形の板の切り込みが認められ、ここから炉の位置が推定できます。炉が、床柱の方からみて半畳過ぎた先に切られています。この位置に炉を切ると、点前座が座敷の中央寄りに位置し、しかも床と平行に並んで設けられることになります。またこの炉は、亭主が茶道口から茶室に入り、そこにそのまま座って点前をはじめる「小間切」という切り方のため、書院でありながら草庵の小間の点前のような雰囲気を醸し出します。
 このような間取りの茶室が他にあるかあたってみたところ、京都の大徳寺孤蓬庵(こほうあん)に忘筌(ぼうせん)という茶室がありました。忘筌は十二畳ですが、床から遠い下座側の五畳を取り去ると、東苑七畳敷茶室と全く同じ間取りになります。忘筌の作者は、小堀遠州です。忘筌には草庵風な装置や意匠は全く見られず、書院茶室様式の完成された手法で、茶の湯に適した機能と雰囲気を創り上げています。同様な間取りは、妙心寺桂春院既白軒書院、稲荷大社御茶屋一の間などでもみられますが、炉の切り方は若干違っています。
 東苑の七畳敷にも、書院茶室としてのさまざまな工夫がみられます。柱や床柱には、御薬園の茶室と同様、面皮丸太が使われ、書院でありながらわびた雰囲気をつくり出しています。床は忘筌と全く同じ構造ですが、床框(とこがまち)や床柱は、忘筌のものよりより面取りが浅く、自然味を残しています。しかし反対に、床の上方の落し掛け(おとしがけ)の位置は、忘筌が例外的に低く取り付けられているのに較べ、東苑の七畳敷は高く、格高くつくられています。床脇の下が吹き抜けられているのも忘筌と同じで、床脇がそのまま点前座にとって風炉先の役割をします。天井は、両者とも竿縁天井(さおぶちてんじょう)ですが、東苑七畳敷のほうが、やや低くつくられています。この他、襖や床に張り付けられた唐紙の文様や、襖引き手の位置など、両者に若干の相違が見られますが、東苑七畳敷が復元されると、床前は忘筌にかぎりなく近い雰囲気の茶室になることが予想されます。それは、完成された書院様式の手法でつくられた茶室が、十七世紀の琉球に存在していたことを示すことにほかなりません。

 茶室としての価値

 これまでみてきたように、御茶屋御殿は、遠州流の書院様式にもとづいて建造されたものであり、茶亭には亜熱帯気候に順応するための工夫がなされ、一部唐様の建築様式も取り入れた独特の建物であったことがわかりました。御茶屋御殿には、なお多くの疑問が残されています。文献にある小さな茶亭の位置、茶亭の東側の小間と見られる部屋の構造、勝手口と水屋の構造、などなどは今後の研究を待たねばなりません。しかしながら、現時点でも間違いなく言えることは、東苑の茶亭が、茶室建築としてきわめて価値の高いものであり、御茶屋御殿の復元にあたっては、茶道史的な見地からも充分な検討がされるべきであると言うことです。

 資料収集にご協力をいただきました、会津若松市教育委員会、沖縄県立図書館にお礼申し上げます。

(参考文献)
会津若松市教育委員会『名勝会津松平氏庭園整備基本計画報告書』会津若松市教育委員会
(財)文化財建築物保存技術協会『名勝会津松平氏庭園(楽寿亭)修理工事報告書』(財)会津保松会
沖縄県教育委員会文化課『琉球国絵図資料集・第三集』熔樹社
御茶屋御殿復元既成会準備委員会『御茶屋御殿』御茶屋御殿復元既成会準備委員会
阪谷良之進『戦前の沖縄・奄美写真帳』沖縄県立図書館
田辺泰『琉球建築』座右宝刊行会
玉城千賀子「近世琉球の「お茶」について」琉球大学法文学部1986年度卒業論文
野々村孝男『首里城を救った男』ニライ社
原田禹雄「東苑をめぐって」南島研究38巻44-53
中村昌生『京都茶室細見』平凡社
中村昌生『茶匠と建築』鹿島研究所出版会
 
 
 

(筆者は、気鋭の植物病理学者として国際的に活躍の傍ら、茶の湯を愛し嗜み、ながく沖縄県下に赴任のあいだに、こういう研究にも重い寄られていた。これは、貴重な言及であり、専門家たちをも裨益するものと思う。エッセイやメールの独特の温厚美というべき真岡さん達意の文章には、すでにこの「e-文庫・湖」のなかでフアンが出来ている。湖の本の読者でも。)


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