「e-文藝館=湖 (umi)」 評論室 寄稿

こうの ひとあき エッセイスト 1929.5.3 愛媛県生まれ。京都在住の著名 な評論家・詩人。日本ペンクラブ会員。「京都」にかかわる文学・文藝面からの精緻な論策は質 量ともに卓越していて、谷崎や川端の京都での足跡もよく追求実証されていて有り難い。また近代京都の成り立ちをめぐって思想的・社会的・政治的な基盤にも 触れてゆく視野は確かである。この『京おんなの肖像』京都新聞社刊1997年10月の『初恋』鑑賞は、河野氏の力を入れて繰り返し書かれてきたもので、作者としてひとしお嬉しく有り難い。01.07.11 掲載



    秦 恒平 『初恋』── 大道藝人の娘の愛

              河野  仁昭
 
 

     1

 わたしの京都への関心をかきたて、京都への認識を改めさせてくれたのは、秦恒平の京都論だった。
 十代の終わりに四国の片田舎から出てきたわたしがみた京都は、妙にごみごみしていた。名前だけは知って いた神社や寺院を訪ねてみたりもしたが、観光客の姿はほとんどなく、建物も庭園もかなり荒れていた。寺によっては雨漏りで畳が腐りかけていて、部屋に黴の 臭いがこもっていた。訪ねたといっても、なにかの用で通りがかりに、知名度の高い社寺をみかけると、その名前にひかれて立ち寄ってみるといった程度のこと で、わざわざ訪ねてみるほどの興味も関心もなかった。千年の「花の都」などとは信じがたい気持ちだった。
 そのころのことだ。わたしはアルバイトに、東山区にある某役所の臨時雇いをしばらくしていたのだった が、役所とは別棟の小さな平屋に住んでいた用務員の奥さんに、ちぎれたボタンをつけてもらうなど、ときどき世話になっていた。休日を利用して帰省したわた しがその話をしたところ、母がお土産にもって行ってあげるようにと、柏餅をかなりたくさんつくって包んでくれた。わたしはわずらわしい気持ちだったが、食 糧不足の時代だったし、田舎にはそんなものしか土産らしいものはなかった。
 包の一つは下宿のお婆さんにあげた。お婆さんはおし戴くようにして受け取ってくれた。もう一つを用務員 の奥さんにもつて行ったところ、なんやろ、といってわたしの目のまえで包を開いて、餅の一つを親指と人差指で汚い物でもつまみあげるようにして、しげしげ と眺めた。ありがとうともいわなかった。
 用務員の奥さんといっても、そのときおそらく三十歳を少し出たところくらいだったと思う。二人か三人子 供がいたが、まだ一人も小学校へはあがっていなかった。
 京都の人に、迂闊に物などあげるものではないという思いが、身に滲みた。そのときの複雑な思いは、いま なお心に残っている。あの奥さんがはたして京都の人かどうかは知らない。おそらく京都生まれではなかったろう、人まえもおかまいなく、胸元を開いて子供の 口に豊満な乳房を含ませるような女性だった。
 いまもって京都人のデリカシーが理解できない田舎者で、茶の湯の心得すらもないわたしは、この街ではず いぶん恥をかいてきたし、嫌な思いを味わってきた。逆にいえば、無神経に加えて、京都の習慣に無知なわたしは、それと意識することなく、まわりの人たちに 対して、数々失礼な言動を重ねてきたわけである。
 京都の街に観光客が帰ってきたのは昭和三十年前後、つまり朝鮮戦争の末期ころからだったと思う。わたし が人並みに京都に関する書物を読んだり、折にふれ名所旧蹟などを訪ねるようになったのも、そのころからである。京都に住んで十年もたっていながら、わたし は旅行者あるいは観光客の一人であった。そういう者としてのなんでも見てやろうで、テーマもなければ体系もない、要するに行き当たりばったりだった。
 それからさらに十年たち二十年たち、わたしの京都住まいは、戦後京都の復興の歩みとともにあったわけだ が、依然として旅行者であり観光客だという気分は抜けなかった。わたしにとって京都は、矛盾するようだが所詮旅先の街であった。京都市民になったという思 いはまるでなかった。
 そんなわたしの京都への認識を改めさせてくれたのは、秦恒平の京都論だったということは冒頭に書いた。 ショックだったのは、彼が『朝日ジャーナル』に昭和五十九年五月から九月にかけて連載した『洛東巷談・京とあした』であった。そのまえにわたしは、彼の 『京 あす あさって』(昭和五十四年)という随想集を読んでいたから『洛東巷談』に毎回注目していたのだが、『京 あす あさって』には、たとえば次のような一節があって、わたしを瞠目させたのであった。

       *
 見え見えの慾は深いし、こまかい暮しをしているから、京都では有徳人(うとくにん)と貧乏人の別なく、 すこぶる勘定高い。その点、大阪人よりも金勘定がきたない。街中を占有意識で浸蝕して、行儀わるく悠然とつね姿(な)りで我がもの顔に過ごしたいのも、裏 がえすとそのほうが安くあがるからだ。つね姿りで通せる世界は広いほうがよく、よそ行きに改まらねばならぬ世界は、せまいほうがいい。いつも晴れ着ではか なわんのである。これは保守とか革新とかと別のことで、内弁慶の心情である。内弁慶ほど差別的によそものを見る。京都は日本中で一等差別のきつい街だと私 は断言する。
          *

 断っておかねばならないが、わたしは旅行者、観光客の気分が抜けないとはいうものの、三十年も四十年も住み、し かも、多少は文献にも当たり、あちこち見に出歩き、数は多くないにもせよ親しい人もできてみれば、自ずから京都に愛着がわく。ふるさとがあるとはいうもの の、室生犀星ではないが帰るところではない。だから、秦恒平が京都出身者であるなしにかかわらず、ずけずけと京都の悪口をいわれるといい気がしなかった。 だが、「京都は日本中で一等差別がきつい街」だといわれてみて、なるほどそうであったかと腑におちる思いがしたのである。いい気がするもしないもなかっ た。
 京都へ来るまえ一年ほど、わたしは大阪をうろついていた。活気があるのは闇市だけのような、戦災に焼け ただれた街で、敗戦国の悲惨さを見せつけられる思いがしたものだが、人々は意外に親切だった。別けへだてを感じさせなかったのである。先年の阪神淡路大震 災後の一時期がそうだったように、貧富の区別なくお互いに無一物にひとしくなってしまっていたからでもあったろうが、京都の人とは明らかに肌ざわりがち がった。田舎者であることに引け目を感じさせられることがなかったのだ。
 『洛東巷談・京とあした』は、京都人の無自覚的な序列(あるいは位取り)すなわち差別の歴史を軸にして 展開した京都論だといってよい。次のような一節がある。
 
      *
 すさまじい差別と逆差別とを温存しつつ、それに無感覚になっている、なろうとしている「京都」が、確か に今も、ある。私自身まぎれもない差別者だった少年時代を回顧した、これは実感である。あらゆる歴史的な差別問題の根は、貴賎都鄙という座標の「象徴」た る「京都」それ自体にあったという実感である。
        *

  秦はここでは、在日朝鮮・韓国人を含めて、「よそ」から移り住んできた人たちを「異人」と総称して「和人」と同格視しなかった歴史と現代を説くのだが、 「異人」がもたらした文物によって発展を遂げてきた歴史に照らして、これはたしかに矛盾した歴史的事実である。わたしたちが住む京都においていい例が、平 安遷都の基をひらいた秦氏に対してそうであったことである。しかし、「よそ」からの移住者は外国から来た「異人」だけではなく、程度の差はあるにせよ、都 の外から入り込んできた者もそうみなされて不思議はなかった。それどころか、秦によると都とは洛中のことであって、洛外すなわち鴨川の東に住む者は都人と はみなされなかったというのだ。そのはるかな延長にある四国、九州、関東、東北ともなれば、いうも愚かであろう。外国(とつくに)に等しかったはずだ。
 おそらく「貴賎」は「都鄙」とも無関係ではない。「鄙にはまれな」などといういい方には価値観が感じら れる。「野鄙」ともなればなおのことだ。さらに、地位、財産、教養などとも大いに関係があろう。秦はいう。

       *
  しかも奇妙にも、差別の重荷はあくまで重く、それなのに差別している側はほとんどその事から意識が逸(そ)れてしまっている。いや、たぶん意識を逸らして しまっている。見て見ぬふりという一等苛酷な優越の態度がびまんしてしまっている。故意に意地悪はしていない、しなかった、などという言いわけは、だが、 意味がないのだ。
       *

  記紀万葉からすでに.「貴賎都鄙」に関する表現は出てくる。平安朝の文学についてはいうまでもない。京都の歴史は、秦恒平のいう「差別と逆差別」を内に抱 えての歴史であったことを認めざるをえないのである。
 秦のいわゆる辛口京都論は、ほめられることに慣れてしまっている京都人にとっては、すんなりとは受け入 れがたい。わたしの知人にも彼を誤解している人がいる。水上勉に対してもそうである。
 改めていうのも気がひけるが、秦にとって京都は、好きも嫌いもない、生まれ育ったふるさとなのだ。人が 京都をけなしたら、おそらくむきになって京都を擁護するだろう。彼の京都論は、彼の自画像にひとしい。京都は彼の内にあるのであって、旅行者や観光客に とってのような外の世界ではないのである。東京へ行って会社づとめをしながら小説家になった彼は、東京という生活環境に身を置くことによって、京都人以外 のなにものでもありえない彼自身を見出さねばならなかったのだ。その過程をへて小説家になったといってもよいだろうし、小説家になって内なる京都がいっそ う明確になったともいえるだろう。
 少なくともいままでのところ、京都を抜きにして秦の文学はありえなかったし、その京都は、京都育ちでな かったらおそらく見えてこない京都であった。その一例が以下に紹介する短編『初恋』である。
 

     2

 『初恋』(昭和五十三年十月)の原題は『雲居寺跡(うんごじあと)』であった。この原題から察せられるように、 『初恋』
の重要な舞台は雲居寺跡である。
 といっても、わたしはそんな寺がかつて京都にあったことさえ知らず、あるいは架空の寺の名前ではないか と思った。しかし、読んでいくうちに、どうやら実在した寺らしいと思いを改めざるをえなかった。秦の小説は現実と幻想を重層化させながら展開するという複 雑な構造をもつものが多く、この『初恋』もそうなのだが、その幻想はわたしが読んだかぎりでは、なんらかの歴史的事実にもとづく世界であって、全くの幻想 でも架空の世界でもないのである。現実と幻想の重層化は時間的遠近の重層化だといっておそらく誤りない。相互にからみ合い浸透し合うといいかえてもよいだ ろう。時間のパースペクティヴの最も近景に位置するのは作者のいまの私生活なのだ。
 雲居寺は架空の寺ではなさそうだと思うようになって少し調べてみると、たしかにかつて存在した寺であっ た。それは、いまは一般に八坂の塔といわれる五重塔しか残っていない法観寺の東北に境を接する寺であった。創建は弘仁年間(八一○-二四年)で、白鳳時代 に建立されたと伝えられる法観寺より百五十年ほど新しいが、それでも平安時代初期のもので、当初は八坂東院と呼ばれていた。それがいつのころからか「雲居 寺(うんごじ)」「雲古寺」「雲孤寺」「くも
いでら」などともいわれるに至ったという(竹村俊則著『昭和京都名所図会-洛東・上)。
  永享八年(一四三六)に寺は戦火によって焼失したのだったが、足利第六代将軍義教(一四二九-一四四一年)の肝煎りによって再建されたものの、応仁の乱で 再び焼け、以後再興されることはなかった。その後、慶長十一年(一六〇六)に高台寺が建立されたことにより、雲居寺跡は高台寺の境内の一部にとりこまれ、 その跡も確定しがたくなった。
  西山克が雲居寺について書いた「参詣曼茶羅を読む・21」(『京都新聞』一九九四年十一月一日)によると、「瞻西(せんせい)上人が天治元年(一一二四) に安置した阿弥陀大仏を本尊とするこの寺は、半僧半俗の勧進聖たちのセンターとして、エネルギッシュな大道芸的雰囲気に満ちていた」というのである。謡曲 「自然居士」にそのことは明らかだと、西山はつけ加えている。
 瞻 (正しくは月ヘン。コード漢字が無い。) 西上人は叡山の僧で、雲居寺を天下に知らしめた人であり、彼が安置した丈六の阿弥陀坐像は、雲居寺が高台寺建立の際に合併した上京寺町頭の十念寺に、いま 安置されている阿弥陀坐像だと伝えられている。
  雲居寺に多少こだわったのは、秦恒平は明らかに、以上のようなことを熟知していて『初恋』の舞台に使っているからである。
 小説のヒロイン木地雪子は、愛八という芸人の娘でる。愛八は新京極の寄席の幕間や、地蔵盆の余興に呼ば れたりして、決してうまいとはいえない浪花節を語ったり、パントマイムを演じたり、鳥や動物の真似をしたり、客の野次と当意即妙に掛け合って客を笑わせる といった芸をみせて、子供たちには結構人気があった。
 雪子が中学三年生のとき同じクラスになった「私」は、彼女が愛八の娘あることを知らなかったが、いわば 存在感の稀薄な彼女に、なぜか惹かれるものをおぼえていた。
 どういうわけか雪子は高校へ進学しなかった。多くのクラスメートと同様、公立高校に進学した「私」は、 その年の夏、偶然、地蔵盆で浪花節を語っている愛八の曲師をつとめている雪子をみかけた。愛八にいわれるまま舞台に上って即席の芸も見せた。面白くもおか しくもない芸であった。その後、彼女は新京極の寄席にも「愛丸」の芸名で出るようになり、「私」は授業をさぼって彼女が出る寄席をみてまわった。
 ただ、芸人としての雪子をみたのは、その年だけだった。一年足らずで芸をやめた彼女は、勤めに出たり、 洋裁を習ったり、普通一般の娘たちとかわりない生き方をするようになっていた。それが雪子の意志によることかどうか「私」には知るべくもないことであっ た。「私」は彼女に会いたい一心から、その姿を躍起になって追いもとめた。
 『初恋』のストーリーがもつれはじめるのはこの前後からである。古代末期の『梁塵秘抄』の世界へ秦は読 者をいざなうのである。
 秦は昭和五十二年十二月二日からNHKラジオの文化シリーズ「中世の歌謡」のなかで、「梁塵秘抄」と題 して毎週日曜日に六回にわたって放送した(その内容に加筆した『梁塵秘抄-信仰と愛欲の歌謡』が翌五十三年に「NHKブックス」の一冊として出版されてい る)。その放送にまつわることなどから『初恋』では『梁塵秘抄』の世界へ分け入ることになるのだが、伏線はあった。高校一年生になった「私」が、いくつか の科目のうち特に「日本の古典」が刺激的だったとして、『梁塵秘抄』の「仏は常に在(いま)せども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほ のかに夢に見えたまふ」とか「舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に 蹴(くゑ)させてん」など著名な作品を「へえ」と思って読んだとしてあげているのである。
 『梁塵秘抄』を編纂しただけでなく、丹念な「口伝」をそれに添えるほど傾倒なみなみでなかった後白河院 について、『初恋』では次のように書かれている。

      *
 
  ところが梁塵秘抄の御口伝を読みますと四宮(しのみや)の雅仁親王、のち後白河天皇、は「十余歳」の若い頃から夢中でそれも御所の中で、今様(いまよ う)、つまり流行の歌謡を好んで練習に励んだ。「好んで怠る事なし」。そのためには遊女、くぐつ、白拍子を問わず呼び寄せて習ったと、はっきり書いてあ る。
       *

  その「今様」が『梁塵秘抄』に収められている歌謡である。後白河院が歌謡の師匠として迎え、御所の近くに家を与えて手厚く遇したのが、「五条の尼とも呼ば れる乙前(おとまえ)」であった。後白河院が出会ったときには、彼女はすでに七十歳を超えていたが、「名人中の名人、本物の正しき名人」認められたのであ る。乙前はおそらく「流れの遊女(あそび)」だったろうと、秦はつけ加えている。そういう老女を師匠の座に据えて、「一天万乗の君主」である後白河院は歌 謡の練習に励んだ。
 乙前が八十四歳で世を去るとき、見舞いに駆けつけた後白河院は今様を唱って慰め、彼女の死後一年間、千 部の経を読みとおしただけでなく、一周忌には「あれは今様をこそ尊いお経以上に欣こんで聴いてくれたぞと思い出して、習った今様の、主なものを暁方までか けて悉く唱いとおし、心から後世安楽を祈ってやった」。その後も命日ごとにそうしてとぶらった、と秦は書いている。「梁塵秘抄の全巻が、さながら河原住み の遊女乙前への供養かとさえ取れる──」とつけ加えてもいる。
 ここまで読み進めば、『初恋』の展開の過程に『梁塵秘抄』を大きく据えた意図は明らかである。雪子の父 愛八は、後白河院のような今様を熱愛する主上と出会うことがなければ、「河原住みの遊女」として生涯を終えたであろう乙前と同様、能や歌舞伎などのような 「筋目立った芸能人」には比すべくもない卑しい芸人だった、そのアナロジーなのである。
 雪子に惹かれ、執拗に会うチャンスをもとめる「私」に対して、周囲の大人たちは、露骨に愛八を軽蔑して 「私」に雪子を諦めさせようとする。最初のうちは「職業に貴賎があるか」ていどの反抗しかできなかった「私」は、だんだん愛八の藝は歴史的にみれば、決し て差別を受け、軽んじられるようなものではなかったことを理解するようになる。「身動きとれぬ絶対世襲の身分」として伝わってこなかっただけなのだ。「古 代の今様も、中世の猿楽能や狂言や近世の歌舞伎も、その真相と一体に鴨の河原を母胎にしていた」のだ。
 楽譜のない時代の方便として、後白河院はこれぞと思う二人の弟子を選んで今様の唄を伝える。選ばれたの は藤原師長と源資時であった。師長は左大臣藤原頼長の子で太政大臣だったが、資時は「せいぜい従下の四位程度で官途を見限った人」(『梁塵秘抄─信仰と愛 欲の歌謡』)であった。木曽義仲が都へ迫ったとき、後白河院はひそかに御所を出て鞍馬山へ逃れ、さらに比叡山東塔の南谷円融房へ移って身を隠す。このとき ただ一人お供をしたのが資時で、秦は、資時を乙前の孫ではないかと推測する。それほど後白河院とは深い関係にあった。
 秦の推測はさらに、この逃避行中に資時は後白河院のすすめで出家の肚を決め、出家後、先にふれた雲居寺 跡に住んだ、というふうに発展する。「高台寺境内の山なかに、雲居庵というもう崩れかけた古い建物」があり、そのかたわらに資時の墓とみられるものがある というのだ。

     *
萩が佳く、今は境内を分けて霊山(りょうぜん)観音いうコンクリ、トの大仏が人を集めているが、あの一帯 がもと雲居寺の旧地で、奈良大仏にならぶ京の大仏が坐(おわ)したとも、お能の、自然居士(じねんこじ)の舞台とも知らなかった。ささらを摺り鞨鼓(かっ こ)を打ち身を以て謡い舞う「自然居士」や「放下僧(ほうかぞう)」の姿を能舞台で観たのは、東京へ出てきてからだ。あのような鎌倉室町時代の瓢げた大道 藝を知り、幸若、説経、浄瑠璃の歴史を知り、それも愛八や雪子の物真似の先蹤(せんしょう)と思い当るとそれにひかれて、遊部の裔とは知らず、また唱導の 世界に聞こえた安居院(あぐい)の澄憲の異母兄弟とも知らずに資時入道の終(つい)の栖(すみか)を、小説世界のなかで雲居寺畔に定めようとしたのも、根 本に雪子との出逢いを私が培っていた証拠かしれなかった。
     *

 『初恋』はこのように作者が直接顔を覗かせなどしながらクライマックスへと進展する。
 養父はじめまわりの大人たちの忠告にもかかわらず、しつこく雪子の姿を追っていた「私」は、ついに建仁 寺ちかくの路地の奥に、彼女の家をつきとめる。「も、来んといて、ナ」といい、また、「しまいに、あんたが困るのえ」と、彼女はたしなめるようにいった。 しかし、とにかく足掛け三年目にしてようやく、普通にものをいってくれるようになったのである。
 そんな彼女を初めて美術館に誘った「私」は、知恩院下の自分の家に近い粟田坂の下までもどって、うどん 屋へ入った。なけなしの小遣いをはたいて玉子丼をとり、雪子には親子丼をおごった。「私」はぺろりと空にしたが、彼女は半分ほど食べて「多いという顔」 だった。「私」はその丼を奪いとって残りをさらえてしまった。あきれたように眺めている雪子に「ごっ馳走(つお)はん」というと、「ありがとう」とちいさ く頭をさげた。
 二人はそれから粟田山へ登って、静かに冬日を浴びている尊勝院の縁側に並んで座って、初めて抱き合って キスをした。将軍塚を通り、あてずっぽうに渓を下った。「一味(一字に、傍点)同心(一字に、傍点)ていうやろ」と、雪子は快活で、身のこなしが軽かっ た。下りたところが高台寺の奥の雲居寺跡だった。
 墓と思って見ればそう見える一基の墓碑が立っており、すぐ近くに堅く戸を閉ざした寂びれた建物があっ た。雪子は裏戸を押して真っ暗な屋内へ入り、「私」もあとにつづいた。「私」はそこに愛八らが車座になって謡をうたっている幻覚に襲われる。「無垢の衣 (きぬ)に緋の袴」姿の雪子は、「とね」という女の謡にあわせ、小笹を採って少年のように舞った。雪子と「私」は愛八から祝福を受けた。『梁塵秘抄』の 「愛欲」の世界に入りこんでいたのである。
 幻覚から覚めたとき、二人は露出した根太板の上で、顔をさぐりあいながら抱擁し合っていた。寺の若い僧 に発見されたのは、夢から覚めかけたときであった。二人は松原警察署へ突き出されたのだったが、行きずりに出会ってわたしが誘った人だと、雪子は必死に 「私」をかばってくれた。だが、ことは穏便には済ましてもらえず、「私」は担任教師あずかりになっていた卒業証書を養母と一緒にもらいに行かねばならない ことになったし、当然ながら家では大騒動だった。

     *
 雪子のことは、親類の大人も乗り出し、残りなく押し潰しにかかった。「高校生の分際で」をとび越えて、 ことは迂遠に
「太閤さん」の検地や刀狩から大袈裟にはじまり、それを言うならいよいよ秀吉がただ無法に決めつけた差別 を、三百年か四百年かけて徳川や大名が、いや「僕ら」百姓町人もこぞってもっと非道に、もっといわれなく手前味噌に煮つめてしまったという話に「尽きるや ないか」と私は抗弁した。大人は、だが「それが政治いうモンやないか」と、もっともらしいが曖昧な、それで話がぐずついてくると要は愛八らが筋目立った藝 能人でないというだけの、手前勝手に酷薄な言い草を、幾通りにも繰り返した。
     *

 「私」には理論的に大人を納得させる力はまだなくて、一方的に父に押しまくられ、何度か顔を張られもした。だ が、雪子を諦めるとはいわなかった。
 雪子に詫びをいうため、「私」は何度も訪ねたが戸を開けてもらえず、四度目にやっと入れてもらえたが、 雪子も愛八もいなかった。雪子はひと晩泣き明かした、しかし悦んでもいたと、寝ていた老婆がいった。雪子の「おば」だという人が、二度と木地の家を探した りしてくれるなと、脅かすようにそばからいった。これ以上つけまわして、雪子に可哀相な思いをさせてやらないでくれ、というのである。
 母に付き添われて担任教師の家へ卒業証書をもらいに行った翌日、珍しく中学時代の国語の教師に呼ばれ た。「私」に目をかけてくれていた話のわかる教師で、新京極の裏寺町の寺の住職だった。行ってみると意外にも雪子が来ていて、寺の住人のように寛いでい た。この子の親父とは親しいのだと、教師は「雪子をまるい顎でさし」てから、かしこまっている二人に、「どや、えやろが、もう。先々ちゅうこともある、わ るいことは言わん。この辺が、汐時やて。二人ともここでやめとけ」といった。「私」は市内の私立大学への推薦入学が決まっていて、今度の事件でもそれは取 り消されずに済んでいた。
 辞去しようとして「私」が立つと、雪子も立った。教師は止めなかったが「私」を呼びとめて、「思う所は お前にかて有るはずや。が、それはもっともっとしてから、文章に書きなさい。それもお前の、道、ちゅうもんやないのか──」と、諭すようにいった。この辺 りはどうも、秦自身の体験に即して書かれているような気配である。
 教師宅からの帰り、「私」は雪子と初めて四条の喫茶店へ入った。そこを出ると雪子は、「眼ェつむって、 ついて来よしや」と先に立った。「私」はそのあとに従った。ものはいわなかった。市電に乗った、郊外電車にも乗った。狭い路地も歩いた、武家屋敷のような 家々が棟を並べた通りも歩いた。廓の中も、商店街も歩いた。とにかく、どこをどう歩いたやら「私」には見当がつかなかったが、雪子について我武者羅に歩い た。一軒だけ、天井の低い、土間の土まで真っ黒な家へ入った。造りは堅固だった。雪子は上がり框に「私」を待たせて奥へ入り、「雪子をすこし華奢したよう な」少女が、香ばしい茶を淹れてきた。雪子は服を着替えて出てきた。
 彼女は心ゆくまでデートをしたがったのだ。「私」には察しがついていた、「雪子の殆ど我武者羅な歩きっ ぷりは、それがもはや力ずくの別れの儀式──」だと。くたくたになりながら、「私」は黙々と雪子に従った。「京都という名の土という土を踏み抜きたい気 だった」。
 夕闇が迫るころ、二人は鴨川の河川敷へ下りた。激しい雨になっていた。
 鴨川に対して秦恒平は特別な認識をもっている。それは洛中と洛外の境界であり、鴨川の東は「京の『かた ゐ』の洛外」であった。「歴史的に鴨川は怨みと血で穢れた川だった。だから祭の川、清めの川でもあった。そういう川を抱きこんだところに、平安(二字に、 傍点)京がその実は不安(二字に、傍点)京として出発した真相も透けて見えた」、と『初恋』にも書いている。古代の今様も、中世の猿楽能や狂言や近世の歌 舞伎も、「その真相と一体に鴨の河原を母胎にしていた」と書いていることは先にみた。
 『初恋』の最後の舞台を、その河川敷にしたのは、秦のそういう認識と無関係ではないかもしれない。雪子 は雨に打たれながら、どっと水際に座りこんだ。

     *
 腕一本で雪子の背をわずかなりと庇う庇う隣りに蹲踞(かが)んだ。雨はセルロイドのカラーを伝って背筋 を濡らす。丸太町の、あの橋の下までもどろうと言いかけて、やめた。雪子が決めることだった。と、雪子は立った、かと見ると、そのまま、くるくるっと二 度、眼の前で一世一代のトンボを切った。ついとしゃがんで、のみを拾う猿の真似をした。巧かった。きわどくこの期(ご)に愛丸が物狂うて見せた遊んで見せ たと思った。が、雪子はそのまま影法師になってうずくまると、足もとの小石を力まかせに川面へなげた。がっくり顔を垂れて影法師はもう起たなかった。
 気違いじみた若いアベックに声をかける者はない。
 霧を巻いて河原は刻々闇に冷え、いくらもいた小鳥の影もなかった。心(しん)の髄まで強まる雨に打たれ 打たれ、やがて雪子は全身で雨粒をはじき返すように、髪を揺り身を揺って泣きだした。顔を空にそむけて泣きつづけた。向う岸に大学病院の窓の灯がにじみ、 鴨の川面は真昏(まっくら)だった。
 いやな街だ。
 ずぶ濡れの雪子を力かぎり抱きながら、つくづく、そう思った──。
     *

 衝撃的な別れのシーンである。大道藝人の娘として卑しめられてきた雪子の切なさが、なんとも複雑な思いを伴って 胸を打つ。若い男女の愛をこのようにえがいた作品を、わたしはほかに知らない。
 「私」が雪子に会ったのは、これが最後だった。結婚して上京し、七年たった夏休みに京都へ帰った「私」 は、雪子の死を知る。その死は、「私」の大学在学中のことだったのだ。「私」は初めて、「地に顔を擦りつけて雪子に詫びたかった」。愛八にも、曲師のおば さんにも、耳たぶの垂れていたお婆さんにも詫びたかった。
 雪子の死を知った「私」は、源資時について書こうと思い立つ。それは、京都の隠された「真相」を剔決す ることであり、雪子への罪のつぐないにほかならなかったのである。
 

    3

 秦恒平がNHKラジオで、『梁塵秘抄』について六回連続放送したのは、昭和五十二年十月から十一月にかけてであ り、それに加筆した単行本『梁塵秘抄─信仰と愛欲の歌謡』が出版されたのは、翌五十三都市三月であった。この年の十月に『初恋』は発表されている。刊行や 発表の年月だけでなく、その内容からみても、両者は姉妹編だといってよいだろう。「京都は日本中で一等差別のきつい街だと私は断言する」と書いた「きの う・京・あした」(原題「東と西」)を発表したのも五十三年である(『京 あす あさって』に収録)。
  秦恒平は十余年まえから、シリーズ『湖の本』を私費で刊行して自作の翻刻をつづけている。小説・評論その他、ジャンルを問わず翻刻されているので、わたし のよう秦文学に関心をもっている者にとってはまことに有り難い。
 このシリーズの第十一巻(一九八九ー平成元年二月)に、初期の小説『畜生塚』と『初恋』が収録されてい て、その巻末の「作品の後に」のなかで、秦は『初恋』につい次のように書いている。

     *
 次の『初恋』は著者が「作家十年」四十二歳の作品であり、はっきり意識し意図して作品世界に強い曲り角 を探りあてた仕事ある。忘れもしない宮川寅雄先生がいち早く「あれは有難かった」という言い方で評価して下さった。が、その実は苦しい経緯があり、作の運 びも入り組んでいて、どの文藝誌に発表することも結局出来なかった。差別の禁忌に触れ公表を回避したいという理由などがついた。
     *

 『初恋』は主題、題材、技法ともに、秦が「作家十年」にして文学的転換を意図的に遂げようとした作品であったこ とがうかがえるのである。この時期の『梁塵秘抄ー信仰と愛欲の歌謡』といい『京 あす あさって』といい、おそらく『初恋』の意図と密接な関係をもっている。彼はまた、「作品『初恋』には、題材的にも、私の、『文学』『創作』への初恋(二字 に、傍点)を遂げたような意味が籠められている。が、それは作品から読者には察していただけるだろうと思う」とも書いている。秦はこの作品によって、独自 の世界を確実に探り当てたのである。京都出身者としての独自の世界、とはっきりいってしまってよいだろう。
 ただ、残念ながらわたしは、うかうかと過ごしてきたからでもあるが、京都における差別の実態が、秦がえ がいているような領域にまで、及んでいるものかどうかを知らない。作品にえがかれた時代と現在では、おそらく大きく変わってきているのも事実である。
 改めて断るまでもないことだが、小説は事実の報告ではない。本質的には作り物であり虚構である。虚構を 構えて作者は、事実とは異次元の文学的真実をえがこうとする。文学の真の価値はそこにある。
 『初恋』でえがかれた物語が事実に即しているか否かは無関心でいられる問題ではない。が、これが文学作 品である限り、秦が表現しようとした真実が、わたしに確かに伝わってくるか否かが、まず問われねばなるまい。そのリアリティーと強烈なインパクトは、真実 ならではのものだと、わたしは躊躇なく答えたい。      ─了─

   



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