野間宏と文学、そして親鸞
 
           高 史 明    作家
 


 ■なぜ野間宏と「親鸞」か

 高でございます。皆さん、こんにちは。野間宏先生の会ということで、御縁をちょうだいすることになりました。
 先ほどのすばらしい音楽、そしてお二人の先生方のお話を伺っておりまして、思うことがありました。親鸞の言葉に「往相即還相」という言葉がございます。 往くということは、即、還ってくることだと言うわけです。分かりにくい言葉ですが、人間存在の闇を根本的に刺し貫く言葉です。
 私たち現代人は、死ねばお終いだと思っています。死にッぱなし、行きッぱなしです。往くことが、即ち還ってくるという眼差しはない。現代人は自分を中心 に生きていますので、死んだら十万億土のかなたに行くことになり、永遠に帰らないと思っているわけです。これが現代人の生の形でありましょう。もし、帰っ てきている形があるとするなら、モニュメントとして、目に見えるものとしてあるものか、幽霊であります。
 しかし、私は先ほどからの短い時間ではございますが、往くということは即、還ることだという親鸞の言葉を、改めて思い起こし実感していました。
 野間先生は、今日のこの出会いをどう見ておられるか、あの間抜けが出てきおってと思われるかも知れません。実際、私は思い込みの強い愚か者です。大いに いろいろ教えていただかなければならない、そのような人間でございます。しかし、往くことが、即、還ってくるという法の事実に即して、短い時間ですが、敬 称を省きまして「野間宏と親鸞、そして文学」ということで、考えさせていただこうと思います。
 だいぶん前に、藤原書店の藤原良雄さんからお電話をちょうだいいたしました。野間宏と親鸞ということで、会に出てきて何か語ってくれないかということで ございました。そのときに、「野間宏と親鸞」というだけではなくて、「野間宏の文学と親鸞」ということでなら、考えさせていただこうと。私のずっと抱えて きたテーマでもありますので、それでよろしいかとお尋ねしましたら、社長さんはそれでよろしいということで、今日の御縁を頂戴することになりました。
 ただ、その後いただいたお電話によりますと時間は一時間でございました。野間宏の文学、読むだけでも何年もかかりますのに、しかも親鸞とのかかわりを含 んで一時間ということは、一年の間違いではないかなと思いましたけれども(笑)、皆さんも一年先には生きておられないかも知れないし、私も死んだことに なっているかも知れません。そうなると佛佛相念になって声は聞こえてきませんので、声のあるうちは声でと思いまして、用意のできないまま、しかしメモだけ はしっかり取らせていただきましたので、メモをこれからの私自身の手がかりとして、いまの思いを申し上げてみたいと思います。

 野間さんの文学は、先ほどから皆さんが触れておられますように、戦後『暗い絵』から始まったのでした。戦後世界に大きな衝撃を走らせたものです。しか し、その『暗い絵』に親鸞はでてきません。むしろヨーロッパの光と影が強い。
 その野間さんが、やがて親鸞に触れられた。野間さんの周りの方は、野間宏がどうして親鸞なんだと驚きの声を上げておられた記憶がございます。それは ちょっと信じられないことだったのでございましょう。私はその当時それほどものがよく読めるような人間ではございませんでしたけれども、それにしてもいろ いろ方からの反応を記憶しています。多くの方が、分からんという声を上げていた。
 中には批判もありました。その批判の代表といいますか、真継伸彦氏の批判があります。蓮如に詳しい真継氏は、分からんという声を上げた。
 その一方で分かるという方もでていた。野間宏全集の二二巻、『歎異抄』が収録されている巻でございますけれども、そこにその真継伸彦氏の批判と森川達也 氏のそれへの反批判がとり上げられておりました。しかも、これが現代ということを考えるときに、また野間宏と親鸞と文学とを考える扉としても、大変におも しろいと私は思います。
 
 ■現代とはどのような時代であるか

 野間宏の『暗い絵』から『歎異抄』が出てきたこの展開は、何を物語るか。一口で言うなら、まずは冷戦状況の後から、いっそう不透明となってきた時代の混 迷があると思います。戦後すぐには、「文明」は「民主主義」や「自由」という時代精神とともにいかにも明るいイメージを持って迎えられていたものでした。 『暗い絵』は、その戦後という状況の中のいかにも暗いイメージのなかの明るい絵です。しかし、その明るい面はいまどうなっているか。冷戦状況に雪解けがき て、二一世紀に入って分かってきたことは、混迷がいっそう深まっているということです。実際、戦後半世紀を経ようとしている今日、私たちはいま一度、戦後 と戦前をしっかりと見つめていいところにいるようです。戦後の明暗のすべてが、消え去ろうとしている。それを考えると、野間宏の『暗い絵』から『歎異 抄』、その他の小説の先駆性が窺えるように思います。
 実際、今日の世界には、いかにも明るそうに見える状況の中に、奈落の暗さが広がっているように思えます。例えば、二十世紀の戦争の時代を踏まえて、世界 は新しい平和を念願したわけですが、あの二十一世紀の冒頭、九・一一のアメリカで起きた同時多発テロ以降、恐ろしい状況に墜落しているように思えます。世 界はいま、何処に向かいつつあるのか。あのテロの惨劇の後、現場であるニューヨークの崩壊した国際貿易センタービルの廃墟の上で、超大国の大統領ブッシュ が宣言したものでした。彼のアメリカ国民に向かっての宣言は、世界に向かっての宣言でありましょう。そこで何が言われたか。
 ブッシュの声明は、まず文明と野蛮の戦いが始まったと言っていました。当然あの人は文明の側に立って、野蛮を叩き潰すという決意の表明だったわけでござ いましょう。二番目は何か、これは善と悪の戦いであると。文明と野蛮は、同時に善と悪の戦いであると、ブッシュ氏には見えたわけでございましょう。そして 三番目の柱は、新しい戦争が始まると言うことでした。二十世紀の戦争を経ながら、この新しい戦争宣言は、人類の闇の深さをよくよく示すものではないでしょ うか。現代世界は、まさしくこの声明によってまさに大きな渦に巻き込まれていると言えましょう。その三つの柱をまず考えて置きたい。そして、野間宏の『親 鸞』に近づき、文学と現代のかかわりを親鸞の思想を通して考えていこうと思います。

 ブッシュ氏がとり上げた三つの柱、そこで回転している「文明」と「野蛮」とは何でありましょう。その「文明」とは、一体何をもって「文明」と言うのか。 現代人はこれを、一度根こそぎに問うていいのではないか。
 ブッシュ氏は、その声明につづいて、間もなくイラン、イラク、北朝鮮の三国を「ならず者国家」と指定しました。しかも、これらの国に対して、核兵器の先 制使用を含む攻撃を宣言した。核の超大国が、核の先制攻撃を宣言するとは何ごとであるのか。
 そして、アフガン戦争につづいて、イラク戦争が開始されたのでした。イラクに大量破壊兵器があって危険だという理由から、戦争が発動されたわけです。フ セイン政権は、超大国アメリカの国連無視の奇襲攻撃によって、あっという間に壊滅しました。しかし、大量破壊兵器云々は、アメリカの戦争のための虚報だっ たのでした。何処にもなかった。にもかかわらず、そのアメリカの戦争は、ブッシュの勝利宣言後、いっそう惨いことになっています。 
 米兵の死傷者は、その勝利宣言からいっきに増大しました。一方、イラク人の犠牲は、その百倍を越えているとみられています。また最近はイラクの刑務所の 中での出来事が報道されております。イラク人を裸にして、その男の象徴に向かってアメリカの女性兵士が銃を撃つふりをしていた。この女性兵士は野蛮人を討 つ軍隊の正義の味方として登場しているわけでございましょうけれども、この文明人の姿を、皆さんどのようにお考えでございましょうか。
 かつてナチス・ドイツの軍隊の野蛮ぶりが報道されておりますときに、ガス室で自分たちが殺したユダヤ人の皮をはいで、その皮で電気スタンドをつくって、 その電気スタンドの下で読書ができる、そのような人間像が暴露されたものでした。これがナチス・ドイツの残虐の象徴として語られてきたものでございます。 けれどもそのようにして始まった戦後、いま私たちは、今の文明という問題では文明と人間を根こそぎに問うていいような時代に来ていると思いますが、どうで しようか。イラク人を裸にして、軍用犬をけしかけるのが文明人であるのか。人類の根っこが問われている。そしてそれはまた、人間の善と悪が根こそぎに問わ れている問題ではないでしょうか。私たちは、第二次世界大戦を経ながら、真の意味ではなお、本物の「文明」を開くことができていないのです。
 
 ■野間宏がくぐってきた戦争

 ところで、野間さんの『暗い絵』は、その人類の二十世紀の戦争、第二次世界大戦の直後に生まれた作品なのでした。戦争と人間が根こそぎに捉え返されてい る。『暗い絵』の内部については後ほど――独断であるかもしれませんが――思いを展開したいと思いますけれども、それを書かれた後でいろいろな試行錯誤を 経て、『わが塔はそこに立つ』、そして『歎異抄』を発表したわけでした。
 それを真継伸彦氏が批判した。その批判をとり上げて、また森川達也氏が解説を書いていたわけです。
 この渦の中をよくよく見るなら、現代に通底する人間と文学、仏教と現代が鋭く現われてきます。すくなくとも私はそのように思います。
 まず真継氏はどういう視点でこの野間宏の『歎異抄』を批判したか。それを問題の入り口にしてみます。
 彼は言う。「野間氏は失礼ながら、私と同様に無信仰者のはずである。真宗系の在家仏教の伝道者の家庭に育ったとはいえ、マルクス主義者として終始してき たことは隠れもない。ところで『歎異抄』は言うまでもなく信仰告白の書である。無信仰者が信仰告白にたいする場合は、批判的な対決の形をとるか、あるいは みずからの一種の転向声明になるか、どちらかである。」と。ところが野間宏は親鸞に呑みこまれてしまい、「小説家特有の変身欲がこのような説法を行わせた のだと好意的に解釈すれば御愛敬になるが、私は無神論者である著者がいつ浄土の信仰を得たかと問いたださなければならない。」と言うわけです。
 真継氏がその要の問題として見ているのは、野間宏の『歎異抄』一三章の解説の言葉でした。「この身に備わらない悪行などつくれるものではないのに、悪を つくるなどという考えにとらわれるのは邪険なのであって、それは戒律を保って初めて本願が信じられるという考えが邪険なのだと同じなのである。この深い、 浅ましい身も、本願に会うことができてこそ誇ることができるのである。それゆえに本願にあうことを誇りに思うことは、いよいよ本願そのものの力を信じて、 一切を本願に任せて悪事を自分から進んですることなどがないようにすべきなのである。」という解説。
 真継氏にとってみますと ここに解説されている十三章は「有名な『わがこころのよくてころさぬにはあらず』という言葉をふくんでいて、カルヴィニズムに 類似したきわめて非合理的な決定論を展開しているということでした。つまり、私たちのいっさいの行為は、前世の宿業によって決定されていると見るのはけし からんいうことです。彼は言います。「私は仏教にたいする敬意は人後に落ちないつもりだが、どうしても承認できないのはこの宿業観であり、まったく非合理 的な決定論である」と。ところが、野間宏は「右の非合理主義にたいして何ら批判の刃をむけない。私には不可解である」と言うのが、真継の批判の要です。
 因みにこの十三章の冒頭を上げて置きましょう。
「弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業を こころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。」
 そして、親鸞はこの章であの有名な言葉を明示していたのでした。「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず、また害せじとおもうとも、百人千人をころす こともあるべし」。
 まことに人間の善といい、また悪というその「悪」とは何でありましょう。さらに言えば、この章は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかる を、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。」という有名な三章に対応していることを、ここで考え合わせておいてよいと思いま す。まさに人間の善といい、悪とは何かです。「業」とは何か。それは果たしてブッシュが自らを善人の代表に擬して、世界に提起した善と悪の戦いということ で明らかになるものでありましょうか。これこそ人間の迷妄そのものではないか。まさしく現代世界の存亡にも、大いにかかわっている現代人の私たちの根本問 題がここにあります。
 ところで、真継氏のその批判に対して、森川達也氏が氏の立場から逆批判しているのでした。私はこの森川批判に深い道理を覚えるものであります。
 森川の真継に対する批判はこうです。
「真継氏とは正反対に、私はこの一三章にこそ親鸞の思想の、いわば一つの極北のすがたを見出だす。私はいわゆる戦中派世代に属する人間の一人であるのだ が、もし我々がたとえば戦争という絶体絶命の状況の中に追い詰められたとしたら、我々の精神は一体どのような形相を見せるものであろう。――自分一個の体 験から言えば、戦争は確かに私にとって、一つの絶体絶命の状況であった、と言うことができる。――戦争は疑いなくもなく人を殺す行為である。―しかも殺さ なければならぬ相手は、私と何のかかわりもない人間である。―
 何故そういう相手を殺さねばならぬのか。それは相手が私にとって敵だからであり、そしてこの何のかかわりもない相手を敵と規定し、私に「奴は敵である。 敵を殺せ!」と迫ってきたのは、私の属する国家である。しかも、この国家は、もし私がその至上命令をいささかでも拒もうとすれば、今度はたちまち私に向 かって『お前は敵である。敵を殺せ!』と容赦なく襲い掛かってくる絶対者である。そういう単純な、けれどもどうしようもない絶体絶命の状況に追い込まれた とき、突然私の心に、空谷の跫音のように鳴り響いて聞こえてきたのが『歎異抄』のなかのこの十三章であった。」
 言うならば、森川氏は、真継氏のいう親鸞の「宿業論」批判とは、戦争をくぐっていない者の観念でしかないと言うことでありましょう。人間の善悪とは、究 極的にいって人間存在の根っこへの問いがなければ、言葉遊びにすぎないものになるという眼差しがここにある。絶対絶命の状況ということ――それは絶体絶命 という概念をも破壊してしまう状況です。そこで初めて、人間の根っこは露わになってくるのであります。
 森川氏の言葉には、確かな実体験からの表白があります。そして、第二次世界大戦後において、なお朝鮮戦争、ベトナム戦争と戦争を続けてきたアメリカ、そ れがいままた新しい戦争を始めたブッシュの時代にあっては、よくよく考えていい問題提起であるかと思います。人間にはどうして戦争があるか。人間にはどう して「絶体絶命」があるのでありましょう。戦争とは一体何であって、野間宏がくぐってきた戦争とは何であるのか。それを抜きにしては、野間宏の『暗い絵』 も出てこなかった。私はそのように思います。
 
 ■人間に対する仏教の透徹した眼差し

 いま少し森川氏の言葉を考えて見ましょう。彼は先の言葉につづけていました。
「――人間は常にいつの場合でも、精神でしか在りようがないのであり、また逆に、精神でしか在りようがないからこそ人間であるとのだと私は思う。親鸞と唯 円との間に交わされたこの精神のドラマは、それが徹底的に観念的、抽象的であるが故に、いわば絶対絶命の状況におかれた私の精神を鋭く射抜いた。――極限 の状況におかれた精神の真実は、常にこの上なく単純で明晰な構造を示すものだ。 
 ――真継氏は<わがこころのよくてころさぬにはあらず>というこの十三章が、前世の宿業による全く非合理的な決定論を展開していてどうにも 承認できないという。しかし私は真継氏にききたいのだが、たとえば戦争という極限の状況が、そしてそのなかで生き死ぬほかない人間存在の全体が、果たして 氏の合理主義によって、すべて根底から解決し尽くされるものであるのか、どうか。あるいはまた、仏教で言う<前世>の概念が、決して単にわれ われが生まれてくる以前の世といった、幼稚な規定に終わるものではなくて、そこに全仏教所説の核心ともなるべきこの章の全体が国家、個人、敵、味方にかか わらず、すべての人間の所業の限界をさし示していて、しかもこの限界のはてから、人間の行うあやまちのすべてに対してさしのべられている救いの手であるこ とを、氏はどのような深さにおいて、どこまで存知しているのであろうか、――」
 森川達也の眼差しは、まさしく一度はいわゆる合理的理性が徹底的に砕かれた人のものであると言えます。親鸞の言葉が、決して俗流で考えるような宿業観で はないことが正面から見抜かれている。簡単に言えば前世において悪いことをしてきたから、今度は悪い人間になって生まれてきて不幸になっているんだという ような問題ではなくて、非常に深い人間と人類史に対する仏教の側からの透徹した眼差しを提示していると、私は考えます。
 そして『暗い絵』は、まさしくこの一度は徹底的に砕かれた理性の廃墟からの存在の再生ではないでしょうか。野間宏は世界が、また戦後日本の方向性が不透 明になったとき、まさしく戦後の世界の『暗い絵』を改めて見つめ直したのだと思う。そして、そこにかつては真っ直ぐ見るのを避けてきた『歎異抄』からの光 が、自分の身心に深く横たわる原点を見いだすことになったのではないか。確かに親鸞の根本的な眼差しは、まさしく人間の善と悪に囚われる目を一度、根底か ら砕き尽くします。見られた対象の世界ではなく、世界そのものの開示です。だから、「善人なおもって往生す」でありましょう。
 恐らく野間宏は幼少のころから在家仏教の道場の主である御両親を中心に生きてこられたことから、親鸞のその思想を身心のどこかに根付けられていたのだろ うと思います。それが戦中・戦後の地獄にある彼の生きる力となったのではないか。確かに『暗い絵』の根っこには、善と悪に囚われている目では、とうてい見 つめることのではない世界が横たわっていると考えられる。
 ではどうして、『暗い絵』には最初から、親鸞が出ていなかったのか。これは小説や文章などによって知るのみですけれども、私はそこに日本の近代と野間宏 に固有の人生があるようにも思います。
 日本の仏教は、とりわけ明治の近代化の過程で本来の真実の姿を失っていたのではないかと思われます。現代で言えば「葬式仏教」という言葉にそれが現れて いる。今日の浄土真宗の宗門の中にも、今のままでは自分たちは葬式を執行する業界になってしまうという反省もあるように聞いています。確かに戦中では、明 治に登場した現人神に抑えつけられて、神に奉仕する仏教になっていたのでありましょう。そのような状況に打ちひしがれている父親の姿、父親の姿をそのよう に圧し付けている宗門の指導者たち、そういうものに対する反発もあって、野間宏は戦前マルクス主義に接近していったのではないか。小説などを読んでの想像 ですが、どうもそれがあるように思う。
 そして何とかこの『歎異抄』からも逃れようとしたのではないか。しかも、戦中です。軍国主義に抵抗する若い学生には、親鸞の難解な言葉より、エンゲルス の言葉は実に明快で頷き易かったものと考えられます。その悪戦苦闘の歩みが感じられます。しかも、確か京大在学中には、瀧川事件があったのでありましょ う。そして、兵隊に取られている。さらにはフィリピンの前線に送られて九死に一生を得ている。まさに絶体絶命の「瞬間」を心身でくぐっていると思います。 そのとき野間宏は、人間の根っこを感得したのではないか。それがなくて『暗い絵』が生まれたどうか。
 
 ■『暗い絵』から立ち上がる親鸞

 その『暗い絵』に少しだけ近づいて見ましょう。確かに『暗い絵』には「親鸞」の「し」の字も出てきません。むしろ、キリスト教のキリストという言葉の方 がある。その意味では真継氏の言うように、親鸞とは無縁の世界のように考えられます。親鸞から出ようとした野間宏の姿が表れている。しかし私は、これは私 の独断であるかもしれませんけれども、先生が生きておられたら問うてみたい。あの『暗い絵』の冒頭のイメージを書くときに、体の中に親鸞が生きてきて、親 鸞が全力を込めた言葉が、どんなに拒否しようとしても拒否し切れない形で生きていなかったかと。これは皆さんと一緒に一遍ぜひ考えてみたいことです。その ことを抜きにしては、野間宏と現代という問題はなかなか解けてこないのではないか。そういう意味で、時間はあまりありませんけれども、この野間宏の『暗い 絵』の冒頭の部分だけですが、ちょっと読んで、あのものすごい戦争をくぐってくるときに何が支えになってこのようなイメージになったのか、皆さんとぜひ共 に考えられたらありがたいと思います。
 『暗い絵』の冒頭でございます。戦後日本の文学の旗手とも言われ、戦後文学を引っ張ってこられた野間広の『暗い絵』の冒頭、有名な言葉です。このリズ ム、そしてこの言葉の裏側に動く生命感、そういうものを共にいただいてみたい。ゆがんだ肉体というように言いますけれども、人間の持つ非常に奥深い生命観 が出ているように思います。読んでみます。

  草もなく木もなく実りもなく吹きすさぶ雪風が荒涼として吹き過ぎる。はるか高い丘の辺りは雲にかくれた黒い日に焦げ、暗く輝く地平線をつけた大地のと ころどころに黒い漏斗型(ろうとがた)の穴がぽつりぽつりと開いている。その穴の口の辺りは生命の過度に充ちた唇のような光沢を放ち、堆(うずたか)い土 饅頭(どまんじゅう)の真中に開いているその穴が、繰り返される、鈍重で淫らな触感を待ち受けて、まるで軟体動物に属する生きもののように幾つも大地に口 を開けている。そこには股のない、性器ばかりの不思議な女の体が幾重にも埋め込まれていると思える。どういう訳でブリューゲルの絵には、大地にこのような 悩みと痛みと疼きを感じ、その悩みと痛みと疼きによってのみ生存を主張しているかのような黒い円い穴が開いているのであろうか。遠景の、羞恥心のない女の 背のようなくぼみのある丘には、破れて垂れさがる傘をもった背の高い毒茸(どくたけ)のような首吊台がにょきにょき生えている。そして長い頸と足をもった 醜い首吊人がひょろ高い木の枝にぶらさがり、長く伸びた爪先がひらひら地の上に揺れている。その傍には、同じように背の高い体の透いて骨の見える人々が長 い列をつくって、首を吊ろうと自分の順番を待っている。痙攣した神経をあらわに見せる磯巾着(いそぎんちゃく)の汚れた頭のように、何か腐敗した匂いを 放って揺れている叢(くさむら)。

  まことにものすごいイメージでございます。この世界はまさしく象徴主義のものでありましょう。いわゆるリアリズムでは、この世界を構築することはでき ません。しかし、これが人間の第二次世界大戦であり、その戦争に敗北した人間の世界ではなかったか。私はこれを繰り返し、繰り返し読みました。この冒頭 は、ブリューゲルの絵の解説のように描かれていますが、そうではない。野間宏の創造世界なのであります。それにしても、性器ばかりの女体がこの世界にある ものでしょうか。しかも野間宏はこの女性器に溢れる粘液をもって産みだされてゆくかのような世界を、生命の大地とする一方で、その大地に毒キノコの首吊り 台とその前に並んだ首吊り人の行列を描き出すのであります。行くも死、止まるも死、帰るも死です。この『暗い絵』は、とうてい理性が見る人間世界ではあり ません。
 しかし、人間の根っこには、いわゆる合理的理性が砕かれながら、なお生き延びてゆくとき見えてくる「生命」の大地があるのであります。例えて言えば、サ ルトルの嘔吐の奇怪な根っこのような世界です。あるいはダンテの地獄のような世界です。それが世界から追放された者、またいわゆる理性に見放された者に見 える世界であります。その世界は、全く理性の描くものとは異質です。人間の肉を食ったかどうかは、実際に食った人間にはいわゆる理性のレベルでは、容易に 表現にならないわけでありましょう。しかし、人間はその地獄を根っこに抱えていたが故に、歴史を紡ぐことができたのではないか。それは猿の肉を食ったとい うイメージの世界とは違う。人間の肉を食った者が、その人間の世界を生きながら、自らの否定を通して真実の理性を深めるのであります。
 例えば、第二次世界大戦の南方や、ロシヤのスターリングラードの攻防戦では、敵も味方も区別なく、人間は人間を食べることで生き伸びたのでした。それが 第二次世界大戦だった。そこでは、人間の業報とか宿業とか、善とか悪とか、文明とか野蛮とか言っているようなのんきな理性なんかみんな押し潰されたのであ りましよう。まさに「わがこころのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」であります。その人間の根っこを 見つめずして、どうして人間の闇が超えられましょう。
 文学とは、人間に人間ゆえの根っこをみつめさせ、それを描きぬくことを通して、自他の真実を深めるのであります。理性がずたずたになり、生きていてはと うてい表現しえないものをなお表現にしてゆく。これが人間です。野間宏は『我が心の日記』の中に、軍隊生活の一面を語っていました。 

  軍隊でのバッチ、ビンタ、リンチの、骨髄の中までぐっと入り込んでくるそのすさまじい内容である。それを受けた顔はたちまち紫色になり、変形してしま う。編上靴、帯革、上靴が使われるからである。さらにそれはいやらしい、いろいろと工夫されていて、手が込んでいるのだが、それが最高潮に達するのは今ま で知られているように軍隊の内務班においてなどではなくて、戦場においてなのである。

 野間宏はこの地獄を『暗い絵』によって表現したのではないかと思います。そして、この地獄こそは、第二次世界大戦にいたる日本の軍隊の一面だけではなく て、世界史としても見つめていい世界だったのではないか。人間にはこの闇があり、それゆえにこそ人間世界の希望もある。その極限が現代です。そして、ここ に戦後文学の普遍性があった。野間宏はまさに理性が砕かれたのちに広がる広漠とした「暗い絵」の大地に立って、人間の生の根っこを見つめているのだと言え ます。
 ところで、繰り返しですが、私は野間宏が第二次世界大戦の地獄を生きて死んだときに実感した世界こそが、実は『歎異抄』あるいは『教行信証』に表されて いる親鸞の思想と親鸞の生き様と日本の歴史に通底するものだったと思うのです。親鸞は中世日本の地獄を生きて、時代の根っこを歩みきった人でした。読んで いけばいくほど確かに思えることです。
 野間宏は心身の底に横たわるその思想に支えられて、生き、象徴主義の手法でもって戦中・戦後の地獄の人間を『暗い絵』に書いた。その『暗い絵』に両足を 置きながら、キリストと名は出ても、どうして親鸞の名、あるいは仏教と言う言葉が言葉としてないかということです。言うなれば、親鸞に通底する世界に支え られて『暗い絵』を表現しながら、そこに親鸞の名を書き込むことのできなかったことは、そのまま戦前の状況であり、また氏のその後の歩みを予告する印では なかったか。その間の機微を、いま一度、森川達也の言葉に置いて考えて見ましょう。真継批判を斥ける森川はまた、野間宏が抱えていた次の問題をも見ていた のでした。
「氏は決して真継氏が指摘するような転向者でもなければ、護教者でもない。もしそのようにしかうけとられないのであれば、野間氏の戦争体験がどのように切 実であったかを、十分に受けとめていないものだと私は断言してよい。――さてしかし、いわゆるマルクス主義による救済の思想と親鸞による救済の思想とは、 果たして氏においてよく結合され得たか、どうか。氏の表現に従えば<なんとか一元論を打ちたて>ることができたか、どうか。――氏のそういう 念願は、まだ十分に成就し得ていないように思う。しかし少なくとも、その解明の方向、ないし端緒だけは、氏は確実に見出している。すなわち親鸞における <自然法爾>の立場がそれである。この<自然法爾>の立場は、むろん『歎異抄』のなかにも、さまざまな形で示されているわけだ が、それがもつとも切実に語られているのは、言うまでもなく、親鸞の最晩年の書簡集『末燈鈔』においてである。」と森川はいい、野間宏が自分の全身を捉え こんでくる<自然法爾>のすざましい思想から抜け出ようとして苦しみ、いかに格闘してきたかを見届けていました。
 しかし、森川達也の結論は次の通りです。
「氏はひたすら<なんとか一元論を打ち立てたい>と念願しつづけてきている。<徹底的な唯物論者>であろうとする限り、それは当 然のことである。けれども同時に氏はまた<偉大な作家>でもあるのだ。そして<偉大な作家>である限りは、語のもっとも深い意味 においての<二元論>は、ついにさけることのできない必然であるのではなかろうか」と。

 ところで、その格闘は、どのような世界に到達しているか。戦後、それから朝鮮戦争、戦後から十何年かを経て『わが塔はそこに立つ』が登場していました。 野間宏の言葉をもって言いますと、まさにこの作品は、主人公を仏教とマルクス主義の交点に立たせて、『暗い絵』を引継ぎ、それをも超えようとした作品であ ります。言葉を代えて言うなら、『暗い絵』に始まった歩みを、戦後世界の状況を生きていま一度、原点から構築してゆくことが課題となったのでありましょ う。そういう意味で、『わが塔はそこに立つ』という作品は、いまだに解決していない親鸞とマルクスとのかかわりで、野間さんにとっては根本的な課題であっ たでしょうけれども、現代の私たちにとってもまさに根本的な課題であって、いまだに解けていない現代の根っこがここにある、私はそのように思っているとこ ろです。その要にあるのは何か。
 
 ■『わが塔はそこに立つ』

『わが塔はそこに立つ』の時代とは、満州事変、二・二六事件、日中戦争に突入という時代でした。一九三三年には、京大の滝川事件がおきています。日本の国 際連盟脱退、河上肇が検挙され、小林多喜二が築地署で虐殺されている。翌年には、治安維持法の改正案が成立していました。
 まさに日本が第二次世界大戦の奈落へ墜落してゆく第一歩の年です。
 主人公の海塚草一は、その滝川事件の京大生でした。この時代を背景にして、仏教とマルクスがどう生きられるかが見届けられてゆくわけです。しかも、野間 宏はその時代をどんな場所から見ようとしているか。
 彼は言います。「私は第三次世界大戦という一つの宇宙崩壊を導くものと真正面から向かい合うことによって作家はその作品の創造をすすめなければ、現代の 作家とはいえない――」と。まさにこの作品は、現代を映し出す鏡だとも言えましょう。
 ところで、今日のテーマの野間宏と仏教とマルクスと文学の渦の要は、この作品の最後に至って正面から提出されていました。滝川事件の真実を明示せよとい う学生の非合法集会が警察に弾圧される。逮捕の危険を逃れようとする二人の学生が逃亡しながら、その状況の中で親鸞と時代を語り合うわけです。主人公は海 塚草一、そして相手は彼の信頼する由畑です。その由畑が、海塚に語りかける。
「僕は寺の出なので、他のものよりも仏教にくわしいのやけれど――」「――いや、いまはもちろん僕は寺院も仏教もいずれも否定しているわけだけど。」
「ええ、そうでしょうね」と海塚は応える。すると、由畑はさらに自分が、服部之総(はっりしそう)と同じ浄土真宗の寺の出であることを告げて、親鸞の思想 の中で何が一番よいかと問うことから、問題の核心が開かれる運びになるわけです。由畑は海塚に親鸞の書いたもので何が一番よいかと尋ねます。海塚は『歎異 抄』を上げました。すると、由畑は言うのであります。
「しかし僕は『歎異抄』をあげずに『教行信証』の方をあげるよ」
 海塚はそれが納得できませんでした。海塚にとっては、『歎異抄』こそが『教行信証』にある論理的固さが内側から取り払らわれた親鸞の思想だと思われてい たのでした。しかし、由畑はさらに言うのです。「――『教行信証』の最後のところを、読み直してられると、またちがった考えが出てきはしないかと僕は考え るけれど――」と。
 ところで、その由畑が見つめているのは、次の言葉なのでした。
「しかるに諸寺の釈門、教にくらくして諱真仮の門戸をしらず、洛都の儒林、行にまどいて邪正の道路を弁うることなし。ここをもて興福寺の学徒、 太上天皇 諱尊成、今上諱為仁聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。 主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨みを結ぶ。これに因って、真宗興隆の大祖源空 法師、ならびに門戸数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあ らず俗にあらず。このゆえに禿の字を以って姓とす。…」 
 そして、由畑は言うのです。「ところが、『教行信証』のここのところをとりあげて、親鸞を考えようとするものは、余りいないので…」
 海塚は黙ってしまいました。由畑の指摘は、まさに彼の急所を突く一言だったわけです。彼はその箇所を始めて意識させられたのです。しかし、彼はまた、思 うのであります。「ただこの末尾の部分だけで親鸞を考えつくすことなどいうことは、出来ることではない」と。
 二人は宇治の平等院の中に逃げ込み、阿弥陀如来像を見上げます。しかし、そのとき海塚の目に見えてくるのは、かつて夢の中に飛び上がった一羽の大鳥だっ たのでした。宙に舞い上がる鳥。彼の心底には、阿弥陀を避けようするいま一人の彼がいたわけです。彼の心底の葛藤は、平等院を出て松林の中を行くときにも 続いていました。《どうして避けるのや。どうしてお前はこの如来本尊をさけるのや》という葛藤を、彼は心底に覚える。彼の心底には、何処にも救いを求める ことのできなかった父親や、その父親に従っていた貧しい救いのない人々の姿があったのでした。彼は自分自身の救いと、この貧しい人々の救いをともに願って いたのでした。そして、海塚は本尊と向かい合う。親指と中指で作られた弥陀の定印を見つめる。
 しかし、彼の中に起こるのは、またしても「ちがうよ、ちがうよ」という声です。彼の身辺の人々は、来迎の阿弥陀仏を仰いでいたのでした。そして彼には、 その来迎の救いがどうしても信じられなかったのです。激しい葛藤が彼の身心を捉えこみます。と不意に、彼はその脳裏に、キプロス島の王女ミラルが浮かぶの を見るのでした。「『正しき愛の埒踏み越えて己が父を愛する者となり』『他人の姿を佯り装いその父と罪を犯すに至った』ミラル」。海塚草一の心底には、人 類的闇が横たわっていたのだと言えましよう。野間宏は、人間の救いをいわばその根源的罪悪に置いて見つめていたのではないか。ミラルこそは、人類の根っこ の闇です。この根源的闇をみつめることなくしては、第二次世界大戦をくぐった者にとっての救いはなかったのではないか。六千五百万人から犠牲だったのであ ります。海塚草一は、このミラルにつづいてダンテの地獄を思っていました。そして、ダンテの地獄には、どうして動物の落ちる地獄がないかと考えさせていま す。なかなか意味深長な問いです。しかし、海塚草一は、そこで突然、ボケットにつっこんでいた自分の右手に握られているものが、次第に膨れ上がってくるの を意識するのでした。どこまでも膨れ上がる力をもった手の中の物。海塚は右手の力を強め、一方膨れあがるものは、その膨れあがる力でもって彼の手の力を撥 ね退けようとする。何が起きたのでありましょう。野間宏は、その瞬間、海塚が宇宙を運行する星の響きを聞いたと続けていました。「海塚この時頭の上の青い 空のなかを多くの星たちが動いて行く響きをきいた。そしてそれは彼の耳にもっともしたしい響きなのだ」と。そして、その響きに世界の詩人たちの名を書き連 ねていました。
「ホーマー―ホラチウス―オヴィディウス―ルカヌス―ヴィルギリウス―ダンテ」
 海塚草一の手のなかのリンゴとは、まさしく文学創造のマグマではなかったでしょうか。かつて彼は貧しい人の店先からリンゴを盗んだことがあったのでし た。リンゴは海塚の罪の意識の塊です。「彼の手のなかのリンゴはいよいよ大きくふくれあがってき―」彼はそのリンゴを握り締めます。すると、彼のすぐ横に 一筋高く真直ぐに黒い空を貫いて黒くつっ立つ黒い塔が現れるのでした。この塔こそは、まさしく野間宏が選び取ろうとしている宇宙でありましょう。
 ところで、由畑との対話から、この塔へと出てゆく海塚の世界とは如何なる世界であるのか。同じように親鸞を論じながら、由畑と海塚の間には、深い溝が あったのでした。由畑の目指しているのは、いわば服部之総の眼差しに重なるものだと考えられます。言うなれば、マルクスの眼差しです。しかし、海塚の道は 必ずしも、マルクスの世界とぴったり一つではない。そして、それこそは野間宏の世界ではなかったか。
 思えば、野間宏はすでに『暗い絵』の末尾に書いていたのでした。「俺はいよいよ独りになった。そう、俺はもう一度俺のところへ帰ってきたのだ。正に俺の いるところへ。あの空の星々の運行のみが、あの高みから、宇宙の全力をもって俺の背骨をささえてくれるところに帰ってきたのである」と。
 海塚草一は、まさしく親鸞との交点においていま一度『暗い絵』の深見進介の世界に戻っていたのであります。ではその「仏教とマルクス主義の交点に立た せ」られた海塚の進みでたところは何処であるのか。いま一度、海塚と由畑の間を顧みて見ましょう。『教行信証』の末尾の言葉に親鸞の真骨頂を見る由畑の眼 差しは、いわば社会派的であったと言えましょう。合理的理性の立場です。その意味で科学の立場に立つ服部之総の眼差しに重なっている。ではその由畑の立つ ところが今ひとつ頷けない海塚の立っているところは何処か。 

 戦後思想の原点にいま一度もどって思えば、戦後日本では、すでに二人の論点に近接したところで戦われた思想的葛藤があったのでした。例えば、戦後すぐに 服部之総と三木清との間に交わされた論争があります。親鸞の「信」に立とうとした三木と、それを科学の立場から批判した服部之総の立場。服部之総は寺に生 まれたマルクス主義者でございました。東大に入ったばかりに寺を継がなくて、お父さんと喧嘩したかどうか、優れた学者になられた方です。一方、三木は浄土 真宗の門徒の家に生まれた学者でした。その両者にかかわる問題が、やはり野間宏にもあったのではないか。そして、この論争はいまに至るまで、なお深く解明 されていないと言っていいのでありましょう。マルクスと親鸞のこと。野間宏の『わが塔はそこに立つ』には、ある意味でその課題が抱えこまれていたのであり ます。
 では服部と三木の論点の要は私たちに何を提示していたか。時間のこともありますので詳しくは省きますが、戦後二年目でしょうか、豊玉刑務所で戦後の九月 二十日ごろ獄死した三木清の書いた親鸞についてのノートを、服部之総が批判していました、『親鸞ノート』という文章があります。三木はもう獄死して、おり ませんから反論をすることがなかった。まことに残念なことです。
 日本の敗戦は八月十五日でした。にもかかわらず、日本は一月以上もこの哲学者を監獄の中につなぎ込めておいて獄死させてしまっている。しかも、娑婆世界 でもその三木と服部の論争を見つめる者は少なかったのではないか。三木清はその最後のあたりの文章を読むと、検閲を意識した脱字、赤字だらけ、日中戦争が 激しくなる中で、両者には共に語り合える共通のテーブルがあるはずなのに、どうしてこういう戦争になっているのだということを胸が苦しくなるような息づか いで書いていました。多分、最後の最後あたりの文章、短い文章で日中戦争に対する彼のやむにやまれない思いを吐露している。
 その彼の絶筆が、親鸞だったと聞いています。親鸞を読み直そうとしていた。その文章に対して、かつては非常に仲がよかったと思われる服部之総が批判を展 開したのでした。その入り口には、確か三木が取り上げていた親鸞の言葉が批判的に提示されていたように記憶しています。「朝家の御ため国民のために、念仏 をもうしあわせたまいそうらわば、めでとうそうろうべし」という言葉。ここにある「朝家の御ため」という言葉が、服部には三木の天皇制に屈服した印と見え たわけです。そして、現代は科学の時代だと規定し、その現代では農民や女性の開放が科学によって示されているにもかかわらず、三木はこともあろうにこの現 代にいたって、親鸞の「信」を持ち出してきていると言うのが、彼の批判の要であるわけです。言葉を代えて言うなら、現代で仏教というのは、いわば裏切り者 の戯言であるということです。
 服部之総は真摯な学者でした。しかし、科学を前面に押し出しての三木批判は正当であったかどうか。親鸞の「朝家の御ため」とは、果たして服部の指摘する 通りの意味内容であるのか。服部は、この言葉を天皇制への屈服の印と見たのですが、由畑は、いわばこの服部之総の視点を受けていたのであります。
 一方、海塚はそれに理解を示しながらも、なお全面的に賛同できなかったわけです。それが「塔」となっている。ではその「塔」とはなんであり、また「科 学」は何であるのか。
 現代は確かに「科学」の時代であります。しかし、また現代ほど「科学」が問われている時代は他になかったとも言えましょう。科学が問われているそれはま た、近代文明が問われ、それを生み出した人間が問われているといことでありましょう。これこそ根本的な課題です、そのような目で改めて野間さんがとり上げ た『歎異抄』を読みますと、まさに唯物弁証法の立場に立って『歎異抄』を解説していきながら、どうしても『歎異抄』を書き切れていないという思いが、野間 さんにはずっとあったのではないかと思われます。
 野間宏の『歎異抄』は一回だけのものではなかったのであります。野間宏の現代文明を見る視点は、『歎異抄』を巡って、その初期から後に大きく変化してい たと考えられます。あるいは『歎異抄』の読み込みが、現代を見る目を深くしていると言ってもいい。野間さんは『歎異抄』を一度書き終えてから九年後、また 『愚禿親鸞』という表題で「歎異抄」を書かれるわけです。野間宏はまた、どうして『歎異抄』を書き改めることになったのか。最初の思索と九年後の両者に は、どこに違いがあるか。ここに野間宏があの粘り強さで『暗い絵』のあのイメージを提出せざるを得なかった、存在の全体の根っこから浮き上がってくる生命 観のもたらすものがあると、私はそのように思います。
『歎異抄』をその初期のものと、後からのものを読み、現代と野間宏ということで考えてみますと、重大な問題の再提起がございます。現代に生きる仏教という ことで初版の『歎異抄』の九年後と書いてありますけれども、九年後に書いて、前のところにはなかった文章が、序文のところでこういう文章で現れていまし た。
「鎌倉期において親鸞はいかに生きたか、親鸞の行き方をもう一度仲立ちにして現代に生きることはできないだろうか、と考える。そして仏教をもう一度現代の なかで把えなおそうとするー」と。
 この言葉には、仏教のほうが他の諸思想より、一段先んじており、そうした非合理的なものを合理的なものに変えてその正体をはっきりさせていったことを示 す、と言った言葉にも見られる視点の一段の深化があると言えましょう。つまり人間の開眼は、自分の目の前にあり、また自分の体のなかにあり、あるいは天体 のなかにある非合理的なものに目をそそいで、そのなかのカラクリをあきらかにして合理的なものにしてゆくところに生まれます、という合理的眼差しをもっ て、仏教の合理精神を評価する視点の一段の深化です。そして、その目でヨーロッパ起源の現代の近代を否定していくわけです。
 次のように言っています。 
「日本は明治時代、西洋文明を専ら輸入し、西洋、ヨーロッパに追いつこうとしてきた。しかし近代ヨーロッパ文明の破産はいよいよ皆の目に明らかにみえるよ うになってきている。核兵器、各産業をシンボルとする大工業生産のもたらす環境破壊、汚染、公害の問題、エネルギー、資源の問題、食糧問題などの解決困難 な問題の前に、ヨーロッパ文明は立ってもはや前へ進むことができないのである。」
 しかも、この問題意識は、結びの章「乱世の中の太平と『歎異抄』」では、もっと詳しく展開されていました。そこには三つの問題が提起がされておりまし た。第一は核兵器と核戦争の危機です。第二は、エネルギー、資源の問題です。そしてこれはチェルノブイリの原子力発電所の大事故を踏まえた上で、核問題と どうこれがかかわるかという眼差しと共に語られております。そして第三は食糧の問題です。食糧がどうなるか。
 確かに何れも現代の根本問題にかかわっていると言っていい。大問題です。そしてその現代の根本問題全体を見つめて、次の問題提起をしていました。 
「このような現代文明の危機を招来した根拠はヨーロッパ近代のところにある。ヨーロッパ近代合理主義がそれである。ヨーロッパ近代の生み出した文明は、今 日の現代文明の危機のただ中に人間を導き入れることとなった。ではこの近代ヨーロッパ合理主義を徹底的に批判し、それにかわり積極的にこの危機を超える文 化創造が、和魂洋才といい、専らヨーロッパ近代、その技術を中心に追ってきたといっていい日本に可能であろうか。このヨーロッパの近代と同時に、日本の近 代を徹底的に問い詰め、その破産に臨んでいる近代を媒介として近代を超えるとき、初めて現代文明の危機を乗り越えることができると、私は考えている。そし てそこに仏教の思想の重要性を見ているのだ。」
 そして、この現代の危機とのかかわりにおいて、親鸞思想を見つめるわけです。
 野間宏は言います。「そこに親鸞の法然においては見られることのない戦闘的ともいえる終末思想がある。現実は末法の世であって、汚辱しきっている。人間 そののもまた、罪と悪をはなれること難い人間である。その人間を改めて問いつめ、その上に立って、その人間がとうてい達することのできない彼岸に、人類史 的<彼岸>に念仏によってつなごうと全力をつくすのである」と。
 問題はしかし、「念仏によってつなごう」というその繋ぎ目は何かということではないでしょうか。話を少しばかり元に遡らせると、三木清が、監獄の死の縁 にあって求めたものも、その「繋ぎ目」ではなかったか。そして、野間さんが括弧で結んでいる<彼岸>もまた、その繋ぎ目だと考えられます。し かし、その括弧に囲まれているとは言え、その彼岸とは、何かです。親鸞においては、彼岸とはまた「此岸」だったのではないか。そこに親鸞の開いた念仏の真 実があります。彼岸でも此岸でもない、浄土です。彼岸でも此岸でもない大地。
 親鸞と現代を繋ぐその繋ぎ目が、野間宏の眼差しでは、なお明確ではないと思うのであります。そして、それはまた、服部之総と三木清の論争がなお、解けて いないことではないでしょうか。言うなれば「科学」と「信」の問題が解けていない。
 ここにいま一度、森川達也の言葉を引用するなら、「さてしかし、いわゆるマルクス主義による救済の思想と、親鸞による救済の思想とは、果たして氏におい てよく結合され得たか、どうか。氏の表現によれば<なんとか一元論を打ちたて>ることができたか、どうか。―私自身の印象から言えば、氏のそ ういう念願は、まだ十分に成就し得ていないように思う」ということです。新しい『歎異抄』を見ますと、その現代批判と念仏思想の展開には、かつてはない眼 差しが開かれていると考えられますが、ここにどうして「信」が明らかにされてこないのでありましょう。「信」のないところで、どうして繋ぎ目が掛かるの か。初版から――もう一度繰り返します――九年後になって出てきたわけでございますが、ここには依然として現代の根本問題が横たわっているのではないで しょうか。
 確かに野間宏は、森川氏の言うとおり大きな作家です。稀有な人です。しかし、果たしてここに親鸞が開かれているかどうかは、大いに討論していいことでは ないでしょうか。「近代」が見つめられる一方で、「科学」はあまり見つめられていません。親鸞が語られながら、「信」については触れられない。これが非常 に大事だと思います。野間宏は森川さんの言葉でいうなら、「<偉大な作家>である限りは、語のもっとも深い意味においての<二元論 >は、ついに避けることのできない必然である」のでしょうか。ここに現代の困難があります。それは言わば、合理思想に潜む困難であります。仏教の方 が他の思想より、非合理的なものを合理的なものに変えて、その正体をはっきりさせていったことを示すと言った眼差しだけでは、いよいよ隘路に落ちるほかな い困難です。つまり人間の進歩は自分の目の前にあり、体の中にあり、あるいは天体の中にある非合理なものに目を注いで、その中のからくりを明らかにして合 理的なものにしていく、と言うことができるだけでは超えられない困難です。

 思えば、科学に潜む問題は、日本においても近代の文明開化以来の問題だったのでした。ヨーロッパ近代が生んだ論理的明証性に感服した夏目漱石は、ヘーゲ ルの絶対精神へと自ずから展開してゆく精神の弁証法を絶賛した後、その晩年の『行人』では何と言わなければならなかったか。「僕の世界観が明らかになれば なるほど、絶対は僕と離れてしまう」と彼は言います。何故か。「自分のしていることが、自分の目的になっていないほど苦しいことはない」と彼は言うわけで す。そして、その人間に潜む矛盾の究極を彼は次の言葉で言い表していました。「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつ て我々に止まることを赦してくれたことがない。徒歩から車、車から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、何処まで行っ ても休ませくれない。どこまで伴れていかれるか分からない。実に恐ろしい」
 ところで、この夏目漱石の恐ろしいは、原子爆弾が実際に登場してきた今日、原子物理学者朝永振一郎の次の眼差しになっていることを、私たちはよくよく考 えていいと思います。
「私は科学は非常に罰せられる要素があるんだということ、これは忘れてはいけないじゃないかという感じがいたします。それと同時に、それじゃそういうもの はまったくやめたほうがいいかと言いますと、そうもいかない。というのは、人間は火を使わないではほかの動物と競争ができないと同様に、科学なしでは生き つづけることができないという矛盾した存在であるということです。―こういうことを言いますと、知識が罪であるというのは、つまりその知識を悪用するから 罪なんで、知識だけから罪でもなんでもないと言う人もあるでしょう。―しかし現在の世界はどういうふうになっているかと言いますと、科学が自然を解釈する とか、そういう段階で止まっていられないような、いまの文明はそういう状況になっている。つまり知ったものは必ずつくらずにはいられないという状況です。 そういう状況がいったいどこから出てきているかということを考えなくちゃいけないわけです。つまり自然をかえるというようなことを実際にやらないし、それ を利用してうまいことをしようと思わなければ問題ないんだと言ってすませないような要素が、いまの文明のなかにあるということです」
 今日の文明のなんという矛盾でありましょう。それを考えれば、イラク戦争を発動したブッシュが、世界をいみじくも善か悪、文明と野蛮の二項対立で引き裂 き、しかも核爆弾の先制使用を声明したことの恐ろしさは、よくよく考えていいと思います。そしてそのブッシュの眼差しの根っこにあるものこそは、現代科学 を生み出したいわゆる合理的に計算できる人間の知恵というものではなかったでしょうか。問題は、まさしくこの人間を人間にしている知恵をいかに超えるかに あるのでした。その意味では、ここに一元論か、二元論かだけでは超えられない問題があります。2×2が4ではどうにもならない。 

 ■親鸞とマルクス

 そういう意味では、マルクスの業績を真に学んでゆこうと願うなら、その思想の合理性の意味もまた、深く見極められていいのでありましょう。野間宏はマル クスに傾倒し、親鸞で言いますれば「自然法爾(じねんほうに)」という思想にも、その視点から深く賛同していました。しかし、その「自然法爾」とは何かで す。親鸞の「自然法爾」はなにを意味し、マルクスのいう「自然」とは何であったか。
  記憶違いであるかも知れませんが、メルロ=ポンティというフランスの哲学者は、マルクスは『経済学哲学草稿』であんなに大事な問題を提起しながら、どうし て自然の問題についてさらさらと流して、全然深く入っていこうとしなかったのかということを言っていたように思います。確かに現代の私たちは、マルクスの 自然観を一度再検討していいのです。マルクスは『経済学哲学草稿』の中でこう言っていました。
「人間対人間の直接的、自然的、必然的関係は、男性対女性の関係である。この自然な類的関係にあっては、人間対自然の関係は直接に人間対人間の関係であ り、また人間対人間の関係は直接に人間対自然の関係、つまり人間に固有の自然的規定である。(中略)男性対女性の関係は、人間対人間の最も自然的な関係で ある」と。
 若きマルクスの表現です。しかし、これがマルクス主義の原点でもありましょう。前期のマルクスと後期のマルクスを分けようとして、厳しく否定されたマル クス学者もいたことでした。そのフランス人は自殺したのではなかったか。しかし、男と女の関係は、果たして自然でありましょうか。野間宏はその『歎異抄』 において、人間の性欲がいかに不自然なものであるかをみていました。人間における性欲の悩み、苦しみは、男と女の関係がまったく自然ではないからでありま しょう。その意味で言うなら、人間の「食」も、とっくにその自然性を喪失しています。五感からして、まったく自然性を喪失しているわけです。野間宏の『暗 い絵』を評して、性の過剰描写がいけないという評価をしている人もいたわけですが、あの性そのもののような大地は、何を現していたか。あれこそ人間の身心 の大地でありましよう。私はあのイメージは性の過剰描写ではなくて、すべてが焼けて何もなくなった大地になお生きていた人間の生命力を感じるものです。非 常に深い生命力です。
  しかし、問題は人間の欲望は、どうして自然性を喪失しているのかということです。ここに人間の困難があります。人間はどうして、同じ人間を食べることがで きるのか。人間を人間にしている人間の知恵こそが、その根っこの闇ではないのか。文明といい、善といえる知恵が、人間から本来の自然を奪っているのであり ます。その自らの矛盾を直視しないことから、文明の名によって核爆弾の先制使用が宣言できるのでありましよう。人間は生と死を引き裂いて、さらに地球を西 と東に引き裂いているのでした。分けるということ、それこそが文明の始まりであります。近代日本で言いますと、福沢諭吉の文明・半開・野蛮という眼差しが あります。それはすぐに『脱亜論』となって、朝鮮、中国への火の粉になっていることもここに考え合わせていいと思う。見えることが、記号を通しての分ける ことに通じてしまう知恵、人間はそれを文明と呼んだのでした。しかも、それが人間に大きなエネルギーをもたらした。しかしそれはまた、人間の根本的矛盾で はないでしょうか。核の問題がそこに関わっている。
 
 ■核の問題を親鸞と重ねて問う

 文明とは、人間の明であると同時に暗であると考えていいのです。野間宏の現代性とは、その人間の矛盾を近代という時代において、親鸞の仏教と重ね合わせ てみようとしたことにあります。他の誰も試みようとしなかったことであります。まさに戦争を潜った人間の苦悩が、その文学創造の根っこに疼いていると言っ ていい。現代人は、今日の危機をその人間の原点から見つめていいのであります。
 私たちはいま、確かに人類史上かつてない危機に立たされていると思われます。ブッシュはテロへの怒りから、「新しい戦争」の発動を宣言しましたが、ブッ シュの新しい戦争はちっとも新しくない。第二次世界大戦では、核爆弾が爆発したのでした。この爆弾が、私たちに突きつけていたのは何か。私たちの現代のい わゆる国民国家は、ナポレオンの登場以来のことでありましょう。国民国家は国民皆兵の時代を開きました。それは個々人を地球の表舞台に登場させるかにみえ ましたが、それと同時に人間の戦争を、いわゆる総力戦にしているのです。これは皆さんに教えていただかなければいけませんけれども、岩波の「哲学辞典」に よると、クラウゼヴィッツというプロイセンの軍人が『絶対戦争論』を書いておるとのことでした。私たちの世代は、「戦争とは政治の延長だ」というのはレー ニンの言葉のように聞いておりますけれども、これは早くクラウゼヴィッツが、一七八四年の生まれの人ですがプロイセンの軍人で、ナポレオン軍の捕虜になる ところで見た戦争というものの姿を捉えて総動員だと、これが国民国家誕生以来の人類が当面している戦争の形態だと言っていたようです。前線と銃後、あるい は軍人と民間人の違いはない、すべてが戦争に巻き込まれると見た。これが、その時代の戦争論だと言うわけです。
 そして今日、万人が戦争に巻き込まれる核戦争の時代になっている。何人もこの現実から逃れることはできません。二十世紀の第二次世界大戦の終わりに広島 と長崎に原爆が落ちたときに、既にその火ぶたは切って落とされていたわけです。あるいは日本が中国に攻めていったときに、その総力戦というもののすさまじ さは、中国人はよく知っているはずです。皆殺しになっていったわけでございます。その裏側の日本では、瀧川事件に見られますようにほとんどの人が息を殺し て生きていかなければならなかった。にもかかわらず、またしても今日の状況です。ところが、日本の総理大臣は言う、「備えあれば憂いなし」と。呑気なもの です。本当に年中、備えあれば憂いなし、と言っている。備えろ備えろと言う。しかし、何か起きると、今度は自己責任を持ち出して、自分で責任をとれと言 う。
 先ほどの朝永先生の言葉をここでまた思い出したいものです。
「よく備えあれば憂え意なしといいますね。備えがなければ心配だという衝動が科学者や政治家や技術者をかりたてるわけです。ところが現在の状況では、いく ら備えても決して憂いがなくならない。―そういう非常に妙な逆説的な状況がげんざいあるわけです」と先生はいう。
 では真の意味での備えとは何か、思えば、三木と服部の論争は、その問題を私たちに提起していたのだと考えられます。

 ■親鸞において、人類史の暗黒を見つめる

 もう時間が来てしまいましたけれども、結論を申し上げなくてはなりません。大体これは一時間でやれというのが無理なことです。もう息を切って走って走っ て、この年寄りに途中で倒れろというようなもので、でも、メモだけはお話しするつもりです。三木と服部の論争に戻って考えたいわけですが、その前に私たち の対象的にはたらく知恵のあり様に関わる問題で、親鸞が『教行信証』に引用している言葉を二つ引用して置きたいと思います。 
「当にまた例を引きて、自力・他力の相を示すべし。人、三途を畏るるがゆえに、禁戒を受持つす。禁戒を受持するがゆえに、よく禅定を修す。禅定を修するを もってのゆえに、神通を修習す。神通をもってのゆえに、よく四天下に遊ぶがごとし。かのごとき等を名づけて自力とす。また劣夫の、驢に跨りて上らざれど も、転輪王の行くに従えば、すなわち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍することなきがごとし。かくのごとき等を他力とす。」
 言うなれば、人間はたとえ孫悟空のように世界を自由に飛びまわれたとしても、それを自力と言うわけです。
 そして、いま一つは『起信論』から引用です。
「あるいは衆生ありて善根力なければ、すなはち諸魔・外道・鬼神のために誑惑(おうわく)せらる。もしは座中にして形を現じて恐怖せしむ。あるいは端正の 男女等の相を現ず。まさに唯心の境界を念ずべし。すなはち滅して、つひに悩をなさず。あるいは天像・菩薩像を現じ、また如来像の相好具足せるをなして、も しは陀羅尼を説き、もしは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を説き、あるいは平等・空・無相・無願・無怨無親・無因無果・畢竟空寂、これ真の涅槃なりと 説かん。あるいは人をして宿命過去の事を知らしめ、また未来の事を知る。――またよく人をしてもろもろの三昧の少分相似せるを得しむ。みなこれ外道の所得 なり、真の三昧にあらず。―知るべし、外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心を離れず、世間の名利恭敬に貪着するがゆえなり。」
 恐るべき指摘でございます。念仏というものは、ただならぬものであるということがよくわかります。「自力」であるとき、人間は無相、無願、空寂と言うと しても、その真理がまた、人間の迷いになると指摘であります。唯物論がまた、唯物論という観念論にもなるとの喩えだとも言えるかも知れません。
 ところで、服部之総と三木清の間に横たわっている断絶もまた、この見愛我慢を教えるものではなかったでしょうか。繰り返しでずか、服部は三木の親鸞の言 葉の「朝家の御ためー」という言葉に三木の天皇制への屈服を見たのでした。しかし、それは果たして親鸞の言葉と思想を深く読みぬいてのことでありましょう か。親鸞の言葉は、鎌倉期の弟子に当てたものだったのでした。鎌倉期のこと、京都や鎌倉に大火があり、また地震などもあって、人々の生活が極度に苦しく なっていったときであります。親鸞の弟子の性信は幕府の裁判沙汰に引き出されたのでした。もし、有罪ともなれば、首が飛ぶようなこともあったのではないで しょうか。その性信に親鸞は、励ましの手紙を送ったのであります。その手紙の中に先ほどの言葉があった。ではそれは、どんな文脈で述べられたものか。
「――さては、鎌倉にての、御うったえのようは、おろおろうけたままわりてそうろう。――性信坊ひとりの、沙汰あるべきことにはあらず。念仏もうさんひと は、みなおなじこころに、御沙汰あるべきことなり。念仏もうさんひとは、性信坊のかたうどにてそうろうにこそ、なりあわせたまうべけれ。――詮じてそうろ うところは、御身にかぎらず、念仏もうさんひとびと、わが御身の料は、おぼしめさずとも、朝家の御ために国民のために、念仏もうしあわせたまいそうらわ ば、めでとうそうろうべし。往生を不定におほせしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして、御念仏そうろうべし。わが身の往生、一定とおぼしめさん ひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべしとぞおぼえそう ろう。よくよく御案そうろうべし――」
 聞くところによると、この手紙の文言については、いろいろな先生たちのいろいろな解釈があるようです。服部之総の解釈がある一方、その対極には赤松俊秀 の解釈がある。彼は仏教とは、もともと護国思想であると言う視点から、これを護国思想の現れてい見ています。また、そのいずれも取らず親鸞の思想を、忠実 に解釈しようとした説もあるわけです。ここではその先生たちのお説に入ることはしません。私がここに現れている言葉に直感したのは、親鸞のいわゆる「念仏 往生」の思想でした。その思想において、この言葉の意味を捉えて、「念仏」の根っこを考えたいと思います。
 親鸞には、人々に「三願転入」と呼ばれている思想があったのでした。その内容を砕いていいますと、まずその第一に押さえられていたのは、自分中心の現世 利益の立場がいかに真の仏法と縁遠いものであるかと言うことであります。「朝家の御ため」云々で言いますなら、それを親鸞の護国思想の現れとみる赤松思想 が、いかに親鸞と縁遠いものであるかと言うことを考えさせられと言えます。いま少し砕いて言いますなら、自分中心の「念仏」は、加持祈祷に類するもの、あ るいは合格祈願と変わらないものであって、その道の行き着くところは、自分の死ぬ臨終による救いにほかならないと言うけです。親鸞は、その道の世界を行く ものを「邪定聚機」と見ていました。「邪」と言われる。言うなれば、自分中心に死に至る道をゆくまことに「めでとうそうろう」ということでしようか。
 親鸞は、この道を取っていません。服部之総は、三木の論旨をその視点から見て、天皇制への屈服と見たのでした。しかし、その服部之総の立脚地は自分中心 の視点から現世を見ているという点において、まさしく護国思想の対極にあるものであって、親鸞思想の根っこを完全に読み違えている言うほかないと思いま す。監獄にあった三木の悲しみが痛く感じられるところであります。三木はまさに絶対天皇制の監獄で死期を見ていたのでした。しかも、日中戦争の闇に苦しん でいた。彼の求めるものは、まさしく真の念仏だった。仏道こそが、何ものにもまして人間の根本と見ていたのであります。
 親鸞は、人間とはまず自分中心に歩みを始めるとしても、その自分に立ち往生して、自分を問い、真実を求め始めると見ています。自分中心が破れるとき、人 間は何を思うか。その極限では、死ぬか、さもなくば助けて下さいと叫ぶか、人間はその岐路に立たされましょう。その二つに一つしかありません。三木はそこ で親鸞の道を尋ねたのではないでしようか。きっと念仏を称えたものと思います。しかし、人間には、称えても称えても、なお称えている自分が残るのでした。 親鸞は「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」と述べていました。そのとき人間は、念仏しながら、その往生はまだ「不定」と言うほかありません。どう したらよいか。人間とは、彼岸を求めるとしても、その求めているときには、彼岸に至ることはないわけです。死ねば別ですが。
 親鸞は、その「不定」の根っこを見つめたのでした。「不定聚機」と言います。そして、「一定」の真実を開かれたのでした。ではその「一定」の世界とは、 どのような真実であるのか。それこそはまた、野間先生が「人間と如来の願いをつなぐ」と見た真実の念仏の世界です。親鸞はまた、その世界こそが、人間の 「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」との願いを実現してゆく真実と見たのでした。しかし、称えても称えても、なお自分が残るとするなら、どこに道が開かれ てくるのでありましょう。どこにも開かれてくる道はありません。その自分を捨てるにしても、自分で自分を捨てるのは、捨てた自分がなお残ことになるほかあ りません。
 人間の闇とは、まことに底知れないのです。親鸞は人間のそのどん底に進み出たのでした。何が明らかになったか。その身心には、捨てても捨てても、なお 残ってしまう人間の歴史始まって以来の闇が詰まっていたのでした。親鸞はその人間の究極の苦悩を親殺しの阿闍世に仮託して言います。「世尊、我世間を見る に、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より、栴檀樹を生ずるをば見ず。我今始めて伊欄子より栴檀樹を生ずるを見る。『伊蘭子』は、我が身これなり。『栴檀樹』 は、すなわちこれ我が心、無根の信なり。――」
 いまこの言葉を一つの比喩を持って砕くなら、人間の肉を食って生き延びた者が、真夜中に自分が食った人間の顔に襲われて「助けてください」と叫び声を上 げ続けていて、不意に自分には助けられる資格がないと気づいたことだとも言えます。そして、この阿闍世は何を思うか。「世尊、もし我審かによく衆生のもろ もろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず」
 親殺しの阿闍世のなんという転換でありましょう。「助けてください」が、「もろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも」という願いに転換しているのであ ります。この阿闍世「無根の信」の感得こそは、まさに人間の根源的転換点であります。また、それこそ阿闍世の深い「慙愧」の賜物でありましょう。人間と は、自分中心の世界から、この仏の眼差しの道を行くとき、はじめて「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」という仏の道を開くことになるのであります。親鸞は その道を「念仏往生」の一本道とみました。「わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは」とは、この一本道を行く人であります。この「一定」といわれる人間 の世界こそが、また『歎異抄』の結びに開かれている真実でありましょう。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とは、人々とともに生きて、阿鼻地獄に落ちることを己の救いと見る人でありま す。その人こそが、真の独立者であります。さて、最後にいわゆる「三願転入」といわれている言葉をここに上げて置きたいと思います。
「ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によって、久しく万行・諸善の仮門を出でて、長く双樹林下の往生を派なる、善本・徳本の真門に 回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げ んと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海を入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳 海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり」
 全くわかりにくい言葉でございます。しかし、この親鸞の道こそが、今日なお人類の平和への道であります。核戦争の危機をどう超えるか。朝鮮戦争のとき、 その危機が戦後あったのでした。日本はいま、この危機の深さを見過ごそうとしているかのようです。このままではアジア全体が本当に深い危機に落ち込みま しょう。
 野間さんの会、野間さんはそれを心から危惧していた。そうであれば、もっと若い人がたくさん来なければいけないのに、何か介護保険を受けなければいけな いような私たち白髪ばかりが集まっている。これはやはり、私たち年寄りの怠けが表れているんだと思います。生意気を言いましたけれども、これで終わりにさ せていただきます。