* はじめに-いのちの問題を通して次世代を考える
きょうのご縁、日本能率協会という会の催しだと伺いまして、いささか何か場違いな感じがいたしました、これが私の正直な思いでございます。
しかしながら、今日の時代は、すべての人が裸になって考えていい時期だと、そのような思いでお受けいたしました。とはいえ、時間が限られております。話す道筋をしぼって考えなければなりません。「いのちの声が聞こえますか」と、このような講題をいただいていますが、差し当たっては日本と朝鮮ということ、これもまた今、世界の中のアジアにおいて
、私は大きな深い問題をはらんだ問題を提起しているように思いますので、その角度から一つ。もう一つ、その角度から考えられます今日の問題を、直接いのちの危機にかかわり、その事例を足元のところがら省みてまいりまして、それを二十世紀という時代にまで至った人間のどこにその危機の根拠があるのか、それを探りつつ、二十一世紀へ向かってどこに私どもの道があるのか、それを考えさせていただこうと思います。
いのちと、このようなテーマで考えますとき、とりわけ私は、仏教の教えが大切だと思っています。私の場合、浄土真宗の教えを学んでおりまずけれども、真宗で教えられるところのいのちを通して、次の世紀への展望を考えてみたい。
差し当たっては、まずは私の自分の仏教への歩みのきっかけからでございます。
私は、一九三二年に山口県の下関で生まれました。両親は朝鮮半島から来た労務者でございました。その環境の中には仏教の縁はあまりなかったと言うほかありません。寺とも仏壇とも縁がなかったわけです。あとで気がついて見ますと、浄土真宗、親鸞聖人の教えが、様々な形で縁として身辺にあったと気づかされますけれども、四十三歳になろうというとき、一人ッ子が自ら死んでいくということがあるまでは、自分が仏教の教えと関係があるといふうには、あまり自覚的には考えたことはございませんでした。むしろ宗教とは無縁に人生を送ってきたし、それどころか、宗教は差し当たって現代生活を生きる私にとっては、大事な教えではないとそのように考えていたと思います。
しかし、その私が浄土真宗の教えをいただくようになりました。きっかけは、一番大事な子が自ら、命を絶ってしまったということです。気がついてみると、南無阿弥陀仏をいただいていたということが始まりでございます。その子どもの死という縁をまず考えてみます。そこから現代生活の中に入ってまいりたいとそのように思います。
* 残されたメモに「人間はみな百面相だ」
思えば、子どもが亡くなって二十五年になります。死後に一冊の詩の手帳を残しておりました。ほんとうにたわいのない子どもの走り書きのようなものでございましたけれども、開いて読んでおりますと、子どもなればこそ言葉にしえたと思われるような非常に鋭い眼差しもそこにはございました。
例えば、『人間』と題して「人間ってみな百面相だ」、と書いていました。たったの一行です。
中学一年生の一学期が終わる前、十二歳と九ヶ月で世を去りましたけれども、苦しみが始まり、亡くなる一月ちょっとほど前のものでございます。
その次に置かれていた言葉は『ひとり』でございました。「ひとり、ただくずれさるのをまつだけ」と、これもまたほんとうに恐ろしい言葉です。
その次は百面相でした。一人である自分を確認し、その原因を見つめようとしたのでしょうか、『じぶん』と題する言葉が続いておりました。「じぶんじしんののう(二字に、傍点)より他人ののう(二字に、傍点)の方がわかりやすい。みんなしんじられない、それはじぶんがしんじられないから」。これが中学一年生の言葉でございます。これらの言葉を死後に目にいたしまして、私は、非常に大きな衝撃を受けました。その後、二十五年間、亡き子と言葉のない対話を繰り返してきております。ここには、この子が十二歳九ヶ月で亡くなっていく過程において抱えていた課題とともにこの子だけの問題ではない、多くの子どもたちの問題、そして今日の時代をも抉(えぐ)る「ひびき」があると思うのです。いや、さらには日本・朝鮮、あるいは世界の足下に潜む時代の闇をも抉っている。そのような思いもすることです。
「人間ってみな百面相だ」とは、実に恐ろしい言葉です。しかし、これこそ、まさに何人も避けることのできない人間の事実ではないでしょうか。また、百面相であればこそ人間は、逆に真実を求めざるを得ない。そのような人間の抱えている業(ごう)が、そのまま言葉にもなっているような気がいたします。彼は人間のこの重荷に気づいていたのでした。「四苦」の内容を意味することになったとも言える。そして「ひとり、ただくずれさるのをまつだけ」と書いたのでした。「百面相」の内容の苦しさ、恐ろしさの現われであるかと思います。人間の隠れている事実を言語表現してみれば、この苦しさです。そして、彼は、その上に立ちすくみ一人であることを確認せざるを得なかったわけです。崩れさるのを待つだけとは、悲しい言葉です。
しかも、その原因が自分というものにあったわけです。三番目に置かれていた言葉が明示しているのは、まさに人間の「自分」の抱えている闇です。
〃自分自身の脳より他人の脳のほうがわかりやすい。みんな信じられない、それは自分が信じられないから〃。
まことに「自分」とは何か、また「劣る」とは何かです。人類は二十世紀までの歴史を経て、理性を中心に自分のことは自分で責任を持って生きるという道筋を開きました。その意義は計り知れない。しかし、そこから、逆に自分とは何か、それが改めて問われているわけです。この子が最後に読んでいた本との関わりにおいて、いま一歩その内容を考えてみます。
亡き子は、中学一年生の一学期が終わろうとする七月十七日に亡くなりました。まさか死ぬほどの苦しみとは気づきませんでしたが、様子はおかしかった。それは気づいておりました。様々な形で気づいておりましたけれども、そのおかしさの一つの顕著な例として、本の読み方がものすごい速さで、そして、ものすごい量になっていたということであります。最後は、食卓の上に本を置いて食事をしながら読んでいるという調子でした。
「おかしい」と思いました。それはもう亡くなる寸前でございますが、私はその本を取り上げてみました。夏目漱石の『こころ』でした。『こころ』を持って二階の自分の部屋に行こうとする子どもから、ひょいとその本を取り上げてみて確認したわけです。漱石の『こころ』という作品、皆さんよくご存知だと思いますが、近代日本を生きた最高の知識人の一人であった漱石が、人間のこころをその時代において深く見つめて生んだ作品です。そこに、亡き子と同じような意味の言葉があります。「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用出来ないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うより外に仕方がないのです。」
しかも、漱石は、その『こころ』の主人公の苦悩をたしかにその時代と結び付けて考えていたわけです。「自由と独立と己れに満ちたこの現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しさを味わわなくてはならないでしょう」と彼は言うのです。自由と独立と己の尊厳が確立される時代のただ中で、人間はその己が信じられないという矛盾を抱えていたと漱石は見ていたのでありましよう。
亡き子の残した言葉が、漱石のような深さを備えていたとはとても思えませんけれども、そこには通底する響きがあると、このように言っていいかと思います。
しかも、これこそが現代の子どもの苦しみの根っこであり、またそれこそが大人の苦しみにも、通底しているものではないか。そしてそれは民族や国家を超えて、現代人が地球的規模で考えてもいい、そのような問題をはらんでいるのではないか、そのようにも思うのです。
* 人間は何のために生きるのか
次にそのように思うところの内容に入っていきたいと思います。
今のような言葉を書き残していた子どもの詩の手帳を、私たちは出版いたしました。私たちは十二歳で死んだ子に、なお友達を作ってやりたかったわけです。姿はないけれども、世間の人たちにこういう子がいたということを知ってもらいたい、そういう思いだけで出版を承諾しまして、本にしてもらいました。
ところでその詩集・『ぼくは十二歳』という彼の詩が世に出ましたあと、たくさんのお手紙を頂戴いたしました。中学生、高校生だけではなくて、大学生もおりました、あるいは父母からの手紙もございました。
そういう手紙には、今日の時代を生きる人間の「自分」というものが抱えている問題、そしてその下に透けて見える二十一世紀に向けての私たちの課題、それがよ一く感じ取れる手紙が数多くありました。その一つ、代表的な手紙を読みながら次の方向へ進んでみたいと思います。
日本人の中学三年生のお子さんからの手紙です。まずそれをちょっと読んでみます。下田麻理奈さんとおっしゃいます。
「高史明様 岡百合子様。はじめまして。突然お便りを差し上げる失礼をお許しください。私は、『ぼくは十二歳』を読んで、岡真史君の死に思いを寄せる一中学三年生です」。
これが書き出しでございます。そしてご自分もまた、人生とは何か、それを考えて、ノートを取っていたという心の状況、そういうことなど披露しながら、人間の問題をどう考えているのか。なぜ、手紙を書くことになったかを書いてありました。
「私も小学六年のころから詩のノートを書きはじめ、現在、四冊目にいたっています。六年生のときにふと気づいた「なぜ生きるのか」という問いに答えを見つけようと読書し、感じ、考えることこそが生き甲斐だ…などとも思っています。私のそのつたない思考の中で「なんのために生きるか」ということについては、自分の理想や現実を少しずつ見極めてきたつもりです。それは一言で言ってしまえば、"真実を追求するため〃という平凡ではあるけれど…私にとってはそれこそ真実の理由なのです。」と言い、さらに次のようにも言っていました。
「でも、最近その人間の中の真実というものに、いささか疑問を感じてきました。そこには、人間であるから、社会の中で生活しているから、という類の真実が多すぎるのです。精神のためだけの真実ではなく、私たちの肉体生存のための大人の良識が人間の真実としてのさばっているように思えるのです」。
実に驚くべき言葉です。その当時私はもう仰天いたしました。しかも、さらにその先には次の言葉があったのです。
『真実を追うために生きる』ということは、私にとって真実であるけれど、他の人々が多く共存しているということが紛れもない事実であり、人間社会の真実なのです。だから私は、人間としての真実を見極めるために考え、悩んで時間を費やしてきました。そして最近、それに疑問を持ったわけです。人間として自分があるために許す真実は、ほんとうに精神にとっても真実なのかと。精神にとって「われわれの存在」ということは、苦悩することではなく、それ自体が真実ではないかと。うまく言葉では言えないけれど、人間を超えた精神の中にもっとも大きな真実があるのではないか、私の肉体の存在を必要としない自由の中でこそ、真実をつかめるのではないかと思いはじめたのです。そして私は、死という言葉に行き当たりました」、そのように書いて、死を肯定していくその思いを非常に真剣に書いておられました。
その当時私たちは、まだ死という文字を見るだけで背骨に何か寒けが走るような精神状態でありましたので、その手紙を頂いて、これこそ震え上がってしまいました。もう明日でも、この子死ぬのではないかと、そういう思いすら抱いて、電話をかけたりして、手紙をやりとりするということが、その後始まったわけでございます。
そして今考えてみると、この手紙の少女の課題、この課題は、現代でもなおかつ十分に解けていないと思われます。それどころか、むしろほんとうの意味で生きるとは何なのか、どこに生きる根拠を求めたらいいのか、それを問いはじめると、それから二十何年か経っておりますけれども、いよいよこの問いは重くなっていると思えます。生きる意味がよけいに見えない状態が来ているのではないか。現代の様々な事件を見ましても、まさにその内実は、私たちに人間そのもの、その根っこからの問いを提起していると言っていい。大人の問題もそうですが、昨今は少年たちの「犯罪」もそうではないか、特に十四歳のあの神戸の少年が、同じ子どもの首を自分の学校の小学校の正門の前に置いて来るという出来事があってからは、一層、そういう様相が深くなっている、そのように思われます。
いま、私たちは何処にいて、何を問われているかです。私は、今日の事態はもう少し前から始まっているように思います。言うならば、経済の高度成長がこの国を潤わせてくる頃、その一方ですでに子どもの世界にそれとは逆の意味の暗い様相が次々に起きてはいなかっただろうか。そしてそのときそのとき、大人は対症療法的に対処して、それらの事態の根を深く考えることなしに見すごしてきたのではないか、そのように思われます。
例えば、少し前のことですが、日本におけるフランス語、フランス文学の方の開拓者の第一人者であるというふうに言われてもいいと思いますが、東大の教授であった方のお孫さんがお祖母さまを殺害して、そして自ら自殺するという出来事がございました。あの事件の中にも、恵まれた環境で、恵まれた才能を持って大きくなりながら行き場を失った少年の、私は悲鳴のようなものを感じております。また、今の方は、フランス文学のほうの方でしたけど、英文学の開拓者であったその方のお孫さんがやはりお祖父さまを殺害するという出来事がありました。日本の一番大事なところの学問を、それぞれ先駆者として開いた人の家庭が危機を告げていた。その家族の悲しみ、そしてその子たちの苦しみ、あれは当事者の意図を超えた時代の闇を告げる警戒信号というもの、命の危険信号というものではなかったか。今日、それが
どっという勢いで現れ出てきているのではないかと、私は、そのような思いも抱いています。
* 福沢諭吉の実学の教えに学ぶ
ところで、その根っこにあるのは何であるのか、それを考えます。それを考えていきますことは昨今の問題だけではすまない二十世紀全体に関わる問題であり、そして、それをしっかり見つめないことには二十一世紀は開けないのではないかと、そのような思いすら抱かざるを得ない、そういう出来事としてあるように思います。
ですから、昨今の少年たちの犯罪事件とかかわって、少年法の改正ということで考えられる側面もありましょうけれども、それだけで受け止めて、はたして問題がほんとうの意味で解決するかどうか、そういう根の深い問題を含んでいるのではないかと思っております。それを、なぜそう思うか、そういうことから次に話を進めてまいりたいとそのように思います。
恐らく問題は、少なくとも明治維新の頃まで、立ち返って考えられていいものを抱えていると思います。あの変革の根っこには、何があったのか、何を基準にしてどういう展開を遂げて今日に至っているか。今日の問題を考えるときに、少なくともその程度の尺度で考えてもいいのです。飛躍するようでございますけれども、目前の問題は、時によっては、百年、千年の課題を潜めていることがあるのです。
例えば、日本の浄土真宗でいえば蓮如上人の五百回忌が今、勤まっているようでございますけれども、その内実をよくよく見つめる目があればそこに、蓮如上人が、五百年前に提起された問題が、今もってまったく古くない、まったく新しい、そういう問題としても考えられます。そういうことから少なくとも明治維新の前後から、私ども何に当面して、それをどう切り抜けて、そしてそこに何があって今日に至っているか、そういう課題で考えてまいりたいと思うわけでございます。その辺から考えてみたいとそう思います。今日の私どもの生活、ものの考え方、その考え方の根っこを押さえてみると、たしかにそこに共鳴するものがあるわけです。
今日の私どもの生活、あるいはものの考え方、いろいろなもので支えられていますが、その象徴をひとつ取り上げますと、福沢諭吉先生だと言っていいかと思います。かっては聖徳太子が日本の代表する顔でございましたが、今日は一万円札の顔は福沢諭吉でございます。それはまた福沢諭吉のものの考え方が、世間の一般的な基準になっているんだということでもありましょう。
では福沢諭吉という方は、どんな考えを持った人であったか。いろいろな角度で考えられましょうけれども、例えば、明治維新との関わりで考えますと、『学問のすヽめ』は、その代表的なものの考え方だと言っていいかと思います。あるいは丸山真男先生が亡くなる寸前は、『文明論之概略』を読みなおしておられましたけれども、この二十世紀の激動期において、福沢諭吉があの明治の頃の激動期をどのように見て切り抜けていったか、丸山先生は丸山先生で考えようとしていたんだろうと、そのように思いますが、その福沢先生です。
差し当たっては、まず『学問のすヽめ』の要です。皆さん、よくご承知のようにこの「すヽめ」は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」で始まります。アメリカの独立宣言の思想に学んでいると思われますが、この言葉によって『学問のすヽめ』は始まります。
そのうえで、平等であるはずの人間世界になぜ不平等があるかということを押さえるわけです。「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」、とそのように押さえています。
そしてその学びの中心に、福沢諭吉は「一科一学も実事を押へ、其事に就き其物に従ひ、近く物事の道理を求て今日の用に達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たるものは貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、此の心得ありて後に士農工商各其分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し、天下国家も独立すべきなり」と、このように押さえておられました。
. 要は実学でございます。文学というようなものではなくて、今、この時期は実学こそが大至急に身につけなければならない、そのように述べておられている。私は、これは非常に正確な眼差しであったというふうに思います。
例えば、幕末から明治維新にかけてどういうことがあったのか、あの時代、佐久間象山は西郷隆盛や勝海舟に大きな思想的な影響を与えた人ですが、この人物のアヘン戦争にかかわる不安においてそれを見ることができます。上田藩士に送った手紙があるわけです。
「…ときに清国、イギリスと戦争の様子は、近頃御伝え聞き候や。慥(にわか)に承候とも申かね候ことに候へども、近年の風聞にては、実に容易ならざることに存じられ候」というような形で、アヘン戦争の行く末を心配しておられました。その背景には、アジアに押し寄せてきたヨーロッパ文明列強の圧力で日本もまたアヘン戦争の脅威にさらされた清国と同じように、下手をすると植民地になってしまうのではないか、そういう恐れがあったと私は思います。
そのような状況の中で明治の変革があった。そうであれば実学こそが要で、それで身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなりと、そのように考えられたのでありましょう。その目は実に正確だったと、私はそう思います。
しかしながら、まさに福沢諭吉がその一八七二年の時点において、実学という言葉で考えました要こそが、今日に新しい問題を孕むことになっているということです。この「実学」とは今日の言葉で置き直してみれば、数学的合理性に基づく科学と言っていいと思います。ところで、それが百年たってみると、私たちがただただそれを導入して、身につければそれで済むものではない闇を潜ませていたのではないかと言うことです。これが、今日の世界的な現実の問題になっているのではないかと、そのように思います。
例えば福沢諭吉の『学問のすヽめ』は一八七二年でございますけれども、ほぼ百年後の一九七二年でしたが、第一次石油ショックがございました。あの第一次石油ショックの前には、アメリカでは近代経済学が学問としては見事に結晶しているわけでございます。ソ連の経済学などというものは、学問とは言えない、ただの観念論だという眼差しで、数学の知識を駆使しての見事な学問が誕生していたわけです。しかし、その経済学が、あの第一次石油ショックを、ほんとうの意味ではたして引き受け得たであろうかということです。むしろ、その後の状況を見ますと、実際にはそれ引き受けることができなかったのではないか。にもかかわらず、その後の次々に起きる状況に対処療法的に対応してきたことが、今日の経済状況の不透明さとしていま私どもの身辺に迫っているのではないか。そして今日の子どもたちの成長の過程の問題と、その根っこの闇は、実は、連動しているのではないかということです。
近代世界を生み、現代を支えている科学は何かということです。福沢諭吉のときはそれは有効でした、戦後も有効であった、そして現代も、世界中に合理的理性と科学というものが、人間の生き方の中心としてあるわけですが、しかし、それがそのままでいいのかどうなのか、そういう問題があるということです。それがどういうことであるのかということに次に話を進めてまいりたいとそう思います。
実際、理性とは何か。科学とは何かということです。それは矛盾を孕んでいないか。その整合性にはまた、深い矛盾も潜んでいるのではないか。私は、今日の人間は科学を問うという形で、人類の全体を非常に深いところで問い直さなければ未来は開けないと、そのような大きさの問題に当面しているのではないかと思うのです。
* 人間を中心とする仏教実学──"生きる目的"
明治のはじめには、福沢諭吉は時代の要を実学とおさえました。一方、教育の要でいうと、それは、『幼学綱要』であったと言えましょう。しかし、この「綱要」はそれから教育勅語に至ります。その過程にも「実学」に潜む闇の日本に特有のねじれ現象を見ることができますが、教育の問題はひとまずおいていて、ここではまず、実学を中心とするものの考え方と有り様を、仏教を鏡にして考えてみます。実学は差し当たり人間中心です。すると、仮にそれを自力というふうな言葉で押さえてみることができますが、その「自力」とは何かです。
親鸞聖人の『教行信証』の行の巻にこういう言葉がございました。
「当にまた例を引きて、自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆえに、禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆえに、よく禅定を修す。禅定を修するをもってのゆえに、神通を修習す。神通をもってのゆえに、よく四天下に遊ぶがごとし。」そしてこう言います。「かくのごとき等を名付けて自力とす」。
人間は地獄に落ちるのを恐れる。だから仏教でいう戒律を守る。今ふうの言葉で言いますれば、幸せを求めるが故に世間の理性にもとづく規則を守る。科学の世界で言えば、合理的な理性で把握した合法則的な行動を取ると、このように言い直すこともできましょう。そのような生き方をするというわけです。
法を守って生きる、理性の約束事を守って生きる。そしてそのような生き方をしてゆけば、禅定を修す、つまり精神の統一を実現していくことができる、このように見ておられる。それもそのとおりであります。さらにまた、「禅定を修するが故に神通を修習す」と言う。合理的理性をしっかりと身につけて自然の法則を把握していく人間は、まさに今日神通力を手にしていると言っていいように思います。孫悟空のような力を自由自在に駆使しているわけです。居ながらにして、インターネットを通じて一瞬にして世界中と交信が実現します。飛行機に乗れば日本の反対側のブラジルに二十四時間で到着します。地下から石油を掘り上げて文明生活のためにこれを役立てることもできている。人間はいま、一昔前には信じられないような力を、まさに神通力に匹敵する力を手にしているわけです。
それを親鸞聖人は、「かくの如き等を、名付けて自力とす」と、このように「論註」からの引用をもって位置づけてありました。たしかにいま人間は、自由自在、どこへでも好きなところへ行ける、好きなものを手に入れることができる。クローン技術を駆使すれば、コピー人間もまた手に入れられる時代でございます。寿命の問題もひょっとすると解決するかもしれない。いわば時間空間の壁を突破しようとしております。しかし「自力とす」という言葉の中には、実は、非常に鋭い眼差しがあると思います。対象化する合理的理性で手に入れられるそれらのものは、実は、ほんとうの幸せではない、ほんとうの命ではないということです。そこに実現される私たちの生活環境は、お浄土の命の輝きがない、そのよう
に言われていると思う。その真実、私は恐るべき仏教の眼差しだと思います。それはしかし、またほんとうにそうなのかどうなのかということを、もう一歩現代生活の中に下りて考えてみたいと思います。「かくの如き等を名付けて自力とする」、神通力を得たとしても、それはほんものの幸せに結びつかないと言われたことの意味は何か、でございます。
さきほどの下田さんの手紙にもう一度戻ります。彼女は、何のために生きるか、それを問いました。そして、肉体の生存を必要としない精神のための自由、精神に生きる、そこに真実があるのではないかと言いました。そしてそれゆえに、ほんとうに苦しまれたと思います。
高校に進みまして、さらに漱石の『行人』という作品をテーマにして、自分の考えていること、その悩みをもう一歩具体的に提示しておりました。そこにもまさに、現代に通じる問題があるように思います。
まあ卑近の例で言いますれば、最近は、日本の文芸家協会の会長さんでもあった江藤淳さんの自殺に通底している問題です。江藤さんの死は個人の死でございますけれども、文芸家協会の会長であったということをその死に重ねてみますと、ある意味ではその死は日本の現状を象徴しているような死ではなかったか。個人の死というふうには考えられない面がある。そういう死をも含んで、私たちの今日の生死に通底している問題を、高校生の下田さんはすでに提起していた。
これは私の思いこみであるかも知れませんが、中学三年生のときから「死ぬ、死ぬ」と言っていた下田さん、そのたびにこっちは震え上がっていたわけですが、その彼女が死ぬということを言わなくなったのは、東大の三年生になってからでした。秀才で自分の思うとおりの世界へ進んでいたわけですが、三年生になって手紙をくれまして、「死ぬということをやめた」と初めて言った。何でやめたのかと言いましたら、山登りをしたそうです。
山の頂上に立って、後を振り返ってみると、頂上へ来るまでには、右の足、左の足を交互に動かしてきたわけです。この事実に頂上にきて気がついた、というのです。そして言う。ところが私は、右の足、左の足と交互に動かさなければ辿り着かない頂上に、一気に辿り着こうとして苦しんでいたと。そして死にとりつかれていたんだと、そういうふうなことを、大学の三年生になって言って来るようになったのでした。
そしてそのような彼女のものの考え方の展開の根っこには、漱石の『行人』の苦しみが横たわっていたのでした。中三のときの手紙は、さきほどのようなものでした。ところで、高一になってまた、もっと詳しい手紙を寄こしてくれたわけです。そして、自分が考えている問題を、夏目漱石の『行人』に重ねて述べていた。そこにまた、現代の闇にそのまま通じていると思われる目があるのです。ちょっと読んでみます。
「その後、『行人』に見いだした次の言葉は、まさに私が死を思うときそのままの言葉でした。三九段冒頭の〈死ぬか気が違うか、それでなければ宗教に入るか、僕の前途にはこの三つのものしかない〉という兄の言葉。その前の、〈兄さんは自分が鋭敏なだけに、自分のこうと思った針金のように際どい線の上を渡って、生活の歩を進めて行きます〉という兄の姿、そして四四段の終わり、〈…僕はぜひとも生死を超越しなければだめだと思う〉という言葉に、私は強い打撃を与えられました。これらの言葉ばかりを自分に当てはめてみることは決して『行人』をほんとうに理解していることにはなりませんが、ともかく、その時の私の心のうちは、この"兄"そのものだったのです。ただ、宗教というものをまだ知ら
ないので、〈死ぬか、気が違うか〉─そして再び〈自死〉とく狂気〉という言葉が私を強くとらえたのです」。
ところで、彼女が自分の苦しみそのものと捉えていた『行人』、この作品には、一八七二年に、福沢諭吉が『学問のすヽめ』において提起した「実学」の孕む闇が、形を変えて見つめられていたと考えられなくもない。通底するものがあるのです。しかも、それは日本だけではありません。世界的な闇の根っこです。近代の闇です。そして私はその闇を朝鮮と日本との関わりでも、考えないではおれないと言いたい。
夏目漱石の『行人』については、だれも文学から離れて評価しませんが、私は、また別の角度からも彼女の手紙などにも刺激されながら、考えるのです。『行人』が発表されたのは一九一二年でした。一九一二年。ところで、日本の朝鮮併合が一九一〇年でございます。朝鮮併合に至る過程には、日清、日露の戦争があり、それに日本は勝利するということがありました。いわゆる近代ヨーロッパの怒涛のような嵐、その根っこにあるものを一刻も早く身につけなければならないと考え、その嵐の下で文明開化を遂げていった日本のその後、それが相次ぐ戦争となり、ついには朝鮮併合に至っているわけです。『学問のすヽめ』で言うなら、いわゆる実学を身につけ、身も独立し、家も独立しというわけでありましょう。必死に求めて独立を実現した、そして日本は外側から見ると、近代の上昇街道を驀進していたのであります。しかし、漱石は『行人』という作品において、文明開化を遂げて身も独立し、家も独立したにも関わらず、その独立した個の中味は、死ぬか気が違うか、さもなければ宗教に入るか、という苦しみでいっぱいだったというわけです。しかも、宗教はないのではないかと見ている。ここには今日の私たちの苦しみの根っこが、すでに非常に深く見つめられています。とはいえ身も独立し、家も独立したにもかかわらず、死ぬか、気が狂うかの苦しみがあるとは何ゆえでありましょう。これこそがまた、今日の問題ではないでしょうか。これこそが「自力」の闇であります。
* 目的と行動の矛盾からくる苦悩
死ぬか、気が違うか、宗教に入るか
例えば、朝鮮併合について、日本の歌人石川啄木は歌を詠んでいます。
地図の上 朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ 秋風を聞く
これは啄木の歌でございまRけれども、この寂しさの裏側には、近代の闇を見つめている目がある。
漱石の『行人』の中に描かれている「死ぬか気が違うか、さもなくば」という苦しみも同じ問題でございましょう。それにしても外側から見るとすばらしい隆盛が、どうして、死ぬか気が違うかになるのでありましょう。しかもこの苦しみは、その後の三十二年のいわゆる満州事変からの十五年戦争の悲惨から思い返すと、恐ろしい現実となっていることがわかります。とりわけ、いわゆる特攻隊員として死んでいった若者の心の苦しみが、すでに言い当てられているわけです。漱石は何を見ていたのか、『行人』をもう少し深く考えてみたいと思います。漱石は、日記を克明に書いてきた人でした。ところが『行人』を書いているときは、日記を一行も書いていないと、言います。.要するに日記に書くような心の問
題を、全部この『行人』という作品の中に叩き込んだのが、漱石の『行人』という作品なのです。ところで、彼は主人公の苦しみを語り出すその語りはじめの言葉を、私たち人間全体に関わる苦しみの根源を掘り起こす言葉ではじめていました。
「兄さんは、書物を読んでも、理屈を考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中なにをしても、そこに安住することができないそうなのです。何をしても、こんなことはしてはいられないという気分に追いかけられるのだそうです」と。現代の人々もまた、いま同じ気分に追われているのではないでしょうか。
なぜ、そうなるのか。なぜ、じっとしておれないのか。『行人』の主人公の言葉はこうです。
「自分のしていることが、自分の目的になっていないほど苦しいことはない」、と。実に明快です。しかし、これこそ人間の根源的矛盾の表現ではないでしょうか。
私たちは日常的な次元で考えますと、人間には理性がある、そのように考えています。その理性は、目的を立てることができ、そして、その目的に向かって行動を起こしてゆく。したがって、人間とは目的と、することと、が一致していると、普通は考えるわけです。そういう立場から言いますれば、人間にそのような力が備わっていることが、人間の優れたところだというふうに見ることができる。その理性中心から唯物論が生まれます。例えば、蜂は実に精巧な巣を作って、自分の子孫を残していくけれども、前もって青写真を書いて目的をもってそのような蜂の巣を作り、生計を営むものではない。しかし、人間は目的をたて、青写真を描いて、その実現に向かうわけです。そこに人間とほかの生き物の違いがあるんだという。その人間中心が、十九世紀、二十世紀の私たちの立脚地でありましょう。それが幸せに通じると見ていた。
しかし、漱石は、すでに一九一二年の段階で、その人間中心の裏側を見つめて、「していることが目的と一致しない」と、このように言っていたわけです。人間とはすることと目的とが一致しているかのように見えて、実は一致していないわけです。ここに人間の知恵の矛盾と闇があります。
大学へ入りたいという目的をもって、それに合わせて自分のすることを統一していく。その限りでは、何か一致しているように見えまずけれども、まさにそこに人間の理性の落とし穴があります。一致しているように思えるものは現象である、虚仮である、仮である、その積み重ねはどこへ行くか、死ぬというところに到達します。自分のしていることは、自分が目的としなかった、しかも最大の問題である死に向かって全部流れ込んでいくというのが、人間存在の抱えている矛盾だと、漱石はそれを見抜いていたんだと思います。
友人は「そういうようなものは君一人だけ苦しんでいるのではないと悟ればそれまでじゃないか。つまりそう流転しているのがわれわれの運命なんだから」とこのように慰めます。しかし、この『行人』の主人公は、その個人の問題を個人の領域に納まる問題ではないということで、次のような表現で反発するわけです。
「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつてわれわれに止まることを許してくれたことがない。徒歩から車、車から馬車、馬車から自動車、それから、飛行船、それから、飛行機とどこまでいっても休ませてくれない。どこまで連れて行かれるかわからない。実に恐ろしい」と言う。ほんとうに恐るべき言葉だと思います。
飛行機はジェット機になり現代人は、さらにミサイルを飛ばすことができます。しかも、戦後、広島の原子爆弾の体験を踏まえたうえで、なおかつ人間は核融合爆弾というものをつくり出しました。太陽エネルギーはどのようにして燃えているか、その構造を解明した知恵で最初に作ったものが核融合爆弾でした。広島型の爆弾で言いますると、広島に落ちた原子爆弾、あの核分裂爆弾は一発が高性能火薬に換算して五万トン分の火薬が破裂したと、そのように言われておりますが、アメリカが最初に実験した核融合爆弾は、一発が一六〇〇万トンでした。五万トンが一六〇〇万トンです、もう恐るべき破壊力、比較になりません。
その当時、ソ連という国があってフルシチョフが首相のとき、彼がやった実験は、何と一発が六〇〇〇万トンです。高性能火薬に換算して六〇〇〇万トン分の火薬が爆発するというような爆弾を備えた。しかもそれが地球の反対側に向かって誤差数十メートルの正確さで届くという運搬手段まで手に入れてのことです。確かに、どこまで連れて行かれるかわからない、実に恐ろしいと、これは実に正確な私は恐怖感だと思います一方、戦争がない、核爆弾の恐ろしさがないとして、「死」を克服することになれば、同時に完全なバーチャルな世界が出現してくるのでもありましょう。そのとき地球はどうなるか、そして、現代に起きている様々の状況があるわけです。この日常は実はそのような状況としての恐ろしさとともにあって、それが日々に私たちの皮膚感覚の次元において毛穴のところでしみ込んでいると見ていいように
思います、これが現代の不安の本質ではないか。
漱石は人間のこの無明を、早くから見ぬき苦しんでいたわけです。神経衰弱になって胃が悪くなるのは当たり前だったと思います。
その苦悩の表現が、死ぬか気が違うか、宗教に入るかです。つまり、自分のしていることが自分の目的にならない根源が、自分という知恵にあるとするならば、自分が死ねばその苦しさは解決します。その次、自分が狂気になれば、これは解決します。だが、死ぬことも気が違うこともできないとすると、宗教しかないとなります。しかし、科学の時代にあっては、宗教は今日だれも省みようとしないわけです。
これが彼の時代でした。彼は刻一刻とその苦しみを生きていきました。そして最後に行き着くところは、宗教がなくとも、絶対の境地に至ればそれは解決するんではないか、そのような思いに進みでる。"則天去私"が漱石の座右の銘であったと言われますけれども、そういう境地に至れば、と思うわけです。
しかし、その極点で彼は人間の究極的な問題に鋭く当面することになるのでした。その人間の究極の矛盾とは何か。漱石の言葉で言えばこうです。
「僕は明らかに絶対の境地を認めている、しかし、僕の世界観が明らかになればなるほど絶対は僕と離れてしまう。要するに、僕は図を開いて地理を調査する人だったのだ。それでいて、脚絆を付けて山河を跋渉する実地の人と同じ経験をしようと焦り抜いているのだ。僕は迂闊なのだ、僕は矛盾なのだ。しかし、迂闊と知り矛盾と知りながら、依然として藻掻いている。」これこそ人間の究極の矛盾です。絶対の境地に至ればいい、ということまでわかったわけですが、わかった途端にその絶対が離れるというのです。人間が分かるということには、この矛盾が潜んでいるわけです。対象的に分かるとは地理の上でそれがわかるということと同じであって、脚絆を付けて実地を踏査している人と違うということです。その人間の有り様がここであらわになるわけです。
さきほどの下田さんの、山の頂上での気づき、右の足と左の足を動かしてはじめて頂上に着いたのだということ、彼女はひょっとすると、この漱石の作品なんかからもヒントを得ていたんではないかと思います。たしかに、右の足、左の足と動かして、頂上に行く着くことと、地図の上で行き着くことの間には、天と地ほどの開きがあります。いや、その開きは、天と地というだけではないと思う。言葉を超えた違いです。今日の根本問題です。
下田さんの話を先取りしてみますと、彼女は死ぬのを止めました。今日は、立派なお医者さんとして、ご主人といっしょにアメリカに行っておられるようですけれども、その後もまた嬉しい手紙をくれたことがありました。結婚して赤ちゃんが生まれました。そして、それを知らせてきた言葉の中に、言葉はちょっと正確ではありませんが、私たち夫婦が思わず吹き出すような言葉がありました。
「赤ちゃんは可愛い、こんな可愛いと思わなかった」といい、そして、「この子がもしも死んだら、私は生きてはおれません」と書いてあった。私たちは嬉しくて笑いました。
あれだけ死ぬ死ぬといっていたあの時、もし彼女が死んでいたら、お母さんがどれぐらい悲しむでしょう。それを彼女はまったく考えていなかったわけです。自分が母親になって、やっとそれに気がついた。赤ちゃんの力というのは非常に大きいものでした。いのちの喜び、誕生の喜びが、一歩一歩の足の運びに気づいた。彼女にいま一つの力として付け加わりました。
しかも、それだけではありませんでした。アメリカへ行ったあと、お母様が脳出血で突然亡くなられました。大変悲しんでおられました。その悲しみを知らせてきた手紙ではこんなことが書き添えられてありました。
「母が亡くなってまだ大事な話をしていないことに気づきました。これからもほんとうに母と話をしたい。母は姿・形がなくなったけれども、それだからこそこれからもずっと私は、姿亡き母と対話してゆくつもりです」。
私は、その言葉を見て思いました。現代の若手の超一流の知識人に育ってきたその子が、姿なき母と会って、初めて仏教、仏さまとの対話の中に自分の人生の真実を見つけようとしているのだと。対象化できなくなって知る出会いがある。漱石が『行人』で提起していた問題は、実はそういう人間を一方では生んでいるわけです。そしてまた逆に言うと、その問題を見失っているところに、実は、今日の困難が実に深いところには進行しているのではないか、そのように思います。
* 日韓の間にある大きなハードル
話ががらりと変わりますけれども、朝鮮と日本の関係、金大中大統領が誕生しまして、非常に空気がよろしくなってきました。しかし、私はまだまだ大きなハードルが一つも二つもあると思います。国際的な関係ばかりではなくて、相互の理解の中の問題においてもあります。ちょっと脱線して、仏さまとの対話にもう一歩深く入る前の前哨として横の話を一ついたします。
金大中大統領の対日関係の顧問に、池明観という方、大変優れた学者がおられます、ニュースで放映されていたことです。日本との文化交流の責任者でもあるようですけれども、この人は、なかなか厳しい日本批判をもっておられるようでした。非常に理性的な立場で日韓交流の道を模索しておられる方だと思いますし、大いに尊敬しているわけですが、一つ、気になることがございました。
仏教がとても嫌いな方のようでございます。どうして嫌いなのか。元が朝鮮に侵入してきましたときに、ときの高麗の王さまは江華島へ逃げました。そして、仏教の僧たちは大蔵経の印刷に夢中になって、民衆の塗炭の苦しみを省みようとしなかったというわけです。こんな宗教は役に立たないということで嫌いになったようでございます。
ある意味でそれは当たっておりましょう。先生の民衆を見る目の深さを感じることです。しかし別な角度で言いますと、その時代、大蔵経の印刷もさることながら、民衆次元で四十年間、元との戦いが朝鮮半島では繰り広げられていたわけです。この「義兵」はもう少し深く見つめられていいと思います。一説に四十年間もつづいたと言います。そしていまの韓国の金海には日本侵攻のためのその造船所があったようですが、それが二度焼き討ちにあって、十年間、日本の侵攻は遅れていると言います。
ところでその抵抗を担っていた軍隊とは、三別抄という正規ではない庶民の軍隊でございました。最後は済州島のほうにまで追い詰められて、済州島から日本に援軍を求める手紙を送っておりますけれども、日本のときの政府は、まあ字があまり上手でないというぐらいで片付けて、あまり真剣に取り上げなかった、そのような記録も戦後には発見されているようですけれども。
先生はこの義兵の存在をもって、朝鮮と日本の歴史の違いの底流を見ておられますが、その違いはもう少し深く見られていい。この三別抄の人たちの思想的な根拠は、浄土教ではなかったかということです。浄土教、つまり仏教が民衆のものになった強さというものが、すでにあったわけでございます。仏教の深さはよくよく考えられていいと思う。もし、日本と朝鮮の違いを言うなら、日本では法然の浄土宗によって、仏教の根本的民衆化が実現され、それが親鸞の浄土真宗を生み、そして蓮如上人の登場になって、日本史に新しいページを開いていると思えることが上げられています。そういう深さで仏教を考えてみるときに、仏教のもつ意味の日本史、アジア史における大きさというものがもう一度ここで考えられていいと思います。仏教が現代の混沌から新しい科学を生む可能性すら考えられるわけです。これが両者の未来にも大きな意味をもつのではないか。
ところで、仏教の眼差しの深さは、何処にあるか、元にもどって考えることにします。さし当たりは現実からです。「実学」はなぜ、私たちにとって大事なものでありながら、私たちの今日の状況にそぐわないのか、それを子どもの問題から改めて申し上げてみたい。そして、今日の現実と仏教の関係を考えたい。
昨今の少年たちの犯罪について、さきほども少年法の改正というふうなことに目が向いているということも申し上げましたけれども、もっと私は非常に深いところで考えていいように思います。
まず、大まかなところがら申し上げます。十七年間人間世界で大きくなってきて、そして普通に頭のいい子で、普通に大きくなった子が、人殺しをしてみたいから殺してみるということをやってのけるということは何かです。理性は何であるのか。これはいっぺん根こそぎ考えていい問題です。
あるいは佐賀の少年がバスを乗っ取って、やはり人質を殺しました。そして、そのおばあさまを死にいたらしめる過程の中で告げていた、新聞の中の言葉でございましたけれども、「年寄りはまあ先があんまりないから、年寄りから先に殺す」ということでございました。ある美容院さんに来た八十のおばあさんがそのニュースを見て、カンカンになっていたそうです。年寄りはあまり先がないから、先に殺すとは何事かということで怒っておられた。
あの少年の発言、そして豊川の少年、殺してみたいから殺すというその発言、別々のようですけれども、実は根っこは通底していて同じだと思います。佐賀の少年からいえばこの発言は極端に合理的でございます。先のあんまり長くない年寄りから先に殺すと言う。その合理性が貫徹するところに、実は体験としての命の深さ、本物の経験が欠けているという現代の、これは恐るべき状況が横たわっていると思います。
佐賀の少年のあの発言を聞いたとき、私はドストエフスキーの言葉を思い出したものでした。ドストエフスキーは『罪と罰』という作品などが大変有名ですけれども、『罪と罰』というあの作品は、彼の『貧しき人々』というような初期のリアリズムに即した人間観から見ると、質的にまったく違う作品でございます。しかし、彼はあの作品を通して、近代文明の基礎の合理的理性を追求し、抉ったのでした。あの主人公のラスコーリニコフは思うのです。自分には才能があり、若さもある、ただ一つ金がないと。ところが、おばあさんの方は、才能もなければ寿命もないのに金だけ持っている。そんな不合理なことがあるか、というわけです。その金は若さと才能のある自分のほうへ回してこそ、それは役に立つものだということで、あのラスコーリニコフという秀才は、おばあさんを殺害しました。要するに合理主義の貫徹でございます。役に立たないところに金を置いておいてもしかたがないということでございます。だから、どんなに追求されても彼は、罪を認めません。それがいいと信じているからです。
ところでドストエフスキーはその作品の末尾をどういうふうに展開させてゆくか、彼が罪を認めるきっかけになるのは、十六歳の娼婦の勧めでした。娼婦というもっとも貧困で、もっとも悲惨な生活をしてきた十六歳の女の子、まさに不合理そのものであるような存在の、その女の子が秀才に向かって言う言葉、これこそ私は現代に通じていると思います。
〃あんたの罪は大地に対する罪だ。大地に告白しなさい、大地に謝りなさい〃
そのように告げられて、あのラスコーリニコフは自分の犯した罪のもっとも深い暗黒を知ったのでした。殺人は同時にもっとも深い生命に対する罪であり、それこそが近代合理主義が見失っている大地に対する罪であるわけです。それを彼は知り、通りに走り出て、大地に膝まづいて告白する。そのような光景をドストエフスキーは結びに持ってきていました。
* 科学的合理性と絶対的矛盾
言うなれば、ドストエフスキー氏は人間中心の現代文明の根っこの闇を見ぬいていたわけです。ところであの作品の前に彼は『地下室の手記』を書いていたのです。時期は幕末から明治にかけてのことです。世界が数学的合理主義のレールの上を驀進しはじめた頃です。彼はその進化のはじまりのただ中で『地下室の手記』を書き、その中で何を言うか。
「諸君、二・二が四というのは、もう生ではなくて死の始まりではないでしょうか」、恐るべき洞察です。近代文明は世界戦争に連らなり、ロシアでは、その後ロシア革命があり、そして革命戦争の二十世紀の時代があります。その根っこが、二・二が四の合理性とは、何という矛盾であるのか。ところで、この二・二が四を絶対としているのが科学的合理性なのでした。しかも、それが絶対化されている。それが、今日、世界の闇の根っこではないのか。私はそれを考えること、そこに今日の私どもの足元の問題の闇が浮かび上がってくると考えています。二・二が四とは、何であるか。
ちょうど明治維新の頃でございます。一八六八年が明治維新ですが、そのほぼ二十二年後の一八八六年、フランスのアナトール・フランスという有名な作家が『学校』という短文を書いています、小説です。しかし、ここに見事な目がある。算数でいい点数を貰った女の子が、そのことを帰ってお母さんに報告して尋ねました。「いい点数は何の役に立つの、ね、お母さん?」、実にいい質問です。今日、このように子どもに質問されて、自信をもって答えられる大人がはたしてどれだけいるか。「いい点数は何の役に立つの、ね、お母さん?」。たいていの大人は「いい学校に行けます」というふうに言うのでしょう。
そうすると、漱石の言うところの、自分のしていることが自分の目的にならないという矛盾にぶちあたることになります。オウムの知識人が落ちこんだ矛盾も同じではなかったか。いい点数は何の役に立つのか…。もしもそれが、成績の悪い子からの質問であったとすると、親はきっと怒ると思います。そんな質問するんだったら、もっとまじめに勉強せい、二・二が五と言っている奴が何を言うかと、カンカンになって怒るに違いない、学校の先生もまずは怒るんだろうと思います。実は、そこに、いい点数とは何であるかがわかっていないという問題があるのです。
アナトール・フランスは、その闇を見ぬいていたと思います。私どもは「二・二が四」と解答を出せばそれで済みます。そして「二・二が五」と言えば、それはだめだとこういうふうになります。そして、なぜ、五になるというのかは、大人はまず考えません。これが大人の常識でありましよう。
アナトール・フランスは、:一二から四を引くといくつになるかという問題提起をして、数とは何かを問うのです、それがわからない子がいたのでした。普通はもっと勉強せいになります。ところがアナトール・フランスは、なぜわからないかを考えます。わからなかった子は何がわからなかったのか。教えられると、残りは八つだということはわかる。ところが、その残りが八つの帽子か、八つのハンカチか、それがわからないとこう言います。
考えてみると、ただの抽象的な記号としての「8」というものは、自然界には一つもないのでした。「8」は、人間世界の中にだけあります。その人間世界だけにある記号を絶対化するならば、その絶対化のうえに構築される人間世界が、自然と完全に断絶していくのは、ものの道理でございましょう。
アナトール・フランスはそれをただの八というものが飲み込めない少女の目を通して明らかにするのです。「8」という記号がのみこめない少女は、記号を必要としない他の生き物とでは話ができると思っております。飼い犬とか小鳥とか、そういうものと話ができるように思っております。その少女の目を通して彼は言います。
「言葉がわかりあうためには、お互いに愛し合うのに越したことはありません」と。言葉とは相互に理解し合うためにあると考えられています。対話の重要性は否定できません。しかし、その言葉ゆえに人間は、愛を失い、憎み合い、誤解をつみ重ねる。にもかかわらず、「8」を絶対化しようとすることがある。これが人間中心主義なのです。その矛盾を真っ直ぐ見ないで、幸せが実現できると考えると、〃することが目的と一致しない"という根源的闇にぶつかるわけです。今日の学校教育の大きな問題もまた、そういうところに私はあると思います。
この矛盾は、社会のあらゆるところに現れます。もっと具体的に、一人の子どもが大きくなる過程に目を据えてみましょう。人間はまだクローン技術で生まれておりませんので、お父さんお母さんの縁で生まれてまいります。そうだとすれば、お乳をいただかなければなりません。
私は自分の目で実際に目にしたんですけれども、あるとき赤ちゃんを連れた若い夫婦と新幹線に乗り合わせたことがあります。お乳の時間がきたらしい。隣でタオルを枕にして赤ちゃんを寝かせました。哺乳瓶に乳を用意しました。そして、どうしたか。哺乳瓶をくわえさせたあとです。赤ちゃんがお乳を吸いはじめたら、ハンドバッグを枕元に置きました。そして、哺乳瓶をそのハンドバッグに立てかけました。赤ちゃんは、何のことはない、ハンドバッグにお乳をのませてもらっているわけです。角度がよければ、赤ちゃんはそれでも乳を吸います。すると、若いお母さんはくるりと背中を向けました。そして亭主と何か楽しそうに話をしておる。
「8」を絶対化して生れた豊かさからは、自然がなくなる証拠です。これは極端な例ですけれども、今日の豊かさはたしかに"揺籃期"を失っていると考えていい。
母親にお乳をもらいながら、母親に見つめられるということがなくなっている。これは何か。人間は大人になっていくと、凡夫になります。凡夫とは「生死」のわかれ人です。であればその本質は罪悪、深重であり、その中味は煩悩熾盛です。『歎異抄』が見つめるとおりです。その凡夫になっていく。ところが現代人は、その凡夫になる道すら、なくなっているということです。揺籃期がなくなっているとは、それを意味しているのか。
授乳をハンドバッグにさせているという極端な例は少ないにしても、この頃は、テレビのお笑い番組を見ながらお乳をやっているという姿は、かなり普遍的じゃないでしょうか。自然分娩はすでになし、授乳の喜びもなくなれば、やがて、出産をも幸せとは感じなくなるでしょう。少子化は必然です。
* "自他"の違いを知らないままに成長する恐さ
ところで、揺籃期の次は"模倣期"です、模倣する、これも実に重要です。人間は嫌でも応でも、自分を生きます。自分という知恵を持たざるを得ない。その人間が揺籃期から独り立ちを始めるには、模倣期がなくてはなりません。先にゆく人を模倣するわけです。模倣することなしには、鏡を見る能力をも人間の子どもは失ってまいりましょう。そうすると自他の違いが心身の構造として成立しないということになってきます。自我成立のその基礎がないということです。
その過程をもう少し考えてみましょう。模倣期のときに、親と子は喃語(なんご)で話をします。アアとかオとかウとか、意味のないただの響きで交換します。子がアアといえば、親もアアという。意味はない。しかし、親子は一番濃密な信号を交わし合っていると言っていいと思います。その濃密な信号の交換、これが言葉のはじまりです。人間の言葉はロボットのそれではないのです。その喃語の時期が失われている。模倣期に模倣期がないということはそういうことだと見てよいのです。体験のない成長のはじまりがここにあるのです。
そして、次は"労働期"です。労働というと厳しゅうございますけれども、お手伝いです、どの子も家庭ではお手伝いをします。子どもはお手伝いを、必ずしたがる、これは万人が求めるものです、労働したがる。ところが今は、お手伝いする後ろ姿もなければ、暇もない。お手伝いする暇があったらもっと勉強せいと、習い事をせいと。
今の母親が子どもたちに一番たくさん聞かせている言葉は何であるのか。アンケートをとったところ、この回答は、「早く」でした。朝から晩まで子どもは「早く」という言葉を聞きながら大きくなる。
早く起きなさい、早く支度しなさい、早く学校へ行きなさい、早く静かにしなさい、早く塾に行きなさい。寝るときは、早く寝なさい、全部早くです。
昔はそうでなかった。昔の小説なんか見ますと、母親が農家なんかでお手伝いを言いつける、子どもは「いやだ」という。そうすると「そんなに言うことを聞かない子どもは学校に行かなくてもいい」、これが母親の叱る言葉でした。今の母親は、「そんなことしなくてもいいから早く学校にゆきなさい」というふうになるんでしょう。
そして"学習期"になります。学習期にはいると、もう完全な記号付けです。これは何か。ここでは自他の、分離が、心身の内的事実として成立していない子が、そのまま鋳型に固められることが起きます。そして思春期を迎えるとどうなるか。自他が違うんだということ、痛いということは、こういうことだということが、わからない子が、大量生産されていくとどうなるか。いくらいいことはいい、悪いことは悪いことだと頭で教えられていても、殺してみたいから殺してみる、殺すといったことを経験してみたいから殺す、これが思春期の爆発となって現れるのです。記号漬けの中で自己を成立させたもの
は、内部から変化の起きる思春期には、自分を喪失すると言っていい。自分の頭の中に、もう一人の自分の命令する声が聞こえる。昔だったら精神病の先生たちが、これは精神科の患者であると思われるような現象が、普通の子どもの中に大量に生まれるという状況が生まれている、私はそのように思います。
それが実に悲惨な状況をいっぱいつくり出しているわけです。これが子どもたちが、人を殺すという悲劇となっているのではないか。
その逆は自分を殺すということになります。この間もあるお母さんが泣いておられました、非常に優秀な子の母親です。立派な文章を書き、数学は、常に一位という子です。国立大学に入ります。医学部の四年生で自殺しました。親はもう完全に打ちのめされておりました。なぜ、死ぬのかわからない。外から見るとなんの.不満もありません。医学部に行っておる。秀才である、美男子でお金もある、にも関わらず死ぬ。そういう悲劇がいっぱい起きているのではないか、この根っこには、現代の豊かさが抱える人間の矛盾があるということです。二・二が四は、生ではなく死の始まりであるとは恐ろしい洞察です。だからこそ現代とは、人類が自己の根っこを見つめ通した仏教とどうしても対話しなければならないわけです。もっとお話を進めましょう。
戦後直ぐでございました。食べ物が何もないという状況の中で、食べていかなければなりませんでした。そのような状況にありましたときに、この国ではとても大事な論争が行われておりました。服部之総と三木清の論争でございます。ほんとうにこれは私は、大事な論争だったと思います。
三木清は戦争の末期、豊玉刑務所に放り込まれておりました。そして、戦争が終わったあとも釈放されなくて、九月二十日ごろ、栄養失調で疥癬という病気になり獄死しております。悲劇です。その彼が監獄の中で学んでいたのが親鸞聖人でした。ノートをとっておりました。
そのノートについて、これまた非常に優れた良心的な学者であった服部之総が批判しました。その批判点が今日に通じる宗教とまさに科学の問題です。これがすでに戦後直ぐに始まっていた。その問題を考えたい。まず服部之総の批判の言葉を読んでみます。
「宗教は、歴史的に限定された社会的真理であった」と。これが服部之総の宗教に対する眼差しです。彼は宗教を歴史的に限定された社会真理であったと言う。ここには唯物史観に基づいた科学思想が反映していると思います。そして宗教を古いと見ているところに実に大きな悲劇があったと思います。宗教とは、歴史的に限定された社会的真理であったというよりも、歴史をつくらざるを得ない人間にとっては、永遠に追求せざるを得ない真理であったと見る方がいいのです。いわゆる「科学」思想からどんな方向が生まれているか。
もう少しそこを読んでみます。
「…三木は親鸞を哲学的に解釈し得ただけで、親鸞と信仰をともにすることは許されない。これは独り三木の悩みではなく、親鸞に触れ得たすべての現代人の悩みであり、農民と女人の解放が『科学的・哲学的』に約束されていなかった過去の時代と、それが約束された現代との画期的な距離が基底に存在する」。
彼は、農民、女人の解放がいまや科学的・哲学的にすでに保障されているというわけですね。しかし、その科学とは、言うなれば、二・二が四を真理としている「知恵」なのでした。その数学的合理性に貫ぬかれた「知恵」には、深い矛盾が潜んでいたと言ってよいのです。例えば人類史の大きな曲り角において、お釈迦さまとほぼ同時代を生きたソクラテスが問題にしたのも、根本から言えば、"科学にまで至る人間の知恵だった〃と言っていいのではないでしょうか。彼は人間の知恵を死に映しだして、人間というのは実はわからないのによくわかっていると思っている。人間の知恵というのはそういうものであると見ています。
人間は死を恐れる、何よりも恐れる。しかしなぜ恐れるのかというわけです。だれも死んで生き返ったものはない。また生きているやつは、まだ死んでいないんだから、死はわかっていないのだ。にも関わらず人間は死を恐れる。そこに人間の知らないのに知っていると思っている知の闇はないかと言うことです。二〇○万年前、ピテカントロプスのとき、人間は死を認識し始めて人間としての歩みを始めたのでした。そのとき人間の根本的課題が起きたと見てよい。人間の知恵は、わからないのにわかっていると思うのです。そう思う知恵で死を退けて生を開こうとする。しかし、それがまた生を見失うのです。それが現代の闇ではないか、仏法はその人間の知恵の闇を見つめて、人間の歴史を末法に至る歩みと捉えたのでした。そういう目で現代を見てみますと、現代の課題がもっとはっきりするように思います。対象化する知恵の精密化ともいえる「科学・哲学」は、人間の無明をより深くする矛盾を潜ませているのです。
* 〃生死"の苦悩と仏教の教え
その人間の二・二が四と言える知恵は何であるか。親鸞聖人の言葉で、次にそれを考えてみます。大変おもしろいお言葉がございます。これはもう私などが言うまでもないかと思いますが、『教行信証』の化身土の巻に「大智度論」からの引用がありました。
お釈迦さまが亡くなられようとするときに、その四つの言葉を残されたと言う。「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。ところで、その意味を「義によりて語に依らざるべし」という言葉を解説しながら述べておられました。「義は語にあらざるなり、人指をもって月を指し、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りて言わん、『我指をもって月を指し、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや』と。
そして、言います。「これまたかくのごとし。語は義の指とす。語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず」。月という言葉は月を指す指に等しいというわけです。ところが人間というのは月という言葉を見ているにもかかわらず、月そのものを見ているつもりになる。月を教えられてもその月を見ずに指を見ているとはそのことです。月そのものは、だから見えないということでございます。これは現代生活の中では、あらゆるところで当てはまるのではないでしょうか。赤ちゃんを見ていながら、赤ちゃんが見えないのです、自分の目の中の闇に気づいていないのです。ものそ
のものが見えていない。これが人間の無明と言うのでありましよう。
この無明を超えること、それこそがお釈迦さまの教えの根っこです。お釈迦さまが出家をなさる動機を語られた言葉を「四門出遊」と言います。つまり、東西南北の門から外へ出られるとき、人間の生老病死を目にされて、その根源苦の克服を思いたたれた。人間の生老病死、そして愛別離苦、怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦これを仏教では四苦八苦といいます。八つの基本的な苦だというわけです。
この四苦、その克服を思いたたれたのが出家の動機ですが、その出家の動機にかかわって次の言葉が伝えられているのでした。
「比丘たちよ、私はそのような生活の中にあって思った。愚かなものは自ら老いる身であり、いまだ老いを免れることを知らないのに、他人の老いたるを見れば己のことは忘れて厭い嫌う。考えてみると、私もまた老いる身である。老いることを免れることはできない。それなのに他人の老いおとろえたさまを見て厭い嫌うというのは、私として相応しいことではない。比丘たちよ、そのように考えたとき、私の青春の驕逸はことごとく絶たれてしまった」。
他人の老いたるを見れば、己のことは忘れてしまいがちです。つまり、人間の目玉とは、前にある対象が正確によく見えてくるその瞬間、自分が見えなくなる、ということです。他人の死が見えたときは、自分の生が実は見えなくなる。人間の生とは、この目の闇ゆえに、苦となるわけです。それが生老病死の、四苦と言われる。ところが現代では老病死は苦と捉えますけれども、生は苦と捉えないということがはやっています。対象化の闇が教えられているにもかかわらず、その自らの闇に立って、いっそう深く対象的苦に目を奪われるわけです。人間とはまさに「南無」のほか救われることはないと言えます。生が本当の生になっていないところに老病死が起きるのに、老病死だけを苦にしている。言うなれば死を恐れ、それを遠ざけようとして、いよいよ強く死の囚われとなる。それが死ねばゴミになるという考え方です。ゴミと見えることはあっても、そのように見える目が問われることがない、その目で「いのち」が明らかになりましょうか。そのような受け取り方の生が、実はいよいよ深く命を見失ってゆく、そういうふうに言っていいと思います。生が転倒しているわけです。だから老病死がある。この人間の根源的転倒に気づくには愛別離苦という悲しみを、私どもは否応なしに通り抜けなければならないのだと、そのようにも思われます。
そのようにして考えてみますと、仏教という教えが、私はほんとうになくてはならない教えだと思います。これからの朝鮮や日本を考え、アジアを考え、そして世界を考えていくときに、現代が合理的理性の上に開かれているからこそなおのこと、仏教をほんとうの意味で考えていいのではないか、そのように思います。
その仏教、親鸞聖人の教えをもう一つ、いただいてまいりたい。では、何処で何時、教えと出会えるのかということです。
親鸞聖人のお言葉で、私の身に即して非常にわかりやすい言葉がありました。親鸞聖人は「『如来』ともうすは諸仏をもうすなり」と言われます。如来様がこの世にお出ましになったのは、私たちに真実の利益を恵もうと、そのように思われたということですが、その「大無量寿経」の眼差しを説明されるところで言われるのです。
「如来ともうすは諸仏をもうすなり」、これは私は現代人にとって非常に大事な教えだと思います。身内のものが亡くなったり、あるいは自分が死におそわれたとき、それまでの理性では役に立たないというところに立たされましょう。人間の理性を打ち砕かれてしまう。
例えば、さきほど申しました江藤淳さん、愛する妻が癌を病むことになった。そして医者に告知を勧められる。そのとき江藤さんが考えたものは何であったのか。現代の人間中心、科学中心の智恵と真向いになっています。死は、人間を本当に見るべきものと真向いにするのです。「告知」とは現象の説明ではなくて、無明の身をいのちの方から見つめられるということです。
江藤淳さんの問題において、もうちょっとそれを考えてみます。
「…。医者はその当の本人には『脳内出血』だといっているのだ。そして、家族にはほんとうの病名を告げて、家族からそれを患者に『告知』せよという。…これは患者にとっては勿論、家族にとっても残酷極まる方法ではないか。しかも『告知』の責任だけ負わされて、患者を救うことのできない家族にいたっては、あまりに惨めというほかないではないか。その反面、医者はと言えば、『告知』の責任は一切家族に任せて、万事お見通しの絶対者の立場に立つことができる。あなたの余命は何カ月しかありませんよ、まあ、せいぜい有意義にお過ごしください。…、いくら現代の流行であるにせよ、このからくりには容易に同調できない」。
彼は、「告知」ということを通して現代の抱えている矛盾を非常に鋭く見抜いているわけです。お医者さんは絶対者の立場に立つことができる。これが二・二が四です。客観的にこれは二・二が四ですと言うことができる。しかし、二・二が四という数学的合理性は、いかにも人間という存在の不合理な側面を見落としているのでした。自分が死ぬとなったら、なかなかあと何日というふうには思うことはできません。ある人はそういうふうに思うことができますけど、よ一く見ますと、大抵の個人は諦めとなりましょう。そして、人間の合理性というのは、表面的につじつまを合わせることができても、命の抱えている無数の縁など到底考えることのできるものではない。むしろ深く見失ってしまうのです。この真の生の喪失、それが、絶対者の立場というものです。それは、生と死の深い連がりを断ち切ってしまう。
私の知っている人で、非常に優れた方がいました。この方、癌になりました。そして、だんだん死に近づく。ところが優れたご主人と優れた奥さんでありながら、お互いに癌であるということを話し合わない。人生の要の生死が、その土壇場においてなお語り合えないのです。なんと寂しい終り、人生でありましょう。奥さんは奥さんで、頭の毛が抜けているのに、生死の根本を避けて癌の治療を受ける一方。ご主人はお見舞いに行くけれども、生死の死の問題は避けて通る。
この場合の人生の中身はいったい何であったのか、と私は思います。ある日、お見舞いに行きました。他の人がいるときには明るい顔で話している奥さんが、その人がいなくなって、私一人になったとき、激しく泣き出したものでした、耐えきれなかったのですね。寂しさに…ニコニコ笑っていたのは我慢していたわけです。
死は自分の問題になると、なかなか客観的な絶対者の立場では引き受けられないのです。大切な家族の問題になるとなかなか客観的になれないのです。しかも、現代はそれを引き受けようにも、生と死を語る方法を持たないと言えます。死ぬということは、何であるのか、死んだらどうなるのかということをほんとうに確信もって語り合える道を持たないのです。これが現代の幸せです。これが、二・二が四から成り立つ客観的な世界です。
江藤さんはそれに反発したのだと言えましょう。愛し合っていた二人です。私は彼女を見守っていきたいとそのように決意されるわけです。しかし、江藤さんのこの『妻と私』という文章を読んでみますと、医者は他人のことだから絶対者の立場でできるのだということに反発しながら、二人の間では生と死の問題が全く語り合われておりません。成り行きに任せているだけ。
これは何か。医者は他人ごとですから、対象化する智恵に安心しておれます。これが「絶対者」の立場です。そして江藤さんは、それには反発していながら何も語り合わない。語り合えないのです。それは反発しているようで裏側から同じ智恵の闇に縛られているということではないでしょうか。人間の生きる条件である時と空は、客観的であるようで人間が自ら作りだした時間と空間という物差しの産物です。つまり、時と空に縛られているのは、自らが作りだした物差しに縛られていることにほかならない。江藤さんは医者に反発しながらこの「時間」の囚われとなっているわけです。二人きりになると、自分たちの時間が日常的時間ではないことが明らかとなります。生と死の時間に分裂してゆくわけです。これが
「時間」の囚われでなくてなんでしょう。この分裂は、さらに、「死の時間」をきわだたせてくる。これでは奥さんの死んだとき立ち返れないと思うのは当たり前なのでした。そして実際に立ち返られなかった。自分自身の智恵の罠にはまっていくわけです。彼はそれで死んでいきました。
これは彼の有り様でございまずけれども、この問題は、さきほどの話の流れで言いますと、実は現代の人間中心の問題だと考えてよい。今のこの世だけがすべてだと思う現代人は、現代をそのように言い切れる自分の二・二が四という智恵の囚われ人になるほかないのです。医者と同じ人間の自分中心の智恵の闇に落ちていてそれに気づくことがない。
さて、もう時間が来ました。結論に入りたいと思います。現代文明はすべてを「数」に置き換え、その「数」を絶対化していますが「数」は決して全能ではないということです。
* 数学的合理性から離れられない現代人
いま一度、アインシュタインの言葉を見てみます。科学者は数学的合理性について、どう思っていたかということです。NHKで出している「アインシュタイン・ロマン」の中の言葉です。
アインシュタインの友人のマックスボルン夫人がある日彼に尋ねました。「あなたは何もかもが簡単に科学の方法で表現できると信じるのですね」と。すると彼は「そうです」と答えるのですが、それに言葉を付け加えて言う。「けれどもそんなことは何の意味もないでしょう。それはベートーベンの交響曲を等圧線で表すようなおかしな表現になります。芸術では、理論的な構造はどうでもいいのです。鑑賞している人の受け取り方で、様々な色調に変化して素晴らしい人生の一断面を感じさせるべきものなのです。しかし、曖昧さと決別しようとするなら、まさに数学を創造しなければなりません。そして、数学こそは明快なメスではありますが、その代わり実体がなくなってしまうのは宿命です。生き生きとした内容と明快さは両立しません。片一方をとれば片一方は失われるのです。このことを今、私たちは実に悲劇的な形で物理学で経験しているのです。現代の私たちはまさにこの悲劇を刻々に、体験しているのではないか。」
数学を、ほんとうに大事にしようと思えば、一足す一が二と答えるだけでは足りないのです。それが正解であるのは確かなんですけど、それだけを褒めるのではなくて、一足す一が、三であるとか、四だとかいうふうに言ったときに、言ったその子どもの感性に理性のある大人が逆に学んでいく目があっていいのです。もし、そうなればきっと自然の再発見の道が開かれるはずです。死を無にしないことです。死者に見られている「真」に気づいていき、そういう方向を二十一世紀に向かって私は切り開かなければならないんだと思います。
私たちはいま、あの七三年の石油ショック以来の経済構造の矛盾に喘いでいます。世界経済の当事者、企業家はいろいろとやりくりしていますけれども、今日のような経済構造ではにっちもさっちもいかない。
この間テレビを見ておりましたら、宮沢(喜一)さんがアメリカの今の好景気について述べていた。"物を作って売って、それが売れて、好景気ではないんだ"と。あの人特有のニヤニヤ顔で言っておられました。アメリカの好景気の中味は、言うなれば債券の国際的なタライ回しで作られているものでしょう。
その裏側は、要するに小豆の先物買いに似ている。いやそれならまだ可能性はあるけれども、国債の先物買いは、いわば「数」の魔術です。必然的に空洞化がすすむ。それで維持されているような経済の繁栄が続くはずはない。経済の専門の方の考え方を私は正確だと思います。いつはじけるかわからない。それを作り出しているのが、二・二が四という数学的、合理的理性ですが、しかも現代人はそこから外れることができない。外れる道を知らない。二・二が五という道があるのを知らない。しかし子どもの世界を見れば、あるいは自分の人生を見れば、二・二が四ばかりではないことが明らかです。二・二が四が人間であるなら、二・二が五もあっていい。人間とは不合理な存在だと思います。同じように大地は必ずしも対象的合理性で割り切れるものではありません。そして、人間はその大地に生かされている。
では、その「大地」に立つことはいかにして可能であるのか。真実の豊かさ、真実の世界の平和はどこで築かれるかです。
蓮如上人の言葉が思い返されます。私はこの上人は五百年前において、この大地を非常に鋭く見抜かれていたと思います。蓮如上人が人々に浄土真宗の声を最初にアピールしたのは、一四六一年の京都の地獄のどん底でした。
一月と二月に八万二千人とも八万四千人ともという餓死者が京都に出た。応仁の大乱がその後始まっていくわけですが、大変な時期が始まっていたわけです。その三月が第一声を上げられたときなのでした。そこで何とおっしゃっていたのか。要はただの一言です。
「たとひ名号をとなふるも、佛たすけたまへ・とはおもふべからず…」
実に見事な言葉です。人間というものは窮地に落ちると何を思うか、「佛、たすけたまへ」でありましょう。そして念仏を称える。それはしかし、自分のほうから佛を見ているわけです、自分中心です。江藤さんや、私たち現代人の立場です。それが佛、助けたまえとなる。ところが蓮如さんは、佛、助けたまえとは思うべからずと言うのです。そして何を言うか。「ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて…」と言う。「たのむ」と、「助け」とは違うんだということを非常に鋭く見分けておりました。
助けるという字、力をつむと書きます。漢字で書くと。どこへつむのか。力がなくなった自分のところへ積んでもらうわけです。だから助けです。しかし、その自分とは何か。助けてくださいと叫ばざるを得なくなったときの自分とは何であるのか。自分のことが自分で信じられない自分が、はじめて助けてくださいと叫ぶわけでございましよう。その自分のところへ力を積んでもらってどうなるのでありましょう。
どんなに力をもらっても、まるでザルのようなもので、一向にたまりません。その力が自分に積めるように思い、積もうとしたのが、私はオウムの知識人だと思います。自分に力がなくなった、その自分のところにあの教祖からの力をもらおうとした。三木清はそれを迷信と言いました。「迷信の根拠は我慢、我愛のこころであり、我を超越した天や鬼を拝している者は、実は我を拝しているのだ」と言っていた。そしてこれが自分中心の人間の姿なのでありましょう。
蓮如はその闇を見抜いていた。ただ弥陀をたのむ一念の信心、と言う。そのたのむは何か、「たのむ」は、漢字で書きますといろいろあります。依頼の頼という字もたのむです。しかし、りっしんべんに寺と書く"恃"という漢字もあります。これには助けてくださいという意味は全然ありません、お任せです。漢語的な意味では帰依ということ。砕いて俗風に言えば、まあそこまでの意味ありませんけれども、心をお寺にお任せしますと。私の心をお寺にお任せします、と言うこと、そういう意味が恃むという字です。蓮如上人は地獄の底で、人間の根本の大地を明示していたわけです。"たのむ"から真実が開かれてくる。すごい眼差しです。蓮如上人は、親鸞聖人の教えをしっかりと身につけておられたのでした。そこのところに私は非常に大事なところがあるように思います。
今の蓮如さんの言葉は第一通の中の言葉ですけれども、第二通の終りには親鸞聖人の『教行信証』の信の巻からの言葉が引用されていました。
「金剛の信心これを『真実の信心』となづく。真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」。真実の信心には必ず南無阿弥陀仏が備わっておる。だけれども助けてくださいという自分中心の南無阿弥陀仏では、必ずしも阿弥陀の願力、その真心が備わっているものではないと言うのです。さきほど漱石の窮極の苦しみの表現が、「絶対の境地」がわかれば、絶対が自分から離れてしまう、自分は地図の上で…という言葉になっていることを上げました。人間の智恵には根源の真理が"分かる"と、その瞬間、それを自分のものにしてしまう闇が潜んでいるのでした。それは心理的倫理的な問題ではなく、根本的な存在論的闇です。"仏教の真理"がわかれば、また、南無阿弥陀仏が唯一の信だとわかれば、それを自分の手段にする、私物化する。そもそも人間は、命を自分のものと思っているのであります。それが人間の自我であれば、当然その自我は葛藤の坩堝となります。"いのち"は自分のものではないから…。その矛盾をどうするか、これが人間の歴史的課題です。それは葛藤に葛藤の積み重ねでした。どこまでいっ
ても解決されてこない。しかし、「如来と申すは諸仏を申すなり」です。目の前の仏様に教わっていく。その素直な心があるとき、南無阿弥陀仏が動いてくる。穢土(えど)とか、この世とか、あの世とか分けて考える私たちの対象的理性がそのどん底から破れるとき真実のいのちの世界が生まれる。長い人類史、それが行きついた現代に、根本的転換の明りがはじめてさしてくるのです。あらゆるところで…現代人は電子というものが何であるか知らなくても、電子レンジを使って文明生活を享受しております。便利です。しかし、そのことは現代生活全体が非常に抽象的になっているということの裏返しでもありましょう。熱はなくても煮炊きができるというのは、私にはどうしても信じられないですけれども、電子という存在を発見しそれを利用することができて、新しい文明生活がはじまった。しかし、電子の発見は、分子・原子の発見と同じ流れの中のことです。原子爆弾があり、電子ウイルスという新しいウイルスも登場してきている。便利さだけを謳歌していると、実は煮炊きするということの意味が失われてくるのです。自然の体験がなくなる。それは何を失うことか、大地を失うということです。
九州のほうのお百姓さん、農家の方に教わりました。ある時に聞かれました。「大人がいただくご飯茶碗一膳たっぷりのご飯盛ったら、そこに何粒米粒があると思いますか。」聞かれて、私はその質問に仰天しました。私にはその発想がなかったのでした。何粒米があるかというふうに考えたことがなかった。考えようともしなかった。それで「ありがとう」それで「いただきます」といただいていた、これはいんちき(四字に、傍点)だと私は、そのとき教えられました。自分の人生の"仮"を教えられた。私の"ありがとう"こそは、自分中心の"ありがとう""お助け"下さい念仏〃だったとも言える。
その人たちは、都会の子どもと田舎の子どもを田んぼに水張ってともに泥んこ遊びをさせるという、そういうことを進めていたのでした。そこでは子どもたちが農業を継ぐと言ってるそうです。自信をもって農業を継ぐと、継がせてくれと…。これこそ子どもの自信です。どうしてこの自信が生まれるか。都会の子どもと田舎の子どもが、米を刈り取ったあとの田んぼ、田植え前の田んぼで泥んこになって遊んだうえで、いったいご飯茶碗の米、一膳に何粒入っているかを考えた、そういう発想が生まれて、実際に子どもたちが数えてみた。二二〇〇粒あったそうです。その二二〇〇粒を考えてみると、一株ちょうどだと言っています。その地方のその計算では…。地方によっては株の大きさが違うようですけれど
も。
そのことを聞いたときに、ご飯から、それこそ土の香りといいましょうか、それが感じられたものです。そういう感性が私たちの中にもまだあるんですね。その実感の中では、生死が分裂していない、天と地が裂けてないのです。自然を見るときも違って見えるんだと私は思います。それを現代生活は完全に失っている。
"命を教える"ということで、子どもたちに鶏を抱えさせて、川原に出ていって鶏を一人ずつ抱かせて、生きているということはこういうものだと教える、鶏はビクビク動きます。温かい。と、今度はその鶏を放して、子どもたちに捕まえさせて、最初の先生方の計画では、その鶏を子どもたちに絞めさせて、で、羽を全部むしって、最後にカレーライスを作って食べさせる「命教育」という、そのようなカリキュラムを組んで、実践しようとしていたという話を聞いたことがあります。校長先生とPTAが仰天して、絞めるのだけは大人がやりましょう、ということで、カレーライスをとにかく作って、そして後で感想文を書かせた。その感想文を私は読まされました。
「気持ち悪くて食べられない」と、これが全員です。鶏を抱かせ、そのビクビクする動きを教える、そして殺して、動かなくなった鶏を抱かせて、「死」を教え、それを食べることで生命の関連を教える。これこそ「クソリアリズム」というものでしょう。ここには、根本的に考えて、「体験」がない。にも拘わらずこれをいわゆる"良心的"といわれる大人が、よしと思っている。子どもたちと向かい合っている。恐ろしいことです。記号というものが、いわゆる良心的な人たちから真の経験を押し殺しているわけです。
"いのち"教育をいうなら、そんな手間隙(てまひま)かけないで、卵からかえして、大事に育ててればいいんです、大事に育てればいい。すると死ねば悲しいと、泣くんでしょうに、悲しいということを通して、命を教えられたときに、はじめて知識ではない命が、私は身についてくるんだろうと思います。ところがいのちを知識にして疑っていない。対象世界の全部を記号にするのと同じように知識にしてそれが、"いのち"だと思っている。
全部頭の知恵の先走りです。生まれてきた子にお乳を与えて、目と目を見つめ合って、喃語を交わしあって、そして労働を通して、そして記号の世界に入って、さらに仏教という教えを通して人間の根源に関わる問題を考えていく、そういうことを抜きには二十一世紀は開けてこない。
朝鮮と日本で言えば、実学だけでいけば明治のときの脱亜入欧になるのは、ある意味では論理的に必然だったと思います。その人間の二〇世紀が、私たちに何を問いかけているか、それを自らの根っこから問い返して新しい時代を聞きたいものです。
だらだらと長いお話をいたしました。しかしほんとうに大事な時代が来ていると思います。大人と若い人たちの間では、感性からしてずれている。でも、若い母親は体で何か感じてくれているところがあるような気がします。それだけに実業の世界の皆さんが、ほんとうの繁栄とはいったいどういうものなのか。ほんとうの"自然"を問うことから、世界に新しい立脚地を発信するようになることを心から願っています。要するに日本だけで生き方を考えるのでなくて、もっと大きな規模でもっと本質的な深さから、いろいろな形の生き方を考えてくださる、そのうえで空間的にも時間的にも生活の質を変えていく。仏教をともに考えて下されば、どんなにすばらしいかとそのように思います。どうも長々と失礼いたしま
した。ありがとうございました。 ─講演終了─
─「第355回一隅会講演」2000年五月二十五日の速記録より─
(話されているのは、作家。講演じたいが正確に高さんを紹介しているので繰り返さない。静かに思いめぐらして聴き入りたい。平易な言葉で、だが、じつに畏怖すべき指摘と考察により、途方もなく大事な生死の問題が語られている。これをと、高さんより進んでご寄稿戴いた。第五頁にもエッセイを戴いている。永く、湖の本を支援して下さっている。1.4.15掲載開始)
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