窓越しの対話    北田 敬子

      ─インターネットでことばを磨く─
 

 
 

 デジタル機器と関わらずに一日を過ごすことがむしろ稀になった生活の中で、情報の受け手一方だった個人も発信する時代がきた。人の活動と切り離せない「ことば」もまた、この時代の変化に応じて変貌を遂げている。人と人がどのようにデジタル通信機器と向き合い、どのように新たな人間関係を築いていくのか、インターネットの利用を中心に考えてみたい。パソコンのモニターを通して、隔靴掻痒の感もあるいわば「窓越しの対話」についての観察を報告しよう。
 

   サイバースペースの書きことば

  インターネットが広く人々に受け入れられるようになって、私たちの「対話」の形にも様々な変化が出てきた。「対話」といえば面と向かって語り合うことであったり、電話で互いの声を聞きながらことばを交わすことであったはずが、今や私たちは物理的な時間にも空間にも縛られないで交流する手段を得た。進化し続けるコンピュータネットワークの中で、二十世紀末から二十一世紀初頭の現在、人々に最も愛用されているのは電子メールとホームページだろう。出だしのところでいくつか面倒な設定に阻まれたり、キーボード入力やマウスの使い方に戸惑うことはあっても、いざサイバースペースに乗り出してしまえば、そこは目に見えない広々とした宇宙であることがすぐ分かる。そこでのコミュニケーションを可能にするプロトコルから外れるわけにはいかないけれど、コンピュータによる交信を開始した人々は、瞬く間にサイバースペースの住人となり、そこが目に見える世界と同様の実体をもって存在するのを感じるにちがいない。

 サイバースペースでの対話は基本的に文字による書きことばとして発達してきた。電子メール(この後は「メール」と記載)はビジネスの用途であれ、プライベートな用途であれ、電話での会話のように相手の呼吸、声色、反応を瞬時に感覚でとらえて判断しながら相手との距離をはかることが出来ない。あくまでも相手の言いたいことを文字で受け取り、判読してこちらも文字で返す。いきおい発信、受信いずれも「独り言」の様相を帯びる。大切なのは、書きことばを介して伝達内容と相手の心情、意図を読みとる力、またこちらの心情や意図を相手に書きことばで伝える表現力ということになる。ことばの一方通行を避けるために、メール独特の「書き方の作法」も出来つつある。例えば相手の発言を引用符付きで取り込みつつ返信を書き送り、次回は両者の発言の重点箇所を再び引用して新しいメッセージを加える、といった意識的な対話形成のプロセスがそれだ。これも考えようによっては、自分で勝手に対話をこしらえている「独り言」の変形かも知れない。しかし、このような「編集」もメールにおいては「表現力」の一環として働く。行ったきりの手紙と違って、メールの場合は「送信済みトレイ」に出したメールは残るし、周到な書き手なら常にブラインド・カーボン・コピー (BCC) 機能を使って自分宛に同一メールを送付し、誰との間にどのようなやり取りが行われたか記録しておくだろう。相手ごとのフォルダーを作成して整理すれば、必要なときたちどころに交信履歴を振り返ってみられる。デジタル対話における表現力は、機器とそこに装備されたソフトの機能を工夫して使いこなすことと不可分になる。
 

   機械と人間

 機械操作と人間同士の精神的交流は、相容れない別物のように見えるかも知れない。実際に使い始めるまで、この二つのイメージの融和は不可解に思えて当然だ。だが一旦使い慣れると、機械の方が表現を促す事態が出来する。それは道具が手に馴染むことと似ている。

 メールの特徴の一つは、単刀直入に用件に入れることにある。ビジネスメールの場合は特にこれが有効に働く。瞬時に特定多数の相手へ「同報メール」を送れることや、送信メール・受信メール・返信メールなど、適宜仕訳するファイルに整理できることに加え、ものの介在を省けることで、メッセージそのものを相手に送るという主要な目的以外のところに費やす時間とエネルギーが不要になる。郵便物の場合、文書自体に様々な意味が付加されているから、文書送付手続きの一切にまつわる様式を遵守する必要がある。ところが、日本語固有の挨拶や前置き抜きでは何も始められない手紙文とは逆に、メールは婉曲を嫌う。肝心なのは用件の簡潔な伝達だ。スピーディーなやり取りが可能なのにわざわざそれを潰すのは無駄なことだと、交信者同士は了解し合える。

 勿論いいことずくめではない。私的メールでもビジネスメールでも、この「単刀直入さ」が時として実際上の個人間の距離を見誤らせることがある。メールのことばは、障害物無しにストレートに相手に飛び込む。そのために本来なら越境できない私的なゾーンへの侵入が起こりやすいし、あり得ない親密さが存在するかのような錯覚を人に抱かせかねない。また批判や非難は、強烈に胸に刺さる。ことばだけの交信は時として、相手に対する感情増幅装置の役目を果たす場合もある。不用意に発したことばが瞬時に相手に届くことが、取り返しの付かない状況を生む原因にもなりうる。
 対話がスムーズに行われればこれほど便利なコミュニケーション手段はないけれども、齟齬が生じたとき、この至便な書きことばの対話では、誤解や諍いを解消するのにかなりのエネルギーを要する。解消されずに断絶する可能性も高い。サイバースペースでこの断絶を経験すると、虚空に放り出されたような孤独感を味わうことがある。直接会うこともなくサイバースペースの中でだけ交信していた場合など、この孤立感はかつて無かった種類のものだろう。消失した相手が実在したのかどうかもあやふやになるとしたら、私たちは文字通り不条理と直面せざるを得ない。文字だけで相手の存在を認識し、文体にアイデンティティーを見出し、交信の事実に相手との繋がりを感じて、そこに何某かの人間的交流の充足を得ていた場合などは、更に厄介なことになる。断絶はこちら側の存在を抹消されたかのような感覚をもたらし、自己に対する否定的な感情を生みかねない。相手が無言であることに苛立ちを募らせれば、一方的な発信を続けていつしかネットストーカーへと変貌する可能性も十分にあり得る。逆の立場にいれば、昨日までの友好的交信相手が自分を脅かす存在となる。沈黙して関係終了とはゆかずに、やむなくアドレス変更を強いられる場合もある。論争ならまだしも、言葉尻を捕らえあっての泥仕合にエスカレートし、「たかがメール」のために時間とエネルギーを消耗して疲れ果てるなどという例も稀ではない。

 ホームページでの情報公開にも同様な面がつきまとう。発信者と受信者が互恵状態にあるときは時空を越えた緊密な繋がりや、情報源としての信頼感を保てる一方で、いずれかにとって不利になる情報が行き交えば、これもまた危険領域となる。ホームページがたやすく誹謗中傷の場と化し、犯罪の温床になることはよく知られている。情報公開(発信)の自由は個人領域への侵入を外界に許し、不本意な攻撃の的になり得る危険性と紙一重だ。また、発信の内容・スタイルいかんで、逆にホームページの主催者側が期せずして加害者となる場合もある。これまで出版・放送などの既成メディアだけが担っていた言論者の責任を一般の個人も、発信者の立場になることで引き受けなくてはならない。それらのリスクに対する備え無しにウェッブ(World Wide Web)上へ乗り出していくとしたら、トラブルを自ら招くことになりかねない。条件さえ整えば子どもでもサイトの主催者になれるサイバースペースは、良くも悪くも何が起こるか分からない「場」だということを認識する必要があるだろう。

 それではメールにせよホームページにせよ、そのような危険を冒してまで個人情報の幾ばくかを公開し、発信、交信することの意義はどこに見いだせるのだろうか。既に深く生活の中に入り込んだこのサイバースペースでの「対話」が引き起こす悲喜劇を、「仮想現実」と斥けることはできない。それは私たちに様々な心的作用を及ぼし、判断を迫り、行動を促してくるのだから。実益が無く面白くもないものであれば、インターネットによる情報交換がこれほど広がるわけがない。デメリットを遙かに勝るメリットがあればこそ、人々はデジタルコミュニケーションに深く身を浸してゆく。「独り言」に生命を吹き込むものは何だろう。
 

   デジタル交信の修辞法

 インターネットに接続する人々は、国境を越え、時には言語の壁すら越え(翻訳ソフトも画像もあるのだから)、緩やかな離合集散をくり返しながら増加し続けている。ネットピープルは、それぞれに独特なデジタル文化の担い手となる。ある意味では同じ言語を共有する民族同士でも、コミュニケーション方法の違いによって意志疎通しにくい異邦人同士のように感じられるだろう。20世紀最後の一、二年に爆発的広がりを見せた携帯電話による交信は、話し言葉から文字通信、さらには画像表示へと進展した。「ケイタイ」あるいは「モバイル」、つまり「身につけて持ち運ぶ」通信機器は片手に収まるスマートさを誇る。手書き文字からキー入力への移行すら、日本語にとっては大きな変化だったのに、今や親指一本でことばが発せられ飛んでいく。その日本語は符丁のようなものである場合が多い。断片的な略語と、擬態語・擬声語、そして絵文字も含めてことばは簡略化の方向へひた走る。携帯電話からパソコンへ、またその逆の交信も頻繁に行われている中で、文字数制限のあるケイタイへは短信が要求される。パソコン同士でも総じて長いメールは敬遠される。簡潔な文体へ、手短で要領を得たメッセージを時に応じて書き分けられるかどうか、デジタルコミュニケーション時代の修辞法とでもいうものが密かに発達している。

 メールが盛んにパソコンを介して交わされるようになって変化したことの一つに、日本語がこれまでになく明示性を求められるようになった事実がある。アメリカで発達したメールソフトは、当然のこととしてメッセージの「標題」を要求してくる。ソフトによっては「無題」のまま送ろうとすると、「標題無しでこのまま送信していいですか」と聞いてくる。ブランクのまま送信可能だとしても、問われれば空欄を埋めなくてはならないという気持ちになる人の方が多いだろう。その時私たちは多少なりとも自問する。「自分は何について書こうとしているのか。(あるいは、何について書いたのだったか。)どのような標題にすれば相手の目を引くことが出来るだろうか」と。「初めに結論あり」、という非日本語的発想が生まれても不思議ではない。

 その意味でデジタル交信は、日常的に言語表現を意識化するよう私たちを促す。何となく書き始めて筆の進むまま、これといった伝達事項に固執することもなく相手の様子を尋ね、こちらの無沙汰を詫び、季節の挨拶など幾つか取り混ぜて、では何卒お元気でなどと結ぶ手紙とメールは根本から異なっている。「初めに用件あり」が原則と言っても過言ではない。例えそれがただ暇だったのでどうしているかと思ってのメールでも、標題には「お元気ですか」などということばが入る。そう書いてしまうと、書き手は自分のことばに縛られる。たとえ無意識のうちに自分で定めた枠の中をぐるぐると回ったとしても、別件はまた別便にてということにするか、「別件」と断りを入れてから段落を改めて、次なる話題に移ろうとしているのに気付く。ビジネスメールは別にして、私的メールの書き方には、伝統的な手紙文ほどはっきりとした定型が出来上がっているわけではないのに、画面が書き手に標題への固執を促しているとも言える。書き手は常に目の前に自分の文章を表示しながらキーを打つので、同時に読み手の役割も果たすことになる。自分の書いたものが相手の目にどう映るかを想像しながら書くことは、ことばを意識化する第一歩と言えるだろう。如何様にも編集できる画面上の文字は、一度書いたら容易く消せない手書き文字とは比べものにならない手軽さを持つと同時に、書き直せるのだから気に入らなければいくらでも修正したいという欲求を掻き立てる。画面上の均質なフォントは没個性的だからこそ、書き手が内容と文体で自己主張せざるを得ない「仕組み」もそこには存在している。
 

   デジタルジェネレーション

 若者同士の書くメールには、口語と文語の区別など無いものが多い。語るが如く書くのが気取らぬ自己表現の作法といえる。それでも日本語の場合、丁寧語を始めとする敬語表現が死に絶えたわけではなく、時と場合を考慮して、巧みな使い分けをする書き手が多いのも確かだろう。とりわけ相手との距離を測りかねている段階で、無難な言葉遣いに腐心しなくては交信の発展継続が危ういとなれば、「どのように書くか」が問題になる。メールは手紙や葉書などの交信手段とは比較にならないほど頻繁に行き交う。従来書きことばによる交流には縁遠かった世代が「書き始めた」時代に、彼らは独特なスタイルを生み出している。メールを書くことが日常生活に組み込まれると、書かずに過ぎていく日の方が少なくなる関係上、習慣がおのずと文体を作り上げていく。ある意味では、サイバースペースをメリハリのない膨大なことばが垂れ流されるように行き交っているとも言えるし、そこでは手書きの文字文通に慣れた(アナログ)世代が真似しようとしてもとうてい太刀打ちできない自由闊達な文章が、溢れ返るように量産されているとも言える。

 この「自由闊達さ」の両面価値には注意が要る。一面でそれはただの自堕落な駄文の横溢だし、見方を変えればかつて「軽薄体」などと揶揄された文章とは異質の、テンポのある「機能する言語」が日々書き続けられていることになるのだから。但し、先に述べたように頻繁にことばを交わしあっているように見える現象が、実は独白のぶつけ合いであるかも知れないところに、デジタルコミュニケーションの落とし穴もある。何を書いてもよいし幾度書いてもよい。しかしそれが送りつけられた相手の心の奥に到達するかどうかは全く別問題だとしたら、サイバースペースには情報交信過剰時代の孤独が見え隠れしている。

 短信を送り合うことが日常化して惰性になれば、芽生えた「書きことばの意識化」も薄らぐ。例え数十人のメル友と片言隻語をやり取りしても、心中深い孤独は一向癒されないことくらい、若者は先刻承知だ。ただその習慣に代わる別の通信手段が出現するまで、ケイタイは進化し続けるだろうし、パソコンでのメール交信はますます不可欠の対話実行媒体として人々の生活に根を下ろしていくだろう。
 

   ウェッブサイトの誘惑

 メールが主に個人間の交信方法であるなら、ウェッブは一挙に多数の人々が行き交う開放性を特徴とする。企業や団体が宣伝活動の一環として、また顧客サポート・サービスの一環としてウェッブサイトを開設するのは当たり前になった。(「ウェッブサイト」は「ホームページ」と同義に用いる。この後は主に「サイト」と表記する。)サイト作成を業務にするビジネスも勿論あるけれど、多くの場合サイト作成ソフトを使えば、パソコン操作の基礎的技術を持っている人なら誰でも手軽にサイトは構築できる。WWWが広まった初期の頃、ネットサーフィンを楽しむだけだった個人も、今や気軽にサイトが持てる。サイトを開くにはウェッブに繋がったサーバに場所を確保する必要があるけれど、バナー広告を組み込むことを条件に無料でそのスペースを提供するプロバイダーが多数存在するので、インターネットに接続したパソコンが利用できるなら金銭的にもサイト開設を阻むものはない。サーバの使用料を払う人にはバナー広告の出ないスペースが提供される。個人で独自ドメインネームを取得しサーバを立てて、容量制限を気にせずサイトを構築することもできる。

 企業等のサイトの場合、その目的も機能もはっきりしている。また専門、特殊領域の資料収集や情報公開を目的とするアーカイヴの果たす役割も明瞭だ。だが個人サイトには、必ずしも特定の情報提供を目的としないものが多々ある。公開するコンテンツが、開設者個人の趣味であり身辺雑記である場合、そのサイトは誰に向かって何を発信しようとしているのだろうか。

 個人サイトはデジタル情報交信時代が可能にした一つの存在証明の形態だと思われる。人は物言う権利を持っている。ロンドン・ハイドパークの「スピーカーズコーナー」に立って演説する自由があるのと同様に、WWWというスペースの中で誰でも発言することが許されている状態は、書きことばにも殆ど無制限の自由が与えられた最初の機会ではないだろうか。従来のように同人誌、個人新聞、ミニコミ誌、自費出版など、紙に印刷して配布するという形に拘らなくても、個人が複数の人々を相手に意思表明(マニフェスト)を行うことを可能にしたのが、ウェッブ上のサイトだと言ってもいい。もしも印刷紙の持つ手応えに重きを置くなら、サイトは手に触れぬ架空の存在であるような不確かさは否めない。もしも何らかの事情で電力供給が途絶えればそれは存在しないのと同じだし、コンピュータを使わない人に見て貰うことは出来ない。(当然のことながら企業や団体の宣伝・サービスサイトも同様の限界を持つ。)それでも個人サイトは増殖の一途を辿っている。書きことばによる発言の自由、文字と画像、更に音声を介しての自己表現の可能性への期待が、人々の間を席巻しているのは否定しようもない。

 サイトなど持たなくても発言したければ、メールで複数の相手にメッセージを送ることで目的を達成できるのではないかと考える向きがあるかも知れない。メールマガジンや、メーリングリストは確実に加入者への情報伝達機能を果たす点で、サイトに勝る点があるのは事実だ。しかし、視覚的にデザインセンスを発揮する余地があり、幾度でも更新することが可能で、多機能を同時に備えるという点でサイトに及ぶものではないし、情報掲載の容量の多さでは比較にもならない。そして更に最も肝心な点は、他者にアクセスするかどうかの選択権が委ねられているということに尽きる。

 送りつけられたものを歓迎する人も確かにいるだろう。専門性の高いメーリングリストで国境を越えた議論が活発に繰り広げられている例を挙げるまでもない。だがそれがさしあたって直ぐに必要な情報でないと判断されればゴミ箱行きか、任意のフォルダーに収納され、運が良ければいつか開かれることもある程度の不確実な情報伝達が行われたに過ぎない。受け手は容赦なく情報を選別する。ところがサイトは「送られる」情報ではなく、そこに「在る」情報だ。情報の「受け手=読み手」は自ら操作を行って情報に辿り着く。サイトへのアクセスは情報探索者の積極的な行為と言える。書き手の「独り言」に生命を吹き込むのは、「読み手」に他ならない。
 

   サイトという対話の場

 サイト主催者は他者を自分のマニフェストへと突き動かすことが出来るかどうかが問われている。一向に更新もされなければ面白くもないコンテンツしかないサイトを訪れる人は殆どいないだろうし、そうなればサイトの「存在」は限りなく「無」に近いものとなる。物理的、肉体的にこの世に存在すること以外にも自己の存在証明を企むサイト主催者は、自己顕示欲が強くなくてはならないし、自己表現の技を磨かざるを得ない状況へ自分を追い込むことにもなる。

 そうまでしてサイトを開設することの目的は、ひとえにサイバーワールドでの対話を実現することにある。例えばサイトに「チャット」機能を組み込んでしまうことによって、(主催者を交えても交えなくても)訪問者たち同士にリアルタイムでの文字交信の場を提供できる。しかし訪問者がメッセージを書き込める「掲示板」(Bulletin Board System = BBS) の方がアクセスの自由度は高い。中には「掲示板」でのやり取りしか見ずにサイトを出ていってしまう訪問者もいる。自分では書き込みをせず読む一方の訪問者はROM (read only member)と呼ばれるが、発言しない自由もまたサイトでは保証されている。何の義務も責任もなく、そこを訪れて誰かが何かをいっているのを読めばいいとしたら、これは気楽なウェッブへの参加形態と言える。サイト主催者にはそのような「場」を提供しようとするサービス精神の持ち主が多い。いわば自宅を開放してパーティーを開くホスト・ホステスの役割を引き受けるのがサイトの開設者(ウェッブマスター・ミストレス)ということになる。勿論そのような精神の根底に、自らのイニシアチブでウェッブ上の交流を創出したいという欲求が働いているのは言うまでもない。優れた主催者はむしろ陰に隠れて掲示板上のやり取りを見守る。訪問者の発言を寛大に受け容れながら、一旦トラブルが発生したら即座に仲裁に入り、管理者権限で発言を削除したり警告を発して諍いを未然に防ぐ手腕を発揮する。サイト管理の巧みさが新たな訪問者を誘い出すことにも繋がる。

 言語表現に加えて、画像と音声がサイトを彩る要素であることは既に述べた。MIDIファイルを組み込んで音楽を流したり、そもそも音楽を聴かせたり提供するのが目的のサイト、画像の展示場であるようなサイトでは、書きことばは補助的な役割しか果たさない。とはいえ、「対話」を求めるのは人間の本性らしく、主催者が制作した画像・音声へのコメントを書き残していってくれるよう求めているのをしばしば目にする。サイトで直ぐ使える「素材」を無料で提供するのが専門のサイトでも、「使用の際にはご一報を」という但し書きがある。「一報」とは「対話」の要求だろう。また、比較的低年齢のネットユーザーたちの間で人気を博しているのが、「お絵描き掲示板」だ。書きことばによるメッセージの代わりに、若い訪問者たちはサイトに組み込まれた描画ソフトを駆使して絵を描き残していく。すると次々に別の訪問者たちがその絵に対して寸評を加え、より多くのコメントを頂戴した作品が自動的にページの先頭に表示され、人気を競い合うというお楽しみが成立する。やはり添え物であってもことばの果たす役割は看過できない。このような相互作用(インタラクション)がサイトの大きな魅力となっている。人々はサイバースペースで密かに、また明らかに、人と出会ってことばを交わすことを求めている。サイトが「在る」ことは、そこに人が必ず関わっていることの証なのだから。サイトはサイバースペースにはりめぐらされた蜘蛛の巣上の、情報交換と人間的交歓の「場」としてネットピープルの到来を待ちかまえている。
 

   匿名の世界

 個人ホームページの開設者や、チャットルーム、掲示板、描画コーナーなどに集う人々は、確かに人間の存在を求め、自身の存在をアピールしたいという欲求を持つ一方、用心深く身元を隠そうとする。一定の主張を公表したり、利益のために自己宣伝することを目的とする場合は別として、一般にネット上で実名や所属先などを明らかにするのは「危険」なこととして忌避される。個人情報の不用意な流出が思いがけない災いをもたらす可能性に人々は敏感だ。ネットショッピングのような必要不可欠の場合を除いて、サイバーワールドだけで通用する「ハンドルネーム」という匿名を人々は用意する。一つとは限らないハンドルネームを使い分けてネットを渡り歩くうちに匿名がリアリティーを持ち始め、ネットの中で別人格を形成している感覚を持つことさえ可能になってくる。

 この匿名性の容認が、ネット上のコミュニケーションを特徴付ける。主に書きことばでしか自己表現の許されない段階でのデジタルコミュニケーションでは、年齢・性別・容姿・社会的ステータス・しゃべり方など、日常生活の中を付いて回る個人の「細部」が捨象され、不問に伏される。いくら発言の際に個人情報の幾ばくかを開示するよう要請されたとしても、虚偽の申告が誰にも咎められることがないとすれば、「斯くある私」より「斯くありたい私」をハンドルネームと共に持ち歩く自由が保障される。サイバースペースにはその結果、通常の社会生活では満たされない思いが渦巻くこととなる。多様な社会規範から解放されることが、サイバースペース最大の魅力の一つでなくてなんだろう。

 年齢・性別を偽って書き込みをするのなど容易いこと。書かれたことを読み手が額面通り受け取るか否か、判定基準がない以上全ては個人に委ねられている。ある意味で、サイバースペースは虚構と真実がいくらでも入れ替わり立ち替わり現れては消える、泡沫の芝居小屋のような「場」だと心得ていた方が正しいのかも知れない。ウェッブ上の特定サイトには信頼に足る情報が蓄積されていく一方で、恣意的な「素振り」が横行する場所も無数にあることは否定の仕様もない。そのような胡散臭さは気楽さでもある。それこそが人の望む解放空間であるとしたら、インターネットはありとあらゆる人間の欲望が創り出した世界ではないだろうか。騙すこともあれば騙されることもあり、その駆け引きにはリスクと快感が伴う。「匿名性」は通常の社会生活にあるような自己引責を回避する便法だ。だからこそ「匿名」を排し、実名での関わりを求めるサイトには独自のサイト開設趣旨がある。多数の人々が作り上げた巨大なサイトも独力で作られた小さなサイトも平等にサイバースペースには散在している。情報を提供し交流の場を用意する側も、それらを享受する側も、自らの嗜好で如何様にもサイトを利用することができる。そのいずれと、どのように関わろうと、また各々の「場」でどのように振る舞おうと自由だけれども、その結果を引き受けるのはサイバースペースに参加する個人となる。「匿名」の隠れ蓑には越えることの出来ない淵があることを了解した上で饗宴に参加するなら、咎め立てする機構は今のところどこにもない。
 

   デジタル対話の実践

 デジタル時代は「薄口の人間関係の時代」とも言われる。匿名に半分身を隠し、直接的な摩擦を回避するためにメールを多用し、頻繁な交信でその都度の深刻さを防ぐのが常道だとしたら、確かに人格のぶつかり合いとか接触といった人間関係の側面はこの種の交流には存在しない。それを「薄口」と表現するのは的はずれではないだろう。けれども、そのような希薄さを好むことを単純に批判できるだろうか。また、希薄に見える人間関係ないし、交信形態が新たに生み出すものは皆無だろうか。1996年から本格的にメール交信を始め、1997年にサイトを開設して以来、パソコンに触れない日は殆ど無い生活を送ってみて、私自身が得た認識は、いささか異なる。結論から言うと、デジタル機器が可能にするのは先ず何より「自分自身との対話」である。

 私は英語教育の現場で学生と多数のメールを交わしながら、英作文の指導を実践してみた。学生の作文を添削して送り返しては、改訂版を受け取り、更に添削を加える。そのやり取りから出来上がった文章を授業専用サイトに公開する。学生はそこに写真やイラスト画像を組み込んで個性を競う。時々海外からもサイトを見た感想が飛び込む。うまく英語によるメール交換に発展する場合もあれば、一度きりの交信に終わることもある。学生たちは課題として書いた文章が、教室の外に出ていき国境をものともしないことに感嘆するし、交流の維持継続の困難も知る。また、英語科目以外の授業でもインターネット上の情報に基づくレポートを提出させる。書籍等の資料に加えてネット上の情報を取り込む技術とセンスは、必要に応じて独力で問題の解決の手がかりを発見する力を養うものと思われる。その活動の中で、学生は常に「自分の求めるものはどこにあるだろう」、「これは自分が必要とするものだろうか」と自問しながらモニターを覗き込む。先に述べたサイトへのアクセスが主体的な行動であることを認めるならば、必要な情報を探し出し、取捨選択し、再構成する過程から学生は「メディア・リテラシー」の基礎を身につけるはずだ。情報源の一つとして、また情報発信の一つの窓口としてインターネットを日常活動の中に組み込むことは、自己との対話を習慣付けることに繋がると思う。自己との対話とは、別のことばで言えば思考と内省に他ならない。

 私はまた、短期大学所属学科の公式サイト制作プロジェクトに携わってきた。そこではメンバー間の連携が重要課題となる。複数の仕事を同時に抱えているメンバーが一堂に会してプロジェクトの細目を議論する時間的余裕はめったにない。その時威力を発揮するのが同報メールによる意見交換や進行状況の伝達であることを強調しておこう。進行中の制作物をテストサイトで公開して、各自が自分のパソコン上で確認し合えるシステムは、合理的で効率的な形態と言える。共同作業のために行き交うメールは、チームワークのための潤滑油という側面も持つ。それを参照しつつ短い個別的打ち合わせを重ねて臨機応変に分担を果たせば、全体としての仕事は殆ど全てオンラインで仕上がる。メールとウェッブでの対話は実質的なものだ。このサイト制作を通じて私は多岐に亘るインターネット上の約束事への認識不足を自覚する契機が与えられた。サイト構築作業が、サイバースペースに散在する情報へのアクセス方法を教え、ウェッブ上の資産の活用法を訓練してくれる。躓く度にネット上で出会う人々と「対話」し、ウェッブについて学ぶこととなる。飛び込むことで初めて見えてくること、感じられる手応えは他で行う人間の諸活動と何ら変わるものではない。

 最後に私の個人サイトについて述べよう。開設して暫くは定期更新もせず、サイトは時折書き溜めた散文を載せるだけのものだった。二年以上経ったとき、職業とは全く関係のない創作を発表する場に模様替えすることを思い立った。以来、それは純粋な趣味のサイトとなった。不定期にエッセイや詩歌の作品を掲載すると共に、訪問者の数を表示するカウンターを付け、どこからでも書き込み可能な「掲示板」を設置し、幾つかのリンクを張り、短い日記を(日英両国語で)毎日更新している。それだけのことだが、私にとってこのサイトは「窓」の役目を果たしている。窓からことばで自己表現したいという内的欲求を解き放ち、飛び込んでくる外からのことばを受け止める。自分の内面の幾ばくかを外に向けて晒すことは、敢えて外界との摩擦を生むようなものでもある。書いたものへの批判を受けることもあれば、感想が送られてくることもある。しかし誰の審査も必要としないマニフェストの場を持つことは、一個人に与えられたインターネット時代の恩恵であることを痛感する。同時に、書くことが持つ責任も実感する。書くならば志を持ってことばを紡ぐこと、垂れ流される安易なことばではないものを発表していきたいという意欲を掻き立てられるのも事実だ。カウンターは、訪問者の数をゆっくりと刻む。「場」が生きていること、「窓」が機能していることをそれは寡黙に物語っている。

 インターネットはIT産業振興スペースとして各界の注目を集め、情報技術革新と起業チャンスの場として語られることが極めて多い。しかし、ことばを介して人と人が出会い、対話を重ねる精神領域であることも忘れてはならないだろう。一つ一つのサイトは世界に開いたほんの小さな窓であるに過ぎなくとも、また飛び交うメールは宇宙の塵にもならぬものであるとしても、サイバースペースは多様な創造活動の場である。そこから学べることも、引き出せる楽しみも果てしない。「対話」の意志を放棄しなければ、「窓」を生かす道はいくらでもある。
 

─東洋女子短期大学・東洋学園大学 ことばを考える会編─
シリーズ ことばのスペクトル 『対話』所収
リーベル出版 (2001年3月10日発行)
 
 
論者は、東洋女子短期大学の教員で、じつは、正確な肩書きを存じ上げない。湖の本の読者で、メールを交換してきた。ホームページで詩などを書いておられ、このような研究者・論客であることも迂闊に知らずにいた。『対話』を頂戴して、これは、欲しいものだと思った。幸いに頂戴できた。一つのメルクマールとしても貴重な論説のように編輯者は感謝している。) 


       HOME


※秦恒平文庫の文章の著作権は、すべて秦恒平にあります。
掲載された内容を無断で複写、転載、転送および引用することを
禁止いたします。