招待席
かわかみ びざん 小説家 1869.3.5 - 1908.6.15
大阪府に生まれる。紅葉、美妙を知り硯友社に入り、反俗の思いから社会を批判しいわゆる「観念小説」を書いて泉鏡花らとともに世に迎えられた。樋口一葉に
も切ない関心をもたれたが、眉山は文学の迷い深く、生活苦も加わり自殺。自然主義と反自然主義のせめぎあおうとする思潮の中で、孤独に佇んだような作者で
あった。掲載作は明治三十九年(1906)「早稲田文学」二月号に初出、島崎藤村「破戒」出版の前月であった。 (秦 恒平)
ゆふだすき 川
上 眉山
一
いや、驚いたよ君、何ものほほんで歩いて居た訳ぢやなかツたが、不意に横ツ手から、
「あら、まア、梅原さんぢやアありませんの。」
と甲(かん)の高い、調子の走ツた、化生(けしやう)の者の叫び声だ。何者と振返ツて見ると、銀鼠(ぎんねず)の頭巾(づきん)を深く黒のコートに羽衣
ショール、犇(ひし)と鎧(よろ)ツて居るのだから、正味は解らなかツたが、しやなりとした姿から最(も)う、只者ではない。見たやうだが、思出せないで
居ると、向うは馴れ馴れしく、
「まア、お珍らしいぢやアありませんか。」
と近く、ぱツちりとした涼しい眼でぢツと見る。此方(こちら)は少からず狼狽(まごつ)いた形、変な調子で、
「失礼だが誰方だツたか……。」
「あら、お忘れなすツたの。実(じつ)が無いのねえ。私は彼(あ)の下谷(したや)の若狭屋(わかさや)に居ました時分……。」
「むゝ、今ちやんか。」
「おほゝゝゝ、昔の名を仰有(おツしや)ると恥かしうござんすわ。」
「や、然(さ)うだツたかい。様子が変ツて了ツたから、すツかり見違へたよ。」
啻(たゞ)に様子ばかりぢやない、何から何まで変ツて了ツたのだがら、見違へる方が至当(もつとも)だ。僕がそれや、彼(あ)の時には君にも苦い異見を
喰ツたが、お笑ひ草さ、例の小房(こふさ)ね、彼女(あれ)と一つ家(うち)に抱妓(かゝへ)で居た、其時分は小今(こいま)と言ツた女だ。
古い談話(はなし)で、何しろ最(も)う一昔前、今ぢや夢さへも見た事がない。跡形もなく忘れて居たのが不意に這麼(こんな)出幕(でまく)になツたの
で、何だか妙な心持になツたが、併(しか)し恁(か)う廻遇(めぐりあ)ツた処で、何(だ)うの恁(か)うのといふ仲ぢやないのだから、其儘別れる気で、
当座の挨拶をして居ると、
「矢張(やツぱ)し気が差したんですね。今日は朝ツから、何だか嬉しい事が有るやうな心持がしてならなかツたんですが、此処處で突如(だしぬけ)にお目に
掛られようとは思ひもしませんでしたわ。本当に何年振でせう。でも思ひは届くものですねえ。」
と恁(か)うだ。妙な事を言ふとは思ツたが、寄らず障らず、
「いや全く此処で遇(あ)はうとは思掛けなかツたよ。不思議な処で珍らしい人に遇ツたもんだね。」
と言ツて、別に人目もなかツたから、
「今ぢや何処の奥様(おくさん)だね。」
と態(わざ)と言ツた。すると訳もなく笑出して、
「おほゝゝゝ、這麼(こんな)で奥様に見えますかね。生憎と未だ独り者よ。」
「はて、何(だ)う間違ツたのだ。其様子で独り者なぞとは、勿体なさ過ぎて本当にされないぢやないか。」
「まア、いゝやうな事を仰有ること、それはね、相手は降るほど有りは有りますけれどもね……。」
「ふむ、余(あんま)りお高いんで……。」
「とでもして置きませうか。未だ御存じない中(うち)は、何とでも言ツて置けますからね。おほゝゝゝ。まア、それはそれとして、あの不意に這麼(こんな)
事を言ふのも何ですけれど、実は貴方には、種々(いろいろ)とお談話(はなし)もしお願ひもしたい事が前から有るのですが、何うでせう御迷惑でも一寸、宅
へお寄りなすツて下さる訳には参りますまいか。あの、つい此先なんですが。」
「え、家へ。」
と何だか様子が知れぬから、流石(さすが)に少し躊躇した。それと見て取ツたか直ぐに、
「なに些少(ちツと)もお心遣ひの要るやうな家ぢやありませんの。外(ほか)にお差合ひも何(なん)にもありません。貴方、本当に後生ですが……。」
「だが私に何の用だね。」
「まア、那様(そんな)事を仰有らないで、お馴染甲斐(がひ)に一寸(ちよつと)ねえ、あら、何を考へていらツしやるの。」
「なにそりや、幸ひ用もないんだから、寄るには寄ツても可(い)いがね……。」
と少しは好奇心を先に立ツた。相手は舌を置かせず、
「まア、有難い事。本当に、這麼(こんな)嬉しい事はありませんわ。何しろ路中(みちなか)でお談話(はなし)も出来ません。それぢや御案内を致しませ
う。さア入らしツて下さいまし。」
といそいそ先に立つ。何だか訳が解らない。少々魅(つま)まれの姿ぢやあツたが、丁度身體(からだ)は明いて居たし、内々面白づくが手伝ツて、何も談話
(はなし)の種位の気で、一処に出掛けたと思ひたまヘ。何でも五六町、只有(とあ)る新開(しんかい)へ入ツて、二度ばかり曲ツたと思ふと、未だ真新らし
い門構への、庭に小広く、手の入ツた植込を越して、奥に気の利いた二階家が見える。其処だ。表の標札に大川いま。
見た処で恁(か)ういふ向きの住居(すまひ)とは思はれぬ。それも案外だ。さては被囲(かこはれ)だな、と早合点に見渡した途端、
「此処でございますよ。本当に汚穢(むさくる)しい処で。」
「や、恐入ツた。大方這麼(こんな)始末だらうとは思ツたが、大分いゝ者を捉まへて居るね。」
「あら那様(そんな)のぢやアないのですよ。これでも今度、自分で買ツて入ツたのですよ。」
「ふむ、自分で、と言ふと?」
「おほゝゝ。まァ、お話申しますからお入りなすツて。」
潜門(くゞり)を開けると、花崗(みかげ)の短册石(たんざくいし)に、左右を敷松葉、掃除が届いて、塵一つない。ばらばらと出迎へに来た十三ばかりの
小婢(こをんな)と、三十一二の見苦しからぬ女中、
「お帰りなさいまし。」
続いて、
「お帰りなさいまし。」
此方(こなた)は心易げに、軽く、
「はい只今。あの、お客様をお連(つれ)申したよ。」
と振返ツて僕に、
「さア、何うぞ此方(こちら)へ。」
少々処か、いよいよ魅(つま)されの姿になツて来た。玄関、中の間、座敷の模様全く不相応な普請の態(さま)に、猶更不思議立ツて兎(と)もあれ導かれ
るまゝに座に着くと、やがて上の物を脱捨てゝ来たお今は、座敷へ入るから既(はや)走込(かけこ)むやうにして、
「本当に能く入らしツて下すツた事。いゝえねえ、這麼(こんな)時が何うかしたら来る事があるだらうかと当(あて)にしないやうにしてもつい当にして居た
のですが、恁(か)うして思掛けなく来て戴かれる事にならうとは、全く思ツて居ませんでしたの。貴方は御存じありますまいけれど、私最(も)う、這麼嬉し
い事はありませんわ。」
見ると裁下(したておろ)しの黒縮緬の羽織に、深川鼠の縞御召(しまおめし)の小袖、銀杏返(いてふがへ)しに薄化粧して、年は三つ四つも若く、何処と
なく垢抜けのしたのに、昔の影を残しては居るが、見馴れた其頃の俤(おもかげ)とは、さながら別の人のやうに変ツて居る。
何(いづ)れにしても腑に落ちないので、
「併し私には何だか全(まる)で了解(のみこ)めないね。」
「おや何がえ。」
とお今は先づ微笑みながら訊く。
「何がと言ツて、何から何まで解らないづくめだ。第一まアお今さんの今の身からして全(まる)で読めないね。」
「おほゝゝ、まア何に見えませう。」
「然うさね、萬更堅気でもなしと言ッた処で此の體(てい)だらう。そりや主(ぬし)のあるには決まツちやア居るが……。」
「あら、先刻(さツき)も独り者だと言ツたぢやありませんか。」
「むゝ、然(さ)う言はれると猶の事だ。何だか野暮の事を訊くやうだが、全體今何をしてお出(いで)だね。」
「遊(あす)んで居ますのさ。御覧の通りで。」
「はてね、そして。」
「それツきりなの。何(なんに)も有りはしませんわ。」
「さアいよいよ解らないね。」
「何もむつかしい事は有りはしますまい。兎に角恁(か)うして暮して居るんですもの。これでも御覧なさるよりは生帳面(きちやうめん)ですよ。そりやア泥
水上りにしちや可哀想な位で。おほゝゝゝ。」
「解らない。矢張り解らない。」
「おほゝゝ、大層気になさるのねえ、居心がお悪いやうなら申しますがね、正(しやう)は最う後家さんで……。」
「むゝ、少し当りが付き出したね。」
「今ぢや元の素人(しろうと)ですの。お差障りはないのですから、其処だけは御安心なすツて下さい。おほゝゝゝ。」
「なに、然ういふ訳なら、有ツた処で仔細はない。むゝ、それぢや疾(と)うに足を洗ツて了ツたのだね。併し折角然うなツたに、余(あんま)り早い別れやう
ぢやないかね。今の若さに何といふ事だらう。様子は知らないが、お気の毒の事だね。」
「はい、まア然う仰有(おつしや)られて見れば那様(そんな)ものですけれど、なに、然うまで思合ツた仲ぢやなし、言はゞお互ひの便利で同棲(いツしよ)
になツた人なんです、いゝ塩梅(あんばい)に仕事が当ツて、めきめき、儲けたのを其儘で残して逝(い)ツてくれたのですから、お蔭は、十分に受けて居ます
がね、なに、亡くなる時にも、外(ほか)にくれて遣る先もないから、残らず貴様に譲ツて遣る。無理に俺ん処へ来た埋合せに、これから浮気の仕放題をしろ。
何(ど)うせ又、濡れ手で掴んだ泡沫錢(あぶくぜに)だ。遣(つか)へるだけ面白く遣つて見ろ。と恁う言ツて逝ツた位なんです。一咋年(をとゝし)です
よ。台湾熱でね、急に取られて了ツたのです。貴方、私は台湾までも流れて行ツたんですよ。此方(こツち)へ舞戻ツて来たのはつい此頃の事です。」
「それぢや其迄の間には、随分面白い芝居も打ツた事だらうね。」
「はア、そりや種々(いろいろ)の風にも吹かれましたよ。相応の苦労もしましたわ。何しろ最(も)う十年越しですからね。」
「むゝ、訳のありたけ仕尽してかね。」
「おほゝゝ、飛んだお綱ですね、なに、気の利いた事は一つだツて有りやしませんよ。御覧なさい。未だに恁う遣(や)ツて一人ぼツちで居る位ですもの。」
「では最(も)う跡釜を探して居るといふのかね。」
「いえ最う其方(そつち)は沢山ですから……。」
「当分お休みかね。」
「さア、昨日までは然うでしたがね……。」
「先は請合はれないのかい。や、油断がならない。」
「本当に御用心なさいよ。おほゝゝゝ。」
「はゝゝ、なに、此方には那様(そんな)心配はないから安心さ。」
と這麼(こんな)事にはなツたが、全體何で此処へ招かれたのか、其方は未だ一向に解らない。僕は只旗色を見て居たのだ。
二
其中(そのうち)に酒が出る。肴(さかな)は並ぶ。何か手を尽した事で、一寸は帰れないやうな始末になツて来た。それにしても、何を言はれるのか、様子
が更に知れないので、それとなく切ツ掛けを待ツて居ると、お今は其中(そのうち)に稍(やや)改まツた形で、
「まア、何からお話し申しませうね。」
と少し考へて居るやうに見えたが、
「貴方も御存じの通り、以前の商売にも不向(ふむき)な位でしたから、這麼(こんな)時に巧く訳なしに出て来ないから困るんですよ。なにね、厚顔(あつか
ま)しい段に掛けちやア、相応に場数も踏んで来たんですから、随分阿婆摺(あばず)れの気ぢやア居るんですけれど、何(ど)うかすると地金が出て来るもん
ですからねえ……。」
と何か怪しく言悪(にく)い様子で、不意に、
「まア最(も)一つ戴きませう。」
と進んで盃を受けて、其儘衝(つ)と干した。
此方(こツち)を見て、笑ひながら、
「何だか酷くむつかしいやうだね。」
「はア、一寸出やうがないもんですからね。」
「むゝ、全體何の事だい。」
「待ツていらツしやいよ。せかれちや猶仕様がありませんわ。おほほゝゝ、何だか生娘(きむすめ)のやうに、極りが悪いから可笑しいぢやありませんか。」
と言ツて急に投げ出したやうに、
「馬鹿々々しい、這麼(こんな)事におこついて何うなりませう。恁うして焼継(やけつぎ)だらけの身體(からだ)でもツて、那様(そん)なお人柄な事を言
はれた義理ぢやありませんね。面倒ですから最う、色を付けないで露出(むきだ)しに言ツて了ひませう。」
「むゝ、何だか口上が馬鹿に長いが、全體これから何うしようと言ふのだね。」
言ふと事もなげに、
「これから貴方を口説(くど)かうと言ふのですよ。」
「なに、口説く?」
「はア、飛んだお談話(はなし)でせう。」
「然うさね、何う間違ツたか知らないが、此方(こツち)にやとんと支度(したく)がないのだから、何とも挨拶の仕様がないね。」
「ですから取付きやうがないので、這麼(こんな)にうぢついて居るぢやありませんか。」
「第一口説かれる覚えがないからね。」
「おほゝゝゝ、でも此方に覚えがあるんですもの。仕様がありまぜんね。」
「はゝゝ、冗談ぢやない、調戯(からか)ひやうが些少(ちと)くど過ぎるね。」
「あれ、本当なんですよ、これでも。」
「最ういゝ加減にしないかい。馬鹿々々しくツて談話(はなし)にもならないぢやないか、いくら火移りが早いと言ツたからツて、昔は只の見知り越(ごし)、
今の先不意と遇(あ)ツて、未だ、久し振の挨拶さへ切れない中に、余(あんま)り手軽過ぎて、其方(そツち)の御了簡方(ごりやうけんかた)が積(つも)
られるやうな談話(はなし)だ。まさかに那様(さう)安ツぽいのでも無からうと思ふが、余り盛付けられると此方もつい言ひたくならうぢやないかね。」
と笑ひに紛らしながら、少し突込んで言ツて見た。聞くと居住居(ゐずまひ)がら、何も冗談でないやうな風で、
「然うでせう、そちらぢや御存じない事ですから、然うお思ひなさるのも御無理はありません。ですが貴方、此事は、昨日や今日に始まツたのぢやないのです
よ。今になツて這麼(こんな)事を言ふと、取ツて付けたやうにもお思ひなさるでせう。身體はさんざんに持崩して了ツて、勝手な時に這麼事を言はれた義理ぢ
やないのですけれど、可哀想だと思ツて下さい、これでもねえ、彼(あ)の時十六の、未だ何(なんに)も知らない時分から、恁(か)うして思込んで未だ忘れ
ずに居るのです、折がなかツたし、縁がなかツたので、打明ける間もなくツて居る中(うち)に、何うでせう、貴方、最う一昔になツて了ひましたわ。」
と何か知らず俯向(うつむ)いた。最う口先ではなくなツて来たので、流石(さすが)に又驚いたが、言はれるほど猶更に了解(のみこ)めない。
「むゝ、変な、思ひも付かない事になツて来たぜ。訳は解らないが兎も角承らう。今も言ツた通り、覚えのない事だから、何とも御返事は出来かねるがね、一體
まア何うしたといふのだい。然うまで言ふからにはまさか冗談ではあるまいがね。」
「冗談処ですか……冗談なら貴方、もツと気の利いた言ひやうが有りますわね。本当に先刻(さツき)お目に掛つた時は、あゝ未だ縁が尽きなかツたかと、心ぢ
やそれこそ手を合はさないばツかりでした。来て下さると仰有ツた時、これを機(しほ)に、とてもと胸に思ツて居た事を、出来るなら何うかして、と直ぐに思
付きはしましたものの、お目に掛ツた今日が今日、最う、恁う言出されようとも思ツて居ませんでしたが、余り長い事胸に疊(たゝま)ツて居たもんですから、
つい堪(こら)へられないで口に出して了ひました。貴方、恁うなると愚に返ツてねえ、何だかわくわくするばかりで、思ふ事の十分(ぶ)一も全(まる)で言
へませんの。笑ツて下さい。これで二十六ですよ。おまけに相応に塩も踏んで来たのぢやありませんか、何だか焦(じ)れツたくて癇癪が起ツて来さうです
わ。」
「だがね、其方(そちら)ぢやまア然うでもあらうがね、聞く身の此方(こツち)ぢやア全(まる)で初耳だからね、いきなり然う無暗に浴せ掛けられちやア、
面喰ふばかりで全で始末が付かないさ。考へなくツても知れて居る。全で此方の気も知らないで、だしぬけに那様(そんな)事を言出すのは、余(あんま)り醉
興が強過ぎるぢやないか。」
お今は其儘にぢツと見たが、
「あゝ、貴方は私がほんの浮気で這麼(こんな)事を言ツて居ると思ツていらツしやるのですね。」
「よしんば、然うでないにした処がさ。」
「そんなら最う少し身を入れて下さるだらうに、いくら這麼(こんな)身だからと言ツて、貴方も又余りですわ。」
「まア何方(どちら)にしろさ、てんで本当にはされないぢやないかね。」
「いゝえ、そりや御無理とは言ひませんよ。何うせそれは然うでせうけれど、些少(ちツと)は、些少だけでも此方の気が知れさうなもんだのに、矢張(やツ
ぱ)り思ひやうが足りないのかしら。」
「むゝ、仰有る事は大分殊勝だがね。」
「貴方、何うしたら可(よ)ござんせう。」
「然うさ。まアいゝ加減に笑ツて了ふのだね。」
「まア、何故然うでせう。最う浮かれてお談話(はなし)をしては居ない積りですが、まさか底に工(たく)みでもあるやうにはお取りなさいますまい。」
「なに、那様(そんな)事より、実は頭から全(まる)で解らないのだよ。」
「ですから、最初から今初まツた事ぢやないと言ツたではありませんか。それでなくて這麼(こんな)事が、なんぼ何でも遇ツたばかりで言はれるもんですか。
何の、出来心なら貴方、這麼餘計な氣を揉まないでも、何処にでも好きな者が選取(よりど)りのやうに転がツて居ようではありませんか。為ようと思ツたら那
様(そんな)事に不自由をする身ではありません。」
「勿論然うさ。言ふがものはない。何も物好きに、這麼(こんな)処へお鉢を廻して来るには当らないと思ふ。何か以前からとかお言ひだツたが、これと取留め
た談話(はなし)すらした事のない私に、何うの恁うのといふそれからして解らないぢやないかね。」
「それですよ、今から言ふと可笑しいやうですがね、最初お面識(ちかづき)になツた時から、貴方は最う人の物、手を出す事も出来はしませんでしたし、羨ま
しいとは思ツても、那様(そんな)方の気は出もしませんでしたが、忘れもしません彼(あ)の房ちやんの亡くなツた晩私も見舞ひに行合はして居ましたが、彼
(あ)の時貴方が枕元で、臨終(いまは)の房ちやんに仰有ツたお言葉を聞いてからの事なんです。あゝ、思合ツたとは言ひながら、恁うまで真実の方があるも
のかと、涙が飜(こぼ)れるやうに真から身に染(し)みましたが、あれから以来自分でも何うかしたのかと思ふやうに、貴方の事を思はない日はなかツたので
す。それは最う本当に自分でも抑へきれないで居たのですが、場合が場合で、それに未だ十六になツたばかりのずぶ子供で居た時なんでせう、一人で気ばかり揉
んで居る中(うち)に、貴方は最う遠くなツてお了ひなさる、私は濱の方へ行ツて了ふやうな事になツて、それから先は、自分で自由にならない身で、彼方(あ
ツち)へ縛られ、此方へ縛られて、到頭今までお目に掛れなかツたのですもの、覚えが無いと仰有るのも御至当(ごもつとも)で、此方には又、無理にも強く出
られない引け身があるのですから、本当に何うしたらば、此事が、貴方のお肚(なか)に入るやうに出来るだらうかと、実は先刻(さツき)からそればツかりに
気を尽して居るのです。」
「むゝ、まアそれにした処がさ、大抵最う黴(かび)が生えるまで、一途に那様(そんな)事を思ツて居る柄でもなからうぢやないか。知らないで言ふのも不躾
だが、それからこれまでには、那様事よりはもツと実(み)のある面白い達入(たてい)れが何(ど)の位あツたか知れないと思ふがね。」
「はア、それは最う何も隠すには当らないから申しますが、随分浮気も仕尽しましたから、思ツたよりは種々(いろいろ)な目にも遇ひました。けれども其度
(たんび)に思出されるのは貴方の事ばかり、貴方だツたら恁うぢやあるまい、あゝ、這麼(こんな)に焦躁(あせ)りながら何故恁(か)う貴方に遠くばかり
なツて行く事だらうといつも思はない事はないのです。と恁ういふと何だか、勝手な事を言ツて居るやうに聞えますが、あゝ何うしたら私の真の心を言ツて見る
事が出来るでせうねえ。」
変ぢやないか。これまで類のないのにも随分出遇ツたが、未だ這麼(こんな)目に遇ツた事はない。冗談には応答(あしら)ツて居ながら、先刻(さツき)か
ら見て居ると、何も飾ツて居ない確かな影が何処にも動いて居る。此処に至ツて稍(やゝ)退避(たじろ)がざるを得ないのだ。それとはなしに、
「そこで結局、何うしようと言ふのだね。」
「まア、何をお聞きなさるの。解ツて居るぢやありませんか。お察しなさいよ。」
と言ツて不意と見て、
「ですが然う言ツたら、嘸(さぞ)厚顔(あつか)ましいやうにお思ひなさるでせうね。」
「はゝゝ、酷(ひど)く又其方(そのはう)を遠慮するぢやないかね。なアに、今更那様(そんな)事を洗立てした処が仕様があるものか。」
「あら、本当に。」
「だが返事には少し狼狽(まごつ)くよ。」
「だからさ、察して下さいと言ふのですわね。」
「まアさ、それにしてもさ、些少(ちツと)は此方(こツち)の了簡も見据ゑるが可(い)いぢやないか。何しろ些少(ちツと)向不見(むかうみず)だぜ。第
一那様(そんな)事を言出すには、相手の気心を最う少し知ツてからにするが可いぢやないか。私が今甚麼(どんな)に変ツて居るか知りもしないで、那様(そ
んな)安價(やすね)で思切ツて卸(おろ)して了ツて飛んだ器量を下げたら何うするのだ。」
「いゝえ、それは外の人になら、何で這麼(こんな)事を言ふものですか。貴方にだからこそ何も最う考へないで言ふのですわ。それは私のやうな這麼者ですけ
れど、誰にもこれまで、此方から手を下げた事はありはしません。思込んだ弱身といふものは這麼ものだらうかと、自分ながら口惜しくもなる位ですもの。いゝ
え、正味を言ひますがね、余(あんま)り此方の気を汲んで下さらないと、実の処腹が立つやうな気にもなるのですわ。いゝ加減最う目は見えないんですからね
え。」
「なに、此方だツて浮気で行くなら文句はないのだ。二つ返事でお辞儀は不躾、御意(ぎよい)は好(よ)しさ、何の事はありやしないがね、最う那様(そん
な)上づツた方は、今ぢや全(まる)で気がなくなツて居るからね、一寸融通がむづかしいのさね。なんなら異見の一つも様子によツちやア言ひたい位に、疾
(と)うから質実(ぢみ)になり切ツて居るのだからねえ。」
「それこそ猶更ですわ、私の願ふのも最う、那様(そんな)空ツ調子で行かれる事ぢやないんですもの。」
「ふむ、それも一つ聞いて置かう。」
「はア、聞いて戴きませう。ですが貴方、私がねえ、若(も)しか顧ひが叶ツたら、此先何うするとまア思ツていらツしやるの。」
「解るものかね、それが解る位なら、這麼(こんな)餘計な口を利いて居るものかね。」
「おほゝゝ、まア、それから先へ言ふのでしたわね。」
「はゝゝ、何だか独りで了解(のみこ)んで居るぜ。性が知れないだけに気味が悪いね。併し兎も角地道に聞かう。で何うするといふのだね。」
「聞いて下さい、私はね、假令(たとひ)此思ひが此儘届いたからと言ツて、全(まる)で其上の慾は何も有りはしないのです。貴方も勿論最うお一人の身では
お有んなさるまいし、外にお楽みの方(かた)もないとは思ツて居もしません。其中(そのなか)へまア割込んで、無理な願ひを押付けにするのですもの、それ
も這麼(こんな)身でなかツたなら、何とか取りやうもあるでせうけれど、今更何が言はれませう。貴方、此場になツて這麼事を言ツたら何う又お思ひなさるか
は知りませんが、私はこれまでに、それこそ数ばかりは掛けましたが、真から思込んで恁(か)うと言ツたのは、遂に一度ありはしないのです。貴方の事を思出
すのも只それなので、いつでもねえ、たゞの一日でもいゝから、何うかして貴方のやうな方に一言(ひとこと)優しい事を言はれて見たいと、それなのです、今
の願ひも只それなのです、同棲(いつしよ)にならうの、一人占めにしようのと、那様(そんな)大それた事を何思ひますものか。様子が何(ど)うの気前が何
うのと、那様事も最う通過ぎた昔で、只最う今迄一度も受けた事のない人の真実を、一度は身に受けて見たいばかりなのです。あゝ何だか理に落ちて、お聞きな
さるのも厭におなりでせう。自分ながらも愚癡(ぐち)ツぽくなツて、言ふ事が皆(みんな)これですもの。平素(ふだん)は這麼(こんな)私でもないのです
が、何うしたのでせう、何を言ツて居るのか解らないやうな事がありますわ。」
ぢツと其儘に眼を着けて居た僕は、其時思はず知らず、
「最う可い。何も能く解ツた。それほどまでに思ツて居てくれたとは、聞くまで全く知らなかツたよ。併し此私が那様(そんな)に思込んで居るほどの者だか、
何うだか、請合ふ事が少しむづかしい談話(はなし)だ。」
「いゝえそれは最う、何と仰有ツたツて聞くのぢやありません。それでなくツて誰が貴方、下谷(したや)の時から今迄も思続けて居られるものですか。」
「用心おし、間違ふぜ。」
「えゝ、那様(そんな)事なら何とでも仰有いまし。あゝ併しまアこれだけ言ツたので安心しました。百分一(ひやくぶいち)でも私の心が通じたと思へば、最
う昨日とは、心持が違ひますからね。さア最う一ツきり息を抜きませう。貴方、お一つ。」
と小盃(こさかづき)、銚子を取りながら、
「貴方も併しお変りなすツたのねえ。此頃彼(あ)の土地へは」
「最う一向(いつかう)さ。なに彼處(あすこ)ばかりぢやない。然ういふ方はとんと知らずに居る。」
「何ですねえ。御卑怯な、お隠しなさるだけ罪が深いわ。」
「はゝゝ、それ処か。此頃は後生願(ごしやうねが)ひだ。だから今の談話(はなし)だツて内々珠数を繰ツて聞いて居た位だ。」
「おほゝゝゝ、那様(そんな)珠数なら、いつでも切ツて見せますわ。」
「や、恐ろしい。まア精々お手柔かに願はうよ。」
「呆れますね。那様(そんな)風ぢやア、全(まる)で本当の事は仰有いますまいね。」
「何をさ。」
「お佯惚(とぼ)けなさるな。それだから先刻(さツき)も、人が一生懸命になツて居る傍から、那麼(そんな)事ばかり言ツていらしツたのだわ、憎らし
い。」
「はゝゝ、那様(そんな)に気が付いて居るのなら、彼(あ)の時何とか言ツて教ヘてくれるが可い。此方(こツち)は何も知らないから、まごつきながら間の
抜けた返事ばかりして居たのだ。」
「仰有いよ。本当に人の悪い。」
「はゝゝ、這麼(こんな)事ばかり言ッて居れば罪はないが、何しろ今日は思ひも付かない事で、何だか恁う昔の夢を見て居るやうな気持がする。全くね、何処
で誰に遇ふか解らないもんだね。」
「其上飛んでもない事を言はれたんですもの。ですが、偶(たま)には這麼(こんな)目にもお遇ひなさるのが可いのですよ。平素(ふだん)の罪滅(つみほろ
ぼ)しにね。」
「はゝゝ、這麼(こんな)罪滅しならいくらあツても可いね。」
「おほゝゝ、宜しければいくらでも持合はして居ますから。」
「では腹一杯にまア頂戴して見ようか。意地の汚い処で。」
「那様(そんな)事を仰有ると又持出しますよ。今度は最う、はぐらかしだけぢや聞きやアしませんから、其積りで些少(ちツと)は御用心をしてお置きなさい
まし。」
「や、又続け打ちか、今度は最う討死だ。」
「巧い事を。何うして手に負へるもんですか。間際へ行ツたら、又逃げられるは決ツて居ますわ。」
「なに、いつまでも那様(そんな)逃げを張ツて置られるものか。第一其方様(そちらさま)が承知が出来まいと思ふがね。」
「あれ、私が最う、何う悶(もが)いたツて仕様がありますものか。残ツて居るのは貴方の御挨拶だけぢやありませんか。」
「むゝ、それぢや若(も)し、聞かなかツたとしたら何うするね、綺麗に笑ツて了ツてくれるかね。」
「まア、貴方は那様(そんな)に訳なしに見ていらツしやるの。聞かれなかツたらそれまでで引下れるやうな、那様(そんな)根の浅いのぢやないのですよ。貴
方、口でかう言ひますけれど、恁うまで十年越し思続けて、何う思切る事が出来ませうか。勝手なやうですが、察して下さいましと、言ツたのはそれなんで
す。」
「むゝ、併しこればかりは無理押し付けに出来る事ぢやない。何うでも又聞かれなかツた暁には……。」
「えゝツ、そ、そんなら貴方は……。」
「なにさ、なにさ、此方(こツち)は未だ、何とも挨拶をしたのぢやないぢやないか。其暁は何うすると聞いて居るのだ。」
「まア、那様(そんな)事を聞いて何うなさるんです。」
「可いから考へだけを聞かして貰ひたい。さア何うする其時は。」
「なに、然うすりや此儘で。」
と無理に微笑むと見せて、沈んだ影を眼縁(まぶち)に隠したが、
「死ぬまで片思ひで居るばかりですわね。」
「むゝ。」
と僕は稍(やゝ)行詰ツた形で、思はず目を下にした。途端に耳を打ツて、さながら思入ツた声音(こわね)に、
「あゝ貴方、本当に最う、何処まで人をお虐(いぢ)めなさるの。」
時の拍子であツたか何か知らぬが、僕は此時、言ふ事の出来ぬ心地を覚えた。敢て其悽婉(せいえん)の目眦(まなじり)が、例の蘭燈(らんとう)の下(も
と)に恐ろしい力を持つ那様(そんな)方(はう)の肌合(はだあひ)のものぢやない。顔を見合せたが、最う冗談口も利かれない気になると、調子も妙に変ツ
て、
「可(よ)し、お前の心持は十分に腹へ入ツた。さアそれぢや、本気になツて些少(ちツと)話合はう。」
「えッ、本当。」
と声に迫ツて、躍立つ気勢(けはひ)に、お今は眼を輝かしたが、何を言ふかと思ふと不意に、
「貴方、今日は最(も)うお帰し申しませんよ。」
* * *
事情が通じまいと思ふから、有りの儘を君に話したのだ。去年の春の事だがね、其処で些少(ちと)妙だが、久し振で上京して来た君に改めて僕の妻(さい)
を紹介する。此室(ここ)へ連れて来るが、君今言ツた女がそれだよ。
待ちたまヘ。恐らく僕も娶(めと)る筈で居た、桐原家の令嬢の事を君は必ず何とか言ふだらう。地位と言ひ、才藝と言ひ、殊に品性の上に何の缺點もない彼
(あ)の人を捨てゝ、何で物好きに這麼(こんな)古物(ふるもの)を拾ツたのか。兎に角にまア見てくれたまヘ。
指には絲道が着いて居るだらう。首に枕胼胝(くるまだこ)もあるだらうがね、談話(はなし)で想像したやうな女だか何うだか、見ての上で聞かうぢやない
か。なに、馬鹿な、何処(どこ)に酔興で嚊(かかあ)を呼ぶ奴があるものか。
(明治三十九年二月)