赤 い た い
     門脇  照男
 
 

 初めて過ごす東京の冬も、思ったほどのことはなかった。かすかな植込みを透かして、漂うような朝日のかげが畳の上に柔らかな光を落す頃、「いただきます」「ごちそうさま」と型通りの食事を終った私は、八畳間の机に向っていた。毎日頭を圧しつけられるような同居生活の中で、ここだけは、僅かに自由な私の世界が開けていた。
 雑然ととり散らした雑誌を拾い上げた私は、煙草を吹かしながら、しみじみと日曜の有難さに浸っていた。それはかけ甲斐のない賜物のように思えるのだった。
 生れて初めて東京へ出た私は、伯父の世話でどうにか小学教師の職にもありつき、好きな文学書を買うことと、兵隊生活で覚えた煙草の味を愉しむ位の余裕は充分に恵まれていた。私にはこれだけの自由が、ただ有難かった。これだけの生活が得られたことでも、私には夢のような気持がするのだった。
 一年前の私は、田舎の小学校の、薄暗い職員室で、満たされない悶々の味気ない日々だった。さも教育熱心らしい装いを凝らし、大きな風呂敷包みを自転車に括り付けて家に帰るのは、きまって遅い田舎の夕飯時を過ぎていた。義父義母の横で小さくなって食べる夕飯が、私には堪えられなかったのだ。「もう家の人やから、何の遠慮もいらんのぞ」私の貧相な骨張った横顔を見ながら、一人娘の婿を労わる感慨をこめて、何度か言われた言葉だった。「本当に我が子だと思い込んでいなさる」と、暖かい父母の言葉を心の底で噛み締めながらも、私には、次第に意識的に、この言葉に反撥する逞しい根性が芽ぐみ始めていた。それはどうにもならない仕儀だった。「お父さん」「お母さん」と呼ぶのさえ、私には精一ぱいの仕事だった。私の意識にある父母は、痛々しいほど愚鈍な、それでいて尊厳極まりなく、私の生還を祈りつつ山の中で老い果てた父母あるのみだった。

 私にはもう父母はない……。復員列車の立て込んだ慌しさの中で、そのことばかり思い続けていた。物心ついてからの父母の姿が、次々に浮かんで、疲れ切った心の芯に容赦ない激しさで突きささってきた。のろのろ走る汽車の窓から、次第に開けてゆく朝靄の中に言いようのない吐息をそっと吐いては、その伴奏のような激しさで涙がこみ上げてきた。放心したように眠り呆けた戦友の横顔も、私には関わりのない世界の重なりだった。
 三年ぶりに見る故郷の山を感慨深く仰ぎながら、日暮れの田舎道を急ぐ私の足は、そのまますっくりと飛び込んでゆけない我が家の抵抗を感じて、訳もなくよろよろとよろけたりした。
 兄夫婦が父の後をひきまいて、がむしゃらに働いていた。
「お父はんも、お母はんもな、お前のこと言い続けて死んだんや。何とかお前の行く先を見届けたい、言うてな」
 私は何と言ってよいか分らぬ儘に、仏壇の前に坐って長い間黙祷した。
 父は若い時からの心臓病がこじれて、半年もこの仏壇の前へ寝たきりで死んだのだった。母の死は、私が応召して間もない頃の冬だった。末っ子の私は、小学校へ上るようになってからも、まだ母の懐の中で乳を玩(もてあそ)びながら眠ったのだった。その頃、私の家は悲境のどん底にあった。一見豪壮な門戸は張っているが、その実、饒(ゆた)かな家でないことは子供心にも痛いほど分っていた。東京の大学を卒業するばかりになっていた長兄が、思想問題に連坐し、間もなくよくない.死に方をしたのもその頃だった。そのほとぼりも醒めぬ頃、秋の取り入れに忙殺されていた或る晩、奥の間から慌しく飛び出して来た父が血相変えて叫んだ。「金がない! 貯金の通帳もないぞ!」父母は奥の間の莚をはぐりはぐり、「ない! ない!」と叫んだ。「今朝はたしかに、この下にあった」と母も言い張った。箪笥の抽斗(ひきだし)は掻き廻されていた。父は引きつった顔をし、眼だけギラギラ光らせて突っ立っていた。
「お前が、戸締り忘れたきんじゃ!」
 父は突然そう言うと、母の頬を張り飛ばした。母は目の粗い莚に顔を押し付けて泣きじゃくっていた。
 私はおどおどと、異様な父母の姿を見ていたが、「誰かが悪いことをして、父母を泣かせたんだ」と思うと、「誰がしたん! 誰がしたん!」と泣き叫びながら、莚の上へ手足をばたばたと投げつけて、喚き続けた。母に抱き起こされても身悶えして泣いた。
「泣かいでええんや、悪いことした人はすぐ分るきんの……」水洟を垂らしてかさかさの手足をむき出した頼りない私を、母はしっかりと抱き締めていた。母の涙が私の頬をすべって辷って睫毛ににじみ、私の泣き腫らした目に染(し)み込んだ。、、
「お母はん、大きんなったら、赤い大けなたい(2字に傍点=鯛)を買うてあげるぜ」私はしゃくり上げながら、母の乳にしがみついたのだった。
 パッパッと明滅する燈明の揺れの中を、ゆるゆると、淡い紫の煙がたなびいて消えて行った。私の目の中で、二十数年の感傷が渦を巻いて流れていた。
 そっと瞼を押さえながら仏壇を離れた私は、兄と今後の対策を話した。長兄の一件に懲りて中学へもやって貰えなかった兄は、豪放な山の男だった。
「父母を思う……、そりゃお前、たわいない感傷じゃ」兄は快活に笑って、「養子に行けや」と切り出した。
 私だって、いつまでも父母に恋々としていようなどとは思っていない。父母のいないこの家は、私にとってはもう何の未練もありはしないのだ。未練どころか、近付き難い抵抗となって、はっきりと私を拒む或る力をさえ予感した。明治の昔から田舎教師は養子に行くものとの常道は、何の理.届もなく、私の前にも用意されてあるのだ。敗戦の痛手を身にしみて受けた私の心も、今はひたすらに平安な道を求めていた。

  私は兄夫婦の骨折りで、三里ばかり距(へだ)たった村の百姓家へ貰われていった。前途に何の理想も見出せない私は、せめて温厚な田舎教師として、清く美しい生涯を送ろうと思った。そう思うことでも、私には大きな喜びに違いなかった。
だが──理想と現実との相剋は、私の弱い心を次第にわなわなと、高ぶった不同調を奏でながら擦過してゆくように思えた。私の感傷的な理想などどこにも容れる余地はなく、パタパタ、と大きな音を立てて閉ざされていった。
 義父との間にも、大きな時代のずれ(2字に、傍点)があることを、次第に意識し始めていた。私は自分の弱い心を弁護するように、全ての人に温かく接することが出来るのだと、変な誇りをすら抱いていた。だが……、現実はどうだ。義父の心をその儘、当然の在り方としてしっかり受け止めながら、心の底では激しく反発し続ける私の声を聞いた。全てを愛する、──大きな世界をも覆うような抱擁力──これも所詮は、私の弱い感傷に過ぎなかったのだ。現実のことごとに、私は痛いほどそれを見せつけられた。
 忙しく田畑に出て立ち働く父母にも、何かうとうとしいものを感じた。洟汁を垂らして、いくら教えても解らない田舎の子供達には、激しい嫌悪が先走った。そんな中では、人間は所詮、正当な行為の出来ぬのを知った。荒々しく反発するか、自分の弱い殻に閉籠もるか、二つの抜け道しかないのだった。
 気の弱い私は、次第に自分の意識に沈潜して行くばかりだった。学校では「真面目一方の先生」という風評だったが、その実不明朗な最も好ましからざる先生に違いなく、家庭では黙りこくって、自分のことだけしか考えない、穀潰(ごくつぶ)しの養子になり果てていた。そんな満たされない吐け口は必ず妻に向って、容赦なくぶちまけられた。愛することと憎むことと、色の違った等辺の三角定規を重ねたように、私の心の中に怪しい色彩の綾を作って畳まれていった。
 子供達の引き揚げた薄暗い教室の隅で、黙然として泣いた。便所にしゃがみながらも、言い知れぬ憤怒がこみ上げてきた。
 とっぷり暮れた村道を、カタカタ自転車を走らせながら、私は何かを企らみ始めていた。
「お前は弱い! 強くなれ! 生きるんだ! 自信を持て!」
 私の感傷的に淀んだ沼に投げ込まれたその言葉は、鮮烈な飛沫となって、五体に飛び散る思いだった。
 赤いたい(2字に、傍点)を買う対象はなくなったけれど、あのあどけない、それでいて強烈な刻印は、不逞な魂となって心の中に焼きついていたのだった。
 私は義父の反対を押し切ってでも、これだけは実現してみせる、と息巻いた。妻は淋しい諦めをして、私を東京に送り出した。妻の伯父が東京で視学をしていたので、私の身柄 ? はそこに移された。

「脇田さん! 小包ですよォ」
 私は読みさした雑誌を伏せると、煙草を吹かしながら玄関に立った。
 小さな包が不体裁な網の目に縛られて、太い縢(かが)りを分けながら書かれた字は、相変らず下手な妻の筆跡だった。
 妻から一度学校へ手紙が来た時、「これ……奥さんから?」と年増の女先生に言われてひどく赤面し、こっぴどくその不見識を罵(ののし)ってやってから、久しく止絶えていたのだ。その後、私も内心可愛想にも思ったが、今更何ともならず、味気ない思いで打遣(うっちゃ)っておいたのだった。
 私はやや救われた思いで、机の上に持ち帰り、ごそごそ包みを解いていると、
「佳子からか?」
 伯父が謹厳な顔をして立っていた。
「ええ……靴下のようです。この間、送ると言ってきたから……」
 私は虚を突かれる思いを、さりげなく受け流していた。
 包みの中からは、小さく畳まれた毛糸の靴下が出てきた。その下には、隅に「脇田」と刺繍したハンカチもあった。
「お前は、どう思うかね」
 伯父は、日の射した畳の上へどっかと腰を下すと、キラキラ光る眼鏡越しに私を瞶(みつ)めた。漠然としたこの言い方の中には、一年間の蓄積された感情が畳み込まれていた。二人の胸の空洞を吹き抜ける味気ない思いの響きがあった。
「すまん、と思います」
 こそこそと雑誌を押しやる手元が震えた。
「昨日も校長会で近井君に会ったんだが、お前は、どうも不明朗でいかん、指導力は全然ないとこぼしとった。俺の顔も、少しは考えて貰いたいね」
  伯父は突樫貧(つっけんどん)に言って、プッと煙草の煙を吐いた。その仕草は、弱い殻に閉籠ろうとする私の心を、ハッと立ち向かわせるに十分だった。
「今度の異動で温情主義はとらん」と洩らした校長の言葉も思い合わされた。咄嵯の勢いで私は、
「少なくとも私は、私なりの信念でやっとります !」と叫ぶところだった。が……信念? これさえ私には、たわいない感傷に過ぎないのではないか……。音楽の時間、体操の時間、……あの自分の沈痛な表情はどうだ……。自嘲にも似た悲しい諦めだった。
「すみません……」弱々しく吐くより他、仕方のないことだった。
「お前は、少なくとも教育者じゃろう。その積りで、俺も何とか世話している。一体、そんな物を読んで、何になるんだ。佳子のことも、少しは考えてみい」
 伯父は胡散臭そうにポッポと煙草の煙を吹きながら、裸体のある頁をパラパラとめくった。
 下らない小説ばかり読んでいる私──、じい一んと寂しさが込み上げてきた。──こんな物を読んで何になる? ……それは、私にも分らぬことだった。ただ自然、ただ祈り、弱い殻に閉籠った孤独な私の魂の、自由な遊歩場であるに過ぎなかった。感傷をあれほど唾棄して強く飛躍したと思った私は、やっぱり同じ感傷の沼に漂う一枚の木の葉のように、何の力もなく、信念もないのだった。赤いたい(2字に、傍点)の夢も、たわけた寝言のように、汚濁の沼に色褪せてゆく思いだった。
「そんな下らん雑誌は、売り飛ばすか焼くかしなさい。ぞろ(2字に、傍点)なのが俺は大嫌いなんだ」
 私は空ろな眼で四囲を見廻した。
「朝のうちに、きちんと片付けなさい」
 義父によく似たまっとう(4字に、傍点)な伯父──その後姿を呆然と見送りながら、宿命に似た悲しさが全身を襲った。伯父を憎む気になどなれなかった。ここにも正当な、一個の美しい社会人がいた──。
「お母さん !」宙に呟くように言うと、訳もなく涙が溢れてきそうになった。悠然と日曜の有難さに酔っていた私は、急転直下、はしたない自己の裸形に還っていた。たわいない感傷? 現実の厳しさは、ひしひしと私の身近かに不気味な足音を立てて迫っていた。世故に疎い私は、教職を離れて、どうして薄っぺらな本の一冊も手に入れることが出来よう。煙草の一本も吸える見込みはないのだった。更に恐ろしいことは、伯父の家を追われた私の惨めな姿だった。最後に残った物さえ今は剥ぎ去られようとしている──。その常識的な力は、私の足下を掬(すく)うに足るものだった。

 孤独な私は、寂しさに堪え兼ねると、ぶらりと街を歩く癖がついていた。新宿に出て、三越へ行き、家具類の並んだ中をうろうろと歩きまわるのもそんな時だった。中でも、さしずめ私の目を牽くのは安楽椅子だった。私は今まで、一度もそんな椅子に掛けたことはなかった。誰に気兼ねすることもなく、こんな椅子に長々と寝そべってみたい! 竹製の粗末なものではあったが、後部の刻みを一つずつ落して、好きな傾斜にすることが出来るようになっていた。二千五百円と書かれた紙片が、脚にしっかり結えつけてあった。二カ月位煙草を止めれば、買えないこともないのだった。しかし……、こんな物を置く所はどこにもないのだ。もし置けたところで、烏に紙だと言って冷笑されるのが落ちだった。
 その日は丁度退け時でもあるし、長い箪笥に隠れた位置にあったので、誰も見ている者はなかった。私は内心躊躇しながら、こそこそと台の上へ這い上がって、そっと腰を下してみた。四囲を見廻したが誰も来ないのを確かめ、思い切って体を凭せた。次の瞬間、私は弾き返されたように飛び退(の)いて、又のこのこと、箪笥や机の並んだ間を、訳もなく歩きまわるのだった。
 安住の地を求めたい! 誰の干渉も受けず、思い切り肢体を伸ばして、放歌吟誦してみたい !……しかし、非力な今の私には、全ては夢と、たわいない感傷に過ぎないのだった。

 私は、一冊ずつ雑誌を拾い上げて、積み重ねていた。
「売っちゃおう」私は、投げ捨てるように呟いて持ち上げてみた。一貫目は十分ある重みだった。一年間に買い集めた、乏しい私の書架を飾る唯一の物なのだ。さすがに惜しい気もした。「どっかへ、こっそり隠してやろうか……」売っても、どうせ幾許(いくばく)にもならないことは、分り切っているのだ。
 私は妻から送られた包装紙を拡げて、それを包んだ。
 さしずめ用のない靴下が、柔らかな感触を漂わせて、足下に転がった。幾晩も夜業の手をかじかめながら、一針、一針、丹念に縫ったに違いないその色なのだ。
 私は妻の好意をしっかりと受け止めたい思いで、黄色く絞られた口の所に足を差し込んだ。私はそこに、異様なものがあるのに気づいて、引き出してみた。半紙に包んだ中から「善通寺大本山御守」と金文字を浮かした守袋と、二百円の紙幣が出てきた。私は胸を突かれる思いで、半紙に書かれた、分りにくい鉛筆書きの字を読んだ。

 ──あなたは御元気ですか。うちにも、みんな元気です。私の手製のきたない靴下を送ります。怒らずにはいて下さい。御願いです。東京の冬は、四国よりはずっと寒いと言う事です。かぜなど引かぬ様にして下さい。お守りを同封しました。昨日は、善通寺さんの祭礼で、母と二人で行ったのです。二百円は、御小遣いの残りで少ないのですが、本の一冊でも買って下さい。こちらは、まだ雪は降りません。伯父さんや伯母さんにもよろしく。では……どうか御元気で……、
            佳子より

 私は虚空を突く激しさで、「佳子 !」と心に叫んだ。文字のことにはそれと触れず、ひたすら許しを乞う贈物の積りなのだろうか。
 まずい文字の一句一句には、愚鈍な女の、それに比例した深い思いが籠められているのだった。
「下手糞が! 女の字って、もっと椅麗に書くもんだ !」と叱りつけると、鍬持つ節くれ立った手を強張らせながら、何の役にも立たない字を一生懸命に書いていた妻の顔が、切なく浮かんだ。朝寒い善通寺駅の改札口の柵に免れて、声を忍んで泣き崩れた肩の丸みが、愛(いと)しく胸にこみ上げてきた。私には妻がいる。その妻は全身で私を信じ、愛しているのだ。この女を不幸にしてはならない!  私は、ぽっとりとむず痒い感触を、太股の間にさし挾んで妻を恋うた。一年間忘れていた妻の体臭が、脈打つ激しさで五体を駆け巡った。

 私は雑誌の包みを抱えて、そそくさと家を出た。
  門の前には、独楽(こま)を回す子供が五、六人、日溜りの中で遊び呆けていた。杉垣に狭められた長い路地を突き抜けた私は、大通りを左に折れて、行きつけた古本屋へ飛び込んだ。
「これ、買ってくれますか……」
 主人は、不審げな面持ちで私を眺めながら、「売るんですか? せっかく集めたのにねェ……大した金にもなりませんが……」憐れむような眼付きだった。私は、はたと当惑してしまった。
「では……又来ます。四、五日、……預ってください !」
 咄嗟の思いで言い捨てた私は、逃げるようにそこを出た。
 私は、久しぶりに、晴れ晴れとした思いが湧くのを覚えた。
 長い杉垣の間の路地を小走りに走りながら、私の頭の中には、母の顔と、妻の顔とが、浮かんでは消え、消えては又浮かんだ。
「赤い、大きなたい(2字に、傍点)を……」「赤いたい(2字に、傍点)を……」
 ぜェぜェ息を切り、感傷的に潤んだ眼を繁叩(しばだた)きながら、私は駈け続けるのだった。
 
 

(作者は、作家。香川県在住、大正十三年生れ。「文学集団」昭和二十四年五月号に福田清人に見いだされて掲載されたこの短編は、前年春、小説を書きたい一心で上京、その年の暮れに書かれた作者愛着の秀作。かすかに流れるユーモアとペーソスとは、門脇さんが仰ぎ見ていた太宰治からの薫染であろうか。この文庫の第三頁エッセイ欄に掲載の「上林暁」とともに読まれていい記念作である。昭和四十一年刊の文芸広場叢書11『火花』所収。湖の本の読者。)


       HOME


※秦恒平文庫の文章の著作権は、すべて秦恒平にあります。
掲載された内容を無断で複写、転載、転送および引用することを
禁止いたします。