e-文庫・湖umi(秦恒平責任編輯) 文学エッセイ
古典の楽器を話材に、やわらかに叙され行く日本的なるものの一つの奥行き。 歌人。日本ペンクラブ会員。「湖の本」読者。
玉の小琴 和泉鮎子
光源氏四十七歳の春は、妻と愛人、それにひとり娘の四人による琴の合奏という催しで幕があいた。今日、琴といえば十三弦の箏を指すのがふつうだが、この時代、琴とは弦楽器の総称であった。四人の弾いた楽器はそれぞれちがうもので、現代の弦楽四重奏にちかいであろう。箏の琴、和琴(わごん)、琴(きん)の琴、それに琵琶の琴が、四人の女性により奏でられたのである。
このとき、源氏が紫の上に振り当てたのは、和琴であった。
和琴について、源氏は、取り立てていうほどのこともないもののように見せながら、この上もなく巧みにつくられており、奥義といっても何ほどのことがあるわけでもないが、ほんとうに弾きこなすことはまことにむつかしい、といっている。
その、もっともむつかしい楽器を紫の上に弾かせたのは、それだけ彼女の力量を信頼し、期待するところがあったのであろう。そして、紫の上は、よく源氏の期待に応えたのであった。
和琴は唯一の日本固有の弦楽器なのだそうで、弦は六弦、大きさも形も箏によく似ているが、弦の数が少ないので、やや幅狭である。倭琴(やまとごと)、東琴(あづまごと)ともいい、べつに、御琴(みこと)とも呼ばれている。上古は神降し(かみおろし)や、神託をうかがうときに掻き鳴らされ、神聖視されたところからの呼称である。
やがて神楽や舞楽などに用いられ、貴族の管弦のあそびでも弾かれるようになったが、現在も神事の際に奏でられることがある。わたしも京都の下鴨神社の御蔭祭と、奈良の春日大社の若宮おん祭で、和琴が奏でられるというより、ゆるらかに鳴らされる閑雅な音(ね)を聴いたことがある。
最近、天照大神が天の岩戸に籠ったとき、岩戸の前に弓が六張り立てられて、その弦(つる)が鳴らされたという話を知った。
弓に張った弦を手でつよく引いて鳴らすのを、鳴弦、弦打ちなどという。招霊や邪気を払うために行われるもので、天の岩戸で弓が鳴らされたのも、そうした呪術的な意味のこめられたものであったろう。
六張りの弓ということは六本の弦である。古くは祭祀具の役もつとめた和琴の誕生譚につながるのではないか。あらためて『古事記』と『日本書紀』、それに『古語拾遺』の天の岩戸のくだりを読み返してみたが、六張りはおろか、一張りの弓も出て来ない。
鴨長明の『無名抄』に「和琴のおこり」という段を見つけたが、
或人云(いはく)、和琴のおこりは、弓六張をひきならべて、これを神楽に用ゐけるを、煩はしとて後の人の琴に作り移せると申し伝へたるを、(後略)
と、あるばかりで、天の岩戸でのことは記されてない。
和琴ハ本邦固有ノ器ナリ、蓋シ神代ニハジマル(「ハジ」は日偏に旁は方)、故ニ太笛ト共ニ、諸器ノ最トナシ、単
ニ御琴(ミコト)ト称シタリキ、(中略)多ク祭祀ニ用ヰル、故ニ又神琴ノ名アリ、(中略)伝ヘ言フ、太古天鈿命ノ歌舞ヲ天窟ノ前ニ奏スルヤ、金鵄命、長白羽命、天香弓六張ヲ並ベ、弦ヲ叩テ音ヲ調フ、時ニ金色ノ霊鵄アリ、来テ弓ハズ(「ハズ」は弓偏に旁は「肖」の正字)ニ止マル。後人桐ヲ斫リテ之ヲ製ス、体ハ箏ニ似テ首ハ鵄ノ尾ノ如シ、故ニ又鵄ノ尾琴と云フ、即チ古ノ遺象ナリ、 (以下略)
『古事類苑』(明治四三年刊)の「楽舞部」にある「和琴」の項の冒頭部分である。あちこちたずねていて、これを見出したときはうれしかった。「天香弓」はアメノカグユミと読むのだろう。天香山という聖なる山から得た聖なる木でつくられた聖なる弓なのだろう。伐りたての、香も高いしなやかな木にきりりと弦を張った、すらりと丈高い弓が想像される。
この弓を並べ、叩いて鳴らした神さまが、金鵄命、長白羽命と、その名もきらきらしい。金色にかがやく鳥と、純白の冠毛や飾り毛の長やかな白鷺のような鳥が、舞いあがり舞いくだりして、かがやく翼で弓弦を打ち叩いているさまがおもわれる。「金色ノ霊鵄」が飛んで来て弓弭にとまったというのは、神武天皇が長髄彦に苦戦を強いられていたとき、「金色(こがね)の霊(あや)しき鵄(とび)有りて飛び来りて、皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり」と『日本書紀』にある記述そのままである。
『古事類苑』の語る和琴のおこりは、参考文献としてあげてある数種の書物のうちのもっとも古い『豊受皇太神御鎮座本紀』(鎌倉時代中期の成立)と、それに次ぐ『元元集』(北畠親房著・南北朝時代初期成立)を典拠としたようである。岩戸隠れにかかわるものなのに、もっと遡った時代のものはないかと不満も不審も残るが、幻想的で、読んでいてたのしい。
和琴にかぎらず、弦楽器のもとは弓だという。いわれてみれば、ハープや箜篌(くご)など、いかにも最初は弓だった、弦がつぎつぎ増えていって今のかたちになったという感じがする。
一方、琴の起りやその推移にかかわりなく、上古さながら、弓弦を鳴らして神降しや死霊・生霊の口寄せをする巫女は各地にいて、説話や物語、謡いものなどにもしばしば登場している。
能の「葵上」には、梓弓を鳴らして霊を呼び寄せる巫女がツレとして登場するし、「歌占」のシテは男巫(おとこみこ)で、弓弦に結び下げた短冊のうたによって占いをしているが、神意をうかがうために弓弦を引いて鳴らすこともあったようにおもわれる。「引けば引かるる梓弓」という詞章がそれをうかがわせる。
御伽草子の「鼠の草子」には、梓の巫女が弓を鳴らして神降しをするさまが描かれている。権頭(ごんのかみ)なる劫を経たねずみが娶った人間の妻に逃げられ、その行方を知ろうとして、巫女に口寄せを頼むと、この巫女はいきなり、「うち鳴らし候ふぞや、かき鳴らし候ふぞや」と言い、「ああさんまれなあ」と唱え出す。「葵上」の巫女が、まず、「天清浄地清浄(てんしゃうじゃうぢしゃうじゃう)、内外(ないげ)清浄、六根清浄」と、浄めのことばを重々しく唱えるのとは大ちがいである。
「ああさんまれなあ」は「ああ、さもあれな」をひきのばしたものだというが、憑依状態へとみずからを誘う独特のイントネーションで唱えたのであろう。
同じ梓弓をひいて霊を呼び寄せる巫女ながら、貴族の邸に招かれるのと、庶民を相手にするのとのちがいがうかがわれて興味をひかれる。
こうした「梓巫女」「梓」と呼ばれる巫女たちは、明治のころにもけっこういたというし、現在も東北や北陸地方には、梓弓のほか、苛高(いらたか)数珠や太鼓などを用いて口寄せをする巫女が、わずかながらいるという。彼女たちが死霊・生霊を呼び出すときに鳴らす梓弓が、天の岩戸の前の六張りの弓につながるとおもうと、何だ
か眩むような気がする。
和琴による神降しの古例に、神功皇后が和琴のひびきに感応して「帰神(かむがかり)」したという『古事記』の記述がある。仲哀天皇が熊曾を討とうとして、神意を伺うべく、みずから御琴(みこと)を弾くと、神功皇后が「帰神して」、神のことばを語ったというのである。『日本書紀』も皇后の神がかりを伝えているが、このときは武内宿祢が和琴を弾いている。
神楽をよめる 藤原公泰
忘れずよ雲居にさゆる六(むつ)の弦(を)のしらべをそへし星のひかりは
琴を詠じたうたはけっこうあるが、和琴と特定できるものとなると、そう多くはない。
挙げたうたは、「六の弦」と詠み、詞書にも「神楽」とあるから和琴を詠んだものと見てよいであろう。ここで回想されている和琴のしらべは、光源氏が催したようなはなやかな、人に聴かせるための演奏ではなく、神にお聴かせ申したものである。「冴ゆる」といい「星のひかり」といっているから、空気の冴え緊った冬の夜の神事であろう。
このうたが南朝方の人のうたをあつめた『新葉和歌集』にあるものと知れば、初句の「忘れずよ」に籠められた思いのほどは如何ばかりかと心が留まる。北朝方に追われ「雲居」を離れて、どれほど経っての詠であったか。
社頭松 小侍従
榊とる庭火のかげにひく琴のしらべにかよふ峯の松風
詞書の「社頭」や初句の「榊とる」をかんがえあわせれば、この琴もやはり、神事の場で弾かれた和琴であろう。作者小侍従は、平安末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した歌人、「待宵小侍従」の雅名で知られている。石清水八幡宮の別当の娘で、このうたも石清水の神に奉納された歌合の中の一首である。平安中期の人徽子女王(村上天皇女御)の、
琴の音に峰の松風通ふらしいづれのをより調べそめけん
を、うつくしくひびかせてあるせいか、琴を弾いているのが神事に携わる楽人でなく、装束の上に髪ながく流した女性のような気がしてくる。
小侍従自身も和琴をよくしたようで、『山家集』には、西行に秘曲を弾いて聴かせたことが記されており、室町時代に成った『体源抄』の和琴の系図にも彼女の名が見える。傑出した弾き手だったのであろう。
女のもとにまかりたりけるに、あづまをさし出でて侍りければ 大江匡衡
逢坂の関のあなたもまだ見ねばあづまのことも知られざりけり
『後拾遺和歌集』にあるもので、詞書の「あづま」は東琴――和琴である。このうた、いくつか伝わっている話によると、匡衡の風体や起ち居が無骨なので、どうせ和琴のたしなみなどなかろうとあなどった女房たちが仕掛けた意地悪に、応えたものだという。
無調法でしてとうろたえるかと思いきや、逢坂の関のむこう、東のことは何も存じませんのでと、「あづまのこと」に「東の国の事」と「東の琴」を掛けた和歌で応じ、御簾の外に差し出された和琴に触れなかったようである。当意即妙な受答えが、今の代のわたしにも小気味よくおもわれる。
川舟のうきて過ぎゆく波の上にあづまのことぞ知られ馴れぬる
このうたも「あづまのこと」に「東琴」と「東国のこと」とが掛けられているが、匡衡のうたとは、何とおもむきを異にしていることか。匡衡の場合には、彼にうたを詠ませた女たちがいた。彼のうたを、さすが、おみごととが褒めそやすひとたちのいる場があった。けれど、「川舟の……」のうたは詠むともなく孤りの心のうちにつぶやかれている。結句の「知られ馴れぬる」が重たい。作者は式子内親王。
内親王のいう東国の事とは兄以仁王のことといわれている。以仁王は源頼政にすすめられ、彼とともに早すぎた平家打倒の狼煙をあげて敗死したが、しばらくの間、生存説が流れた。落ちのびて東国に在るという。そうした風聞にかすかな望みをつなぎ、息のつまる思いもしたことであろう。やがて、ひそかに囁かれていた生存説も消え、内親王の身のめぐりをひやひや冷たい風が過ぎてゆく――。
「琴」に「事」を掛けてうたうことは、早く『萬葉集』に見られる。
倭琴に寄する
膝に伏す玉の小琴の事なくはいたくここだく我恋ひめやも
「玉の小琴」は琴の美称、そして「小琴の」までは「事」を引き出すための序詞で、事がなかったらこんなにはげしく恋しようかという、妨げのある恋、それゆえ、よりつのる恋の思いをうたったものである。この時代の倭琴、すなわち和琴が、現在伝わっているものよりはるかにちいさく、膝の上に乗せて奏でられていたことを示すとともに、「膝に伏す玉の小琴」に、恋人の膝にもたれる可憐な女性もイメージされる。そして、あたかもいとしいひとを愛撫するように、膝に乗せた琴を掻き鳴らしつつ思いみだれている若者がうかぶ。
埴輪に膝の上の琴を弾いているのがあるが、あの埴輪青年も恋人をおもいつつ、玉の小琴を弾いていたのだろうか。
このうたや、琴を弾く埴輪青年の表情からは、和琴のもつ呪術性といったものは感じられないが、もしかしたら、相手に思いがとどくといったような俗信があって、萬葉の若者は琴を弾いていたのかもしれない。
ところで、埴輪の琴の多くは五弦なのだそうである。和琴の弦が六本に定まる前の、原(げん)和琴とでもいうようなものなのだろうか。先ごろ、奈良県御所市の遺跡から出土した、五世紀なかばごろのものと推定されている琴の写真を見た。何本、弦が張ってあったものか写真からはわからなかったが、大きさは長さ五十センチ、幅は二十センチ足らずぐらいである。まさに「膝に伏す玉の小琴」であり、埴輪が膝に乗せている琴そのままとおもったけれど、祭祀用品とともに埋まっていたというから、神意をうかがうために掻き鳴らされたものかもしれない。
両人対酌すれば山花開く
一杯一杯又一杯
我は酔うて眠らんと欲す君は且(しばらく)去れ
明朝意有らば琴(きん)を抱いて来たれ
作者の李白は、酒を愛し、遍歴のうちに生涯を終えた超俗の詩人として知られる。この、「山中にて幽人と対酌す」は、もっとも人口に膾炙しているものの一つであろう。こういう詩を読むと、お酒に弱いことが口惜しくなってくる。この琴はもちろん和琴ではないが、埴輪青年が膝に乗せていたような、ささやかで愛らしいものであったような気がする。
一九三五年生まれ。 歌人 日本ペンクラブ会員 歌誌「谺」同人 「湖の本」読者 掲載作は二○○二年書き下ろし。