年二十二三ばかりのほどにて、心ばせしめやかに、才(ざえ)ありといふ方は人にゆるさ
れたれど、きらきらしう今めいてなどはえあらぬにや、通ひし所なども絶えて、
しっとりしたよい雰囲気をもち、学才もあるけれど、羽振りはよくない。そして、通っていた女とも縁が切れてし
まっている──。まじめで、どこかものさびしげ、けっこう好感の持てる貴族の青年という印象である。
この左近少将が、任果てて帰洛した常陸介──常陸国の次官──の娘に熱心に言い寄る。といっても、この
時代のこと、相手の顔かたちひとつ見知っているわけではない。青年たちは世間のうわさ、その家の主(あるじ)や兄弟の身分や起居振舞などから、姫君のよう
すや人となりを想像し、懸想文やうたを届けたり、相手の屋敷へ足を運んだりするのである。
左近少将も、ちらとも見たことのない姫君に、「いとねむごろに言ひわたりけり」とあるから、しげしげ、
恋文やうたを届けたり、まめに訪問したりしたのであろう。
やがて姫君の母親は、大勢の求婚者のなかから、左近少将を選ぶ。人柄も無難だし、心持ちもしっかりして
いて、男女の仲らいもほどほどにわきまえているようで、しかも品がある。それに、あちらの父親は亡くなっているけれど近衛大将、こちらは貴族といっても末
流、財力はあるけれど、たかが一介の地方官である。身分の点でもこれ以上の人は望むべく
もない──。
ちなみに左近少将の位階は正五位下、常陸介は正六位下で、四段階の差がある。両者の家格、年齢などを考
えると、この差はさらにひろがってゆくものと思われる。その上、常陸介は以前、少将の父に仕えていたことがあるというから、主家の子息を婿取ることにな
る。またとない縁組とおもったのであろう。
ところが婚礼も間近になって左近少将は、求婚した姫君が常陸介の実子ではなく、継娘であることを知り、
にわかに不機嫌になる。
彼は仲立ちをした人物にこう言う。地方官風情の家と縁を結ぶのを世間ではよく言わないけれど、当節、よ
くあることだし、自分を大切に扱い援助してくれるなら、そうした不利や不面目も帳消しになるだろう。しかし、継子とあっては常陸介も実の娘ほどの愛情を注
がないだろうから、おのずと、自分に対しても期待したほどのことはしてくれまい。それでも世
間では、財力が目当てで常陸介に取入ったとうわさするだろう。そんなことでは婿になったところで何の得に
もならない。
常陸国は親王が国守となる特別扱いの国である。しかし遥任といって、親王は任地に赴かないので、次官で
ある介が事実上の国守ということになる。国守は中央官吏にはない収入のほか、税収入もかなり自由にできたから、財を成すには最適の地位であった。まして、
常陸は大国──大きさによって、国々は大・上・中・下の四等級に分けられていた──である。左近少将が婿になろうとした常陸介も裕福であった。
少将は言い放つ。うつくしい女を妻にしたいなんておもわない。上品であでやかな女をと願えばたやすく得
られようが、それを得たところでどうなろう。貧しくて何事もおもうにまかせないのに、風雅を好んだところで、そうした人間のなれの果てはみすぼらしいもの
だ。世間からも人並みには扱われない例を見ると、少しくらい人々から非難されてもかまわない、地方官風情であろうが、財力のある者と縁を結び、裕福に暮ら
してゆきたい、と。「心ばせしめやかに、才ありといふ方は人にゆるされ」たという貴公子のことばともおもえない。
没落したりして経済的にめぐまれない貴族が、家格には目をつぶって富裕な家の娘と結婚する例は、古今東
西を問わずいくらでも拾うことができるが、こう、あからさまにいわれると、鼻白んでしまう。この貧乏貴公子は厚顔にも、援助が確実に期待できる常陸介のま
だ幼い実子にさっさとのりかえてしまう。
左近少将には明らかに、常陸介への侮蔑がある。常陸介個人というより、鄙──田舎に対する侮蔑がある。
そして、これは左近少将に限ったことではなく、当時の都人のほとんどが抱いていた感情であった。
破談になった継娘の実父は、光源氏の異母弟である宇治の八宮である。常陸介の妻は若いころ、侍女として
八宮に仕えていてこの娘を生んだのだった。しかし、宮はこの母子に冷たかった。妻を喪った寂しさから、身近にいた身分低い女との間に子をもうけることに
なったことを、うとましくおもい、劣り腹の子とその母を全くかえりみなかった。この女性はやむなく幼い娘を連れて常陸介と結婚したのである。
八宮も心ない人ではなく、高雅で信仰心も厚く、情のこまやかな人物に描かれているが、相手が身分の懸け
離れた者となると、べつなのだろうか。召使う女とのかりそめの交渉はともかく、その結果として子を持ったことが、のちに仏道に心をかたむけ、「聖(ひじ
り)の親王(みこ)」とも呼ばれるようになる宮には、耐え難かったのだろうか。いずれにせよ、
この娘──「宇治十帖」後半のヒロイン浮舟──の不幸は、父にうとまれた誕生から始まっていたことにな
る。
それにしても、左近少将といい、八宮といい、何と身勝手なと、現代人の感覚では腹が立つ。当時の貴族の
感覚、社会常識では褒められないまでも、とくに難じられることではないのだろうけれど。
相手を地方官風情と見くだしながら、その財力を当てにして縁組をする神経には、馴染めないどころか卑し
さを感じずにはいられないし、自分の子を生んだ女を、その子もろとも見向きもしない態度は、八宮に自己嫌悪のような感情が働いての態度としても、酷いとお
もわずにはいられない。
作者紫式部は、八宮にはその美点に多く筆を費やし、左近少将にはリアリスティックに筆を運んでいるよう
に見える。ところが、常陸介となると、まことに辛辣である。
都の人間だったのに長く地方官を歴任しているうちに、もの言いも起居振舞もすっかり田舎じみてしまった
男、品物の善し悪しもわからず、ただ財力にあかせて調度類を買い集め、それを所狭しと飾りたてて悦に入っている男、娘たちのために招いた琴や琵琶の師匠
に、ほどもわきまえず大げさな謝礼をする男、継娘から実子へと臆面もなくのりかえた娘婿に、官位を得るために要るとあれば、どんな宝物でも用意するという
男。こうした常陸介の無教養な成りあがり者のいやらしさが、誇張され、小馬鹿にした筆致でつづられているのだけれど、これがおおむね、介の妻の批判のまな
ざしを通して描かれている。おもしろいといおうか、凄いといおうか。介の蕪雑ぶりとともに、その妻のひんやり冷たい心根が、くっきり浮かびあがってくる仕
掛けになっている。
かつて宮家に仕えたことのある彼女は、宮家の雅び、品格といったものに触れ、それ相応のたしなみも身に
つけているのだろう。夫の振舞いを「いと見苦し」と、冷淡に軽蔑の心もまじえて見ている。
彼女の、父親を異にする娘たちの一方への偏愛、一方への無関心ぶりも徹底したものである。常陸介との間
の子より、八宮との子である浮舟の方がすぐれている、格も上だとおもい、大切にしている。手に入った調度品なども、夫の目が利かないのをこれ幸いと、よい
ものはまず浮舟に、よくないものは現在の夫との子に与えている。
介の妻にはあきらかに、尊貴な血に対する崇拝と、そうした血に自分は関わったのだという誇り、優越感が
ある。一つ家族ながら、わたしと浮舟はべつ──。かつて八宮に人も無げなあしらいを受け、さげすまれた身が、今度はさげすむ側にまわっている。
妻のこうした心理を粗野な常陸介も、さすがに気づかずにはいない。「あこをば思ひおとしたまへり」、わ
たしの子を見さげてばかにしているのだなと、文句をいう。
相手をさげすみつつ打算から資産家の婿になる左近少将も、札びらを切る成金の田舎者常陸介も、また、あ
るかないかの教養をちらつかせて相手を見くだす介の妻も、現代でもよく見られるタイプである。八宮のように愛人とその間にできた子を見棄てる例も、これま
た、見聞きしないわけではない。彼らは『源氏物語』のなかでは、ほんの傍役・端役に過ぎない存在だけれど、こうした、現代にも通ずる人物がいきいきと描か
れているのも、この物語を読むたのしみの一つである。
ところで、紫式部は、成りあがり者で粗野な地方官を造型するにあたって、なぜ、その任地に常陸をえらん
だのだろう。大国はいくらもあるのに、なぜ、常陸国なのか。
当時の都人の例に洩れず、彼女の眼は田舎に対して冷やかであるが、東国、ことに常陸には冷たいように思
われる。
『源氏物語』中、もっとも手ひどく嘲笑されていると思われる人物も、「常陸」を呼称にもっている。
この物語のごく初めのほう、十八歳ころの光源氏は、零落した宮家の姫に語らいつく。
「居丈(ゐだけ)の高く、を背長(せなが)」で、鼻は「普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびら
かに、先の方すこし垂りて色づきたる」──座高が高くて胴長、鼻は普賢菩薩の乗物である象の鼻のよう、あきれるくらい高く長く伸びていて先がちょっと垂
れ、赤らんでいる──に始まり、額は広くてたいへんな馬づら、色白だけれど青みがかっていて、
身体は痩せて骨ばっている。よいのはゆたかな黒髪だけと、完膚なきまでにその容姿をあげつらわれているの
は常陸宮、常陸親王と呼ばれている皇族の姫である。
容姿だけではない。うた一首満足に詠めないし、受け答えもたどたどしく、何の才覚もなくて、万事に風情
のかけらもないと、物語作者は手きびしい。父親王に早く死に別れ、頼る人もない逼迫した暮しぶりも、作者はあきれるほど克明に描き出している。何だか、欠
点をこれでもかこれでもかとあばきたて、いじめているようで、読んでいて厭な気分になる。
この姫君を『源氏物語』の読者は「末摘花」と呼ぶが、これは彼女の赤い鼻を嘲笑った光源氏のうたからの
もので、物語のなかではさすがに「末摘花」とはいわない。「常陸の君」「常陸の御方」と呼んでいる。
彼女は光源氏の憐憫というか、庇護というか、とにかく経済面の助けを受けて、貧窮からは脱し得たが、と
んでもない贈物をしたりして源氏にもてあまされている。彼女の登場シーンは少ないが、ほぼ二十年ほどの間、出てくれば嘲われ、その最期も語られることな
く、物語から消えている。
「常陸」を呼名に持つ人に空蝉という女性の夫がいる。この人の登場も光源氏のごく若いころである。初め
は「伊予介」と呼ばれていたが、伊予国の次官をつとめたあと、常陸介に任じられたので、常陸介と呼名が変っている。この人物もちょっと哀れな役どころを振
り当てられている。
この人はどういういきさつでか、息子より若い空蝉を後添いに得、大事にかしづいていたが、妻を都に残し
て伊予に在任中に、光源氏のためにコキュにされてしまう。やがて帰任した彼は、そうとも知らず、十七歳という、孫ほどの年齢ながら中将である光源氏のとこ
ろへ帰任の挨拶にゆく。十七歳の驕児は、さすがに「あいなくまばゆ」く、「後めた」い思い
で、老人に会うが、
舟路のしわざとてすこし黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。
と、相手を冷静に観察もしている。臆してなどいない。知られたところで、相手は老いたる一地方官、どうということ
はない──。
もう一人、「常陸」を呼名に持つ人がいる。
その人が姿を見せるのは「匂宮」の巻になってからである。この巻は光源氏没後の『源氏物語』の最初の部
分で、光源氏のいない物語を彩ってゆく貴公子たちが、華やかに登場する。
たのしい遊びごとが催され、若い親王や貴族たちがつぎつぎ現れる。光源氏の娘明石中宮を母とする親王た
ちは、みな「気高くきよげ」、気品があって、すっきりとうつくしいが、なかにも匂宮は、
げにいとすぐれてこよなう見えたまふ。
まことにすぐれていて、ぬきんでてすばらしい。こう最上級のことばで、褒め讃えた作者は、筆をつぎ、
四の皇子、常陸宮と聞ゆる更衣腹のは、思ひなしにや、けはひこよなう劣りたまへり。
と、常陸宮を登場させている。
「こよなう」という形容詞が、くっきり、プラスイメージとマイナスイメージに使いわけられているのに、
まず、おどろく。それに、「思ひなしにや」とはいうものの、「こよなう劣りたまへり」とは凄まじい言いようではないか。この宮が、取り立てて何をするでも
ない存在で終っているだけに、異様に感じられる。
ここでも「常陸」を名告る人は哀れな存在である。これ以上の褒めことばがない人物の引き立て役として、
「けはひこよなう劣」る常陸宮の登場が求められたのであろう。かつて「紅葉賀」で、青海波を舞う当時十八歳の光源氏を讃えるのに、ともに舞った頭中将を、
人よりすぐれてはいるけれど、光源氏と並んでは「花のかたはらの深山木なり」と、断じたど
ころではない。
哀れな常陸宮が再び姿を見せるのは、ほぼ十年後、やはり華やかな宴の場である。しかし、天皇主催の藤花
の宴に伺候する王族・貴族の一人として名を記されたにとどまっている。うた一首詠む場、笛一ふし吹く場も与えられてない。以降、この「けはひこよなう劣り
たまへる」と作者に造型され、それ以外の評価は何一つない常陸宮は、読者の前に姿を見せることはない。
挙げてきた二人の常陸宮、二人の常陸介の間には、もちろん、何の関係もない。当時の風習として職名・官
名を呼称としたので、同じ呼名となっただけのことである。それにしても作者はこの四人に何と、冷酷なのだろう。
教養人で音楽・美術に造詣が深い父の子として生まれたのに、とんでもない不器量で頭の働きもわるくて、
嗤いものにされ続けた常陸宮の姫。もう一人の常陸宮は、美点をあますなくそなえた異母兄を引き立てるために、そのかたわらに品格劣る身を曝させられてい
る。人のよい老常陸介は孫のような若い貴族に妻をぬすまれ、もう一人の常陸介は成りあがり者ぶり、俗物ぶりを、いやになるほど書きたてられ、冷笑されてい
る。
『源氏物語』には、このほかに「常陸」を呼名とする人物がもう一人いる。けれどこの人は、老尼とその孫
との会話の中に身内のひとりとして話題にのぼっただけである。「常陸」ということばに、浮舟が「わが親の名」と耳をとらえられ、続くうわさ話を聞くともな
く聞いてしまう、そのきっかけとしての「常陸」なので、人格は与えられていない。
こうして見てくると、最後にあげた一人を除く、常陸たれそれの扱いようが気になってならない。
常陸とは無関係ながら、嗤いものにされるために物語に登場している女性に、「近江の君」がいる。彼女の
父は頭中将。光源氏を別格とすれば、当代きっての名流で教養人でもある。近江の君は、成人してからこの父のもとに引き取られており、母方についての言及は
ないから、身分低い者を母として生まれたのだろう。容貌はまあまあなのだけれど、とほうもない早口で高調子、単細胞で、何の心得もない。父に向かって「父
上の尿便壷の掃除でも何でもします」という神経の持主である。その近江の君が、異母姉である女御のもとにうたを詠みおくる。
草わかみ常陸の浦のいかが崎いかであひ見む田子の浦浪
要するに「いかがあひ見む」、なんとかしてお目にかかりとう存じますという意なのだが、あちこちの地名が何の脈
絡もなく詠みこんであり、気取っているだけ、どうしようもないうたの見本といった代物なのである。ちなみに「いかが崎」は琵琶湖から流れ出る瀬田川の、瀬
田橋あたりから石山にかけてをいい、「田子の浦」は今の静岡県富士市の海岸である。
これを受け取った女御方が、これまた、意地がわるい。さんざん笑いのめしたあげく、
常陸なる駿河の海の須磨の浦に浪立ち出でよ箱崎の松
と、女房の一人が女御に代って返歌する。「立ち出でよ」、お出でなさい、「箱崎のまつ」、待っています、という意
味だが、相手を真似るどころか、それ以上に歌枕を羅列している。
近江の君は、女房たちの底意地のわるさに気がつかない。返歌を見て、「をかしの御口つきや。待つとのた
まへるを」、おもしろい御詠みぶりだこと、待つとおっしゃってくださったと喜んでいる。
試みに、女房の返歌にある地名を拾ってみると、常陸、駿河、摂津、筑紫と、東国から筑紫にわたってい
る。ここでも常陸が双方のうたに詠まれている。答歌は、贈歌の一部分を詠みこむのがしきたりとおもっても、なぜ常陸がえらばれたのかと、こだわりたくな
る。
『枕草子』にも「常陸介」というあだ名の乞食尼が出てくる。御所の女房たちがからかって唄をうたわせる
と、「まろは誰と寝む。常陸介と寝む。寝たる肌もよし」と、たいへんエロティックな唄をうたったところからのあだ名であるが、この「常陸介」も、徹底的に
軽蔑され、女房たちにいいようにからかわれ、もてあそばれている。
「筑波」と「筑紫」はここで倭の国が「尽く」、尽きるという意味で、「ツクシ」「ツクハ」の地名になっ
たという説がある。その「ツクハ」の山のある常陸は、辺境の地という感覚もわからないではない。辺境の地どころか、地の果て、ものおそろしい所におもわれ
たのだろう。しかし、辺境の地は常陸に限らないのに、なぜ、嘲笑の対象というと、常陸なのだろう。
それにしても、『源氏物語』に於ける常陸の扱いは徹底している。紫式部には「常陸」に対する特別な感情
があったようにおもわれてならない。もしかしたら、彼女の身辺にどうにも気に入らない人物がいて、それが常陸に関わりのある人だったのかも知れない。
紫式部にはけっこう底意地のわるいところがある。『源氏物語』に「源典侍」という色好みの老女が登場す
る。やはり、さんざんなぶりものされているのだが、当時、女官の最高の地位である典侍の職にあったのは、紫式部の夫の縁戚の女性だった。しかも「源典侍」
と呼ばれていたので、物語の、あの年がいもなく色好みな源典侍は彼女がモデルだと騒がれ、とうとう宮中にいたたまれず、辞表を提出している。紫式部には
きっと何か確執のある相手だったのだろう。
この気の毒な源典侍、源明子の場合は、辞表提出のことが藤原行成の日記『権記』(ごんき)にあるので、
紫式部の筆誅というか、意地のわるいやり方が、後世に伝わることになったのだけれど、こうしたことは、ほかにもあったのではなかろうか。『源氏物語』を読
んで、歯ぎしりしたり、くやし涙にくれる常陸なにがしや、その妻や愛人、娘などがいたのか
も知れない。
追記 文中に、「空蝉」ということばが二度出てきます。この「蝉」という字に困じ果てております。正しくは「憚」
と同じ旁のはずですのに、わが器械は、「蝉」しか出してくれません。仕方なく、奇妙な字のまま、ということにいたしました。
(0.10.25
初出)
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