神西清のこと 自著の周辺 石内 徹
昨年と今年、二冊の著書を上梓した。『神西清文藝譜』(港の人刊)と『荷風文学考』(レクス出版刊)とである。
知友に拙著を送呈した。すると、その礼状に、意外だとか、こんな処にまで手をのばしているのか、といった評言がいくつか散見されたが、勝手に褒辞と受けとった。私のライフワークは折口信夫である。しかし、研究者の姿勢として、折口信夫だけを研究していればよいというものでもあるまい。
ところで、私には、神西清について忘れられない鮮烈な思い出がある。話は、大学在学中にさかのぼる。私は、代々木中学校で教育実習をおこなった。その中学校で使用していた教科書に、たまたま神西清の「雪の宿り」が収載されていた。教材として教室では使用しなかった。だが、題名に惹かれて一読し、典雅ともいうべき玲瓏たる文体のすばらしさに魅了され、息をのんだ。水晶のもつ清冷で硬質な透明感と輝きとが、その文体にはあった。繊細でありながら、限りなく明晰なのである。この時、神西清という作家が私の意識に特別な存在として記憶された。
卒業後、折口研究から、折口を敬愛した堀辰雄にたどりつく。神西清は、その堀の親友である。私の視野にようやく神西清の姿が浮かび上がり、私は神西清との久々の再会をよろこぶことになる。古くさいいい方だが、私は、そこに目に見えない深い縁のようなものを感じた。これが起点となり、私の神西清研究がスタートした。
私は、まず、「折口信夫と神西清」を昭和五十二年八月、「折口学と近代」第三号に発表した。間を置いて、「『雪の宿り』論」を「芸術至上主義文芸」第八号に発表した。これが五十七年十一月である。折口と神西清とのかかわりをもう少し深く知りたいと思い、手紙に添えて、この拙稿を神西清夫人・神西百合氏に謹んで送呈した。これが機縁となり、以後、幸運にも神西百合氏の知遇を得ることになった。
遅々としたあゆみであるが、すこしずつ神西清の作品を収集し繙読していった。また、休日、神西百合氏の御迷惑をもかえりみず、鎌倉山のご自宅に何度も伺った。そこで、百合氏から生前の神西清の人柄や生い立などのお話をうかがうことができた。今となっては、そのお話をテープになぜ録音しておかなかったかと悔やまれてならない。何度か伺ううちに、多くの貴重な資料──蔵書・原稿・日記・手紙・写真・家系図から位牌まで、手にとって拝見させていただき、必要なものはコピーあるいは、写真に写させていただいた。
それらの未発表の資料をもとに、二冊の編著がまとまった。『人物書誌大系23 神西清』(日外アソシエーツ刊)と『神西清蔵書目録』(日本図書センター刊)とである。
次の仕事として、披見させていただいた資料をもとに、神西清の評伝の執筆に着手した。評伝はみじかいものだが、『神西清文藝譜』の「? 文人・神西清抄」にまとまった。「抄」としたのは、神西清の全貌を俯瞰できるほど完備していないからである。しかし、一つの神西清像を浮きあがらせることには成功したと思う。
神西清は、ロシア文学の名翻訳者として、一世を風靡し、それこそ赫奕たる盛名を馳せた。特に、チェーホフの作品の翻訳は有名である。他に、トゥルゲーネフの『散文詩』やレールモントフの詩、ジャック・シャルドンヌの随想、ドストイエフスキイの小説『永遠の良人』、プーシキンの『大尉の娘』、アンドレ・ジイドの『田園交響楽』など多くのすぐれた翻訳がある。また、『散文の運命』や『詩と小説の間』という切れ味のよい評論集、『少年』や『恢復期』、『灰色の眼の女』などの小説集、さらに、『神西清詩集』と、その活動は多岐にわたる。そのために、現行の文学史の扱いは、神西清にきわめて冷淡である。小説家としての神西清は、ディレッタントであって、本業は翻訳者とみなし、文学史における位置付けはなされていないのである。
昨年、刊行した拙著『神西清文藝譜』は、文学史で等閑にされている小説家としての神西清に一つの照明をあてた。同書は、?で「『雪の宿り』論」と「『死児変相』論」とを収めている。この二つの作品論では、小説家としての神西清の全貌は、捉え切れないが、?の評伝と併読すれば、神西清が、いかにすぐれた小説家であるか、おぼろげながら理解できよう。
同書には、?として折口とのかかわりがどのようなものか、また、神西の蔵書についての言及もある。さらに、神西清が活躍していたとき、河出書房の編集者として、神西の担当となった徳永朝子氏からの聞き書きも収めてある。聞き書きは、生前の神西清が、気むずかしく、プライドの高い、才能豊かな人物であること、酒を愛し、凝り性であることなど知られざる神西清の素顔の一面が、活写されていて興を引こう。
神西清という作家は、既述の通り、現行の文学史の中では忘れ去られている。だが、「雪の宿り」か、あるいは「春泥」か、あるいは「鸚鵡」か、このうちの一編でも、これら珠玉の名品を読めば、稀有の才を持った名文家であることが分る。このまま泡沫(うたかた)のように消えさってよい作家では決してないのである。
現在、神西清研究が、どのような状況にあるかを理解していただくために、?として、参考文献目録を付した。活用いただきたい。
参考文献の中で、特にすぐれたものとして神西百合氏の「みずぐるま」(「蝉」2 文治堂書店 昭50・11)と池内紀氏の「『ほんやく』と『やくほん』」(『翻訳の日本語』〈日本語の世界第15巻〉
中央公論社 昭56・11)とをあげておく。池内氏の論文は、神西の翻訳の特質を解明して出色のもの。また、百合氏のエッセイは、ありし日の神西清の創作家としての鬼気迫る苦しみを伝えてあまりある。
神西清の文学の特質は、鏤骨彫心というべきもので、職人芸、それも名人の手になった仕事を思わせる。文章に心血をそそいでいるのである。そのために寡作であった。
その神西清も、昭和三十二年三月十一日、五十三歳で舌癌のために惜しまれて没した。ライフワークとして、自己のアイデンティティーを確認するための歴史小説「小野物語」を構想し、昭和十八年、準備のために「神西村史」を借用し、丹念に筆写したり、勤務の合間に古本屋をこまめにまわり、多くの質の高い書物を吟味して大量に購入し、年末には「『小野物語』の文献殆ど出揃う」(『神西清日記』昭和十八年十二月二十日)というまでに準備がととのう。
しかし、「小野物語」は一行も書かれずに終った。完成すれば、神西家の祖先の一人、小野国通を主人公として、彼の生きた争乱の戦国時代を描き、華麗な歴史絵巻となるはずであった。神西清の死が、あまりにも早すぎたのである。
なお、ついでに補足しておけば、正徳二年(一七一二年)に成立した『関西陰徳太平記』には、天正六年(一五四八年)神西元通が「上月城没落」のとき、一族や他の士卒の命を助けるために尼子勝久とともに切腹して果てたことが描かれている。この場面は、軍記である同書のまぎれもなくハイライトである。この元通が、「神西家略譜」では、国通にあたる。「敏達天皇之子春日之皇子之裔」という家系図巻頭の一節を持ち出すまでもなく、神西家は、掛け値なしの一流の名家・名門である。清の父は、内務省の高等官。選良である。母止(しづか)の父は医者。その祖父は徳川家御典医である。神西清のプライドが高いのも、出自のしからしむるところかもしれない。
現在、神西家には、『神西清日記』が残されている。その主要な部分が、平成十二年春、クレス出版から複製されて刊行される予定である。『神西清日記』は、資料的価値だけでなく、文学的にもすぐれ、荷風の『断腸亭日乗』や内田百間の日記に匹敵し、少しの遜色もない。日記には、神西清の生活が、天候や堀辰雄の近況、あるいは購入した書物の読後感や、出席した告別式の感想、あるいは敗戦間近な世相や空襲のことなど、時代を反映した興味深い見聞や体験、思索などが無駄のない見事な文章で綴られている。多分、下書きもせずに怱怱の間に日日綴られたと思われるこの日記から、一知識人が、戦中をどのように生きたかを垣間見ることができる。また、神西清研究の上からみても、日記公刊の意義は大きく、刊行が、心から待たれる。
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