『海やまのあひだ』雑考      石内 徹

 
 

 一 歌人の業
 私事から始める。
 二十年ほど以前、東京・経堂に坪野哲久・山田あき御夫妻をおたずねした。寒かったので、冬であったろう。壮年を過ぎていた御夫妻は、当時すでに高名な歌人であった。(注1)壁面をほとんど本に占められた御自宅で、妻と、一緒にお話を伺った。私が折口信夫に関心を寄せていることを知ると、山田あき氏は、「好きな歌です」とおっしゃって、折口信夫の晩年の秀歌の何首かを何の遅滞もなくすらすらと口遊まれた。(注2)折口が弟子に歌を暗記することをすすめたことを思い出し、一流の歌人というものの片鱗を垣間見た思いがした。
 私たちが通されたのは、清潔なダイニングキッチンだったように思う。御夫妻にむきあう形で簡素な椅子に腰を下ろしたが、暖房がなく、寒さが身にしみた。哲久氏のスリッパを履かれた白い素足にしもやけができていたことを不思議に、おぼえている。あき氏は、話の途中で、小ぶりな茶碗に香りの高い煎茶を何度も入れ替えて下さった。そのまろやかな滋味を、氏の涼やかに澄み切ったご容貌とともに、今だにはっきりと覚えている。
 また、その時伺った話で、印象にのこったのは、歌を一首作って二百円にしかならない。「短歌」などの専門誌から注文があり、十首か、十五首を寄稿しても、二千円か、三千円にしかならず、それらの作品を作るのに、何日も寝食を忘れ、骨身を削られるという話であった。
 また、若き日、哲久氏は歌で食べられずにいろいろな職についたという。しかし、俗事には不向きのようであった。そのころ、氏は三軒茶屋の古本屋で折口信夫の黒い装丁の稀覯書『古代研究』(全三冊)に出会う。その本が読みたくて手にとってながめても買う余裕はない。店に入るたびに手にとってながめていたが、その本は、ある日忽然と姿を消し、悔いが長く残ったという話も伺った。当時は、まだ本が、知識が、価値をもち人を魅了する輝きを持ったよき時代だったのである。そういう時代であっても、貧しい生活を送る覚悟をしない限り、歌人としては生きられなかったのである。(注3)
 しかし、御会いした印象では、御夫妻は貧しさを気にかけていなかったように思う。お話を伺っていて、内面の充実がおのずと横溢し、清々しい、それでいて何ともいえず神神しい精神の息吹が御両人から伝わってきて、心に灯がともったような明るい快い気分になった。いつの間にか、私も妻も豊かな精神の感化の余徳にあずかっていたのである。
  歌の話にもどろう。
 歌は、小なりとはいえ、一首一首がそれぞれ独立し、小宇宙を成し一つの世界として完結している。そのために、歌は、一つのテーマと幾つかのモチーフとで一気呵成に何十首、あるいは何百首も詠むことは不可能である。それが散文との差異である。作歌とは、一首を心を込め時間をかけて生み出し、掌中の珠のように大切に育むものということを両氏のお話から私は学んだ。また、両氏の会話に用いられたことばも、詩語と同じように、一つ一つがキラキラと粒立って輝いていた。
 両氏のように歌を生活の中心に据えて生きてゆくことは、生半可な覚悟ではできまい。作歌の苦楽を骨の髄まで知った者以外には、耐えられないことである。折口信夫が、歌は日本人のゴースト(ghost)であると語った(注4)が、歌を作ることは業(ごう)であるという気がする。重ねて、折口のことばを借用すれば、やはり「歌は一期(いちご)の病」なのである。そのため、歌人は天分があって、且つ執着し努めなければ、決して大成しない。一流の歌人になるのは至難のことなのである。
 ところで、歌集は、個々独立した歌の集成である。そこから主題やモチーフを引き出すことは、かなり困難が伴う。歌人は、決して歌集をイメージして歌を作っているわけではないからである。歌集とは、いってみれば多面体のダイヤモンドのように光のあて方によって、さまざまな断面が多彩、多様な眩い輝きを放つものと言えるかもしれない。従って、その断面の一つ一つのディテールに歌人の個性がかすかな痕跡をのこし、歌に独自な表情をそえる。それが、結果として、歌を集成した歌集にも、微かな独自の表情と色合いとを刻む。それを読み取り、指摘することは、むずかしいが決して不可能ではあるまい。
 それでは、釈迢空の『海やまのあひだ』がどのような特徴を持つ歌集なのか、検討をしてみよう。

 二 『海やまのあひだ』の成立
『海やまのあひだ』は、大正十四年五月三十日に改造社版の現代代表短歌叢書第五篇自選歌集として出版された。
 構成は、逆編年順である。これは、迢空の他の詩歌集には見られない特徴である。逆編年順にした理由は次のように考えられる。
 迢空は、文学観の相違や人間関係の齟齬などにより、大正十年にそれまで所属していた「アララギ」を離れる。「自撰年譜」には、大正十年(三十五歳)「此年冬から、自然に『アララギ』に遠ざかる」(全集第三十一巻 三六六頁)とある。迢空が「アララギ」の同人になったのは、大正六年二月であるので、五年間、「アララギ」同人だった。それからしばらく期間を置き、大正十三年(三十八歳)四月、北原白秋の「日光」の創刊に「古泉千樫の慂めによつて、同人に加る」(「自撰年譜」全集第三十一巻三六七頁)。
 それまで抑圧されていた迢空の歌才は、「アララギ」の羈絆から解き放たれ、ひとり(三字に、傍点)になることによって、個性豊かに伸長し、眼を瞠るはなやかさで開花した。迢空が拠った日光社は、一般の短歌結社の派閥のように歌人たち同人を束縛することなく、同人たちの個性を尊重する、結社とも言えないほど自由な結社だった。迢空は、この「日光」の同人たちとの新鮮で自由な交流の中で、息をふき返し、所を得たのである。
 この時期の迢空短歌を代表する成果として「島山」や「蜑の村」「供養塔」などの独自な作品群が思い浮かぶ。迢空が、処女歌集を出版しようと考えたとき、歌境のいちじるしく進んだこれら一連のすぐれた作品を読者に印象付けるには、逆編年順の形が最も効果的な形式であったろう。迢空が、逆編年順の形式を採用したこれが一つの大きな理由と考えられる。私は、今このことに疑義を挟む気は毛頭ない。素直にこのことを首肯する。首肯した上で、もう一歩踏み込んでみたい。なぜなら、これで逆編年順採用の理由のすべてが説明されたとは、私には考えられないからである。
 まず、無心に『海やまのあひだ』を披見してみよう。改造社版と全集とでは巻頭の組み方が違っている。改造社版の歌集では、巻頭一頁を使い「大正十四年―一首」としるし、次頁を白紙とし、三首目に次の歌が詞書を付して揚げられている。

    この集を、まづ與へむと思ふ子あるに、

  かの子らや われに知られぬ妻とりて、生き
  のひそけさに わびつゝをゐむ

 全集だと、これが一頁におさめられている。大正十四年は、この一首だけが歌集に収録されている。念のためにそれまでの年毎の作歌数をあげておこう。
 大正十三年 五十二首
 大正十二年 三十首
 大正十一年 四十五首
 大正十年 三十四首
 大正九年 四十七首
 大正八年 百二十七首
 大正七年 五十六首
 大正六年 百十二首
 大正五年 二十五首
 大正四年以前、明治四十四年まで 八十七首
 明治四十三年以前、三十七年頃まで 七十五首
 以上、大正十四年の一首を含めて、合計六九一首を収めている。右のように年毎の作歌数をたどってみると、大正十四年、一首というのは奇異な感を与える。なぜ、この年だけ一首なのか。また、この一首は、大正十四年のいつ作歌されたのであろうか。歌集を出す折、その編集の過程で出来たものかもしれないと推測はつくものの、記録がないので作製月日の特定はできない。
 まず、分かることから考えてみよ。
 詞書は「この集を、まづ与へむと思ふ子あるに、」と記されている。つまり、詞書は、歌集の編集作業が進んで、ある程度形を成してから献辞のように書き添えられたという雰囲気が、この表現から感得される。
 歌われた「かの子ら」とは、迢空の今宮中学校の教え子伊勢清志であるといわれている。「『かの子ら』のら(一字に、傍点)は複数のら(一字に、傍点)ではなく、愛称の接尾語だろう。」(注5)迢空は、大正八年に連作「蒜の葉」を「アララギ」に発表している。大正六年にも「清志に与へたる」を「アララギ」に発表し、うち四首を『海やまのあひだ』に収めている。
「蒜の葉」の連作も「清志に与へたる」も迢空のもとから去った伊勢清志をうたったものである。同性に対する恋情を綴った歌には、まぎれもなく迢空の赤裸々な感情がこめられている。「蒜の葉」の巻頭歌は、「叱ることありて後」と題して次のようにうたわれている。

薩摩より、汝がふみ来到(キタ)る。ふみの上に、涙おとして喜ぶ。われは

 一首の掉尾に「涙おとして喜ぶ。われは」と「われは」が倒置されて強調表現になっている。ここで、歌の内容について一般論を展開しても意味はないが、手紙の上に涙をおとして喜ぶとは、デフォルメとしても度が過ぎている。しかし、歌の真の読者が伊勢清志であれは、過剰なと思えるこのような表現も、相手に対する赤裸々な心情の告白になる。迢空には、はしなくもそういう無意識の計算が働いたのかもしれない。
 あるいは、丸谷才一が「男泣きについての文学論」(『みみづくの夢』昭和六十年三月中央公論社)で指摘したように、日本文学の古典にあらわれる理想的男性像は、『古事記』にみえる須佐之男命をはじめ、倭建命、『伊勢物語』の在原業平、『源氏物語』の光源氏、『心中天網島』の紙屋治兵衛など、みな落涙を理想的主人公の証明としている。(注6)この歌の下の句は、その伝統を踏まえた類型的表現という解釈も成り立つ。いずれにしろ、この落涙の歌は、自分の白い肌膚の美しさを詠った(注7)ナルシシズム・センチメンタリズムの強い迢空らしい表現といえる。
 次が「蒜の葉」と題された連作の一首目である。

雪間にかゞふ蒜(ヒル)の葉 若ければ、我にそむきて行く心はも

 一、二句は、雪の間からみずみずしい若い緑の蒜の葉が芽ぶき、生命をキラキラと眩いまでに輝かしている。その若々しい蒜の葉に伊勢清志を重ねて、「若ければ、我にそむきて行く心はも」と掌中の珠のような清志が、自分にそむいて去ったことを詠っている。三句目の「若ければ」、ということばはかなり重い。そこに清志との年齢差についての迢空のこだわりが窺える。迢空の内に苦い思いが渦巻いていたと想像できる。なお、五句目末尾の「心はも」の「はも」は、係助詞の「は」と「も」の複合した連語で、強い愛情や執心などをこめた詠嘆をあらわす。眩い若緑の蒜と若い伊勢清志とは重なっているのである。ここには、去ってゆく者に対する作者の愛情や嘆き、落胆など悲哀を含んだ錯雑した感情が詠われている。
 つづけて、

おのづから 歩みとゞまる。雪のうへに なげく心を、汝(ナ)は 知らざらむ

と、迢空は自分の別離のなげきを清志が知らないのだろうとの推測を詠っている。この歌の本意は、私のこの気持を知って欲しいという祈るような願いにある。自己愛にしろ、エゴイズムにしろ、それは若者の特権であろう。清志は迢空の愛情に応えることに嫌けがさし、そのもとを去ったのである。そうであれば、清志が迢空に対して思いをはせることは考えられない。
「鹿児島」には二十二首が収められている。清志が九州の造士館高校に入学し、女性と恋愛関係になったことを迢空が知り、翻意させるために鹿児島におとずれた時の心情をうたった作品である。

憎みがたき心はさびし。島山の緑かげろふ時を経につゝ

 迢空は、清志を憎もうと思っても憎み切れないのである。その心情を「さびし」と表現し、次の引用歌の一首目では「もの言ひがたし」というほどに怒りながら、二首目では「あやぶみにけり」と本気でその行末を案じている。愛憎の相剋が、痛々しいまでに赤裸々にうたわれている。

汝が心そむけるを知る。山路ゆき いきどほろしくして、もの言ひがたし
叱りつゝ もの言ふ夜はの牀のうちに、こたへせぬ子を あやぶみにけり
庭草に、やみてはふりつぐつゆの雨 心怒りのたゆみ来にけり
わが黙(モダ)す心を知れり。燈のしたに ひたうつむきて、身じろがぬ汝(ナレ)は

 引用四首目の「燈のしたに ひたうつむきて、身じろがぬ汝(ナレ)は」と清志の心がかたくなになり、貝のように押し黙って心をとざしているさまが目に見えるようである。結局、清志の心は迢空にもどらなかった。迢空は、「かの少咋の為に(注8)」で、次のような心情を吐露している。

国遠く、我におぢつゝ 汝が住みてありと思ふ時 悔いにけるかも
何ごとも、完(スデ)にをはりぬ。息づきて 全(マタ)く霽(ハル)けむ心ともがな
寛恕(ユルシ)なき我ならめや。汝を瞻るに、心ほとほと息づくころぞ
庭の木の古葉掃きつゝ、待ちごゝろ失せにし今を 安しと思はむ

 迢空らしいのは、「かの少咋の為に」という詞書である。これは『万葉集』巻第十八の大伴家持の「史生尾張ノ少咋を教へ喩す歌一首、並びに短歌」という題詞をもつ長歌と反歌四首からとられたものである。尾張ノ少咋の詳細については、「傳未詳」(注9)であるが、家持が赴任した「越中国の史生」である。「史生」とは「定員三名の書記官」(注10)と注記されている家持の下僚である。少咋が「佐夫流(さぶる)」という名のうかれめに心を移し、本妻を忘れたのをいましめたのが、これらの歌である。
 家持は、その詞書で「戸令(こりょう)」を引いて、次のように述べている。「戸令」を引いたところに、官吏としての家持の一面が窺われる。

  七出例に云はく、但一条を犯さば、即ち合(マサ)に之を出すべし。
  七出なくして、輙、棄てたる者は、徒(ヅ)一年半とすてへり。三不去
  に云はく、七出を犯すと雖も、合(マサ)に棄つべからず。 違へる者
  は、杖一百とす。唯、奸と悪疾とを犯さば、之を棄つることを得しめ
  よてへり。
  両妻例に云はく、妻ありて、更に娶れる者は、徒(ヅ) 一年とす。女
  家は杖一百して離てゝへり。
  詔書に云はく、 義夫節婦を愍み賜ふてへり。謹しみて案ふに、先
    の件の数条は、建法の基にして、化道(ケダウ) の源なり。然れば
    則、義夫の道は、情別なきに存す。一家財を同じくせば、豈、旧を
    忘れ、新しきを愛するの志あらめやてへり。所以(ゆゑ) に数行の
    歌を綴り作りて、旧きを棄つる惑ひを悔いしむ。其詞に日はく、
                             (『折口信夫全集』10三四三頁?三四四頁)

 この詞書掉尾の「旧きを棄つる惑ひを悔いしむ」という箇所や、反歌の三首目「紅はうつらふものぞ。橡(ツルバミ)のなれにし衣(キヌ)に、なほ及(シ)かめやも」に迢空は、自分の心情を投映したのであろう。反歌の三首目について説明を補足しておけば、訳は、「美しい紅の色はあせやすいものである。地味な橡で染めた着ふるした着物にやはり及ぼうか。(注11)」となる。これは、「紅の衣を左夫流にたとへ、橡のなれにし衣を本妻にたとへたのである」。(注12)
 これを迢空に引きつけて敷衍すれば、本妻が迢空にあたり、清志の新しい恋人は、「左夫流」にあたり、清志が、「少咋」という設定であろう。そう考えて家持の反歌を披見すると、二首目は、滑稽である。

里人の見る目恥かし。さぶる子に迷はす君が、寝屋出後(ネヤデシリ)ぶり(注13) 4108

  迢空は、この歌に次のような訳を付している。

  近所の人の見る目も恥かしい。さぶる子に迷うて入らつしやる貴方が、寝屋を出て行 きなさる後姿が。 (注14)

  家持は、この歌で、少咋を戯画化し、客観的にみたとき、その姿がいかに、格好が悪いかをうたい、やんわりと品よく揶揄している。遊びがあって絶好のはやし方である。この家持の意識は、そのまま迢空の意識だったのであろう。さすがに、折口は新進気鋭の万葉学者である。この『万葉集』の家持の歌を引いたところに、その学才が並々でないことが窺われる。また、折口は、この歌の前三首の題詞に「寄物陳思(きぶつちんし)」と用いている。これは『万葉集』では、巻十一、巻十二などに、「正述心緒」と一対で用いられたことばである。「正述心緒」が、「直接自分の思いを述べる歌(注15)」であるのに対し、「寄物陳思」は「物に寄せて思いを述べる歌。『正述心緒』と同様、人麻呂の考案した語と認められる。上の句で景物を叙し下の句で心情を述べる歌が多い(注16)」と伊藤博は解説をしている。
 さて、ここで迢空の「寄物陳思」について言及しておこう。「寄物陳思」は、やはり、「蒜の葉」の中の連作である。「かの少咋の為に」の前に置かれている。その一首目が次の歌である。

尾張ノ少咋(ヲグヒ)のぼらず。年満ちて、きのふも 今日も 人続(ツ)ぎて上る

「尾張ノ少咋のぼらず」と用いている。清志が上京しないことを素直になげいているのである。二首目が、

つくしの遊行嬢子(ウカレヲトメ)になづみつゝ、旅人(タビト)は 竟(ツヒ)に還りたりけり

と詠われており、「つくしの遊行嬢子になづみつゝ」という表現も一首目同様、前出の「かの少咋の爲に」四首と気分の上では連接している。同じ固有名詞を用いていること以上に、「遊行嬢子」ということばを使用したところに九州の清志の恋人に対する蔑視の気持が潜んでいるような気がする。ここでは、「竟(ツヒ)に還りたりけり」と清志が迢空の手元にもどったことで安堵しているようにみえる。が、これは、「遊行嬢子」をふりきって九州の太宰府から帰京した大伴旅人の『万葉集』の巻六の九六七、九六八の歌をふまえているために、「とうとう帰らなかった教え子を暗示した歌」(『折口信夫集』補注一九九、四七四頁)となる。すると恋しい人に帰られた「遊行嬢子」は、さしずめ折口にあたることになる。話が錯綜し複雑である。
  いずれにしても、この歌は大伴旅人の歌を背景として作られており、あまりにも技巧に走りすぎたために、歌意が正確に伝わりにくい歌となっている。迢空に感情をあらわに表出したくないという自己韜晦の思いが強かったために、このような難解な歌となったのであろう。歌としては、高い評価を与えられないと思う。
 ここで、前出の引用歌「かの少咋の為に」に話をもどそう。「かの少咋の為に」二首目上句で「何ごとも 完(スデ)にをはりぬ」と清志との関係の終焉が詠われている。このように詠うことは、迢空にとり断腸の思いであったろう。
 二首目を受けて、四首目で迢空は、「待ちごゝろ失せにし今を」と一見、淡々と詠っている。清志に対する思い(手元にもどって来て欲しいという期待)をはっきりとたち切った表現となっている。掉尾の「安しと思はむ」には、まだ少し未練がのこっている。――やせがまんをしている、――と考えるべきなのであろう。これで清志に対する歌は終わる。なお、「庭の木の古葉掃きつゝ」という上の句は、老人にやつした風情がうかがわれ、私の思いも古葉のようにしぼみ、それを掃きすてているという風に理解される。この一首で連作のとじめとしたのである。しかし、迢空はこの大正八年、三十三歳である。老境にはいるのは、まだまだ先の話で、どうみても、老人にやつすには若すぎる年齢である。
 それから、六年の歳月が流れ、大正十四年に一首、献辞のようにうたわれたのが、先に引いた歌である。
 私は、「『葛の花』雑考」で、この歌に触れ、この作品があることで「『海やまのあひだ』は、公刊の歌集でありながら、私信の役割をも荷っ」(注17)たと述べた。逆編年順にしたことが、生きたのである。逆編年順にしたことによって、結果として、この歌が献辞のように据えられ、あまり違和感を読者に与えなかったのである。読者の目は、大正十三年の「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」を先立てた「島山」や「蜑の村」あるいは「夜」などのきわめて秀逸な連作に目が向き、大正十四年の一首目にあまり思いを潜めることなく、歌集の世界にいざなわれていった。迢空にしても、この大正十四年の一首は、たった一人の真の読者である伊勢清志に差し出されたもので、読者は、伊勢清志一人でよかったはずであろう。
 逆編年順にして、大正十四年の項に一首のみを掲げた迢空の勇気には脱帽する他ない。これは、係累がないからできたことかもしれない。この時、迢空は、國學院大学教授、慶応義塾大学文学部講師である。それだけ、迢空の清志への思いが、一途で熱いものであったと理解するべきなのであろう。

 三 伊勢清志との別離
 迢空は、伊勢清志との別れを「夏のわかれ十一首」と題して昭和元年九月に発表し、後第二歌集『春のことぶれ』に収めている。その詞書は、次のように書かれている。

  十年まへの夏、子どもから育てた生徒の一人を、
  造士館高等学校へ送つた。其頃の寂しくて、乏し
  かった日々は、この子の拘泥のない心持ちに救は
  れることが多かつた。たゝしてやつた日の記憶が、
  此ごろ頻りに鮮やかに浮んで来る。(全集24 一八五頁)

 その三首目には、迢空の心情がストレートに「汝はやりがたし」と表現されている。

  飯倉の坂の のぼりに、
  汗かける 白き額(ヌカ)見れば、
  汝はやりがたし  (全集24 一八六頁)

 十首目の詞書は「二年後、時々おこす手紙は、私を寂しがらせる様になつた」と綴られている。十首目と十一首目の歌を引いておこう。

  この憐(メグ)き心にも、
  尚むくゆな と 言ひたまふか
  と 詞哭(コトナ)きにけり

  ふみの上に、
  こと荒(アラ)らけく叱りつゝ
  下むなしさの
    せむすべ知らず  (全集24 一八九頁)

 これら伊勢清志とのかかわりを執ねく詠ったことから推測されることは、若き折口信夫にとって、清志は最も大切な恋人だったということに尽きる。昭和元年においても、その感情は少しも変らなかったのである。

 四 「自撰年譜」の問題
 全集第三十一巻所収「年譜」は、追空が作った「自撰年譜」を弟子の岡野弘彦が補訂加筆して作成したものである。二つの年譜に、どのように清志の名前が記されているか調べてみよう。
 折口が清志とかかわる契機は、明治四十四年(折口信夫二十五歳)「十一月、今宮の囑託教員となる。三年級の國語・漢文と、學級訓育を擔當」したことに始まる。翌年、「明治四十五年─大正元年(二十六歳)」「自撰年譜」には、次のような記述がなされている。

 八月、志摩・伊勢・紀伊に渉って、熊野廻りをする。
 同行、生徒伊勢清志(四字に、傍点)・上道清一の二人。『海やまのあひだ』第一稿は、此間に出來る。(全集第三十一巻 三六二頁)(傍点引用者)

「自撰年譜」には、伊勢清志の名は、ここにしか記されていない。しかし、全集の「年譜」を披見すると、大正三年(一九一四)折口信夫二十八歳の項に次のような記述がある。

 三月、二年半學級訓育を擔當した今宮中學校第四期生
 卒業。同時に職を辭し、四月二十日上京、本郷六丁目
 十二番地(赤門前)の下宿屋昌平館に下宿。後を追つて
 上京して來た四期生、萩原雄祐・竹原光三・鈴木金太
 郎・伊勢清志(略) 等十人程、昌平館に同宿。(全集第
 三十一巻 三九〇頁)

  同じ大正三年の「自撰年譜」を念のために引用しておこう。伊勢清志の名がはぶかれている。

 三月、生徒(六十六人)卒業。即日辭職、東上。金澤庄
 三郎先生の國語教科書(「中學校用國語教科書」)編纂
 の為。本郷赤門前昌平館に下宿。後から後からたよつ
 て來た生徒鈴木金太郎・萩原雄祐・竹原光三・ (瀧山
  徳三・)後藤一雄等十人程同宿。 (全集第三十一巻 三
  六三頁)

  さらには、大正八年の「自撰年譜」の記述は、次のようになっている。

 三月、(會津に行き、引き返して、)鹿児島へ行く。七月、
 再、鹿児島へ行く。 (全集第三十一巻 三六五頁)

「鹿児島へ行く」とのみ記されていて、目的が――伊勢清志に会いに下向したという肝心要なことが記されておらず、――この年譜からでは、窺知できない。「自撰年譜」は、昭和十二年、第一書房刊『短歌文學全集 釋迢空篇』の為に、著者が自ら編輯したものである。それに昭和五年改造社刊『現代短歌全集』第十三巻所収の年譜をも校合し、括弧内に六号活字で表わされている。
 折口信夫は、ここで意図的に伊勢清志の名を消したのである。それは、伊勢清志にかわる人物(恋人)が新たに登場したからである。藤井春洋である。
 藤井春洋は、「自撰年譜」昭和二年(四十一歳)の項に、「六月、富山・金澤を経て、能登國羽咋郡・鹿島郡を採訪し、氣多一の宮に、學生藤井春洋の生家を訪ふ」としてあらわれる。つづけて、翌三年の項に、「十月、大井出石に轉居。藤井春洋を家族の一人に加へる」、同五年の項に、「三月、春洋、國學院大學國文科卒業」とある。
 この年譜にふれて、丸谷才一が「他の者の同居の場合には、『家族の一人』といふやうな情愛のこもつた言ひまはしは用ゐられなかつた。(注18)」と片片たる語句から春洋が折口信夫にとって特別の存在であることを的確に読みとっている。丸谷は、「折口信夫にとつて折口(旧姓、藤井)春洋は、弟子であり、養子であり、そして愛人であつた。これを江戸の言葉で言へば、信夫は念者であり、春洋は若衆だつたのである」(注19)と、その関係についてはっきりと指摘している。
 春洋と折口信夫とのかかわりは、大正十四年四月、(折口信夫三十九歳の時)、「春洋、國學院大学予科に入学。折口信夫に師事し、中村浩・藤井貞文らと島船社を結ぶ(注20)」というところからはじまる。そして、昭和三年には同居をはじめている。春洋の手前、前の恋人のことについては、折口信夫といえども、遠慮があったろう。「自撰年譜」は、昭和十二年一月に発表されており、すでに春洋を得たことによって、清志への身を焦がすような思いは薄れていたか、消えていたのであろう。これが「自撰年譜」に一箇所しか清志の名前がのこらなかった理由である。『海やまのあひだ』上梓の段階では、まだ春洋は、予科に入学したばかりで折口の視野に入っていなかったか、入っていてもその存在は、小さかったのである。そのために、清志に対する思いを誰はばかることなくストレートに折口信夫は『海やまのあひだ』に表現したと推考できる。

 五 「自歌自註」
「自歌自註」は、斎藤茂吉の『作歌四十年』(昭和二十八年刊)に触発され、口述されたもので、『海やまのあひだ』の二七七首と『春のことぶれ』一〇九首をとりあげている。発表は没後「中央公論」。昭和二十八年二月から岡野弘彦を相手に口述を開始し、折口の死によって中絶した。口述されたのが昭和二十八年ということは、折口信夫の最晩年である。最愛の養嗣子、折口春洋は、召集され、すでに昭和二十年、硫黄島で玉砕している。岡野弘彦の「折口信夫とその墓碑銘」(昭和五三年一一月 「国学院雑誌」)によれば、折口信夫は、昭和二十年二月十七日を春洋の命日と思い定めていた。つまり、「自歌自註」は、春洋を失った後の最晩年に語られたものだったのである。したがって、伊勢清志のことを語るのにほとんど制約のない良好な状況下で、「自歌自註」は語られたのである。
 さて、折口信夫は、伊勢清志に関する歌をどのように語っているのか。まず、彼をうたった歌が、何首「自歌自註」にとられたのか、その検討から、話の糸口をほぐすことにしよう。
 清志をうたった歌は、『海やまのあひだ』に、四十三首、(注21)『春のことぶれ』に十一首おさめられている。折口が、「自歌自註」でとりあげたのが、『海やまのあひだ』から二十首、『春のことぶれ』から三首で、ほぼ半分である。何がとられ、何がおとされているか。おとした基準は何によるのか。私には、おとされた歌が興を引く。「自歌自註」を読み直してみよう。
「自歌自註」は、編年体で記されているが、ここでは、『海やまのあひだ』の逆編年順に従う。
 大正十四年の一首について、折口は次のように回想している。

 この歌集の最後が、大正十四年の一首「此集を、まづ
 与へむと思ふ子あるに」といふ 詞書きのある、「かの
 子らや  われに知られぬ妻とりて、生きのひそけさに
 わびつゝをゐむ」といふ歌で終ひになつてゐる。 此年
 の五月、改造社の自選歌集、六冊出たうちの 一冊とし
 て、出版された。その為に、他にも 多少の歌はあつた
 のだけれど、序文代りに此歌を据ゑたのである。(序文
 以下に、傍点)(全集 31 二三〇頁)(傍点引用者)

 折口は、「序文代りに此歌を据ゑた」理由については、黙したままである。一切、当時の状況については、言及を控えている。大正六年発表の「清志に与へたる」もはぶかれ言及がない。固有名詞が出ているものはさけようという意識がはたらいたからであろう。大正八年の「蒜の葉」は、八首のうち六首をとり、二首おとしている。「蒜の葉」は、連作で、その前に「叱ることありて後」という小見出しをつけて、次の一首があったが、これもおとされている。

薩摩より、汝がふみ来到(キタ)る。ふみの上に、涙おとして喜ぶ。われは

 また、小見出しの「蒜の葉」の中で落とされた歌は、次の歌である。

おのづから 歩みとゞまる。雪のうへに なげく心を、汝は 知らざらむ
榛(ハリ)の木の若芽つやめく昼の道。ほとほと 心くづほれ来る

 これらはぶかれた三首に共通するのは、清志に対する感情がストレートに表現されていることである。「涙おとして喜ぶ」「なげく心を」「ほとほと心くづほれ来る」などの表現は、老境に入っていた六十八歳の折口にとって、なじみにくい違和感ののこる青臭い表現だったのではないか。この「自歌自註」を口述する時点では、清志に対する思いも、すでに昇華してはるか遠いものとなっていたであろう。それが、自注するべき歌の選択にもはたらいていたと認められる。また、清志に対しても配慮がはたらいていたことが、次の「蒜の葉」の口述の行文から看取される。

 古い発表には、却て固有名詞などもはつきり書いて
 をつたのであるが、今は四十年以上もたつて、一廉
 (イツカド)の人間になってゐる本人に、新しう記憶
 を呼び起させるまでもないから、唯、文学作品らし
 い取り扱ひをした『海やまのあひだ』による。 (全
  集31  一四一頁)

  四十年以上も閲すると、時間の浸食にあって、どんな強い感情も濾過されて、あわあわとしたものに変化するのであろう。迢空は、「自歌自註」を語るとき「心にはずみがあつた(注22)」という。「口述は、いつも先生から『さあ、書いておくれ』といってすすんで語り出すのであった(注23)」という。春洋がなくなり、苛酷な敗戦を体験し、苦々しい、砂を噛むような索漠たる戦後を不本意に生きる折口信夫にとって、過去は歌を介して追想の対象と化して精光を放ち輝いていたということであろう。
 

 注

〈1〉坪野哲久氏は、明治三十九年九月一日石川県高浜町に生れる。大正十四年東洋大学に入学。同年島木赤彦に師事し、アララギに入会。赤彦没後、ポトナム同人、後、新興歌人同盟などに参加。昭和四十六年八月『碧巌』(タイガー・プロ)で読売文学賞を受賞する。「母のくにかへり来しかなや冷々と冬濤圧(お)して太陽没(しづ)む」(『百花』)や「散りくるを踏むかりそめのことながらわれの時間をうつくしくする」(『碧巌』)などの歌がある。山田あき氏は、明治三十三年一月一日新潟県東頸城郡川原村に生れる。本名坪野つい。高田高女卒。坪野哲久と結婚。哲久とともに「鍛冶」を創刊。歌集に『紺』(昭和二六年五月)『流花泉』(昭和四八年九月)がある。「連翹の花にとどろくむなぞこに浄く不断のわが泉あり」(『紺』)や「病むきみにつね添うる手のひそかなれ白鳥老いて霜の羽交す」(『流花泉』)の絶唱がある。
〈2〉山田あき氏は、迢空の次の歌を暗誦して下さった。
 いまははた 老いかゞまりて、誰よりもかれよりも 低き しはぶきをする
 かくひとり老いかゞまりて ひとのみな 憎む日はやく 到りけるかも
 人間を深く愛する神ありて もしもの言はゞ われの如けむ
いずれも迢空の『倭をぐな』所収の最晩年の歌であった。
〈3〉坪野哲久の『胡蝶夢』に「貧生涯ただいちにんの侶(とも)たりき吾妻のいのち死なしめざらむ」とある。哲久は、自己の生涯を「貧生涯」と約言してみせた。歌は、妻山田あきに対する深い愛情を吐露した作品だが、哲久が、自己の生涯をどう捉えていたかが分って興をそそられる一首である。
〈4〉折口信夫「短歌啓蒙一」(新版全集31)で「何しろ歌は、日本人のためのごうすとである。優美にいへばやまと人のための千年のものゝけである。」(三四四頁)と述べている。
〈5〉岡野弘彦『折口信夫の記』(一九九六年一〇月一〇日 中央公論社)二一四頁。
〈6〉男泣きについて、『伊勢物語』六に次のような話がのっている。
「むかし、おとこありけり。」女を「からうじて盗み出(い)でて、」「芥川といふ河を率(ゐ)て」「あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて」おいたのに「鬼はや一口に食ひてけり。」夜が明けてゆくころ、男が「見れば率(ゐ)て来(こ)し女もなし。」男は、女が鬼に食われたことを知る。作者は、男が「足ずりをして泣け(まで、傍点)どもかひなし」(傍点引用者)と結んでいる。話は続くが、ここでは、主人公の男がくやしくて、地団太をふんで泣いていることが確認できればよい。この泣き方は、優雅なものではない。感情が激し、滂沱として流す涙も、理想的な主人公の条件なのかもしれない。引用は、阪倉篤義他校注『竹取物語 伊勢物語 大和物語』〈日本古典文学大系9〉(昭和四七年五月一五日岩波書店 一一四頁)。もう一例、近松門左衛門の『心中天網島』を披見してみよう。たとえば、「治兵衛おさん離別の場」で、次のように語られている。主人公紙屋治兵衛の妻おさんが「門送(かどおく)りさへそこそこに、敷居(しきゐ)も越すや越さぬうち、炬燵(こたつ)に治兵衛またころり、被(かぶ)る蒲団(ふとん)の格子縞(こうしじま)。まだ曾根崎を忘れずかと、あきれながら立寄(たちよ)つて。蒲団を取つて引退くれば、枕に伝ふ涙の滝フシ身も浮くばかり泣きゐたる。」と。治兵衛の泣く様は、「枕に伝ふ涙の滝 身も浮くばかり泣きゐたる」と表現されている。ゐゐゐまた、「治兵衛、眼押拭ひ。同悲しい涙は目より出て。無念涙は耳からなりとも出るならば。言はずと心を見すべきに。同し目よりこぼるゝ涙の色の変らねば。心の見えぬは、もつとももつとも。」(鳥越文蔵校注・訳『近松門左衛門集』二〈日本古典文学全集44〉昭和五十年八月三一日 小学館 四八六頁?四八七頁)と悲しみによる涙と無念の涙とが同じ眼から流れ、その区別がつかない。治兵衛は、そのことを心底嘆いている。この作品では、涙がきわめて大きく扱われており、このような趣向は戦後の文芸の世界ではすでに消滅している。引用したいずれの文章も治兵衛を表現するのに涙を援用というより濫用している。涙が、まるで治兵衛の感情や表情を象徴し、表出しているようである。江戸文学に造詣の深い博覧強記の折口信夫にも当然この知識はあったであろう。
〈7〉『海やまのあひだ』に「わが腹の、白くまどかにたわめるも、思ひすつべき若さにあらず」(全集24 九四頁)という歌がある。大正五年の歌である。迢空三十歳の作。白い肌膚に美を感じた迢空のまぎれもない自己陶酔の歌である。
〈8〉『折口信夫集』〈日本近代文学大系46〉(昭和四七年四月一〇日 角川書店)三五〇頁頭注五で「『少咋』は『寄物陳思』の歌と同じく教え子、伊勢清志のこと」と解説している。
〈9〉澤瀉久孝『萬葉集注釋』巻第十八 (昭和五九年五月二十日 中央公論社)一一五頁。
〈10〉中西進『万葉集全訳注原文付』(四)(一九九六年七月一五日 講談社)一七八頁。脚注1。
〈11〉注〈9〉に同じ。一二八頁。
〈12〉注〈11〉に同じ。
〈13〉この反歌第五句目について、澤瀉久孝は、本文を「宮出しりぶり」と読み、「訓釋」の項で次のように言及している。
 宮出しりぶり──「宮出」は宮仕に出ること(二・一七五)であるが、ここは役所に出勤することである。略解に「さて、宮出と言ふべきよしなし。宣長は、美は尼の誤にて、閨出かと言へり、猶考ふべし」と云ひ、古義に「雅澄竊ニ按フに、此(ココ)は宮出(ミヤデ)とはいふまじきが如くなれども、此(コ)は少咋が、遊女に甚(フカ)く惑ひて、彼が家に朝参(ミカドマイリ)する如く通ふを、嘲哢(アザケ)りて、わざと宮出(ミヤデ)とはいへるなるべし、次下の歌に、遊女が家のことを、伊都伎之等能(イツキシトノ)とよめるも、同じこゝろばえなるを合セ考フべし」とあるのは「考へすごしであらう」と佐佐木博士の云はれてゐる通りであらう。(一二五頁)
〈14〉『折口信夫全集』10(一九九五年一一月二五日 中央公論社) 三四五頁。
〈15〉伊藤博『萬葉集釋注』六(一九九九年七月七日 集英社) 四九二頁。
〈16〉注〈15〉に同じ。九八頁。
〈17〉拙稿「『葛の花』雑考」(「折口信夫研究会報」第32号 平成一一年四月一一日 折口信夫研究会 五頁)
〈18〉丸谷才一「白い鳥」(『鳥の歌』一九八七年八月一五日 福武書店 一六六頁)
〈19〉注〈18〉に同じ。
〈20〉石内徹編「『月しろの旗』関係年譜」(拙著『釈迢空「月しろの旗」注考』一九九四年三月三一日 折口信夫研究会 三七七頁)
〈21〉私は、この『海やまのあひだ』で清志をうたった歌の数四十三首の中に、連作「姶羅(アヒラ)の山」三十九首を入れていない。しかし、大正八年に、「蒜の葉」などと平行して作られた「姶羅の山」も、その数の中に加算するのが正しいのであろう。「姶羅の山」が、「鹿児島県姶良(あいら)郡内の山」(『折口信夫集』〈日本近代文学大系46〉 昭和四七年四月一〇日 角川書店 三五三頁、頭注一〇)であり、この連作の三首目「夏やまの朝のいきれに、たどたどし。人の命を愛(ヲ)しまずあらめや」の「人」について、「自歌自註」で「この創作当時は、自分から遠ざかつてゐた人、その人も生命長く生きてゐてほしい──さういふ気が起つて来た。さういふ気にならずにゐられない──といふつもりでこしらへた、叙事的な内容を持つた抒情詩である。」(全集31 一三〇頁)と回想しており、この「人」が伊勢清志を指していることは、『折口信夫集』の補注二〇一(四七四頁)を引くまでもなく、明らかである。とすれば、『海やまのあひだ』で清志をうたった歌数は、八十二首で、「自歌自註」でとりあげた清志の歌数は、四十首。『春のことぶれ』が三首だから、計、四十三首とりあげられたことになる。しかし、問題は、鹿児島の地名を冠した「姶羅の山」という題以外、「自歌自註」を披見しなければ、この連作が清志を詠ったとは、思えないところにある。さらに、「蒜の葉」と題して詠った歌を、「姶羅の山」の三首目に移して歌集に収録したところに、この歌の別のよみの可能性が生じている。この連作については、後日、機会があれば、改めて考察することにしたい。
〈22〉注〈5〉に同じ。一二八頁。
〈23〉注〈22〉に同じ。
 

(筆者は、国文学研究者。湖の本読者。その学風やお人柄は、次項に掲載の「自著の周辺」が巧まずして教えています。)


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