二つの死          井口哲郎



 この冬、一週間の間をおいただけで、私は二人の身近な人を失った。
 一人は母方の祖母で、もう一人は妻の母である。二人とも眠ったまま死んでいった。そしてその死は、二つともその娘たちによって私に知らされた。
 二月十八日、帰宅して玄関に入ろうとした私は、後ろから母に呼び止めたれた。
 「おばあ、死んでしもうたわ−−」
 それだけいって、母は私の顔をじっと見つめた。その目からほろりと涙がこぼれ落ちた。
 二月二十五日、昼過ぎに、勤めていた学校で、妻からの電話を受けた。
 「おばあちゃん、死んだわー−」
 電話の妻は絶句した。しかし、私にはそれ以上何も聞く必要はなかった。とりあえず、事情を申し出て帰宅した。

 祖母は、三年前から私の町に移り住んでいた。ずっと名古屋に住んでいたのだが、数年前から、しきりに加賀へ帰りたいといいだしたのだそうだ。折よくつて があったので、自立している孫たちを名古屋に残して、叔父、叔母と三人で移って来た。ほんとうは、故里の小松に住みたかったらしい。口に出していったわけ ではないが、祖母のことばのはしから、私はそれを感じとった。愚痴らしいことをいったことことのない祖母なので、祖母も衰えたなと思った。
 祖母についての私のイメージは、働いている姿である。いつもせっせと何かしていなければ気がすまないらしかった。私の町に来た時、もう九十歳を過ぎてい たが、まだ針を持っていた。網目の揃わないことを気にしながら、細い糸で小袋を編んでいた。それは、しまっておいて、機会ある度にだれかれとなく与えるの だ。ハンコ入れ、名刺入れ、小銭入れと、私もいくつ貰ったことか。
 私には、祖母の働くのは自分のためというより、人のためのように思えた。結婚して間もなく婚家が破産し、家のため、夫のため、子のために働き続け、それをそのまま自分の人生に置き換えてしまっていたようだ。子供のころ、そんな祖母の好意に辟易したこともあった。
 小松のお旅祭りに行っての帰りのことである。バスに乗った私に窓を開けさせて、外からラムネをさし入れた。空瓶を返さなくてはならないから、早く飲めと いう。私はラムネが嫌いである。いらないというと、はがい(じれったい)子やねといって、自分が半分飲んで、またさし入れるのである。満員のバスの他の乗 客の目が気になるので、祖母との押し問答を避けるために、半分のラムネを一気に飲んだ。嫌いな上に、急いだのでむせかえり、かえって恥かしい思いをしてし まった。
 祖母はお旅祭りになると、必ずといっていいほど小松に来ていた。そしてその前後一カ月ほどもいた。親戚の家でも祖母の来るのを待ちかねていた。それは祖 母が滞在している間に、家中のふとんのわたの入れかえから着物の洗い張りに縫い直しまで、一年分の針仕事をすっかりやってのけるからである。しかし祖母が 小松に来る目的は、そんな仕事にあったのではなく、お旅祭りの曳山芝居を見るためであったのである。
 私の知っている限り、祖母の唯一の楽しみは浄瑠璃(義太夫)である。ラジオで義太夫の放送があると、祖母の仕事の手が止まる。口が動き、体が揺れる。自 分もラジオに合わせて語っているのである。時には、克明な浄瑠璃物語を曳山芝居のエピソード入りで聞かされる。話し出したら、それこそいつ終るかわからな い。話の切りがつかないのが祖母の一つの欠点であった。
 九十歳を過ぎても口の方だけは衰えていなかったが、さすがに話のつじつまが合わないことが多くなっていた。床につくようになってからは、見舞いに行く私 が十歳に見えたり、二十歳に見えたりしたようだ。えらくなれと励まされたり、早く嫁を貰えとたしなめられたりした。驚いたのは、いいかげんに嫁さんを籍に 入れなければ子供がかわいそうだといわれた時だ。いったいだれと勘違いされたのだろうか。一世紀に近い時間が圧縮され、その間の出来事や出会った人たち が、祖母の頭の中に重なり合っていたのであろう。
 祖母は、サツマイモが好きであった。横になったままサツマイモを「なつかしげに持たりて」食べている姿は、童女にも似てかわいらしくもあった。祖母は数 珠をいくつも持っていて、腕輪でもするように両腕に通して楽しんでいたが、サツマイモを食う時、それが手首の所へさがってくる。それを上の方へ何度も何度 もかきあげながら、一心に食うのである。無心な老いた童女の姿は私の目に美しく映った。
 四、五日も眠り続けていたであろうか、祖母は意識をとりもどすこともなく息をひきとった。死に顔は安らかだった。赤や紫の糸に通したガラス玉の数珠は、両腕にそのままにしてあった。
 床替えをした時、かけつけた弟が、年寄りのくせに重いなといったかと思うと、突然大声で泣き出した。母は弟に、泣いてくれてありがとうと礼をいった。そ の光景も美しいと思った。枕元に立てられた線香の香りがあたりにただよい、私は何か宗教的雰囲気を感じとった。それは、少年の頃、カロツサの世界に触れた 時の感慨と、どこか似ているような気がした。

 妻の母の急死は、私にとっていささかショックだった。一年はど入院していて、なかなか快方に向かないので、せめて正月は家でと、去年の暮に自分の家に連 れ帰っていたのだった。寒くなる度に入院するという生活が二、三年続いていたりしたので、完全に元の体になるのはむつかしいとは思っていた。息を引取る前 の晩、熱が出たというので見に行くと、高熱だということが見ただけでわかるほど上気した赤い顔だ。四十度近い熱だという。しかし実に楽しそうに眠ってい る。軽い寝息さえ聞こえるのだ。前に祖母の例もあるので、すぐ死んでしまうとは思っていなかった。ところが義母の急な死は、長い病気のせいで体が衰弱して いた上に、肺炎をおこしたせいだった。
 義母の死に顔も美しかった。来合せた近所の老婆が、まるで仏さまみたいな顔だといった。私にはそのことばは儀礼的には聞こえなかった。ほおの赤みは長く 消えなかった。顔色が次第に青ざめていく中でほおの赤みだけがいつまでも残り、目のふちの隈がアイシャドーの効果をもっていた。一番先に足の先が冷たくな り、体全体が冷えてきた。しかしほおだけは、いつまでも暖かだった。
 妻は泣きながら、おばあちゃんかんにんしてと、くり返えしていた。火葬場での最後の別れの時まで、妻は「かんにんして」をくり返していた。このことばの意味は私にはよくわかっていた。単なる不孝の詫びではない。妻は、母に対してそれほど不孝だったとはいえない。
 義母は実によく人の面倒をみた。身内と他人との区別はなかった。これは、義母を知る者は誰でも口にすることである。特に私たちにはよくしてくれたように 思う。おれはそんなに頼りない男なんだろうかと、ひがみたくなるほど気にかけてくれた。日常生活から信心までなのである。妻にとって、そうした母の心づか いが時にはわずらわしく感じたこともあるらしい。何度かいい争いをしている場にぶっつかったこともある。義母はそんな時いつも、わからん子やねえ、といっ て帰っていった。決して自分も激することはなかった。妻とても母の好意は痛いほどわかりきっている。しかしつい感情の高ぶりが、あらぬことばとなって母に 向けられる。そして、母の姿が消えるか消えないうちに後悔しはじめているのである。
 義母は生前から宗教的雰囲気を身につけていた。義母の朝は、仏へ花を供えることから始まる。朝早く私の家の近くにある花畠へ花を切りに来るのが日課だっ た。三十坪ほどの花畠は仏に供える花のために作られていた。入院中にあっては、つれづれをなぐさめるのは枕元の仏教関係の雑誌であった。ときどき字句の意 味を聞かれて、説明できずに困ってしまうこともあった。私の生活を越えたことばが多かったからである。義母の言動には一つの自覚からきたものを感じたが、 それは義母の生活の中にとけこんでいて無理がなくなっていた。時に口をっいて出る念仏も少しも耳ざわりにならなかった。
 病院にいた時も、家に帰ってからも、義母は少しでも気分がよいと、歩かせてくれといった。人にすがり、杖にすがって、一心に歩こうと努めた。一人で歩く こと、完全に歩けること、それが生きることへの最短距離だと信じているように見えた。しかし死ぬ前の何日かは、さすがにその意欲もなくしていた。「歩かせ ておくれ」が「お茶を一杯おくれ」に変った。医者に止められていたので、あまり与えてはいけないのだが、ほんの少しでいいからといわれると、つい注いでし まう。しかし何杯飲んでも、もう少しほしいという。頼むから、助けると思って、といってじっと見つめられると、つい部屋にいたたまれなくなってしまうの だ。
 いま、私の中に残っている義母のまなざしは一つである。仏を見る目、一心に歩こうとする目、お茶を望む目、そしてそれはいつでも私を見る目と同じなの だ。暖かく、やさしく、美しいまなざしだった。もし、その裏に一つの願いがこめられていたとしたら、私への願いはいったい何だったんだろう。

「二つの死」は、人間の美しい世界を見せつけられたような気がする。その感動は決して感傷的なものでもなく、宗教的なものでもなかった。そうしたものを越 えたところからくるものだったように思う。それは私の場合、文学から受ける感動と同じ質のものであったように思い出されるのである。
                               (昭和47年5月)