「e-文庫・湖(umi)」自分史のスケッチ
ひまわり 藤江もと子
<二枚の絵>
ここに二枚、「ひまわり」と題した絵がある。一枚は15号の作で、油絵具の色もかなりくすんだ古い絵。バックは真夏の空そのままの水色が粗っぽく塗られ、ひまわり八輪が、花の重みでひっくり返りそうなヴォリュームで無造作に壺に生けてある。壺を置いたテーブルには目の粗いレースが敷かれ、これまた無造作なほど元気よく編み目が描いてある。重なり合った沢山なひまわりの葉は、絵が描かれた時そのままに緑の濃淡を重ねて、昭和26年の夏が今もそこに閉じこめられているようだ。
新制中学二年生の手になったこの絵は、計算も気負いもなく、ただ夢中で描いていたら何もかもが我ながら巧くいった、と云うだけの事かも知れない。子供が絵を描いていると突然、或いは偶然、ちょっと見映えの作品が生まれる、それかも知れない。作者は、かく云う私なのだが、この絵を描く二年ほど前から、すでに先生について油絵を習っていたのだから、全くの偶然でないにしても、ま、それに近いだろう。初の15号大作ということで、張り切って描いたのをはっきりと覚えている。ひまわりが描きたかったし、大きなカンバスを使ってみたかった。思いの叶ったよろこびがためらいも迷いもなく、一気に画面一杯に広がっている。この絵の前や後に、当時沢山な絵を描いたけれども、代表作はこれ以外に考えられない。大学受験を機にぷっつりと絵を描くのを止めてしまった理由は一つではないが、この「ひまわり」が私の前に立ちはだかった、あれが大きな壁になった。いろいろ描いてみて、結局越えられなかった、その事に自信を失い、私は、他の進路へと誘われて行った。
もう一枚はおよそ五十年を隔てて、昨夏、私が描いたもので。半ばは意識し、前作にちかい構図にした。一年前から油絵を再開した私は、中学二年の「ひまわり」を超えなければこの先自分は絵を描いて行けない、そうでないと私の五十年、後退以外の何ものでもないと、そんな気持であった。ひまわりを描くことは私にとって、特別の意味ある挑戦だった。
<昔語り>
1.最初の記憶
「あなたが絵を描くなんて知らなかったわ」と、よく言われます。でも人生の一等最初に熱中したのは絵なんです。「絵の上手な子」と私は言われて育ちました。
どんな気持ちで描いたとか、何を描いたとか、記憶のあるのは昭和18年春、横浜に引っ越して近間の幼稚園に入った頃からです。その前の夙川幼稚園での記憶もあるにはあるのですが、絵の記憶はまるで残っていません。
横浜といっても、鶴見区東寺尾は当時まだ田園地で、小さな社宅の前には池があり、夏には蚊帳の上に蛍がとまったりする所でした。近くにミネギシさんという地元農家があって、そこのサチコちゃんと幼稚園が一緒、このサチコちゃんが、とても絵が上手でした。「なんと上手なのだろう」と驚き、競争心を燃やしました。ライバル視したといってもそこは子供、一緒に絵を描くのが楽しくてすぐ大の仲良しになり、来る日も来る日もミネギシさん宅の広い部屋で、当時もう画用紙は手に入り難くなっていたので、何かの検査用紙の裏紙をもらい、二人でせっせせっせと描いていたのを覚えています。
当時の絵で、はっきり構図や色などの記憶があるのは、サチコちゃんの描いた「桜の木」と、私が描いた「幼稚園庭のブランコ」の二つです。サチコちゃんの絵は私が脱帽したもので、どっしりした木の幹に桜花がいっぱい、しっかりと描かれていました。ブランコの方も私の一番の自信作でした。前住地夙川のカソリック教会付属の幼稚園はへんに厳格でした。父の転勤のお陰でごく普通の幼稚園に替われて幼心にも私はほっとしていました。
今度の幼稚園は質素でした。広くはない園庭の中央に、みんなで一緒に乗れる大きなブランコがあって、それに乗るのが好きでした。あのブランコの絵を描こうといろいろ工夫をしたこと、ブランコの脇に自分自身の姿を大きく描いたことをはっきり記憶しています。そうするうちに遠近法らしき事にも気付いて、前後で家の大きさを変えてみたり、いろいろと、毎日毎日、サチコちゃんと一緒に幼い工夫を重ねては描いていきました。
父に召集令状が来たのはその秋でした。幼稚園とも、サチコちゃんともあっけなく別れて、今度は京都へ帰って行きました。小学校、いいえ国民学校へ入るまでのそれから数ヶ月、京都で何をしていたか、あまり記憶にありません。春から秋までの、短かかったけれどとても印象深い横浜時代でした。
2.サクライ先生
国民学校に入学したのは昭和19年です。もう文房具も不足勝ちでしたが、不思議にクレヨンは十分に使えました。担任は、サクライシゲルという楠公さんの歌に出てくるような名前の若い図画の先生で、どの授業も絵で説明し、黒板に書くのもノートに書くのも絵ばっかりという、私向きの勉強方法でした。
まず「サクライ先生の顔」を描くように言われ、全員の作品が初の父兄会の日、後ろの黒板一面に張り出されました。
自分の絵にそこそこの自信はあった、のに、ここにも「上には上」が居て、タナカノブユキ君のはそれは素晴らしかった。ノブユキ君は戦争の画を描くのがとび抜けて上手で、彼の描いた、赤い夕日の下で宙返りする戦闘機、炎を上げて落ちてゆく敵機、青い海に浮かぶ堂々の戦艦、砲撃戦の水柱に囲まれる航空母艦、どれも今もありありと私の瞼の内によみがえります。ノブユキ君の作品は廊下に額入りで展示され、男の子達はこぞって飛行機や戦艦の絵を描いてくれとせがんでいました。
サクライ先生は黒板にアイロンみたいな形を書いて、これがサイパン島だと言いました。このサイパン島のまわりに船や飛行機を書き加えたり、消したりして算数の勉強をしました。
二年生になると、上級生は敵空襲を避けて集団疎開する事になり、低学年も縁故疎開といって身内のいる田舎などへ退避することになりました。私は丹波園部にある母の実家に身を寄せ、町に只一つの国民学校に入りました。なんと私はそこで、初めて、「絵」に教科書=お手本というもののあることを知りました。前の学校では毎日自由に絵を描いていた私は、手本通りに描くのが苦痛で、いやでいやでたまらず母に代って欲しいくらいでした。母は全く絵は駄目、一緒に住む母方のみんな、お兄ちゃんと呼んでいた当時旧制高校生だった叔父達も絵となるとまるで頼りにならず、しぶしぶ自分で描いていました。
絵が好きなのは父ゆずりで、父は出征中も戦局穏やかな頃はスケッチなどしていたようです。
お手本とは別にいろいろな絵を描きました。童話の挿し絵を真似て、つばひろ帽子にカールした髪、長いひらひらスカートの西洋夫人の姿を好きな色に塗っていたら、叔父が気に入って部屋の壁に貼ってくれました。これは戦争が終わった後も随分長くそのまま貼ってあり、大きくなるにつれて遊びに行くたびに気恥ずかしく、いっそもっと大人になってから見ると、なかなか良い作品でした。
二年生の夏に戦争は終わったのですが、父の復員が遅れたので、そのまま園部で三年生になりました。キュウリという綽名の図工の先生が、「五・六年生対象の図画クラブに特別に入れてあげよう」と言って下さったときは、本当にうれしかったです。小学校の背後の園部城址に写生に連れて行ってもらいました。戸外で写生したのはこれが最初の経験でした。でも夏休み中に突然父が復員したので、まるで鳥が立つように京都へ帰り、国民学校、ではないもともとの小学校に復学しました。
サクライ先生が待っていて下さいました。今度は担任ではありませんでしたが、とても可愛がってもらいました。先生は画家志望だったようで、学校内の図工準備室を占領して油絵を描いて居られ、作品がたくさん置いてありました。
初めて身近に油絵をみて、自分も描いてみたくて、描きたい描きたいと親にねだって道具を買って貰ったのが、五年生になった頃。当時まだ生活さえ苦しい時代の油絵道具一式は大層な贅沢だったのですが、父にも、自分で一度は描いてみたい思いがあったようでした、父の顔にそのとおり「描いて」ありました。
買ってきてすぐ、まず父が、「カーネーションとアスパラガス」の絵を描きました。こじんまりとまとまっているだけの絵で、生意気にも私はあまり感心しませんでした。結局父はこれ一つしか描きませんでした。私自身もやっぱり先生につかないとどう描いて良いかわかりません。親たちにしてみれば、この子は絵が上手いらしい伸ばしてやろうとの思いもあったようで、母が「油絵の先生」を捜してきてくれて、早速入門することになりました。
3.エッチャン先生
入門したのは、鞍馬口に住む、私の母より少し年かさなM先生のところだったのですが、普段のお稽古はお弟子さんのエッチャンという、同志社女専卒の清楚な女性が見てくださることになりました。エッチャンは相国寺裏にある広いお家のお嬢さん、庭に面したお座敷を稽古場にして、すぐ側の同志社女子大に通うNさん、新しく出来た京都市立日吉ヶ丘高校美術コースの生徒のMさん、それに私、の三人を最初の生徒に絵画教室を始められました。お母様が大張り切りでお稽古が終わるとおやつにお抹茶をたてて下さり、上等のお饅頭と共にいただけるのが楽しみでした。次第に生徒さんも増えて、やがておやつは麦茶と駄菓子になりました。
絵が出来上がる頃合いを見計らってM先生が現れ、「うん、うん、よぉ描けてる」とか言いながらちょっと筆を入れたりして下さいました。こうして描いた絵をサクライ先生に見せたら先生は大喜びで褒めてくださり、それからは見せに持って行くたびに早速学校のあちこちの壁に掛けてしまわれるので、私はうれしいよりも恥ずかしく照れくさくて、困惑していました。サクライ先生は溺愛と言えるほど私を”ひいき”にして下さるので、その分友達に白い目で見られ、ありがた迷惑とはこのこと、とさえ思っていましたのに、この状況はサクライ先生の不慮の事故死で終止符が打たれてしまいました。それと共に私の絵から友達の関心も去ったので、先生の死は悲しいけれど少しホッともしました。
中学に進むとき、エッチャン先生宅に近い同志社女子中学を選んだのは、絵のお稽古場が近いという理由の他に、外国風のレンガ造りの校舎にあこがれたこともあります。
4. スミコさん
同志社に入って最初の夏休み明け、西洋人形を描いた絵を学校に持っていったら、上級生の作品と共に私学連合展に出してもらえることになりました。そこでまたまた「上には上があるもの」と私は驚くことになります。一年上級のスミコさんが菊の花を描いた作品など、とても中学生の絵とは思えぬ巧さでした。この連合展の講評に来てくださったのが、イケダヨウソンという名前のほっそりした縮れ毛の絵描きさん、その時は変わった名前やなあくらいにしか思わなかったのですが、お若い日の池田遙邨、後に文化勲章の先生でした。私の絵には「なかなかうまくいってますよ」みたいな事を言って下さったように思います。
スミコさんとは、それからも学校の行事などでいつも一緒に絵を出す仲になり、会うと「あんた、描いてる?」「うん、描いてる」が挨拶言葉でした。いつもスミコさんの絵は私の絵より素晴らしいと感じていましたから、「きっとこの人は絵描きさんにならはるにちがいない」と思ってたものです。新校舎が竣工したときに、スミコさんと私はその校舎に飾る油絵を描くように学校から指名、ちょっとえらそーにいうと委嘱されました。私はM先生とエッチャン先生に相談して、壺に生けた「ダリア」の絵を描きました。スミコさんのは大皿に載った「大ヒラメ」の絵だったのでちょっと驚きました。その時の私の絵は今思い出しても不出来で、掛けられている場所を通るのがいつも恥ずかしかったものです。
同志社へ入ってからというもの、毎週土曜日には学校からエッチャン先生宅に直行し、先生の用意して下さった花や果物などの静物や、気候の良いときには近くの京都御所、平安神宮御苑の花菖蒲や睡蓮、銀閣寺道などの風景の写生に励みました。その頃M先生に引率され、みんなで大阪天王寺美術館まで「マチス展」を見に行ったのが、一番の思い出です。会場にあふれていたマチス晩年の、海藻のような、木の葉のような、バラ色やブルーの「切り絵」は今でも私の魂を染めたように鮮やかです。
5.「ひまわり」
エッチャン先生は私達にひまわりの絵を描かせようと、お庭に春からひまわりの種をまいて下さいました。その年の夏は順調に梅雨も明けて、やがて立派なひまわりの花が咲きました。油絵を描く人間は、先ずはひまわりを描きたいと思うのではないでしょうか。ゴッホのひまわりを知っていても、いなくても、モチーフとしてのひまわりは、魅力満点です。「さあ、描くぞ」と意気込んだその時の気持ち、今もはっきり覚えています。丁度夏休みなので、いつものお稽古のように半日でなく、朝から、気持ちも普段よりずっと絵に集中出来ました。はじめて15号のカンバスに挑戦することになりました。一日では描き上がらず、次の週も一心に描きました。ちょうど甲子園の高校野球の期間と重なっていて、この「ひまわり」の絵が完成した日に、京都代表平安高校も全国優勝をとげました。声を揚げました。これが、私の、一枚目の「ひまわり」なのです。
思えばその頃が私のピークだったようです。「ひまわり」は会心の作でした。「これはイタニさんに見て貰おう」と言って、M先生はひまわりの絵を持って、当時行動美術の中心だった伊谷賢蔵先生の下鴨梅ノ木町のお宅へ私を連れて行かれました。若くして未亡人になり絵描きとして自立しようと再出発されたM先生にとって、伊谷先生は一緒に油絵修行をなさった親友、お二人のやりとりから、友情で結ばれた大人の男女を子供ながらに清々しく感じたものです。温厚な伊谷先生は「バックがうまくいっていますね」と褒めてくださいました。この「ひまわり」はその後描いたトマトや茄子の20号「夏の野菜」と共に、M先生の所属される二紀会関西展に出品して入選し、大阪天王寺美術館に展示されました。その年は、ススキなど秋草を描いた12号「秋の花」で、京展にも初入選しました。
6.真如堂
高校生にもなるといろいろ興味も広がって、他方、絵には行き止まり感があり、大学進学を控えて進路を考えねばならない時期になっていました。私の絵を壁に貼ってくれた叔父は、その後京大を出て毎日新聞の記者になり、作家井上靖先輩に心酔していたので「美学に行けばどうか」などと言ってくれましたが、私は植物など科学への興味が次第に膨らんでいたのです。それでもだらだらと惰性で絵のお稽古に通い、写生に行ったりしていました。秋の京展に出した如何(どう)にも気の入っていない西瓜の絵は、当然のこと、落選しました。自分でも何が欠けていたか良くわかっていながら、それでも初の落選がショックで、一層絵への気持ちを冷ませてしまった私でした。
高二の晩秋、真如堂の紅葉を描こうと土曜日から描き始めたのですが、秋の落日はことに早く、絵はその日のうちに終わらず翌日ももう一人の友人と一緒に、続きを描きに行きました。朝、待ち合わせした東一条(今の京大前)は折しも京大学園祭の真最中、「絵の仕上げに、もう一日中かかりはしないから、学園祭をちょっと覗いてから行きましょうよ」という事になって、絵の具箱をさげたまま、医学部の解剖展や薬学科の展示に足を踏み入れてしまいました。薬学科ではエンジュの蕾からルチン(血圧降下剤)を抽出していました。それを見て「私もやってみたい、そうだ此処にしよう」、稲妻に打たれたように突然私は進学先を決めてしまったのです。それからはもう真如堂での写生も気もそぞろ、結局これが最期の写生となって、私のその後は、一挙に受験勉強に突入して行くことになります。エッチャン先生やM先生にことの成り行きをどう説明し、どのようにしてお稽古場を辞したのか、なにも覚えていません。
若いときの心変わり、夢中さは、後から思い返せば冷や汗がでるほど自分本位なものです。
翌々春、幸いにも志望通りに進学できました。入学して驚いたことには同じ医学部の医学科に、一年浪人したスミコさんがいて、「なんでここにいるの? 絵描かへんの?」と互いに、同時に、同じ質問を発しました。スミコさんも私と似たようなことだったらしく、「もう全然描いてへんねん」と、答えも同じ。
それからはスミコさんと一緒に、学園祭で遊び、ダンスパーティで踊り、学生生活を大いに楽しんだのですが、二人とも大学時代にはまったく油絵を描いていません。私が当時描いたものといえば、「生物学実験第一」での顕微鏡で見たミジンコやゾウリムシの鉛筆画、さすがに評価は良くて「A」でした。それでも初めての夏休み、信州へ行ったときの写真の横に、ヤナギランのスケッチを張り付けて居るところを見ると、絵を描きたい気持ちは細々と続いていたようです。
そのようにして大学生活が終わり、スミコさんとも別れて月日はどんどん経って行ったのでした。その間に実家が京都の家を引き払って東京に移ったり、私自身が結婚したりして、沢山ごろごろとあった自分の作品の殆どは処分したのですが、あの「ひまわり」の絵だけはずっと手元に置くことにしました。
7.再会と別れ
スミコさんが小児科医になって大学病院に居られるとは聞いていたのですが、私達夫婦は転勤につぐ転勤で会うこともなく数年が経ちました。学園紛争が医学部の機能を麻痺させた事に失望したスミコさんは、研究を途中で投げ出して、受け持ち患者のお祖母ちゃんにあたる人の勧めるままに水戸近くの病院の院長先生と結婚、すぐに生まれた可愛い坊やを抱いている写真が、ある日突然、私のもとに送られて来ました。その三年後、子供も二人に増えた私達家族もたまたま転勤で同じく水戸の近くのT村に移り、またもやスミコさんと思いがけぬ邂逅(めぐりあい)を果たすことになります。
「絵、描いてるか?」
「ううん、描いてぇへん」
遊びかたがた子供に予防注射をしてもらいにとか、スミコさん宅を訪ねて行く時々に、また大学時代と同じ質問から入っては笑ったり嘆いたりする私たちでした。年子で二人に増えていたスミコさんの坊やたちが、私達のおしゃべりに割り込んでくると、スミコさんは「アレ描いてあげるからね……」と紙と鉛筆を持って来させ、私とは話し続けながらスラスラと宇宙戦士ガンダムだかなんだかの絵を描き始めます。線の確かさ力強さは紛れもなくスミコさんの絵、うちの娘など「おばさん、上手だぁ……」と目をまん丸くしていました。
スミコさんが「お父ちゃん」と呼ぶ院長先生は美術愛好家で、応接間には茨城県出身の木内克の彫刻が飾ってありました。「子供の手が離れたら、また絵ぇ描きたいね。お宅のお父ちゃんにスポンサーになってもろて、水戸で、二人展でもしようか」等と、冗談とも、夢ともつかぬ事を話していたのですが。
その頃私は三人目の子供を身ごもっていました。ところが産まれた子どもはダウン症でした。診察して告知してくれたのはスミコさんです。
「あんなあ、気の毒やけどダウン症やわ。うち、京大病院でこれ専門やってんから、診まちがいないねん。そやけど、うちがあんじょう教えてあげるし、心配せんかてええよ」と、スミコさんはいつものおっとりした京都弁で説明して下さいました。あとから聞いたら、スミコさんはその夜は、私と私の赤ん坊のこれからを思って眠れなかったそうです。私のほうは深刻な事態に陥って居るにもかかわらず、スミコさんが「わたしに任せておおき」と言ってくれたのにほっとして、その夜はちゃんと寝たのです。
それからは何から何まですっかりスミコさんに頼っての、私のダウン症児育てが始まりました。あとから他の方の話を聞くと、皆さん良い専門医と情報を求めて随分苦労されたそうで、偶然にもそれら全てを与えられた私の幸せを神様にどれほど感謝したかしれません。私達が学んだ中学高校には礼拝や聖書の勉強があったのですが、その時におぼえた「神様は全てのことに備えて下さる」という言葉は本当やったと、しみじみと思いました。
そのダウン症の子供が一才半の時に私達家族は転勤で東京に戻りました。スミコさんは東京で世話になる専門医も紹介して下さり、そのお陰で私は引き続き不安なく障害のある子を育てる事が出来ました。いつも電話でしゃべりました。
ある頃からスミコさんは、「もう更年期なんやろか、ちょっと具合がわるいねん」と言いだし、やがてある日、「けったいな細胞が見つかってしもてなあ、うち白血病なんや」と教えられました。
「そんな……」
「慢性白血病の平均寿命は四年やねん。主治医の先生はなんとしてでも十年は持たしてあげよう、って言うてくれはるねんけど」
「十年言うたかて、それではまだ六十歳ちょっとやで。そんなん早すぎるやんか」。
電話口で私は悲鳴をあげていました。でも、スミコさんは最善の治療の甲斐もなく、本当に四年目に、五十六歳の若さで亡くなってしまいました。私は虚脱してしまい、もう悲しくて、悲しくて、絵を描く気力など更になくなってしまいました。
それからまた、何年かが経ちました。
<再び描く>
1.色鉛筆
ダウン症などの先天異常を持つ胎児の、出生前診断が世間の話題を呼び、生命倫理が社会の注目をあびるようになったころ、その勉強会で知り合った若い社会学者の女性から一枚の絵葉書が届いた。目を惹く美しいバラ一輪が描かれていて、裏面に「妹が個展をします。お時間があったら観てやって下さい」と書き添えてあり、思いがけないことにそれは展覧会の案内状だった。その一輪のバラに誘われ、年末の銀座近くの会場に私は足を運んだ。
やわらかく、静謐な、不思議な絵――。いったい何をつかって描いてあるのか、花や、雪景色が、あわあわとした色で、でも、しっかりと大きな画面に塗り込められている。
お姉さんの面影に似てすぐその人とわかった作者に、「何で色を塗ってあるのですか」と尋ねる、と、「色鉛筆ですの」と。
色鉛筆? これが?
「こんなに広い面積を、全部、塗ったんですか」と驚く私に、お姉さん同様に物静かなその人は「はい、そうです。この 頃は沢山の美しい色の鉛筆が手に入るのですよ」と答えて下さった。
そうか、色鉛筆なら手軽に描ける。画材店の年末セールにスイス製の56色鉛筆を見つけたので、早速に買って来た。紙は絵手紙サイズでとにかく描いてみよう…、と、翔びたつほど急に私は描く気になった。お正月を期して私はひさしぶりに写生を始めたのである、折から一九九九年、新春のこと。
それからの一年間は、庭に咲く花を次々に写生した。30枚も描いただろうか。楽しかった。描いている時間、それはたかだか三十分やそこらなのだが、我を忘れて描いていた。そう、この感じよ、と思い出した。最初の数枚は線も探り探りで頼りなく、そのうちだんだんに思い切りの良くなるのが自分でわかる。花びらのうすさ、手触り、みずみずしさや香りも書き写せるようにと、欲にきりはない。最初ボタニカル・アート風に描いていたが、やがてもう少し省略してみようとか、もっと大きい画面に描きたいとか、気持ちが膨らんできた。花以外のものも描いてみようと、旅のつどスケッチを始めたのも、その頃から。
2.通信教育
私が50年ぶりに油絵の勉強をしようと、大手出版社がやっている通信制のスクールに入ったのは一寸した偶然からだ。ある日新聞の下段に「あなたの絵の才能を診断します」という広告を見つけた。構図や遠近法についてのいくつかの質問と、簡単な絵のテストが印刷されている。一つやってみるか。指定の用紙に適当に書き込んで切り抜いて投函した。一向に返事もなく忘れかけた頃に、「応募者が多くて判定に時間がかかっています。今しばらくお待ち下さい」という通知が来た。それからまた数カ月が経ち、もうあんなインチキくさいテストのことなどすっかり忘れていた。
突然夫の仕事に同伴しての短いロンドン再訪旅行が実現した。私は一九六四年に二ヶ月ばかりロンドンに滞在していたことがある。その機会(おり)スイスやパリへも旅したのだが、その途中で出会った日本人画家が、「ルーブルも良いけれど、ロンドンに滞在しているのであれば、ナショナルギャラリーを幾度でもご覧なさい。作品が精選されていて素晴らしいです。あそこの”ひまわり”は、ゴッホの沢山のひまわりの中でも一番の”ひまわり”」と教えて下さった。そしてロンドンに滞在中、ナショナルギャラリーを二度訪れて、その”ひまわり”を観た。
今回の旅では私にもお役目があり自由時間は少なかったのだが、最後の日に、「どうしても”ひまわり”を観に行って来たい」と、私は単独行動を願い出た。そして再会したナショナルギャラリーの”ひまわり”は、昔の記憶より小さい絵だった。何故にゴッホはあれほど沢山のひまわりの絵を描いたのだろう、ひまわりに託して何を伝えようとしているのだろう、何を思いながらゴッホはこの”ひまわり”を描いていたのだろう。
立ちすくんだ。ゴッホでなくとも、ひまわりには何度でも描きたいと思わせる力がある。すくなくとも私にはそう思える。
「もう一度、一度と言わず何度も、やっぱり私もひまわりが描きたいなあ」
そう思い、久しぶりにちょっとハイな気分で帰国したのだった。
留守中の郵便物を整理していたら見慣れぬ水色の封筒があって、差出人はK社**スクール。
「これ何?」
そう、それはあの「才能テスト」の返事だった。そこには「貴女は成績優秀だから、弊社の通信制スクールで勉強しませんか。詳しい説明を致しますので、10月*日から*日までの間の都合の良い日を決めて弊社までおいで下さい」とあった。こちらはちょうどその間を旅行していたわけでもう返事の期日はすぎていたが、まあ電話くらいしてみようと思ってダイアルした。電話の感じではインチキでもなさそうだし、K社は一応名の通った出版社、それにその時私はまだロンドンからの興奮状態が続いていたので、とにかく本駒込にあるそのスクール事務所へ出かけて行くと約束した。作品があれば持参するようにと言われたので、色鉛筆の花の絵を手提げ袋に入れた。
スクールの人は採点した私の成績を見せ、持参した花の絵も褒めた上で、勉強すればもっと良い絵が描けるようになりますよと、聞いている私をワクワクさせるような事を言う。でも、三年間コースの授業料は結構な金額で、急に主婦感覚が戻ってきて「家でよく考えてきます」とその日はひとまず帰って来た。しかし私は子供の時から、何かやりたくなったらもう夢中、せっかちなところがあるので、すぐに誰にも相談せずに多額な授業料を払ってしまった。
大きな段ボール箱一杯のテキストブックや画材が届いたときには、新入学のお道具を買い整えて貰った子供のようにうれしかった。スクールの課程は基礎と専門(私の場合は絵画専科、他にイラストやデザイン専科がある)に分かれていて、最初は鉛筆やペンの使い方、走らせ方から始まる。私のように、昔絵を描いていたと言っても勝手気ままにやっていたものには、なかなか新鮮な勉強だった。どんどん順調に課程は進む。クロッキーの課題では電車を待つ人や車内の人をこっそりと写した。後ろ姿と眠る姿ばかりしか描けなかった。この六十五年間、私は一体何を見て生きて来たのだろう。これまで如何にものをしっかり見ていなかったかを私は痛感した。それでも毎日の生活に根ざしたものはちゃんと描けるようだ。家族の顔、見慣れた花瓶、グラスや鉢などは、思ったよりも巧く描けることも知った。まず対象を良く知ること、対象に愛情を持っていること、それらに感動することが大切と、そんな自明の事に今更ながら気付く。
半年あまり経った春には順調に基礎課程を修了し、いよいよ油絵の具に手を出す。
ああ、この匂い。京都の、同志社の、御所のあたりが目に浮かび、懐かしさに胸が一杯になる。布張りカンバスが高価なのは今も昔も同じ、以前はベニヤ板に描いていたが、今はカンバスペーパーという便利なものがあった。安価なところが好都合なのだが、なにより場所をとらないのが有り難い、と、また主婦感覚が出てくる。大体主婦の趣味といえば、手芸、料理など「趣味と実益」ものが主流だ。焼き物だって、出来た茶碗は下手でもなにかに使える。その点下手な絵なんて全くの役立たず、嵩張るゴミでしかない。
3.「ひまわり」再び
その夏、高原の農場売店で理想のひまわりに出会った。300円とかの値段など問題じゃない。都会の花屋のそれのように、こぢんまりとした花がまっすぐの茎に乗っかって居たりしない。力強くぐいっと曲がった花茎が、ぎっしり芯の詰まった重々しい花を支えている。私の欲しかったひまわりだ。ぬらしたティッシュで切り口を巻いて大切に東京の家に持って帰り、翌日から描き始めた。
毎日時間を作って少しずつ、夢中で描いた。
当面のライバルはあの中学二年の「ひまわり」だ。二階で二枚目の「ひまわり」を描きながら、一枚目の「ひまわり」を見に、私は何度もその絵が掛かっている階下の部屋を覗きに行った。見れば見るほど中学二年の「ひまわり」は手強い相手だ。若い自分に嫉妬を覚える。どうしてこれが描けたのだろう、これ以上には描けないのではないか、不安になる。もう私の中から何かが消え失せてしまっているのではないか。
花びらの一枚一枚、中央部分の色の変化、葉の一枚一枚、テーブルのレース、大人になった私はどれも丁寧に、丁寧に描かずにはいられない。それはそれで良いことだ。
けれども、何かが足りない、物足りない。大胆に、大胆にと自分に言い聞かせ、無心の自分を取り戻そうと懸命になった。丹波焼きの壺に生けたひまわりがよれよれになってしまった頃に、一応筆を置いた。それからも、その絵を何度も眺めた。秋になってバックと葉色を手直しした。それによって新しい「ひまわり」は、昔の「ひまわり」とかなり印象の違うものになった。そして今度は本当にそこで筆を止め、サインを入れた。M.Sugamotoではなく、M.Fujieと。
4.入選
名前は**アートスペースと立派だが、そこはほんの小さなビルだった。
まず一階受付の女性に「ご記名をお願いします。どなたの作品を見に来られましたか?」と声をかけられた。
「自分のですが……」
彼女は記名帳の私の名前を見て名簿をチェックしながら、「あらっ、三階です」とつぶやくように言った。すぐ横の小さなエレベーターに入り三階のボタンを押す。止まって扉が開いたら「あれ、まあ」、眼前に、鼻つき合わすような距離で、私のあの「ひまわり」が屹立していた。あまりにも早速の出来事に、うろたえている自分がおかしかった。自分の絵がどこにあるかとドキドキしながらさがし出し、やっと対面するものとばかり想像していたから、混乱した。
私が受けている通信教育のスクールでは、年に一回アートコンテストという催しがある。卒業生、在校生なら誰でも出展できて、大賞や奨励賞の他にスポンサーからの賞などあり、それぞれに賞金や副賞も出る。出展者にも力が入ってなかなかレベルが高い。昨年は風景画を出したがこれは見事に落選した。そして今年「ひまわり」の絵で挑み入選を果たした、というわけである。ふっ、ふっ、とつい頬がゆるむうれしさの中で、入選の知らせが来てからの日々を過ごした。
通知が来たとき私は「夏の終わり」というタイトルをつけた絵を描いていたのだが、なんだか不安になって来た。もしかしたら、私は「ひまわり」の時にしか満足のゆく作品が描けないのではないか。「ひまわり」の不思議な力で入選出来たのではないか。今描いているのは、いろいろなカボチャが籠に入っていて脇には枯れた夏の花が壺に投げ込まれている、そんな絵だ。その壺の中に小さなひまわりの枯れ花を一本加えた。そしてなんとなく少し安堵した。
5.卒業製作
通信制アートスクールは24の課題作品を制作すると卒業となる仕組み。テキストの指示に従って馬の絵だとか、室内の風景だとかいろいろな勉強をした。そしていよいよ最後の作品”自由課題”、何でも良いが自分の一等描きたいものを描くように、とあった。
私は、早い頃から何を描くか、それだけは決めていた。娘の結婚式でのスナップ写真をもとにしたもの。新緑の庭に一人で立つ花嫁、五月の風が今さっきの式で後ろへ跳ねのけたベールを、一瞬、吹きあげる。ウエディングドレス姿の娘は、前日自分で作った薔薇のブーケに目を落として、ふと物思いにふけるような眼差し。頬にはかすかな笑みが浮かんでいる……
「一体彼女は何を思っているのだろう」……それが、絵のテーマである。
とにかく全体に清潔感のあふれた、汚い色の全くない絵にしよう。ルノアールの名作「ぶらんこ」の写真も少し参考にさせてもらった。やはり花嫁の表情が一番難しかった。数ヶ月かかって何とか満足できるものに仕上がったのでスクールに送った。
それから二ヶ月近く、暮れも押し迫って添削されて戻ってきた。評価は「A」。
やっと「A」が貰えた。これまでにも「A-」には届いたが、小さなマイナスマークがとれる迄の今一歩が遠かった。Aが貰えぬままに課程が終わってしまってもそれはそれで仕方のないことだけれども、自分の勉強が足らなかったから目的を達しないままに終わってしまうようで、いやだった。だからホッとして、それからとてもうれしくなって来た。
6.アドバイスの手紙
最終作品にはスクールからの質問用紙への回答を添付するようになっていて、製作意図を問うとともに「あなたの絵についてアドバイスして欲しい問題があればそれを書いて下さい」とあった。そこで私は「スクールの課程が終わってしまって一寸不安です。これから自分のどんな所を大切にして勉強を続ければよいか、アドバイス頂けるとうれしいです」と記入した。
返送されてきた作品には、インストラクターW先生の具体的な講評とともに、便せん二枚に書かれたスーパーバイザーである山内亮画伯自筆の返事が入っていた。
山内画伯からの返事(原文のまま)
藤江さん、とても気持ちのこもった卒業制作で充実感のある良い作品となっています。娘さんの表情や色使いなど瑞々しい印象が良く表されています。今回で卒業となり今後の勉強を如何に行うかは、いずれも直面する問題で大切なところです。貴方の一枚の作品で今後を考えるのはむずかしいのですが、我々側が一番心配するのは目標を失うことで絵を描かなくなってしまうことです。時間をかけて蓄積されたもの、ものの見方や表現力を失うのは簡単なことです。とにかく感動したもの、心を動かしたことについて貪欲なまでに描いてみる気持ちがあると良い。決して大きなテーマを設けなくても身近なもの、身近な日常を絵にする気持ちがあれば、モチーフも見つけやすいでしょう。絵画に興味を向ける者達の特権は自由な精神と、青年のような若さです。そのような気持ちを忘れないようにして、貴方の感性を生き生きとのばして下さい。今回の絵を見る限り、その感受性が貴方の特徴であり、そのことに素直になればきっと良い絵が生まれることと信じています。良いアドバイスになったか分かりませんが、今後ともにこの調子で頑張って下さい。楽しみにしております。 山内 亮
過分な言葉をもらった、と思った。これから巣立つ年老いた生徒を励まそうとの先生のやさしさだとは思うけれど、うれしかった。ずっともやもやと立ちこめていたものが一気に晴れて行く気分だった。何度も何度も読み返して、今私はどんなに勇気づけられていることか。山内先生ありがとう。
<新たな決意>
子どもの時少しばかり絵が巧かったからといって、それが何ほどの事であろう。素人の作品展に入選したからとて、それがどうしたと言うのか。私程度の才能ならば、高校生の時に絵を描くのをやめたのも当然の成り行き、賢明な選択だったのかもしれない。そんな私だけれども今やっと、五十年前絵筆を置いた時点にまでは戻れた気がする。だからこれから残る時間でその続きをやってみよう、やってみたい。
数え切れない才能のある人達にまじってもう一度スタートしたい、そう思う私にどんな未来があるのだろう。やっぱり年寄りの趣味でしかありえないのだろうか、と不安になる。確かに描くことは好きだし楽しい。でもそれだけで満足したくない。私は何かを表現したい。高校生の時には分からなかったもの、その後の五十年間の人生で私の中に育んできたもの、それを絵にして出したい。今なら出せる、そんな気もする。でなければ心残りなのだ。それは何なのだろう。おぼろげに私の描くものの中に見えてきているもの、それは自然の輝き、生きる喜び………とにかく描こう。一生懸命自分が感動するものを描いて行こう。勉強しなくては。苦しまなくては。いつか、何かが私の絵の中に現れて来るのを待とう。今度はもう途中でやめたりしない。筆を置くのは死ぬとき、の覚悟。
終わり(2003年暮れ)
<追記・消息>
ミネギシサチコさんとタナカノブユキくんの消息は戦争を境に途絶えたままだ。当然の事に私と同年だから、今もどこかで、もしかしたら好きな絵を描いて居られるのかも知れない。そうだったらいいなあ、と思う。サクライ先生は早くに亡くなり、スミコさんとも思いもがけぬ悲しくて早い別れをして、この秋で十三回忌だったと聞く。伊谷先生は六十代で癌で亡くなったが、M先生は八十歳過ぎても健筆を揮って居られたので、東京に居ても二紀展の折りには作品にお目にかかれた。しかしいつしか出品がなくなり、風の便りに亡くなったと聞いた。エッチャン先生は結局絵筆一筋の人生を選ばれ、途中から画風を抽象に変え行動美術の中堅として頑張って来られた。七十歳を過ぎられた頃に一度だけ京都でお会いした。その頃目を悪くされていて、続いて脳梗塞が起こったとかで絵が描けなくなられ、今は老人施設で過ごして居られると聞く。さびしい。
秦様
気温は低いが陽差しは春、洗濯を干していたら庭の杏子の膨らんできたつぼみにメジロが遊びに来てピッチュクピと歌を聞かせてくれました。
HPで秦様からの自分史への助言を読んでもう一度いろいろ反省しています。
その一方で、大体書き上がったがどこで止めればよいのか、「ああでもない、こうでもない」とひねくっていた文章を秦様に見ていただく決心もつきました。
とにかくお送りして見ます。お忙しいところへ恐縮ですが読んでいただければ嬉しいです。
三部作などと構想を述べるのも恥ずかしいのですが、先の「新宮川町五条」に続く、これは第二部とも言える思いで書きました。「灰色の家」は番外で、第三部とも言うべき「書かねばならないこと」はこれからです。ぼちぼちとは書いているのですが。
2004/3/8 藤江もと子