招待席

ひぐち いちよう  小説家  1872.5.2(旧3.25) - 1896.11.23 東京府内幸町に生まれる。  抜群の才能で近代に先駆け二十五歳で逝った閨秀作家。  掲載作は、名作「たけくらべ」と時期重なる明治二十八年 (1895)十二月「文藝倶楽部」閨秀小説に、改作「やみ夜」とともに発表の、代表的一代の秀作。 (秦 恒平)





       十三夜     
樋口 一葉



   
 
  例(いつも)は威勢よき黒ぬり車の、それ門(かど)に音が止まつた娘ではないかと両親(ふたおや)に出迎はれつる物を、今宵(こよひ)は辻より飛(とび) のりの車さへ帰して悄然(しよんぼり)と格子戸(かうしど)の外に立てば、家内(うち)には父親が相(あひ)かはらずの高声(たかごゑ)、いはゞ私(わ し)も福人(ふくじん)の一人、いづれも柔順(おとな)しい子供を持つて育てるに手は懸(かゝ)らず人には褒(ほ)められる、分外(ぶんぐわい)の慾さへ 渇(かわ)かねば此上に望みもなし、やれやれ有難い事と物がたられる、あの相手は定めし母様(はゝさん)、あゝ 何も御存じなしに彼(あ)のやうに喜んでお出(いで)遊ばす物を、何(ど)の顔さげて離縁状(りゑんじよう)もらふて下されと言はれた物か、叱(し)から れるは必定(ひつぢよう)、太郎といふ子もある身にて置いて駆(か)け出して来るまでには種々(いろいろ)思案もし尽くしての後(のち)なれど、今更にお 老人(としより)を驚かして是れまでの喜びを水の泡にさせまする事つらや、寧(いつ)そ話さずに戻ろうか、戻れば太郎の母と言はれて何時(いつ)いつまで も原田の奥様、御両親に奏任(そうにん)の聟(むこ)がある身と自慢(じまん)させ、私(わたし)さへ身を節倹(つめ)れば時たまはお口に合ふ者お小遣ひ も差あげられるに、思ふまゝを通して離縁とならば太郎には継母(まゝはゝ)の憂き目を見せ、御両親には今までの自慢の鼻にはかに低くさせまして、人の思は く、弟(おとゝ)の行末、あゝ 此身一つの心から出世の真(しん)も止(と)めずはならず、戻らうか、戻らうか、あの鬼のやうな我良人(わがつま)のもとに戻らうか、彼(か)の鬼の、鬼 の良人(つま)のもとへ、ゑゝ 厭(い)や厭やと身をふるはす途端、よろよろとして思はず格子(かうし)にがたりと音さすれば、誰れだと大きく父親の声、道ゆく悪太郎の悪戯(いたづら) とまがへてなるべし。
 外なるはおほゝと笑ふて、お父様(とつさん)私で御座んすといかにも可愛(かわゆ)き声、や、誰(た)れだ、誰れであつたと障子を引明(ひきあけ)て、 ほうお関(せき)か、何(なん)だな其様(そん)な処に立つて居て、何(ど)うして又此(この)おそくに出かけて来た、車もなし、女中も連れずか、やれや れま早く中へ這入(はい)れ、さあ這入れ、何(ど)うも不意に驚かされたやうでまごまごするわな、格子は閉めずとも宜(よ)い、私(わ)しが閉める、兎も 角(ともかく)も奥が好(よ)い、ずつとお月様のさす方へ、さ、蒲団へ乗れ、蒲団へ、何(ど)うも畳が汚ないので大屋(おほや)に言つては置いたが職人の 都合があると言ふてな、遠慮も何も入(い)らない着物がたまらぬから夫(そ)れを敷ひて呉れ、やれやれ何(ど)うして此遅くに出て来たお宅(うち)では皆 お変りもなしかと例に替らずもてはやさるれば、針の席(むしろ)にのる様(やう)にて奥さま扱かひ情なくじつと涕(なみだ)を呑込(のみこん)で、はい誰 (だ)れも時候の障(さわ)りも御座りませぬ、私(わたし)は申訳のない御無沙汰して居りましたが貴君(あなた)もお母様(つかさん)も御機嫌よくいらつ しやりますかと問へば、いや最(も)う私(わし)は嚔(くさみ)一つせぬ位、お袋は時たま例の血の道と言ふ奴を始めるがの、夫(そ)れも蒲団かぶつて半日 も居ればけろけろとする病(やまひ)だから子細(しさい)はなしさと元気よく呵々(からから)と笑ふに、亥之(ゐの)さんが見えませぬが今晩は何処(どち ら)へか参りましたか、彼(あ)の子も替らず勉強で御座んすかと問へば、母親はほたほたとして茶を進めながら、亥之(ゐの)は今しがた夜学に出て行(ゆ き)ました、あれもお前お蔭さまで此間(このあひだ)は昇給させて頂いたし、課長様が可愛(かあゆ)がつて下さるので何(ど)れ位心丈夫であらう、是れと 言ふも矢張(やつぱり)原田さんの縁引(ゑん)が有るからだとて宅(うち)では毎日いひ暮して居ます、お前に如才(ぢよさい)は有るまいけれど此後(この ご)とも原田さんの御機嫌の好(い)いやうに、亥之(ゐの)は彼(あ)の通り口の重い質(たち)だし何(いづ)れお目に懸(かゝ)つてもあつけない御挨拶 よりほか出来まいと思はれるから、何分(なにぶん)ともお前が中に立つて私(わたし)どもの心が通じるやう、亥之(ゐの)が行末をもお頼み申(まをし)て 置てお呉れ、ほんに替り目で陽気が悪いけれど太郎さんは何時(いつ)も悪戯(おいた)をして居ますか、何故(なぜ)に今夜は連れてお出(いで)でない、お 祖父さんも恋しがつてお出(いで)なされた物をと言はれて、又今更にうら悲しく、連れて来やうと思ひましたけれど彼(あ)の子は宵まどひで最(も)う疾 (と)うに寐ましたから其まゝ 置いて参りました、本当に悪戯(いたづら)ばかりつのりまして聞わけとては少しもなく、外へ出れば跡(あと)を追ひまするし、家内(うち)に居れば私(わ たし)の傍ばつかり覘(ねら)ふて、ほんにほんに手が懸(かゝ)つて成ませぬ、何故(なぜ)彼様(あんな)で御座りませうと言ひかけて思ひ出しの涙むねの 中に漲(みなぎ)るやうに、思ひ切つて置いては来たれど今頃は目を覚して母(かゝ)さん母さんと婢女(をんな)どもを迷惑がらせ、煎餅(おせん)やおこし のたら(=口ヘンに、多)しも利かで、皆々手を引いて鬼に喰はすと威(おど)かしてゞも居やう、あゝ 可愛さうな事をと声たてゝも泣きたきを、さしも両親(ふたおや)の機嫌よげなるに言ひ出(いで)かねて、烟(けむり)にまぎらす烟草(たばこ)二三服、空 咳(からせき)こんこんとして涙を襦袢(じゆばん)の袖にかくしぬ。
 今宵(こよひ)は旧暦の十三夜(じふさんや)、旧弊なれどお月見の真似事に団子(いしいし)をこしらへてお月様にお備へ申せし、これはお前も好物(かう ぶつ)なれば少々なりとも亥之助(ゐのすけ)に持たせて上(あげ)やうと思ふたけれど、亥之助も何か極(きま)りを悪がつて其様(そのやう)な物はお止 (よし)なされと言ふし、十五夜にあげなんだから片月見(かたつきみ)に成つても悪るし、喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上(あげ)る事が出来なん だに、今夜来て呉れるとは夢の様な、ほんに心が届いたのであらう、自宅(うち)で甘(うま)い物はいくらも喰べやうけれど親のこしらいたは又別物、奥様気 を取(とり)すてゝ今夜は昔(むか)しのお関になつて、外見(みえ)を構はず豆なり栗なり気に入つたを喰べて見せてお呉れ、いつでも父様(とゝさん)と噂 すること、出世は出世に相違なく、人の見る目も立派なほど、お位の宜(い)い方々や御身分のある奥様がたとの御交際(おつきあひ)もして、兎も角も原田の 妻と名告(なのつ)て通るには気骨の折れる事もあらう、女子(をんな)どもの使ひやう出入りの者の行渡り、人の上に立つものは夫(そ)れ丈に苦労が多く、 里方が此様な身柄(みがら)では猶更のこと人に侮(あなど)られぬやうの心懸(こゝろが)けもしなければ成るまじ、夫れを種々(さまざま)に思ふて見ると 父(とゝ)さんだとて私(わたし)だとて孫なり子なりの顔の見たいは当然(あたりまへ)なれど、余(あんま)りうるさく出入りをしてはと控へられて、ほん に御門の前を通る事はありとも木綿着物に毛繻子(けじゆす)の洋傘(かふもり)さした時には見(み)すみすお二階の簾(すだれ)を見ながら、吁(あゝ)お 関は何をして居る事かと思ひやるばかり行過ぎて仕舞(しまひ)まする、実家でも少し何とか成つて居たならばお前の肩身も広からうし、同じくでも少しは息の つけやう物を、何を云ふにも此通り、お月見の団子(いしいし)をあげやうにも重箱(おぢう)からしてお恥かしいでは無からうか、ほんにお前の心遣(こゝろ づか)ひが思はれると嬉しき中にも思ふまゝの通路(つうろ)が叶はねば、愚痴の一トつかみ賎(いや)しき身分を情なげに言はれて、本当に私は親不孝だと思 ひまする、それは成程和(やは)らかひ衣服(きもの)きて手車(てぐるま)に乗りあるく時は立派らしくも見えませうけれど、父(とゝ)さんや母(かゝ)さ んに斯(か)うして上(あげ)やうと思ふ事も出来ず、いはゞ自分の皮一重(かはひとゑ)、寧(いつ)そ賃仕事してもお傍(そば)で暮した方が余(よ)つぽ ど快(こゝろ)よう御座(ござ)いますと言ひ出すに、馬鹿、馬鹿、其様(そのやう)な事を仮にも言ふてはならぬ、嫁に行つた身が実家(さと)の親の貢(み つぎ)をするなどゝ思ひも寄らぬこと、家に居る時は斎藤の娘、嫁入つては原田の奥方ではないか、勇(いさむ)さんの気に入る様にして家の内を納めてさへ行 けば何(なん)の子細(しさい)は無い、骨が折れるからとて夫れ丈の運のある身ならば堪(た)へられぬ事は無い筈、女などゝ言ふ者は何(ど)うも愚痴で、 お袋などが詰(つま)らぬ事を言ひ出すから困り切る、いや何(ど)うも団子(だんご)を喰べさせる事が出来ぬとて一日大立腹(おほりつぷく)であつた、大 分(だいぶ)熱心で調製(こしらゑ)たものと見えるから十分に喰べて安心させて遣つて呉れ、余程甘(うま)からうぞと父親の滑稽(おどけ)を入れるに、再 び言ひそびれて御馳走の栗枝豆ありがたく頂戴をなしぬ。
 嫁入りてより七年の間、いまだに夜(よ)に入りて客に来しこともなく、土産もなしに一人歩行(あるき)して来るなど悉皆(しつかい)ためしのなき事なる に、思ひなしか衣類も例(いつも)ほど燦(きらびや)かならず、稀に逢ひたる嬉しさに左(さ)のみは心も付かざりしが、聟よりの言伝(ことづて)とて何一 言の口上(こうじよう)もなく、無理に笑顔は作りながら底に萎(しほ)れし処のあるは何か子細(しさい)のなくては叶はず、父親(てゝおや)は机の上の置 時計を眺めて、こりやモウ程なく十時になるが関は泊つて行つて宜(よ)いのかの、帰るならば最(も)う帰らねば成るまいぞと気を引いて見る親の顔、娘は今 更のやうに見上げて御父様(おとつさん)私(わたくし)は御願ひがあつて出たので御座ります、何(ど)うぞ御聞遊ばしてと屹(きつ)となつて畳に手を突く 時、はじめて一トしづく幾層(いくそ)の憂きを洩らしそめぬ。
 父は穏(おだや)かならぬ色を動かして、改まつて何かのと膝を進めれば、私(わたし)は今宵限り原田へ帰らぬ決心で出て参つたので御座ります、勇が許し で参つたのではなく、彼(あ)の子を寐かして、太郎を寐かしつけて、最早(もう)あの顔を見ぬ決心で出て参りました、まだ私(わたし)の手より外(ほか) 誰れの守(も)りでも承諾(しようち)せぬほどの彼(あ)の子を、欺(だま)して寐かして夢の中(うち)に、私(わたし)は鬼に成つて出て参りました、御 父様(おとつさん)、御母様(おつかさん)、察して下さりませ私は今日まで遂(つ)ひに原田の身に就いて御耳に入れました事もなく、勇と私との中を人に言 ふた事は御座りませぬけれど、千度(ちたび)も百度(もゝたび)も考へ直して、二年も三年も泣尽(なきつく)して今日といふ今日どうでも離縁を貰(もら) ふて頂かうと決心の臍(ほぞ)をかためました、何(ど)うぞ御願ひで御座ります離縁の状を取つて下され、私はこれから内職なり何なりして亥之助が片腕にも なられるやう心がけますほどに、一生一人で置いて下さりませとわつと声たてるを噛しめる襦袢の袖、墨絵の竹も紫竹(しちく)の色にや出(いづ)ると哀れな り。
 夫れは何(ど)ういふ子細(しさい)でと父も母も詰寄つて問かゝるに今までは黙つて居ましたれど私(わたし)の家の夫婦(めをと)さし向ひを半日見て下 さつたら大底(たいてい)御解りに成ませう、物言ふは用事のある時慳貪(けんどん)に申つけられるばかり、朝起まして機嫌をきけば不図(ふと)脇を向ひて 庭の草花を態(わざ)とらしき褒め詞(ことば)、是にも腹はたてども良人(おつと)の遊ばす事なればと我慢して私は何も言葉あらそひした事も御座んせぬけ れど、朝飯(あさはん)あがる時から小言は絶えず、召使の前にて散々と私(わたし)が身の不器用不作法を御並べなされ、夫(それ)れはまだまだ辛棒もしま せうけれど、二言目には教育のない身、教育のない身と御蔑(おさげす)みなさる、それは素(もと)より華族女学校の椅子にかゝつて育つた物ではないに相違 なく、御同僚の奥様がたの様にお花のお茶の、歌の画のと習ひ立てた事もなければ其御話しの御相手は出来ませぬけれど、出来ずは人知れず習はせて下さつても 済むべき筈、何も表向き実家の悪るいを風聴(ふうちやう)なされて、召使ひの婢女(をんな)どもに顔の見られるやうな事なさらずとも宜(よ)かりさうなも の、嫁入つて丁度半年ばかりの間は関や関やと下へも置かぬやうにして下さつたけれど、あの子が出来てからと言ふ物は丸で御人が変りまして、思ひ出しても恐 ろしう御座ります、私はくら闇の谷へ突落されたやうに暖かい日の影といふを見た事が御座りませぬ、はじめの中(うち)は何か串談(じようだん)に態(わ ざ)とらしく邪慳(ぢやけん)に遊ばすのと思ふて居りましたけれど、全くは私(わたし)に御飽きなされたので此様(こう)もしたら出てゆくか、彼様 (あゝ)もしたら離縁をと言ひ出すかと苦(いぢ)めて苦めて苦め抜くので御座りましよ、御父様(おとつさん)も御母様(おつかさん)も私の性分は御存じ、 よしや良人が芸者狂(げいしやぐる)ひなさらうとも、囲い者して御置きなさらうとも其様(そん)な事に悋気(りんき)する私でもなく、侍婢(をんな)ども から其様(そん)な噂も聞えまするけれど彼(あ)れほど働きのある御方なり、男の身のそれ位はありうちと他処行(よそゆき)には衣類(めしもの)にも気を つけて気に逆らはぬやう心がけて居りまするに、唯もう私の為(す)る事とては一から十まで面白くなく覚しめし、箸の上げ下しに家の内の楽しくないは妻が仕 方が悪いからだと仰(おつ)しやる、夫れも何(ど)ういふ事が悪い、此処が面白くないと言ひ聞かして下さる様ならば宜(よ)けれど、一筋に詰らぬくだら ぬ、解らぬ奴、とても相談の相手にはならぬの、いはゞ太郎の乳母(うば)として置いて遣(つか)はすのと嘲(あざけ)つて仰しやる斗(ばかり)、ほんに良 人といふではなく彼(あ)の御方は鬼で御座りまする、御自分の口から出てゆけとは仰しやりませぬけれど私(わたし)が此様(このやう)な意久地なしで太郎 の可愛(かあゆ)さに気が引かれ、何(ど)うでも御詞(おことば)に異背(いはい)せず唯々(はいはい)と御小言を聞いて居りますれば、張(はり)も意気 地もない愚うたらの奴、それからして気に入らぬと仰しやりまする、左(さ)うかと言つて少しなりとも私(わたし)の言条を立てて負けぬ気に御返事をしまし たら夫(それ)を取(とつ)こに出てゆけと言はれるは必定(ひつぢやう)、私(わたし)は御母様(おつかさん)出て来るのは何でも御座んせぬ、名のみ立派 の原田勇に離縁されたからとて夢さら残りをしいとは思ひませぬけれど、何にも知らぬ彼(あ)の太郎が、片親に成るかと思ひますると意地もなく我慢もなく、 詫(わび)て機嫌を取つて、何でも無い事に恐れ入つて、今日までも物言はず辛棒して居りました、御父様(おとつさん)、御母様(おつかさん)、私は不運で 御座りますとて口惜(くや)しさ悲しさ打出(うちいだ)し、思ひも寄らぬ事を談(かた)れば両親(ふたおや)は顔を見合せて、さては其様(そのやう)の憂 き中かと呆れて暫時(しばし)いふ言(こと)もなし。
 母様(はゝおや)は子に甘きならひ、聞く毎々(ことごと)に身にしみて口惜(くちを)しく、父様(とゝさん)は何と思(おぼ)し召すか知らぬが元来(も ともと)此方(こち)から貰ふて下されと願ふて遣(や)つた子ではなし、身分が悪いの学校が何(ど)うしたのと宜(よ)くも宜くも勝手な事が言はれた物、 先方(さき)は忘れたかも知らぬが此方(こちら)はたしかに日まで覚えて居る、阿関(おせき)が十七の御正月、まだ門松を取(とり)もせぬ七日(なのか) の朝の事であつた、旧(もと)の猿楽町(さるがくてう)の彼(あ)の家(うち)の前で、御隣の小娘(ちいさいの)と追羽根(おひばね)して、彼(あ)の娘 (こ)の突いた白い羽根が通り掛つた原田さんの車の中へ落(おち)たとつて、夫れをば阿関(おせき)が貰ひに行きしに其時はじめて見たとか言つて人橋(ひ とはし)かけてやいやいと貰ひたがる、御身分がらにも釣合ひませぬし、此方(こちら)はまだ根つからの子供で何も稽古事も仕込んでは置(おき)ませず、支 度(したく)とても唯今の有様で御座いますからとて幾度(いくたび)断つたか知れはせぬけれど、何も舅姑のやかましいが有るでは無し、我(わし)が欲しく て我(わし)が貰ふに身分も何も言ふ事はない、稽古は引取つてからでも充分させられるから其心配も要らぬ事、兎角(とかく)くれさへすれば大事にして置か うからと夫(それ)は夫は火のつく様に催促して、此方(こちら)から強請(ねだつ)た訳ではなけれど支度まで先方(さき)で調へて謂はゞ御前は恋女房、私 (わたし)や父様(とゝさん)が遠慮して左(さ)のみは出入りをせぬといふも勇さんの身分を恐れてゞは無い、これが妾(めかけ)手かけに出したのではなし 正当(しようたう)にも正当にも百まんだら頼みによこして貰つて行つた嫁の親、大威張に出這入(ではいり)しても差(さし)つかへは無けれど、彼方(あち ら)が立派にやつて居るに、此方(こちら)が此通りつまらぬ活計(くらし)をして居れば、お前の縁にすがつて聟の助力(たすけ)を受けもするかと他人様 (ひとさま)の処思(おもはく)が口惜(くちを)しく、痩せ我慢では無けれど交際(つきあひ)だけは御身分相応に尽して、平常(へいぜい)は逢いたい娘の 顔も見ずに居まする、夫(そ)れをば何(なん)の馬鹿々々しい親なし子でも拾つて行つたやうに大層らしい、物が出来るの出来ぬのと宜(よ)く其様(そん) な口が利けた物、黙つて居ては際限もなく募つて夫れは夫れは癖に成つて仕舞ひます、第一は婢女(をんな)どもの手前奥様の威光が削(そ)げて、末には御前 の言ふ事を聞く者もなく、太郎を仕立(したて)るにも母様(はゝさん)を馬鹿にする気になられたら何(なん)としまする、言ふだけの事は吃度(きつと)言 ふて、それが悪るいと小言をいふたら何(なん)の私(わたし)にも家が有ますとて出て来るが宜(よ)からうでは無いか、実(ほん)に馬鹿々々しいとつては 夫れほどの事を今日が日まで黙つて居るといふ事が有ります物か、余(あんま)り御前が温順(おとな)し過るから我儘がつのられたのであろ、聞いた計(ばか り)でも腹が立つ、もう もう退(ひ)けて居るには及びません、身分が何であらうが父もある母もある、年はゆかねど亥之助といふ弟もあればその様な火の中にじつとして居るには及ば ぬこと、なあ父様(とゝさん)一遍勇さんに逢ふて十分油を取つたら宜(よ)う御座りましよと母は猛(たけ)つて前後もかへり見ず。
 父親(てゝおや)は先刻(さきほど)より腕ぐみして目を閉ぢて有(あり)けるが、あゝ御袋(おふくろ)、無茶の事を言ふてはならぬ、我(わ)しさへ初め て聞いて何(ど)うした物かと思案にくれる、阿関(おせき)の事なれば並大底(なみたいてい)で此様(こん)な事を言ひ出しさうにもなく、よくよく愁 (つ)らさに出て来たと見えるが、して今夜は聟(むこ)どのは不在(るす)か、何か改たまつての事件でもあつてか、いよいよ離縁するとでも言はれて来たの かと落ついて問ふに、良人(おつと)は一昨日(おとゝひ)より家へとては帰られませぬ、五日六日と家を明けるは平常(つね)の事、左(さ)のみ珍らしいと は思ひませぬけれど出際(でぎは)に召物の揃へかたが悪いとて如何(いか)ほど詫びても聞入れがなく、其品(それ)をば脱いで擲(たゝ)きつけて、御自身 洋服にめしかへて、吁(あゝ)、私位(わしぐらゐ)不仕合(ふしあはせ)の人間はあるまい、御前のやうな妻を持つたのはと言ひ捨てに出て御出(おい)で遊 ばしました、何(なん)といふ事で御座りませう一年三百六十五日物いふ事も無く、稀々(たまたま)言はれるは此様(このやう)な情ない詞(ことば)をかけ られて、夫れでも原田の妻と言はれたいか、太郎の母で候(さふらふ)と顔おし拭つて居る心か、我身ながら我身の辛棒がわかりませぬ、もうもうもう私は良人 も子も御座んせぬ嫁入せぬ昔しと思へば夫れまで、あの頑是(ぐわんぜ)ない太郎の寝顔を眺めながら置いて来るほどの心になりましたからは、最(も)う何 (ど)うでも勇の傍に居る事は出来ませぬ、親はなくとも子は育つと言ひまするし、私(わたし)の様な不運の母の手で育つより継母御(まゝはゝご)なり御手 かけなり気に適(かな)ふた人に育てゝ 貰(もら)ふたら、少しは父御(てゝご)も可愛(かあゆ)がつて後々(のちのち)あの子の為にも成ませう、私(わたし)はもう今宵かぎり何(ど)うしても 帰る事は致しませぬとて、断(た)つても断てぬ子の可憐(かわゆ)さに、奇麗に言へども詞はふるへぬ。
 父は歎息して、無理は無い、居愁(ゐづ)らくもあらう、困つた中に成つたものよと暫時(しばらく)阿関(おせき)の顔を眺めしが、大丸髷(おほまるま げ)に金輪(きんわ)の根を巻きて黒縮緬(くろちりめん)の羽織何の惜しげもなく、我が娘ながらもいつしか調ふ奥様風、これをば結び髪に結ひかへさせて綿 銘仙(めんめいせん)の半天に襷(たすき)がけの水仕業(みづしわざ)さする事いかにして忍ばるべき、太郎といふ子もあるものなり、一端(いつたん)の怒 りに百年の運を取はづして、人には笑はれものとなり、身はいにしへの斎藤主計(さいとうかずへ)が娘に戻らば、泣くとも笑ふとも再度(ふたゝび)原田太郎 が母とは呼ばるゝ事成るべきにもあらず、良人(おつと)に未練は残さずとも我が子の愛の断ちがたくば離れていよいよ物をも思ふべく、今の苦労を恋しがる心 も出づべし、斯(か)く形よく生れたる身の不幸(ふしあはせ)、不相応の縁につながれて幾らの苦労をさする事と哀れさの増(まさ)れども、いや阿関こう言 ふと父が無慈悲で汲取つて呉れぬのと思ふか知らぬが決して御前を叱るではない、身分が釣合はねば思ふ事も自然違ふて、此方(こちら)は真から尽す気でも取 りやうに寄つては面白くなく見える事もあらう、勇さんだからとて彼(あ)の通り物の道理を心得た、利発の人ではあり随分学者でもある、無茶苦茶にいぢめ立 (たて)る訳ではあるまいが、得て世間に褒め物の敏腕家(はたらきて)などと言はれるは極めて恐ろしい我まゝ物、外では知らぬ顔に切つて廻せど勤め向きの 不平などまで家内(うち)へ帰つて当りちらされる、的(まと)に成つては随分つらい事もあらう、なれども彼(あ)れほどの良人(おつと)を持つ身のつと め、区役所がよひの腰弁当が釜の下を焚(た)きつけて呉(くれ)るのとは格が違ふ、随つてやかましくもあらう六(む)づかしくもあらう夫(それ)を機嫌の 好(い)い様にととのへて行くが妻の役、表面(うわべ)には見えねど世間の奥様といふ人達の何(いづ)れも面白くをかしき中(なか)ばかりは有るまじ、身 一つと思へば恨みも出る、何の是れが世の勤めなり、殊には是れほど身がらの相違もある事なれば人一倍の苦もある道理、お袋などが口広い事は言へど亥之(い の)が昨今の月給に有(あり)ついたも必竟(ひつきやう)は原田さんの口入れではなからうか、七光(なゝひかり)どころか十光(とひかり)もして間接(よ そ)ながらの恩を着ぬとは言はれぬに愁(つ)らからうとも一つは親の為弟の為、太郎といふ子もあるものを今日までの辛棒がなるほどならば、是れから後 (ご)とて出来ぬ事はあるまじ、離縁を取つて出たが宜(よ)いか、太郎は原田のもの、其方(そち)は斎藤の娘、一度縁が切れては二度と顔見にゆく事もなる まじ、同じく不運に泣くほどならば原田の妻で大泣きに泣け、なあ関さうでは無いか、合点(がてん)がいつたら何事も胸に納めて知らぬ顔に今夜は帰つて、今 まで通りつつしんで世を送つて呉れ、お前が口に出さんとても親も察しる弟(おとゝ)も察しる、涙は各自(てんで)に分(わけ)て泣かうぞと因果を含めてこ れも目を拭ふに、阿関(おせき)はわつと泣いて夫れでは離縁をといふたも我まゝで御座りました、成程(なるほど)太郎に別れて顔も見られぬ様にならば此世 に居たとて甲斐もないものを、 唯目の前の苦をのがれたとて何(ど)うなる物で御座んせう、ほんに私(わたし)さへ死んだ気にならば三方四方波風たゝず、兎(と)もあれ彼(あ)の子も両 親の手で育てられまするに、つまらぬ事を思ひ寄まして、貴君(あなた)にまで嫌やな事をお聞かせ申しました、今宵限り関はなくなつて魂一つが彼(あ)の子 の身を守るのと思ひますれば良人のつらく当る位百年も辛棒出来さうな事、よく御言葉も合点が行きました、もう此様(こん)な事は御聞かせ申しませぬほどに 心配をして下さりますなとて拭ふあとから又涙、母親は声たてゝ何といふ此娘は不仕合(ふしやはせ)と又一しきり大泣きの雨、くもらぬ月も折から淋しくて、 うしろの土手の自然生(しぜんばへ)を弟(おとゝ)の亥之(いの)が折て来て、瓶(びん)にさしたる薄(すゝき)の穂の招く手振りも哀れなる夜なり。
 実家は上野の新坂下(しんざかした)、駿河台への路なれば茂れる森の木(こ)の下暗(したやみ)侘(わび)しけれど、今宵は月もさやかなり、広小路へ出 づれば昼も同様、雇ひつけの車宿(くるまやど)とて無き家なれば路ゆく車を窓から呼んで、合点(がてん)が行つたら兎も角も帰れ、主人(あるじ)の留守に 断(ことはり)なしの外出、これを咎められるとも申訳の詞(ことば)は有るまじ、少し時刻は遅れたれど車ならばつひ一ト飛(とび)、話しは重ねて聞きに行 かう、先づ今夜は帰つて呉れとて手を取つて引出すやうなるも事あら立(だ)てじの親の慈悲、阿関はこれまでの身と覚倍してお父様(とつさん)、お母様(つ かさん)、今夜の事はこれ限り、帰りまするからは私は原田の妻なり、良人を誹(そし)るは済みませぬほどに最(も)う何も言ひませぬ、関は立派な良人を持 つたので弟(おとゝ)の為にも好(い)い片腕、あゝ安心なと喜んで居て下されば私は何も思ふ事は御座んせぬ、決して決して不了簡(ふりやうけん)など出す やうな事はしませぬほどに夫れも案じて下さりますな、私の身体は今夜をはじめに勇のものだと思ひまして、彼(あ)の人の思ふまゝに何となりして貰ひまし よ、夫(それ)では最(も)う私(わたし)は戻ります、亥之さんが帰つたらば宜(よろ)しくいふて置いて下され、お父様もお母様も御機嫌よう、此次には笑 ふて参りまするとて是非なさゝうに立あがれば、母親は無けなしの巾着(きんちやく)さげて出て駿河台まで何程(いくら)でゆくと門(かど)なる車夫に声を かくるを、あ、お母様(つかさん)それは私がやりまする、有がたう御座んしたと温順(おとな)しく挨拶して、格子戸くゞれば顔に袖、涙をかくして乗り移る 哀れさ、家には父が咳払ひの是れもうるめる声成(なり)し。

   下

 さやけき月に風のおと添ひて、虫の音(ね)たえだえに物がなしき上野へ入(ゐ)りてよりまだ一町もやうやうと思ふに、いかにしたるか車夫はぴつたりと轅 (かじ)を止めて、誠に申しかねましたが私(わたし)はこれで御免を願ひます、代(だい)は入(ゐ)りませぬからお下(お)りなすつてと突然(だしぬけ) にいはれて、思ひもかけぬ事なれば阿関は胸をどつきりとさせて、あれお前そんな事を言つては困るではないか、少し急ぎの事でもあり増(ま)しは上げやうほ どに骨を折つてお呉れ、こんな淋しい処では代りの車も有るまいではないか、それはお前人困らせといふ物、愚図らずに行つてお呉れと少しふるへて頼むやうに 言へば、増しが欲しいと言ふのでは有ませぬ、私(わたし)からお願ひです何(ど)うぞお下(お)りなすつて、最(も)う引くのが厭(い)やに成つたので御 座りますと言ふに、夫(それ)ではお前加減でも悪るいか、まあ何(ど)うしたといふ訳、此処まで挽(ひ)いて来て厭やに成つたでは済むまいがねと声に力を 入れて車夫を叱れば、御免なさいまし、もう何(ど)うでも厭やに成つたのですからとて提燈(ちようちん)を持しまゝ不図(ふと)脇へのかれて、お前は我 まゝの車夫(くるまや)さんだね、夫(それ)ならば約定(きめ)の処までとは言ひませぬ、代りのある処(とこ)まで行つて呉れゝば夫(それ)でよし、代は やるほどに何処かそこらまで、切(せ)めて広小路までは行つてお呉れと優しい声にすかす様にいへば、成るほど若いお方ではあり此淋しい処へおろされては定 めしお困りなさりませう、これは私(わたし)が悪う御座りました、ではお乗せ申ませう、お供を致しませう、嘸(さぞ)お驚きなさりましたろうとて悪者(わ る)らしくもなく提燈(ちようちん)を持(もち)かゆるに、お関もはじめて胸をなで、心丈夫に車夫の顔を見れば二十五六の色黒く、小男の痩せぎす、あ、月 に背けたあの顔が誰(た)れやらで有つた、誰れやらに似て居ると人の名も咽元(のどもと)まで転がりながら、もしやお前さんはと我知らず声をかけるに、 ゑ、と驚いて振あふぐ男、あれお前さんは彼(あ)のお方では無いか、私をよもやお忘れはなさるまいと車より濘(すべ)るやうに下りてつくづくと打(うち) まもれば、貴嬢(あなた)は斎藤の阿関(おせき)さん、面目(めんもく)も無い此様(こん)な姿(なり)で、背後(うしろ)に目が無ければ何の気もつかず に居ました、夫れでも音声(ものごゑ)にも心づくべき筈なるに、私(わたし)は余程の鈍に成りましたと下を向いて身を恥れば、阿関は頭の先より爪先まで眺 めていゑいゑ私(わたし)だとて往来で行逢ふた位ではよもや貴君(あなた)と気は付きますまい、唯(たつ)た今の先まで知らぬ他人の車夫(くるまや)さん とのみ思ふて居ましたに御存じないは当然(あたりまへ)、勿体ない事であつたれど知らぬ事なればゆるして下され、まあ何時から此様(こん)な業(こと)し て、よく其(その)か弱い身に障りもしませぬか、伯母さんが田舎へ引取られてお出(いで)なされて、小川町(おがわまち)のお店をお廃(や)めなされたと いふ噂は他処(よそ)ながら聞いても居ましたれど、私(わたし)も昔しの身でなければ種々(いろいろ)と障る事があつてな、お尋ね申すは更なること手紙あ げる事も成ませんかつた、今は何処に家を持つて、お内儀(かみ)さんも御健勝(おまめ)か、小児(ちッさい)のも出来てか、今も私は折ふし小川町の勧工場 (くわんこうば)見物(みもの)に行まする度々(たびたび)、旧(もと)のお店がそつくり其儘(そのまゝ)同じ烟草店(たばこみせ)の能登やといふに成つ て居まするを、何時(いつ)通つても覗かれて、あゝ高坂(かうさか)の録(ろく)さんが子供であつたころ、学校の行返りに寄つては巻烟草(まきたばこ)の こぼれを貰ふて、生意気らしう吸立てた物なれど今は何処に何をして、気の優しい方なれば此様(こん)な六(む)づかしい世に何(ど)のやうの世渡りをして お出(いで)ならうか、夫れも心にかかりまして、実家へ行く度に御様子を、もし知つても居るかと聞いては見まするけれど、猿楽町(さるがくてう)を離れた のは今で五年の前、根つからお便りを聞く縁がなく、何(ど)んなにお懐(なつか)しう御座んしたらうと我身のほどをも忘れて問ひかくれば、男は流れる汗を 手拭(てぬぐひ)にぬぐふて、お恥かしい身に落まして今は家(うち)と言ふ物も御座りませぬ、寝処(ねどころ)は浅草町の安宿(やすやど)、村田といふが 二階に転がつて、気に向ひた時は今夜のやうに遅くまで挽(ひ)く事もありまするし、厭やと思へば日がな一日ごろごろとして烟(けぶり)のやうに暮して居ま する、貴嬢(あなた)は相変らずの美くしさ、奥様にお成りなされたと聞いた時から夫(それ)でも一度は拝む事が出来るか、一生の内に又お言葉を交はす事が 出来るかと夢のやうに願ふて居ました、今日までは入用(ゐりよう)のない命と捨て物に取あつかふて居ましたけれど命があればこその御対面、あゝ宜(よ)く 私(わたし)を高坂の録之助と覚えて居て下さりました、辱(かたじけ)なう御座(ござ)りますと下を向くに、阿関はさめざめとして誰(だ)れも憂き世に一 人と思ふて下さるな。
 してお内儀(かみ)さんはと阿関の問へば、御存じで御座りましよ筋向(すぢむか)ふの杉田やが娘、色が白いとか恰好が何(ど)うだとか言ふて世間の人は 暗雲(やみくも)に褒めたてた女(もの)で御座ります、私(わたし)が如何(いか)にも放蕩(のら)をつくして家へとては寄りつかぬやうに成つたを、貰ふ べき頃に貰はぬからだと親類の中(うち)の解らずやが勘違ひして、彼(あ)れならばと母親が眼鏡にかけ、是非もらへ、やれ貰へと無茶苦茶に進(せ)めたて る五月蝿(うるさ)さ、何(ど)うなりと成れ、成れ、勝手に成れとて彼(あ)れを家へ迎へたは丁度貴嬢(あなた)が御懐妊だと聞ました時分の事、一年目に は私(わたし)が処にもお目出たうを他人(ひと)からは言はれて、犬張子(いぬはりこ)や風車(かざぐるま)を並べたてる様に成りましたれど、何のそんな 事で私(わたし)が放蕩(のら)のやむ事か、人は顔の好(い)い女房を持たせたら足が止まるか、子が生れたら気が改まるかとも思ふて居たのであらうなれ ど、たとへ小町と西施(せいし)と手を引いて来て、衣通姫(そとほりひめ)が舞を舞つて見せて呉れても私の放蕩(のら)は直らぬ事に極(き)めて置いた を、何(なん)で乳くさい子供の顔見て発心(ほつしん)が出来ませう、遊んで遊んで遊び抜いて、呑んで呑んで呑み尽して、家も稼業もそつち除(の)けに箸 一本もたぬやうに成つたは一昨々年(さきおとゝし)、お袋は田舎へ嫁入つた姉の処に引取つて貰ひまするし、女房は子をつけて実家(さと)へ戻したまゝ音信 不通(いんしんふつう)、女の子ではあり惜しいとも何とも思ひはしませぬけれど、其子も昨年の暮チプスに懸(かゝ)つて死んださうに聞(きゝ)ました、女 はませな物ではあり、死ぬ際(ぎは)には定めし父様(とゝさん)とか何とか言ふたので御座りましよう、今年居れば五つになるので御座りました、何(なん) のつまらぬ身の上、お話しにも成りませぬ。
 男はうす淋しき顔に笑(ゑ)みを浮べて貴嬢(あなた)といふ事も知りませぬので、飛んだ我まゝの不調法(ぶてうはふ)、さ、お乗りなされ、お供します る、嘸(さぞ)不意でお驚きなさりましたろう、車を挽(ひ)くと言ふも名ばかり、何が楽しみに轅棒(かぢぼう)をにぎつて、何が望みに牛馬(うしうま)の 真似をする、銭が貰へたら嬉しいか、酒が呑まれたら愉快なか、考へれば何も彼も悉皆(しつかい)厭やで、お客様を乗せやうが空車(から)の時だらうが嫌 (い)やとなると用捨(ようしや)なく嫌やに成まする、呆れはてる我まゝ男、愛想(あいそ)が尽きるでは有りませぬか、さ、お乗りなされ、お供をしますと 進められて、あれ知らぬ中(うち)は仕方もなし、知つて其車(それ)に乗れます物か、夫れでも此様(こん)な淋しい処を一人ゆくは心細いほどに、広小路へ 出るまで唯道づれに成つて下され、話しながら行きませうとてお関は小褄(こづま)少し引あげて、ぬり下駄のおと是れも淋しげなり。
 昔の友といふ中(うち)にもこれは忘られぬ由縁(ゆかり)のある人、小川町の高坂(かうさか)とて小奇麗な烟草屋(たばこや)の一人息子、今は此様(こ のやう)に色も黒く見られぬ男になつては居れども、世にある頃の唐桟(とうざん)ぞろひに小気(こき)の利いた前だれがけ、お世辞も上手、愛敬(あいけ う)もありて、年の行かぬやうにも無い、父親(てゝおや)の居た時よりは却(かへ)つて店が賑やかなと評判された利口らしい人の、さてもさてもの替り様 (やう)、我身が嫁入りの噂聞え初(そめ)た頃から、やけ遊びの底ぬけ騒ぎ、高坂の息子は丸で人間が変つたやうな、魔でもさしたか、崇(たゝ)りでもある か、よもや只事(たゞごと)では無いと其頃に聞きしが、今宵見れば如何(いか)にも浅ましい身の有様、木賃泊(きちんどま)りに居なさんすやうに成らうと は思ひも寄らぬ、私(わたし)は此人に思はれて、十二の年より十七まで明暮(あけく)れ顔を合せる毎に行々(ゆくゆく)は彼(あ)の店の彼処(あすこ)へ 座(すは)つて新聞見ながら商(あきな)ひするのと思ふても居たれど、量(はか)らぬ人に縁の定まり、親々の言ふ事なれば何の異存を入れられやう、烟草 (たばこ)やの録(ろく)さんにはと思へどそれはほんの子供ごゝろ、先方(さき)からも口へ出して言ふた事はなし、此方(こちら)は猶さら、これは取とま らぬ夢の様な恋なるを、思ひ切つて仕舞へ、思ひ切つて仕舞へ、あきらめて仕舞(しまは)うと心を定(さだ)めて、今の原田へ嫁入りの事には成つたれど、其 際(そのきは)までも涙がこぼれて忘れかねた人、私(わたし)が思ふほどは此人も思ふて、夫れ故の身の破滅かも知れぬ物を、我(わ)が此様(このやう)な 丸髷(まるまげ)などに、取済(とりすま)したる様な姿をいかばかり面(つら)にくゝ思はれるであらう、夢さらさうした楽しらしい身ではなけれどもと阿関 は振かへつて録之助を見やるに、何を思ふか茫然とせし顔つき、時たま逢ひし阿関に向つて左(さ)のみは嬉しき様子も見えざりき。
 広小路に出れば車もあり、阿関は紙入れより紙幣いくらか取出して小菊の紙にしほらしく包みて、録さんこれは誠に失礼なれど鼻紙なりとも買つて下され、久 し振でお目にかゝつて何か申たい事は沢山あるやうなれど口へ出ませぬは察して下され、では私(わたし)は御別れに致します、随分からだを厭(いと)ふて煩 (わづ)らはぬ様に、伯母さんをも早く安心させておあげなさりまし、蔭ながら私も祈ります、何(ど)うぞ以前の録さんにお成りなされて、お立派にお店をお 開きに成ります処を見せて下され、左様(さやう)ならばと挨拶すれば録之助は紙づゝみを頂いて、お辞儀申す筈なれど貴嬢(あなた)のお手より下されたのな れば、あり難く頂戴して思ひ出にしまする、お別れ申すが惜しいと言つても是れが夢ならば仕方のない事、さ、お出(いで)なされ、私も帰ります、更(ふ)け ては路が淋しう御座りますぞとて空車(からぐるま)引いてうしろ向く、其人(それ)は東へ、此人(これ)は南へ、大路の柳月のかげに靡(なび)いて力なさ さうの塗り下駄のおと、村田の二階も原田の奥も憂きはお互ひの世におもふ事多し。

        ──明治二十八年十二月──