「e-文藝館
=湖(umi)」論攷 寄稿
はやし こうへい 苫小牧駒沢大学教授。 全国大学国語・国文学会の会場で知り合い、メールをかわして『浦島伝説の研究』より、示唆に富む「序章」分を此処に 戴いた。浦島太郎といえばほとんど神代のこととすら思われる題材だが、連綿とわれらの世界に生き続けて、いま電子的なマルチメディアとも関わりながら、タ フな文学・文化として、なお問題を生き生きと発信している。林氏の網羅的かつ論証的な大著の「序章」だけからも、魅力ある伝説の今日性がうかがわれる。同 時に電子化時代の「文学」の流動化へも示唆的に言及されていてじつに面白い。湖の本の読者にもなってもらえた。 01.06.19掲載開始
浦
島伝説略史
林 晃平
世に五大昔話という言い方がある。桃太郎 ・ 花咲爺 ・ 舌切雀 ・ かちかち山 ・ 猿蟹合戦がそれである。明治初期にはこれにぶんぶく茶釜 ・ 金太郎を加えた七つが、子ども向けの絵本の.圧倒的な素材であった。浦島太郎の話はそれには含まれていない。しかし、浦島の話がその時にまだ生まれていな かったわけではない。浦島の話は、古くは現存最古の歴史文学書である『日本書紀』や『風土記』に既に見られ、途切れることなく連綿と現在まで続いているの である。ゆえにこれを文学のモチーフのひとつと考える時、浦島の話は日本の文学の中で古代から現在までを見通すことのできる唯一のモチーフであり素材とい うことができる。先に触れた昔話の中にも、地域との関わりの深いものはあるが、特に桃太郎などは浦島伝説と同様に伝承の地を各地に持っている。しかし、桃 太郎が文献で遡れるのは江戸時代までであること(注一1)から、その性格も大きく異なってくる。
浦島伝説という呼称
ところで、この一千数百年の間ずっと日本において伝わって来たこの浦島の話を何と呼べばよいか。浦島伝承、浦島
説話、その名称には、いろいろな観点からいろいろな呼称が考えられるだろう。本書ではその扱う対象を一括して「浦島伝説」と呼ぶことにする。それは、この
浦島伝説では、当初から一貫して「浦島」という呼称が用いられており、玉くしげ
・
玉手箱という物にまつわって説かれ、また日本各地で、そこに存在する事物とも深く関わって説かれてきているからである。また、対象を単に一般に知られた文
学作品や文献に限らず、各地に存在する事物(美術・建築・彫刻・遺物など)や芸能・伝承、その他周辺の事柄をも含めて考えていきたいからである。ゆえに浦
島にまつわる古今東西の事物伝承のすべてを研究の対象としている。本書で扱われたのは文献を中心としたその一部に過ぎないが、まだまだ扱うべき、研究すべ
き資料は多く残されているのである。
伝説とは、常に語られ受け継がれていくから伝説と呼ばれるのであろう。しかし、伝説が常に語られ受け継がれていくのはなぜであろうか。他の伝承や説話とは
どこが異なるのであろう。結果から考えるならば、語り継がれる伝説とは、人々がその伝説にあるべき価値を見出して、それを支持しているからではないか。ゆ
えに語られなくなった伝説があるとすれば、それはその存在する価値が認められなくなったために、人が語ることをしなくなったのではないのか。それが常に一
定の価値観を持っているかは別として、語るべき有用性こそが伝説の存在の根源のひとつであろう。
文学史としての浦島伝説
浦島伝説を通して文学史の再構築ができないか、という思いをここ十数年持している。これを、なぜ浦島伝説を研究
するのかという問いへの答えに用いている。三浦佑之氏の『浦島太郎の文学史』(平1-11)が刊行される
以前からの思いであり、その考えは、氏の著に対する書評(伝承文学研究・第39号、平3・5)の中でも触れている。古代から現代まで一貫して見通すことの
できる浦島伝説は、文学史の指標の役割を果たすことが可能だろう、と思われる。いや、浦島伝説こそが、唯一日本文学史を測るものさしとなることができるの
だとすら思う。しかし、それとともに、果たしてそれを文学という枠の中だけでとらえるのがよいかどうかの危倶も起きてきた。
文学史以前に、そもそも文学とは何かという問いかけがなされなければならない。それは、学生の頃からの
課題の一つであった。そして、その解答としてある程度の自分なりのものを得て.いる。文学とは固定した文学作品(テキスト)のことではない。文学とは、テ
キストを読者が読むという行為を通して享受する時に、読者の側に発生する現象(イメージ)なのである。だから、文学の発生とは、作品の誕生を指すわけでは
ない。
文学には最低二つの発生がある。一つは、表現者がテキストを作成するまでの行為において発生する。もう一つは、享受者がテキストと向き合う時にである。ゆ
えに享受者にとって文学とは「表現者が提供したテキストを通して享受者が獲得する現象=イメージ」であり、それは、常に一回性のものである。もちろんこれ
は、享受者を中心とした文学のとらえ方であり、表現者の側から考えることも必要であろう。しかし、表現者の側にしても、文学を作品として固定する行為は、
推敲を経る過程においては、享受者の文学行為と何ら変わらないものとなるであろう。文学はテキストと向き合うことにおいてのみ発生するのである。
しかし、考えを進めていくうちに、文学とは文字表現のみだろうか、と考えるようになってきた。文字と
は、ことばの記録手段に過ぎない。それならば、ことばの伝達には、口頭の伝達もある。文字表現記載の文学以外にも、口承の文学を考える必要があるだろう。
このあたりまでは、先学も触れていて、私自身も学生の頃に既に考えていたことである。だが、さらに考えていくと、文学表現とはことばだけであろうかと考え
るようになった。文学がイメージを構築する現象ならば、そのイメージはことば以外にも表現可能であるからである。また、文学作品も時代と共にジャンルが拡
大し、研究の対象とする範囲も増えてきている。能・狂言・所謂幸若の舞・浄瑠璃・歌舞伎などの芸能(こうした振りや楽曲を伴うものに対して、文学研究は文
字表現にのみ対象を限定しているという謂いもあろうが、それだけで作品の理解や研究が可能かどうかについては論は侯たない)も、絵巻絵入本の所謂御伽草子
も、文学として盛んに研究されるようになっている。今や漫画も学問の対象である。こうした文字やことば以外の表現を含むものを、文学以外として排除してし
まうことは正しくないであろう。文学がテキストを通してのイメージの伝達行為であるならば、これらはテキストのメディアの質的な違いに過ぎないのではない
かともいえるからである。
文学とメディア
文学の定義は、人によってさまざまあろう。狭義には「文字で記載表現された芸術作品」に限定する者もあろう。し
かし、それならば、文字の獲得以前には、文学は存在しえないし、マルチメディアの電子社会において文学は消滅していってしまうであろう。だが、もともと、
文学をイメージとそのメディアの表現との関わりでとらえるならば、文字表現は文学表現の一メディアに過ぎなくなり、口承から書承、書承から電子メディアヘ
の一過渡期の表現となる。文学はそれぞれの時代に即応した表現を選択しているに過ぎないといえよう。
電子メディアは文字を表示しているだけの状態では、一見それまでの紙などの書承の文字メディアと何ら変わりなく見える。しかし、そのデータの可変性を含
め、大量のデータが、瞬時に、遠くの場所に転載可能であることなど、その特性を考えると、いうまでもないことだが本質的に全く違うものである。千数百年の
間、文字表現を中心としてきた文学にとって、西暦二〇〇〇年前後の現在こそが、その過渡期であることは間違いない。文学は今まさに大きく変わろうとしてい
る。
文学が、常にメディアに即応していこうとすることは次の例からもいえる。たとえば小説で描かれた内容が
漫画化されたり映画化されることは多かった。だが、それだけではなく、今日の文学状況においては、漫画のキャラクターがアニメーションとなるだけでなく、
逆に実写版のテレビ化や映画化されてドラマとなり、また文字化されて小説となること(注一3)が起きていることからも理解できよう。漫画だけではない。本
来個々の性格を持ちえないビデオゲームのキャラクターさえも、アニメとなり実写映画となり、小説化され(注ー4)ていく。こうした文学とメディアの自在性
は、文学本来の特性であろう。
しかし、そうした本来異なる絵画・動画・音楽などのメディアが、電子化によって一元化可能となった。マ
ルチメディアと呼ばれるメディアの誕生である。マルチメディア化された現在において、もはやこうした過去のジャンルの垣根を作り、それを問うこと自体には
意味は少ないのかもしれない。だが、新しく誕生したマルチメディアは、まだまだ発展途上のメディアで、その表現に即応した文学ソフトを現状では模索中と
いったところであろう。
こうした文学の電子メディア化を念頭に置くと、浦島伝説もその対象を文学だけに限定できるかどうかの危
惧が出てくる。電子メディアとしてマルチ表現される文学とは、見方を変えれば、必然的に文化の総体として現れたマルチメディアの現状でもある。ゆえに、浦
島太郎の文学史は、今日から見れば、浦島太郎の文化史でもあり得るのである。
浦島伝説と宗教
改めて浦島伝説を見直せば、時代の進展と文化の発展と共に多くのメディアと表現を選んで来たことがわかる。今日
残されている最古の表現は、漢字を使った表記である。しかし、漢文という外来表記法だけでなく『万葉集』の長歌を含め『丹後国風土記』逸文末尾の和歌など
万葉仮名というやまとことばの表記も併存している。だが、平安時代までは、和歌の仮名表記をのぞけば『続浦島子伝記』など漢文伝の漢文表記が主流であっ
た。かろうじて歌学書に漢文伝の和文化された表現が仮名書きされているだけである。歌学書は基本的には和歌を読むための知識を提供する書物である。どの歌
学書もそこに記された伝説が漢文伝を主体としているということは、『万葉集』以外には京の都の著者たちの手元に和文の浦島を語る資料が存在しなかったため
であろう。少なくとも和文の伝説が流布していたとはいいがたい。ただし、漢文伝を和訳したような和文が諸書に見られることから、純粋な漢文伝ではなく、そ
うした和らげたものが通用していたことも想定できる。
しかし、一方ではまた、仁明天皇の四十の賀に捧げた長歌のように、漢文伝とは異なる浦島伝説もあり、そ
うした伝説を「古語」と呼んだようだ。興福寺の僧侶たちに限られるのかはわからないが、京とは別の伝承を持った奈良の僧侶たちが存在したようすが窺われる
のである。
こうした伝説の状況から、次第に変化が起きてきたことがわかるのが『四十八願釈』第一願に引かれる挿話
である。そこに登場する浦島伝説は断片的ながら漢文で記されたものである。そして、名前は「浦島子」という漢文伝の主人公でありながらその漢文伝にはない
四方四季の要素を既に持っている。注目されるのは、それが仏教の浄土系という宗教の枠組みの中で説かれていることである。『四十八願釈』の著者とされる聖
覚は能説の父澄憲の後を継ぎ安居院に住した。最初比叡山に修行した天台の僧侶であったが、法然房源空の弟子となったという。この伝説はそのまま浄土宗に聖
聡の『大経直談要註記』に受け継がれて、所謂御伽草子『為盛発心因縁集』の中にも見られる。また、近い内容のものは西教寺蔵『因縁抄』に見られ、さらに所
謂御伽草子「浦島太郎」の中へとつながっていくものとなる。また、文章も次第に和文化していく。
浦島は帰郷後、その長寿から神として祀られて、国司も必ず幣を奉納する神として著名であった。このこと
は早くには鴨長明の『無名抄』に記され、『後撰集正義』に受け継がれ、中世末の『月庵酔醒記』にも記されている。また、この浦島を祀った神社は能「浦島」
にも登場する。勅使が不死の薬を浦島明神から受け取るの.である。こうした神となった浦島への信仰に対して、先の浄土系の伝説は全く別の次元で説かれてい
るものである。既に著名な浦島を介して、己が信仰を.広めようとするのである。言わば宗教の側が浦島伝説を利用しているのである。
浦島伝説が、宗教に利用されることは、先の興福寺の僧侶たちの例もあり、また、この後近世においてもや
はり仏教寺院において利用されていく。具体的には浦島寺という寺院の存在がある。著名なのは木曽の寝覚浦島寺と呼ばれ
る臨川寺、そして神奈川の浦島寺と呼ばれる観福寺である。臨川寺は、龍宮から.丹後に帰郷した浦島が、そ
の後木曽
まで来て、寝覚の床で釣りをし、龍宮から持ち帰った弁財天を麦置したという縁起をもつ。神奈川の観福寺で
は、浦島が丹後に帰郷した時に父母の既に亡くなっていたのを悲しみ、出身地の今の神奈川県の三浦まで帰る途中に背負っていた龍官伝来の観音が重くなって父
母の墓を教え、浦島はそこに観音を安置し、堂を建立したという縁起をもつ。因みにこの観福寺には天明期には既に浦島大明神と亀化龍女神の二像も存在してい
た。これら二寺院がどうして浦島伝説と結びついたのかの詳細は、はっきりとしない。しかし、どちらも浦島伝説を略縁起にして盛んに刊行していたことは認め
られる。特に観福寺は檀家がなかった。寺の経営は、楽ではなかったであろう。だが、江戸時代の道中記の盛んな刊行は人の旺盛な移動を物語り、道中記には必
ず、名所と名物が添えられている。街道沿いにある観福寺は、勢い道中の旅人に頼ることが大きかったと思われる。従って、寺の宣伝も、たとえば文政本略縁起
の末尾は「現世には無病息災にして、壽命長久を持(たも)ち、来世には極楽浄土に往生して、安穏微妙の快樂を得んことを、實に、是、観音薩唾の本懐、明神
守護の冥慮に應ずるもの歟」と現世利益の強いものとなっている。
こうした伝説の利用について、浦島伝説の側に立って見れば、宗教によって自身の伝説を変容し成長してき
たともいえよう。略縁起を例にとれば、臨川寺の略縁起にはほとんど変化はないのに対して、観福寺の略縁起には少なくとも三回の変遷がある。観福寺は時代や
社会、寺院のおかれている状況に応じてその都度もっとも適する縁起に改変してきたといえよう。そして、伝説も可変可能な範囲において変化していく。浦島太
郎重長と名前を付け、行き先がとこよの国からわたつみの都になり、さらに龍宮に変わろうとも、よりふさわしいものに変わっただけなのであろう。伝説にとっ
てはいかにその時代に応じた伝説内容を受容者に提供するかということである。
浦島乗亀譚への変容
そうした時代に応じた変容こそが、伝説の維持に必要なものであったろう。たとえば、浦島が亀に乗ることも、その
典型といえよう。所謂御伽草子「浦島太郎」までは、浦島は亀に乗ることをしていない。龍宮には船を漕いでいくのである。龍宮は海底とは限らないのである。
ところが、十八世紀初めには浦島は亀に乗り、そのことは意外にもすんなり承認され、以後それが当たり前のようになって草双紙類にも描かれていく。ゆえに享
保頃にはまだ普及版「御伽草子」といえる所謂渋川版「祝言御伽文庫」が盛んに出版されているが、浦島伝説に限っていえば、その「祝言御伽文庫」の影響は少
ないといえるだろう。
では、なぜ浦島はそんなにも急に亀に乗ることが可能だったのだろうか。それは先ず人が亀に乗るという前
例があっ
たからである。しかし、それ以上に大切なことは、その当時ちょうど乗るのにお誂え向きの「蓑亀」が誕生し
て流行していたからである。浦島はどんな亀にも乗れるわけではなかった。それまで乗らなかったのだから、乗るには乗ってしかるべき亀でなくてはならない。
蓑亀は十七世紀初頭に日本で流行したと思われる瑞獣で、その形状は、耳、牙、爪、蓑状の尻尾など、それまでに見ることのできない持異なものであった。それ
は、浦島のような貴人・仙人・神が乗るにふさわしい亀であった。ゆえに以後鶴に並ぶ亀として独自の地位を確立する。(注-5)蓑亀の流行が浦島伝説を動か
し、浦島を船から亀に乗り換えさせたのである。
現代では、浦島は海辺で亀を助けたから、また、龍宮は海の底にあるから、浦島を乗せて行ったのは海亀だと誤解されていることが多い。それも蓑亀を認めない
今日的常識からやむを得ないことではある。しかし、蓑亀は今なお祝いごとの象徴として描かれている。それだけではない。明治以降の絵本の挿絵に描かれる亀
の姿を見てみよう。そこには尻尾が蓑状になっているものがいくつも見られる。蓑亀は約束ごととして描かれてきたのである。浦島と蓑亀のつながりは決して途
切れてしまったわけではない。
亀に乗ることに付随して変化したことがある。一つは亀の大きさの適正化であり、もう一つは亀の素性であ
る。亀の大きさの方は単純である。浦島が乗るにはそ、れにふさわしい大きさがいるという、大ききさ.の調整が要請されたのである。所謂御伽草子の絵巻絵本
類に見られる亀は、竿で釣り上げられることから、せいぜい数十センチの楽に抱え上げられる程度の大きさに過ぎない。それでは亀に乗って龍宮に行くには小さ
過ぎるのである。かといって、大きな海亀にすれば、今度は子どもたちが苛めるには不都合となる。そこで、巌谷小波は亀の子を乗る時に大きくさせた。他に
も、後日成長してとか、子亀が助けられたのを親亀が恩返しにと実は親子関係を創出するものもある。こうした改変は伝説の本質に関わらないことなのでまだよ
い。しかし、亀の素性の変化となると大きなものになる。
古代の浦島伝説において、浦島の相手となる女は亀姫であった。所謂御伽草子でも、乙姫の正体は亀(龍宮
の乙姫=
亀)であった。だから、亀と浦島の関係は異類婚となる報恩譚であった。しかし、浦島が亀に乗り出してから
次第に様子が変わっていき、亀はいつの間にか別の独立した人格を与えられ、龍宮の眷属となっていく。そして乙姫も龍王の娘役から、女主人となって、浦島に
亀を助けてもらった礼を述べる。本来の助けられた恩を婚姻によって返すという異類婚姻譚の仕組みがいつの間にか崩壊してしまっているのである。この伝説の
変容の中に、受容者側の意識の変化を読み取りたい。異類としての亀と乙姫の差別化が行われたのである。それは人間関係の適正化でもあった。伝説はこうして
時代によって、その時代に受容されやすいように修正されていく。
浦島伝説とメディア
浦島伝説におけるメディアの変革は、何度か訪れている。口承の変容は詳らかでないが、書承の範囲でも、大量な
書写本を持つ所謂御伽草子の流布本の絵巻絵入本。そして一度に大量生産が可能となった画期的な木版印刷。
これらにより浦島伝説は飛躍的に広まったであろう。木版でも具体的にいえば、文学作品では「祝言御伽文庫」のような草
紙だけでなく赤本や草双紙、さらには美術では錦絵など。また、浦島寺を支えた略縁起や道中記・名所図会な
どの類
に至るまで、印刷というメディアは大量な普及に貢献した。
だが、そうした流れをさらに加速して大きく一気に変えたのが明治初期の状況である。江戸時代の木版の残
存である明治赤本「浦島太郎物がたり」(明治初年-;十年代後半)やそれと同じ形態の銅版「浦島太郎弌代記」(明治16.8)、さらにはメディアとしては
新しいが内容は江戸の読本をそのまま載せた活版印刷のボール表紙本「浦島太郎一代記」(明治22.9)。一方同じ十年代の後半には外国人向けに外国語表記
でありながら木版錦絵刷りの縮緬本「日本昔噺」(明治18-25)が刊行される。また、幸堂得知は木版変体仮名文字という旧メディアのまま新作十二番の一
つとして『浦島次郎蓬莱噺』を春陽堂から刊行(明治24.12)、幸田露伴も浦島次郎を主人公に「新浦島」を新聞『国会』に連載(明治28.1)。明治の
十年代から二十年代にかけては、これらの多様なメディアに多彩な浦島伝説が記載され、まさに百花繚乱の感がある。しかし、実際はその伝説の内容と同じく新
しいものに古いものが入り交じった混沌とした状態であった。そうした状況から抜け出したのが、巌谷小波の「日本昔噺」(明治29・2)であった。その内容
に彼の独自性は少なかったが、以後、小波の作品はお伽ブームに乗って活版印刷として大量に印刷され、またたくまに浦島伝説を席巻していく。
印刷のメディアとしてもう一つ忘れてはならないのが教科書の問題である。明治三十七年から始まる教科書
の国定化は、小波の作品以上に浦島伝説にも大きな変化を及ぼした。日本全国が一つの教科書で学ぶ国定教科書に教材として採用された浦島伝説は、これにより
画一化して固定されていくのである。本来地域によって、また個人によって異なる伝説であったものが、統一された一つのテキストの出現によって普遍化してし
まったのである。しかし、国語の読本の教科書の場合は六期の改定を経てきているためにその内容には多少の揺れがあった。それに対して九十年近く変化なく今
日の我々の浦島伝説を規定していると思われる教科書がある。それは話ではなく、案外なことに歌である。明治四十四年に刊行された文部省唱歌は刊行以来変わ
ることなく歌い継がれてきているのである。旋律を伴った詞章こそ口ずさみやすく覚えやすい。「助けた亀に連れられて」とか「鯛や比目魚(ひらめ)の舞踊
(まひをどり)」など、それほど重要な詞章でなくてもつい口を突いて出るものである。だが、この詞章では浦島は亀に乗ったかどうかもわからない。また、タ
イやヒラメなど魚の踊りは小波の昔噺にも出てこないのである。
メディアとの関わりで触れておかなければならないのは、演劇という表現メディアである。中世になって新
たに登場してくる能「浦島」には甲乙二作があり、間狂言も存在する。狂言「浦島」も江戸時代には存在した。これらは人間の演技であるが、浄瑠璃は人形であ
る。人間にしか表現できないものもあれば、人形でしか表現できないこともあるだろう。古浄瑠璃には『浦島大明神御本地』や『浦島太郎 玉よりひめはつねの
ゑん』などが残っているが、注目されるのは、どちらも龍馬や亀に乗ることである。からくりを含め、浦島伝説のイメージをこうした人形芝居の表現が変えて
行ったと見ていいだろう。こうしたからくりを経て、近松門左衛門の『浦島年代記』があり、為永太郎兵衛『浦島太郎倭物語』も登場してくる。また、歌舞伎や
長唄などにも浦島を題材としたものが存在している。
こうした演劇は明治になっても浦島を題材として新しい表現を模索する。坪内逍遙の『新曲浦島』は彼の国
劇刷新運動の為の實践例として書かれたが、実現するにはあまりにも困難な課題を盛り込み過ぎた実験劇であった。森鴎外も独自の視点で『玉篋両浦嶼』を書い
ている。また大正期には武者小路実篤が「浦島と乙姫」(大15.3)を発表している。そして、国定教科書でも第五期(昭16)には戯曲化されている。この
時の趣旨が「劇化して与えることによって一層興味を増し、架空的な話の筋から受ける不合理を除去して、この説話の真の精神を体得させることができる」とし
ているのは、演劇というメディアの違いを意識してのことであった。
「浦島」的なるもの
浦島伝説は、一千年以上も日本文学の中で展開されてきた。しかし、その伝説の源流はどこなのかを問うことはむ
つかしい。そもそも何を以て浦島伝説と認定できようか。例えば『万葉集』の浦島伝説には亀が登場しない。
これが
原型に近いのか、はたまた、変形されたものなのか。絶えず流動している伝説のどこに中心があるのかも、判
定は人によって異なるであろう。取り敢えずその主人公が「浦島」であることを伝説の要としたいのだが、既にそれすらも危うく
なってきている。
新しいメディア、新しいジャンルに浦島伝説は敏感である。例えば推理小説やミステリーの類でも、松本清
張が『Dの複合』(昭40-43)で丹後の網野神社を登場させ、内田康夫も『讃岐路殺人事件』(平1)に讃岐の浦島太郎を登場させている。SFにも浦島伝
説を題材にした作品がある。浦島伝説をSFがどう作品化するかは、興味深いものがあるが
あるが、中でも注目したいのが、筒井康隆「公害浦島覗機関(たいむすりっぷのぞきのからくり)」(昭
45)・栗本薫「心中天浦島(しんじゅうてんのうらしま)」(昭56)と「ウラシマの帰還」(昭58)である。
筒井康隆の「公害浦島覗機関」は、日本で公害問題が騒がれた時期の発表。主人公は「おれ」とだけ書かれる名門ホテルの営繕係長。建築後三十五年たつホテル
はガタがきて毎日が修理の連続で忙しい。彼はある日、ある部屋の柱の中には特別な空間があることに気づき、こっそり柱の中に入り、覗き穴から部屋を覗く。
そこでは総理大臣が、都市再開発のために都市から住民をいったん追い出す手段として、人間が住めなくなるまで公害を発生させることを工場経営者達に密かに
要請している。反対側を覗くと別の事態が進行し、覗くたびに公害は進んでいく。彼はこの事態を前に柱の中で考え、どのみちずっと柱の中にいるわけにはいか
ないと、外に出る。出てみると何の変化もなく、恐れるほどのことはないと、油断してホテルの玄関のドアを開けたとたん、外気のスモッグの黒煙が流れこんで
きて彼を取り囲み、彼は背は曲がり、髭はのび、皺ができ、腰は抜け、たちまち白髪の老人になってしまう。
この結末は確かに浦島太郎が玉手箱を開けたときと同じである。しかし、この作品には浦島太郎という固有
の人物は出てこない。あるいはこの「おれ」が実は浦島という名前なのかもしれない。また、この浦島的な結末には.玉手箱も出てこない。しかし、ドアを開け
ることで歳をとるということから、実はホテル自体が一つの玉手箱的存在であったととることが読者には可能である。浦島はその逆の玉手箱の中に閉じ込められ
ていたわけである。また、「おれ」が柱の中で考えた「この空間は、外部の時間だけがすごいスピードで経過するという、いわば一種の龍宮城であり、これは浦
島効果なのだろうか。」という結論から、龍宮城が実際に出てこなくても、狭い柱の中が龍宮城ではないかと記されることで、浦島伝説と構造が類似しているこ
とがわかる。
だが、やはりこの作品が極めて浦島的なのは、結末や構造的なことだけではなく、むしろ作品中一か所だけ
使われている「浦島効果」ということばの意味からであろう。このような時間の不均衡な経過が起きていることが浦島的なのである。この時間経過の差を浦島的
な部分と見るのは、何も最近に始まったことではない。例えば、明治前期の一八八九年に、森鴎外はアメリカの作家アーヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンク
ル」を「新世界の浦島」と題して翻訳している。しかもこれは、片岡政行の英訳「浦島」の副題「日本のリップ・ヴァン・ウィンクル」を借りたものといえる。
しかし、こうした時間経過の差異を浦島的ととらえる方法は、日本には既に平安時代にあった。平安中期
(1007)の序のある源為憲の『世俗諺文』の中に「七世之孫」という語の項目がある。その説明には、中国の『続斉諧記』の故事を引き、二人の男が山で道
に迷った末、女たちに歓待され、やっと故郷へ帰り着いた時には、誰一人として知る者もなく、七代後の孫が答えたと説く。そして末尾に「本朝浦島子同事也」
と記す。『蒙求』に「劉阮天台」とあるこの故事と日本の浦島とが同じことであるとは、時間経過の差異に関してのことであろう。浦島伝説にとってもこの時間
経過が重要な浦島的部分であったのである。
こうした浦島的部分をさらに展開させたのが、栗本薫の「心中天浦島」である。人類が火星に移住して生活
を営むようになった時代の宇宙空間を自由に飛び回る男たちと火星の地球人たちを登場人物にし、浦島的な悲劇がもとで死んでしまった男女を描いている。死ん
だ男はテオ百四十歳、女はクラリス十七歳。これで心中とはとてもじゃないが年齢が違いすぎる。しかも、男は女の父親だったという。
結論的に書けばこうなるが、ことはそんなに簡単ではない。原因はこの時代の宇宙船の航行速度にあった。
宇宙船は光速の八倍以上の速度で進む。アインシュタインの相対性理論によると、物質が光速より速く移動すると時間がゆがむ。宇宙船の中の彼らは地上と時間
の経過が異なり、地上よりずっとゆっくり時間が進み、宇宙船の二年半は地上の十年となる。結果的に飛行士たちがこの宇宙齢で旅をすればするほど、時間の差
は開いていく。心中とはこうした時間の歪みが生んだ悲劇を清算しようとする行為であった。
同じ栗本の「ウラシマの帰還」も宇宙飛行士ものである。先の筒井の作品にも浦島は主人公として出てこな
かったが、栗本の二つの作品には、題名を除いて、「浦島」の文字すら出てこない。しかし、これが浦島的であることは読むものには充分に納得できるであろ
う。鍵は筒井の作品に出てきた「浦島効果」である。この語の定義は普通の辞書類には載っていないが、例えば『世界のSF文学`総解説』(1984.12)
欄外には、「ウラシマ効果」として「光速に近い速度で進む宇宙船内では、相対性理論により時間の経過が外界より遅くなるので、宇宿飛行士が帰還したとき地
上での時間経過との間にズレが生じる。このような現象を浦島太郎のエピソードに見立ててこう呼ぶ。」(66頁)と記載されている。まさに作品の内容そのま
まである。SFは、浦島伝説の中から「浦島」的なものを取り出して「ウラシマ効果」と命名したのである。ゆえに、浦島が主人公とならなくても浦島伝説は受
け継がれていくことになろう。
浦島伝説の担い手
伝説はそれを信仰するものによって伝承されてきた。例えば、丹後の網野町や伊根町以外にも、海に全く関わらない
埼玉県秩父の山の中にも、秋田県の横手盆地にも浦島伝説はあり、浦島神社がある。浦島を神と祀る信仰は、どうしてこんな所にも根づいているのであろう。伝
承の論理は、複雑で一つではない。同じ海のない木曽の寝覚の床の浦
島伝説の存在をどう説明しよう。そこには浦島を祀った神社は現存しない。(注-6)
浦島伝説とともに祀られたのは弁財天であった。臨川寺の本尊も別である。宗教との関わりで伝説は変容されながらも語られてきた。伝説が自然発生するもので
ないならば、伝説を持ち運んだ者がいるはずである。誰が何のために浦島の伝説を持ち込んだのか。それを解明
する糸口はなかなかつかめない。
しかし、伝説を人間が語る以上は、人間の所為ゆえにそれを支える意味合いも改めて見えてくる。政治上の
理由も、経済上の理由もあろう。略縁起の刊行が布教の具として有効だと考えられる時、それが金銭と引き換えられるならば、
同時に経営の具ともなったろう。木版印刷というメディアはその大量処理を可能にした。物見遊山を含めた旅
人の往来はその購入を可能にした。伝説の担い手は宗教者であり、購入者の旅人であった。江戸時代の浦島寺の存続をそういった面からとらえることは間違って
はいないだろう。伝説も経済社会と切り離して考えることはできないのである。
だが、近代になってそうした動きとは別のことが浦島伝説には起きる。一つは、お伽話・絵本の普及であ
る。これによって、伝説は子どもの話とされてしまった。さらに、教科書に採用さ、れ、唱歌となって全国津々浦々に画一的な伝説が流された。伝説は教科書を
編集する国家が管理し、国民が担い手となった。信仰と切り離され、面一化したものを伝説と呼ぶことは妥当であろうか。固定した伝説はそのエネルギーを失
い、滅んでいくだろう。
だが、一千年以上の流れを持つ浦島伝説の場合は、そう簡単に伝説は崩れなかったようだ。地域の信仰はかろうじて
残っているものがまだ多く存在する。さらに新しい動きは始まっていた。観光としての伝説の称揚である。それは、何度も試みられた。ディスカバーi・ジャパ
ンという外からの動きもあり、町おこしという内側からの動きもあった。従来は顧みられることの少なかった伝説に、新しい価値観が付与され、それを意図的に
語ろうとするのである。そうした動きを象徴するのが二〇〇〇年七月に京都府伊根町で開催された「うらしまサミット」である。今、浦島伝説の担い手は、地域
住民であり、地方自治体であり、そして、観光客である。
もう一つ、挙げておこう。常に途絶えることなき伝説の担い手は、読者である。読者こそは、文学の中に自
己の期待する読みを構築していく。文学を読み解く行為は、作者の表現を理解していくだけでなく、自己の文学をテキストを媒介として構築する行為でもある。
伝説という大きな枠組みは、文学の理解をその中で読み解くための指針ともなりうる。「浦島」ということばから、現代の読者たちは『源氏物語』の中に新たな
る浦島伝説をいくつも見つけた。それは表現する側の意図するしないに関わらず、文学を読み解こうとするものの知的好奇心の産物でもある。伝説は読者に担わ
れて、時には補完という観点から増補され、時には省略され新たな伝説を構築していくのである。
注
(1)
小久保桃江『福祉の原点と桃太郎研究』(昭52.9、講談社出版サービスセンター・小久保商店)、アン・ヘリング『江戸
児童図書へのいざない』(昭63.8、くもん出版)所収「桃太郎再発見」
(2)
昔話に比した伝説の特徴について柳田國男は、語りの無形式、記念物の存在、対象の信仰の三つを挙げている。
(3)
こうした例の枚挙に暇はないが、鉄腕アトムや鉄人28号のテレビ実写版や水島新司『ドカベン』や『野球狂の詩』などの映画化を挙げておく。
(4)
これも、取り敢えず「ストリート・ファイター」や「桃太郎伝説」シリーズを例示しておく。
(5)
たとえば、ポケットモンスター・シリーズの「ゼニガメ」が「カメール」、「カメックス」と変身していく中で、「カメール」の姿は蓑亀そのものである。この
デザインが意識されたものであったか否かは問わないが、亀が成長して特別な能力を持つ
ようになることは、おそらく意識下に蓑亀の特異性があったものであろう。
(6)
現在の寝覚の床では床岩の上に「浦島堂」のみがある。これは明治以前の木版絵図類には「弁才天」と記されているものと位置的には同じものと思われる。同じ
く明治以前の木版絵図類には臨川寺対岸の床山に「浦島社」または「浦島神社」と記されたものが見られるが、現在これに関する伝説は聞かない。また明治以降
の絵図にもこの社の存在は欠落している。
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